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親密圏の始まり方/終わり方 Beginning and Ending of the Intimacy

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親密圏の始まり方/終わり方 Beginning and Ending of the Intimacy
Bulletin of Aichi Univ. of Education, 60(Humanities and Social Sciences)
,pp. 131―138, March, 2011
親密圏の始まり方/終わり方
中筋 由紀子
地域社会システム講座(社会学)
Beginning and Ending of the Intimacy
Yukiko NAKASUJI
Department of Regional and Social Systems, Aichi University of Education, Kariya 448-8542, Japan
親密圏の他者の死は、そうではない他者の死とは異
「誰か愛する者が死ぬと、私たちは胸を刺す無数の悔
なった、特別な体験として私たちに感受される。ジャ
恨を支払って生き残る罪をつぐなう。その人の死はそ
ンケレヴィッチは、これを「第二人称の死」と「第三
れがかけがえのないただ一つの存在であったことを私
1)
人称の死」 の違いとして捉えたが、第二人称の死は
たちに明かす。
それは世界のように広大なものとなる。
なぜ私たちにとってそれほど特別な体験となるのだろ
彼の不在が彼のために世界を無に帰せしめる。彼の存
うか。本論は、そこに二つの異なる理由が見いだせる
在が世界全体を存在させていたのである。
」
(Beauvoir.1964=1995:p140)
こと、それは親密圏の二つの異なる捉え方によるもの
であることを考察する。その違いはその社会における
従来の家族の基本的な絆のイメージの違いに由来する
「愛する者」
の死とは、
親密圏の他者の死であり、
ボー
ものであり、そのオルタナティヴとしての親密圏の可
ヴォワールはそのような死が、個人のかけがえのない
能性をも規定するものとなっていると考えられる。本
個性という「目くるめく真理」を明らかにするとしな
論はこの違いが、第二人称の死における困難を生み出
がら、一方で自らの母親の死については「そこから無
す折の、二つの異なったメカニズムとなっていること
理に身を引き離し」
、
「彼もほかの誰彼と同格の個人に
を考察する。
すぎなかったのだ」と述べている。これはジャンケレ
ヴィッチの言葉でとらえなおせば、
「第二人称の死」
0:第二人称の死の衝撃
の体験のつらさを「第三人称の死」と無理やり紛らわ
シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、
70歳になる自分
せようとした、とでも表現できようか。またジャンケ
の母親の臨終の様子を描いた文章の中で、次のように
レヴィッチは「第二人称の死」こそが自己の死を予示
2)
述べている 。
するものであると述べたが、ボーヴォワールはまさし
く、妹が葬儀の時に言った、母親の臨終に付き添った
「私にとって、母はいつまでも存在する人であり、い
体験についての次のような言葉を取り上げている。
つの日にか、いや近いうちに、母親が姿を消すのを見
ることになるなどとは一度も真剣に考えたことがな
かった。母の終焉は母の誕生同様、神話的な時の中に
位置していた」
「『たった一つの慰めは、私もいつかこうなるってこと
だわ。さもなければ、あんまりひどすぎる』
」
(Beauvoir.1964=1995:p148)
(Beauvoir.1964=1995:p24)
ボーヴォワールが鮮明に描き出したように、第二人
「神話的」という表現は、母親という存在が「私」
にとっては有限なものではなかったことを示す。母親
称の死は、
私たちにとって安住してきた世界を破壊し、
という親密な他者の存在は、
「私」のアイデンティティ
アイデンティティを揺るがせる体験となる。ボーヴォ
の成立の地平をなしていたのであり、それゆえにそれ
ワールは、母親の死を「つらい仕事」と述べたが、彼
が「私」の生より早く失われる有限なものであること
女自身が体験したように、それは死にゆく当人にとっ
が、頭では分かっていたとしても受容しがたいことと
てばかりではなく、それを見守る身近な人々にとって
されるのである。ボーヴォワールは母親の死を「愛す
もあてはまる。
しかし、第二人称の死はなぜ私たちにとってこれほ
る者の死」として一般化して次のように描き出す。
どの特別さを持つのだろうか。著者は
「記憶と親密圏」
― 131 ―
中筋 由紀子
という論文において、それを第二人称の死が生起する
以下では、それぞれを基本的な絆としてイメージした
親密圏という場の構造において考察した3)。現代社会
親密性がいかなるものであるかを、
各々見てゆきたい。
においては、私たちのアイデンティティを意味的に支
える地平が親密圏の中に囲い込まれているために、そ
のような親密圏の他者の死は、他にかわるもののない
2:対面的親密性
『親密性の変容』を著したギデンズにとって、親密
喪失となり、私たちの生きる意味を破壊し、私たちの
性とは当然のものとして、異性との一対一の関係性を
アイデンティティを不確かなものとしてしまうのであ
指すものであった。ギデンズはそれを、必ずヘテロセ
る。
クシュアルな関係性であるとは述べなかったが、それ
では、親密圏はどのように私たちのアイデンティ
がセクシュアルな対の関係性であることは、疑いない
ティを支える地平を与えているのだろうか。先の論文
ことであったと思われる。彼は『親密性の変容』とい
ではそれを、次のように二つの分析的に異なる位相に
う著作の多くの部分をセクシュアリティの議論に費や
捉えておいた。一つは、共有された記憶という形で、
しており、
「自由に塑型できるセクシュアリティ」の
私たちの生の個性を持った歴史を一貫したものとして
出現が、ロマンティック・ラブという関係性が含意す
支えている。もう一つは、一般的に都市化・手段化さ
るジェンダーの束縛から人々を解放し、
「純粋な関係
れた社会関係を生きる私たちにとって、親密圏はそう
性」の構築を可能にすると述べている。また彼は次の
ではない場所、それ自体が目的であることが保証され
ようにこうした変化について表現する。
た社会関係として、私たちの生きる意味や目的を承認
してくれる。
「親密な関係性は、公的領域の民主制と完全に共存で
しかしこの二つの位相は、どのような社会の親密圏
においても等しく見出されるのではなく、いずれか一
きるかたちでの、対人関係の領域の掛け値なしの民主
化という意味合いをともなうのである」
(Giddens.1992=1995:p14)
方がより基礎的なものとして位置づけられているので
はないだろうか。そしてそれは、近代家族を構築した
時の在り方の延長上に、親密圏が捉えられているから
対人関係が「民主化」される、というとき、そこに
ではないだろうか。そこで以下ではこれをまず、親密
はお互いが「自由で対等」であることが前提として成
圏を支える二つの質的に異なる基本的な絆のイメージ
立していなくてはならない。だからギデンズが親密性
として、考察し直してみたいと思う。
を基本的には一対の自立した大人の個人の間のセク
シュアルな関係であるとするのは、そうした親密性の
1:親密性の二つのイメージ
とらえ方から敷衍されるものなのである。
親密圏という概念は、
しばしば家族に代わって、
人々
一方、親子関係については、ギデンズはやはり親密
の基礎的な生やアイデンティティを支えるオルタナ
性が次第に重視されるようになっていくという傾向を
ティヴな社会関係を指す概念として用いられている。
見出しながらも、次のように述べている。
それは、家族があっても孤独であるとか、家族がいる
のに満たされない生活上、あるいはアイデンティティ
「子供時代は、人が大人としてそこから抜け出すため
の苦しみがあるなどの、プライベートな領域にかかわ
に努力しなければならない人生の一段階というより
る生きづらさをすくい上げ、扱うことを可能にした。
は,後にもっと自立した形で大人の世界に加わる心の
したがってこれを分析するのに、従来の近代家族内部
準備をその人にさせる時期であるように思える。しか
の社会関係に基づくイメージを用いることは、そうし
しながら親子関係は、大人の愛情関係と同じような形
た新しさを無効にしてしまうように見えるかもしれな
で崩壊していくため、通常はそうでないとはいえ、ほ
い。しかしながらここでは、あえてそうした言葉を用
かの関係性と同様、一人ひとりが解放されていかなけ
いてみたい。というのは、私たちは新しい親密圏を構
ればならない関係なのである。
」
(Giddens.1992=1995:p157)
築するにおいて、自分の社会が基礎的な絆として捉え
るイメージに拘束されており、そのことが新しい親密
圏において、第二人称の死を体験する際の困難を生み
すなわちギデンズによれば、いまだ自立した個人で
出すメカニズムを、規定していると考えられるからで
はない子供と親の関係は、情緒的な親密性を重視した
ある。
ものに変容するとしても、子供がいずれ自立して、自
ここで親密圏を構成する、質的に異なる二つの基礎
分で対等な親密性を築くための「心の準備」期間にす
的な絆のイメージを、
「対面的親密性」と「包摂的親
ぎないのである。したがってギデンズによるならば、
密性」と呼んでおこう。前者は、近代家族内部の関係
親密性とはお互い自立した個人の間にのみ、本来的な
としては「夫婦関係」からイメージされる絆であり、
形で成立しうるものなのである。私たちはこのような
後者は「親子関係」をイメージした絆の在り方である。
基本的な絆のイメージに基づく親密性を「対面的親密
― 132 ―
親密圏の始まり方/終わり方
いることを相手に本当に通じさせることができなく
性」と呼ぶことにしたい。
なったとしたら、また、自分の方でも相手が物事にど
3:絶えざる選択・別れのリスク
んな感じを持っているのか気にしなくなったとした
ところで上記のギデンズのような親密圏のとらえ方
ら、それでおしまいです。
』」
(Bellah.et.al.1985=1991:p122)
をした場合、実は記憶の共有ということについては、
困難になってしまう。したがって対面的親密性の基本
的な絆は、過去の歴史に根差すものではなく、常にそ
ベラーはこうした愛についてのとらえ方を、現代ア
の場その場のコミュニケーションの中で、相互に達成
メリカの個人主義の表れとしての「セラピー的態度」
される承認に基づくものとなる。
たとえばギデンズは、
と呼ぶ4)。
旧来の婚姻制度に保証されない同性愛者同士の親密な
関係性に、彼の言う「純粋な関係性」のより純粋化さ
「セラピー的態度が純粋なものになると、人間の関
れたかたちを見出すが、それは次のような「構造的な
係における一切の義務とコミットメントは否定され、
矛盾」を抱えているとする。
自己実現を果たした個人同士がオープンで率直、かつ
十分な意思伝達をおこなうだけでよいということにな
「今日の関係性は、かつての婚姻関係がそうであった
る。
」
(Bellah.et.al.1985=1991:p122)
ように、ある極端な場合を除けば、関係の持続が当然
視できる『おのずと生じていく状態』ではない。純粋
ベラーらがインタビューした対象者たちは、自らの
な関係性の示す特徴のひとつは、いつの時点において
幸福な結婚生活が持続していることについて、それが
もいずれか一方の思うままに関係を終わらすことがで
「自分の好みに合っているから」というような、個人
きる点にある。」
(Giddens.1992=1995:p204-204)
的な満足以上のものにそれを基礎づけることを拒否す
る。その理由をベラーは次のように述べる。
ギデンズによれば、
「純粋な関係性」を相手と築い
ている個人は、いつもどれくらいその関係にコミット
「なぜなら、彼らにとって―ほとんどのアメリカ人
するか、またそれはどのような条件においてかを、相
にとっても同じことだが―、神聖な自己の自由な選択
手と交渉し折り合いをつけながら関係しているのであ
に基づく結びつきのみが、唯一リアルな社会的結合だ
り、またそうしたことが首尾よくいっていたとしても、
からである」
(Bellah.et.al.1985=1991:p130-131)
場合によってはその関係が一方的に終わらされるかも
しれないリスクを常に負っている。なぜなら「純粋な
したがってベラーによれば、実際には夫婦が色々な
関係性」とは、対等な主体の自由な選択においてのみ
体験を共有してきたことを述べるとしても、そのよう
成立するものとされており、お互いの合意以外の婚姻
な共有された歴史が親密な関係性を基礎づけるものと
のような制度や家族に共有された歴史によっては、そ
してとらえられることは決してない。むしろ、今自分
の継続は保証されることはできないのである。
がこの関係を選択していること、
「これでいい(オー
ギデンズの議論では、特に純粋化された親密性にお
ケー)
」と見出し続けていることこそが、親密性のリ
いてのみ、このような問題性が見出されるようにも受
アルな絆となっているのであり、その裏にはいつでも
け取れるが、実際にはこのような傾向は、現代アメリ
解消できる自由を持っていることが、お互いに前提さ
カ社会においては制度的な婚姻関係にある夫婦の間に
れていなければならないのである。
したがって、
ベラー
も広く見出されるようである。たとえばベラーは、現
によれば、
こうした自立した個人相互の愛情の理想
(ベ
代アメリカ社会の個人主義についてインタビュー調査
ラーの言葉では「中心的な徳」)は、自分らしさを失
から考察を行った『心の習慣』において、次のような
う危険のある「わかちあい(シェア)
」ではなく、「コ
インタビュー対象者の言葉を取り上げている。
ミュニケーション」である。しかしながらギデンズの
いう「たがいに取り決めた自己投入」は、やはり時に
「
『何の努力もなしに愛のある夫婦生活を送りたいな
次のような負担感を与えることもある。
んて、そんなうまい話はあるもんじゃありません。愛
があるというのは素晴らしいことですが、黙ってても
「
『関係を常に取り決めて、折り合いをつけて暮らして
そんな生活がつづくわけがない。特別な人に出会った
いくのには、うんざりすることもあります。自分の努
といっても、その人は永遠じゃないということです』
」
力の成果を最終的に手に入れることができるような、
(Bellah.et.al.1985=1991:p127)
そうした安定した状態に一体たどり着けるのか疑わし
くなるのです。
』
」
「
『コミュニケーションが成り立たないと感じるよう
になったら、二人の関係は終わりです。自分が感じて
― 133 ―
(Giddens.1992=1995:p204)
中筋 由紀子
る。
たとえば、
日本における個人主義の在り方をベラー
4:包摂的親密性
らのようにインタビュー調査した分析結果において、
ところで、近代化が進んで夫婦家族的な理念が広
渡辺秀樹は次のように述べる。
まったとされているとはいえ、私たち現代日本に生き
る者にとって、近代家族の基本的な絆として、親子関
「家族にかかわって、何人かの人生を見てきた。家
係が見出されないことは、やはり奇妙に感じられるの
族は時に自己のアイデンティティのよりどころとな
ではないだろうか。ここで興味深い論点を提出するの
り、そしてまたときに自己のアイデンティティの基盤
は、フェミニスト法学者マーサ・ファインマンの議論
を奪う。どちらにしても人々の自己確認にかかわる基
である。彼女は勤め先の大学や州の条例検討委員会な
本的なシステムであるということができるだろう」
どにおいて、家族の基本的な関係を、異性(あるいは
(宮島他編2003:p225)
場合によっては同性)間の性関係だけに限定する一般
的なとらえ方に出会い、そのことにずっと抵抗してき
しかしここで取り上げられた「何人かの人生」にお
た。たとえば、大学での彼女の講義において、法的カ
いて、自己のアイデンティティの基盤として多く語ら
テゴリーとしての婚姻を廃止することを提案してみた
れている家族とのつながりとは、夫婦ではなく親子関
時の彼女の体験は次のようである。
係の方である。
ことにアイデンティティの基盤を奪う、
といったときにイメージされるのは、まさしく定位家
「私の『改革』案は、家族構成に関連する形式を打
族における親子関係なのである5)。例えば現代の子供
破するよりもはるかに急進的である。個人の親密性が
たちの抱える諸種の問題に、親に対する心理的・身体
私たちの社会と法文化の中でどう理解されているかと
的な癒しを通して取り組んできた鳥山敏子は、現代の
いう本質への問いかけである。わかりやすくするため
嫁姑問題が、かつての家制度におけるそれよりも良く
に、私は最初の質問に戻り、私が思う中核的、基本的
なっていないとして次のように述べている。
な家族関係とは何かを学生たちに明かす。
「『嫁と姑』問題の根底にあるものは、多くは母親が
『核となる単位を母子と定義する。
』
たいてい沈黙があり、少し笑い声が漏れ(信じられ
長男と精神的結合状態にあるところからおきているよ
ない、という意味か)
、そして最後は決まって『でも
うに思えてなりません。自分の夫との関係を作れない
それは性差別ではないでしょうか。男性が除外されて
姑たちが自分の息子をとりこみ子離れできず、いかに
深くすっかり同一化してしまっているかは驚くばかり
います。』という答えが返ってくる」
(Fineman.1995=2003:p18-19)
です」
(鳥山2009:p100)
彼女は、「母子という関係を『自然な』単位、ある
鳥山はいくつかの事例を通して、現代日本の家族に
いは家族単位の核とし、その基本単位を中心に社会政
おいて、夫婦関係に求められるべきアイデンティティ
策や法規を作るべきだと見なす」と述べる。彼女は、
の基盤が親子関係におかれているために、子供が自立
親密性を、
「男女間の性的な関係」あるいはそれに類
できなくなっていると指摘する。例えば、仲睦まじい
した性的な関係としてとらえる代わりに、
「ケアの担
夫婦に一見見えても、夫と妻の双方が、愛されなかっ
い手と受け手の間の世代的な関係としてとらえる」こ
た子供時代を埋め合わせるために、お互いを無意識の
とを提案するのである。しかしながらそれは教室の学
内にかつての親代わりとしてしまい、そのために自分
生の失笑を買うばかりではなく、上野千鶴子の解説に
の子供を子どもとしてかわいがることができなかった
よれば、性関係を異性愛中心主義的にとらえることを
り、あるいは一見子供をとても可愛がっているようで
批判するフェミニスト法学においても決して一般的な
いて、そうした子供時代の自分の寂しさや甘え不足を
議論ではない。ファインマンは、アメリカ社会におけ
癒すために子供を使ってしまっている場合があったり
る親密性のとらえ方への挑戦として、
性関係に代わる、
するという。子供時代に子供らしく生きられなかった
母子間の「ケア関係」を基礎とすることを主張したの
子供たちは、大人になり新しい家族を作って自らの子
である。
供を持っても、その子供を愛することができず、問題
しかし私たちにとって、母子関係が家族の核である
ことは全く抵抗ない当然の考え方に見えるのではない
を次の世代において再生産してしまうのであると鳥山
は述べている。
だろうか。むしろそれが社会の親密性についての一般
しかしそのようなアイデンティティにおける親子関
的理解に対する挑戦であることの方が不思議なことに
係の夫婦関係に対する優越は、決して問題を抱えた親
見えるだろう。なぜなら、親子間の関係は私たち現代
子だけのものではなく、広く一般に見出されるもので
日本人のアイデンティティにとって、夫婦の性関係よ
はないだろうか。実際彼女の事例にある、母親を息子
り基礎的なものとして位置づけられているからであ
と夫が取り合う事例などは、普通、よくあることだと
― 134 ―
親密圏の始まり方/終わり方
感じないだろうか。子供が問題を抱えるのは、不和や
うとき、
「包摂的」であることの含意は、始まりや終
アルコール依存症、暴力などの問題を抱えた親によっ
りが意識されないことにある。
「包摂的親密性」
は、
「対
て育てられることによるのであり、そうでない場合で
面的親密性」とは異なり、主体的な選択によってはじ
も、やはり親子関係がアイデンティティの主要な基盤
めるものではなく、包摂される者の立場(子の立場)
であることには変わりないと思われる。
でみた場合、私たちは与えられた親密性において既に
ところで家族が自己のアイデンティティの基盤を奪
位置づけられた自己を生きている。
例えば私たちは「人
う、という形で語られるのは、アイデンティティが、
は一人では生きてゆけない」という言葉を当然の了解
主体的に構築してゆくものよりは、与えられた基盤の
として受け取るが、
これは「負荷のない自己」
「セルフ・
上に構築されるものとして、すなわち生得的・受動的
リライアントな個人」という、ベラーの言うアメリカ
なものとして捉えられているということである。親子
の個人主義の考え方からすれば、誤った依存性として
関係を基礎的な絆のイメージとする場合、個人は、自
捉えられるだろう。それが誤った依存性として捉えら
立的・主体的に自己の人生を構築してゆく部分にアイ
れるのは、包摂的親密性においては、その親密性がう
デンティティの基礎を置くのではなく、与えられた繋
まく成り立たないものになったとしても、それをお互
がりにおいて受容されることを、アイデンティティの
い自由に離脱することができないからである、例えば
基礎とすることになる。私たちはこのような親密性の
ベラーのインタビュー対象者は次のように述べてい
イメージを「包摂的親密性」と呼ぶことにしたい。
る。
ところでここでいくつか断っておかなくてはならな
い点がある。一つには、ここでいう「包摂的親密性」
「『
“恋している”状態はだれにとってもとても大事
とは、従来の日本の「家」社会において社会全般を覆っ
なことでしょう。
“恋している”状態でなくなってし
ていた多様な伝統的親子関係とは異なるものであると
まったら、もうどうしようもないのじゃないですか。
いうことである。ここでイメージされている絆は、従
いちばん簡単なのは、
そこを立ち去ってまた別の“恋”
来の「家」における役割としての親子ではなく、個人
を見つけることです。
』
」(Bellah.et.al.1985=1991:p125)
のアイデンティティを支える親密性に基づくものであ
る。したがって例えば隠居や養子縁組のような慣行は、
ベラーによれば、セラピー的な態度においては、相
こうした親密性の観念が一般化することによってか
手との関係に何か不満があり、コミュニケーションに
えって成り立ちにくくなる。その点では現代の親子関
よってそれが解決されない場合、正しい態度とはその
係は、むしろ強く血縁上の親子関係に閉ざされている
関係を去ることである。そうした関係の終りについて
といってもよいだろう。
は、相手も了承すべきだとされる。
また、「包摂的親密性」は、従来の「家」制度から
直接に、あるいはそこから順接的に成立してきたとも
「
『聞く方も心を開いて、相手の気持ちの変化を受け
考えない。例えば高度成長期などに、出郷者たちが家
入れるべきでしょう。人と人との結びつきはセメント
郷の共同体的社会関係をたった一人の異性の他者に象
のようなものではないと知っておくべきですね』
」
徴的に凝縮して捉えたような歴史的な段階があったと
(Bellah.et.al.1985=1991:p123)
思われるが、このことについては別に議論が必要であ
り、ここでは立ち入らない。
しかしこの関係を去るという問題の解決方法は、包
また、ここで述べる二つの親密性の観念は、一方が
摂的親密性においては適切なものではないとされてい
進んでいて他方が遅れているというようなものではな
る。例えばカウンセラーとして多く母と娘が抱える問
く、あくまで親密性のありうる二つの形であると捉え
題を扱ってきた信田さよ子は、問題を抱えた母子関係
ている。したがってファインマンの批判したようなア
にある娘に、次のようにアドバイスしている。
メリカの対面的親密性のあり方が、近代化の行きすぎ
によると考えるものではなく、また包摂的親密性がよ
「最悪の場合は、断絶もありかも知れない。娘の方
り共同体的と位置づけるものでもない。二つはいずれ
から一切の交流を断つという方法だ。お勧めできる方
も現代社会における親密性の二つのあり方なのであ
法ではないが、最低限、あなたたちが自分を守るため
る。
にそれが必要と判断されれば、
私はそれを支持したい。
母にとって残酷ではないかという意見もあるだろう
5:終わりにできない・立ち去れない
が、未来の長い娘の人生を優先するのが母として当然
先に私たちは「対面的親密性」が、常に一方的に関
だと思う。だから最終手段としてそれもありだろう。
係を終了されるリスクを負っているという構造的矛盾
あなたたちは別に母を殺そうとするわけでもなく攻撃
についてのギデンズの指摘を見た。では「包摂的親密
を仕掛けるわけでもない。
ただ関係を断つだけなのだ。
性」についてはどうだろうか。
「包摂的親密性」とい
それすらも認められないのだろうか。関係を断つこと
― 135 ―
中筋 由紀子
すら許されないと思った時、子供は時に親への殺意を
座って、その人も脱力して両足を開きからだを後ろの
抱くだろう」
人にゆだねるのです。ちょうど赤ちゃんが安心して後
(信田2008:p184-185)
ろ側にいるお母さんにからだをゆだねて、まかせて、
ここに綿綿と述べられているアドバイスの中心は、
抱かれている状態。このとき、彼らの母親側のちょっ
その関係を去ってもよいのだということにある。彼女
とした緊張がどんなに抱かれている赤ちゃん側に伝わ
によれば「お勧めできる方法ではない」が、
「最終手段」
るかを実験してみます。脱力している赤ちゃんはどん
としては「それもありだろう」というのである。
「最
なに小さな母親の緊張もキャッチしてしまいます。
(中
低限、自分を守るため」
、
「最終手段」というこの手段
略)やってみた人たちも…今更のように親の影響の大
につけられた限定は、そうでなければ認められない手
きさに驚いてしまうようです。
」 (鳥山2009:p91-92)
段であることを逆に明らかにする。ことに「親への殺
意を抱く」よりはましなのではないか、という最後の
鳥山によれば、親子の親密性は、上述したような、
表現は、親との関係を断つのは親を殺すよりはましと
言葉にされない半ば無意識の身体的な共振として成り
いう程度、言い換えれば、殺人の次くらいに酷いこと、
立っている。それは二人の主体が対面して言葉によっ
認められがたいことだという彼女の感じをよくあらわ
て行うコミュニケーションとは異なる位相にあって、
している。つまり、包摂的親密性は、通常はどちらか
アイデンティティの基盤を主体的にかかわれない位相
の決断で交流を断つことが認められない関係なのであ
に位置付けるのである。それはまさしく「甘える」
「受
る。
け入れる」という表現以上にはっきりと表現できない
確かに親は子供を作ることを決断できるから、親に
ような、曖昧で受動的な、半ば無意識の関わりであり、
とっては親子関係は自分が始めた関係である、と捉え
親子いずれの立場においてもそれを主体的にコント
ることもできるだろう。その意味では親の立場からす
ロールしきることは難しいような関わりであるといえ
れば、親子関係には始まりがある。しかし親は子供を
るだろう。
通常選択できないし、また親の立場においても親子関
ところでこの点は、一見フロイトの精神分析におけ
係を解消することはできないとされている。夫婦には
る幼児期の規定力についての理論に似ていると思われ
始まりや終りがあるが、親子は一生親子なのだ、とい
るかもしれない。しかしフロイトが述べたのは、幼児
うのは、私たちにとって普通の感覚ではないだろうか。
期に限定された親子関係であり、しかも無意識に抑圧
鳥山敏子が、子供が自立するためには「子別れ」
(
「子
されている場合の記憶をめぐってのことである。ここ
離れ」ではなく)が必要だ、
とことさら主張するのは、
で述べている包摂的親密性は、過去の幼児期に限定さ
それがあまり私たちの間では常識ではないからではな
れるものではなく、現在のもの、相手が死ぬまで関わ
いだろうか。そしてまた、彼女が見てきた多くの親子
り続けるはずの関係のことである。したがって、親子
の事例は、そうした親子関係が、子供が大人になった
関係の規定力から解放されようというフロイトの考え
後でも続くこと、そしてそこに基礎づけられたアイデ
方は、主体が自ら自立的に選択した関係によって自己
ンティティはそのままあり続けること、彼らが親とし
表現したり規定されたりすべきだという、対面的親密
て新しく築き上げる親子関係をも規定することを示し
性の考え方にむしろ沿ったものであるといえるだろ
ている。
う。また、ここで包摂的、あるいは対面的と述べてい
すなわち、包摂的親密性においては、子として与え
る親密性の在り方は、規範的・理想的な概念として捉
られた親子関係がアイデンティティを基礎づけるので
えられるべきものであり、現実にはいずれの親密性を
あり、親として新しく築く関係はそれを補完すること
理想としていても、親子、夫婦の関係双方からの影響
はあっても別様なものとなって取って代わることはな
がないということにはならない。
い、ということなのである。言い換えれば、包摂的親
密性においては、その親密性を支える関係の在り方に
6:おわりに、親密圏における死の困難とは
主体的にかかわることができないのである。例えば鳥
以上のように私たちは親密性を二つの在り方におい
山は著作の中で「甘える」
「受け入れられる」という
てとらえてきた。最後に私たちは、このような親密性
言葉を用いる。彼女は身体を使ったワークという独特
のとらえ方の違いが、親密な相手の死をどのようなも
のセラピーを通して、この状態を次のような形で体感
のと位置づけることになるのか、そしてそれにはどの
させる。
ような困難が見出されるかについてそれぞれ考察した
いと思う。もはや許された紙幅も多くないのでここで
「私はこのことを感じ取る手掛かりとして、二人組
はその概観にとどめたいが、対面的親密性においては
になってからだを脱力して相手にゆだね、抱くワーク
「新しいコミットメントの強要」
、包摂的親密性におい
をしています。同じ方向を向いた二人が両脚を投げ出
ては「新しいコミットメントの困難」として、それぞ
して座る。一人の開いた両脚の間の床にもう一人が
れの死の困難を見ておきたい。
― 136 ―
親密圏の始まり方/終わり方
まず対面的親密性における死について考察したい。
(中略)私が死んだら初めの妻とまた一緒になって、
対面的親密性においては、親密な他者の死は、別離と
永遠に離れないでしょう。こんな風に感じている人は
同じく、主体が引き受けなければならないリスクとさ
ほかにもいます。
』
」
れる。そしてそのようなリスクが現実となり、大きな
(Erikson,et al.1986=1990:p129)
ダメージを被った場合、人々はそれから回復して主体
エリクソンは、若い時と晩年の結婚では親密性の種
性を取り戻すことが適切なあり方とされる。例えば先
類が違うのではないか、若い時の結婚の方が「永続す
に取り上げたフロイトは、
「悲哀とメランコリー」に
る」「本当の親密性」で、晩年のそれは犠牲や妥協も
おいて、親密な他者の死は強い悲哀の感情を生み出し、
含んだ「仲間づきあいへのコミットメント」ではない
自我は制止・制限され、外界への興味を失ったり、新
かと考察している。しかし「新しいコミットメントの
たな愛の対象を選ぶ能力を失ったりするが、それは時
強要」ということから考えるならば、このことは、最
間が経過すれば克服されると述べている。
初の親密性が失われたときに、人々がしばしば「外界
への興味」を取り戻し、
「新たな愛の対象を選」ばな
「だが事実は、悲哀の作業が完了したあとでは、自
我はまた自由になり、制止も取れる」
くてはならなかったためではないか、と考えることも
できるだろう。すなわち、理想とされる対面的な親密
(Freud1916=1956:p128)
性は、そうありたいと願っても常にその通り実現でき
るものではなく、人々のあり方や感じ方は、実際には
フロイトによれば、
「ノーマルな悲哀の情緒」は、
時間とともに経過し、
「外界への興味」を取り戻し、
「新
そうした理想とは多少なりとずれたところにあると考
えられる。
たな愛の対象を選ぶこと」ができるが、
「病的な素質
一方、包摂的親密性においてはどうだろうか。かつ
を持つ疑いのある多くの人」は、
「リビドーを失われ
ての伝統的な家制度においては、死後についてはそれ
た対象から解放」できず、
「メランコリー」が現れる。
ぞれが自分で対処するのではなく家族に任せること、
言い換えれば「新たな愛の対象を選ぶこと」ができな
そして残された家族がそれを引き受けることが理想と
い場合、それは病的な悲哀の感情の継続と捉えられて
されていた。例えば作家安岡章太郎は、半自伝的小説
いるのである。例えば老年期のアメリカの人々の在り
「伯父の墓地」の中で、自らの一族の墓地を次のよう
方を調査したエリクソンは、多くの高齢者について次
に描き出す。
のように述べている。
「若い頃には、そんなことは考へてもみなかつたが、
「老年期において未来が継続する期間ははるかに不
確実である。以前に思い描いていた無限の未来という
五十代に入つた頃から私は、この同族の人たちの眠る
墓地に或る親しみを覚えるやうになつた。
」
幻想は、死は免れないことだという確信が強まった今
(安岡1991:p242)
それによって打撃を受ける。それでも相変わらず報告
者たちは、自分たちの未来を人生そのものの一部とし
て考えている」
(Erikson,et al.1986=1990:p67)
安岡は自らの一族の墓地に、久しぶりに会ったいと
こたちと「気心が溶け合ふ」のと似たような「言ひや
うのない安堵の念を覚える」と述べる。また彼は、伯
エリクソンによれば、アメリカの高齢者は、できる
父が土葬を望んで死に、それを任されたいとこが役場
限りこれまでの活動を継続し、無限の未来、という幻
までその遺体を抱いて行って話をつけたということを
想を多少なりと持ち続けようとすると同時に、親密な
聞きながら、「自分自身の腕も重くなつてくる」のを
他者との死別の体験の中でも、愛の相互性の感覚を維
感じる。死後を任され、それを引き受けることの重み
持しようとしていると述べる。それは、フロイトの言
を感じたということではないだろうか。
う「病的な悲哀」に陥らず自分らしさを感じ続けるた
しかしこうした世代を超えた家の継承が成員の義務
めに必要なことと捉えられている。しかしながら一方
とはもはや位置付けられていない現代の包摂的親密性
で、そうした理想が必ずしもその通りに実現されてい
においては、子供が親の死後を引き受けることには困
るとは言えない場合も見出される。例えばエリクソン
難がある。例えば、先にも引用したカウンセラーの信
は、配偶者と死別し、再婚した人々の次のような言葉
田は、
「母との名状しがたい関係に苦しみながら、そ
れでも罪悪感にとらわれている女性たち」
を、
「墓守娘」
に着目している。
という言葉で描き出しているが、この言葉は、彼女が
「『今の妻は…私を愛してくれていますし、そのこと
雑誌の取材で出会ったある女性編集者の身の上話に由
は私もわかっています。わたしも今の妻を愛していま
来している。その女性編集者は、母親から女性でもや
す。(中略)長い間先妻のことは考えませんでしたが、
りたいことをやるように勧められ独身で仕事を続けて
年をとってくると段々思い出すようになったんです。
きたが、次第に結婚しないことを母親から咎められる
― 137 ―
中筋 由紀子
ようになり、実家に帰りづらくなっていたが、法要で
たが、一方で子供の側の今述べたような問題について
久しぶりに会った母親に次のように言われたという。
は、必ずしも解決できているとは言い難い。
以上、私たちは対面的親密性、包摂的親密性それぞ
「『もう何も言わないからね、ただ、私たちが死んだ
えていることが見出されたと思う。本稿ではこうした
ら墓守は頼んだよ』
彼女は突然ボディーブローを受けたようで頭がくら
くらした。」
れにおける死を見てきたが、それがそれぞれ困難を抱
(信田2008:p8)
問題について今後考えていくための前提となる作業を
行ったが、その困難の生起する仕組みについての考察
は、稿を改めて論じたい。
上記の母親の言葉は、一見、伝統的な家のあり方と
しては当然の言葉であるように受け取られるかもしれ
ない。しかし未婚の娘が墓守をすることは、かつては
家が絶えることとして忌まれたことである。従来、家
は累代継がれていくことが理想とされ、したがって後
継ぎとなる者は、結婚してさらに次の後継ぎの男子を
注
1)
「第一人称の死」
「第二人称の死」
「第三人称の死」については、
(Jankelevitch 1994)
。
2)ここでボーヴォワールの著作を用いるのには、実存主義の
哲学が、後述する「対面的親密圏」にアイデンティティを
設けることが責務であるとされていた。したがってこ
こに見られる母と娘の間の関係は、従来の家の形を外
れた、新しい包摂的な親密性であると考えられる。
この事例から見出されるのは、包摂的親密性にある
基礎づけるもっとも典型的な思索のあり方と位置づけての
ことであるが、その点については本稿では立ち入らない。
3)その論文については(中筋2008)。
4)より正確に述べるならば、ベラーは現代アメリカ社会にお
ける個人主義を「功利主義的個人主義」と「表現主義的個
親子関係では、子供の側はそれを与えられた関係とし
人主義」との二つに分類しており、親密な他者との「セラピー
て終わらせたり拒否したりできないものと捉えている
的」なかかわりは、後者の個人主義にあたるものとされて
が、その結果として、新しい親密性を築き上げること
いる。ベラーの指摘する現代アメリカの二つの個人主義は、
市場圏と親密圏という、他者とのかかわりの場の違いに対
が難しくなる場合がある、ということである。ここで
はそれを「新たなコミットメントの困難」として捉え
ておきたい。ことに親の側が自分の老後や死後を引き
応するものと考えられる。
5)家族社会学の言葉で「定位家族」とは子供として生まれた
家族のことであり、結婚して創設する家族は「生殖家族」
受けてくれることを期待する場合には、かつてならそ
と呼ばれる。
れは子供が自分の家族を持つことと矛盾するものでは
なかったが、現代ではしばしばその二つが矛盾するも
文献
のとなってしまう。そうした困難は、成員が包摂的親
Beauvoir,S.,1964,Une mort très douce.=1995,『おだやかな死』杉捷
密性によって結びついているからこそ見出されると考
えられる。
また、包摂的親密性に或る親子関係の場合、子供の
側が親の期待にこたえられない場合に、それは子供の
側に罪悪感をうむばかりでなく、アイデンティティの
基盤を不安定にするものとなるが、では新しい親密性
を得ることでこれを支えることができるかというと、
それは難しい。対面的親密性の場合ならば、一つの親
夫訳、紀伊國屋書店
Bellah,R.N..et al.1985,Habits of the Heart.=1991,『心の習慣』島薗
進・中村圭志共訳、みすず書房
Erikson,E..et al..1986,Vital Involvement in Old Age.=1990『老年期』
朝長正徳他訳、みすず書房
Fineman,M.A.,1995,The Neutered Mother,The Sexual Family.=2003,
『家族、積みすぎた方舟』上野千鶴子監訳、学陽書
房
Freud,Z.,1916,Trauer und Melancholie. = 1956「 悲 哀 と メ ラ ン コ
リー」『フロイド全集第 10 巻不安の問題』井村恒朗
密性が失われたときに新たなそれを求めるのはむしろ
必然的なことで、そのことで、アイデンティティが問
題になることはない。しかし包摂的親密性においては、
新たなコミットメントを子どもの側が築き上げたから
といって、主体的に築いたそれが、与えられた親密性
におけるアイデンティティを代わって支えるものには
ならないのである。その意味でも包摂的親密性におい
ては「新たなコミットメントの困難」が見出されると
いえるだろう。
現代においては、
「葬送の自由をすすめる会」その
他訳、日本教文社
Giddens,A.,1992,The Transformation of Intimacy.=1995,『親密性の
変容』松尾精文他訳、而立書房
Jankelevitch, V.,1994,Penser la mort?=2003『死とはなにか』原章
二訳,青弓社
宮島喬・島薗進編 ,2003,『現代日本人の生のゆくえ』藤原書店
中筋由紀子 2008「記憶と親密圏」『愛知教育大学研究報告(社
会科学編)第 58 輯』
信田さよ子 ,2008,『母が重くてたまらない』春秋社
鳥山 敏子 ,2009,『居場所のない子どもたち』岩波書店
小此木啓吾 ,1979,『対象喪失』中央公論新社
他の、NPO 法人などによる、子供が引き受けるので
はない死後のあり方を実現しようとする様々な運動が
ある。しかしそうした運動は、親の側が後継ぎがなく
ても自らの死後を自分で決めておくことを可能にはし
― 138 ―
(2010年 9 月10日受理)
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