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追手門学院大学社会学部紀要
2012年3月30日,第6号,13-28
蒐集について
柏 原 全 孝
On Collecting
Masataka KASHIHARA
要 約
博物学的蒐集、人類学的蒐集に見られるように、蒐集は、世界を把握する仕方の一つ
である。西欧では、蒐集はヴンダーカンマーを生み、蒐集を趣味とする人びとを生み、
ミュージアムを生んだ。
蒐集という営みは倒錯的で、対象の魅力に見入られた人びとはしばしばその魅力から
逃れられなくなる。コレクションされるモノは、それ本来の機能とは別の存在としてコ
レクションの一部となる。たとえば、コレクションされた図書は普通、読まれることは
ない。それらは内容の魅力でコレクションされるのではなく、むしろ、外見によってコ
レクション対象となる。ここに蒐集の倒錯性の一つがある。そして、外見こそがすべて
であるかのようなコレクターとモノの関係が、モノをフェティシュとして機能させる。
モノと人の間はフロイト的かつマルクス的なフェティシズムが生じる。フェティシズム
は個人的な水準(フロイト)のみならず、社会的水準(マルクス)において生じ、社会
の重要な場所に集積されたコレクションが、記憶と知の場所となる。集合的な記憶と知
の場所がミュージアムである。社会的には蒐集は権力的な営みである。
キーワード:蒐集 フェティシズム コレクション 倒錯
1.始まりの不在
多かれ少なかれ、人は何かを蒐めた経験を持つ。蒐集をするのは大コレクションを保持するよ
うなコレクターばかりではない。小さな子供たちはしばしば石や貝殻を集め、大事に箱にしまい
─ 13 ─
追手門学院大学社会学部紀要 第6号
込み、ときどき箱を開け、中身を並べて楽しむ。集めた石や貝殻を大人に見せながら自分なりの
蘊蓄を聞かせたりもする。彼らは自分なりのリストを頭に描き、コレクションに含まれべきもの、
コレクションに足りないものを知っている。成長につれ、蒐集の対象は拡がる。ミニカー、カー
ド、シールなどの蒐集を意識して作られた玩具から牛乳瓶のふたなどの雑多なものも蒐集する。
また、交換遊びもコレクションを充実させる重要な手段だ。大人になって懐かしく子供時代のコ
レクションを振り返ることもあるだろう。
四方田犬彦は「蒐集行為礼賛」と題されたアフォリズムに、「蒐集には内側しか存在しない」
と書きつけている(四方田 2010:36)。何かを蒐集する理由は、それを蒐集している行為そのも
のによってのみ与えられるのであって、外部によって根拠付けることはできない。だから、四方
田は先の引用のあとに、「真の蒐集行為とは、いかなる動機、いかなる根拠をも欠落させたもの
である」と付け加える(四方田 2010:36)。たしかに、子供が貝殻を集め始めるきっかけは、海
辺でたまたま見つけた一つのきれいな貝殻からであろう。よく見るときれいな貝殻はその一つだ
けではなくて無数に散らばっている。それに気づいたときにはすでにコレクションの中に子供は
いる。たまたま買ってもらったシールやカード、プレゼントされたミニカー。最初の一つが何か
のきっかけで偶然やってくる。
このような蒐集の始まりについて、バルは物語論的に解釈する。
「蒐集のプロットにおいては、
最初の出来事は恣意的で、付随的で、偶発的なものである。まさにそれゆえにこそ、この最初の
出来事は、明らかに物語的な始まりとなる。(中略)それはプロットの上では先史にあたり、物
語内容の上では「いきなり途中から」始まる」(バル 1994=1998:128)。何が最初の一つになる
のかは、コレクションという物語が形成されてからでなければわからない。つまり、特定のモノ
の集積がコレクションと呼ぶに値するまで成長しなければならない。そして、その時、モノを集
積するために行った行為は、遡及的に蒐集になる。
しかし一方で、蒐集の始まりにある先史的な「一」は一つの物品とは限らない。すでにあるコ
レクションが目の前に現れることから始まることもある。相続をきっかけに、始まる場合などが
これだ。長らくモノの増えることも減ることもなかったコレクションが、新たな一つを付け加え
られ、蘇生する。コレクションは、追加再編の運動の渦中にいる。また、コレクションをしてい
る誰かの模倣からコレクションが始まることもあるだろうし、すでに特定分野のコレクションを
している人が、さらに細分化した分野のコレクションを開始することもあるだろう。コレクショ
ンがコレクションを生みだしていく。つまり、コレクションは、生きた状態にあるとともに、仮
死ないし冬眠した状態にもなり、また、再生し、分裂・融合し、創造するという、生から死まで
の多様な幅を持つ。蒐集という営みを考えるには、ダイナミックな社会的運動を捉える用意が求
められる。十分な用意があると言うには心許ないが、蒐集の社会学に向けて考察を開始したい。
─ 14 ─
柏原:蒐集について
2.蒐集と世界
クリフォードは蒐集に関する重要な論考の一つである「芸術と文化の収集について」のなかで、
子どもの蒐集行為を「小さな儀礼」と表現し、「執着心の水路づけであり、世界全体を自分のも
のにし、好みにしたがって、自分のまわりに適切にモノを集める練習」と書いた(クリフォード
1988=2003:277)。蒐集は、世界を知り、世界を所有することに通じるのであり、さらに自分な
りに世界を再編することを可能にする。やや大げさかもしれないが、子供にとって蒐集は世界と
の関わりを学ぶ機会である。大人にとってはどうだろう。世界そのものを相手にした蒐集の最初
の人物は方舟に全ての動物を蒐めたノアである。
神はノアに方舟を作らせ、そこに全ての動物の番いを蒐めるよう命じた。ノアは、方舟を完成
させた後、動物の蒐集を成し遂げる。ノアは命じられた通りに、蒐集を「コンプリート」した。
彼は「コレクター第一号」であり、かつ「完全無欠の蒐集を成し遂げた」唯一のコレクターでも
ある(エルスナー&カーディナル
1994=1998:7)。その蒐集は世界をsave(=蓄える、救う)
するための蒐集であり、小部屋に分かれて収容された番いの動物たちからなる方舟は世界のミニ
チュア空間=縮小模型であり、カタログであった(エルスナー&カーディナル 1994=1998:7)
。
ノアは世界を所有することを代理した。神に命じられ、神に代わって世界をミニチュア化して方
舟に再現したのだ。その意味で、世界を目指す蒐集は、ノアを反復したものと見なすことができる。
16世紀から17世紀にかけてイタリアが先駆けた博物学的蒐集は、「芸術、古物、珍奇なもの」
よりもはるかに「自然を占有すること」を目指していた(フィンドレン 1994=2005:13)
。イタリ
アの博物学者たちにとって、ドラゴンやバシリスクのような「動物」も蒐められ陳列されるべき
オブジェであった。集められたオブジェが陳列された空間(=キャビネット)は、世界のミニチュ
アだった。しかし、それは縮めただけのミニチュアではない。陳列された空間は知識を生み育て、
そして、その知そのものとしてモノが陳列された場なのである。すなわち、イタリアの博物学者
たちは、蒐集によって世界を知ることを実践したのであった。時代を代表するコレクターの一人
であったアルドロヴァンディは蒐集を通じて世界を知るのはもちろん、「蒐集が未来を支配する
ための手段であるということ」さえ示唆していた(フィンドレン
1994=2005:466)。蒐集を通
じて世界を知り、その知をもって世界を眺めることで、未来の予測も可能となる。現代科学の一
面にも通じる姿勢はすでにこの時代のイタリアのコレクターたちに芽生え始めていたことがわか
る。
このような博物学的蒐集によって、「世界の縮小模型を提示し、人の目から隠された全体
を、生物や物の各範疇の見本によって見えるものとするという百科全書的目的をもったコレ
クション」が形成され、ヴンダーカンマー(クンストカンマー)が生み出された(ポミアン
1987=1992:107)。それは後代のノアたちによる未完の方舟である。
─ 15 ─
追手門学院大学社会学部紀要 第6号
博物学的蒐集の中心はイタリアから次第に西に移る。イタリアに代わって熱を上げたのはイギ
リスであった。学問的情熱とは別に18世紀のイギリスでは、「博物学は、ファッションの気まぐ
れな対象」になるが、「その進行を抑えたり、制限したりする社会的あるいは財政的抑制はほと
んどなかったから、ファッション的趣味はほとんど最大限の発現をみること」になった(アレン
1976=1990:50)。一部の人々に限定された営みであった蒐集は、18世紀のイギリスでその軛か
ら放たれ、社会広く蔓延する趣味としての色合いも帯びるものになった。
博物学の学問的地位がしだいに薄らぎ、細分化された自然科学に取って代わられていく中で、
19世紀に、新しい蒐集、「未開」の文化を蒐集する人類学的蒐集が始まる。人類学的蒐集は民俗
誌というテクストを編む。クリフォードは「民俗誌を文化の収集として見ることが際立たせるの
は、多様な経験や事実が選択され、集められ、その本来の時間的場面から取り外され、新たな布
置の内部で永続的な価値を付与される仕方である」
(クリフォード 1988=2003:292)と指摘して
いる。あわせて、クリフォードは人類学が伝統的で残す価値があると見なしたものが選択的に蒐
集されてきたことに注意を向ける。つまり、人類学的な蒐集は西洋的価値観に基づいて、一つの
文化の占有、一つの文化的世界を民俗誌という蒐集を通じて所有せんとしてきた。それが、「文
化を蒐集するという西洋的な実践」(クリフォード 1988=2003:293)だった。
「未開」の文化を
一つの小さな世界と見なし、そこで語られる物語、儀礼、日常の道具類などを書き込んだ「民俗
誌」。一つの民俗誌が一つの「未開」文化カタログであり、その集積が人類学という大コレクショ
ンとなる(1)。それは小さな世界の集合であるが、そこに改めて博物学的蒐集と同じ世界を占有
しようという欲望を見るのは難しいことではない。
世界の占有。たしかに蒐集にはその欲望がある。だが、コレクションの「世界」は必ずしも、
大文字の世界(The World)の「縮小模型」ではない。そのようなノア的欲望はとっくに潰えて
いる。むしろ、一般に蒐集はさまざまな小文字の世界(a world/worlds)に関わる。コレクター
は一種のモノだけを蒐集するとは限らない。対象は変容し、拡散する。コレクション世界は均質
でも単一でもない。そこには世界の複数性にかかわる蒐集特有の運動がある。その運動は蒐集の
時空間をそれ独自のものとして作り出す。コレクションはモノの集積だが、それがモノの集積以
上のものとして、独自の体系的な時空間を有している。その独自の体系を生むのが「分類」であ
る。この点は極めて重要である。
分類は知的な営みであり、それゆえに博物学的蒐集から分類学が生まれ、さらにいくつかの自
然科学が生まれたのは周知の通りである。博物学的蒐集に限らず、蒐集一般は分類を伴う。分類
はコレクションの世界内部に様々な境目を持ち込む。その境界は世界内世界をつくり、新たな蒐
集、コレクションの形成へと向かう。こうしてコレクション固有の世界は独自の運動をしながら
再編させ、刷新される。分類を通じて作成される目録(カタログ)は、いわばそのコレクション
世界の地図である。
このように考えると、世界を「縮小模型」化して占有することの意味を考え直さねばならない。
─ 16 ─
柏原:蒐集について
なぜなら、その縮小模型は、模型といいつつ「世界」とは似つかないものになるからだ。博物学
的蒐集を主導した「好奇心はもっとも珍しいもの、もっとも入手困難なもの、もっとも驚異的な
もの、もっとも謎めいたもの」へと向かった(ポミアン1987=1992:119)。その好奇心が作り上
げたコレクションの陳列室が、有名なヴンダーカンマーである。蒐集家たちの主観には「ヴンダー
カンマーは世界を映し出す鏡」
(小宮 2007:67)ではあっても、実際のそれは「驚異」に満ちた異
世界を表象する空間であった。奇妙で珍しい動植物から、錬金術や実験用具、観察用具などの科
学の萌芽を感じさせるもの、さらには絵画、宗教的事物。それらが壁や天井を埋め尽くした独特
の空間がヴンダーカンマーである。これを世界の「縮小模型」と言われても、とうてい世界と似
ても似つかない縮小模型である。だが、それこそがコレクションの世界である。類似は、文字通
りのの類似でなくて良いのだ。それは独自の体系を持っているのだから。
さまざまに驚異に満ちたモノが集積することを通じて、奇妙でユニークな「世界」をモノたち
自ら指し示し始める。蒐められたモノたちは口々に「われわれは世界である」と語り始める。そ
の声はヴンダーカンマー全体の声として聞こえるが、一方で、互いのモノ同士は、それぞれに互
いの関係において、互いを名指し合う。その名指しに基づいて、モノは場所を与えられる。その
場所は固定ではなく、流動の可能性を持つ。モノは互いの関係のなかで新たな意味を帯び、新た
な分類を作り出す。そうしてコレクション的世界は更新される(2)。
ところで、ボードリヤールに言わせれば、モノが蒐集されるというのは、「所有と呼ばれる情
熱的な抽象化をこうむって全て等価となる」ことである(ボードリヤール 1968=1998:18)
。一つ
一つの物のもっていた機能、すなわち用途から事物が引き剥がされたモノが所有されることが蒐
集というわけである。澁澤龍彥は、ボードリヤールに似た言葉遣いで次のように書いた。「コレ
クションに対する情熱とは、いわば物体に対する嗜好であろう。生きている動物や鳥をあつめて
も、それは一般にコレクションと呼ばれないのである。…生の記憶から出来るだけ遠ざかった、
乾燥した標本となって初めてコレクションの対象となる」
(澁澤 1985:11)
。たしかに、博物学的
蒐集の対象になってコレクションの世界に入ったモノは死物であった。それは実際に死んでいる
以上に、ボードリヤールが指摘した通り、用途や機能を引き剥がされ、比喩的にも死んでいた。
この澁澤の言葉には、これからの考察にとって重要な点が二つ含まれている。一つは、生死。も
う一つは、記憶。それぞれみていこう。
3.蒐集と死と生
蒐集と生死は、モノとコレクターのそれぞれの側から考えられねばならない。モノは、蒐集物
となった時、すでに死物である。しかし、死物に囲まれたコレクターはどうだろう。ボードリヤー
ルは死という不可避を、生と死の循環サイクルに投げ込むのが蒐集であるという。すなわち、
「こ
れより以降は自らの生のプロセスをずっと制禦された循環形式で生きるのだということ、不可逆
─ 17 ─
追手門学院大学社会学部紀要 第6号
的に生じる事件に手の内ようがないそうした現実の生をそうやって象徴的に克服するすべ」が蒐
集である(ボードリヤール 1968=1998:27)。だから、ボードリヤールにとって、蒐集はフォル
ト・ダー(フロイト)に通じる。それは、在と不在の遊びであり、生と死の循環サイクルの遊び
である。そうして、蒐集は「死そのものをシリーズとサイクルへと吸収することによって、死の
かなたにその生をいくらでも反復させる」のである(ボードリヤール 1968=1998:27)。そうして、
蒐集は象徴的に死を克服する運動となる。
さらに、フロイトの影響下にあるボードリヤールの理解では、蒐集は肛門期への退行と見な
されている。「強力な肛門サディズムの衝動」が蒐集の情熱を燃やし続ける(ボードリヤール
1968=1998:28)
。その情熱の向けられたモノはコレクターにとって「自己のナルシス的等価物」
であり、それゆえに貸借したり売買したりできない。たとえば、商品パッケージの大コレクター
で、コレクションを展示するミュージアムを作ったロバート・オウピーは、インタビューのなか
で自分のコレクションから何かを売るつもりはないかと問われた時、次のように答えている。
「あ
りません。実際に何かを売るなんて思いもよりませんね。物々交換ならときどきはするかもしれ
ません。たとえば、重複している場合にはね。…よそで展示会を開くと、重複分を送りますが、
わたしの博物館からは供出しません」(エルスナー&カーディナル
1994=1998:55-56)
。なるほ
ど、ボードリヤールの説明通りである。しかし、機能が抽象され、死物と化したモノ同士の関係
として見た場合、どうだろう。それぞれが「ナルシス的等価物」として「等価」ではないのか。
膨大なコレクションを有するオウピーにとって、コレクションの中の一片の紙切れに代わる「ナ
ルシス的等価物」は山ほどあるはずではないか。本当のところ、ボードリヤールの言うように蒐
集されたモノはコレクション世界のなかに留まり続けるわけではない。そもそも自身がコレク
ターでもあったフロイトは、自分の蒐集品を売却するのにやぶさかではなかった。「フロイトは
やすやすと…コレクションの一部を新規購入資金を得るために売却した」のである(フォレスター
1994=1998:282)。これはどう説明できるだろう。幼少期からの筋金入りのコレクターであるオ
ウピーに比べ、父の死をきっかけに蒐集を開始したフロイトは「にわか」コレクターにすぎなかっ
たとでも片づけようか。もちろん、そんなわけにはいかない。なぜなら、フロイトのように新た
なモノのの入手のために、コレクションの一部を売却したり、交換したりするコレクターは他に
もたくさんいるからだ。つまり、コレクターが一度手に入れたものを二度と手放そうとしないと
いうのは神話にすぎない。蒐集されたモノはコレクターの「ナルシス的等価物」であるというボー
ドリヤールの解釈は、さほど重要でもないし、本質的でもないのだ。むしろ、フロイトに依拠し
た解釈が、フロイト自身を裏切ってしまうことにわれわれは注意したい(3)。
蒐集されたモノが死物であるということに戻ろう。モノはコレクション世界の存在として、そ
の外部にあったときの道具的機能を喪失しているのであった。書棚をみた「俗物」からアナトー
ル・フランスが
「で、あなたはこれを全部お読みになったのですか、フランスさん?」と尋ねられ、
「いいえ、十分の一も」と答えた話をベンヤミンが紹介している(ベンヤミン 1931=1996:20)。
─ 18 ─
柏原:蒐集について
蔵書家の書棚に並ぶ本は、その中身を読まれるためにそこにあるのではないのだ。本の道具的機
能は、言うまでもなく読まれることだが、蔵書家の書棚にあって、本はその機能を停止している。
代わりに、コレクションたる本としては別の生、真正なる蔵書としての生を生きる。ベンヤミン
によれば、「真正なる蔵書というものにはいつも、何か得体の知れないところ、そして同時に、
他の人びとの蔵書と取り違えようのないところがある」という(ベンヤミン
1931=1996:23)。
少し具体的に補足して、「刊行年、刊行地の名、判型、以前の所有者たち、装丁など、こうした
事柄すべてが、蒐集家に何かを語りかける」、そういう本こそが「真正なる蔵書」たりうると付
け加えている(ベンヤミン 1931=1996:23-4)
。ここでわれわれは、蒐集家に真正なる蔵書となる
べき本が語りかけるのが、その中身ではなく、その外皮的な部分であるということにある。本の
外皮こそがその本を真正の蔵書たらしめ、それ固有の生をもたらすのである。
ここに極めて重要な点が示されている。すなわち、蒐集において欠かせないのは、モノの外
皮、外形への拘りという点である。中身ではない。蔵書家が、「刊行年、刊行地の名、判型、以
前の所有者たち、装丁など」の異なる同じ本を複数所有するのはまったく当たり前のことであ
る。それらは異なる外皮を持つ、別のモノなのである。外皮、外形の差異は、コレクションの最
重要な要素である。その意味で蒐集は徹底的に視覚的な営みである。思い出そう。ノアはなぜ蒐
めるべき動物たちを間違えずに蒐めることができたのか。そしてそれらが番いかどうかをなぜ
見分けることができたのか。外形の差異による以外にはできなかったはずである。外形の差異
こそ博物学的蒐集を通じて、磨き上げられた蒐集という営みの焦点である(4)。外形の差異への
関心は細部の差異へと向かい、顕微鏡という光学装置を生みだした。実際に顕微鏡が使い物に
なったのは1830年頃だった。「無数のアマチュア博物学者たちは、顕微鏡を手に入れ、池の水や
鳥の羽や昆虫の脚、それに血球を、何時間も顕微鏡で子細に観察して楽しむようになった」
(メリル
1989=2004:187-8)
。自然に隠された極小の美を発見する喜びと、わずかな差異を見出す喜びが、
顕微鏡によって広く知られるようになった。外形の細部。そこにある微細な差異が、あるモノと
別のモノの類似、近接、相違を指し示し、そして新たな分類を作り出し、コレクションを豊饒に
する。
それにしても、このような外皮、外形への強い関心はどうだろう。内容よりも外側に圧倒的な
関心と注目が向かう。蒐集は、内容と形式の転倒であり、そのような蒐集に熱中することを倒錯
的と形容したくなる。果たして、蒐集は倒錯的と形容されるべきであろうか。そして、その形容
は何をもたらすだろうか。
4.蒐集と倒錯
蒐集の倒錯性について、春日直樹の指摘を参照してみよう。「常に自分のコレクションに欠落
と不完全さを覚えつつ、密やかで小さな世界へ没入するコレクターたちの姿は、その業のような
─ 19 ─
追手門学院大学社会学部紀要 第6号
行動において強迫神経症的なのである」
(春日 2005:193)。ここには失敗を運命づけられながら、
コンプリートを夢見るコレクターの倒錯的な姿が的確に指摘されている。蒐集の倒錯性は前章で
みた中身と外側の転倒とともに、春日の指摘するように、
「欠落と不完全さ」
の自覚がありながら、
その自覚を自ら裏切らずにはおれない点にも求められる。コレクターは蒐集が完結、完成しない
ことを知っている。パッケージコレクターのオウピーは蒐集の理由の第一に「集めるものがどの
くらいあるかわからない」ことをあげている(エルスナー&カーディナル 1994=1998:38)
。い
くら蒐めても、蒐めるべきものはまだまだ残されている。だから、自分のコレクションはいつも
足りない。欠落がある。その自覚がオウピーのような大コレクターを生み出すのだ。
オウピーが蒐集するパッケージのようなものは次々と新しいものが出てくるので、蒐集が終わ
らないことは織り込み済みではあるだろうが、過去のもので、新たに作られることがないものな
らば、「コンプリート」は可能であるだろう。そのような例としてベースボールカードやミッド
センチュリ-のアメコミがある。それは「クロスワードの枡目をきっちり埋めていくのに近い営
み」で、「ゴールがあり、それを目指して金と暇を注ぎ込」みさえすればよく、すべては「プラ
イスガイド」が欠落と価格と状態を教えてくれる(春日 2005:178)
。しかし、もはやこれは蒐集
とは別のものだ。春日はそれを「仕事に近い」と見なす。その通りである。そもそも、このよう
な営みが蒐集と似て異なるのは、そこに倒錯性があまり見られないからだ。コンプリートした状
態がそう遠くない現実の中にありえ、そのためにはどれだけの空間や費用が必要かがあらかじめ
判明している。財力さえあれば、コンプリートは容易である。そのようなものは蒐集の倒錯性に
足を踏み入れる前に、終わってしまう。そこが同じ昔のものを対象にしていても、古書蒐集と異
なる。「収集家なら誰だって、どこかのおばあさんが箪笥のなかにグーテンベルク聖書を持って
いないだろうか、と夢想しています」(エーコ&カリエール 2009=2010:237)
。このような夢想
はベースボールカードにはない。
蒐集と倒錯に戻ろう。蒐集の倒錯性は不可能なコンプリートに向かって、その不可能性の自覚
とコンプリートへの強迫に苛まれながら、まい進することにその基本がある。そのまい進は自覚
を超えてなお、止められない。制御不能のまま、進まずにはおれない。肉筆浮世絵コレクター今
西菊松は、その制御不能なまま蒐集に突き進むことに命を費やした人物である。彼の倒錯ぶりを
見ておこう。
熊本県立美術館に寄贈された今西コレクションは335点にものぼる、国内でも有数のコレクショ
ンとされるものであるが、今西はNHK職員という「一介のサラリーマン」にすぎなかった。そ
のために、「彼は衣食住の経費をぎりぎりまで切り詰め」た生活を送る。生活空間は四畳半。「彼
が亡くなった時、その四畳半の狭い部屋の中には、ろくな家具とてなく、ベッドを残して、あと
の空間はすべて肉筆浮世絵や茶道具が雑然を積み上げられていた」(長山 2005:134-135)。彼の
生活空間はコレクションに埋め尽くされていたのである。今西のコレクターシップを称える長山
靖生も、今西は自分のコレクションを広げて眺めることさえできなかっただろうと推測してい
─ 20 ─
柏原:蒐集について
る。生活空間が埋め尽くされようとも、今西は蒐集品を手放さなかった。蒐集品の中に購入時よ
りも高額な値段がつくような逸品が多数含まれていることぐらい、鑑識眼にすぐれた今西は知っ
ていた。それでも手放さなかった。蒐集品を手放すことで得られた資金を新たな蒐集に振り向け
ることよりも、今西は自身の生活と身を削って資金を捻出することを選んだのである。しかし、
それほどまでして蒐集した美術品、工芸品を鑑賞する時空間を十分に持つことは今西にはかなわ
なかった。むしろ、そうした時空間さえ惜しんで蒐集に明け暮れたのである。
蒐集の一面は、「蒐める」ことへの過度な没入である。ポミアンの定義、「一時的もしくは永久
に経済活動の流通回路から外に保たれ、その目的のために整備された閉ざされた場所で特別の保
護を受け、視線にさらされる自然物もしくは人工物の集合」(ポミアン1987=1992:22)が教え
る通り、蒐集は陳列、展示も含めた営みであるが、ときに蒐集は陳列、展示を抑制する。今西の
例はその典型であるだろう。だが、彼は蒐集したモノを鑑賞しなかったわけではない。むしろ、
入手に際して彼の目はモノに釘付けであっただろう。美術品はとくに贋作が紛れやすい。肉筆浮
世絵は、贋作ばかりがオークションにかけられた春峯庵事件の影響もあって、真贋を見分ける力
量が特に問われる。鍛えられた今西の目は入手にあたってもっとも輝いたはずだ。蒐めたものを
広げることができず、積み上げられていくしかなかいことを知っていた彼自身は、入手の判断を
するその瞬間に目そのものになっていたに違いない(5)。
今西の鑑識眼は何を見たのだろう。表装の善し悪しは真贋とは関係がない。真贋とともに、
作品の価値も見るその目は、作品そのものをまさに目に焼き付けるほど眺め続けたはずだ。も
しかすると、今西の目は、モレルリのように「些末な細部、とくにその画家の流派を表す独特
の画風の中で、もっともとるに足らぬ細部にこそ注目」していたのかもしれない(ギンズブルグ
1983=1990:115)。今西の目について深入りすることはできないが、鑑識眼の高さからは、全体
を眺めるというような凡庸な目ではなかったことは間違いない。その目は、ベンヤミンの真正な
蔵書が語りかけたように、作品の放つ得体の知れないものを的確に捉えることができた目である。
倒錯的なコレクターは、蒐集されるべきモノを見分ける目を持つ。「プライスガイド」など必
要ないのだ。その目が蒐集されるべきモノを見つけてしまったそのとき、コレクターは自分の生
活=生命を削ることも厭わず、入手に賭ける。見境がなくなるのだ。そのとき、モノはコレクター
にとってフェティシュである。コレクターではない人から見ればなぜそんなモノにお金やエネル
ギーを費やすのか理解できない。ちょうど、性的なフェティシズムが他の人に全く理解できない
ように。次は、蒐集とフェティシズムを考えることにしよう。そこは蒐集の本丸である。
5.蒐集とフェティシズム
性的倒錯と結びつけられがちなフェティシズムだが、概念としてその出自は宗教にある。大航
海時代にアフリカとヨーロッパの接触のなかで生まれた概念とされる(村上 2009)。いわばヨー
─ 21 ─
追手門学院大学社会学部紀要 第6号
ロッパがアフリカで発見したものである。もともとフェティッシュとはモノの物質性と宗教的聖
性が融合したものを意味する。偶像と似ているが、偶像はその聖性が別のところに由来するのに
対し、フェティッシュはそれ自体の物質性と一体化しており、モノがそれ自身であることの内に
聖性を孕んでいるところに特徴がある。それが小石であれ、木の実であれ、フェティッシュはそ
のものとして聖別される。身近な例を挙げれば、柊はそのトゲのある葉という形態において魔除
けの属性を持つわけで、戸口に置かれた柊はフェティッシュである。フェティシュは、その外的
な形態において聖的属性を授かっているということが、蒐集におけるモノの外形に通じていくわ
けであるが、その前に、あらためてフロイトを迂回しておこう。なぜなら、蒐集がフェティシズ
ムと結びつけられる時、名前が出されずともそこに召喚されているのは間違いなくフロイトだか
らだ。
フロイト的フェティッシュは、簡潔に言うと、母のファルスという不在物の代用品である。す
なわちそれは、不在の否認を可能にするものである。フェティシュは「不在物を指し示すと同時
にそれが不在であることを覆い隠す」
(田中 2009:17)。フロイト的フェティッシュの重要な点は、
フェティッシュが「母のファルスの不在」を見えなくさせる点にある。すなわち、不在のもの
を実在すると取り違えたままの状態を作りだすのがフェティッシュである。だからここで、フェ
ティッシュの取り違えは二重である。フェティッシュを母のファルスと取り違えること、もう一
つは、母のファルスの不在を実在と取り違えることである。この二重の取り違え、とりわけ不在
と実在の取り違えをここでは確認しておきたい。
宗教的なフェティシュに戻ると、そこで取り違えられているのは、自然的属性と聖性というこ
とになる。柊の葉はそのトゲによって魔除けという聖性を持つが、トゲは決して魔除けのために
柊にそなわったものではない。それをあたかも魔除けのために柊にはトゲがあるかのように、戸
口に置くことで、われわれは不在の「魔」を実在と取り違える。もちろん、われわれは「魔」が
実在しないことを知っている。それでもわれわれは柊を戸口に置く。現実にわれわれは柊を戸口
に置くというその行為によって、「魔」の不在と実在を現実に取り違えるのだ。頭ではわかって
いるのに。これはマルクスの商品フェティシュをラカン的に読み解いたジジェクの記述そのもの
である。「幻想は認識のほうにあるのではなく、すでに現実そのものの側、つまり人間がやって
いることの中にあるのだ。彼らが知らないのは、彼らの社会的現実そのもの、つまり彼らの活動
が、ある幻想、すなわち物神崇拝的な転倒によって導かれているということである」(ジジェク
1989=2000:53)。「魔」や「母のファルス」が存在しないことは知っている。だが、いくらわれ
われがそれを知っていようとも、われわれの実際の行為が「魔」や「母のファルス」があるかの
ような現実を作り上げる。ではコレクションされたモノはいかにしてフェティシュなのだろう。
ベンヤミンの蔵書についての話が示す通り、モノの外形そのものが「聖性」を帯びてコレクター
を魅了する。魅了されたコレクターはモノを入手し、所有する。倒錯的だったのはコレクターだ
が、フェティシズムはモノの側において生じている。モノはその形においてフェティシュとなり、
─ 22 ─
柏原:蒐集について
コレクターを魅了する。フェティシズムの主役はモノである。人はフェティシズムの黒子にすぎ
ない。バルも参照していたように、ジジェクは「マルクスの分析の眼目は、主体ではなく、物(商
品)それ自体がおのれの場所を信じている」点にあると指摘する(ジジェク 1989=2000:53)
。迷
信から解放されていると信じている人間は、じつは物の社会的関係において迷信が生きているこ
とを知らない。この物と人の転倒した関係がマルクス=ジジェク的フェティシズムであり、モノ
のフェティシズムである。
そうすると、蒐集されたモノからなるコレクション世界の相貌は極めて自律的なものに思える。
コレクターがその欲望にしたがって蒐集を行うように見えていたその営みの中心に、実はコレク
ターの欲望はないということである。コレクションの世界を拡大させ、そこに小さな世界と分類
の枠組みを作り、また、蒐集の不足、欠落を指し示すのはモノたちである。そうしたモノたちの
声を聞き分ける目(蒐集は視覚の営みである)を持った者たちだけが、そのコレクション世界の
神官=コレクターとなりえる。コレクターは聞こえてしまう。モノが発する「あなたには私が足
りない」(=汝、我を欲せよ)という声が聞こえてしまう。その声こそベンヤミンが「何か得体
の知れないところ」と呼んだあれである。
では、ここで取り違えられている「不在」とは何だ。「聖性」だろうか、「克服された死」だろ
うか。蒐集のフェティシズムという幻想が導くコレクション世界とはいかなるものか。コレクター
にとって、モノがフェティシュであるという説明は、一見わかりやすい。だが、それはコレクター
が倒錯者とだけ解釈される限りにおいてである。蒐集とフェティシズムの含意はまだまだ汲み尽
くされていない。蒐集の物語論的アプローチにおいて、フロイトとマルクスのフェティシズムを
意図的に混淆したバルの狙いは、資本主義社会(マルクス)における蒐集する個人(フロイト)
に含まれた複合的な意味を掬い取ることであり、そのようにしか掬い取れないと示すことであっ
た(バル 1994=1998:139)
。その点でバルはまったく正しい。われわれもまた、フェティシズム
と蒐集の関連に安易に回答するべきではない。問いを保持しつつ、考察を続けよう。
6.蒐集と記憶
澁澤の言葉をきっかけに、蒐集と生死からフェティシズムまでを考察してきた。もう一つ、蒐
集と記憶の考察はまだ手を付けていない。ここから再スタートしよう。
スチュアートは有名な『憧憬論』において、「コレクションの世界の内部では、すべての時間
が同時的ないし同期的になる」と述べている(Stewart 1984:151)
。スチュアートが蒐集の原型
として持ち出すのは、やはりノアの方舟である。そして、蒐集と似て異なる営みとして位置づけ
られた記念品(souvenir)と対比しながら、「方舟の世界はノスタルジアの世界ではなく、期待
の世界である」とする。記念品はその本性からして過去を内包しノスタルジアを喚起するが、蒐
集にはそれがないというのがスチュアートの理解である。だから、「記念品のポイントは想起で
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追手門学院大学社会学部紀要 第6号
ある」のに対して、
「蒐集のポイントは忘却である」となる(Stewart 1984:151)
。たしかに、ノアを
蒐集の原型とし、記念品と対比すると蒐集は過去を断ち、未来に向かう営みに見える。コンプリー
トという無限に遠い未来に向かう営みが蒐集であるかのように見える。それにしても、蒐集が過
去を忘却するのならば、なぜ博物学的蒐集に古代貨幣が含まれていたのだろう。古書、骨董、古
美術、古玩具、古切手、古写真等々、蒐集されるものにこれだけ過去という属性のこびりついた
ものがあるのはどういうわけだろう。これらは本当のところは蒐集対象ではなく、「記念品」な
のか。それとも、「古」という属性はコレクションの一つとなったときに失われるのだろうか。
誰とも知らない人物が写った19世紀の鉄板写真が蒐集家の手に落ちた時、鉄板写真が持っていた
記憶はどこへ行くのか。
四方田は切手コレクターが、古切手に関心を移すことについて、どうして「切手蒐集のある段
階で、人は華美な色彩と図柄を競いあう東欧の社会主義国家やアラビアの土侯国の切手に関心を
うしない、前世紀に消印を押されたっきりの、地味で一見とるに足らぬ不足料切手や、刷色違い
だけの王族の肖像通常切手へと向かうことになるのか」と問いかける。そして、「未知の異国の
後景と過去に死滅した階級の肖像は、その隔たりにおいて蒐集家を熱狂させる。ここにはノスタ
ルジアが事物を聖化させる、もっとも典型的な形が表れる」と続ける(四方田 2010:50-51)
。四
方田に言わせれば、過去は蒐集をより情熱的な営みに変えるきわめて重要な要素である。スチュ
アートとの相違は際立っているように見える。スチュアートからすれば、四方田は記念品と蒐集
を区別できていないかのようだ。だが、両者の相違はまったく決定的なものではない。
四方田は古いモノが、ノスタルジアを喚起しながら蒐集家を捉えるさまを指摘している。ノス
タルジアは甘美で切ない。失われてしまったものへの甘美な想念をかき立てられ、蒐集家は熱狂
する。しかしその時、失われてしまった過去をどのように想起しているのだろう。それは、その
古いモノが指し示す過去ではない。それがコレクション世界において占める場所が指し示す過去
である。それが甘美で切ないノスタルジアを喚起するのである。すなわち、蒐集において過去は
ノスタルジアを内包することによって、コレクション世界そのものにおけるユートピア的な過去
を想起させる。これが偽の過去であることは言うまでもない。だから、スチュアートは忘却と言
う。四方田は「起源へ遡及し、事物がまさに始動しようとするその場所にいあわせたいという強
烈な欲望」、「現在の荒廃と堕落を否定し、真性さと日が君臨していたはずの過去に身を委ねてし
まいたいという頑強な意志」を「ノスタルジアの力」と呼び、それに囚われたとき「人はすぐれ
てイデオロギー的な存在に変わる」と書いている(四方田 2010:54)。そのノスタルジアの力と
結託したのがナチスであることを四方田は書かずにはおれない。いっぽう、「われわれは蒐集に
"巡り合う"。それは特定の入手場面に属するが、その場面の高潔さは蒐集そのものの超越論的で
非歴史的な文脈に包含される。この蒐集の文脈は起源の文脈を破壊する」というスチュアートは、
蒐集においてノスタルジアの力がイデオロギー的に作動し、モノの担っていた起源へと遡る歴史
が破壊され、忘却されるさまを批判する(Stewart 1984:164-165)
。
「スチュアートのコレクショ
─ 24 ─
柏原:蒐集について
ン分析が圧倒的にマルクス主義的である」という指摘は正しいが、そのことはスチュアートの分
析の価値を貶めるものではない(ショア 1994=1998:316)
。過去の忘却、ノスタルジアの力によ
るイデオロギーの作動といった暴力を蒐集に見出すのは極めて重要である。「市民的な大コレク
ション、図書館、ミュージアムなどは支配のモードや監禁のモードで経験を再現表象しようとす
る」
(Stewart 1984:161)
。言うまでもなく、博物学的蒐集も人類学的蒐集も帝国主義との関係は
深く、その意味では「支配のモードや監禁のモード」という表現が醸す暴力性の指摘は正当であ
る。そして、同時に「歴史の概念について」の「Ⅵ」の冒頭、「過ぎ去った事柄を歴史的なもの
として明確に言表するとは、…危機の瞬間にひらめくような想起を捉えること」として、ノスタ
ルジアの甘美さと向き合わねばならない(ベンヤミン 1940=1995:649)。
蒐集によって、どこか別のところにあったモノはコレクションの中へ移し替えられ、あたらし
い関係の中に置き直される。先に引用したポミアンの有名な定義もまたそこに暴力性への言及を
内包している。
このあたりに蒐集とフェティシズムの考察から導かれた問いへの答えがありそうだが、ここで
軽々に答えるのもまた暴力的であ。澁澤をもう一度ここで思い出そう。「…生の記憶から出来る
だけ遠ざかった、乾燥した標本となって初めてコレクションの対象となる」。生の記憶から遠ざ
かるのは、生きている動物や鳥に限らず、コレクションされたモノ全般である(6)。では、モノ
における「記憶」とは何か。スチュアートならば物体を生みだした労働や生産過程と言うだろう。
ボードリヤールならばそのモノの機能である。いずれでもいい。とにかく、博物学的蒐集以来、
またはそれ以前から、蒐集はモノの生の記憶を消しながら、コレクション世界を作り続けてきた。
なるほど、たしかに、蒐集はモノの生の記憶を消した。だが、前章で見たフェティシズムの要点
は何だっただろう。モノとコレクターの関係が転倒していたはずだ。つまり、そこでモノの記憶
が消されるとはどういうことなのだろう。「人びとはもはや信仰をもっていないが、物それ自体
が人間のために祈っているのだ」(ジジェク
1989:2000:55)をもじって言うと、「人びとはも
はや記憶をもっていないが、物それ自体が人間のために覚えているのだ」。モノの生の記憶は、
コレクションにおけるあらたなモノ同士の関係において、書き換えられる。モノの外的な配置、
布置がコレクション的記憶となる。だから、ヴンダーカンマー(キャビネット)からミュージア
ムが生まれたのである。
7.蒐集からミュージアムへ
国立のミュージアムから民間のミュージアムまで、その設置の源にはコレクションがある。蒐
集はおそらく特定の地域や歴史に限定される営みではない。しかし、ミュージアムは違う。これ
は「西欧近代がのみが創り出しえたもっとも西欧的な「思想」であるが、同時にもっとも西欧イ
デオロギーを感じさせない、きわめて巧妙な「制度」である」
(松宮 2003:11)。さまざまな蒐集は、
─ 25 ─
追手門学院大学社会学部紀要 第6号
いまやミュージアムに連結している。今西の身を削って蒐められた美術品もミュージアムにある。
博物学的蒐集、人類学的蒐集のような「西欧的」蒐集はもちろん、帝国主義的なパワーを背景に
することで可能であった。ミュージアムに秘められた西欧近代特有の暴力性を批判的に検討する
なかで、松宮は、「ミュージアムの思想とそれを生み出した西欧のコレクションの制度化という
思想がむしろ帝国主義を生み出した」(松宮 2003:26)とまで断言する。ミュージアムに関する
松宮の分析は子細に検討する価値のある極めて重要な仕事であるが、ここではその詳細に立ち入
ることはできない。だが、ミュージアムという制度を伴った思想から、蒐集のフェティシズムを
見ることは本稿のなすべき課題であると思われる。
フェティシズムの考察を通じて、われわれは蒐集のフェティシズムにおいて、取り違えられる
不在は何かという問いを発した。蒐集がコレクションの制度化を通じてミュージアムに至るとす
るならば、われわれにとってミュージアムは蒐集のフェティシズムの制度的形態である。ゆえに、
ミュージアムという形態において、取り違えられる不在は何かと問わねばならない。その答えは
ミュージアムの思想の原点に遡る。
かつて、コレクションの中心は何であっただろう。博物学的蒐集よりも古いコレクションは何
か。松宮によれば、それは本である。「図書の蒐集は、公私を問わず、また世の東西を問わず、
ほぼ常にコレクションの中心を形成してきた」
(松宮 2003:41)。そして、図書の蒐集は王権に関わ
る。「戦う王」から「考える王」への変質のなかで、蒐集された図書は王の威信の源になりえた
のである。そして、蒐集されたのは、主に古書であった。「古代文献探索と蒐集」(松宮
2003:
42)である。古書蒐集が「考える王」の威信を基礎づけたのである。もちろん、ベンヤミンが「荷
解き」をしながら語った蔵書論がそのまま王権の古書渉猟に当てはまるわけではない。だが、図
書が蒐められこと、その蒐められている事実とその蒐められた空間は、その図書の内容とは関係
なく、「考える王」という新しい王権の威信を基礎づけていたという話は、ベンヤミンの蔵書の
話に通じすぎる。王権の威信の源となった本たちはまったくもって「真正なる蔵書」であった。
もちろん誰も王に「蒐められた本を全て読まれたのですか」などとは問わない。「真正なる蔵書」
であることを誰もが知り、認めていたのだから。
王権と図書の蒐集、コレクションのこの関わりを歴史上の一時期の偶然と見るべきではない。
ミュージアムの思想の権化とも言うべき大英博物館は図書館と博物館の両輪をもって今日までそ
の地位を守り続けてきた。図書コレクションがなければ大英博物館は歴史のどこかで衰微し、消
えていたかもしれない。それだけ、図書のコレクションは王権から現在のミュージアムに至るま
で重要な役割を担い続けてきたのである。そこで改めて考えねばならない。王権の威信の源泉が
本であったことの意味は何か。それは、本が知の象徴であったこと以外に考えられない。知を集
積し、独占すること。知への無限のアクセスを許された存在として王と、そうではないその他の
人びと。実際に王が本を読んでいるかどうかは関係ない。「真正なる蔵書」であるのは、王が本
を読んでいるかどうかを問えないことによって保証されている。ここには循環の論理がある。人
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柏原:蒐集について
びとはそれが「真正なる蔵書」であるから王にこれらの本を読んだかと問えないと考えているが、
実際には人びとがそれを問わないからこそ、「真正なる蔵書」という属性を帯びるのである。そ
して、ここにマルクス=ジジェク的フェティシズムがある。資本論の有名な王と臣下の話を思い
出さずにいられない。
ようやく、蒐集のフェティシズムにおいて取り違えられる不在とは何かという問いに対する答
えを用意できそうなところにたどり着いた。とはいえ、あくまでも最終的な回答ではないという
留保をつけて、次のように答えておきたい。「全知=無知」であると。
註
(1)人類学というコレクションもミュージアムを持つに至る。民族学博物館(みんぱく)はその一例である。
(2)古書コレクターで蔵書家でもあるカリエールはエーコとの蔵書についての対話のなかで、「ある
本とある本を隣り合わせに配置する動機はなんでしょう」と問いかける(エー コ&カリエール
2009=2010:412)。蔵書もまたコレクション的リアリティを創り、一冊一冊が声を放つ。だから、カリエー
ルは次のように続ける、「書物の場所を時々入れ替えることは必要だと私は思います。そういう習慣を
持っていてほしいし、持つことを勧めます。下の方にある本は、上に持ってきて、不遇を改善してや
ります」(エーコ&カリエール 2009=2010:412-3)。
(3)フロイトに限らず、解釈や説明が自己言及的に主体を裏切ることはごくありふれたことである。ゆえに、
フロイトの説明の正当性をここで問題にしているのではない。逆に、矛盾や躓きに目を向けることこ
そフロイトがもっとも重視したことであり、われわれもそれに従って考察を続ける。
(4)言うまでもないが、外形の差異への関心なくしては、分類学が博物学から生み出されることはなかっ
ただろう。
(5)長山は今西のコレクションの特徴に、贋作の少なさをあげている(長山 2005:130)。
(6)それはあながち深読みでもない。この一節を含んだ「少女コレクション」というエッセイの末尾には
次のように書かれている。「「少女コレクション」のイマジネールな錬金術は、かくて、窮極の人形愛
にいたって行き止まりになる」(澁澤 1985:22)。人形という物体なのだ。
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