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西夏の二つの官僚集團--十二世紀後半における官僚登用
法
佐藤, 貴保
東洋史研究 (2007), 66(3): 400-432
2007-12
http://dx.doi.org/10.14989/138227
Right
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Journal Article
publisher
Kyoto University
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佐
藤
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保
西夏の二つの官僚集圏
││十二世紀後半における官僚登用法││
﹃余史﹄交鴨表に見る朝-真使節の人選
じめに
一使節泳遣の目的
二一止使・副使の官稀競
三服装の異なる二つの官僚集岡
田再任のされ方
一官稽競の帯び方の特徴
二﹃天盛禁令﹄編纂者リストに現れる官僚集圏
二﹁附宇土﹂﹁博士﹂の集圏
三﹁殿前司﹂﹁内宿司﹂の集園
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四武官系官僚の採用法
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十一世紀前宇から十三世紀初頭にかけて、 中園寧夏地方及ぴ 甘 謂 西 部 の 河 西 地 方 を 支配した 西夏固は 、皇帝を 輩出した
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タング lト人を筆頭として、西夏の撞頭以前からの住民である漢人やチベット人、 ウイグル人、沙陀人などによって構成
された多民族国家である。
西夏と同時代の中国東北方では、宇農宇遊牧民である契丹人が遼朝を、 ついで宇農宇狩猟民である女異人が金朝を興し、
漢人農耕民の多く居住する中園本土の一部を征服した。遼・金雨王朝は、遊牧・狩獄民を従前の部族制で、中園本土は征
服以前の中園在来の制度で統治するという、 いわゆる﹁二重統治睦制﹂を施行するとともに、被征服民である漢人からも
官僚を登用し、契丹丈字や女異文字を創製する一方、中圃本土では在来の漢字も公に使用されていた。このような遼・金
朝の統治瞳制は後に、中国本土全域とそれ以外の地域を同時に支配するモンゴル帝国(元朝)や清朝にも受け継がれ、こ
れらの王朝は﹁征服王朝﹂と栂稽されることもある。
(1)
西 夏 も ま た 、 遊 牧 民 主 睦 の タ ン グ 1ト 人 が 漠 人 を 中 心 と す る 寧 夏 ・ 河 西 地 方 の 現 地 農 耕 民 を 支 配 し 、 西 夏 丈 字 を 創 製 す
る一方で漢字も公用していた状況は遼・金朝と類似している。では西夏も遼・金朝と同様の支配瞳制をしいていたのか。
現時貼では、史料的な制約から農耕民と遊牧民を別々の制度で統治した事賓は確認できていないが、十世紀末l十一世紀
(2)
前半の建国期において、タング lト人だけでなく、多くの漠人が政権の中植に参入していたことは先行研究によってすで
(3)
に明らかにされている。一方で、園家睦制が確立した十一世紀後半以降については、官司・官職の名が知られている程度
であり、どのような仕組みで人材を登用したのかは未解明である。人材登用法を含む官制研究の解明は、西夏が遼・金朝
のような征服王朝に類似した政治瞳制を持つのか、あるいは中園王朝の官制を採用しているのか、中央ユーラシア型遊牧
国家の部族制を維持しているのかを知るうえで重要な作業である。
これまで官制研究が進まなかった最大の理由は、遼・金とは異なり、西夏のいわゆる正史が編纂されなかったことによ
り、職官志のようなまとまった情報が存在せず、また特定の人物の経歴を記録した停記史料や墓誌などの史料も皆無に等
しいことに求められよう。しかしながら、正史や停記史料以外の史料は少ないながらも存在する。カラホト遺跡(内モン
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ゴル自治匡エチナ旗)から出土した西夏時代の丈献や隣国の金・宋の文献を謹み直すことによって、ある特定の時期の政権
がどのような集圏によって構成されていたのかにアプローチすることは可能である。本稿では、約二百年績いた西夏園の
全盛期にあたり、かつ特に西夏側と金・宋側壁方の史料が比較的豊富な十二世紀後宇においてどのような官僚集園が形成
されていたのか、彼らがどのようにして官僚に登用されていったのかを検討していく。
﹁金史﹂交鴨表に見る朝貢使節の人選
使節祇遣の目的
﹃金史﹄巷八三[巻八五・交鴨表は、西夏が金朝へ祇遣したすべての使節(以下、遣金使節と略す)の祇遣年月とその日
的を記載している。西夏は天舎二( 一一一四)年に金朝に初めて臣穫をとった。以後、 モンゴル帝国軍と呼陸して金朝領
に侵入する直前の泰和八(一一一 O八)年まで、 ほほ毎年朝貢使節を抵遣していた。朝貢使節の祇遣は正大二(一二二五)年
に再開されたが、 その二年後、西夏はモンゴル軍の攻撃を受けて滅亡する。西夏は金朝皇帝の誕生日祝いの使節(賀生日
使)と年賀の使節(賀正旦使)のほか、臨時に西夏の皇帝・皇太后の死去を知らせる使節(告哀使)、金朝から一一一年に一度
贈られる横賜に釘する使節(謝恩横賜使)、金朝皇帝の死去に際して送られる使節(奉実使)などを抵遣している。
﹁金史﹂瞳志には、正大二年の和議成立後に金朝が西夏の朝貢使節の儀曜について定めた﹁新定夏使儀注﹂が記録され
ている。そこには次のようにある。
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中略)朝辞するに、人従に銀
凡そ衣を賜うに、使・副に各三封、人従に衣各二封、使・副に幣吊百四十段、奮は又た紹裏二を賜い、無ければ則ち
(5)
使は代うるに銀三錠を以てし、副は代うるに吊六十疋を以てするも、後に之を削る
二百三十五両・絹二百三十五疋を賜う。
3
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とあり、正使・副使やほかの従者に封し絹織物や銀などが輿えられることになっていた。上の文中では﹁奮は又た紹裏二
を﹂賜輿していたものを﹁後に之を削﹂ ったとある。﹁新定夏使儀注﹂が制定された昔時、金朝はすでに一一二三年のモ
ンゴル軍の侵入によって中都(現在の北京)やマンチユリアを失い、 マンチユリア特産の紹皮の入手は困難であったはず
である。 つまり﹁奮﹂とは、西夏との園交が断絶する一二 O九年以前の内容を指しているのであり、上の記述の大部分は、
十二世紀後竿においても遁用できるとみなしてよかろう。
(6)
西夏の使節にはこのほかにも入朝時に特典が奥えられた。﹁新定夏使儀注﹂には、西夏の使節が都(制定首時の都は開
(7)
一六九
封)に到着すると、二日間交易活動を行うことが許されていたとある。このような交易活動は、﹁新定夏使儀注﹂制定以
前にも断績的に行われていたことが﹁金史﹄で確認されている。
交易活動の利待は、使節の送り主である皇帝や皇族だけが享受したわけではなかった。天盛年間(一
後略)[﹃俄城﹄八、三四七百(]
0(
は交易による私的な利盆獲得の機舎を西夏皇帝から輿えられていたのである。
この候文によれば、使節圏員が祇遣先まで個人的に商品を運ぶことを候件付きながら容認している。使節圏に選ばれた者
を許す
必ずその債銭を出して駄獣を買ったうえで載せ、駄獣の主人が(運ぶことを)望んだら、すなわち私財を載せること
財を載せた者は六ヶ月(の徒刑)。その中で朝廷により駄獣が賓際に召され(朝廷により徴護され) ていないなら、
ぴ諸々の人が私財で責買するところのもの等を、朝廷の駄獣の上に載せることを許すことはない。もし法を臆えた時、
一、他国へ使する者が行く時、正・副使、内侍、閤門、朝廷の商人、ラクダ商人、馬に附き従う者に属する私財、及
﹁朝廷の駄畜の上に私財を載せる﹂には、次のような規定がある。
年)に西夏で編纂された法令集﹁天盛改奮新定禁令﹄(以下、天盛禁令と略す)巻十八﹁他国との責買門﹂・第一一一一一九候
九
西夏の朝貢使節は車に西夏皇帝からの貢物や書肢を金朝皇帝へ迭り届け、金朝皇帝からの回賜品を受け取っただけでは
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なく、抵遣先で私的に交易活動を行い経済的な利益を享受する機舎を輿えられていた。とすれば、朝貢使節の正使・副使
には西夏皇帝の信任を得た官僚たちが任命されていたはずである。﹃金史﹄交鴨表には、金朝の世宗・章宗の治世にあた
る十二世紀後竿から十三世紀初頭にかけての時期を中心に、正使・副使の官稽競と姓名がほぼ完全に記録されている。そ
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こで、正使・副使にはどのような人々が選ばれていたのか、選出のされ方に何らかの特徴は無いのかを次節で確かめてい
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正使・副使の官稀競
閲丙動氏は ﹃金史﹄交聴表の記述を校勘・整理し、その結果を遣使の目的を問わず年代順に列翠している([関一九八
六]参照)。筆者は交聴表の記述を定期的なものと臨時のものと目的別に分けたうえで、それぞれを年代順に並べることに
した。表一 │ aは定期的に祇遣した使節である賀生日使・賀正旦使、表一 │ bはそれ以外の臨時に抵遣された遣金使節の
正使・副使の官稽競・姓名を、それぞれ年代順に並べたものである。
表一 │ aすなわち毎年定期的に抵遣される使節の官稽競は、正使は五十番(金の世宗の治世以前)までがすべて﹁武功大
(8)
夫﹂、五二番以降(章宗の治世以後)は西夏滅亡間際に祇遣された八九・九十番を除いて﹁武節大夫﹂となっている。﹁武
功﹂が﹁武節﹂に費わったのは、避詳によるものであり、八八番までの正使は、賓質的には全く同じ官栴競を名乗って入
朝していたことになる。副使も、八八番までのすべてが﹁宣徳郎﹂なる官稽披を名乗っている。武功・武節大夫や宣徳郎
二一)年以降、北宋・南宋で武階の稽披として、宣徳郎は元豊三(一 O八O) 年から政和四(一
に相官する官栴競は、管見の限り西夏側の丈献には見首たらないが、その語感から前者は武官、後者は丈官を連想させる。
武功大夫は政和二(一
一四)年までの問、北宋で文官の寄椋官の稀競として使われている。
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競はいずれも翰林皐士であり、﹃宋史﹂夏園停の記遮と一致する。したがって、臨時に抵遣される使節には、西夏に賓在
とある。表一 │ bによると、焦景顔は九五・九八・九九番の副使として金朝へ祇遣されている。その時に帯びていた官稽
(紹興)三十
このほか、﹁宋史﹂夏園停には、
﹁経略司﹂﹁殿前司﹂﹁御史﹂﹁官一徽﹂の官司名や﹁承旨﹂の職名が載録されている。
(日)
で圏内向けに刊行された西夏語・漢語封語用語集﹃香漢合時掌中珠﹄(以下、掌中珠と略す)にも、漢語で﹁中書﹂﹁植密﹂
列奉しているが、その中に表一 │ bに現れる﹁中書﹂﹁植密﹂﹁御史﹂﹁開封﹂の名が記載されている。十二世紀末に西夏
(9)
競は西夏に賓在するのだろうか。﹃宋史﹄夏園惇では、十一世紀前半の李元美(景宗)時代における西夏の官司について
一方、表一 │ bすなわち臨時に祇遣される使節の官稽競は正使・副使とも様々な官稽競を帯びている。このような官稽
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からの直語ではなく中国風の稽競に替えた(例えば、西夏岡内では﹁御史正﹂と稽する稀披を、金朝向けには﹁御史大夫﹂に、同
様に﹁御史承旨﹂を﹁御史中,水﹂に、﹁中興府止﹂を﹁知中興府(事このように)ものと考えられる。宋・金そして西夏の丈献を
通じて表一 │ bに現れる官司名の多くが、西夏に賓在する官司の名であることは明らかである。
そして表一 │ aと同様、表一 │ bの場合も﹁左金吾衡上将軍﹂や﹁殿前太尉﹂といった武官を想起させる栴競は正使の
みが、﹁秘書監﹂や﹁枢密直撃士﹂といった文官あるいは宋朝のエリート科奉官僚が帯びた館職を想起させる稽披は副使
のみが帯びている。表一 │ a ・表一 │ bをあわせて考えると、正使は武官風、副使は丈官風の稽競を帯びる傾向を示して
いると言ってよい。
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とが記されている。
丈資なれば則ち牒頭・韓坊・紫衣・緋衣にして、武職なれば則ち金帖起雲楼冠・銀帖間金楼冠・黒漆冠を冠し、紫旋
欄・金塗銀束帯を衣て、牒醒を垂らし、解結錐・短刀・弓矢謁を侃く。
(日)
丈資すなわち中園の丈官に相官する官人は帳頭をかぶっているとある。 一方、武職は、唐朝や西ウイグル王固などの武
官と同様、牒眼を着用している。
45
丈官と武官の定義については次章で述べることにするが、上記のような服装の匝別は十二世紀後半にも保たれていたの
だろうか。南宋の棲鎗が書き記した ﹁北行日銀﹄は、乾道五( 一六九日金の大定九)年末から翌年にかけて、南宋から金
朝への賀正旦使の使節圏員として抵遣された時の見聞録である。そこでは、金朝皇帝との謁見の際に目撃した西夏と高麗
の使節圏の構成と服装について、次のように記述している。
一は賀正を矯
一は遣使を謝す。比白な王子を以て正使と篇し、金冠を戴
一は羊酒を賜るを謝す。上節は帳頭・犀偏帯、中節は折上巾・犀束帯、下節は献頂巾・犀束帯
是の日(十二月二十九日)、高麗・西夏の使人と同に見ゆ。高麗の使は一一一綱にして、衣冠は本朝の如し、
一は遣使を謝し、
一は賀正、
一麗使と似た﹁本朝(川南宋)﹂風であったという。﹁北行日銀﹄が惇える西夏の正使の服装は ﹁宋史﹄夏固停が停える﹁武
西夏の正使は金冠をかぶり、牒腰を着用するという貼で、﹃宋史﹄夏園停の﹁武職﹂の服装と一致する。また副使は高
被髪、小巾尖帽にして、比白な夷服なり。
(日)
き、製作甚だ工なり。朱抱・牒隈にして、賦貌甚だ偉なり。副使の衣冠、高麗人の如し。三節は皆な入見せず、椎畳一口
にして、皆な紫杉なり。西夏の使は二綱にして、
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職﹂の服装と、﹃北行日銀﹂ の副使の服装は﹃宋史﹂夏園停の﹁丈資﹂の服装と、それぞれ共通するものがいくつか見受
けられる。﹃宋史﹄夏園停が惇える李元長時代の衣冠制度が、十二世紀後宇にも大きな饗化が無く、﹁北行日銀﹂が惇える
正使は武官、副使は文官であったと考えてよいだろう。そしてその服制は﹃金史﹂交聴表に現れる正使が武官風、副使が
丈官風の官稽競を帯びる傾向ともよく封庭している。
再任のされ方
正使・副使の官稽競の名乗り方に一定の傾向があることは明白になった。では、そのような名乗り方が十二世紀後半に
(凶)
おける西夏の官制研究にどのような意義を持つのか。朝貢使節や中国王朝が諸外国へ抵遣する使節の正使・副使が、臨時
に任命前の賓職よりも格上の稽競や位階を輿えられたうえで祇遣されることは、陪唐時代でも一般的に行われている。だ
が、西夏の遣金使節への任命のされ方にはある種の原則があるように思える。その根擦は正使・副使として複数回採用さ
れた人物(再任者)の任命のされ方にある。
表一 │ aと表一 │ bを改めて通覧すると、同一人物が二固ないしは三回正使・副使として抵遣されている例が少なから
ず見られ、その数はあわせて二十八名にのぼる。初回に正使を経験した者を表三 │ a、副使を経験した者を表三 │ bに分
けて掲げてみると、ある特徴が見られる。初回に正使を経験した者は再任時にも正使に任命されており、初回に副使を経
験した者は再任時にも副使に任命されている。 つまり副使が再任時に正使へ昇格する例は皆無なのである。同じ﹃金史﹄
(げ)
交聴表に記載されている金朝から南宋へ一淑遣された使節の場合、再任の例は少ないものの、初回に副使として祇遣された
者が再任時には正使に昇任する例が見られるという。これに釘し、副使が二回目以降に正使へ昇任する例が皆無であると
いう西夏の遣金使節の再任傾向は注目に値する。
副使が再任時に正使へ昇格する例が無いのは何故か。筆者は、西夏において二つの別々の官僚集圏が存在しており、正
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使・副使にはそれぞれの官僚手段から任命するという原則が存在していたのではないかと考える。次章では西夏側の丈献
から二種類の官僚集園がどのようなものなのか論じていく。
﹁天盛禁令﹂編纂者リストに現れる官僚集圏
官稽競の帯ぴ方の特徴
﹃天盛禁令﹂冒頭には、通稽﹁進律表﹂と呼ばれる編纂に闘輿した二十三名の官稿披と姓名を西夏語で列奉したリスト
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が記されている(以下、編纂者リストと略す)。西夏の官僚が貰際にどのような稽競を名乗っていたかを知るうえでは最もま
と ま っ た 史 料 で あ る 。 [ ﹃ 俄 戴 ﹂ 八 、 四 七l 四 八 頁 ] に 寓 員 が 掲 載 さ れ て い る が 、 不 鮮 明 で あ る 。 そ こ で 本 稿 で は 、 筆 者 が
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目鬼名地獄
﹃ 天 盛 禁 令 ﹄ を 所 載 し て い る ロ シ ア 科 撃 ア カ デ ミ ー 東 方 皐 研 究 所 サ ン ク ト H ベテルブルク支部で賓見調査した結果を基に、
語文を掲げる(口は調査の結果、州議不能の字。括弧内は筆者による補足。便宜上、冒頭に番競を附している
北王策中書令
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鬼名義告
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鬼名仁善
丈孝恭敬東南姓官上園柱
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文孝恭敬東南姓官上園柱
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中書令
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丈孝恭敬東南姓官定地鎮
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中書副
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丈孝恭敬東南姓官上園柱
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漢大向学院博士
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匿匝司正
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植密承旨
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内宿司等承旨
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-二番目の人物は最上位の中書令、そして三 l九 番 目 に は 西 夏 の 行 政 ・ 軍 事 そ れ ぞ れ の 最 重 要
は枢密の次官と内宿司の次官、そして殿前司の長官を同時に名乗っているのである。また、同一の職名を複数の人物が名
(む)
栴披は省略されている。また十番目以降の多くは、複数の官司の長官または次官を晶来任している。たとえば十番目の人物
十番目以降のほとんどの栴競は、官司の長官・次官の賓職を表す栴競であり(表ニ参照)、位階のようなものを表示する
中書・植密の次官以下の官僚よりも高い地位であるとされている。
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機 関 で あ る 中 書 ・ 植 密 の 長 官 七 名 が 名 を 連 ね て い る 。 西 夏 で は 中 書 令 や 中 書 ・ 植 密 の 長 官 を ﹁ 議 判 (U宰相)﹂と線栴し、
わす表示に注目すると、
西夏側の他のカラホト出土文献によってすでに明らかになっており、上記の稽競は後者の例である。つづいて賓職をあら
(民)
表示する職事官に相首する稽競と、賓職を表示しない位階のようなものを表示する稽競の二種類が存在していたことが、
姓官上園柱﹂や﹁文孝恭敬東南姓官定地鎮﹂の稽競はいずれも賓職を表示するものではない。西夏の官稽競には、貰職を
上 記 リ ス ト の 二 l九番目の人物の官稽競のうち、﹁授﹂の直後に績く二丈字の稽競、 さ ら に そ れ に 績 く ﹁ 文 孝 恭 敬 東 南
漢 丈 を 謹 す 者 審対朝岡聞封
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乗っている例も少なくない。例えば匿匝司の長官(甑匝司正)を名乗る人物は三名現れている。
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ところで、十 l十九番目の十名は、中書・植密の次官以下が九番目以前の肩書きよりも一字分下げた形で書かれている。
﹁議判﹂クラスとの序列の遣いを明示しているのであろう。さて、この十名のうち、﹁内宿司﹂﹁殿前司﹂は後述するよう
(辺)
に宮中に関連する職である。﹁内宮馬騎﹂は宮中へ馬に乗ったまま入れる特権を持った人に輿えられる稽競で、巌密には
職名ではない。﹁御前稚門官﹂は職掌不明であるが、﹁御前﹂の語から、宮中で何らかの職務に従事しているらしい。すな
わち、皇帝の側近集園が多いことがわかる。
十番目以降の官稽競には、ある特徴的な傾向が見出される。十一 l十三・十八・二十 l二十三番目の人物は、傍線で示
しているように﹁息子士﹂あるいは﹁博士﹂という稽披を帯びている。これに封し、丸数字で番競を表記した十・十四 l十
七・十九番目は、﹁随一千士﹂あるいは﹁博士﹂の稽競を帯びておらず、その代わり﹁内宿司﹂か﹁殿前司﹂、あるいは聾方の
官司の長官・次官の稽披を帯びている。﹁随一子士﹂または﹁博士﹂の稀披と同時に﹁内宿司﹂または﹁殿前司﹂の長官・次
官の稽競を帯びることは決して起きない。西夏の官稽競を記した丈献は ﹁天盛禁令﹄編纂者リストのほかにも、碑丈や悌
典の奥書など多数知られているが、﹁皐士﹂または﹁博士﹂の稽競と同時に﹁内宿司﹂または﹁殿前司﹂の長官・次官の
稽競を晶兼帯する例は管見の限り見首たらない。西夏の官僚に﹁皐士﹂﹁博士﹂系と、﹁内宿司﹂﹁殿前司﹂の長官・次官系
の二つの集圏が存在することを示唆している。
では、なぜこのような傾向が出現するのであろうか。そこで、それぞれの稿競がどのような意味を持っているのかを他
の丈献から検討していきたい。
﹁随一干士﹂﹁博士﹂の集圏
﹃天盛禁令﹂巻十﹁位階・軍の救命門﹂・第六六二候﹁番・漢の向学生の選抜﹂には次のようにある。
一、圃中の口口口口口ところのものは、軍役の重い仕事を受け持つ場合を除いて、口口口で遣わす種々のうち、七歳
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から二十歳までを亭院の中に集めて選抜し、間四子塞を向学ばせん。的晶子ぶ所を管掌する博士や正・副の数師が金品を取るこ
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後鉄)[﹃俄城﹂八、二一七頁。口は扶損部分]
とは許さない。(中略)向学んでいる人の中で、向学塞で奉仕し撃士の中に入れるならば、位階を上下するところなく、
自ら帳簿に記録し、官僚の中に(入れん
とある。快損が多く、候丈の全瞳像はつかみにくいが、﹁飽宇院﹂と呼ばれる官僚養成機関で教育を受け、その中で有能な
人材は﹁皐士﹂の稽競を輿えられ、官僚として登用されていくこと、その皐院を﹁博士﹂と呼ばれる者が管掌しているこ
とがうかがえる。
上の係丈のような官僚登用法が、賓際に行われていたことを裏付ける史料として注目されるのが、 ロ シ ア 科 挙 ア カ デ
ミl東方向学研究所サンクト H ベテルブルク支部所職カラホト出土西夏文二七三六競丈書である。この文書は、十三世紀前
半、西夏減亡の直前にカラホト(蛍時の名稽は黒水)に左遷された浸寧仁負なる役人が皇帝に轄勤を願い出ようとした手紙
である。その丈中には、仁負の経歴に闘する次のような記述がある。
(前略)この仁負めは、 かつて才臣の墜遁を経た遠地の鳴沙の家主人である。これまでご公家の大小のお仕事を受け
持ち、監邪旨((?)・監軍司・粛州・黒水の四つの役所に赴いた。ネズミの年より今に至るまで九年になり、七十七
(歳)になる老いた一人の母と家畜・財産と共に一帳を有している。今貰に(母は)老い、病が重くなり、家族と一
緒に家に留まっている。それより以来、互いに顔をあわせず、別な土地に左遷されたので、重ねて(私を)召還し、
交代し、老いた母の居所に近接する所に祇遣するよう求めて言っているうちに、その時間学院に居た、長年居た者であ
(お)
る都師(ワ)の人とお互い疎遠になったので、昇進はまだ得られず、遠地の役所で(範園の)同じくないところへ飛
ばされ、長年居させられた。(後略)
浸寧仁負は、自らを﹁才臣の皐道を経た﹂者と稽している。さらに﹁皐院﹂にいた﹁都師﹂なる人物と不利になったた
め昇進が妨げられているとの丈脈からは、同学院が官僚の配属を決める上で重要な役割を果たしていたことがうかがえる。
5
2
419
時代がさらに下るが、元初に活躍した西夏人儒者高智耀の惇記史料のうち、﹃廟四月子典櫨﹄には西夏時代の官僚登用法に
まつわる次のような記遮がある。
高血甲子士、語は智耀、字は額道、河西中興路の人なり。世々西夏の額族たり。曾租の某、蕃科の第一に擢せられ、組の
(お)
某、仕えて大都督府予に至り、父の某、仕えて中書右丞相に至る。夏は蕃・漢二科を設けて士を取る。蕃科の経賦は
漢と等しく、特だに文字異なるのみ。公、暴然として擢第せられ余判を授けらる。(後略)
この記述によると、西夏では蕃科と漢科の二つの撃科試験を設けて官僚を採用しており、高智耀や彼の租先は蕃科で採
用され、官僚として活躍したという。そして蕃科と漢科の遣いは使用する言語にあるとする。﹁蕃﹂は﹁香﹂に通じ、タ
ング Iト人を指す。蕃科とはタング Iト人の言葉すなわち西夏語の皐科試験、漢科とは漢語の向学科試験ということになる。
試験の内容は中園王朝の科奉に似た儒教経典や詩に闘するものであったらしい。﹃天盛禁令﹂編纂者リストには﹁番大皐
院﹂﹁漢大挙院﹂の二つの機関名が存在する。官僚養成機関である﹁皐院﹂は、使用する言語によって二つの別々な機関
が設置されたのである。
以上の考察から、﹁天盛禁令﹄編纂者リストに現れる﹁博士﹂﹁撃士﹂の稽競は、官僚養成機関で皐業を積んだ者、ないし
は官僚養成機闘を管掌する役割を捨う者に輿えられる栴競・職名と考えられるのである。
﹁殿前司﹂﹁内宿司﹂の集圏
もう一系統の官僚集固と見られる﹁殿前司﹂﹁内宿司﹂とは、具躍的にどのような機関なのか。﹃天盛禁令﹄巻十二﹁内
宿待命等の事項門﹂・第八九一候﹁帳門後寝等の抄(軍国の最小単位)を解任し、引き継ぎ代える﹂には、
後略)[﹃俄戴﹄八、二七二頁]
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一、帳門後寝・内宿外護の御使・表の内侍等で(任を)解き、(後任に)引き継ぎ代えるところの数は、 みな殿前司
を通させん
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とある。候文中に現れる﹁帳門後寝﹂﹁内宿外護の御使﹂﹁表の内侍﹂とは、後連するように、 いずれも宮殿内部の皇帝の
居所に控える宿衛兵の集圏とみられる。そして、このような集圏を交代させるには、殿前司の許可が要るとされている。
殿前司は宮中の宿衛兵を管掌する機関と考えてよいだろう。
次に内宿司については、﹁天盛禁令﹂に貰質的な長官である﹁内宿承旨﹂の職掌を窺わせる僚丈がいくつか存在する。
巻十二﹁内宿待命等の事項門﹂・第八六五僚﹁官僚等が仕事もないのに自らの意志で任意に(内宮)中へ来る﹂には、
一、仕事の無い諸々の大小の臣僚・僧侶・遁士その他の人等が内宮へ行く大小の(用事を)有するならば、すなわち
仕事を管轄する者たちは内宿承旨のところを経由せん。(入内を)許すべきならば、(中へ)行かせん。もし回答して
いないのに自らの意志で(内宮の中へ)来た時には、人が(内宮で)乱れる規定により判決する。[﹁俄戴﹂八、二六七
5
4
頁]
とあり、西夏の官僚や僧侶等は内宿承旨の許可がない限り、内宮(宮中)に入ることができないとされている。内宿承旨
は宮中を出入りする人員を監視する重要な役割を捲っているのである。したがって、内宿承旨の所属する内宿司という機
闘は、皇帝の側近に仕えて宮中の庶務を司る機関ということになる。
一方の﹁博士﹂﹁皐士﹂の稽競を持つ官僚
以上をまとめると、﹃天盛禁令﹄編纂者リストに現れる二つの官僚グループのうち、﹁殿前司﹂﹁内宿司﹂の稽競を持つ
官僚は、皇帝の側近に仕えて雑務を行うことや、宿衛兵を管掌する職務を持ち、
は、官僚養成機関の数職員、あるいはその官僚養成機関での教育を経て官僚となった集圏であったことが確認できる。前
主早では ﹃金史﹄交鴨表に現れる官稿競が正使は武官風、副使は文官風の栴競であるという傾向を指摘したが、改めて表一
ていたことを反映していると見るべきであろう。本稿では便宜上、﹁息子士﹂﹁博士﹂ の稀競を持つ官僚を丈官系官僚、﹁殿
使にのみ現れる。遣金使節の正使が武官風、副使が丈官風の稽競を帯びるのは、 やはり西夏に二系統の官僚集圏が存在し
-bを見ると、殿前司の長官の名を中園風の稽競に替えた﹁殿前太尉﹂は正使に、﹁民子士﹂で終わる稽披を持つ使節は副
4
2
0
4
2
1
前司﹂﹁内宿司﹂の稽競を持つ官僚を武官系官僚と呼ぶことにする。武官系が軍事を捨賞する官僚、文官系が一般行政を
捨賞する官僚という職掌による匝別を示すものではなく、あくまで採用ル 1トの遣いで匝別しているに過ぎないことをお
断りしておく。
武官系官僚の採用法
丈官系官僚が官僚養成機闘を経て登用されたことはすでに明らかになった。では、武官系官僚はどのような方法で採用
されていったのであろうか。﹁事士﹂の稽競を兼帯している者が皆無であることから、彼らが官僚養成機関を経て登用さ
れたわけではなく、別な方法で採用されていたことが珠想される。
﹃天盛禁令﹂巻六﹁軍人使の浅い規定﹂・第三四五候﹁重い職を受け持つ私人が推奉して利盆を求める﹂には、
一四三頁]
一、大小の臣僚・待命者の諸々の人が良い才雲を有する人を役人のところへ告げ連れてきて、朝廷のために奏上する
ことを許す。(後略)[﹃俄裁﹄八、
とあり、官僚や待命者(後遮)が有能な人材を官僚に推奉することを認めている。
時代は下るが、西夏の遺臣で、元初に活躍した昔里鈴部なる人物の一哩道碑の丈中には、彼自身と租先の西夏時代におけ
る経歴について次のように記されている。
(前略)公 (H昔里鈴部)詳は盆立山、其の先、沙陥の貴種に係る。唐亡び、子孫陳臨の聞に散落す。遠組の仲と日う
者、其の伯と避地して五蓋山谷に遁れ、復た世故を以て酒泉郡の沙州に徒り、還に湖西(河西の誤り)の人と語る。
額姐府君、夏園の中省官粂判植密院事を一幣る。皇考府君、級爵を用て粛州の鈴部を受け、其の後因りて官稽を以て競
(お)
と矯す。喪乱もて譜亡われ、遂に名詳を逸す。公、見弟四人なるも、濁だに公のみは少くして気節を負い、儒稗に通
じ、音律に洞暁すれば、騒を以て宮省に保直し、積品位労して沙州の鈴部に調せらる。(後略)
5
5
四
422
昔里鈴部は、前節であげた高智耀のように蕃科や漢科によって採用されたのではなく、﹁麿
宿衡の任につき(﹁保直﹂)、その後地方官へと遷轄していったとする。
思蔭)を以て﹂宮中での
(U
西夏側の文献では、昔里鈴部のように宮中で宿直・奉仕する者を﹁待命者﹂(西夏語を直誇すると﹁命令を待つ者﹂)と呼ん
でいた。奮西夏領だった地域からは﹁内宿待命﹂という意味の西夏丈字が彫られた牌子が数貼詮見されている。その持ち
主は﹁待命者﹂であったに違いない。﹃天盛禁令﹄巻十二﹁内宮の待命者世一寸の事項門﹂・第八二五候﹁内宮に宿直する職を
持つ人が酒を飲む﹂の第一項には、
)0
ご公家を外で護る(者)
表の内侍
前内侍
内侍承旨[﹃俄寂﹄
(次の)待命者が宿直(の首番) であるのに酒を飲んだ時、位階を持たない者は一ヶ月(の徒刑)、位階を持つ者は
(
頭
帳門後寝
閤
罰馬
醤者
門
(幻)
(お)
を中継する役、﹁前内侍﹂は他園へ朝貢使節として抵遣される場合に随行し、朝貢・回賜品のすり替えを防ぐための封印
を押す役割を捨っていることが確認されている。﹁帳門後寝﹂﹁表の内侍﹂は宮中内の衛兵であり、宿直する場所によって
名稽が異なる。同じく﹃天盛禁令﹂巻十﹁官位・軍の任命門﹂・第六四五係﹁前内侍等が承認したら抄を如何にするか﹂
臣僚
前内侍
山鬼名石腰
一一八O年にカラホトで書寓された西夏丈悌典﹃聖大乗大千固守護経﹄ の奥書には、
では、﹁前内侍・帳門後寝のうち、職位を得て臣僚の中に入った時、(後略)﹂と、彼らが官僚として昇進していくことが
想定されている。さらに、
(経典を)寓す願いを費した者、黒水(カラホト)の主
なる記述が見られる。護願者の鬼名石腰は前内侍の稽競を帯びたまま、黒水城主として、すなわち官僚として職について
いるのである。宮中で勤務していた者が官僚として昇進していくことを示す好例である。
5
6
内宿承旨
八、二六O頁]
御
使
とあり、﹁待命者﹂は様々な職名を持ち、宮中で宿直を行なっていた。これらのうち、﹁閤門﹂は朝見の儀式や百官の上奏
内
宿
423
宮中の宿直については、﹁宋史﹄夏圃停の李元長時代の記述に既に現れている。すなわち、
(初)
(社)
興・霊(西夏の都のあった中興府およびその周遣を指す)の兵、精練なる者又た二高五千、別に副うるに兵七寓を以て資
謄と矯し、御園内六班と競し、三番に分かち、以て宿衛せしむ。
豪族の弓馬を善くするもの五千人を選ぴて迭いに直せしめ、六班直と競し、月ごとに米二石を給す。
(犯)
と、皇帝の一族ではなく豪族の中から選抜し、交代で宿衛の任につかせていたとある。建国期以来、西夏では、有事には
(お)(引制)
圏内の部族長が配下の遊牧民や農民を率いて軍圏を組織し戦闘に参加した。西夏側の丈献ではこのような軍圏を率いる部
族長を﹁首領﹂と線稽している。首領は少なくとも六十名以上の兵を率い、同時に朝廷の職を乗務する者もいた。軍国の
中には首領以下、中隊長や小隊長にあたる小首領・房主と稽する者もいた。﹃天盛禁令﹄巻六﹁行帥・隊の首領・房主の
抵遣門﹂・第三八五線﹁小首領・房主を遣わす﹂には、
一、軍・待命・特差・牧農主の首領の配下の小首領・房主が以前(の候丈)に明らかなもの以外、小首領・房主の範
固が明らかでない中に所属している首領・族父が願っているならば、自ら有している二十抄以上で小首領一人、及ぴ
十抄以上で房主一人を、それぞれ勇猛な人で(任に)堪えられる方を首領の者から盈能に換える。所属については、
監軍司の者がどの職を管轄する所の盈能に換えるべきか(検討して殿前司を通じて言葉が異買であれば、すなわち
奏上し(しかるべき職に)遣わさん。[﹃俄裁﹄九、五百ハ]
とある。軍圏を率いる小首領や房主と呼ばれる小隊長の中から有能な者を﹁盈能﹂と稽して何らかの職を輿える機舎があ
ったらしい。そうした人材を推薦する権限は首領にあることがうかがえる。
では、武官系官僚にはどのような者が採用されたのか。多民族によって構成されている西夏において民族や部族による
匝別はあったのであろうか。西夏ではタング 1ト人の姓を﹁族姓﹂と表現し、出身の部族名を指す。その姓は二文字で書
4'}
カ、trzコ 一方、漢人の姓は一字で書かれる。ここで改めて ﹁天盛禁令﹄編纂者リストの姓名に注目したい。
5
7
424
(お)
一l九番目の宰相クラスでは、過半数の六名が皇帝と同じ鬼名姓である。 一方、皇帝の側近集圏が多い十番目以降では、
﹁良子士﹂﹁博士﹂系は一字姓の漢人、﹁内宿﹂﹁殿前﹂系は一字姓の漢人よりも二字姓のタング lト人が多い傾向を示して
いるが、様々な姓を持つ者が名を連ねている。皇帝と同じ鬼名姓を名乗っているのは、わずかに十七番目の一名のみであ
る。建国期の李元美時代から百年以上を経た時代においても様々な民族・部族から官僚が採用されていたことを雄静に物
語っている。
ここで、表一 Ila-bの ﹃金史﹄交聴表に現れる遣金使節正使・副使の姓名に注目すると、 やはり定期・不定期の使節
とも様々な姓を持つ者が任命されている。出鬼名(原文には鬼宕と記される)姓の者は正使に三名現れるのみである。そして
タング lト人とみられるこ字姓の者は、表一la ・bとも正使にのみ出現し、副使には皆無である。﹃今大盛禁令﹄編纂者
リストの武官系官僚にタングIト人が、丈官系官僚に漠人が多いという傾向と類似している。
そもそも、中園では使節の正使・副使として丈官と武官をベアで抵遣する場合、正使は丈官、副使は武官となることが
一般的である。西夏の場合、正使が武官風の稽抜、副使が文官風の稽競と、正反封の傾向を示すわけであるが、それはな
ぜか。
漢等が職を共有する﹂には次のようにある。
その理由の一つとして考えられるのが、出身の民族による格差の存在である。例えば ﹁天盛禁令﹄巻十﹁役所の順序と
文書を送る門﹂・第七O四係﹁ミ(ミニヤク Uタング 1ト)
一、職を持つ人で、ミ・漠・チベット・ウイグル等が職を共有するとき、職位の上下と職名が同じくない(場合)は、
各々上下を定めるところにより座らせん。それ以外に、職名が同じく、職位も等しい場合は、位階の上下を考えずに
ミの人を大 (l上)にせん。(後略)[﹃俄裁﹄八、二二七頁]
同一官司内での上下関係や朝見などの儀式の際の席次を定めた本候文は、同じポストにタング lト人とそれ以外の出身
の者が就いている場合の序列は、 タング lト人が上位に扱われるべきであると定めている。皇族鬼名氏をはじめとするタ
58
425
ングIト人が中心となって建国された西夏では、 タング lト人を上位に置こうとする意識が政権側にあり、その意識が係
丈 の 中 に も 反 映 さ れ て い た に 違 い な い 。 し た が っ て 、 朝 貢 使 節 を 抵 遣 す る 場 合 も 、 武 官 系 官 僚 の 多 い タ ン グ 1 ト人を上位
に置くという意識を反映して、副使ではなく正使として汲遣したものとみられる。
おける西夏の官僚集圏とその人材登用法について検討した。この時代の西夏には、官僚養成機関での教育を経た丈官系官
となる若年層の近衛軍を組織して中央権力を構成する、 モ ン ゴ ル 帝 国 の ケ シ ク 制 に 似 た 側 面 を 有 し て い る 。 丈 官 系 の 採 用
宿衡の任務についたりしたのち官僚となるという西夏の武官系官僚の人材登用法は、皇帝の周遣に将来構成部族の指導者
ることで明らかになった。皇帝と同族ではないタング lト諸部族の者が、皇帝の側近にあって宮中での庶務をこなしたり、
そして丈官系官僚の多くは漠人が、武官系官僚の多くはタング lト人が採用されていることも官僚たちの姓名を分析す
にした。
採用ル lトの異なる二系統の官僚集圏が存在し、彼らの中には皇帝の側近集園としての任務につく者もいたことを明らか
僚と、思蔭や部族長・官僚の推奉によって主に宮中での庶務や宿衡として勤務したのち官僚に昇進する武官系官僚という、
〆
武官系官僚は丈官系官僚のように官僚養成機関での教育を経ることなく、恩蔭や、官僚あるいは部族長からの推畢など
タ
によって抜擢された集圏であった。彼らの多くは宮中で宿衛として皇帝の身の回りの警護や雑務をこなし、その後官僚と
して遷輔押していった。丈官系官僚とは一線を劃した昇進ル lトが十二世紀後宇にも存在していたのである。そして、
グlト人の優位性を意識した結果、遣金使節でも正使には常に武官系官僚が任命されていたものと考えられる。
り
本稿では、遣金使節の人選の特徴や﹃天盛禁令﹄編纂者リストに現れる官稽競や姓名に注目しながら、十二世紀後宇に
わ
ルートを設定して被征服民である漢人を多く登用している貼やケシク制のような人材登用法を中央ユーラシア型国家の特
5
9
お
426
(お)
徴の一つとみなすのであれば、遊牧民によって建国された西夏もまた、その特徴の一つを建固から百年以上経過した十二
世紀後半においてもなお具備していたことになる。おそらく建国首初は武官系官僚の採用法のみであったが、圃家瞳制の
整備が進む過程で丈官系官僚のような人材登用法が導入されていったものとみられる。ただ、それがいつごろどのような
経緯で新たに導入されたのかは今のところ不明であり、今後検討すべき課題である。
二系統の官僚集圏の存在を通じて、 タング1ト 人 が 漢 人 居 住 地 を 征 服 す る か た ち で 建 国 さ れ た 西 夏 が タ ン グ 1ト諸部族
を結集するのみならず、被征服民たる漢人をも登用して固家瞳制を維持しようとする政権側の意固を誼み取ることができ
る。中・小規模の園家が林立し、短期間のうちに興亡を繰り返したこの時期の中央ユーラシア・東アジア諸園の中にあっ
て、西夏が二百年という比較的長期にわたり政権を維持できた要因には、こうした特定の民族・部族に偏らない人材登用
策があったことも考慮に入れるべきであろう。
略競
ili--
﹃史詩﹄ l陳垣(新合)一九一二三﹃史詩翠例﹄官官北、文史哲出版枇、一九八七年復刻。
﹃俄戴﹄ l ﹁俄羅斯科血学院東方研究所聖彼得壁分所蔵黒水城文献﹄一 、十二巻、上海、上海古籍出版壮、 一九九六l二 O O七年。
参 考 文 献 ( 著 者 名 A B C順)
白 漬 一 九 八 七 ﹁ 論 西 夏 使 臣 的 ぷ 番 競 μ問題﹂
中国一吐曾科向学院民族研究所主編﹃中園民族史研究﹄北京、中園枇舎科血学
出版一枇、四五四 i四七三頁。
陳柄陸一九八七﹁西夏軍隊的征選、鹿給制度﹂﹃凶北史地﹄一九八七年第一期、三二 i三七頁。
岩 崎 力 一 九 九 O ﹁西夏建園とタングlト諸部族﹂﹁(中央大島干)アジア史研究﹄十、四一l四三頁。
4
出国自国
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7
興範
一九九一﹁西夏官階封競表考稗﹂﹃枇舎科皐戦線﹂一九九一年第三期、一七一
1
一七九頁。
一九八七﹁筒論西夏漢人謀士張浦﹂﹃寧夏枇合科挙﹄一九八七年第二期、八八!九一頁。
1九二、九七頁。
一九九一﹁談凶夏蕃官﹂﹃寧夏大息子学報(枇曾科挙版)﹄一九九一年第一期、八七 l九一、一 O四頁。
)0
1
二三二頁。
﹁金の外交使節とその人選││内政問題の観貼から││﹂﹃史泉﹄九一、三六 l五二頁。
宋代史研究とその周遺││﹄汲古書院、三九九 l四一一一一一頁、一九八八年
││二
O O七﹁西夏時代末期における黒水城の状況││二つの西夏語文書から││﹂﹃オアシス地域史論叢││黒河流域
O O六﹁西夏の用語集に現れる華南産の呆物││十二世紀後小における凶夏貿易史の解明の手がかりとして││﹂
二O O三
二O O七
﹁帝園史の脈絡││歴史のなかのモデル化にむけて││山本有法編﹃帝岡の研究││原理・類型・関係
﹁陪唐時代における封外使節の仮官と借位﹂﹃東洋史研究﹄第六五巻第一競、三七 l七七頁。
室・寧夏文化藤文物庭編﹃凶夏文史論叢(一)﹄銀川、寧夏人民出版祉、九六 l 一一一百ハ。
史金波・白漬・黄振華・高鴻立日一九九二﹁西夏文︽-大盛新律︾進律表考緯││西夏法典研究之こ寧夏文物管理委員舎排公
│ │ 一 九 九 四 ﹁ 西 夏 的 職 官 制 度 ﹂ ﹃ 歴 史 研 究 ﹄ 一 九 九 四 年 第 二 期 、 六 二 l七一頁。
史金波一九九一﹁西夏文︽宵階封競表︾考穣﹂﹃中園民族士円文字研究(三)﹄天津、天津古籍出版刷、二四五 l一ヱハ六頁。
二
八
白
ハ
佐藤貴保・赤木崇敏・坂尻彰宏・呉止科二O O七﹁漠成合壁西夏﹃黒水橋碑﹄再考﹂﹃内陸アジア言語の研究﹄一一一一、一 l一
二000年の蛤描││﹄松香堂、王七 1七九頁。
﹃内陸アジア一一言語の研究﹄一一一、九一一一 l 一二七頁。
││二
頁
。
フェイスの人文皐﹂二 O O二・二 O O三年度報告書第三巻)大阪大皐大事院文皐研究科、一九七 l二五五
佐 藤 貴 保 二 O O三﹁西夏法典貿易関連係文誇註﹂﹃シルクロードと世界史﹂(大阪大同学一二世紀COEプログラム﹁インター
岡 崎 精 郎 一 九 七 二 ﹁ 李 纏 遷 の 興 起 前 夜 ﹂ ﹁ タ ン グ lト古代史研究﹄東洋史研究舎、一七三 l一二九頁。
西 尾 尚 也 二 000
中嶋敏一九三ヱハ﹁西夏に於ける政局の推移と文化﹂﹃東方組字報(東京)﹄六、七一一一一!七回二頁(再録﹃東洋史筆論集││
│ │ 一 九 九 六 ﹁ 西 夏 ・ 金 斗 交 鴨 関 係 寸 釘 司 、 叶 ﹂ ﹁ 中 央 斗 ぺ 斗 研 究 ﹄ 一 、 九 1三王頁。
閑丙動一九八六﹁金史交聴表について││凶夏との関係を中心に││﹂﹃新韓墜報﹄二二、九一
││一九八九﹁論凶夏政権的蕃官問題﹂﹃中央民族向学院皐報﹄一九八九年第四期、四
ol四三頁。
劉興全・呉炎一九八八﹁試論西夏政権中的漢人官僚集園﹂﹃民族研究﹄一九八八年第四期、八七
全文
明軍
0
6
1
劉李
杉石
山
正暁
4
2
8
﹃宋代官僚制度研究﹄同朋舎出版。
一九八八年
)0
﹁西夏人儒者高智耀の賓像﹂﹃モンゴル帝園と大一冗ウルス﹄京都大撃墜術同版合、四九O l五O七頁。
││﹄名古屋大皐出版舎、三今、(八五頁。
一九八五
0 0四
寺区
1
!部
f
﹁胡服考﹂﹁観堂集林﹄巻二十二(中華書局復刻版、一 O六九 l 一
夏使全、或許貿易於市二日。
よって構成される﹁蕃官﹂と漢人によって構成される﹁漢
官﹂という民族別の二つの官僚集圏が存在するとの説が有
力であったが、[史一九九四]による凶夏側の文献からの
検討の結果、この説は否定された。また、各ハ呂司・官職の
職掌については研究がほとんど進んでいない。
(4) 十二世紀後竿における西夏の政情については、[中嶋一
九三六 l 一九八八再録、四会三!四一ムハ頁]参照。
(5)﹁金史﹄巻三八・櫨志一一﹁新定夏使儀注﹂
凡賜衣、使・副各三封、人従衣各二封、使・副幣吊百四
十段、産自又賜紹葵二、無則使者代以銀三錠、副代以吊六
十疋、後削之。(中略)朝辞、賜人従銀二百三十五雨、
絹二百三十五疋。
なお、同じく﹁新定夏使儀注﹂によると、入朝する使節圏
は正使・副使のほか参議一名、都管三名、そして﹁三節人
従﹂と線栴される上節五名、中節五名、下節二十四名によ
って構成されていた。
(6) ﹁金史﹄巻三八・櫨志一一﹁新定夏使儀注﹂
﹁西夏官名雑考﹂﹃透政研究所年報﹄十七、八一 1九八頁。
一九一一一
一九八六
王園維
王民信
詰
岐によく知られているが、河西地方においては九世紀の吐
(1)一曲夏で西夏文字だけでなく漢字が公用されていたことは
つでもなお生きていたらしい。それは甘粛省張披市に残る
蕃支配期以来のチベット文字使川市の惇統が十二世紀末に至
漢文・チベット文合壁の救命碑││通稽﹁西夏黒水橋碑﹂
から窺える。この碑文の詳細については[佐藤・赤木・坂
尻・呉二0 0七]参照。
(2)建岡期のタング lト諸部族の動向については[岡崎一九
七二][岩崎一九九 O] が、漢人が重臣として活躍してい
たことについては[劉一九八七]や[劉・呉一九八八]の
研究がある。
(3) 凶夏の官司・官職名を、﹁宋史﹄をはじめとする隣園の
[白一九八七][劉・呉一九八九][劉一九九二のほか、
漢文文献から牧集したものとしては[王民信一九八六]
多数の西夏史の概説書が紹介している。西夏側の文献から
も[関巴S出。巴ま凶]が官司・官職名を牧集している。蛍
初は西夏語からの音潟とみられる意味不明の官稽競が宋側
の文献に記録されていることから、一白夏にタング 1ト人に
62
頁
4
2
9
(7) このような交易形態を閑丙動氏は﹁都亭貿易﹂と名づけ
ている。詳細は[関一九九六、一八 i二八頁]参照。
(8) 金朝皇帝章宗の父の詳﹁允恭﹂の﹁恭﹂字と大円通である
﹁功﹂の字を避け、﹁節﹂の字に改めたものとみられる
([﹃史詩﹄一六一頁]参照 )o龍谷大挙博士課程の大島勝
俊氏の数不による。
(9) ﹃宋史﹄巻四八五・夏園惇上
其官分文武班、日中書、日植密、日三司、円御史妻、日
開封府、円均衡司、円官計司、円受納司、円農田司、日
表現され、漢語に表現する際には隣岡の宋など中園王朝の
あろ、っ。
官司名で職掌の近似しているものを充てたと考えるべきで
(紹興)一一一十一年、立翰林向学士院、以焦景顔・王ム塁寸筑
(日)﹁宋史﹄巻四八六・夏岡惇下
間学士、停修賓録。
二頁]参照。
(ロ)宋朝の館職については、[梅原一九八五、三二九 l四二
牒胴段、侃解結錐・短万・弓矢謝。
冠・銀帖間金緩冠・黒漆冠、衣紫旋欄・金塗銀束帯、垂
文資則牒頭・棒努・紫衣・緋衣、武職則冠金帖起一実線
(日)﹃宋史﹄巻四八五・夏岡惇上
準。白中書令・宰相・極使・大夫・侍中・太尉己下、皆
群牧司、円飛龍院、円磨勘司、円文思院、円蕃撃、日漢
分命蕃漠人佐川之。
下げるために腰に巻いたベルトのこと。王園維は﹃宋史﹄
(比)牒股は、もともと遊牧民が錐や火打石などの道具を吊り
圏内にいる漢人とタング lト人の意思疎通のために編纂さ
する([干一図維一九二一、一一 O九1 一一一一一頁]参照
(日)原典は[﹃俄戴﹂十、三二 l一二三頁]参照。﹃掌中珠﹄が
れたものであることについては[佐藤二 O O六、九五 1 一
O二頁]で解説している。このほか、十二世紀後半の西夏
(日)﹁攻腕集﹂虫色一百十一・北行日銀上・乾蓮五年十二月二
十九日
)0
の牒股の記述から、西夏に遊牧民の服装の影響があったと
で編纂されたと考えられるカラホト出土漢語用語集││遁
ロ
ルH、高麗・西夏使人同見。高麗使三綱、衣冠如本朝、一
稽﹃漢文雑字﹄(成立年代の確定については[佐藤二 0 0
六、一一一一 l 一一四頁]参照)﹁官位部第十七﹂にも、﹁中
節、折上巾・犀束帯、下節、献頂巾・犀束帯、背紫杉。凶
位同賀正、一謝這使、一謝賜羊酒。上節、朕頭・犀偏帯、中
夏使二綱、一賀正、一謝遣使。皆以王子矯正使、戴金冠、
書﹂﹁植密﹂﹁経略﹂﹁中興﹂﹁御史﹂﹁殿前﹂﹁官一徽﹂﹁匝匝﹂
製作甚工。朱抱・牒腹、状貌甘世偉。副使衣冠知高麗人。三
﹁承己円﹂﹁太尉﹂﹁大夫﹂﹁通判﹂﹁皐士﹂の名が記載されて
いる(原典は[﹃俄寂﹄六、一四五 l 一四六頁]参照
)0
た
だし、﹁植密﹂や﹁一一一司﹂と稽する官司名がこれらの文献
節皆不入見、椎警被髪、小巾尖帽、皆夷服也。
(日)[石二0 0七]参照。
に存在するからといって、宋の﹁植密院﹂や﹁一一一司﹂と全
く同じ職掌であるとは限らない。元々の官司名は西夏請で
6
3
4
3
0
)0(
後略)([﹃俄裁﹄八、二六二頁])
中書・植密は上等司と呼ばれる最上級の官司である。二項
二貫(の銭
(刊日)詳細は[李一九九一、史一九九一、史・白・黄・講一九
(口)[西尾二000、四九頁]参照。
位、すなわち中書・植省の長官以上の者ということになる。
の承旨であるから、一項目の﹁議刈﹂の範園はそれより上
(幻)﹁天盛禁令﹄によると、内宿司と殿前司の品級は第二位
目の封象範囲が尉馬、次等司の長官、上等司の中童日・植密
の稽競と﹁文孝恭敬東南姓官l﹂の稽競は別系統の稽競で
の次生寸司。内宿司には長官が間青かれなかったので、賓質的
九二]参照。寸員職を表示しない位階のような稽競にはさら
ある。しかし、雨者の具健的な機能の遣いは未解明である。
には次官の﹁内宿承旨﹂が長官となる。編纂者リスト中で
に二種類あり、上記リスト中の﹁授﹂の直後に績く二文字
日以降に現れる﹁中書﹂は、直諒すると﹁清い忠告﹂とい
れているのはそのためである。
内宿司の次官の稽競が、殿前司の長官の稀競より前に来日か
(印)﹁中書令﹂は漢語からの音寓である。編纂者リスト三番
う意味の全く別の西夏文字で書かれる。官司名の﹁中書﹂
o世潟西夏額
族。曾祖某、擢蕃科第一、組某、社至大都督府手、父某、
高削晶子土、詳智耀、字額遁、河西中興路人也
(お)﹁廟向学典種﹄巻一﹁秀才兎差護﹂割注
記事は西夏時代の経E
mを最も詳しく逮べている。
四]ですでに言及されている。そのうち、﹁廟凶字典種﹂の
(弘)高智耀の惇記史料が複数存在することは[杉山二 0 0
五八 l五九・六八 l七四頁]参照。
(お)この手紙の全録文と邦詳ならびに注稗は[佐藤二0 0七
、
で考察している。
れることについては[佐藤二O O一二、二一四 l一二五頁]
n
ω
) ﹁御前﹂は、西夏語では二種類の﹁前﹂という音
刊
( ハ字子で表現される。これが皇帝の目の前という意味で使用さ
も同様に表記される。﹃天盛禁令﹄では﹁中書令﹂の定員
[史・白・黄・章一九九二、一 0 0頁]で、﹁中書令﹂を
は定められていない。賓際には名陶器ロ職であったらしい。
中書の長官とするのは誤り。
(初)﹁議判﹂の範園について、直接明言する史料は存在しな
いが、次の﹃天盛禁令﹄巻十二﹁内宮の待命者等の事項
門﹂・第八三八係﹁朝廷の中に来ない、刺服を着ない﹂か
一、大小の臣僚が入朝しない、及び入刺しに来たが朝服
ら推測できる。
を着なかったら、罪罰を得ることについて、以下に定め
ているものにより判決する。
一項、(皇帝の)親族、議判が一度入朝しに来なかっ
社至中書右丞相。夏設蕃・漢二科以取土。蕃科一経賦奥漢
等、特文字異耳。公、寂然擢第授余判。(後略)
中略)
(お) 一川・王憧撰﹁秋澗先生大全文集﹂巻五一﹁大一川故大名路
)0(
一項、鮒馬、次等司の長官、中書・枢密の承旨が一度
(の銭
たら(罰として)五貫、制限を着て来なかったら三貫
入朝しに来なかったら三貫、朝服を着て来なかったら
6
4
4
3
1
(前略)公誇盆立山、其先係沙陥貴種。唐亡、子孫散落
宣差李公一刑道碑銘井序﹂
険臨問。遠組日仲者、輿其伯避地遁五蓋山谷、復以世故
徒酒泉郡之沙州、遂矯(湖)[河]西人。額租府君歴夏
圏中省官兼判杭密院事。皇考府君用級爵受粛州鈴部、其
14 。公昆弟四人、濁
後因以官橋筋披。喪乱譜亡、遂逸名 拝
公少負気節、通儒種、制暁音律、以麿保直宮省、積労調
沙州鈴部。(後略)
ついては、﹃天廉禁令﹄巻十二﹁内宮の待命者等の事項
(幻)閤門司の奏知(賓質上の長官)・奏副(次官)の職掌に
一、閤門奏知・奏副等は、皇帝が奏殿上に座ったならば、
門﹂に以下のような候文がある。
ルク支部における筆者の賓見調査に基づく。なお、調査の
結果、[穴E425F 問 S J Z
岨
刷
局
員P ﹃J ﹀吉岡田園p n S宰
右
目 bcbH] にある本経典の奥主自の録文には若干の誤り
があることが判明した。
興・霊之兵、精練者又二寓五千、別副以兵七寓潟資謄、
(初)﹁宋史﹄巻四八六・夏閥惇下
競御間内六班、分三番以宿衛。
選古家族主円弓馬五千人迭直、披六班直、月給米二石。
(況)﹁宋史﹄巻四八五・夏岡惇上
(認)ただし、西夏軍のすべてが部族長の率いる軍圏によって
軍事に閲する候文の中には﹁諸々の父子の軍﹂なる名稽が
組織されていたわけではなかったらしい。﹃天盛禁令﹄の
現れる。唐代に安椋山が養子たちを集めて組織した﹁父子
のため、皇帝直属の擬制的な血縁関係を結んだ軍国であっ
軍﹂を想起させるが、﹃天盛禁令﹄では名稽が現れるのみ
すなわち儀躍を行う者であって、(殿)中に入る以外、
皇帝が奏殿上に座らない聞に奏上する言葉で中継すべき
たかどうかは不明である。なお、前章で引用した﹃北行日
第八六三保
o(
る。この記述が正しいとすれば、正使は西夏皇帝と擬制的
銀﹄の記述には、西夏の正使が﹁王子﹂を稽していたとあ
﹁奏知及び閤門検視・役人生寸が(宮)中へ来る﹂[﹃俄
ものがある場合は、内宿承旨に固さん
一、奏上する時に、諸々の官司が奏上すべきことを持つ
第八六
o(
oこ
姓の者のうちから三十抄以上を希望により輿えん。(後
になった子どもが協議して願ったならば、すなわち同じ
数が六十抄以上の兵を持っている場合は、首領及び大人
一、諸々の首領に属する兵の数が歓けている以外に、寸員
第三八一候﹁同族で抄を分けることについて﹂では、
(お)﹁天盛禁令﹄巻六﹁行帥・隊の首領・房主の一以遣門﹂・
な血縁関係を結んでいた可能性がある。
戒﹄八、五九九[六O O頁])
門)奏知たちが磨答し、一つ一つを奏上せん
役人たちは、知日招中門(宮殿の門名)に居らせん。(閤
六候﹁諸司の奏上について﹂[﹃俄寂﹄八、六七頁])
﹁朝廷の責買の根本となる財から私財に取り換える﹂
(お)﹃天盛禁令﹄巻十八﹁他岡との貰買門﹂・第一一一一一一 O候
の候文の誇文は[佐藤二O O三、二O六頁]参照。
(鈎)ロシア科皐アカデミー束方亭研究所サンクトリベテルブ
6
5
4
3
2
略)([﹃俄裁﹄八、一五O頁])
とある。﹁抄﹂は軍圏中の兵士の最小単位で、二名で構成
曲ハは多数残されているが、漢文・西夏文とも彼らが李姓を
稽することは無く、みな山鬼名姓を稽している。十二世紀後
ていたようである。これには西夏が唐刺の流れをくむ政権
竿においては、西夏皇帝は図外に釘してのみ李姓を名采っ
)0
されると考えられている([陳一九八七、三三頁]参照
こと、中央権力が各部族の次世代の指導者となる若年層の
部族単位の軍事力を寄り合わせた連合鴨・連合政権である
型岡家の共通要素として、遊牧軍事力を中核とすること、
(お)[杉山二O O三、六八 1六九百己では、中央ユーラシア
し
であることを諸外固に誇示する音 園
ω があったのかもしれな
この候文では新しく軍圏を編成する際には三十抄以上が必
要としているから、一つの軍園が六十名以上で編成される
ものであることがわかる。
検校が集まる日限に来ない﹂の回目頭には、﹁軍の正首領が
(弘)﹃天盛耕一去と巻五﹁季節の検査門﹂・第三O O侠﹁仮の
朝廷のために別の職を持ち﹂という文章がある([﹃俄滅﹂
近衛軍と多人種からなるブレイン層によって形成されるこ
])0
と、などあわせて十三項目を奉げている。本稿では、それ
八、一二九頁
竿までは拓政という氏族名を名乗っていたが、サ頁阿呆の乱の
(お)皇帝を輩出したタング Iト平夏部鬼名氏族は、九世紀後
めていく必要がある。
文献を利則した官制や軍制をなどの本格的な研究を今後進
ら項目のうちの一黙を明らかにしたにすぎない。西夏側の
た。﹃宋史﹄夏園停には、李元美が自らの名を﹁鬼名吾
鎮墜に貢献した功により、唐刺から皇帝と同じ李姓を賜っ
租﹂と改稿したとある。由夏皇帝自らが愛願者となった仰
66
tive military service on the frontier was chiefly imposed on those who disobeyed
military regulations, and it must have been employed in circumstances in which its
application was naturally limited to men. However, the early second-century BCE
penal code Ernian lUlling from Zhangjiashan shows that punitive military service
on the frontier was applied for crimes that could have been committed by women.
This is another case in which we can hypothesize that over time a punishment
which in the past had been applied for one specific crime came to be treated as
another form of labor punishment and used to punish various crimes.
With this history of the development of the penal system in mind, one should
probably consider the possibility that the phenomena of some penalties not being
applied to women was not only a policy of leniency, but that these punishments
were originally used in circumstances that applied only for men. The interpretation
of the line ~w A f!!ii Jflj in the Chunqiu Zuo shi zhuan from the 19th year of Xiang
Gong that has been rendered with the phrase "punishments for women were not
established" needs to be reexamined.
TWO TYPES OF BUREAUCRACY OF XI XIA:
HOW BUREAUCRATS WERE APPOINTED
IN THE LATTER HALF OF
THE 12th CENTURY
SATO Takayasu
In this study I use written sources in the Tangut language and Chinese to investigate how the bureaucrats of the Xi Xia kingdom were appointed in the latter
half of the 12th century. As a result of this examination, I have made clear that
there were two, differing types of bureaucrats at this time. The first type was
composed of officials of the civilian bureaucracy whom had been educated in institutions designed to develop civilian bureaucrats; the second type was made up of
military bureaucrats who served on the basis of attaining an inherited post or on
the recommendation of a clan chieftain. And I also made clear that among these
bureaucrats was a group who were appointed as close associates of the emperor.
Most of the military bureaucrats were chosen from the Tangut people of
various clans other than that of the emperor. They were closely associated with
the emperor and served as residential guards and did tasks in the palace and
thereafter advanced as bureaucrats in various government offices. The method of
-
66-
appointment for military officials was similar to the keshik system of the Mongol
empire. On the other hand, the majority of the civilian bureaucracy was made up
of Han people who had submitted to the Tangut. The existence of two methods of
bureaucratic appointments not only united the various Tangut clans in the Tangut
state that was constructed upon the land of the conquered Han people, one can
also discern an effort of the regime to maintain the government system by having
the conquered Han people participate in the government. The existence of this
type of bureaucratic appointment system demonstrates one of the characteristics
of the central Eurasian type of state, such as Xi Xia that enrolled various peoples
into a regime that was maintained for over one hundred after its founding and
lasted until the latter half of the lih century.
THE HU (SOGDIAN) DURING THE TANG DYNASTY
AND BUDDHIST WORLD GEOGRAPHY
MORIYASU Takao
Who was the famed Huji iI)HIl! Gp. Koki) who appears in Ishida Mikinosuke's
DH3*~J:ljJ ChiJan no Haru *~O)* (Changan Spring) and who was celebrated
in Tang poetry as the ideal of the charming woman of the Tang. Mistaken or imperfect explanations, such as that she was Persian or of Iranian extraction or less
frequently that she came from one of the nomadic peoples of the north, abound
even today. However, I have defined Huji as "young Sogdian woman" on the
basis of the meaning of the Chinese characters that make up her appellation, and
considering the historical circumstances, I would like to have her understood as "a
beautiful, young Sogdian woman who entranced the world with the music and
dance of the western regions during the Tang dynasty." In order to do this, I first
make a comprehensive introduction of historical materials, some previously known
and others heretofore unknown, to verify that the word Hu meant Sogdian during
the Tang dynasty. Central to the argument here are the Bongo zfJmyfJ 3'itiHBi1lt:jz;, a
dictionary of Sanskrit and Chinese vocabulary that was imported to Japan from
Tang during the Heian period and a map of the Asian world written in Chinese and
Tibetan. To these I have added documents in Chinese and Tibetan that have been
excavated from Dunhuang and Turfan and records written in ancient Turkic found
on stelae in Mongolia.
Historians in post-World War II Japan who have shared the point of view of
-
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