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三章 - 国際交流研究所
さ にん し ょう 三章 「歴史」 一節 = 「原始」と「古代」 じょう も ん や よ い ◇「 縄 文 時 代 」と 「弥 生 時 代 」◇ いしがきじま どうけつ じんこつ 平 成 23 年 (2011 年 )11 月 、沖 縄 県 石 垣 島 の 洞 穴 か ら 出 土 し た 人 骨 の 一 部 が 、2 万 4 千 年 前のものと確認された。 じんしゅ るい おう 日 本 人 の 原 型 は 、三 大 人 種 区 分 の 一 つ 、モ ン ゴ ロ イ ド と 呼 ば れ る 類 モ ン ゴ ル 人 種 群 だ 。黄 かっしょく ひ ふ こっかっしょく かみ 褐 色 の皮膚と 黒褐 色 の髪が特徴 だ 。その 後、紀 元前 3 世紀 以降 に渡来 した新 モン ゴ ロ イ ドとの混血を繰り返して、現在の日本人が形成された。 日本 列島は 今か ら 約 1 万 年前、海 面の 上 昇で大 陸から 切り 離さ れて島 国にな った 。人 々 なわ は土器を使うようになっていた。土器の多くが縄を巻きつけて作られたため、縄目の模様 じょうもん ど き がついたことから 縄 文土器と呼ばれるようになった。 紀元前 3 世紀頃までの約 8 千年間を「縄文時代」という。 たてあなしき それ以前は旧石器時代だ。人は、狩猟、漁、植物の採取で生活し、竪穴式住居で定住生 活を始めた。 かいづか 今 も 「 縄 文 時 代 」 の 貝 塚 (古 代 人 が 食 べ た 貝 の 殻 の 層 )が 数 多 く 残 っ て い る 。 紀 元 前 3 世 紀 か ら 紀 元 3 世 紀 頃 ま で の 約 600 年 間 が 「 弥 生 時 代 」。 せいどう 大陸や朝鮮半島から人々が移り住み、九州北部に稲作や、鉄や青銅などの金属器が伝わ っ た 。 20 戸 ~ 30 戸 の 集 落 が 現 れ 、 新 し い 生 活 と 文 化 が 始 ま っ た 。 し か し 、 農 耕 社 会 の 成 立によって、人々の間に貧富の差が生じるようになり、支配者が出現した。 す や ぶんきょう く や よ い そ の 頃 の 飾 り の 少 な い 素 焼 き の 土 器 が 明 治 17 年 (1884 年 )に 東 京 都 文 京 区 弥 生 の 遺 跡 から発見された。 そ の た め 、「 土 器 」 と 「 時 代 」 に 、「 弥 生 」 の 名 前 が 付 い た 。 や ま た い こ く ◇ 「 邪 馬 台 国 」◇ やがて、各地に大きな集落が生まれ、それぞれが小国として形成された。 ちゅうごく れき し しょ かんじょ わ じん 中 国 の 歴 史 書「 漢 書 」に は 、 「 倭 人 (当 時 の 中 国 で は 、日 本 人 の こ と を 倭 人 と 呼 ん で い た ) ひゃく よ こく か の社会は 百 余国に分かれていた」と書かれている。 なのくに ご かん らくよう 西 暦 57 年 に 、 現 在 の 福 岡 市 付 近 に あ っ た 「 奴 国 」 の 王 者 の 使 者 が 後 漢 の 都 、 洛 陽 に 赴 こう ぶ てい きんいん し かのしま いたと言われる。その時、光武帝から授かったと考えられる「金印」が福岡市志賀島で発 かんのわのなのこくおう 見された。金印には「 漢 倭奴国王」と記されている。 ぎ ご しょく 中 国 は 220 年 に 後 漢 が 滅 び 、 魏 ・ 呉 ・ 蜀 の 三 国 時 代 を 迎 え た 。 068 さんごく し ぎ し わ じんでん わ こく こ の 時 代 に 書 か れ た 歴 史 書 「 三 国 志 」 の 「 魏 志 倭 人 伝 」 に は 、『 「倭 国 」(日 本 )で は 2 世 紀 の 終 わ り 頃 、 30 ほ ど の 小 国 が 争 い を 続 け て い た 』 と あ る 。 最も強大だった「邪馬台国」が諸国の争乱を収めた。共同の王として支配したのが女王 ひ み こ しん ぎ わ おう 「 卑 弥 呼 」だ 。239 年 に 、そ の 卑 弥 呼 が 魏 の 皇 帝 に 送 っ た 使 者 は「 親 魏 倭 王 」の 称 号 と「 100 枚の銅鏡」を贈られた。 きん き な ら けん き ない 「 邪 馬 台 国 」 の 所 在 地 に つ い て 、 近 畿 地 方 の 大 和 (今 の 奈 良 県 )と す る 「 畿 内 (近 畿 )説 」 と、九州北部とする「九州説」の二つに分かれ、論争が続いている。 さんかくぶちしんじゅうきょう キーワードが、 「 三 角 縁 神 獣 鏡 」だ 。三 角 縁 神 獣 鏡 と は 、直 径 20 ㌢ ~ 30 ㌢ の 大 型 の 銅 けもの もんよう ふち で 作 ら れ た 鏡 。 神 と 不 思 議 な 獣 の 文 様 を 持 ち 、 縁 の 断 面 が 三 角 形 を し て い る 。 平 成 10 年 てん り し くろづか こ ふん いっせき (1998 年 )1 月 、三 角 縁 神 獣 鏡 が 奈 良 県 天 理 市 の 黒 塚 古 墳 か ら 32 枚 発 見 さ れ 、論 争 に 一 石 を 投じた。 さ ん か く ぶ ち し ん じゅうきょう 三角縁神 獣 鏡 「 畿 内 説 」の 根 拠 は 、 「 卑 弥 呼 が 魏 の 皇 帝 か ら も ら っ た 銅 鏡 は 三 角 縁 神 獣 鏡 」と い う 考 え はしはか こ ふん か ら 、「 邪 馬 台 国 が 近 畿 に あ っ た 」 と い う 主 張 や 。 古 墳 時 代 の 始 ま り で あ る 箸 墓 古 墳 (奈 良 さくら い し 県 桜 井 市 )が 「 卑 弥 呼 」 の 死 亡 時 期 と 重 な る 240 年 ~ 260 年 に 築 造 さ れ た 、 と い う 研 究 な どだ。 一 方 、「 九 州 説 」 は 、「 卑 弥 呼 が も ら っ た 銅 鏡 は 、 三 角 縁 神 獣 鏡 と は 別 の も の だ か ら 、 三 角縁神獣鏡が畿内説を裏付けることにはならない」という。 三角縁神獣鏡はこれまで、京都府、大阪府などの近畿を中心に九州から東北地方にかけ て 、 約 500 枚 が 出 土 し た 。 ま た 、「 卑 弥 呼 が も ら っ た 銅 鏡 は 100 枚 だ け 。 そ れ 以 上 の 三 角 縁 神 獣 鏡 は 日 本 で 製 造 さ れ た も の 」と い う「 九 州 説 」に 対 し て 、 「 畿 内 説 」は「 当 時 、貴 重 だ っ た 銅 を 使 っ て 何 百 枚 もの鏡を作るのは、邪馬台国以外に考えられない」という。 なお、中国では、三角縁神獣鏡はまだ 1 枚も発見されていない。 まきむく い せき 2009 年 に は 、 奈 良 県 桜 井 市 の 纏 向 遺 跡 で 3 世 紀 前 半 の 大 型 建 物 跡 が 見 つ か り 、「 卑 弥 呼 きゅうでん の 宮 殿ではないか」と話題になった。 069 や ま と せ い け ん こ ふ ん ◇「大 和 政 権 」と「 古 墳 時 代 」◇ 鉄 製 の 農 具 や 武 器 の 生 産 が 盛 ん に な り 、稲 の 収 穫 も 増 え 、豊 か に な っ た そ れ ぞ れ の 国 は 、 互いに争い、次第に強い国によって統一された。 3 世 紀 か ら 4 世 紀 に か け て 、 大 和 地 方 (今 の 奈 良 県 )と そ の 周 辺 の 有 力 な 支 配 者 で あ る 豪 わ こく 族 た ち は 大 和 政 権 を つ く っ た 。 大 和 政 権 は 、 「倭 国 」(日 本 )の 「 大 王 ( お き み ) を 天 皇 と し て擁立し、4 世紀後半から 5 世紀までに、関東地方から九州中部までほとんどの豪族を従 や ま と ちょうてい えた。わが国最初の統一政権が大和 朝 廷だ。 中国・朝鮮との外交は、大和朝廷が中心になって行った。 おん 5 世紀には中国の漢字が使われ、漢字の「音」で日本人の名や地名を書き表した。 じゅきょう 6 世 紀 に は 、中 国 ・朝 鮮 半 島 を 経 て 、儒 教 の 書 物 や 仏 教 の 教 典 、さ ら に 仏 像 が 伝 え ら れ こう く り くだら しらぎ ずい た 。 朝 鮮 半 島 で は 高 句 麗 ・ 百 済 ・ 新 羅 が 勢 力 を 持 ち 、 中 国 で は 581 年 に 隋 が 支 配 し た 。 はか こ ふん 4 世 紀 初 頭 に 作 ら れ た 大 き な 墓 を 古 墳 と い う 。地 方 の 豪 族 ら 有 力 者 を ま つ る 墓 だ っ た が 、 次第に王の権威や勢力の強さを示すものとなった。 えんぷん はんきゅうけい ほうふん し かく 中国や朝鮮と同じ円墳《土を半 球 形にまるく盛った墓》や方墳《土を四角に盛った墓》 ぜんぽうこうえんふん もあるが、西日本を中心に大規模な前方後円墳《前が四角形で、後がまるい墓》が多く作 られた。 3 世 紀 後 半 か ら 7 世 紀 ま で の 約 400 年 間 を 「 古 墳 時 代 」 と 呼 ぶ 。 あ す か しょう と く た い し ◇ 「飛 鳥 時 代 」と「 聖 徳 太 子 」◇ あすか ぼん ち 仏教は、 「 飛 鳥 (今 の 奈 良 県・奈 良 盆 地 )」に あ っ た 朝 廷 の 保 護 を 受 け て 発 展 し 、飛 鳥 文 化 あすか として栄えた。6 世紀末から 7 世紀前半までを「飛鳥時代」と呼ぶ。 「大和政権」をつくった豪族たちは土地や農民の支配をめぐって激しく対立し、政情不 安が高まった。 すい こ てんのう おい 最 初 の 女 帝 と し て 即 位 し た 推 古 天 皇 は 592 年 、 甥 の 「 聖 徳 太 子 」 (574 年 ~ 622 年 )に 、 しず 国政の改革を担当させた。 「 聖 徳 太 子 」は 、中 央 の 豪 族 の 主 導 権 争 い を 鎮 め る た め 、天 皇 中 心の中央集権国家を目指した政治改革を行った。 かん い じゅう に かい せい じゅうしちじょうけんぽう 「 聖 徳 太 子 」 は 、603 年 に「 冠 位 十 二 階 の 制 」を 定 め 、 604 年 に「 十 七 条 憲 法 」を 制 定した。 とく じん れい しん ぎ ち 「 冠 位 十 二 階 の 制 」は 、朝 廷 内 の 地 位 を は っ き り さ せ る た め 、 「 徳 ・仁 ・礼 ・信 ・義 ・智 」 かんむり の六つを、それぞれ大と小に分けて「十二階」とし、 冠 の色を「紫、青、赤、黄、白、 のうたん かん い 黒」と濃淡で区別した。各人の才能や功績に応じて冠位が決められ、後に、中央・地方の い かいせい ど 役人に与えられた位階制度の起源となった。 わ もっ とうと うやま 「和を以て 貴 しとなし」に始まる「十七条憲法」は、仏教を 敬 うこと、国家の中心と しての天皇に服従すること、を強調した。 ていしん お の の いも こ 中 国 の 「 隋 」 と 国 交 を 開 き 、 607 年 に は 廷 臣 (朝 廷 に 仕 え る 者 )・ 小 野 妹 子 を 遣 隋 使 と し たい か かいしん て 中 国 に 派 遣 し 、中 国 文 化 を 導 入 し た 。多 く の 留 学 生 や 学 問 僧 が 同 行 し 、後 の「 大 化 の 改 新 」 などの改革に大きな役割を果たした。 070 げんそん ほうりゅう じ いかるがでら 現 存 す る 世 界 最 古 の 木 造 建 築 物 で あ る 法 隆 寺 (斑 鳩 寺 )は 607 年 、 「 聖 徳 太 子 」に よ っ て 創建された。 た い か か い し ん た い ほ う り つ りょう ◇「大 化 の 改 新 」と「 大 宝 律 令 」◇ おこ 中 国 で は 618 年 に 隋 が 滅 び 、 唐 が 興 っ た 。 日 本 で は 、「 聖 徳 太 子 」 の 死 後 、 豪 族 た ち の 争いが一層激しくなり、強力な国家を建設しようとする動きが強まった。 なかとみのかま こ ふじわらのかまたり なかのおおえのおう じ てん じ 645 年 に 、中 臣 鎌 子 (古 代 の 氏 族 。後 の 藤 原 鎌 足 )や 中 大 兄 皇 子 (後 の 天 智 天 皇 )は 、 「土 はんでんしゅうじゅのほう 地 は 国 家 の 所 有 と す る 」、「 戸 籍 を 作 り 、 一 定 の 土 地 を 授 け る 班 田 収 授 法 を 定 め る 」、「 地 方の行政区画を定める」など、中央集権国家のあり方を示した。この年、初めて元号を採 こうとく 用し、 「 大 化 」と し た 。孝 徳 天 皇 の 下 で 、天 皇 中 心 の 政 治 体 制 を 目 指 し た 一 連 の 改 革 を「 大 化の改新」という。 もん む たいほうがんねん 文 武 天 皇 の 701 年 (大 宝 元 年 )に 、班 田 収 授 法 な ど を 盛 り 込 ん だ 政 治 と 行 政 の 新 し い 仕 組 たいほうりつりょう ととの みを定めた「大宝律 令 」という法律が制定され、国家の形を 整 えた。律令の「律」は現 在 の 刑 法 、「 令 」 は 行 政 法 、 民 法 、 商 法 に 当 た る 。 わ どう わ どうかいちん ちゅうぞう 708 年( 和 同 元 年 )に 、日 本 で 最 初 の 流 通 貨 幣 で あ る「 和 同 開 珎 」が 鋳 造・発 行 さ れ た 。 直 径 24 ㍉ 前 後 の 円 形 で 、 中 央 に 一 辺 が 約 7 ㍉ の 正 方 形 の 穴 が 開 い て い る 。 表 面 に 、 時 計 ぎんせん どう 回りに「和同開珎」と書かれている。銀銭が発行された後、銅銭の鋳造が始まった。 わ どうかいちん 和同開珎 なお、 「 日 本 」を 名 乗 る よ う に な っ た の は 、「大 宝 律 令 」(701 年 )か ら と 言 わ れ て い る 。し せいあん きざ か し 、 2011 年 に 、 中 国 ・西 安 で 見 つ か っ た 678 年 作 の 墓 誌 (故 人 の 事 績 を 刻 ん で 墓 に 収 め せきばん た 石 板 )に「 日 本 」と い う 文 字 が あ る こ と が 明 ら か に さ れ た 。こ れ が 確 認 さ れ れ ば 、670 年 わ こく か 代に「倭国」から「日本」に代わったことになる。 な ら ◇「奈 良 時 代 」◇ けんとう し 8 世 紀 に 入 る と 、「 遣 唐 使 」に よ っ て「 唐 」の 進 ん だ 文 化 が も た ら さ れ 、710 年 に 朝 廷 は ちょうあん せいあん ふじわらきょう 「 唐 」の 都 、 長 安 (現 在 の 西 安 )に な ら っ て 、大 規 模 な 都 を 築 い た 。都 を 、藤 原 京 (現 在 の かしはら へいじょうきょう や ま と こおりやま 奈 良 県 橿 原 市 付 近 )か ら 平 城 京 (現 在 の 奈 良 市 か ら 大 和 郡 山 市 周 辺 )に 移 し た 。 784 年 ま で が 「 奈 良 時 代 」。 071 しょう む がんじん 聖 武 天 皇 (在 位 724 年 ~ 749 年 )の 招 き で 日 本 に 来 た 「 唐 」 の 高 僧 ・ 鑑 真 (688 年 ~ 763 かいりつ 年 )ら が 、 戒 律 の 普 及 や 仏 教 の 発 展 に 大 き く 貢 献 し た 。「 鑑 真 」 は 日 本 へ の 渡 航 に 何 度 も 失 つらぬ しつ たずさ 敗したが、日本に戒律を伝える意志を 貫 き通した。失明の身となり、教典と仏像を 携 え て 日 本 に 来 た の は 、 67 歳 の 時 だ っ た 。 とうしょうだい じ 「鑑真」は、奈良の唐 招 提寺を創建した。 しょう む てんぴょう 「奈良時代」に栄えた高度な貴族文化は、 聖 武天皇時代の元号から「天 平 文化」とい こ じ き に ほんしょ き ふ ど き う 。 こ の 時 期 に 、 歴 史 書 「 古 事 記 」、「 日 本 書 紀 」 や 地 誌 の 書 「 風 土 記 」 な ど が 作 ら れ た 。 まんようしゅう 「 奈 良 時 代 」 ま で の 和 歌 ・ 約 4,650 首 を 集 め た の が 「 万 葉 集 」 だ 。 け ん ず い し け ん と う し ◇「 遣 隋 使 」と「 遣 唐 使 」◇ ずい とう こうしき し せつ 朝 廷 が 中 国 文 化 を 輸 入 す る た め 、7~ 9 世 紀 に 、日 本 か ら「 隋 」や「 唐 」に 公 式 の 使 節 を は けん 派 遣 し た の が 「 遣 隋 使 」、「 遣 唐 使 」 だ 。 留 学 生 や 留 学 僧 な ど 、 多 い 時 は 約 500 人 も 派 遣 さ れた。 お の の いも こ あすか 「 隋 」 は 中 国 大 陸 を 統 一 し た 大 国 。 607 年 の 「 遣 隋 使 」 が 第 一 回 で 、 小 野 妹 子 ( 飛 鳥 時 代 の 政 治 家 、外 交 家 )が「 聖 徳 太 子 」か ら「 隋 」の 王 様 宛 の 手 紙 を 預 か っ て 、海 を 渡 っ た 。 「 隋 」 が 619 年 に 滅 び た た め 、「 遣 隋 使 」 は 614 年 が 最 後 と な り 、 い っ た ん 休 止 し た 。 た そ の 後 、「 唐 」 が 建 っ た の で 、「 遣 唐 使 」 が 630 年 か ら 始 ま っ た 。 すいたい 「 遣 唐 使 」 は 、 約 260 年 間 、 続 い た が 、「 唐 」 の 衰 退 や 「 航 海 の 危 険 」 を 理 由 に 、 894 かんぴょう 年 (寛 平 6 年 )に 廃 止 さ れ た 。 へ い あ ん せ っ か ん ◇「平 安 時 代 」と 「摂 関 政 治 」◇ てんぴょう 「奈良時代」に「天 平 文化」が栄えたものの、皇族や貴族の勢力争いで政治が乱れた。 かん む えんりゃく へいあんきょう 桓 武 天 皇 は 政 治 を 立 て 直 す た め 、794 年 (延 暦 13 年 )に 今 の 京 都 に 平 安 京 を 造 営 し 、そ こに都を移した。 794 年 か ら の 「 平 安 時 代 」 は 約 400 年 間 続 い た 。 さいちょう くうかい てんだいしゅう しんごん 仏 教 界 に も 新 し い 動 き が 起 こ り 、唐 に 渡 っ た 僧 侶 、最 澄 と 空 海 は 帰 国 後 、天 台 宗 と 真 言 しゅう 宗 を開いた。 ふじわらのかまたり 9 世 紀 に 入 る と 、藤 原 鎌 足 の 子 孫 で あ る「 藤 原 氏 」一 族 が 天 皇 の 権 威 と 結 び つ い て 、勢 力を伸ばした。 がいせき ははかた しんるい 当 時 の 貴 族 社 会 で は 、天 皇 の 外 戚 (母 方 の 親 類 )で あ る こ と が 重 要 視 さ れ た 。藤 原 氏 は 代 々 、 せっしょう かんぱく 天 皇 の 外 戚 と な り 、 天 皇 が 幼 い 時 は 摂 政 と し て 、 天 皇 が 成 人 す る と 関 白 (天 皇 を 補 佐 す る 重 職 )と し て 、 政 治 の 実 権 を 握 っ た 。 10 世 紀 後 半 か ら 11 世 紀 頃 、 藤 原 氏 が 天 皇 に 代 わ っ て 行 わ れ た 政 治 を 「 摂 関 政 治 」 と い う。 072 こ く ふ う ◇「国 風 文 化 」◇ 10 世 紀 に な る と 、 新 し い 日 本 風 の 文 化 が 興 っ た 。 豊かな経済力を持つ上流貴族と僧侶たちによって、唐風の文化を日本人の生活に合わせ く ふう からよう わ よう る よ う に 工 夫 さ れ 、「 唐 様 か ら 和 様 へ の 転 換 」 を 特 色 と す る 「 国 風 文 化 」 が 生 ま れ た 。 な ら まんよう 奈 良 時 代 か ら 使 わ れ た 「 万 葉 が な 」 を も と に し て 、「 か な 文 字 」 が 作 ら れ 、 11 世 紀 に は 「漢字」と「かな」で書き表す日本独特の文章が生まれ、漢文学とともに、和歌、随筆、 物語、日記などが発達した。 きのつらゆき ちょくせん へんさん こ きん 紀 貫 之 ら に よ っ て 、最 初 の 勅 撰 和 歌 集 (天 皇 の 命 令 で 選 ば れ た 和 歌 を 編 纂 )で あ る「 古 今 和歌集」が編集された。 むらさきしき ぶ げん じ 「 か な 文 学 」は 主 に 女 性 に よ っ て 書 か れ 、11 世 紀 初 め に は 、 紫 式 部 の 長 編 小 説『 源 氏 ものがたり せいしょう な ごん まくらのそう し 物 語 』や清 少 納言の随筆『 枕 草子』などのすぐれた作品が生まれた。 きのつらゆき と さ にっ き さいしょ 紀貫之の「土佐日記」は女性が書いたようにまとめた最初の「かな文字」日記だ。 げ ん じ へ い し ◇「源 氏 」と「 平 氏 」◇ 10 世 紀 の 中 頃 に な る と 、朝 廷 の 力 が 衰 え 始 め 、各 地 で 、豪 族 を 中 心 に 武 力 を 持 っ た 集 団 たいら が 勢 力 を 強 め た 。 そ の 中 で 強 力 だ っ た の が 源 氏 (源 の 姓 を 有 す る 氏 族 の 総 称 )と 平 氏 ( 平 の 姓 を 有 す る 氏 族 の 総 称 )だ っ た 。 たいらのまさかど しもうふさ 平 将 門 が 下 総 (今 の 千 葉 県 北 部 と 茨 城 県 の 一 部 )を 拠 点 に 関 東 の 大 半 を 征 服 し た 。 みなもとのみつなか せっ つ ど ちゃく よりのぶ 一 方 、 源 満 仲 が 摂 津 (今 の 大 阪 府 と 兵 庫 県 の 一 部 )に 土 着 し て い た が 、そ の 子 、頼 信 が ぼうそう ちんあつ とうごく 千葉県南部の房総半島に広がった乱を鎮圧し、源氏の東国進出のきっかけをつくった。 ふじわら くらい 11 世 紀 中 頃 、 藤 原 氏 と の 関 係 が 薄 い 天 皇 が 位 に つ く と 、 天 皇 に 政 治 の 実 権 を 取 り 戻 そ ご さんじょう しらかわ う と す る 動 き が 強 ま っ た 。 後 三 条 天 皇 の 後 を 継 い だ 白 河 天 皇 (在 位 = 1072 年 ~ 1086 年 ) ほりかわ じょう い じょうこう は 、1086 年 に 幼 い 堀 河 天 皇 に 譲 位 し た が 、自 ら 上 皇 (天 皇 の 位 を 譲 っ た 後 の 呼 び 名 )と し て 、 政 治 の 実 権 を 握 っ て 、 力 を 発 揮 し た 。 上 皇 に よ る 政 治 が 100 年 余 続 い た 。 たいらの 12 世 紀 の 中 頃 に な る と 、源 氏 と 平 氏 は 、皇 室 や 藤 原 氏 の 争 い に 加 わ り 、京 都 で 勝 っ た 平 きよもり 清盛が武士として初めて政治の実権を握り、勢力を飛躍的に伸ばした。 073 二節 =「中世」 か ま く ら ぶ け ◇「鎌 倉 時 代 」と 「武 家 政 治 」◇ へい し 「平氏」による政権は、長くは続かなかった。 「 政 治 は 少 し も 変 わ ら な い 」 と い う 不 満 が 広 が り 、「 みなもとのよりとも 源 頼 朝 」 (1147 年 ~ 1199 年 )や みなもとのよしつね 「 源 義経」らが「平氏」打倒に立ち上がった。 けんきゅう せい い たいしょうぐん とうそつ 「 頼 朝 」の 支 配 権 は 全 国 に 及 び 、1192 年 (建 久 3 年 )、朝 廷 か ら 征 夷 大 将 軍 (武 士 の 統 率 しゃ 者 と し て 最 高 の 地 位 )に 任 命 さ れ 、 鎌 倉 に 「 武 家 政 治 」 で あ る 「 鎌 倉 幕 府 」 が 開 か れ 、「 鎌 倉時代」に入った。 ご ろ あ (「 鎌 倉 時 代 」が 始 ま っ た 年 を 、 「 語 呂 合 わ せ 」で「 い い く に( 1192)」作 ろ う 鎌 倉 幕 府 )、 と 覚 え る )。 じょう い だいじょう こう ぶ 朝 廷 や 譲 位 し た 太 上 天 皇 な ど の 政 治 力 は 依 然 強 か っ た が 、 公 武 (朝 廷 と 幕 府 )の 二 元 的 な 支 配 体 制 の 中 で 、 武 士 の 支 配 力 は 次 第 に 強 ま り 、「 鎌 倉 時 代 」 は 約 140 年 間 続 い た 。 ご け にん 「 鎌 倉 幕 府 」 は 、 将 軍 と 御 家 人 (将 軍 に 仕 え る 者 )が 土 地 を 仲 立 ち と し て 主 従 関 係 を 結 ぶ 封建制度に基づく政権だった。 よりいえ さねとも 「 頼 朝 」 の 死 後 、 子 の 「 頼 家 」、「 実 朝 」 の 時 代 に な り 、 主 導 権 争 い が 激 し さ を 増 す 中 、 まさ こ ほうじょうときまさ しっけん 頼 朝 の 妻 ・ 政 子 の 父 、「 北 条 時 政 」 が 事 実 上 の 実 権 を 握 っ た 。 執 権 政 治 と 呼 び 、 北 条 氏 一 せ しゅう 族が幕府の政権を世 襲 した。 そう きん しっ き こ の 間 、中 国 の 宋 と 貿 易 が 盛 ん に 行 わ れ 、日 本 か ら は 金 、木 材 、米 、漆 器 な ど を 輸 出 し 、 こうりょう 大陸からは宋銭や陶磁器、香 料 などを輸入した。 もう こ じん ぎ す かん 13 世 紀 初 め 、モ ン ゴ ル (蒙 古 )高 原 の チ ン ギ ス カ ン (成 吉 思 汗 )が 中 央 ア ジ ア か ら 南 ロ シ ア だいていこく げん ま で を 征 服 。後 継 者 が 大 帝 国 を 建 設 し 、中 国 を 支 配 し 、国 の 名 を「 元 」(1271 年 ~ 1368 年 ) と定めた。 ぶんえい こうあん 「 元 」の 大 軍 は 、1274 年 (文 永 11 年 )と 1281 年 (弘 安 4 年 )に 九 州 北 部 に 上 陸 し 迫 っ た が 、 むか う 九州地方の武士が迎え討ち、さらに暴風雨などのため敗退した。 しゅうらい げんこう もう こ 元 の 軍 の 襲 来 を 「 元 寇 」 (蒙 古 襲 来 )と 呼 ぶ 。 むろまち あ づちももやま 鎌倉、室町、安土桃山、江戸の各時代は、幕府の権力者である将軍が一貫して天皇から けいおう 政 治 の 大 権 を 預 か る 形 で 政 治 が 行 わ れ た 。 天 皇 に 政 治 の 実 権 が 返 還 さ れ る 1867 年 (慶 応 3 たいせいほうかん 年 )の 大 政 奉 還 ま で の 約 670 年 余 、「 武 家 政 治 」 が 続 い た 。 か ま く ら ◇ 「鎌 倉 文 化 」◇ 「鎌倉時代」には、武士や庶民の素朴で質実な気風を反映した文化が生み出された。 そう もと 一方で、 「 鎌 倉 文 化 」は 大 陸 か ら 来 た 僧 侶 や 商 人 に よ っ て「 宋 」や「 元 」の 影 響 を 受 け た 。 てんだいしゅう しんごんしゅう 特に仏教は、厳しい戒律などを求めた天台 宗 や真言 宗 などと異なり、庶民を対象とす ほうねん じょう ど しゅう な む あ み だ ぶつ ねんぶつ ごく る 宗 派 が 広 が り を 見 せ 、法 然 が 浄 土 宗 (「南 無 阿 弥 陀 仏 」と い う 念 仏 を 唱 え れ ば 、死 後 、極 らくじょう ど おうじょう しんらん じょう ど しんしゅう にちれん にちれんしゅう えいさい りんざいしゅう 楽 浄 土 へ 往 生 で き る と 説 く )を 、親 鸞 が 浄 土 真 宗 を 、日 蓮 が 日 蓮 宗 を 、栄 西 が 臨 済 宗 どうげん そうとうしゅう を、道元が曹洞 宗 を、それぞれ開いた。 074 さいぎょう さん か しゅう ふじわらのてい か しん こ きん かものちょう 文 学 で は 、西 行 の 和 歌 集「 山 家 集 」、 藤 原 定 家 ら が 編 集 し た「 新 古 今 和 歌 集 」、 鴨 長 めい ほうじょう き へい け ものがたり よし だ けんこう つれづれぐさ 明 の 随 筆「 方 丈 記 」、軍 記 物「 平 家 物 語 」(作 者 不 詳 )、吉 田 兼 好 の 随 筆「 徒 然 草 」な ど が 生まれた。 とうだい じ なんだいもん こんごうりき し ぞう ぶっ し うんけい かいけい 彫 刻 で は 、 東 大 寺 南 大 門 の 金 剛 力 士 像 (仏 師 ・ 運 慶 と 快 慶 の 作 )な ど 、 写 実 的 で 力 強 い 作 品が作られた。陶器が「元」や「宋」から伝わった。 な ん ぼ く ちょう ◇「 南 北 朝 時 代 」◇ おとろ ご け にん ぶ しょう あし かが たか うじ 鎌倉幕府の力が徐々に 衰 え始めると、幕府の有力な御家人(武 将 )だった足利尊氏 そむ ようそう にっ (1305 年 ~ 1358 年 )が 幕 府 に 背 く な ど 、権 力 争 い は 複 雑 な 様 相 を 見 せ た 。そ し て 、武 将・新 た よしさだ ほうじょうたかとき げんこう 田 義 貞 が 鎌 倉 幕 府 の 権 力 を 握 っ て い た 北 条 高 時 ら を 滅 ぼ し 、 1333 年 (元 弘 3 年 )鎌 倉 幕 府 は幕を閉じた。 ご だい ご いんせい こ の 時 、 後 醍 醐 天 皇 (在 位 = 1318 年 ~ 1339 年 )は 京 都 に 帰 り 、 院 政 を 排 し て 、 天 皇 自 ら しんせい けん む しんせい が政治を行う天皇親政を始めた。これを建武の新政という。 こうみょう こ れ に 不 満 を 持 っ た 足 利 尊 氏 は 兵 を 挙 げ 、京 都 を 制 圧 し た 。さ ら に 、光 明 天 皇 を 擁 立 し せい い たいしょうぐん むろまちばく ふ ほくちょう て 、 1338 年 に は 自 ら 征 夷 大 将 軍 に な り 「 室 町 幕 府 」 を 開 い た 。 こ れ が 「 北 朝 」 で あ る 。 よし の 一 方 、 京 都 を 逃 れ た 後 醍 醐 天 皇 は 吉 野 (奈 良 県 南 部 )の 山 中 に 立 て こ も り 、 正 統 の 皇 位 を なんちょう 主張した。これを「南 朝 」という。 あしかがよしみつ 南 朝 と 北 朝 の 争 い は 約 60 年 間 続 い た が 、「 足 利 尊 氏 」 の 孫 「 足 利 義 満 」 が 将 軍 に な る 頃 には次第に収まった。この時代が「南北朝時代」だ。 しゅげんしょう こう ぶ てい みん 中 国 で は 、1368 年 に 朱 元 璋 (洪 武 帝 )が「 元 」の 支 配 を 抑 え 、漢 民 族 の 王 朝 で あ る「 明 」 (1368 年 ~ 1644 年 )を 建 国 し た 。 り せいけい こうらい り し ちょうせん り ちょう 朝 鮮 半 島 で は 、 李 成 桂 が 1392 年 に 高 麗 を 倒 し 、 李 氏 朝 鮮 (「 李 朝 」。 1392 年 ~ 1910 年 )を 建 て た 。 む ろ ま ち ◇「室 町 時 代 」◇ あしかがたかうじ あしかがよしみつ めいとく 「 足 利 尊 氏 」 の 孫 で あ る 第 3 代 将 軍 「 足 利 義 満 」 が 南 北 朝 の 内 乱 を 収 め 、 1392 年 (明 徳 3 年 )に 室 町 幕 府 を 築 い た 。 よしあき お だ のぶなが 第 15 代 将 軍 「 足 利 義 昭 」 が 武 将 「 織 田 信 長 」 と 不 和 に な り 、 京 都 を 追 わ れ る ま で の 約 180 年 間 が 室 町 時 代 だ 。 「 義 満 」 が 京 都 ・ 室 町 の 邸 宅 で 政 治 を 行 っ た こ と か ら 、「 室 町 幕 府 」 と 呼 ば れ る 。 あと つ 「 室 町 時 代 」の 後 半 に な る と 、将 軍 の 力 が 弱 く な り 、後 継 ぎ を め ぐ る 争 い を き っ か け に 、 おうにん げ こくじょう 「 応 仁 の 乱 」が 起 こ り 、実 力 の あ る 者 が 上 の 者 に 取 っ て 代 わ る「 下 剋 上 」 1467 年 (応 仁 元 年 )、 の世の中になった。 とのさま せんごく 広い領地を持つ各地の大名(殿様)が、それぞれ国をつくってその支配者になる戦国時 代 が 約 100 年 続 い た 。 おきなわ えいきょう しょう は し りゅうきゅうおうこく 沖 縄 (沖 縄 県 )で は 、 1429 年 (永 享 元 年 )、 尚 巴 志 が 「 琉 球 王 国 」 を 築 い た 。 室町時代の文化は、貴族の文化と庶民の文化、大陸文化と伝統文化など、文化の融合が 075 進み、民族的文化として成熟していった。 のう きょうげん か どう い ばな さ どう ちゃ ゆ 「 能 」、 「 狂 言 」、 「 華 道 (生 け 花 )」、 「 茶 道 (茶 の 湯 )」は 、こ の 時 代 に 伝 統 文 化 と し て の 基 盤を築いた。 かん あ み ぜ あ み ふ し よしみつ 能 役 者・能 作 者 で あ る「 観 阿 弥 」 ・ 「 世 阿 弥 」父 子 は 、第 3 代 将 軍「 義 満 」の 保 護 を 受 け 、 か ぶ げき 「能 」を 極 め て 芸 術 性 の 高 い 歌 舞 劇 と し て 発 展 さ せ た 。 ろくおん じ 「 義 満 」 が 別 荘 と し て 京 都 市 北 山 に 造 っ た の が 金 閣 寺 (鹿 苑 寺 )だ 。 三 層 の う ち 上 二 層 の きんぱく ろうかく しんでんづくり ぜんしゅう じ いん せっちゅう 周 囲 に 金 箔 を 張 っ た 楼 閣 建 築 で 、伝 統 的 な 寝 殿 造 風 と 禅 宗 寺 院 風 の 折 衷 建 築 と し て 有 名 しゃ り でん さいけん だ 。創 建 以 来 の 金 閣 (舎 利 殿 )は 1950 年 (昭 和 25 年 )に 放 火 で 焼 失 し 、5 年 後 の 1955 年 に 再 建 された。 076 三節 =「近世」 きん あ づ ち せい も も や ま ◇「安 土 ・ 桃 山 時 代 」◇ てんぶん たね が しま 1542 年 (天 文 12 年 )に ポ ル ト ガ ル 人 を 乗 せ た 中 国 船 が 九 州 の 種 子 島 に 漂 着 し 、 鉄 砲 ・ 火 なんばんじん 薬が入ってきた。ポルトガル人やスペイン人を南蛮人と呼び南蛮貿易が盛んに行われた。 16 世 紀 後 半 に な る と 、 各 地 に 天 下 統 一 を 目 指 す 戦 国 大 名 が 現 れ た 。 お だ のぶなが えいろく いまがわよしもと おけはざ ま 「 織 田 信 長 」(1534 年 ~ 1582 年 )は 1560 年 (永 禄 3 年 )に「 今 川 義 元 」を「 桶 狭 間 ( 現 在 たたかい てんしょう あしかがよしあき の 愛 知 県 )の 戦 」で 破 り 、1573 年 (天 正 元 年 )に は「 足 利 義 昭 」を 追 放 し て「 室 町 幕 府 」 あ づち を倒した。 「 信 長 」は 安 土 (現 在 の 滋 賀 県 )に 安 土 城 を 築 い て 勢 力 を 広 げ 、京 都 か ら 近 畿 、東 ほんのう じ か しん あけ ち みつ 海 、 北 陸 地 方 を 支 配 し た 。 し か し 、 1582 年 (天 正 10 年 )、 京 都 の 本 能 寺 で 家 臣 の 「 明 智 光 ひで ほんのう じ へん 秀」に殺された。これを「本能寺の変」という。 とよとみひでよし こ の 間 、「 豊 臣 秀 吉 」 (1537 年 ~ 1598 年 )は 、「 織 田 信 長 」 に 仕 え 、 有 力 な 武 将 に 出 世 し しゅっぺい やまざき た 。「 本 能 寺 の 変 」 を 知 っ た 「 秀 吉 」 は 直 ち に 出 兵 、 わ ず か 13 日 後 に 、「 山 崎 (現 在 の 京 かっせん 都 府 と 大 阪 府 の 一 部 )の 合 戦 」 で 「 明 智 光 秀 」 を 討 ち 、 天 下 統 一 の 基 礎 を 築 い た 。 お だ わら 「 秀 吉 」 は 四 国 、 九 州 を 次 々 と 勢 力 下 に 置 き 、 1590 年 (天 正 18 年 )に 小 田 原 (神 奈 川 県 ) ほうじょううじまさ だ て まさむね ふくぞく の「 北 条 氏 政 」を 滅 ぼ し 、 「 伊 達 政 宗 」ら 東 北 地 方 の 諸 大 名 も 服 属 さ せ 、全 国 を 統 一 し た 。 けん ち かたながり 「秀吉」は全国統一のため「検地」と「 刀 狩」を行った。 こめ こくだか 「 検 地 」は 農 民 の 田 畑 を 測 量 す る こ と 。収 穫 で き る 米 の 量 に 換 算 し た 石 高( 一 石 は 150kg) ねん ぐ ねん ぐ まい を定め、それによって、農民は税として自分の持ち分に応じた年貢(主に米=年貢米)を ぐんえき 納 め な け れ ば な ら な い 。 ま た 、 大 名 は 支 配 し て い る 石 高 に 見 合 っ た 軍 役 (軍 事 上 の 負 担 )を 奉仕する体制が出来上がった。 いっ き 「 刀 狩 」は 、農 民 と 武 士 を 分 離 し 、農 民 か ら 武 器 を 没 収 し 、一 揆 (農 民 が 武 器 を 使 っ て 支 配 者 へ の 反 抗 や 抵 抗 の た め 行 動 す る こ と )を 防 ぐ の が 目 的 だ っ た 。 さまた 全 国 統 一 を 果 た し た 秀 吉 は 、キ リ ス ト 教 が 国 家 体 制 の 妨 げ に な る と し て 大 名 ら の キ リ ス ト教入信を許可制にし、宣教師を国外追放した。しかし、キリスト教弾圧は不徹底に終わ った。 ぶんろく けいちょう ま た 、「 秀 吉 」 は 、 1592 年 (文 禄 元 年 )と 1597 年 (慶 長 2 年 )の 2 回 、 約 30 万 人 の 大 軍 てっぺい を 朝 鮮 に 派 兵 し た 。「 秀 吉 」 の 病 死 で 日 本 軍 は 撤 兵 し た が 、 前 後 7 年 に 及 ぶ 日 本 軍 の 侵 略 つめあと は朝鮮の人々と国土に大きな爪痕を残した。 「 織 田 信 長 」と「 豊 臣 秀 吉 」が 政 権 を 握 っ て い た 約 25 年 間 (1573 年 ~ 1598 年 )が 「 安 土 ・ 桃 山 時 代 」 だ 。 長い戦乱が収まり、人々の間に活気があふれ、新鮮で豪華な「安土・桃山文化」が生ま あ づちじょう おおさかじょう ふし み じょう れ た 。そ れ を 象 徴 す る の が 安 土 城 、大 坂 城 (後 に 大 阪 城 )、伏 見 城 な ど の 城 だ 。い ず れ も 、 てんしゅかく ほんまる 重層の天守閣を持つ本丸をはじめ、天下統一の力を誇る雄大で華麗な城だ。 さ どう いず も お くに この時代に「茶道」が確立した。また、出雲(島根県)の「阿国」という女性が組織し か ぶ き た歌舞団の芸が庶民の娯楽として親しまれ、後に「歌舞伎」として発展した。 077 え ど ◇「江 戸 時 代 」◇ とく 東 海 地 方 に 勢 力 を 持 ち 、約 250 万 石( 1 石 は 米・150kg)の 領 地 を 支 配 し て い た 大 名「 徳 がわいえやす 川 家 康 」 (1542 年 ~ 1616 年 )は 秀 吉 の 死 後 、 一 段 と 力 を 強 め た 。 けいちょう せき が はら いし だ みつなり 1600 年 (慶 長 5 年 )に 「 関 ヶ 原 (岐 阜 県 )の 戦 い 」 で 「 石 田 三 成 」 ら を 破 り 、 全 国 の 大 名 せい い たいしょうぐん を 従 え た 。 1603 年 (慶 長 8 年 )に は 朝 廷 か ら 征 夷 大 将 軍 に 任 命 さ れ 、 江 戸 (現 在 の 東 京 )に おおさかなつ じん 幕 府 を 開 き 、徳 川 時 代 (江 戸 時 代 )が 始 ま っ た 。そ し て 、1615 年 (元 和 元 年 )の「 大 坂 夏 の 陣 」 とよとみ し で、大坂城の「豊臣氏」を滅ぼし全国を統一した。 よしのぶ その後、 「 徳 川 氏 」が 将 軍 の 地 位 を 受 け 継 ぎ 、1867 年( 慶 応 3 年 )に 15 代 将 軍「 徳 川 慶 喜 」 へんじょう たいせいほうかん が 政 権 を 朝 廷 に 返 上 す る 「 大 政 奉 還 」 ま で 約 265 年 間 、 全 国 を 支 配 し た 。 武 士 ・将 軍 が 政 権 を 握 る 「 武 家 政 治 」 は 「 江 戸 時 代 」 で 終 わ り を 告 げ た 。 ばくはんたいせい 江戸幕府は幕藩体制だった。 武 士 に よ る「 幕 府 」と 、幕 府 か ら 領 地 を 与 え ら れ た「 藩 (大 名 )」が 土 地 と 農 民 を 統 治 し 、 し ほうけん 「 米 」を「 年 貢 」(税 金 )と し て 徴 収 す る 体 制 の こ と で 、封 建 社 会 と い う 。人 々 の 身 分 を「 士 のうこうしょう 農 工 商 」(武 士 、農 民 、職 工・ 職 人 、商 人 )と い う 厳 し い 身 分 制 度 を 設 け 、少 数 の 武 士 が 多 数の民衆を支配した。 ひゃくしょういっ き う こわ こ の 時 期 、「 百 姓 一 揆 」 や 「 打 ち 壊 し 」 が 多 発 し た 。 き きん しょえき きょうさく 「百 姓 一 揆 」は 、年 貢 や 諸 役 な ど の 重 い 負 担 に 苦 し む 農 民 が 飢 饉 や 凶 作 を き っ か け に 領 主 てんめい に 抵 抗 す る 直 接 行 動 の こ と 。「 百 姓 一 揆 」 は 、 1787 年 (天 明 7 年 )に 江 戸 、 大 坂 (大 阪 )な ど 30 余 の 都 市 で 起 こ る な ど 、 江 戸 時 代 に 3 千 件 以 上 に 上 っ た 。 ま た 、 1782 年 (天 明 2 年 )の てんぽう が し しゃ 「 天 明 の 飢 饉 」 や 、 1832~ 3 年 (天 保 3~ 4 年 )の 「天 保 の 飢 饉 」で は 、 多 数 の 餓 死 者 が 出 た 。 こめどん や 「打ち壊し」は市中の米問屋などが襲われ、倉庫が壊されること。 しゅいんじょう 東 南 ア ジ ア へ の 貿 易 が 盛 ん に な る と 、徳 川 家 康 は 海 外 渡 航 す る 船 に「 朱 印 状 」と い う 許 可証を与え、西日本の大名や有力商人が朱印船貿易を行った。 けいちょう 1607 年 (慶 長 12 年 )に 、豊 臣 秀 吉 の 朝 鮮 出 兵 で 途 絶 え て い た 朝 鮮 と の 国 交 を 回 復 、朝 鮮 の使節が初めて来日した。長崎だけ中国船の貿易が行われた。 もくにん 「 徳 川 家 康 」 は 、 キ リ ス ト 教 徒 を 一 時 的 に 黙 認 し た が 、 約 70 万 人 に も 達 し た キ リ シ タ ン (キ リ ス ト 教 、 カ ト リ ッ ク 教 と そ の 信 者 )の 勢 力 増 大 を 恐 れ て 、 1612 年 (慶 長 17 年 )に キ きんきょうれい リスト教を禁止する禁 教 令を出し、宣教師を追放したり、キリシタンを処刑したりした。 かんえい 江 戸 幕 府 は キ リ ス ト 教 へ の 恐 怖 心 を 強 め 、 1639 年 (寛 永 16 年 )、 ポ ル ト ガ ル 船 の 来 航 を さ こくれい 禁止し、鎖国令を出した。 ふ きょう 以 後 、 約 200 年 、 キ リ ス ト 教 の 布 教 に 関 係 が な か っ た オ ラ ン ダ 、 中 国 以 外 の 外 国 と の と 交 渉 を 閉 ざ し た 。 こ れ が 「 鎖 国 」 で あ る 。 幕 府 は 、「 鎖 国 」 で 貿 易 の 独 占 権 を 握 っ て い た 。 りゅうきゅう さつ ま しま づ いえひさ 「 琉 球 」は 1609 年 (慶 長 14 年 )、薩 摩 (鹿 児 島 県 )の「 島 津 家 久 」の 軍 に 征 服 さ れ 薩 摩 藩 の 支 配 下 に 入 り 、 1879 年 (明 治 12 年 )に 沖 縄 県 と な っ た 。 え ど ◇「江 戸 文 化 」◇ げんろく 江戸時代前期の「元禄」文化と、後期の「化政」文化を江戸文化という。 078 つなよし 17 世 紀 後 半 、 徳 川 5 代 将 軍 「 綱 吉 」 の 頃 、 政 治 の 安 定 と 豊 か な 経 済 力 を 背 景 に 、 華 や か かみがた さ を 持 っ た 町 人 文 化 が 、 上 方 (大 阪 や 京 都 の 周 辺 )で 栄 え た 。 当 時 の 元 号 か ら 元 禄 文 化 と い う。 しゅ し がく じん 上下の身分秩序と礼節を説く朱子学と、最高道徳である「仁」を目指し、社会における じゅがく 人々の役割を説く 儒 学 が重んじられた。 うき よ え 江戸前期は、風俗画「浮世絵」が庶民の間に大きな人気になった。 かい が すず き はるのぶ にしき え た しょくずり うき よ え はん が 「 絵 画 」 で は 、「 鈴 木 春 信 」 が 錦 絵 と 呼 ば れ る 多 色 刷 の 「 浮 世 絵 版 画 」 を 創 作 し た 。 ひしかわもろのぶ にくひつ が み かえ び じん 「 菱 川 師 宣 」は 美 人 、役 者 、相 撲 な ど を「 浮 世 絵 」の 版 画 に し た 。肉 筆 画 の「 見 返 り 美 人 ず 図」が有名だ。 き た がわうたまろ が とうしゅうさいしゃらく え 「 東 洲 斎 写 楽 」の 役 者 絵 ・相 撲 絵 、 「 浮 世 絵 」は 黄 金 期 を 迎 え 、 「 喜 多 川 歌 麿 」の 美 人 画 、 かつしかほくさい うたがわひろしげ ふうけい が 「葛飾北斎」と「歌川広重」の風景画が好評を博した。 いんしょう は 「浮世絵」はモネ、ゴッホなどヨーロッパ印 象 派の画家に強い影響を与えた。 い はらさいかく まつ お ば しょう ちかまつもん ざ え もん 元禄期の文学を代表するのが、井原西鶴、松尾芭 蕉 、近松門左衛門だ。 こうしょくいちだいおとこ にっほんえいたいぐら うき よ ぞう し 「 西 鶴 」は 、 「 好 色 一 代 男 」、 「 日 本 永 代 蔵 」な ど 浮 世 草 子 と 呼 ば れ る 小 説 を 完 成 さ せ た 。 れん が おく ほそみち 「 芭 蕉 」 は 連 歌 か ら 芸 術 性 の 高 い 俳 諧 (俳 句 )を 生 み 出 し 、 多 く の 名 句 と 「 奥 の 細 道 」 な どの紀行文を残した。 にんぎょうじょう る り か ぶ き そ ね ざきしんじゅう しんじゅうてんのあみじま 「 近 松 」は 人 形 浄 瑠 璃 や 歌 舞 伎 の「 曽 根 崎 心 中 」、 「 心 中 天 網 島 」な ど 、義 理 と 人 情 の板ばさみから悲劇の死を遂げる男女の姿などを書いた。 かみがた 18 世 紀 の 末 に は 、 文 化 の 中 心 は 上 方 か ら 江 戸 に 移 り 、 19 世 紀 初 め の 「 文 化 ・ 文 政 」 の 頃になると、江戸の町人や庶民の文化が栄えた。これを「化政文化」と呼ぶ。 しゃれ せんりゅう きょう か 庶民には洒落や皮肉が喜ばれ、世の中を風刺した川 柳 や 狂 歌が流行した。 よ さ ぶ そん しな の こ ばやしいっ さ 俳 諧 で は 京 都 の 「 与 謝 蕪 村 」、 信 濃 (現 在 の 長 野 県 )の 「 小 林 一 茶 」 ら が 活 躍 し た 。 こくがく もとおりのりなが こ じ き でん 「 本 居 宣 長 」は「 古 事 記 伝 」 こ の 頃 、儒 教 や 仏 教 の 考 え に と ら わ れ な い「 国 学 」が 発 達 し 、 あらわ を 著 し、日本古来の精神を説いた。 らんがく 一 方 で 、オ ラ ン ダ 語 を も と に し て 西 洋 の 科 学 や 文 化 を 研 究 す る「 蘭 学 」も 盛 ん に な っ た 。 ば く ま つ ◇「幕 末 」と「王 政 復 古 」◇ 江 戸 幕 府 (徳 川 幕 府 )の 末 期 を 「 幕 末 」 と い う 。 19 世 紀 後 半 、産 業 革 命 に よ っ て 資 本 主 義 体 制 を 整 え た 欧 米 列 強 は 、ア ジ ア へ の 侵 略 を 開 か えい かんたい くろふね 始 し た 。ア メ リ カ は 1853 年 (嘉 永 6 年 )、ペ リ ー・東 イ ン ド 艦 隊 司 令 長 官 が 軍 艦 (黒 船 )4 隻 ひき うら が よこ す か し を 率 い て 浦 賀 (神 奈 川 県 横 須 賀 市 )沖 に 現 れ 、 日 本 に 開 国 を 迫 っ た 。 翌 1854 年 (安 政 元 年 )、 ペ リ ー は 軍 艦 7 隻 と と も に 再 び 来 航 し 、 力 を 背 景 に 江 戸 幕 府 と 日 米 和 親 条 約 を 結 ん だ 。 日 本 は 、 イ ギ リ ス 、 ロ シ ア 、 オ ラ ン ダ と も 和 親 条 約 を 結 び 、 200 さ こく 年以上にわたった日本の「鎖国」は崩れた。 079 幕 府 は や む な く 、 1858 年 (安 政 5 年 )に 自 由 貿 易 な ど を 定 め た 日 米 修 好 通 商 条 約 に 調 印 。 関税の税率決定権が日本にない不平等条約だった。 その後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと同じような通商条約を締結した。 外 国 に 対 す る 開 国 は 、日 本 の 封 建 社 会 に 致 命 的 な 影 響 を 与 え た 。同 時 に 、物 価 上 昇 な ど 、 こんきゅう きわ ひゃくしょういっ き 経 済 の 混 乱 を 来 た し 、庶 民 の 生 活 は 困 窮 を 極 め た 。農 民 や 町 人 の「 百 姓 一 揆 」、 「打ち壊 とうばく し 」 が 多 発 し 、 そ う し た 社 会 を 背 景 に 、 江 戸 幕 府 を 倒 そ う と す る 「 討 幕 (倒 幕 )運 動 」 が 強 まった。 政 治 情 勢 を 安 定 さ せ よ う と す る 幕 府 は 、「 朝 廷 (天 皇 = 公 )」 と 「 幕 府 (武 家 政 権 )」 が 協 こう ぶ がったい そん のう じょう い ちょうしゅうはん 力 す る 「 公 武 合 体 」 運 動 を 進 め た が 、 そ の 中 で 「 尊 皇 攘 夷 」 を 掲 げ る 長 州 藩 (山 口 県 ) の動きが活発になった。 すうはい 《 尊 皇 攘 夷 = 天 皇 の 絶 対 的 権 威 を 認 め て 、 皇 室 を 崇 拝 す る 思 想 が 「 尊 皇 」。 開 国 に 反 対 し て 、外 国 人 を 入 国 さ せ ず 、外 国 を 排 撃 す る 考 え 方 が「 攘 夷 」。 外 圧 が 増 大 す る に つ れ て 、二 つ が 結 び つ い た「 尊 皇 攘 夷 論 」が 広 が っ た 》。 さと だ が 、「 攘 夷 」 が 困 難 だ と 悟 っ た 武 士 た ち は 、 逆 に 欧 米 か ら 学 ぶ 姿 勢 に 転 じ た 。 そ し て 、 幕府を倒して新しい政治の実現を望んだ。 たかすぎしんさく かつら こ ご ろう はん し 「 高 杉 晋 作 」、 「 桂 小 五 郎 」ら の 藩 士 を 中 心 と し た 長 州 藩 は 、朝 廷 と 幕 府 の 双 方 に つ な が さつ ま はん さっちょうれんごう り の 深 い 薩 摩 藩 (鹿 児 島 県 )と 軍 事 同 盟 の 密 約 ・「 薩 長 連 合 」 を 結 ん で 「 討 幕 」 の 動 き を 強 めた。 と さ はん こう ち けん さかもとりょう ま 薩 摩・長 州 の 両 藩 が 武 力 に よ る「 討 幕 」を 決 意 し た た め 、土 佐 藩 (高 知 県 )の「 坂 本 龍 馬 」 よしのぶ (1835 年 ~ 1867 年 )ら は 1867 年 (慶 応 3 年 )、 徳 川 15 代 将 軍 「 慶 喜 」 に 政 権 を 朝 廷 に 返 上するよう申し出た。 たいせいほうかん 「 徳 川 慶 喜 」は こ れ を 受 け 入 れ て 、政 権 を 返 上 す る「 大 政 奉 還 」の 文 書 を 朝 廷 に 提 出 し た。 幕府側の巻き返しの動きもあったが、討幕派は政変を決行した。 おうせいふっ こ 朝 廷 に よ る「 王 政 復 古 」(武 家 政 治 を 廃 止 し 、天 皇 に よ る 政 治 に 戻 す )を 宣 言 し 、天 皇 を 中心とする明治新政府を樹立した。 080 四節 =「近代」と「現代」 め い じ い し ん ◇「明 治 維 新 」◇ 「幕末」から明治初年にかけての政治体制の変更を「明治維新」という。 日本は、封建国家から近代市民国家へ生まれ変わった。 一方で、近代天皇制がスタートしたものの、日本は激動の時代に突入した。 とくがわよしのぶ よう やぶ 1868 年 (明 治 元 年 )1 月 、 幕 府 側 は 「 徳 川 慶 喜 」 を 擁 し て 新 政 府 に 反 撃 し た が 敗 れ 、「 慶 のが せいばつ 喜」は京都から江戸に逃れた。新政府は「慶喜」を朝廷の敵とみなして、江戸征伐の軍を 出し 4 月に幕府があった江戸を制圧した。 ご か じょう せいもん そ の 一 カ 月 前 に は 、 天 皇 が す べ て の 神 に 誓 約 す る 「 五 箇 条 の 誓 文 」 を 公 布 し 、「 広 く 会 おこ ばん き こうろん ろうしゅう 議 を 興 し 、 万 機 公 論 に 決 す べ し 」、「 旧 来 の 陋 習 (悪 い 習 慣 )を 破 り 、、、」 な ど 、 明 治 新 政 府 の五つの基本政策を示した。 だ じょうかん そして、太 政 官を中心とした政府組織を作り、7 月に「江戸」を「東京」と改め、9 月 もち せい に は 年 号( 元 号 )を「 明 治 」と し 、 「 一 代 の 天 皇 に 一 つ の 元 号 を 用 い る 」一 世 一 元 の 制 度 を 整えた。 せん と 翌 明 治 2 年 ( 1969 年 ) に は 東 京 遷 都 を 果 た し 、 首 都 を 京 都 か ら 東 京 に 移 し た 。 はんせきほうかん 明 治 政 府 は 、 1869 年 (明 治 2 年 )6 月 に 「 版 籍 奉 還 」 (各 地 の 大 名 が 領 地 ・ 領 民 を 天 皇 に はいはん ち けん 返 還 す る こ と )を 命 じ 、1871 年 (明 治 4 年 )7 月 に は「 廃 藩 置 県 」(全 国 の 藩 を 廃 止 し て 、府 県 制 度 に 改 め る )を 断 行 、 中 央 集 権 を 実 現 し た 。 さつ ま ちょうしゅう と さ ひ ぜん 明 治 政 府 の 基 礎 は 固 ま っ た が 、事 実 上 、薩 摩 、 長 州 、土 佐 、肥 前 (佐 賀 県 と 長 崎 県 の 一 さつ ちょう ど ひ 部 )の 四 つ の 藩 (薩 ・ 長 ・ 土 ・ 肥 )の 出 身 者 が 政 府 の 実 権 を 握 っ た た め 、「 藩 閥 政 治 」 と 呼 ばれた。 ふ こくきょうへい 政 府 は 欧 米 の 先 進 資 本 主 義 国 に 対 抗 す る た め 、富 国 強 兵 を 目 指 し 、近 代 産 業 の 育 成 を 図 りながら、新しい制度の確立を目指した。 ちょうへいれい 1872 年 (明 治 5 年 )1 月 に 、満 20 歳 に な っ た 男 子 を 強 制 的 に 兵 士 と す る 徴 兵 令 を 公 布 し 、 軍事的基礎を築いた。 ま た 、欧 米 の 文 化 を 積 極 的 に 取 り 入 れ 、官 営 の 郵 便 制 度 が 発 足 し 、1872 年 (明 治 5 年 )12 たいようれき 月 に 太 陽 暦 を 採 用 し 、 一 日 を 24 時 間 と し 、 日 曜 休 日 制 が 実 施 さ れ 、 日 刊 新 聞 や 雑 誌 が 東 京を中心に発行された。 ぶんめいかい か 生活や文化が近代化された風潮を「文明開化」と呼び、洋服や、髪を短く切りそろえた 「 ざ ん ぎ り 頭 」が 広 が っ た 。 「 ざ ん ぎ り 頭 を 叩 い て み れ ば 文 明 開 化 の 音 が す る 」と 歌 わ れ た 。 ちょうせん さいごうたかもり 明 治 政 府 が 朝 鮮 に 国 交 樹 立 を 求 め る 中 、 1873 年 (明 治 6 年 )、 薩 摩 藩 士 「 西 郷 隆 盛 」 や いたがきたいすけ げ や 土 佐 の 政 治 家「 板 垣 退 助 」ら が 武 力 を 背 景 に 征 韓 論 を 唱 え た が 反 対 に あ い 、 「 西 郷 」ら は 下 野 こう か とう し た 。 2 年 後 の 1875 年 (明 治 8 年 )、 日 本 軍 艦 が 上 陸 し よ う と し て 衝 突 し た 江 華 島 事 件 を 機に、政府は不平等条約である日朝修好条約を押し付け、朝鮮を開国させた。 からふと ち しまこうかん 明 治 政 府 は 領 土 の 確 定 に 努 め 、1875 年 (明 治 8 年 )に ロ シ ア と 樺 太・千 島 交 換 条 約 を 結 び 、 樺太の権利をロシアに譲り、日本が千島全島を領有した。 081 お がさわらしょとう イギリス、アメリカとの間で帰属が明確でなかった小笠原諸島を日本の領有とした。 りゅうきゅうはん 1879 年 (明 治 12 年 )に 琉 球 藩 を 廃 止 し て 沖 縄 県 を 設 置 し た こ と で 、 琉 球 王 国 は 滅 亡 し た。 「明治維新」後の改革で打撃を受けた士族は各地で反乱を起こした。 せいなん えき 1877 年 に は 、鹿 児 島 県 で「 西 郷 隆 盛 」を 指 導 者 と す る 最 大 の 反 乱「 西 南 の 役 (西 南 戦 争 )」 ちんてい が 起 き た が 、政 府 は 約 半 年 後 に 鎮 定 し 、こ れ を 最 後 に 、明 治 政 府 に 対 す る 反 乱 は 収 ま っ た 。 だ い に っ ぽ ん て い こ く け ん ぽ う ◇「大 日 本 帝 国 憲 法 」と「議 会 」◇ いたがきたいすけ 1874 年 (明 治 7 年 )、郷 里 の 土 佐 (高 知 県 )に 帰 っ た「 板 垣 退 助 」ら は「 自 由 」と「 政 治 へ の参加」を求める自由民権運動を起こした。イギリスやフランスの民権思想の影響を受け た運動は、政府が弾圧を強める中、国会の開設を認めさせた。 おおくましげのぶ 「 板 垣 退 助 」は 1881 年 (明 治 14 年 )に 自 由 党 を 結 成 、翌 年 に は「 大 隈 重 信 」が イ ギ リ ス 風の議会政治を掲げる立憲改進党を結成した。 1882 年 (明 治 15 年 )に 、 中 央 銀 行 で あ る 日 本 銀 行 が 設 立 さ れ た 。 だ じょうかんせい い とうひろぶみ 1885 年 (明 治 18 年 )に は 太 政 官 制 を 廃 止 し て 内 閣 制 度 が 誕 生 し 、「 伊 藤 博 文 」 が 初 代 の 内 閣 総 理 大 臣 (首 相 )に な っ た 。 きんていけんぽう 1889 年 (明 治 22 年 )2 月 11 日 に は 、 天 皇 が 定 め た 欽 定 憲 法 で あ る 大 日 本 帝 国 憲 法 (明 治 とう ち けん そうらんしゃ 憲 法 )が 発 布 さ れ た 。天 皇 は「 統 治 権 の 総 攬 者 」(権 力 を 一 手 に 掌 握 し て い る 者 )と な り 、帝 とうすいけん 国 議 会 、 内 閣 、 裁 判 所 は 天 皇 の 統 治 下 に 置 か れ た 。 陸 海 軍 の 統 帥 権 (軍 隊 の 最 高 指 揮 権 )は 天皇直属となった。 国民に厳しい制限はあったものの、言論、出版、集会、信教などの自由が認められた。 ちょく ご 一 方 で 、 憲 法 発 布 の 翌 年 に は 教 育 勅 語 が 発 布 さ れ 、「 忠 君 愛 国 」 の 道 徳 を 基 本 と す る 国 民 教育が始まった。 帝 国 議 会 は 、「 貴 族 院 」 と 「 衆 議 院 」 の 二 院 制 で 、「 貴 族 院 」 は 貴 族 と 華 族 、 さ ら に 天 皇 が 任 命 し た 議 員 か ら 成 り 、「 衆 議 院 」 は 選 挙 で 選 ば れ た 議 員 で 構 成 さ れ た 。 第 一 回 の 衆 議 院 議 員 の 総 選 挙 は 1890 年 (明 治 23 年 )に 行 わ れ た 。 選 挙 人 は「 満 25 歳 以 上 の 男 子 で 、直 接 国 税 15 円 以 上 の 納 税 者 」に 限 ら れ た た め 、有 権 くろ だ きよたか 者 は 総 人 口 の 1% 超 に 過 ぎ な か っ た 。 こ の 時 の 首 相 は 「 黒 田 清 隆 」。 日 本 は ア ジ ア で 唯 一 、「 憲 法 と 議 会 」 を 持 つ 近 代 的 立 憲 国 家 だ っ た 。 に っ し ん せ ん そ う に ち ちゅう に ち こ う ご ろ ◇「日 清 戦 争 ( 中 日 甲 午 戦 争 ) 」 と 「 日 露 戦 争 」◇ しんこく 日 本 は「 朝 鮮 」を 勢 力 下 に 置 こ う と し た た め 、 「 朝 鮮 」を 勢 力 範 囲 と み な し て い た「 清 国 」 と対立した。 はいにち こう ご 1894 年 (明 治 27 年 )、 朝 鮮 国 内 で 「 減 税 と 排 日 」 を 要 求 す る 農 民 の 戦 争 (甲 午 農 民 戦 争 ) が起こり、朝鮮政府は「清国」に援軍を要請。日本が「朝鮮」に侵入したため「日清戦争 しもの (中 日 甲 午 戦 争 )」が 始 ま っ た 。日 本 が 勝 利 し 、両 国 は 1895 年 (明 治 28 年 )4 月 、山 口 県 下 せき りょうとうはんとう たいわん ほう こ しょとう ば かん 関 で 、「 遼 東 半 島 、 台 湾 、 澎 湖 諸 島 を 日 本 に 譲 る 」 な ど の 下 関 条 約 (馬 関 条 約 )を 結 ん だ 。 082 日本は、大陸侵略の一歩を踏み出した。 だ が 、 遼 東 半 島 を 日 本 に 割 譲 し た こ と に 反 発 し た 「 ロ シ ア 」 は 、「 フ ラ ン ス 」、「 ド イ ツ 」 さんごくかんしょう を 誘 い 、遼 東 半 島 を「 清 国 」に 返 還 す る よ う 日 本 に 要 求 し た 。こ れ を「 三 国 干 渉 」と い う 。 対 抗 す る 力 が な い と 判 断 し た 日 本 は 要 求 を 受 け 入 れ 、 返 還 に 応 じ た 。 し か し 、「 ロ シ ア 」 への敵意を増大させ、欧米諸国に対抗できる軍事力を備える動きを強めた。 かんこく だいかんていこく まんしゅう そ し て 、「 韓 国 」 (朝 鮮 は 1897 年 に 国 号 を 大 韓 帝 国 「 韓 国 」 と 改 め た )や 「 満 州 」 (中 国 ぶ の 東 北 部 )の 支 配 権 を め ぐ っ て 、 日 本 は 「 ロ シ ア 」 と 激 し く 対 立 、 1904 年 (明 治 37 年 )に にち ろ せんそう 「日露戦争」が始まった。 りょじゅん ほうてん しんよう 翌 年 、ロ シ ア の 根 拠 地 だ っ た 旅 順 や 奉 天 (現 在 の 中 国・瀋 陽 )を 占 領 し て 勝 利 し た 日 本 は 、 みなみまんしゅう 韓 国 に 対 す る 支 配 権 や 南 満 州 鉄 道 (満 鉄 )の 経 営 権 な ど を 獲 得 し た 。 ほんそう 日 本 は 、「 日 清 戦 争 」 と 「 日 露 戦 争 」 の 勝 利 後 、 大 陸 侵 略 の 拡 大 に 奔 走 し た 。 へいごう そうとく ふ 1910 年 (明 治 43 年 )に は 韓 国 併 合 を 行 い 、 朝 鮮 総 督 府 を 置 い た 。 い とうひろぶみ えきとう あんじゅう こ の 前 年 に 、首 相 を 務 め た「 伊 藤 博 文 」が 中 国・ハ ル ビ ン 駅 頭 で 韓 国 の 独 立 運 動 家・安 重 こん 根に暗殺された。 《 注 ・ 1945 年 8 月 に 、 朝 鮮 半 島 南 部 が 「 大 韓 民 国 ( 韓 国 )」 と な っ た 》 だ い い ち じ せ か い た い せ ん ◇「第 一 次 世 界 大 戦 」◇ 「日露戦争」後、ヨーロッパでは帝国主義国の対立が深まった。 1914 年 (大 正 2 年 )、バ ル カ ン 半 島 か ら 始 ま っ た 戦 火 は 、ド イ ツ 、オ ー ス ト リ ア 、イ タ リ アの「同盟国」と、イギリス、フランス、ロシアの「連合国」との戦争に拡大した。全ヨ ーロッパを巻き込んだ史上空前の「第一次世界大戦」となった。 日本は、日英同盟を理由に「連合国」側に加わり、東アジアにおける諸権利を強化し、 その地位を確保しようとした。 えんせいがい さんとうしょう 1915 年 (大 正 4 年 )、 日 本 政 府 は 「 中 国 ( 清 朝 )」 の 袁 世 凱 政 府 に 対 し 、「 山 東 省 の ド イ ツ利権の継承」など「二十一ヶ条の要求」を突き付け、大部分を承認させた。 この戦争をきっかけに日本経済は慢性的不況を脱し、好景気を迎えた。 ①日本が戦場にならなかった。②戦争で手いっぱいの西欧列強に代わって中国市場を独 占した、③全世界に日本商品を売り込んだ、などが要因だった。 こうとう こめ し か し 、大 戦 景 気 は 長 続 き し な か っ た 。米 価 な ど の 物 価 が 高 騰 し 、都 市 労 働 者 や 婦 人 が 米 や こめそうどう 屋などを襲撃する「米騒動」が自然発生的に広がった。 はらたかし 内 閣 批 判 が 高 ま り 、 1918 年 (大 正 7 年 )、 首 相 は 立 憲 政 友 会 の 総 裁 「 原 敬 」 に な っ た 。 へいみんさいしょう 「 原 敬 」は 華 族 で も 藩 閥 出 身 で も な い 、国 民 に 選 ば れ た 衆 議 院 議 員 の 平 民 宰 相 と し て 歓 迎 された。 第 一 次 世 界 大 戦 は 1918 年 (大 正 7 年 )、 日 本 も 加 わ っ た 「 イ ギ リ ス 」、「 フ ラ ン ス 」、「 ロ シア」の「連合国」側の勝利に終わったが、1 千万人近い死者と数千万人の負傷者を出し た 。翌 年 、パ リ で 講 和 会 議 が 開 か れ 、ヴ ェ ル サ イ ユ 条 約 が 調 印 さ れ 、 「 ド イ ツ 」は す べ て の けんえき 植民地を失い、日本は中国にあった「ドイツ」の権益を継承した。 国 際 平 和 と 民 族 自 決 の 機 運 が 高 ま り 、1920 年 (大 正 9 年 )、国 際 平 和 維 持 機 関 と し て「 国 083 際連盟」が設立され、日本は常任理事国になった。 よし の さくぞう こ の 間 、 世 界 的 な 民 主 主 義 の 風 潮 を 受 け 、 1916 年 (大 正 5 年 )に 「 吉 野 作 造 」 が 民 本 主 義《 「主 権 は 国 民 の た め の も の 」と い う 考 え 方 》を 提 唱 し 、国 民 の 間 に 政 治 の 民 主 化 を 求 め る 声 が 高 ま っ た 。 1925 年 (大 正 14 年 )に 普 通 選 挙 法 が 成 立 し 、 満 25 歳 以 上 の 男 子 に 衆 議 院議員の選挙権が与えられた。 たいしょう こうした民主化の動きを「大 正 デモクラシー」という。 ま ん しゅう じ に っ ちゅう へ ん ◇「満 州 事 変 (九 ・ 一 八 事 変 ) 」 と 「 日 中 戦 争 」◇ 第一次世界大戦の終結によってヨーロッパ諸国の復興が進み、ヨーロッパの商品がアジ ア市場に再び出回るようになると、日本は不景気になった。 まんしゅう しょくみん ち たいわん ちょうせん 一方、満 州 や、 植 民地の台湾、 朝 鮮で抗日運動が激しくなった。 これに対し、国内では一部の軍人などが「満州は日本の生命線である」と主張、国民生 い づ 活の行き詰まりを、中国侵略で打開しようとする動きが強まった。 かんとうぐん ばく は 1931 年 (昭 和 6 年 )、日 本 軍 (関 東 軍 )は 、満 州 で 南 満 州 鉄 道 爆 破 事 件 を 起 こ し 、こ れ を 中 国 軍 の 仕 業 と し て 軍 事 行 動 を 開 始 し た 。「 満 州 事 変 」 (九 ・ 一 八 事 変 )で あ る 。 翌年、日本軍は「満州国」をつくり、日本政府もこれを認めた。これを契機に、政党政 たいとう 治打倒を目指す軍部や国家主義革命勢力が急速に台頭した。 日 本 は 1933 年 (昭 和 8 年 )、「 国 際 連 盟 」 を 脱 退 し 、 国 際 的 に 孤 立 し て い っ た 。 ぺ きん ろ こうきょう じ けん 日 本 軍 は 1937 年 (昭 和 12 年 )、 北 京 郊 外 で 中 国 軍 と 「 盧 溝 橋 事 件 」 を 起 こ し 、 日 本 が なんきん だいぎゃく 中 国 を 侵 略 す る「 日 中 戦 争 」が 始 ま っ た 。12 月 に は 、日 本 軍 は 南 京 を 占 領 し 、 「南京大 虐 さつ ざんぎゃく ふ じょ し 殺 事 件 」 を 起 こ し た 。 日 本 軍 は 残 虐 な 手 段 で 、 非 戦 闘 員 の 婦 女 子 を 含 む 30 万 人 前 後 の 中 国人を殺害した。 1938 年 (昭 和 13 年 )に は 国 家 総 動 員 法 が 制 定 さ れ 、経 済 も 国 民 生 活 も 政 府 の 統 制 下 に 入 だいとう あ きょう っ た 。日 本 は 石 油 な ど の 資 源 を 求 め る た め 、東 ア ジ ア の ほ ぼ 全 域 を 勢 力 圏 と す る「 大 東 亜 共 えいけん 栄圏」を目指したが、アメリカ、イギリスなど列強による対日経済封鎖を招いた。 だ い に じ ◇「第 二 次 世 界 大 戦 」◇ ヨ ー ロ ッ パ で は 、「 ド イ ツ 」と「 イ タ リ ア 」が 手 を 結 び 、「 イ ギ リ ス 」、 「フランス」 「 、ソ れんごうこく 連 」な ど の「 連 合 国 」と 戦 争 を 始 め て い た 。1939 年 (昭 和 14 年 )9 月 に 、「 ド イ ツ 」が「 ポ ー ラ ン ド 」 に 侵 入 、「 イ ギ リ ス 」、「 フ ラ ン ス 」 が 「 ド イ ツ 」 に 宣 戦 布 告 し 、「 第 二 次 世 界 大 ぼっぱつ 戦」が勃発した。 にちどく い さんごくどうめい 日 本 は 、「 ド イ ツ 」、「 イ タ リ ア 」 と 「 日 独 伊 三 国 同 盟 」 を 結 び 、 一 方 、「 連 合 国 」 に 「 ア メ リ カ 」が 加 わ っ た 。第 二 次 世 界 大 戦 は 、「 日 ・ 独 ・ 伊 」と 米 ・ 英 ・ 仏 ・ ソ 連 な ど の「 連 合 国」との世界的規模の大戦争に発展した。 「アメリカ」は日本の対外侵略を阻止するため経済制裁を加えた。 日本はこれに危機感を募らせ、軍部は戦争に打って出た。 とうじょうひで き ないかく 「 東 条 英 機 」内 閣 は 1941 年 (昭 和 16 年 )12 月 8 日 、ア メ リ カ ・ ハ ワ イ の パ ー ル ハ ー バ 084 しんじゅわん ー (真 珠 湾 )を 奇 襲 攻 撃 し 、「 ア メ リ カ 」、「 イ ギ リ ス 」 に 宣 戦 を 布 告 し た 。 へいこう 日本は「日中戦争」と並行して「太平洋戦争」に突入、戦時態勢を一段と強化した。 がく と しゅつじん 1943 年 (昭 和 18 年 )、大 学・高 等 専 門 学 校 の 文 科 系 学 生 を 陸 海 軍 に 召 集 す る「 学 徒 出 陣 」 きんろうれい が行われた。翌年には「学徒勤労令」が公布され、中等学校以上の学生・生徒を働かせる がく と どういん ていしんたい 「学徒動員」が実施された。未婚の女子を女子挺身隊として軍需工場等に配置した。この 時期、数十万人の朝鮮人や占領下の中国人を日本に連行して、鉱山などで働かせた。さら い あんしょ に 、日 本 軍 は「 朝 鮮 半 島 」、 「 中 国 」、 「 フ ィ リ ピ ン 」な ど の 女 性 を 戦 地 へ 連 行 し 、軍 の 慰 安 所 じゅうぐん い あん ふ で 強 制 的 に 働 か せ た 。強 制 連 行 や「 従 軍 慰 安 婦 問 題 」は 日 本 の 歴 史 に 大 き な 汚 点 を 残 し た 。 1943 年 (昭 和 18 年 )、 ア メ リ カ 大 統 領 ・ ル ー ズ ベ ル ト 、 イ ギ リ ス 首 相 ・ チ ャ ー チ ル 、 中 しょうかいせき 国 国 民 党 政 府 主 席 ・ 蒋 介 石 が エ ジ プ ト の カ イ ロ で 会 談 、「 日 本 に 対 す る 徹 底 的 攻 撃 」 を 決 い にんとう ち りょう めると同時に、 「 第 一 次 世 界 大 戦 後 に 日 本 の 委 任 統 治 領 と な っ て い た 南 洋 諸 島 の 奪 還 」、 「満 ほう こ しょとう 州 、 台 湾 、 澎 湖 諸 島 の 中 国 帰 属 」、「 朝 鮮 の 独 立 」 な ど の 「 カ イ ロ 宣 言 」 を 行 な っ た 。 「連合国」側の反攻が激しさを増し、戦局は次第に日本に不利となった。 「 日 独 伊 三 国 同 盟 」 の 「 イ タ リ ア 」 が ま ず 降 伏 し 、「 ド イ ツ 」 も 1945 年 (昭 和 20 年 )5 月 に 無 条 件 降 伏 し 、日 本 は 孤 立 し た 。7 月 に は 、「 ア メ リ カ 」、「 イ ギ リ ス 」、「 ソ 連 」の 三 国 首 脳 が「 ド イ ツ 」ベ ル リ ン 郊 外 の ポ ツ ダ ム で 会 談 、 「 日 本 軍 隊 の 無 条 件 降 伏 」と「 日 本 の 戦 後 処 理 方 針 」 に つ い て 勧 告 す る 「 ポ ツ ダ ム 宣 言 」 を 、「 ア メ リ カ 」、「 イ ギ リ ス 」、「 中 国 」 の三国の名で発表した。 日本の敗戦は誰の目にも明らかだったが、日本は最後まで戦いをやめなかった。 1945 年 8 月 、ア メ リ カ 軍 は 日 本 と の 戦 争 を 終 結 さ せ る た め に 、広 島 市 と 長 崎 市 に 世 界 最 げん し ばくだん 初 の 原 子 爆 弾 を 投 下 し た 。被 爆 後 5 年 間 に 、広 島 で 20 万 人 、長 崎 で 14 万 人 以 上 の 市 民 が 死亡した。 8 月 8 日には、 「 ソ 連 」も 日 本 に 宣 戦 し 、日 本 は 8 月 14 日 、 「 ポ ツ ダ ム 宣 言 」を 受 諾 し た 。 翌 8 月 15 日 、昭 和 天 皇 は ラ ジ オ で 戦 争 の 終 結 を 国 民 に 告 げ 、4 年 に わ た っ た「 太 平 洋 戦 争」は終了、6 年間の「第二次世界大戦」も終わった。この大戦は死者 4 千万人以上、負 さんがい 傷者 1 億人以上に上る大きな惨害をもたらした。 この年、アメリカ・サンフランシスコで開かれた「連合国」側によるサンフランシスコ 会 議 で 国 際 連 合 憲 章 が 定 め ら れ 、 10 月 に 51 カ 国 が 参 加 し て 「 国 際 連 合 (国 連 )」 が 設 立 さ れた。 に ほ ん こ く け ん ぽ う ◇「日 本 国 憲 法 」と 国 際 社 会 へ の 復 帰 ◇ 敗戦で日本は軍部による政治支配が終わった。 げんすい せんりょう ア メ リ カ の マ ッ カ ー サ ー 元 帥 を 最 高 司 令 官 と す る「 連 合 国 軍 総 司 令 部 (G H Q )」の 占 領 政策によって、日本の民主化が始まった。 1945 年 (昭 和 20 年 )12 月 以 降 、労 働 組 合 の 結 成 、婦 人 参 政 権 を 認 め た 選 挙 法 の 制 定 、財 閥 解 体 、「 6 ・ 3 ・ 3 ・ 4 」 の 新 し い 学 制 ( 小 学 校 6 年 ・ 中 学 校 3 年 ・ 高 等 学 校 3 年 ・ 大 学 4 年)の発足、農地改革などの民主化が進められた。 085 日 本 の 民 主 化 に 最 も 重 要 な 意 味 を 持 つ の が 、 1946 年 (昭 和 21 年 )11 月 3 日 に 公 布 さ れ 、 翌年の 5 月 3 日に施行された「日本国憲法」だ。 日 本 国 憲 法 は 戦 前 の 「 大 日 本 帝 国 憲 法 」 と 根 本 的 に 異 な り 、「 主 権 在 民 、 基 本 的 人 権 の 尊重、戦争放棄」が三原則だ。さらに、天皇は「日本国民統合の象徴」として政治的中立 の地位になり、衆議院と参議院の二院制の国会が「国権の最高機関」と定められた。 1952 年 ( 昭 和 27 年 )、 7 年 間 続 い た 連 合 国 軍 に よ る 日 本 占 領 は 幕 を 閉 じ た 。 1956 年 (昭 和 31 年 )に 、 日 本 の 「 国 際 連 合 (国 連 )」 へ の 加 盟 が 認 め ら れ 、 国 際 社 会 へ の 復帰を果たした。 に ち べ い ど う め い き じ く ◇「日 米 同 盟 」が 基 軸 ◇ 日 本 は 1951 年 (昭 和 26 年 )10 月 、 「 ア メ リ カ 」の サ ン フ ラ ン シ ス コ で 開 か れ た 講 和 会 議 で 、「 ア メ リ カ 」 を 中 心 と す る 48 カ 国 と 「 サ ン フ ラ ン シ ス コ 平 和 条 約 」 を 結 ん だ 。 1951 年 の「 サ ン フ ラ ン シ ス コ 平 和 条 約 」調 印 と 同 じ 日 、日 本 は「 ア メ リ カ 」と の 間 で「 日 あん ぽ ちゅうりゅう 米 安 全 保 障 条 約( 日 米 安 保 条 約 )」を 結 び 、日 本 国 内 へ の ア メ リ カ 軍 の 駐 留 を 認 め た 。さ ら に 1960 年 (昭 和 35 年 )に 、 日 本 の 防 衛 力 強 化 や 日 米 経 済 協 力 の 推 進 な ど を 内 容 と す る 「新日米安保条約」に改定した。学生を中心に、条約改定に反対する激しい「安保闘争」 ひ じゅん が展開されたが、6 月に批 准 された。 めいしゅ 第 二 次 世 界 大 戦 後 の 世 界 は 、 超 大 国 で あ る 資 本 主 義 ・ 自 由 主 義 陣 営 の 盟 主 ・「 ア メ リ カ 」 とうざいれいせん と 、共 産 主 義・社 会 主 義 陣 営 の 盟 主・ 「 ソ 連 」の 対 立 、い わ ゆ る「 東 西 冷 戦 」が 1991 年( 平 成 3 年 ) ま で 続 い た 。 そ う し た 中 で 、 日 本 は 一 貫 し て 「 日 米 同 盟 」 を 基 軸 と し 、「 日 米 協 あゆ 調路線」による外交・安全保障の道を歩んでいる。 ◇「日 本 」と 「ア ジ ア 」◇ ちょうせん 1950 年 の 朝 鮮 戦 争 で 、「 米 国 」 と 「 中 国 」( 中 華 人 民 共 和 国 ) の 関 係 が 悪 化 し 、 日 本 は たいわん にっ か 1952 年 に 「 台 湾 」 を 選 択 し 、 日 華 平 和 条 約 を 締 結 し た 。 しんたい は けん 日本では、 「 台 湾 」に 好 意 的 な 親 台 派 の 力 が 強 く 、 「 東 西 冷 戦 」下 で 、 「 中 国 」に 対 し て 嫌 お 悪や不信感を抱く日本国民が少なくなかった。 た なかかくえい じ ひつ し か し 、自 民 党 の 田 中 角 栄 氏 が 1972 年 7 月 に 首 相 に 就 任 す る と 同 時 に 、自 筆 の「 親 書 」 ひそ もうたくとうしゅせき を密かに毛沢東主席(当時)に届けるなど、国交回復へ向けた行動を起こした。その年の しゅうおんらいそう り 9 月 、 周 恩 来 総 理 の 招 待 で 田 中 首 相 が 訪 中 、歴 史 的 な 日 中 首 脳 会 談 が 実 現 し 、9 月 29 日 、 両首脳が「日中共同声明」に調印した。日本はそれまで国交のあった「台湾」に断交を通 告 。 1978 年 ( 昭 和 53 年 ) 8 月 に 、「 日 中 平 和 友 好 条 約 」 が 調 印 さ れ た 。 かんこく ア ジ ア で は 、 1965 年 (昭 和 40 年 )に 「 韓 国 」 と 「 日 韓 基 本 条 約 」 を 調 印 す る な ど 、 ア ジ りんごく アの隣国との友好増進に努めている。 たいこく れんぽう ほっかいどう ほっぽうよんとう はぼ 一 方 、大 国「 ロ シ ア( ロ シ ア 連 邦 )」と の 間 で は 、北 海 道 の 東 に 位 置 す る「 北 方 四 島 」 (歯 まいしょとう しこたんとう くなしりとう えとろふとう 舞 諸 島 、色 丹 島 、国 後 島 、択 捉 島 )の 帰 属 問 題 が 解 決 し て い な い た め 、 「 日 ロ 平 和 条 約 」は 2016 年 時 点 で 、 ま だ 締 結 さ れ て い な い 。 086