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マ
赤池、炭鉱の
歴史
炭鉱
︶筑豊石炭坑業組合を組織︵後の筑豊石炭鉱業会︶
筑豊の名が使われ始める。
1873︵明治6︶赤池石炭方を赤池石炭所に改名
日本坑法公布後、同年、赤池石炭取引所に改名
1885︵明治
1886︵明治
︶赤池選定鉱区を安川敬一郎、平岡浩太郎が
共同出願協定を結ぶ︵明治 年・安川敬一郎専有︶
27
︶赤池竪坑完成
1896︵明治 ︶明治炭坑株式会社設立
︶明治・赤池・豊国炭鉱を合わせて
明治鉱業株式合資会社設立
37
︶赤池発電所開設
17
︶豊国鉱業所を赤池鉱業所に編入
83
1944︵昭和 ︶赤池鉱業所最盛期、鉱員数3千853人
1939︵昭和
1935︵昭和 ︶第三坑ガス炭塵爆発で 人殉職
︵赤池坑最大の事故・重軽傷 人︶
1930︵昭和5︶女性の入坑を禁止
1921︵大正
1908︵明治
1902︵明治 ︶赤池鉱山学校開校︵明治 年廃校︶
34
1888︵明治
1894︵明治 ︶赤池炭鉱が汽車輸送を開始
1890︵明治
︶筑豊五郡川
同業組合設立︵明治 年には7千艘︶
18
19
21
23
27
29
35
41
10
10
14
︶重油・石炭の輸入で炭鉱業界不況
48
︶赤池発電所閉鎖
1961︵昭和 ︶産炭地振興臨時措置法公布
1958︵昭和
1955︵昭和 ︶石炭鉱業合理化臨時措置法公布
︵合理化が閉山につながる︶
1953︵昭和
1951︵昭和 ︶人口1万7千507人
︵昭和 年・8千916人に減少︶
19
26
28
30
33
1965︵昭和 ︶明治鉱業赤池工業所閉山
第二会社・赤池鉱業株式会社発足
36
1966︵昭和
︶産炭地域開発就労事業開始
1970︵昭和 ︶赤池鉱業株式会社閉山
1969︵昭和
︶炭坑病院を町に移管
翌年にかけて炭坑水道を町に移管
40
41
44
45
この町に炭鉱があったことを−
マ
ヤ
マ
ヤ
1871︵明治4︶赤池会所を赤池石炭方に改正︵小倉県︶
1869︵明治2︶自由採掘により石炭乱掘
1837︵天保8︶小倉藩が赤池会所を設置
1712︵正徳2︶赤池で燃える石が見つかる
ヤ
特集
忘れ去られる繁栄と衰退の記憶。
子どもたちは炭鉱の鼓動を知らない。 マ
ヤ
いま、高らかな誇りをもって伝えたい。
忘れないでほしい。
のどかな町を一変させ﹁黒いダイヤ﹂と呼ばれた石炭。
国策として掘り続け、近代日本の繁栄を支えた。
明日の命もわからない日々の中には
ヤマに生きた人たちの吹っきれたたくましさがあった。
は、山肌に穴を掘り、たき火で身を暖
いた。疲労と空腹で困り果てた旅の僧
田村まで行く峠の手前で立ち往生して
たその日、一人の僧が赤池から筑前勢
事 だ っ た。 大 雪 に 見 舞 わ れ
年︵ 1 7 1 2︶ の 冬 の 出 来
か ら 3 百 年 ほ ど 昔、 正 徳 2
行っていた石炭の液化燃料開発。その
影もない。かつて、小笠原藩が極秘に
ていたであろう石炭層も今日では見る
掘され、谷の景観は一変した。露出し
戸末期から明治時代にかけて石炭が乱
を﹁谷﹂と呼ぶ人は多い。しかし、江
現在の高尾地区にあたる。今でもここ
赤 池 に は 東 町・ 西 町・ 南 町・ 北 町・
中町・新町・車道・掘割など、炭鉱に
製造工場も見果てぬ夢となり、坊主ヶ
まつわる地名が多い。だが、クシの歯
谷の地で眠ったままだ。
にした。感激した僧は、このことを里
のように整然と並んでいた炭鉱長屋の
ま
人に言い伝え、小高い丘にお堂を建て
面影も今日ではなくなりつつある。命
その時、僧は燃える黒石を目の当たり
て、菩薩を安置した。この行いに対し、
がけで働く坑夫︵坑内作業員︶たちを
昔の赤池駅付近。石炭を運
ぶ鉄道網が整備されている。車
道を通り、坊主ヶ谷(高尾)ま
でつながる線路が走っていた。
ひっそりと姿を消そうとしている。
送り迎えた﹁路地﹂という名の花道が、
里 人 は い つ し か こ の 地 を﹁ 坊 主 ヶ 谷 ﹂
﹃赤池町史﹄や﹃あがいけのこばなし﹄
に 記 さ れ て い る 赤 池 炭 鉱 の 発 祥 地 は、
と呼ぶようになった。
めた。携帯していた米を雪とともに袋
明治鉱業赤池鉱業所第1坑
があった高尾地区。寿町、高
尾通りに炭鉱長屋が建ち並ん
でいる。奥は金田町のボタ山。
に 入 れ、 火 の 傍 ら に 埋 め て 飯 を 炊 く。
今
旅の僧が手にした燃える黒石…坊主ヶ谷伝説
石炭から石油へのエネルギー革命にほんろうされながらも
暗いイメージに負けない明るさを持ち続けた。
ヤマの光にはドラマがあり
ー
影にもドラマがある
炭鉱と生きて
第一章
マ
ヤ
一片の炭
たん
か
た
ぎ
赤池の閉山までを見とどけた増田栄さ
﹁ キ ャ バ レ ー や カ フ ェ、 映 画 館 や 旅
館、芝居小屋もありました。小料理屋
に思い起こした。
んは、繁栄期の姿を昨日のことのよう
黒 ダ イ ヤ に 沸 く 町、 赤 池。 歌 詞 に
もあるように、明るくて豪快な人たち
では三味線が流れていて、毎日がお祭
燃えた町は、活気に満ちあふれていた。
日本の復興のためになる⋮﹂使命感に
制施行時には、豊前赤池の名が各地に
豊屈指の大鉱山、明治鉱業赤池鉱業所
赤 池 駅 を 挟 み、 北 側 の 通 り に は 商
店がギッシリと軒を連ね、南側には筑
年には鉱員数
14
人を誇った。かつて、私た
まれた﹁眠らない﹂町だった。
24
一陣の風
川筋の黒ダイヤ
いけ
川筋気質の眠らない町
遠賀土手行きゃカリが鳴く/丁と半
とのかけ違え/負けたバクチに未練な
ー
が こ の 町 に あ ふ れ、﹁ 赤 池 炭 ﹂ と 呼 ば
り騒ぎでしたよ﹂。
し/川筋男の粋のよさ
れる良質の石炭を次から次へと掘り出
﹁ そ り ゃよいー 当 時 は 景 気 が 良 か っ た で
す よ。﹃ 宵 越 し の 金 は 持 た ん ﹄ と い う
知られていたこともあり、上野村から
していた。﹁掘れば掘るほど金になる、
人がたくさんいた。ケンカも多かった
赤池町へと改名。昭和
年の町
けど、人情味ある温かい人ばかりでし
3千8百
時間稼働していた。昭和
た。互いに助け合い、支え合いながら
ちの住む町は、人と炭鉱の熱気につつ
19
が
生きていました﹂。
父 が 働 い て い た 影 響 で 炭 鉱 に 就 職。
教科書にない炭鉱の歴史
﹁ときどきこういうのを見ながら当
時 を 思 い 出 す ん で す ﹂。 古 い 写 真 を め
くりながら、かつての町に思いをはせ
年間労働課に勤務し、坑夫たちを支
る藤岡登さん。兵役を含め、閉山まで
えてきた。坑夫が出勤しやすいように
悩みや相談、家族の世話などを行う労
働課の仕事。藤岡さんは駅伝や野球チ
ームの監督を務めるなど、幅広く坑夫
の生活面をバックアップしてきた。
﹁坑夫は何かあればよく酒を飲んで
いました。宴会が好き、ケンカが好き、
明日事故で死ぬかも知れない危険な仕
事ですから、一日一日を大切にしてい
ま し た。 年 に 一 度 の 祭 り と も な る と、
たいへんにぎやかでした﹂。
今はない山の神のお祭り、炭鉱の運
動会、相撲大会、どれも参加者の意気
込みと熱気がものすごかったと言う。
そして、炭鉱と共に生きてきた藤岡
さんは、ヤマの素顔を知る一人として、
その歴史の重さを語った。
﹁戦争のことは学校でもよく教える
でしょう、しかし炭鉱のことは語り継
が れ て い ま せ ん。 町 か ら は 当 時 の 面 影
も消え、ボタ山すら残っていない。だ
から当時を思い出す人も少ないのだと
思います。日本の近代化を支えてきた
炭鉱が、この町にあったことを忘れて
はいけません﹂。
光は光、影は影として、本当の炭鉱
の姿を知る。そのことが故郷に誇りを
もつことにつながっていく。
→トロッコで抗口から
運び出される「赤池炭」
あか
。筑豊炭田は華やかな都市を形成し、赤池もまた炭都の一角を
日本の近代化を支えてきた﹁炭鉱﹂
担っていた。筑豊の風土と人情を象徴した竹を割ったような性格の﹁川筋気質﹂。その手で掘り出さ
れた黒いダイヤは﹁赤池炭﹂と呼ばれ、もてはやされた。
←﹁いざ、坑内へ!﹂地底へと向かうたくましい坑夫たち︵第三坑人車昇降場︶
昭和 19 年から明治鉱業
赤池鉱業所に勤務。主に
資材課で働いた。社内では
吟詠を指導、NHK ラジオ
のど自慢に出場して当時話
題となる。閉山で退職後、
旧購買の赤池ショッピング
センター店長を勤めた。赤
池町老人会会長、74 歳。
昭和9年から、明治鉱業
赤池鉱業所労働課に勤務。
昭和14 年∼18 年まで軍曹
として兵役。青年学校で訓
練を行う。会社では野球・
駅伝監督として輝かしい成
績を残す。閉山まで労働課
一筋に、坑夫たちの生活面
を支えてきた。85 歳。
↓炭鉱全盛期の赤池町
(金田方面からみたボタ山)
増田 榮さん(北町)
53
藤岡 登さん
(朝日町)
←眠らない炭坑は 24 時間フル稼働(運炭の夜景)
炭鉱の文化に詳しい
坑夫たちを支えてきた
35
↑年に1度の運動会、人気種目の「ビン釣り競争」
への労苦に対する思いを素直に口にできず、
功利に疎く筋を通す事への拘り、経営者へ
こだわ
うと
まま
一途 をたどる
川筋名物﹁三本の煙突﹂
ボ タ に ま ざ っ た 炭 を 拾 う。 落 ち 穂 拾 い の よ
う な 風 景。 か つ て ボ タ 山 の 斜 面 で は 炭 拾 い が
繰 り ひ ろ げ ら れ て い た。 し か し、 こ の 町 に は
ボタ山の面影すら残っていない。
赤 池 の 炭 鉱 を 思 い 浮 か べ る と き、 あ の﹁ 三
本 の 煙 突 ﹂ を 真 っ 先 に 挙 げ る 人 は 多 い。 堤 防
を 歩 い て い る と、 い つ の 間 に か、 重 な っ た 煙
突 が 二 本 に 見 え て、 ま た し ば ら く 歩 く と、 や
がて三本になる⋮
彦山川の西岸にスッと立
つ 赤 池 発 電 所 の 煙 突 は、 川 筋 の 名 物 で あ り、
町の象徴でもあった。
大 正 年 に 設 置 さ れ、 翌 年7 月 か ら 送 電 を
始 め た 赤 池 発 電 所。 現 在 の 赤 池 交 番 の 向 か い
側、 明 昭 機 工 の 所 に あ っ た。 産 出 さ れ た 質 の
低 い 二 号 炭 を 燃 や し て 蒸 気 を つ く り、 そ の 圧
力 で 巨 大 な タ ー ビ ン を 高 速 回 転 さ せ た。 出 力
は 1 万 8 千 キ ロ ワ ッ ト。 戦 前 戦 後 の 電 力 不 足
時には、九電を通じて各界の業者に送電した。
ま た、 戦 時 中 は 燃 料 で あ る 二 号 炭 も 商 品 と な
ったため、微粉︵石炭の粉︶を混ぜて燃やした。
これは赤池独自の方法で、よその模範となった。
法律関係図書出版会社、美容関係薬剤販売
会社の美容新誌編集とモデルの撮影、㍿桃屋
の新工場で総務担当者として人事管理の道筋
をつけ、55 歳の定年を待って退職。知人の会
社社長に請われ非常勤で3年半余勤めながら
ライフワーク「企業の総務管理」の勉強、趣
味の写真とパソコン、NHKや千葉県、柏市
市政・広報モニター、新聞・雑誌への投稿な
どと自分の時間を過ごすことができました。
既に購入していた土地に建てた家から娘は
すで
嫁ぎ、息子も結婚し独立、私たちは古希を過
き
こ
ぎ、当地の生活が赤池での歳月を越えてしま
いました。
← 選 炭 場︵ 高 尾 ︶ に 引 か れ て い
た鉄道の引き込み線
→人車を引き上げる第一抗の竪抗
←赤池発電所の三本の煙突と石
炭を運ぶ蒸気機関車
昭和18 年、明治鉱業赤
池鉱業所に勤務。昭和38年
希望退職に応じ、都内の会
社に就職した。その後、各
社を転々とし、㍿桃屋に就
職。工場総務を任され、課
長代理を務める。炭鉱を離
職し、成功した人の一人。
千葉県柏市在住、75 歳。
価 な 電 力 が 供 給 さ れ る よ う に な る。 一 方、 選
松尾 武男さん
炭 技 術 の 進 歩 で 二 号 炭 は 減 り、 国 内 電 力 の 周
炭鉱を離職後、上京した
波 数 が 統 一 さ れ る な ど の 原 因 が 重 な っ て、 赤
じ
年 に 閉 鎖 と な っ た。 巨 大 な
る力を与え、支えになっていたことを、いま
池発電所は昭和
きび
三 本 の 煙 突 か ら、 も く も く と 中 空 に た な び く
炭鉱離職者の私にも、酷しい環境の中で生き
白煙が消えた。
新しい職場を求めて東京の町を歩きました。
→ボタ山を背景にした明治鉱業
赤池鉱業所の本事務所︵松本︶
情が「去るも地獄、残るも地獄」と言われた
し か し、 時 代 の 流 れ か ら、 重 油 を 利 用 し た
高 温 高 圧 の 大 容 量 発 電 所 が 建 設 さ れ、 良 質 安
会社の先行きに見切りをつけ7か月で退職、
→ 高 尾 に あ る 大 山 祇 神 社︵ 通 称
﹁山の神﹂︶にあった鉄管の鳥居
父母が生涯を終えた故郷・赤池の風土と人
昭 和 年、 多 く の 町 民 が 見 守 る な か、 大 煙
突 の 解 体 が 行 わ れ た。 明 治 鉱 業 赤 池 鉱 業 所 が
と福智の美しい山並。
閉 山 し た の は、 そ の 翌 年 の こ と だ っ た。 町 の
山、町民を見守り続けていた発電所の大煙突
象 徴 が 倒 さ れ、 町 か ら ヤ マ が 消 え て い っ た。
炭住の軒先までも覆うように築かれたボタ
33
そ し て、 待 っ て い た の は 友 と の 別 れ だ っ た。
自らの信ずる道を歩いた我が儘。
わ
10
39
この町をおよそ9千人が後にしていった。
沁み沁みと思うのです。
し
ふち
がい
失われた風景
ことでした。炭鉱本社の斡旋で都内の会社に
せん
あっ
町 も 人 も エ ネ ル ギ ー 革 命 と い う 波 に、 ほ ん
ろうされた。
の自己主張と断崖の淵を歩く数度の転職、妻
だん
エネルギー革命の波は、ヤマを消し、町を変えた。ボタ山、鉄道の入り込み線、
鉄管の鳥居、発電所の煙突⋮
見慣れた風景が消え去り、多くの別れを生んだ。
赤池駅で友を見送る光景が、人々の目に悲しく映った。
寄稿「故郷・赤池に支えられて」
千葉県柏市 松尾 武男さん
年間過ごした赤池を、炭鉱離職者
の一人として、家族と千葉県流山
35
市の雇用促進住宅に転居し、職住
環境での生活が始まったのは昭和 38 年秋の
就職した私は、入社時の約束を守らないこの
一筋の光
ヤ
マ
た。 こ の 青 空 保 育 所 の よ う な 日 だ ま り
春 夏 秋 冬、 子 ど も た ち の 楽 園 で も あ っ
高 齢 者 世 帯 が ほ と ん ど。 か つ て 響 い て
と し て い る。 わ ず か に 残 る 炭 鉱 住 宅 も
げ や 建 て 替 え な ど で、 そ の 姿 を 消 そ う
し か し、 こ の 町 に ぎ っ し り と 軒 を 連
ね て い た 炭 鉱 長 屋 は、 鉱 害 に よ る 地 上
炭 鉱 の 子 か ら 現 在 の 子 ま で、 年 間
に わ た り、 通 学 す る 児 童 生 徒 を 街 頭 で
見守ってきた岩城辰美さんは言う。
﹁ 昔 は 長 屋の 住 民 同 士 が 協 力 して 子 ど
もたちを育てていました。炭鉱の共同風
呂は 時間入れましたし、夏は﹃バンコ﹄
イムのない学習﹂が求められている。
花 す る。 昔 行 わ れ て い た よ う な﹁ チ ャ
も た ち に ま い た 種 は、 成 長 の 過 程 で 開
の 路 地 に 学 ぶ べ き と こ ろ は 多 い。 子 ど
の 教 育 力 が よ り 重 要 に な る 現 在、 炭 鉱
校 週 5 日 制 が ス タ ー ト し、 家 庭 や 地 域
地 域 が 行 っ て き た 分 野 だ っ た は ず。 学
に あ る。 し か し そ れ は、 従 来、 家 庭 や
どもたちが生きる力を身につけること
いま全国の学校で取り組まれている
﹁ 総 合 的 な 学 習 の 時 間 ﹂。 そ の 目 的 は 子
るからでしょうか⋮﹂。
な か っ た。 地 域 の 教 育 力 が 低 下 し て い
ね。 昔 は 登 校 拒 否 も、 陰 湿 な い じ め も
お金のありがたみがわかってないです
私は﹃ぜいたく貧乏﹄と言ってますが、
イイけど、たくましさが感じられない。
子 ど も た ち は 鼻 を た ら し て、 元 気 に 走
で、 共 同 生 活 の 知 恵 を 身 に つ け、 社 会
なって知ることになる。
ど こ に も い な い こ と を、 彼 ら は 大 人 に
の 教 師 だ っ た。 こ れ ほ ど 偉 大 な 教 師 は
に接し、声を掛け合い、時には叱った。
岩城 辰美さん(中町)
り 回 っ て い ま し た よ。 い ま の 子 は 頭 は
48 年間子どもたちを見つめてきた
そんな路地は子どもたちにとって人生
しか
炭鉱の子どもたち
路地という偉大な教師
木 造 平 屋 建 て、 1 棟 4 軒 か ら 6 軒 ほ
ど の 炭 鉱 長 屋。 そ の 路 地 は、 坑 夫 た ち
を 送 り 迎 え る 花 道 で あ り、 居 心 地 の よ
の秩序と思いやりの美徳を学んでいっ
いた子どもたちの声も消えた。
い共同の空間だった。そして、路地は、
た。幼いころから様々な仕事を手伝い、
労 働 の 厳 し さ と 楽 し さ を 覚 え る。 学 校
で は 教 わ る こ と の な い、 生 き る た め の
力を吸収した。
暗い坑内に命がけで働く親にとって、
子 ど も た ち は 一 筋 の 光。 ま た、 深 い 地
きずな
と言って路地に出で夕涼みをしたり、隣
底 で 培 っ た 坑 夫 た ち の 絆 は、 地 上 で は
昭和 14 年から、明治鉱業赤池鉱業
所に勤務。石炭の運搬作業中に貧血で
倒れ、機械に挟まれるという不慮の事
故に見舞われる。その処置で右腕を切
断した。昭和 30 年、子どもたちの交
通事故を防ごうと、街頭での誘導を始
める。風雨の別なく交差点に立ち続け、
今も子どもたちを見守っている。赤池
町身体障害者福祉会会長。89 歳。
子だくさんの家庭では兄・姉が親代わりに
「ケン・ケン・パ」で遊ぶ子どもたち。退屈することのない炭鉱長屋の路地は、年中「子ども天国」だった。
ヤマに育まれた子どもたちはたくましかった
48
考えられないほど強いものだった。﹁長
炭鉱住宅(炭住)の前で無心に遊ぶ子どもたち
近 所 が ま るで一つの 家 族 の よ う でし た。
木登り上手は高い所も平気、経験で危険を覚えた
24
屋 の 子 は み ん な の 子 ﹂。 わ が 子 の よ う
遊びはチャンバラが流行、刀を差した少年
一命をかけ
あかし
れた。手ばたき︵拍手︶は坑木︵坑内
坑内での鳴り物や口笛は、非常時を
知らせる竹笛の音と間違うので禁じら
嫌う。一方、山の神の使いとされる犬
の生活やヤマの作業や人情を書き残し
頬 か ぶ り は 音 が 聞 こ え な い か ら、 歌
はとても大事にされた。
ておこうと思いたった﹂
︵山本作兵衛︶。
は集中力を欠くということで禁止。ま
ボ タ 山 は 残 る。 や が て 私 も
炭鉱をテーマにするときに欠かせな
い の が 山 本 作 兵 衛 さ ん の 絵。﹁ ヤ マ を
マは消えゆく、筑豊五二四の
伝えたい﹂という純粋な気持ちから生
た、坑内で女性が髪をクシでとくと山
﹁
ヤ
まれた貴重な記録画は、五百点以上に
った。これは男心をそそる行為を戒め
の神が嫉妬して守護を忘れると言い嫌
しっ と
たものだとされる。危険時に逃げる特
余 白 は な い。 孫 た ち に ヤ マ
及ぶ。当時の社会や労働、生活の様子
を 支 え る 木 ︶ が 折 れ る 音 に 似 て い る、
な ど が 生 き 生 き と 描 き 出 さ れ て い る。
その絵からは、興味深い炭鉱の風習を
性を持つネズミは、坑内事故を察知で
禁句とされた。
言葉ではミソ︵ミソをつけたという
過失︶、アナ︵墓穴︶、シ︵死︶などが
きることから、決して殺さなかった。
かいま見ることができる。
生 と 死 が 背 中 合 わ せ の 坑 内 労 働 は、
とかく縁起を担ぐことが多かった。朝
の汁かけ飯は土葬の墓を連想するから
と嫌われた。死者を﹁黒不浄﹂女性の
かつて「私の作品には一
つだけウソがある。坑内は
絵のように明るくはない」
と語っていた山本作兵衛翁。
その言葉が示すように山本
作品は炭坑の真実の記録で
す。国内外から注目を浴び
続ける 584 の絵画は国民の
共有財産と言えるでしょう。
を物語っている。
佐々木 哲哉さん
月経を﹁赤不浄﹂と呼び、妻が出産す
15 歳で入坑し、位登炭
坑の閉山で退職するまで、
明治・大正・昭和と 50 年
間、12 の炭坑を 21 回も渡
り歩いた生粋の炭坑夫。退
職後に絵筆を握り、92 歳
で亡くなる直前まで描き続
けた。584 点の炭鉱画は、
平成8年に福岡県有形民俗文化財に指定されている。
これらの縁起風習は、明日をも知れ
ぬ坑内で、命をかけた坑夫たちの心情
田川市石炭資料館館長
れば3日は休んだという。動物ではサ
1892−1984
ル︵去る︶という不吉な響きから猿を
え
べ
さく
もと
やま
やみ
男女、国籍を問わず坑口をくぐった。
この町の坑内は520人の坑夫をのみこんだ。
時間稼働する眠らない町。
真っ黒なヤマから出た水は、川を小豆色に汚した。
移りゆく風景、変わりゆく時代の中で、忘れ去られようとしているもの。
ー
炭鉱は語る
今はなきヤマに私たちが学ぶべきこととは何なのだろう
第二章
マ
ヤ
イレズミのない者はかけだしの新参者か素人だと軽視された。
イレズミは一人前の坑夫の証だった。︵山本作兵衛画/田川市石炭資料館蔵︶
山本 作兵衛
深い地底の闇から掘り出されたおびただしい量の黒いダイヤモンド。
明日をも知れぬ露の命…縁起を担ぐ
24
一同の祈り
多くの犠牲を伴った炭鉱
炭 坑 夫 た ち の 死 因 の 最 た る も の は﹁ 落 盤
事故﹂。そのことから、この地域では不運に
みまわれることを﹁ボタをかぶる﹂と言う。
たん じん
そ し て、 お び た だ し い 人 命 を 奪 い 去 る﹁ ガ
ス・炭塵爆発﹂。坑内は毎日が事故との闘い
で あ り、 何 よ り 確 実 な 安 全 策 は 入 坑 し な い
こ と だ っ た。 極 度 に 悪 い 通 気、 高 温、 高 湿
の 中 で の 採 炭 労 働 は、 死 と の 戦 い そ の も の
だ。 生 産 に 追 わ れ、 設 備 も 追 い つ か ず、 数
知 れ な い 負 傷 者 と 死 者 を 生 ん だ。 日 本 の 近
代化はその犠牲者の上にあったと言えよう。
全 国 の 出 炭 量 は、 明 治 年 に 1 千 万 ㌧ を
超え、大正4年には 2千万㌧、大正8 年に
な 爆 発 を 起 こ す。 そ の 衝 撃 で、 坑 道 に た い
スは、空気中濃度9・5%で引火すると猛烈
意 を 込 めてこの墓に手 を 合 わせた。しかし、
か れ た 会 社 を 退 職 し た 田 島 さ ん は、 感 謝の
か つ て 高 尾 の﹁ 山 の 神 ﹂ の 裏 手 に は 炭 鉱
殉 職 者 の﹁ 合 葬 之 墓 ﹂ が あ っ た。 閉 山 後 招
うた
積する爆薬で砕いた石炭の粉︵炭塵︶が浮き
胸中は先人に申し訳ない気持ちで一杯だった。
いったい筑豊の坑口は、どれほどの命をのみこんだのだろうか。
坑夫たちはいつも死の影に追われながら生きていた。
赤池のヤマは、520人もの犠牲と家族の悲痛を生んだ。
尊い命を忘れないために、立ち上がった人がいた。
昭 和9 年 か ら 赤 池 の 坑 内 に 測 量 夫 と し て
入 っ た 田 島 利 雄 さ ん。 翌 年 起 き た﹁ ガ ス・
上がり、次々と爆発が伝わっていく。そして、
炭塵爆発﹂。坑内の深部で発生するメタンガ
人、
炭塵爆発﹂に遭遇する。この事故は死者
﹁雑草に埋もれ倒れた墓を見て、亡くなっ
た人たちを思い出し、涙が出ました。
﹃いず
ないために、ヤマに 生
なる。尊い犠牲を忘れ
日、第三坑での出来事だった。
人という赤池最大の犠牲者を生ん
事故現場には一酸化炭素に敏感なカナリ
ア を 伴 っ て 向 か う。 死 体 は 竹 を ヒ モ で 組 ん
月
だスダレのようなものにくるんで引き上げ
れ 炭 鉱 経 験 者 はい な く
﹁ こ の 世 の 地 獄 で し た。 幸 い、 非 番 だ っ
た 私 は 事 故 を 免 れ ま し た が、 現 場 は 目 を 覆
島 さ ん は、 退 職 を 考 え た が、 鉱 山 学 校 の 受
この作業でほとんどの死体を見とどけた田
それが私の最後の仕事だと心に決めました﹂
。
き た 者 が こ れ を 何 と か し な け れ ば い け ない ﹄
死体。水をためてある﹃バック﹄の中には、
月4日。
苦しさのあまり入水した何体ものなきがら
田島さんの精力的な活動で再建委員会が
発足。やがて努力は実り、平成6年7月 日、
520 人の殉職者に思いをはせる
大切な行事だ。
↓3千人以上が参加する町民盆踊り
10
つ い に 炭 鉱 殉 職 者 の 鎮 魂 碑 が 建 立 さ れ た。
を支え、ヤマに一命を落とした
福 智 連 峰 を 望 む こ の 碑 の 中 で、5 2 0 人 の
踊りで幕を開ける。この国と町
争 で の 5 年 の 兵 役 を 経 て 復 員 し た。 以 後、
火大会」は、焼香後の炭坑節総
現 場 職 員 と し て ス タ ー ト し、 第 一 坑、 二
昭和 9 年から明治鉱業赤池鉱業
所に勤務。翌年起きた赤池最大の爆
発事故を体験した。筑豊鉱山学校を
卒業後、採炭課で1坑∼4坑にわた
るすべての坑口の現場を担当。閉山
後、第二会社の赤池鉱業で係長、黒
崎窯業の協力会社で作業部門次長、
57 年に社長室長として退職。炭鉱
殉職者鎮魂碑建立の発起人。84 歳。
名前を刻んだ銅板が、静かに眠っている。
人気イベント「町民盆踊り&花
も 心 に﹃ 炭 坑 は 人 間 の 働 く 場 所 じ ゃ な い ﹄
田島 利雄さん(下桜)
坑、三坑、四坑の現場を回り、閉山を迎えた。
いる炭鉱殉職者慰霊式典。夏の
と思いました﹂。
町内で一番坑内に詳しい
炭坑事故で最も多くの犠牲を伴う﹁ガス・
炭鉱殉職者慰霊式典
毎年、8月 17 日に町が行って
が あ り ま し た。 当 時
験 を 勧 め ら れ 翌 年 入 学。 卒 業 後、 太 平 洋 戦
なま づめ
う ほ ど の 惨 状 で し た。 爆 風 で バ ラ バ ラ に な
だ。
負傷者
83
る。全遺体の収容は事故9日後の
素の発生で坑内すべての人が息絶える。
限 ら れ た 空 間 の 酸 素 が な く な り、 一 酸 化 炭
最大の事故から鎮魂碑建立へ
は年々増加していく。
多 様 化 し、 明 治 時 代 末 か ら の 炭 坑 事 故 災 害
給 し 続 け た。 災 害 は 坑 道 が 深 く な る に つ れ
エ ネ ル ギ ー の 半 分 以 上 を1 世 紀 に わ た り 供
戦争のため﹂筑豊は日本が必要とする石炭
は 筑 豊 の 石 炭 が 占 め て い た。﹁ お 国 の た め、
は3 千 百 万 ㌧ を 突 破 す る。 そ の お よ そ 半 分
36
っ た 体 の 一 部、 も が い て 生 爪 を は い で い る
26
17
10
歳 だ っ た 私 は、 子 ど
11
殉職者の尊い命を敬 う
↑殉職者に手を合わせる水永町長
16
←常に死と隣り合わせの坑内労働
←かつてあった「合葬之墓」
鎮魂の詩
←鎮魂碑竣工式。町内のお寺の全住職と韓国のお寺の
住職(飯塚市)による読経。関係者 100 人が参列した。
一翼を担う
女坑夫
さき やま
あと
やま
かつて、ヤマは女性に支えられていた。
炭鉱には男女共同参画社会が実現していた。
数少ない後山の経験をもつ藤堂フジノさん、
人生の先山に当時の話を伺った。
歳。
89
横になってツルハシを操っていました。
ンプ︶を口にくわえながらそこを進み、
の 高 さ し か な く、 先 山 は カ ン テ ラ︵ ラ
出 し て い ま し た。 掘 る 場 所 は 床 ぐ ら い
﹁太い坑道がドンとあって、その脇に
い く つ も の 掘 る 空 間 を 作 り、 炭 を 掘 り
し ょ う。 坑 内 が バ レ て 下 敷 き に な る 人
内の様子は第三者では考えられないで
つ ボ タ が 落 ち て く る か 分 か ら な い。 坑
ら な い ほ ど の 暗 黒 の 世 界 で、 上 か ら い
言 わ ぬ 真 剣 な 作 業、 隣 に い る 人 が 分 か
て い た の で、 そ れ を 手 伝 い ま し た。 物
父 が 坑 道 を 掘 る﹃ 掘 進 夫 ﹄ の 親 方 を し
賃 金 が 良 い の で、 映 画 を 見 た り 買 い 物
そ し て、 後 山 が 掘 り 出 さ れ た 炭 を ス ラ
や炭車が暴走して大けがにあう人もい
に記憶する昭和初期のヤマの様子を語
︵炭を入れる箱︶に入れて運び出す。先
て、 と て も 恐 ろ し か っ た。 で も み ん な
ふ
輩 の 女 坑 夫 た ち は、 真 っ 暗 い 中 で も 自
が 優 し か っ た。 女 性 が と て も よ く 働 い
は今も健在だ。
炭鉱の町で力強く生きた女性のパワー
労 働 を 耐 え 抜 い た 自 信 と 誇 り を 感 じ た。
談 を 聞 く こ と が で き た。 当 時 の 厳 し い
掘 進 夫、 後 山 と 炭 鉱 の 仕 事 を 経 験 し
た 藤 堂 フ ジ ノ さ ん。 今 回、 貴 重 な 体 験
命感のもとに、とにかく働きましたよ﹂。
く、 一 杯 で も 多 く 炭 を 出 そ う と い う 使
の 人 に は で き ま せ ん。 当 時 は 一 刻 も 早
ん で し ょ う。 炭 鉱 の よ う な 重 労 働 は 今
ぜいたくで恵まれすぎているから弱い
う な 凶 悪 な 犯 罪 は な か っ た。 今 の 人 は
聞 い た こ と が あ り ま せ ん。 最 近 の よ
っ た。 け れ ど 泥 棒 が 入 っ た と い う 話 は
放 し、 電 気 も つ け っ ぱ な し の 家 が 多 か
は 真 っ 裸 か フ ン ド シ 一 丁。 戸 も 開 け っ
働 者 で し た。 炭 塵 が 渦 巻 く 坑 内 で、 男
じん
男 女 共 同 で し た し、 女 性 は 男 以 上 の 労
くっ しん
由 自 在 に ス ラ を 動 か し て い ま し た。 ま
す。私が坑内に下がったのは昭和5 年、
る で 神 業 の よ う で し た よ。 私 が 市 場 尋
て い ま し た。 祭 り や 運 動 会 で も 男 子 と
昭和5年から、明治鉱
業赤池鉱業所第二坑で
父の仕事を手伝う。昭和
9年の坑内女子禁制後
は、町内の小山(小規模
炭鉱)で2年間後山を経
験。猿 畑 在 住、笑 顔の
すてきな 92 歳。
常高等小学校に通っていたころ、多くの
藤堂 フジノさん
対抗して走ったり、いつも男子と互角、
女坑夫の経験をもつ
友達が坑内に下がるようになりました。
を し た 話 を 聞 き、 う ら や ま し か っ た で
藤 堂 フ ジ ノ さ ん は、 坑 内 に 下 が っ た
貴 重 な 経 験 を も つ 数 少 な い 一 人。 鮮 明
女坑夫の経験をもつ人は極めて少ない。
限された。当時二十歳だった娘は
し か し、 昭 和 9 年 に 坑 内 は 女 子 禁 制
と な り、 女 性 の 炭 坑 に お け る 労 働 は 制
もったのが女坑夫︵女性坑内作業員︶だ。
き ︶ と 呼 ば れ る 仕 事、 こ の 後 山 を 受 け
さ れ た 石 炭 を 運 搬 す る の が 後 山︵ 後 向
あと やま
炭鉱では先山と呼ばれる男の採炭夫
が ツ ル ハ シ で 炭 層 を 掘 り、 そ の 掘 り 出
会﹂が実現していたと言える。
い た 最 盛 期 の 筑 豊 は﹁ 男 女 共 同 参 画 社
た。 経 済 的、 精 神 的 に 女 性 が 自 立 し て
当時としては珍しく現金収入も得られ
知 ら れ て い な い。 命 が け の ヤ マ 仕 事、
担っていた時代があったことはあまり
男 社 会 と し て 語 ら れ る 炭 鉱 の 歴 史。
し か し、 女 性 が ヤ マ の 労 働 力 の 一 翼 を
貴重なヤマの残像
赤池坑の選炭風景
っていただいた。
日本近代化のエネルギーを底辺で支えた女坑夫たちがいた
先山 ㊧ 後山 ㊨ の男女で行われていた採炭作業
(山本作兵衛画/田川市石炭資料館蔵)
一景に学ぶ
↓遠賀川を行く「川ひらた」(別名:
五平太舟)。江戸時代から明治時代
にかけて、石炭運送の主役として活
躍した。浅瀬でも通れるように底が
平らになっているのが特徴。
今はなきボタ山が赤池炭鉱の父だとすれば、彦山川は母である。
昔日の面影がないこの町、
その中央を流れる彦山川だけが脈々と流れをたたえている。
母なる川は、私たちに何を語りかけているのだろうか。
真っ黒い﹁ぜんざい川﹂
かつて流域に広がっていた豊かな
穀 倉 地 帯 の 景 色 は、 石 炭 産 業 に よ っ
て一変する。
世紀初頭まで石炭輸送の主役を
担 っ て い た 遠 賀 川 水 系 の 水 運。 最 盛
期 に は 7 千 隻 以 上 も あ っ た い う﹁ 川
ひ ら た ﹂ が、 彦 山 川・ 遠 賀 川 を 上 下
かじ
し て い た。 浅 瀬 を は じ め 難 所 の 多 い
こ の 川 で、 船 の 舵 を 巧 み に 操 っ た 威
勢 の い い 船 頭 た ち は、 今 も 残 る﹁ 川
筋気質﹂の原形をつくった。
だ が 皮 肉 に も、 水 運 の 転 機 は 炭 鉱
の 隆 盛 と と も に 訪 れ た。 石 炭 輸 送 は
機 関 車 に 代 わ る。 よ り 確 実 に 大 量 に
﹁川ひらた﹂から、黒い煙を吐く蒸気
運べる鉄路が網の目のように張り巡
船頭の職が奪われていった。そして、
ら さ れ た。 数 万 人 と も い わ れ る 川 筋
国策による石炭大量生産時代に突入
していく。
時 間 稼 働 す る 真 っ 黒 い 街、 そ こ
か ら 流 れ 出 た 真 っ 黒 い 水。 炭 の 粉 で
川 は 黒 く 濁 っ て、 い つ し か﹁ ぜ ん ざ
い川﹂と呼ばれるようになった。
彦山川の深刻な水質
ヤ マ が 消 え、 灰 色 の 町 が 色 づ き 始
め た こ ろ、 彦 山 川 の 水 も ま た、 本 来
の流れを取り戻したように思われた。
し か し、 そ れ は 見 た 目 だ け で、 実 際
は深刻な状況だという。
幼いころから川に親しんできた大
久 保 琢 磨 さ ん。 こ の 川 を 守 る た め、
平 成 8 年 に﹁ ひ こ さ ん が わ 夢 の 会 ﹂
を 立 ち 上 げ た。 今 の 子 ど も た ち に、
もっと川を身近に感じてほしいと川
づくり活動を続けている。
﹁川ではよく泳ぎました。上がった
ら 体 中 が 真 っ 黒 で ね、 河 川 敷 に あ っ
た池で炭の粉を洗い流していました。
ア ユ も 泳 い で い た し、 ホ タ ル も た く
た そ う で す。 川 の 水 は 黒 か っ た け ど
の会﹂のみなさん。﹁アユの住める川
に 河 川 の 環 境 づ く り に 取 り 組 む﹁ 夢
﹁人も虫も魚も鳥もみんな川と共に
生きています﹂をキャッチフレーズ
一 日 も 早 く 自 然 を 回 復 さ せ た い。 豊
さ ん い た。 水 質 が 良 い か ら い ろ ん な
に し た い ﹂ と い う 希 望 を 持 っ て、 母
の上野橋の下で草競馬を楽しんでい
生物がいました。今は見た目だけで、
なる川の回復に努めている。
が 散 乱 し、 化 学 洗 剤 な ど 現 代 特 有 の
活様式や意識を変えないかぎり 、いつ
く な る か も 知 れ な い。 け れ ど 今 の 生
か っ て 汚 れ た の な ら、 百 年 す れ ば 良
か っ た と 思 え な い で し ょ う。 百 年 か
のような者でないと昔の彦山川は良
ければならない。
バトンを次代の子どもたちに渡さな
ら こ そ、 私 た ち の 手 で、 美 し い 川 の
の 川 を さ ら に 汚 し て し ま っ た。 だ か
か つ て﹁ ぜ ん ざ い 川 ﹂ と 呼 ば れ た こ
ー ス ト 2 位 を 記 録 し た。 私 た ち は、
14
までたって も 汚 れ ていく ばかりです。
生 活 排 水 で 汚 染 さ れ て い ま す。 我 々
九州一級河川における平成 年度
の 水 質 ラ ン キ ン グ で は、 彦 山 川 が ワ
水 質 は 極 め て 悪 い。 河 川 敷 に も ゴ ミ
良 い 遊 び 場 で し た。 私 は い ち ば ん 川
大久保 琢磨さん
かな川を取り戻したいですね﹂。
彦山川の川づくりに取り組む
で 遊 ん だ 年 代 で し ょ う が、 先 人 は 今
縫 い 針 で う な ぎ を 釣 っ た り、 本 当 に
←蒸気機関車をうら
めしそうに眺める船
頭。(山本作兵衛画/
田川市石炭資料館蔵)
猿畑在住。平成8年に「ひ
こさんがわ夢の会」を立ち上げ、
河川敷の清掃活動をはじめ、イ
ベント、こいのぼり掲揚などを
行う。現在、
同会会長のほか
「田
川ふるさと川づくり交流会」会
長、
「遠賀川流域住民の会」世
話人、
「遠賀川生活排水対策協
議会」委員を務める。69 歳。
20
24
母なる川
←彦山川に架かった板
橋を渡る学生たち、川
は身近な存在だった。
「遠賀川流域住民の会」が川ひらたを再
現。10 月 18 日からの2日間、赤池から洞
海湾までの 30 ㎞を明治時代に石炭を運ん
でいたルートで下った。こぎ手となった大
久保さん(写真左)は、舟からみた川のゴ
ミの多さに驚いたと言う。郷土の歴史を振
り返り、川の浄化を呼びかけた。
明治鉱業株式会社の創業者、初代社長・安川敬一郎。
明治専門学校を政府に献納した功績により、大正9年に一代男爵位を授けられた。
︵明治鉱業株式会社﹁社史﹂より︶
本初の炭鉱技術員養成学校
が、 こ の 赤 池 町 に あ っ た こ
と を 知 る 人 は 少 な い。 明 治
鉱 業 株 式 会 社 の 創 業 者・ 安 川 敬 一 郎。
学問の主要性を力説し、かねてからの
明治 年4月の第1期卒業生は9人
在校生は 人を数えた。しかし、明治
人 ︶。 そ の 対
年、2度にわたる坑内火災が発生し
人 殉 職・ 負 傷 者
ようになる。そして、2期生
人を在
処 に 追 わ れ、 学 校 存 続 に 支 障 を き た す
た︵
36
年
月、開校3
年4月﹁明治専門
年の学制改革で﹁九
州工業大学﹂となり、今に至っている。
門学校﹂は昭和
施 設 を 政 府 に 献 納 し た。﹁ 官 立 明 治 専
する。その後、大正9年、この広大な
学校﹂を現在の北九州市戸畑区に開設
安川敬一郎は明治
だが、その志はついえなかった。日
露戦争がもたらした炭鉱景気によって
年目でついに廃校となった。
炭鉱教育校は、明治
学1年半で卒業させ、筑豊唯一の私立
15
﹁炭鉱の近代化は人づくりにある﹂と
年4月、中堅技術員
念願だった教育施設の設立をこころみ
た。そして明治
の養成を目的とした﹁私立赤池鉱山学
校﹂を開校する。当時、ほかの炭鉱で
は例のない画期的な施設だった。
この学校は、普通中等学校卒業者を
対象とした2年制。数学・製図・化学・
地質学・測量・電気・鉱山法律・採炭・
時間の坑内実習を行った。学生に
冶金・土木・機械についての学習と毎
週
は、衣服や食費など一切が支給された。
37
36
日
年、遠賀・鞍手・嘉麻・穂波・田川の同業組合が合併し
ハイカラな人、珍しい物、新しい技術など、中央文化が短時間に押し寄せた。
筑前と豊前の頭文字をとって、わが国最大の炭田を抱える﹁筑豊﹂が生まれた。
﹁筑豊﹂と呼ばれるようになったのはこのころから。
﹁筑豊石炭坑業組合﹂が結成された。
明治
創業者 安川 敬一郎の志 …幻の学校
数百のボタ山とモダンな建物、整然と並ぶ炭鉱長屋が同居する
全国で最も活気のある地方となった。
ー
12
炭鉱と人
こころざし
他の地域と一線を分かつ特異な風土は、卓越した人材を生み出していく
42
24
35
13
37
第三章
24
40
マ
18
明治 37 年、赤池鉱山学校第
1回卒業記念の写真。大学出身
の上級技術者を補佐する人材を
養成した。しかし、3年間とあま
りにも短い期間で廃校に至る。
卒業した計 24 人は、赤池をは
じめ北海道などでも活躍した。
初期の九州工業大学(旧・明
治専門学校)
。当初の校舎設計
は辰野金吾(東京駅の設計者)
。
現在、情報工学部キャンパス
が産炭地振興政策により飯塚
市にある。今日でも九工大同窓
会は「明専会」と称している。
ヤ
一時の学舎
心眼でとらえた感性の句
やみ
うら
うた
のろ
ていた。彼は暗黒の世界に絶望する。
あら
﹁ 人 を 怨 み、 世 を 呪 い は じ め、 幾 度
か自殺をも計ったほどで、心は日々に
むこ
もく せい
荒んでゆくばかりでした﹂。︵句狂記︶
炭鉱寮を経営していた祖父は彼を心配
句狂は、仕事も遊びも人一倍。しかし、
大阪で呉服の商いをした。ハイカラな
いたのであります。私のごとき者にと
と高浜虚子が添削した。
﹁表現によってはこうも変わるもの
であることをつくづくと教えていただ
﹁長き夜とも短き日ともわきまへず﹂
という句狂の句を
せい うん
高浜虚子、河野静雲らに指導を受け、
句 狂 の 俳 句 は 瞬 く 間 に 開 け て い っ た。
詠んだとしても、このような情感の句
が生まれることはなかったでしょう﹂。
句境を深めた彼は、句人として最高
の名誉であるホトトギスの巻頭を3回
も飾り、盲目の俳人として全国に知ら
句 集﹃ 由 布 ﹄ の 発 行 に 向 け 着 手 す る。
り、 数 々 の 名 句 を 生 み 出 し た 句 狂 は、
た。しかし、昭和 年、道半ばにして、
し ぐ れ
食道ガンに倒れてしまう。
﹁闘病の我をはげます虫時雨﹂
辞世の句を残し、昭和 年 月 日、
歳の生涯を閉じた。炭坑事故に運命
だく
を左右された激動の人生だった。
とむら
は情景を想像して、その世界に入って
にお
がとぎすまされたように思えます。目
句集﹃由布﹄が発行されたのは、句
狂がこの世を去った翌年のことだった。
が見えていたら違う人生を送っていた
でしょうし、俳句の道には進まなかっ
︵敬称略/参考﹃由布﹄︶
→興国寺 山門のわきに建つ﹁ 行 く 我 を
囚へ落葉は駆け巡る﹂の句碑。
→「行く春や
身近きものに
古りし杖」句狂
直筆、有田焼。
坑 内 の 爆 発 事 故 で 失 明、
暗 闇 に 俳 句 とい う 光 を 見 い
だした緒方句狂。高浜虚子
も認めた彼の詩は﹃ ホトト
ギス﹄の巻頭を三度飾った。
﹁﹃両眼摘出昼夜をわかたず﹄という
前書きがあって﹃長き夜とも短き日と
うた
療養中、妹婿の奥本黙星が度々訪れ、
句狂に俳句を勧めた。最初は断ったが、
熱心な言葉に動かされ、しだいに詩の
もわきまへず﹄という句がこの句集の
はじめにあるが、この時から句狂君の
きょ し
世界へと足を踏み入れていく。黙星は
ふ
句 狂 の 句 を 選 び、 雑 誌﹃ ホ ト ト ギ ス ﹄
ゆ
月号
肉眼はめしいたが心眼は開けたのであ
に投稿した。そして、その年の
る ﹂。 句 集﹃ 由 布 ﹄ に 寄 せ た 高 浜 虚 子
の序文である。
に初入選する。
炭坑で坑夫として働くことになる。や
﹁長き夜を眠り通してまる三日﹂
がて結婚、妻・ユキさんと2人の子を
ってはホトトギスは縁遠いものに思わ
緒方句狂、本名・稔。明治 年、赤
池 に 生 ま れ る。 高 等 小 学 校 を 卒 業 後、
もうけ、幸せな家庭を築いた矢先、句
れていましたが、努力一つによっては
歳
し、呼び戻した。句狂は明治鉱業赤池
狂は突然の不運に見舞われたのだった。
精進を怠りませんでした﹂。︵句狂記︶
を摘出するという重傷を負った。
の出来事、妻は長男・明利さんを宿し
そして
はい かい
﹁露の身の我に俳諧なかりせば﹂
こう みょう
の句が生まれる。このころから失明の
世界に光明を見いだした句狂であった。
おぼ
年、ホトトギス同人とな
られたのでありまして、今更ながら感
れた。昭和
泣せずにはいられません﹂。︵句狂記︶
いう光り輝く道を一筋に歩む句狂だっ
面影をしのぶ。
﹁父の手を引いてよく句会に連れて
行きました。句友も多かったです。家
では毎日、句を詠み、私たちは辞書を
確 か な 希 望、 将 来 へ の 期 待、 俳 句 と
句狂は 人の子宝に恵まれた。長女
の宇都宮コユキさんは、かつての父の
は、 虚 子
﹁ 邪 悪 の 淵 に 溺 れ て い たなさ私
け
先生や静雲先生の温かい情に救い上げ
入選できるという確信をも得て、益々
昭 和 9 年、 5 月 に 起 き た 坑 内 爆 発。
危うく命は取り止めたが、句狂は両目
12
21
﹁目を奪ひ命を奪ふ諾と鷲﹂
11
しまう父。光を失ったことで、音、人
引いたりして手伝いました。作句の時
21
の気配、臭いなどに敏感になり、感性
46
彼の死を嘆いた高浜虚子は、この弔
いの句を句狂にささげた。
23
←句集『由布』句
狂の句3百句を掲
載。題字は高浜虚子。
亡くなった翌年の昭
和 24 年7月に発行。
←白糸の滝の前で、左から6人目が句狂。
↑下段中央が河野静雲、右横が緒方句狂。高浜虚
子とともに句狂が師と仰ぐ静雲。福岡にいた静雲
は、句狂の俳句人生に大きな影響を与えた。
20
31
←「斑猫にあそべる心よび戻
し」(中央直筆)句狂が定規を
あてながら書いたという色
紙。右は句狂を俳句に導い
た奥本黙星の弟・奥本たか
お、左は句友・古川紺子
が詠んだもの。
一句に光を求めた盲目の俳人
宇都宮 コユキさん
36
たかったかもしれません。もし、句を
ふう えい
「料理屋や旅館を経営して
いましたので、私は父の作
句と家の手伝いに忙しかっ
たです。厳しくもやさしい父
でした」
。コユキさんが大好
きな句「杖とめて仰ぐ盲や
揚雲雀」の横で、稲荷町在
住(元・寿旅館)
。
←「虫の夜に今
宵もひとりあそ
ぶべく」句狂直
筆、有田焼。
10
←高浜虚子/俳
人・ 小 説 家。 正
岡子規から受け継
ぎ「 ホ ト ト ギ ス 」
を主宰、花鳥諷 詠
の客観写生を説い
た。大正・昭和の
俳壇を導く。
緒方句狂(おがた・くきょう)
明治 36 年、赤池町に生まれる。父の古物商を助け、
明治鉱業赤池炭鉱の坑内夫として働く。昭和9年、坑
内のダイナマイトによる爆発事故で失明。以後、俳句
の道を歩む。高浜虚子、河野静雲の指導を受け句境を
深めた。
「空耳か炉話かるく手で押さへ」
「行く我を囚
へ落葉は駆け巡る」
「魂ぬけて落葉はもとの地に平ら」
の3句が『ホトトギス』の巻頭を飾った。昭和 23 年、
食道ガンで亡くなる。享年 46。
緒方 句狂
故・緒方句狂氏の長女
一生を故郷に捧げた政治家
田中 六助
彼の頭から﹁田川の復興﹂が離れるこ
な ど で 産 炭 地 の 振 興 に 全 力 を 注 い だ。
大臣﹂と答えた逸話も残っている。
就任。その後、自民党政務調査会長を
妹、大池チサトさん︵上里︶は、兄
六助を﹁この上ない努力家﹂と語る。
に忙しくても故郷に帰れば仏壇に線香
また、先祖を大切にする人で、どんな
でしょう。鉱 害 復旧など公共 事 業はい
都市田川が生まれたら何とす ばらしい
にどんとおかれ、企業 を誘 致して生産
います。もしこのお金が一度に田川地区
愛著はマックスウエーバーの﹃職業
と し て の 政 治 ﹄。 大 の 読 書 家 で あ る 彼
ては 前 進 はあり ません。一時 的ではな
ん。いつまでも 同じ事 を 繰 り 返してい
しても即決、できないことはダメ、で
が追いつかないほどでした。陳情に対
皆 さんと一緒に考 えます。みんなで知
土を どうしたらつく れるか、この私は
に向け、子孫に誇りの持てる豊かな郷
んの期 待に応えるつもりです。
がれたその生涯は、彗星のごとく強烈
を去る。日本の政治、故郷の復興に注
すい せい
←「田中六助先生顕彰像」。
平成5年9月 25 日に竣工
された。炭鉱殉職者鎮魂碑
の横に建っている。
常に産炭地復興の先頭に立ち、その生涯を注いだ田中六助。
﹁六さん﹂と慕われた偉大な政治家は、何よりも故郷を愛していた。
皮肉にも、故郷の炭鉱が傾き、閉山へ
と追い込まれるころだった。
﹁俺もすぐいくから﹂。戦闘機に乗り
込む部下の肩をたたき、送り出す将校
とはなかった。それだけに、首相から
赤池が生んだ巨星
がいた。田中六助。赤池に生まれ、市
入 閣 ポ ス ト の 希 望 を 聞 か れ﹁ 通 商 産 業
日本の経済政策に関わり、内務、外
務に奔走。そして石炭対策特別委員会
年から終戦まで海軍
場小学校、田川中学校を経て早稲田大
航空大尉として兵役に服した。そこで
当選5回目で内閣官房長官。当選7
回目の昭和 年7 月、通商産業大臣に
学を卒業。昭和
多 く の 友 と 部 下 の 死 を 見 つ め て き た。
﹁ 政 治 の 貧 困 で 戦 争 が 起 こ り、 青 年
が死んでいく。なんとかしなければ﹂。
自民党幹事長の要職に就いた。
経て、8回目の当選を飾った昭和 年、
その思いはいつしか彼に政治家への
道を歩ませることになる。
年、池田勇人首相の秘書に転じ
昭 和 年、 日 本 経 済 新 聞 社 に 入 社。
ロンドン支局長、政治部次長を歴任し、
﹁家族には仕事の話を一切しませんで
した。決して高 ぶることなく、黙々と
昭和
た。世界の経済を新聞社で体得し、日
人の何 倍 も働いた人です。東 京・福岡
をあげて、自分の思いを述べていまし
間を1日2往復することもありました。
本の政治を首相の懐で学んだ。そして
年、衆議院議員初当選を果たす。
た。地元の人に﹃六さん﹄と慕われた
ずれも大事なことばかりですが、再生
昭和
兄、本当にやさしい人でした﹂。
は、政務室、移動中、自宅で常に3冊
く 長 期 的 展 望で、皆 さんが本 当に一つ
産のできる前 向きな予 算ではありませ
の本を読破していたという。
こんしん
になって新 生田川 をつくる時、私はそ
きることはすぐさま行動に移す人でし
恵 を 出し合い、本 当に良い田川、良い
の先 頭に立ち、渾 身の努 力 をし、皆さ
た。﹃ 来 る 人 は そ れ な り の 悩 み を 抱 え
故郷づくりに明るく前進しましょう﹂
。
﹁ 先 生 は、 何 事 も 早 か っ た。 記 者 で
したから読書も斜め読み、食事も秘書
ている。誠意を持って接しなさい﹄と
世紀
常 々 お っ し ゃ っ て い ま し た ﹂。 秘 書 を
行動派であり、信念を貫く政治家・
田中六助。産炭地復興に党派を越えて
な 光 を 放 っ た。︵ 敬 称 略 / 参 考﹃ 保 守
勤めた浦田弘二教育長は振り返る。
力を尽くした。炭鉱を知らない政治家
本流の直言﹄田中六助著︶
赤池が生んだ偉大な政治家・田中六
助は昭和 年1月 日、 歳でこの世
が﹁過去のことに何で国費をつぎ込む
61
→彦山川土手の県道に建つ
「生誕の地」の看板。その左奥
が「六さん」の生家にあたる。
「面倒見のいいやさしい人だった」と当時の写真を
手に昔をなつかしむ夫・大池保房さん(左・元校長)
58
21
の か ﹂ と 主 張 す る 風 潮 を 嘆 い て い た。
一方、筑豊の市町村長には﹁いつまで
も甘えていてはいけない。自立の道を
歩みなさい﹂と諭した。
地元田川で開かれた田中六助・幹事
長 就 任 祝 賀 会。﹁ 皆 さ ん と 久 し ぶ り に
お会いできて本当にうれしい、心の底
からくつろげる思いです。私の心には
常に田川があり、皆さんのことが頭か
ら は 離 れ た こ と は あ り ま せ ん ﹂。 と 冒
頭で述べた後、次のように語った。
31
(たなか・ろくすけ)大正 12 年、赤池町に生まれる。
市場小・田川中を経て早稲田大学を卒業。海軍航空大
尉として兵役に服した後、日本経済新聞社に入社。ロ
ンドン支局長、政治部次長を歴任。その後、池田総理
秘書に転じる。昭和 38 年、衆議院議員初当選。昭和
53 年、内閣官房長官に就任。その後、昭和 55 年、通
産大臣、翌年、自民党政調会長を経て、昭和 59 年、同
党幹事長に就任。昭和 60 年1月 31 日死去。享年 61。
元学校教諭、上里在住
「もし私の仕事で問題が
起きたら兄に迷惑がかか
りますから、教職時代に
は緊張感をもって仕事に
臨んでいました。分刻み
のスケジュールの合間に
珍しいお土産をたくさん
持ってきてくれましたよ」
。
18
﹁過去十年間に産炭地振興で実に
千五百億円が田川市郡に注ぎ込まれて
大 池 チサトさん
55
60
→大人物は高遠な
志を抱いて俗世間
には住まない。また
小事にこだわらないた
とえ。[列子](広辞苑)
故・田中六助氏は、池田・
大平両首相と共に保守本流
の道を歩いた政治家だった。
故・田中六助氏の妹
24
35
38
けんか
ヤマと喧嘩
治 時 代、 ヤ マ の 喧 嘩 は
明
おも
景 品 の 様 に 想 わ れ て い た。
年頃一番話題になってい
た大喧嘩は﹁豊前の会社﹂︵田
い
川郡後藤寺︶。これが戦争の
谷を挟んで大ナヤ同志の決
如き激しさであったと云う。
闘 で 一 方 は 七 百 人、 一 方 は
二 百 五 十 人、 互 に マ イ ト な
ど 投 げ 合 い、 両 方 の 死 者 だ
イ
バ ク チ、 ケ ン カ が 絶 え な い
後、六つの炭坑を頭領として渡り歩き
歳 の と き、 坑 夫 2 百 人 を 率 い て
佐賀小城郡木原炭坑で頭領を務めた
イレズミを背にからい、酒、
炭 鉱 社 会。 気 の 荒 い 坑 夫 た
年、赤池坑に移った。
労働面の管理を一手に引き受ける人が
池 は も ち ろ ん、 筑 豊 近 隣 を 取 り 仕 切 っ
たいていのケンカもケリがついた。赤
﹁ 事 が あ る と 陣 笠 を か ぶ り、 一 刃 を
たばさみ、馬を飛ばして駆けつけると、
明治
必要だ。その役を担ったのが納屋頭だ
ちは、藩士、庄屋出身の鉱主では手に
った。︵納屋頭は﹁統領﹂
﹁棟梁﹂
﹁頭領﹂
ていた﹂と、町史で古老が語っている。
負えなかった。坑夫たちをとりまとめ、
などと呼ばれる︶
その最たる仲裁劇が、明治 年 月
日に起きた香春町での大乱闘だ。糸
または全部を請け負う﹁納屋制度﹂が
日 に は 加 勢 人 も 加 わ る 始 末 で、 香 春、
鉄砲やダイナマイトも用いられた。
飛 と 中 津 原 の 坑 夫 た ち が に ら み 合 い、
おもに、明治時代の炭鉱は、鉱主と
納 屋 頭 の 契 約 に よ っ て、 業 務 の 一 部、
確立されていた。納屋頭は、腕っぷし
紹介されている
兵衛の墨絵にも
記 さ れ、 山 本 作
た。 赤 池 町 史 に
か務まらなかっ
力のある者にし
が強くて肝がすわった、統率力と指導
12
人が出動し
日、 松 岡 陸 平
き な か っ た。 翌
止することはで
た が、 こ れ を 制
ら
直方の警察署か
21
けでも三十九名も出たらし
ものすご
い。 そ れ が 三 日 三 晩 も 続 い
いれずみ
かん
20
の 納 屋 頭 で あ る。 陸 平 は、 嘉 永 5 年、
じて、ようやく仲裁が成立したという。
統領・藤井多吉の両者が、馬を馳せ参
は
と田川採炭坑大
市津︵赤池町市場︶に生まれる。父は
歳 で 鯰 田 坑 に 入 り、 病 床 の 父 と 幼 い 弟
義理人情に厚く、さ細な事にこだわら
ら せ た 頭 領 の 話 も 残 っ て い る よ う に、
を手渡し﹁達者で暮らせ﹂と餞別を握
せんべつ
仁右衛門。幼少のころ家運が傾き、借
歳で働きはじめる。
妹を養った苦労人だ。西南の役には軍
ない、一本気な川筋男。松岡陸平は筑
カに負け知らず。トレードマークの﹁お
故郷に帰った陸平は、赤池の坊主ヶ
谷坑で頭角を現す。大バクチ、大ゲン
退の一途をたどる。大正
導入、採炭切符廃止をさきがけに、衰
一 方、﹁ 納 屋 制 度 ﹂ は 明 治 年、 赤
池鉱主・安川敬一郎による坑夫直轄制
豊一の納屋頭として語り継がれる。
夫 と し て 従 軍、 そ の 働 き が 認 め ら れ、
円という大金だった。
多 福 の に っ こ り 笑 っ た イ レ ズ ミ ﹂ は、
つわもの
﹁納屋制度廃止﹂が議決された。
る。月俸は
陸軍電信掛一等工夫に任命されてい
金を返すため
子どもを置き去りにして逃げ出した
夫婦を追いかけ、遠賀川土手で子ども
松 岡 陸 平。 伝 説
22
た と は 物 凄 い。 明 治 中 期 で
あら
非ずの観があった。
29
24
↑かつて市津にあっ
た 松 岡 陸 平 の 墓。
飯塚市鯰田に移っ
たという話だが、行
方はわかっていない。
も刺青のない者はヤマ人に
ヤマと喧嘩
豊前のカイシャ
日三晩も続いた殺し合
三
いはいつ果てるか見当もつ
おりがら
壮漢が陣笠担い太刀姿で現
かぬ 折 柄、松岡陸平という
われ仲裁したとの事。
蛇足
当時でも無警察ではなかった
と 想 わ れ る が、 官 憲 も 破 竹 の 勢
いに手も足も出なかったのであ
ろ う。 ひ と つ は 明 治 十 年 の 西 南
の役、九州男児のアフリもあり、
ぼうこひょうが
31
年の国会で
32
川 筋 男 の 本 質 を 発 揮 し、 い わ ゆ
る暴虎馮河の勇にはやったので
80
11
はあるまいかのー。
19
居並ぶ強者を次々とひれ伏せさせた。
マ
︵2点ともに筆、画・山本作兵衛
ー
︵田川市石炭資料館蔵︶
そしていま、市町村合併の局面を迎えている。
ー
財政を再建して間もなく﹁石炭六法﹂も失効した。
やがてこの町は、心と身体に傷を負ったまま倒産する。
その昭和が終わらないうちにあえなく消えていった。
ピラミッド状に天を突き、昭和にそびえたボタ山は
急激な変化は人々の暮らしや町の風景さえも変えてしまった。
人口の流出、産業の空洞化、坑道の崩壊などによる鉱害
年、赤池の炭鉱は赤池鉱業株式会社の閉山で幕を閉じる。
45
この町を彩る未来の空は、どういう色なのだろう
今はなき赤池選炭場跡
13
36
炭鉱消えて
第四章
昭和
ケンカは待った!筑豊を仕切る納屋頭…松岡 陸平
がしら
な
や
ヤ
一喝の壮漢
年 度 か ら3 年 間 で 約
ちをかけた。赤池町の交付税
税が減額、財政危機に追い打
財源である国からの地方交付
直面している。さらに、主力
解散という﹁第三の閉山﹂に
致が不可欠。安定した仕事が
今は、鉱山に変わる企業の誘
本 は 雇 用 だ と 思 っ て い ま す。
ります。私は、社会福祉の基
助の意識改革を行う必要があ
その一方で、私たちは自立自
今 年7 月 に 全 国 石 炭 鉱 業 関
係町村議会議長会の会長に就
年企業誘致は一つもない。
また、長引く不況で、ここ数
の 打 撃 は 致 命 傷 と も 言 え る。
がりの町財政﹂にとって、こ
る。財政再建直後の﹁病み上
4 億2 千 万 円も 落 ち 込 ん で い
っています。しかし、それま
興の活動をやめてもいいと思
均までになったら、産炭地復
倒産が相次いでいます。私は、
しかし、現状は厳しく、企業
ら し て い く こ と が で き ま す。
世帯主が家庭を支え、日々暮
もいらない。しっかりとした
あれば生活保護も職業安定所
は平成
任 し た 片 岡 文 雄 議 長 は、 次 の
国に強く訴え続けます﹂。
では、壊れたラジオのように
生活保護率、失業率が全国平
ように語る。
﹁ か つ て、 国 の 政 策 に お い
て石炭を掘り、エネルギーを
胸に突き刺さる産炭地の叫
びのような言葉。いまだゴー
石油に変えていきました。炭
鉱が行ってきた環境破壊は鉱
ルの見えない再生に向けた取
片岡 文雄
害となり、いまだ地域住民に
赤池町議会議長
り組みは続く。
年とい
全国石炭鉱業関係
町村議会議長会会長
重くのしかかっています。壊
れた環境は、わずか
郡 内 の 1 町 で一つの県の数に
く、特に生活保護者数は田川
生活保護者数のいずれも高
地 区 は、 失 業 率、 犯 罪 件 数、
心を深く傷つけました。田川
そして、エネルギー革命は人
で き る も の で は あ り ま せ ん。
う短い期間ではとうてい復旧
40
も 匹 敵 し ま す。国にほんろう
直面する第三の閉山
エネルギー革命の波にのまれた。激変に揺らぐ産炭地は、
山積する課題を抱えながらも、全力で再生に取り組む。
閉山で傷を負った自治体を支
産炭地域振興臨時措置法
をはじめとする﹁石炭六法﹂、
復旧後、現在㊦の様子。
償等臨時措置法をいう。これらの
役場をはじめとする公共施設や住宅が建
法律は平成 13 年度末で失効した
ち並ぶニュータウン地区は、新たな町の中心部を形成している。ここは元
が、激変緩和措置で、縮小しなが
ボタ山があった場所。昭和 49 年から「ボタ山災害防止工事」で 55 年ま
ら5年間継続する。失業対策事業
年の間、この
40
年度末、たび重
法律で息をつないできた。し
だ。産炭地は
援するために国が採った政策
れた。基幹産業のないこの町
計り知れない。
した心と環境へのダメージは
激変と荒廃が人と町にもたら
突然のことだった。国策として石炭を生産したヤマは、
を お よ そ 9 千 人 が 後 に し た。
繁栄から衰退へ。閉山の嵐
に巻き込まれた町は途方に暮
一心、復興
左の写真は
㊤が開発前
㊦は開発後
現在の様子。
現 人 口 お よ そ1 万 人 の 小 さ な
時石炭鉱害復旧法、⑥石炭鉱害賠
かし、平成
しながら、廃止される予定。
町にとっては、民族移動とも
安定等に関する臨時措置法、⑤臨
害復旧の一例。赤池駅踏切付近の復旧前㊤、
なる延長を経た﹁六法﹂も失
労事業」で、
言える政災。それは、労働力、
て、平成 13 年度末で終了となった。右は鉱
13
造成された。
生産力の移動でもあった。そ
会計法、④炭鉱労働者等の雇用の
効となる。産炭地は﹁第二の
発就労事業は 22 年度までに縮小
して、相次ぐ鉱害が発生した。
し、この事業も一部経過措置の対象を除い
閉山﹂を迎えた。そして田川
地域開発就
坑道の崩壊などで地盤が沈
及び石油代替エネルギー対策特別
地区は、三井鉱山セメント︵田
就労事業は 18 年度、特定地域開
下、鉱害地は赤池町の8 割に
整臨時措置法、③石炭並びに石油
で地盤を底上げし、改善を図ってきた。しか
川市︶の早期撤退、太平洋セ
は 13 年度で廃止。産炭地域開発
もおよんだ。町財政の8 割を
続出した。昭和 27 年から「鉱害復旧事業」
メント︵香春町︶の来年3 月
総合グラウンドの特定地域開発就労事業
産炭地の叫び
でに切り取
られ「産炭
占めた自主財源が交付税など
臨時措置法、②石炭鉱業構造調
の 依 存 財 源 と 入 れ 換 わ っ た。
大雨が降れば浸水するなどの鉱害が町内で
ない…(日吉神社近くの踏切で撮影)
され、心がすさんでいる。これ
石炭六法とは、①産炭地域振興
だ。近い将来、黒い鉄の壁のような
ら 地 域 の 実 状 を 国 に し っか り
坑道の崩壊などで地盤が沈下し、家が傾き
一両あたりの積載量は 40 ㌧。赤
と 受 け と め て 欲 し い の で す。
石炭六法と失業対策
この風景が見られなくなるかもしれ
11
↑セメントを運ぶディーゼル機関車。平成筑豊鉄
道の貨物輸送のすべてが三井鉱山セメント(田
川市)によるもの。しかし、
今年9月、
三井鉱山が、
セメント事業から早期撤退の方針を示した。第3
セクターの平成筑豊鉄道は、沿線自治体が出資
する貴重な地元の足。セメント輸送は営業収入
のおよそ 16% を占める。貨物の減収で経営難に
陥るのは必至だ。
「第三の閉山」の波紋は大きい。
鉱害復旧と地域開発
い車体の DD51 は2千馬力の力持ち
Coal mine topics
一意、新生
深い影から、頭上を照らす光
の一歩が下田川三町の合併で
ればなりません。私が危機に
す。コンパクトな合併で、住
たちは前に進むしかない。そ
った当時、子どもが生まれた
民のみなさんと行政の距離を
を 感 じ る こ と も で き ま す。 私
ばかりで、途方に暮れながら
保ちつつ、より安定した行財
直 面 し た 時、 い つ も 思 い 出 す
も﹃ こ ん な と き だ か ら こ そ ﹄
のが炭鉱の閉山です。職を失
産炭地の未来をかけて
自治体の倒産を意味する財
政 再 建 団 体。 昭 和 年 以 降、
年度まで当時全
と、ひたすら努力してきまし
ました。重い回転ドア2枚を
赤池の三町合併における、何
政、充実した住民サービスを
しい真っ暗な坑内がありまし
父が炭鉱職員だった水永町
長 は 赤 池 鉱 業 所の 労 働 課 に 勤
よりの強みだと思います﹂。
た。私は今でもその経験に生
の後遺症に苦しんできた。
た。黒いダイヤはその奥深く
務 し、閉 山 後、町 議・議 長 を
行うのが目的です。三町はか
ま全国の自治体が直面す
い
る最大の課題﹁市町村合併﹂。
に眠っていました。いま、わ
経て、平成6年、現職に就いた。
つ て 石 炭 で 栄 え た 町 で あ り、
赤池町・金田町・方城町の下
が町は下田川三町の合併につ
かされています。炭鉱は私に
田川三町任意合併協議会は今
い て 検 討 を 重 ね て い ま す が、
生きる力を与え運命を変えた
年8 月に発足した。この三町
これは町の歴史を変える大事
﹁初めて坑内に下がったと
き﹃ 三 日 も た な い ﹄ と 思 い
に 共 通 す る の が﹁ 旧 産 炭 地 ﹂
業です。国や法にしばられ﹃さ
財政再建も経験しました。歴
﹁旧財政再建団体﹂というキ
せられる﹄合併ではなく、住
まさに﹃黒いダイヤ﹄でした﹂。
ー ワ ー ド。 産 炭 と 財 政 再 建
ぬけると、高湿、高温で息苦
を経験した町だけの合併推進
民のみなさんと﹃町を動かす﹄
はヘッドライトの明かりだけ
先が見えない真っ暗な坑内で
って毎日が楽しかった。一寸
びつきも強かった。活気があ
﹁昔は荒くれ者が多かった
けど、人情味があり、人の結
で審議される予定。
案は、各町の3 月定例町議会
田川三町合併協議会﹂の設置
みだ。任意から法定に移る﹁下
併協議が一気に加速する見込
月
住民アンケート結果が
までにまとめられ、以降、合
社会は、いっそう深い影を落
似ています。先行き不透明な
町 を 取 り 巻 く 現 状 も、 こ れ に
き出した。
の町の新生に向け、力強く動
大きなうねりを生んだ。炭鉱
彦 山 川 に 面 す る 三 町 は、 激
流の時代をくぐり抜け、いま、
厳 し さ が あ り ま し た。 い ま、
が頼り、言い表せないほどの
多 い。 そ れ が、 金 田、 方 城、
史、風土ともに共通する点が
は、おそらくここが全国唯一
夢と期待が持てる合併でなけ
た町長、助役に話を聞いた。
任意協議会代表幹事を務め
る 今 田 一 成 助 役。 測 量 方 を 9
年間勤めた後、労働省に入省、
としています。しかし、その
12
市場小学校の玄関で
治鉱業赤池鉱業所に勤めてい
ではないだろうか。かつて明
郡内の町である。どこも閉山
らにこのうちの4 団体が田川
団体中5 団体が産炭地で、さ
国唯一の団体だった。この7
池町は平成
治体は7 団体で、なかでも赤
再建団体に転落した県内の自
50
平成6年から現職となった。
■
取材にご協力いただ
い た 皆 様 に、 心 よ り お 礼
申し上げます。
特集・炭鉱︵ヤマ︶
参考資料
赤 池 町 史、 赤 池 発 電 所
戸
、中
・ 塚栄太郎氏撮影︶
山陽さん、長崎三夫さん、
長 谷 川 浩 さ ん、 藤 岡 登 さ
ん、 松 尾 武 男 さ ん、 田 川
市石炭資料館
資料提供
大 池 保 房 さ ん、木 村 邦 治
さん、戸塚八州男さん︵故
年 史 ア ル バ ム、 筑 豊 炭 坑
絵 物 語︵ 山 本 作 兵 衛 画・
文/田川市石炭資料館監
修 / 葦 書 房 ︶、 明 治 鉱 業
株式会社社史
37
今田 一成
水永 康雄
左:金田町にあるボタ山。かつて
明治赤池のものだった。右:方城町
にある「九州日立マクセル赤煉瓦記
念館(旧三菱方城炭礦抗務工作室)
」
。
平成9年に国の登録文化財となった。
「初めて下がった坑内は死の世界
に入ったようで、そこで働く坑夫達
は私の目に尊く映りました。若い人
たちに、炭鉱の写真から生きる尊
さを感じてもらえればと思います」
。
赤池町助役
赤池町長
金田町・方城町、ヤマの面影
中 山 陽さん(田川市)
︵なかやま・あきら︶
師、 写 真 家。 二 科
医
展入賞をはじめ受賞多
数、二科会写真部会員。
ヤマの記録を撮り続けた
12
野外ナイトフェスタ赤池
﹁
炭
うた
がき
年。町出 身の
鉱の町﹂から﹁歌垣の
﹂へ⋮⋮⋮イメージ
町
ェンジを図った赤
チ
池町が昭和 年に﹁ 童 謡の町
きゅう
り
日に
ひょう せん
ABARE・BLACK
宣 言 ﹂ を して
童謡作曲 家・河 村 光 陽の精 神
を 受け 継 ぎ、明るい未 来 を 歌
い続 けて きました。そ して 今
くん
こ
Hiyousen ー Lee
年、町のメインイベントとして
月
集 大 成 となるオリ ジナルCD
開催してきた﹁童謡まつり﹂の
を作成。発 表 会 が
中央研修所で行われました♪
和 年から平成 年ま
昭
での 年間にわたり行ってき
た﹁子どもの歌創作曲コンク
ール﹂で、6 千5 百もの曲が
赤池町に寄せられました。今
曲を厳選し
た童謡CD﹃ウタガキ︵歌垣︶﹄
回、その中から
を 作 成。﹁ 赤 池 ブ ラ ン ド の 童
謡を長く保存し、みなさんに
周年にあわせて
聴いて欲しい﹂という願いか
ら町制施行
編集したオリジナル版です♪
D を企画制作した、テレ
C
ビドラマなどの音楽を手がけ
る岩崎大輔さん︵福岡市︶を
人のプロミュージシ
はじめ、レコーディングに参
加した
ャンを中央研修所にお招きし
シャル﹂で発表しました♪
﹁赤池町童謡コンサートスペ
ンサートでは、町内合唱
コ
曲が発表
団3 団 体 に よ る 赤 池 町 の 歌 声
の後、CD 収録曲
され、創作した人たちの優し
い思いを歌い上げました♪
成 年に最優秀賞を受賞
平
した﹁いろんないろがほしい
かなう
な ﹂。 こ の 歌 を 作 詞・ 作 曲 し
た松隈協さん・ゆかりさん夫
妻︵山口県下関市︶は﹁私た
ちの曲がCD に収録され、た
いへん光栄です。形に残るの
で、父と母の思いを娘に伝え
られると思います﹂と当時ま
だ生まれていなかった、みな
りちゃん︵1 歳︶と一緒に喜
びを分かち合っていました♪
りゅう ふく
ストコーナーでは﹁中国
ゲ
と日本の童謡﹂と題し、劉福
君さんによる中国の伝統楽器
﹁胡弓﹂の演奏と李氷川さん
が中国唱歌を熱唱。どこか懐
かしい音色と壮大な景色を思
わせる旋律に、会場全体が静
かに耳を傾けていました♪
テージのラストは、かつ
ス
ての炭鉱の町に思いをはせる
﹁炭坑節変奏曲﹂の演奏と町
の希望を歌った﹁夜明け赤池﹂
の合唱です。町の過去・未来
を奏でた心に響く感動のメロ
ディーに、客席では涙ぐむ人
も見られました。3 百人の参
加者は、幕が下りてしまうま
©2003 テレビ朝日・東映エージェンシー・東映
子どもの歌「アイ・キッズ」の元気な歌声
制作した岩崎大輔さん
書・絵・写真・盆栽
押花・手芸・上野焼
などの作品を展示
受賞した松隈さん親子
23
12
で、出演者たちに惜しみない
Fukukun ー Ryu
11 月1日から2日
間、 町 民 会 館 で 行 わ
れ た「 町 民 文 化 祭 」。
町のアーティストによ
る 1500 点 の 作 品 が
並 び ま し た。 恒 例 の
お茶会も好評でした。
小笠原古流のお茶会
ナップサック 記念冊子 童謡CD
アバレンジャーショー
町民文化祭
を来場者全員に
+ + プレゼントしました!
大盛況の会場
町の歌声「楽音会」の合唱
11
12
12
拍手を送り続けました⋮♪
Keiko Kumagai
63
16
65
11 月8日に町民会館前広場で行わ
れた「ふるさとフェア」に 3000 人が
来場。40 張りのテントでは町内商店
などの特売品が飛ぶように売れ、キャ
ラクターショーでは親子連れでにぎ
わいました。
ABARE・KILLER
童謡CD収録曲の発表
63
13
15
12
ムジーク・プラッツ
上野小学校
11 月2日に役場前ワィ・ワィ・ワ広場で行わ
れた「野外ナイトフェスタ赤池 2003」。多彩
なゲストによる感動のサウンドが 500 人を魅
了しました。ラストは「秋の花火大会」。色と
りどりの大輪が赤池の夜空に咲きました。
ふるさとフェア
童謡コンサートスペシャル
童謡CD「ウタガキ」
発表記念
歌 垣
THE OGAWAS
BLACK BIRD
司会はこかどひろこさん㊨
THE FLYING ELEPHANTS
ベルアルモニア・赤池
Nonoka Nakamichi
「炭鉱の町」から「歌 垣の町」へ ー 童謡まつりin 赤池 2003
うた
ふれあいコンサート
童謡まつりのスタートを飾った「ふれあいコンサート」。10 月 26 日に
中央研修所で行われ 400 人が参加、町内8団体が 26 曲を披露しました。
Koji Kimura
がき
コンサート
スペシャル
♪ 2003 DOYO festival in AKAIKE ♪
Yumiko Tsuda
Kana Kikutani
優勝した本部分団の放水
消 火タイムと正確さ競う
第1回 赤池町消防団実践応用ポンプ操法大会
赤池町消防団による消防ポンプ操法大会が、10 月 26
日に赤池橋下河川敷で行われました。火災が起きやすい
冬場に向けて士気の高揚と消火技術の向上を目的とした
もので、今回が初開催。町内の7分団が出場し、選手5
人が連携してポンプにホースをつなぎ、的に放水するま
での時間と動作の正確さを競いました。大会結果は1位:
本部分団、2位:2分団、3位:1分団。
笑 いでリフレッシュ
第 17 回 赤池町住民福祉講座
善 照寺の人気者ピー子ちゃん
落ちていたヒヨドリ、住職親代わりに
善照寺(昭和町)で海野法寛住職が育てて
か
いるヒヨドリが檀 家 さん達のアイドルになっ
ています。5年前、福岡市で教師を務める長
男が、生徒が校庭で拾ったヒヨドリのヒナを
連れ帰り、動物好きの住職が大切に育てまし
た。名前は「ピー子ちゃん」(メス)、野鳥で
すが住職になついて「手乗り」になり、パン
やケーキを口移しで食べています。檀家さん
にも人気で、葬式なのにピー子ちゃんの様子
を見て喜ぶ人もいたそうです。今年7月には、
拾ってきたオスのヒヨドリ「2ピー」も仲間
入り。海野住職は「また家族が増えましたよ」
と目を細めていました。
だん
少年剣道を指導する剣友会の5人
少 年達に胸張る入賞
尾垣杯社会人剣道大会
10 月 26 日に尾垣杯田川地区
社会人剣道大会が金田町武道場
で開かれ、少年剣道部「誠心館」
で指導する「剣友会」が団体戦
3位に輝きました。先鋒:久原
拓郎さん・次鋒:武末洋一さん・
中堅:和田淳さん・副将:和田
祐一さん・大将:日野崇さんの
5人が出場。主将の和田祐一さんは「少ない練習量のなか勝ち取っ
た入賞、子どもたちの励みになればうれしい」と喜びを語りました。
心 打つ子どもたちの読み聞かせ
1時間半会場を沸かせた三遊亭小遊三さん、洋装での講演
会 場一体のハーモニー
ホールコンサート IN やくば
第1回 赤池町こども読書まつり
発表した絵本を手に
第1回目とな
る「赤池町こど
も読書まつり」
が、11 月 15 日
に町民会館で行
わ れ まし た。 福
岡県青少年アン
ビシャス運動「本
のわくわく探 検
事業」の一環で
す。この日の発表に向けて練習したという5人の小中学生が、それぞ
れ感情のこもった読み聞かせを披露しました。会場の 30 人の中には
涙ぐむ大人の参加者も見られ、感性豊かな子どもたちの発表に胸を
打たれた様子でした。また、アンビシャス運動の会員である赤池町
絵本を読む会「ぶらんこ」による読み聞かせも行われました。
海野住職の頭に乗るヒヨドリのピー子ちゃん
陶壁を背に歌うベル・アルモニア赤池
「ベル・アルモ二ア
赤池」の皆さんによ
る「ホールコンサー
ト IN やくば」が 11
月 16 日に行われま
し た。 ピ ア ノ 独 奏、
ソプラノ独唱が披露
され、合唱では会場
の 30 人も一緒に童
謡を歌いました。秋
の夕べに美しいメロ
ディーが役場ホール
に響きました。
古 里の京都で2百年ぶり修復
興国寺千手観音像修復落慶法要
足利尊氏とゆかりの深い安国寺の流れをくむ興国寺。このお寺の
仏殿にある千手観音像が有志の寄付により修復されました。開山と
む いん げん かい
される高僧・無隠元晦が、京都から招いたとされる千手観音像。台
座の中から発見された古文書には、天明2年(1782)に田川郡を
越えた 300 人におよぶ広域の寄付を募って修復したことが記され
ています。221 年ぶりとなる今回の修復は、観音像のふる里である
京都で行われ、11 月9日、興国寺仏殿に安置されました。この日、
らっ けい ほう よう
大勢の関係者が見守るなか、落慶法要が盛大に行われました。
専門家の手で台座に安置される千手観音像
11 月 15 日に中央研修所で住民福祉講
座が行われました。講師はテレビ番組「笑
点」でおなじみの三遊亭小遊三さん。「笑
点」出演者のエピソードや落語『じゅげむじゅげむ』な
どユーモアたっぷりのお話しに、450 人の参加者は爆笑
の渦につつまれました。講演前には国民文化祭とびうめ
大使・藤野舞さんらによる見事な剣舞が披露されました。
【 知ろう・話そう・予防しよう 】
AIDS IS A PREVENTABLE DISEASE
エ
イ
エ
イズを予防するために大切
ズ
は
予
防
同じ運行時間となりますので
日から
29
お間違えのないようお願いい
たします。
12
月
平成 年1月3日まで
16
で
き
る
病
● こんなことでは感染しない
なのは、まず「知ろう」と
年末年始運休=
︻生きがいデイサービス︼
12
26
渡辺征雄
6千9百枚
︻使用済テレホンカード︼
枚
月のお誕生日会は、吉田
大作さんをお呼びして落語を
日︵金︶に開催
月
しますので、どうぞ福祉セン
行います。
12
42
181枚
渡辺征雄
枚
森トモ子
︻使用済テレビカード︼
森トモ子
12
月の福祉センター行事
22
︻香 典 返 し ︼
15
AIDS
12 月1日は世界エイズデー
23
ターにお越しください。
24
︻休館日︼
1日、8日、 日、 日、 日、
日から
28
赤星 勇︵生力︶ 故 森 タケ
左ミユキ︵薬王寺︶ 故 利行
森野秋夫︵ 天郷団地︶故 マツノ
月
12
日︵水︶には﹁クリスマ
ス会﹂を行います。詳しくは
覧ください。そのほかの
12
﹃かわら版﹄かポスターをご
日︵火︶
、
﹁フラワー
日︵ 金 ︶
の 行 事 は、
﹁書道教室﹂2日
16
27
日︵大掃除のため︶
15
︵火︶・
アレンジメント﹂
を予定しています。
問い合わせ先
赤池町福祉センター
℡︵28︶4646
19
30
分∼ 時︶
16
16
年末年始休館=
10
故 政博
12
万円
10
坂田 順︵花園︶
24
平成 年1月5日まで
10
以上4件
24
︻寄 付 ︼
︻心配ごと相談︼
9 日、 日︵ 時
︻健康相談︼
9 日︵ 時∼ 時︶
︻介護保険相談︼
9日、 日︵ 時∼ 時︶
25
千円
山本眞由美
4万円
上野焼協同組合
2 千6 百 円
匿 名2 件
︻ふ れ あ い 基 金 ︼
3万4千227 円
︻福祉バス運行︼
月 日から1月7 日まで
の冬休み期間中は、日曜日と
12
福祉バス内ふれあい基金箱
︻古 切 手 ︼
3千677 枚
万燈
3千677枚
文研
気
で
す
● エイズ検査を受ける勇気を
献血
エイズ医療の進歩により、エイズ発
する気持ちをもつこと。その気持ち
症前から治療を行うことで、発症を抑
があれば、正しい予防法も身につき
えることが可能です。そのためには早
ます。知識を身につけることで、エ
く感染を知り、医師の治療を受ける必
イズからあなた自身やパートナーを
要があります。
「恐いから」
「差別や偏
守ることにつながっていきます。
見があるから」と、検査を受ける前に
手で触れるもの
1981 年、世界ではじめて5人の患
悩み、なかなか決断できないでいるこ
握手や抱擁
者が報告され、いまや世界中に広まっ
とが多いようです。検査を受けた場合
と受けない場合とで大きく異なるの
ているエイズ。日本も例外ではなく、
は、自分の人生をコントロールしてい
急激ではありませんが感染者は確実
るという感覚が持てること。事実を知
に増加しており、深刻な問題となっ
プールや共同浴場
ることはつらいことですが、その後の
ています。あなたにとってエイズは
人生をどう生きていくか自分で考え、
無関係な病気でしょうか。「まさか、
決定していくことができます。
自分が…」と他人事だと思っている
人が多いようですが、本当にそうで
せき・くしゃみ
しょうか。もし、友人や身近な人が、
しますか。無関心であることは、感
があるかどうかを調べる検査です。感
楽器の共用
染してから抗体ができるまでには6∼8
染に対して無防備であるのと同じ。
作句をする事に依って今のこの時間をうまく生かすことができる
● 検査は8週間以上たってから
HIV 抗体検査は血液中に HIV の抗体
そして自分が感染していたら、どう
養命大学・隣保館句会
池田一歩選
そま
さく
選
者
吟
神田恵美子
渡辺サカヱ
有川
信子
立花サヱ子
皆川
春彦
皆川
和子
宇野八重子
森
玲子
安田
健一
寺内ノブヱ
石橋さつき
白石
幸子
西郷里末子
小場
妙子
大久保幸子
荒木美千代
末松トモ子
熊谷カツミ
吉田
弘
亀谷千恵子
池田
駒女
がん
しゅう こう
朝寒や呟くことのつい癖に
杣ヶ家の煙一すじ秋深む
削岩機冷たき空気震はせて
十年祭父を偲びて柿の秋
手に取りて稲穂の重さ計りけり
秋耕に精出すことも呆け防止
秋晴れや心も晴れて表彰式
一人居に夜の静けさ虫の闇
掃き寄せし一盛りごとの落葉かな
読み更けて折から窓に冬の月
風吹けば彩り変る紅葉かな
山路来て紅葉もみぢの色に酔ふ
日焼してどの子も同じ顔となり
霧湧くやそのまゝ霧の夜となりぬ
我が影の丈のびやかに後の月
引きしまる思ひ十一月にあり
露寒や身の行く末をふと思ふ
露けしや古代人とも語りもし
かな文字で子規の句染めし秋のれん
朝寒の血管叩くナースかな
音もなく庭石濡れて初しぐれ
人情の流るゝ秋の雲に似て
き
つぶや
いろど
■田川市■ ℡ 44-2000
○メリー・メリー・クリスマス(入場無料)
12 月 13 日(土)14 時∼ 17 時
国際交流員のクリスマスパーティです。
楽しいゲームやステージを行います。
■金田町■ ℡ 22-0555
○第 38 回田川郡町村対抗駅伝大会
12 月 14 日(日)9時 30 分スタート
(金田町河川敷コース)
○第 20 回田川郡マラソン大会
12 月 14 日(日)11 時 30 分スタート
(金田町河川敷コース)
■香春町■ ℡ 32-2511
○人権啓発講演会(入場無料)
(香春町町民センター)
12 月8日(月)19 時∼ 21 時
講師:萩生田千津子さん
「車いすから語りかける夢と希望と生きること」
■川崎町■ ℡ 72-3000
○人権講演会(入場無料)
(川崎町勤労青少年ホーム)
12 月9日(火)19 時∼
講師:俳優・八名信夫さん
「他人の子をしかるのも大人の思いやり」
■大任町■ ℡ 63-3000
○少年の主張大会 (レインボーホール)
12 月6日(土)10 時∼
○レクリエーション大会(B&G体育館)
12 月6日(土)11 時 30 分∼
■添田町■ ℡ 82-1231
○第 16 回オークホール音楽会(オークホール)
12 月7日(日)15 時∼ 演奏:九州交響楽団
入場料:2千円(全席自由)
○アンビシャス広場クリスマス会(入場無料)
12 月 20 日(土)13 時∼(町立図書館)
サンタさんとゲーム、バルーンアート
10
週間かかるため、それ以前に受けても
性行為の話題がオープンにしにくい
回し飲み
感染の有無を判定することはできませ
ことや、長期間自覚症状がないため
ん。検査は全国の保健所で受けること
に感染に気づかないまま、次々とう
が可能です。プライバシーが気になる
つしてしまうことが、日本での感染
人は近くではないところで受診すること
者や患者を増加させている最大の原
もでき、検査費用は無料、匿名で受け
因だと言えるでしょう。正しい知識
トイレの便座
ふる
と理解からエイズを予防しましょう。
られます。病院で受ける場合は、カル
テの作成などにより、氏名が必要です。
そのほか、軽いキス・蚊やノミな
検査日が決まっていることが多いので、
● 予防するには
どの昆虫に刺される・体が接触する
電話などで確認しましょう。エイズに関
感染ルートは性交渉、注射の回し
スポーツ・鍋など同じ食べ物をつつ
するご相談は全国の保健所またはエイ
打ち、母子感染などに限られている
くなど、職場や学校での日常的な接
ズ予防財団・℡ 0120-177-812 まで。
ため、感染に危険な行為(無防備な
触では感染しません。HIV は空気や
性交渉など)を避けるだけで予防で
水に触れれば死んでしまうほど、大
き ま す。 感 染 者 の 精 液、 膣 分 泌 液、
変感染力の弱いウイルスです。です
HIV に 感 染 し た 人 は 病 気 だ け で
なく、偏見など、さまざまなプレッ
血液、母乳が体内に入る機会をつく
から、HIV 感染者やエイズ患者を恐
シャーと闘っています。理解し合い、
らないことが大切です。
れたり、避ける必要はありません。
共に手をとりあっていきましょう。
ちつ
人権ふれあいウォーキング大会
同和問題啓発推進協議会
月1日から必要事項を手帳に
記載する手続きを受け付けますの
←ユニークな貯金箱で見事受賞した岩見君 ㊧と柴田君
池郵便局長賞を受賞しました。
日の前日以降の最初の3月 日ま
齢を3歳から就学前︵6歳の誕生
入 院 に 関 わ る 医 療 の み、 対 象 年
アイディア自慢の貯金箱
納税強調月間
赤池町
月は赤 池 町 納 税 強 調 月 間で
す。税金や使用料などの納め忘れ
はありませんか?
月は国民健
康保険税5期、固定資産税4期の
変更内容は次のとおり。
で︶に引き上げます。対象年齢の
平成 年 月 日までは⋮
外 来・入 院 とも3 歳 までの利 用。
︵3 歳 の 誕 生 日 の 前 日 の 属 す る 月
平成 年1月1日から⋮
の末日まで︶
納期月です。また、住民税、軽自
住宅新築資金、水道使用料、汚水
動 車 税のほか、町営 住 宅使用料、
使用料、学校給食費なども納め忘
れのないようお願いします。
乳幼児医療制度の変更
役場保健課国保年金係
た、山上ももこさん(上野小1)
● 赤池町役場 ℡28・2004
● 赤池町教育委員会 ℡28・4100
● 赤池町立病院 ℡28・2083
川地区消防本部
問い合わせ先
田
℡︵ ︶0650
無料英会話教室
赤池町教育委員会
簡単な日常会話を中心とした無
申し込み方法
教育委員会学校
教育課にある申込書を提出してく
日付けで改正されました。
と廣畑圭一君(市場小3)が、赤
外来は3歳までの利用。
の末日まで︶
︵3 歳 の 誕 生 日 の 前 日 の 属 す る 月
入院は就学 前まで利用できます。
︵6 歳の誕生日の前日以後の最 初
の3月 日まで︶医療証が変わり
ますので対象者に通知します。
問い合わせ先
役場保健課国保年金係 内線147
町の事件事故発生状況
田川警察署
月中に発生した赤池町内の事
件事故件数。空き巣が多発してい
ます。戸締まりを確認しましょう。
○自転車盗等
1件︵前月比+1︶
年
○車上ねらい 2件︵前月比△1︶
○空き巣
5件︵前月比±0︶
○自販機荒し
0件︵前月比△1︶
○交通事故
7件︵前月比+5︶
うち負傷者は8人
さん
交通安全
新崎
田川交通安全協会赤池支部の新
崎宗男さん︵伏原︶が 月 日の
→赤池支部の副支部長と本部理事を務める新崎さん
問い合わせ先
福岡労働局賃金課
℡092︵411︶4578
詳しくはお問い合わせください。
月
岡 県 の 最 低 賃 金 は、1 時 間
福
644円。その他の産業別賃金が
福岡労働局
最低賃金の改正
役場まちづくり係
内線233
問い合わせ先
年1月1日から変更になります。
ださい。電話では受け付けません。 乳 幼 児 医 療 の 対 象 年 齢 の 引 き
申し込み問い合わせ先
上げに伴い乳幼児医療証が平成
期間
赤池町教育委員会
学校教育課
﹁花器展 ﹂
月3日︵水︶∼
月 日︵月︶
時から 時︵火曜日は定休日︶
会場
上野焼陶芸館ギャラリー陶
問い合わせ先
上野焼陶芸館
℡︵ ︶5864
形をした貯金箱で郵便貯金振
情報ひろば
衆議院議員総選挙が 月
9日に行われ、武田良太さ
区の候
ん︵ 本町3︶が 初 当 選を果
たしました。福岡
月4日︵ 木 ︶から 日︵土︶
は赤池町人権旬間です。初開催と
なる人権ふれあいウォーキング大
で、役場保健課介護係の窓口まで
工業統計調査
見駿平君(市場小6)がお寿司の
31
会、ぜひご参加ください。
有 料 道 路の 障 害 者 割 引 制 度 が
改正され、 月1日︵月︶から手
赤池中学校
町 民 会 館・
お越しください。
経済産業省・福岡県・赤池町
恭輔君(市場小2)が船の形、岩
12
日時
月7日︵日︶9時 分
料英会話教室を開催します。
時スタート
池町在住のかた
対象者
赤
出発会場
受講期間
︵月︶
ワィ・ワィ・ワ広場
平成 年1月 日
上野小学校グラウンド から3月 日︵水︶
内容 町内6コースを6人編成の
第1講座 昼の部・毎週月曜日
チームで選択し、クイズを解きな 時 分から 時
がら歩きます。各コース4㎞前後。 第2講座
夜の部・毎週水曜日
閉会会場 ワィ・ワィ・ワ広場
時 分から 時
講座 人程度
﹁しし鍋﹂もあります。 受講者数
各
問い合わせ先
会場
赤池町教育委員会
赤池町民会館 第2会議室
消防吏員採用試験
田川地区消防本部
防吏員
採用予定
若干名
消
受験資格
昭和 年4月2日から
昭和 年4月1日までの出生者
一次試験 平成 年2月1日︵日︶
試験会場
田川市立中央中学 校
受付期間
月 日︵水︶から 日︵金︶まで
受付時間
9時から 時
土曜・日曜を除きます。詳しい
内容はお問い合わせください。
障害者有料道路割引制度の変更
の鶴森哲男さん︵下谷︶に
帳のみで割引が適用されます。︵今
役場保健課介護係
よる指導で、一人ずつてい
成 年5月 日まで︶
までの割引証と手帳での通行は平
の各公共 施
受付・問い合わせ先
成 年 度工業 統 計調 査を
平
月 日現在で行います。 月から
1月にかけて調査員がお伺いしま
郵政事業庁の「私のアイディ
ア貯金箱コンクール」で柴田
15
16
補者別得票数は次のとおり。
市場小3年の 人が﹁総
合的な学習の時間﹂で菊の
鉢 の 菊 は、
花を育てました。苗を寄付
ねいに育てた
したゲストティーチャー
赤・ 白・ 黄 色 の き れ い な
ETCでの割引は平成 年1月
日︵火︶から適用されます。
設 にこ れ を
すえ
線146
役場保健課介護係
内
たっ ぷ り に
育て た 菊の
上野焼陶芸館
すので、ご協 力 をお 願いし ま す。
調査票の調査内容は、統計法に基
めて 子 ど も
づき厳守されます。
しました。
たちが 手 渡
野焼伝統工芸士会によるすて
上
きな花器を展示します。入場無料。
花に心を込
ギャラリー陶のイベント
寄 贈。愛 情
町 立 病 院・
日に、役場・
花を咲かせました。 月
→菊を受け取る町立病院の天賀看護師長
知事表彰を受けました。 年にわ
交通安全県民大会︵福岡市︶で県
たる交通安全活動が評価された表
彰です。おめでとうございました。
−12月1日は世界人権デーです/ 法務省−
−12月は固定資産税4期・国保税5期の納期限です/ 税務課−
講師:ドンナ・ジャビロ先生
(カナダから来日)
12
31
25
14
25
21
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31
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10
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19
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30
興協会賞を受賞しました。ま
11
12
10
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52
16
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17 19
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10
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31
19
17
←「郷土のため、国政のため、精一杯働きます」と決意を述べた武田良太さん。
おい
選挙の翌朝、晴れやかな表情です。故・田中六助代議士の甥。(赤池町役場で)
14
78
44
15
12
10 12
61
10
11
78
12
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20
12
10
31
赤池町から代議士誕生!武田良太さん初当選
育てた菊を寄贈
市小
3年
炭坑とアート
うら
た
め
い
浦 田 芽 依 ちゃん
3歳 女の子(大谷)
H12 年 12 月 19 日生まれ
「パパとママの宝物!
お歌がとっても大好きな
芽依です 」
(パパとママから)
いま
むら
ゆう
き
り
く
今村優希ちゃん 凌久くん
優希ちゃん㊧3歳・女の子
H12 年 12 月 25 日生まれ
凌久くん㊨1歳・男の子
H14 年 12 月 16 日生まれ
姉弟の2人(大浦団地)
年末年始の救急医療∼緊急時のみご利用ください
田川地区休日救急医療センター ℡ 45-7199
診療日
「わが家の宝物です」
12 月 31 日(水)・1月1日(木)・2日(金)・3日(土)
(パパとママから)
の4日間
いし
ばし
はやと
受付時間・診療科目
﹁世界の川俣﹂が、この町にやって来た。
2年ぶりに赤池で行われたプロジェクト。
コールマイン田川の最終日に6人の美術
関係者が炭坑とアートを語った。
石 橋 駿 くん
内科・小児科:9時∼ 11 時 30 分、13 時∼ 16 時 30 分
2歳 男の子(板取)
H13 年 12 月 13 日生まれ
外科:9時∼ 11 時 30 分、13 時∼ 16 時 30 分
「変身!!大好き 駿くん
元気いっぱい
たくましく育ってね」
(パパとママから)
18 時∼ 22 時 30 分
※ 保険証をお忘れなく
年末年始のゴミ収集∼お間違えのないように
12 月 29 日(月)∼1月4日(日)はお休みです。
燃えるゴミの収集日が次のとおり変更されます。
・12 月 29 日(月)収集地区
➡
12 月 27 日(土)に変更
・12 月 30 日(火)収集地区
新聞窯の炎を調節する東京芸大教授の川俣正さん
➡
12 月 28 日(日)に変更
年末年始のし尿処理∼混みますのでお早めに
頴田環境開発 ℡ 28-3377
・12 月 31 日(水)∼1月4日(日)はお休みです。
吉田環境整備 ℡ 22-0221
・12 月 30 日(火)∼1月4日(日)はお休みです。
筑豊衛生環境 ℡ 28-3377
※「炭坑とアート」に関するページは、全て「炭坑」で表記しています。
編集後記
コールマイン田川のワークショップ「新聞窯で焼物をつくろう」が、天郷青年の家で9月 21 日から 23 日にかけて行われた。
水を含ませた新聞で各地の住民が作った皿など 40 点とまきを何重にも覆う、幅1㍍、長さ5㍍の長円形をした新聞窯。
上野焼青年部を中心に丸2日見守り焼き上げた。初挑戦だが出来栄えは上々、薄茶色の素朴な色に納得の表情を浮かべた。
・12 月 29 日(月)∼1月4日(日)はお休みです。
ヤマの話は尽きない。取材するうちに取り上げたい題材が増え
ていった。ヤマを知らない私にとって驚きと発見の連続だった。み
なさんのヤマへの思い、ふる里への限りない愛を感じた。まだ、筑
豊の地底には埋蔵量の 70%もの石炭が眠っているという。
(長野)
斎場∼元日はお休みです
田川地区斎場 1月1日(祝)はお休みです。
川俣正コールマイン田川
そ こ で 出 会 い、 時 間 を 共 有 し、 何 か を 感 じ、 充
安斎
様々な多くの人が参加するコールマイン
田 川、 あ ら た め て 大 切 な の は 現 場 だ と 感 じ た。
な坑内へと駆けつけるという。その﹁スカブラ﹂
﹁スカブラ﹂は、事故があった時、真っ先に危険
坑夫。しかしなぜか、みんなから親しまれている。
カ ブ ラ ﹂ は、 普 段 何 も せ ず に 遊 ん で ば か り の 炭
果 が 考 え ら れ る。 利 益 が な け れ ば ダ メ だ と さ れ
な い。 行 政 的 な 発 想 や 視 点 で は、 ま ず 費 用 と 効
いう次元でこのプロジェクトを評価してはいけ
ー ル マ イ ン 田 川 は、 町 お こ し 的 な ス タ
伊藤
コ
ン ス と は 違 う。 何 が で き た か、 何 を 残 し た か と
いるのは自分たち、町づくりを行うのも私たち﹄
が つ な が っ て い っ た。 地 域 の 人 は﹃ 町 を 知 っ て
水 を や る よ う に な っ た。 そ の 活 動 に よ っ て 地 域
に も 一 苦 労 の 広 さ。 そ こ で 地 域 の 人 が 協 力 し て
た。 し か し、 そ れ は 膨 大 な 面 積 で、 水 を や る の
待 し て い た が、 結 局 で き た の は 普 通 の 花 壇 だ っ
このコールマイン田川をそういう視点で見てい
記 憶 や 出 会 い が 残 り、 そ れ が 醸 成 さ れ て い く。
け る 唯 一 の 希 望 で も あ る。 人 が 動 い て い く 中 で
き る。 そ れ が、 現 代 の よ う な 世 知 辛 い 社 会 に お
つ な ぐ き っ か け に な る。 お 金 と も 関 わ り な く で
北川
美 術 は 精 神 的 な 活 動 で あ り、 人 と 人 と を
ういうこと
のだと思う。
結びつくも
は何にでも
る。アート
ることもあ
りに発展す
ない町づく
というのは
方がよい﹂
アル的な価値観がなくなっていく
ものすごいことがここで行われてい
るんです」
。ディスカッションを終
えたその晩、母里さんが語った。
北海道の炭坑の町に生まれ育っ
ジェクト「コールマイン田川」
。か
た川俣さんだからこそできるプロ
※ 名前書・四宮祐次さん︵書家 写・真家︶
実 感 を 得 る。 コ ー ル マ イ ン 田 川 が な け れ ば、 こ
の存在が、私の中で決定的なものになっている。
んの絵と上野英信さんの本。物語に出てくる﹁ス
のような人と人とのつながりは生まれなかった
だ ろ う。 ピ ュ ア で 原 始 的 な 解 放 さ れ た も の へ の
能しないアートを機能させる場だと思う。以前、
ー ル マ イ ン 田 川 は 機 能 す る ア ー ト。 機
山野
コ
理 解 と 言 う か ⋮ 美 術 を 遊 び、 楽 し む す ば ら し さ
を こ の プ ロ ジ ェ ク ト の 過 程 で 感 じ た。 そ う い う
る。 し か し、 芸 術 は そ ん な 簡 単 に 評 価 で き る も
福 岡 市 内 の あ る 地 域 に 依 頼 さ れ、 花 壇 を 作 っ た
の で は な い と 思 う。 も し か し た ら 鉄 塔 は 建 た な
と い う 意 識 が 強 い。 し か し、 外 か ら の 刺 激 で、
る。 炭 坑 と 聞 い て 思 い 出 す の が、 山 本 作 兵 衛 さ
はあり得な
想像もつか
こ と が あ る。 住 民 は ど ん な 花 壇 が で き る か と 期
いかもしれない。でも、この活動がすがすがしい。
近 で は、 炭 坑 の 写 真 を 整 理 す る グ ル ー
母里
最
プ が で き た り、 炭 坑 を 知 ら な い 人 が 炭 坑 を 見 つ
が 作 ら れ て い て、 先 日、 そ の 台 本 の 練 り 直 し が
過去の考え
ち がら
め 直 す 活 動 が 積 極 的 に 行 わ れ て い る。 コ ー ル マ
より明日の
い し﹁ 今 日
こ の﹁ 天 郷 青 年 の 家 ﹂ で あ っ た。 ち な み に ラ ス
方になって
せ
イ ン 田 川 は 筑 豊 を 変 え る き っ か け、 試 み に な る
ト シ ー ン は 最 近 水 害 に あ っ た 嘉 穂 劇 場。 北 川 さ
い ま は、 そ
と 思 う。 い ま、 飯 塚 で﹃ ス カ ブ ラ ﹄ と い う 映 画
ん の 言 わ れ た﹁ ス カ ブ ラ ﹂ の 生 き 方 は、 江 戸 で
ギーにするという単純な作業。しかも命がけで、
い る。 炭 坑 は 地 底 か ら 石 炭 を 採 っ て き て エ ネ ル
おとこぎ
言 え ば﹁ か ぶ い て い る ﹂ 存 在。 命 を か け て い る
ダ ー テ ィ な 仕 事 は な い し、 言 葉 も い ら な い か ら
生 活 が か か っ て い た。 こ ん な に プ リ ミ テ ィ ブ で
現場には、いつ死んでもいいという男気があり、
ヒーロー伝説がある。
い ろ ん な 人 種 が 集 ま っ た。 そ し て、 独 自 の 文 化
でしょう。その最先端の美術活動、
が生まれた。鉱害や労働問題もここからはじまっ
のです。これからの美術はビジュ
た。 石 炭 産 業 が 近 代 社 会 を 支 え て き た。 外 国 を
チックな場所、それがこの田川な
川 に﹁ 鉄 塔 ﹂ と い う シ ン ボ リ ッ ク な も
川俣
田
の を 建 て よ う と 始 ま っ た こ の プ ロ ジ ェ ク ト も8
ストがプロジェクトをやるドラマ
訪 れ て も 自 然 と 炭 坑 町 に 足 が 向 く、 そ こ で の 状
る。
「川俣正という偉大なアーティ
年 目 を 迎 え た。 い ろ ん な 反 響 が あ っ て、 現 場 に
人間中心の観点から進められてい
況 は 日 本 と 同 じ で、 世 界 中 で 筑 豊 と 同 じ 現 象 が
ジェクトは、ハコモノ中心ではなく、
来 て く れ る 人 だ け に と ど ま ら ず、 た く さ ん の 人
するという壮大な企画だ。
→町内外からおよそ 50 人が参加したパブ
リックディスカッション「炭坑とアートⅨ」。
北 川 こうい う 空 間 が
残っていることが信じら
れない。戦後当時の良さ
が集結している。町づく
りはそこにいる人だけが
行うものではない。町外
の利用者の声も含めて判
断しなければならないと
思う。この建物は建築的
に言えば文化財。ここに
来て感動した。
美術の形もあると思う。
地域住民との共同作業や製作過
起 こ っ て い る こ と を 目 の 当 た り に す る。 グ ロ ー
程を大切にする川俣正さんのプロ
た ち が 様 々 な 角 度 か ら 支 え て く れ て い る。8 年
ど、この町は「コールマイン田川」
バルなアートシーンだけを見てきた自分の考え
との関わりも深い。
間 何 を や っ て き た か と 考 え る と、 私 は﹁ 何 か ﹂
る「かわひらた」の川下りでは「炎
方 を、 炭 坑 を 通 し て も う 一 度 検 証 し て み た い。
と川の集い in 赤池」を開催するな
を 投 げ か け 続 け て き た の だ と 思 う。 し か し、 そ
イン」とは英語で「炭坑」
炭 坑 か ら、 自 分 を 根 深 く 見 つ め る こ と で、 何 か
鉄塔を 10 年がかりで建設
おや じ
を表す。かつての石炭運搬舟であ
れ が﹁ 何 か ﹂ と は あ え て 言 い た く な い。 日 本 の
行われてきた。
「コールマ
を得られるんじゃないかと思っている。
い息吹が吹き込まれている。
川俣 この天郷青年の家
は貴重な財産、この地域
だけのものではない。
つて炭坑に沸いたこの町に、新し
スタッフは9月中約1か
月間宿泊、施設の連泊記
録を塗りかえた。田川市
と赤池町で 36 ものセミ
ナー・ワークショップを開
催。最終日の9月 27 日、
ここでパブリックディス
カッションが 行われた。
築 42 年の天郷青年の家
は田川市と赤池町の組合
立で共同運 営している。
両市町の異なる合併推進
により、今後の存続問題
が浮上している。会場で
はこの点にも触れられた。
に多彩なプロジェクトが
高度成長期に親父たちは炭坑で働いていて、﹁今
そこでは炭坑をキーワード
日がんばれば⋮﹂という前向きな考え方だった。
田川市に高さ約 50 ㍍の
近代を支えた炭坑から、
現代、未来の展望を見い
たパブリックディスカッ
今年の活動をしめくくっ
ションが赤池で行われた。
かわまた・ただし
美術家。東京芸術大学教授。
昭和 28 年、北海道三笠市生ま
れ。主要な国外美術展に参加。
制作過程も含んだ地域密着型
のプロジェクトを国内外で展
開している。戦後、世界にお
け る「 現 代 美 術 家 10 人 」 の
一人といわれ、国際的に有名。
「コールマイン田川」主宰。
会場は天郷青年の家
「コールマイン田川」が
炭坑の町に吹く新風
始まったのは平 成8年、
だす「コールマイン田川」
。
いとう・のりお
編集者。元『美
術 手 帖 』 編 集 長、
現在、多摩美術大
学 企 画 広 報 部 70
年史編纂室長。
やまの・しんご
美術家。福岡市
で開催する現代美
術展「ミュージア
ム・シティ・プロジェ
クト」運営委員長。
「炭坑とアートⅨ」
あんざい・しげお
写真家。パリ・
ビエンナーレの記
録をはじめ国内外
の美術活動をカメ
ラに収めている。
きたがわ・ふらむ
アートディレク
ター。アートフロ
ントギャラリーお
よび現代企画室代
表取締役。
ぼり・きよのり
美 術 家。「 八 幡
アートプロジェク
ト」など国内外で
多数の個展・プロ
ジェクトを行う。
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