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Page 1 金沢大学学術情報州ジトリ 金沢大学 Kanaraพa University
Title
翻訳:未完のテキスト断片
Author(s)
内田, 洋
Citation
Hors de commerce, 2: 6-33
Issue Date
1976-03-27
Type
Departmental Bulletin Paper
Text version
URL
http://hdl.handle.net/2297/3453
Right
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,各著作権等管理事業者に確認してください。
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/
きしるされねばならない。ここでほ初めに名が、ことばがあって、その意味
も指示物もそこから生み出され、みずからの父を認知する。
翻
訳
表題が位置すべきその場所に く翻訳〉 と書きしるきれた時、いかなる実体
もいまだあらわれず、従ってまたいかなる意味もそこに組みたてられていな
一乗寛靡テ尊果 匪断片−
い以上、それは名でも物でもない。記述行為の単なる痕跡であるにすぎか、。
とすると、これは今のところまだ翻訳ではない、というべきだろうか。
内
田
洋
なぜ翻訳か
人生の多くの可能性を啓示する物語は、必ず狂気の瞬間を招くという訳で
胡訳者とは、原作という名の家に、永遠に招かれながら、ついに完
はないが、少なくともそれを啓示する。それがなければ、作者はこれらのあ
全にはそこに到達することも住まうこともできないで、ノスタルジー
り余る可能性に対して盲目だということになるだろう。私は固く信ずる、息
にかられている奇異な人間だ。彼は自分の言語に欠如しているものか、
をつまらせるような、ありえないような試練だけが、因襲によって課せられ
そこにはすべて、確固として現前するのを感知している。
た狭い限界に飽き飽きした読者の期待するはるかなヴィジョンに到達する手
段を作家に与えるのだと。
表題/テキスト
どうしてわれわれは、あきらかに作家がそれに縛i)つけられている訳でも
これほ翻訳ではか、。とすると、まずテキストの始まl)にく′翻訳〉 と記す
ことによって、ほかならぬそのテキストを編みあげるべき幾筋かの糸あるい
ないのに、その書物に拘泥するだろうか。
そうだ、こう断言する人と共に、われわれもまた、自分に、人生に、なお
ほ系をそこに見出そうとするこの仕草は、あらかじめ明示された口実を−テ
多くの可能性が残されていることを信じよう。さもなければ、語りつくされ
キストにとっての表立てられた口実、プレ=テキストを一塞ぎる結末にいた
るのだろうか。これと指し示されているテキストほ、まだこれからおもむろ
たとおぼしき主題のもとで、いやそれが何であれ、日常使いならされた親密
で平俗な言葉の一つについて、今さら何かものを言ったl)書いたりする気に
に形をなそうとしているにすぎないのだが、表示された主題をたえず裏切l)
なるだろうか。それにこれらあり余る可能性を、われわれが自らに啓示する
ながら、しかもある仕方でその結末が全体をもう一度裏がえし、その表を適
ことができるのは、文字通り息のつまるような長い試練に耐えながら、任意
正なものたらしめるというような書きかたはありえないだろうか。ただし、
の主題をめぐっていつ果てるともしれぬ思考の彷捏を物語る時ではないだろ
それも結末とし、うものがあるとしての話だが。
テキストの表題とは、一つの物の名にほかならない。独特な仕方で認知さ
うか。任意の主題≠というのは、世界の連関と同様に言葉の領域においても、
一切ほ結局他の一切に緊密に結びつき、からみあっているからで、どんな些
れる、テキストという一種の物の名、ニとばである。今生まれ出ようとして
細な一要素を問題とする暗も、それを徹底してたぐりよせさえすれば、はる
いる新たな物と言葉、
かな全体のヴィジョン、つまりわれわれの存在そのものに到達することを期
そのことばの明示的意味は、それが名づけている物の
特殊な在11ようを認知してはじめて了解されるだろう。表題はテキストの表
待しうるからだ。それゆえ、われわれによってここに選ばれた主題は、く愛〉
示であるが、それの意味は(それとは、表題を指しているのか、テキストな
やく友情〉のような高貴な主題岬人はいづれいつか、こうした事柄について
のか?)奇妙にも表示されてはおらず、実はテキストの全体に含意されてい
自分自身納得のいく言葉を見出したいと思いながら、一日のばしに人生を過
るのだ。テキストは表題の含意であることによって、表題の意味を明示し、
ごしていく−と同等の資格で、われわれの真筆な探求に値いするのである。
逆に表題はテキストの明示的意味であるように見せかけながら、というより
ただしそれは、われわれの言語慣習という因襲が、これらの言葉に課してい
そうした使命を帯びてそこに置かれながら、意味内容としてのテキストを含
る狭い限界に、そしてまたこれらの言葉が指し示している現実の様態に、わ
み、隠しているのである。それ故にこそ、テキストを包含している容器から、
れわれが飽き飽きし、深刻な苛立ちを覚える限りにおいてのことだ。さもな
おもむろに糸を紡ぎ、選りわけ、結びつけ、織りあげるべく、まず表題が喜
ければ、人はただ沈黙のうちに引きこもっているがいい。
一 6 −
− 7 一
語りつくされた主題?実際、部訳について八々が関心を寄せはじめたのは、
もないような日常語に、新たな自分の完義を与えようとすること、何故なら
比較的近年の事柄とはいえ、にもかかわらず、これの学問的な論究。考察は
個人の言語活動は、現実的には辞典に従属するものでなく、むしろ辞典のほ
既におびただしい数にのぼる。言うまでもなく、それは主として言語学的な
うが、実際に使われている言葉の後を追い、言葉の種々の意味を類別すべき
アプローチであって、翻訳。通訳、一般に異種言語間でのコード変換と伝達
のメカニスムを明らかにし、その可能性と条件とを開明しようとするもので
ある。ニの領域では、巌密な科学的分析を重ねることなしに、一体何を新た
に付言しうるだろうか。だが、これら言語学者たちの無数の「都訳論」が提
出された後も、なお詞訳作業そのものは全く変革されることなく、一定の慣
習の轍の上を走りつづけるように見えるのは何故か。むしろこれら翻訳論こ
そが、現実に対して批判的・刷新的な効力を及ぼすどころか、世間公認の覇
訳の定式。範型、つまりそのプロトコルを堅固なものにしているのではない
だろうか。われわれの無反省な日常は、いつの間にかそうしたプロトコル以
外に、礼儀にかなったあl)かたは考えられないと思いこむほどになり、翻訳
というものの一定の、変化に乏しいイメージにしがみつくようになってしま
う。実のところ、それこそが言語の存立条件であって、〈翻訳〉という語が
個々人の間で、語ら讃し聞かれ、理解されるのほ、語の意味にほかならない
そのイメージが、固定し、形骸化している限りにおいて共有されるからだと
言えよう。およそ科学的な態度というものは、現実のあるがままの姿を把握
し、記述することに有能だとしても、あるべき現実の姿、あるいは少なくと
もありうべき現実の姿をわれわれに描いてみせてくれるだろうか。特にこの
場合、人間の活動。実践が問題である以上、現に遂行されているような種類
の翻訳という事象を、その実体を、詳細に検討することとは別に、あるいはそ
こから派生的に、あi)うべき翻訳の諸形態を提示するよう求めたくなるので
ある。もしそのような作業か遂行されるとしたら、それはそのままく翻訳〉概念の捉え直
ものだからだ。要するに、語ることへと人をかりたてるそうした不安といら
し、われわjLの語彙体系の内部でのその配置換えをひきおこすことだろう。
もろもろの語とその意味は、けっして完結することのない、常に流動的な
種々の可能性を言い表わす。まさにそれを、語る人間は語l)つつ自発的に創
造し、発見していく。ところで人がそのように語るのは、ひとたび獲得され
た言語への素朴な信頼が失なわれ、疑惑と不安へ移行する時にほかならず、
人はこの既成言語への反抗として、はじめて語り出すのである。ある経験の
後で、世界との諸関係に看過しがたい変動が生じ、従ってわれわれの生活空
間にほかならない言葉の空間の中に、もはや居心地よく身を置くことができ
なくなった時、新しい秩序の確立を要求してわれわれは語り出す。それはも
ろもろの語の綱を編成しなおし、再び和解に到ろうとする企てなのだ。遂に
断固として自分自身の言葉を語り出し、万人のものであってまた誰のもので
一 8 −
だち、そして反抗が、時として、余りにも易々と国境を越えてしまい、にも
かかわらず国境のこちら側とあちら側での乗りこえがたいコンテキストの差
異に気づいてしまうー人の留学生の身に生来することがある。
書かれたものの多義性
特完の情況のただなかでの発話行為は、情況そのものによって厳重に束縛
され、捉われていると言ってもいい、それほどに、いくつもの系列をなした
動因が主体を発話へとかりたて、それを支配し、またその意味作用は、それ
ら多様な系列の重なりあいによって多元的に決定され、一義的な明白さへ統
合されていく。逆説的ながら、一つの発言の暖昧さでさえ、情況にとっては
両義性の標梓として、その限I)で明白なものとなる。だがこうした発話行為
の一義性明白性は、その行為そのものによって刻々つくりかえられていく情
況に依拠しているが故に、一回限りのもの、反復不能なものであるほかはな
い。かの時、かの場所における誰彼のことばが、あれほど真実で疑問の余地
のないものであったことばが、今ここにおいては何と不確かな、部分的な妥
当性をしかもたなくなってしまうことか。これに対して、記述されたものの
特有な性格は、はじめから時と場所の限定をこえて読まれうるようにと定め
られていることである。書かれたもの、テキストは、いかなる瞬間にも全面
的に固着してしまうことなく、いわば非時間的な虚空をカプセルのように漂
い流れていく。あらゆる人々の頭上の空を、無数の個人的な情況や国境さえ
も越えて。むろん、空にはいかなる境界線も引かれてはいないのだし、また
そのカプセルの中味とは、生きられた時間であるどころか、生きられた時間の保有する
非疇簡的な要素なのだ。このようにして、フランスと日本の空を書簡が往き交う。
それゆえ、書かれたものの主要な特質は、くりかえし読まれうるという点に
存するように見える。だが、それでもやはり、そのつど読まれるのは《同じ
もの≫でこあろうかと問うことができる。ひとたび書きしるされたものが、お
のずから修正されたり加筆されたりするわけがないとはいえ、その《同じも
の≫、非時間的なものは、しかじかの時間と情況の中でしか読まれえず、し
たがってまた書かれたものとしてあらわれることもできないだろう。それは
ちょうど、ある特定の場面で、特定の人物によって発せられたことばが、後
になってわれわれの記憶から場面と人物に関するその細部が脱落するや、も
ー 9 −
はや誰のものでもなく、またいかなる場面に属するものでもない、無名のこ
事態を修正しようと試みることもできる。つまり事態と名称の含意との間に、
とばとな牛、それが新たな現実を背景にするごとに、全lく別様の表情と価値
とを呈するようなものだ。だが少なくとも、そうした複数の可能性をにない、
相違やズレがある場合、現実のありようを変革するか、さもなければ現実を
あるがままに容認して、名称を修正するかとし1う選択になる。
だが言語学の説くように事物とその名称との結合は悪意的なものにすぎな
くりかえし読まれうるところのもの、多様に読ませるところのものとは、常
に同じ善かれたものなのである。雲がラクダやイタチヤクシ、ラに見えるの
いとすれば、名の詮索から都訳の本質規定にいたることも、その本性につい
が真実だとしたら、ラクタ■、やイタチやクジラのように見え、また同時にそれ
ての有効な反省を得ることも期待しえないばかりか、そもそも翻訳が現にど
らすべてであるというのが同じ一つの雲の形の真実なのだ。
んなものであれ、またどうあるべきであるにせよ、その名称はあいかわらず
原典とよばれるテキストと翻訳との関係は、一面においてこの雲とその形
く翻訳〉 でも、その他のどんな名称でもかまわないということになる。要は
についての多種多様な連想の喚起に似ている。多少とも根拠づけられた連想、
ただ、一つの事態=名称関係が、世間に通用しさえすればいいのだ。それ故、
描写、ないしは比喩、転移。いづれにせよ、原典は単一の相貌を呈Lている
一つのテキストが「翻訳」という題のもとで、何らかの新たな事象の名称と
ように見えながら、実際には複数の統一体に分裂してLまわずにはいないの
してこれを流通させようとめぎす時には、そのテキストにおいて事態と名称
である。しかもそれら同じものの相異なる模像の間で、どれを真正な写しと
とが同時に提示されなければならない。辞典は事物の完義蔑であると同時に、
するかは事実上決定不可能であるばかりか、それらに何らかの価値序列を与
言葉による言葉の定義集なのだが、実際にほ事物は辞典のページの上から完
えることさえも嘗臣しい。オリジナルとの関係においては全く同等の資格を主
張しうる複数の胡訳がありうるのだ。実際、一つの雲の形をラグタ、と見る方
d昌placerpar une suited′昌1ansなどと説明され、ただわれわれの既に所有
が、イタチと見る視覚よりも真実だなどとどうして主張しえようか。原典は
する現実的・肉体的経験を想起させようとしているだけだ。これが走ること
このように∴くりかえし新たな読解を可能にしてくれるのに反して、われわ
れが所有する蘭訳は執拗に原典の単一性合一義性を信じさせようとふるまい、
の定義と言えようか。決して走ることのないアキレスたちの世界では、この
語を完義し、了解させるために、一またぎで亀を追いぬかせるほかはない。
究極的には暖昧きをとどめず、原典の真実を把握し、再現前せしめうるとい
われわれにとってもまた、翻訳を何らかの新たな未知の事象として提示しよ
う、確固不動の信念にもとづいているかのようだ。あたかも人はいつの日か、
自分の思考が原著者の思考そのものと一致して、それを彼とは別異の言語に
起きせる必要があるだろう。できうべくんば、く翻訳〉 という語が今やその
おいて、別異の表現を与えることができると思っているみたいに。原著者の
名称となったところの事態そのものを現出せしめることだ。
思考がそのまま原テキストであるかどうか、棟著者の思考が単一なものであ
ったかどうか、いやそれ以前に、はたして原著者の思考などというものが存
在するのかどうかを考えてみることもせずに。
全に排除されてしまっている。例えばcourir(走る)とは、A11er,Se
うとするなら、そうした事態を既存の語彙で暗示し、類推させ、もしくは想
問題は新たなわれわれの翻訳実践を示すことだろうか。例えばフランシス・
ポンジュの ≠Lel昌zard〝 のような作品の読解と翻訳を通して、それを試み
ることができるだろう。勿論、それはそうにちがいない。そしてこの領域で
は実践あるのみ、一切の論弁は無用となる。
翻訳/翻訳論
「翻訳」と題されるテキストの生成過程は、新たな翻訳のプロトコルの探
だがわれわれのめぎすテキストとは、いわば翻訳実践のためのプログラム、
範例の探求ということになるだろう。いかなる都訳がなされるべきかという
求である。そして、その過程における記述行為のふるまい自体が、めぎされ
問、それをこそテキストは探求していくことになるのだが、この場合、翻訳
ている当の概念内容を暗示し、いわばその範例を示すものでなければならな
い。即ち、その中では翻訳という語が真にその(つまりそこでの)翻訳の意
行為の実体。本性がく翻訳〉 という語によって何ら表わされていないとして
味に適合したものとなるようなテキストが書けないものだろうか。
ここでのわれわれの戦術は、まず翻訳のプロトコルに対する疑惑と苛立ちと
も、今後明らかにされる実体を、まさにそれをしも都訳と呼ぶことにしよう。
ある意味では、これは名の正しきを求めようとする態度であi)、事柄の本
があって、ということは、いまだ無自覚な一つの新たな翻訳様態の可能性に
性に適合した名称を与えようとすることである。しカ▲しまた、同じ目的のた
めに一方では、名が言い表わそうとしていることに正確に適合するように、
ついての直観があって、それを名指す可能性を、既存の語彙の含意の中に探
−10 ▼
求することである。(この態度はそれ自体、語源主義ないしは名の正しさに
−11−
対するある信仰を表明するふりをすることになる。)しかもその時、並行下接
うがち、そこにあらゆる種類の水準の差異を導入し、言語の国籍を雉脱させ
して、その探求過程そのものが、新たな胡訳様態を体現しているのでなけれ
て全く別種の、異邦のものとなす。テキストは位置をずらし、かすかな偏差
ばならない。従ってこの段階では、名称はそれが何を含意するにせよ、テキ
が生じる。こうした変様を通じて、われわれはわれわれの通常の言語活動に
ストそのものの名でしかなくなる。つまりそのテキストの内部で都訳につい
間隙と空虚とが開かれるのを感じ、そこから、ある全く未知の別の言語が亡
て言われたことの一切、およびその言説の仕方そのものが翻訳とよばれる。
ここでのく翻訳〉
とは、このテキストの運動過程全体によって範例を示さ
霊じみて迫ってくる気配をうかがうことができる。そして同時に、われわれ
れているところのものである。つま上 それはテキストそのものだ。「翻訳
ている。 それは自分が書きしるす言葉・文字を通して、そこに穴をうがち突
論」を書くことと「翻訳」を書くこととは、全く別の企て、別の経験なのだ。
きぬけて、是非ともその裏側か表側かへわれわれを導こうとして介入するのだ。
が現に読んでいるのとは別のものを読んでいる訳者の辛が、そこにちらつい
もしもわれわれがありあわせの名辞をテキストの主題の位置におき、その
語が通常言おうとしているのとは別のことを、まさにそのテキスト自身によ
表/裏
一つのテキストの流れの中に引用きれ接木された外国語のもたらす効果、
って言わしめようとする時、都訳者の手つきと全く同じふるまいを、われわ
たとえばまさにここでの《テキスト≫ という一語のはたらきは、外異なるも
れもまた余儀なくされるのではないだろうか。即ち、さしあたりいかなる新
のの効果として測定できるだろうか。はたしてそれは外国語なのだろうか。
造語をも思いつかず、使い古し親しみなれた一語を出発点としながら、自分
あるいはもはや日本語とみなしうるのだろうか。片仮名で表記されたり、カ
自身はちょうどルビをふられるかカギをそえられた分だけそれとは別である
ツコでくくられたI)、時には傍点をほどこさjtたりして、特別の注意を喚起
ような語を、その語の背後に読み、かつ見ようとする。この二つの単語の微
しているこれらの外来語。借用語は、ちょうど輸入された商品のように、言
小で巨大な隔たi)のうちに、いくつかの形象が生まれ出ることになる、とい
語の流通。交易の場で人々の関心と興味とをひきとどめるのに成功している。
うより単語の同一性の中に一つの空虚が、空隙が口を開き、それを顕示すべ
ある視覚からすれば、物の名とはすべて仮の名、仮の物にすぎないのだが、
くまた同時に充填しようとして、一行また一行とテキストが織られていく。
物としてのテキストを名ざす仮の名が、ここではまた借りきたられた名、借
それは口実としての表題から出発して、それを正当化するために再び表題へ
りの名であって、あの外異なるものの効果とは結局この借りるということの
ともどる、ひそやかな転移と比喩の空間だ。実際、人がくtraduction〉 の一
語を 〈翻訳〉 と読むことができると確信するにいたるまでには、一つの長々
特殊な価値であるらしい。同様に、翻訳きれた書物という輸入品にあっては、
一切が傍点をほどこされ、強調される権利をもつのではないだろうか。そこ
しい物語の歩みが必要だったであろうに。そこではわれわれは【翻訳の読葦
には一体いかなる異様のもののけが、書物を仮の宿として住まうことになる
におけると同様に一たえずそれとは別の語、別でありそして同じ語を読むべく誘われてい
のか。だが実際には、われわれは時としてあれら余りにも明瞭な目じるしに
気づかないか、あるいは気づかなかったふりをする。テキストなどという言
る。この反復と分身との距離こそ問題だ。単語の二重化は顔の上の仮面のようなものだ。
葉はもはや何の抵抗も興味ももたらさなくなる。目じるし、つまI)あのルビ
をふられた言葉、カギだの括弧だのに囲われて、こときら意味ありげなめく
引用からアンソロジーへ
われわれの翻訳実践のためのプログラムは、マラルメ、ポーラン、ブラン
ぼせを送っている語、片仮名で表記された異国籍のことば、妙に神経質に、
ショ、バルトらの引用ないしパロディーの織i)合わせによって、徐々に控造
潔癖な歩調をひけらかす統辞法と言いまわし、そしてとりわけ、書物の本文
・加工されることになるだろう。そもそも引用とは、元のコンテキストから
に先立って、またはその終末に、厳然と公示された翻訳権の占有に関する宣
切り取ったものを全く別異の地に移植することによって、新たなコンテキス
言、等々。(だがそもそも不在またはその容器でしかないようなものを、人
トを編みあげるという操作であるかぎりにおいて、既にそれ自体、一つの手
はなぜ売買したり占有したりできるなどと考えたのか。)とにかく、これら無
の労働であり、加工なのだ。そして翻訳がまた、この意味において一種の引
数の目じるしは、こぞって、それが実はそれでないところのものでありたい
用ではないだろうか。しばしばパロディーと化すような引用、テキストを一
のだと言おうとしている。それの外なるもの、それの他なるもの、それにと
つの文化的コンテキスト(つまりそれ自身がそれを構成する一部である全体)
って異なるものへの執拗なめくぼせ。それらはわれわれの言語の表層に穴を
から別のコンテキストへと転化し、挿入することではないだろうか。一方で
】12
−13 −
はまた、「翻訳とは何か」の探求に際して、何よりもまずこのく翻訳〉 とい
う語の翻訳の可能性と条件を問うてみるならば、辞典に登録されたこの語の
意義〝たとえば国語辞典、フランス語辞典の中でのこの語の定義−が、相互
に読まれ、交錯し、すりかえられる限i)において、それは翻訳されるのだ。
仏和辞典のような二言語対照辞典は、そうした交錯、転位の場だ。だがくtra−
ducti。n:)をく翻訳〉に結び合わせる時に生ずる事態は、理想的には/翻訳)
という記号によって、フランス人の精神におけるくtraductionノの概念を日
本人の精神の中に導入するということであろう。従ってフランス精神にお
けるこの語の概念がどんなものであるかを知っているばかりでなく、その概
念を所有してさえいるということが、翻訳者としての資格の最小限となるだ
ろう。つま牛翻訳者は日本人であると同時に、フランス人でなければならな
いことになる。実際には、フランス精神におけるtraductionの概念は、フラ
ンス語辞典の中に範例的に示されるものと考えて、人はフランス語によるこ
の語の定義を読むのだ。しかしはたして彼にはそれが読めるのか。あるいは、
その時彼に何が読めるのか.。読めるとは、一体厳密にはどういうことなのか。.
その定義を構成するいくつかの語が、さらに別のフランス語によって定義さ
れることを要求し、以下同様にして、われわれは常により広範囲の語へと送
りかえされ、かくして一つの外国語の体系全体の包括的な理解が要請される
ことになる。つまり、逆説的ながら、外国語のわずか一つの語が読まれ、」理
解され、従って朝訳されうるためには、あらかじめその外国語の全体が知ら
れているのでなければならないことになる。こうした奇妙な矛盾にわれわゴL
が苦しまないでいるとすれば、それは結局くtraduction〉を∼:翻訳〉 として
読むとき、もはやフランス精神におけるその概念などあとかたなく消え去っ
て、 ただわれわれの親しみなれた概念の記号としてのく翻訳〉をしか相手に
しないからである。つまり く翻訳〉は潮訳という語自身でしかなくなる。あ
るいはまたくtrad。Ction〉はく翻訳ニ〉 と訳されることによって翻訳に変身す
ると言ってもよい。パロディーとしての引用だ。時として人はこうした避け
がたい変形9歪曲に苛立ち、くtraduction〉をせめてくトラデュグシオン〉
と音訳することであきらめてしまう。テキストだの、シチュアシオンだの、
アンガジュマンだの、エクリチュールだの……。だがそれらも結局他のもろ
もろの日本語で説明され、定義される限り、事情は大してかわりはしない。
二言語対照辞典に登録された外国語の語彙の意味の数々、つまりは複数の
訳語の群、それらは近寄りにくく到達しがたい一つの絶対的に外異なるもの
を、多少とも遠巻きにしながらとりかこんでいるようにみえる。だがそもそ
も辞典に枚挙された語の意味とは何か。一つの語とは、可能性の状態で待織
−14 −
している意味の錯綜件のようなものではないだろうか。その意味なるもの
は、現実の言表行為において、具体的。個別的な表情を獲得するところのも
のであって、われわれに引き渡されるのはいわば意味の偏差でしかない。し
かも、いかなる偏差もこうむらない充仝で没状況的な(中性的。無差別的な)
意味そのものなど、どこにも実在しない。辞典ほそうした非人称的な意味の
集蔵所であるかのようなふl)をしているだけで、実際には語ほ辞典的竃義が
設毒する限界を易々と逸脱して、個有の、多彩な生をおくることができる。
ある言語の内部での部分的な表現行為のひとつひとつは∵その言語に蓄積さ
れた表現力を消費するにとどまらず、語る主体が記号を意味の方へのりこえ
ていく時に、与えられ受けとられた意味の明確さというかたちで言語を再創
造するのである。それ故、あるテキストの全体的な意味桟橋の中で、くtra−
duction〉 の一語がはたしている棟能、従ってそめ具体的な生は、そのテキ
ストの存在そのものによってはじめて形を与えらjし実現されたものであっ
て、フランス語辞典にせよ、国語辞典にせよ、そこに列挙された語群や定義
の数々の中から適格な一つないし二つを探しあてられるといった性質のもの
ではない。おそらく、それらすべてであって、同時にどれでもなく、ひょっ
とするとそれらが散乱した場の空白そのものか、それらによって囲まれた不
在の中心こそが、まさにこの語の誘引力によってわれわれが導かれようとし
ている地帯なのかもしれない。
このような考えから類比的に、われわれは新たな翻訳様態について次のよ
うな常軌を逸した仮設と実験を提案してみたくなるのだ。つまり、原作とい
うものは唯一無二の意味ないし真実に還元されるものではなく、逆に多様な
意味と複数の真実を産出し、散乱させるところのものであって、決定訳だの、
正確かつ忠実な寛厳の翻訳などというものはありえない。むLろ同等に忠実
で、同時に不正確な複数の翻訳しか存在しなし、し、また存在すべきである。
原作の到達しがたい存在感、現実感は、それら複数の都訳の存在を通して、
それらのおかげで、それらの間隙に、かろうじて察知きれ、感得されうるに
すぎか−のだ、と。従って、われわれの考えるような翻訳の実践においては、
複数の読解にもとづく複数の訳例を並列し、編成した一種のアンソロジーと
いった外観を呈する書物(つまり単に並列されるだけでなく、それら可能な
訳例が演出さ讃し戯れあう場としての調訳、そしてそれらを配合する芸の作
業。労働過程としての翻訳)、あるいはまた、そこにおいては一つの命題が
たえず自己を修正し、軌道変更し、時に矛盾撞着したりしながら、錯綜この
上ない分枝を張りめく、、らしていく、そんな文体によってほとんど息もつまら
んばかりの書物を創りあげることになるだろう。いづれにせよ、それは売り
−15 −
物ならぎる見本の品(Venteinterdite)であるほかなく、およそ一切の商品
計算済みなのだ。メスによって肉体に書き刻まれるテキスト=労働。すると、
流通の世界の培外(Horsdecommerce)に敢然と留まりつづける「非売品」
一つの作品を読み解き、さらにその読解そのものを書くこと、つまり翻訳す
であるだろう。
るとは、一種の解剖作業だというのだろうか。テキストの解剖学?なるほど
切り開かれた腹は再び縫合される。裂傷は癒着し、やがて有機体全体の正常
な活動が回復きれる。だが翻訳という解剖作業においては、分解修理した時
距離と配合
ブレヒトの強調した距練の効果、日本のマリオネりト劇というぺき文楽は、
この距離というものがどのように稔能しうるかを理解させてくれる。つまり
距敵は、複数の演劇コードの断絶によって、言いかえれば舞台演出上のさま
ぎまな特性が明確に区分きれることによって、槻能するようになるのである。
すなわち舞台上では、人形に付与され外在化される動作が入念に模倣を追求
しているが、一方でほ人形使いの外在化する動作(行為ないし労働)と声帥
の声の動作という、二重の断絶区分によって、いわばそれは打ち砕かれ、割
れ目をつけられる。その結果、西欧の俳優を鳥もちにかけて捉えこんでいる
あの声と身振の、そして魂と肉体の換喩法的な感染からまぬがれうることに
なる。
総合的で、しかも分離された演劇、ここにおし−ては《引用≫が、記述体の
一つまみ、コードの断片が君臨する。コード、照合事項、断片的な決定事項、
仕事のアンソロジー、これらの編成が何らかの形而上学の効力によってでは
なく、劇場の空間全体に展開される配合の芸の力によって、記述体を多層化
するのである。編むことによって始められたものを、配合の演技が休みなく
計仕掛の復原のようなわけにはいかない。なぜなら、そこでは個々の部品が
ことごとく、大ききも機能も異なる別の部品と取りかえられてしまうほかな
いからだ。いわば一人の患者の肉体を切開し、殺黙しつつ、同時にもう一人
の新たな肉体を生み落そうとするようなものだ。こんな解剖作業が考えられ
るだろうか。
例えば「眼球渾」と題するベルメールのエッチングでは、描かれた図像に
文字通り答曝し、手を出している画家のふるまいが、ありありとそこに見て
とれる。肉の襲をこじあけ、押しひらき、その奥に卵を突っこもうとしてい
る手指、その仕事ぶりを通じて、描かれた図像が可能性として潜有する快楽
の数々を、視線にさらし、ほとんどそれを見えるものとしている。図像その
ものが今や唱いはじめんばかりだ。というより、そうした画家の視線と手、
手の暴虐そのものと化した視線が、図像にその仕事の痕跡を残し、刻みつけ、
そのようにして今度は、手の労働そのものが図像の一部に加えられる結果に
なっている。
と見えたのはしかし、実際にはわれわれの側の妄想にほかならないのであ
って、ここでは一切が画家の労働の所産であり、やわらかい金属板の肌を鋭
継続していくのである。
テキストの解剖学あるいはマリオネット
ハンス・ベルメールの画集のページを繰っていくと、その衝撃的な、解剖
図詰めいた残酉告とエロスの世界、残酷さのただなかでのエロテイ、ソクな陶酔
は、何やらテキストオリジナルに透徹し解体させずにはおかぬ、明晰無比
な読者の視線と手の暴力を想起させずにはおかない。解剖というものは生き
た有機組織体に加えられる暴力であって、メスや視線のような鋭利な刃物で、
対象を切り裂き、分断し、つかみ出して、そのひめ隠された鋭敏な部分をい
たぶり、秘密をあばきたてる。そしてこの施術に先立って、まず対象を身動
きならぬまでに縛りあげ、国定し、あるいは麻痺させる。この荒仕事の過程
で、どれほどの血がほとばしり、涙がしぼられ、筋肉の痙攣がどれほどの時
間持続するのか、また絶望的に実っばられた四肢がどれほどの圧力で手術台
を崩針)、虚空をつかむのか、どんな悲鳴や絶叫が洩らされ、個々の骨と関節
とがどこまでしない、のけぞl)、開かれるのか、こうしたことはすべて予め
一16 −
利な刃で切り裂いていく手の運動の軌跡、肉体の、筋肉の緊張と弛緩の断続
のしるしにすぎないことは自明である。とすれば、見られるべくそこにさし
だされ、さらけだされているのは、画家の肉体の可能性であl)、その仕事ぶ
り、色欲の営為なのだ。ベルメールのデッサンにおいては、紙の上をさまよ
った画家の視線の動きの一切と指の熱狂やためらいの一切が、何一つ抹消さ
れることなくそのままそこに定着されたかのように、縦横にからみあい交錯
する神経の網状組織めいたものを構成していて、画面のある箇所では、それ
らがひどく敏感な局部を形成するかのようである。
あるいはまた、解体された挙句に凶暴無比な仕方で結合しなおされた人形
の細部断片が、見るものの肉体の思いがけない部位の無意識によびかけ、あ
Ⅰ)えなかった記憶をめぎめさせる。それは複数の色情の可能性を予感させる
というべきだろうか。掌のしわの間から花開く耳桑だの、脇の下に突きささ
るハイヒールの踵だの、足裏にほほえむ淫磨な唇だの、股間の暗闇に輝く眼
球だの、倒錯した(倒錯させる)オブジェの数々……。そしてまたマリオネ
ー17 一
ソト劇を題材とする一連の作品にあっては、操り人形の関節のつながり具合
(組織・体系)が明瞭に示され、しかもそれら個々の、分断されると同時に
接合された諸要素の可動範囲とその運動様態とが、幻想の中でおのずから了
解きれるばかりでなく、可能なあらゆる橡能作用があらかじめ画面に顕示さ
ついたか。のみならず、胡訳への没頭が、不可避的。必然的に、一つの精神
れているかのようだ。
ディーの配合によって編まれ、それをさらに配合する労働そのものが継続し
ベルメールのこれらの作品への注視は、こうしてテキストの解剖学として
の、あるいはマリオネい′ト劇の上演としての翻訳という、おぼろげな観念を
ていかねばならないのだ。配合されるものの動作と配合するものの仕事、そ
喚起していくのである。
アン、/ロジーとして,テキストほ・く翻訳〉から(traduction〉へ徐々に変貌
を狂気へと導いたためしが、われわれの世界においてかつてないとすれば、
われわれにとっての〈翻訳〉 と彼にとってのくtraduction〉 とは全く別のも
のなのではないか。だからこそ、われわれのテキストはある種の引用とパロ
して配合の事実自体が思いがけず産み出していく意味効果、これらのものの
していく。
翻訳から tr忍ぬぢもi¢n へ
われわれの企てるようなテキスト「翻訳」が善かれうるとしたら、それ自
身、まさにそこで追い求められているような詞訳概念の実現ないし表現でな
ければならないだろう。つまり翻訳概念を探潔しつつ、それが同時にその翻
訳概念の実物見本であるようなテキストを書くこと。とすれば、それは何ら
かの外異の言葉の概念の翻訳でなければならず、従ってその言葉とは、例え
ばフランス語における くtraduction〉 でなければならないのだ。くtraduc−
ti。n〉 を翻訳しようとして、それがもはやく翻訳ンと訳されるべきでないと
いうことを示すために、あるいはそこではじめてく翻訳〉がもはや単なる翻
訳ではなくなってしまうように、戦略的に「調訳」と遷してテキストを書き
はじめること。そ・のようなテキストが、はたして書きうるだろうか。
ところで、くtrad。C七ion〉 とは何かを問うとき、手近のフランス語辞典の
中にtraduireの項目を探しあて、その定義Faire que ce qui昌tait6nonc昌
dans unelanguele soit dans une autre,en tendant左1/6quivalence
s昌mantique et expressive des deux6nonc占s・を次のように読み解くこ
とさえできれば、われわれはく翻訳〉ではないくtraduction二ゝ を自分のもの
にしたことになるのだろうか。即ち、「ある言語で言い表わされたことを別
の言語で言い表わし、しかもそれら二つの言表の意味的。表現的等価性をめ
ぎしつつそうすること」と。もしそうなら、フランス語辞典が読めさえすれ
ば、フランス精神はくまなくわれわれの所有に帰することになるだろう。何
よみひらめかし
ここにおいてはもちろん∴最終的に翻訳の概念を刷新し、全く新たな定義
を創造することが問題なのだが、そのためにまず、翻訳という口実のもとで
どれだけ自由な活動の場をえられるのか、いわばこの間題の射程範囲を測定
しておかねばならか−。われわれとしては一つの暗黙の桂結から脱出しよう
とする以上、さしあたl)できるだけ概念をゆさぶりつつ、その内包。外延を
拡大することにつとめよう。そうすることで、より大きな詞訳実践の可能性
を保証する新たな概念がおのずから、まさにテキスト編成の進行につれて自
己を呈示してくれることを期待しているのだ。(だがテキストを編み、織り
あげている者は誰なの夕ゝ?テキストの編目に自己を呈示しているのはその者
_/ユンユ・−\り′フノ の影ではないのか、語る主体の?−いかにも、主題ほ語る。)そして概念の自
己呈示こそあらゆる序文の中の真の序文であるとすれば、このテキストは来
るべきあらゆる翻訳を告知し導き入れる序文となることをめざしているのだ。
『三四郎』の広田先生は、沈黙した客観的存在を都訳の対象になりうると
みなして、こう言う、「不二山を翻訳してみたことがありますか。自然を翻
訳すると、みんな人間に化けてしまうから面白い。崇高だとか、偉大だとか、
雄壮だとかdここで、一般に対象の客観的な叙述が言語にとって可能かとか、
言語活動があくまで人間的行為であるかぎりにおいて、それは人間中心主義
的な、アントロボモルフィツクな概念や暗喩によるほかないのではないか、
故なら、そこには一切のフランス語の概念が定義されているのだから。だが、
といった問題をもちださないでおこう。単に富士山の翻訳が、沈黙からの訳
われわれは何によって、このフランス語辞典を読めたと保証されているのだ
ろう。実のところ、フランス精神にとってのくtraduction〉の概念とは、こ
の語について、フランス人によってフランス語で言われたことの一切ではな
いだろうか。あるフランス人は「翻訳するとはとどのつまり狂気の沙汰だ」
と断言する。こうした命題を↓−一体われわれの中の誰が言い放つことを思い
出とLて、つまり言語表現一般の同義語あるいはその暗喩として、言われて
−18 −
いることを指摘すればよいのだ。言い表わすこと一般を言い表わす仕方とし
ての翻訳。それはこの語の固有の意味からの氾濫、用法の濫りな拡大、濫喩
ヽヽヽヽヽヽ
ヽヽ なのだろうか。いづれにせよ、それをこの語の固有の意味の一つとして加え
てはいけないどんな理由があるだろう。そして何よりもまず、翻訳という語
−19 −
それ自身が、既に何ごとかの暗喩だったのではないか。
「翻訳」が支那から輸入され、借用された語彙であることは明らかだが、
漢字が言おうとしていること、意味していることを探求する作業が、つい
にその表意文字に固有の、根源的。始源的意味を引き出すことができるかど
うか、したがってまた、そうした固有性と始源性とが有るのかどうかは、わ
れわれの問題領域と隣接するばかりか、部分的には重なり合いさえする一つ
の問題領域を形成するはずである。そうした語源研究のあるものが主張する
ところによれば、剥とは播と同じく、巻いた物を平らにのばすこと、また旗
や花など平面をもったものが、ヒラヒラと裏表を見せながら飛ぶことである。
−ひらめかし、ひるがえし。裏と表、上と下の転換ないし交錯、そしておそ
らく同時に、巻かれ、たたまれ、隠さ讃し見えない位置におかれたものを、
のべひろげ、明るみに引き出し、視線にさらすこと。.−そして翻訳の都は、
裏返しにする意からの派生的用法とされる。支部語において既にこの時、潮
はその固有の場所から転移させられてしまうのだ。この運動。推移は、語が
名ぎそうとする事態とは逆に、語をそれ自身の上に屈折させ、たたみこみ、
巻き回すような移動であって、むしろそれ自身の多層化・重複化である。自
己自身の二重化、裂け目のない分裂、同じものであって他なるものの発生、
しわより。それは潮ということの、つまりひらめかし、ひるがえすことの可
能性であり、条件である。だが実のところ、この語の基本義とよばれる固有
の意味が、そもそもの初めから、その固有性。始源性の内部で複数の声と文
字とに分有されていたのだ。唯一共同の意味の支配の下に統轄された単語家
族とよばれる語の一群が、そのことを証し立てている。すなわち、ホン(潮)
双方にかかわi)あう、その接点であって、それでいて双方を成l)立たしめる
だのへン(変・返)だの、ハン(拝・煩)だの……
場、それらが演じられる舞台であると同時に、演じられることで成り立って
訳とは何を意味するのか。語源学はこの場合も、ヤク(訳)、シャク(尺。
釈)、タク(度。沢)などを同一の血脈に帰属させて、尺(軍)の表わす音
いくような空間だからだ。読むことと書くこととを裏表としてひらめき、ひ
声に「断続するものを球数状につなぎあわせること」という意味を聞きとら
せようとする。繹とはそれゆえ、もつれた糸の固まりをほぐし、引き出して、
一すじずつつないでいくこととなる。釈の釆は、番・播・播などに含まれて、
穀物をバラバラにふりわけるさまを示すという。同じ意味という種子を、い
くつかの声と文字とにふりわけ、播き散らす言語の始源の時。それは相異な
るものの間に同一性と類似とを認知する、限りない派生と転移の時間であり、
その時から、暗喩的空間が世界をのみこみはじめる。釈も訳も繹も、こうし
て、もつれたものを一つ一つ区別して順序よくつなぐという、同じ一本の糸
によって株数状につなぎあわされるのだ。演繹一解釈一そして一翻訳。だが
既に見たごとく、この系の第一項として、表現を置くことができる点を想起
おそらく人はこの語を、あえて日本語に翻訳することをせず流通させた。大
和ことばがこの語を代替する能力をもたなかったためでもあろうが、また大
和ことばにそうした柔軟さ一精妙と複雑と−を与える文化的な努力や素地か
欠けていたということであろう。漢文読みの知識人たちは、大和ことばとは
無縁の文化的な別空間に生きていたのだ。だが、あえて日本の古語の中に朝
訳の可能性を求めるとすれば、援用されるべきはまず、〈よみ)くとき〉くあ
かし〉であろう。よむ(読む。詠む)とは、一つずっ順次数えあげてゆくの
が原義であって、一つ一つの音節を数えながら和歌をつくりだすことと同時
に、善かれた文字を一字ずつ声立てて唱え、(みずから聞き、また人に)聞
かせることを意味しうる。つまりいまだあらわにされていない思念の表出と
と同時に、既に表現され、そこに与えられてあるもノのの見。聞きとり=理解
でありうる。くよむ)〉がそれら二つのことを同時にいおうとしているので
はないにしても、少なくともそう言うことができるし、そうよむことができ
ると言いたいのだ。だからこそ、おそらく、くよむ〉はまた漢字を国語で訓
ずることでありえた。訓(よみ)とは、漢字を字音でよむ音(こゑ)に対し、
漢字に国語をあてることであi)、それはまさしく翻訳というものの日本的な
原初形態であろう。とすれば、くよみ〉が表現・読解であI)、同時に翻訳で
あってよい。というのも、翻訳行為は常に読むことと書くこと(音声による
にせよ、書字によるにせよ)とを共に含意し、二つのことを互にかかわらせ、
るがえるものの名−それが翻訳だ。
くとく〉は、締まり固まっているものをゆるく流動できるようにする意、
類義語くほどく〉は、固くむすばれたものをばらばらにする意だという。読
み解くべきものは常に紐や謎や間のごとく、固く緊密にむすばれているので
あろう。いづれにしても、これらの言葉は織物としてのテキストの緑につな
がる利点をもっていても、ゆるめほどいた糸目。織目を再び別のテキストに
編みあげるという、翻訳の第二の契機にいささかもふれてこない。それはた
だ糸のむすぼれ方、重なり方、糸目の数などを、目に明らかにきわだたせ、
見せてくれる分析的な、対象の分解作業だ。糸と糸との間の拡大された距離℡
差異が、対象の編制を見えるもの。よめるものにし、視野を明るくしてくれ
るのだ。〈あかす〉 とはまさにそのようなことだ。隠されたことを明るみに
引き出し、分らない(分ちがたい)ことを分けへだてて視線の光にさらすと
しておこう。
− 20 一
− 21−
あらわれているところのものであるかぎり、究極的には彼にとって訳文と区
き、人はわかるという。だがときほぐされ、ほどかれた糸を、無限の空間に
散乱させ、虚無と偶然とにゆだねるとしたら、それは読むことですらないだ
ろう。読むとは常に一定のコンテキスト(共有の織地)を背景として糸目を
拾うことであって、そのようにして拾いあげられ、おこされ、いわば織地か
ら浮き出した刺繍模様を、人は再び元の織地に縫いもどし反復するか、さも
なければそれを全く別の地の上に接ぎ合わせ、縫い込Aでしまうかだ。人は
そうするためにのみ読むのであり、逆にそれが読めるということの条件だと
増加しつつ、微妙なしかも取りかえしのつかぬ変身をとげた別の原文となる。
いってもよい。
作成していくといってよい。読者。訳者がなければ原文は存在しないのだ。
別しがたいまでに相似した区別さjtたものなのだ。こう言いかえることもで
きよう。原文は都訳によって決完的に何かを減少し、同時に決定的に何かを
「ヒ∵−
それは原文の複写でなく∴翻訳である原文なのだ。きしあたり原文がそのよう
なものでしかない翻訳。あるいほ逆に、この増減によってこそ、原文が原文
として織りあげられていく、つまり都訳が徐々に、、訳し手にとっての原 ̄丈を
干草こl
さて、まさにそのようにして、既に日本語という風土に根づき、日本語に
転化している粛訳という一語を、われわれほ読みかえしたのであるが、同様
にしてまた、胡訳をのベーあらはし−ひるがえしとして読みひらめかすこと
もできよう。だが、もし胡訳というものが原文に可能なかぎり接近し、つい
にそれと一体となってしまい、それにとってかわりさえすることをめぎすな
らば、逆説的ながら翻訳しないでおくほかはない。極端に言えば、一つの外
異の言語をそっくりそのまま借用してその中で生きつづけること。支部語を
できるかぎり日本語に近づけようとするかわりに、日本語をできるかぎり支
部語化し、ついにはきっばりと向う岸へ渡ってしまうことだ。といっても、
瞭文と翻訳の関係を考えるとき、それは決して結局原文にまさるものはない
ということを意味しはしない。ただ原文のメッセージは翻訳に際して常に何
ものかを失うばかl)でなく、常に何ものかが付け加わりもするという事実だ
けを言おうとしている。それは、翻訳者が理解しているような原文にとって
思いがけない何ものかが、おくればせに編みこまれ、読まれるようになると 寸リ
いうことだ。そもそも過不足のない原文そのもの、固有の意味での原文など
というものは存在しないのであって、常にそれは一つの読み方に対してあら
われてくるものでしかない。そしてまた、原著者の当初の意図なるものがテ
キストに現前し、あるいはそこにひそみ、かくれているわけではない以上、
翻訳はある意味でくのべあらはし〉であるとしても、それは端的に一つのモ
デルを、そこにおかれた何らかの出来あがった形を模写し、模倣し、露呈さ
せることではない。読むこと、書くこと、従ってまた翻訳することに共通な
あの〈あらほし〉の契機は、事態を端的にあらはすものではないのだ。事実
はむしろ、詞訳がそのあらゆる徴候をちらつかせ、ひらめかすことでたえず
想いおこさせようとしているあの差異と距離、これは原文ではないという公
然たる暗示の一方で、その差異を翻訳が明確に、精密に測定していればいる
ほど、一層それは原文の外異性とその場での不在とを現前させ、原文への近
テキストとは織物を意味する。けれどもこれまで、人は常にこの織物を一
つの製品、背後には多少の差はあれ隠された形で、意味(真実)が位置して
いるような、既成のヴェールとみなしてきたのに対して、われわれは今日、
織物としてのテキストがたえまない織り合わせを通じて作られ、加工されて
ゆくという、発生論的観念を強調しなければならない。一つの読み方(une
fa9Ondelire)が加工し(fa?Onner)、織りあげてレ恥く別のテキスト=翻訳。
よみ(ひる)がえし
フランス語くtraduire〉 の祖形ラテン語くtraducere〉 からは、次のよう
な糸が発出する。それらをすべてフランス語動詞に再び集束させてみよう。
即ち、traducereとは、まず越えるに難しい急流のごとき隔たりを前提し、
なおかつそれを何らかの仕方でこちらの岸から向う岸へ渡らせ、横切らせる
こと、あるいは逆に、彼岸のものを比岸へと運びきたらせること(輸出入品
の交易の場としての翻訳)。何ものかを通し(つらぬいて)行かしめること、
ンナ′L
接性を感じさせることになる。その原文とは、訳し手の(一つの)読み方に
− 22 −
何ものかの前に、何ものかを越えて、出現せしめること。翻訳すること、派
生きせること。古代ローマ人にとって翻訳とはこのようなものであったとい
うのではない。だが少なくとも、これらの行為のすべてが同じ語で言い表わ
されたということは、それ自体意義のあることだ。
彼岸?死せるもののよみからの連れかえL、あるいは逆に、そして同時に、
よみへのおくりかえし、一言でいってよみがえしであるようなよみひるがえ
しとしての翻訳。はたLてそうだろうか?
彼岸へきっぱりと渡って(渡して)しまおうとする要請ないし意志、そし
てまず初めに、流れの岸から遊離してしまうもの(彼岸へむかって、あるい
は此岸へ)。固有の意味という、安志し固定した岸辺からの遊錐(語義の派生、
転用、もしくは起源からの漂流)。本質的に禁じられたもの、不可能なものを、
此岸へ(彼岸へ)運びきたらせ(運びゆき)、おおわれ、隠されたものを顕
現すること。死せるものの蘇生。復活、たたまれてあるものの展開。閤にか
【【23 −
くれたものをHの下に導き出し、露顕せLめること。衆人の前に引き出し、
公衆の視線にさらし、衆目による検閲と判断の場に呼び出すこと。従ってま
たスペクタクルとして公衆の面前に現出させ、顕示すること。演技させ、演
技し、上演し、見せること(演出一滴敵一再現前)。
ある分割の暴力によって、マラルメは言語活動を、たがいにほとんど関係
のない二形態に分け隔てた。一は生のままの言語、他は本質的言語。おそら
と÷一∴キ⊥イ㌧ム
くこれこそ真の二言語使用というものだ。作家はこれまでに既に与えられて
しまってなど決していないあるバロールの方へと進む途上にある。それも話
したり、話すことを待ち望んだりしながら。この進みゆきを、作家は歴史的
神話の支配の下で
に彼へと宛てられている(彼のものとして運命づけられている)あの言語(彼
バベルの塔の物語。元卸こはただ一つの言語、同じ一つの国民だけがあっ
た。そうして人間たちが力を合わせ、天をもつらぬく一つの軌一つの塔を
建設しようとした暗に、ヤーヴュは唯一の言葉を話す唯一の民でいることこ
そ、この人間の騒慢な企ての原因だと考えて、彼等の言語を混乱させ、彼等
を仝地表に分散させた。これが諸国民と諸言語の存在の発端だ。ここでく混
乱させる:〉(。。。f。。dre)とほ、複数の相異なる有在をまぜあわせて同一化
してしまう(混同する)という、通常の意味とは逆に、本来同質単一であっ
たものを複数の異種のものに分裂させることとして言われている点に注意す
べきだ。いわば未分化なものから、より分化した状態への移行が、人間にと
ってはなくもがなの、究極の真理にとって余計な多元化。複雑化としてとら
えられている。単一の原理という中心に結束し、真理と一体になっていた言
語が、一斉に中心から遠ぎけられ、真理から隔絶されて、今や世界の諸言語
として円周上に配列され、その距経と複数性を永遠に苦しみつつ、中心を遠
巻きにながめやっているのだ。少なくともユダヤ・キリスト教せ界にとって
は、こうした神話の背景なしに翻訳を語ることはできない。実際、翻訳の原
理を論じうるためには、種々の言語の差異がいかにして生じたのか、そもそ
も異種言語間の共通の理解はなぜ可能なのかを解決しなければならないが、
さしあたり、く元初に唯一の言語があったノと答えるほかはないだろう。そ
してこうした神話をもつ世界ともたない世界とで、翻訳が同じことであると
は思えない。もし同じなら、ヤーヴュによる言語の混乱は大した事件でもな
いだろう。
=7ノア
言語の分裂・混乱の神話に対して、使徒行伝における諸言語(火の舌)の
融合。統一の奇蹟が呼応している。この統一は、言うまでもなく救世主にお
いてのみ回榎されるのだが、それはペンチコストの日、相集った諸国民の眼
前で、使徒の肉体を通して、同一の真理が諸言語によって語られ、演ぜられ
ることによって、かろうじて垣間みられるだけだ。諸言語の複数性は遂に解
消されない。この時、聖霊の吹きこむ言葉を諸国語で語る使徒たちは、ただ
の母なる言語)に常に一層接近、和解しつつなしとげるのだが、しかしその
親近性は、自分を生み育んだ言語全体への彼の帰属を、時として深刻な問題
と化するのだ。
一体、ひとは数ヶ国語で思考するものだろうか一息考というものは複数の
言語で(各国語で)なされているのだろうか−できることならそのつど、思
考そのものの言語であるような、ある唯一無二の言語で考えたいものだと思
う。だが結局、考えるのも夢を見るようなもので(夢を見るごとくに考える
のであり)、また何らかの外異の言語で夢みることもしばしばだ。われわれ
をしてある未知の言葉、多様で錯雑していて、透明さのさなかにありながら
なお晦暗なことばを語らしめるものこそ、この夢自体であり、あの好策なの
だ。
了解と表現の接点とLての翻訳
言語学者たちは、これまで彼等固有の視点から、翻訳について何を言った
か。翻訳という仕事の深い本質をよく判断するためには、一つの言語から他
の言語へと移行していく翻訳者の心的メカニスムを研究しなければならない、
と。よかろう。実際、翻訳の実践過程で、一体何がおこるのか。言語学老は
言う、翻訳者の探求するものは翻訳すべき統一体の完全な再認であって、翻
訳行動の解明ではない。理解するために翻訳するのではなく、理解させるた
めに翻訳するのである。したがって、翻訳者の問題は一般的にいって、彼に
不明な意味を見つけ出すことではなく、この意味を彼の母語で言い表わす手
段を見つけ出すことである、と。だが原語から第二の言語への変換に先立っ
て、 まず原語のメッセージの理解があるとして、その理解とほ、常に既に翻
訳でなくして何だろうか。そもそも、記号というもの一切が意味するものと
意味されるものの統一体だとして、意味されるものの本性は部訳可能性、即
ち記号による記号の置換の可能性なのだ。何故なら、意味は理解されて初め
この神話体系内での刹訳者の権能と任務(ほとんどメシア的な)とを示して
て意味としてあらわれるからであり、了解とは差異のなかの(あるいは相異
なる二存在間の)同一性確認のことであるからだ。意味とはこの同一性、言
いるにすぎないのではないか。
いかえれば、何らかの仕方での可逆的操作の際の不変体だ。そしてその同定
一 24 一
− 25 −
作業こそ翻訳なのだ。別の言語学者は言う。各言語記号の本質的特性は、同
一の言語体系あるいは他の言語体系の、よi)展開され、より明示された記号
あるいは簡略な記号に都訳できる点にある、と。してみると、翻訳はあらゆ
るコミュニケーションの原理、つまり一般に了解。認識。思考というものの
コード化された言語単位間の完全な等価関係などありえないと知っているの
だ。われわれとしてはむしろこう言おう。翻訳は常に発見の役割を演じてい
るばかりでなく、発明の役割をも演じている、と。それは捏造・加工の契機
であI)、読者の自由によびかけ、読む者を書く人へと転換するのだ。実際、
翻訳とはまずテキストを読むことであり、ついで書くこと、それも既に表現
原理にほかならない。ただし、それはあくまで差異のさなかでの同一性(と
いうよ−)等価性)の探求だということを忘れないでおこう。一体そんなこと
がどうして可能なのか、そもそもその差異だの同山性だのが疑問に付される
創造の営為の模倣ないレヾロデイーだと言うことができる。第一の創造にほ
ことなしに。それははじめから見かけだおしの、どうでもよい差異にすぎな
とんど等価な第二の創造だ。それに人は、自分でものを書きたいカユらこそ本
かったのか、単に非本質的な、部分的な差異にすぎなかったのか、等々。
むしろ事実はこうではあるまいか、即ち、「私は話しつつ私を翻訳(表郷
する、君は私を聞き、理解しつつ君を翻訳(表現)する、故にわれわれが有
在する」。私と君との間の差異も同一性も不確意のままだ0 しかし少くとも
を読むのだ。本を読むということはいわば書きなおすこと、そのことを引用
ということがよく示している。∧は本を読みながら、その一節をノー斗して
私の諸位相と次々に継起する位置=姿勢の集合としてのわれわれが存在しほ
を与えられた何らかの感情や思考をあらわすことであー)、その意味でそれは
みたくなる。それが既に引用であり、書きなおLだが、それを自分の文章や
他人の別の文章の中に挿入したI)配合したりすれば、事情はもっと複雑にな
る。朝訳も引用も、読むこと書くことという、明確に弁別される二過程を接
合していて、本質的には同じものだ。掴みに、フランス古語において、 副▲1年ナ∫J引掃す∵ろ
じめる。あるいはむしろ、ここで詔訳とよばれる伝達行為を通じて、私でも
君でもない何ものか(誰か)が、はじめてわれわれとし1う形のもとに姿をあ
らわすのだ。その時にこそ、われわれから出発して(それを参照して)私が
自己を私として了解。惹義し、君が君を自己として了解。定義するのだ、と。
私が何を語ろうとも、ことごとく君に同一化され、了解され、翻訳されてし
まうならば、私も君も消えうせ、ただわれわれだけが存在する。自己意識は
孤独の函数だ。胡訳者はたしかに裏切者だと言えようが、彼は誰しもが有す
る裏切の権利を行使しているだけなのではないだろうか。実際、原作者は、
たえず自己を裏切って(trahir)やまない言語表現の中に身を売り渡し、委
ージは、翻訳で伝えるに際して常に何ものかを失う。メッセージが発信者の
ね、そうすることで己れのいくぶんの秘密を漏洩(trahir)したのだし、そ
の意味的・文体的要素だけである。翻訳の忠実さは常に、追求さるべき究極
れを読む八、したがってまた翻訳する人も、いまや誰に固有に帰属するわけ
でもなくなった言語表現を纂奪し、再び我有化し、それを追捕することによ
って、われ知らず、己れを露顕せしめるのだ。彼は多少とも原文を裏切った
かもしれないが(引用。追捕。接合、これが読むということの条件だ)、そ
のことによって彼は一体誰を裏切ったというのだろう、自分自身をでか−と
の目的の関数である山一つの言語は、他の言語に易々と言いあらわしうるこ
traduireはciterと同じく、法廷への召喚という意味を有する。)
言語学者が原文と翻訳の関係について次のように述べるところから、われ
われは別の翻訳様態を志向できないものだろうか。し−わく、「原典のメッセ
初めの意図と完全に一致することは決Lてない。メッセージそのものほ内容
的に表現形式からほとんど全面的に独立していて、伝達を保全する外殻とし
てのその言語的側面は、審美的側面はさておき、それ自身の価値を主張する
ことはできない。訳出において尊重さるべきは、ただメッセージの真意とそ
とをどうしても言い尽くせなかったり、逆にまた他の言語が言ってもいない
ことをどうしようもなく含意してしまったりするものだ。つまり胡訳は原典
に対して、常に何ものかを失うばかりでなく、何ものかを付け加えもする。
そして発信者の最初の意図や原典の真意(それが言いたいと思っていること
VOuユoirdire)があるにしても、そjtはその臥その場(ムic etれu。。)での
すれば。
言語学者は言う、翻訳者の手続は、第一一に、彼のテキストに完全な《透明
性≫を確保することを目白勺としなければならない、と。この透明性は、翻訳
を透過して原典そのものを、さらにそれさえも透過して原作者の思念そのも
のへと到達したい願望をあらわしている。いづれいつの日にか、人は何らか
真正性にすぎず、それが常にいたるところで同じそれを言うことができる
(pouvoirdire)かどうかは問題だ。むしろ善かれたもの、テキストとし、う
有在の現実性は、多様なことを《言いうる≫という、その限−)ない豊詫さに
あるのではないだろうか0もしわれわれが、テキストの背後に一人の発信者
のテキストの空間において固有なもの、直接的なもの、真理の現前に立ち会
が現前するという神話を疑ってかかりさえすれば、テキストを唯一の真実の
える、そうした出会いが起こりうると信じているかのように。だが誰しも、
意味、ただ一つの声(univocitる)へと還元してしまおうと、途方もない努力
一 26 −
− 27 一
を果てしなくつづけるかわi)に、多様な意味を多様なままに、複数の声を複
くように読むこと。二つの言語の間での機能の等価性とは、著者と翻訳者の
数のままに聞きとり、汲みつくそうとするだろう0翻訳の忠実さはなるほど
それぞれの演戯。労働が、それぞれのシステムの内部ではたす機能の等価性
究極目的の関数だが、究極目的がここで複数化するのだ0それは単一同質と
もくされた抽象的な人格にではなく、一個の複数体としての多元的テキスト
でもありうる。それ故に、翻訳において読まれるべく読者の前にさしだされ
るのは、ある意味で翻訳者の労働過程そのものだ。
翻訳者と原著者、テキストと翻訳書との間の距離。憑き、憑かれるふI)を
に対して忠実であろうとするからだ。
今やわれわれは、ロベール、フランス語辞典の定義を修正してこう言おう口
しながら、その憑依の舞台を演出し、操っている手の動き、芸の背後の労働、
語された言葉の同時詞訳としての通訳と区別された意味で、朝訳するとは、
訳者の素顔をみせつけること(舞台の表と裏のひらめかし)、多次元的なも
ぁる言語で書かれたテキストをその可能なあらゆる水準における等価な機能
のの空間配列。平面化(ひらめかL)。
をめぎしつつ、別異の言語で別のテキスト群を書く可能性を探葦すること、とロ
外 異 性
外国語や異国文学の研究者というものは、一つの風変わ【)な特権を享受し
模倣と表徴
歌舞伎の女形は女性をコピーするのではなく、表徴するのだ0女形はその
モデルにべったりと粘着したりしない。モデルから身を引きほなして表徴す
ているのであって、その特権とは、彼等が外異なるものを知っておi)、それ
る。女性なるものは読みとられるべくさしだされるのであって、見られるた
種の人々だが、このことから、翻訳の本質的な性格がうかがい知られる。つ
めにではか、。つまり移し変え=翻訳(translation)であって、女性的なも
のへの合体。侵犯なのではない。女性の表徴が女役の役者から、一家の最た
る五十男の身体へと移っていく。といってもそれは同一人物なのだが、暗喩
の彷捏なのだ。翻訳しえないものをこそ、どうしても翻訳したいという奇妙
に魅せられているということだ。翻訳という作業に没頭するのは、多くこの
まI)、それは一つの言語にとっての絶対的な他者へと∃妾近しようとする無限
な熱狂が、彼等を、またわれわれをかりたてている。翻訳というものはすべ
て、諸言語間の差異にもとづいており、いわばこの差異の生命なのだが、一
はどこから始まるのか。
翻訳者とは、まず第一に原文の読者・解釈者であるが、あたかも彼はテキ
見したところその差異を抹消したいという倒錯した意図を追い求めている。
ストオリジナルの内部で死んだ不在の原著者の霊(精神)に憑かズしある
己れを生かしめ、その生の魅力の源泉となっているものを殺してしまおうと
いは憑くことによって、今度は自分自身が新たな著者となるかのようにみえ
躍起になっているのだ。実のところ、翻訳はいささかも差異を消し去る使命
る。彼にとって書くこと、すなわち翻訳することは、この場合既に演じられ
を帯びているものではなく、逆にこの差異の戯れなのだ−たえず差異をほの
た身振の表徴、はらわれた創造のための努力の模倣なのだが、忘れられや
すいのは、原著者も彼の思考もテキストに現前してはいないし、不在である
ということだ。それ故、模倣者にとって、模倣すべき他者は彼に対して端的
に彼の客観対象としては存在しないのである。真にオブジェとして彼の前に
あるのは、テキストという形をとった原文のみである0しかレそれは、瞭著
者にとってもまた、彼の思考の表徴ないし暗喩にほかならない0故に爾訳
めかし、包みかくし、だが時にはそれを露わにしてみせたl)、しばしばきわ
立たせたりもして。だから原作のもつ外異性を可能な限り切除して、最も巧
妙に自国の言語や文化に同化してしまおうとする態度はいわば可能な限l)テ
フ「リシ′十りテ
キスト・オリジナルの独創性を読むまい、既成の自国語に対するその危険な
影響力を防御して、身を危地に陥れまいとする人々のものだ。しばしば≪よ
くこなれた−流麗な≫翻訳をものにする彼等は、できるだけ現段階における
者の演戯・労働は、テキストの身振の模倣であり、暗喩の暗喩である0
自国の言語と文化のもちあわせで、間に合わせてしまいたいのだ。一方には
意味と固有のものの現前の場としてのテキストなるものは存在しない。そ
れはむしろ、それらのものの不在であり、単に不在のものへのたえぎる目く
しかL、原文のもつ別異なるものの現前をこそ、彼自身の言語の中にめぎめ
オ■り三/十/し
させようとして、諸言語の差異を統御し、配列する本源的な翻訳者がいる。
ぼせなのだ。読み、そして書くこと、即ち翻訳とは、従って死せる著者の霊
につき、つかjt、よびもどし、それをコピーすることではなく、著者の演戯。
彼は自己の言語の現状を固完的に考えて、それに原典を適合させようなどと
労働の痕跡を、その身振を読まれるべくさしだすために書くことである。そ
こではもはや読むことと書くこと.とは同じことなのだ。読むように書き、善
ことなくその枠組を打ち毀し、限界を広げようとする。そのようにして、例
一 28 一
はせず、むしろ国語に外異の言語がもたらす強烈な衝撃を加えて、ためらう
えば明治以後、日本語がどんなに変貌し錬成されてきたかをおもいみるべき
一 29 −
だ。
ところで、外異なるものを知るということが、何故に一つの特権を構成す
十りニ′rLり干 るかといえばそれがしばしばわれわれにおいて独創性の代用品となりうるか
らであ町、だからこそわれわれはあれほど外異惟に観せられ、その秘密に達
しようとしてそれを模倣し、翻訳へと駆りたてられるのだロ潮訳は、この水
準でほ創造活動というものの横臥代償行為であるばかりでなく、われわれ
がその中に浸りこんで生きている日常言語から出発して、ある別異な言語を
生み出そうという努力であるかぎりにおいて、創造活動そのものと弁別しが
たく、しかも第一の創造に対して距離を保ち、それを表徴する第二の創造だ
と言うことができる。いわばメタ。クレアシオン、創造の鏡映像、反省、批
評、抽象化そして暗喩だと言うことができる。従って、ある外国語が迂回
なしに読まれ、理解されるようになってしまうと、その言語そのものは創造
したオリジナルな作品にふさわしい詞訳もまた、それ自体日常の通用という
流汗u二逆らったものでなければならない。つまりその翻訳においても、翻訳
という語が翻訳というものに最もよく適合していて、Lかもまた剖訳同様に
∴届\ 外異なるもの、われわれのはるか前方に置かれた到達すべき限界点のごとき
テ/しノ、 もの、われわれが認知し、理解しなおさなければならぬ名辞として開示され
るのてなければならないL〕まるでそれが完全に新しい、初出のことば、しか
も永久に知られぎる一語、言語の到達しがたい可能性から借りきたった仮の
名であるかのように。原、作における創造の営為がめぎしているこの新しい言
語とほ、結局あの「思想の真実そのものを、ひと打ちに、実質的に打ち出す
ような」、「いまだ沈黙の状態にある不死の言語」にほかならない。考えると
はまさにそれを書くこと、あるいは同じことだが、その沈黙から訳出するこ
とだ。また、あらゆる作品によって語られる世界のあらゆる言語が、ついに
的な契機をうしないヾ札俗なものになってしまう¢未知の言語への最細の接
そこで調停和解される神秘な合流点で語るということだ。翻訳は原作におけ
近から、ほとんど止むことのない錯綜した異相の言語空間での彷捏、これこ
そ外国文学研究者の特権的な至福というものぢ。彼にとって翻訳が創造的で
るこの試みを、流れのこちら側から模倣し、その地点へ辿りつこうとする。
寸りニノ ̄上り7 ぁるためには、テキストオリジナルが独創性を保ったものとして見えてい
なければならか、。つま−)それがもう少しで手のとどく、読まれうる書物と
なるように見えて、しかも常にわれわれの手許をすりぬけ、いつまでも外異
なまま、知られず、聞かれず、近づけぬままにとどまり、その不在だけがわ
不死の、沈黙の言語をうばわれ、禁じられているのだ。さもなければ八はそ
しかも翻訳がなされえたという確信によって、まさにこの合温点の存在がじ
ゅうぷんに説得的な仕方でほのめかされる。しかもなお、人はこの至高の、
こで、もはや世界のいかなる国語でもない、思考の真実そのものであるよう
な語を書き、語ることであろうに。
れわれの把えうるすべてであるような言語でなければならない0逆説的なが
ら、それは翻訳しえぬものでなければならないのだ0
読まれるペきこの裔妙な労働
思考というものは複数の言語で、各国語で、それぞれ独自な方途において
翻訳の創造/創造の翻訳
なされているのだろうか。少なくともバベルの塔の神話が支配する世界にお
矧ニー度表現された何らかの感情なり思考なりを、別の仕方で表出するこ
ととしての翻訳は、いわば創造の営為の模倣であろう0われわれがその中に
浸りきって生きている日常の
言語から出発して、ある別異な言語を生み出そ
ぅというその努力を、模倣し、または反復することであるロというのも文学
的創造の目的とは、一つにはたとえば翻訳という語が、その中で真に郡訳で
あるような言語なり作品なりを創造することであると認めるからであるロニ
の新しい言語は、日常通用している言語にとって
ちょうど翻訳の言語にと
fキ【1 っての原典のようなものになるはずであろう。つまりそれは、たぶんわれわ
れにはすばらしくよく理解でき、把握もできるのだが、その親密さのただな
いては、考えるとは真実の現前する場所に立つこと、想いえがくこともでき
ぬ、沈黙に等価であるような至高の言語を書くことであり、さらには、諸国
語の差異の調停和解された神秘な交点で語ることだ。従って、現実の諸国語
におけるさしあたりのわれわれの思考とは、一つの真理の原点から隔てられ
た場所で不在の原点へと合図を送り、指し示す仕草のようなものだ。翻訳は、
この構造を二重化し、反復することになる。神話は己れが支配統御するシス
テムのあらゆる細部にまで固有の構造を貫徹するものだが、実際、この神話
の内部においては、翻訳もまた、最終的にほあの窮極の唯一絶対なるものの
多少とも間接的な表現でしかないのだ。演劇もまた同じ支配を免れはしない。
かにあってなお、われわわに不可知い無知の印象を与える、そ/は語や出来
役者の声・身振。表情など、すべての記号体系が結局は唯一窮極の原]撃とし
事の総体だ、まるでこの上なくやさしい語句や、最も自然な事物までもが、
ての生命ないし魂から発出していて、役者の肉体の有機組織的統一性と全体
突然われわれにとって未知のものになりうるかのように0したがって、こう
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性とが原理の圭一性に対する保証となるように仕組まれている。だから手引青
− 31−
的な芸術一般が、不可分にして唯一の起源の、多種多様な表現を同時的に総
局その一部分を把みとりはするのであって、それをもとに−どこが変形歪曲
合するものとみなされうるのだ。無限の前に陥を振るその身振を、翻訳はあ
きれているのか、また反省によって剥奪されたその特性とはどんなものかを、
る測毒しがたく還元しがたい距維から指し示す身振となる0それは日本語で
もし知ることができれば一原初の思念を(仮にそれが存在するとして)再構
もフランス語でもない、中性的な、無国籍グ)、普遍的な言語へと母国語を生
成することができよう。そのためには、別の場面で、反省の固有の働きと、
成させる使命を帯びている。翻訳者はペンテコストのその日まで∴諸言語の差
そのためにひきおこされる変形の性質とを観察してみればじゅうぶんだ。別
異の間に引き裂かれつつ∴喋介調停するメシアの運命をになわされる0
の場面というのは、つまり この変形が二重に行われるさまが見られるよう
言語体は常にあの原点の表徴となる。即ち、一方では原文が、原語の肉体
に、反省の前と後で思念を把握することができるような所ということである。
ノ■′ (人形)の操作とその表面に加えられた何らかの労働の痕跡によって素顔す
翻訳がまさにその場所だ。もし表現が必然的に思念にある変質をもたらすも
るものとなり、他方訳文は、その模作・労働の機能に等価な仕草を、訳語の
システムの内部で演じることによって真南すもものとなる。だがこれら二種
の表徴するものが表徴するところのものもまた、不可避的に相隔たってしま
のだとすれば、二次的テキスト(訳文)においては、その変質が二重になる
粋な思念にまで遡るためには、われわれとしては最も厳密な、忠実な翻訳と
う。その空隙・距維が見えるようにすることはできないか0一労働の痕跡を
原典との差異を測完L、それと同性質の規則的な差異を原典そのものに見出
そこに刻みつけること。対象におしあてられた視線と手の横触のしるし、あ
し、それを割引してみる以外になかろう、というわけだ。ただし、その場合、
るいは噴傷を残すことだ。
その差異が明確に言い表わされ、どんな些細な偏差も強調され、明白である
詔訳によって生じる歪曲と虚構の図像は、原文の機能の多元性と意味論的
諸水準の弁別によって必然的に生み出さjしる。
それにしても、原点に最も接近した、われわれの意識にものぼらないよう
な内なる思念とは一体何なのか。いわば言語による歪形をこうむらない言葉
以前の思念とは。そんなものが有在しうるにせよ、存在しないにせよ、もの
を書いたり朝訳したりする際に、あれこれと言葉の選択にためらったり、動
揺したり、また別の言葉にまいもどってその重みを考量したり、そんなこと
を際限なくつづけている状態ほど、通常以上に言語による汚濁を免れた純粋
な思念の戯れ(働き)を露呈しているものはないのではないか。それはいま
だ表現を見出すにいたらず、己れ自身の顕現を模索している段階なのだから0
と認めねばならない。最初のテキストから、それが表出しようとしている純
まうな翻訳を選ばねばならない。ところがもしそれが可能だったならば、そ
の翻訳は原典と完全に一致しえたはずではないだろうか。奇妙な循環だ。
しかしともかくも、われわれはここで表を裏へとひるがえして、次の一語
を書き記すことによって、一つの訳例の環をとじてしまおう。即ち−
LA TRADUCT10N
1974.12。28∵
1975。6.30
とすれば、この模索の過程そのものが読まれるべく差し出されるようなテキ
ストが存在しうる。フランシス・ポンジュの作品≠La fabrique du pr占”
は、その模範的な一例といえようし、その流儀でわれわれの翻訳実践を試み
(教養部助教授
フランス語担当)
ることができよう。例えばほかならぬ《部訳≫という一語の翻訳において、
あるいはまた、ポンジュの上述のテキストや他の任意の作品の翻訳において0
一般にわれわれの欲求や感情は分析のまなぎしの下では解体さjt、石化し
てしまうと信じられているが、意識や翻訳作業は、原初の思考や原典の生命
に対して、ちょうどこの分析するまなぎしのようなものだ0一体いかにして
翻訳や反省意識の責に帰すべき変形歪曲を修正することができるだろう0こ
れに対して次のような提案がありうる。即ち、われわれの反省作用はたしか
に思念から、固有のニュアンスや本質的な特性を剥奪。変形しはするが、結
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