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女 性 起 業 家 の 先 駆 者 ・ 小 渕 し ち ⑧

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女 性 起 業 家 の 先 駆 者 ・ 小 渕 し ち ⑧
承前
富士見商工会からのお知らせ
郷土の偉人を活用した地域振興⑧
罪に問われ、獄中死した徳次郎であるが近年、
改めてその功績が見直されている。
徳次郎は戸籍のことも含めて、なにかと大
同じ村に住む中島伊勢松は糸繭買継商人と
してしちの家に出入りし、しちの座繰りの技
岩寺の洞音和尚(後述)に相談に乗ってもら
術を評価し、しちがなんとか自立して志を遂
い助言を受けている。そのやりとりの中で、
和尚に学識を見込まれ、大岩寺で開かれていた
げたいという気持ちがよく理解できた。しちの
力を合わせ、別天地での自立をと考え、お伊勢参
りの夫婦を装って出奔する。しちは娘や老いた父
母を、伊勢松も妻子を残しての苦渋の決断であっ
たと思うが、残された家族や近所の人たちの衝撃
大岩寺
は大きく、不
道徳、無責任、
自堕落などあ
浴び、現在至
るもまだ “駆
け落ち „ と言
消えてはいな
い。伊勢松は天保九(一八三八)年生~明治十九
(一八八六)年二月十七日没・中島家の記録では二
月十三日となっている。伊勢松は中島家分家の三
なおその妻も養女であるから夫婦養子となる。
(現
当時は寺子屋を開いていた。この辺りはもともと
養蚕や座繰り製糸が盛んな地域で、繭や糸の売買
をするために識字率が高く、読み書きそろばんの
できる者が多い。従って寺子屋の開設も多く、各
地にその存在が知られている。
明治の老農の一人、船津伝次平もこのころ原之
つ く も あ ん
郷の九十九庵という寺子屋で子弟たちを教育した。
伝次平の父利平の時代、天保九(一八三八)年か
ら明治五(一八七二)年まで、総計百五十人ほど
が九十九庵で教育を受けている。この九十九庵の
弟子たちの中には卒業後、自宅で寺子屋を開いた
者もいる。近辺在住の寺子屋師匠たちも伝次平の
進んだ教育には大きな影響を受けている。中島本
家の伝平もその一人と思われる。
中島伝平は文政八(一八二五)年生まれ。星野
七左衛門(書家・糸成と号す)に学び、文久年間
(一八六一~
三年)から明
糸繭商を営む者は大てい裕福な家柄で教養も深
治六年に小学
く、そのうえ世間も広い。伊勢松にしても、特定
校が開設され
のしがらみのない世界で、己の才覚をもっと活か
るまでの間、
す機会があるかも知れない、自分が不在となって
寺子屋を開い
も妻子は食うに困らないだけのものはある。長い
ていた。徳次郎は伝平を通してか、直接かは不明
間自立を望みながら、耐えて来たしちを、ここで
だが船津伝次平の教えを多く身に付けていたよう
助けてやりたい。しちへの「愛」という気持も深
だ。大岩寺の洞音和尚とのやりとりにもそのこと
まっていたであろう。故郷を出るに当たり、なに
が多く出てくる。
もかも捨てて新しく出直す気持ちで、名も中島伊
なお中島家墓地には筆子によって建てられた伝
勢松を徳次郎とあらためた。
平の筆塚がある。
豊橋に落ち着き、暮らし始めて、しちは工女た
近年豊橋市では洞音和尚の残していた文章の解
ちに座繰りの技術を教え育てる傍ら、自身も前々
読が進み、今まではただ獄死とだけ伝えられてい
からの糸質向上に心を傾ける。徳次郎は原料繭の
買い出しから従業員集め、工場としての経営にも
力を尽くすことになる。糸繭商としての経験や、
人付き合いも役立ったことと思われる。しちが、
糸質の改良が思うように進まず失意に沈むとき、
故郷の娘たちを思って悩むときには、何にもまし
て徳次郎の存在が重要であった。徳次郎無くして
はしちの成功は有り得なかったとも言える。
不幸にも豊橋地方のコレラ流行期に戸籍偽造の
小渕しちものがたり 古屋祥子
在の当主は九代目)
現在の大岩寺本堂
代目勘造に見込まれ、養子として四代目を継いだ。
徳次郎の故郷富士見村の、中島家の本家でも、
前橋市富士見町小暮104 1
ー
TEL 027 2
ー 88 2
ー 593
ー 88 4
ー 889
FAX 027 2
E-Mail
[email protected]
HP http://www.fujimi-shoko.com
う非難の声が
寺子屋の子供らの指導を頼まれてもいる。
■お問合せ
らゆる罵声を
女性起業家の先駆者・小渕しち⑧
苦境が続くのを見兼ねた伊勢松は、ここで二人の
た徳次郎の功績、偉さ、優しさが世に知られ、小
渕しちと共に徳次郎を顕彰する動きが始まってい
る。市民で作るまちづくり団体「ここのつの会」
では徳次郎の命日二月十七日に、岩屋観音の鐘撞
堂で鐘を撞いてその供養をしている。またその近
くに徳次郎への供養の心を詠んだ句碑も建てられ
た。徳次郎の墓はしちと並んで大岩寺の裏の墓地
に建っている。
(つづく)
20
前橋東部商工会からのお知らせ
前橋東部商工会特産品開発交流会設立
前橋東部商工会では、商工会重点事業として特産品開発事業所への支援を
計画しております。この支援事業の一環として 6 次産業化認定事業者・特産
品開発事業者等を対象とし、前橋東部商工会特産品開発交流会を組織して、
各事業者が抱える様々な課題に対応できるよう商工会の支援策を検討する交
流会を設立いたしました。今後は交流会員を中心に当地の特産品開発に向け
て商工会がバックアップを行っていきます。
大胡歴史研究会 会長 松本浩一
次に、向かって右の石碑には、大きな碑面いっぱ
いに、二七〇名余の方の名前がびっしりと刻まれて
います。第二次世界大戦(太平洋戦争)の時、この
大胡地区から出征し、戦地で戦没した方々の氏名で
す。
『大胡町誌』には、これらの方が亡くなられた場所
も記載されていますが、それを見ますと、ニューギニ
ア、フィリピン、パラオ、ビルマ、ペリリュー島等、
東南アジアの地域が非常に多くなっています。碑を見
上げながら、大胡地区だけでこんなにたくさんの方が
戦没したのかと改めて戦争の悲惨さに思いを巡らすと
ともに、戦後七〇年続く戦争のない平和な暮らしのあ
りがたさを実感します。
また、本丸北西隅、お稲荷様の西に、もう一基漢
文で刻まれた記念碑(大胡城墟
碑)があります。これには、私
有地となっていた城山の地が売
りに出された折、
『
(前略)河原
濱村民相謀
(はか)
りて金を鳩
(あ
つ)め、金一千三百円にて之を
買い、永久に轉賣(転売)せざ
ることを約す。是において山林
一町七段七畝十九歩は本村の共有財産となる。實に
明治四十年(一九〇七)四月四日なり』
(北爪隆雄氏
書き下し文に拠る)と記されています。現在大胡城
の二の丸・本丸が、江戸時代初期に、城主牧野氏に
よって整えられた城の原形を、ほぼそのままに保って
保存されているのも、河原浜村民の方々が、この城
址を村の共有財産として大切に保存・管理してくだ
さったおかげです。これは、今で云う文化財保存活
動の先鞭をつけるもので頭が下がります。その活動
を記録したこの石碑も、この地の歴史を語る貴重な
文化財であります。
以上のように、大胡城址に立つと、中世以来の大
胡の歴史と共に、この地に住む私たちが、決して忘
れてはならない地域の歴史の一断面を語りかけてく
れます。これから春本番の季節、暖かい日にでも大
胡城の散策に出かけ、本丸からの赤城山や本丸東の
崖下に広がる荒砥川、城下の町の景観などを眺めな
がら、石碑にも目を向け、石碑が語る大胡の歴史の
一端に触れてみてください。
大胡城墟碑
大胡城本丸跡の石碑
前橋市鼻毛石町1426 1
ー
TEL 027 2
ー 83 2
ー 422
ー 83 7
ー 103
FAX 027 2
E-Mail
[email protected]
HP http://www.myg.or.jp
Vol.4
地域の歴史を刻む大胡城址
水害後の荒砥川から見た上町(
「大胡町水難誌」より)
■お問合せ
21
大胡城に足を
運び、本丸跡に
登ってみますと、
曲輪の北東の隅
に、赤城山を背
にして立つ二つ
の大きな石碑が
目に留まります。
向かって左は「水害記念」の碑、右は第二次世界大戦
(太平洋戦争)の戦没者の名を刻んだものです。
「水害記念」碑は、昭和二二年(一九四七)九月
一五日、大胡町を襲った大洪水について記録したも
ので、
『昭和二十二年九月群馬県下はカスリン台風の
襲来にあう同十五日午後三時過ぎ突如まことに突如
として不気味なる音響とともに荒砥川は二メートルの
水嵩をもつ濁流となって押下り瞬時にして根小屋部
落を流失し…』と襲い
来る洪水の様子を記
し、更に、
『被害は死者
七十一名重軽傷者
四三四名家屋流失
一二四戸…』など被害
状況を、そして『岡田
町長指揮の下に各種団
体が協力一致して復興に乗り出し涙ぐましき隣人愛
の奉仕によって一歩一歩復興工事を進む…』など住
民の皆さんの復興への努力を記した後『水害十周年
を迎えるに際し当時の状況を記し…再びこの不幸を
繰り返すことの戒めとなし併せて子孫は今後赤城山
の治山治水に努め河川愛護に盡心されることを切望
して建碑の記となす』
と結んでいます。碑の裏面には、
この時亡くなられた七一名の方の氏名が刻まれてお
り、改めて災害の恐ろしさに胸が痛みます。大きな
石に刻まれたこの記録は、これからも、ここを訪れる
人たちに、災害の恐ろしさと、災害に対する日頃から
の備えと心構えの大切さを語りかけていくことでしょ
う。
なお、この水害の詳細については、旧大胡町発行
の『大胡町誌』
、
『大胡町水難誌』を参考にしてくだ
さい。両誌とも大胡支所にまだ残部があるとのことで
す。
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