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相互社会論
相 互 会 社 論 近藤文二 (歪阪欝晋等讐) 一般には相互会社のメリットは、社員の経営参加にあると理解され ている。ところが、このメリットは今日ではすでに形骸化し、空洞化 してしまっている。そこで何とかしなければならぬという声が次第に 強まってきているわけである。具体的には今日の社月総代会の機能は すでに有名無実のものになっているからこれを本来の相互会社の原点 に戻さねばならぬというのである。しかし、そういう考え方は果たし て当たっているのであろうかO また、相互会社の運営を原点に戻して、 いわゆる相互主義の復活をはかるということは、果して可能であろう か。この点を解明しようというのが本稿の目的である。 1.相互会社と相互保険組合 私は、昭和15年に公にしたr保険学総論jでつぎのように説いてい m 「いうまでもなく、法律的には、相互会社の社員は、保険加入者で あり、社員が構成する社員総会が会社経営の最高機関である。随って、 法律上は、誰人が重役になろうとも常に社貞総会の統制に服すべき算 である。しかし事実においては必ずしも、社員総会が重役を支配する とは限らない。この点は、株式会社の最高機関は、株主総会ではある が、事実は少数の株主によって支配されるのと同断である。殊に社貞 一1 - 相 互 会 社 論 総会は社貞総代の組織する社員総代会によって代用され得るのである から、保険加入者が社貞として会社の経営を行うというも、それは、 単に形式に止まり、事実は極めて少数の社員或は基金醸出者が会社の 経営を支配するのである。随って、相互会社と株式会社とを区別する 最大の点は、株式会社においては、営業上の総ての危険を会社が負担 し、その代償として、営業上の総ての利益を原則として株主がとる。 しかし相互会社では支払金に不足が生じたときには、これを社月に追 徹し、剰余あれば割戻すところにあると兄をければならぬ。 このわたくしの考え方は、今日でも変りはない。すなわち、相互会 社における会社自治とか、経営参加とかいうことは、今日になって初 めて形骸化し、空洞化したのでなく、実は貴初から相互会社の運命で あったのである。したがって、今さらこれを問題にすること自体がお かしい。すなわち、相互会社のメリットはこれを会社自治よりは加入 者の利益配当に求めるべきものであるというのである。 また、わたくLは、相互会社と相互絶合はこれを区別して扱うべき・ だと考える。このことを右の著書では、つぎのごとく述べているので ある。 「広く相互保険会社(Versicherungsverein auf Gegensei晦keit) という場合にはドイツ法にいわゆる大相互保険会社(Grosser Versicherungsverein auf Gegenseitigkeit )と小相互保険会社(kleiner Versicherungsverein auf Gegenseitigkeit )の両者を含む。 」しか し、ここでは、前者すなわち、 「地方的制限を排除し、何人と錐もこ れに加入を許すとともに、株式会社と同様、商人的経営を行うものの みを相互会社として問題にする。そして後者即ち小相互保険会社は相 互保険組合として別に問題にすることとしたい。というのは、学者の なかには、この両者を区別せず、何れも相互保険として論ずるものも ー 2 - 相 互 会 社 論 あるが、私は、マ-ネスが昔の相互会社と近代の相互会社との差異は 前者が人的団体(Genossenschaften ・von Menschen)であるに対し、 後者は資本団体(Genossenschaften von Kapitalien)であるとする のを、そのまま小会社と大会社の区別に適用すべきであると考えるか らである。 」(2) かくて、わたくLは「ここに相互会社というのは、相互組合とは異 なって、人的結合よりも、むしろ物的結合を基調とし、経営の実態よ り見れば、共同経済的保険よりは、むしろ、営利保険に属するが如き 相互保険形態をいう」(3)と断じているのである。そして、この考えは、 今日でも変りはない。すなわち、相互会社は営利保険であり、資本団 体であるという認識である。そして、その意味では、相互会社に対比 すべきものは、株式会社ではなく、経営形態としては、むしろ協同組 合であり、いま一つは国営保険である。 以上のごとく、わたくLは、すでに早くから相互会社が株式会社と 区別される最大の点は、加入者利益配当にあるとしてきた。しかし、 この場合でも、 「今日の株式会社では、営業利益の全部が株主にのみ 分配されず、いわゆる加入者利益配当として、保険加入者に分配され るのであるから、株式会社と相互会社の相違は極めて僅少といわなけ ればならぬ」と述べ、また「株式会社ではその利益の全部を株主に分 配するのが本態ではあるが、例えば、生命保険の如く、保険基金枠に 保険料積立金の蓄積が増加し、営業利益の大半がこれらいわば、加入 者の蓄積の投資利潤から斉されることとなり、いわゆる利差益即ち予 定利率以上の利廻りを得ることにより生ずる収益が、死差益即ち現実 の死亡率が予定死亡率より少なきために生ずる収益や、費差益即ち事 業費が予定以下に節約されることにより生ずる収益よりもより重視せ らるるに至るや、これを加入者にも分配すべLとの主張を生ずるのは Q 相 互 会 社 論 当然である。 」 (4)とも述べてきたのである。 ところでこの点については、最近公刊された国崎裕著r生命保険( 第4版) jは次のように述べている。 「利益配当についてみると、株式会社で無配当保険のみを行なって いるものはほとんどなく、生命保険といえばすべて配当付であるとい う考え方が一般的になっているほどである。株式会社と相互会社の相 互接近といわれるこのような現象の発生は、相互会社との兼争も一つ の原因と者えられるが、それ以上に生命保険の性格がこれを可能なら しめると同時にそれは要請しているのであるということができる。 ・・--・・-・生命保険の営業保険料は予定死亡率、予定利率および予定事 業費率の三つの予定の上にたち、収支相等の原則に基づいて計算され ている。その上、生命保険契約は通常長期契約であり、その長い契約 期間を通じて保険料率は変更しないという建前をとっている。そのた めに、これら計算基礎の決定に当たっては、ある程度の社会経済的事 情や、衛生事情の悪化にも耐え得るような考慮が払われている。つま り生命保険が一面において有する長期契約性のために、保険料にはあ る程度の余裕が見込まれているわけである。したがって通常の場合に は必ず相当の利益が生ずるはずであるOそれは資本金の生む利益とい うよりは、保険料の過収分というべきものであろう。生命保険事業の 利益の性格がこのようなものである限り、いかに営利を目的とする株 式会社であっても、そのすべてを株主に配当することは合理的とはい えか、。現在わが国におしさても、株式会社がその保険約款によって、 剰余金の90%以上を保険契約者に配当するものとしているのも、この ような理由に基づくのである。 また、有配当-欄互会社、無配当-株式会社のメルクマールも、 先に述べたように、わが国相互会社にも無配当保険販売が可能になっ -'4 - 相 互 会 社 論 たことにより崩れてきており、この恵味でも両者の接近がみられる,(5) 注 (1)近藤文二r保険学総論J (昭和15年) 289頁。 (2)近藤文二r保険学総論j (昭和15年) 288頁。なお、ここでわたく Lは大相互会社のなかにゴータ火災保険会社やゴータ生命保険会社 を挙げているが、これは例えばゴータ生命が1904年社員総代会をつ くった以後のことをいうのでこの二つの会社も貴初は小相互保険会 社にすぎなかったのである。 (3)近藤文二r保険学総論j (昭和15年) 288頁。 (4) 〃 同、 290頁。 (5)国崎裕r生命保険j第4版142頁。 2.保険資本の性格 前述のように、国崎氏は、生命保険事業の利益は「資本金の生む利 益というよりは、保険料の過収分とでもいうべきものであろう」と述 べているが、この点については、死差益、利差益および茸差益と区別 して論ずる必要がある。単純に生命保険事業の利益は保険料の過収分 であると断定することには賛成できない。もしそれは過収分であると いうのであれば、そのことは死差益についてのみ当てはまるというべ きであろう。 そこで、問題になるのは、保険資本の性格である。保険資本の性格 にづいては、例えば、金子卓拍氏の「保険資本の性格」を始め、笠原 長寿氏、印南博吉氏などの勝れた研究がある(1)結局、これを貨幣戟 扱資本と理解するもの、商品取扱資本とするもの、およびそのいずれ にも属さないものの三つに区別することができる。そして、通説では - 5 - 相 互 会 社 論 貨幣取扱資本説ということになっている。しかし、この場合保険資本 が保険資本として機能するための基礎になる保険利潤を、単純に保険 利潤として一元化してみるところに問題があるのであって、もし保険 利潤を死差益、利差益、費差益といったように区別して考えるとすれ ば、おのずから解決の途があるのではないかと思われる。 すなわち、死差益は資本金の生む利益でなく、それはまさに国崎氏 のいう「保険料の過収分」であって利潤ではない。ところが利差益は、 まさに貨幣取扱資本としての保険資本が生み出す利潤である。そして、 費差益こそはまさに金子氏がいうところの「保険取扱精勤-労働」が 生み出す利潤ということになるのではないか。こうした解釈について は、もっと詳しく論ずる必要があるのであって、とくに保険資本の性 格をこのように分割することについては異論があるであろう。しかし、 ここでは、相互全社の利潤分配を論ずるに当っての前提として、これ を問題とするだけのことであって、その範囲での論述にとどめたい。 ところで、金子氏は、 「保険資本と相互会社」と題する論文で次の ごとく説く。問題は極めて重要であり、かつ基本的なことであるので、 いささかくどいようであるが、これを引用しておきたい。 「もともと、物資代謝が売買として現われる商品生産下においては、 貨幣の授受はすべて商品の姿態変換の反面であるとして、一切の貨幣 授受行為を売買とみなすことになるが、保険においても、偶然的損害 の発生に対して支払わるべき債権一一一保険金の支払-という商品が 抑制され、この債権の売買とみられ、保険料がこの商品の価格となる0 したがって、保険資本はこの特殊な商品を販売することになるが、さ らに、保険取引を個々の取引としてみた場合、謄博性、射倖性をもっ ているといった特殊性のために、確率計算-合理的な料率制度が、 保険資本の保険取扱機能の技術的前提と馨るため、商品を生産する産 - 6 - 相 互 会 社 論 業資本に擬せられて、保険料が保険商品の生産コストとして計算され、 これが純保険料と付加保険料であり、それを合計したものが、営業保 険料として課せられる。 このように、保険商品が産業資本の商品に擬せられて、コスト計算 が行われ、付加保険料を通じて営業費が、保険加入者から前払いされ るので、保険資本の自己資本に特殊な形態がうまれる。もともと保険 資本は保険取扱労働という機能からすれば、銀行資本と同様に担保力 を別とすれば、自己資本の全部がその保険取扱労働に要する費用に支 出され、運用資本の大部分は他人資本によって占められるべきである0 ところが、銀行資本の場合には、その流通費用は収益のなかから後後 になって回収されるのに対し、保険資本においては、保険加入者によ って前払いされる。このため、保険資本においては自己資本が必要に 在り、他人資本によってのみ業務を行うことが可能になる。この可能 性を実現したものが、保険資本に特殊な会社形態である相互会社であ る。」(2) このように論じる金子氏はこれに引きつづいて、この可能性を実現 させる契機となったのは、第一に、保険料と保険金との間に成立する 技術的那目互性であり、第二には「さきの営業費の前払い-自己資 本の不必要性ということである」と断じるとともに、 「相互会社形態 においては、会社の事実上直球の支配は、創業時の基金拠出者に帰し、 したがって、保険資本は創業時に一時自己資本を提供するが、まもな くそれを引きあげ、無手で他人資本を支配しうることになり、この意 味では、相互会社形態は資本がとり得る会社形態の最高の発展状態を 示しているともいえるのである」 (3)と結ぶのである。 また金子氏は、保険取引の特殊性を認識することが重要であり、そ れはこの取引には本来障博性、射倖性をともなっているということで - 7 - 相 互 会 社 論 ある。そして、 「このことは保険理論の中に技術論的要素を多く持込 ませるという結果をもたらしてきたが、保険資本に即していえば、こ の射幸性の排除ということが、その自立化のための主体的要因であり、 資本主義経済の成立による付保物件の増大という客体的要因によって、 この主体的要因はみたされ、保険資本は成立し自立化しえた。したが って、保険資本は近代的資本としてのみ登場することができた」ので あると説く。さらに「第二に保険取引は資本の生産、流通のタ帽βでよ り高次の第三次元で行なわれる活動である」と主張する。そして「 企業保険資本が機能資本の機能の一部代行として行なう保険取扱精勤 -労働という本来の機能によって果す個別的機能は、資本の生産流 通に直接関係がなく、しかも資本総体の空契節約的要求をみたすとい う複雑な性格をもっている」と説く。そして「従来の理論では、この 本来の社会的機能が資本の運動のどのような部面で果されているかの 反省がなく、その結果として、単純に、個別的保険概念の抽象的議論 に陥ってきたのである。したがって、このような特質の社会的機能に 接続して新たに展開され、保険資本の構成部分となる貸付--投資業 務についても、全く別の無縁の業務が便宜的に営まれているにすぎぬ と無視され、保険資本が私的所有の枠の拡大に参加するというまさに 近代的側面をみることも、何か矛盾するようなものとして本質規定か ら故意に放棄されてきたといえよう。このように社会的機能の重要な 側面をすべて放棄する結果、保険の経済理論の対象としてあとに残る ものは単純な形骸とならざるをえない」と論ずるのである。 G ここでは、金子氏は、保険資本の機能として保険取扱機能という機 能と、貸付-投資業務という機能の二つを取上げている。そして、こ .の前者こそ保険資本に特有なものであると主張する。ただしこれと並 んで貨幣取扱資本としての性格をも保険の機能としてあげていること - 8 - 相 互 会 社 論 を注E]すべきである。すなわち、保険資本には二つの機能があるので あり,、その前者の機能がつくり出すのが、利差益であり、後者の機能 がつくり出すのは、費差益であるとみてもよいのではないかと思う。 もちろん、これについては、費差益が存在せず、費差損が生ずる場 合には、これをどのように考えるかの問題があるO 注 (lJ これについては、笠原長寿『保険経済の研究Jの詳しい詳解を参照 されたし。 (2)金子卓治「保険資本と相互会社」 (経営研究第110- 111 - 112号 117頁) (3)同、 120頁。 (4)金子卓治「保険資本の性格」 (経営研究第116・117・118号59頁) 3.水島論文 この点については、最近、生命保険を産業組織論的に分析し、いろ いろの問題点を捷起した水島一也氏の論文をみる必要がある。という のは、この論文は費差益を論じて余すことなき分析を行っているから である.そのなかで、水島氏はいう。 「費差益面での優劣は、結局の ところ規模の経済性に帰着する。すでにふれたように、生命保険産業 における規模の経済性を理論的に検証する際に決め手になるのは、一 般に公表されている収入保険料と事業費の関係ではなくて、収入保険 料の内、付加保険料として徴収した部分(予定事業費枠)に対する現 実の事業費の比率である。しかるにそれは企業機密のヴェールのかな たにある。とすればわれわれとしては、間接的な資料で満足するほか はない」と。かくて水島氏は46年度の個人保険について一つの分析を示 Q 相 互 会 社 論 すとともに、上中下の三つのグループから三社ずつを選んで、事業費 枠に対する実際の事業費の関係を示した上で、配当額との比較を行っ ている。そして「大手会社では、対枠事業費全体の剰余(新契約費の 赤字を維持費・集金費で補填した上での)が契約者配当所要額の61% を占めるし、維持費・集金費の黒字だけでいえば、その割合は75%に もなる。中堅三社の場合、その比率はそれぞれ50%と67%に低下する。 小規模会社については、配当所要額は約22億円と小さいものの、事業 費について5億円の赤字を出しており、この費差損を埋めた上で契約 者配当をまかなうためには、他の利源に依存しなければならないこと が分る」 (1)と述べている。 いずれにしても、すべての会社が費差益をあげているとはいえない のであるが、問題はこの費差益なり、費差損の実態である。水島氏は 右の論文で「大手会社の内勤職員の場合、 20%を超えるベース・アッ プが続いていることに象徴されるような事業費水準の全般的高騰によ n り、大手といえどもやがては費差損に陥るとの見通しが語られている.J と警告していることも重要であるが、問題は、対枠事業費率の前提と なる事業費枠が行政当局により設定されたものであり、 「純保険料計 算のような数理的基礎づけをもつものでなく、歴史的に積み重ねられ た経験をもとに事業費水準の目安としてきめられるものだという点で ある。 」そして、この「予定事業費枠は、新契約費・維持費・集金費 の各項目につき決められるが、前二者についての枠の設定は、保険金 額を基準としてなされるO このことは、契約高の拡大につれて消費可 能な事業費枠が増加してゆくことを意味する。それが過当な新契約東 争の持続を支える一原因として働くという点に注意すべきであるoJ w. としている点も重要である。 しかも、 「この対枠事業費率は,企業の秘密事項として、各社共-10- 相 互 会 社 論 切公表してない。大蔵省当局は、各社からの報告をもとにして行政指 導を行っているのだが、外部にはそれを発表しない。 」。そこで結局、 われわれは利差益の真相はこれを把捉しえないとしていることはさら に重要である。 かくて、水島氏は「現状における企業各差は、主として費差益に関 して生ずる。費差益については、小会社ではそれなりに効率的な資金 運用を実現している。死差益の場合も、現行の死亡表が男子・無診査 契約(いずれも死亡率が高い)の経験死亡率に安全割増を付加した、 かなり割高の全会社表であり、大会社の危険選択上の優位性は否定さ れないにしても、他方、災害保障特約のリザルトの相対的悪化でそれ が大体相殺されるため、この面での経営効率の差はほとんどない」(4L 論じているのである。 そこで一言、災害保障特約についてふれておく必要がある.という のはこうした特約は結局、生命保険の定期化を意味するからである。 そして、この傾向については水島論文は次のように解説している。 「日本生命が誕年7月に開発して以来、各社が追随して発売するよ うになり、今や大多数の会社の主力商品となっている定期付養老保険 では、満期保険金と死亡保険金とが等しい養老保険に、定期保険部分 を上乗せすることにより、死亡保証の額を、満期保険金の三倍、五倍、 十倍等々へと増加するような組合せを作り出すことができる。交通戦 争の激化という状況の下で、需要を増している災害保障特約がこれに 付加された場合、死亡保障の高さは、さらにそれぞれの主契約の倍額 に引き上げられる。このように貯蓄要素の少ない(したがって保険料 の安い)定期保険部分の比重が増加するにつれて、保有契約高の伸び は、保険料収入の増加率を上回ることになる」 。そして、数字を示し て「大型保障の掛け声の下に推進された近年の定期化傾向」の実態を -ilH ‥ 相 互 会 社 論 明らかにしている。 ところで、この定期化に迫車をかけたのは、 47年12月に始まるアリ コ・ジャパンの対日本人営業の認可である。アリコ・ジャパンの参入 が日本国内の会社の商品政策に与えたインパクトはかなり強烈であっ たといわれているが、とくにオーダー・メイド型による商品の多様化 の影響である。そして、このアリコが売出した無配当の平準定期保険 や逓減定期保険の影響も無視できない。 しかし、わたくLは、定期づき養老保険の伸びが著しく、普通養考 保険が件数、金額ともに年々低下の傾向にあることについては一つの 疑問をもつ。というのは、これによって、生命保険の一つの特質であ った貯蓄要素が果して将来どうなってゆくか、他の青葉でいえば長期 保険の短期保険化、さらにつきこんでいえば、生命保険の損害保険化 は生命保険の運命を変えるとともにその結果、死差益、利差益、費差 益の分析にもまた自らこれまでと全然、異った観点から考えねばなら なくなるのではないかと考えられるからである。それとともに、また 商品の多様化は原価計算を至難なものとするであろうし、差益の計算 は多様な商品ごとにこれを分析して表示しなければならなくなってく るであろう。 以上、わたくLは、保険資本、したがってまた、その利潤の分析に ついての各種の問題を指摘してきたのであるが、とくに水島論文につ いてはそれが産業組織論の立場をと.りながら生保産業本来の組織につ いて論及するところが少なかった。すなわち、生保産業そのものの組 織形態である相互会社組織に直接ふれるところが少なかったことを残 念に思うものである。 注 (1)水島一也「生命保険」季刊中央公論経営問題春季号(47年)日本の -12- 相 互 会 社 論 産業組織17. 234頁。 (2)同上、 234頁。 (3) 230頁。 (4) 233頁。 (5) 216頁。 4.相互主義の原理 もちろん、水島論文は、組織形態論として簡易保険や協同組合保険 にふれている。しかし、できればもっと詳しく相互会社と国営保険、 組合保険との比較検討を行い、なぜ生保産業が相互全社組織をとって いるかをつきこんで分析してほしかったのである。これについては、 水島氏はすでに多くの著書を公にしている。そこで改めてこれにふれ る必要はなかったのだといった見方もできるであろう。しかし、変動 期に入った今日の論文としては、いま一度これについての所見が知り たかった。このように思うのはただわたくし一人だけではあるまい。 ところでわたくLは、前掲の『保険学総論』で次のように述べてい る。すなわち、保険の経営はいかなる主義によって行われるかによっ て、これを営利保険と共同経済的保険に分類することができる。営利 保険は営利主義すなわち保険者の利潤の追求を中心に行われるが、 「 共同経済的保険(Gemeinwirtschaftliche Versicherung)は保険者の 利益よりは、むしろ保険加入者の利益を重視する」。 「学者のなかには、 保険は、まず、共同経済的保険として現れ、次で、営利形態に移った と説くものがある。がそれは明らかに誤りであって、中性のギルドの 如き保険では如、ものを保険視するところからくる謬論である。」 「 即ち、共同経済的保険は、むしろ営利保険におくれて、 18僅紀の未頃 -13- 相 互 会 社 論 始めてその姿を現したと見るべきで」ある。このように述べているの である(1)が、貴近性命保険経営』に載せられた宮脇泰氏の「主義 と組織の峻別-71メリカ生保にみる相互主義の実態」と題する論稀 は、これとは異なる見解を公にしている。そこで、この際これについ て一言しておきたいと思う。すなわちこの論文は、 「わが国保険監督 法は、相互組織を責任関係と自治関係の両面から規定し、諸外国には 例をみか1ほどその法的整備を図ってきている。しかし、その実態と しての相互組織は、その創業期において、理念として謳ったものと著 しく希離し、とりわけ自治関係については、いたずらにその法的手続 きを遵守しているにとどまり、会社運営上株式会社と何んら変るとこ ろがないとまでいわれてきており、その批判は近年とみにきびしさを 加えてきているo」 (2)ということから筆をとり、 W・マールの所説を 高く評価する、そして保険事業の生成は、ゲルマン的、北欧的起源と ロマン的地中海的起原とに分類されるが、 「前者はブント的保険形態 から出発し、後のゴータ生命に例をみる如き小組合的相互保険理念を 完成させ、後者は、商人的計算にもとづいた資本主義的色彩のつよい 保険事業理念を生んでいったとされている。 」が、このマールの所説 をさらに拡張することによって、 「ロマン的地中海的起原を有する保 険形態は、海上保険をとおしてイギリスの地にわたり、重商主義的背 景のもとにおいて、オールド・エクイタブル社にみるような、相互組 織を標樺しつつも、営利性のつよい事業形態を生んでいったとは解さ れまいか。かかる推論にたてば、現在われわれは、今なおゲルマン的 北欧的相互理念に生きつつ、経営組織においては、ロマン的地中海的 形態を志向しているといわざるを得まい。近代資本主義社会をその存 在基盤においている近代的保険事業は、経営戦略において相互会社と いえども当然に資本主義色彩を濃厚にしていかざるを得ず、また反面、相互 -14 - 相 互 会 社 論 理念も、 「事業の健全化-組合員数の増加二二ニ組合意織の稀薄化営利資本化」という二律背反の矛盾に悩まされかすればならない事実 は、相互主義のもつ宿命であると簡単に片づけられうる問題ではない。 この矛盾をいかに解決していくか、いいかえれば、相互主義を現代の 法体系上いかように組織だて、かつ実態と遊離しないものにしていく かは、われわれに課せられた最大の検討課題であろう」(3)と説くので ある。 しかし、ここで改めて考えておく必要があると思うのは、そもそも 相互主義とか相互理念とかいわれるものは一体かこを意味するもので 一 あるかということである。率直にいって、わたくLは「相互主義」と いうのは一つの虚構であって演想ではないと考えるものである。 わたくLは、前掲の『保険学総論』において、保険と相互救済思想 との関係を論じて「多くの学者によって、保険のいわゆる相互性が主 張せられ、或はまた『一人は-)!人のために、万人は一人のために(Einer fur alle, Alle fur Einen} 』のために人は保険に加入すると述 べられる。だが、かりに今日の保険が相互主義に基づくものであると しても、そこにいわゆる相互主義が、古代のコレギア・テヌイオルム や中古のギルドその他に見られる相互主義と全く異なるものであるこ とを忘れてはならか、」とし、 「保険は『利己的な共通感情に基いて』 行われているのであって、相互主義はむしろ無意識的な存在にすぎな い」と主張してきた。そして「保険の団体性もしくは相互性は、保険 の技術的要請から生れたものであって、かかるものを根拠に、保険の 団体主義的精神もしくは相互主義的思想を強調するのは誤りである。 即ち、保険においても相互主義(das Pringip der Gegenseitegkeit) 或は『自己のためにするとともにまた他人のためにもなす思想』 『共 存共営』等の思想があるとしても、それは単に、保険における醸金の -15- 相 互 会 社 論 相互性を意味するに止まり、それ以上何ら精神的なものを持っていな いのである。 」と説いてきたのである。そして、 Helpensteinは、マ -ネスが保険における相互性と説くものは、単なる虚構(Fiktion)に すぎないと難じているのみでなく、マ-ネス自身といえども相互性と いっても「被保険者は相互性の存在を相互に認めているという意識的 行為から出発しているというが如きことは」全然これを認めていたわ けではか、と断じていることを紹介し、したがって、保険の相互性は 精神的な相互主義ではなく、いわば技術的相互性にはかならなかった ことを詳しく述べているのである(4) ところが、宮脇氏はマールを持ち出して保険の相互主義を云々する0 果してそれが今日的といえるであろうか。わたくLは疑問に思える。 昭和15年に出版したわたくしの前述の著書、さらにはそれより古く昭 和10年に出版されている、わたくしのr保険経済学』を果して宮脇氏 は読んでいられるのであろうか。 由来、日本の学者は、外国の文献には詳しい。しかし、日本の老学 者の著作に一顧も与えられていかlのは遺憾の極みというほかはない0 そして例えばマールが1951年に公にしたEinfuhrung in die Vessicherungswirtschaftなどを高く評価して引用される。誠に残念である。 そもそもW・マールの所説を詳しく紹介したのは、おそらく、右の著 書を中心にして水島一也氏がその名著『近代保険論』 (昭和36年)に おいてなされたものであろう。そしてここでは、水島氏はこの種の考 えは「資本制経済を本来の基盤とする近代保険に、前近代的な相互扶 助思想を導入しようとする試み」であり、その「思考論理はF一人は 万人のために、万人は一人のために』との格言に表現される社会的連 帯主義の制度的表現と-して保険を美化礼賛する態度につながる」 (5)と 批判されているのであるが、これをどのように宮脇氏はうけとってい -16- 相 互 会 社 論 られるのであろうか。ところで水島氏はふれていないが、そもそもマ ールの所説は、実は1951年の右の著書より早く1938年の「保険関係論」 と題する論文にその端を発しているのであり、わたくしの見解ではナ チス当時の協同体思想につながるものであることを忘れてはならか-0 この点、どういう理由か知らないが、水島氏の著書ではマールのこ の論文には、全然ふれるところがない。しかし、わたくLが昭和23午 に公にしたj「保険論」では二頁にわたって詳しくこれを紹介している のである(6)さらにまた、わた( Lは昭和39年に公にした「共済思想 と保険思想」と題する論文でも、この論文にふれている。そしてマー ルは保険の社会的関係を問題とするに当って、これを r保険者と被保 険者との総体的関係j として把え、保険はまず『協同体的保険関係」 として生まれる。そして、そこでは『保険金として意識されずに、相 互扶助に対する倫理的業務や、風俗、習慣・伝統やさらには結局各人 の慈善心に依存する』 。そして、かような F協同体的保険関係」は次 の段階にはr拘束体的保険関係』にまで発展するOが、そこではr避 けることの出来難い危険に対して経済の遂行を確保することが、協同 体的動機に基づき、他の任務と共に意識的な特殊な任務として引受け られる』 。かくて、最後に保険関係は『利益社会的関係』となり r保 険関係は単に保険給付の法律的確保ということになってしまう』と説 くのであるが、もしこの最後の保険関係のみを其の保険関係であると し、他は原始共産社会における、及び封建社会における生活確保関係 のそれぞれの社会的形態であるというのが彼の真意であるとするなら ば、それはわれわれの立場と一致するOすなわち、保険は、偶然に対 する生活確保を目標とする経済的構造の資本家的社会における形態に 外ならないという訳である。 」(7)と述べているのである。 しかし、これはわたくしの解釈であって、マールはこの三つの保険 -17- 相 互 会 社 論 関係をいずれも保険関係として認めているのである。しかも、かれは その説明のなかで、結局自由主義は没落し、利益社会的なものは凋落 し、 「人類はあらゆる方面において、協同体的な或は拘束体的な形態 に向って進みつつあるとともに、個人の自己責任の下に建てられた利 益社会的な保険関係も姿を消し、拘束体的な保険関係が出現するとと もに、われわれの保険制度は強固な拘束体的なもので包まれてしまう」(8) と結んでいるのである。 マールのこうした説明を読むときに忘れてならないのは、かれが 1951年に公にした、そして宮脇氏や水島氏が盛んに引用するEinfiihrung in die Versicherungswirtschaft という著書は、実はわたくLが 引用する論文Das Versicherungsverh'altnisに根ざしており、しか もこの論文は1936年というナチス革かなりし頃のものであるというこ とである。すなわち上述のマールの発想は一種の発展段階的なもので あるが、同時にまたナチスの第三帝国的な発想につながるものであっ たということである。したがって、かれは保険は利益社会的な関係か ら終局的には第三帝国的なゲマインシャフト社会を志向していたとみ ていたとしても誤りはないのである。したがって、また、われわれが 近代的保険関係として把えるものは、いわばつかのまの一段階にほか ならぬというわけである.。そして、この種の理解は水島氏や宮脇氏の 場合には全く見失われていることをここで注意しておきたい。 この点は、前述のわたくしの論文でも詳しくふれているのであるが、 不幸にして宮脇氏の目にはふれられていないようである。 注 (1)拙著、 『保険学総論J 286真。 (2)宮脇泰「主義と組織の峻男lトーアメリカ生保にみる相互主義の実態」 (生命保険経営第42巻3号63頁。 ) (3)同上、 64頁。 -18- 相 互 会 社 論 (3)同上、 64頁o (4) r保険学総論j 90頁。 (5)水島一也r近代保険論J 3頁。 (6)拙著r保険論j 39頁。 (7)拙稿「共済思想と保険思想」 (生命保険文化研究所r所報J第13号 1966・44頁。 (8)同上、 45頁。 5.非射利主義生命保険会社ゐ立前と本音 ところで、前述の宮脇論文は、むすびのところで次の如く述べる。 「アメリカの生保相互会社は、すでにみてきたとおり、その起源をイ ギリス型の相互組織に求め、爾来一億紀以上に及ぶ永い歴史の過程の 中において、資本主義社会の中に確たる地位を築いてきたのである。 マールの所説を拡張すれば、ロマン的地中海沿岸にも芽生えはじめて いながら、営利性のつよい事業理念におしつぶされていた相互理念が、 新たなる理念武装をなして資本主義国アメリカの地に開花したもので あるともいえようかO思うにゴータ生命に代表されるゲルマン的北欧 的相互組織は、契約者最優先の考え方を基礎においたものであり、イ ギリスのエクイタブルに代表される相互組織は、契約者利益と企業利 益とを同一レベルでとらえようとする考え方が根底にあるものといえ よう。前者にあっては、責任関係・自治関係が理念としての相互主義 と一体化されていなければならないが、後者にあってはその必要はな く、理念としての相互主義と組織としての責任関係・自治関係とが峻 別し、組織は単に理念を生かす手段としての地位にとどまっていると いえよう。そして、主義と組織とが峻別した典型的な例を、われわれ -19- 相 互 会 社 論 はアメリカ生保相互会社にみるのである」と。そして、創業時には単 に手段として利用された相互組軌まその後相互理念を忘れて、 「企業 利益追求の面から、効果的に、あるいは企業家グループによる嘘営権 の人的独占化および、あるいは企業の集中支配化を生んでいったので ある」と述べる。もっともアームストロング調査に当って、時のMutual杜の社長のR. A. MeCurdyが述べているように、イギリスの 場合には単に金儲け、投資手段としての相互会社であったが、アメリ カの場合には「生保事業をひろめていくことが相互会社の目的であっ た。そこには利益概念(the idea of profit)は何も介在していないQj つまり契約者に対する配当が目的でなく、 「出来るだけ多くの人々に 保険を提供し、万一の場合の保障」をすることが目的であった。また、 この「拡張主義こそ、企業の集中支配化と経営の人的独占化をはぐく んできたアメリカ大手生保相互会社を代表する考え方であり、それは 現在もなお営々と脈うっている経営思想であろう。そして、かかる考 え方が支配している以上、アメリカ相互主義の限界もまた明らかなと ころであろう。」(1)というのである。 ところで、こうしたことは日本でもみられることであって、されば こそ宮脇氏は「ひるがえってわが国相互組織のあり方を思うとき、監 督法の精神・企業の精神がマールのいういずれの相互理念によってい るのかをまず見きわめる必要があろう。そして、もしそこに契約者優 先の理念が厳として生きているとすれば、われわれは理念から組織を 峻別させるような動きに涜さるべきではあるまい」 (2)と述べている。 しかし、果してマールのいうようなゲルマン的北欧的相互組織すなわ ち契約者最優先の理念が今日でも厳としてわが国には生きているとい えるのであろうか。わたくLはむしろ水島氏と同様に、かかる相互原 理がみられるのは「企業ではなくてゲノッセンシャフトに似た経営形 -20- 相 互 会 社 論 態」の場合においてであり、その場合には「すべての成員は被保険者 であり、同時にかれらの総体において保険者でもある」 。すなわち、 「それは特定集団のためのいかなる営利心をもたず、相互の保険保護 のみを目的とするから、そこでは、保険行為を通じて利潤を獲得しよ ぅとの意図は全く欠けている」 (3)とみるべきであると思う。 そして、その典型はむしろわが国における初期の農業協同組合にお ける生命共済や火災共済にこれをみることができるといいたい。しか も、本来は営利心をもたぬこの協同組合さえも現在のように拡張主義 をとるかぎり、理念は組織に押しつぶされてしまったことを考えるべ きである。 かの矢野恒太氏が『非射利主義生命保険会社の設立を望む」と題す る書物を公にしたときには、確かにマールのいうようなゲルマン的北 欧的相互組織の原理を考えていたであろう。しかし、わたくLは、こ れが公にされた明治26年当時は、その序文にもあるように「民間には 投機的の会社群立し道理の外に走せて無謀の競争をなし其極破産とな り解散となり合併となり恐慌となり非常なる害毒を天下に流すに及ん で政府は始めて之が監督を厳にせさるべからざる所以を悟り劇に保険 条例を設け俄かに罪人を逮捕し人民も亦此に至りて始めて生命保険に 伴う所の書ある事を知り暗に生命保険を畏怖し折角進歩し来りし所の 生命保険をして再び凋萎衰退見るに堪へさるの境遇に至らしむること 世界各国とも殆んど同一轍に出居候」 (4)の頃であったことを忘れては ならぬ。ところで、この序文のなかで矢野恒太氏は相互会社について 次の如く述べている。すなわち「今拙者の新設を企望致し候会社は」 「本邦においてこそ未だ曽て其設立を見ざれ欧米諸国に於ては盛に行 はるる所の非射利主義の会社即所謂会員組織又所謂相互会社なるもの にして其営業の方法は少しも株式会社に異らずと錐被保人の自治体よ -21 - 棉,互 会 社 輸 りなりて別に株主なるものを存せず従って被保人が株式会社に於ける と同一の保険料を支払ふとすれば毎年彼にありて株主の利益となるべ きだけ余分を生するが故に此余分の-小分は資本穣立金として会社へ 積立置き其大部分は毎年被保人へ割り戻す方法をとる者に御座候⊥ (5) そこで、わたくLは、当時の相互会社は確かに非射利主義を原則を 目標としていたとしても、その故にこれを以てマールの所謂ゲルマン 的北欧的相互組織の原理によるものと考えるのはどうかと思う。とい うのは、そこには明らかに利益社会的関係がみられるからである。そし て、このことは「其営業の方法は少しも株式会社に異らず」という矢 野氏の言葉によって端的に示されていると思う。 しかも、石坂泰三氏が、大正6年ニューヨークのメトロポリタン社 をはじめ、欧米諸国における生命保険会社経営の実際をっぶさに視察 して帰朝した。そして営業政策の研究をすすめるとともに大正8年石 坂氏が支配人となり矢野氏に代って会社経営に当るとともにより明確 となった。すなわち、会社は一路契約高の拡大に進路を向けることと なったからである。すなわち、立前と本音とは全く異るものであった のである。かくて第一生命はこのときから完全なる生命保険事業の近 代的経営に躍進することになったのである。 注 (1)前掲、宮脇論文82頁。 (2)同上。 (3)水島氏r近代保険論1 8頁。 (4) r第一生命七十年史j資料編1頁。 (5) 同上、 5頁。 (6) r第一生命七十年史j 53頁参照。 -22 - m 相 互 会 社 論 6.保険と共済 以上のように見てくると、第一生命の場合においては立前としては、 契約者最優先の理念が巌としてあったことには間違いはない。しかし そうだからといって矢野氏が理念とするところのものが果してマール に見られるような精神であり、この理念と組織とは一体化していたと 言いうるかどうかは甚だ疑問である。 すなわち、矢野氏が「会社創立当時もっとも意をもちいたことは、 わが国最初の相互組.織である会社の特質について、他聞一般に周知徹 底をはかることであった。そこで、 「我が社の特色」という小冊子を・ 編述し、きわめて平明な文章で年来の主張をくりかえし、とくにわが 社の主人公である杜貞(契約者)に対して配当を実行するためにとる べき方策。また、その配当は累加方式であるため、長生きするほど契 約者に得である長命無損害を特徴とする点などを明らかにした。 」 n また自殺者に対しても保険金を支払うし戦死者に対しても特別保険料 を徴収しないという当時の他社ではみられ如、相互会社の独自の取扱 いを説明するとともに、第一生命の本領は「最大の会社たらんとする にあらずして、常に最良の会社たらんとするにあり」とし、 「確実、 低廉、親切」をモットーとしたといわれている。そして矢野氏は、明 治20年代においては「確固たる信念と明確な態度をもって低額契約主 義を打出し」他社が保険金額100円をもって卓低としているのに対し、 その半額の50円にこれを押えて「生命保険の最必要なる貧者」 (2)の希 望に沿わんとしたとしても、明治35年第一生命を創立するに当っては これを改め保険金の貴低額を500円とし、さらに明治37年10月からは 1,000円に引きあげるとともに、高額契約主義に移行しているのであ る。ここではまさに主義と経営、理念と組織とが峻別されているので -23- 相 互 会 社 論 ある。また第一生命は無代理店主義をとったとはいえ、その節をオー ルド・イタイタプルにとった事実もまた、それがゲルマン的北欧的相 互理念によるものではなく、ロマン的地中海的経営形態に範をもとめ たといっても過言ではあるまい(3) このように考えると、あえて石坂氏の登場をまつまでもなく、矢野 氏において、すでにその相互理念なるものは、営利性のつよい事業理 念におしつぶされていたとみるべきである。そして、この点は西欧諸 国やアメリカの生保事業の歴史になんら変るところはなかったのであ る。すなわちこの点に関するかぎり「主義と組織の峻別」の著者は明 らかに誤りを冒しているのである。そして、この誤りをおかさした怪 物はほかならぬマールの第三帝国的発想であったのである。 そして、その意味では、わたくLはマール的発想をむしろ「共済」 のなかに見出すことができると考えたい。なお、ここでいま一つ見逃 してはならないのは、ドイツ法にいわゆる大相互会社(grosser Versicherungsverein auf Gegensei噛keit )と小相互会社(Kleiner Versicherungsverein auf Gegenseitigkeit)との区別である。この 両者の区別についてはわが国の学者の間ではほとんど問題とされず、 僅かに野津博士が法律政策的にのみこれを認めるにとどまっている。 0 しかし、たとえば、マ-ネスはこれを明らかに区別し、ゴータ火災や ゴータ生命にみられるよう・に、地方的制限を排除し、なにびとにも加 l 入を許すとともに、株式会社と同様、商人的経営を行うもののみを前 者に属するものとし、かかるもののみを相互会社として問題にする のである。かくてマ-ネスは後者すなわち小相互保険会社はこれを相 互保険組合として扱い、 (5)昔の相互組合と近代の相互会社との差異は、 前者が人的団体( Genossenschaften von Menschen)であるのに 対し、後者は資本団体(Genossenschaften von Kapitalien)である -24- 相 互 会 社 論 としている。このことは、本論稿の最初のところですでにふれておい たところである。 もしこの解釈が正しいとすると、マールのいわゆるゲルマン的北欧 的相互理念は実は、マ-ネスのいう小相互保険会社すなわち相互保険 組合、したがって又、わが国でいわゆる「共済」においてのみみられ れる理念ということになる。すなわち、それは近代的保険理念のなか で求められるものでは決してないのである。 そこで、問題は「共済」とはなにかということになるのであるが、 わたくLは、かつて「共済事業は保険事業か一一一保険業法には限界が ある-Jという論文といま一つ「経済技術からみた共済と保険」と いう論文においてこの点についての見解を明らかにしている。すなわ ち「われわれは、単にその名称のみに囚れてはならない。たとえ、そ れが保険以外の名称でよばれようとも、技術的にハッキリと保険と認 められるようなものであれば、それは保険であり、かかる技術の上に 立っ制度であれば、それは明らかに保険制度である。これとは逆に、 たとえ、保険の名を冠するとしても、そこには保険の技術がいまだ見 られないとすれば、それは保険ではない」(6)と論じた。ところが、こ れに対して、平井仁氏は「保険や共済の概念をとらえるに当って、そ れを保険技術の面からのみとらえるのでは一面的ではなかろうか」と 批判され、さらに「勿論保険と共済を技術面からのみみることはでき うるし、概念構成をそれのみに限定させることも出釆よう。しかし、 それは保険--近代的保険、共済‥原始的保険としてみる場合に有 用なことであろう。しかし、ここで共済についてみるのは、それを原 始的保険としてみる のではなく、協同組合保険としてみることであっ て、保険--営利的保険、共済--協同組合保険として問題を提起し ているのである。したがって取上げねばならない概念は保険技術とし -25- 相 互 会 社 論 てみたのでは、それぞれの本質を糾明することは出来ないということ なのである。ここでは、むしろ営利保険と協同組合保険との関係、そ の異同である」と述べられる(7) 注 (i) r麗-生命七十年史j 29頁。 (2) 〃 同上、 11頁。 (3) 同上、 30頁。 (4)野津氏、 r相互保険の研究J 428頁。 (5) Manes, Versicherungswesen 5 anfl. 1930. Bd I S.126. (6)拙稿「共済事業は保険事業か一一一保険業法には限界がある」 (共済保 険研究6号12頁。 ) (7)平井仁「保険経営体としての協同組合(上) 」 (共済と保険84号30 東。) 7.共済と協同組合保険 ここで新しく協同組合保険という言葉がでてくる。これについては、 いささかわたくしの保険の経営形態についての考え方を述べておきた い。わたくLは、前述の「保険学総論』で、保険の経営形態を分けて、 営利保険形態と共同経済的形態とに区別するo そして、営利保険形態 というのは結局は保険の企業形態であって、これには、個人保険業、 株式会社、相互会社、国営乃至公営の四形態がある。これに対して共 同経済的保険の場合には、営利を目標としない意味においては貴早や 企業とはいえない。共同経済的形態のなかで最も原始的なのは相互組 合である。ところで、相互組合は営利保険もしくは商人保険に先立っ て発展したものと考えられているが、少くとも保険としてみる限り、 -26- 相 互 会 社 論 例えばイギリスのFreindly SocietyやアメリカのFraternal Insuranceの事業を中心にみても、それは営利保険より遅れて発達したもの である。すなわちイギリスのFreindly Societyが法律上認められた のは1793年であり、それ以前にも存在していたが、しかし、それはギ ルドと同様、疾病や死亡に対する手当金を目標とし友愛を主眼とした0 そしてそれが相互保険組合として形を変えるに至ったのは1819年以後 のことであるからである。またそれが「共済」から発展して協同組合 保険となったのは、むしろ近代的保険出現より以後のことである。そ して、それは「 r安い保険』によって組合員が資本家的保険企業と同 樺の保障をうること」と「組合員自身に対する資金還元」 (1)のために 産業資本の利益のために生まれたものである。 協同組合保険について詳しい分析を示したのはバルーBarouである が、かれによれば、協同組合保険とは「組合貞を制限せず、且つ共通 の自家基金をもつところの任意組織(Voluntay Organization)であ って、都市および地方における個人或は団体としての賃金所得者な らびに小生産者によって行われる。協同組合保険企業は、平等と共同 利益および共同経営というデモクラティツクな基礎の下に立ち、組合 員の将来おこりうべき必要を充足せしめ、且つ、組合員の許量するこ とのできる偶然的な資金欲求の充足のためかれらがさらされていると ころの危険を団結させ且つ相殺させようとするものである。出資金に 対する配当は厳重に制限され、保険料および投資の剰余金は、準備金 に繰入れられるか、あるいは協同保険組合がもつ諸保険機関の利用高 (2) に比例して各組合員に分配されるoJ ものだというのであるoそして、 この協同保険組合は明らかに企業であると説く。すなわち「純粋な相 互組合には永久性がない。それは企業(Business Enterprise)では なくて、相互的奉仕の契約によって結びつけられた人的団体である」 -27-I 相 互 会 社 論 が「協同保険組合は、他の総ての協同組合団体と同じく永久的施設, 企業である。 」もっとも企業だといっても、それは組合貞自身の利益 のための企業であって、資本家のための企業ではない。また、相互保 険は本来、賦課式保険であるが、協同組合保険は前払式定額保険料主 義によっている。従って、相互組合保険は協同組合保険の未発達の形 態であると考えてよいというのである(3) このように見てくると、バルーは明らかに協同組合保険を近代的保 険として把え、しかも、これを一つの企業として把えているのであるO なおバルーはまた、協同組合保険を「営利資本家的保険」 (Profitmaking-capitalist Insurance.)とよび、これを「準備一相互保険」(Provident-Mutnal Insurance)や「公共保険」 (Public Insurance)と 対立させている。 と ころが、わが国ではかかる協同組合保険を「共済」とよび、あた かも「保険」とは具るものであるかのような行政上の扱いをしている0 しかし、それは協同組合保険を「共済」の名の下に保険業法の支配下 の外においているというだけのことであって、そこから「共済」と「 保険」の区別を探ろうというのは、そのこと自体が無理な注文である0 にもかかわらず、協同組合保険と営利保険との問題が「共済」と「保 険」にすりかえられて論議されているのである。そこで、わたくLが 協同組合保険は「保険技術を利用して行われる協同組合事業の一つで あって、他のいい方をすれば、保険をば協同組合形態で制度化したも のにはかならない。それは、普通に民間の保険が会社企業を通じて制 度化されているのとは異なり、また独特の保険制度ということになる0 しかも、これを歴史的にみる場合には、それはいわゆる共済制度の一 つの発展形態として登場したものにはかならない。したがって、それ は当初においては、明らかに共済であったかもしれないが、今日では -28- 相 互 会 社 論 レッキとした保険である。したがって、もし、これを一般の民間の保 険と区別しようというのであれば、制度として区別する以外にみちは' ないのであって、共済と保険というような一般的概念で区別されうべ きものではない」(4)と論じたのに対して、たとえば平井氏は「共済協同組合保険を歴史的にみる場合、それは共済-原始的共済の発展し たものとみるのは正しくない。それは営利保険に対して発生したもの である。このことは営利保険と協同組合保険とを保険技術の概念から 検討するのでなく、経営形態としての会社制度に対する協同組合制度 の概念で検討を加えるべきものなのである。もっとも、それなら保険 と共済の概念についてではなくて、会社と協同組合についての概念だ ということになるかもしれない。しかし、ここで問題にしているのは、 会社一般、協同組合一般ではなくて、それが保険経営体としてのそれ なのである。そして、それらの経営体を技術として分析するのでなく その社会的・経済的機能について検討を加えようとするものなのであ る」 (5)と述べるのである。そして平井氏は協同組合保険が営利保険 と異るのは、それがただ協同組合であること、そして、その保険事業 も協同組合運動の一環であるということである」としながら、その「 協同組合の機能が、かつての協同組合至上主義のそれでないこと⊥ま た、それは「独占資本の流通機構の一環」であること、また「産業資 本と同一利害の上に立つ」ことを認める。すなわちそこでは、協同組 合保険もまた近代的な保険の一つであることを是認している。そして ただそれを「共済」とか「共済事業」と呼んでいるだけのことである0 そして平井氏はこの共済事業を「利潤追求にのみ専念している営利会 社より、若干の進歩的役割」があるとしているだけのことである。 と論じたのである(6) -29- 相 互 会 社 論 注 (1)水島一也氏r近代保険論J 193頁e (2)拙著r保険学総論J 196真、 Barou, C0-operative Insurance 1936 , p.123. (3)同上、 ibid. p.103. (4)拙稿「経済技術から見た共済と保険」 (共済保険研究39号19頁O) (5)平井氏 前掲論文 31頁。 (6)拙稿「共済思想と保険思想」 (生命保険文化研究所r所報J 52頁.) 8.いわゆる共済保険 ところで、こうしたわたくしの論文より遅れて、保険審議会は「共 済保険問題に関する意見」(1)なるものを発表しているOすなわち、昭 和伯年3月27日石坂保険審議会会長から出された大蔵大臣宛の文書が それである。そしてそれによると「現在わが国においてはきわめて多 数の団体がその構成員の福利厚生を目的としていわゆる共済事業を行 なっているが、社会保険あるいは経済政策保険の分野に属するものは しばらくおくとして、それ以外のものについてみるとその態様は複雑 多岐であり、また国の干与する程度も深浅さまざまで統一性を欠き、 なかには国の干与が全く行なわれないままに放置されているものもあ る。また、保険事業とこれら共済事業、とくに国の干与が全く行なわ れないままに敬置されている共済事業との関係は不明確で、その間殆 んど調整がなされておらず、理論上はもとより法の運用というような 実際面からみても幾多の混乱が生じてきているJとある。そして「わ が国の共済事業の多数は、農業協同組合、消費生括協同組合、水産業 協同組合、火災共済協同組合および労働組合ならびに公益法人によっ -30- 相 会 会 社 論 て行なわれている。これらはいずれもそれぞれの法令によって規制さ れている」と述べている。もし平井氏のいうところの「共済」あるい は「共済事業」が法令によってともかくも規制されているものを指す のであれば、それはまさに共済-共同組合保険とみるべきである。が、 もしそれが「国の干与が全く行なわれないまま放置されている共済事 業」であるならば、共済-協同組合保険ということにならない。この 場合の共済はすなわち、私のいう「原始的共済」でなければならぬ。 ところで、保険審議会は、さらに進んで共済事業の基本的な考え方と して、次の様に説く。 「共済事業の本質は、社会あるいは一定の団体を構成する個々の人 々が、将来発生するおそれのある危険ないしは事故に対処するためそ れぞれ一定の金額を拠出して共同備蓄を構成し、危険ないしは事故が 現実に発生した個々の人々に対して、当該共同備蓄から一定の賠付を 行なうことによってその生活を保全安定することにあると者えられる0 そしてこのいわば相互救済の仕組みの本質は、共済事業の・みならず煤 険事業に通ずる本質でもあり、また共済事業を行なう各団体のそれぞ れが有する理念や目的が、たとえまちまちであるとしてもすべての共 済事業に通ずるものであると考えられるJoすなわち、近代的保険事業 であろうと、原始的共済事業であろうと、そこに共通する本質は「相 互救済の仕組み」であるというのである。 しかし、われわれがいまここで問題としているのは、こうした原始 的共済事業をふくめての保険事業ではない。むしろ同じ近代的保険と みるべき協同保険組合の事業と相互保険会社の事業とのほどうち`がラ かである。 ところで、右の意見書はまた、共済事業を保険事業と対比して次の 様にも説いている。 -31 - IZ^Ji 四 m 門 「一般に共済事業は保険事業に対比して(1構成貞が職域的、地域 的に特定されていること(2構成員が小数で共済金額も見舞金程度に とどまること(3)募集組織をもたないこと(4)給付反対給付相当の原 則が充分には貫かれていないこと(5願じて構成員相互間の共同連帯 の意識ないし情誼の会によって結ばれていること等の特色を有すると いわれているが、こころみにこれらによって現状をみると、共済事業 のうちには上記の諸特徴をことごとく備えていわば隣保扶助の段階に とどまっているものがある反面、共済金額が高額でありまた員外利用 の制度によりその対象が非組合員たる一般人におよんでいる等保険的 諸特徴をそなえ、むしろ保険の範ちゅうに属するものとみとめられる べきものもあり、この間実に様々の段階のものが存在している上と。 そこでわたくLは以上二つの類型のうちの前者すなわち「いわば隣 保扶助の段階」にとどまっているのを、原始的共済とし、後者すなわ ち協同組合保険ともいうべきものは保険であると主張したい。 いずれにしても、今日共済として問題となっているのは、協同組合 保険であり、この点については平井氏の意見と一致するo そしていま 相互会社と対比して分析が必要となるのは、共済事業でなく、同じ保 険事業に属する協同組合保険事業ということになる。 しかし、相互会社と対比していま一つ問題とすべきは同じ企業形態 のなかの国営保険事業、すなわち、簡易保険事業である。これら二つ の企業経営形態こそ、相互会社の組織を論ずるに当り比較検討を必要 とするものである。とくにこの二つのものこそは、単に競合するとい う意味においてだけでなく、相互会社の外野組織を論ずる場合には逸 することの出来ないものなのである。しかし、ここでは国営保険につ いての論述はこれを省略したい。 -32- 相 互 会 社 論 注 (1)生命保険協会会報 第49巻第1号による。 9.社貞総代廃止論 昭和49年3月末に開かれた保険審議会では、これからの保険事業の 在り方を根本的に審議、検討するための資料として大蔵省保険部から 次のような審議事項案が提出された。そのなかには、とくに生命保険 会社の経営と題する項目があり、そのなかでは次のように述べられて stm 「わが国の生命保険会社二十一社のうち十七社が相互会社、四社が 株式会社であるが、いずれにおいても契約者の意向が会社の経営によ く反映される仕組みの確立及びその適正な運用が必要であると考えら れる。この点は特に、本来契約者相互の互助組織として成立発展して きた相互会社によって指摘されることが多い。従って、生命保険会社 の経営のあり方については、次の諸点を中心に検討すること.としては どうか。 (1)生命保険事業を営む組織としての相互会社及び株式会社のそれぞ れの特質についてどのように考えるか。 (2)相互全社における社員総代会は株式会社における株主総会に相当 するものであり、会社経営の最高の意志決定機関であるが、社員総 代の選考等のあり方についてどう考えるか。 ① 社貞総代の選考基準及び選考方法のあり方 ② 選出に降し、契約者たる社員に立候補権を与えることの可否 ⑨ 同一人が二社以上の社員総代を兼任することの禁止 ④ 同一人が社員総代と役月を兼任することの賛止 -33- 相 互 会 社 論 ⑤ 社員総代の重任の限度の短縮 ⑥ 社員総代会で契約者たる社貞に傍聴を認めることの可否 (3)昭和40年3月「相互会社組織運営の改善に関する答申」に基づき、 相互会社はいずれも評議会を設けているが、評議会の選考、評議員 会の運営のあり方についてどう考えるか。 (4)契約者に対する会社経営内容等についての報告、連絡等のあり方 についてどう考えるか。 (5)昨年2月の国民生活審議会答申にいわれている保険モニター制度 の採用についてどう考えるか。jl) ここでは、まず第-に社貞総代会のあり方と評議会のあり方が問題 の狙上にのせられているo そこで、これに関連して、昭和40年3月の 「相互会社組細軍営の改善に関する答申」 (2)を一応見ておく必要があ る。 ところでこの答申ではまず「わが国における生命保険会社の大部分 と損害保険会社の一部は相互会社組織をとっているが、相互会社の最 も大きな特色の一つは契約者全体が経営に参画できる建前になってい る点にあるoJと述べている。ところでこの点は、かねてから野津務氏 が主張するところであって、氏によれば相互会社における相互性は「 保険契約者自身が企業の管理に参与すること、即ち会社自治(Vereinsautnomie)に存する」ことにあるとされている.しかし、わた くLはこうした見解には直ちに同意はできないのであって、これはい わば一つの建前論にすぎない.すなわち法律論的な一つの形式論にす ぎないと思う。というのは「保険契約者自身が企業の管理に参与する」 といっても、そうしたことが現実に行われているのは、いわば原始的 な共済の場合だけの話である。すなわち「契約者全体がが経営に参画 できる」というのは一つの建前論であって、建前論を基礎とする法律 -34- 相 互 会 社 論 論ではそれでよいかも知らないが、経営の実体論としては現実には存 在するものではない。少くとも近代資本主義確立後における近代的保 険ではそうである。そこで、現実には、少数の社員総代という制度が 生まれるのである。 そこで前述の答申でも、前の文章に引きつづいて「この相互会社の 社貞(契約者)が会社経営に関し意思決定する機関としては、法律上 社貞総会が原則であるが、これに代る社員総代会の方法も認められる」 と述べている。すなわち、建前論-法律論からいえば、社員総会が原 則であるが、現実には社員総会に代る社員総代会で代置せざるをえな いことを認めているわけである。そして、その理由を「各相互会社の 現状を見るに、社貞数が非常に多くなった今日、社員総会を開催する ことは実際には困難であるから、すべて社員総代会によって運営され ており、この方法をとることはやむを得ないものと考えられる」とい うのである。このようにして問題は、もちろん法律論からこれをとり あげることができるが、わたくLは建前より中味を重視する。すなわ ち経済とか経営の立場からすれば必要なのは虚構でなくて実相である0 わたくLが本稿の男顔において述べたごとく、成程、法律的には、社 員が構成する社員総会が会社経営の最高機関である。しかし、それは 単なる形式であって、相互会社もまた株式会社の場合と同様に極めて 少数の社員もしくは基金拠出者の手によって経営されてきたのである0 したがって、相互会社と株式会社とを区別する最大の点はこの点より もむしろ加入者利益配当にあるというわけである。 だからまた、法律的には「利潤の排斥が相互会社の特徴」だといっ ても、野津氏のごとく「相互会社にあっては株式会社におけるが如く 然かく積極的ではないけれども尚営利の努力」があるといわざるをえ か、O またさらに進んで「相互会社は営利法人の実質を具うるといら -35 相互会社論 て支障」 (4)がないといった苦しい説明をせざるをえないのである。こ れは法律論は要するに建前論にはかならないことを正直に物語ってい るわけでもある。 したがって、前述の答申が上の説明に引きつづいて、社貞総代の選 出を論じ「社員総代候補者が広く社貞全体からより適切に選ばれるよ うにするため、その候補者選定権をもつ選考委員会制度を設ける等、 民主的と考えられる機構を設置されることが必要である」とし、さら に昭和軸年4月14日の「相互会社運営の改善について」という大蔵省 銀行局長通達および「相互会社運営の改善策の実施について」という 保険第一課長からの事務連絡として各生保会社社長宛に出されたもの をみると、(5)「選考委月が社員総代となることは原則として適当でない⊥ 「選考委月は10名程度が適当である」 「社貞総代が特定の利益代表に 偏することなく、広く社員全体からより適切に選ばれるような選定方 法を定めておくこと」など可なり詳しい注文をつけているわけでもあ る。 これは、社貞総代の選出を社員の直接選考に代えて、いわゆる推薦 による方法をとる場合のことをいっているのであるが、現実には直接 選挙ということは不可能に近い。そこですべての会社が現実にはこの 推薦の方法をとっており、その場合には必ず選考委月会を設けなけれ ばならぬというわけである。しかしこの場合に果して大蔵当局のいう ように「広く社員全体からより適切に選ばれるような選定方法」とい うような方法があるというのであろうか。ここでも建前と現実という ものは必ずしも一致しない。 そこで、わたくLは、前述の答申のなかにある、会社運営について は「相互会社の運営に適時社員の意思を反映し、また、会社運営の公 正をはかるため、杜貞総代会とは別に、会社経営に関する諮問を受け、 -36- 相 互 会 社.篇・ あるいは、意見を述べる機構を設けることが適当である」とか「会社 役員の選出については、その一部役員を広く一般社員からも選ぶこと が望ましい」ということにならざるをえないのである。 そしてこれは、とりも直さず、前述の通達のなかにある評謙月食等 の設置を指すのであって、前述の事務連絡では、 「評醸月の定数は10 名乃至20名程度、その任期は二年程度が適当である上としている。ま た、通達によると、評議員会は、 「会社経営に関する諮問に答え、意 見を具申するほか、一般社員から提出された会社経営等に関する意見 の審議を行なうこと」といったことが必要となるのである。そこで問 題はその選出方法をどうするかである。そして通達によると「その構 成月は社員総代会において選出するものとし、その在任期間は長期に ガたらか、よう留意すること。なお、必要に応じ社員のほか学識経験 者をこれ南口えることができる」とある。 形式論、建前論からすれば、評議員の選出は社員総代会で行なうの が建前であろう。しかし、ここで注意すべきは、 「社員総代会とは別 に」評議員会を設けたその意味である。わたくLは、率直にいって、 現在の社員総代会そのものが実は一つの虚構であって、この点社員総 会と同じくいわば一つの「飾りもの」にすぎないのが実相であること を認めなければならぬ、と思う。そこでこの際は、法律論は別にして まず社員総代会もこれをとりやめて、会社の運営は、会社役員のほか に評議貞会を中心としてこれを行う途を考えたらどうかと思う。そし て、そのことこそ相互会社の運営をより公正により効率的にするもの だと考える。そしてこの評穣月食は学識経験者のみによって構成され、 その選出は監督官庁の任命によれば足りると考えるものである。すな わち、つきつめていえば社員総代廃止論である。 -37- 相 互 会 社 論 注 (1)共済と保険 第16巻第4号75真。 (2)生命保険協会会報 第46巻第1号86頁。 (3)野津務博士r相互保険の研究J 132頁。 (4) 同上、'53頁、 307頁。 (5)生命保険協会会報 第46巻第2号56頁。 10.コンシューマリズムにどう対処する いまここで評議貞会のあり方について大いに参考になるのは、ある 座談会における浅谷保険第一課長の発言である。 浅谷課長の発言は水島氏の「生命保険」をめぐる座談会においてな I 一 されたものであるが、 「現在の相互会社の運営の問題は、タ幅βからも 抑制され、保険審議会においてもそうした議論がとりあげられ、今後 も審議されると思うが、結局、契約者の意向をくみ上げる速、それは 相互会社の組織の制度の改革などの問題もあるわけですが、たとえば 40年の保険審議会の答申で作った各社の評議員会みたいなものをみて も、その運営は、私はよくわかりませんが、いったい水島論文にいわ れるような契約者の意向をどれだけ吸収し、そのなかに反映してきて いるのだろうか、という問題があるだろうと思う。だからそれは単に 評議員会の組織とか運営を改善させていく、あるいは相互会社の運営 というものを改善していくなど、いろいろ問題はあると思うが、やは りI LIみたいなものがあった方が、もっと業界は前進し良くなるだ ろうと思いますね」と述べている。そして安田生命の古沢篤輔氏はこ れに同意しているL。 I LIは結局、業界だけでなく外部の機関がこれに協力して、たと -38- 相 互 会 社 論 えば生保業界の未来研究といったことを始め、セールスの接点の間蔑 とかターンオバーの問題とかコンピューターに入れた時の問題とか財 務の問題とかをやっている。しかも、それは単に業界全体の問題とし てではなく、もっと広い視野でやっているわけであるが、こうしたこ とが必要だというのである。ところで、この座談会でわたくしの関心 をひいたのは、古沢氏がアクチュアリーの意見ということが余りに重 視されているという指摘と、いま一つ現在の生保の人たちが日本の社 会保険についての関心の浅さという点である。そこでは末高先生や園 先生の名が出ているが、わたくし自身、たとえば厚生年金基金の問題 一つとらえてみても、生保業界の人たちは企業年金の問題はともかく、 としても、現に問題となっている厚生年金保険と年金基金のあり方に ついては、余り勉強していない。この点は信託業界の方が進んでいる ことをかねてから指摘してきたのだが、年金基金との契約は信託もや るから生保もやるのだといった心がまえ以上には一歩もでていないの ではないか。もちろん、利潤追求ということになれば年金基金は余り 問題にならないが、これからの生保のゆきかたとしては、わたくLは 協同i阻合と簡易保険といま一つ重要なのは、社会保険とくに厚生年金 保険と国民年金であると思う。そして、これらのものとくらべて相互 会社をどう考えるかが、問題であることを忘れてはならない。こうし た点ではまた財産形成法の問題にしてもこれに参入したいという意欲 はよくわかるとしても、甚だ不勉強であることは業界の人たちも認め ているであろう。そして、ドイツでは単に生保だけがこれに参入した のではなく、そのためには銀行や信託をはじめ、金融業界がこぞって その実現に協力したのである点を忘れてはならない。問題はいわゆる 生保船団だけの問題ではないのである。 これに関連していま一つ忘れてならないのは、前述の宮脇論文が指 -39- 相 互 会 社 論 摘している点であって、アメリカでも、 TNECレポートの替告にも かかわらず「社員自治の姿は、その後も一向に改善された様子が」な かった。そして、その改善策としては「現行法制下では、一般契約者 をより多く選挙に参加させる方式よりも、契約者をして役貞候補者の 選出に参加させる方式の方が望ましい」 (2)としている点である。 アメリカでもかの有名なR軸h Naderの指摘にもあるごとく、 「生 保業界できわめて興味深い事実は、僚月が、本来みずからが緊急に とりしきっていかねばならないような重要な事柄から隔赦されてきて いるということである。相互会社の役員は、内密律に開催され、かつ 出席者もほとんどいか1年次杜貞総会などでは決して尋ねられたこと のない厳しい質問にもっと身をさらさねばならか1。彼等は何故に年 次社員総会にもっと契約者が出席出来るよう手を打たか、のか。現在 のところ、それは単に昼食会化しているだけではないか。大手相互会 社は、まさしく、これら隔離された一連の経営者グループと、契約者 への無関心さないしは無視-それは商品名についてのみならず社員 自治の面についても-と、膨張しきった経費とにとによって特徴づ m けられている」 というのが真相のようである。 そしてこうした声は、いわゆるコンシューマリズムの展開とともに、 アメリカにおいてのみならず、日本においても爆発的に高まってきて いるのである。ネイダー等の発言は、アメリカ上院小委員会の公聴会 (1973年2月)でなされたものであり、この公聴会でネイダーは「生 保業界はうまいことを青うが、大衆に嘘ばかりついている」とまで痛 烈な批判をあびせている。また他の証人たちもこれと同意見であった とったえられている。これらの意見のなかで注目すべきは、たとえば 5年か、し10年の定期保険を購入する方が賛明である時に保険セール スマンは終身ないし解約返戻金付保険を購入させようと強制している0 -40- 相 互 会 社 論 ° また、保険セールスマンは顧客に確実な保険知識を与える上で必要な 教育を正しく受けていないという指摘があったことである。 m また日本でも総理大臣の諮問機関である国民生活審議会の消費者保 護部会の第二分科会が昭和48年3月1日、 「保険サービスに関する消 費者保護について」の中間報告の採択を発表している。が、.この答申 .I のなかでとくに注目すべきは、 「保険行政全般については保険審譲合 が設置され契約者保護という視点からも各種の答申がされているが、 消費者懇談会の開催、保険モニター制の採用によって、消費者意向が 行政面へ一層反映されることが必要である」と述べているとともに「 相互会社においては、消費者(契約者) -社月であり、社員総会に代 る社員総代会が最高の意思決定機関となっているが総代会の運営など 形式化している面がある。したがって、社貞総代の選出にあたり、立候 補者を受け付ける、加入金額階層別に選出するなど選出方法の是正、社 員総代会への一般社員の傍聴を認めるなど総代会の運営の改善等につ いて検討する必要がある。また、経営面に消費者(社員)の意革を反 映する機関として評議員会などが設置されているが、実質的に措用さ れているとはいい難いので、これら評議員会について消費者にP ・R を徹底し、具体的な意見の提示方法などを示す必要がある」という指 摘である。そして特に資産運用については「投機にはしることなく、 その経済的効率性を高めるとともに、資産運用の一形態として事業を 営む場合にもその事業を通じて消費者に直接利益が十分環元されるこ とが必要である」と述べ:ている。 (5) もちろんこの答申に対しては、生保業界としてはその対処亀盈るも のを発表している。そしてそのなかで、相互会社の項を設け「社月総 代については、現在第三者によって構成される選考委員会により、社 会的にも十分認められ、かつ一般の意向を代弁しうると考えられる有 -41 - 相 互 会 社 論 識者を候補者として選び公告したうえで選出している。一社何百万何 千人という社月を数える状況の下において、この選出方法や総代会の 運営方法の適正化については会社としても苦労しているところである が、現在もっとも実際的と考えられる方法を採用している。また日ご ろの業務に関しては消費者保護の見地から行政当局の十分な監督が行 なわれていることでもある。しかし社貞の意見をさらに広く求めるこ とについては、提言の諸案を含め今後とも検討をつづけ、努力してゆ く,(6)と述べている。また、 「資産運用面における消費者への環元に ついても、前向きの姿勢で検討をすすめるqJとも述べている。建前論 からいえばまさにその通りである。しかし問題は建前にあるのでなく、 なかみにあるのであって、われわれの知りたいのはその本音である。 注 (1)インシュアランス 第2647号5頁。 (2)宮脇泰「主義と組織の峻別」 (生命保険経営 第42着第3号77東Q) (3)向上、 79頁。 (4)生命保険協会会報 第54巻第1号72頁。 (5) 同上、 83頁。 (6) 同上、 85頁。 ll.ゴータ生命保険銀行とエクイタブル ここで想起するのは、ドイツにおける相互会社の典型といわれるア -ノルデイのゴ-タ生命保険銀行の場合である。私見によれば、少く ともその当初においてはゴータ生命保険銀行もさきに述べたように、 相互会社すなわち大相互保険会社に属するものではなく、むしろ小相 互保険会社すなわち相互保険組合に属するものであったと思う。そこ -42- 相 互 会 社 論 で、水島一也氏も「ゴータ会社がその発足にあたり、会社支配者の従 属的協賛機関化の可能性を内包する社員総代会に代えて、成員の選挙 にもとずく最高機関をもったことは注目せねばならない。しかし、か かる理想的制度も、その範囲をチューリンゲン地方に局限しないこと により、その意義の大半を失わざるをえなくなったと考えられないこ ともない。直接民主性の基礎の上に運営されうる会社自治制が、相互 会社というよりも相互保険阻合というのに相応しい経営規模の段階に おいては可能であるが、一旦それが近代的相互会社としての自己形成 をとげ、広範な社会的基礎を獲得するとともに、成員の間接的意志表 示を基礎とした会社自治制への転化を余義なくざれることは自明の理 である,ll)と述べている. かくて、ゴータ会社も営業規模を全ドイツへ拡大することによって、 近代的相互保険会社としての体制を整えるのであるが、ここで注意す べきは1904年になると、社員総代会制度がとられるに至っていること である。すなわち、それまでの期間は、具体的には営業を開始した18 29年1月1日から1904年に至る約80年間は、ゴータ相互会社でなく実 は相互保険組合でしかなかったのである。そして、水島氏はこの間の 組合の運営のなかに「其の意味の相互主義の実現」を認められるので ある。かくて、水島氏は次のごとく説く。 「私見によれば、相互主義の本質は、これを成貞間の責任関係より もむしろ会社自治関係に求めるべきである。全成貞の参加による、全 成員の利益を志向した最高意志決定機関を現実にもつことによっての み、其の意味の相互主義の実現を期することができる。責任関係のい かんは、実にかかる意志決定機関の議事にのぼりうるからである。責 任関係に相互主義の本質を求めようとし、しかもそれを一定範囲に局 限したア-ノルデイが、会社自治関係を一定の限界内でしか樹立でき -43- II 呂RX3 なかったのも、やむをえないところであったろう.(2) かくて、 1829年に813人の加入者、保険契約金額にして145万2千 タ-ラーで事業をはじめた(3)ゴータは一応ト人は万人のために、万 人は一人のために」の原則の下に保険加入者の教を増してゆくのであ .る。いま、その間の新契約高および新契約音数をみると次の如くであ る(4) 年 次 1829- 38 契約者 保険金額 10, 648 55, 161, 6(カM 1 839 48 10, 404 50, 076, 000 " 1849 58 12, 380 62, 877, 0(泊,7 1859 68 19, 759 120, 941, 100 * 1 869 78 32, 590 244, 590, 9(氾/, 1 879 38, 579 331, 084, 4(泊'y 1889 98 43, 287 389, 723, 500 〟 1899 1908 53, 454 509, 031 , 050 * 1909 18 63, 377 680, 713, 473 '/- 計284, 478 2, 444. 199. 323M ところで、問題は、これらの契約者がどうして選ばれたかである。 それはチューリンゲン地方に在住する終身被保険成年男子を有権者な らびに被選挙権者として、これをエルフルト、ゴータ、ワイマールの 三都市を中心に三地域を分割し、各地域について選挙を行ない、通常 7人からなる委員会を選出する方法をとっ・たのである。そして、各香 員会は、それぞれ独立して、会社の組織および経営の諸事項にわたっ て各地域の意思を代表する。委員会の議長として秩事を主宰するのは Vorsteherであって、各地域を代表する3名のVorsteher がBank Vorstandを構成するという仕組である。そして、これが執行横網と なったわけである。 -44- 相 互 会 社 論 ここで、われわれは、かのイギリスのエクィタブルのモルガンが、 1816年の総会でエクイタブルのメンバー数が過大成長することを避け るために、メンバーとして権利を行使するものの数を5,000人に限定 することにした。そしてメンバー・デモクラシーの崩壊をさけようと したことを想起する必要がある。水島氏はここに「近代保険における (5) 相互主義の限界」を示唆することができると言射、ているのであるO が、この点、ゴータの場合はどうであったであろうかO ウォルフォI ドによれば、 1874年のゴータの保有契約者数は44,644であり、 1878年 の新契約件数は4,271である. (6)ェクイタブルがmanageable number とした5,000よりはるかに多い契約件数をもった。しかし、問題 は契約件数よりは執行機関のあり方にあるのであって、この点1904年 に社員総代会制度に道をゆずるまでは、 「直接民主性の基礎の上に運 営されうる会社自治制」が存在していたとみなければならぬ。 そして、この点では、前述の宮脇論文が一つの示唆を与えるo とい うのは、アメリカの相互会社はその始祖とみられるニューヨーク.ラ イフをみても剰余金の分配の権利とともに社員はまた役貞を選出する 権利を持っていた。そして、この役員の選挙にこそアメリカ相互主義、 すなわち社員の会社参加の実態を求めることができるからであるこ(71 しかし周知のごとく、この役員選挙制度もいわば建前だけであり、事 実においては極端な腐敗ぶりを示したO そこで1905年のアームストロ ング調査となり、さらに1941年のTNECレポートによる究明になる のであるが、この場合でも役貞選挙に当って投票した一般契約者は極 めて小数に止まったのである三8'例え(JMutual 。f New Y。rkにお ける1943年の役員選挙の場合でも90万人の投票可能者のうち、投票者 はわずかに186人であり、そのうちの150人は本社従業者であった、 また28名が郵便による投棄者であった。そこで、一般契約者を選挙に -45- 相 互 会 社 論 参加させるよりはむしろ役員候補者を選出させる方式の方が好ましい0 すなわち、会社が推薦する役員候補者のり.ストを全契約者に送付し、 その好悪を郵便でもって聞くことにした方がよいとの提案がなされた のである。 いずれにしても、相互会社が相互保険組合の域を脱し、会社自治が 実質的に不可能になるほどの量的変化をとげると、いわゆる相互主義 は単なる建前だけになり、相互会社と株式会社の区別はほとんどなく なるのである。エクイタブルは前述のごとく1816年に至り、5,000人の ・特権老のみで会社自治の形式をいかそうとしたのであったが、そのと きでも経営の事実上の支配権は重役会の手中にあったことを忘れては (9) ならぬ。 それにゴータの相互主義は1829年に始まるわけであるが、エクイタ ブルはすでに1762年に近代的保険としての第一歩を印している。会社 がその巨大化をさけるための措置としての5,000件に限定する方式を とり、それが達成されたのは1859年といわれているが、社員数をいか に限定しても経営の事実上の支配権は重役会に振られていたことは前 述の通りである。たとえゲルマン的北欧的相互理念の下に経営が行わ れるとしても、ゴータにみられる如く、地域的に極限された保険組合 の形式をとらない以上、相互主義は成立しないのであって、そこに相 互会社の典型を求めること自体が一つの矛盾にはかならないのである0 そこで、水島氏も述べるごとく、 「相互会社制度は、相互保険組合 の資本主義による止揚の結果生まれたもの」であり、 「これを相互保 険組合と同様に、ある倫理的概念に支配された人的結合とみなすのは、 歴史的認識の欠除による」 (10)とみざるをえないのである。したがって また野津務氏のように相互会社は「資本主義的な商事会社制度に対す (ll) る合法的反抗の現われ」 とみることには賛成ができない。そして、 ^^EI*^^5 相 互 会 社 論 その意味では、宮脇氏のように理念の複活を組織のなかに求めること し=対しても同意しがたいのである。 注 (1)水島氏r近代保険論j 34頁。 (2)同上、 32頁。 (3) Hundert Jahre Gothaer Lebensversicherungsbank 1827 -1927. S. 6.なお、 Walford. The Insurance Cyclopaedia Vol. V.によれ ば(p.290) 794人で始められたとある。 (4) a.a.0. S. 39O (5)前掲、水鳥氏10頁。 (6) Walford, ibid. p. 467.なおエタイタプルのmanagable number に ついては、水島氏「近代保険における相互主義理念の限界」生命保険 文化研究所『論集j第16巻10頁参照O (7)前掲、宮脇氏、 73頁。 (8) 〃 75頁。 (9)水島氏著、 76頁。 (10) 同上78頁o (ll)前掲、野津氏著、 117頁。 12.契約者最優先の理念と国民福祉 そこで、わたくLは、もし宮脇氏のように理念から組織を峻別させ ることを避けようというのであれば、相互会社の組織から離れて協同 組合形態とか、国営形態に相互会社を移行させる方が飴が通っている と思う。それに契約者最優先の理念にしてもそれは相互主義理念によ って始めて実現しうるものとは思わか、。むしろ現在の相互会社のな -47- 相 互 会 社 論 かにおいても、これを求めうるものであり、そこにこそ、相互会社の 行方があると思う。 「企業の集中支配下と経営の人的独占化」はいわ ば資本主義の必然悪であり、そのなかにいかにして契約者優先の理念 を活かすかがわれわれの課題である。す.なわち見せかけの会社自治と いう相互理念を経営のなかに復括させようとすることは歴史を忘れ、 た考え方であり、保険における相互主義の実態を理解しないものの啓 論というほかはない。 この点では、一見相互主義に徹していると見る協同組合保険もまた、 現実には経営権の人的独占をもたらし、企業の集中支配化を生みつつ あることを冷醇に知らねばならぬ。そして、このことはまた、国営保 険である簡易保険においても同様にみられるのであって、前述の日本 におけるコンシューマリズムの動向のなかにみられる会社自治への志 向が、この二つの形態をどのように見ているか。わたくしの知りたい 点である。すなわち、もし、コンシューマリズムが真に望むところは、 保険の消費者でなく、全国民であるとすれば、そこでの提案はもっと ちがった形をとるべきではないかと思う。すなわち、この際、われわ れが望んでやまないのは契約者最優先の理念ではなく、実は国民最優 先の原則ではないかと思うのである。 その意味では、民営保険と社会保険の関係、より具体的には民営保 険と厚生年金保険や国民年金保険との関係をもっと重視すべきではな かろうか。 そうした意味では、一般に主張される社員参加の問題は、これをさ らに拡めて相互会社における国民参加の問題として考える必要がある0 そして、この点では、ドイツにおける企業に対する労働組合の参加の あり方に一つの模範を見出す必要がある。そして、評議月を通じて相 互会社における国民参加を実現してはどうかと思う。わたくLは、さ -48 - 相 互 会 社 論 きに社員総代会を廃止して、評議員会強化し、これを通じて相互会社 の運営をより公正に行うのがよいとした。これは結局、社員参加の代 りに国民参加こそが筋だと考えるからである。 そして、また今日のように協同組合保険や簡易保険を民営会社の競 争関係において把える代り、むしろ共存関係としてこれを把え、それ との調整を行なうことが最肝要だと考える。このことは、経済成長重 視の時代から福祉優先の時代に入った今日の段階においてはなにより も必要なことである。そしてこれを通じて転換期に入った資本主義に 対処するのが行政の態度ではないかと思う。 もちろん、こうした態度を行政がとる場合、相互会社については、 まず第一に、いわゆる船団行政にメスを入れる必要がある。すなわち 船団行政をそのままにしておいて競争原理の徹底ということはありえ ないのである。水島氏の提言にもある如く、抜本策は行政が主導権を もってカルテル価格の廃止を行うことにある。それ以外に途はないの であるJl)すなわち、料率認可制を基礎としたカルテルの解消が望ま しい。そして、アメリカで行われるような責任準備金積立てについて のみ当局が規制を行い、その要件を充すかぎりは、料率水準を各社の 自由競争にまかしてはどうかと思うのである。 第二は外野制度の改革である。この間題については、一つは生保産 業が最も多く婦人労働力を活用し、家庭婦人のアルバイトを強化して きたか。これまでの歴史を反省する必要がある。私は婦人労働の立場 からこれを決して好ましいものとは考えていない。また、最低賃金決 定の仕事に当っているものとしては生保企業というか、生保産要とい うか、そこに働く婦人たちの賃金体系がいかに乱れているか。また、 いかに実質的には低賃金であるかの事実をも知っている。そして、こ の婦人労働力の進出が、いかに婦人労働力の乱奪を行なってきたかの -49- 相 互 会 社 論 事実については別の機会に述べたいと思う。極論をすれば、最後の日 本の婦人労働市場を混乱に陥いれたのは、一つはこの生保における婦 人外務員のあり方ではなかったかとさえ思う。 いま、日本では業界人の自主性の下でこの点の改善を図るためいろ いろの努力が行われており、水島氏も強くこのことを望んでいられる0 しかし果して自主的な努力だけで問題がかたづくものであろうか。そ もそものおこりは、有名無実な外務員登録制にあったといってよく、 なによりもいそがれるのは保険募集取締法の改正であり、日勤制の専 業職負による外野規模の適正化である。この間題は確かに甚用問題さ らには失業問題につながるとはいえ解決しなければならぬ問題である0 契約高競争の過熱状態を克服し、正常な競争市場のための条件の整備 にはこれ以外にしか方法のないことを、業界人は知るべきであると思 う。基本的には、こうしたある意味の兼争の行きすぎは、本来、相互 会社にあっては行われてならないものである。 そこで、外務組織の思い切った改革こそが相互会社改革論の一つの 大きな目標となる。また、日本の婦人賃金問題の近代化の一つの速で もある.ところで、いま、日本のコンシューマリズムは、たとえば、 国民生活審譲合の保険サービスに関する消費者保護についての答申に もみられるように、募集制度の適正化や消費者意向の反映と並んで、 資産運用面についても、一つの注文を出している。すなわち、資産運 用に当っては、直接利益が加入者いな広く国民に十分に還元されるこ とが必要であるとしている。 わたくLが巻頭で述べたように、相互会社の問題は、会社自治の問 題よりは、むしろ、利益配当の問題にある。そしてその場合には、費 差益や利差益の配当に問題があると指摘した。費差益については、外 務の問題が中心となるのであるが、利差益については、いうまでもな -50- 相 互 会 社 論 く、資産の運用が問題となる。そして、資産の運用については、国民 生活審議会の答申にもある如く「投機にはしることなくその経済的効 率性を高める」ことが必要であるが、審議会はこれに加えて「消費者 に直接利益が十分還元されること」を要請しているのである。そしてこ の利益の還元は「資産運用の一形態として事業を営む場合にもその事 業を通じて」実現すべきだとしている。そこで、この事業が問題にな るのであるが、これに関連して想起されるのは、さる48年3月5日の 衆議院予算第二分科会で展開された安井吉典議員の質疑に対する安井 前保険部部長の答弁である。それによると、資産の運用については安 全性もさりながら国民福祉の向上にも役立つようにしてほしい。損害 保険会社は消防自動車などを地方自治体に寄附しているが、生保会社 も健康が増進すればもうかるのだから、健康を保持するための施設、 たとえば病院だとかその他の施設のために、また現在の健康保険は赤 字でこまっているのだから、こういった方面に資金を活用することは できないか、といった質問に対して、 「生命保険会社におきましても たとえば生命保険会社に財団をつくりまして、健康管理のためにレン トゲン車を購入して契約者の便宜をはかったり、いろいろ施策を構じ ているわけでございます。いまの先生のご指摘の健康保険そのものの 対策にまで使うことができるかどうか、少し問題があろうかと思いま すけれども、一般的には先生のご指摘のような健康管理の増進という ことには保険会社の方も給付金その他で処理をしているようでござい ます。 」 (2)と答えている。事実、たとえば日本生命では48年度の剰余 金については、その99.3%は社貞配当に当てているが、その残りの8 億9千757万のうち6億1千万円は社会厚生福祉事業助成資金に当て 病院その他にこれを使っているのである。 ところで、こうした保健施設への運用ということについては、特に -51 - 相 互 会 社 論 アメリカ生保界では括発な動向を示していることを忘れてはならない0 すなわち、保健施設への寄附は1965年から69年にかけては2,150万ド に達し、 70年には年間510万ドルが寄附されている。しかも最近では 単にこうした寄附だけではなく、たとえば病院債の引受など投融資と いう形で強化され、 1970年6月現在ではかかる投融資は22億4千100 万ドルに達している。またアメリカ生保協会のエコソミスト、ライト 博士は、生保会社の経営的側面には三つの社会的責任があるのであり、 「その第-は、契約者または株主に対する責任である。この場合、生 保会社は、危険を回避し、安全性の原則の範囲内で最大の収益を目標 とする資産の運用を展開する必要がある。第二は、地域住民に対する 責任である。すでに生保会社は、こうした観点から地域の慈善団体や サービス機関に対する資金援助・病院・学校・文化センターなどに対 する建設資金の提供を行なっている。さらに第三は、国家的レベルに おけるより広範な責任であり、最近は生保会社にこうした責任の履行 を求める声が強まりつつある。こうした社会的責任の履行の顕著な事 例として、生保会社によるスラム再開発に対する20億ドルの融資計画 があるが・-・-・ (中略) -・---これは、生保会社の社会的責任の履行 という観点からは画期的なものといいえよう」 (3)と述べる。そして、 州法による投資の規制のほかに、公共性とさらに社会性をライトは強 張するのである。ここに公共性というのは地域住民に対する公共政策 をいい、社会性というのは、 「公共性よりも広い社会的要求であり、 具体的には投資規制やその他の政治の規制にはまだ盛り込まれていな いものをいう。もっとも社会性は公共政策の前提となるものであり、 社会性と公共性の間に一線を画することは非常にむつかしい」とも述 ベている。 a これを要するに、公共性とか社会性は、単に社月の福祉以上に地域 -52- 相 互 会 社 論 住民の、さらに広く国民の福祉に役立つことを目標にしているとみて よく、アメリカの一部の生保会社の間では公害間膚のクローズ・アッ プとともに、公害発生企業に対する融資制限、融資に際しての公害防 止対策条項の付帯、無公害工業地帯への融資実行など公害防止をめざ す投融資活動の展開のなかに.これをみることができるo しかも、これらの活動は、公害防止債の生保会社の引受などを通じ て金融面からの協力が示され、また、 1969年の生保協会の都市再開発 計画すなわちスラム再開発計画に当っての10億ドルの融資の場合にみ られるごとく生保会社の共同事業として展開されていることを見失っ てはならない。 (5) 前述の水島論文が、現状改善のための提案のなかで、生保資金の公 共的運用の強化を主張し、またその福祉的運用を強調しているのは、 まさにかかる傾向に同調しての主張といってよく、 「このような国民 的視点にたつ公共的運用の強化によって生ずる運用利廻り、したがっ て利差益の低下が生じたとしても、それが究極的には契約者である国 民の制的上に貢献する」(6)ことになるとしているが、全くわた( L も同感である。そして相互会社の経営は、会社自治、社員参加そのこ とよりは、国民福祉に役立つことを通じて行われる場合始めてその目 的に到達するのであり、かかる考え方に立てばこそ、わたくLは前述 のように評議員制を重視するのである。 〔1974・7月〕 亀(1)水島論文、 242頁。 (2)生命保険協会会報 第54巻第1号91頁。 (3)堺雄一「アメリカ生命保険事業ゐ発展と革新(Iの四)」同上、 35頁。 (4)同上。同上。 (5)同上、 29頁。 (6)水島論文244頁。 -53-