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アメリカにおける白痴問題の成立についての一考察

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アメリカにおける白痴問題の成立についての一考察
191
アメリカにおける白痴問題の成立についての一考察
津 曲 裕 次
(障害児学教室)
I は じ め に
1.序 本稿は、筆者が、これまで明らかにしてきたアメリカ白痴学校についての諸研究(津
曲、 1963 abc, 1964 ab, 1968, 1970)を整理しながら、次に予想される「アメリカ白痴学校史研
究」への足がかりとしようとするものである。本研究は、さきに初期白痴学校の個々の成立経過
を追究した(津曲1970)のに対して、むしろ、その前史にあたる部分である。アメリカにおい
ても、白痴学校は、 19世紀前半の歴史的、社会的現象として、一定の歴史的必然性をもって成立
をみせる。したがって、その白痴学校成立への要因をどこに求めるかということが、白痴学校史
研究のひとつの眼目であり、そのために、白痴学校史の欠くべからざる部分として提示される。
本論文は、このような問題意識のもとに、ひとつの仮説として、白痴問題の社会問題化とその保
護、治療の試みをとりあげた。白痴学校は、こうした過程をもとにして、ひとつの社会的現象と
して成立をしたというのが、白痴学校の前史部分であろうと思われる。ひとつの仮説として提示
しておきたい。
したがって、本論文は、新しい資料の発掘よりも、これまでの研究の成果をひとつの流れにつ
なぎ合せることを主たるねらいとしている。こうした作業の中からも、今後の資料探索の方向が
明らかになるだろうというのが筆者のねらいでもある。もちろん、すでに、いくつからの方向は
明らかとなった。たとえば、救貧問題、精神異常者の保護・治療問題、児童保護問題に関する資
料がそれである。このような領域の原資料をいかに探し出し、評価するかということが、今後に
残された課題である。さらに、資料についていえば、上記の諸領域もさることながら、いわゆる
教育史の資料が欠落している。現段階では、まさに、筆者の努力不足であって、次の論文では、
この部分の資料を組み込むことが要求されよう。いずれにせよ、本稿は、資料については、これ
までの研究の域をこえるものではない。
さらに、本稿は、アメリカ白痴学校史の前半部分を予想しているところから、白痴学校の概念
規定、初期白痴学校の範囲等についても整理する。この点については、先の研究(津曲1970)
の整理にとどまっているが、導入部分として欠くことができない整理である。
2. 「白痴学校」の概会規定 本稿でいう「白痴学校」 School for Idiots とは、 1840年代の
後半より、 「白痴」 Idiotsの治療、教育、保護を目的として、アメリカにおいて設立された
「学校」である。同様の施設、制度は、ヨ-ロッパ大陸でも時をほぼ同じくして設立されるが、
ここでは、アメリカ精神薄弱教育史上の歴史的概念として使用する。 「白痴学校」という概念
が、歴史的なものであるということは、現在では、すでに使用されていないということを意味し
ている。現在のアメリカの精神薄弱教育制度上で、この白痴学校の概念の流れをくむ概念は、公
私の「寄宿制学校」 Residential Schoolsである。 19位紀中葉に設立をみた白痴学校は、一定の
-.一 蝣H *;こおけi',iI'!.f:,M潤の成 iLI;ニー「L. ての一考察(津曲)
192
歴史的経緯をたどって、その多くが、寄宿制学校又は精神薄弱児収容施設へと性格をかえていっ
た。筆者の意図するアメリカ白痴学校史とは、この過程を歴史的に研究することである。
5. 「白痴学校」の範囲 歴史的現象としての「白痴学校」は、ある特定の時代、社会に存在
したものである。具体的には、 19位紀中葉から、 20世紀初頭にかけて、アメリカ全土に成立、展
開し、そして消失又は、発展的に解消、寄宿制学校又は社会福祉施設にうげっがれていった。し
たがって、記録上、その数と名称をある程度把捉することは可能である。アメリカ白痴学校史研
究とは、具体的には、このようにして把握された、いくつかの白痴学校の成立、展開、解消の過
程を研究し、そこに、現代の精神薄弱教育の課題解決への遺すじをみつけることである。アメリ
カ内務省教育局Department of the Interior, Commissioner of Educationは、 1870年ごろか
ら年報Reportを出し、その中で、公私の白痴学校の数や児童数を報告している。そのうち、 18
70年度と1914年度の報告から、その設立年--そのいくつかは疑問のまま-を、 5年間をひと
くぎりにして整理したのが舞1表である。
第2表1823年現在の
第1嘉 白痴学校設立の推移
Permanent Poorの内訳
計
年 代
公立l私立
1人数[ %
1845 ∼ 50
51
1
I
1
14才以下の児童
′- 55
働ける身体をもった成人
1,789 25.8
56 ′- 60
2
61
′- 65
66 .- 70
I
老人及び病人
不具Iame、虚弱
1
:‖
928
14.1
797
ll.5
白痴idiot、
精神異常Iunatic
440
6.4
盲 人
287
4.1
SMUi
45
0.7
11 health
71ノー 75
76 ′- 80
81 .- 85
5 1
6
86 ノー 90
4
91 .- 95
4
96.- 1900
10
1901ノー 05
13
06 .- 10
-5 2
11 .- 15
4 ; 6
1
計 j 37 ; 32 ! 69
計 6,896 ; 100.0
注1・ %ほ筆者の計算による。
2. 「不明」の項は原著には記載なし。
3. -番ケ瀬(1963:46)による裏では、
「不具、虚弱」と「不明」の項が脱落
している。
4.資料はBreckinridge, S.P. (1935:
4243)、 (日本社会事業大学図書館蔵)
である。
これをみると、 1870年代の前半を境にして、二つにわけることができる。すなわち、 1870年以
前には、州立学校を中心としたピークがあり、後半には、 1890年代からの私立学校の設立を中心
としたピークがある。この二つのグル-プは、前半のそれらから、後半のそれらへの移行におい
て、すでに、歴史的な変化をみせるのであって、同じく白痴学校といっても、そこには、質的に
明らかな変化がある。将来の白痴学校史は、この両者の違いを含んで考察されねばならないが、
当面は、典型的な白痴学校ということで、この前半の諸学校を主たる対象として考察するo具体
的に、 1970年設立にいたる公、私立合せて10校である。
アメリ別・こおける白痴問題の成立につt, 笠旦二考察(津曲)
193
したがって、白痴学校史の前史部分とは、 1848年以前の社会の諸状勢のなかに求められる。そ
れは、アメリカ植民時代から、 19世紀前半への歴史のなかから、白痴の救貧、治療、教育の関心
という形で表面化してきた。本稿は、この道筋を仮説的に論ずることを目的とする。
II 白痴問題の成立についての一考察
1.旧教書法と白痴対策について アメリカにおいて、白痴問題が社会的な関心をひきはじめ
たのは、 18世紀後半のことであった。その契機となったのは、アメリカにおける産業革命の進行
にともなう近代的貧困問題の成立にあった.初期植民地時代には、植民地全体が貧しく、また、
大部分の人々は、きびしい自然とのたたかいやきびしい生活規範を特徴とするピューリタニズム
とあいまって、特に、貧困問題として意識されることもなく、したがって、救貧も最少限にとど
められていた。 「それはインディアンの襲撃や大虐殺によって文なしになった避難民、とくにそ
のなかの孤児や寡婦、老人または負傷者など、また災害や飢餓におちいったもの、さらに移住の
途中で病気になったものなど、いわば労働能力のないものと、一時的に救済を必要とするものに
全く限られていた。その他のものは、浮浪者、乞食として、きびしく追払われた。」 (一番ケ瀬、
1963 : 17)救貧の方法も、親族・近隣などの共同体の相互扶助、あるいは教会の慈善が中心で、
そのうえに母国の救貧法か慣習的に適用されていたにすぎなかったO
こうしたなかでは、白痴をはじめとする精神障害者たちは、他の救貧対象者と一緒にあつかわ
れる場合のほかは、特別な関心をひくことはなかった。たとえば、英領植民地では、一般に居宅
保護の形式がとられ、働ける者には、従弟や年期奉公が強制されたが、こうしたなかに、 「精神
異常者」も含まれていた。すなわち、居宅保護において、 「その家族の家長にたいして、病気や
老衰の両親や亡命者の一時的な保護および気の狂った親族のために離れをたてるための補助金を
あたえることなど」 (Lurie, H.L. 1957:20、訳文、一番ケ瀬、 1963:21)があった。また、同じ
く、ルーリーLurie, H.L (1957:20)によれば、 「農地委言屯」 farming outという方法があり、
これには、 「その最もよくない一面」として、 「種々の程度の不具者、また精神薄弱児たちが、
その地域において最も安い費用で彼らを養うことを引き受けた人々に、公に競売でうられること
をふくんでい」 (一番ケ瀬、 1963:22)た。
しかしながら、植民地経済の進展につれて、産業がおこり、人口の都市集中などの現象がおき
はじめると、貧富の差が大きくなりはじめた。かくて、貧困問題も、初期植民地のころの、いわ
ば、個別的、偶発的な性格のものから、社会の「法則的、機構的な社会問題」 (高島進、 1959:26
8)としての様相を示しはじめた。この動きは、まず、それまでの無原則な救貧を反省し、働け
ないものへは院内救護、救貧院主義をつらぬき、働けるものには、それまで以上に労働を強制す
ることであった。救貧対象も、老人、病人、児童、寡婦等に限定されるようになり、こうした人
々の中に、貧しい「精神異常者」の問題が含まれるようになった。
pe∃1Ilsylvania Hospitalの設立18世紀に入り、その周辺に各種の工業町を発生させ、植
民地間の交易、植民地繁栄の徴をみせていきたフィラデルフィアにおいて、 1754年、ペンシルバ
ニア病院設置法が制定された。その法律によれば、同院は、 「植民地内の住民であるとないとに
かかわらず、貧しい病人の入院と治療のための病院」 (Phumphrey, R. E. 1958 : 4ト43)であっ
たO こうした構想は、すでに、古い救貧法の特徴である定住権規定がくずれたことを意味し、ま
た、貧しい病人への医療、生活保護の制度ができはじめたことを示している。さらに重要なこと
194
アメリカにおける白痴問題の成立についての一考察(津曲)
は、こうした病人のなかに、精神的な病気をもつ人々も含めていることである。同設置法の目的
は、その前文によれば次のとおりであった。
「この地方の多くの場所で、しばしば、多くの貧しい、身体的あるいは精神的distemperedな
病人がみられる。彼らは、身体的、精神的な種々の病気の下で長い間苦しみ、みじめな状態に
ある。」 (Phumphrey, R.E. 1958 : 41-43.)
また、同病院はその入院対象者として、次のようにいう。 「狂人Iunaticsはべつにして、不
治の病気であると診断されたものは受入れられない.」 (Phumphrey, R.E. 1958 :41-43)このよ
うに、同病院は、身体的病気と共に、精神の痛いをもつ人々をも対象として発足した。同院は、
1756年に、 「はじめから病気の貧民のためのもの」 (一番ケ瀬、 1963:23)として設立され、現存
するアメリカ最古の病院である。
ヴァージニア精神病院の設立 南部ヴァージニア植民地は、小規模な農場を中心としたタバコ
植民地として発足するが、 18世紀に入って、綿の単作を目的とする資本主義的な大規模農寓経冒
が一般的となった。そして、安価な労働力としての黒人奴隷の使用が一般化し、それにつれて、
白人農民の大多数は、急速に貧困におちいり、いわゆる貧困白人poor whiteが社会問題となっ
た。こうしたなかで、いわゆる精神異常者の問題が関心をよんだようである。ヴァ-ジニア植
民地議会は、 1769年、 「白痴、狂人、精神障害者の援助-と生活の補助のための設備、制度をつく
るための法律」を制定した。同法前文は、植民地内の精神障害者の実態を次のようにのべてい
る。
「気がふれたり、鑑乱したりした人々がこの植民地のあちこちをさまよい歩いていることがよ
く見受けられる。だが、不治というわけではないこれらの人々の保護と拘禁のためには、まだ、
なんらの規定もない。」 (Breckinridge, S. P. 1927:73)
同法は、こうした目的の病院を設立するための手続きを規定したものであるが、一番ケ瀬(19
63:23)によれば、同年、 「州立精神病院」として具体化したという。ただし、まだ、アメリカ独
立以前のことであり、州立といえるかどうか疑問である。
このように、ペンシルバニアやヴァージニアなど、資本主義的経済が進行しつつあった植民地
を中心に、いわゆる精神異常者の問題が関心をあつめ、そのための制度、設備が成立してきた。
この間の事情は、まだあいまいであるが、今後資料の発掘とともに、一層明らかにされよう。
精神に痛いをもつ人々が社会問題となったということは、次の二つの意味が考えられよう。す
なわち、ひとつには、社会が複雑になり、個人に対する要求が高度化するにつれて、 ,それについ
ていけない人や、いわゆる不適応状態におちいる人がふえてくるということであり、もうひとつ
は、こうした人々の問題を放置できなくなって、社会として治療、保護の対策をとる必要が生じ
てきたということである。これに対し、社会が未発達の段階では、精神に病いを生ずる要因もす
くなかったであろうし、また、精神異常者に対しても、特別な社会対策は不必要であった。
たとえば、アメリカにおいても、植民地時代初期には、各植民地もそれぞれに自立し、主とし
て自然にたよる自給自足の経済を営んでいた。こうした段階では、精神に病いをもっ人々もすく
なかったし、また、あったとしても、家族や近隣の人々の保護で十分であったし、また、いわゆ
る定住権規定による救貧対策によって、その地域を追放したりしていた。したがって、この時代
には、彼らに対する保護、治療の記録はみられない。
しかしながら、上述のように、植民地の発展とともに、貧困問題が社会的な問題となるととも
に、貧しい病人の問題とならんで、精神に病いをもつ貧民が社会問題としてうかびあがってき
アメリカにおける白痴問題の成立についての一考察(津曲)
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た。すなわち、救貧問題の社会化のなかから、精神障害者問題が意議されてきたといえる。
したがって、この段階で、精神に病いをもつ人々は、狂人とか、白痴とか呼ばれていたが、そ
こには今いうような厳密な定義づけがなされていたわけではなかった。むしろ、上述のような事
情のもとでは、 「そのあいまいさが、この時点での特徴」 (津曲196b:26)であった。ここでは、
単に、 「これらのも精神声にも異常メのある人々の問題が、世間の注目をひきはじめてきたこと
と、それも、貧困と結びついて、公的な処置を必要とするほどまでになってきたことを指摘する
だけで十分なのである。」 (津曲、 1963 b:28)
こうして抱起された精神に痛いをもつ人々の問題は、その中に、白痴と呼ばれる人々の問題を
含んでいた。前述のヴァージニア州立精神病院設置法は、その名称に、明瞭に「白痴Idiot」と
うたっていた。また、当時の救貧対策の主流であった金品授与を中心とする居宅保護の実態から
も、その中に白痴と呼ばれる人々がすくなからず含まれていたことが明らかである。
すでにのべたように、イギリス流の救貧対策は、救貧費の節約をはかり、あわせて労働力不足
を補うことを目的としていたので、できるだけ救貧の対象を制限した。したがって、労働能力の
あるもの、近親者が扶養できるものを救貧の対象から除外し、貧しく、身寄りがなく、しかも働
く能力のないもののみを、救貧の対象としていた。具体的には孤児、寡婦、老人、障害者等がそ
の大部分を占めていた。こうしたなかに、精神に痛いをもつ人々、あるいは白痴と呼ばれる人々
が含まれていたのである。
1824年、ニューヨーク州において、当時の救貧対策の実態を調査し、その問題点の指摘と改善
策をうちだした報告書、 「救貧法の経費と運営にかんするイェーツ・レポ-ト Yates Report」
がだされた。同報告書は、 1821年のマサチュセッツ州議会の諮問による同州救貧法にかんする委
員会報告、クインシ-・レポートQuency Reportとともに、当時の救貧対策の実情を明らかに
している。 (一番ケ瀬、 1963:44)
イェーツ・レポートによれば、 1823年度において、ニ3.-ヨーク州では、年間を通じて公費に
よる扶助をうけていたものが6,896名、季節的な、特に秋または冬に保護をうけていたものが15,
215名、計22,111名いた。前者のいわゆる「永続的貧民permanent poor」の内訳は、第2表
(192頁)の通りである(Breckinridge, S.P. 1935 : 40-41)c これによれば、 1823年現在で、ニ
ュ-ヨーク州では、 446名の白痴及び精神異常者が、年間を通じての扶助の対象となっていた。
これは、全体の6.4パーセントにあたっていた。なお、不具、虚弱、盲人を合せると、同年の被
救助者のうち、 22.0パーセントすなわち、 5分の1強を障害者が占めていたことになる。
さらに、同レポートは、当時の救貧対策を列挙するなかで、白痴、精神異常対策について、次
のようにのべている。
「白痴、精神異常者に対する設備の十分でないタウンでは、彼らは+分な保護をうけていな
い。彼らを受入れるに適した施設Asylumは、まだつくられていない。」 (Breckinridge, S.P.
1935:40)
このように、まだ、不十分な資料ながら、いわゆる旧救貧法のなかでも、白痴がその対象のか
なりの部分を占めるようになっていた。時代的には、 19世紀初頭のことである。
2.救貧体系の近代化と白痴の処遇
旧大陸からはなれて、自ら歩み始めた植民地アメリカは、イギリス本国との交流、対立をくり
かえして、政治的にも経済的にも実力をつけはじめ、独立国への道をたどる。 1776年の独立革命
は、一面では、アメリカが、イギリスの重商主義的束縛を脱し、資本主義を発展させる契機とも
196
アメリカにおける白痴問題の成立についての一考察(津曲)
なった。かくて、 18世紀には、その大部分が、まだ商業資本主義の段階にあったアメリカ経済
は、同世紀後半には、木綿工業を中心とする東部諸州を先頭に、産業資本主義の段階に入ってい
った,たとえば、 1791年のサミュエル・スレイク-の工場や、それにつづく、マサチュセッツ、
メイン等では、資本主義的な意味での工場制度をとる木綿工場ができはじめていた。
さらに、 19世紀にかけて、買収や対外戦争などにより、アメリカの国土が西部へと拡大され、
それにつれて、広大な商品市場がひらけてきた。たとえば、 1812年の対英戦争は、イギリスとの
諸関係を断ち、商業にその需要を見出し得なくなった資本を工業に向けさせることにより、 「ア
メリカ工業に無限の刺激を与え」 (Mourois, A. 1949,上:388)ることになった。
こうして、 1830年ごろには、マニュファクチュアが普及し、資本の原始的蓄積のテンポが急速
に高まった。さらに、 1837年の恐慌は、産業革命の急激な進行をもたらし、ここに、本格的な産
業資本主義の時代をむかえた。
このような産業主義は、一方では富の蓄積をもたらし、資本をふとらせたが、一方には、労働
力以外に財産をもたない貧しい労働者を大量にうみ出すことになった。また、機械の登場は、労
力や熟練への依存度を減じることになった。その結果、児童労働や婦人労働が可能となり、資本
家はこぞって、安価な児童労働、婦人労働を採用した。
ボストンの近郊のロウエルでは、 1820年当時は、わずか数百の住民しかいなかったが、ここに
近代的な織布工業都市ができた1840年には、人口は2万人を数えるようになった。しかも、その
労働者の中には、多数の婦人子どもが雇用され、 「一週間のうち六日を毎日十二時間ずつ働」
(Mourois, A. 1949,上:389)かされていた。 「手伝が必要なら、二才の子供が使用される。」
(Hubermann, L. 1954,上: 161) -児童労働や婦人労働による彼らの精神的肉体的荒廃は著
しかった。
さらに、労働者の生活もみじめであった。ロウエルでも、手織時代の織手は半農の田舎ずまい
で、小屋に住み、菜園をもっていた。しかしながら、動力織機が導入されると、織工は、都市の
帖屋に住むことになり、これにつれて生活の程度も低下したO工場主たちは、工場の急激な発展
に熱中し、労働者にはあまり考慮をはらわれなかった。 「一方、労働者は労働につかれきって、
団結を計る余力をもたなかった。その上、裁判所は労働者たちのあらゆる集団活動に反対した。
賃銀増加を請求する目的のために、一つの申合をすることは『坂乱』であった。労働者が近付く
ことが許されたのは慈善団体だけであった。」 (Mourois, A, 1949,上: 389)
同じころ、平和回復と経済の発展にともなう労働力への需要増加をうけて、一時おとろえてい
た移民が再びふえはじめた。独立後の40年間には、移民の総数は概算40万人、-年平均約9千人と
いわれたが、 「1830-40年間に移民の数は50万人を起え、 1年平均5万人強」 (Farrand, M. 19
61,上:175)を数えた。彼らの多くは、新天地を求めて西部をめざしたが、すくなからずのも
のが都市に流入し、人口集中の一因となった。
こうして、 19世紀の前半には、産業の発展にともなう富の集中と、貧困問題の社会問題化がみ
られるようになった。貧民窟や犯罪の増大、家庭の崩壊等が深刻となるにつれて、救貧制度、対
策があらためて問題にされはじめるとともに、労働運動や、各種の思想運動、改良運動が盛り上
ってきた。
救貧法体制についても、こうしたなかで、金品扶助を中心とする従来の救貧制度へ批判が集中
した。従来のやり方では、救貧費は増加するばかりであり、また、限りある資金では、増大する
貧民に対処することは不可能であった。このことが、批判のひとつであった。
アメリカにおける白痴問題の成立についての一考察(津曲)
197
また、産業の発展にともなって、労働者への需要がたかまっているにもかかわらず、働ける身
体をもちながら、救貧費の受給をうけている人々への批判がたかまってきた。時あたかも、イギ
リスにおいて、救貧法がかえって貧民を増加せしめているというマルサスMalthus, R.らの批
判が高まり、この傾向へ一層の拍車をかけた。こうして、各地で、救貧の実態が調査され、改善
への方向が提案された。前述のニューヨーク州のイェーツ・レポートやマサチュセッツ州のクイ
ンシー・レポートがその代表的なものである。
まず、従来の救貧制度による救貧費の増大が批判の対象とされた。クインシー・レポ-トによ
れば、マサチ3:セッツ州における救貧費は、 1801年の2万8,000ドルから、 1820年には7万2,0
00ドルにふえている。 (一番ケ瀬、 1963:45)また、ニュ-ヨーク州でも、 「救貧のための費用
は年々増加し、 1815年には24万5,000ドル、 1819年には36万8,645ドル、 1821年には47万582ドル
になった。」 (一番ケ瀬1963:46)
このような実態からして、当時の救貧方法へも批判が集中した。当時の救貧方法は、一般的に
は次の四つであった。すなわち、 (1)救貧院収容Almshous relief、 (2)居宅保護Home relief、
(3)契約制度Contract system、 (4)競売制度Auction systemであるOニューヨーク州の実情は
次のようである。まず(1)の方法によるものは州全体で約30カ所の救貧院における救済をうけて
いた。 (3)の方法は、契約によっておもに児童をはたらかせ、その利益は契約者がうけとった。
(4)は、被救他者を競売にする制度で、 「これがもっとも広くおこなわれていた。購入希望者は
保証金を必要とされていたが、 『それによっては、苛酷な取扱いを防ぐことはできない。貧民は
動物のようにあつかわれている.』と強調された。」 (一番ケ瀬、 1963:47)
当時の救貧の主流は、 (2)の方法であった。この方法には、定住権およびそれにともない救貧
対象者の移動の問題がついていた。その費用の分担、支出は、救貧行政上の最大の問題であり、
このために用する費用は、ニューヨーク州全体で、救貧費全体の9分の1、ニューヨ-ク市では
年間4万ドルに及んだ。かくて、イエ-ツ・レポートは、 「貧民の定住権、生活補助、移動に関
する訴訟や法手続きにおいて、最も経費がかかり、残酷な訴訟になりがちであり、且つ、貧民の
移動にあたっては、その年令、性、状態にかかわらず、気候の最もきびしい季節におこなわれる
など、非人道的になりやすい。」 (Breckbinridge, S.P. 1935:46)とのべている。こうして、 「居
宅保護はもっとも不経済であり、被救他者に対しても害がある。」 (クインシ-・レポート、一番
ケ瀬、 1963:45)とされた。
なお、このほかの点で、両レポ-トによる当時の救貧制度-の批判を列挙すれば、次のようで
ある。 (一番ケ瀬、 1963 : 44-47、 Breckinridge, S.P. 1935 : 46-47)
○契約あるいは競売制度に基く貧民の取扱いが残酷である。
○被救他者の子供たちは、救貧院収容児を除けば、ほとんど全く放り出されている。
○貧民の雇用を促進する方法がなにもとられておらず、これでは貧民に働く習慣がつかない。
○救貧法は、公共の基金に依頼する乞食をふやす傾向をもたらしている。
○白痴、精神異常者に対する設備の十分でないタウンでは、彼らは十分な保護をうけていない。
彼らを受入れるに通した施設Asylumはまだつくられていない。
○救貧基金の使われ方が妥当でない市町村がある。
○貧困の原因の最大のものは飲酒である。
このような問題点の指摘のうえに、両レポ-トは、あらたな改善策を提起した。それは、一言
でいえば、 「健康で働ける者の継続的な救助は一切除外し、働けない要救護者の院内救護に主力」
アメリカにおける白痴問題の成立についての一考察(津曲)
198
(一番ケ瀬、1963:48)をそそごうとするものであった。クインシー・レポ-トは、次のようにの
べている。 (一番ケ瀬、 1963:45)
○授産所をともなう救貧院がもっとも経済的である。そこでは能力にしたがって仕事があたえ
ら:│1v。
○貧民の就業は、農業が最適である。それは健康的であり、利益がある。
○以上のことは、資産のある知的な人々によって構成された監査要員会の監督のもとで成功す
る。
イェーツ・レポ-トも、 「救貧の申請数をへらし、実際に必要なもののみに援助を与え、かつ
強制労働によって貧民を訓練するのに役立ち、またその方が経済的である」として、次の最初の
二点と、それにひきつづくいくつかの改善策を提起しているO (一番ケ瀬、 1963:47-48)
○今までの居宅保護に代って、院内救護を主要な形態とする。
○救貧院を救貧体系の中心にする。
○タウンのかわりに、郡Countyが主要な救貧行政機関となる。
018才から50才までの健康な男子は、被救他者のリストにのせたり、扶助をあたえたりしない。
○定住権は特殊の場合をのぞき、満一年居住を条件とする。
○救貧をうける資格のない貧民を郡内につれてきたり、遺棄したものは厳罰に処する。
○作業場を各郡に設置し、農場に附設して、被救他者は、そこで農業をさせる。児童も教育さ
せるとともに、働かせる。
○乞食や浮浪者は、ただちに作業場あるいは救貧院や監獄に入れる。
○救貧院や作業場建設の費用や運営の経費は、各郡の税金によってまかなうが、その他はウィ
スキーなどの蒸潜装置をもっている人たちの特別税の増額によってまかなうO
このようにして、救貧院による院内救助を主体とする方向がうちだされた。この方向は、表向
きは、救貧費の増大を防ぐことを目的にしていたが、一方では、前述のように、貧困の集積と、
労働力への需要の向上という、当時の資本主義経済の発展段階に見合った変化でもあった。した
がって、こうした状況下で推進される救貧院保護は、単に、貧民に生活の場を与えるということ
だけに止まってはいなかった。それは、 「労働力をもっているものはできるだけ救貧の対象から
はずし、労働力をもっていない資本主義社会での余計者は、むしろ、 『社会を守る』ために家畜
以下の生存だけを許され、しかも、それすら、きわめて合理的に、集団的により安上りの方法で
とりあつかわれ、こうして、彼ら自身よけい者になるおそれのあるすべての人々にたいして、み
せしめの実例としての機能」 (一番ケ瀬、 1960:323)をはたすようになった。
かくて、救貧院は、あらたな装いをもって救貧事業の世界に登場してきた。救貧院そのもの
は、欧州大陸の先例にならって、植民地時代から存在したが、 19世紀中葉には、上記のような性
格のもとに、 「アメリカ貧民救済の中心機関」 (Breckinridge, S. P. 1953:73)となったのであ。
しかも、この新しい救貧院は、きわめて、経済性が強かった。 …over the hill"という言葉が、
当時の救貧院の代名詞となっていたように、交通の不便な人里離れた土地にたてられているのが
普通であり、両親も訪れることはすくなく、慈善事業関係者や牧師すらも訪れることは稀であっ
た。
ニューヨーク州では、 1824年、郡救貧法County Poorhouse Actを制定し、郡毎に救貧院をつ
くり、貧民を収容しはじめた。 「そして、それ以後、健康で働ける者の継続的な救助は一切除外
し、働けない要救護者の院内救護に主力がそそがれていった。」 (一番ケ瀬、 1963 :48)四郡をの
アメリカにおける白痴問題の成立についての一考察 (津曲)
199
ぞいたすべての郡に郡救貧院がたてられた。郡が救貧行政の責任を負うことになり、担当者とし
て、郡貧民監督官がつくられた。貧民監督官の任務は、主として、救貧院の管理であった。ま
た、定住権取得制限も、一年間その郡に居住することと緩和された。そのほか、救貧にかんする
統計の募集がはかられたが、これはあまり成果をあげなかったという0
こうした事情のもと、この時代以後、新しく救貧の対象となる人々はもちろんのこと、それま
での救貧対象者も、強制的に救貧院に収容させるようになった。今や、救貧院には、地域での救
済の対象となるあらゆる種類の人々が一緒に収容された。白痴idiot、療滴、アルコール中毒者、
幼児、老人、精神異常者、病人、健康者、売春婦、盲人、聾者、犯罪者、怠け者などが、一緒に
なって古ぼけた建物におしこめられていた。しかも、そのQt保護メ といえば、徴役にもひとし
い管理があるだけだった。 「不潔、無恥、怠惰のなかにおかれた救貧院は、 『人間の屑のあつま
り』であり、また貧民にとっては、 『恐怖の家』であった。」 (Breckinridge, S.P. 1935)
1856年のニュ-ヨーク州の慈善に関する委員会の調査報告は次のようにのべている。 (一番ケ
瀬、 1963:49)
「救貧院の大部分は、公共慈善事業の最も恥ずべき思い出である。普通の家畜でさえ、これら
の施設の貧民よりも情深くあつかわれ、必要品を与えられている。そこでは貧窮という不幸
が、罪の刑罰としてあたえられるよりももっとひどく、適当な食物、住居、衣服、通風や暖房
をうぼって、彼らをおおっている。そこには、不潔、裸、放蕩、不道徳がうずをまいている。
生きていくことに必要なものは全く無視されている。くわしく発表されたら、それは国家の恥
であり、人々をふるえあがらせるであろう。しかも、児童に関しては、それがもっともひどか
ったのである。」 (Breckinridge, S.P. 1935)
このような救貧院に白痴とよばれる人々が数多く収容されていた。そして、彼らは、救貧院収
容者のなかでも、最も苛酷な取扱いをうけているとして、心ある人々の関心をあつめた。
マサチュセッツ州において、精神障害者の待遇改善運動にたちあがったディックスDix,D.
夫人は、 1843年の「弱者の保護についてのドロシャ・ディクスによるマサチュセッツ州議会への
訴え」 (一番ケ瀬、 1963:54-55)の中で、次のように訴えている。
「私は不幸な人、孤独無縁な人、浮浪者の状態をマサチュセッツ州議会の前に提出するために
ここに立ちました。私は無力な、見すてられた、気のくるった白痴の、男子や女子を擁護せん
がために、すなわち、まったく無関心な人々でさえ、惇然として顔をそむけるような状態にお
ちぶれた人々、拘禁されているみじめな人々、救貧院にいるもっともみじめな人々、これらの
人々を擁護せんがためにここに立ったのであります。
皆さま、私は簡単に、現にわれわれのこの共和国において、鑑、密室、地下室、畜舎、囲い
./に幽閉され、鎖につながれ、身にまとう着物も与えられず、むちで打たれ、縄でしぼられ
て、服従をしいられている気のくるった人々のあること、かれらの現状に、皆さんの御注意を
喚起しようとするものであります。」 (Beard, C&M. Beard, 1951,下、 71ト713)
さらに、同州の白痴学校設立に貢献した-ウHowe,S.G.らの白痴実態調査に関する1848年の
報告は、救貧院での白痴の実態等について次のようにのべている。
「救貧院での『白痴』の処遇においてあらわれた悲しむべき無知とか怠慢は直接的に個人の不
清潔さにおいて示される。彼が身体を洗い、ベッド・シーツをかえるのは、 1週間に1度だけ
であり、それ以外に水浴ができるのは嵐の時ぐらいである。そのために彼の身体は垢でおおわ
れている。 ---。
アメリカにおける白痴問題の成立についての一考察(津曲)
200
教育に関しても、我々の知っている範囲内で、彼らに教育を与えている救貧院は一つもな
く、 『白痴』のかすかな精神と遺徳的能力を発展させるためになんらかの組織的な企てがおこ
なわれている町や州は一つもない。他のすべての人々以上に教育を必要とするこれらの人々の
ための学校はひとつもないのだ。しかしながら、公的保護をうけている『白痴』の状態はもっ
とも悪い。彼らの現実の要求と能力に関する関係者の無知ははなはだしい。しかし、一般的に
いえば、家族に放置されている『白痴』の状態はさらに悪く、施設関係者にくらべて、家族や
友人の白痴に対する無知は一層ひどい。」 (Howe, S.G. 1848)
各州の実態を簡単に列挙すれば、こうした事情が、ほぼ全米的なものであったことがわかる。
ニューハンプシャー州では、 1832年に、精神異常者実態調査委員会が設置され、州内の実態につ
いての調査がおこなわれた。それによると、同州の140のタウンには、 189名の精神異常者が存
在し、彼らは、独房に監禁されたり、鎖につながれたりして、言語に絶する虐待の対象となって
いた。
ニュ-ヨーク州では、ディックスが、1830年に、州内のすべての救貧院と精神病院とを訪問し、
1,500名以上の白痴と狂人を目撃している.彼女が、 1840年に見積ったところによれば、極く控
え目にみても、州内の白痴と狂人の数は、 2,340創このぼり、このうちで、なんらかの公的扶助
をうけているものは、 803名にすぎなかった。さらに、 1842年には、救貧院理事会が、監獄や救
貧院に収容されている貧しい精神異常者だけでも、 1,430名にのぼると報告した。また、すでに、
白痴のために実験教育施設が設立されてから10年を経た1857年の上院特別委員会の報告によれ
ば、同州のニューヨーク市とキング郡をのぞいたすべての郡市の救貧院55カ所には、 857名の狂
人と273名の白痴が収容されていた。こうした狂人や白痴の処遇は、しばしば虐待の極に達して
いた。彼らは、独房や、掘立小屋におしこまれ、ベッドすらも与えられていなかった。女子の場
合は、なおさら悲惨であった。ほとんどの救貧院は、 Crazy cell, Crazy hall, Crazy dungeon
などと呼ばれる独房、小屋、穴倉等をもち、ここに白痴や狂人を収容していた。こうしたところ
は、せまく、不潔で、採光や換気も不十分であり、も犬にさえも不適当タと思われるほどであっ
た。狂人や白痴は、こうしたも部屋タにわずかに麦藁をあてがわれ、裸のような格好で、時には
首伽、手柵、足柵をつけられたり、時には、鉄の玉をひきずりながら、おしこまれていた。
他の州でも事情は同じであった。ニュ-ジャージ-州では、 1841年の大まかな調査によって
も、州内には415名の狂人(男子252名、女子163名)と196名の白痴がいることが報告された。ま
た、ヴァージニア州では、 1840年には、極めて控え目に見積っても、 2,000名を下らない白痴と
療病とがいると報告されている。ノースカロライナ州にも、 1840年には、 1,200名以上の白痴と
狂人の存在が報告されているし、同年、ケンタッキー州でも450名の貧しい白痴が州の救済をう
けていた。インディアナ州でも、 1840年から精神異常者対策がはじまり、 1841年には、州内の精
神異常者の数を224名と算出している。ディックスは、 1844年に同州を訪問し、 900名を下らな
い白痴や狂人の悲惨な実態を報告している。
この他、イリノイ州、メリーランド州、デラウェア州、サウスカロライナ州、ジョージァ州、
テシネー州、ミゾ-リ州、コロンビア特別地区等でも、この時代には、同じような実態が報告さ
れている。
このような実態の中で、さきにのべたディックスは、1848年の覚書において、次のように指摘し
ている。
「合衆国中の急速な人口の増加にともなって、精神病者もまた同様の割合で増加している事実
アメリカにおける白痴問題の成立についての一考察(津曲)
201
は、まったく悲しむべきことであります。たとえば、 5年間にわたるもっともすぐれた推量に
よると、合衆国では1,000人の住民に1人の割合で精神病者がいることが確認されてきました。
現在、精神病院のもっともすぐれた院長の判断と知識にもとずく私自身のくわしい調査による
と、 800人に1人以上の精神病者が存在するという結論に達しています。また、精神病者は人
口に比例して、大きな町よりは郡および市の方に、また同じ人口でも、住居が分散したところ
は村よりのほうにより多くみられます。 ・ 0
私は、自らの手で、適切な注意と保護に欠けている9,000人以上の白痴、てんかん患者、精
神病者を目撃したのです。これらの悲惨な人口の大部分は、刑務所、救貧院あるいは個々の家
で生活していましたが、何百何千の人々は鎖につながれ、足かせをかけられ、重い鎖をひきず
り、純でしぼられ、むちでうたれ、あざけりと拷問をこうむり、もっともいまわしい貧困のま
まにされ、もっとも野蛮で、ひどい暴力のもとにおかれていたのであります。 -- 。
一休、彼らは、何者なのでしょうか。この虐待にたえているあわれな人は./強盗とか殺人者
とか悪漢なのでしょうか。 (法のさばきによって、あるいは同僚の正しい憤りによってその罪
がとがめられ不自由さとか苦しみによって、それらの罪の償いをさせられていますが、しか
し、彼らとて、それ以上の罪は課せられていないのであります。)それなのに、彼は、犯罪とい
う運命を背負っているわけではないのです。暗闇と孤独のなかで、彼はゆがんだ人生をおくり
ばててしまうのです。犯罪人ではなく、彼は、ただ、 『狂える人』であるにすぎないのに」
(Abbot, E. : 1937、訳文は、一番ケ瀬、 1963 : 55-59)
このようにして、まだ、資料としては不十分ながら、 19世紀初頭には、白痴問題が、大きく社
会の関心をひきはじめていたことがわかる。しかも、ここで特徴的なことは、次の三点である。
○白痴を含む精神障害者の待遇改善問題として提起されたこと。
○資本主義の成立、発展にともなう、近代的貧困問題の成立のなかで問題となってきたこと。
○具体的には、各地の救貧院、精神病院の中で問題となり、その改革、改善と結びついていた
こと。
したがって、ここでは、白痴を含む精神障害者が、どのような社会的処遇をうけていたかとい
うことを、救貧問題と精神障害者の治療技術との関係で分析することが次の課題となる。そし
て、こうした運動のなかから、白痴とよばれる人々-の治療、教育の試みが提起され、具体的に
は、 1840年代以降の白痴学校という形で結実してくるのであるO
Ⅲ お わ り に
本論文は、 「はじめに」においてものべたように、 「アメリカ白痴学校史」の前史にあたる席
分である。精神薄弱問題を歴史的、社会的現象としてとらえ、その成立過程を論じようとする
時、その前史が問題となった(津曲、 1969:ll)ように、ひとつの歴史的、社会的現象としての
「白痴学校」を生みだしてきたものは何かということが、単に大きな問題として研究の課題であ
った。そうした巾で、本論で、考察したように、まだ第二次資料が中心ではあるが、いわゆる
「白痴問題」の社会化が浮び上ってきた。言いかえれば、白痴学校の成立には、白痴問題が先行
し、それへの取組みから、白痴学校がうみだされてきたことが明らかとなってきたのである。
もちろん、まだ資料的にはきわめて不十分である。特に、従来の精神薄弱教育史の歴史観が、
歴史的、社会的現象という視点を欠いていただけに、こうした面の資料発掘は、きわめて困難で
アメリカにおける白痴問題の成立についての一考察(津曲)
202
ある。しかしながら、本論中で指摘したように、具体的には、精神障害者の待遇改善運動、救貧
院、精神病院の実態とその告発、救貧体制の研究等の中に、その事実が求められる見通しがつい
た。今後は、こうした方面の資料を集中的に探求することにより、本論がより一層深められるも
のと考える。
さらに、本論の考察は、白痴問題の社会化の過程へのひとつの仮説ではあるが、一方、こうし
た問題を意識し、改善に立上った人々とその思想への追究を未解決の問題としてあとへ残した。
アメリカ資本主義の発展の過程で、白痴問題が社会問題化するが、一方、-ウやディックスらが、
こうした問題へ取組み、こうした中から白痴学校の成立がみられる。とすれば、こうした人々を
白痴学校設立へと向けた社会的背景、思想は何かということの追究もまた「前史」部分の課題で
ある、きわめて概括的にいえば、アメリカ独立への思想や奴隷解放運動の社会的背景、思想とも
無関係ではなかったはずである。事実、こうした運動、思想にたずさわった人々と白痴学校設立
に貢献した人々は、多く重なりあっている。当然のことではあるが、白痴学校も、アメリカの社
会的産物であったので奉る。
したがって、将来に予想される「アメリカ白痴学校史」の前史部分は、その本論への導入とし
て、社会的、歴史的問題としての白痴問題と、それを批判、克服していく恩想、運動及びその荷
い手の研究という二つの面をもつ。本稿は、その一つの側面のみにおわったといえそうである。
もうひとつの側面はこの次の課題としたいO
〔1971.6.7〕
文 献
Abbott, E. 1937 Some American Pioneers in Sociol Welfare. C C. Thomas.
Beard, C. and M.Beard著、岸村・松本訳、 1951アメリカ合衆国史、上・下。岩波書店
Breckinridge, S. P. 1935 Public Welfare Administration in the United states. (Selects Document).
Farrand, M.著、名原広三郎、高木八尺訳、 1936、 The Development of the United states (「アメリカ
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Howe, S. G. 1848 Peport made to the Legislature of Massachusetts upon Idiocy.
Hubermann, L.著、小林艮正、雪山慶正訳、 1954 We, the People. (「アメリカ人民の歴史」、上・下、
岩波新書)
一番ケ漸康子、 1960アメリカにおける救貧法の展開-lニューヨ-州を例として社会労働研究、 No. 14.
-番ケ瀬康子、 1963、アメリカ社会福祉発達史、光生館
Lurie, H. L. 1957 The Development of Sociol welfare. Sociol Work Year Book,
Mourois, A.著、鈴木福一、杉浦正一、別棟達夫共訳、 1949. Miracle, of Amercia (「アメ.)カ史-ア
メリカの奇蹟-」、上・下、近代文化社)
Phumphrey, R. E. 1958 The Heritage of American Social Work. Thomas
高島 進1959 イギリス救貧法、講座社会保障3 「日本における社会保障の歴史」光生館
津曲 裕次1963 aアメリカ精神薄弱教育史に関する一研究-アメリカにおける「白痴学校」の成立過
程とその後の若干の問題- 東京教育大学大学院教育学研究科修士課程修了論文
津曲 裕次1963bアメリカ椅神薄弱教育史- 「白痴学校」の成立過程とその考察(-)-精神薄弱児研
アメリカにおける白痴問題の成立についての一考察(津曲)
203
究62 : 25-33、 1963.ll.
津曲 裕次1963c アメリカ精神薄弱教育史- 「白痴学校」の成立過程とその考察(二)-精神薄弱児
研究63 : 32-40、 1963.12.
津曲 裕次1964a アメl)カ精神薄弱教育史- 「白痴学校」の成立過程とその考察(≡)-精神薄弱児
研究64 : 32-38、 1964.1.
津曲 裕次1964b アメリカ精神薄弱教育史- 「白痴学校」の成立過程とその考察(四)-精神薄弱児
研究65 : 29-35 1964.2.
津曲 裕次1968 アメリカ精神薄弱教育史研究- 「白痴学校」の巨大化の傾向をこついて-日本特殊
教育学会第6回大会発表集録、 117-118.
津曲 裕次1969 パラセルサスの"フール" vLついて。精神薄弱問題史紀要、 7 :ll-24.
津曲 裕次1970 アメl)カにおける初期白痴学校の成立過程に関する一研究、奈良教育大学紀要、人文
・社会科学、 19(1) : 215-236.
(1971年6月10日受理)
204
A STUDY
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