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3 人のトップランナーたち

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3 人のトップランナーたち
〔千葉医学 90:65 ∼ 67,2014〕
〔 話題 〕
3 人のトップランナーたち
野 田 公 俊
3 つの誕生日をもつ北里柴三郎先生 !?
学生講義を終えて教授室に戻ると,私宛の一片
のメモが置いてあった。北里研究所からのメッ
セージで,北里柴三郎先生の生誕日に特別記念講
演会を開催するので,私に講師を務めて欲しいと
いう内容であった。北里博士は1852年(嘉永 5 年)
のお生まれだと紹介している書物が多い。私もそ
れは記憶していたが誕生日までは憶えていなかっ
た。手元の資料を調べると,嘉永 5 年12月20日に
現在の熊本県阿蘇郡小国町(図 1 )に生まれると
図 1 北里博士の故郷の小国杉を使った
記念ボールペン あった。さらに,別の資料には安政 3 年12月20日
生まれと記載されていた。安政 3 年は1856年であ
る。12月20日ならば 2 週間後である。何と急な話
しだろうと思った。日本細菌学会浅川賞の受賞者
である私に講師の声がかかったとうことらしい。
浅川賞は1908年(明治41年)に北里先生たちが創
設した100年以上の歴史をもつ賞である。夭折し
た門弟の浅川範彦先生の名声を後世に残そうとい
う目的でつくられたと聞いている。翌日,再び北
里研究所から連絡が入り,北里先生の誕生日は
1853年 1 月29日なので,特別記念講演会は2014年
1 月29日に執り行われますとの事であった。講演
図 2 北里柴三郎博士肖像メダル
まで少し時間ができて安心したが,北里先生は異
なる 3 つの誕生日をもっていることがとても気に
出願書類には,確かに安政 3 年12月20日生まれと
なった。しかも,1852年や1856年のどれでもなく,
記載されていたという。ここでいったい何が起き
1853年だと言う。「日本の細菌学の父」と称され
たのであろうか。この安政 3 年云々は実は正しい
る北里柴三郎先生は,この世に 3 回も誕生したと
記載ではなく,北里先生の年齢を実際より 4 歳若
言うのであろうか。とても不思議な気がした。少
くして出願資格を満たすために支援者たちが取っ
し詳しく調べてみることにした。嘉永 5 年12月20
た苦肉の策だったことがわかった。従って,北里
日に生まれたのは確かなようである。しかし,北
先生は本当は安政 3 年には生まれていないのであ
里先生の東京医学校(今の東京大学医学部)への
る。次に嘉永 5 年の件であるが,嘉永 5 年は確
千葉大学大学院医学研究院病原細菌制御学
Masatoshi Noda: The three top runners.
Department of Molecular Infectiology, Graduate School of Medicine, Chiba University, Chiba 260-8670.
Phone: 043-226-2046. Fax: 043-226-2049. E-mail: [email protected]
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野 田 公 俊
かに1852年である。記念講演後,北里研究所から
字からなるアルファベットのサインがあった。と
いただいた北里柴三郎博士肖像メダルにも1852−
ても読み易い書体で「R. Koch」と書かれていた。
1931と刻印されている(図 2 )。しかし,嘉永 5
しかし,そのサインの主が誰であるかは瞬時には
年12月20日は旧暦での表記であるので,西暦では
思い浮かばなかった。「 1 番最初のゲストの方の
1853年 1 月29日になるのだという。これで特別記
サインです。」と小さな声が聞こえて来た。それ
念講演会が 1 月29日に開催される理由を理解でき
でやっと北里柴三郎先生の恩師ロベルト・コッホ
た。また,尊敬する北里柴三郎先生の本当の誕生
先生のサインであることを理解した。106年前の
日を知る事ができてなぜか幸せであった。
明治41年(1908年) 6 月に北里先生の要請で日本
を訪問された時のサインであった。北里研究所の
ハリー・ポッターの世界 !?
宝の一つであるという。私もゲストブックへのサ
インを求められた。勿論,私の右側に置かれた新
特別記念講演会当日の2014年 1 月29日は,会場
しい方のゲストブックにである。使用しろと言わ
である北里研究所にかなり早めに到着した。この
れた万年筆は美しく歴史のある芸術品のような感
研究所は北里大学白金キャンパスにある。正門前
じであった。中学生の時に万年筆を使ったのが最
の蜀江坂を登った先の白金台には東京大学医科学
後である。半世紀近く万年筆とは縁が無かったの
研究所がある。歩いてもほんの数分の距離であ
を悔やんだが,目の前のそれはとても書き易くて
る。医科学研究所は大学院と助手時代を過ごした
本当に驚いた。コッホ先生もこれを使用したかど
とても懐かしい研究所である。また,この蜀江坂
うかは聞き漏らしたが,何か特別な時間が流れて
は私のランニングコースの一つでもあった。さ
いると実感したセレモニーであった。
て,案内されて北里本館 3 階の役員応接室に入る
と座る場所が指定されていた。私の真正面の壁に
は巨大な油絵の人物画がかけてあった。北里柴三
あのパスツール先生と北里先生が !?
郎先生の恩師ロベルト・コッホ先生の全身を描い
特別記念講演は何とかうまくいった。懇親会に
た等身大の肖像画であった。歴史を感じさせるそ
は北里柴三郎先生のお孫さんの北里一郎先生の元
の額縁にも圧倒され,ハリー・ポッターの世界か
気なお姿もあった。何度もお会いしているが,そ
ら抜け出て来たようだと思った。この肖像画は
の容貌は肖像画で知る柴三郎先生と瓜二つであ
コッホ家が所有していたという。コッホ先生の死
る。この会場でお会いしたある方から,北里柴三
後,コッホ夫人のヘドヴィックさんがわざわざ北
郎先生とルイ・パスツール先生はパリで実際にお
里先生に贈ってよこしたのだという。その辺の詳
会いしているし,帰国後も親交があったことを教
しい話しは別の機会に譲りたいと思う。そして,
えていただいた。東京大学医科学研究所(旧国立
そのコッホ先生と対面するように私の背後の壁に
伝染病研究所,旧東京帝国大学伝染病研究所)の
は北里柴三郎先生の上半身の肖像画があった。こ
セミナー室にはパスツール先生の巨大な胸像が置
れも等身大の巨大な油絵で高名なある画家の作品
かれていた。北里先生は旧国立伝染病研究所の初
だと後日知った。しばらくして,北里研究所理事
代所長でもあった。このパスツールの胸像に北里
長の藤井清孝先生と北里大学学長の岡安勲先生が
先生が何か関与しているのであろうか。少し詳し
テーブルを挟んで向かい側に着席された。それと
く調べてみる事にした。北里柴三郎先生は1853年
同時に巨大なアルバムが 2 冊運ばれて来て,私の
1 月29日のお生まれであるのは先に書いた。その
前のテーブルの上に置かれた。アルバムだと思っ
恩師のロベルト・コッホ先生の誕生日は1843年12
たそれはゲストブックであった。左側に置かれた
月11日である。さらにルイ・パスツール先生は
それは明らかに歴史を感じさせるもので,まさに
1822年12月27日に誕生している。北里先生の10歳
ハリー・ポッターの世界から抜け出てきたという
上がコッホ先生,さらにコッホ先生の21歳上がパ
表現にぴったりであった。係の人が 1 ページ目を
スツール先生である。北里先生とパスツール先生
開いてくれた。広い紙面にわずか一行だけ,数文
の間には31歳の開きがある。1892年(明治25年)
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3 月,39歳の北里先生は 6 年間のコッホ研究室で
の交流はわずか 3 年間で終わった。パスツール先
の留学を終えて,帰国の途についた。ベルリンを
生享年72歳であった。二人の関係を示す資料は実
離れ,まず向かった先はフランスのパリである。
に少ない。医科学研究所のパスツール先生の胸像
コッホ先生とともに「近代細菌学の開祖」と称さ
の由来もまだ宿題になっている。コッホ先生とパ
れるパスツール先生を訪ねるためである。パリの
スツール先生の二人の偉人は,その時代背景や
新聞各紙は「日本の大学者北里パリに来る」と大
様々な原因もあり互いに疎遠であったという。し
見出しで報道し,北里先生の訪問を町をあげて歓
かし,北里先生はこの二人の偉大な「近代細菌学
迎したようである。パスツール研究所を訪ねた北
の開祖」の間に入って行き,極めて良好な関係を
里先生を,31歳年長者のパスツール先生が実に丁
築き,さらに進化した北里流の細菌学を構築し
重にお迎えしたとのことである。そして,自分の
た。まさに「日本の細菌学の父」が誕生した瞬間
写真に「北里博士へ 素晴しい研究に敬意と祝福
であった。日独仏のこの 3 人の偉大なトップラン
をこめて ルイ・パスツール」とサインして贈っ
ナーたち, 3 人とも「とてつもない強い思い」を
たという。二人の交流は帰国後も続いたようであ
もって時代を駈けぬけたのは間違いない。
るが,パスツール先生の突然の死によって,二人
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