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t然1-.人償仰会

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t然1-.人償仰会
,争土
J・
第664 7 ・ 8 時 ( ill 1!
II
!
iI 目先行 } 平底 1 2年 7 月 18 先行 自自制 104. 5 月 208~属 3 樋鄭便物総司
m~nlhly
JモDO
J
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.
A
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g
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t2∞o
合併号
?t 然1-.人償仰会
品すに歴史あリ
日本の
人々に信仰あり
・
.
持けする
心の欽郷を uh
、
dpdaぞ、
PJZ
L 乙了
/
八王子
,
bt可
本軍事の阿弥陀如来立像l孟別名、歯欧軍事 。
口元が微笑んでいて、豊富が見えることか
らこう呼ばれる . a;取如来の別名もある
見事な内陣の荘厳
像祭串曹は唖崎山から八王子
規
紙一
π八至子 } に移仮した
(
.
JR 八王子町願近年、八王子は大学
の衡になりつつある
自陣あふれる機内
停止L
20∞/7 . 8 月号日次
カラーグラビア寺院紀行 JU子 ・ 極楽寺・・ H ・H ・- 写真=タカオカ邦彦
j
家紋する家朕 …..… H ・H・-……H ・ H ・-…H ・ H ・-… H ・ H・...・ H ・.. . .・ H ・... ・ H ・.... 中野収
6
竜寺院紀行 八王子傾楽寺・・ H・H ・....・H・-…・・・・……H ・ H ・....・H・-・…・・… 真 山剛
1
4
牡丹の寺
2
3
玄向寺 …・・… H ・ H ・-… H ・ H ・..…・… H・H ・-…・-…… H ・ H ・-・・ H・H ・... . ...
運療法然 t人をめ ぐ る人々 ・・H ・ H・.....・ H ・...・ H ・-……….. . ...... 石丸晶子
24
響流十方 H ・ H ・.....・...........・H ・-…........…… H ・ H・...・ H ・....・ H ・-…H ・ H ・-袖山祭輝
30
州云笹本戒浄
34
ー…・・・ ・ …・・…・・・……H ・ H ・-… H ・ H ・-…H ・ H ・-… 八木季生
マ ン ガで策しい仏教用語 ……… H ・H・ H ・-…….....・H ・-……・ ・ ・ 藤井ひろし
4
6
4
7
4
8
5
1
編集後記 0 ・ H ・ H ・......・ H・..……H ・ H ・-…H ・ H ・..・….....・ H ・...・H ・....・ H・...・ H ・.. . .・ H ・...
52
コラム浄土宗と浄土真宗 … H ・ H ・...…… H ・ H ・..…………....・ H ・..… H ・ M ・.
3 フ ォ ーラム ……………………………………………...........・ H ・....
浄土誌上句会 ……… ー い・…・・
表紙題字=浄土門主
表紙繍彫 = J主的礎三
rl'村岡E院狼下
アートディレクシ ョ ン= 近戯.卜l也郎
m カ=湖l変頻仰1合
・・・・・・・ ...・ H・ . ..・ H ・- 選者=i普田河郎子
る
中野収
判ける紛主
。
たとえば、この少年たちの極端な 「
短絡思考」が指摘されているが、O ×で
って、新聞・テレヒ・雑品の解説が判を諒したようにいう不可解だとは思
一述の 「
卜じ哉の犯罪 」 は、現代文明の附部を実に的確にみ別しているとぼくは与え
ているしたが
っていない
||
。
これらは多かれ少なかれ、短絡思考の産物である ひとり少年たちだけ
事件」が担こるや直ちに開始される「
犯人」捜し、頻繁に繰り返され報道される
即答、 「
各陣世論調査
ではないのではないか
c
った
。
「なんでもみてやろう
」
っているとい
結川のところ、ぽくら全ハ
Hが必めているこの文明社会の、その必然
「
階部」 と川いたけれど、これは現代文明が 「
心ならずも 」 作仁み山川した、歓迎すべから
ざる副産物ではない
「人を殺してみたくなった 」 とい
的な 「
生型 」 の・版物であるだから 「
卜じ成の犯罪 」 は起こるべくして起こ
える弔い話、ある少年は
。
」(これ
むしろ、「やりたいこと」はすべてい
。
「なんでもしてやろう」は、戦後社会、教育で大いに推奨されてきそ
たしてこのなんで
もに殺人が合まれていないとは識もいっていない
いこととされてきたのだから
c
ぼくらが共川魚沼
ではなくて、ある例代からドに
問題は、知的相応与にも、不呼解にも、「
制神科院であるわれわれにもわからない
ってある怠昧での民械ミスじぐないのか)にもないそう
みられる行動における抑制 h の皆しい欠除にあるとぼくは見ている
7
(社会)を続けねばならないとしたら、行動における抑制
-H
は不可欠である
「何をしても
いい」のでは、そもそも人と人とのかかわり(社会)など不可能なのだから
パスジャックの少年の川崎合、抗日終のF常
段良
である肉税による説仰」かぷみられよう
とした剣道によると、説得を求められた吋制はわたしたちのけうことなど聞き入れな
い」といョて、明J を恥.内したとか昨必のしようなどないのだが、ぼくにはた感がある
ー
ションが成立するように、もう家族は作られていない
仇
この「変質」は
少なくともこれか不
ー
「説得」というコミュニケーションが、今多くの家政で不能であるし、そもそもこういう
コミュニケ
可能なほどに変質してしまった家族が、無祝しえない割合で存在する
「崩壊」といいかえることもできる
この「山川峡」と、人をして「不吋桝」「動機.小川-「叱ーが荷に犯罪、加の現実感がない」
1.
で起こっていることが問題なのだ近
といわせている「ト仁決の犯即」とが、州制であることつまり「ことから」のすべてが、
先進川における広持の近代化」という文脈の
代化」をしながらの「(象肢の同制」というのは、品則的には明らかにhNU
,附である
E 人の孤独等々
li'
f地の・・・」
これらには「今、 f山
f供を躍まない夫刷、チ打てから逃避する税たち、幼児店
「託児施設が控えばK性が子供を産むようになる」という命題を、ぼくはれじない
結婚しない人々、結婚しても
伴、強制された叫食、不倫に雌断、
8
制定する判主
という形容 .Aがつけられている
1
l
、新聞の社会
もはや例外ではなく、ごく
ニュースショ
・
日 にかかれる
テレビのワイドショ
生活棚、雑品の特集等で、週に 一度や 二度はお
一般的な社会現象なのだ
・
「結婚なんて考えていない」「結婚するとして三も
トすぎでしょう」「結婚しても生活を
棄しみたいから子どもを産まない(邪魔だ)」「いつ離婚するかわからないってこともある」
い いだしてもう
ニト年余になるぼくの実感だと、
「子どもは好きじゃない」「子育てなんて考えただけでぞっとする」等々、学生たちがごく
通常のおしゃべりの中でこんなことを
K たちは、もう問卜代である
この 「
話題化」と fどもの数の減少は、ほぽ.止雌に相関しているK性の社会進出、福祉
つまり、
r
J
年を境にして、叫ん%側、トパ財閥、
」 を報じ続けたしかし、
川
ペト年余前、彼ら
「
以家政 」 であるもちろんかつて
ども 問題の多発等々の例代である
胞設の 「
劣忠化 」 のせいではないこれをいい始めた彼、彼
f
「
以山本肱
」 だった
ったのた日以に列挙した恢実は、すべて
シンクル、子なし、不倫、離断、
はホンキた
も
f
ったマスコミは、この刊のことがらに附する英政
にd
wJ
取H
離していたようである
70
年以降、人間の材とか、人と人とのかかわりとか、人に対するヤサシサとか、が
の彼らのことばの EH
70
副にな
題と実態は制
。
実態も行実に変わった逆転に近い変化が始ま
「
脱」だけ
たのだ
フ
組子凶、兄弟鋭、山本版刷、地域側、職場での人間関係版、総じて人間 (
関係)川叫が、ちょ
った
っとオーバーにいうと、逆転してしまったのではないかいうまでもないが、
の変質に止まらなか
9
どうなっているのか、つまり実態については、すでに川いたとおりたし、これは品行も
すでに御 H じのことで、「家肢の山川嶋」は今や、マスコミの」姐だけの問題ではなく、ま
F
育てから逃逝した耕たちを「収容」する社会的施設、これ内体が見事
さに現実である今のが態を称して「出掛」などが実に以する、という説も確かにある
しかし、たとえば
。
。
しかし、「逃げ出したい」と思っている親たち
にかつ的確に「崩駒」を象徴している 「崩壊」は事実であり、現実である実際に逃避
してしまった実数は少ないかもしれない
m
が、現実の逃避者の背後に多数いるはずで、それらは「半崩壊」した家族で。
あ「
る
崩壊」
H
家父長制家族という悶定観念が一方にあり、他方に今のような家族形態(家父長
は社会的規模で進行しているといわざるをえないのではないだろうか
家族
制と核家族を合む)が成立したのは江戸末期以降といった見解や、江戸まではすべて抜家
。
家族
家父長
・
・
技家族といった制度は、明
族だったという考え方もあり、「家族の
附峨?、思いか?」とか、「家族の崩壊!、結構じ
ゃないか、大歓迎!」と主張するムキもある
・
集団は、人という輔の生作の前舵条件なのだ与えねばなら
らかに暦山人的であるしかし、血縁有がなんらかの共同生活をし民団を常むのは、超脱史
的な 事 実である共同生活
ないことは、「家肢」の有無や是非の 川雌ではなく、人間が大けから営んできた共同 ・集
。
問生活の役割・機能を、現代の状況で、どういう社会システムがねうか、ということだ
a
家肢という集合体が普遍になったのは、この ・百年、だから家脹など絶対的なものでは
J
ない、なくなって当然、守らなければならないものではないというのが、反家政論者の
1
0
制tするぷ~
い分である
。
て百年前や
。
「
家族なんかゃめちぞえ 」 というのは、民間をなして「生 」
a
いうまでもないが、家肢の刷域を願 っているムキはごく少なく、家肱
この、文明国に共通の崩捕の圧倒的な流れの中で、健全な家族が維持され、崩
・
しかし、「今、ここで生きている」われわれには、家族の小に生まれ打ち、
家肢を作り、そこで生活する、業しみもや
け
しみもそこで経験するしかない
行年先のことなど関係ないその家肢は絶対的なものじ守ないんだ といくらいわれでも、
実はなんの怠昧もないし、今
。
ったわけではない
を営むな、というに等しい人間は集団性なしに生きられることを、まだ推も証明してい
ないではないか
家肢の山川凶棋は進行中であるしかし、すべての家族が出府してしま
。
ちゃんと他全に悦まれている家肢もたくさんあるし、成れてはいないけれど危険をはらん
でいる家肢もある
。
とともにいることに生き甲斐を求めている人は多いそう、家族願望のほうが実際はより
強いのだ
っている大きな傾向として
しては作り直そうという努力が試みられているのは、その願望の強さの現れだろう
実際は、崩壊させる 「力 」 と作ろうという願望がせめぎあ
.
-
定の礼会的役加を宋
は、 dz も見るとおり、山山積のほうが版史的社会的傾向としては強い、数の上では保持さ
れている家族のほうが多いのたけれど
「h」
H が強いということは、家肢を形成し持続させ、 かつ家肢が
11
すこと、これを妨げる什川のほうが支配的だということである共
M 生活はわずらわし
い」「二人で海外旅行したいからfどもは産まない」「f打てなんてコリゴリ」「 ・・・・ 」
内
等々は、すべて家族の形成、維持、家族の文化的機能を否定している しかも、かつての
nh好家肢を作り持っていた、というふうにはもう
ような、家族拒否に対する社 会的批判もほとんどないしたがって、地域、近隣社会の中
‘
で生まれ行ち、山然にやっていたられ分
なっていない
「近代」で「閑人」だから当然といえば可然なのだが、家族を作り維持し機能させるこ
。
どう作ってゆくか、どんな結果が生まれるか、の
とは、極めて主体的・怠識的・選択的な行為であり、家父長制的集団が個人倒人をかばい
助けてくれたようなことなどもうない
すべてに関して可の本人が点任をれわねばならない家肢を作り維持し、そこで 「生」 を
実現してゆくことを願うならば、みずから選ぴ、みずから実行し、みずから代任を負う、
という自覚的意地棚、それに行為を持続させねばならない外側から与えられた約束、規範
(吋)純になるために||これは、
にしたがっていれば、自然に家族が出来上がり、自然に父(母)親になっていた、という
で予せ」な時代ではもうない
常に怠ぷし、行為を円党的に続ける、家族を作り、父
実は、決して強くは作られていない人間にとって、ごく・平凡な普通な人にとっては大変に
困難なことなのだ船腹させる「力」のほうが強くて当然逆に家族を作るとしたら、函
難を覚悟で、歴史と社会の大きな流れに抗していかねばならないそういう家族のありか
12
制貯る制1
たを、ぼくはかつて「家践する家族」と 呼 んだもう数年も前である現実には家肢をも
っとするならば、ますますもって「家政する」ことが要請されているどうす れば家族は
保たれるのか、父(母)親になるとはどういうことか、家族としてなにをなすべきか||
こうした課題を常時みずからに問いかけ、 課題にしてゆく、それが「家族する」ことなの
「そうまでして ・・・・ 」と思われるかもしれないが、これはわれわれが選んだ「近代
体性」「個人主義」「自設の確立」の論理的帰結なのである「近代の宿命」とで
社会」「主
コ ミュ
ニケーシ
ョ
ン鎗
、
メディア泊
もいえばいいかそういう宿命を負っていると自覚すること、これなしに家族などありえ
、
年齢怯窓生まれ法政大学社会学鶴教綬
)
ない、ということなのだ
1833
{
中野服
一
、
一東
ム京大学寓宇宙専攻 社会学
コ ミュ
ニケーシ ョン の犯号鎗&『
メディア人間』 等
二 ・・窓悠する窓憧 丘一鶴市の 「
私物価」』若者文化人類学』
一
1
3
だ
告ヤ
タカオカ邦彦
丈/
真山剛
包道十六号圃障に間幽している信楽号の山門
域紙記行
開創 五 百 年
。
。
平成十五年、八王子の古利、宝樹山極楽寺がこの記念すべき年を
迎える
。
。
創建は永正元(一五O四)年、かつての滝山城のあたり、現在の
流山街道付近に極楽寺は建立された 開山は鎖営恐耕上人
。
住職は昭和十六年この極楽寺の長男とし
現在、五百周年という月日に向けてこの名刺を守っているのは第
四十世 、 小 樽 怒 珠 住 職 だ
。
「
法然上人
。
て生まれ、大正大学、悶大学院で仏教学を学び、現在も助教授とし
て教組に立っている 住職の父であり先代である小滞呉質上人は平
成五年に選化されたが、やはり大正大学で浄土学を教えていた
余談 だ が 、 勇 質 上 人 が 本 誌 『
浄土 』 にかつて連載した
発願文』」
、そして 「
十夜の随筆 」 を先
『
小消息と と 「普
導大師の 『
代の七回忌法要に合わせ小樽住職が出版された 。『ご法語に学ぶ 』
と題されたこの本が法然上人鍛仰会編集なので、編集部で拝見させ
。
昭和四十八年の随筆
「
お十夜の季節を迎えて」も併
ていただいたが、わかりやすい文章には学者としての見識とその人
柄が忍 ば れ る
。
載されているが、極楽寺と大普・去りの十夜の模織や往時の緒子が描か
。
さて、住職に五百年という節目を迎えるにあたっての思いを間っ
れてい て 、 取 材 に も 役 立 た さ せ て い た だ い た
てみた
大圃明白、地
π一
の方についてもらう鐘緩
1
5
一過性のお祭り騒ぎでは川りますし、後慨にきちんとした形で
残る引をしたいですね μ体的には本堂の改修、内陣の塗り件えに
なるかと考えています」
'V
せ ではありま
ってい
山門をくぐると磐過が居眠く・櫨咽内は圃聞くほど惨かだ
インタビューの最後に同席間引いた治子(山品子)夫人はこう付け加
えられた
「九行年という節けを迎えさせていただけるのは
すが、押さんのおかげで支えられて米ましたこのお吊を、次の例代
二人に共通する忠
にしっかり伝えなくては、と立任を感じております」
こうした丘百年日に向けての思いとともに、お
H を、どう出たしていくか自身の
いがあるそれは#に陀む行、つまり住織とその家族であるぷ艇の
日仰の布り万である
念仏 の い 仰 を 伝 え る と い う 役
4
H
もこうしたり々の相み市
もA
パめ多くの念仏日行か挺ま
川の 「同日のつどい」にはそんなお二人の気
念仏灯仰を、どう深めていくかこれが住職夫妻の日々の口牒なの
ト年近く続く月
二回
である。
持ちが川いてか、桐家以外のH
る振り返ってみれば、五行年というけ
ねがあ っ て こ そ 、 な の で あ る
さて、極楽寺の伽藍に日を移そう国道十六号線、地元の人は日
光街道と呼んだそうだが、これに而した呪夜の境内はおよそ問千坪
1
6
白
.'ff湖じ行
八王子市開祖 、 畏図作左衛門の. <上) と
rAI! 812J を著した沼野適斉のS
1
7
山門か ら の 参 道 脇 に は 八 王
r市開祖の長田左衛門の袋、基地内には
各陣風 七 記 の 編 纂 や 『
桑岡山日記
』を汗した胤野適庁の袋、玉田神ぱ
,
の
と呼ばれた小作の山ほかぶ
悦 いずれも市氷点都の川跡で、極策与が八
上
砂ん
きた証 で もある
一「の川市山んと叫んにで
参道山子には錦織、ト川F に弁 bf
入a常、その拠に存附と山
mm 正出
の本堂は卜間同庁の品川上々たる伽拡で、削
字附卜:プ (u'じ て 八)年の
市一也だ昭和問ト年代にトタンから銅版の um拠に佐えたが、 三百年
近くになるだけに柱も少し歪み始めている住輸が五百周年の記念
事業のひとつに本堂改修をあげるのは、こうしたが怖もあるようだ
その本堂に取られている本尊は市の指定引形文化財で、鎌倉末か
押収り
ら室町にかけての市せ木造りの阿弥陀如米江倣附吹昨とも H
加米とも呼ばれる ふ停で、附吹と呼ばれる即.
山 は、かすかに日ると
に笑みを浮かべ、闘をわずかにのぞかせているからであるまた侃
取と呼ばれる山紺 は、この如来か小仰に身を変じ、川の鼻先をとっ
て問ん ぽ を 耕 し た と い う 伝 説 に よ る も の だ
この他、什物としては徳川家康公軍扇の面、現在は市の資料館に
保存されているが先の『桑都 H記』 五十巻などがある
また、かつては参道の両側が杉植木で、天災でその跡はないもの
の、樹木、円十倍が溢れる境内からはその名残りが感じられる
境内のすぐ脇を流れるのが、かの両行法附も歌Aにんた浅川
か
浅川
写官同右手の線が極集畠可
.
18
つては織物を染める職人さんがずらりと並んだり、現在の高尾駅が
のシンボルでもあった
以前は浅川駅と呼ばれていたように、甲州街道と平行するとの川は
EF
Ef
は織物の町であ
f は江ドへの
った江.ドに徳川拡 -M
が聞かれ、
織物といえば傾都ぷ什物の『会部日芯』という題ちが付けられる
八
ようにけから八
やがて山界でもまれな斤万都市に成長する中で、八王
。
った
物資の拠点となって栄えてきた 特に木炭や石灰、織物が八王子の
特践で 、 小 で も 織 物 は 附 附 や 桐 生 と 弛 ぶ 名 路 地 で あ
H
f から横浜までを八
ってからも多いにもてはやされ、
この織物は江.いから明治にな
本が山 川 し 峨 浜 が 外 川 と の 窓 口 と な る や 、 八 五
.
M
「
絹の道資料館 」
ったガチャと
ついて は 八 王 子 市 の 南 、 町 田 市 に 隣 接 す る 鎚 水 の
王子の鑓水商人などが行き米し、紛の逃と呼ばれたこの紛の滋に
。
「
ガチャ万」という 打 焦が流行
にその 足 跡 が 残 さ れ て い る
大正時代には
ったようである
織機が動けば、万の金が附かるという広叫で、授は戦下特前なのだ
なものだ
が、織物の町八王子の好対気ぶりは制wJ
いまでも甲州街道沿いには織物関係の店が並ぶが、中でも有名な
ったとはいえ、八
Ef
は今
のが荒片供服店で、歌子の荒片山美(結婚して松任谷由美)の実家
でもあ る 日 常 生 活 で 打 物 を 行 る 人 が 減
も変わらず桑畑、織物の術なのである
の名も彫られている
八王予紙本丸"に立つ四阿と妃
a念
.
園"a
のには値幅策号先代住園開車問貧よ人
1
9
i'
,'tf.;;tð
現在の極楽寺は浅川脇にあるが、ことは 二度目の移転先である
開山の地、滝山からまず八王子械、現視の元八王子 に移転したのだ
。
移転時期
が、当時の滝山城主、北条氏照と極来寺の第 三位文誉智徹に親交が
あり、智徹の進 言で 八王子城に移転したと 言 われている
しかし時まさに戦国末期の風雲時代、八王
。
。
は天正年間( 一五七 三 1 一五九 二) の初めの頃だったようだ
八王子城が築かれた地は、武州から中州への入り口にあたる場所
。
。
その氏照の慕は八王子城へ向かう手前にある
。
。
八王子の偽名の由来となっている
司....
噂奪
__,
で交通 の 要 衝 で あ っ た
。
子城は完成する前の天正十八(五九 O) 年、盟距秀吉の軍勢に攻
鵠城時に城主氏照は小間原城にいたが、そ
められ落城してしまう
の武将としての手腕を恐れられてか、当主でもないのに切腹となっ
た
、現在、八 王子市が力会』入れ城主の居館、御主殿跡
落城後は江戸幕府の直轄地となり、また人の予があまり入らなか
ったこともあり
。
の整備などに取り組んでいる 山城の本丸までとなると、約 三 十分
の山登りだが、御主殿跡は箆の城山川沿いにあり、道も整備されて
いるの で 気 軽 に 散 策 で き る
。
さて、本丸跡には現在小さな制と八王子城本丸枇の碑が建ってい
るが、碑の裏に八王子市文化財専門委員の名が卜 一人連なっている
。
そこに極楽寺先代住職の小湾勇貫の名を見つけ大いに驚いたのだ
が、寺院と地元の関係の深さを改めて気付かされた
八王手紙本丸下の八王子繕現.この縛社が
2
0
キ伝記f子
。
そして、本丸跡の少し下に八王子権現がある 八王子の地名の由
来となるのがこの八王子権現で、滝山からの移転時にはすでにとの
。
地にあった 八王子権現の由来は、牛頭天王のお告げを聞いた僧が、
。
そこで氏照は当時深沢山と呼ばれていたこ
との地に牛頭天王と八人の王子王女(五男、三女神)を鎖守として
社を建 て た こ と に よ る
。
これによって八王子の名
の地に械を築くにあたり、この八王子権現を山上に移り城の守護と
。
し、城 の 名 前 も 八 王 子 城 と し た の で あ る
その向かいに移転した
さて、八王子城の落城により、現在の八王 子 の街作りが始まるの
が関東 一円に広まったのである
。
ちなみに大善寺は北条氏照の開基で、閉山は讃
関東ト八回林の 一つとして、 ニ ト悶か寺という多くの
。
だが、 極 楽 寺 に は 現 在 の 寺 領 が 与 え ら れ た
e
のが大 蒋 守 で あ る
告牛秀上人
末寺を持ち、またお十夜で名を馳せた大普寺は滝山から元八王子、
。
そして現在の極楽寺の向かいへと 一緒に移転し続けたが、昭和 三 十
っている
長安は新たに甲
そしてその両側に
。
ったが、その指揮は石見、現在の
八年に は 現 在 の 大 和 田 町 に 移 転 、 単 立 と な
八王 子 の 町 作 り は こ う し て 始 ま
鳥取県 の 出 身 で あ る 大 久 保 長 安 の 子 に 委 ね ら れ た
。
三宿を置くことから始り、同時に浅川
州街道を切り開き、新八 王 子の中心街路とした
。
21
績山宿、八日市街、八幡宿の
の氾濫を防ぐ堤も築営した これを基盤として八王子はまたたく問
関東十八僧林のひとつ大1!I@f
。
に開けたのだが、この時市場を聞き商いを盛んにしたのが、極楽寺
千人同心がそれである
一つ、八巨子の歴史を語るときに忘れていけないもの
に眠る長凶作左衛門である
。
そしてもう
がある
千人間心とはいわば股兵で、普段は股業従事、いざという時には
ちなみに
。
。
。
。
。
武士となる集聞である この千人間心に関する川物や研究乃はたく
さんある
千人同心は最初の頃は市事的な役割を果たした 輿州へ
の出兵、関ヶ原での家康の腎議、明鮮の役参附などであるそして
天下奈干の位となると、日光への勤番がその主な仕事となり、こ 行
年続いた 江戸時代の末期には蝦夷の閲航、円以後'
はf
行つき、 二
に
百六ト年におよぶ拡府佐印刷の下肢の武上岡は解体したのである
。
「
桑都日記 』を許した極楽与に眠る駈野適斉も、この千
人同心の一人であった
一変して静かな境内
。
近くに住む制家さん
取材当
u 、朝から境
。
。
こうした八王子の歴史とともに歩んできた極策寺 市下が行き交う
道路から山門をくぐると
内を掃 除 し た り 雑 草 を 抜 い て い る 夫 妻 が い た
。
。
だそうだ
帰りがけに「大変ですね 」 と声をかけると、「えらいこ
とですけど、ほとけさまのためだから」と答えてくれた
ルポライ
91
}
極楽寺の歴史を支えてきたのは、こうした人たちなのかそう思
いながら名刺を後にした 。{
22
牡丹の寺
松本~より市で 1・ fÎ.分 、 松本盆地を見渡す県!l h の錫にあ
る.玄 'Î'J 寺 ( 荻須良教n:. l で li. JI 1--:: 11 ・ト阿 U の両日 、
f 郡 ・ 仰l 玄向寺ぼたん祭・頼焼ðií~会 j が開 催され ました
1
.
.
1 ,'1では 、
先住の般紙 Mi l't雌 1: 人の予により、牡 N が4耐
えられ、現在では・千 Ji綜 l こ 刷え 、 花咲く頃には多 くの
人が訪れ、 品事な大備にしばし起を止め、時にはカメ ラに
収め 、 「 牡丹の寺 j として u われています
今年からこの時期、ヰ tNIJ< P.x く" , で伝統の青海を海しん
でもらおうという 怨r.., で 点的刷 O:U が所属の点郎市の大乍
'1: らが 綾漢を学 ぶ r t 、ちひめ殺到際会 j の演炎が行われまし
た
可 n は枇外や燥が咲き 、 姉や蜂が舞う庭園で J'{尚刷 0:
a が f 先代は牡 n を鮪えて楯燦 j1t 1:を副長そうとした
私は
汗燃でそ れを追及したい j との J 態~ り、 牡丹 と練習自の調
べに 多くの併さんが*まり 、 係羽t な -1停を過 ごしました
l,iJ ぷでは来年も予定しています
1・fj ・ 支/*'事特派員
女鳥羽山
道樹院
玄向寺
長野県松本市大村 681
0263 (
46
) 1392
....文
石丸田聞子
法然上人を
ゆる人々
式子内親王の生涯(第二部)
第七回残された人々
法然L仁人をめぐる人々
びろうげ
。
手紙を巻きもどすと、親範はかたわらに償
える息子をみつめて暁息した
「三位殿の俄悔を法然房が聴くゆるしを院に
願うてくれというが、今の平家は昔の平家と
院のお怒りはげしい朝敵になって
ほうにむけ直すと、
かたが作
親範は文机にむかつていたからだを息子の
。
はちがう
格榔毛の車のなかで重衡と親子がたがいに
抱きあっていた丁度そのとき、親 子 の父親範
おられる」
。
が隠棲する洛北大原の庵では、文机にむかつ
て親範が般の手紙を読んでいた
つい今しがた、法然上人が重衡に面会する
「その朝敵になってしまわれた方々のこと
・
2M と
何年御所に出仕し
って院のお怒り
「
親子の手紙をみて、われらも驚きました
鎌倉への聞こえもあり、かえ
。
に油をそそぐことにもなりかねませぬ 」
基親が答えた
「いかにものう」
。
「荒くれ者よ、板東武者は首渡しなど、都
くせなかった由にございます」
がございましたが、その無残さはことぱに尽
「つい数日前、 一の谷に敗れた平家の首渡し
。
ゆるしを法皇からいただいてほしいという親
に Aada
女性には政事というもの
ど、今の情勢でできるものではないわ 」
で、われら 一介の公卿が何ごとか願いでるな
。
っそりと建つ
子 の手紙をもって、嫡子の基親が池内の邸か
ら騎馬でかけつけてきたのだ
。
っとしていると体じゅうに底冷え
春とはいえ、樹木のかげにひ
庵室は、じ
がしてくる寒さである
かけひの水音にまじって、ときおり繁みの
。
。
ったものよ
。
なかから山鳥の鳴き声がきこえてくる他は物
音 一つしない
「
親子にも図
ているというのか
がまるで分かつとらん 」
25
十
九
の者には思いもよらぬ」
「今の時局、三位殿のお取りなしをするには、
&町,.
われらはいかにも無力でございます 」
「何としたものか 」
k
。
いた
に沈黙が部ち、かけひの水の汗だ
思案の面持ちで税範は切に予をおいた
父子の
けがひびいていく
とやがて堪親が、
「親子にはこの旨申してやりましょう
しかたありませぬ」
閉じ日の夜、院御所の奥まった 一室では、
ふ
』
ー,.
f とが話しあ
a
守
っ ていた
。
あかあかと灯された燭台の灯かげで、後向河
.
法 q と八条院師
戦火をさけてよね決の山荘に疎開していkる
院のもとに、夕刻、組範と法制机がかけつけ、
丑衡が法然上人に恨悔するゆるしを法包から
いただいてほしいと、女院にねがいでたので
ある
彼 K は後白河の異母妹で年齢は問ト八裁
きさくで大どかな人柄で面倒見がよく、公家
って院
社会のだれかれから頼りにされて、組範ハメf
聖武天皇の」
。
まであげて両手をあわせ、
t
「
御建立あそばした大仏殿を城主払ったので
を胸の
後 h 河はも っともらしく、念珠をもった予
りますまい
「しかし、重衡の罪ということも忘れてはな
と後白河はしきりにうなずきながら、
「K院のお気持ちはよくわかりますが」
った
「待て」息f のことばを親範はするどく制す
」
御所にむかつたのだ
のねがいをさくや、すぐさま午巾に乗
ば院へのお取りなしもしてくだされよう 」
。
きっぱりと税範はいった基親はハッとし
たようすで父をみつめると、
t 、父上でございます
「おお、八条女院様がおられましたな
がは父
三十
さ
八条ルメ院綿にお鎚りしようぞ K院織なら
ヲ③ル」
す
2
6
法然 1 :人をめぐる人々
っても、にくむべき明敵といわねばなります
すからな。仏敵はいうに及ぱず、われらにと
然防は教えているそうですよわたくしも,
ト題五逆の恋人をもみ仏は来迎されると、法
法官がいいよどみ、返事をしかねているの
「しかしl11」
k 院はすすり泣いたままかきくといた
度、法然川川を邸に仰いてみたいと思ってね」
E がよだちますぞ、
まい」
ことばにするだに身の
と後れ河はかさねた
「院のお怒りはわたくしにもよくわかるので
をみた K 院はつ.つけて、
「『』んどのことでは蔚院も心を痛めて、実は
すよわたくしとて、重衡の罪を思うとおそ
ろしさと悔しさがこみあげてきて」k院は拙
がれないでおられるので
公家社会で「蔚 ・」
阪 とよびならわされてい
か時きにもにたものがよぎった
うことをきいた後白河の心に、このとき、何
斎院が コ日
一 朝刊起き上がれない
でいる、とい
おり繊細でありますからな」
「われらより吋梢に似たのか、市院はあのと
をおうけになったようなのですよ」
す札附をけのあたりにされて、ひどく愉常
t
ここで,H料
H 、起き
m
4
から懐紙をとりだすと日にあて、
「
けれども、恒衡は虫衡としてあわれでね
m・-武天日帰以米のことをおもうと怖しさで
祁になるけれど、では、引衡をこのままにし
て鎌余へ渡してしまってよいかといえば、そ
れもまたあわれすぎるのですよ」
'院
K はすすり泣いた
「お歎きなさるな、K院」
後白川は附必のいろをうかべて、
る第三 .qkλfは、すでに吋を亡くし、 MM
tb
していた 弟以仁を悩乱のなか で失い、内組仁
「法然肘に対而させるといコても、かような
ことはみ仏がゆるされますまい
といっても後見人を必にもつかで勢
M の消民
「出仕している女川たちの話によりますと、
27
がきま ってし まうようなこの時代、
った後見人のいない身の上であった
これとい
そんな 三女の周辺を心配した法皇は、
いよ源平合戦が本格化しはじめてから、この
K 院に頂
k院の山花常盤般に K院と同肘
一
三女を隠然たる h をもっ民母妹八条
f は今、
けていたのだ
式
ル
二十 一
している
teU
「稚仁さん 」
女院は後白河をその名前でよんで、
「雅仁さんからわたくしは以仁を猶子にいた
だいて、以にが手家の流れ矢にあたって討死
でもね 」
った斎院とて同じ思い
したときには、ことばにいえない悲しみを味
。
わいましたよ弟を失
だったでしょう
女院の大どかで美しい顔に、悲しみのかげ
がよぎった
よ
っ
「このHごろ斎院と話しているのですよ仏
。
って
源氏の侍たちが平家の首渡しをした
加といえば、 dr
家は十分すぎる罰をうけた
て
きいたときは、斎院もわたくしも泣いたので
。
す去年の夏まではこの船上にいた人たちで
はありませんか 」
'K
院は顔を維の袖でかくして問いた
。
った後山川河は戸をおとすと、
111
」
平家はト分すぎる潤をうけたかもしれま
「ーーいや、われらとて、K院と同じ心です
よ
せんただ
4
瞬口ごも
「K 院や斎院はルメ性ゆえに、-平家をあわれと
-tりごと
思召して、それでよろしいかもしれません
しかし、われらには政事をする立場というも
のがあります」
「・・・
」
・・
・
。
鎌倉や九郎たちが怒って何
「われらが今ここ で虫衡に悦けをかけてやっ
てごらんなさい
をしだすかわかりませぬ」
「雅仁さんは政事のあるじではありません
28
出引・人をめぐる人々
か
。
法然関を重衡のもとに送るのに、
氏のゆるしが必要でしょうか」
「K院」
。
何で源
忠わず、後れ河の n凋は強くなっていた
。
今は
東凶の武者どもは何をしだ
。
「今、 K院も首渡しのことを仰せになったで
はありませんか
すかわからぬ下郎にございますぞ」
「ーー」
「乱世も
乱世、世の中は変わり巾した
法皇といえども、頼朝や九郎のことを念叫に
おかずしては、政併ができぬ仰いになっており
ます」
後白河がそういい終わったとき、突然、何
かひらめきがおこったのか、八条院はハッと
したように顔をあげ、
「雅仁さん」
と呼びかけると、
「院のお立幼はよくわかりましたよ。 しかし
ね」
戸がいささかはずんでいた
「いかに洛内外の評判が高かろうと、法然回
。
は無位無行の町の僧ではありませんか 叡山
の地位身分ある僧侶を丑衡に対而させるとい
うのとはわけがちがいます町中に住む民衆
教化の型が対面するのに、何のはばかりがあ
りましょう」
女院は 一気にいうと、つづけて、
「雅仁さんは黙認していればいいのです。そ
れに今、主衡に情けをかけてやるのも、雅仁
さんの後川の功徳にもなりましょうぞ」
石丸・子 (いしまるあきこ )
東京生まれ、東京大学大学院人文科
。
学研究科修了現在東京経済大学教
授二九九 一年、『式子内親王伝|面
影びとは法然』で第一回紫式部文学
。
貨を受賞 著書は他に、寸法然の手
紙』(人文書院)「お手紙から見る法
然さま』(浄土宗出版室)司現代路駅
蝿蛤日記
』(朝日新聞社)など多量。
2
9
響~
涜る
方T
。
生ずべし
。
。
、
ひとすじにお念仏を祢えた人の臨終には、阿弥陀さまが楯漢の明お
とともに、本可にその人の UM にまでお迎えに現れる {
そのお姿を
拝せば )死の瞬間に至 っても 心は乱れず述わず 阿弥陀さまに導か
れ即座に西方極海浄土へと往生が叶う舎利弗よ私、釈迦は阿弥陀
いのちの行き先
ずや極楽往生を叶えなさい」と
の念仏往生の教えを聴く者がいたならば、阿弥陀仏に願い事り、必
、
もし、こ
さまの こうした救いを知ればこそ、このように説くのだ
。「
。
「
仏説阿弥陀経』
。
その人命終の時に臨んで、阿弥陀仏、諸の聖衆とともに、現にその前
に在す この人終わる時、心顛倒せず、すなわち阿弥陀仏の極楽園土
に往生することを得 舎利弗、我この利を見るが故にこの
言を説く
もし衆生あって、この説を聞かん者は、まさに発願して、かの国土に
+三
響流十方
死後の世界、あの世があるのか、ないのか
lll
。
こうした議論が交わされる時、「仏教では無記といいまして、お
釈迦さまは、 いわば死後の問題にはお答えになりませんでした」と
。
して、「毒矢の輸え」が持ち出される場面がある
たとえば毒矢に射られた人がいたとして、すぐに矢を抜き取らな
。
ければ、全身に毒がまわり死に至る 少しの踏路も許されないが、
もしその人が、「矢を放ったのはどんな奴か、その弓の性能、矢の
。
その人は答えを知る暇もなく死に至る
いとま
。
材質、銀の種類は何か、それが分からぬうちは矢を抜くな」と語つ
たとしたならどうなるか
そのように、あの世の有無を問うことなど、毒矢に討たれた人が、
。
その矢を抜く前にあれこれ理屈を並べているようなもの だからお
。
。
死後のことより「今をいかに生きるか」、現実を見つ
釈迦さまは、あの世の有無など問題にしなかったし、お答えにもな
らなかった
め、今、覚りを求めていくのが仏教である云々、と
今生に、そして、乙の世で覚ろうというのであれば、あの世につ
3
1
いての議論は儲かに不要である
「
党り」そのものを論じたがる現
代的で知性的な思考とも 一致しよう。しかし、そうした解釈が施さ
れれば施されるほど、我がいのちの行き先として西方極楽沖土を怨
い、み仏の、ご先祖の、そして亡き家族のもとへと住生を願う凡夫
。
ぜん 申
。
の心情が、なにか軽んじられているような気がしてならないのだ
1
ルクンヤフッタなる
「毒矢の愉え」はいわ ゆる阿合経典に見られる 漢択では『箭峨
椛』、南伝では『暗躍迦小綬』 いずれもマ
若い修行者がお釈迦さまに「難癖」をつけるところから始まる経典
。
。
。
そのお答えをいただかなければ、私は修行など
こうした疑問に、お釈迦さまは今まで明確にお容えに
だ。いわく、「魂と肉体は別々なのか、衆生に死後の世界、あの世
はあるのか
なってはいません
やめてしまって俗世に還ります」と
みずからの煩悩に身を践がし、現にもがき苫しんでいる己であれ
。
それなのにこの若者は修行を嫌い、自身の欲望・煩悩は
刻も早く出家修行し、欲望の対象から我が身を遠ざけねば
ばこそ 一
ならない
3
2
轡流卜Jj
「ーーー自由自崎間ー
。
棚に上げ、さも訳知り顔で甘ったれたことをいう それ故、お釈迦
さまは「私が答えない限り修行をしないというのなら、その間にお
。
。
「あの世を問う暇に修行に励め」
もち
毒矢の轍え」を示し、
前の寿命は尽きるだろう」とお答えになって 『
即刻の修行を促したのだ
しかし、それだけに阿弥陀
。
凡夫には計り知れない世
。
ろん尊い教えだが、この若者がこの世で覚り目指す修行者であれば
。
こそ、お釈迦さまはあえて「無記」なる態度をとったに過ぎない
覚り、浬擦の世界の解釈はさまざまだ
界だし、「無」の世界であるともいう
さまはご自身の覚りの境地を西方極楽浄土という具体的な姿 ・形に
。
今、極楽の世界をこの眼で見ることはない
。
が、死後の極
顕わし、 しかも死後、我々凡夫のいのちの行き先として定めてくだ
さった
。
楽往生を願えとは、他ならぬお釈迦さまがお勧めになったこと 心
底、極楽往生を願い、日々お念仏を称えている凡夫にとって、浄土
。
。
{浄土宗総合研
究所研究員 袖山集')
の存在をあえて「無記」とする必要はない 凡夫が今生に党れるは
ずと思っても詮無いのだから
3
3
悶問問闘
執筆者たちの足跡
八木季生
タIJ伝
はじめに
笹本戒浄上人は、近代の聖者山崎弁栄上人
の感化を受け、光明主義を実践宵布し、東京
帝国大学で習得した元良(もとら)勇次郎憎
土の近代心理学の内容を駆使して明解級密な
。
布教を展開し、念仏教化の多大な影響を与え
た偉大な念仏行者である
。
60
ちなみに上
。
金次郎であると語っていたというくらい、熱
心な観音さまの信 仰者であった
メートル程の距離である
人の生家から浅草寺までは、車線距離で
0
成浄上人の生家の近くに浄土宗寺院のかや
寺があるが、そこの住職の世話で、明治十四
。
年、八歳の時に鎌倉大仏殿の樹下信戒師に懇
請されて、養子になった
明治 二十五年、十九歳の時、大本山増上寺
生い立ち
83 は、明治七年
笹本戒浄上人 (H∞豆 llH
絡を取得された
。
。
吏に明治 三 十 二年、金沢の
について宗戒両脈を相承し、浄土宗教師の資
において、問中守第ヒ十五世、野上運海大僧正
。
1 1
一月十四日、河田米次郎、コウの三 男として、
) で誕生された
1
東京浅草の黒船町、(現在の台東区駒形
11
第四高等学校に入学された
明治 三 十五年、 二十九載で第四高等学校を
父の河田氏は、首山県の出身で、戒浄上人
(幼名金次郎)誕生の頃は、台東区の蔵前で
卒業した上人は、東京帝国大学哲学科に入学
。
。
し、元良勇次郎博士について、心理学を専攻
山城雇という唐物屋(洋品雑貨店)を営み、
使用人印人ほどを使う貿易商であった
元良悼士は、わが国では初めての科学的な
されるととになった
末商であった根本善次氏の娘で、浅草の観音
心理学を指導し、同時に倫理学や論理学の講
母のコウさんは、千葉県久留里藩の武士の
さまに日参していた時に、与えられた子供が
3
5
識も判 wl
し、成浄上人に思想的な彬柵げを与え
た指導釘である
bJ
明治 三十七年四月、京大在学中に内棋連
住
日本契昨師 で あり、もう
上人である
.
人は思附山崎弁栄
契苔師は、東神奈川礎迎#桝本良川削の弟
f で、兄弟子になる生去の安養与という寺
成浄上人
峨になり、筑間本良侃(りょうかん)附に箆f
と言われている
。
たが悌眼まで開くお育てを頂いていました」
の法話の中で、「兄弟子は、無学でありまし
。
の住織で非常によく念仏を林えた
。
縁組を変えられて、銭円本姓を名乗るようにな
った
明治 三 十九年七月に東大を卒業されたが、
この論
契善師は、大正 二年 一月八日に遷化された
。
文は、成唯識論を基にして唯識の思想を心理
が、その指示によって、成浄上人が弁栄上人
卒論は「成唯識論の心理説」 である
その年八
。
学的に説こうと試みたものである
t
。
日 九ト EU4
一
年、弁栄明 行
、成浄
4
った
いいえ、私どもの理忽は、如米様
と型者は 「
。
来線の法九坊を理惣としております』とする
にu
巾し上げました 。『私は如
悔した後、 mvd
しまして、略倣怖を称えて無始以米の知を倣
この初めての避返について 「
円以初
τ.n
いた
人問卜誌の時のことであ
くな った大正
二人の雨期的な避遁は、契持削の亡
にご縁を頂くのである
一九
日まで
年 一二
ト丘北で広山県内川
このお
円から宗教大学(現、大正大学)で、唯論学、
ミ
般心埋学等を教段され、大正
-
.
年ト 一円、
八年開花職された
明治問ト
。
町m
の上肢で、箆父良似仰の実兄の係
mmLUH
般である悦本ふじさんと結 M
附された
二人の思人
一人は比弟子である
笹本成浄上人の ご一 生に、大きな影響を与
えた 二人の恩人がある
3
6
がなくてはなりません』とお教え下さいまし
のご迎ぷを継いで、身命を賭して念仏の伝道
崎係業寺において遷化されたか、その後明古
大正九年卜 二円四日、弁栄唱者は新潟県柏
った禅宗流の
の報身でありますそれ故、報身を本尊と仰
たこの時以来、長年唱えてお
に各地を臨少かれた
.年じ川・ 一トLH から五日間、前北
昭和卜 .
念仏を倫て、 州日行から的厳した阿弥陀仰の符
伶を掲げて念仏することになりました 」 と述
。
ぎに就・日制された山後に脳溢血を起こされて、
n
が、これが日以後の伝道になった 京都から底
占知谷の阿弥陀寺で別時会の導師をされた
聖者に帰依せられた戒浄土人は、剛棋連寺に
連主に 二卜六日の夕刻帰幼されたが、九時過
懐されている
一
度型書を招待され、ご自身がみ教えを
毎月
刷
白書
.申し盗み・崎い合わ世 .
筆書明上人鯛仰会
司~105 東京・車忍星創圃M・7・・明胃書包内
受けられるとともに、多くの人を集めて
兇変を察知した家肢の処内も川に介わずに進
・s ω匂,78-闘l/FAX 1l:I-~同郎
った
.,・~悔 ~JI'
!~ 一 角鎌.
瀝i 健康定
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t(i~m 縦威
の法品をお 聞きする機会をつく
縮小 fUU:' 1Æ
化された御年六十問純であ
川内 ..J1"-I正
た、地庁で山川行の別時念仏会の行われる時は、
澈Jt flfi 娠吹川
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浄土宗総合研究所客員数崎町)
lU右 Jd色鮮 i'
万維を排してこれに出席をされた
JtffJt. 村 lé
浄土 』昭和土年十一月続持精
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ご法語に学ぷ 』 です
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ご希望の方は編集部
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宜長
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同上点『小柄庖』
抽臨
ご法語に学ぶ
『ご法一週間に学ぶ』
。
記念本と
『浄土 』 に連
、
八王子極楽寺の先代住職小選勇買上人の
・
当会ではこうしたバ
。
宮閃
法然上人鋪仰会 『浄土 』編集部
までご連絡下さい
のご好意によりお分けします
-なお、 ヲ」法語に学ぶ 』 は非売品ですが、小津先生
お気軽にご連絡下さい
伝いもしております
クナンバー原稿の出版のお手
大師 『発願文 』 をまとめた
載された勇貫上人執筆の法然上人 『小消息 』 と善導
して出されたもので、昭和四十年代に
小違憲珠現住職が先代七回忌にあたり
『浄土 』連載原稿が本になりました
東京
著
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削
4
5
•
古島法ゑ恋
浄土宗法衣専門
有般
七月、八月を迎えると私たち
て功徳を振り向けようとするこ
るものの方から、亡き人に対し
考え方はるりません 生きてい
方もしないのだそうです
養してあげようなどという考え
れば、供養されていない霊を供
てくるなどという考え方もなけ
。
浄土宗では、誰もが「お盆の季
とは、自力のはからいであると
。
。
まさに一年でも っ
亡き人がお浄土から阿紘陀仏の
とで、私たちができることは、
と考えることはおこがましいこ
亡き人に何かしてあげようなど
に施鰻鬼会を行うお寺も多いこ 理解しているようです。我々が
とでしょう
しかし、浄土真宗のお寺では
とも忙しい季節です
これらの行事がありません 。 ぉ
盆に棚経で償家参りをすること はからいで、私たちに対して真
。
。
いることに、感謝することだけ
も、施餓鬼大法要を行うことも 実への目覚めを促して下さって
ないのです
ですからお盆にご先祖が帰つ
元来浄土真宗の考え方の中に だと説いているようです
は、ご先径への追善田向という
。(
考えるからです
。
つづく)
の心を育てることが信仰の恒と
て人としての慢しさ、思いやり
っ
の鉾を理解し、施餓鬼会によ
多、感じることによって深く先祖
お盆の期間、より身近にご先祖
。
浄・圭
市
一 ではそ・つは孝えません
とになるのでしょうか
、
すれば 阿執陀仏のカを疑うこ
供養されていない建かあると
。
節で忙しくなりますねえ」とい
会社
う会話を始めます。 そして同時
古き伝統山花
三代にかたる信頼
浄土宗と浄土真宗の違い
お盆と施餓鬼
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FORUM
浄上
j の広場
み
•
祭
〈霊〉
って米られないようだあれやこれや憎備
こういうところだろう
。
つまでたっても子供なのである
T ら Tら光リ祭リ笛
。
。
う在いは夫人か友人か品しながら食べて
-
「強昨 」 は「 こわす 」 と読ませるのだろ
お天強酢に喧せて老い一
提灯の町名太き祭リかな
丈身の
〈
佳作〉父祖よリの笛みがきおリ祭リ前
虫
-心 天
グ〉
って、娘は
妓
中島富士子
をしながら、娘のド駄も出してみる とまあ
親にと って娘は、い
州
。
嫁
ぜ
-祭りが近づいた 今年は川があ
る
ったのを、酢のせいにしてい
しげ子
増田
藤
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ついむせてしま
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男
祭
大
谷
人
浄土誌上句会
信子
雅子
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子
郎
河
田
。
。
るのかも知れない むせながら、話はいつま
でも尽きないのだろう
〈佳作〉
占寺に入るる一怠的天
軒低き和菓子屋の路地どころT ん
春リよし海女がつくリしお天
枝
〈特選〉
。
喜びが句の裏に見える
。
。
〈佳作〉檀林の立に中学風光る
。
もう燕が来る頃だという話が、二人の間に
あったのだろう 夫のほうが先に見つけて、
X
それ疾義
に告げるのだ 自分が先に見つけた
という得意げなところが面白い 春を迎えた
妻よりも先に見つけし初つばめ
-自由題
初
江
子
浪
吹
息
恵美
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包丁のきらめく濡れ刃青葉寒
草の葉に透けて憩・リ
え糸埼持
昭
輝
章
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春
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田
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細田初綬
嶋田喜代子 長雨恭屋品目A
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次々と味覚さそはる必太
吉皇ひとみ
河合富美綬 浪流少挑め L ホdm
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佐蔵殺子
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祭笛斜めに犠え長心
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上野明遺
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片桐てい女
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必太潮風っかむ竹の若
向太茶屋の床凡のhn
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増田信子
井村普也
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金谷友江
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上野明遺
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細回初経
卯浪立つ一義釣人見失ひ
母の臼に絞よリ届けリ濃紫降花
片織でい女
育里ひとみ
河合富美綬
健康雄柑子
上野明達
崎図書代子
夏立つや江戸組経の紅鯵金
中島富士子
緩倉左武m
小久保すずな
庭石が青葉の色をもらい染む
沖からの由民会巷み込む鯉のぼリ小久保あきを
産声の紛がかへる卯浪かな
中仏
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夏めきて大工の昼寝板の上
白川郷純子燕のム華家
方緑や一期一会的通路
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素膚や山の風入る休負第
石原新
績弁鶴行
中島一子
片績でい女
…湖の寄刷、母よろこばすところ天嶋田喜代子
河合富美枝
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浜口佳響
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法制以打つ祭太鼓
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老人は裕子に坐れリ夏祭
木遣唄村は総抵のE察リ
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木遣リする子の息は士夫吊かな 特汁村昌冒也れ山崩
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一 月刊 『浄土』 総 上句会係
一宛先
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- 葉書に俳句 (
何句でも可 )と、住所
一 ・ 特選各
一 ・ いずれの題とも数の制限はありません
-応募方法
浄土誌上旬舎の 一 締切・ 八月二十日
お知らせ
発表 ・ 「
浄土 』 十月号
選者 ・鎗田河郎子 (荷風
腕夏光
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自由題
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ムサシの小舟のパンク
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「往 来
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おわびに
マンガで楽しい仏教用語漫画・藤井ひろし
「おうじよう」と聞けば
往生
る
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闘ったとか、どうに・もしょう
れ
は、まさに往生そのもの
ですが、もともとは
。
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き生まれる」ということで、 ハンクで立往生
。
浄土教では西方振楽浄土へ生
まれることを J います
つまり往生は、もともと
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は刷ったという怠昧では使っ
ムサシの供養でササキも
は側楽に往生したことでしょ
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編集後記
供養菩薩さみしく微笑む月見草岱制
。
間の中「平等院展』を見に行った
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陀如来ご本尊のお
圧巻は実物大の岡
g,真を部
屋の一得奥まった正面にお肥
人の姿が多く、熱心に持雌たちに見入
。
るその姿に私の心が熔しくなった
平等院任織は苦3 の中で、この菩薩
りして、その前、回りをまるで戦闘武 たちは仏に対する供養と、堂内にいる
。
さらに仏とともに来迎し、お迎えの菩
て行者を漣念、讃嘆するもので・あり、
将の陣営のように取り闘んで展示され ものに対する供髭という二重性、そし
た五十・一
躯の 2 m
・世等語像である
本来鳳風堂の壁の高いところにお配
。
だからこそ楽器を演奏しながらも、
りされている設中供建替障を、我々の 憾であると』いている
目の尚さまで降ろしまじかに菩隊と向
。
。
えるのは、強く激しい言葉や態度では
なずけるような%がした 世の・巾会変
き合うことができるこの度の企画は、 どこかもの悲しい表情であるととがう
今回の展示のメインであろう
約半数の菩薩が、雅楽の梨
mn泊
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しているように躍動的に作られ、縛附 なく、優しくたおやかな言葉であり行
上附であったせいか者い
。
。
(長)
く淡い照明に照らされた菩薩から、そ 動なのだと感じ、その京巾供孝弘隙に
τ恕した
の音色が静かに聞こえてきそうな感覚 門技 Hr述
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編集チ l フ
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編集顧問
浄土
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長谷川開制
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佐山村郎
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平成 11 ~手 6 月よリ頒布価絡が変わリました
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