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2014年度 - 新潟大学人文学部

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2014年度 - 新潟大学人文学部
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
社会・地域文化学主専攻プログラム
2014(平成 26)年度卒業論文要旨
目
阿部
漠也
次
温泉地の観光まちづくりにおける内部ネットワークの研究
―弥彦温泉おかみ会を事例として―・・・・・・・・・・・・・・・3
五十嵐
大泉
夏美
汐里
メディアにみる結婚観・離婚観の変遷・・・・・・・・・・・・・・・4
「まなざし」によるまちづくり
―新潟県村上市における町屋・景観保全を事例として―・・・・・・5
金田
千帆子
フクシマに生きる人々のライフヒストリー・・・・・・・・・・・・・6
川向
由桂
セルフヘルプグループ参加者の内的変容
―摂食障害を事例として―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7
小林
奏
少子高齢時代に求められる町内会の役割・・・・・・・・・・・・・・8
小林
菜美
コミュニティチャンネル制作者と地域社会・・・・・・・・・・・・・9
古俣
澄香
女性アルコール依存症患者の支援に関する社会学的考察・・・・・・・10
今野
直人
地域性から考える「よそ者」との地域づくり
―山形県小国町小玉川地区を事例として―・・・・・・・・・・・・11
齋藤
大
にいがた総おどり祭の展開過程
―ネットワーク組織という概念を用いて―・・・・・・・・・・・・12
酒井
郁人
介護現場からみた介護士の役割・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
佐藤
実咲
地域社会と連携する「開かれた学校」に関する考察・・・・・・・・・14
佐藤
璃歩
育児雑誌からみる母親意識
-育児雑誌『edu』を通して-・・・・・・・・・・・・・・・・・15
下山
孝曉
新潟市における景観刷新運動
―早川堀通り周辺まちづくりを考える会の活動を事例として―・・・16
高橋
一樹
「大地の芸術祭」におけるこへび隊の活動・・・・・・・・・・・・・17
塚田
久美子
有機農業の実践と思想
―新潟有機稲作研究会の事例―・・・・・・・・・・・・・・・・・18
塚野
大輔
高齢者雇用の現状と課題
―シルバー人材センターを対象として―・・・・・・・・・・・・・19
筑井 亜有美 絵本にみるジェンダーに関する考察・・・・・・・・・・・・・・・・20
永山 愛理
本間
朋美
宮本
恭子
森山
寛彬
矢澤
卓実
八幡
春菜
佐渡市長木地区におけるコミュニティの再構築
―八幡若宮神社大祭を事例として―・・・・・・・・・・・・・21
集落再生にむけたつながりの構築・・・・・・・・・・・・・・・・・22
外国籍住民による地域活動への積極的参加とその要因・・・・・・・・23
地産地消と地域活性化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
中山間地域における地域活性化・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
育児期における父親のワーク・ライフ・バランス実現の条件と課題・・26
-12014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
渡邉
佑
佐渡出郷者の郷友会活動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
太田
知樹
子どもたちに選別される遊び・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
仲川
奈苗
手染めの実践が生み出すもの
―斎藤染工場を事例として―・・・・・・・・・・・・・・・・・・29
平石
航太
地場産業としての捕鯨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
岩下
智美
公営非継承墓の可能性
―新潟市営樹木葬墓園設立運動を事例として―・・・・・・・・・・31
道澤
航太
日本庭園を取り巻く人々
-文化資源としての個人邸宅における日本庭園-・・・・・・・・・32
阿部 雅之
新潟市近郊における公共交通体系の転換・・・・・・・・・・・・・・33
岩渕
産業構造からみる市町村合併に至るまでの道程とその後の展開
太一
-福島県いわき市を事例に-・・・・・・・・・・・・・・・・・・34
門脇 夏子
亀ヶ岡文化を象徴する土偶の波及の様相・・・・・・・・・・・・・・35
長谷川
新潟県域における縄文時代の掘立柱建物
梓
―後晩期の事例を中心に―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36
山田
浩市
秋田県域における後期旧石器時代の石器石材と石器製作技法について
―御所野台地を中心として―・・・・・・・・・・・・・・・・・・37
吉田
源
新潟県域の弥生時代環濠集落について・・・・・・・・・・・・・・・38
秋山
達矢
卯年祭りの周期と広域性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39
河内 健太
都市化と民俗の存続・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
佐藤 さくら 市と市神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41
中井
駿太郎
起舟祭にみる船霊信仰・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42
西塚
大地
祭りの存続と相補性
―山形県尾花沢市におけるおばなざわ花笠まつりを事例に―・・・・43
早川
沙岐
屋台の再造にみる祭りの存続と担い手・・・・・・・・・・・・・・・44
廣田
雄介
越中瀬戸焼の復興と瓦産業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
堀江
僚
養蚕における労力構成と家族の役割・・・・・・・・・・・・・・・・46
渡邉
直登
移転集落におけるムラの再編と内・外の意識・・・・・・・・・・・・47
-22014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
温泉地の観光まちづくりにおける内部ネットワークの研究
―弥彦温泉おかみ会を事例として―
阿部
漠也
近年、日本各地で温泉地の活性化方策として、観光によるまちづくりが行われるように
なった。地域の魅力をいかに創出し活性化につなげていくかということが、観光まちづく
りにおける一つの要点となるが、その前提として担い手となる人材の存在もまた不可欠で
ある。一方、そういった行動を起こすことのできる人物やグループが不足しているという
問題も指摘された。特にゲスト側の選択理由が多様化する中、問題意識と必要な知識をも
ってまちづくりの一線を担える人材とネットワークはいかに醸成され、地域活性化にどの
ように影響しているのか、新潟県西蒲原郡弥彦村の温泉街から地域活性化に取り組む女将
のネットワーク「弥彦温泉おかみ会」への調査を通して明らかにする。
独自にデザインした土産品の販売や、新潟デスティネーションキャンペーンの一環とし
て企画された「スイーツめぐり」など、おかみ会の主な取り組みにはその基軸として弥彦
ブランドの再発見と発信という手段が明確に取り入れられていた。対象者の女将への聞き
取りで得た「女将は観光地の顔であり、何を尋ねられても答えられるよう、あらゆること
に関心を持たなければならない」という語りからは、その地に根差す女将である彼女らの
知識と視点が、地域づくりに大きな貢献を果たしうるものであるとうかがえる。またおか
み会は、行政から個人店、農園といった地元のネットワークを活かしつつ、個性の異なる
女将同士が影響を与え合う中で企画を醸成し、弥彦の地域づくりを支えているといえる。
取り組みには、女性を主な客層として取り入れる狙いが戦略として見うけられたが、そ
の中でおかみ会における女性としての視点が大いに機能し、女性による消費行動が顕著に
なりつつある現代の観光のあり方とマッチングを果たしているといえる。同様に女性ネッ
トワークとしての側面が、乳癌体験者を対象とした「ピンクリボンほっとかたらい温泉ま
ちづくり」の取り組みにおいても重要とされる他、女将としてのもてなしの理念が、乳癌
を理解しようという姿勢や意識の高さという形で表れている。乳癌患者の会:あけぼの会
会員への聞き取り調査からも、実際に施されるサービスそのものより、そうした理解の姿
勢や意識について評価される部分が大きいということが明らかとなった。これらのことか
ら、女将業を通じて醸成された来訪者に対するもてなしの心、すなわち観光まちづくりに
必要となるホスピタリティという要素を弥彦に根付かせることも、おかみ会に期待される
重要な役割であるといえる。
-32014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
メディアにみる結婚観・離婚観の変遷
五十嵐
夏美
現代社会では、未婚率の上昇、晩婚化、離婚率の上昇といった社会問題が提起されてい
る。1970年代時点の未婚率は男性では20代後半が47%、30代前半が12%で、女性は20代後
半が18%、30代前半が7%だった。しかし、80年代から上昇し、2010年の調査では、20代後
半において男性71%、女性は60%にまで上昇している。30代前半において男性の2人に1人、
女性は3人に1人が未婚となっている。結婚することは当たり前という時代から、しなくて
もよい、したくないという意見も増えてきている。離婚に関しては、これまでタブー視さ
れる傾向にあったが、バツイチなどという単語は身近な言葉となっている。
本稿では、結婚や離婚に対する考え方が、時代によってどのように変化しているかを、
恋愛ドラマを通して分析した。男女による考え方の違い、年齢や親との関係、職業とのか
かわり等、多面的な視点でとらえながら、全体像をつかんでいく。
90年代から2010年代までの恋愛ドラマを分析した結果、女性が男性に求める理想像に変
化があった。男は仕事、女は家庭というステレオタイプから、女性が社会に出て働くよう
になり、経済的・精神的にも自立するようになって、仕事上のパートナーとしての位置を
求めるようになった。女性が、結婚しなくても安心が得られるという変化によって、結婚
の意義が必要不可欠のものではなくなり、未婚率の上昇にもつながっている。
また、これまでのドラマは、女性の孤独や寂しさが描かれていたことに対し、現代では
男性の孤独や弱さ、女性に対する劣等感が表現されている場面が多くなってきている。社
会的位置において、女性が男性と対等になっていくにつれ、男性の生きづらさが現れてき
ている。
女性の社会進出に関係しており、未婚率の上昇や晩婚化に少なからず影響を与えている
と考えられる。男女共同参画社会が進んでいくなか、社会の変革に伴って変わっていく男
女それぞれの意識の違いを認識し、対策していく必要がある。
-42014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
「まなざし」によるまちづくり
―新潟県村上市における町屋・景観保全を事例として―
大泉
汐里
日本では2007(平成19)年1月に観光立国推進基本法が施行され、観光は21世紀における
日本の重要な政策の柱であると明確に位置づけられた。国としてこのような動きがある中
で、各地域においてそれぞれの特色を観光まちづくりに活かす工夫が成されている。一方
で、観光によって生じる環境の変化と住民との折り合いをどのようにつけ、住民・観光客
双方にとってよい環境をどのように創っていくかが、観光まちづくりにおける課題である。
本稿では「観光」「空間・場所」「まなざし」をキーワードとし、観光客や地域外から
の「外からのまなざし」と地域住民による「内からのまなざし」を設定する。新潟県村上
市の町屋・景観保全による観光まちづくり活動を事例として「まなざし」に着目し、地方
都市における住民主体の観光まちづくりの在り方と、それぞれの「まなざし」の背景とそ
の変化からまちづくり活動が拡大した要因を明らかにすることで、複眼的「まなざし」の
構築と重層的まちづくりの可能性を考える。
村上市はかつて城下町として栄え、現在でも城跡、寺町、町屋、武家屋敷の面影を残す、
全国でも珍しい地域である。村上市では昭和30年代に道路拡幅を伴う大規模な開発計画が
打ち出されていた。その後何十年もかけて着々と計画は進められ、道路拡幅工事が行われ
た部分では、ほとんど町屋は取り壊されており、そのまま行けば中心商店街の町屋も全て
壊されてしまう可能性があった。旧町人町では、この道路拡大計画の阻止のために町屋や
歴史的景観を活かした活動が多く行われてきた。そのイベントマップの分析やインタビュ
ー調査から、その活動が徐々に拡大していることが分かった。活動は、主体となった村上
町屋商人会へ住民が共感することで拡大した。その共感は、「まなざし」の変化によって
引き起こされたと言える。その要因として、①流通構造の変化による住民の「まなざし」
の変化、②住民間や観光客との対話などによる、様々な角度からの「まなざし」の交差と
新たな「まなざし」の生成とそれによる伝統的資源の再認識、③380年の歴史を持つ村上人
の祭り好きの DNA、が要因としてあげられる。このような要因が絡み合うことで、観光ま
ちづくりが拡大し、観光客には魅力ある町として村上が映るようになり、観光客の増加に
つながった。またそれによって、より一層住民の商店街や旧町人町に対する帰属意識が高
まり、活動が一層前進・拡大していく要因となった。
-52014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
フクシマに生きる人々のライフヒストリー
金田
千帆子
本論文は、福島第一原発事故による放射能飛散の問題および原子力発電と個人の日常生
活との関係を、福島県に住む女性3名のライフヒストリー研究を通して明らかにしようと
したものである。
2011年3月11日に東北地方において起きた東日本大震災では、地震と津波により東北地
方に多くの被害をもたらしたが、福島県第一原子力発電所においてはさらに放射性物質が
放出される事故が起き、福島県および隣県の広範囲に放射性物質が飛散することとなった。
その結果、汚染が酷い地域は避難を余儀なくされ、また福島県内の他の地域においても自
主避難や生活不安、風評被害や除染などの問題が立ち現れている。このように、福島県が
ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリと同じように放射能の被害を受けた地域として認識
されるなかで、改めて原子力発電の存在や放射能について、また個人の生活についてそれ
ぞれの関係を認識し直してみたいというのが本稿の目的である。
社会学の領域においては、避難地域における地域再生や避難者支援の方策の研究が地域
社会学などの領域で行われ、また放射能廃棄物の問題や原子力発電所の建設問題において
は環境社会学の領域などで地方と中央の権力関係に注目した研究がなされている。さらに、
科学史、科学哲学、科学社会学などの領域では、原子力発電の産業構造や研究構造の把握
の研究などが行われている。本稿では、3章において原子力発電の成立背景を、先行研究
や日本原子力産業協会の資料を使って概観し社会構造を把握した上で、4章において、環
境社会学における生活環境主義の立場からライフヒストリー法を使って日常生活を原子力
発電との関係の中で把握した。
その結果、原子力発電は戦後日本社会の発展という理想の下に発展してきたエネルギー
政策の一つであり、国際関係など政治的理由や中央と地方の権力構造があったが、一方で
個人の日常生活は電気を受け入れ使っているだけのため原子力発電との関係が薄くなりこ
の構造の最も周縁に位置することが明らかとなった。毎日の生活において必要不可欠とな
っている電気と原子力発電との関係は日常生活上で見えず、また原子力発電についての知
識や情報はメディアを通してもたらされるので、原子力発電の最終的な受け手として存在
し、社会構造の主体として自己を認識しづらくなっている。このような関係の中で起こっ
た福島第一原発事故は、今後日常生活の自律性をいかに得ていくことができるのか、責任
の所在をどこに求めるのかを再考する機会となったと思われる。
-62014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
セルフヘルプグループ参加者の内的変容
―摂食障害を事例として―
川向
由桂
様々な問題や悩みを抱える人々を支える場のひとつとして重要視されているのがセルフ
ヘルプグループである。同じ問題を抱える者同士が集まることで、参加者の精神的支えと
なることもあり、それぞれの問題解決につながる場として注目されてきた。摂食障害のセ
ルフヘルプグループにおいても、参加者にとってのグループの存在はとても大きいもので
あるといえる。本稿では、摂食障害のセルフヘルプグループ参加者にとって、グループは
どのような存在であるのか、参加する過程で獲得できるとされているものについて、どの
ような影響を受けたと考えているかということについて、参加者の視点から考察する。
セルフヘルプグループの機能論のなかで示されてきた概念のうち、本稿では「ヘルパー
セラピー原則」に注目してみていく。援助する側が最も援助を受けるというこの原則が、
摂食障害のセルフヘルプグループではどのように働いているのか。グループに関わること
で、複雑な気持ちの変化があったうえで自身の回復につながっているのではないだろうか
と考え、参加者の心の変化がどのようにみられるか詳しく考察していく。
本稿では新潟市で活動する摂食障害のセルフヘルプグループ「ABC の会」を調査対象と
し、月例会の参与観察および参加者へのインタビュー調査を行った。
調査の結果、他のグループの参加者から自分の話に対しての感謝の言葉をもらった際は、
その体験が彼女たち自身にも良い方向への気持ちの変化として働いていることがわかった。
一つ目の変化は、病気に対する価値観の変化である。長い間苦しんできた病気に対してマ
イナスのイメージしかなかったものの、誰かの助けになれたということが病気を肯定的に
捉えさせ、病気になったことの意味づけができるのである。二つ目の変化は自分の存在価
値の高まりである。摂食障害者は自身への評価が基本的に低く、自身の存在価値をうまく
見いだせていないという人が多い。誰かの役に立てたという喜びは、病気になった自分だ
からこそできる役割であると認識し、自分が存在することの意味や価値を自身に感じさせ
てくれる。そして三つ目の変化は、自身の回復である。人の役に立てたことが自信回復の
きっかけとなり、症状回復への道のりの大きな一歩となる。
しかし、この原則がどのような状況下であっても働くとはいえない。また、根本から考
え方が良い方向へと変化するとは考えにくい。気持ちの上向きにさせる要因の一つがこの
ヘルパーセラピー原則であると捉えられる。参加者にとってグループが安心できる話し場
であるということだけでなく、その場所にいる人々存在にも助けられ、また助ける存在に
もなっているということが、参加者の心を前向きにさせる力になっているのであろう。
-72014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
少子高齢時代に求められる町内会の役割
小林
奏
町内会は戦前・戦後を通じて住民に大きな影響を与え、その存在の大きさゆえ多くの議
論がなされてきた。
NPO を中心とした「新しい協働」へ注目される現在、あえて長い歴史を持つ地縁組織
である町内会に注目することが決して無くなることなく存在している意味はなぜなのか。
そして今後町内会が果たす役割は一体どこにあるのか。この二つに着眼し、今まで主たる
研究から外されていた地方都市の新興住宅地に焦点を当てることとする。また、連合町会
に変わり台頭してきたコミュニティ協議会がしっかりと機能しているかという点にも注目
していきたい。現代社会の問題点を踏まえたうえで、インタビュー調査による現代町内会
の活動を分析することで考察した。
調査対象は、新潟市東区 A 小学校区コミュニティ協議会に所属する2町内会の2名である。
新潟市のコミュニティ協議会について、新潟市が目指す形と実際の形態との間の乖離が、
インタビュー調査を通して明らかになった。先進事例として取り上げた荻川地区は自発的
にコミュニティ協議会を立ち上げたため、市役所が積極的に設立を促した近年できたコミ
ュニティ協議会とは同一視できないほど実態は異なる。連合町内会を解消し、コミ協へ変
化させたという事例も調査であったように、市が目指すコミ協と現実の運営ではやはり差
が出てきてしまっている。
また、既存の町内会活動で大きな行事を行っている X 町内会のような場合は、コミュニ
ティ協議会での活動の必要性があまり感じられないものとなっているのが現状である。
そして、コミ協の構成メンバー事例で挙げられている NPO が調査対象のコミュニティ
協議会に参加していないという点からも、町内会が存在している意味は大きいといえる。
だが、コミュニティ協議会の原義から考えれば、市民が自発的に行動することを求め
るため、市としては踏み込んだ介入を行うことは難しい。この点は、コミュニティ協議会
を活発化したいという考えとあまり介入すべきでないという本来の意味との間で新潟市が
ジレンマに陥っているのかもしれない。
-82014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
コミュニティチャンネル制作者と地域社会
小林
菜美
平成 25 年度 3 月現在、各都道府県の自主放送(コミュティチャンネル)を行うケーブルテ
レビの普及率は、全国平均で 51.8%である。新潟県全体の普及率は、20.8%で、全国平均
と比較してみても非常に低い数値である。一方で、佐渡市では、全世帯数のうち、47.2%
が、佐渡市にあるケーブルテレビ局、佐渡テレビジョンの契約者である。新潟県内では、
佐渡だけが高い数値である。
牛山(2010)が、地域メディアの今後は、視聴者を獲得し、地域における基盤を強固にす
るにあたっては、良質かつ独自のコンテンツを生み出さなければならず、今後、担い手の
資質が一層問われることになろうと述べている。牛山(2010)が指摘するように、現在、放
送界では、テレビのチャンネル数は地上派、衛星、CS、ケーブルなど300以上のチャンネ
ル数が競争し、ネットが隆盛するなか、ケーブルテレビ局の生き残りのためには、コミュ
ニティチャンネル制作者の地域社会との関わりや、普及に向けた努力が欠かせない。そし
て、佐渡テレビジョンの普及率からみて、佐渡テレビジョンのコミュニティチャンネル制
作者の実態と地域社会との関わりは非常に興味深い。以上のような理由から本論文では佐
渡テレビジョンをとりあげることにした。
調査は、佐渡テレビジョンのコミュニティチャンネルの番組制作の取材に同行し、活動
の把握、制作者や視聴者へのインタビューを行った。
佐渡テレビジョンは、地域社会との結びつきという連帯感で視聴者と結びつこうとしてい
る。佐渡テレビジョンのコミュニティチャンネル制作者は、住民の生活や感情と一体であ
り、そして、情報媒体といえども、地理や環境と表裏一体の存在であるということも確認
した。佐渡テレビジョンでは、送り手側であると同時に受け手、島民の生活者であるとも
いえる。巨大な地上派やネットを利用した個々人の動きなどとは異なる情報の伝え方をし
て、佐渡テレビジョンは島内で確固たる地位を築いていることが明確になった。佐渡は、
本州からさほど遠くもなく、かといって至近距離でもないという微妙な位置である。それ
ゆえに、文化や経済、政治などあらゆる分野にわたって人間の営みが高度に濃縮され、伝
えられてきた地域である。情報発信や受信もまた、佐渡独特の発展をしてきたと推察され
る。佐渡テレビジョンも例外ではない。ネット隆盛の現代にあって、ケーブルを敷設し、
視聴者とつなぐという愚直な行動を繰り返しながらも高普及率で島民に受け入れられてい
る理由が今回の調査を通して明らかになった。
-92014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
女性アルコール依存症患者の支援に関する社会学的考察
古俣
澄香
現在、女性アルコール依存症者の増加が懸念されている。アルコール依存症とは、アル
コールの慢性的な多量摂取を精神的・身体的に依存してしまう病気である。世間には、ア
ルコール依存症=男性の病気という認識があるために、女性依存症者に対する偏見が強く
なっている。病気から回復していくために、支援を行う自助グループである断酒会が女性
依存症者に対して持つべき役割と、必要なサポートについて考察をした。
社会はアルコール依存症に対して悪いイメージがあること、男性がなる病気で女性は珍
しいという認識を持っていること、そのことで家族は恥ずかしさを覚え本人に対する支援
が十分になされないことから、女性アルコール依存症者を取り巻く状況として、〈社会に
存在するアルコール依存症者に対しての偏見〉、〈家族(特に夫)からの支援を得られに
くいこと〉、の2つが考えられる。そのような女性依存症者にとって困難な状況下で、病
気から回復していくために社会的学習をおこなう断酒会に期待していることが男女で異な
ることが予想された。〈男女で異なる断酒会の機能〉を3つ目のキーワードとし、分析を
行った。
本稿では、新潟西・友綱断酒友の会と新津地区断酒友の会において活動をしている2名
の女性アルコール依存症者を対象にインタビュー調査を行った。どちらの断酒会において
も、女性依存症者本人はそれぞれ1名しかおらず、他のメンバーは男性依存症者本人とそ
の奥さんでほぼ構成されている。
調査の結果、女性依存症者に対する偏見はまだ持たれてしまうが、昔に比べたら少しは
理解されるようになってきたという。メディアで取り上げられることも増え、それに共感
することで彼女たちの気持ちを楽にしていた。今後は、断酒会からの情報発信を更に充実
させることが求められる。また、夫からの協力は得られづらい実態が浮かび上がった。そ
して、助けてはくれない夫であっても、離婚しないでいてくれるかどうかが、回復に大き
く影響を与えている可能性があることがうかがえた。離婚に至る事態を避けるために、今
後は依存症の妻の夫に焦点を当てた支援環境の整備が必要となる。最後に、断酒会の機能
に関して、例会での発言時間の長さから、女性依存症者は断酒会において話すことを最大
の目的として参加しているのではないかと推測できた。
本稿の調査から、普段なかなか病気の話を人に話せない女性にとって、どんな話をして
も否定されず、共感を得られる場としての機能を断酒会は持っているということが分かっ
た。これが、男性依存症者が多くを占める断酒会において女性依存症者が回復できる要因
となっている。そうした、自分の話ができる場、否定せずに聞いてくれる場と、性別や立
場にかかわらず同じ病気でつらい思いをした仲間の存在は、本人の回復にとって大切なも
のとなるだろう。
- 10 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
地域性から考える「よそ者」との地域づくり
―山形県小国町小玉川地区を事例として―
今野
直人
地域づくりにおいて、最近その役割が注目されてきたのが「よそ者」という存在である。
地域づくりやまちづくりと呼ばれる分野や地域振興でも、「よそ者」の役割が積極的に評
価されるようになってきた。「よそ者」とは「現在はある場所に留まっているが、漂泊の
自由を放棄していない存在」(赤坂 1992)と定義され、石山(2014)によれば、よそ者
が媒介することで、コミュニティづくりが進展する場合が多いと言う。よそ者は、「まみ
れていない存在」、すなわち地域の利害に直接関係はしていないため、関係者間を自由に
行き来することができるからである。また現在の地域づくりを考えるにあたって、高齢化
や少子化による、地域の伝統文化の消失も課題としてあげられる。地域を見直す契機とし
て働いている伝統文化を守っていくためにも、伝統文化が失われつつある地域の中で「よ
そ者」はどのような役割をもてるであろうか。
調査にあたって、山形県小国町旧小玉川小中学校を拠点として活動する現代アート集団、
「studio こぐま」のメンバーと、その地域住民を対象として、インタビュー調査を行った。
同グループは2011年より、東北芸術工科大学の卒業生たちが、地域に住みながら、廃校に
なった空き校舎で芸術活動をしている。
現在、小玉川地区で問題となっているのは、冬季間での除雪問題と地域の伝統文化であ
る「マタギ」の存続問題であった。雪については、冬季の積雪量は3メートルを越え、地
域の高齢者の方では、手に負えない部分がある。そんな中で「studio こぐま」は在籍メン
バーが20代、30代と若く、地域での雪かきでは貴重な戦力となっていることが分かった。
また小玉川はマタギと共に生きてきた地域である。マタギがいないと生活が出来なくなっ
てしまうと地域の方達は語っていた。しかし現在では地域にいる若い人たちがマタギを継
承することが少なくなってきている。彼らにどのようにしてマタギの魅力を伝えていける
かが課題になっていた。そこで地域住民の方は、まずは自分達が小玉川の魅力を発見し、
小玉川を楽しまなければならないと考えており、そのきっかけとして、「studio こぐま」
は期待されていた。彼らの活動や作品は、それ自体が地域のおもしろさを移す鏡となり、
そこに地域の魅力を再発見する糸口が見出される。「studio こぐま」のメンバーにとって
も、知らない土地からヒントを得て多くの作品を作れること、地域の人やその他の多くの
方と関わることができるというメリットがあった。
よそ者は地域の魅力を再発見する道具を作り出し、そこから地域の伝統文化の存続、そ
して地域づくりが始まっていた。よそ者自体の特性だけではなく、彼らの活動自体の影響
にも、今後目を向けていくことが重要になってくるだろう。
- 11 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
にいがた総おどり祭の展開過程
―ネットワーク組織という概念を用いて―
齋藤
大
今日、地域活性化を目的とした様々なイベントが全国各地で行われており、そのうちの
ひとつによさこい系の祭りがある。内田はよさこい系の祭りについて、それぞれの地域の
特色に合わせて新しい文化として根づかせることで、観光客誘致などの経済面での活性化
だけでなく、地域のアイデンティティを養えることや地域の社会教育に役立つなど、地域
活性化のイベントとして優良イベントの代表格であると評している(内田 2004: 47-49)。
新潟市にもよさこい系の祭である、「にいがた総おどり祭」がある。にいがた総おどり祭
は第1回が開催されてからまだ10年ほどしか経っていない比較的新しい祭りであるが、参
加者、観客数も年々増加しており、現在では新しい新潟の祭りとして定着しつつある。に
いがた総おどり祭を運営する組織体制を調査し、ネットワーク組織という概念を用いなが
ら、にいがた総おどり祭の展開過程を追い、運営組織の組織原理を明らかにする。
ネットワーク組織とは、複数の個人、集団、組織が、特定の共通目的を果たすために、
社会ネットワークを媒介にしながら、組織の内部もしくは外部にある境界を越えて水平的
かつ柔軟的に結合しており、分権的、自律的に意思決定できる組織形態である(若林 2009:
30)。こうした構造のため、外部の市場や社会の常識をもとに判断しつつ、外部環境の変
化に柔軟に対応して変化させやすいという特性を持つ。
にいがた総おどり祭を実際に運営している組織である、「新潟総踊り祭実行委員会事務
局」のメンバー5人と、「新潟商工会議所」の代表者に、祭りの立ち上げの経緯と展開過
程についてそれぞれ聞き取り調査を行った。
調査の結果、にいがた総おどり祭の運営組織は、組織の壁を越え、自律的に協働が行わ
れていることが明らかになった。同時に、部門や組織の壁を越えてネットワークで結合し
ているので、外部の常識、評価、価値観、判断基準が入ってきやすくなり、外部の環境を
基準にした意思決定がとれていると考えられる。
企業だけでなく非営利などの組織も激しい環境変化やグローバル化にさらされている現
代では、祭りを開催、運営する組織も同様に、対応できるような組織形態が必要であり、
にいがた総おどり祭の運営組織はこれに対応できるよう、ネットワーク組織の形態がとら
れていることがわかった。
- 12 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
介護現場からみた介護士の役割
酒井
郁人
現在の日本が抱える問題のひとつとして人口の高齢化問題があげられる。日本の総人口
のうち60歳以上の人口が約25.1%を占め、「高齢社会」と呼ばれる状況となっている。人
口の構造が高齢化していくなかで、必要となってくるのは介護の担い手である。しかし、
家族介護だけでは介護者への肉体的・精神的負担は大きく、自身の生活を切り詰めてまで
介護をしなくてはならない場合もある。そうした現状に対し、介護士の担い手を確保して
いくべきではないだろうか。
本稿では、男性介護士に焦点を当て、介護職の現場における介護士について考察した。
山根(2007)によると、介護職などのケア労働では、利用者は男性だからという理由で介護
を拒むことがあり、事業所側もそうしたニーズを踏まえて、採用を断ることもあるとのべ
ている。一方、矢原(2007)はケア労働とは「細やかな気づかい」や「他者への共感」とい
ったことが求められる感情労働でもあり、男性の看護師は感情労働の側面から女性の優位
性を感じているとのべていた。このことからケア労働においては常に性差がつきまとうと
いえる。しかし、男性介護士における「気遣い」や「配慮」といった「感情労働」をする
ことについてどのように捉えているかについては明らかにされていない。そのため、本稿
では、このことについて調査し、考察を行った。
今回、新潟県五泉市にある特別養護老人ホーム「愛松園」の職員の方にインタビュー
調査を行った。それによると、男性介護士は、「配慮」や「気遣い」が足りないというケ
ア労働に従事する男性によくみられるマイナス評価について、それらをマイナスにはとら
えず、それらの声はむしろ「配慮」や「気遣い」をすることに気づかせてくれるものであ
うとしていた。また、そうした声に応えることが介護士としてのあるべき姿であると捉え
ていた。男性介護士は、介護に求められる家事支援や介助の部分で出てくる不利な面を克
服するために、利用者に「配慮」や「気遣い」をするのである。これは、男性介護士が「感
情労働」をひとつの戦略として捉えているのだろうと考えられる。
介護の社会化が進むことによって、従来、女性職といわれていた介護職に男性も参入し
てくるようになった。しかし、まだ介護職は人手不足でもある。そのため、介護をする人々
がもっている役割を見出していくことで、待遇面の改善など、より働きやすい職場となっ
ていくのではないだろうか。
- 13 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
地域社会と連携する「開かれた学校」に関する考察
佐藤
実咲
近年、子どもの教育を学校だけに任せるのではなく、家庭と地域が協力するよう求めら
れるようになってきた。その背景は、高度経済成長期に家庭での子育てや学校教育をめぐ
り、「家庭崩壊」や「学校崩壊」などさまざまな問題が起こったからである。地域の教育
力が低下しているなかで地域と学校はどのように連携していくことができるかを問題意識
とした。
本稿は異質な価値観や考え方を持つ者や組織を排除したり抑圧するのではなく、人や組
織は多様な価値観や利害関係を持っているということ前提に学校と地域連携を捉え直す立
場に立ち、地域連携の現状を調査した。
調査対象団体は新潟県聖籠町立聖籠中学校に常駐しボランティアをしている「せいろう
共育ひろば
みらいのたね」(以下、みらいのたね)である。具体的な活動は主に地域交
流棟の管理業務と、学校の装飾や梅干し作りやクリスマス会などを生徒と一緒に行う学校
支援ボランティアの2つだ。調査はみらいのたねの方を主とし、教師、生徒、クリスマス
会に参加していた地域住民の方にインタビュー調査を行った。みらいのたねは平成26度時
点でメンバーは18名所属しており、全員が女性で、年齢層は20代から60代まで幅広い。
みらいのたねは住民ひとりひとりの意見が異なるという前提を十分に理解し、そのうえ
であらゆる意見を否定せず受け入れていくことが調査で分かった。同質化をあきらめて異
質性を許容する共生ということを実践していると言える。それができる理由のひとつは組
織の体系がトップダウン方式でないということだ。みらいのたねは活動や方針を一人で決
めてしまうリーダーのような人がいない。お互いの力関係が対等であり、どんなことも発
言できるのだ。それはみらいのたねが学校に常駐しメンバー同士がよく顔を合わせる仕組
みがあり信頼関係が築かれているからできることだ。多様性が守られるもう一つの理由は、
聖籠中学校を新しく作るときに座談会を開き地域の人たちひとりひとりの声を聞いてつく
ったからだ。先生だけでも生徒だけでもなく地域もいっしょに学校をつくってきた。これ
が組織として13年間存在し続けている理由であるともいえる。また、みらいのたねと学校
運営協議会という組織が連携していたが、今はほとんど連携していないことが調査でわか
った。これは各組織の目的が共有されていなかったことと、連携する活動の目的が共有さ
れていなかったことが原因でないかと考える。
以上のことから、地域住民同士や組織同士では多様な価値観や利害関係を持っていると
いうこと前提に学校と地域が連携しなければならないことと、そのためにはどうすればよ
いかをみらいのたねの事例を通して考察することができた。
- 14 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
育児雑誌からみる母親意識
‐育児雑誌『edu』を通して‐
佐藤
璃歩
少子社会の中で出生率は1.43(平成25年度版少子社会対策白書)と低い。それは育児環
境が整っていないからである。「イクメン」といわれる父親の育児協力があっても母親の
育児負担が大きいことが予測される。育児雑誌は育児不安を抱える母親たちの共感の場と
なっている。父親の育児参加、政府による子育て支援が行われる中で、母親の閉塞状況は
いまだに変わらないのだろうか。
先行研究によると天童(2004)は、近年の育児雑誌は子育てする父親の「主体化」、子
どもに濃密な教育的眼差しを注ぐ教育家族の強化、家族の再ジェンダー化を示唆した。近
年の育児メディアの言説は「父親の育児参加」を前提とし、「母親だけではない自分」「母
親であることからの解き放ち」を強調しつつ、一方で「子どもの養育責任」を排他的に背
負う、社会化エージェントとしての「母」の構築というパラドックスを内包しているので
ある(天童,2004)。母親たちはよりよい子育てをしようと多くの苦悩を抱えながら、子育
てを行っている。父親の育児参加の背景にあったのは、さらなる家庭教育の責任者として
の立場にある母親である。家族の再ジェンダー化が行われているという主張に対しての考
察と、子育てする父親の「主体化」という天童の主張に対して疑問を唱え研究を進めてい
く。
対象とするのは小学館の『edu』と朝日新聞出版の『AERA with Kids』である。目次か
ら記事の分析をおこない、投書欄から登場人物を調査した。
分析の結果、家庭教育の負担は母親にかかっているという状況は変わらないということ
がわかった。父親に育児協力を求めるために、母親が「父親を話し合いに導く」といった
呼びかけが必要ということや育児をする父親が珍しいといった表現がされていた。父親の
「主体化」は対象とした『edu』ではみられなかった。むしろ両親での子育てを強調して
いた。その中で母親と父親の役割を分担するという記事もあったが、その役割を担うこと
で更なる再ジェンダー化につながる可能性もある。家族の再ジェンダー化が起こっている
状況は変わらないといえる。子育て責任を母親だけが担うことのない援助が必要となって
くるだろう。また今後の課題として、育児雑誌にはシングルマザー、シングルファザーの
声が極端に少ない点を挙げる。子育てを取り巻く環境として、多様な形態の子育ての方法
を示していく必要があると考える。
- 15 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
新潟市における景観刷新運動
―早川堀通り周辺まちづくりを考える会の活動を事例として―
下山
孝曉
近年、まちづくりや地域づくりの行われている現場において、観光利用や資源利用など
様々な観点から景観を保全する活動や、すでに失われてしまった景観を再生する動きが盛
んになっている。景観利用を柱としたまちづくりでは、高度経済成長期における開発や環
境破壊によって一部、または全部が失われてしまった景観を、その地域独自の特色を活用
することによって再生する活動、特に歴史性や風土性を活かした再開発が行われている。
「まちづくり」や「ふるさとづくり」という言葉が多く用いられている現場では、その
活動の一環として、かつて失われてしまったその地域の独自の特色を取り戻そうという動
きが盛んである。これは人びとが、人びと自身の生活に緊密な存在であった水辺、つまり
景観というものに関心を取り戻し始めたことに他ならない。その中でも、かつて水の都で
あるとか水郷と呼ばれた地域を中心に親水空間を再び人々の生活の中に取り戻そうという
動きが活発である。そのような地域独自の歴史や風土に地域住民が関心を持ち、生活の中
に親水空間を再生することを目的とした事例として、新潟県新潟市における掘割の再生運
動があげられる。また、実際に地域の中に親水空間を新たに作り出した事例として、新潟
市中央区古町地区の早川堀通りにおける道路整備事業があげられる。
本稿では主に早川堀通りにおける整備事業を取り上げ、早川堀通りに水辺が創出される
過程において、早川堀通り周辺まちづくりを考える会(以下、「考える会」と略称)・住
民・行政・他の団体それぞれの主体が相互にどのような動きをしていたか、また水辺の創
出に関してどのように合意形成を行ったのかという過程を明らかにすることを課題にした。
調査結果より、どのようにして合意が形成されたのかという問に対する結論として、住
民間での緻密な話し合いが存在したことがわかった。話し合いを繰り返し行ったことが、
地域住民の間に水辺を創出することに対して関して話し合いの下で決定したのだから理由
もなく反対することは出来ないという雰囲気を醸成した。この雰囲気こそが水辺の創出を
成し得た決め手であった。そして、その背景には「考える会」の活動が存在していた。「考
える会」は行政や他の NPO 団体、そして住民との協働の下に、住民が誰でも自由に話し
合いに参加することができる場を形成し、住民の誰も置き去りにしないことを目標として
活動し、結果として合意形成に成功し水辺を創出することができた。その活動と成果が新
潟市における景観の刷新活動に与えた影響は大きい。
- 16 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
「大地の芸術祭」におけるこへび隊の活動
高橋
一樹
地方の疲弊対策としての振興・活性化が叫ばれる中、具体的な地域振興・活性化のため
の取り組みは地域や自治体ごとに工夫されており多岐にわたっている。その土地固有の伝
統・文化などを発展させて目玉 にしようという内発的発展の見地、また民主党政権下で謳
われた「コンクリートから人へ」という言葉に代表されるようなソフト面を中心に据えて、
不動産等のハード面は最低限のものにしようという人的資源や人的資本を見直す動きが広
がっている。その一方で、多々ある先進地の成功例をそのまま真似たとしても、それぞれ
の地域の背景の 違いから必ずしも成功するとは限らず、グランドデザインの欠如した地域
振興・活性化施策は逆効果 になってしまい、さらに状況を悪化させてしまうこともある。
以上のような問題意識を踏まえて、本稿では新潟県十日町市及び中魚沼郡津南町で2000
年から地域づくりの一つとして行われている「大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナ
ーレ」を題材として取り上げる。「大地の芸術祭」の作品管理や制作等に従事している運
営ボランティアの「こへび隊」に焦点を絞り、「大地の芸術祭」がいかにして成功したの
かを考察することを本論文の目的とする。
「大地の芸術祭」全体としては、内発的発展論の先行研究を見る限りでは十分に成功事
例だと言える。「大地の芸術祭」の先行研究は主として住民からの評価と芸術祭それ自体
の評価に集中しており、こへび隊の活動を取り上げた研究はほとんど存在しない。そこで
本稿ではこへび隊がどのように「大地の芸術祭」に関わってきたのかを、具体的な調査を
踏まえて明らかにする。
調査の結果、こへび隊には、年齢・職業・利害・関わりの程度の違いなどの点でそれぞ
れ異なる個人が参加しているという人的な多様性と、そのような多様性を受け入れメンバ
ー全員が同じ立場で発言できるといった点に代表される組織的な柔軟性の二つが併存して
いることが明らかになった。組織的な柔軟性が人的な多様性を担保し、また人的な多様性
が組織的な柔軟性を担保し、相乗効果を生み出している。また、継続して参加していく中
で越後妻有地域に対する問題意識が芽生え、より積極的なかかわりを持つ契機となってい
た。
こへび隊は上記のような組織的な柔軟性と、地域の問題に積極的に関わっていく熱意を
併せ持っているために、運営主体と地域住民をつなぐネットワークの役割を果たしている
だけでなく、影響を与える主体としての役割を持つことができているため、「大地の芸術
祭」が地域の人々に受け入れられ、また国内有数のアートイベントとして成長するという
結果を導いたといえる。
- 17 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
有機農業の実践と思想
―新潟有機稲作研究会の事例―
塚田
久美子
有機農業は、もともと農業が内包していた「物質・生命循環の原理」を生産方法・技術
の中に取戻し、自然生態系の持つ生産力を活かしていくところに特徴がある。現在、安心・
安全な食材を求める消費者の動きは加速しており、有機農業をはじめとする自然環境や人
間の健康に配慮した農業に注目が集まりつつある。そこで本稿では、有機農業を地域の中
で実践する農家は何を思い、どのような実践をしているのか。また、有機農業の在り方に
共感する生産者同士のネットワークの存在は、有機農業の地域的展開にどうかかわってい
るのか、これらを課題とした。
論文を執筆するに当たり、新潟有機稲作研究会を対象としてインタビュー調査を行った。
新潟有機稲作研究会は、メンバー相互に圃場を観察し合い、アドバイスし合うことでお互
いの栽培技術の向上させることを目標として発足し、現在は新潟市内の農家20名程度で活
動している。圃場での試行錯誤の結果を研究会内で共有し、翌年の栽培に生かし、それを
継続していくことでより良い技術へと向上させている。個人の成功・失敗を仲間で共有す
ることで、自分一人では達成できなかった課題を仲間とともに解決していくことにつなが
るという。
新潟有機稲作研究会のメンバーはそれぞれ栽培技術・販路にこだわりを持ち、目標に向
かって努力するエネルギーをもつ農家が多い。このような個性的なメンバーを一つにまと
める働きをしているのが「誰もが挑戦できる栽培技術の確立」という共通目標の存在であ
る。これは、広義には文字通り「どのような人でも挑戦できる、安定した栽培技術」のこ
とを指している。しかし狭義では、「地域で農業を営む人が、地域の土地の性質を理解し、
土壌が本来有している資源をうまく活かした農業を実現する栽培技術」という意味合いも
含んでいる。後者のような農薬・化学肥料に頼らない土地に適した栽培技術を確立させ、
現実的に実現可能な栽培方法であることを自らの実践をもって周囲に示すことで、有機農
業の地域的な広まりの実現に近づくことができると考えられる。研究会は、こうした目標
に近づくための勉強に専念する場として機能している。
また、研究会での活動を通じて広がったつながりそれ自体に価値がある。日常的に仲間
との交流から刺激を得て、生業としての農業を営み続けるモチベーションを維持している。
こうした人と人との温かいつながりが、有機農業が地域に根付く種となっている。
- 18 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
高齢者雇用の現状と課題
―シルバー人材センターを対象として―
塚野
大輔
近年、日本は世界でも有数の少子高齢社会となっており、今後それはより深刻化すると
されている。高齢化の進展は、労働力不足につながることから日本の雇用システムに大き
な影響を与えつつある。高年齢者雇用安定法(2013改正)により「定年の廃止」や「定年
の引き上げ」、「継続雇用制度の導入」のいずれかの措置を講ずるように国は企業に義務
付けている。従業員の構成比も、高齢者層(55歳以上)が着実に高まり、もはや高齢者抜き
に企業は成り立たなくなってきている。よって、高齢者を単なる「社会的弱者」として捉
えるのではなく、社会を支える「アクティブ・エイジング(active aging)」の世代とし
て位置付ける発想が重要となると言える(前田信彦 2006:26)。そこで本稿では、公益社
団法人シルバー人材センターに着目し、来る超高齢社会に、どのような高齢者の雇用が有
効であるか検討した。
調査は新潟市・五泉市シルバー人材センターに登録している方々、計11名に対して、1
対1のインタビュー形式によって行った。今回の調査においてシルバーで働く動機につい
て尋ねところ、大きくは「生きがい」や「健康」のためという人がやはりこれまでの調査
の通り多く、11人中10人とほぼ全員であった。今までの日本においては、個人は企業に属
して労働するという前提があったが、最近では、継続雇用も増えてきたもののしだいに働
き方が多様化し始め、高齢期においてもたくさんの選択肢が存在している。その中の一つ
としてシルバーでの労働という選択があるのだが、国からの補助金がカットされるなどそ
の労働の価値はあまり評価されていないというのが現状である。しかしながら、実際のシ
ルバーで働く高齢者の声を聞く限り、個人にとってのライフコースにおいて非常に重要な
一労働形態であり、まさに「生きがい」としての労働なのである。ゆえに社会が多様化し
ている労働を受け入れ、積極的に肯定・評価していくことが求められる。
今後さらに高齢化していく社会の中で、シルバーがセーフティ・ネットとして機能し、
仕事をうまく分配できるようになることが望ましい。そのために、提案として、社会が多
様化している労働を受け入れ積極的に肯定・評価していくこと、高齢者の雇用の窓口を分
かりやすくまとめること、地方の格差に目を向けそれぞれ特色ある組織とすること、シル
バー人材センター自身が積極的に仕事を取りに動くことなどをあげる。それぞれ一朝一夕
に改善することは難しく、徐々に変革していかなければならないだろう。
- 19 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
絵本にみるジェンダーに関する考察
筑井
亜有美
近年、男女の平等や女性の社会進出に対する気運が高まっている。しかし、現状ではま
だ男女で差別なく働ける状況だとは言えないだろう。この要因の一つに、男女の性役割意
識があるが、これはさまざまなメディアの中で見受けられる。その中でも、絵本は教育的
役割が大きく、与え手である大人の性役割意識が反映されるメディアである。現代の絵本
では、男女の描かれ方にどのような違いが見られるのだろうか。一方で、本、テレビ、新
聞などのメディアの中では、女性が話す言葉に「~よ」「~わ」「~ね」などの特徴的な
言葉遣いが使用される。それらは女ことばや女性語と呼ばれるが、現実でそのような言葉
を話す女性はほとんど聞かない。なぜ、メディアの中では依然として女ことばが使用され
ているのだろうか。本稿では、絵本に見られる男女の性役割と、女ことばの使用状況につ
いて分析する。
先行研究をふまえて、『よい絵本 第27回』の中から、1980年以降に出版された絵本計
140冊を対象とし、①絵本の内容、②女ことばの使用状況という2つの側面から分析を行っ
た。絵本の内容については、登場人物の行動や職業を通して、男女の描かれ方の違いを年
代別に分析した。女ことばについては、年代別に女ことばの発話主や発話状況を見ていき、
どのような特徴があるか分析した。
分析の結果、絵本の内容については、年を経るごとに少しずつ変化が見られた。現代に
近づくにつれて、個性のある女の子や、広い世界を冒険する女の子が登場し、先行研究で
言及された性役割にとらわれない人物像が描かれるようになっている。女性の職業につい
ても、次第に多様な職業が見られるようになり、会社員や動物学者、トラック運転手など
が見られた。女ことばについては、現代の絵本でも依然として女ことばが使用されている
ことが明らかになった。一方で、女ことばを使用する人物に着目すると変化が認められた。
具体的には、2000年代に入ったころから、大人の女性には女ことばが使用されるが、子ど
もである女の子には使用されないという絵本が増えたことである。女ことばに対して、
「大
人の女性」というイメージが形成されてきたことが伺える。
絵本の中で、性役割にとらわれない人物像は増えてきており、これからもこの傾向が続
くとよいと思われる。しかし、家事など家庭内の仕事では、性別役割分業が見られるなど、
課題も多いと感じられた。また、女ことばについてはいまだに多用されており、とくに現
実に近い状況を描く物語では、より自然な言葉遣いにしていくべきではないかと思われる。
- 20 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
佐渡市長木地区におけるコミュニティの再構築
―八幡若宮神社大祭を事例として―
永山
愛理
2004(平成16)年4月3日、佐渡市佐和田(当時は佐渡郡佐和田町)の長木地区にて、2度も途
絶えていた長木八幡若宮神社大祭が14年ぶりに復活した。長木地区は、国道350号線沿い
であり佐渡市役所にも近いという利便性から、平成に入ってから転入者が増加しており、
現在旧住民と新住民がほぼ同じ割合で居住している。今回の祭りは3度目の復活であり、
長木地区に生まれ、幼少期より祭に親しんできた旧住民と、当時5年から10年ほど前に長
木地区に移り住んできた新住民たちとの手によって実現したものである。本稿では、新住
民と旧住民との間で、コミュニティ形成のための信頼関係をどのように構築できるのかと
いう点において、伝統的祭りの復活に焦点を当てて調査をおこなった。
長木地区に在住の新住民3名、旧住民3名へのインタビュー調査をおこなった結果、現在
の祭りは神社の氏子から切り離したことで、中断以前と運営主体や鬼太鼓の踊り手の対象
が変わっていることがわかった。運営主体である「長木鬼太鼓保存会」には新旧住民が数
名ずつ所属しており、踊り手は、以前は氏子である青年のみであったが、現在は小学生を
主体とし、女の子も積極的に参加している。現在、小学生の子どもをもつ家庭は新住民が
半数以上を占めているため、踊り手も新住民の家庭の子どもが多い。復活した当初は氏子
ではない者や女の子が祭りに参加することをよく思わない旧住民もいたようだが、今では
そのような態度を示す住民もほとんどいなくなった。
先行研究で挙げた事例ではおおむね旧住民が新住民を受け入れる形での催行だったが、
長木地区の祭りは新旧住民による対等な関係を保ちながら祭りを復活させてきたことが明
らかになった。これには1992年頃に長木地区に住む50~70代の旧住民によって結成された
「十の会」、2001年に30代~40代の新住民を中心に結成された「21会」の協働が、祭りの
復活に大きな影響を与えたと考えられる。21会のメンバーは、自身の地元での経験がある
ため、長木地区で活かせるようなアイデアを多く持っていた。十の会でも、過去2回祭り
を中断した経験から、祭りをあらためて継続する方法を考えていた。「地元に祭りが無い
のは寂しい」「長木の祭りを復活させたい」という共感があったことで、どちらのグルー
プも互いに歩み寄ることができたのではないだろうか。祭りの復活で形成された新旧住民
のつながりは、その後の地域づくりにも大いに生かされており、今後さらなる活発化が期
待される。
- 21 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
集落再生にむけたつながりの構築
本間
朋美
1960年代以降都市部への人口流出による過疎化が見られた農山村では、1990年代から少
子化と高齢化の二つの波による人口減少が深刻化している。この現象は日本全国で進行し
ているが、特に農山村地域ではその地域の存続にかかわる重要な課題となっている。大野
晃により、「限界集落」という言葉も提唱され、農山村小規模地域に対する研究も進んで
いる。しかしこれまでの研究は、「限界集落」が地域活性化へ至るにあたり、どのように
合意されているかという点が、必ずしも明らかにされてこなかった。そこで、本研究は、
地域づくり導入期において発生している住民同士の意識の相違が、どのような働きによっ
て解消され合意に至っているのか、その中で地域の誇りをどのように獲得して再生が可能
となるのか明らかにすることを課題とした。
新潟県南魚沼市辻又集落を対象とし、住民、集落に関わりのある NPO、学生に聞き取
り調査をおこなった。調査結果からは、「誇りの空洞化」→「危機意識の衰退」→「覚悟」
という意識の変化があることがわかった。集落の担い手問題において、「自分の生活が第
一」「現状維持で精いっぱい」と話す住民もおり、現状維持と負担過多の2点から、集落
を維持・再生させていくことへ目が向きにくくなるという現象が起きていた。また一方で
は、外部者の存在が集落の再生に変化を起こす契機となる可能性が示された。危機意識が
衰退した中で、住民以外に集落に関わる存在が生まれることは、住民が集落へ目を向ける
ことへつながっている。
合意形成に関しては、住民同士の、「この人はこういう人だから」というような決めつ
けが排除された場を設けることが、住民の意識の相違を解消させることにつながると考え
られる。小規模集落では、住民同士、これまで同じ集落で生活してきた経験から、互いの
人物像に詳しい。しかし集落再生においては、そういった先入観がかえって妨げとなり、
自分の意思を詳細に話すことや相手の意思を聞きとることが難しくなっているのである。
全戸が集まる場を作るだけではなく、担い手である若手が一対一で熟議する場を設けるこ
とが、合意形成を図る上で有意義なのではないだろうか。
高齢者の中でも同様に、決めつけが存在し交流の妨げになっている。交流は合意形成に
直接結びつかないにしろ、交流の場に「参加」していること自体が、住民にとっては集落
の元気さの指標となっている。合意する上でも、集落でどの程度まで自分たちでおこなえ
るのかを検討する基準となりうるのではないだろうか。
このことは、高齢者全体の交流を促進することがいかに重要であるかということを示し
ている。
- 22 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
外国籍住民による地域活動への積極的参加とその要因
宮本
恭子
平成25年度末現在における中長期在留者数は前年末に比べ、3万2789人増加した。平成24年
末までは過去5年にわたり減少していたことを鑑みると、今回の増加は大変注目すべき結果で
ある。また、東日本大震災の復興の本格化や2020年東京五輪などに向けた建設事業増加が見込
まれるなか、外国人労働者の受け入れ増加に関する議論が活発になっている。
現在、行政による国際交流イベントが定期的に行われているものの、それらの多くが日本人
に向けて発信された情報やイベントである。多文化共生社会の実現には、住民同士が互いに個
人を尊重する姿勢が重要であるが、日本の多くの国民は多文化共生とは行政が進める政策であ
るというイメージを持っている。鐘ヶ江晴彦(2001)は、行政が受け入れ態勢を作ることには
前向きであるが、実際に関わることは避けたいという意見が多いことを指摘する。さらに、国
際交流イベントの多くは、リリアン・テルミ・ハタノ(1989)が指摘するように、その場限りの
国際交流であるという問題を抱えている。
本稿は新潟県新潟市北区を調査対象とし、外国籍住民が地域活動に参加する要因を探った。
調査を行った外国籍住民4名が地域参加の要因について、「地域の役に立ちたいから」と考え
ていることが分かった。しかし、区のシステムや日本人住民の意識が多文化共生に対して適応
していないということが明らかになった。
また、エスニック・コミュニティとコミュニティリーダーの重要性が本調査により明らかに
なった。エスニック・コミュニティの存在は、外国籍住民にとって自分の生まれ持ったアイデ
ンティティの拠り所であるだけでなく、情報伝達・情報交換の場としての働きも持つ。これは、
日本人とコミュニケーションを取ることができない外国籍住民が災害・交流活動・仕事といっ
たあらゆる情報を得ることを可能にする。そして、エスニック・コミュニティがこのような機
能を持つためには日本人と交流をはかれる人物の存在が必須である。本稿では、そのような人
物をコミュニティリーダーと位置づけた。
新潟市北区は、イスラム教徒のエスニック・コミュニティが存在している点やコミュニティ
リーダーがいる点は大変興味深い。コミュニティリーダーの存在を中心として、より多くの外
国籍住民が地域活動に参加することが多文化共生社会への展望を切り開くだろう。
- 23 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
地産地消と地域活性化
森山
寛彬
食品偽装問題や産地偽装問題など食物に関する問題が大きくなるにつれて、地産地消活
動は広がっていった。地産地消活動は顔が見えて、直接コミュニケーションが可能な範囲
の関係性で行っていくことが重要である。この組織は新たに作るものではなく、水利慣行、
結いや手間替えの労働慣行、集落話し合いによる減反・転作の生産調整、おすそ分け等、
今までの日本の農村集落の地縁的共同体組織を使って、コミュニティを形成していくべき
だと思われる。しかし、現在、地産地消を行っている地域は、地域コミュニティが存在す
る小さな村でなく、市や県など大きな自治体であるケースが多い。このようなコミュニテ
ィを形成する上でネットワーク新たに作っていかなければならないと考える。村上市では
行政を中心に地産地消活動を進めている。そこで、行政と岩船地域にネットワークを持つ
NPO がどのようなネットワークを作っているのかを課題として研究を行った。
村上市には地産地消活動を進めていく3つの行政組織が行動している。村上地産地消推
進協議会は様々な機関との「協働」を重視しており、新潟県村上地域振興局・村上市役所
と行政主導でイベントを行っている。この3つ組織は地域の生産者・実需者・民間を引っ
張っていく役割が求められている。情報交換など頻繁に行い、まずは行政間で団結する必
要がある。そして生産者・実需者が話しやすい場を多く設けていくことが必要である。地
産地消活動の話し合いなど多く開催することにより、イベントに参加している農家・飲食
店など、自分の意見を述べたり聞く機会が多くなっている。その中で生産者・実需者は新
たなネットワークを作っていくことができる。
そして、NPO である都岐沙羅パートナーズセンターは人と人を「つなぎ合わせる」と
いうことを中心に行っている。都岐沙羅パートナーズセンターは多くの飲食店・農家など
と大きなネットワークを持っている。それらのネットワークを使い、様々な人々に声をか
けていくことが重要になる。様々な人と交流する中で新たなネットワーク作りをし、地産
地消活動に関する結びつきだけでなく、他のイベントでも岩船地域全体で結びつきを強く
することが地域住民にとって望まれる。
- 24 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
中山間地域における地域活性化
矢澤
卓実
近年日本を悩ませる課題のひとつに過疎問題が挙げられる。この問題は我々にはそれ自
体としての表象が掴みづらいとはいえ確実に進行している。過疎は我々から遠く離れた地
方の農村でのみ深刻化しているものと思われがちである。政府発信の日本創生会議は2014
年5月、全国896の自治体が若年女性の流出による人口減少によって消滅する可能性がある
『消滅可能性都市』なるものを発表した。過疎は決して遠い地方の話として語ることはで
きない。
この過疎問題の急先鋒に立たされているのはとりわけ中山間地域と呼ばれる、平地の周
辺部から山間地に至るまとまった農耕地が確保しにくい地域である。これらの地域は主要
産業の林業や製炭業が衰退し、都市部への人口流出も相まって高齢化が急激に進行した結
果、近い将来消滅するであろう「限界集落」化が進んでいる。こういった集落の現状と展
望を行政・団体・個人の各視点から捉えてみることで限界集落としてこれからどのような
取り組みがなされるべきなのか、本稿における調査対象地である長野県阿南町和合地区に
おける調査を以て過疎に直面している山村の可能性を考えることを課題とする。
和合地区における調査の結果、主体性を持った活動は住民、団体、行政がそれぞれの能
力を生かしつつ提携して行われており、確かに堅実な結果を残しつつある。しかし、その
完遂には地域住人の地域振興に対する意思が必要不可欠であり、調査地においてその意思
は住人間、世代間で差が生まれていることが明らかになった。集落の消滅という結果を否
定的に捉え、地域振興によって回避しようとする考え方と、ある種自然の摂理として消滅
を肯定的に捉える考え方とが小さな集落の中に様々な濃度で存在していた。人口千人に満
たないこの小さな地区の中にあっても住民の考え方は非常に多岐にわたっている。これら
を自治体区分という大きな視点から捉えることは困難であるだろう。ましてや上手くまと
めあげ、地域住民が納得する形で導いていくことは至難の業だ。現場の実情を最も理解し
考慮できるのは他ならぬ地域住民その人である。彼らの意思なくしてその地域の未来を見
据えることはあってはならない。
地域再生の今後の中心はこの地域住民であるべきであるが、そのなかには大抵大小の相
違というのは存在している。そこから生まれる不要な諍いを失くし住民主導の地域再生を
実現するためにも彼らの意思を正確に反映できるような組織を作る取り組みが必要になっ
てくるのではないだろうか。
- 25 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
育児期における父親のワーク・ライフ・バランス実現の条件と課題
八幡
春菜
少子化、女性の社会進出、共働き家庭の増加などにより、性別役割分業意識は薄れてき
ており、男性の家事・育児参加が求められるようになってきている。父親の育児参加を自
治体や国が推し進める動きも増えてきており、父親の意識や行動も変わってきているよう
に思われる。本論文では、育児に関わっている父親のワーク・ライフ・バランス実現状況
や悩み・葛藤を調査し、父親がワーク・ライフ・バランスを実現していくための条件や課
題について考察した。
新潟県内に住む、育児に積極的に関わる父親7人にインタビュー調査を行った。対象者
のほとんどは、育児に関わるために仕事量を減らしたりするのではなく、時間の調整や効
率化をするなどして工夫していた。仕事の量を減らすことなく育児にも積極的に参加する
ことで、自分の時間がほとんど無い、あるいは時間が足りないという葛藤を持つ人が多か
った。一方、労働環境が良くないために育児に参加できないというような葛藤を持つ人は
いなかった。ただ、支援的な職場環境であっても、実際に育児休暇をとったり、仕事を頼
んだり、子どものために休んだりということを言い出すのは罪悪感や現実的な問題で難し
いようだった。そのため、育児休暇を取りたくても現実的に取れない、妻の希望に応えら
れないといった葛藤があるという。
以上のような葛藤や悩みを、父親たちは誰に相談するのだろうか。困った時に助けを求
める相手としては、両親など親族を挙げた人が多かった。悩みの相談相手としては、親族、
パパサークルのパパ友、趣味仲間、保育士などが挙げられた。職場の同僚や上司を挙げる
人は少なかった。
これからの支援の課題については、父親が交流できる場をより増やしていくこと、多様
性を尊重することが望まれる。父親が実際に仕事と育児を両立する行動を起こすためには、
本人の意欲や支援的な職場環境以外に、周りに実際に同じ体験をしている人がいることが
大きいということが調査からわかった。もともと相談相手がいたり、情報交換できる相手
を自分で増やしていける人ももちろんいるが、そうではない父親もいる。そのため、父親
が気軽に参加し、交流できる場がより増えることが望ましい。多様性については、それぞ
れの夫婦が話し合い、納得して決めたことは尊重し、1つの形を押し付けることにならな
いような配慮が必要である。
最後に、職場で育児について相談すると話した人はほとんどいなかったが、それがこれ
からはできるようになることが望ましい。社員同士であれば助け合う、管理職であれば社
員の事情を把握してその人に合った働き方をさせるといったことが進んでいくと、父親た
ちがワーク・ライフ・バランスを実現しやすくなっていくだろう。
- 26 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
佐渡出郷者の郷友会活動
渡邉
佑
本論文では、首都圏佐渡連合会と佐渡青年会の郷友会活動の事例を取り上げ、佐渡出郷
者間で見られる若者を中心とした新たな郷友会活動の動きについて調査を行い実態を把握
した。
従来の佐渡出郷者達による郷友会活動は、佐渡の旧市町村単位で存在する郷土会を中心
として行われてきたが、2000年の佐渡市町村合併をきっかけに、全島的立場に立って郷友
会活動を展開するために首都圏佐渡連合会が誕生した。連合会・郷土会においては食や趣
味に関する活動から、佐渡の地域振興に多面的に取り組む組織活動まで、幅広い活動の様
子が見受けられる。それらの佐渡出郷者による郷友会活動にも高齢化が進行し、組織の大
半が退職後の人々で組織され、活動の継承に課題を抱えている。その中で、佐渡で生まれ
育った若者を中心として佐渡青年会が設立し、佐渡出郷者による郷友会活動には新たな展
開が見られる。
佐渡青年会は2014年3月に発足した歴史の浅い組織である。親睦会と物産展販売協力を
初年度の活動の主軸として掲げている。都内で開催された第1回佐渡青年会集会では20代
から30代の若者を中心として85名が集まる盛り上がりを見せた。彼らは、佐渡出郷者間の
ネットワークを充実させ、世代を超えた交流を通じて若者の自己実現に繋がるきっかけ作
りを目的として組織された。
佐渡青年会が新たな郷友会活動を展開することで、首都圏佐渡連合会など、既存の佐渡
出郷者による郷友会活動にも変化が見られる。首都圏佐渡連合会は産業振興フォーラムに
おいて佐渡青年会に参加を呼びかけ、2014年度は5名が佐渡青年会から参加した。
しかし、未だ設立から1年未満ということもあり、目立った結果を残していないのが事
実である。佐渡青年会の活動を若者の自己実現や佐渡の地域振興に繋げることができるか
は、今後の取り組み次第だとはいえ、佐渡青年会活動は首都圏佐渡連合会や郷土会の活動
にも影響を与えていくことが考えられる。佐渡青年会の代表を務める本間涼さんは同郷者
同士の“繋がり”について話していたが、佐渡青年会が郷友会活動により生まれる結果は、
決して人的ネットワークに限ったものではない。今後佐渡青年会の活動が人的ネットワー
クや従来の郷友会活動等、多面的に新たな変化をもたらす可能性を持っている。
- 27 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
子どもたちに選別される遊び
太田
知樹
今日、子どもたちの遊びは多種多様なものになっており、膨大な選択肢が生まれている。
その中で子どもたちは自分の欲求に従い、楽しめないものは容赦なく切り捨ててゆく。将
棋においては、ゲーム機やインターネットなどを介した、機械化した将棋への移行があり、
本来の将棋は淘汰されつつある。本論文は、子どもたちが遊びに求める要素、将棋がもつ
性質を合わせて考察することで、実際の盤と駒を用いた将棋が子どもたちに遊びとして選
択されない原因を探るものである。
本論文を進めるにあたり、日本将棋連盟天童支部会長である、大泉義美さんにインタビュ
ーを行った。それと合わせて、天童支部での主な活動である、子ども将棋教室と出前将棋
の様子を観察した。将棋は頭脳を使ったゲームであり、知力の向上など、学習の面でのメ
リットがある。また、将棋を指すことが、挨拶や礼儀など、社会で生きるための力を養う
ことにつながる。このような、将棋が子どもたちの教育の面で役立つことへの期待が大人
たちのなかにある。しかし、大人たちから将棋に付与される、教養、文化といった属性が、
将棋を遊びから遠ざけているということもできる。それは子どもたちが遊びとして将棋を
選択することにおいては、ネガティブなイメージとなる。
また、本来の将棋のもつ形式がそのようなイメージの一つをつくり上げている。子ども
たちは生身のコミュニケーションより機械を通したコミュニケーションを好むようになっ
てきているといわれており、そのような変化は遊びにも影響を与えていると考えられる。
生身の人間同士による対局は一対一の対話であり、周囲の雑音などと同様、その生身の対
話自体が対局への没入の妨げとなる。それにより、対局への注意集中が失われ、子どもた
ちはその中に楽しみを感じることが難しくなる。遊びは本来自由なものだが、子どもたち
の変化に伴って、本来の将棋の対局に関しては不自由が生まれているといえる。
大泉さんは将棋が人々に注目されにくいことを、暗いイメージを帯びていると表現して
いる。子どもたちに関しては、将棋の選択を阻害するネガティブなイメージが暗いイメー
ジに当たるものといえる。将棋に付与されている教養、文化などといった属性、そして実
際の盤と駒を使った対局がもつ形式による不自由が子どもたちに暗いイメージを与えてい
る。子どもたちに文化、教養として将棋に関心を持ってもらう機会は少しずつ増えてきて
おり、決して将棋そのものの認知が広まっていないわけではない。しかし、これから先、
単に歴史の深い文化物としてではなく、人々のなかで実際に将棋が指され、生き続けるた
めには、いまの子どもたちに本来の将棋がもつ楽しさをいかにして伝え、受け入れられる
かが課題となる。
- 28 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
手染めの実践が生み出すもの
―斎藤染工場を事例として―
仲川
奈苗
あらゆるものが大規模な工場で大量生産されるようになった現代において、手加工によ
る染物屋の仕事は減少し、染物業界は縮小してきた。技術革新と激化する価格競争のなか
で手染めの社会的評価は不安定なものとなっている。本論文では山形県酒田市の斎藤染工
場を事例として取り上げ、このように手染めの評価が揺らいでいる現状において、それを
生業とする職人が自らの仕事に対してどのように意味づけを行うのかを考察した。
斎藤染工場は斎藤さん夫婦ふたりで手染めの製品を製造・販売する染工場である。斎藤
染工場における実践のなかでは、
「ぬくもり」というキーワードが繰り返し使用されており、
それを実現するための努力や姿勢が実践のなかにおいて数多く見受けられた。日々の手染
めの作業においては、生地の裏まで色を通すことや、顔料を使ったものと比較したときの
染物のやわらかい仕上がりといったこだわりを実現するため、作業の要所要所で数々の工
夫が行われている。それ以外の活動でも、斎藤さんは人との相対したふれあいを重視し、
そこに「ぬくもり」を見出して仕事を行っている。また一方で、
「ぬくもり」は夫婦 2 人と
いう現在の規模のまま手作業で仕事をしている現状を、斎藤さん自身が納得するための言
葉としても用いられていた。
仕事への意味づけに焦点をあてるにあたって、斎藤さんが行う実践の現実に則した考察
を行うため、本論文では松田素二[1989]の主張する「生活の便宜」という概念を採用した。
生活の便宜によって生活者は他者を説得し自分も納得できるような言説を、潜在的に存在
する他のいくつかの言説のなかから恣意的に選択し、主張する。斎藤さんの「ぬくもり」
という言葉はこの生活の便宜によって選択されたイディオムであると考えられる。
斎藤さんが日々行う作業から積み重ねられた商品に対する愛着、実際に感じられる生地
のやわらかさ、手作業にかかるコストを社会に向けてうまく説明する言葉、そういった事
柄を総合する看板として、「ぬくもり」が据えられている。「ぬくもり」という言葉は、顧
客やより広い社会に対して手染めの仕事を認めさせ、同時に斎藤さんが自らの仕事を自分
自身に納得させるようなイディオムとして用いられている。手染めの社会的評価が不安定
化した問題状況に対して、斎藤さんは日々の作業や営業活動などの実践をとおして培われ
た生活知によって「ぬくもり」というイディオムを選んだ。そしてこのイディオムとして
の「ぬくもり」が、斎藤さんがつくりあげてきた仕事への意味づけにもなっているのであ
る。
〈参考文献〉
松田
素二
1989 「必然から便宜へ――生活環境主義の認識論」鳥越晧之(編)
『環境問
題の社会理論』pp.93-132、御茶の水書房。
- 29 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
地場産業としての捕鯨
平石
航太
本稿は、日本における捕鯨産業の現状と課題、今後の展望等について考察するものであ
る。
日本では、古くから各地で捕鯨が行われてきた。それぞれの地域で、捕獲の対象となる
鯨種や漁法、食べ方などが異なっていた。しかし、1987 年に、クジラ資源の管理を行う IWC
によって商業目的の捕鯨が一切禁じられた。さらには、近年日本政府が行う調査捕鯨が、
欧米諸国や動物愛護を訴える NGO などから非難を浴びることがある。
こうした状況のなか、IWC によって商業目的の捕鯨の禁止という決定がなされた 1987 年
前後に、捕鯨産業について国内各地で人類学的調査が行われている。その他、日本におけ
る捕鯨産業の歴史について取り上げた先行研究や、海外の捕鯨産業と日本の捕鯨産業を比
較検討した研究は多くあるものの、日本の捕鯨産業の近年の状況は見えてこない。そのた
め、本研究では、現在でも IWC の規制管轄外の鯨種を対象に捕鯨を続けている国内 5 都市
のなかから、千葉県南房総市を事例として取り上げ、捕鯨産業を取り巻く環境や捕鯨産業
が抱える課題や今後について明らかにすべく、外房捕鯨株式会社社長の庄司さんに聞き取
り調査を行った。調査の中で、日本で行われている捕鯨産業は、海外からの批判や IWC に
よる規制のほかにも、捕鯨技術の後継者不足や地域の高齢化等、さまざまな課題が山積し
ていることが分かった。庄司さんは、地域に鯨肉を供給するという本来の仕事のほかに、
地域の小中学校の社会科見学を受け入れたり、学校給食に鯨肉を供給したりする取り組み
を 15 年ほど続けている。このような取り組みから、近年盛り上がる「地産地消」活動によ
る地域からの需要の創造、地域の産業に関する知識の継承に努めている。
庄司さんは、
「この地で行っている捕鯨は、あくまで経済活動である」ということを繰り
返しおっしゃっていた。人類学的研究においては、日本の捕鯨産業には歴史的な連続性が
あることや、信仰や儀礼、贈答など、地域の生活に深く根ざしていることから、日本で行
われている捕鯨産業は文化的に価値の高いものであるという主張がなされることが多い。
実際に、IWC の商業捕鯨の禁止という決定が、捕鯨が行われている地域の人々の生活に落
とした影は非常に大きい。しかし、庄司さんがおっしゃっていたように、現代の日本にお
いては、貨幣経済の下で、市場からの鯨肉の需要に応え、捕鯨会社が利益を上げなければ、
捕鯨産業の存続はあり得ない。もちろん、反捕鯨活動を行う NGO やクジラの資源管理を行
う国際機関の動向も注視し続ける必要があるが、これらの問題は解決までに非常に長い時
間を要するものと思われる。したがって、高齢化が進むなかで、いかに地域から固定的な
需要を創出するか、今後の捕鯨産業を担う人材をいかにして確保するかといった点をはじ
め、より身近な観点から捕鯨産業が抱える喫緊の課題をとらえ直す必要がある。
- 30 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
公営非継承墓の可能性
―新潟市営樹木葬墓園設立運動を事例として―
岩下
智美
「新潟市にも樹木葬墓園を造ろう会」
(以下、
「造ろう会」)では新潟市営樹木葬墓園設立
を目指し、活動を展開している。
「造ろう会」代表の中村トモ子さんは、公営樹木葬墓園の
必要性について 7 年前から新潟市に訴えてきた。本論文では公営樹木葬墓園がどのような
人々に求められているのか、なぜ樹木葬墓園設立に対し周辺住民は反対したのか、新潟市
営樹木葬墓園設立運動を例として公営樹木葬墓園の必要性と課題を明らかにした。
中村さんへのインタビューから、子どもがいない人、子どもがいても面倒をかけたくな
い人、夫の墓に入りたくない女性、寺との関わりを望んでいない人、戒名は要らないが「死
後の安心」を望む人に公営樹木葬墓園は求められていることが分かった。
子どもがいない人は「死者を記憶する」墓の機能をそもそも必要としておらず、血縁に
よらない仲間との接点、そして死後も変わらない縁の延長として樹木葬に期待をしている。
一方、子どもがいる人にとっては、先祖祭祀が未だ親密な死者への追憶行為として定着し
ているからこそ、親から子に対する慈しみによって、子どもの負担が少ない樹木葬が期待
されている。
また、果てしなく続く寺との結びつきに疑問を抱く人々にとっても非継承墓は受け皿と
して機能していくだろう。無縁墓の増加や檀家の減少、経営難に伴い、従来型の墓だけで
なく宗派や戒名の有無を問わない非継承墓を設立する寺も増えてきている。
公営樹木葬墓園には以上のような可能性や期待がある反面、従来型墓地需要の高さや周
辺住民の反対という課題も露呈した。
従来型の墓は今なお多くの人々に求められている。しかし、従来型の墓には墓の無縁化
問題がつきまとう。従来型墓地の需要、現在新潟市内の公営墓地がすべて満杯であること、
さらに現存する公営墓地では増設が不可能であることを踏まえ、解決策として公営従来型
墓地の有期限化を提案する。
2009 年「造ろう会」の陳情は実り樹木葬墓園設立予定地が決定したが、墓地の隣には住
みたくない、墓地の近くでは所有する土地の資産価値が落ちるという周辺住民の反対によ
り、計画は白紙となってしまった。いくら墓園設立に反対とはいえ、いつかは自らもお墓
を利用するときが必ずやってくる。こんな墓園に眠りたいと生前から思えるような、樹木
葬という葬法を活かした樹木や草花があふれる墓園づくりを目指し、生活空間に溶け込ん
だ公園のような墓園として周辺住民との共存を図っていく必要がある。
- 31 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
日本庭園を取り巻く人々
-文化資源としての個人邸宅における日本庭園—
道澤
航太
日本庭園は現在に至るまで姿かたちは多少の変化はあるが作り続けられている。庭を作
る際には庭師以外にも実に様々な人が関わっている。近年では庭師をはじめ職人の数は減
少しつつあるが、庭を作成•維持するためには庭に関わる職人は必要不可欠である。それら
庭に関わる人々を見ていくことで、個人邸宅における日本庭園のより詳しい現状を知るこ
とができると考えられる。また日本庭園を文化資源として見る場合、それはいかにして文
化資源となるのだろうか。本論文では日本庭園の中でも個人邸宅における現状についてそ
れに関わる人々の語りを通して明らかにしていく。また日本庭園を文化資源としてみると
いう試みを資源人類学の立場で行うことで、日本庭園の新たな可能性を検討していく。
福島県郡山市内で庭師、庭園所有者、その他庭園に関わる人々(計 7)に対し聞き取り調
査を行った結果、個人邸宅の日本庭園を介することで生まれる多くの人との関わりやその
発生過程における時代背景の特殊性、日本庭園が与える影響の多様性、保存•存続の問題、
庭としての価値の高さなどこれまでの調査では語られることのなかった新たな側面を示す
ことができた。その中でも特に庭の減少については近年より進行していることが多くの方
の証言からより鮮明になった。その原因として庭師を含め植木職人の減少や、経済的な理
由が主に考えられる。また所有者にとっても次の世代への受継ぎについて考えているとい
うわけでは無く、今後さらに減少が進むと考えられる。
資源としての庭に関して元々は観光資源、歴史的な知識資源という見方がほとんどであ
ったが、今回の調査でより個人的な人の繋がりを見ることのできる個人邸宅の庭を例にし
て資源化について考察をした。庭は庭師によって作られ初めて資源となる。そして個人邸
宅の日本庭園は高度経済成長期といういわば一定の歴史的な条件下のもとで生まれたもの
であると考えられる。資源の循環過程の区別からするとそれは、そのような時代の中で資
源となったものとしてみることができるのではないだろうか。資源の循環過程からすると
その後は資源では無くなるとされているが、それはまだ完全に起こってはいないと思う。
しかし跡継ぎの問題などを考えると、資源として成り立たなくなる時が来ることは十分に
考えられるであろう。
- 32 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
新潟市近郊における公共交通体系の転換
阿部
雅之
本稿では新潟交通電車線(以下電車線)を事例に取り上げた。電車線は全線開業から廃
止に至るまで大規模なルート変更などは行われなかったため、鉄道の存廃を成立からの過
程と関連させて考察することを目的とした。また電車線と同時期に存廃が議論された路線
においても、存続を決めている事例が存在しているように、全国的な展開であるモータリ
ゼーションという視点のみでは鉄道の存廃を説明することには限界がある。そこには地域
的な展開がみられたと考えられることからも、電車線の成立から廃止までの経緯を、地域
社会的な背景や、他の交通機関との関連とあわせて整理することも目的とした。
新潟交通社史や沿線市町村史などから鉄道の成立過程を調査し、地域に鉄道が必要とさ
れた要因として(1)現在の信越線、越後線のルートからはずれた白根郷では、鉄道によ
る交通の近代化が達成されていなかったことに加え、中ノ口川の蒸気船による河川交通を
代替する交通手段の確保が急務であったことが、鉄道建設の機運を高めることとなった。
(2)中ノ口電鉄の発起人代表が電力会社の取締役であり、電力の供給先ともなる電気鉄
道の建設が、鉄道を求める地域の要望と合致した。またその発起人代表が元新潟県の土木
部長であったことや、庄内電鉄の設立実績があったことで、鉄道に関して精通していたこ
とも建設を積極的に進めることに影響した、という点が明らかになった。また、河川交通
の代替という機能に加え、できる限り建設費を削減する目的があったという路線の成立背
景が、中ノ口川の堤防に沿うというルートや線形の決定をもたらしたと考えられる。
高度成長期には自家用車が急激に一般社会に普及したことに加え、1964年開催の新潟国
体にむけて道路環境が整備されたことで、電車線沿線地域における自動車交通の利便性は
さらに高まり、このころが交通体系の転換期となったと考えられる。また1978年には北陸
自動車道が開通し、自動車交通の高速化が達成されたことや、新潟交通などによる高速バ
ス路線が運行を開始したことは、さらなる交通体系の変化をもたらした。このように道路
環境やバス交通が変化する一方で、電車線については根本的な設備改善等はおこなわれず、
1964年をピークとして利用者は減少傾向に転じている。
このルートや線形の問題は廃止に至るまでの過程に大きく影響した。成立当時から新潟
市側のターミナルは中心部からやや離れた場所に位置していたが、自動車交通量の増加に
伴って併用軌道区間が廃止されたことで、中心部へ向かうにはバスへの乗り換えが強いら
れることとなった。また曲線が多い線形は電車の高速化を妨げることにもつながっていた。
以上のように、さまざまな要因による地域的な展開を経て、電車線は他の交通機関によっ
て代替されることとなったと考えられる。
- 33 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
産業構造からみる市町村合併に至るまでの道程とその後の展開
-福島県いわき市を事例に-
岩渕
太一
平成の大合併が収束して久しいが、都市同士の合併や一つの経済圏を統括してしまうよ
うな広範な合併を施行した各自治体が今後どのような動向をみせるか未だ不透明な部分が
ある。特にその地域の産業構造が合併後どのように変化してゆくかを考察することは、自
治体の将来設計の根幹となるところだと思う。平成の大合併の功罪を議論するにはもうし
ばらく時間が必要と考えられるが、昭和期に広範な合併を経験した自治体の動向を調査す
ることはこの議論の足掛かりとなるであろう。
本稿では約半世紀前に広域合併を果たした福島県いわき市を事例地として、いわき地方
全体の産業構造が合併によってどのように変化していったのか明らかにした。いわき市の
合併には産炭地疲弊からの脱却、新産業都市指定に伴う工業化という具体的で特徴的な背
景があるが、これらを主軸にいわき市の行政史を整理したうえで、合併に加わった各旧市
町村の区域ごとに産業構造の推移を調べ、調査結果をまとめた図や表から考察を行った。
産業構造の動向を把握する視点としては国勢調査及び工業統計調査を一次資料としたいわ
き市統計書から、就業者数・従業者数・製造品出荷額等の3点を抽出した。就業者数・従
業者数を選んだ理由はどの産業でも共通して存在する人口という要素が比較において扱い
やすいと考えたため、製造品出荷額等を選んだ理由は製造業が最も経済規模の大きい産業
で、経済的な面で比較をする上でふさわしいと考えたためである。
その結果、大きく3点のことが分かった。まず、いわき地方では人口が漸増している都
市的な地域で第3次産業の需要が高く、合併以降あまり人口に変化のない都市辺縁部から
労働力を吸収し消費しているという点。次に、都市辺縁部は都市的な地域に労働力を供給
する一方で、大規模な内陸型工業団地を抱える地区では都市的な地域から労働力を吸引す
る逆のベクトルも確認されたという点。最後に、都市的な地域と都市辺縁部が労働力の交
換を行っている中、中山間地域では主だった産業が育成されないまま人口が漸減し地区と
しての存続が危ぶまれているという点である。都市的な地域と都市辺縁部の産業は合併後
概ね発展したとみることができるが、中山間地域が放置され廃れてしまっていることにつ
いては平成の大合併によって生まれた自治体も将来十分に在り得る問題として対策をよく
考えなければならないように思う。
- 34 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
亀ヶ岡文化を象徴する土偶の波及の様相
門脇
夏子
遮光器土偶は縄文時代晩期を象徴する遺物である。主に東北地方でその分布が確認され
ている。遮光器系土偶及びそれを模倣した遮光器系土偶は、亀ヶ岡文化圏外でも出土して
おり、神戸市の篠原 B 遺跡が最西である。しかし北海道には本州ほどの広がりがみられな
い。また、亀ヶ岡式土器は九州地方にまで広がりを見せる。亀ヶ岡文化は地理的にはかな
り広い範囲まで伝わっていたことがわかっているわけだが、その波及の様相については明
らかでない部分も多い。遮光器土偶が亀ヶ岡文化圏外へ受容されていく様相をつかむため
には、亀ヶ岡文化圏の日本海側の南端であり、外郭圏でもある新潟県域は地域設定として
適切であるように思われる。また、新潟県域では晩期土偶の出土数は多くないが、昨年阿
賀野市石船戸遺跡出土の遮光器土偶の資料も加わり、晩期土偶について分類・変遷を整理
する良い機会であるとも思った。本稿は新潟県域での亀ヶ岡文化の土偶を検証することで、
亀ヶ岡文化の受容の様相についてその一端を明らかにすることを課題とする。
新潟県域で出土した晩期の亀ヶ岡系の土偶を時期・形態により分類した。大洞 BC~A´
式期までの土偶が出土しているが、大洞 C1式に比定されるものは確認されていない。新
潟県では北部から南部までの広い地域で亀ヶ岡土偶が出土しており、出土数自体少ないこ
ともあり地域的な分布の偏りはあまりみられない。新潟県北部の村上市元屋敷遺跡や新発
田市村尻遺跡などは亀ヶ岡文化の圏内に含まれるとされ、大洞 BC 式期のものと大洞 A~
A´期のものが出土していることから、晩期の前葉から末葉に至るまで信仰形態において亀
ヶ岡文化の強い影響下にあった可能性が指摘できる。新潟県の北部地域は位置的にも東北
地方南部と近く、東北地方との強い関連がうかがえる地域である。元屋敷遺跡の結髪土偶
や村尻遺跡のヒト型容器などの例からも、特に縄文時代晩期の大洞 A・A´式前後の時期に
おいては、東北地方南部の影響を強く受けているといえる。また、新潟県南部の糸魚川市
寺地遺跡や、富山県と新潟県の県境付近に位置する富山県朝日町の境 A 遺跡などからは晩
期前葉の例が出土している。この地域まで晩期前葉の亀ヶ岡文化が伝わっていたことがわ
かり、この地域には海路で伝わった可能性も高い。
上越市の顕聖寺遺跡や籠峰遺跡からは晩期末葉の土偶が出土している。顕聖寺遺跡の例
は亀ヶ岡文化の影響が強く出ており、東北地方のものと比べて遜色ないようである。晩期
末葉のこの時期には人の移動や製作技術の向上により、亀ヶ岡文化がこの地域にまで伝わ
り、東北地方の例に比較的忠実な土偶を作ることができたと考えられる。上越市籠峰遺跡
においては、その形状や体部の工字文などに亀ヶ岡文化の影響が見られるものの、特にそ
の顔面の表現については独自の表現を示している。亀ヶ岡文化が伝わりそれを部分的に受
け入れつつも、この地域で独自の展開を見せた可能性が高い。また、長野県境に近い籠峰
遺跡については信州地域との関係もあり、こちらの影響も大きかったものと思われる。
主要参考文献
小野美代子・金子昭彦他
1999『土偶研究の地平3』勉誠社
江坂輝彌
1990『日本の土偶』六興出版
金子昭彦
2001『ものが語る歴史4 遮光器土偶と縄文社会』同成社
- 35 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
新潟県域における縄文時代の掘立柱建物
長谷川
―後晩期の事例を中心に―
梓
縄文時代後期の掘立柱建物研究において、新潟県域は他地域を圧倒する検出数が確認さ
れており、重要な地域と位置づけられている。しかし、分布や平面形の地域性、時期的な
変遷について検討した研究は少ない。
本稿では、荒川隆史氏が設定した掘立柱建物の平面形分類 A~G 類に加えて、新たに H・
I 類を設定、分類を行った。分類と遺跡の分布から、中期以前は中越・上越地域にのみ分
布し、検出された掘立柱建物のうち半数以上の平面形が長方形(A 類)を呈するものであ
った。後晩期の事例では、新潟県域全体に分布がみられるものの、長岡市域を中心とした
中越地域で比較的事例が多く、類型では中期事例同様に A 類が後期の遺跡で主体的に確認
された。また、B 類や C 類についても多くが後期に所属し、晩期では D~G 類の六角形の
平面形を呈する掘立柱建物が増加する。結果として、晩期になると比較的小規模な長方形
の平面形をもつ A 類と大形で六角形を呈する類型(D~G 類)の二極化がみられた。
中期から晩期までの変遷については、事例が多い長岡市域を中心に検討した。中期の県
域では珍しい E 類を呈する掘立柱建物が馬高遺跡で確認され、後晩期でも全ての遺跡で E
類が確認されている。特に、晩期で同時期に他地域で E 類が確認されないことからも、こ
の地域に特徴的な類型と考えた。
次に、配石墓との位置関係、集落内における掘立柱建物と貯蔵穴、竪穴住居の数量関係
から掘立柱建物の機能に関する考察を行った。遺跡ごとに祭祀、貯蔵、居住機能をもつ可
能性を指摘し、掘立柱建物の機能の多様性を示した。
最後に、掘立柱建物の柱穴にみられる根固めの技術についての集成を行った。根固めの
技術としては、根固め石や版築土の技術を用いたものが主として確認された。県域では根
固め石を用いた柱穴が多く報告されているが、集落内で両方の技術が確認される例や、同
じ建物跡のなかで異なる技術が用いられている例がみられること、建物や柱穴の規模、平
面形の類型と根固めの有無に関連性が希薄であることから、複雑なあり方を示すと考えら
れる。
主要参考文献
石井寛2008「掘立柱建物跡から観た後晩期集落址」『縄文時代』(19)pp133-167 縄文
時代文化研究会
荒川隆史2009「掘立柱建物と建材」『縄文時代の考古学』(8)pp74-84
同成社
駒形敏朗2006「新潟県長岡市岩野原遺跡の掘立柱建物跡―縄文時代の掘立柱建物跡の検討
に向けて―」『考古学の諸相』Ⅱpp1103-1118
- 36 2014(平成26)年度
匠出版
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
秋田県域における後期旧石器時代の石器石材と石器製作技法について
―御所野台地を中心として―
山田
浩市
秋田県御所野台地には30を超える旧石器~平安時代の遺跡が点在しており、その内旧石
器時代の特徴を持つ遺跡は6遺跡あり、更に台地周辺にある七曲台遺跡群にも3遺跡の旧石
器時代の遺跡が所在していることが分かっている。
御所野台地周辺に所在している遺跡から出土した石器群については、遺跡毎での研究は
行われてきたが、台地一帯を総合しての研究はほとんど行われておらず、他地域の遺跡と
の比較研究も現時点ではほとんどない。そのため、台地一帯で旧石器時代に使用された石
器の石材や製作技法の「地域的な特徴」について取り上げた研究は非常に少ない。
また、個々の遺跡から出土した石器を取り上げて見ても、放射性炭素年代測定法を用い
ることができるサンプルはほとんどなく、地蔵田遺跡から出土した3点の石器と共に出土
した炭化物片のみ行われているというのが現状である。それによると、30,110±140yrBP、
29,720±130yrBP、28,080±120yrBP(いずれも未較正)という結果が出ている。そのた
め、台地全体を見渡した時、型式学的な「相対年代」については考察が可能であるが、「絶
対年代」を明らかにするのは難しいというのが現状である。
石材の獲得に目を向け、原礫の自然面を観察するといずれも礫が丸みを帯びていること
から、河原の転石の状態で採取されたものと考えたが、秋田県内における珪質頁岩の分布
は県北部の米代川流域と県南部の子吉川流域・雄物川上流域に集中しており、御所野台地
周辺の雄物川下流域や岩見川下流域の河原には石器製作に適した珪質頁岩はほとんど分布
していないことが明らかになっている。また石斧・礫器に用いられているホルンフェルス・
蛇紋岩・緑色凝灰質泥岩もまた雄物川下流域には存在しないことが分かっている。しかし、
地蔵田遺跡や下堤 G 遺跡を見てみると、ある程度原石に近い状態で持ち込まれたことが明
らかになっており、また原石内部に存在する節理面には気付かずに遺跡内に持ち込んでい
ることから、原産地付近で原石の節理面の有無を確認してするなどの石材選択は行わずに
遺跡内へ搬入していた可能性が高いと考えた。
また、素材や打面調整の有無などから剥片生産技術の分類も行った。大きく分けるとい
わゆる「石刃技法」と「米ヶ森技法」に分けられ、最後に特徴的な技法である「米ヶ森技
法」についての説明も試みた。
- 37 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
新潟県域の弥生時代環濠集落について
吉田
源
弥生時代の環濠集落研究は、鏡山猛によって紹介されたことを皮切りに、北部九州と畿
内をはじめとした西日本を中心に多くの研究者によって論じられてきた。新潟県域におけ
る近年の研究では、大規模環濠集落と中小規模の環濠集落において、集落が営まれた時期
が異なることに着目した滝沢規朗によるものなどが挙げられる(滝沢2013)。本論では、
新潟県域の弥生時代後期の各環濠集落から出土した土器の地域系統別構成比率から、集落
が属する土器圏を明らかにすること、さらには、環濠が防御を目的として営まれたと仮定
した際に、どの集落間に緊張関係が発生していたかを明らかにすることを目的とした。
分析方法は、新潟県域の弥生時代後期の環濠集落から出土した土器について、それぞれ
の遺跡ごとに地域系統別に構成比率を算出した。系統別の構成比では、北陸系土器を主体
とする9遺跡中7遺跡を占めた。北陸系土器を主体としない遺跡は、山元遺跡と古津八幡
山遺跡となる。山元遺跡では、東北系土器が92%を占めた。古津八幡山遺跡では、東北系
土器が47%と最も大きい比率となるが、他の遺跡のように圧倒的多数を占めるわけではな
く、北陸系土器が36%、東北系の器形に北陸系のハケ調整が施される八幡山式土器が17%
となった(表1参照)。各遺跡の傾向としては、経塚山遺跡以西は北陸系土器圏に属し、
最北の山元遺跡は東北系土器圏に属しており、古津八幡山遺跡では、東北系土器と北陸系
土器が同程度出土していることから、それらの土器圏いずれかに属しているとはいえず、
両土器圏からある程度独立していたと考えられる。古津八幡山遺跡より西は北陸東北部勢
力の影響を強く受け、北は東北南部勢力の影響を強く受けていたといえる。しかし、両者
の地域系統別の構成比率に圧倒的な差がみられない古津八幡山遺跡の存在から、両勢力の
緊張は比較的緩かったと考えられる。信州系土器圏の影響は古津八幡山遺跡以北ではみら
れず、信濃川右岸域中央付近の経塚山遺跡や横山遺跡などの北陸東北部勢力と信州系勢力
の交流がされていたと考えられる。
今後の課題としては、新潟県域の同時期の非環濠集落や弥生時代中期の環濠集落との比
較、および北陸、信州などの他地域の同時期における環濠集落との比較が挙げられる。
主要参考文献
甘粕健 1993 「みちのくを目指して 日本海ルートにおける東日本の古墳出現期にいたる政治
過程の予察」『日本考古学協会新潟大会 東日本における古墳出現の過程と再検討』
滝沢規朗 2005 「土器の分類と年代」『新潟県における高地性集落の解体と古墳の出現』 4~26
頁 新潟県考古学会
滝沢規朗 2013 「高地性集落・環濠集落」『弥生時代のにいがた』85~90頁 新潟県立歴史博
物館
- 38 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
卯年祭りの周期と広域性
秋山
達矢
民俗学では柳田國男以来、稲の実りと対応した一年というサイクルを基本として祭り研
究が行われてきた。しかし祭りの中には一年ごとという周期ではなく、数年に一度という
周期をもったものもある。民俗学ではこのような数年に一度という周期を持った祭りにつ
いての研究は少ない。またこのような周期を持った祭りは一村だけではなく数村が共同し
て行っていることが多いがこの広域性について論じられたものも少ない。本論の目的は数
年に一度という周期で祭りを行うことにはどのような意味があったのか、そしてこういっ
た周期を持つ祭りの範囲はどのようにして決まり、変遷してきたのかを考えることである。
調査対象は新潟県南魚沼市(旧塩沢町)上田で12年に一度行われる卯年祭りである。卯年
祭りは旧塩沢町登川流域で盆の時期に行われている。卯年祭りは複数の集落が共同で行っ
ていることが多いが、単独の集落で行っているところもある。山太夫という役が伊勢から
大麻を請け、それを御仮屋(御神輿)に移し、卯年祭りを行う集落中を廻っていく。
卯という年は疫病や飢饉などが流行る年であると上田では言われている。上田の卯年祭
りの起源として、疫病が蔓延したため、それを鎮めるために祭りを行ったという。登川の
川西での卯年祭りは元々12年というサイクルは決まっておらず、凶作があった年に相談し
て行っていたという。上田の卯年祭りにはそのような伝承はないが、12年の間に凶作など
があった場合、間(あい)といって卯年を待たずに卯年祭りを行ったことがあるという。
また卯年祭りを行うたびに、中心となる神明社の鳥居を新しく作る。そして地域の人々は
卯年祭りに合わせて、家を建てるなど縁起の良い年と認識していた。卯の年の凶作など不
幸を避け、良い年となることを願ったために祭りを行ってきたと考えられる。
上田の卯年祭りを共同で行っている地域と用水の範囲はほとんど一致する。川東ではほ
とんどの集落が登川の用水を利用し、川西では魚野川という川の用水を利用している。水
利は稲作と大きく関わっている。前述のように卯年祭りは凶作を避ける意味があったと考
えられる。この地域の主な生業であった稲作に水利が大きな影響を持っているために、卯
年祭りの範囲は用水の範囲と対応していると考えられる。しかし元々卯年祭りに関わって
いた集落でも一部の集落は登川を挟んだ対岸に位置し、用水の範囲を異にしている。そし
てその集落は後に卯年祭りから分離している。川西の卯年祭りは元々蔵組というまとまり
で行っていたという。同様に元々の上田の卯年祭りの範囲と蔵組の範囲は一致する。蔵組
の規制力が弱まり、蔵組を維持する必要がなくなったため、水利で協働関係にない集落が
分離したことが読み取れる。
以上のように卯年祭りの周期と広域性には、その地域の生業とそれに関わる水利が大き
く影響していると分かった。人々は卯年祭りを行うことで、安定した生業を行えるよう願
い、ひいては自らの精神的な安定をも願ったのではないだろうか。
- 39 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
都市化と民俗の存続
河内
健太
民俗学において、民俗は生活の推移の中で変化するものとされる。特に高度経済成長以
降の都市化は急激な変化をもたらし、昔ながらの民俗が残存しているか、もしくは消滅し
てしまったかがまず問題とされた。さらに、民俗の都市化について考察がなされ、民俗の
都市化とは村落にある原型が都市生活にふさわしい形に変化することであるとされた。こ
うした変化は現在も見られるのであり、現在の様相に重点を置いて研究する必要があると
考えられる。本稿は調査地域で行われる行事の変化を明らかにし、変化の過程や現在にも
存続している理由を考察するものである。
調査対象は福島県郡山市安積町笹川で行われている笹川のあばれ地蔵である。昭和期に
急激な人口の増加があった地域であり、都市化した地域と言える。あばれ地蔵は、毎年11
月2日の夕方頃から行われる行事で、天性寺を出発点に、縄で結ばれた柳材の地蔵を子供
達が曳き回し、各家を回る。各家の玄関先では用意された御酒が地蔵にかけられ、その後
掛け声とともに地蔵を3回地面に打ち付ける。厄を払う力があると考えられ、家内安全や
交通安全が祈願されている。明治期には既に行われていた。
この行事をめぐる大きな変化として、まず地蔵の数の変化がある。もとは1体であった
が、戸数の増加に対応するため、地蔵の数を増やしている。次に、担い手の変化が挙げら
れる。初めは子供の行事であったが、明治中頃に青年が行うようになり、1967年に再び子
供が引き手となった。1967年以降の運営組織は育成会で、さらに2005年に保存会が設立さ
れたことで、育成会と保存会によって運営されるようになる。巡行範囲は、新しい住宅群
にも回っているため、昔より広がっている。新住民は行事に馴染みがないため、保存会が
設立されてからは広報に特に力を入れ、地域内で広く認知されるようになった。
民俗が変化する要因は外的なものばかりではない。都市化は人々の意識や価値観に影響
を与え、内部から変化する動きが起こることもある。青年が行っていた頃は午前1時頃ま
で地蔵曳きが行われたが、運営組織が変わる中で、従来通りに行事を遂行することよりも、
時間の短縮、引き手である子供の安全に注意が払われるようになった。これは現代の生活
に即した考え方によるものである。また、保存会設立もそれにあたる。生活様式の変化を
受けて、行事が続いてほしいという考えが強まり、行動に移されたのである。
この行事が存続する理由として、地付きの人々が行事を楽しみにしていることが挙げら
れる。家々を回ることから地域全体の行事であるという意識も強い。また、地付きの人と
新住民では行事の経験に差異があるが、広く認知された現在、行事に対する共通の認識が
生まれたと言える。市の文化財に指定されたことも、新住民へのアピールポイントとなっ
ている。戸数が増加しても地蔵曳きの範囲を縮小せずの続けてきたのには、以上のような
考え方がある。
- 40 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
市と市神
佐藤
さくら
市神についての研究は、その原初的様態を明らかにすることに重きが置かれていた。そ
の後、民俗学の分野において市神についての研究は衰退し、歴史学や地理学の分野で研究
が盛んになった。そこで、市神は「場」の問題として取り扱われ、市場という境界領域に
祀られるがゆえに、市という聖域とそうでない場所を区別する神だとされた。この研究の
流れの中で、民俗学では市神の「変化」についての研究が希薄だという批判から、その原
初的様態から現在にいたるまでの変化を明らかにしようとする論稿が出されている。しか
し、そういった論稿は少なく、課題が多く残されていると感じる。本稿の目的は、話者か
らの聞書き、初市や俵引きの変化から、調査地域に祀られる市神の性格の変化を明らかに
することである。市神とは市に祀られる神であり、古くは市の場を守る守護神として人々
の信仰を集めていた。
調査地は福島県喜多方市である。喜多方市で行われている小荒井初市を中心に、周辺地
域の初市を事例に取り上げる。昭和の頃、初市では瀬戸物や金物といった日用品、縁起物
が多く売られていたが、2014年度の小荒井初市では、出店された96軒の内75軒が食品の露
店となっている。現在では、集客を目的として抽選会や福まきも行なわれるようになった。
また、初市が行なわれる日は、村方である農民が町方である商人へ新年の挨拶をする日で
もあったが、この慣習は調査地では行われていない。市神は北宮諏訪神社から勧請され、
市神の御札も頒布されている。現在の市神の認識について、市神を祀っている北宮諏訪神
社の神主の O 氏、市神の御札を祀っている酒造店の S 氏、初市に金物の露店を出している
H 氏にそれぞれ聞書きを行なった。それぞれの語りからは「市神は商売を司る神である」
という認識があるということが明らかになった。
また、小荒井初市では、明治初期の頃まで「俵引き」という行事が行われていた。俵引
きとは、二組にわかれた男性が俵を引きあい、その結果で米価を占うという行事である。
俵引きを行う目的としては、「米価を占う」、「市神の場所を決める」というものがある
が、『新編会津風土記』などの資料から、俵引きは、元は豊作を占う予祝儀礼だったもの
が、米価を占う行事、市神の場所を決める行事に変化したと推測される。また、俵引きは
市神の御仮屋の前を中心に行われる。このことから、俵引きが行われていた当時、市神は
豊作をもたらす実りの神として人々の信仰を集めていたと考えられる。以上から、俵引き
の目的の変化・衰退、初市の変化と合わせ、市神の性格も、実りをもたらす神から商業を
司る神として変化していったと結論づけた。
- 41 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
起舟祭にみる船霊信仰
中井
駿太郎
漁民や船乗りの間で船に宿る神や魂とされている船霊は早くから注目され、牧田茂、桜
田勝徳、北見俊夫、徳丸亞木らが論考を発表してきた。しかしこれまでの研究はおもに人
形や髪の毛など船霊として船に納められる神体についてのもので、神体がない事例につい
ての研究はあまりされてこなかった。
ふないわい
神体のない船霊信仰の中でも、船霊の祭り日である1月11日に行われる舟 祝 の行事に
関する研究は少ない。牧田茂はこれが単なる年中行事であると述べ、これが新年にあたり
新たな船霊を迎える儀礼であるということは可能性を示唆するにとどめた。それ以降、特
ほうじょうづ
に検討されることはなかった舟祝について、本論では富山県射水市放生津町の起舟祭を中
心とし、周辺の起舟祭ももとにしながらこの行事の持つ意味について明らかにする。
舟祝とは網元や船主が船霊を祀り、乗組員を家に招いてその年の契約を更新するととも
に、酒盛りをして祝う行事である。富山県、石川県の二県においては、舟祝にあたる行事
を起舟祭と呼んでいる。調査地である富山県射水市放生津町の起舟祭は2月10日、11日、
12日の3日間行われる。上記の舟祝いの内容に加えて、ここでの起舟祭は船霊と呼ばれる、
な げ し
持ち船を模した藁製の船を長押にぶら下げ、綱をつけて揺するという儀礼に特徴がある。
この船霊を飾って祀ることについて話者は「ここに神が降りてくる」、「これを神に見立
とも
てた」というように語った。またこの船霊の艫の部分には燈明を灯して祀る。調査地近辺
の起舟祭では船の形をした供え物に船霊と名付けて用いたり、船霊が宿るとされる艫にお
参りしたりするという例がいくつか見られる。これらの事例からは、この地の人々が船自
体をもって船霊と捉えている、また船の艫に船霊が宿っているという観念を持っていたと
いうことがわかる。このような観念を前提として、藁製の船霊が飾り祀られることによっ
て、そこには神や魂が招き入れられる。さらに揺するという行為は、そうすることによっ
てそれらを定着させているものと解釈することができる。
以上のように見ていくと、起舟祭では藁製の船霊を実際の船に見立て、そこに神や魂を
定着させるという儀礼が行われているといえる。牧田は船が不安定な空間であるとし、そ
こに魂を迎えて定着させることで安定させる必要があると述べた。つまり起舟祭は新年に
あたり自身の船に見立てた模型に擬似的に魂を迎えて定着させて祀り、安定させることで
実際の船における海上での安定を祈願するための儀礼であったと考えることができるので
はないか。
- 42 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
祭りの存続と相補性
―山形県尾花沢市におけるおばなざわ花笠まつりを事例に―
西塚
大地
これまで民俗学では祭礼を社会集団による共同行為として捉え、祭礼を担う集団を通し
て地域社会の在り方を探るという視点に立った研究が行われてきた。そこで本論では行事
内容と地域基盤とを共にしない複数の担い手を対象として、彼らが相互にどのように関わ
り合いを見せながら祭礼を作り上げているかを論じる。そして祭礼を担ってきた社会基盤
の在り方が大きく変化しつつある現代において、祭礼の存続のために担い手たちが見せる
実践の姿を捉える。そのため8月27、28日にかけて山形県尾花沢市で行われる「おばなざ
わ花笠まつり」を事例に、27日のまつり行列を担う町内と、28日の花笠踊り大パレードを
担う保存会を中心に調査を行った。
町内と保存会の双方の語りを通して、まつり行列や花笠踊りといった行事がそれぞれの
担い手たちの心を引き付け、地域の文化を代表するような強い凝集性を持ったシンボルと
して彼らに捉えられていることを読み取ることができた。このシンボルとは地域の文化を
代表するものであり、必ずしも祭りという枠組みの中にたった一つだけあるものではない。
それは町内にとってはまつり行列、保存会にとっては花笠踊りであるように、シンボルは
担い手ごとに多様な在り方を示すものである。そしてシンボルの価値や意味が担い手たち
の所属するそれぞれの地域の中で共有されているからこそ、担い手たちはシンボルを通し
て地域の紐帯を確認し、楽しみや自負心といった感情を抱くことができるのである。
さらに、町内の人々は子供会として花笠まつりに参加させることで、まつり行列の在り
方では不十分な子供を祭りに関わらせる機会を補っている。つまり町内住民にとって花笠
まつりは、町内のまつり行列だけでは不十分な子供と祭りとを結びつけるための場として
活用されているのである。また保存会は27日の諏訪神社の例祭と連続した日程というつな
がりを持つことで、行政によって創設されたイベントである花笠まつりには本来存在しな
いような、「お祭り」としての雰囲気が生む興奮や高揚感を場に持たせている。つまり保
存会は、自身のシンボルである花笠を披露するに相応しい大きな賑わいや興奮を生む祭り
としての雰囲気を場に付与するために、例祭とのつながりを必要としているのである。
このように担い手たちは子供と祭りとを繋ぎとめるため、あるいは盛り上がりのある踊
りの場を守るために、一つの祭りだけでは不足してしまう要素を他方の祭りに見出し、受
容し合うことで現在の祭りの形を作り上げている。そしてこうした町内と保存会の担い手
たちが互いに関わり、活用し合う姿を「相補」と捉えた。この相補性のある祭りとしての
おばなざわ花笠まつりの在り方とは、異なる集団の作り出す祭りを異質なものとして遠ざ
けるのではなく、むしろ自集団に引き付け、活用していくことで、自らの集団の抱える課
題の解決を図ろうという担い手の実践であると結論付けることができる。
- 43 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
屋台の再造にみる祭りの存続と担い手
早川
沙岐
本稿は新潟市秋葉区(旧新津市)の屋台まつりを事例に、地域の中でいかにして屋台が
再造され、再び祭りが行なわれるようになったのかというその背景に迫り、またどのよう
にしてこれまで屋台を存続させてきたのかということを問題設定とし検討したものである。
屋台まつりは毎年8月19日・20日、堀出神社例大祭の神輿渡御に伴い、各町内から屋台
7台が曳き廻される祭りである。今回の主な調査地である新町では、昭和30年代半ば頃、
屋台の故障や金銭的な問題が重なり、昭和50(1975)年に屋台の再造へと至るまで祭りが
中断されていた。屋台の再造を担ったのは、昭和49(1974)年に発足した「新町暁進会」
という青年会組織である。新津新町商店街協同組合に所属する20代から40代の19名から成
り、その約8割が新町の出身者であった。また会の主導者層はかつての屋台に最後の年代
として携わった世代であり、下の年齢層の会員においても幼い頃わずかながらに屋台を曳
いた経験のある者に当たっていた。しかし当初暁進会は、屋台の再造とは無縁の団体であ
った。そこで契機となったのは、同じく屋台を持つ他町内の存在にあったと考えられる。
屋台まつり全体では昭和38(1963)年に全ての屋台が参加を休止した。その後、昭和40
年代後半になされた他町内における屋台の再造と、当時の新津青年会議所において各町内
の屋台の動向を知ることの出来る状況下にあったことが、新町の人々にも影響を与え、屋
台の再造へと向けた動きを徐々に生じさせた。そしてこのような外部からの影響が暁進会
にもたらされたとき、会員の語りからは、他町内や新町の昔の屋台に対する「悔しさ」や
「懐かしさ」といった心情を読み取ることができ、このような心情を共通のものとする暁
進会員の最初の目的として屋台の再造に至ったのだと考えられる。また再造の過程におい
ても、若者の集まりであるが故に寄付集めなどの大変な困難が生じたが、当時の区長や商
店会理事長などといった町内の重立った人々がかつての屋台に本格的に携わった経験のあ
る世代に当たっていたこともあり、理解や協力が得られたという背景も存在した。新町に
おいては他町内からもたらされる影響と、これらの世代とが上手く一致したことで、再び
屋台を造ろうとする気運が高まり、再造を成功させることが出来たのだと考えられる。
また暁進会は屋台の再造後も時代に対応しながら祭りを存続させている。これまで屋台
は職住の一致した商店会の人々により支えられてきたが、近年店舗数の減少に伴い、暁進
会員に占める商店会関係者の割合も減少の一途を辿っている。しかし彼らは囃子手、小若
などの担い手を大人から子供へと変化させ、女性や他町内の人々も会員として受け入れる
ことで、伝承の維持に努めると共に、新たな担い手の獲得へと繋げている。またかつての
屋台運行時にはなかった地域活動を積極的に行い、地域の各種団体と協力関係を築き上げ、
地域を取り込む工夫をすることで、屋台と祭りを存続させているのである。
- 44 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
越中瀬戸焼の復興と瓦産業
廣田
雄介
民俗学における産業研究は、対象を金属加工業のみに限定し、近代化後においても残存
している手作業などの調査研究に終始している側面があった。このような批判点から、宇
田哲雄は政治的権力を持つリーダーとそれが形成する社会秩序の産業との関わりについて
論じた〔宇田
2012〕が、依然として産業によって供給された彼らや職工たちが地域文化
をどのように形成してきたのかを具体的に分析することはなかった。そこで本論では、旧
富山県中新川郡上段村上末、上瀬戸を中心とする瓦産業を対象として、近代化した工場で
働く職工たちの技術や生活を調査するとともに、その職工と親方たちが、当地の地域文化
である越中瀬戸焼の復興にどのような役割を果たしたのかを検討する。
越中瀬戸焼は、16世紀末より操業が開始され、近世を通じて当地域全体で半農半陶によ
る窯業生産が行われるが、明治期になると、廃藩や磁器の流通などにより、ほとんどの窯
が閉窯する。昭和初期になって、良質な粘土の販売に伴う当地の粘土採取量の急増や学校
教育資材として越中瀬戸焼を研究していた教員との接触等が要因となって、復興活動が開
始され、やきものが再び生産されることになる。
越中瀬戸焼の復興において、実際の生産活動を行ったのは、当地で生活する瓦職工たち
であり、瓦生産の傍ら飲食器や日常生活雑器等を生産した。昭和初期、彼らが属していた
当地の瓦産業では、原動機・石炭・石膏型など大正期を中心として当地に導入された近代
技術と焼成時に行われるイロミなどの手作業・勘に頼る作業が併存していた。復興当初に
おいては、鬼瓦の生産に利用されていた石膏型技術という近代技術の活用がみられた。明
治期における窯の閉窯により、やきものを生産するためのロクロ技術が失われた当地にお
いて、石膏型技術は、地域生活者が「成形」を行うために必要な技術であったのである。
復興当初においては、この石膏型技術を使用して、試作品が生産され、外部の陶工の指導
によってロクロ技術が当地に伝わった後も、大量生産品や置物等の生産に石膏型技術は利
用された。
また、親方は各瓦工場の経営者であり、瓦の生産活動において最も責任重要なカマタキ
の作業に従事していた。彼らの一部は瓦工場の工場主であると同時に地域活動、政治にお
いても中心的存在であった。そして、越中瀬戸焼の復興活動においても、瓦工場の親方は
重要な役割を果たす。FH 氏による村会・県への越中瀬戸焼復興対策としての陳情、上段
村瓦製造業組合長であった FS 氏による組合員への説得などにより、県工業試験場などの
行政側からの支援が行われることになる。また、FS 氏・SS 氏等による越中瀬戸焼の陶祖
に関する墓の整備や慰霊碑の建設、新たな信仰の場の創設などの親方の実践は、越中瀬戸
焼を当地の地域文化として整備することになった。
以上のことから、越中瀬戸焼の復興活動は、当地の瓦産業を背景に成立したものであり、
復興活動において、職工は瓦生産を通して修得された技術等を利用した生産者としての機
能をもち、親方は生産活動における支援者及び地域文化の整備者としての機能をもってい
たと言える。
- 45 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
養蚕における労力構成と家族の役割
堀江
僚
養蚕は、蚕を飼育して生糸の原料となる繭を生産する活動である。民俗学における養蚕
研究は、養蚕の飼育法やその用具、地域ごとの実態に焦点が当てられ、各地の調査報告書
において資料の集積がある。しかし従来の養蚕についての調査報告は、飼育過程に沿った
項目、もしくは断片的な記述が多く、その内容も飼育法の種類や養蚕具の推移を述べたも
のが多かった。本稿の目的は、主たる生業が養蚕である地域を対象に、他生業と養蚕を共
に行う中で、女性を含めた働き手が、養蚕の過程でどれほどの労力をかけて、それぞれど
のような役割を果たしていたのかを明らかにすることである。そのため本稿では群馬県安
中市内における養蚕農家を対象に聞き書き調査を行った。
安中市は水田が少ない地域であり養蚕農家数が非常に多い地域であった。当地では昭和
30年代頃ドムロ、電気温床育の導入や、条桑育といった飼育法の改善により収繭量が増
えた。また稚蚕共同飼育所で稚蚕期を共同で飼育するようになると、病気が減り、蚕作が
安定するようになった。昭和期には全国的に繭価は下がり始めていたが、群馬県は収繭量
を増やすことによって利益を補おうとした。調査によって養蚕が大規模になるにあたって
影響を与えたのは、主に条桑育の導入、稚蚕共同飼育所の普及、上蔟と収繭の省力化の3
点であることが明らかとなった。
養蚕は米の収穫、麦の栽培の時期と労力配分における相性が良いために複合的に行う農
家が多かった。その生活の中で男性は田畑を耕し、一方女性は男性の補助の合間に行える
養蚕の仕事を、主導で行う役割に適していた。このような複合的に養蚕を行う農家は、女
性が主導で養蚕を行っているといえるだろう。しかし労力がかかる作業負担を減らす機械
の導入や、飼育法の改善により、大規模養蚕を行える地域においては労力の分配上兼業が
不可能であるため、養蚕を専業とする農家が増えた。こうした養蚕を専業として行い、機
械を導入した収繭量の大きい養蚕の大規模化は、昭和40年代から50年といった近年に
起きたことが調査から明らかになった。女性のみの労働では賄えない、労力のかかる仕事
を男性が主体となって行い、給桑も女性だけでは間に合わないため夫婦で行う。さらに蚕
が成長すると家族全員で協力して飼育を行うようになる。この機械による養蚕の大規模化
は、養蚕は女性が主体となって行うものという、従来米麦、養蚕を兼業し行われてきた地
域の生業における家族の役割を変化させたといえるだろう。その上で養蚕を専業で行う農
家においては、養蚕は女性だけの役割ではなく、飼育法の改善と機械化に影響を受けなが
らも、家族員全員が労力をかけて自らの役割を果たすことによって、成り立たせてきたの
であると結論づけられる。
- 46 2014(平成26)年度
卒業論文概要
新潟大学人文学部人文学科社会・地域文化学主専攻プログラム
移転集落におけるムラの再編と内・外の意識
渡邉
直登
本稿では、山形県西村山郡朝日町の一ツ沢集落から大字宮宿への、過疎化による集団移
転によって成立した西原を調査地とし、集落の移転・再編過程を追うとともに、その過程
の中で民俗がどのように変容していったか、そしてムラにおける民俗がどのような機能を
果たしているかを明らかにした。また、集団移転によって新たに集落を形成する中で、移
転先の周辺地域との間、それから移転先の現集落内にみられる内・外の意識についても明
らかにした。またこれらの点について明らかにしていく中で、本稿では移転から40年とい
う時間に注目して考察した。
民俗の変容に関しては生業の変化による影響が大きく、移転を契機として急激に勤め人
が増加し、ムラ全体の夏と冬の生活リズムがなくなり、さらに個人中心の生活へと変化し
た。そして、この変化は他の民俗にも影響を及ぼし、女性の会の活動を困難にし、寄合の
期日や祭日の変更、区人足の金納化をもたらした。また、町の中心部への移転によって村
仕事が美化運動的な性格のものへと変化し、寄合の一つである契約の単位の再編やその機
能にも影響を及ぼした。
移転先における民俗の機能については、一ツ沢出身者がもつ血縁的結束と仲間意識とい
う社会的側面が、ムラの紐帯を維持させ、山神様・地蔵様は移転住民の統合の核として機
能し、西原の住民たちをまとめるために積極的に利用されている。さらに、移転後に結成
された地主会は、かつて一ツ沢において行われていた村仕事を行うことで山の土地を維持
管理し、一ツ沢出身者の経済的な面での結束を促し、なおかつ同窓会的な役割を潜在的に
果たしていたこと、そして記念祝賀会にみる「ふるさと」の記憶からは、旧集落での記憶
を想起し、共有することで西原の人々のアイデンティティを確認し合い、結束を深めよう
という意識が窺えることを確認した。移転から40年という時間の経過は、親戚間のつきあ
いの減少や、地主会の消滅などをもたらしたが、現時点では一ツ沢出身者、あるいは西原
のムラとしての紐帯は維持されており、これは上記のさまざまな面からの結束によって支
えられているといえる。
また、同時にこの結束は西原内における一ツ沢出身者にとっての我々意識、内・外の意
識の「内」の意識を生み出すものとなっていた。そして、一ツ沢出身者は自分たちを同類
としてカテゴライズし、一ツ沢以外からの転入者と区別することによって、西原内におけ
る内・外の意識を生じさせていたのである。さらに、西原と周辺地域との間にも内・外の
意識があり、新参・古参といった背景と、鎮守によるそれぞれの統合から生じるものであ
ることがわかった。集団移転によって形成された西原と周辺地域、そして西原内における
内・外の意識の融合によって、「西原」あるいは「大字宮宿」といった地域は形成されて
いるといえよう。また、こうした内・外の意識は、時間の経過によって次第に融和・同化
していく性格を有していることもわかった。
- 47 2014(平成26)年度
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