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UEMURA_2010-2013 meinong
「存在しない対象が存在する」というマイノングの主張に ついて―――明確化の試み 植村玄輝 ∗ 草稿(2010 / 2013 年) はじめに 本稿の目的は、アレクシウス・マイノングの「対象論 Gegenstandstheorie」の基本的発想を、マ イノング自身の議論になるべく忠実に明確化することである*1 。とはいえわれわれの関心は、マイ ノングの完成された立場を整理して紹介することにはない。そうした体系的な解説に関しては、す でにそれなりの数の文献が蓄積されている*2 。われわれはむしろ、それらの先行文献や近年の詳細 な発展史的研究(とりわけ Chrudzimski [2007a])を参考にしつつ、「存在しない対象が存在する」 としばしば定式化される大胆な主張をマイノングが自らの理論の中心に据えた動機と、その際には たらいていた前提にもっぱら注目したい。なお、この課題に集中するために、本発表ではマイノン グの対象論におけるさまざまな細かい区別の多くが度外視されることをあらかじめ断っておく*3 。 本発表の構成は以下の通りである。 第 1 節 「存在しない対象が存在する」という言葉に象徴されるようなマイノングの立場に対して、 大まかな描像を与える。 第2節 1904 年の論文「対象論について」の中でマイノングが自身の立場に与えた動機をとりあ げ、それがクワインによる架空の哲学者ワイマンの議論とよく似ていることを確認する。そ の上で、マイノング/ワイマンに対して決定的な反論を与えた(とされる)、ラッセル/ク ワインによる、記述理論にもとづいた批判を簡単に見ておく。 第3節 ∗ 対象論のその後の進展を踏まえ、マイノングが名詞句の意味に関して「記述理論」と呼ぶ mail: [email protected] *1 本発表におけるマイノングの引用・参照は、全集版(Meinong [1968–78])にもとづき、ローマ数字で巻を、アラビ ア数字でページを表す。ただし、 『想定について』第一版については Meinong [1902] を用いる。 *2 先行文献のうち、 (ドイツ語で書かれているという点を除けば)手頃さと包括性を兼ね備えたマイノング入門として もっとも薦められるのは、Simons [1986] である。 *3 具体的にいえば、存在 Existenz と存立 Bestand の区別、個体対象 Objekt と事態対象 Objektiv の区別、個別的 性質についての二つの考え方の区別、完全対象と不完全対象の区別、核性質と核外性質(さらには希釈された核外性 質)の区別などは、本稿では扱わない。 1 ことができる見解に到達していたことを示す。また、こうした事実にも関わらずマイノング が非存在対象を許容し続けた理由を明らかにする。 第4節 前節で得た描像を現代的な道具立てで描き直すための方針を示す作業を通じて、マイノン グの立場により明確な特徴づけを与える。 1 基本的主張 1.1 「存在しない対象が存在する」 マイノングは、「存在しない」対象がそれでもやはり「存在する」ことを認めた哲学者としてし ばしば理解される*4 。またそれにともなって、「マイノング主義」は、存在しない(と考えられる) 対象に何らかのいみで余地を認める存在論上の立場の名前としていささかカジュアルに用いられて いるように思われる。こうした理解を背景に、マイノング(主義)には、存在概念の複数化がそも そも理解不可能であるという批判が寄せられてきた*5 。丸い四角や黄金の山のような存在しない対 象が「存在する」という言い方そのものが、端的に理解不可能だというのである。 だが、少なくともマイノング自身が意図した立場が問題になるかぎりでは、実状はそれほど単純 ではない。マイノングの特徴づけにしたがうならば、存在しない対象も含めた対象そのものは「存 在と非存在の彼方」に位置づけられ、 「存在の埒外にある außerseiend」のである(cf. II: 494) 。さ らには、存在しない対象についてさえも述べられる「es gibt (there is)」がいかなる通常の存在概 念とも異なること(cf. III: 22)や、この「es gibt」によって新たな存在概念が持ち出されている わけではないということ(cf. IV: 79–80)がマイノングの著作中で明言されている。このように、 少なくともマイノング自身の意図としては、「存在しない対象が存在する」という言い回しはせい ぜいのところ逆説的な響きを持つキャッチフレーズでしかなく、額面通りに受け止められるべきも のではない。 問題は、マイノングのこうした考えが本当に理解可能であり検討に値するかである。これを論じ るためには、マイノングの対象論についての詳しい描像を得る必要がある。したがって、われわれ は存在しない対象についてさえ述べられる「es gibt」をさしあたり「ソンザイする」と訳すが、そ れを理解するために存在概念の複数化が本当に必要かどうかについては、未決定のままにして話を 進める*6 。われわれは第三節においてこの「ソンザイ」の役割を突き止め、第四節でその再定式化 の方針を示すことによって、それが何を意味するのかをはっきりさせる。 *4 たとえばクワインは、非存在対象を含めたマイノングの探究の領域を「存在の領域 realm of being」 (Quine *5 [1966: 658, 661])と見なしている。 van Inwagen [1998] や Lycan [1979] などがその例として挙げられる。 *6 「ソンザイ」はとうぜん「存在」を連想させるが、そもそもマイノング自身が用いているドイツ語の「es gibt」が (少なくとも日常的な言葉遣いの範囲内では)「sein」や「existieren」と深く結びついているのだから、われわれの 訳語によってマイノングの語法のニュアンスが不当に歪められることはないように思われる。 2 1.2 「すべては対象である」 何が(どのように)存在するのかについての一般的な理論を「存在論」と呼ぶならば、マイノン グの対象論は存在論をその一部として含む。マイノングは存在しない対象だけに関心をもっている わけではない。だが、存在論の考察範囲が存在するものに限られるのに対して、対象論は黄金の山 や丸い四角のような存在しないもののソンザイについても考察する。マイノングは、すべての存在 者を包括しつつ更に巨大な外延をなすソンザイ者一般を問いの俎上に載せるのである。それらのソ ンザイ者一般を、マイノングは「対象 Gegenstände」と呼ぶ。対象論がそのように呼ばれる理由は ここにある(cf. VII: 13)。こうしてわれわれは、「何が(どのように)ソンザイするのかについて の一般的理論」という暫定的な特徴づけを対象論に与えることができる。 すると問題になるのは、マイノングにしたがえば何がソンザイするのか、何が対象なのかという ことだろう。こうした問いに対するマイノングの端的な回答は、「すべてが対象である [A]lles ist Gegenstand」(VII: 12)というものである。この答えは、「何があるのか what is there?―――すべ て everything」という、存在論的考察の前口上として定番になった問答におけるそれと並行的であ るといっていいだろう。 だが、ここには重大な違いもある。「何があるのか」という存在論的問いに対する「すべて」とい う回答は、一見するとトリヴィアルであるが、実のところその内実は自明ではない。「すべて」の 範囲に何が収まるのかについてわれわれは一致した見解を持たないのだから、何が存在するのかに ついては論争の余地がおおいにある。たとえばマイノングは、この問いに対して「時空内に位置づ けられ因果的効力を持つ現実の対象だけが存在する」という回答を与えるが(cf. II: 394)、これに はさまざまな反論があるだろう*7 。それに対して、「何が対象である(ソンザイする)のか」とい う対象論的問いに与えられる「すべて」という答えの内実について、われわれの見解が一致しない ということはありえない。マイノングの考えにしたがえば、言葉のもっとも強いいみでのすべて、 ありとあらゆるものが対象であり、対象でないようなものは本当に何もないである*8 。われわれの 大多数が存在すると考えるもの(富士山、眼の前のこの机)はもちろんのこと、存在するかどうか について論争の余地があるもの(数学的対象、普遍者)や、われわれの大多数が存在しないと考え るもの(黄金の山、現在の日本国大統領)、さらには、存在することが不可能であるように思われ るもの(正十面体のサイコロ、木製の鉄瓶)までもがソンザイし、そのかぎりで対象論の守備範囲 に収まっている*9 。何がソンザイするのかということは、対象論にとって興味深い問題にならない *7 残念ながら、本稿では何が存在するのかについてのマイノングの立場を検討することはできない。 正確にはこうした言い方は不適切であり、われわれはいかなる言い回しを用いてもここで言いたいことを適切に表現 できない。というのも、マイノングの立場にしたがえば、 「対象ではないもの」や「ソンザイしないもの」に対応する 対象もソンザイするのである。するとマイノングは、対象ではないものが対象である、ソンザイしないものがソンザ イする、という矛盾した帰結を受け入れざるを得なくなるように思われるが、こうした困難には回避策が与えられて いる。この点および、ありとあらゆるものからなる「絶対的総体 the absolute totality」という考えが矛盾したも のではないことを論じたものとして、Simons [2005] を参照。 *9 したがって、 「存在しないものがソンザイする」と述べるときに、マイノングは存在しないものだけが独自に備えて いる何かを理論に導入しているわけではない。マイノングの主張は、存在するものはすべてソンザイしているが、そ *8 3 のである*10 。対象論者の関心を引くのは、さまざまな対象の持つ特徴、つまり、対象がそれぞれど のようにソンザイするのかということに限られる。 2 マイノングとワイマン さて、マイノングの基本的な立場に与えた以上のような描像から、われわれは次のような主張を 引き出すことができる。 (M1) 「x は存在するのか」というかたちの問いが有意味なものとして成り立つようなあらゆる x について、x はソンザイする(つまり対象である)。 この主張は、クワインの「何があるのかについて」 (Quine [1948])に登場する架空の哲学者「ワイ マン」を連想させる。実際、ワイマンのモデルはマイノングであるという指摘は、これまでにもな されてきた*11 。そして少なくとも一見するかぎりでは、マイノングとワイマンは共通の動機から よく似た立場に辿り着いている。本節では、この点を確認した上で、マイノングやワイマンに対す るラッセルやクワインの批判を簡単に見ておく。 2.1 名詞句の有意味性からの議論 ワイマンを導く考えは、何かの存在を否定するためには、その何かがあるいみで存在しなければ ならないというものである(cf. Quine [1948: 4])。この考えの根底には、あらゆる名詞句は指示表 現であり、名詞句の有意味性はそれに指示対象を割り振ることで説明されるという発想がある*12 。 こうした発想にしたがえば、「黄金の山は存在しない」という文が有意味であるためには、「黄金の 山」によって指示される対象が存在しなければならない。ところでこの文は真であるのだから、黄 金の山という存在しない対象が存在する*13 。「存在しないものが存在する」という主張を導くワイ マンの議論はおよそ以上のように要約できる。 マイノングも、非存在対象を導入する際に少なくとも一回ワイマンとよく似た議論をしている。 丸い四角は存在しないということを認識するためには、私は丸い四角について判断しなけれ ばならない。物理学・生理学・心理学が一致していわゆる感覚質の観念性を主張するとき、 それによって暗黙的に、音や色について何かが述べられている。つまり、厳密にいえば音も 色も存在しないということが述べられている。逆説的な表現の仕方を好む人は、まったく十 の逆は成り立たないというものである。 したがって、ソンザイしないものに余地を認める立場は、本来的ないみでのマイノング主義ではないことになるだろ う。 *11 たとえば Lycan [1979: 276]。 *12 Russell [1905: 482–3] もマイノングの立場をそのようなものとして考えている。 *13 ワイマンは、名詞句の有意味性についての自らの見解にしたがって、不可能対象を表示しているように見える表現 (たとえば「丸い四角」 )を無意味なものと見なしている(cf. Quine [1948: 5]) 。 「丸い四角」を有意味な表現と考え るマイノングはこの点に関してワイマンと見解を異にするが、本発表ではこれを度外視する。 *10 4 分に次のように述べることができるだろう。そのような対象は存在しない、ということが成 (II: 490) り立つような対象がソンザイする、と。 丸い四角や感覚質の存在を否定する判断は、それらについての判断であるのだから、それらはわれ われの判断作用の対象(志向的対象)としてはソンザイしていなければならない―――ここでのマイ ノングの言い分はこういうものである。 たしかに、ワイマンが名詞句を指示表現と見なした上でその有意味性から非存在対象の存在を導 いたのに対して、マイノングは上の引用文中で心的作用の志向性から同様の見解に至っている。だ が、こうした相違は見かけ上のものにすぎない。「対象論について」に先立つ『想定について』第一 版(1902 年)において、マイノングは、ある言語記号の意味をそれが指示対象を持つことによっ て説明し、言語記号の指示対象への関係を、それが表現する心的作用が志向的対象を持つことと同 一視している(cf. Meinong [1902: 19–20])*14 。したがって、少なくとも上で引用した一節だけを 問題にするならば、マイノングの議論はワイマンの議論とほぼ同型のものと見なすことができる。 2.2 マイノング/ワイマンに対するラッセル/クワイン的批判 マイノングがワイマンと少なくとも一回共有している議論は、名詞句の有意味性とそれが対象を 指示することの同一視を前提している。この前提が正しいならば、「黄金の山」や「丸い四角」と いった名詞句の分析に際して、われわれは非存在対象を理論に導入するか、そうした名詞句を無意 味なものと見なすという二者択一を余儀なくされるだろう。それらの名詞句の有意味性は説明され るべき事実であり否定しがたいのだから、問題の前提は非存在対象の導入をきわめて強く動機づけ ることになる。 しかしよく知られているように、マイノングの同時代にラッセルが、そしてその約 40 年後に、ワ イマンを架空の論敵としてラッセルの理論を引き継ぎつつクワインが、この前提を用いずに名詞句 を解釈する立場を打ち出している*15 。もちろん、ラッセルとクワインの立場にはいくつかの重大 な違いがある*16 。だが、目下の議論にとって重要なのは、彼らが共有する(というよりも、クワイ ンがラッセルから継承する)次の二つの方針である(cf. Russell [1905: 480–1]; Quine [1948: 6]) 。 (RQ-1) 名詞句は、それを含む完全な文の分析を通じて分析される。 (RQ-2) 名詞句は、「…は Φ である」というかたちで表現される記述の束として分析される。 これらの方針にしたがうならば、存在しない対象を指示するように見える名詞句、たとえば「青い *14 なお、言語記号と指示対象の間の意味論的関係を心的作用の志向性から派生的に説明するという戦略は、ブレンター ノ学派に始まる初期現象学の伝統において支配的なアプローチであった。このアプローチについては Chrudzimski [2002] が明快な概略を与えている。 *15 ただし、ラッセルの記述理論がマイノング的意味論の克服を直接的な動機としているかどうかについては議論の余地 がある(cf. Hylton [2005: 200–3] を参照) 。 *16 たとえば、固有名の扱いに関する違い、何が存在論的コミットメントを担うのかという点に関する違いなどが挙げら れる。 5 (RQ-1)より、それを含む 猫型ロボット」*17 は以下のように分析される。「青い猫型ロボット」は、 完全な文、たとえば、 (1) 青い猫型ロボットにはヒゲがある の分析を通じて分析されなければならない。そしてこの文は、(RQ-2)にしたがって (1′ ) 少なくとも一つの何かが青く、猫型ロボットであり、ヒゲを生やしている、そして、他のど のようなものも、青くてかつ猫型ロボットであることはない という論理形式を持つものとして分析される。そして、 (1′ )のようにパラフレーズされた文には存 在しないものを指示する表現は一つも登場しないのだから、 (1)が有意味であることは、黄金の山 という非存在対象を持ち出すことなく説明される。こうして、「青い猫型ロボット」や「現代の日 本国大統領」といった名詞句(を含んだ文)が有意味であることを認めながらも、非存在対象を理 論に導入するマイノング的意味論から手を切ることが可能になる。 3 マイノング版の記述理論と独立性原理 記述理論にもとづく名詞句のパラフレーズをマイノング的意味論に代わる方法として打ち出す 際に、ラッセルとクワインはある共通の前提の下に立っている。それは、マイノング的意味論は (RQ-1)と(RQ-2)を拒否した結果として(あるいは、それらの方針の有効性に気付いていない ために)要請されているという前提である。彼らが理解するかぎりでのマイノングやクワインのワ イマンにしたがえば、たとえば「現在のフランス国王」は現在のフランス国王を、「丸い四角」は 丸い四角を指示するひとまとまりの表現であり、それを含む完全な文の一部として記述の束へとパ ラフレーズされて分解されるわけではない*18 。 だが、このようなマイノング理解は適切ではない。マイノングは、萌芽的には 1902 年の『想定 について』第一版の段階から、そして遅くとも 1910 年に公刊された同書の第二版においてはっき りと、(RQ-1)と(RQ-2)にほぼ対応する見解を背景に、名詞句(あるいは名詞句の有意味性の 根底をなす志向的作用)に関する記述理論と呼んで差し支えのない立場を取っている。マイノング は、名詞句に対してラッセルやクワインとよく似た分析を与えたうえで、それでもなお非存在対象 を理論の中に持ち込むのである。 3.1 マイノング版の記述理論 『想定について』第二版のマイノングにしたがえば、名詞句によって表現される志向的作用、 つまり、対象を把握するという作用は、何かに性質を帰属させるという述定的な構造を持つ *17 *18 本稿では「青い猫型ロボット」を確定記述と見なして話を進める。 少なくともラッセルに関していえば、こうしたマイノング理解は「表示について」の後半部にはっきりとあらわれて いる(cf. Russell [1905: 491])。 6 (cf. IV: 269)。したがって、どのような有意味な名詞句も、「…は Φ である」というかたちで表現 される記述の束として分析されなければならない。こうしてマイノングは、 (RQ-2)に相当する見 解を手にすることになる。そして対象の把握は、典型的には「Φ であるものが存在する」や「Φ で あるものは Ψ である」という形式の判断の基礎として機能するのだから、対象の把握は判断の(少 *19 。したがって、われわ なくとも潜在的な)一部として分析されなければならない(cf. IV: 240) れの把握作用を表現する名詞句は、判断作用を表現する文の(少なくとも潜在的な)一部として分 析されなければならない。つまり、マイノングは(RQ-1)に対応する見解も手にしている*20 。 このように、マイノングは名詞句をひとまとまりの指示表現と見なすことに固執していたわけで はない。むしろ、遅くとも 1910 年以降のマイノングの議論は、名詞句にどのような分析が与えら れるべきかに関してラッセルおよびクワインと大筋で一致する路線にある。すると問題になるの は、それにも関わらずマイノングが非存在対象の導入を保持しつづけたのはなぜかということだろ う。青い猫型ロボットが存在しないことは、青い猫型ロボットという非存在対象のソンザイによっ てではなく、青い猫型ロボットであるという(複合的)性質が例を持たないということ(ラッセル) や、あるいは量化のドメインの中にあるどの対象も「x は青い猫型ロボットである」という記述を 満たさないこと(クワイン)によって説明すればいいのではないだろうか。こうした当然の疑問に 答えるためには、マイノング版の記述理論が何を背景にして登場したのかを押さえる必要がある。 3.2 独立性原理(と特徴づけ原理) マイノング版の記述理論は、たしかにラッセルの記述理論と基本方針を共有している。だが、そ こに至った経緯に関しては、両者のあいだに大きな違いがある。マイノングを(RQ-1)と(RQ-2) に相当する見解へと導いたのは、名詞句という見かけ上の指示表現の問題ではなく、真理について の特定の考えなのである。 マイノングの考えは、「独立性原理 das Prinzip der Unabhängigkeit」という名称の下で、次の ように定式化されている。 ある対象が〈しかじかであること Sosein〉は、その対象が存在しないことによっていわば一 緒にやられてしまうわけではない。(II: 489) この(不明瞭な)定式化の際にマイノング自身も述べているように、この原理は彼の学生であるエ ルンスト・マリーによって 1903 年に最初に表明され、 「対象論について」と同じ論集に収められた 論考において詳しく扱われている。マリーによる独立性原理の(明快な)定式化も見ておこう。 どの対象も、存在しているかしていないかのどちらかである。しかし、どの対象も何らかの 性質を持つ。したがってどの対象も、それが存在しようとしまいと、〈しかじかであること〉 *19 実は、マイノング自身の議論はもう少し込み入っている。しかし、それを取り上げるためにはマイノングが文の意味 論的相関者として導入した「事態対象 Objektiv」について立ち入って論じる必要があり、これは本稿の課題を超え ている。 *20 以上の点について、より詳しくは Chrudzimski [2007a: 187–97; 2007b] を参照のこと。 7 を持つ。ある対象が〈しかじかであること〉は、その存在から独立的なのである。(Mally [1904: 126]) マイノングとマリーにしたがえば、対象が何らかの性質を持つこと(「〈しかじかであること Sosein〉」)は、その対象が存在するかどうかとは無関係である。対象そのものは存在と非存在を超 え出ているという対象論の基本的主張も、この原理から帰結する。 独立性原理は、真理についての次の二つの主張に分解することができる。 (M2) 存在しない対象が持つ性質についての真理がある (M3) どのような真理も、われわれの判断からは独立した対象の水準にその基盤を持つ マイノングは『想定について』第二版において、これらの主張を認めるべき理由としておよそ次の ようなことを述べている*21 。存在しない対象、たとえば永久機関は、〈外部からのエネルギー供給 なしに運動しつづける〉という(複合的)性質を備えているからこそ、そのようなものとして把握 された上で、熱力学の知見にもとづいて存在しないということが示される。つまり、永久機関は外 部からのエネルギー供給なしに運動しつづけるということが真であるからこそ、永久機関は存在し ないというわれわれの判断は正しい。そして、存在しない対象の特徴に関する真理も、真理である 以上、われわれの判断からは独立した対象の水準に基盤を持たなければならない*22 。したがって われわれは、独立性原理を次のように再定式化することができる。 (M4) ある対象が性質を持つことは、それが存在すること(あるいは存在しないこと)から独立し た水準で、正しい述定の(われわれから独立した)基盤として扱われる。したがって、性質 の担い手としての対象そのものは、存在と非存在を超え出ている。 このように、独立性原理は、「非存在対象についてもそれが持つ特徴・性質に関する真理がある」 というわれわれの直観と、真理はわれわれから独立した対象の領域―――これは「実在」とよばれる のがふつうだが、マイノングの立場が問題になる場合、「在」という語を含むこの用語はいささか 使いにくい―――に根ざしているという「実在」論的前提にもとづいて主張されている。こうした事 情を踏まえれば、マイノング的なソンザイも、少なくとも端的に理解不能なものではなくなるだろ う。対象のソンザイとは、〈(場合によっては存在しない)何かがしかじかの性質を備えている〉と いうこと同じなのである。こうした考えから記述理論的な発想まではあと一歩である。存在と非存 在の彼方にソンザイする対象はどれも、「しかじかの性質を備えた何か」という形式を備えている。 すると、存在するかどうかを問うことができるようなあらゆる対象は、それが実際に存在するかど *21 マイノング自身の言葉は以下の通り。「たとえば誰かが『永久機関は存在しない』と判断するとしても、次のことは 十分に明らかである。つまり、現に存在することがここで否認されている対象が、性質を持たなければならないとい うこと、しかも、非存在の確信がそれなしでは意味も正当性も持てないであろう特徴的性質を持たなければならない ということである。とうぜん、性質を持つことは『〈しかじかであること Sosein〉』と同じことを意味する。だがそ の場合、この〈しかじかであること〉はいかなる存在も前提にしていない。むしろ、存在は正当にもまさに否定され ているのである」 (IV: 79) 。 *22 マイノングは後に、あらゆる対象がわれわれから独立していることを明言している。 「対象は、把握されようがされ まいが、そうであるがままである」 (VI: 244)。 8 〈しかじかの性質を持つ何か〉として把握できなければならな うかとは独立的に、それに先立って、 い*23 。われわれは対象を記述を介して把握するのであり、そうした把握は、その対象について下さ れる判断という脈絡の(少なくとも潜在的な)一部分として位置づけられる。ところでマイノング の考えにしたがえば、言語表現はそれが表現する志向的作用の構造にもとづいて分析されなければ ならない。したがって、対象の把握作用を表現する名詞句は記述の束に分解され(RQ-2)、また判 断作用を表現する文の(少なくとも潜在的な)一部分として位置づけられることになる(RQ-1)。 独立性原理という背景を踏まえるならば、マイノング版の記述理論が存在しない対象をなしで済 ませなかった理由は明確である。存在しない対象についての次のような文、 (2) 青い猫型ロボットは青い (3) 現在の日本国大統領は大統領である は、マイノングにおいても、(RQ-1)と(RQ-2)に対応する方針にしたがってパラフレーズされ る。しかし、ラッセルやクワインとは異なり、マイノングの考えでは、これらの文は存在しない対 象が持つ性質についての真理を表現している*24 。したがって、たとえば青さと猫型ロボットであ るという性質を同時に備えた対象(あるいは「x は青く、かつ猫型ロボットである」を満たす対象) が、存在しないものとして理論の中に導入されなければならない。 このように「Φ であるものは Φ である」という形式の述定は真であるという直観を、マイノン グはあくまでも守り通そうとしている。こうした前提に立つならば、任意の記述句に対してそれに 含まれた記述のすべてを満たす対象が割り当てられることになる*25 。そして独立性原理より、そ うした対象は問題の述定の正しさの基盤として特定の性質を持っていなければならない。したがっ て、われわれはマイノングに次のような原理(「特徴づけ原理」)を帰属させることができる。 (M5) 任意の記述句について、ある対象がその記述句に該当する性質をすべて持つ。 この特徴づけ原理は、独立性原理と並び、現代のマイノング主義の出発点の一つとなっている。 *23 「対象は、いわばそれが持つ〈しかじかであること〉を手がかりにして把握される。しかる後に判断され、場合に よっては認識されるのは、当該の〈しかじかであること〉を手がかりに把握されたものの存在か、あるいはそのよう に把握されたもののさらなる〈しかじかであること〉なのである。当該の〈しかじかであること〉は、 〔…〕存在の限 定なしに把握可能である。そのかぎりでわれわれの把握は、その対象にとって所与であるような何か〔=〈しかじか であること〉 〕を、存在と非存在についての問いをどう決定するかを考慮せずに見いだすのである」 (IV: 79) 。なお、 マイノングの考えでは、あらゆる対象は原理的に把握可能である(cf. VII: 22, 45)。さらに、対象の構造とそれが 把握される仕方のあいだには相関が認められる(cf. Simons [1986: 96])。 *24 マイノング自身が例として挙げているのは、 「黄金の山は金でできている」や「丸い四角は丸い」である(cf. II: 490) 。 *25 この帰結だけを見るならば、マイノングの立場は名詞句を指示表現と見なす立場と同等である。そのかぎりで、マイ ノングにワイマンと同じ見解を帰する解釈にもまったく根拠がないわけではない。だが、ワイマンが名詞句を指示表 現と見なす考えを出発点に置くのに対して、マイノングの出発点にあるのは独立性原理である。この相違は見逃され てはならない。 9 4 マイノングの対象論はどのように再構成されるべきか ここまでの話をまとめよう。マイノングの対象論が非存在対象を導入した理由は、一見すると、 名詞句の有意味性を説明するためであるように思われる。だがマイノングは、ラッセルの記述理論 やそれを引き継いだクワインの議論によって乗り越えられた(と考えられる)こうした立場に立っ ているわけではない。それどころか、名詞句の分析に関して、マイノングはラッセルおよびクワイ ンと基本的な考えを共有している。マイノングによる非存在対象の導入の実際の動機は、存在しな い対象についての真理があるというわれわれの直観を、真理に関する「実在」論的な前提のもとで 扱うという点に存するのである。マイノング版の記述理論も、こうした目論みを達成するために導 入した独立性原理を背景に持つ。 さて、われわれはここまで、アナクロニズムを可能な限り避けながらマイノング自身の考えにな るべく忠実に沿って議論を進めてきた。しかしここからは、上の成果を踏まえつつ、マイノングが 「ソンザイ」や「存在の埒外」という言い回しで何とか特徴づけようとしてきた発想を、彼が手にす ることができなかった―――ごくごく初歩的な―――現代の道具立てを導入することで再定式化する。 これによって、われわれはマイノング的な「ソンザイ」の内実をマイノング自身がなしえたよりも 明確化することになるだろう。 4.1 純粋対象が存在の埒外にあること 存在しない対象についてさえ述べられる「ソンザイ」を現代的な道具立ての中でどのように理解 すべきか、という問題から始めよう。手がかりになるのはマイノング版の記述理論である。 ラッセルとクワインが共有する方針(RQ-1) ・ (RQ-2)にしたがえば、マイノングが真であると 見なす文 (2) 青い猫型ロボットは青い は、 (2′ ) 少なくとも一つの何かが青く、猫型ロボットであり、青い、そして、他のどのようなものも、 青くてかつ猫型ロボットであることはない とパラフレーズされる。こうしたパラフレーズは、標準的な一階述語論理にもとづくと、さらに次 のように表現し直される。(「B 」は「…は青い」、「C 」は「…は猫型ロボットである」と読む。) (2′′ ) ∃x (Bx & Cx & Bx & (∀y (By & Cy) → y = x)) さて、もし(2)が真であるならば、そのパラフレーズである(2′′ )から連言肢を落とした (2′′ b) ∃x (Bx & Cx) 10 も真である。ここに登場する量化子「∃」は、日本語の「いくつかの…が存在する」という表現を 簡略化したものとして導入され、そのため「存在量化子」と呼ばれるのがふつうである。だがマイ ノングの考えに従うならば、(2′′ b) に登場する「∃」を存在量化子として導入されたものと見なす ことはできない。青い猫型ロボットは時空内に位置づけられ因果的効力を持つ現実の対象ではない のだから、そうした対象だけが存在すると考えるマイノングにしたがえば、 (4) 青い猫型ロボットは存在しない は真である。すると「∃」が存在量化子ならば、 (4′ ) ¬∃x (Bx & Cx) も真であることになるが、これは (2′′ b) と矛盾する。 したがってわれわれは、マイノングの記述理論を一階述語論理およびその標準的な記法を用いて 定式化する場合、 「∃」を存在量化子ではないものとして導入しなければならない。別の言い方をす れば、マイノングの対象論を一階述語論理によって表現するためには、われわれは、量化のドメイ ンに入っていることを存在することとから区別する必要がある*26 。その場合、 「∃」は「少なくとも 一つのものについて、それが…ということは真である」という表現を簡略化したもの、特称量化子 として導入されることになる*27 。すると(4)は、一階の述語としての存在*28 (「E 」)を導入し、 (4′′ ) ∃x (Bx & Cx & ¬Ex) と表現されることになる。あるいは、存在者からなる狭いドメインに制限された特称量化子(つま り存在量化子)「∃e 」を導入し、 (4′′′ ) ¬∃e x (Bx & Cx) と表現することも可能である*29 。 4.2 純粋対象とはなにか 次に問題になるのは、量化のドメインの中に入っている「存在と非存在を超えた対象」とは何か ということである。マイノングによれば、存在しない対象についての真理が成り立ち、そうした真 理もドメイン内の対象が関連する性質を持つことに根ざしている。したがって、マイノング的なド メインの中には、たとえば、金でできているという性質と山であるという性質を同時に持つ対象、 *26 もう一つの選択肢として、ドメイン内の対象が割り振られない空な名前を認める自由論理 free logic による再構成 があるが、今回はこれは扱わない。マイノング主義的な自由論理については、Chrudzimski [2007a: 360–3] が概略 を与えている。また、自由論理による再構成がマイノング解釈として一定の根拠を持っているという点については、 Chrudzimski [2004] を参照。 *27 こうした事情を反映して、プリーストの新マイノング主義的体系では、特称量化子をフラクトゥーアの S( 「S」)に よって表している。Priest [2005, 13](翻訳 14 ページ)を参照。 *28 ただし、 「存在する」という述語は特別な種類の性質を表している。 *29 プリーストの体系では、存在量化子は「∃」と表記されている。Priest [2005, 14](翻訳 15 ページ)を参照。 11 つまり黄金の山が見いだされる。 こうした考えに、特徴づけ原理および一階述語論理に与えられる標準的な意味論を手がかりにし て描像を与えるならば、われわれはマイノング的な純粋対象を次のように定義することができる。 (PO) x は純粋対象である ↔def. x が例化する性質の組が存在する(ただし、性質の組み合せは、 現実に存在する対象が例化していないものや、例化できないものであっても構わない) 別の言い方をすれば、こうした定義は、マイノング的な純粋対象を性質の集合によって表象される ものと同一視するという方針に立っている*30 。 しかしこうした定式化は、マイノングに忠実であるとは言いがたい。マイノングは性質をもっぱ ら個別的なもの(例を持たないもの) 、つまりいわゆるトロープとして理解していた*31 。そのため、 後期マイノングの対象論において、複数のものに例化される普遍者としての性質は何ら積極的な 役割を果たさない*32 。また、初期のマイノングは個体を個別的性質の束と同一視する傾向にあっ た*33 。したがって、あらゆる名詞句に対して割り当てられるマイノング的な純粋対象とは、〈当該 の名詞句を構成する記述に対応した個体的性質〉の束であることになる。たとえば「黄金の山」に 割り当てられる対象は、金でできているという個別的性質と、山でできているという個別的性質か らなる束であり、「黄金の山は金でできている」という述定の正しさの根拠は、この束の中に金で できているという個別的性質が含まれていることに求められる。 すると、マイノングの対象論は、およそ次のような立場であることになる。マイノング的ドメイ ンの中には、言葉のもっとも強いいみでのありとあらゆるものが見いだされるが、それらは個別的 性質であるか、個別的性質から構成されたものである*34 。したがってマイノング的ドメイン内に おけるもっとも基礎的なものは単純な個別的性質であり、それらのごくわずかなものだけが存在す る。すでに述べたように、マイノングは時空内に位置づけられ因果的効力を持つものだけが存在す ると考えているのだから、何が存在するのかという問いに対する彼の答えは、時空的で因果的効力 を持ったトロープだけが存在するというものになる*35 。 *30 *31 *32 *33 *34 *35 これは Parsons [1980] の方針である。 こうした発想は、マイノングが属していた同時代の哲学的伝統において珍しい考え方ではなかった。この点について は Schnieder [2006] を参照。 Chrudzimski [2007a: 62] を参照。 Chrudzimski [2007a: 68] を参照。なお、マイノング自身はこの考えを 1906 年に放棄しようとしているが、彼 が実際に取っていた立場は結局のところ束説だと見なす十分な根拠がある。これらの点についても Chrudzimski [2007a: 247–9, 333–6] を参照。 したがって、ドメイン内の対象と名詞句の関係は次のようなものになる。「すべての思念〔=名詞句が対象を表示し ていること〕は、 〔…〕次のようなある種の選択 Auswahl として特徴づけられうる。つまり、存在の埒外にある無限 に多くのものから、あらかじめ与えられた規定にもとづいて捉えられた選択である。これらの規定とは、結局のとこ ろ、性質つまり〈しかじかであること〉のことである〔…〕 」 (IV: 275) 。名詞句は、一群の個別的性質を記述によっ てピックアップすることによって、それらの個別的性質によって構成される対象を選び出すのである。 なお、マイノング自身は現在主義にはっきりと反対している(cf. IV:76–7)。 12 おわりに代えて 以上の考察によって、マイノング的ソンザイとは何かということは、かなり明らかになっただろ う。x についてこれこれのことが真であるということは、これこれの x が存在することから区別 されるという見解を受け入れるならば、「存在しない対象がソンザイする」というマイノングの主 張は十分に理解可能である。もちろん、この見解はまったくもって自明であるというわけではない が*36 、明白な誤りとしてただちに斥けられるべきものでもないだろう。この見解の当否について は論争の余地がある。だが、これを主要な論点にして、問題の区別ができる、いやできないという 争いにかかずらうことは議論を不毛な方向に導きかねない。建設的な議論のためには、この区別を マイノング(主義)の作業仮説と見なし、完成した理論の出来からその正否を評価するべきだろう。 参考文献 [1] Chrudzimski, A. 2002. “Von Brentano zu Ingarden. Die phänomenologische Bedeutungslehre.” Husserl Studies 18: 185–208.(邦訳:アルカディウス・フルヅィムスキ「現象学的な 意味の理論:ブレンターノからインガルデンまで」、植村玄輝訳、『現代思想』、2009 年 12 月 臨時増刊号。) [2] ——–. 2004. “Meinong und Supervaluation,” in Phenomenology and Analysis. Essays on Central European Philosophy, A. Chrudzimski & W. Huemer (eds.), Frankfurt a.M.: Ontos, 105–30. [3] ——–. 2007a. Gegenstandstheorie und Theorie der Intentionalität bei Alexius Meinong, Dordrecht: Springer. [4] ——–. 2007b. “Meinong’s Version of the Description Theory.” Russell. The Journal of the Bertrand Russell Studies 27: 73–85. [5] Hylton, P. 2005. Propositions, Functions, and Analysis. Selected Essays on Russell’s Philosophy, Oxford: Oxford University Press. [6] Lycan, W. 1979. “The Trouble with Possible Worlds,” in The Possible and the Actual, M. Loux (ed.), Ithaca/London: Cornell University Press, 274–316. [7] Mally, E. 1904. “Untersuchungen zur Gegenstandstheorie des Messens,” in Untersuchungen zur Gegenstandstheorie und Psychologie, A. Meinong (ed.), Leibzig: J. A. Barth, 121–262. [8] Meinong, A. 1902. Über Annahmen, 1st ed., Leipzig : J.A. Barth. [9] ——–. 1968–78. Alexius Meinong Gesamtausgabe, R. Haller, R. Kindinger, & R. M. Chisholm (eds.): Graz: Akademische Druck- u. Verlagsanstalt. [10] Parsons, T. 1980. Nonexistent Objects, New Haven/London: Yale University Press. *36 たとえば van Inwagen [1998: 22] は、問題の区別が成り立たないと考えている。 13 [11] Priest, G. 2005 Towards Non-Being. The Logic and Metaphysics of Intentionality, Oxford: Oxford University Press.(邦訳:グレアム・プリースト『存在しないものに向かって―――志 向性の論理と形而上学』、久木田水生・藤川直也訳、勁草書房、2011 年。) [12] Quine, W. V. O. 1948. “On What There Is.” Review of Metaphysics 2: 21–38. Reprinted in his From A Logical Point of View, Cambridge (MA): Harvard University Press, 1953, 1–19. (邦訳:W・V・O・ クワイン、「何があるのかについて」、飯田隆訳、『論理的観点か ら』、勁草書房、1992 年。) [13] ——–. 1966. “Russell’s Ontological Development.” The Journal of Philosophy LXIII/21: 657–67. [14] Russell, B. 1905. “On Denoting.” Mind 14/56: 479–93.(邦訳:バートランド・ラッセル、 「表示について」、松阪陽一訳、『言語哲学重要論文集』、松阪陽一編訳、春秋社、2013 年。) [15] Schnieder, B. 2006 “Particularised Attributes: An Austrian Tale,” in The Austrian Contribution to Analytic Philosophy, M. Textor (ed.), London: Routledge, 130–58. [16] Simons, P. 1986. “Alexius Meinong. Gegenstände, die es nicht gibt,” in Grundprobleme der großen Philosophen. Philosophie der Neuzeit IV, J. Speck (ed.), Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 91–127. [17] ——–. 2005. “Meinong, Consistency, and the Absolute Totality.” Meinong Studies/ Meinong Studien 1: 233–54. [18] van Inwagen, P. 1998. “Meta-Ontology.” Erkenntnis 48: 233–50. Reprinted in his Ontology, Identity, and Modality. Essays in Metaphysics, Cambridge: Cambridge University Press 2001, 13–31. 14