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時の黄金を求めて - Meiji Gakuin University Institutional Repository

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時の黄金を求めて - Meiji Gakuin University Institutional Repository
明治学院大学機関リポジトリ
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
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時の黄金を求めて ―ブルトンとプルースト
齊藤, 哲也
言語文化(32): 17-38
2015-03-31
http://hdl.handle.net/10723/2821
Rights
Meiji Gakuin University Institutional Repository
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
0
0
0
齊 藤 哲 也
私はこういう馬鹿げた告白が好きである。あのころはキュ
わば﹁失われた=無駄にした時間﹂の体験談であった。
じ じ つ、 書 物 の 前 半 で 赤 裸 々 に 告 白 さ れ る の は、
﹁ 私 ﹂の い
味をふたたび見出す。
ったような仕方で、書くことの意味を、そして生きることの意
わ ち あ る 晩 の こ と ⋮⋮﹂
︶に 遭 遇 し、 と つ じ ょ 思 っ て も み な か
ル ト ン が、 ま っ た く 予 想 も し て い な か っ た あ る 出 来 事︵
﹁すな
(ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
「失望は、探究または習得の基本的な契機である。」
時の黄金を求めて ― ブルトンとプルースト
失われた=無駄にした時
0
アンドレ・ブルトンの﹃シュルレアリスム宣言﹄
︵一九二四︶
が、記憶をテーマとした自伝であることは自明であるが、その
ことはあまりにも自明すぎるのか、ほとんど指摘されることが
ない。まずは、すみやかに﹁自伝﹂の方から確認していこう。
語であった。︱︱つまり、書くことができない、そして書くこ
ビスムの疑似詩が根をおろそうとしていたのだが、それは
この書は、だいたい次のような筋書きをもつひとりの男の物
とに信頼を置くことができなくなったひとりの男、すなわちブ
17
た、私はどうだったかといえば、雨のように退屈な男とし
っ た 文 学 の 現 実 の せ い か も し れ な い が、 い ず れ に せ よ 文 学 は
れは﹁私﹂の才能のせいかもしれないし、﹁広告﹂に堕してしま
意味を見失い﹁士気喪失﹂の暗闇におちこんでしまうのだ。そ
て と お っ て い た︵ い ま も と お っ て い る が ︶
。 そ の う え、 詩
一九二三年四月、ブルトンは﹁もうなにも書かないだろう﹂と、
﹁私﹂が進むべき道ではないことはどうやらあきらかなようだ。
ピカソの頭脳から無防備なまま出てきたものにすぎず、ま
的見地からして、じぶんはまちがった道をたどっているの
まわりに宣言するまでにいたる︵ ︶
。
ではないか、と疑ってもいた。それでもなお、あれこれの
告における詩の応用をさぐるふりをしたり︵世界はひとつ
レアリスム宣言﹄と題される自伝は、あの﹁生はべつのところ
た=無駄にした時間をふりかえることからはじまった﹃シュル
しかし、ならばどうして、このようなけだるい口調で失われ
定 義 や 処 方 を ぶ つ け て 抒 情 に 立 ち む か っ た り︹ ⋮⋮︺
、広
の美しい書物によってではなく、地獄あるいは天国のため
にある﹂という力強い言葉でフィナーレを迎えることができた
のだろうか?
の美しい宣伝文によって終末をとげるだろう、と私は主張
︶
。
OC1, 324
つまりこういうことだ。︱ 書くことはもはやじぶんにいっ
さいの喜びをあたえるはずがない、と失望しきっていたひとり
していたのである︵
の男、ブルトンを、そんな失望からありえない仕方で救いだし、
0
そして書くことの意味を、さらには生きることの意味をふたた
0
い、このような失われた=無駄にした時間の経験が﹃シュルレ
生ぬるい倦怠感とともに、とりあえず生きられているにすぎな
び見出させるひとつのしるしが到来する︱ そのような驚異的
0
アリスム宣言﹄と題される自伝のいわばプロローグをなしてい
なしる しの到 来 を、﹁ 私﹂が じっさ い に身を も って生き た出来
0
る。ちなみに、この自伝の記述がフィクションではないことは、
事として物語ろうとするのが﹃シュルレアリスム宣言﹄と題さ
0
たとえば一九一九年四月に友人ルイ・アラゴンに宛てられた手
れる自伝であり、また、この自伝のなかでブルトンは、このよ
0
紙の内容からも確認されて、そこでブルトンは当時の失望感を
0
完全にあきらめきった風情でつぎのように語っている。
﹁ぼく
0
うなしるしこそを﹁シュルレアリスム﹂という一語で呼んでみ
0
0
せることにもなるのだが、あまり先を急ぎすぎるのは得策では
0
﹃シュルレアリスム宣言﹄は記憶をテーマとして書かれた自
0
にとって詩や芸術は目的であることをやめて︵広告の︶手段と
0
なる。/広告は手段であることをやめて目的となる。/︵芸術
0
ないだろう。
0
していた︶しながら、できるだけ賭け金をひかえるように
2
のための︶芸術の死。士気喪失︵ ︶
。
﹂マラルメやヴァレリーに
憧れて詩の世界に足をふみいれた若者は、こうして書くことの
1
18
時の黄金を求めて
を語る﹁私﹂の物語であることが確認されたいま、ここからは
た時間を炸裂させるように、とつじょ到来した驚異的なしるし
伝であるとすでに述べたが、この書物が、失われた=無駄にし
しかも通常の状態でのこの記憶は、夢の諸状況をかすかに
なによりもまずじぶんの記憶にもてあそばれるからであり、
ゅうぶんだった。というのは、人間は、眠りをとめたとき、
のちがいが見られることは、いつも私をおどろかすのにじ
っているときの出来事とのあいだに極端な重要度、深刻度
0
この書のテーマとなっている﹁記憶﹂の方を確認することにし
0
0
夢 が い と な ま れ て い る︵ い と な ま れ て い る と み な さ れ る ︶
おなじく別の箇所でも、記憶にたいする不信が苛立ちを隠せ
ないといった風情でつぎのように綴られている。
︶。
317
ぎない希望や気苦労を出発させてよろこぶからである︵ OC1,
じている場所から、その唯一の決定因を、つまりあのゆる
0
うばいさり、じぶんでは数時間まえに夢をすててきたと信
しか思いおこさせず、夢から現勢的な一貫性をことごとく
よう。問題とされるのは、はたしていかなる記憶か。
決まりきった記憶
不思議なことにこれまで指摘されてこなかったが、
﹃シュル
レアリスム宣言﹄は一種の﹁記憶論﹂
︵あるいは﹁時間論﹂
︶とし
て 書 か れているテクストなのである。
﹁シュルレアリスム﹂と
いえば、そのかたわらに﹁夢﹂や﹁無意識﹂といった言葉があた
かもそうするのが自然な振る舞いであるかのように並べられて
0
きたが、この書が論じているもっとも重要なテーマは、なによ
0
0
0
かぎりでは、どこから見てもそれは連続しているし、まと
りもまず、記憶にほかならない。
0
まった組織体の形跡をとどめている。ただ記憶のみが、不
0
じ っ さ い、 こ の 書 を ぱ ら ぱ ら と め く っ て い く だ け で﹁ 記 憶 ﹂
0
という言葉が頻出するさまがすぐに確認されるのだが、しかし
0
当にも夢をばらばらに切りはなし、場面のつなぎなどは考
0
慮のほかに、夢そのものよりもむしろ、いくつかの夢のシ
0
あらかじめ述べておくと、この言葉はブルトンにおいて、すべ
0
て、例外なく否定的な意味合いで用いられることになる。たと
リーズを私たちに見せているのだ︵
さき ほど私 は﹃ シ ュルレ ア リスム 宣 言﹄と はあ る種 の﹁記憶
論﹂
︵あるいは﹁時間論﹂︶として書かれているテクストである
︶。
Ibid.
えば、つぎのような﹁夢﹂が論じられる一節を読み直してみよ
う。
ふつうの観察者にとって、目覚めているときの出来事と眠
19
と 断 言 し た が、 も し か す る と、 つ ぎ の よ う に 首 を 傾 げ る 読 者
も な か に は い る か も し れ な い。 す な わ ち、 い ま 確 認 し た ふ た
つ の 文 章 を み る か ぎ り、 そ こ で 中 心 的 な テ ー マ と な っ て い た
助けを求めるということであった、記憶というものはまこ
︶
とに消えやすいし、概して信用のおけぬものなのである︵ 。
は、
﹁ 記 憶 ﹂と い う 問 題 で あ る こ と。 さ ら に 正 確 を 期 す る な ら
﹃シ ュ ルレア リ スム宣 言 ﹄を はじめと
ま ず 第 一 点 目 と し て、
する一九二〇年代の文章でブルトンがくりかえし論じているの
記憶にたいする不信が、まえの二つの引用文に負けず劣らず
あからさまに綴られている。
︱ ここで二点の確認をしておき
の は﹁ 夢 ﹂の 方 で あ っ て、
﹁ 記 憶 ﹂は そ れ と の 関 連 で と お り が
では﹃シュルレアリスム宣言﹄ではなく、グループ誕生いぜん
﹁記憶の怪しさ﹂という問題であること。
たい。
に﹁シュルレアリスム﹂という言葉が使用されることで有名な、
かりに触れられているにすぎない二次的なテーマではないか、
一九二二年の﹁霊媒の登場﹂と題されるテクストを引用するこ
に、 も う ひ と つ だ け ブ ル ト ン の 文 章 を 引 用 し て お こ う。 こ こ
とにする。しかも、まさしく﹁シュルレアリスム﹂という一語
実 と い う、 外 見 は い か に も あ い い れ な い 二 つ の 状 態 が、 一 種
周知のとおり﹃シュルレアリスム宣言﹄と題される書物にお
いては、夢の問題が主題的に論じられている。﹁私は、夢と現
んこれはたんなる偶然ではない。
﹁ シ ュ ル レ ア リ ス ム ﹂に 話 を 戻 す な ら、 私 は こ の と こ ろ、
の絶対的現実、こういってよければ一種の超現実のなかへと、
0
この領域に意識的な要素を侵入させ、それをはなはだ限定
0
された人間的、文学的意志のもとに置いてしまうのは、そ
だが、そうなると﹁シュルレアリスム﹂といえば﹁夢の世界﹂だ、
いつか将来、解消されてゆくことを信じている﹂
︵
0
れをますます稔りの少ない開発に委ねるに等しいと考える
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
というあのクリシェもまったく根拠を欠いているわけではない、
0
関心を失ってしまっていた。これと同じ考えから、私はじ
0
ということになるだろうか。しかし、そもそも、なぜ夢が論じ
0
られなければならないのだろうか︱ まさしく問われるべきだ
0
ぶんの関心のすべてを夢のレシに向けようという気になり、
0
似たような様式化を避けるために、これを速記によって得
ったのは、これまで完全に看過されてきたこの問いにほかなら
0
ようと思いついた。残念なのは、この新しい試みが記憶の
︶
。
OC1, 319
ようになっていた。私はそういうやり方にたいして完全に
読みかえしてみよう。
が書きつけられる決定的に重要な場面を、いまこそあらためて
つぎに第二点目として、記憶を論じたこれらすべての文章に
﹁夢﹂という言葉が同時に書きつけられていたこと。
︱ もちろ
と。︱ し か し そ う で は な い の で あ る。 要 点 を ま と め る ま え
3
20
0
0
0
か の 相 対 的 な 満 足 を え ら び と る だ ろ う。︹ ⋮⋮︺だ が、 そ れ ま
くなってしまったとき、私はいさぎよく、人並みに、いくばく
0
ないのである。
0
ではちがう!︵ ︶
﹂
︵﹃シュルレアリスムと絵画﹄︶
0
すでに引用した三つの文章からも自然と了解されるように、
ブルトンが問題にしている﹁夢﹂とは﹁記憶﹂ではないものを指
し示すための言葉であることはあまりにも明白である。夢は記
憶のいわば裏面をなし、あるいは記憶の彼方を指し示すものだ
からこそ、かくも執拗に言及されているのだ。すなわち﹁なぜ
ところでブルトンにおける﹁記憶﹂あるいは﹁記憶の怪しさ﹂
という主題に関連して、ここでもうひとつ急いで指摘しておか
とつぜん戻ってきた思い出
なければ な らない こ とがあ る。
﹃ シ ュルレ ア リスム 宣 言﹄にお
夢が論じられなければならないのか﹂といういま提出した問い
にたいする答えはある意味で単純きわまりないもので、それは
0
﹁記憶というものが怪しいから﹂という一言に尽きるものである。
0
いて﹁記憶﹂という言葉が例外なく否定的な意味合いで使用さ
0
れていることはすでに確認済みだが、一見するところ奇妙なこ
0
いいかえるなら、記憶が怪しいと思われるからこそ、夢に︵も︶
とに、それといわば近しい関係にあると思われる語彙、つまり
とになるのだ。これをどのように考えるか。
﹁思い出﹂については、逆に肯定的な意味合いで使用されるこ
関心をむけてみる、という論理がそこに成立しているのであっ
もしかりに、ここできわめて乱暴に﹁シュルレアリスムとは
夢の世界だ﹂というクリシェにそのまま同意するふりをしなが
0
0
0
0
0
0
0
シュルレアリスムにのめりこむ精神は、昂揚とともに、じ
ら、﹁夢﹂という言葉と﹁シュルレアリスム﹂という言葉をここ
0
ぶんの子供のころの最良の部分をふたたび生き直す。それ
0
ろ み に イ コ ー ル で 結 ん で み る な ら、 こ の﹁ シ ュ ル レ ア リ ス ム
0
=夢﹂が対立するのは、まずなによりもさきに、テクストの論
0
はなにか精神にとって、いましも溺死しようとしていると
0
きに、じぶんの人生の乗り越えがたい部分のすべてを、ま
0
理から考えて、
﹁記憶﹂であると考えなければならないだろう。
0
たたくまに思いおこしてしまうひとの確信のようなもので
0
一 言 で いえば﹃シュルレアリスム宣言﹄が語っている﹁シュル
あ る。︹ ⋮⋮︺子 供 の こ ろ や そ の 他 の あ れ こ れ の 思 い 出 か
0
レアリスム﹂とは、記憶ではない思考のあり方を思考すること
らは、どこか買い占められていない感じ、したがって道を
0
以外のなにものでもないのである。ブルトンはほかのところで、
0
つぎのような語り方をすることにもなるはずだ。
﹁私の想像力
はずれているという感じがあふれてくるが、私はそれこそ
0
がじぶんの殻にとじこもり、もはや私の記憶と一致するしかな
21
4
て、その逆ではいささかもないのだ。
時の黄金を求めて
が世にもゆたかなものだと考えている︵
︶
。
OC1, 340
の セ リ ー を は り め ぐ ら せ て い く こ と に な る。 そ れ に た い し て
はともかくとして、ブルトンにおいて﹁記憶﹂はいつも信頼の
人生﹂という言葉を唐突に書きつけることになるのだが、それ
と い う よりは﹃見出された時﹄のプルーストを思わせる﹁真の
が成立してしまうことになるのだろうか⋮⋮。
働﹂と結びつくという、一見するところ不自然なカップリング
供のころ﹂と結びつき、たいして﹁記憶﹂の方は、
﹁現実﹂や﹁労
これはどういうことか。なぜ﹁想起=思い出﹂は、
﹁夢﹂や﹁子
えにいわばネガティヴな極のセリーをかたちづくることになる。
こ と に 同 意 し た か ら で あ り ⋮⋮﹂︶と 結 び つ き、 テ ク ス ト の う
﹁ 記 憶 ﹂の 方 は、﹁ 現 実 ﹂や﹁ 労 働 ﹂と い っ た 言 葉︵﹁ か れ は 働 く
置けない怪しいものととらえられているのにたいして、いわば
こ の 引 用文の直後でブルトンは、
﹃地獄の一季節﹄のランボー
そ の 記 憶 の 牢 獄 か ら 人 間 を 救 済 す る 力 能 を そ な え た、 特 別 な
﹃シュルレアリスム宣言﹄において
す で に確認したとおり、
は﹁記憶﹂にたいする﹁夢﹂という対立が存在する。しかし、こ
か問題を整理しておきたい。
る人間の思考のあり方なのだが、それを確認するまえにいくつ
るのである。要するに﹃シュルレアリスム宣言﹄と題されるテ
憶﹂に縛りつけられたままのものであるからこそ否定されてい
の 方 は、﹁ 想 起 ﹂と は ま る で 無 縁 な も の で あ り、 あ く ま で﹁ 記
ものとみなされ、逆に﹁想起﹂となにがしかの関係があると考
ぜなら前者の﹁夢﹂の方は、まずなによりも﹁記憶﹂に対立する
すなわち、ブルトンのいうシュルレアリスムとは、一般的に
の対立の背後にはさらに大きな対立が前提されており、それは
ク ス ト を 読 み 解 く う え で、 そ こ に 前 提 さ れ て い る﹁ 記 憶 ﹂ /
そう考えられているように﹁夢か現実か﹂という二者択一を問
﹁記憶﹂にたいする﹁想起﹂という対立にほかならない。そして
﹁想起﹂という対立を念頭に置くことはきわめて重要なのである。
﹁思い出﹂が肯定的に語られることになる。このブルトンが語
この﹁記憶﹂/﹁想起﹂という対立を核として、それぞれの極
題にしているわけではいささかもない、ということである。な
に、いわば肯定的な価値をもつ語彙と否定的な価値をもつ語彙
ここで補助線として、ブルトン以外の書き手のテクストを参照
当てることにしよう。じっさい記憶と想起とは、本性的に異な
とが配分され、テクスト全体を織り上げていくことになるのだ。
しながら、問題点をさらに整理する努力をしてみよう。
る﹁思い出﹂に、以下では場合におうじて﹁想起﹂という訳語を
まず﹁思い出﹂がもつ特別な力の方は、すでに確認したとお
り﹁夢﹂や、さきほどの引用文にあったとおり﹁子供のころ﹂と
そしてこの想起の力を﹁夢﹂や﹁子供のころ﹂や、さらに驚くべ
﹁ 記 憶 ﹂の 怪 し さ に た い し て 特 別 な﹁ 想 起 ﹂の 力 を 信 頼 し、
えられて い るから こ そ肯定 さ れ、 そ れにた い し後者 の﹁現実﹂
いう言葉と結びつき、テクストのうえにいわばポジティヴな極
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時の黄金を求めて
0
0
0
0
ど こ の 種 の 無 関 心 を 引 き 起 こ す︹ ⋮⋮︺。 と こ ろ で、 い く
いた数々の想起=思い出がそのとき驚くほど正確に再び現
0
きことに﹁いましも溺死しようとしている﹂ひとという例外的
珍しくもない観察事実である。消滅させられたと思われて
つかの夢や夢遊病状態における記憶の﹁高揚﹂は、決して
れる。われわれは、完全に忘れられていた幼年時代の光景
0
状況に結びつけてしまうブルトンの議論。このような議論は、
析とはきわめて異質な問題系をめぐっている。あえて思想史的
0
あらためて確認されるまでもなく、たとえばフロイトの精神分
な系譜に位置づけようとするなら、それは、たとえば記憶をめ
のあらゆる細部を再び体験し、学んだことさえもはや覚え
0
ていない言葉を話すのである。しかし、この点で、溺れた
0
ぐるアンリ・ベルクソンの哲学ときわめて近しい関係にあるも
人や首を吊った人における突然の窒息において時に生じる
0
のだといえるだろう。たとえば、それ自体で存在する過去の問
こと以上に有益なものは何もない︵ ︶
。
0
題を論じた﹃物質と記憶﹄の第三章で、この哲学者はつぎのよ
0
うな特別な﹁想起=思い出﹂の場面を問題にしていた。
0
0
0
0
0
0
0
0
﹁無関心﹂や﹁学びなおし﹂
︵﹁学んだことさえもはや覚えてい
ない言語 を 話す﹂︶とい っ た、 一 九二〇 年 代のブ ル トンにお け
0
大部分の子供における自然発生的な記憶の並はずれた発
達は、子供たちがまだ自分の記憶を自分の振る舞いと連帯
0
るキーワードが山のように盛られたテクストであるが、とりあ
0
︶ 要 す る に﹃ シ ュ ル レ ア
え ず そ の こ と は 脇 に 置 い て お こ う︵ 。
0
させていなかったことにまさに起因する。子供たちは普段
0
は目下の印象を辿っており、彼らにおいて行動が想起の指
0
リスム宣言﹄の著者が、記憶の妨害によって夢を思い出すこと
0
0
0
0
0
0
0
がむずかしいとくりかえし語るとき、そこで前提とされている
0
0
0
0
のは、たとえば夢が意識によって﹁抑圧﹂を被るというフロイ
れわれが有効な行動に関心を持たないすべての場合に、わ
こ そ ブ ル ト ン に お い て も、 そ れ は 信 頼 の 置 け な い 怪 し い も の
動 ﹂に、 つ ま り﹁ 現 在 ﹂に 縛 り つ け ら れ た ま ま で あ る、 だ か ら
つまり、ベルクソンがそう考えたように、人間の記憶は﹁行
ト的発想ではないのだ。そうではなく問題は、記憶というもの
0
︹ ⋮⋮︺わ れ わ れ の 過 去 は、 現 在 の 行 動 の 必 要 性 に よ っ て
0
の本性そのものにかかわっている。
0
れわれの過去は意識の識閾を飛び越える力を取り戻すだろ
だ、ととらえられているのである。逆にブルトンにおいて、な
あるのだとすれば、いわば夢の生活のなかに戻るためにわ
0
抑制されているため、ほとんどその全体が隠されたままで
の必要性に制限されていない。
0
示に従わないのと同様に、逆に彼らの想起=思い出も行動
5
う。自然のものであれ人工的なものであれ、睡眠はちょう
23
6
0
0
0
0
0
0
ベルクソン的ないい方をするならば、
﹁まったく純粋な現在の
0
0
0
0
なかで生きること﹂を指していると考えていい。つまり、その
ぜ﹁夢﹂や﹁子供のころ﹂が熱のこもった語調で賞賛されるのか
0
といえば、それはもちろん現実逃避やノスタルジーではいささ
0
対極にある生き方とされるブルトンの﹁夢みるひと﹂とは、も
0
かもなく、それらが現在には縛られていないある特別な︿時間﹀
きてしまう︶者の謂いなのだ。
っとも簡単にいうなら、﹁現在﹂ではない︿時間﹀を生きる︵生
0
を噴出させるものだ、と考えられているからにほかならない。
0
まただからこそ、ブルトンの語る﹁想起﹂は、
﹁夢﹂や﹁子供の
0
0
ここで肝心なのは、たとえばベルクソンの哲学をかたわらに
置いてみることで見出される、ブルトンのテクストのあらたな
0
出しの一文は示唆的である。
﹁生への、生のなかでもいちばん
読みの可能性に尽きている。
0
ベルクソンの哲学を参照しながら、しかし、ここで議論した
いのは影響関係ではない。もっといえば、ブルトンの議論がは
不確実な部分への、つまり、いうまでもなく現実的生活なるも
これまで﹃シュルレアリスム宣言﹄は、奇妙なことに、文学
の技法あるいは理論を論じた書物であるかのように読まれてき
0
たしてベルクソン的と形容できるものであるかどうかも、まっ
の へ の 信 頼 が こ う じ て ゆ く と、 最 後 に は そ の 信 頼 は 失 わ れ て
たが、しかし、この書で提起されていた問いは、単純にまった
0
いう例外的状況ともかくも自然に結びついてしまうのだ。
︱
こ ろ ﹂の み な ら ず、
﹁ い ま し も 溺 死 し よ う と し て い る ﹂ひ と と
﹃シュルレアリスム宣言﹄が、ある種の﹁時間論﹂として書かれ
たく二次的な関心にすぎないといえる。
しまう。人間、この決定的な夢みるひと
く﹁別﹂であり、ある意味でもっと﹁深い﹂ものではなかっただ
0
たテクストであるとは、このような意味においてである。
こ こ で 語 ら れ て い る﹁ 夢 み る ひ と ﹂と は、 端 的 に い っ て、
﹁行
ろうか。
じっさいこの観点で﹃シュルレアリスム宣言﹄の名高い書き
動 ﹂す なわち﹁現在﹂の軛から解放されたひと、というベルク
0
﹂
︵ OC1, 311
︶
。
rêveur
0
ソ ン 的 な 意 味 で 理 解 さ れ な け れ ば な ら な い 語 彙 だ ろ う。
﹁過
もっとも単純にいえば、ブルトンが提起しようとしているの
は︿書くことの倫理﹀をめぐる問いにほかならない。ここまで
0
去のなかで生きることの楽しさのために過去のなかに生きる
0
人 は、 行 動 に ほ と ん ど 適 応 し て お ら ず、 そ の 人 に お い て、 想
の議論に照らして具体的にいうなら、
﹃シュルレアリスム宣言﹄
0
の著者にとっては、たんに子供や溺れたひとのように、ある特
0
起=思い出は現在の状況の利益となることなく意識の光に照ら
0
別な想起を﹁生活﹂において経験できればそれで十分というわ
0
さ れ て 浮 か び 上 が る。 そ れ は も は や 衝 動 的 な 人 で は な く、 夢
0
みるひと
0
けでも、あるいは哲学者ベルクソンのように、そのような想起
0
で あ る︵ ︶
。
﹂要するに、ブルトンがかれの書物
rêveur
の冒頭で﹁現実的生活なるものへの信頼﹂と語っているものは、
7
24
時の黄金を求めて
問題とは、かりに記憶の牢獄を打ち破る特別な想起というもの
そうではなく、ブルトンがなんとか語りだそうと努力している
の存在を﹁知的﹂に知ればそれで満足というわけでもなかった。
だが、いまのところ漠然と予感されているにすぎないこのよ
うな問題を具体的に確認するには、フロイトでもベルクソンで
ない。
える努力もせずに、ただ空振りにおわっているといわざるをえ
振りといって片づけてしまう怠惰な批評は、問題の所在をとら
題意識においてであり、それをいわゆる﹁前衛的﹂な反抗の身
0
が存在するのだとして、ならばそのような驚異的といえる出来
も、 あ る い は ほ か の 哲 学 者 で も な く、
︿ 書 く こ と の 倫 理 ﹀を 究
0
なのである。
︿書くこと﹀
︱ これを場合によっては﹁文学﹂の
事を、今度はいかにして書くことに接続できるか、という問い
極まで押し進めた作家マルセル・プルーストをいまこそこの場
0
問いと呼んでもいいだろうし、あるいは、この言葉を嫌ったシ
に召喚し、ブルトンのテクストとじっさいに突き合わせてみな
0
ュルレアリストたちの言葉にしたがうなら﹁ポエジー﹂の問い
を経験できればそれで十分というわけではなかったはずである。
はそのことをきわめて大雑把に確認しておこう。
しかに共有していたように思われる。本題に入るまえに、まず
﹁記憶の怪しさ﹂というブルトン的主題を、プルーストもた
真理がはじまるのは
ければならないだろう。いわば異なる二つの対象の接近から、
0
といいかえてもいい。
はたしていかなる閃光がほとばしることになろうか。
0
ところで、かなり唐突にこの名前を喚起することが許される
なら、おそらくマルセル・プルーストが考えぬいた問題も、こ
のような︿書くことの倫理﹀をめぐる問いではなかっただろう
か。 お そ ら く プ ル ー ス ト の 小 説 に 登 場 す る﹁ 私 ﹂に と っ て も、
かれにとっても問題だったのは、そのとき遭遇した強烈な﹁想
たとえば不揃いな敷石につまずいて、ある種の啓示的な出来事
起 ﹂の 力 を、 今 度 は い か に し て 書 く こ と に、 つ ま り﹁ 文 学 ﹂の
プルーストにおいても、記憶というものは否定的にとらえら
れている。かれの自伝的小説においても、この言葉は、たとえ
0
問いに接続できるか、という問題ではなかっただろうか。また
ば﹁いわゆるスナップショット﹂という言葉と結びつけられた
0
だからこそプルーストにおいては、そういう問題に気がつくこ
0
とすらできない文学はむなしいものとされ、はげしい語調で批
0
判されることにもなるのではないだろうか。
トにされたりしながら︵ OC4, 450
︶、ブルトンとおなじように
え ら れ た り︵
り︵
︶
、 あ る い は﹁ 決 ま り き っ た ﹂と い う 形 容 詞 を 添
OC4,
446
︶
、 さ ら に は﹁ 知 性 ﹂と い う 言 葉 と セ ッ
OC4, 448
ブルトンが﹃シュルレアリスム宣言﹄においてある種の文学
を批判的に語ってみせるのも、プルーストとまったくおなじ問
25
クタクル﹂にすぎないとされる。それにたいして﹁思い出=想
このよ うにプ ル ースト に おいて は﹁ 記 憶﹂と いう 言葉 は﹁意志
ところでプルーストにおいて、記憶は信頼の置けない怪しい
ものととらえられているのにたいして、いわばその記憶の牢獄
起﹂の方は無意志的なものだとされ、後に確認するように、そ
0
0
0
0
0
0
0
0
もうひとつ議論を先取りしておくなら、ブルトンが﹃シュルレ
0
ア リ ス ム 宣 言 ﹄で 問 題 に す る の も、 ま さ し く こ の 種 の 特 別 な
0
的﹂という形容詞と結びつけられ、それが見させるのは﹁スペ
から人間を救済する力能をそなえた、特別な﹁思い出﹂が︱
いは﹁ヴィジオン﹂だと語られることになるだろう。ついでに、
れが見させるのは、スペクタクルならざる﹁イマージュ﹂ある
否定的な意味合いで用いられているからである。
なるのだ。奇妙な一致といわざるをえない。たとえば、つぎの
ブルトンとまったくおなじように︱ 肯定的に語られることに
ける﹁記憶﹂/﹁思い出﹂の対立がもっとも鮮明に描き出され
﹃見出された時﹄からの引用文は、そのようなプルーストにお
ざまな感覚の違いを確認していた。けれども、記憶は同質
力を必要とするものではない。私の記憶は、おそらくさま
ができるし、それは私たちにとって絵本をひもとく以上の
意志的な記憶のもたらすスペクタクルなら長引かせること
においたこのだまし絵は、長つづきしなかった。なるほど、
けれども、現在と両立できない過去の一瞬を私のかたわら
しかし、右に引用した文章の内容に注目しながら、この問題を
プルーストにとってもけっして無縁な結論ではなかったはずだ。
ほかでもなくタイトルに﹁時﹂を冠した小説の著者マルセル・
的レスポンスについてはすでに確認済みである。しかもこれは、
ろうか。記憶が﹁現在﹂に縛られているから、というブルトン
だが、そのまえに、なぜプルーストにおいてもブルトンにお
いても﹁記憶﹂は信頼の置けない怪しいものとされているのだ
マージュ﹂の到来と分かちがたく結びつくことになる。
もブルトンにおいても、ある特別な﹁想起﹂は、ある特異な﹁イ
﹁イマー ジュ﹂の存 在 となる は ずであ る。プ ル ーストに おいて
の諸要素を結びつけることしかしなかったのだ。ところが
また違った角度から考察することも可能である。
ている語りのひとつではないだろうか。
が異なり、そこでは私の自我についてますます自分の気に
今しがた頭に浮かんだ三つの思い出の場合は、もはや事情
と い う の も、 プ ル ー ス ト に よ れ ば、 記 憶 の 不 十 分 さ、 そ れ
が﹁決まりきった﹂ものとならざるをえない本質的な理由とは、
ないからだ、ということになる。そうであるならば、逆に考え
記憶というものが﹁同質の諸要素を結びつけることしか﹂でき
入るような観念を作るのではなく、かえって私は今そこに
あるこの自我の現実性をほとんど疑うばかりだった︵ OC4,
︶
。
452
26
時の黄金を求めて
0
0
さ れ る も の で は な い は ず だ。 そ れ ど こ ろ か、﹁ 人 生 と 同 様 に ﹂
0
て、プルーストにおける記憶にたいする想起の優位とは、後者
0
という表現ひとつとってもあきらかなとおり、ここで議論され
0
て い る の は、
︿ 書 く こ と ﹀す な わ ち 文 学 の 問 題 が、 生 の 問 題 と
0
その力能にこそ存している、と考えていいのではないか。ある
に内在する︵同質ならざる︶異質の諸要素を結びつけてしまう
いかに接続しうるか、という倫理的な問い以外のなにものでも
書室で﹁私﹂がじっさいに生きた特別な想起を、今度はいかに
ないはずである。具体的にいうなら、ゲルマント家の中庭や図
して書くことによって、創造するとはいわないまでも、救出す
特別な想起は、まったく無関係な二つのものを、とつじょあり
じじつ、この﹁記憶﹂/﹁想起﹂という対立的図式から、か
る︵
﹁時間の偶然性から守る﹂︶ことができるのか、という問い
えない仕方でひとつに結びつけてしまう、というのだ。
れの特異な﹁文体論﹂がじかに導き出されることにもなるだろ
二つの対象を美しい文体の必然的な環のなかに閉じこめた
る因果律にも似た芸術の世界における関係である︱ その
係を提示し︱ それは科学の世界における唯一の関係であ
始まるのは、作家が異なる二つの対象をとりあげてその関
物を次々と果てしなく並べることはできる。しかし真理が
喩から生まれることはできず、多かれ少なかれたがいにへだた
ていた。﹁イメージは精神の純粋な創造物である。/それは直
ェルディによる詩論である。ルヴェルディはつぎのように書い
リスム宣言﹄に引用されたことで有名な、あのピエール・ルヴ
むずかしいのではないか。すなわち、ブルトンの﹃シュルレア
作家の文体論と突き合わせてみる誘惑に抗うことはどうしても
だが同時に﹁異なる二つの対象﹂の接近に焦点を当てている
このプルーストの文体論を、ほぼ同時代に書かれた、また他の
が問われているのである。
う。
ときでしかないだろう。いやそればかりか、真理も人生と
った二つの現実の接近から生まれる。/接近する二つの現実の
なるほど一つの描写のなかで、描かれる場所にあらわれる
同様に、二つの感覚に共通の性質を比較し、この二つの感
関係が遠く、しかも適切であればあるほど、イメージはいっそ
これらふたつの文体論にして隠喩論の奇妙な類似あるいは一
致をいかに考えるべきか。この点については、プルースト研究
だろう﹂
︵ Reverdy cité par Breton, OC1, 324
︶。
う強まり︱ いっそう感動の力と詩的現実性をもつようになる
覚を時間の偶然性から守るために、これを互いに隠喩のな
︶
。
OC4, 468
かで結びつけて、共通の本質をそこから引き出すときにし
か始まらないだろう︵
読まれるとおり、作家の﹁文体﹂が論じられている名高い一文
であるが、しかし、ここでの議論はたんに美学的な問題に還元
27
は な い ﹂は ず で あ る︵ ︶
。 だ が、 む し ろ 注 目 す べ き は、 一 見 す
ストをルヴェルディのような前衛的発想に近づけても間違いで
係を議論の焦点にすえている点だけに着目するならば、プルー
在なのは、プルーストが考えぬいたような﹁人生の問い﹂
︵湯沢
発想﹂の持ち主であるルヴェルディやブルトンにあくまでも不
あると結論することは可能だろうか。いいかえるなら﹁前衛的
れをそのままプルーストとブルトンとの共通点ならびに差異で
のあいだに確認される共通点ならびに差異をシフトさせて、そ
であった。ならば、いま確認したプルーストとルヴェルディと
るところ奇妙にも似かよってみえるプルーストとルヴェルディ
者の湯沢英彦氏が指摘しているように﹁二つの異なるものの関
の隠喩論のあいだに存在する、看過しえないへだたりの方なの
英彦︶であると結論することは可能だろうか。
に 裏 打 ちされている﹂のにたいして、
﹁ルヴェルディの議論の
ェルディの名前を挙げながら、つぎのような注釈を加えていた
としている﹂ひとの特別な想起を問題にする直前の部分でルヴ
である。なぜならかれは、先に引用した﹁いましも溺死しよう
ブルトン自身に聞いてみよう。結論からいうなら答えはノン
だ。 な ぜ な ら﹁ 明 ら か に 違 う の は︹ ⋮⋮︺プ ル ー ス ト に お い て
場合、人生のなんらかの経験に参照を求める発想はない﹂から
として論じられている、そしてその点にこそ、ほぼ同時代に書
は端からそうすることなど問題にならない、人生の経験の問題
プルーストにおいては、技法化することなどできない、あるい
ィにおいては文学の技法として論じられているものが、他方で
﹁ 関 係 性 の美学﹂を確認できるが、しかし、一方でルヴェルデ
意 志 的 に 接近させることができるとは思われない。接近
しておくとしても、彼のいわゆる﹁二つの異なる現実﹂を、
こ こ で か り に、 私 の よ う に、 ル ヴ ェ ル デ ィ の 定 義 で 満 足
や 人 間 の ほ う か ら よ び お こ さ れ る も の で は な い。
︹ ⋮⋮︺
るイマージュとおなじようなことがいえる。つまり、もは
シュルレアリスムのイマージュについては、あの阿片によ
からである。
かれたこれらふたつの文体論にして隠喩論をへだてる決定的な
︶。
OC1, 337
このようにブルトンは﹁二つの異なる現実﹂の接近を、詩を書
というだけのことで、それがすべてである︵
はおこなわれることもあるし、おこなわれないこともある
にしたのは、ほかでもなくブルトンの﹃シュルレアリスム宣言﹄
イナーな雑誌に発表されたこのルヴェルディの詩論を一躍有名
と こ ろ で、 す で に 述 べ た こ と だ が、
﹃ 南 北 ﹄と い う い わ ば マ
差異が存在する、ということになるだろう。
ィにおいても、二つの異なるものの関係に議論の焦点をすえる
もっとも簡単に語るなら、プルーストにおいてもルヴェルデ
である。
︱ この点は重要だ。
は、﹁ 隠 喩﹂というレトリックの必然性が実存的な水準の経験
8
28
のも、二つの異なるものの接近、すなわちプルースト的ないい
いして、なかば興奮ぎみに真っ向から異を唱えている。という
くための技法として涼しい顔で語ってみせるルヴェルディにた
ディ、ブルトンのあいだに、もし一本の切断線を引くことがで
だがそうなると、それぞれの仕方でそれぞれの﹁関係性の詩
学﹂を論じている二十世紀初頭の作家、プルースト、ルヴェル
とであらためて検討されることになるだろう。
在しないと断言してもいい。しかしこの点については、またあ
きるとすれば、それは﹁後衛﹂プルーストにたいする﹁前衛﹂ル
0
ディに たいす る︵﹁ 前衛﹂でも﹁後衛 ﹂でも な い︶プ ルース ト=
0
方をするならば﹁隠喩﹂の到来は、ブルトンにおいても主体的
ととらえられているからにほかならない。
ブルトンという図式が私たちのまえに浮上することにならない
0
なはたらきかけがいっさい無効となるような、暴力的な出来事
ここでブルトンは、異なる二つの現実を﹁意志的に接近させ
ることができるとは思われない﹂と消極的に語っているが、む
ルーストがそう語っていたように、それとは﹁もはや事情が異
いながら、ここでブルトンが問題にしようとしているのは、プ
とばしらない。したがって、このような安易な解決の誘惑に抗
少なかれ﹁同質なもの﹂でしかないはずだ。そこには閃光はほ
にとっても﹁もはや人間のほうからよびおこされるものではな
思っているような印象﹂と語っていたものは、この私ブルトン
るなら、プルーストがかれの本のなかで﹁私の定着させたいと
のプルーストの言葉を、いま確認したブルトンの言葉に接続す
ると消えてゆくほかはない﹂とも語っている︵
ヴェル ディ= ブ ルトン と いう図 式 で は なく、﹁前 衛 ﹂ル ヴェル
0
しろそれは、あまりにも容易すぎる解決だからこそ、そうなの
か。 じ じ つ プ ル ー ス ト は、 ブ ル ト ン と お な じ よ う な 語 り 口 で
0
だ と 考 え る べ き だ ろ う。 な ぜ な ら、 二 つ の 現 実 を﹁ 意 志 的 に ﹂
享受しようとしても生み出すことのできないもので、直接ふれ
﹁私が定着させたいと思っているような印象は、じかにこれを
0
接近させるには、たんに﹁記憶﹂に頼りさえすればいいからで
0
ある。しかし、そうして接近させられた二つのものは、多かれ
な﹂る出来事なのだ、と考えなければならないだろう。︱ す
い﹂と思われる、そんな対話が成立することにならないか。
0
0
﹃シュル レ アリス ム 宣言﹄におい て 議論さ れ ている、いわ ゆ
︶。こ
OC4, 456
なわち、この引用文の数行あとですぐさまあきらかにされるよ
0
る﹁関係性の詩学﹂は、ルヴェルディ的というより、まさにプ
0
う に、﹁ 私 ﹂に は あ く ま で 制 御 で き な い、
︵記憶ならざる︶
﹁想
起﹂の力を、今度はいかにして書くことに接続することができ
0
ルースト的と呼ぶべき文体論にして隠喩論なのだ。つまりブル
0
るのか、という問いがここで問われようとしているのである。
0
ト ン が 議 論 の 焦 点 に す え て い る の は、 書 き う る も の の 美 学 で
0
︿出来事﹀と︿書くこと﹀をめぐる困難な問いをまえにしたプル
は な く、︿ 書 く こ と ﹀
︱ 場合によっては、書きえないものを
29
0
ーストとブルトンとの問題機制のあいだに、本質的な差異は存
時の黄金を求めて
︿書くこと﹀
︱ そのものにまつわる倫理にほかならない。じぶ
胡散臭いものにしてしまうこの種の特異な出来事であった。そ
すなわちプルーストの言葉でいえば﹁文学﹂に、そしてブルト
してこの出来事との遭遇こそが、かれらを︿書くこと﹀に︱
はたらく。かれらがともに問題としているのは、たんなる﹁き
ンの言葉でいえば﹁ポエジー﹂に︱ むかわせる強制力として
んには縁遠い社交界を舞台とした小説をのこした作家である
た﹂という、ブルトンの晩年のインタヴューの言葉は、まさし
が、それでも﹁人間プルーストにたいして強い魅力を感じてい
︶ しかも﹁作
く文字どおりに受けとめられるべきものだろう︵ 。
暴力的な出来事であろう。なぜなら、そのとき﹁私﹂は﹁書く﹂
っかけ﹂ではなく、まさしく﹁強制力﹂と呼ばれるにふさわしい、
0
品﹂ではなく﹁人間﹂の魅力という語り方は、
﹃ナジャ﹄におけ
主体というよりも、むしろなにかによって﹁書かされる﹂存在
0
るユイスマンスやユゴーへの言及ぶりからもあきらかなように、
て断言してみせるのはそのためである。
にする芸術はどこまでいってもむなしい行為だ、と口をそろえ
`
になってしまっているはずだからである。ある特異な出来事の
ひきおこす結果などにはかまわず伝えてくれているし、ありあ
0
﹁どれだけかれに感謝していいかわからない。というのも、か
まう。
︱ プルーストやブルトンが、﹁記憶﹂や﹁知性﹂を頼り
出来によって﹁私﹂は思考することを強いられ、書かされてし
まる詩人たちのようにそんな苦境を愚かしく﹁歌う﹂ことをせ
プルーストやブルトンに︿書くこと﹀を強いた強制力として
の出来事は、しかし、当然かれらが﹁書きうる﹂対象とはなっ
0
れは最悪の苦境にあってさえ、その苦境の外でじぶんにかかわ
ずに、じぶんがいまも生きてあるのはなぜか、だれのためにと
てくれない。出来事はかれらに︿書くこと﹀を強いる力として
0
0
か語り 出そう と 努力し て いる 出来 事 は、﹁人 生の 経験﹂と呼 ば
0
対象ではないからである。そのような意味で、かれらがなんと
出来するが、しかし、かれら︵人間?︶によって﹁書かれうる﹂
もおぼつかぬままに語る者であるのはなぜかということの、す
確信にも似た喜び
の存在を揺るがした力としての出来事を、そのまま掌握し直す
れ る も の と は 明 確 に 区 別 さ れ な け れ ば な ら な い だ ろ う。﹁ 私 ﹂
ことなどできないし、いわんや、そこらに転がっている事物や、
0
文学の理論や技法など、もうどうでもいいと呟かせてしまう、
ある啓示的な出来事。ブルトンやプルーストの﹁私﹂が、ある
0
とき思ってもみなかったような仕方で遭遇してしまったのは、
それらをまえにしたときに抱かれた﹁私﹂の心理のように描写
0
そりと、数えあげてくれたのだから!︵ ︶
﹂
こしも意識されていない些細な理由までも、辛坊づよく、こっ
0
ってくるすべてのことを、じぶんの心をうばうかぎりのことを、
0
ブルトンにとっては最大級のオマージュの捧げ方なのである。
9
主体としてのかれらをはげしく揺さぶり、その存在をとつじょ
10
30
時の黄金を求めて
のものという印象のもとに私をおきざりにしたので、私は
0
することなどできないが、しかし少なくとも、それが﹁私﹂に
しいものに思われ、そして私はもはや、じぶんのなかでお
それまでじぶんにたいしてふるっていた支配力などはむな
こなわれている際限のない争いに終止符をうつことだけし
0
もしれない。
︱ プルーストやブルトンの﹁くねくねと蛇行す
およぼした効果ならば、なんとかして語り出すことができるか
る文章﹂
︵
か考えなくなった︵ OC1, 325
︶
。
︶を 動 か し て い る の は、 こ の よ う な︿ 出 来
OC1, 331
事﹀と︿書くこと﹀をめぐるきわめて困難にみちた問いである
その人生の経験を跡づけることからはじまる自伝であった。と
﹃シュルレアリスム宣言﹄
本 稿 の は じ め で 確 認 し た よ う に、
と題される書物は、著者ブルトンの失われた=無駄にした時間、
返してくれたこのしるしは、その数をふやしたがっているかの
かも、ブルトンを失望から引き出して︿書くこと﹀への信頼を
﹁じぶん ﹂の こ と自体 が、も う どうで も よくな っ てしま う。し
で抱えていた文学への失望どころか、そんな失望を抱いていた
と考えていい。
ころが、じぶんの文学的才能の存在について、また文学そのも
ように﹁次からつぎへと﹂押し寄せてくる、というのだ。あと
0
0
ある特異な﹁イマージュ﹂が不意に到来すると同時に、それま
0
0
のの現実について悲観的な考えを反芻しながら﹁ある晩のこと﹂
はこれらのしるしに導かれるがままになればいい。さあ、お前
0
眠りにつこうとしていた﹁私﹂に、とつじょ﹁窓ガラスをたた
にその力があるのだったら、通りがかりに私をつかまえてごら
0
くような﹂知らせが訪れる。百年のあいだ探しても見つからな
んと、このしるしは語りかけてくる⋮⋮。しかし、ここで注目
0
いだろうと思われるような窓が不意にひらいてしまったかのよ
す べ き は、 イ マ ー ジ ュ の 内 容 と い う よ り、 こ の イ マ ー ジ ュ が
0
うなのだ。すなわちこの瞬間、未来にかんするいっさいの不安、
0
それまで﹁私﹂を悩ませていたいっさいの知的な疑惑は、まる
﹁私﹂にお よ ぼした 効 果の方 で あろう。とい う のも、 ここで ブ
0
で魔法にかかったようにすっかり消えてなくなってしまう。
0
0
0
0
とって﹂という主観など、もうどうでもよいものにしてしまう、
く、逆に、私の生活の﹁私の﹂を急に胡散臭いものにし、﹁私に
私にとって豊かにしてくれた人生の経験などではいささかもな
0
ルトンがなんとか語り出そうと苦労しているのは、私の生活を
だとさとり、それにたいしてこうして信頼を寄せたとたん、
暴力的でありかつ啓示的な出来事であったからである。
私はかなりめずらしい型のイマージュを相手にしているの
さらにそのあとをうけて、次からつぎへと、なかなかとぎ
ところで、プルーストの﹁私﹂に到来したのも、ブルトンの
` ` `
れることのない一連の文句がつづいてきた。それらも、ほ
とんどまえのものにおとらず私をおどろかせ、なにか無償
31
確認事項がまだいくつかあるだろう。
さかも過言ではないわけだが、そう結論するまえに、残された
すでに確認した﹁記憶﹂と﹁想起﹂との本性的な違いを問題にす
それとまったくおなじ効果をもたらす暴力的な出来事であった。
る一文で、プルーストもつぎのように書いていたからである。
もしかすると、つぎのような反論が寄せられるかもしれない。
すなわち、ブルトンが﹃シュルレアリスム宣言﹄で問題にして
方プルーストが﹃見出された時﹄で問題にしているのは、かつ
ジュ︵
﹁かなりめずらしい型のイマージュ﹂︶の到来であり、一
いるのは、かつて﹁私﹂が経験したことなどない特殊なイマー
ところが今しがた頭に浮かんだ三つの思い出の場合は、も
て﹁私﹂がた し かに経 験 したこ と のある 過 去︵コン ブ レーや ヴ
煩を厭わず、いま一度引用することにしよう。
ぶんの気に入るような観念を作るのではなく、かえって私
ェネツィア︶のよみがえりである、そしてこの点にこそ、新奇
はや事情が異なり、そこでは私の自我についてますますじ
は今そこにあるこのじぶんの現実性をほとんど疑うばかり
なイマージュの量産をつうじて﹁未視のもの﹂を追求していっ
た﹁前衛作家﹂と、じぶんの過去の経験の真実を理解する努力
だった。
0
0
0
をつうじて﹁既視のもの﹂を救い出そうとした﹁後衛作家﹂との
0
プルーストとブルトンが、それぞれ遭遇した特異な出来事は、
0
明確な差異が存在するのではないか、と。︱ しかし、このよ
0
うな違いはたんに見かけ上のものであって、本質的な問題では
0
おなじではなく、まったく無関係なふたつの出来事であるが、
0
しかしこれらの特異な出来事は、まさしくほかに置き換えられ
0
いさかもない、と躊躇わずに断言することができる。
0
ないその特異性によって激しく共振しあっている。プルースト
0
たしかに、ついさきほど引用した文章でプルーストは、ゲル
マント家の中庭や図書室でかれの脳裡に浮上した特殊なイマー
0
れた人間︱ ブルトンが﹃シュルレアリスム宣言﹄のなかで語
0
が語る﹁じぶん﹂の﹁今そこにある現実性﹂からとつじょ解放さ
0
0
ジュを﹁三つの思い出﹂という言葉で語っていた。しかし思い
0
出そう、プ ル ースト が ここで 問 題にし て いる﹁思 い 出=想起 ﹂
0
る﹁超現実性﹂とは、まさしくこのようなプルースト的な意味
0
における、人間の時間の秩序からの解放であると理解されなけ
は、たとえば﹁旅行の思い出﹂や﹁学生時代の思い出﹂といわれ
0
0
ればならぬわけが、この点についてはまた本稿の最後であらた
0
0
るときのような一般的な意味を大掛かりに逸脱する、ある特異
0
0
な出来事を指し示すための言葉であった。じじつ、おなじ作家
0
め て 確 認 す る こ と に し た い。 逆 に い え ば、 プ ル ー ス ト の﹁ 私 ﹂
0
が垣間見た﹁見出された時﹂とは、まさしくブルトン的な意味
0
は、おなじ作品のなかで、問題の﹁思い出=想起﹂を、ブルト
0
におけるシュルレアリスムのヴィジオンであるといってもいさ
32
時の黄金を求めて
ン と ま ったくおなじ語彙をつかって﹁喚起されたイマージュ﹂
は、
﹁ 書 き う る ﹂対 象 と は な り え な い、 あ る い は 事 物 や 心 理 の
ように描写することなど端から問題とならない、純然たる出来
事 に 属 し て い る。﹁ 出 来 事 ﹂と は い っ て も、 だ か ら そ れ は、 派
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
手な見世物や、人目をひくアクシデントの類とはまったく無関
であるとか︵ OC4, 445
︶
、あるいは﹁目のくらくらするような、
しかし判然としないヴィジオン﹂であるとか︵ OC4, 446
︶
、さ
0
らには、ブルトンの文章からの引用だといわれてもまったく違
0
係なもの、さらにいえば、その対極にあるものと理解されなけ
0
和感のないような言葉づかいで﹁人がいよいよ眠りこもうとす
0
ればならない。それどころか、思い出そう、プルースト的出来
0
る瞬間﹂
、不意に到来した﹁言うに言われぬヴィジオン﹂といっ
0
のであった。じじつ、それは、ほかでもなく異常なまでに短く、
0
事とは、主体にまなざす時間などいっさいあたえてくれないも
0
︶
、この﹁思い出=
OC4, 454
0
た 表現 で何度もいいかえながら︵
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
﹁長つづきしない﹂ことによってこそ特徴づけられるものであ
0
想起﹂の出来事としての特異性をなんとか語り出そうと努力し
0
て い た こ と は 周 知 の と お り で あ る。 こ れ を ブ ル ト ン の 表 現 に
0
るとされていた。﹁私の存在には、ふだんは絶対にとらえられ
0
ならって、思考における﹁自動的なもの﹂の暴力的な介入、と
0
ないものを獲得し、それだけを切り離して固定することが︱
なったのだ。すなわち少しばかりの純粋状態の時間を﹂
︵ OC4,
、強調引用者︶
。
451
奇妙な一致と思われるかもしれないが、ブルトンにおいても、
0
閃光のようにほんのちょっとのあいだにすぎないが︱ 可能に
じように﹁閃光﹂という言葉でしか語りえないものとされるだ
0
い い か え る こ と す ら で き る だ ろ う。 い ず れ に せ よ プ ル ー ス ト
どういうことか。
ろう。
﹁異なる二つの現実﹂を﹁意志的﹂には接近させることは
0
の﹁私﹂が不意に遭遇したのは、かれがかつて経験したコンブ
ある特殊な﹁想起=思い出﹂の浮上と切り離すことのできな
い出来事としての﹁イマージュ﹂あるいは﹁ヴィジオン﹂。それ
できないと断言したうえで、ブルトンはつぎのようにつづけて
レーでもヴェネツィアでもなく、絶対的にあたらしいかたちと
にたいしてプルーストにおいては﹁意識的な記憶﹂がもたらす
いた。
0
0
0
0
0
0
0
なった︿時間﹀のイマージュなのだ、と考えなければならない。
ものは、すでに確認したように、たんなる﹁スペクタクル﹂に
0
0
0
0
0
0
0
0
0
かれを不意に襲撃した特異なイマージュは、プルーストとおな
す ぎ な い と さ れ て い た。 ス ペ ク タ ク ル は 知 覚 可 能 な 対 象 で あ
り、したがって、その気になれば描写することも不可能ではな
0
0
二つの項のいわば偶然の接近から、ある特別な光、イマー
0
い人生の経験に属している。それにたいしてプルーストが﹃見
ジュの光がほとばしったのであり、私たちは、これにたい
0
出された時﹄で語り出そうとしているイマージュやヴィジオン
33
り﹁一﹂と数えることすらできない、さらにいえば、いかに精
しているのは、ある特別な︿時間﹀の噴出だからである。つま
巧なストップウォッチをもってしてもけっして測定すること
0
などできない、いわば﹁時間の外﹂にあるような特異な︿時間﹀
。
0
してかぎりなく敏感なところを見せている。イメージの価
ころで、私の思うに、これほどかけはなれた二つの現実の
値 は、 得 ら れ た 閃 光 の 美 し さ に か か っ て い る︹ ⋮⋮︺
。と
す な わ ち、 ブ ル ト ン や プ ル ー ス ト が そ れ ぞ れ の 自 伝 の な か で
0
0
が問題にしているイマージュとは、詩についていわれるような
にかかわる出来事なのである。さらにいいかえるなら、かれら
0
﹁イマージュ﹂と呼んでいるものは、ある特別な︿時間﹀の噴出
接近をあらかじめ用意するというのは、人間の権能に属す
、
﹁イマー
OC1, 337-338
ることではない。連想の原理も、私たちの見るかぎりでは、
その接近とあいいれないものだ︵
ジュの光﹂以外の強調は引用者︶
。
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
﹁文彩﹂でも、絵画についていわれるような﹁かたち﹂でもない、
0
なぜこのような﹁イマージュの光﹂がほとばしるのか、その原
ということだ。そうではなく、イマージュと時間には絶対的な
0
同一性がある︱ それがプルーストならびにブルトンがそれぞ
0
因はわからないし、またどのようにしたらこのような﹁特別な
れの仕方で見出した、真に独創的な発想であろう。何度でもく
一 方 プ ル ー ス ト の﹁ 私 ﹂は、 ブ ル ト ン と お な じ よ う に﹁ 喚 起
0
光﹂をほとばしらせることができるのか、そのメカニズムにつ
りかえそう、
﹃シュルレアリスム宣言﹄とはある種の﹁時間論﹂
された イマー ジ ュ﹂の﹁ くらく ら する光 の 印象﹂になか ば浸り
0
いても皆目見当がつかないが、しかしそれはじじつ﹁ほとばし
として書かれている文章なのだ。
いわば凄みが伝わってくる。いずれにせよ﹁人間の権能に属す
ながら、つぎのように自問していた。
0
った﹂のだ、と過去完了形で綴るブルトンの言葉からは、この
ることではない﹂出来事を論じているこの書物が、どうしてこ
0
種の出来事を身をもって生きてしまった人間にしか語りえない、
れまで文学の技法を論じた理論書であるかのように評されてき
とされる﹁イマージュ﹂の到来は、
﹁閃光﹂という言葉でしか語
お い て もプルーストにおいても、
﹁ある特別な光﹂をともなう
はとりあえずおいておくとしても、なぜ、そもそもブルトンに
どうでもよいものにしてしまうような喜びを、どうして私
た喜び、そして他の証拠も何もないのに、それだけで死を
れぞれの瞬間に一つの喜びを私に与えたのか、確信にも似
でも、なぜコンブレーとヴェネツィアのイマージュは、そ
たのか、私としては完全に理解に苦しむところであるが、それ
りえないものとされるのだろうか。
︱ なぜなら、かれらがお
に与えたのであろうか︵
︶
。
OC4, 446
なじく﹁閃光﹂という言葉を用いながらなんとか語り出そうと
34
時の黄金を求めて
0
0
夢と現実という、見かけではいかにもあいいれないこれら
0
この問いこそが決定的に重要であろう。すなわち、プルースト
0
の二つの状態が、一種の絶対的な現実、こういってよけれ
0
の﹁私﹂を﹁喜び﹂で満たしたのは、かつて経験し知覚したコン
ことを私は信じている。それを掌握することこそが私のめ
ば一種の超現実のなかへと、いつか将来、解消されてゆく
0
ブレーやヴェネツィアのよみがえりではない、ということだ。
︶。
OC1, 319
ざすところだ。そこまで行きつけないのはたしかだとわか
0
この喜びの原因が、過去の知覚にあるとはどうしても考えられ
0
ないからである。そうではなく、あるとき不意に到来した特異
0
ってはいても、私はじぶんの死などまったくどうでもよく
0
なってしまったから、それをわがものにする喜びをいささ
0
な イ マ ー ジ ュ = 出 来 事 に よ っ て、 過 去 と 現 在 は 継 起 的 に 流 れ
0
る時間の秩序を大掛かりに逸脱し、ありえない仕方で︱ ﹁通
0
か推算しないではいられない︵
0
常﹂の時間感覚においては不可能と思われるような仕方で︱
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
このブルトンの言葉に、挑発的な意図はいささかも含まれてい
共存してしまう。また、それによって﹁私﹂は、とつじょ﹁時
0
な い と 思 わ れ る。 文 字 ど お り 受 け と る べ き だ ろ う。 周 知 の と
0
間 の 秩 序から解放﹂され、不意に﹁超時間的な時間﹂を垣間見
0
てしまうことになるのである。だからこそ、プルーストの﹁私﹂
0
おり、 この五 年 後に出 版 される﹃シ ュ ルレア リ スム第 二宣言﹄
0
るいは﹁過去と未来﹂とが対立することをやめる地点という語
︵一九二九︶においては、
﹁夢と現実﹂のみならず、
﹁生と死﹂あ
は﹁それだけで死をどうでもよいものにしてしまうような喜び﹂
り方がされるわけだが、いうまでもなく、ここでブルトンが問
を味わうことになるのではないか。
こ こ で、 す で に 予 告 し て お い た 結 論 を 述 べ る と り あ え ず の
0
題にしているのは、対立する二項をぶつけて第三の道を探ると
0
準 備 が 整 っ た よ う だ。 す な わ ち、 迷 わ ず こ う 断 言 し た い と 思
0
う。
︱ ブルトンが﹃シュルレアリスム宣言﹄で語ろうと努力
0
いう、いわゆる弁証法的な思考ではいささかもないのだ。そう
0
ではなく、﹃シュルレアリスム宣言﹄の﹁私﹂が﹁シュルレアリ
していたのも、まさにこの﹁喜び﹂にほかならないのだ、と。
スム﹂の名のもとに﹁宣言﹂しているのは、﹁じぶんの死などま
というのも、ブルトンがこの書のなかで﹁シュルレアリスム﹂
という一語で呼んでみせたものは、ほかでもなく、このような
0
ったくどうでもよくなって﹂しまう﹁一種の絶対的な現実﹂の
0
特別な︿時間﹀が噴出する︵プルースト的な︶出来事であったか
0
探究、すなわちプルーストがかれなりの言葉で﹁見出された時﹂
0
らである。じじつ、この書のなかのもっとも名高い一文は、い
と呼んでいた︿時間﹀の本質を、これからも﹁見出すべき﹂もの
0
ま確認したような意味においてしか理解できないものだろう。
35
として探究しつづけていくことにほかならないのである。やが
てブルトンの墓碑銘ともされることになるつぎの名高い一文は、
まさしくこのような意味で理解されなければならない。すなわ
︶
ちブルトンいわく﹁私は時の黄金をさがしている︵ ﹂
︱ この
燦然と輝く時間=イメージこそが、シュルレアリスムと呼ばれ
るものなのだ。
0
シュルレアリスム宣言、あるいは、見出された時をこれから
0
も求めて。あるいは、まさにそれこそが﹁シュルレアリスム革
ることがもし正当であるとすれば、おなじくプルーストについ
命﹂と呼ばれるものにほかならないだろう。また、そう結論す
ても、しばしば語られてきたようないわゆる﹁ブルジョワ作家﹂
であるどころか、まさに真の、言葉の強い意味における︿革命﹀
の作家であったといわなければならない。
註
gée en OC1), pp. 309-346.
OC4), p. 273-625.
Marcel Proust, Le Temps retrouvé, repris dans Œuvres
complètes, tome IV, Gallimard, 1989 (réf. abrégée en
*右のテクストの日本語訳については、以下の既訳書を使用さ
せていただいたが、文脈におうじて訳語を変更させていただ
いたところがある。
ア ン ド レ・ ブ ル ト ン﹃ シ ュ ル レ ア リ ス ム 宣 言 / 溶 け る 魚 ﹄
巖谷國士訳、岩波文庫、一九九二年。
マ ル セ ル・ プ ル ー ス ト﹃ 見 出 さ れ た 時 Ⅰ ﹄
︵
﹃失われた時を
求めて十二﹄︶鈴木道彦訳、集英社文庫、二〇〇七年。
p. 7. C’est moi qui souligne.
︵ ︶
La lettre d’André Breton à Louis Aragon, datée
du 13 avril 1919 ; citée dans Louis Aragon « Lautréamont et nous », Les Lettres françaises, n. 1186, 1967,
︵
3
plus », Le Journal du peuple, 7 avril 1923.
︵2︶ Entretien avec Roger Vitrac : « André Breton n’écrira
︵
︶ André Breton, « Entrée des médiums » (1922), OC1,
ア ン ド レ・ ブ ル ト ン﹁ 霊 媒 の 登 場 ﹂
﹃ ア ン ド レ・ ブ
p. 275.
ル ト ン 集 成 6﹄巖 谷 國 士 ほ か 訳、 人 文 書 院、 一 九 七 四 年、
一三二 一三三頁。
︶ André Breton, Le Surréalisme et la peinture, Œuvres
complètes, tome IV, Gallimard, 2008 (réf. abrégée en
−
*以下のテクストから引用する場合には、 OC
という略号とともに、
巻号とページ数のみを記し、本文中に︵ ︶で挿入した。
たとえばアンドレ・ブルトン﹃シュルレアリスム宣言﹄の二ペー
ジ目から引用する場合は︵ OC1,︶
2となる。
André Breton, Manifeste du surréalisme, repris dans
Œuvres complètes, tome I, Gallimard, 1988 (réf. abré-
1
4
11
36
時の黄金を求めて
︵
︶ André Breton, Nadja, OC1, p. 650.
アンドレ・ ブル ト
ン﹃ ナ ジ ャ﹄巖 谷 國 士 訳、 岩 波 文 庫、 一 八 一 九 頁。 よ く
知られているようにブルトンは、一九二〇年にポール・ヴァ
レ リ ー の 紹 介 を つ う じ て、 そ の こ ろ﹃ ゲ ル マ ン ト の ほ う ﹄
の脱稿を急いでいたプルーストに校正補助のバイトとして
雇われることになるが、その直後、ときをおかずして、か
れはプルーストにたいして当時かれらが出していた﹃文学﹄
と題される雑誌に寄稿を依頼することになる。残念ながら、
あまりにも無謀といわざるをえないこのリクエストは、や
はり、当時多忙をきわめていたプルーストの関心を引くも
のではなかったようで、興味をそそるこのコラボレーショ
ンが実現することはなかった。ブルトンの方が﹁フラれた﹂
かっこうになる。この辺のやりとりについては、一九二〇
年十月二七日の日付がある、つぎのブルトン宛てのプルー
(1962), OC4, p. 1016.
︶ 湯沢英彦﹁﹁形式﹂の要請、人生の﹁記憶﹂
︱ 世紀転換期
におけるプルースト美学の位置﹂、﹃思想﹄二〇一三年十一
月︵一〇七五号︶、二二〇頁。
︶ André Breton, « Entretien avec Madeleine Chapsal »
︵
︵
8
ス ト の 手 紙 を 参 照 の こ と。 La lettre de Marcel Proust à
André Breton, datée du 27 octobre 1920 ; reprise dans
Michel Sanouillet, Dada à Paris, Flammarion (réim-
この一九二〇年の雑誌への寄稿依
pression), 1993, p. 609.
頼から、すでに確認した一九六二年のインタヴューでの発
言まで、ブルトンは生涯をつうじて、いわばブレることなく、
プルーストにたいして熱いオマージュを捧げつづけたとい
う事実をあらためて確認しておく必要があるだろう。
37
−
アンドレ・ブルトン﹃シュルレアリスムと絵画﹄
OC4), p. 352.
粟津則雄ほか訳、人文書院、一九九七年、一八頁。
︵ ︶
Henri Bergson, Matière et mémoire, édition critique
dirigée par Frédéric Worms, PUF, col. « Quadrige », 2010,
. ン リ・ ベ ル ク ソ
p. 171-172. C’est moi qui souligneア
ン﹃ 物 質 と 記 憶 ﹄合 田 正 人・ 松 本 力 訳、 ち く ま 学 芸 文 庫、
二〇〇七年、二二〇 二二一頁。強調引用者。
︵ ︶ 一九二〇年代のブルトンにおいてもっとも重要なキーワー
ドである﹁無関心﹂については、たとえば﹃シュルレアリス
ム宣言﹄や﹁現実僅少論序説﹂
︵一九二四︶を参照のこと。﹁ぼ
くは忘れる、ぼくが語っているのは、もうすでに忘れてしまっ
たこと。何からなにまで、ぜんぶ忘れてしまった、かつて
起こったうれしいことも、かなしいことも一切合切。無関
心だったこと以外はどれもこれも。無関心だけがすばらし
い︹⋮⋮︺。ぼくがじぶんの記憶に身につけさせようと必死
に 訓 練 し た の は、 ま さ に 無 関 心。 教 訓 な き 寓 話 ⋮⋮﹂
︵﹁ 現
実僅少論序説﹂︶
。﹁学びなおし﹂については、おなじく﹃シュ
ルレアリスム宣言﹄や﹃ナジャ﹄の名高い冒頭部分を参照し
て い た だ き た い。﹁ 事 実、 じ ぶ ん で は 意 味 を 忘 れ て い た 言
葉をシュルレアリスム的に用いるといったことも私にはお
こっている。それらの言葉の用いかたが、語彙の定義とぴっ
たり合っていることを、私はあとになってから確認するこ
とができた。この点から見て、ひとは﹁学ぶ﹂のではなくて、
もっぱら﹁学びなおす﹂にすぎないと考えられるだろう﹂︵
﹃シュ
ルレアリスム宣言﹄︶。
︶ Henri Bergson, op. cit., p. 170.ベ ル ク ソ ン 前 掲 書、
二一九頁。
︵
−
9
10
5
6
7
︵
︶ André Breton, « Introduction au discours sur le peu de
réalité » (1924), Œuvres complètes, tome II, Gallimard,
1992, p. 265.ア ン ド レ・ ブ ル ト ン﹁ 現 実 僅 少 論 序 説 ﹂、 前
掲﹃アンドレ・ブルトン集成6﹄二〇一頁。
11
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