...

アシュリー治療の是非について −新しいタイプの生命倫理問題か?− 松井

by user

on
Category: Documents
1

views

Report

Comments

Transcript

アシュリー治療の是非について −新しいタイプの生命倫理問題か?− 松井
アシュリー治療の是非について
−新しいタイプの生命倫理問題か?−
松井
富美男
1.はじめに
いまだ正月気分も覚めやらぬ 2007 年 1 月初旬に、アメリカから衝撃的なニュースが飛
び込んできた。当時 6 歳(現在 9 歳)の重度発達障害児の主治医が、そのよりよいケアを
目指して、両親の同意と倫理委員会の承認のもとに、子宮切除やホルモン投与などの方法
を用いて彼女の成長を止めたというのである。その少女の名前はアシュリー。目下、この
治療の是非をめぐってアメリカ国内に論争が巻き起こっている。
「古いジレンマへの新しい
アプローチ」1という見出しもあるように、これは新しいタイプの生命倫理問題であろう
か。本論文では、この事件の内容をアシュリーの両親や主治医らの証言をもとに整理し、
ピーター・シンガーらの評論も交えながら、その倫理性について検討する。
2.事件の発端
事の起こりは、昨年の 11 月 1 日付けのロイター紙に「重度障害児たちは小さなままで
置かれるべきか」という記事が掲載されたことにある。2 問題のある「成長を止める治療
(growth-attenuation treatment)」を担当したのは、シアトルのワシントン大学小児内分
泌学科のダニエル・ガンサー(Daniel F. Gunther)と同小児生命倫理センターのダグラス・
ディークマ(Douglas S. Diekema)である。彼らは、この記事に先立って『小児科学と青
年期医学の記録(Archives of Pediatrics and Adolescent Medicine)』という医学雑誌第
160 巻のなかでこの報告をしている。これが今回の新聞記事のニュース源になっている。
それゆえ、まずはこの報告書の要約から見ることにしよう。
「重度発達障害の子どものケアは難しくて骨が折れる。神経症と認知症の重度合併障害
の歩けない子どもにとって、生活に必要なことはすべて介護者によって、だいたいは両親
によって供給される。これらの仕事は、子どもが青年期や成人に達するにつれて、いっそ
う困難になる。多くの両親は、特別な要求をするわが子を家庭でケアし続けたいと思って
いるが、子どもが大きくなるにつれてそれが困難となる。子どもがまだ小さいうちに成長
を永久に止めることができれば、子どもと両親の両方のためになるだろう。なぜなら、こ
うすることで、家庭でケアし続けるという選択肢が容易になるからである。多量のエスト
ロジンを使った子どもの治療が幼児期に着手されるなら、この選択肢が可能になるだろう。
多量のエストロジンは、成長を抑え、かつ骨端成長プレートの成長を急速に推し進め、そ
して比較的短い治療期間で大きさを永久に固定化してしまう。われわれは一つの事例報告
を提出して、このような介入計画(intervention strategy)の医学的・倫理的考慮につい
て検討する。われわれの提案は、適当なスクリーニングとインフォームド・コンセントを
経た後の成長を止める治療は、もし両親がそれを要求するならば、子どものためになる治
療的選択肢とすることである。」3
ここにはいくつかの問題点がある。第1に、「神経症と認知症の重度合併障害」とは、
具体的にはどのような状態を指すのか、第2に、なぜ子どもの成長を永久に止めることが
1
子どもと両親の両方のためになるのか、第3に、倫理委員会がどのようなスクリーニング
機能を果たしたのか、第4に、2番目の問題点とも重なるが、両親に治療の決定権が委ね
られるときに子どもの尊厳はいかに保障されるのか、などである。このようにいろいろな
問題点がここには含まれるが、これらは、おおざっぱに事実問題と評価問題とに分けられ
る。以下においては、事実問題を中心に見ることにしたい。
アシュリーは、医学的には、生後3ヶ月児の認知・精神レベルと同等の「原因不明の脳
損傷(static encephalopathy of unknown etiology)」と診断されている。しかし、そうし
た病名よりも、アシュリーが実際にどのような状態にあるのかを知っておくことがより重
要である。例えば彼女の状態は、意識を喪失した脳死状態や植物状態と同じであろうか。
この点に関しては、アシュリーの両親がウェブサイトで公開している報告が参考になる。
彼らは「アシュリー治療」というブログを立ち上げて、医師とは異なる親の立場から今回
の事例を紹介している。4 その目的は二つである。一つは、同じような「枕の天使(Pillow
Angel)」5をかかえる家族を支援するために、もう一つは、治療に関するいくつかの誤解
と、自分たちがそれに同意する理由を明らかにするために、である。報告によれば、アシ
ュリーは、いわゆる寝たきり状態にあり、チューブによって食物を摂取し、生活のいっさ
いを介護者に依存している。彼女は、頭を上げておいたり、寝返りを打ったり、寝ている
ときに体位を変えたり、おもちゃを持ったり、上体を起こしたりすることができないし、
また頭が枕からずれ落ちたり、髪が顔に落ちかかったりしても、自分ではどうすることも
できない。しかし意識がないわけではないので、そのようなときには泣いたりむずかった
りする。またびっくりしやすく、周囲の状況も分かっているようである。好きな音楽に対
しては、声を出して、はしゃいだり、脚を蹴ったり、指揮をとるような手の仕草をしたり
する。熱心にテレビを観ているように見えることもある。その反面、だれかが傍にいるこ
とを明らかに気づいていても、めったに目を合わさない。家族が接したり話しかけたりす
ると、よく微笑み、喜びの表情を示すが、それが家族を意識したものであるかどうかは分
からない、など。
ここから、アシュリーの状態が脳死状態や植物状態といかに異なるかは明らかである。
これらの状態は「人間らしい(personhood)」反応のように思えるが、ピーター・シンガ
ーのような人からすると、必ずしもそうではないらしい。この点については、後でもう一
度取り上げることにしたい。いずれにしても、アシュリーの状態を正確に把握したうえで、
彼女の成長を止める治療が妥当かどうかを検討する必要がある。
3.だれのための QOL か?
アシュリーの両親は、彼女が現在安定状態にあることは、同じような重度障害の子ども
たちの多くが、しだいに衰えて 5 年以内に亡くなる可能性が高いことからすると、「あり
がたいこと(blessing)」だとしている。ここだけをとれば、アシュリー治療は彼女の「生
存」にかかわる根本治療のようにも見える。この点は、アシュリー治療が「治療」として
妥当であるかどうかを決める重要な判断材料になる。それだけに、この点については、よ
り詳細な説明が求められるべきである。さらにまた、アシュリーの両親の報告には、「『枕
の天使』のためのよりよい QOL を目指した『アシュリー治療』」という標題が付されてい
る。彼らによれば、この「アシュリー治療」という名称は、アシュリーの「生命の質(Quality
2
of Life)」を改善するための医学的処置の総称である。それは、具体的には、成長を止める
ための多量のエストロジンの投与、月経を省くための子宮摘出、胸を大きくさせない手術、
などを指す。このような医学的処置は、先ほどの生命の存続にかかわる治療とどう関係す
るのであろうか。またアシュリー治療が生命の存続にかかわるのであれば、これに QOL
の概念を適用することは妥当であろうか。
生命倫理のいろいろな場面において、QOL は「生命の神聖(Sanctity of Life)」に対比
されることが多い。一般に SOL は伝統的な概念であるのに対して、QOL はより現代的な
概念であると言われる。SOL によれば、人間の生命は、いかなる状態であっても神聖であ
り、それをできるかぎり生かし続けることはよいこととされる。これに対して、QOL は単
なる延命を無意味とみる。延命が認められるのは QOL の条件を満たす場合だけである。
しかしアシュリー治療においては、このような QOL の概念が問題となるのではない。
「よ
りよい QOL を目指して」という標題から分かるように、普通の QOL 以上の QOL が求め
られている。とはいえ、この「よりよい」という比較の形容詞は、生存の可能性に言及し
たものではない。裏を返せば、よりよい処置を特にほどこさなくても(普通のままであっ
ても)、生存の可能性は変わりない。すなわち、QOL がいくら「よりよく」ても、普通の
QOL と変わりなく死の可能性を含む。だからアシュリーの両親も、彼女の現状を「ありが
.
たいこと」として幸運のように捉えているのである。ということは、アシュリー治療は生
..........
存可能性を高める治療でも何でもないということである。では、ここではどのような意味
で QOL が問題となるのであろうか。
主治医のダンサーとディークマは、彼ら自身の報告書のプロローグにおいて、「たいて
いの両親は特別なヘルスケアを要するわが子を自宅で起こしたがっている」というアメリ
カ小児科学会の公文書の一節を受けて、
「しかし神経症と認知症の重度合併障害の歩けない
子どものケアは、とりわけ子どもが大きくなるにつれて、両親にはつらい仕事である。…
…子どもがまだ小さくて扱いやすい大きさのうちに、その成長を永久に止めてしまえば、
家族ケアの主要障害の一つが取り除かれるし、また自宅でわが子をケアすることが可能で、
その資金もあり、またそう願っている親がそのようにできる期間も延びるだろう。」と述べ
ている。6 今回の治療目的のポイントがここに示されている。要するに、子どもを自宅で
ケアし続けたいという親の願望を満たすことが重要なのである。そうなると、これはだれ
のための QOL なのかが問われてくる。重度障害児であろうか、それとも両親であろうか。
もし「ケアのしやすさ」との関連で QOL が問題にされるのであれば、QOL の概念はこう
した事例に適合するであろうか。この点がまず問題となる。しかしアシュリーの両親は、
この点について次のように釈明している。
「治療に関する根本的な普遍的な誤解は、介護者に便宜をはかっているというものだ。
目的の中心は、むしろアシュリーの生命の質を改善することにある。アシュリーの最大の
課題は、不快(discomfort)と退屈(boredom)である。この議論では、他のあらゆる考
慮はこれらの中心課題の比ではない。
『アシュリー治療』は、これらの課題の核心をついて
おり、有意義な仕方でそれらを和らげるので、一生涯アシュリーのためになる。……アシ
ュリーは、より小さくて、より軽い大きさであることで、典型的な家族生活や、彼女に必
要な安楽、親密、安全、愛――例えば食事の時間、車での旅行、接触、格闘など――を提
3
供する活動に参加できる。」7
この箇所は太字で表示されているだけに、アシュリーの両親の気持ちが実によく現れて
いる。彼らはここにおいて QOL の「主体」がアシュリーにあることを強調している。ア
シュリーの最大の課題である「不快」と「退屈」を取り除くことができる治療は、アシュ
リーのためになる、というのがその理由のようである。しかしアシュリーの最大の課題が
「不快」と「退屈」にあることを、われわれはいかにして知りうるのであろうか。とりわ
け、その判断が難しいのは、彼女の欲求内容に関してである。彼女が横になっているほう
が楽で、車椅子に座ることを好まず、長時間車椅子に座らせられると嫌がって泣く、とい
った反応などは、彼女の欲求内容をよく表している。この場合には、
「∼を望まない」とい
う否定形でもって彼女の欲求内容を割り出すことができる。だから「不快」に関しては、
比較的問題点は少ないと言える。しかし「退屈」に関しては事情がやや異なる。なぜなら
この場合には、アシュリーにとって積極的な価値が求められ、またそのための彼女の反応
が顕著でなければならないからである。先述の彼女の状態のなかでこれに該当するのは、
好きな音楽が流れたときに「声を出して、はしゃいだり、脚を蹴ったり、指揮をとるよう
な手の仕草をしたりする」反応であろう。こうした反応は、彼女が退屈していないことを
表している。しかしアシュリーが家族と一緒であったり、家族と一緒に外出したりするの
を好むかどうかは、音楽を好む場合と同程度に明らかであるわけではない。アシュリーは、
自分が家族の一員であるという認識すらも欠いている可能性がある。確かに彼女は、家族
.
が語りかけると微笑んだり、だれかが傍にいると安心したりするが、しかしこの態度が家
........
族と自分との関係を意識したものであるかどうかは分からない。アシュリーの両親は、治
療によって、彼女が必要とする「安楽」
「親密」
「安全」
「愛」などが与えられるとしている
が、このうち「安楽」や「安全」はおくとしても、
「親密」や「愛」のような高度な感情を
アシュリー自身が感受できるかどうかは、やはり疑問である。
このような懐疑的な見方は奇異に感じられるかもしれない。しかし、こうした見方は、
だれのための QOL なのかをはっきりさせるためには、避けては通れない手続きである。
アシュリーの両親が主張するように、彼女のための QOL を改善することが目的であるな
らば、
「アシュリーはこう望んでいる」といった事実判断が求められる。しかし「アシュリ
...
ーはこう望むだろう」といった予測判断がこのような事実判断にとってかわる場合には、
......
アシュリーのための QOL が家族のための QOL に転化する可能性がある。こうした中心軸
の移動は決定的に重要である。先にも述べたように、アシュリー治療には、子宮切除、エ
ストロジンの多量投与、胸の去勢などを通じて、アシュリーの成長にかかる「自然性」へ
..
の介入が含まれる。これはアシュリーの身体が本来的にもっている「生への意志」の阻害
であり、彼女の身体性からすれば、ある種の「犠牲」を伴う。問題は、この「犠牲」がい
..............
かなる目的系列のなかに埋め込まれるのかということである。もし「退屈」を回避するこ
とがアシュリーにとって「最大の課題」であるならば、身体的な「犠牲」はこのための手
.........
段となり、結果的に自己完結的な仕方で目的・手段関係が成立する。この場合には、彼女
.......
..
の内部で選好がなされるので実害は少ない。しかしこのような選好が他者との外的関係の
なかで行われるならば、QOL の中心軸は他者の側に移され、他者の目的系列のなかにアシ
4
ュリーの「犠牲」が埋め込まれることになる。
とはいえ、アシュリーの両親が故意に彼女を快楽の具にしていると主張するつもりはな
い。例えば両親の証言に「アシュリーはわれわれの家族に多くの愛をもたらし、われわれ
の関係における紐帯的な要素である。われわれは彼女のいない生活を想像できない」とあ
るように、彼らがアシュリーをこのうえもなく愛していることは疑いえない。そして、客
観的にみて、アシュリーのような事例では、彼女の「安楽」や「安全」のためには、家族
がケアするのが最もよいようにも思える。しかし、だからといって、QOL の中心軸が介護
者の側に移されてよいわけではない。
「ケア」の概念は、どんな場合にも客体から主体の位
置に転じられてはならない。もしも「御しやすさ」や「介護しやすさ」が QOL の内実を
形成するとすれば、それこそ本末転倒の議論と言わざるをえない。
4.ピーター・シンガーの見解
アシュリー治療の反響はすさまじく、この動画付きブログには、賛否両論を含めて様々
な意見が寄せられた。なかにはピーター・シンガーが考えそうなことだ、といった意見も
寄せられ、これを受ける形でシンガーが 2007 年 1 月 26 日付けのニューヨーク・タイムズに
登場したのである。8 シンガーの評論はそう長くはない。彼は事件の概要にごく簡単に触
れた後に次のように述べる。
「アシュリーの生命の改善と、彼女の両親にとって彼女が扱い
やすくなることとの間に、ほとんど区別がないと言えたとしても、これらのことはすべて
妥当である。なぜなら、アシュリーの両親が彼女を家族生活の一員に組み入れるものは、
彼女のためになるからである」と。そのうえで、彼は、アシュリー治療への批判は生命倫
理ではおなじみの三タイプにまとめられるという。すなわち、第1は「不自然」とみるも
の、第2は「すべり坂論(slippery slope)」に基づくもの、第3は「尊厳への冒涜」に基
づくものである。第1のタイプについては、彼は、あらゆる治療が「不自然」であるし、
またアシュリーのような重度障害者は、かつては捨てられる運命にあり、それが「自然」
であったと反論する。また両親の便宜のために子どもを変形することが容認されれば、そ
の影響は他の両親にも波及する、といった第2のタイプについては、倫理委員会がこの治
療をアシュリーの「最大利益(best interest)」になると判断した以上、これを尊重するし
かないという。すなわち、彼は「すべり坂論」よりも「最大利益の原理」のほうがより大
切だとみるのである。第3のタイプについては、前提そのものが受け入れがたいとして、
次のように述べる。少々長くなるが、そのまま引用しておく。
「私は、父親として、そして祖父として、生後3ヶ月児をとても可愛らしい(adorable)
と思うけれども尊厳があるとは思わない。私は、だんだん大きくなって歳をとっても、精
神レベルが同じままであれば、そのことが何かを変えるとは思わない。哲学的に面白くな
るのはここからだ。われわれは、精神年齢が幼児と同じ人々も含めて、人間のうちに尊厳
を常に認めようとするが、イヌやネコは、明らかに人間の幼児よりも進んだ精神レベルで
振舞うにもかかわらず、彼らに尊厳を帰したりはしない。まさにこうした比較をすると、
いろいろなところで暴力沙汰になる。しかし個人の特徴がどうであれ、なぜ尊厳は種の仲
間と両立すべきなのか。アシュリーの生命において重要なことは、彼女は苦しむべきでは
なく、また自分が楽しめるものは何でも楽しむことができるべきだ、ということである。
5
........ ............. .............
さらに、彼女が貴重なのは、そのままの彼女ゆえではなく、彼女の両親と妹弟が彼女を愛
...........
.
してケアするからである。人間の尊厳に関する高邁なお話も、彼女のような子どもが、自
.............................
分と自分の家族の両方に最善となる治療を獲得するような仕方で 、行われるべきではな
い。」(傍点は筆者)9
ピーター・シンガーは、かつてドイツで講演を拒否されるなど、何かと物議を醸し出し
ている。彼は「動物の権利」を主張する一方で、不治の重病患者や嬰児や障害者のような
人々を安楽死させることをも容認しており、そのためにドイツ人にはナチスの再来のよう
に映ったのであろう。だが多少誤解もあるようだ。彼は次のように述べている。
「安楽死は
恐怖をもって見られるものではないし、またナチスとの類推を用いることは、誤解のもと
である」10と。彼は、上のような非難を受けるのを覚悟のうえで、ナチスからは一線を画
する形で安楽死を容認している。「人間の尊厳」はすべての人々を平等にみる思想である。
この思想は、シンガーには最も忌むべき前近代的な残滓として映る。そのために、ここで
も彼は、
「尊厳」に基づく議論への反論に最も多くの紙面を割いている。彼に代表される議
論のタイプは一般に「能力論」と称される。彼は、
『実践倫理学(Practical Ethics)』のな
かで、痛みの感覚をもつ存在者をすべて「パーソン(Person)」に組み入れることで、人
間と動物との種差別を撤廃することを試みている。有名な「動物の解放」はこうして用意
されたものである。しかし、この種差別批判は「動物の解放」には有効でも、これがその
まま人間に適用されると、伝統的なヒューマニズムに抵触することになる。例えば重度障
害や植物状態、あるいは脳死状態の人々に対して、
「非パーソン」の烙印を押すことにもな
る。生命倫理学者のなかには、こうした能力論を手放しで支持する人もいるが、問題点も
多い。
「能力論」に従うと、この段階ならパーソン、あの段階ならモノ、といった線引きが
しやすくなる。しかしこのような線引きは、経験的なものであって、各人のイメージに左
右されがちである。
アシュリーも、シンガーからすれば、決して尊厳の対象ではありえない。そのことは彼
......
の評論からみてとれる。シンガーは、アシュリーの存在そのものに固有価値を認めている
.............
わけではない。彼女の存在が「貴重」なのは、家族が彼女をまさにそのようなものとして
.............
扱うからにすぎない。つまり、彼女の価値性は、周囲の扱い方に依存しているのである。
それゆえ、シンガーは、アシュリーのような子どもとその家族の両方にとって最善となる
仕方で「人間の尊厳」を口にすべきではないと主張する。このことは、裏返して言えば、
アシュリーのような事例では、彼女の尊厳を考慮する必要はないということを示している。
この議論が前章で述べた QOL の議論と逆になっているのは明らかであろう。
「QOL」の概
念と「尊厳」の概念は密接に関連する。QOL の議論においては、だれのための QOL かが
.....
問われ、その答えはケアの本質から導かれる。ケアの概念は、ケアする者とケアされる者
という二項関係を含むけれども、これらは同等の関係ではない。ここでは、ケアされる者
がいるからケアする者がいる、といった先後関係が認められる。それゆえ、ケアされる者
.
が QOL の中心に据えられなければならないのである。だがこうした議論では、すでにケ
....
アの事態が前提にされており、ケアされる者の価値については問われない。では、ケアさ
.....
れる者がそれ自身で有する価値とは何か。この疑問に答えるためには、
「尊厳」の概念が必
6
要になる。もしケアされる者に尊厳があるならば、QOL の中心軸はここに据えられなけれ
ばならない。つまり、プライオリティは「QOL」よりも「尊厳」のほうにあると考えられ
る。とすれば、次には、だれに尊厳があるのかといった議論へと発展する。シンガーの議
論はこのような形で展開される。ある人に「尊厳」を帰する場合には、二とおりの議論の
仕方が可能である。一つは、その人が固有の価値をもつがゆえに「尊厳」があるとするも
の、もう一つは、その人が人間の種に属するがゆえに「尊厳」があるとするものである。
シンガーの場合には前者になる。前述のように、彼は、アシュリーは完全に介護者に依存
した存在なので、彼女には固有の価値はないとみている。したがって、アシュリーが固有
の価値をもたないならば、彼女には尊厳はないことになる。その意味では、タイムズが「重
度障害児にとって重要なのは、尊厳ではない」という要約をシンガーの評論に付したのは、
正鵠を射ている。11
5.倫理委員会への疑問
今回の事件を考えるうえで看過されてはならないのは、アシュリー治療を実施するに当
たってシアトル病院の倫理委員会がどのようなチェック機能を果たしたのか、という点で
ある。主治医は、この治療を正当化するために二つの条件を挙げている。一つは、両親に
対するインフォームド・コンセント、もう一つは倫理委員会によるスクリーニングである。
通常、本人の代わりに親に対してインフォームド・コンセントがなされるのは、子どもの
「最大利益」を守れるのは親である、という暗黙の了解があるからである。しかし今回の
ように、主治医と両親がいわば一蓮托生の関係にある場合には、検討するまでもない。そ
れよりも重要なのは後者である。アシュリー治療においては、彼女の「成長」や「発達」
が阻害される代わりに、よりよいケア環境が彼女のために保持されるので、一種の「交換」
が成り立つ。このような「交換」は、女性が顔面の美容整形のために大腿筋の一部を自家
...
移植するときにも認められるけれども、この場合には「交換」は本人自身によって選好さ
....
....
れている。しかしアシュリーは、どうあってもこのような選好主体にはなれない。それゆ
えにアシュリーの側と、主治医や両親の側のいずれにも与しない倫理委員会が重要な役割
を果たす。では、倫理委員会ではどのような議論が交わされたのであろうか。
「枕の天使の
背景」というウェブサイトによると12、今回の倫理委員会は、通常のとは異なる仕方で展
開されたようである。またアシュリー治療についての合意も、スムーズになされたわけで
はなく、「かなり複雑で(more complicated)」あったようである。それは、「これ以前の
ものと比べて、病院内部での反対が強かった」という病院関係者の証言からも明らかであ
る。
...
事の発端は、アシュリーの両親が、わが娘を小さなままで無性化することで、家庭で彼
女をケアし続け「考えられる最良の生命の質(best possible quality of life)」を彼女に与
えることができる治療を要求したことにある。彼らの要求は、病院関係者には「奇抜
(novel)」で「問題がある(controversial)」ように思われたので、これを検討するために
医師、看護婦、管理者、ソーシャル・ワーカー、倫理学者、司祭(牧師)、弁護士の 12 人
の病院関係者からなる「倫理委員会(a ethical panel)」が組織された。ただし、各委員の
名前は秘密裡にされ、討議内容も記録されなかった。2004 年 5 月 4 日に第 1 回の会合が
7
開かれ、委員たちは、アシュリーの両親から、彼女の生命の様子と彼女を小さなままにし
ておきたい理由について説明を受けた。その後、アシュリーのもとに案内され、両親と接
したり、車椅子に乗ったり、両親の声に反応したりするアシュリーの様子を実見し、彼女
が生後 3 ヶ月児と変わらない、とても可愛らしい少女であることを確認した。それから委
員たちは、アシュリーと両親をその部屋に残して、さらに 2 時間討議を重ねたが、その時
点では賛成する者はだれもいなかった。委員会は、アシュリーを小さなままにしておくこ
とが彼女にどのような助けになるのか、治療によりアシュリー自身の生命から大切なもの
が奪われないか、などの点を考慮しながら、彼女の子宮切除を、月経をなくす避妊治療の
ように考えることができるかどうかを検討した。これも、一生涯多量のエストロジンを摂
り続けると末期血栓になる危険性が高まるとの理由で否定された。ディークマは、そのと
きの様子を次のように伝えている。
「答えは容易ではなかった。人々は、最初は、何をなす
べきかについて一致しなかった。しかし、われわれは、議論を聞き、ディベートをし、話
し合いをするうちに、両親にこれらのことをさせることに合意した。だれもが確信をもて
なかったので留保付きでその部屋を出た。しかしだれもが大きな過ちを犯したと思って部
屋を出たわけではない。われわれは、危害よりも利益をもたらす可能性が高いと思った。
私が思うに、部屋にいた、もっとも及び腰の人でさえ、これを少なくとも当たりくじだと
感じた」と。こうして委員会の承認を受けて、数ヵ月後にアシュリー治療が開始されたの
である。
以上が、アシュリー治療が開始された経緯である。ここから、この治療がアシュリーの
両親の主導で行われたことが分かる。倫理委員会の運営の仕方は、アメリカと日本ではか
なり異なるものの、今回のように両親の主導で治療が開始されるのは、アメリカでも珍し
い。結果的に見れば、倫理委員会が両親に押し切られた格好になっている。これを見るか
ぎり、シンガーがアシュリー治療を支持する根拠として挙げた委員会決定がそれほど信頼
に足りうるかどうかは疑わしい。大学病院等の倫理委員会では、患者のプライバシー保護
を理由に、審議委員の名簿や審議内容が公表されないのが普通である。そのために逆に、
委員会が実験医療の「隠れ蓑」や「カムフラージュ」となる可能性もある。今回もその可
能性はなかったのであろうか。というのも、他の病院の小児科医たちは、この結果を必ず
しも支持していないからである。例えばシラクサのアップステート医科大学のグレゴリ
ー・リップタックは、
「彼らは一線を越えたと思う。彼らがこの子にしたことは、彼女の人
間らしさを奪っている。彼女は人間であり、そのために、正常な発達と性的な悦びを味わ
う権利が、あなたや私と同じように、彼女にもすべてある。」と述べて、この治療を「攻撃
的(aggressive)」と特徴づけている。また他の専門医のなかには、「アシュリーは病気で
も、苦しんでもいない。治療は根本的に介護ケアの問題を『医療化(medicalize)』してい
る。これはかなり新しい材料である。彼女の成長を止めるのとは別に、子宮切除や胸のふ
くらみを取ることは切断に近い。私はゾッとする。」といった意見を表明する人もいる。
これらの反応は、多少大げさで過敏であるかもしれない。しかしこれらの批判に含まれ
る反対論拠は典型的なものである。最近、医療現場では、新しい医療技術がいろいろと開
発されて、
「治療/非治療」や「健康/病気」などの区別が曖昧になりつつある。アシュリ
ー治療もその一例である。アシュリーが現在病気で苦しんでいるかどうかは重要な一線で
ある。しかし今回の事例では、アシュリーの両親が中心になって基本計画を策定し、それ
8
に倫理委員会が承認を与えた格好になっているので、アシュリー治療が、医師が必要だと
考える治療であったかどうかは疑わしい。そのことは委員会の合意形成過程から推測され
.......
うる。委員会は、当初は何をなすべきかについて一致を見なかった。それはなぜなのか。
..
もし何もしなければアシュリーの身体に何らかの危害が及ぶのであれば、委員たちはなす
....
べきことに反対はしなかったであろう。なすべきこととは、子宮切除、胸のふくらみの切
除、エストロジンの投与などである。これらは、彼女の生命危機を回避するためのもので
はなく、アシュリーの両親の言い分によれば、彼女自身の QOL を改善するためのもの、
具体的には、月経の不快感や起こりうる性的被害や病気からの解放を指す。これらのもの
は、健康な身体を傷つけてまでも回避されなければならないものではない。そうしてみた
.......
場合に、委員会が当初何もしないことに賛同したのは、理に適った当然の判断と言える。
しかしながらその後、委員会はこの一線を超えて、アシュリーにとって「攻撃的な」方向
に進みだす。この方向転換は、どのようにしてもたらされたのであろうか。残念なことに
その記録が残されていないので、事実は永遠に謎のままである。
6.まとめにかえて
今回の事件が反響を呼ぶやいなや、インターネット上にアシュリー治療を風刺した漫画
「これはすべ
が掲載された。13 そのひとコマには、脚を切断された赤ちゃんが描かれて、
り坂論だ。もし両親を抑える健全な医療倫理が存在しなければ、彼らは自分たちの子ども
を彼らの規格どおりに自由に切断できるだろう。」14という説明書きがある。この漫画に
は、脚をもたない赤ちゃんは動き回らないし、そのオムツ交換も容易になる、といった含
みがある。この風刺はかなり辛辣であるが、みごとに本質を射当てている。子宮切除や胸
のふくらみを取り除くことと、脚を切断することとは、相容れないとみる人もいるが、二
......
つの事柄は本質的に同一である。アシュリーは、その外見からすると、両親も「天使」と
名づけたように、
「美しい少女(beautiful girl)」である。もしもこの美しさが外科的処置
によって損なわれるとしたら、両親はきっと「治療」を認めていなかったに違いない。だ
が子宮はアシュリーの内部に隠されているので、その切除は外的な変化をもたらさない。
しかもアシュリーは子どもを産むわけではないので、子宮があってもとりたてて意味はな
い。もしこうしたことが子宮切除の理由であるとしたら、両親や家族の「都合」が優先さ
...
れていると見られても仕方がない。子宮を切除する場合も、脚を切断する場合も、その本
......... ................
人の身体性からみて、そうしなければならない内的必然性があるかどうかが重要である。
ここに焦点を当てて議論がなされれば、今回の事件もさほど難しい問題ではない。それは、
要するにアシュリーの「存在(being)」や「人間らしさ」、つまり彼女の「尊厳」を認め
ることなのである。委員会も、最初はこのレベルで議論をしていたのではないかと思われ
る。
しかしその反面、今回の事例においては、事態をより困難にしている別の要素もある。
............
それはシンガーも指摘しているように、彼女が完全に他者に依存した存在であるというこ
とである。この事実はいくら否定しても否定しきれない。そのためにこの点に議論が及ぶ
............
場合には、アシュリーにとっての最善とは何かという問題がどうしても起こってくる。倫
9
理委員会の審議委員たちが、複雑な気持ちに駆られながらも、最終的に合意に至った理由
は、案外この辺りにあるのではないだろうか。
「枕の天使の背景」というウェブの末尾の一
文は、その意味で最も印象的である。
「アシュリー物語は、曖昧さと葛藤、愛と忍耐にあふ
れている。議論は続いていくだろうが、一つだけ確かなことがある。メディアが気移りし、
倫理学者が議論の話題を変えるとき、アシュリーが病院を去って医師たちの得点稼ぎでな
くなるとき、歩けなかったり、自分で食事ができなかったり、何も語らなかったりする子
どもをケアするという大変な課題は、彼女の両親に残される。」15これ以上に深刻なメッ
セージはあるだろうか。生命倫理はこのメッセージをいかに受け止めて、いかに克服する
ことができるのであろうか。筆者にはきわめて疑問である。
注
http://www.tash.org/InTheNews/06AttenuatingGrowthInDisabilityArticle.pdf .
Reprinted in: Arch Pediar Adolesc Med. Vol 160, Oct. 2006.
2 この記事は、MSNBC のウェブサイトで公開されている。
http://www.msnbc.msn.com/id/15517226/
3 http://www.tash.org/InTheNews/06AttenuatingGrowthInDisabilityArticle.pdf
4 アシュリーの両親は、この件を”The Ashley Treatment”というブログにおいて動画付き
で紹介している。http://ashleytreatment.spaces.live.com/photo/
5 アシュリーの両親によってそう命名された。彼らはその理由を次のように記している。
「なぜなら、彼女は可愛くて、われわれが彼女を置いた場所に――たいていは枕の上に―
―じっとしているからだ。」(”The Ashley Treatment”より)
6 http://www.tash.org/InTheNews/06AttenuatingGrowthInDisabilityArticle.pdf .
7 http://ashleytreatment.spaces.live.com/photo/
1
http://www.nytimes.com/2007/01/26/opinion/26singer.html
原文は次のとおり。”Beyond that, she is precious not so much for what she is, but
because her parents and siblings love her and care about her. Lofty talk about human
dignity should not stand in the way of children like her getting the treatment that is
best both for them and their families.”
10 Peter Singer, Practical Ethics, 2nd ed. Cambridge Univ. Press, 1993, p.175.
8
9
11
http://www.commonwealmagazine.org/blog/post/index/735/Peter-Singers-Pillow-Angel
12 http://www.salon.com/news/feature/2007/02/09/pillow_angel/
13 http://editorialcartoonists.com/cartoon/display.cfm/29520/
14 原文は次のとおり。”It’s a slippery slope. Without sound medical ethics to restrain
them, parents will be free to mutilate kids to their specifications.”
15 http://www.salon.com/news/feature/2007/02/09/pillow_angel/
〔付記〕
本論文の作成に当たって、アシュリーと同じような重度発達障害のお嬢さんをお持ちの
児玉真美氏から関連資料を提供していただいた。また筑波大学名川勝氏のウェブサイト
(http://homepage3.nifty.com/mnagawa/#ashley)からも貴重な情報を得させていただい
た。お二方には、この場を借りて謝意を表します。
10
Fly UP