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マタイ福音書注解 - 日本キリスト教団出版局
日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─マタイ福音書 須藤伊知郎(2013.12.27 公開) 1:18–25 翻訳 NTJ ホームページ掲載 見本原稿 イエス・キリストの誕生(1:18–25 // ルカ 1:31; 2:1–7) マタイ福音書注解 須藤伊知郎 1. 翻訳 18 さてそのイエス・キリストの誕生はこのようであった。彼の母マリア イエス・キリストの誕生(1:18–25) はかのヨセフと婚約していたところ、彼(女)らが一緒になる より前に聖 a 霊から胎の中に子を宿している ことが見出された。19 だが彼女の夫ヨセフ b は、義しい人であり、彼女をさらし者にする ことを望まなかったので、彼 c 女を密かに離縁しよう と思った。20 だがこのことを彼が思い巡らしていた d 時、見よ、主の使いが夢で彼に現れて曰く 、 「ダビデの子ヨセフよ、マリア e をあなたの妻にめとる ことを怖れるな。というのは、彼女の中にもうけら f れているものは聖霊に由来する からである。21 彼女は息子 を産むであろ g h う。そうしたらあなたは彼の名をイエスと呼びなさい。というのは彼こそ彼 の民を彼(女)らの罪から救うであろうから。 」22 このこと全体が起ったのは、 主によってかの預言者を通して言われたことが成就する ためであった。曰 i く、 「23 見よ、その処女は胎の中に子を宿し、そして息子を産むであろう。 そして人びとは彼の名をインマヌエル と呼ぶであろう 。」 j k これは訳せば「神われらと共に 」である。24 さてヨセフはその眠りから覚 l めると 、彼にかの主の使いが命じたように行って、彼の妻 をめとった 。 m 25 n o しかし彼女が息子を産むまで彼女を知ろうとはしなかった。そして彼はそ の名をイエスと呼んだ。 16 a 別訳:「同居する」。 b 直訳:「腹の中に持つ」。 c 別訳:「表沙汰にする」「公に訴える」。 17 日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─マタイ福音書 須藤伊知郎(2013.12.27 公開) 1:18–25 翻訳、形態/構造/背景 1:18–25 形態/構造/背景 除くと、相違点があまりに多く、共通する原初の伝承を再構成することは d 別訳:「去らせよう」「解き放とう」。 e 別訳: 「言った」。原典は現在分詞、七十人訳聖書の語法で荘重な響きがあ もはや不可能である。処女降誕の伝承は、50 年代に手紙を書いたパウロも、 る。以下同じ。 70 年頃福音書を書いたマルコもまったく言及しておらず、パレスティナの f 別訳:「迎える」「受け入れる」。 ユダヤ教にも類例がないので、70 年代以降、ヘレニズム・ユダヤ人キリス g 直訳:「聖霊から」。 ト教の領域で成立したものと思われる(Luz 2002: 144f.; Gnilka 1993: 22–33 参照)。 h 別訳:「男の子」。 ヘレニズム文化圏には、偉大な英雄や王や哲学者は処女から生まれたとい i 直訳:「満たされる」。 う神話、伝説が多く見られる。英雄ヘラクレスはゼウスとアルクメネーの子 j ヘブライ語では「われらと共に神が(おられる) 」 。 であり(アポロドーロス『ギリシア神話』2:4:6–8)、アレクサンドロス王はゼ k イザ 7:14 七十人訳。ただし二行目の主語は七十人訳では「人びとは」で ウスとオリュンピアスの子(プルターク『英雄列伝』「アレクサンドロス」2–3)、 はなく「あなたは」。 哲学者プラトンはアポロンとペリクティオネーの子(ディオゲネス・ラエル イザ 8:8, 10 七十人訳。 ティオス『ギリシア哲学者列伝』 「プラトン」3:2)である。この処女降誕の表象 m 直訳:「起きると」。 がヘレニズム・ユダヤ教に採り入れられた。アレクサンドリアのフィロンは n 直訳:「彼のその妻」。 族長の妻たちが徳を象徴するものとして寓喩的な解釈を行い、彼女たちの処 o 別訳:「迎えた」「受け入れた」「引き取った」。 女懐胎について語っている(『ケルビム』40–52)(以上、廣石 2011: 154–161; 青 l 野 2013: 59–91 参照) 。さらにスラヴ語エノク書は、メルキセデクが祭司ニル 2. 形態/構造/背景 の妻ソフォニムから、夫が「彼女とともに寝たことがなかった」にもかかわ らず生まれたと記している(『スラヴ語エノク書』23 章)。このような、元来 マタイは、イエス・キリストの系図をイスラエルの歴史を振り返りながら 神と人を峻別するヘブライ思想には異質であったヘレニズム・ユダヤ教の新 提示した後、16 節で語った出来事をこの段落で「イエス・キリストの誕生」 しい展開を背景として、「イエスに関する聖霊による処女降誕の物語は、復 (1:1 で「出来事」と訳したのと同じ単語 gevnesi")の物語として語る。福音書の 物語はここから始まる。その中心テーマはインマヌエル「神われらと共に」 (23 節)であり、巻末の復活の主の宣言「〔他ならぬ〕私があなたがたと共に 活信仰から出発して、イエスの人格に生じた神との唯一無比なる関係を、イ エスの誕生に逆投影しつつ神話的に表現したものであると思われ」る(廣石 2011: 157 =青野 2013: 74 も引用) 。 居る」(28:20) と呼応して枠構造(inclusio) を成している。また、直前の系 22–23 節はこの後繰り返される「成就引用」の最初のものである(2:15, 図の末尾では原典のギリシア語の語順で、 「ヨセフ」「マリア」「イエス」が、 17f., 23; 4:14–16; 8:17; 12:17–21; 13:35; 21:4f.; 27:9f. 参照)。おそらく、マタイの共 この段落冒頭では「イエス」 「マリア」 「ヨセフ」の順に言及されて、交差配 同体で活動していたキリスト教的律法学者集団(緒論参照)の聖書研究の成 列(キアスムス)になっている。 果を、福音書記者がここに書き入れたものであろう。この成就引用は、21 この段落から 2 章の終わりまでは、マタイはマルコ福音書にも Q 文書に 節から 24 節への文脈の流れを中断させていること、イエスの名前の解釈が も依拠せず、マタイ特殊資料を編集して誕生物語を構成している。ルカの誕 二重になっていること(21, 23 節)、さらに引用の導入句にはマタイに頻出す 生物語もルカ特殊資料に依っている。この両者は、ヨセフと婚約していた処 る語彙が集中し、引用本文はほぼ七十人訳によっていることから、福音書記 女マリアが聖霊によって身ごもり、ベツレヘムでイエスを生んだという点を 者の編集句であると判断される。これは読者に物語の意味を説明する覚え書 18 19 日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─マタイ福音書 須藤伊知郎(2013.12.27 公開) 1:18–25 注解 きである。 1:18–25 注解 いることは分かっても、それが「聖霊から」だとは分からない。出来事を解 釈する天使の告知があって初めてそのことが理解できるようになるのである。 3. 注解 したがってギリシア語原典で 18 節末尾に書かれている「聖霊から」は、マ リアが聖霊によって身ごもったということを、ルカの降誕物語によってでは 当時のユダヤの法律では婚約すると夫婦と看做されたのだが、結婚する なく口頭伝承によって、すでに知っている読者に向けて、福音書の著者マタ まで同居はしないのが通例であった。その意味で「彼(女)らが一緒になる イが記した覚え書きと看做すべきである。「それは実は聖霊からだったのだ より前に」、つまり結婚して同居生活をはじめる前に、マリアが「胎の中に が」ということである。 子を宿していることが見出された」(18 節)という。直訳すると「腹の中に 姦淫は結婚している女性と夫以外の男性が関係を持つことであり、それは 持っている」(ejn gastri; e[cousa)ことが見出された、つまり、お腹が大きく 妻を所有している夫の尊厳を傷つける罪であった(女性の尊厳を守ることは考 なっているのが分かった、ということである。 「見出された」(euJrevqh)と受 えられていなかった!) 。この場合尊厳を傷つけられたのはヨセフである。姦 動態で語っているので、彼女が妊娠していることを誰が見出したのかは明言 淫に対してはモーセの律法で石打ちの死刑が定められていた(婚約している されていない。「彼女の夫ヨセフ」がその一人であることは文脈から明らか 処女について申 22:23–24、ただしこれは当時すでに行われていなかった) 。ヨセフ であるが、他にも気付いた者がいることが暗示される表現である。そこでヨ がマリアを姦淫の罪で訴え出れば、彼女は公衆の面前で恥を被り、彼の夫と セフはこのことが公に知れ渡る前にこの事態に対処することを求められた、 しての名誉は回復される。しかしヨセフは別の道を選んだのだ、とこの物語 とも読める。 は語る。離縁状を渡して去らせる(申 24:1)場合、証人二人だけでよい。尊 ヨセフは天使の御告げの前に、マリアが「聖霊から」(ejk pneuvmato" aJgivou) 厳を傷つけられたのはヨセフであるので、彼自身が納得して訴えることをせ 身ごもったことを知っていた、と想定してこの物語は作られているのであろ ずに「密かに離縁」するだけにすれば、事を荒立てずに済み、マリアの尊厳 うか。もし彼がそのことを知らなかったとすると、姦淫の疑いで悩んだはず は守られる。 である(Luz 2002: 146f.; Gnilka 1993: 17f.; Davies/Allison 1988: 203)。逆に知って この決断をマタイは「彼女の夫ヨセフは義しい人であり、彼女をさらし者 いたとすると、ここには聖なるものに対する畏れが表現されていることにな にすることを望まなかった」からだと言う(19 節)。この義しさを、律法を る(Léon-Dufour 1965: 79–81; さらに Schlatter 1982: 13, 15 参照)。20 節では夢に 忠実に守り、ハラハーに従って行動することと見る解釈もあるが(たとえ 現れた天使が「ダビデの子ヨセフよ、マリアをあなたの妻にめとることを怖 ば Davies/Allison 1988: 203、その場合分詞構文を譲歩の意味に取って「義し れるな」と告げている。後者の解釈は、この「怖れ」を聖霊によって宿った い人であったが」と訳すべきである)、 「義しい」(qdc)という概念はヘブラ 聖なるものに対する畏怖と取っているのであるが、その場合この物語の枠内 イ語聖書で基本的に、神と人、人と人との間の交わりに対する誠実さを意味する。 で、ヨセフが天使の告知の前にどのようにして聖霊による懐胎を知ったのか、 そして他者に対して誠実に、義しく振舞う人は、自らその振舞いが生じさせる幸 ということが説明できなくなる。もちろん、ルカ福音書の降誕物語を知って せをもたらす力の場に包まれることとなる。ここには、人の行為はその人の境遇 いれば、マリアに受胎告知がすでになされているので、ヨセフはマリアから に関連し、行為は幸不幸につながる力の場を生じさせるという、ヘブライ思想特 そのことを知ったのだと説明することもできる。しかし、マタイ福音書の著 有の考え方がある(Koch 2004: 2.515–517) 。 ヨセフは神が与えた妻マリアとの 者も、またその最初の読者たちもルカ福音書を知らなかったはずであるから、 交わり、絆に対して誠実であった。神が与えた律法の本来の意味、神の御心 この説明は不可能である。お腹が大きくなったのを見ただけでは、妊娠して に従順に行動した。彼はこの行動において、自分が父親として認知すること 20 21 日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─マタイ福音書 須藤伊知郎(2013.12.27 公開) 1:18–25 注解 1:18–25 注解 になるイエスの姿勢を先取りしている。 を彼(女)らの罪から救うであろう」と解釈する(詩 130:8 参照)。「彼の民」 「だがこのことを彼が思い巡らしていた時」 、そのヨセフに「主の使いが夢 の「彼」を誰と取るかは争われている。神と取れば、これは「神の民」イス で……現れ」る(20 節前半)。 「見よ」はマタイが好む語彙で、重要な出来事 ラエルの救いを語っていることになり(Schlatter 1982: 19f.; Gnilka 1993: 19; Luz に読者の注意を喚起する聖書的な言い回しである。夢の御告げのモティーフ 2002: 149)、イエスと取れば、 「イエスの民」の救いを語っていることになる。 はこの後、東方から来た占星学者たちの物語(2:22)、エジプト逃避と帰還の 後者の場合、この「民」は必ずしもイスラエルとは重ならず、キリスト教会 物語(2:13, 19, 22)でも繰り返されている。主の使い、すなわち天使は彼に を指しているとする主張もある(Frankemölle 1999: 158; Davies/Allison 1988: 210; 「ダビデの子ヨセフよ」と語りかける。生物学的な血縁関係ではなく法的な Hagner 1993: 20) 。しかし、直前の系図でイスラエルの歴史が回顧されており、 親子関係が重要であり、ヨセフの認知を通してイエスは「ダビデの子」(1:1) その罪多き歴史の修復、それを完成させる頂点としてイエス・キリストの誕 となる。天使は彼に「マリアをあなたの妻にめとる」ように命じ、彼女の懐 生が語られており、そのイエスは直後の 2:6 で「私の民、かのイスラエルを 胎の由来を知らせ(20 節後半)、息子の誕生を告げる(21 節)。誕生の告知は 牧す指導者」と書かれているのであるから、ここはイスラエルの民を指して 七十人訳聖書の文体で語られている(創 16:11; 17:19; 士 13:5 他参照)。 いるものと取るべきであろう。罪からの救いは、マタイ福音書において最終 ヨセフに知らされる懐胎の由来は、読者が段落の冒頭(18 節)ですでに語 的にはイエスの受難によるものとして贖罪論的な解釈が提示されることとな り手の覚え書きによって想起させられていることである。すなわち、 「彼女 るが(26:28 でマタイはマルコの晩餐設定辞に「罪の赦しのために」という一句を の中にもうけられているものは聖霊に由来する」(20 節後半)。 「霊」はヘブ 付加している)、それ以前のイエスの生において様々な人々との出会いにおい ライ語で女性形(x:Wr)、ギリシア語で中性形(pneu'ma)であり、聖霊がマリ て起こってゆく(たとえば 9:2, 13; 11:19 参照)。 アと性的に交わったと誤解しないように注意が必要である。ギリシア・ロー 22–23 節の成就引用は、イエスの名前にもう一つの解釈を加えて、ここ マの神話では神々が人間の娘たちと交わって英雄(hero)たちが生まれた物 までの物語全体(「このこと全体が起ったのは」) の意味を提示する。主は預 語が数多く伝えられているが、ここで語られていることはそれらとはまった 言者を通してその約束を語ってきた。その神の意志が実現し、満たされた く異なる事態である(ここでマタイが用いている前置詞が uJpov「∼によって」で (plhrwqh'/ 神的受動態) 、成就した、とマタイは記す(「主によってかの預言者を はなく ejk「∼から」であることにも、その違いが現れている) 。 通して言われたことが成就するためであった」 ) 。イザヤ書 7:14 が七十人訳のギ ヨセフは「彼の名をイエスと呼」ぶように命じられる(21 節)。名を呼ぶ、 リシア語で引用されている。 「処女」はギリシア語訳 parqevno"「パルテノス」 つまり命名することは、その子を認知することを意味する(イザ 43:1 参照)。 で可能になる意味で、ヘブライ語 hm'l.[;「アルマー」では「若い女」である。 「イエス」はヘブライ語で [:WvwOhy>「イェホーシューアグ」(wOhy>「イェホー」= ヘブライ語 lae WnM'[i「 インマヌエル」は、マタイがさらにイザヤ書 8:8,10 [:Wv「シューアグ」=「救い」)、つまり「主は救い」という意 七十人訳のギリシア語訳を引用しているとおり「神われらと共に」を意味す YHWH「主」+ 味である。23 節では読者にヘブライ語を解さない者もいることを配慮して、 る。 「名」は体を表す。イエスの存在そのものが神の臨在を示している。イ マタイは「インマヌエル」をギリシア語に訳しているが、それとは異なり、 ザヤ書 7:14 の七十人訳では「呼ぶであろう」の主語は 2 人称単数であるが この「イエス」という名前については語源的な解説をしていない。おそら (イザヤ書の文脈では呼びかけられているアハズ王、なおヘブライ語のマソラ本文 くギリシア語を話すヘレニズム・ユダヤ教の環境でも、 「イエス」という名 では 3 人称単数女性形で直前の「若い女」に対応する) 、マタイはここだけ七十 前の意味は知られており、それを福音書記者は前提しているのであろう(ヨ 人訳のテクストに変更を加え、非人称的に一般的な「人びと」を指す 3 人称 シュアについてシラ 46:1 参照)。この名前の意味をマタイは「彼こそ彼の民 複数にしている。21 節でヨセフは生まれて来る子を「イエス」と呼ぶよう 22 23 日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─マタイ福音書 須藤伊知郎(2013.12.27 公開) 1:18–25 注解、解説 1:18–25 解説 に命じられているので、それとの重複を避けるとともに、福音書の冒頭です できるように、ヘレニズム・ユダヤ人キリスト教の伝承から処女降誕の物語 でにイエスの名において集まる共同体、すなわちマタイの教会に彼が臨在し、 を採用し、読者が生きている表象世界の言葉で語ったのである。日本でキリ 教会が彼をインマヌエルと呼ぶことが示唆されている。読者は福音書を読み スト教が受容されない理由が様々に論じられているが、原始キリスト教がヘ 進めてゆくと、生前のイエスが「二人または三人が私の名に向けて集められ レニズム世界に出て行った時、聴衆に合わせてそのメッセージを大胆に語り ている、そこには私が彼(女)らのただ中に居る」(18:20)と語り、復活の 直して行ったように、キリスト教会には現代の日本において新しい言葉を紡 キリストが「見よ、〔他ならぬ〕 私があなた方と共に居る、すべての日々に いでゆく勇気が求められているのかもしれない。 わたって、世の完成に至るまで」(28:20)と約束していることを知らされる。 マタイの誕生物語には、古代社会においては画期的な新しい家族のあり方 「義しい」人ヨセフは「その眠りから覚めると」 、神に忠実であるので、そ が提示されている。そこでは家父長である男性の尊厳が固守すべきものとは の命令に従順に従い、 「彼にかの主の使いが命じたように行って、彼の妻を 看做されず、女性の尊厳が守るべきものとされている。そして、生物学的な めとった」(24 節)。 「彼にかの主の使いが命じたように行っ」たというのは、 血縁関係ではなく、誠実な信頼関係(「義」)こそが家族を作ることが示され ヘブライ語聖書と七十人訳で繰り返されている、命令を命じられた者がそ ている。マタイ福音書によれば、イエスの母、兄弟姉妹、すなわち家族は、 の通りに行うことを表現する、実行の定式であり(創 6:22; 出 7:6, 10, 20; 12:28 「天にいる……父の意志を行う者」であり、それは弟子たちの共同体である 他、祭司文書に多数、Pesch 1966: 225 参照)、マタイ福音書でもこの他に 3 回現 (12:48–50) 。この弟子の家族共同体においては、「教師は一人であり、あなた れる(21:6; 26:19; 28:15)。ヨセフが「彼女が息子を産むまで彼女を知ろうと 方はみな兄弟姉妹だ」と言われる(23:8)。この意味で、女性の尊厳を守り、 はしなかった」(25 節)のは、処女が息子を産むという預言に従う行動であ 血縁関係によらず、誠実な信頼関係で新しい家族を作ったヨセフは、弟子の り、やはり彼の従順さを示している。 「そして彼は」21 節の主の使いの命令 家族共同体であるマタイ教会の模範とも言える。性的同一性が男女のあれか に従って「その名をイエスと呼んだ」。この命名によって、イエスは「ダビ これかだけでなく極めて多様であることが明らかになり、それに伴って家族 デの子ヨセフ」の子として認知され、 「ダビデの子」(1:1)となる。 のあり方も多様化しつつある現在、このマタイの誕生物語が示しているヨセ フの生き方は、私たちに一つの大きなヒントを与えてくれるものと言えよう。 4. 解説 処女降誕の物語は、史実性にこだわり生物学的可能性を考える現代人を当 惑させる。しかし、福音書記者はここで生物学的な説明をしようとしている わけではなく、最初の読者たちもこの物語をそのような説明として受け止め はしなかったはずである。紀元後一世紀のヘレニズム・ユダヤ教の表象世界 で、処女降誕は神が特別な人物をこの世に生まれさせる時に起きる出来事と 考えられていた。マタイは、この段落でイエスが「ダビデの子」となった次 第を語り、彼がその「民を彼(女)らの罪から救う」者であり、彼において 「インマヌエル」=「神われらと共に」という事態が生じることを宣言する。 その際、これらの神学的なメッセージを読者が聞いて、 「なるほど」と納得 24 25 日本キリスト教団出版局 NTJ ホームページ掲載見本原稿─マタイ福音書 須藤伊知郎(2013.12.27 公開) 1:18–25 参考文献 参考文献 (1:1–17 への参考文献に加えて) 次回、第二コリント書注解のホームページ掲載は、 青野太潮『最初期キリスト教思想の軌跡─イエス・パウロ・その後』新教 2014 年 1 月 25 日ごろを予定しています。 出版社、2013 年 廣石 望『信仰と経験─イエスと〈神の王国〉の福音』新教出版社、2011 年 Koch, K., Art. qdc ṣdq gemeinschaftstreu/heilvoll sein, in: Jenni, E./Westermann, C. (Hgg.), Theologisches Handwörterbuch zum Alten Testament, 2Bde. Gütersloh 62004, 2.507–530. Léon–Dufour, X., L’annonce à Joseph, in: ders., Études d’Évangile, Paris 1965, 69–86. Pesch, R., Eine alttestamentliche Ausführungsformel im Matthäus-Evangelium, BZ NF 10 (1966) 220–245; 11 (1967) 79–95. Schlatter, A., Der Evangelist Matthäus. Seine Sprache, sein Ziel, seine Selbständigkeit. Ein Kommentar zum ersten Evangelium, Stuttgart 71982. 26 27