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「親鸞聖人講座」の現状と課題(2008年度版) - guga

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「親鸞聖人講座」の現状と課題(2008年度版) - guga
「親鸞聖人講座」の現状と課題(2008年度版)
2005年度から2007年度までの3年間、日豊教区各組において取り組まれている「親鸞聖人
講座」の現状と課題について、教区教化委員会(教学教化部門・調査研究室)で以下のとおりまとめ
てみました。ご活用いただければ幸いです。
1 各組における「親鸞聖人講座」の取り組みの状況
■実施状況
【2005年度】15ヵ組中14ヵ組が年1回以上実施
【2006年度】15ヵ組中14ヵ組が年2回以上実施
【2007年度】15ヵ組中15ヵ組が年2回以上実施
■対象者
【2005年度】住職のみ・・・2ヵ組
寺族・・・ 9ヵ組
寺族・門徒・・・3ヵ組
【2006年度】住職のみ・・・2ヵ組
寺族・・・10ヵ組
寺族・門徒・・・2ヵ組
【2007年度】住職のみ・・・2ヵ組
寺族・・・13ヵ組
■講師の有無
【2005年度】有り・・・5ヵ組
無し・・・ 9ヵ組
【2006年度】有り・・・3ヵ組
無し・・・11ヵ組
【2007年度】有り・・・5ヵ組
無し・・・10ヵ組
■テキスト『宗祖親鸞聖人』の範囲
【2005年度】序章~第1章・・・5ヵ組 第2章まで・・・9ヵ組
【2006年度】第1章~第2章・・・2ヵ組 第2章~第3章・・・5ヵ組 第3章~第4章・・・7ヵ組
【2007年度】第1章・・・1ヵ組 第2章~第4章・・・1ヵ組 第4章・・・2ヵ組
第4章~第5章・・・2ヵ組 第5章・・・2ヵ組 第5章~第6章・・・7ヵ組
■提起された主な意見や課題・要望
【2005年度】
・講座開設の意図がわからない
・参加者が少ない・・・3ヵ組
・サブテキスト『法語から読む宗祖親鸞聖人』が難しい
視点にあった話ができない/サブテキストは使いにくいので用いなかった/各章ごとに話し
合いの要点をしぼって解説してほしい/難しい言葉が多いので分かりやすいヒントがほしい
・講座の進め方について
班に別れて行うと話し合いがうまくいった/論点を出して座談をおこなった/話し合いのポ
イントが必要/いずれ質問に答えられる講師が必要
【2006年度】
・参加者が少ない・・・8ヵ組
メンバーが限られており固定化している/他の事業や組会とあわせて開催している/次回よ
り参加者を増やすため会所を持ち回りにする
・サブテキスト『法語から読む宗祖親鸞聖人』が難しい・・・5ヵ組
言葉自体が難解/テキストにあまり当たらず、自由意見を出す会とした/講義内容を増やせば
著者の視点が理解しやすくなるのでは/語句の脚注がほしい
・司会進行が難しい・・・3ヵ組
法語によっては視点を定めるのが難しく、司会者の力量が問われる
・講師が必要・・・2ヵ組
講師がいないため、輪読で終わってしまう/学問的・教義的な押さえが必要
【2007年度】
・参加者が少ない・・・6ヵ組
事前に案内しているにもかかわらず参加者が少ない、参加者が限られている/他の事業や組会
とあわせて開催している/女性の参加者がいない/教区の研修会と重なった
→その原因 ①参加者の意識が低いため
※育成員の自覚が問われている
②兼職の住職が多く、日中の学習会ができずに夜の学習会になるため
・サブテキスト『法語から読む宗祖親鸞聖人』が難しい・・・2ヵ組
※やはり内容は難しいという意見もあるが、前回の内容を資料にして復習したり、法語のポイン
トを中心に話し合うなど、多くの組で内容を受け止め、意見交換しようとする姿勢がみられる。
・講座の進め方について
※「座長を設けて発題を行い、内容のポイントを押さえることで、活発に意見が出され有意義な
内容となった」という報告があった。司会進行が難しいという意見はほとんど出されていない
が、各組でより充実した語り合いがもてるよう配慮工夫がなされている様子である。
2 親鸞聖人講座を進めていくための提案
(1) 講座開設の意図について
講座開設の趣旨
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌をお迎えするにあたって、私たちはどのような親鸞聖人に出遇おう
としているでしょうか。
得道の人として宗祖に出遇うことを願って製作された『宗祖親鸞聖人』の各章には、
「法語」が置
かれています。その「法語」は親鸞聖人が歩みの中で見出された言葉(仏言)に他なりません。その
「法語」を聞きひらくことによって明らかになるのは、親鸞聖人がどのような課題をもって道を歩ま
れたのかということであります。
宗祖としての親鸞聖人に出遇うということは、単に人間的な偉大さや歴史上の親鸞聖人を知るとい
うことに留まらず、その生きられた姿が自らの歩む道として見出されてくるということではないでし
ょうか。
宗祖が歩まれた道を「法語」にたずねることをとおして、一人一人が宗祖としての親鸞聖人に出遇
いなおす場となることを願い、
「親鸞聖人講座」を開設いたします。
(
「親鸞聖人講座」実施概要より)
テキスト『宗祖親鸞聖人』には、宗祖への学びをとおして真宗の人間像を明らかにする-教えを聞
くところからどのような生き方が始まってくるのか-という目的が示され、宗祖の生涯を第一章から
第九章に分けて、それぞれ「章題」
「伝記」
「法語」によって構成されています。そして各章におかれ
た「法語」は、宗祖の生涯において自らが出遇い導きとされたことばとして示されています。
サブテキスト『法語から読む宗祖親鸞聖人』はその「法語」からそこに示された自らの課題を聞き
開いていかれた方々の講義録です。それぞれの方が違った視点でお話を展開していきますから混乱す
るかも知れません。しかし、そのことによって法語から聖人の課題を見いだし一人一人が聖人に出遇
いなおすうえでの参考にしてほしい、ということなのです。
(2)参加者の対象と人数について
参加者が多い少ないという点については、組によって呼びかけ対象も寺院数もさまざまなので一概
には言えませんが、本講座は参加者相互の話し合いの中から宗祖の学びを深めていこうという新たな
学習形態の試みでもありますので、それぞれの実状に即した呼びかけ方法を模索していただきたいと
思います。また一方では、参加者が少ない理由として「寺族の意識が低い」
、
「育成員としての自覚が
薄い」などが挙げられていることから、学びの姿勢そのものが問われているのではないかと思われま
す。
(3)講座の進め方について
① 参加者は育成員を中心とするものですが、できれば若い人も気軽に参加し発言できるよう工夫
が求められます。
② テキスト・サブテキストの輪読の前に、おおまかな主題を指示する。
③ テキスト・サブテキストをみんなで輪読する。
④ 司会者や問題提起者を中心に要点を押さえ、参加者それぞれの問題意識との共通点をさぐりな
がら座談を進めていく。
(4)司会者・問題提起者の関わり方について
司会者や問題提起者はテキスト・サブテキストを解釈・説明する講師役ではなく、テキスト・サブ
テキストの要点と参加者の日ごろ抱えている問題をつなぐ進行役となるということが大事です。
つまり宗祖を学ぶことと現代の課題を考えることが別の問題ではないということをはずさず、また
宗祖と現代が別に立てられる限り、それは浄土真宗の学びにはならないということに主眼をおいて取
り組むことが肝要ではないでしょうか。
(5) テキスト・サブテキストの扱いについて
サブテキスト『法語から読む宗祖親鸞聖人』の使用については、その冒頭に示されているように、
テキスト『宗祖親鸞聖人』
(1978年刊)のサブテキストと位置づけられていますので、テキスト
を基本に、そこにあげられる法語についての問題提起としてサブテキストを用いていただきますよう
お願いいたします。
なお、テキストとサブテキストの発刊には約30年の隔たりがあります。加えて、サブテキストは
各章ごとに執筆者が異なっているために、それぞれの視点で宗祖像が述べられています。
そこで、各組の「親鸞聖人講座」において、議論がより活発になるよう、次のとおりテキスト、サ
ブテキストの要旨を対比しながら論点を整理しました。
3 テキスト・サブテキストの要旨
第1章 人と生まれて
【テキスト】
源平の戦い、諸寺の争い-それまで人々に尊ばれてきたものがその権威を失い、さまざまな価値観
が崩壊し、人々のものの考え方が根底からくつがえされてゆく動乱の時代に、聖人は生をうけられた。
その時代社会のすがたそのものが人々に人間として生きていることの意味を問いかけていた。
【サブテキスト】
『法語から読む宗祖親鸞聖人 1』
人間の苦悩は決して個人的な苦悩ではない。苦悩によってこそ人と人とがつながっていく。苦悩と
いうことによってひらかれていくものは、その人の背景に諸仏を見るということである。
⇒テキストは聖人の誕生について権威のゆらぎや社会の動乱という時代性が述べられています。サ
ブテキストは法語から、人間の苦悩とは何かという問題、そして「他者」という問題へと視点が
移っています。
第2章 発心
【テキスト】
聖人の出家は、人間として生きる意味を尋ねていく唯一の道だった。聖人自身の選びに先立って聖
人をうながす何らかの事情があった。聖人はそれを仏縁として受け取った。
【サブテキスト】
『法語から読む宗祖親鸞聖人 1』
自らの事実を事実として受けいれるところから聖人の歩みが始まる。その歩みが仏道の学びである
限り自分をぬきにしては解学となってしまう。私自身がそのことと対決してこなかったのではないか。
無自覚ではあっても、仏道に生きた人の促しの中にある。それが私たちではないか。
⇒テキストの「促しをうけて生きる」ということをもとに、サブテキストでは解学に陥る仏教の学
びを指摘し、解学と行学との関係を問うています。
第3章 道を求めて-懸命の修学-
【テキスト】
比叡山時代の親鸞聖人。権威を誇る寺院も権力と結びつき世俗化し、内部にも身分的な対立を生み
出し、争いの止むこともなかった。その中でどこに生死の迷いをはなれる道がひらかれるのかとい
う苦悶をかかえての日々であった。
【サブテキスト】
『法語から読む宗祖親鸞聖人 2』
20年間比叡山で学んだ仏教、決別した仏教とはいかなる仏道だったのか。本願の第十九願「発菩
提心」の仏教-菩提心を発すことに一生を尽くすのが聖道門の仏道である。人々にまことの心を要求
する仏教の本質は非仏教的で差別的なものである。そしてまことの心と一線を画する誓願一仏乗が説
かれる。
⇒テキストが示す聖人当時の時代状況や聖人自らの苦悶に対して、サブテキストでは聖道門と専修
念仏の教説による峻別をとおして、
「仏教とは何か」が問いかけられています。
第4章 道を求めて-六角堂参籠-
【テキスト】
比叡山をおりた聖人は六角堂へとおもむく。教えにふさわしく生きようとすればするほど、あらわ
になってくる煩悩の身。救いを求め聖人は坐り続ける。そして夢告により生死の迷いをはなれていく
べき仏道が願生浄土の道として生死の中にこそ成就していることを知り、法然上人のもとを訪れる。
【サブテキスト】
『法語から読む宗祖親鸞聖人 2』
二河譬の中心課題を「三定死」
(絶体絶命の苦悩)にみる考え方に対し、聖道門に対する激しい批
判という課題を提示する。そして夢告「行者宿報偈」は念仏者に対して無碍の一道を指示する告知で
あるとする。
⇒テキストでは比叡山をおりて六角堂へ向かう聖人の生死をはなれる仏道という課題が示され、サ
ブテキストではその内実を聖道門に対する批判とし、無碍の一道を見出された聖人が述べられて
います。
第5章 本願に帰す
【テキスト】
六角堂の夢告、そして法然上人の吉水へ向かわれた宗祖が聞きとられたのは「ただ念仏して弥陀に
たすけられまいらすべし」という一言であり、まさしく出会われたのはその一言を人々とともに生き
ておられる念仏者法然その人であった。
【サブテキスト】
『法語から読む宗祖親鸞聖人 3』
宗祖のご生涯は教法を聞いていった人の生涯であり、宗祖の生涯を学ぶことは一人の人間が師に遇
い、教法に目覚めていった現実を知ることである。どういう人に出遇うか、それが人生を決定づける。
よき人とは、帰依する心を賜る人。そして教法に遇うとは、自分の問題を教えてもらいその事実を見
据えて生きる、それが自分を大事にするということである。
⇒テキストは宗祖が出会われた教法とその教えを生きる法然上人の姿が示されているのに対し、サ
ブテキストは宗祖とその教えに学ぶ私たちの関係、その具体相が述べられています。
第6章 法難
【テキスト】
権力による吉水教団への弾圧は、これまで仏教の名を掲げてきた聖道がすでに行証が久しくすたれ
ている姿であり、本願念仏の法のみがこの苦難の世を生き抜いていく力を人々にひらく真の仏道であ
ると証するものであった。
【サブテキスト】
『法語から読む宗祖親鸞聖人 3』
念仏集団への弾圧を法難と受け止めたのは、自らの依り処としている真実の法への否定であり、新
たな展開への機縁として受け止められたということ。また、仏道の真仮は人間観の相違によるもので
あることと、
「師子身中の虫」は聖道門の人というより念仏集団内部の者とする。
⇒テキストでは聖道諸教や朝廷による専修念仏への弾圧を「法難」と受け止める内実が示され、サ
ブテキストでは更に法語から、法難を引き起こしてくる要因として、機法二種深信をもって表さ
れる信心と、念仏集団内部にある念仏者自身の腐敗・堕落が考えられる。また、念仏者自身の堕
落が念仏集団を破り、念仏者をも破ることを述べています。
第7章 民衆にかえる
【テキスト】
専修念仏への弾圧によって聖人は越後におもむかれた。そこには人間としての命を赤裸々に生きる
人々のすがたがあり、その生活の中で「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という法然上
人の教えに改めて出あっていかれた。そしてその念仏をどのようにして人々の生活のうえにひらいて
いけばよいかという問いが重く聖人の心に担われていた。
【サブテキスト】
『法語から読む宗祖親鸞聖人 4』
雑行を棄てて本願に帰した親鸞聖人は、誰とでも出会えるはずだった。ところが、越後の人々に異
質なものを感じたのです。越後の人々が異質なのではありません。自分が異質なものを持っていたの
です。本願に帰してなお自力の執心から離れられない私、そのような者を見そなわして、なお捨てな
いという願心に出遇っていかれるのです。
⇒テキストには親鸞聖人の越後における民衆との出会いによって、師法然上人の教えがいよいよ確
かなものになったと述べられていますが、サブテキストでは、師、友ということについて、師は
私たちを眠らせない、友はその教えに生きる私を酔わせない、と示しています。
第8章 大悲に生きる【1】(1)愚者になりて~(4)弟子一人ももたず
【テキスト】
浄土三部経の千部読誦の行をすてられた聖人は、いよいよ本願念仏の一道を生きとおす正定聚に住
するものとなることを願いつづけていかれた。また、越後・関東の荒々しく生きる人々こそ、念仏し
てみずからの罪悪にめざめるとき、大悲の本願を生きるものとなることを確信された。この他力をた
のむ悪人を、愚禿と名のられた聖人は御同朋・御同行とうやまっていかれた。
親鸞聖人の関東教化によって生み出された念仏者たちは、その念仏の教えを人々に伝えることに情
熱をかたむけた。やがて、有力な門弟を中心に、各地に新しい師弟関係をもった念仏者の集まりが生
まれていった。しかし悲しいことに、ともすればその師弟の関係にとらわれて僧伽をにごらせ、派閥
的な争いをひきおこすことになるのである。
【サブテキスト】
『法語から読む宗祖親鸞聖人 4』
法然上人はつねづね私は愚かな者であるとおっしゃっておられたようですが、親鸞聖人はそのよう
に自分の愚かさに気づいているということは「内は賢」であると受け止められた。その「賢者の信」
を聞けば聞くほど、私の愚禿の心が顕かになる。これが親鸞聖人の愚禿と名のっておられるもとであ
ります。
念仏というのは師を仰ぐ仏道です。その念仏を相続し人々にも勧めて共に念仏申す、それが大悲を行
ずることになるのだということです。
⇒テキストは関東において本願の教えに徹していかれた聖人のすがたとともに御同行の間におこっ
てきた信仰上の動揺が述べられていますが、サブテキストにはそこから「善人と悪人」
「師と弟子」
という問題をさらに展開しています。
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