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ポポロ工作室の ローマ!ローマ!ローマ!

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ポポロ工作室の ローマ!ローマ!ローマ!
ポポロ工作室の
ローマ!ローマ!ローマ!
BOTTEGA POPOLO
このささやかな旅行記は、どんな時代、どんな土地、どんな人間にも
ありがちな、最低限の自己発見の物語であって、それは普遍性があるとも
言えますし、陳腐ですらあるとも言え、特定の人間の思索活動を仔細に解
析しているわけでも、特定の国家や時代性に焦点を当てて特殊性を証明し
ているわけではないという事を予め記しておきますが、それでも、この物
語が実話に基づかない意義のないものとは、ひとつも言っていません。
ポポロ工作室
i
チ ャプタ 1
目次
序文
目次
この道はローマに通ず
3つの条件が生んだ者
島国からの脱出
しっぽの生えた悪夢
悠久の都を待ち焦がれ
幕開けた新世界
初春の野宿に関する助言
ファーストコンタクト
画家志望ストロンボル
シャワーナポリの空に
大審問官
ヴェニスとメタファー
終幕
はじまり
あとづけ
2
チ ャプタ 2
この道はローマに通ず
「クレルモン夫人:私の意見を聞きたいの?なら聞かせるわ。」
クレルモン夫人は実に気の良い女性ではあったけれど、少々お節介な
ところが玉に傷といったところです。何しろ度を過ぎた優しさというの
は、時に明らかな悪意よりもタチの悪い事がありますから。もっとも、そ
ういう気遣いがないよりもずっとマシであるという事は、誰もがうなづく
所ではあるでしょう。
自信たっぷりな彼女の夫、ジーノ氏も実に素晴らしい人柄なのです
が、その点、彼は気遣いという方面においては少々欠けた部分があって、
どちらかと言えば自分勝手なタイプの人物です。それに、彼は無神論者で
した。無神論者が悪いという事は少しもないのですが、今日のような場合
は、これが実に悪い結果を引き起こす事になります。要するに、この夫婦
はまたいつもの如く、喧嘩を始めてしまいました。
「クレルモン夫人:私はいつだってあなたに言っているじゃないの。
『神様は必ずいる』んだって。この事件だって、計り知れない何か、とて
も大きな意味があるに違いないわ。」
3
「ジーノ氏:馬鹿馬鹿しい。こんな事件に意味なんてあってたまるか。
自分の身に起きてみたとして、同じ事が言えるのか、お前は?」
彼らが話し合ってるのは、昨夜に起きた凄惨な事件ーーとは言って
も、彼らの住んでいるローマからはずっと離れた場所の、自分たちとはま
ったく関係の無い人種の、訳の分からない戦争の話なのでしたがーーとに
かく昨夜、とある紛争地域でかなり大規模な自爆テロが起こり、駐屯して
いた大勢の外国兵が亡くなったというのです。
「ジーノ氏:何もかもが馬鹿馬鹿しい。人生の楽しみも知らないで、
理想だの神様だの、現実よりも遥かに超えたものを想像してばかりいるか
ら、人間はおかしくなるのだ。」
ジーノ氏は吐き捨てるように、そう言いました。彼は自分勝手な人間
にありがちな楽天家ではありましたが、その一方で、なかなか的を射た分
析をするのも得意でした。というよりも、彼は自分自身で、現実問題に対
する意見家としての才能を認めていましたから、こういう機会はむしろ、
自分の才能を示す格好の場でもあるのです。
しかしそのくせ、こういう時、いつも同じ結果になるという現実を、
彼は分析する事は出来ていないのです。友人たちからは雄弁と寛容な態度
で一目置かれているこの男が、自分の妻相手となれば、相手が決して自分
の意見に同調しないという現実を何度も目の当たりにしていながら、どう
しても彼女を説得しようと奮闘してしまうわけです。
「クレルモン夫人:そういう人間たちの全ての事には、運命というも
のがあるのよ。絶対に意味のない事なんて、無いんだから。」
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「ジーノ氏:人の命を奪う事に、一体、価値なんぞあるものかね。そ
れじゃあ聞くが、お前はそこに、どういう価値があると思っているんだ、
え?」
「クレルモン夫人:なんで、それが私に分かると思うの?私は神様じ
ゃないもの。知るはずないわ。」
クレルモン夫人が、可愛いヨークシャテリアを撫でながら、そっぽを
向いて言いました。こうした場合、多くの女性の常として、彼女は自分の
夫の性質をよく知っているので、わざとこうしたそっけない態度に打って
出るわけです。それこそが、夫の理路整然とした演説口調を調子を崩すと
いう事を熟知しているのです。当然、彼女の思惑通り、ジーノ氏はかっか
と怒り始めました。ジーノ氏は革張りのソファから急いで立ち上がると、
そっぽを向いて愛犬を撫でている妻の所ににじり寄りました。
「ジーノ氏:神様や運命なんていう言葉で、悲惨な現実を合理化するべ
きじゃない。そうじゃないか?」
「クレルモン夫人:合理化しようが、しまいが、神様はただそうして
いるだけだもの。私たちが何かするべき事なんてないわね。どう考えて
も、私にはそういうふうに思うわ。」
「ジーノ氏:やめろ!お前はいつの時代に生きているんだ、まった
く。神は私たちが勝手に創り出したものだろうが!想像の産物!ファンタ
ジーなのだ!」
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「クレルモン夫人:あなたがそう考えたり、しゃべったりしているの
も、誰かがそういう文章を書いているかもしれないでしょ。それは本当に
あなたの考えだ、あなたの言葉だって、誰が証明できるの?」
「ジーノ氏:人間はその神様とやらのおもちゃではないのだ!なぁ、
少しは自分だけで考えてみる事だ。そりゃあ、わたしだって、日曜日には
教会に行くさ。『天に召します我らが父よ、願わくば私たち子羊をお救い
下さいませ』とまぁ、お決まりのお祈りもする。形式的にそうする。だ
が、それがなんだというのだ?わたしは少なくとも、お経を唱えるだけで
満足するような頭になっていない。それともなんだ、お前の言う、その
『人類脚本家』の神様、偉大なる我らが父というのは、わたしたちに子羊
程度の頭脳しか要求していないとでも言うのかね?ええ?」
ジーノ氏が、しぶしぶ同行している日曜礼拝の時の妻の仕草を真似な
がら、最大限の皮肉な調子でそう言いました。ところが、往々にして女性
というものは、男性よりも現実方面において計算高いところがあるわけ
で、こういう場合はまだヒステリーを起こしても効果がない事を知ってい
るのです。彼女は実にさりげなく、こう言い返しました。
「クレルモン夫人:あら、あなたに子羊程度でも脳みそがあったの
ね。空っぽじゃなかったって事を、神様に感謝しなくちゃ。」
「ジーノ氏:これだから、だからカトリック女は!」
クレルモン夫人が目をぎらっと光らせました。つまり、今なのです。こ
こが攻撃のチャンスです。
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「クレルモン夫人:なに、馬鹿にしないでよ。どうして、そんなに偉ぶ
ってるの?あんたって本当に子供だわ。だいたい、私と結婚しなければ、
今だってしがない薬局屋の小僧だったくせにね。え、それとも何?もうカ
トリック女とは付き合えないかしら?いいわよ、さっさと出ていったら!
そんなに偉ぶりたいんなら、いつもの溜まり場にでも行って、そのまま帰
って来なくたって構わないわ!そこで、いつもの頭空っぽのお仲間さん
に、あなたの神々しい演説を永遠に聞かせてやりなさいよ!」
夫という役職に就いている者は、妻から一方的な雑言を受けた際、急
いでその返事を考えねばなりませんが、唯一それができない状況があると
すれば、それは物理的なダメージが加えられるような場合でしょう。とい
うのはつまり、クレルモン夫人は愛犬をぽいと放り投げて、ずかずかと夫
に近寄ると、近くに置いてあった小さなクッションで夫をめちゃくちゃに
叩き始めたのです。言い忘れていましたが、このクレルモン夫人はかなり
熱情的な性格なので(もっとも、本人はそれなりに意識して熱情家を演じ
られるような余裕の持ち主ではありましたが)、こういう突発的な攻撃と
いうのはお手の物といった所がありました。彼女は愛犬が驚きのあまり隅
っこでガタガタ震えるのも構わずに、夫の身長が縮まるのではと思われる
ほど、彼を叩きのめしました。すぐにクッションが破れてしまい、羽毛が
ぶわっと飛び散りました。
「ジーノ氏:おいおい、待ちなさい!待ちなさい!」
こういう時に夫がさっと引き下がる事によって、家庭円満というのは
保たれるものです。
「ジーノ氏:悪かった、悪かった!落ち着きなさい!」
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「クレルモン夫人:なに?なにが悪かったっていうの!あなた、なに
も悪いことなんかしてないわよ!どうぞ、気の済むまで演説してくださっ
て結構だわ!」
「ジーノ氏:頼む、申し訳ない!謝るから!」
クレルモン夫人が恐ろしい形相のままで、ぴたりとクッションの上下
運動をやめました。もっとも、彼女が手にしているそれがクッションであ
るかどうかは、今となっては至極怪しいものではありました。
「クレルモン夫人:なによ?」
どうせ相手が何を言うのかを分かっているにも関わらず、女性というも
のはややこしい人種で、どうしても男の口から直接、言葉を頂戴したいの
です。ジーノ氏がすっかり困り果てたような顔付きで(彼が次のような言
葉を口にするのは、プライドの面からして容易な事ではないのです)、し
ぼり出すような声で言いました。
「ジーノ氏:あるひとつの事実はある......」
「クレルモン夫人:はぁ、なに?」
「ジーノ氏:お前と会った時、わたしは本当に、その......いや、あの時
ばかりは、なるほど、『あれ』を感じたと言っても過言ではない。つまり
その、私の言わんとするのは、つまりお前と出会えたのは、本当に、その
つまりあれだ......」
「クレルモン夫人:はっきり言いなさいよ!」
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「ジーノ氏:だから『あれ』だよ、お前......私たちよりも高い所にいる
とか言う、図々しいあの......つまり、お前と会ったあの瞬間だけは、神様
を信じても良い気になった!」
「クレルモン夫人:それじゃ、愛しているの?」
「ジーノ氏:もちろん、お前を愛している。」
「クレルモン夫人:神様の方よ。」
「ジーノ氏:か、神様の方か......まぁ、そちらの方は、私としては......
何かその......」
「クレルモン夫人:何かその?」
改めて言いますが、夫婦というものは常にどちらかが余分に譲歩しな
ければなりませんから、こういう時に引き下がるのが、家庭円満の秘訣な
のです。
「ジーノ氏:愛しているよ、お前も『あれ』も。」
「クレルモン夫人:つまり?」
「ジーノ氏:神様もだ!」
というわけで、結局、この仲良し夫婦はいつもと同じような立ち位置
に戻る事になりました。羽毛まみれになったジーノ氏の絶え間ざる努力
と、夫の性質を良く知るその妻のお蔭で、優しい決着をみせるというわけ
です。
すると、やはりいつものように、両親の実に愚かで幼稚な喧嘩が終わ
るのを見計らって部屋へ入って来るのが、彼らの娘のカロリーヌでした。
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彼女は来週15歳になる可愛らしい赤毛の娘で、少し歯並びが悪いけれど、
母親に似て美しい顔立ちをしています。どちらかと言うと父の方に似て冷
静なところがありますが、若いのに珍しく信仰というものの意義をちゃん
と理解していました。
そのお蔭で、彼女はどちらの味方でもなく、かといって彼らの仲裁役
でもなく、彼らとは一線を画した存在、独立した一個の人間ーー要する
に、親よりもずっと大人びた、新しい次の時代を生きる、若々しい力とし
て成長しているのです。「子供は時に親を裁き、やがて親を許すようにな
る」という 小説家オスカー・ワイルドの言葉ば思い出されるところです。
慣れたもので、カロリーヌ嬢は何事も無かったように、朝の挨拶をし
ました。両親もおはようと自然な調子で挨拶をしました。
さて、そこまでは日常的な風景ではありましたが、ヨークシャテリア
だけがいつもと違って、キャンキャンと鳴き出して勝手口の方へ走り去っ
て行きました。勝手口の外にあるヴェネチアン様式の門は、もうかなり古
くなって
びが付き始めているとは言え、なかなか立派なものです。ヨー
クシャーテリア犬は勝手口のドアの下についている、犬用の出入り口を押
し上げて、門へと向かいました。ちなみにこの犬は、この小さな出入り口
が自分だけの秘密の抜け穴だと考えている様子で、何か非常に誇らしげに
庭へ飛び出して行くのが常でした。が、それはどうでも良い事です。
「カロリーヌ嬢:週末の朝に早く起きるのは、なかなか体にこたえる
わね。健全な少女のする事じゃなさそうよ。」
カロリーヌが澄ました顔をしながら、ちくりと皮肉を言いました。彼
女は両親の大声で目を覚ましてしまったのです。
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「ジーノ氏:もう少し寝ていなさい。構わないから。」
父親は羽毛の片付けをしながら、ちらちらと母親の方に目をやりまし
た。彼としては「こいつが頑固者でな」と言いたいのですが、もちろん賢
いカロリーヌ嬢は浅く相
を打っただけで、どちらの味方をするでもな
く、さっとその場を離れました。
カロリーヌ嬢は居間を抜け、台所の冷蔵庫の中から適当な飲み物を漁
り、これをごくりと飲み込みました。彼女はちらと、窓から庭の方を眺め
ました。それは美しい、春を迎えつつある静かな早朝で、きちんと刈り取
られた芝生も、朝靄に揺れる緑糸の草木も、実に瑞々しいものがありまし
た。彼女は寝てしまうよりも、この美しい朝の庭を、久し振りに散歩して
みようという気を起こしました。
カロリーヌ嬢は寝巻きのまま、庭へと飛び出しました。早朝の冷気は
若さに
れる彼女に、何にも勝る新鮮な印象を与えました。カロリーヌ嬢
は澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みました。こういう自然に即した穏や
かな活動というものは、物質的に恵まれるよりも多くの素晴らしい効果を
魂に与えるものです。
もっとも、彼女は正直な所で言えば、自分の住処に満足はしていませ
んでした。というのも、確かにここは大きな邸宅ではありますが、ローマ
の賑やかな市街地からはすっかり離れているし、せっかく高地にあるのに
見晴らしは今ひとつで、邸宅の周りは荒涼とした雑草地で囲まれているだ
けなのです。最寄りのスーパーに足を運ぶには、車で20分もかかります。
好奇心旺盛な娘が住むには物足りない場所なのです。
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それでも、彼女は、ここの朝の印象が実に素晴らしいと思っていまし
た。何か理由があるというわけでもないのですが、とてつもなく素敵な出
来事が起こる予感、何かとてつもなく興味深い物語が幕を開ける予感、そ
んな積極的な気分を起こしてくれるのです。
ところで、そういう素敵な気分が途端に崩れてしまいました。例のヨ
ークシャーテリア犬と、大きな黒々としたハウンド犬4匹(この4匹は番犬
なのです)が、先ほどよりもけたたましく騒ぎ立てているのです。人が来
たり通ったりする度に、何かのスイッチが入ったとでも言うようにワンワ
ンと鳴き喚く彼らの癖からして、それは全く珍しいものではありませんで
したが、それでもこの時はかなり長く鳴いているように思われました。そ
れに、こういう週末の早朝に誰かが来たり通ったりする事だなんて、それ
自体が珍しいのです。邸宅の前は車こそ時々は通りますが、通行人がぶら
りと現れる事はまずないはずなのです。
カロリーヌ嬢はすたすたと勝手口の方に向かってみました。すると、
例のヴェネツィア様式の門のあたりで、犬たちが壊れたように吠えている
ではありませんか。この門はカロリーヌでさえ、少し頑張ればすり抜けら
れる大きな格子になっていましたので、番犬たちもスルリと外に出てい
て、彼らはそこで一生懸命に吠え立てていました。
門の外は味気の無い、そしてそれほど広くもない、1本のコンクリート
の道が続いているばかりです。で、そこで何が起きていたかというとーー
4匹の大きな犬に囲まれ、おまけに小さな1匹の犬まで威嚇されている、1
人の東洋人の青年が、その中心に立ち尽くして途方に暮れていたのです。
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その東洋人の青年は、よく映画の中に登場する仏教僧やカンフーの達
人のような凛々しい顔付きをした坊主の青年で、筋肉質とまではいきませ
んがガッチリとした中背の人物でした。彼は安っぽいズボンと紺色の半袖
シャツ着て、寝袋と大きく重そうなバックを背負っていました。
(カロリーヌ嬢:旅行者かしら?それにしても、こんな場所に旅行な
んて来るものなの?でも、泥棒や不審者といった感じではないみたい。だ
いたい、泥棒があんな大きなリュックを担ぐなんておかしいわ。)
彼女も黙って立ち尽くしながら、じっと相手の方に目を向けてみまし
た。青年の雰囲気からして、犬に吼えられて困り果てているという以外の
何かがあるわけではなく、不審者のような粘っこい怪しさや胡散臭さもあ
りませんでした。が、そうとは言っても、果たして彼を旅行者と見なすこ
とが出来るかというと、それも怪しいものです。こんなへんぴな場所で、
味気のない1本の道を、こんな早朝にのろのろと歩いてくるような旅行者
が、果たしているものでしょうか。
結局、不審者にも旅行者にも見えない東洋人を前に、カロリーヌ嬢は
しばらく呆然としていました。
「青年:ごめん、君さ......」
青年が口を開きました。一瞬、カロリーヌ嬢は相手が何語を話してい
るのか分かりませんでしたが、それがすぐに英語であると気がつきまし
た。彼女と青年は、門を隔てて2メートルぐらい離れた場所に立っていま
した。
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「青年:僕としては、ただ、ここを通りたいから......この犬を向こうに
やって......」
「カロリーヌ嬢:あんたって、中国人?」
カロリーヌ嬢は我ながら馬鹿げた質問をしてしまったと思いました
が、なんだか急に話しかけられたので、彼女もまごついてしまったので
す。と、彼は急に照れるように笑い出したかと思うと、「違う」とだけ答
えました。その様子からしてみると、彼はおそらく、ここに来るまでに何
度か同じ質問を受けたのでしょう。
カロリーヌ嬢は東洋人がそれほど危険な人物でない事を、女性らしい
敏感な本能で悟ったのですが、正直な所、戸惑いました。彼女は英語がそ
んなにうまくありませんし、相手も思い切った片言の英語なのです。言葉
が通じないというのは、彼女にとって非常に大きな問題のように思われま
した。が、そんな彼女に、何とも分かりやすい言葉が投げ掛けられまし
た。その単語も、その仕草が意味する所も、彼女は完全に理解する事が出
来ました。
「青年:ROMA?」
東洋人が右手で、この味気のない、1本のコンクリートの道の先をずい
っと指し示しました。この時、犬たちはカロリーヌ嬢の掛け声によって、
すごすごと門の中へと引き下がっていました。
「カロリーヌ嬢:Si,ROMA.」
カロリーヌ嬢も、1本の道のずっと先を指し示しながら、答えました。
東洋人は「GRAZIE」と、片言のイタリア語で礼を述べ、ひらりと身を翻
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し、足早に歩き始めました。この道は数メートル先から少し下っていたの
で、青年の姿はあっと言う間に見えなくなりました。
カロリーヌ嬢は少し呆気に取られてから、やおら踵を返して、中庭へと
戻りました。彼女はふと、こんな事を考えました。人間の出会いというも
のについて。例えば、両親や親戚、教師や学校の友人たち、こうした人び
ととの繋がりは明快です。ある場所、ある時間に行けば、必ず会える人び
とです。ところが、駅や街角ですれ違った人というのは、どうでしょう
か。彼らはもう、ほとんどの場合、一生涯、自分とは縁の無い人なので
す。それは逆に言えば、自分とは全く縁の無い人びとを、日々、自分は奇
跡的に目にし続けているのです。
(カロリーヌ嬢:そう考えれば、あの変な東洋人との出会いも、かな
り貴重なものかもしれないわね。もう一生、あの人に出会う事はないでし
ょうし、握手をする事も、会話をする事もない。それにあの人だって、一
生、私の事を知る事が無いでしょうし、私もあの人の事を一生知る事は無
い。それでも、私はあの人に教えたわ。この道が、ローマに続いているっ
て。それで、あの人も私の言葉に納得して、歩いて行った。実はこれっ
て、かなり奇跡的な事じゃない?)
カロリーヌ嬢は珍しい朝の出来事を頭の中で慎重におさらいしなが
ら、しばらくその場に立ち、長く続く道の先を眺め続けました。美しい早
朝は、すぐに美しい朝に変わりました。今や朝霧がさっと晴れ、イタリア
らしい明るく爽快な太陽が顔を出しました。
カロリーヌ嬢は家へ戻って、早速、先ほどの珍事を両親に話してみる事
にした。2人からは、こんな感想が返って来ました。
15
「ジーノ氏:お前が門から出なかったのは正解だ。こういう世の中だ
からな。慎重に行動しろよ。何かと物騒な世の中なのだからな。さ、朝食
にしようじゃないか。ところでなんだ、お前はなんでそんな寒い格好をし
とる。温かいものを羽織りなさい。」
というのが、ジーノ氏の意見。
「クレルモン夫人:神様は1歩1歩を支えてくれるのよ。中国の人がこ
こに来たのも、何か大きな意味がある。あなたがその人と出会ったという
のも、意味があるの。その意味がどういうものかは分からないけどね。そ
の人が歩いて行った道にも、必ず神様の1歩1歩の支えがあるわ。今日は、
その人の旅路の加護を一緒にお祈りしましょう。......あなた!ちゃんとあ
そこの隅も掃除しておいてよね。まだクッションの羽ゴミが残ってるじゃ
ないの。」
というのが、クレルモン夫人の意見でした。
16
チ ャプタ 3
3つの条件が生んだ者
ここに来て、筆者はこの物語の主人公のささやかな旅行記を着手する
にあたり、一種の疑惑に陥る事になりました。ほかでもない、筆者は彼ー
ーすなわち、冒頭に登場した東洋人の青年の事を「主人公」と大々的に呼
ぶことにしているのですが、彼が決して偉大な人間でないばかりか、その
旅物語も偉大なものとは言えないような気がしてならないのです。
そういう訳で、「どうしてあなたがこの人を主人公に選び、彼の行っ
た奇怪かつ面妖な旅の全容を描こうとしたのですか?どういう訳で我々読
者は、この主人公の旅物語に暇を潰さなければならないのですか?」とい
った風な質問は避け難いものとして予見しています。
ーーとまぁ、そんなふうに、筆者が敬愛するドストエフスキー著『カ
ラマーゾフの兄弟』の文体を借りて自分の意見を表明したものの、その反
面で、やはり筆者にはこの物語を記す必要があるように思うのです。それ
は彼の体験した幾つかの出来事や、その出来事の中で考えた思想が、少な
からず有意義なものであると考えるからです。その為、この旅の物語は単
に愉快なだけではなく、文学として残すべき、ひとつの可能性を秘めてい
るものと感じています。
17
「主人公:それは弁解?それとも、君はあれだろう、この物語を無理
やり意義付けしておいて、読者への『打馬尻(ダーマーピー:ご機嫌取
り)』をするつもりなんだろう?」
「筆者:急に中国語を使わないで下さいよ。そもそも、君は何者なん
です?勝手に私の物語に登場しないで下さい。」
「主人公:誰とは心外な事を言うもんだ。僕だよ。」
「筆者:まさか、我々の物語の主人公でしたか。参りましたね。何か
用ですか?あなたはこの章では登場させるつもりはありませんでしたよ。
ここではまだ、君の外的な要素を紹介するだけにしようと思ったのに。」
「主人公:だけど実際、ここへ登場させているじゃないか。」
「筆者:あなたが勝手に登場したんです。しかし、それも何か意味が
あるかもしれません。せっかく来てもらったのなら、ここで大々的に君の
分析を始めようじゃありませんか。」
「主人公:冗談じゃない。君に僕を分解して、ばらばらの部品にする
だなんていう権利があるのか?かえって、僕が君を分解してやっても良い
んだぜ。僕には分かっているんだ。どうせ、この物語は片手間の仕事だと
思っているんだろう。」
「筆者:どういうことです?」
「主人公:君は今、『ドストエフスキー・トリビュート』という作品
を手がけているんだろう。その作品の完成までには、まだまだ半年から1
年間は掛かる。何しろドストエフスキーの全作品をいっぺんにリヴァージ
ョンするっていう大事業だから、それが完成するまで別の新作を発表する
18
事が出来ない。そこで君は、ひとつ昔に書いた作品に修正を加えて、『ド
ストエフスキー・トリビュート』が登場するまでのつなぎにしようって考
えているんだ。」
「筆者:待って下さいよ。私の内情を暴露しないで下さい......いや、そ
れにとんでもない。私は言っておきますが、この物語を片手間に製作して
いるわけではありませんよ。私にとって、すべての自分の作品というのは
息子や娘と同様に、とても大切なものですからね。」
「主人公:で、いつまでやるのさ?その事業を?」
「筆者:何がですか?」
「主人公:君は本当に、電子書籍プラットフォームの作家として成功
すると思っているのか?君の事なんか、誰も気にしてやいないんだから、
もう止めておけよ。退屈な作品を書いて恥をさらすだけなんだから。」
「筆者:私には信念というものがありますからね。君が何を言おう
と、この道を進みますよ。それは、君だって同じ事だったじゃありません
か。違いますか?」
「主人公:僕と君の何が同じだってんだ?」
「筆者:君が自分自身の活動に意味を見出して、何かを掴むまで、懸
命に異国の地で歩き続けたのと同じように、私もこの道を進んで行くんで
すよ。イタリアのことわざにあるじゃありませんか。」
「主人公:『我が道を行け。あとは人の語るに任せよ』」
19
「筆者:ね、そうでしょう。誰が何を言おうが、そうと決めた事を貫
く事が、人生ってもんじゃありませんか。しかし、私は質問があります
よ。そもそも、君はあの旅で何を決めようとしたんです?」
「主人公:何を決めようかを、探しに向かった、というのが正しいん
だ。つまり、僕はいわば、人間として迷子になっていたからさ。」
「筆者:迷子に?だけど、君は幸せな時代に生まれているじゃありま
せんか。迷子になる事なんてあるんですか?」
「主人公:はは、幸せな時代ね。」
「筆者:何かおかしな事でも言いましたか?」
「主人公:そりゃ、面白いよ。これが幸せな時代だって?もし、君が
本当にそう考えているのなら、ちゃんちゃらおかしいね。いいか、教えて
やるよ。僕が『迷子』になるまでに、3つの条件が存在した。」
「筆者:3つの条件?」
「主人公:第一に、僕の生まれた環境には、ある程度の経済性があっ
た。生活するという意味では、あまり大きな苦しみは無いんだ。だいたい
は、この点からして、『お前は幸せだ』なんて言われる。確かに、道端で
生活をして、ゴミを漁り、体を売って生活しなければならないような連中
に比べたら、とんだ優遇された環境にいる。だが、優遇されていたって、
それが幸せとは限らない。考えてもみなよ。人間というのは生活するだけ
では満足しないんだ。生活する事と生きる事とは、まったく意味が違うん
だ。生活する為に食事や家が必要になるように、生きる為には思想や信念
が必要になる。それが、第二の条件に繋がるというわけさ。つまり、僕の
20
生まれた場所には、良くも悪くも、思想や主義がほとんど存在しなかっ
た。宗教的な束縛も、伝統的な束縛も、観念的な束縛もなく、自由という
恐怖を突きつけられるような環境にあった。」
「筆者:おいおい、それこそ冗談じゃありませんよ。その自由や平和
を欲しがっている国がどれだけあると思いますか?」
「主人公:実際、そいつを手にしてみなよ。自由っていうのは、取り
扱い注意の劇薬なんだ。もちろん、飲まなければ中毒症状が出て死ぬ。だ
けど、飲み過ぎても苦しむ。僕の場合は、そういう時代にあった。ただ、
完全に自由というわけじゃない。それは非常に制限された、享楽的な自由
なんだ。生産的、建設的な自由というわけじゃない。何を空想しても良い
し、何をやっても良いように見えるが、実際は何もかも計算されたり、規
制されたり、禁止されたりと、そればかりだ。自分の前の世代が築き上げ
たまな板の上で料理されるだけの子供たち、それが僕の生まれた世代環境
というわけだ。」
「筆者:つまり、君は成熟した社会の事を言いたいんですね?まった
く、結構なことじゃありませんか!なぜそうも、憂鬱な言い回しをするん
ですか?」
「主人公:憂鬱なんかじゃない......困惑!」
「筆者:困惑?」
「主人公:そうだよ。困惑だ。不安とか、絶望じゃない。そんなあか
らさまな感情じゃない。だが、そこには漠然とした不安っていうやつばか
りがある。気持ちの悪い社会なんだ。不安と断言するほど、自分の社会に
21
期待出来るわけじゃない。同じく、絶望と断言するほど、別の社会に憧れ
ているわけでもない。この成熟された社会にあるのは、ただただ、困惑な
んだ。生きるという事に、困惑しているんだ。」
「筆者:もっと気軽に考えたらどうです?」
「主人公:その通りだ。もう、それしか手段がない。真剣に考える事
なんてバカらしく思えるほど、この社会にあるのは、何も許さないという
タイプの自由だからな。」
「筆者:それだけ自分の環境を嫌っているのなら、反抗するつもりは
ないんですか?」
「主人公:そういう力も奪われてしまっているだよ。だって、何かに反
抗するのは、その社会が変わると信じられるからだ。そういう期待を抱く
ほどの失望もないのさ。なぁ、そういう事を言うと、君は僕を社会から疎
外された人間だと思うだろうな。だけど、それがまた奇妙なんだが、僕ほ
ど自分の時代を象徴するような一タイプもないぐらいなんだ。僕は至って
社会に溶け込んでいる。善良な人間だし、朗らかとも言えるぐらいだ。で
も、それがかえって、自分の首を絞めているだ。生きている事に困惑して
いる人っていうのは、確固たる主張や主義が無いから、周りの流れに逆ら
わずにいようと努めるものだ。すると、僕は自分を傷つけながら、クソっ
たれの環境に迎合しなきゃならない。小さな世界の中で、なんとか疎外さ
れないように、必死にね。」
「筆者:自分を傷つけるって、どういう事だい?」
22
「主人公:人に好かれようとすればする程、自分が嫌になって来るも
んだろ。常に、自分に落ち度があるような気がして来て、ますます臆病
に、ますます卑屈になって来る。そして、そうなればなる程、また、ます
ます人に好かれようと努力する。この悪循環の結果どうなるのか、君だっ
て分かるだろう。つまり、破滅だ。しかも、自分で自分を破滅させる。自
分を許さず、否定して、存在を打ち消そうとする。分かるだろう?」
「筆者:君、ちょっと何も考えないような生き方をしてみたらどうで
しょう?こう、いわばラテン的に、明日は明日の風が吹くの精神で、今日
を精一杯楽しんでみては?」
「主人公:それが出来ていたら、僕の国では1日100人も自殺者が発生
しない。そう、君たちはいつだって、分かったようなアドバイスばっかり
をしてくれる。正論、正論。素晴らしいよ。あの電子の箱や紙っぺらから
垂れ流され続ける情報と来たら、本当に外面の美しいものばかりだから
な。」
「筆者:なんだって、そう忌々しい感情に支配されているんです?そう
いう君にだって、気の許せる家族や友人がいるんじゃありませんか?」
「主人公:今なら、いる。しかし、それは僕が成長したからだ。古い
僕の魂は、実に不安定だった。何もすがるものが無いんだから。人間って
のは、何かを、誰かを、崇拝しなければ生きることが出来ない。ところ
が、それが自分の場所にはどこにも無い。となれば、どうなるか。古い僕
は、僕に助けを求めた。それしか手段がなかった。もしくは、逃げる事も
出来たかもしれない。享楽的な何かにね。だが、それでは生きることにな
らない。生きるというのは、もっと尊い活動なんだぜ。とにかく、何とか
23
自分で自分を許そうと思った。 どんな手段を取ってでも それが、僕の旅
の始まりなんだろうな。」
「筆者:君の言葉は、何か深いものがあるね。いわば、哲学者ニーチ
ェの思想に通ずるものがある。自己を肯定するということ。自分を許そう
とすること。それが、君の旅の始まりというわけか。......が、ちょっと待
って下さいよ。君のような人間を作り出した条件で、3つ目のやつを、ま
だ話してくれよ?」
「主人公:なんだと思う?お前はこの物語の支配者なんだから、知っ
ているだろう?なんで、僕が話さなくっちゃならないんだい?」
「筆者:いや、それがどうも、僕自身も別の何かに動かされるがまま
に、この世界を創り上げているような具合ですからね。君にバトンタッチ
しろと、その何かが指示をしています。」
「主人公:じゃ、教えてあげるさ。『目隠し』だ。」
「筆者:三つ目の条件は、『目隠し』?なんですか、それは?」
「主人公:僕はもう帰る。あとは、君が責任を持って説明したら良い
だろう。僕はあくまで、君の創造物でしかないんだ。君が考える以上の事
を考えてしまったら、君が僕の創造物になっちまうぜ。父の息子が、その
父を自分の息子にするなんて、この世の物理法則を超越してしまうじゃな
いか。」
「筆者:よくわかりませんが!」
「主人公:よく考えろ。じゃあな。」
24
そうして、我々の主人公は去ってしまいました。読者の皆さん、あい
つは主人公のくせに生意気だと思いませんか。
25
チ ャプタ 4
島国からの脱出
とある年の3月15日、午前2時8分。坊主の東洋人の青年が、ローマ中心
部から南西に15キロほど離れた場所にある邸宅で5匹の犬に囲まれること
になる、その60時間前の話。
坊主の東洋人ーー仮に「ムイシュキン青年」とでも名乗らせておく事
にしますが、そのムイシュキン青年は、ひとつの決心を胸に、国際空港行
きの高速バスに飛び乗っていました。彼のいた場所からは、料金5500円、
所要時間5時間。これが、ムイシュキン青年の旅の、第一歩となったので
す。が、筆者は順番に物事を話し進めなければなりません。
かの青年が善良で親切な人間である事は確かです。が、それがあまり
に過ぎていて、彼はどんな人の期待も裏切りたくはないと考えていまし
た。となると、彼は他人を優先するあまりに、自分を殺しにかかったとい
うわけです。彼は周囲の人たちの行動を、怯えながら、注意深く観察して
いました。そして、彼はどんな人にも喜んで貰おうとしたのです。目に見
えぬ波に迎合し、逆らって泳ぐ真似は決してしませんでした。そうして、
自己の存在を許容して貰おうとした。彼は自分が否定されないようにする
あまりに、その自分が自分を否定している事に気が付かなかったのです。
26
要するに、彼は他人から自分を認めて貰う事に血眼になっていました
が、そのくせ、自分では自分を認めようとしなかったのです。悲しくない
代わりに、楽しくもありませんでした。彼の言葉を借りるのであれば、彼
はまさしく「生きる事に困惑」していたのです。
しかし、ムイシュキン青年に転機がありました。その享楽的な時代に
おいては大変珍しいのですが、彼は素晴らしい哲学書や古典文学の論理性
の輝きに気づきました。それらの作品に親しみ、じっくりと自分と対話を
重ねた末に、とうとう気が付いたのです。圧倒的な、自分の中に潜む生命
力というやつに。それはほかでもなく、どの人間にも本質的に内在してい
る「生きる意志」というやつなのです。
ムイシュキン青年は、「生きたい」という、まるで泉のように涌き上
がって来る、まるで不可解な、何にも増して力強い意志を「発見」しまし
た。それは、もともと存在していたにも関わらず、まるでアメリカ大陸を
「発見した」と歓喜する事になった探検家コロンブスのような心持ちで、
その新世界に感動の涙を流す事になったのです。
そこで、青年は考えました。「自分自身を許し、新しい見方で世界を
見なければならない」と。そして、「新しいものを見たい。今、見えてい
るもの以上のものが、この世界にはあるような気がするんだ。」と、彼は
続けました。で、彼はこういう結論を出しました。
「ムイシュキン青年:新たな、未知の世界に身を投げてみよう!試し
てみるんだ!僕にあたえられた、人間の力というやつを!くよくよと、生
きる事ってなんだろうなんて考えているだけじゃダメだ!生きてみるん
27
だ!まずは、生きてみよう!なんでも良いから、生きるんだ!僕は、生き
るんだ!」ーー......
......ーー
「運転手:お客さん」
「ムイシュキン青年:......」
「バスの運転手:お客さん、着きましたよ。」
「ムイシュキン青年:え......あ!どうも......」
青年はバスの運転手に起こされて、急いでバスを駆け下りました。き
ちんと清掃された気持ちの良い空間で、ガラス張りのエントランスが、彼
の前に現れました。国際空港に到着したのです。時刻は午前7時を少し過
ぎた所でした。
彼はガラス張りの自動ドアがさっと開いて、中に入り、長いエスカレ
ーターをジグザグに4度のぼりました。これで、3階の出発ロビーに到着で
す。完成からそれほど時間が経過していない空港の内装は新しく、天井の
高い、なかなか広々とした空間を有していました。
「ムイシュキン青年:さて。」
青年は恐ろしく重い荷物を床にどかっと置くと、自分は端にあるベン
チ群のひとつに腰を下ろしました。チェックインまで、まだ4時間程もあ
ります。空港にいる人びとの、それぞれの顔は明るく見えました。春休み
の時期で、海外に行く青年たちが目立つのです。それに加えて、家族や老
夫婦も多く見受けられます。ビジネスマンと見られる事務的な顔はほとん
28
どないように思えましたが、仮にそれらしい人物がいるとしても、これと
いった緊張感は見られません。
どの空港もそういうものなのですが、騒然とした中に、どこかオーケ
ストラのような楽しい響きがあるものです。落ち着いた各国の言葉のアナ
ウンス、歩く音、バックを積む音、カートを引く音、何かの電子音、笑っ
たり、喜んだり、怒ったり......空港でしか聴けない、心地よい楽しい音楽
が演奏されています。もっとも、何度もこの場所を通過しているような人
は、こういう楽しみも慢性化してしまって、どこかの市場に足を運ぶのと
変わらない退屈な心持ちがするのでしょうが、ムイシュキン青年はその
時、自分の重苦しい決心にも関わらず、その時は妙に華やいだ気分になっ
たものでした。
で、彼は次第にうとうとし始めた.....ーーのですが、それでは読者諸賢
に失礼千万であると、筆者は考えるわけです。彼を眠らせる訳にはいきま
せん。4時間もあるのなら、ちょっとばかり話を聞かねばならないので
す。彼を起こす事にしましょう。
「ムイシュキン青年:なんだよ、またあんたか。」
「筆者:そう嫌そうな顔をするものではありません。」
「ムイシュキン青年:こういうやり方が続くとなると、読者はとんで
もなく混乱するよ。」
「筆者:ところがどっこい、私はもう今回限りで、登場を止めるはず
ですからね。ただ、ひとつだけ聞きたいんですよ。」
「ムイシュキン青年:ご勝手に。」
29
「筆者:それじゃ、単刀直入に聞きますよ。君は今、何をする為にこ
こにいるんです?」
「ムイシュキン青年:旅をするんだよ。」
「筆者:観光に行くって事ですか?」
「ムイシュキン青年:旅だ。観光じゃない。観光は名所を巡る事が目
的だ。旅は、旅そのものが目的だ。」
「筆者:どっちだって良いじゃありませんか。相変わらず気難しい人
だ。言葉ひとつでそんなに深刻にならなくても良いんじゃありませんか
ね。違いますか?」
「ムイシュキン青年:肝心な点なんだから、そこは慎重に言葉を選ぶ
必要がある。なぁ、君は作家なんだろう。言葉ほど重要なものはないぜ。
言葉というのは、あらゆる複雑な思想世界を現実世界に持ち出す為の、頼
りないが役立つ、唯一の道具なんだ。そんな事、当然だろう?」
「筆者:そりゃ、そうですね。で、どういう旅をするんです?」
「ムイシュキン青年:再生の旅だ。」
「筆者:再生?」
「ムイシュキン青年:新しい世界の見方を探る、再生の旅だ。」
「筆者:じゃ、君は死んでいるんですか?」
「ムイシュキン青年:死にかけだったろうな。そこから、蘇るのさ。
そういう旅なんだ。」
30
「筆者:ふうん。とにかく、君。君はその新しい世界の見方を探るに
当たって、旅が有効な手段だと思ったわけですね。」
「ムイシュキン青年:そうだ。色々な方法がある。新しい学問に触れ
る、新しい恋愛をする、新しいスポーツを始める、新しい友を作る、新し
い趣味を見つける......その中でも僕は、旅をする事に決めた。それに......い
や、なんでもない。ある決心に関しては、君には言いたくない。その旅に
は別の意味もあったけど、それはもう関係のない事だ。」
「筆者:どういう事ですか?」
「ムイシュキン青年:良いんだ。これは本当に、意味のない事だか
ら。とにかく、僕は言語も文化もまるで違う異世界を、自分の足で歩いて
みようと思ったんだ。それが、凝り固まった島国の世界の見方を、変えて
くれるものだと思ったもんだからさ。」
「筆者:行き先は?」
「ムイシュキン青年:イタリア、ローマ。」
「筆者:なぜ、ローマ?パリじゃダメですか?北京では?モスクワで
は?ロンドンも捨てがたいし、ニューヨークは?インドやトルコというの
はどうです?」
「ムイシュキン青年:ダメだ。ローマじゃなきゃ。僕は、この都市に
憧れていた理由が幾つかある。古代のローマ帝国、中世のルネサンス、近
代の芸術文化......いいかい、このローマという街には、あらゆる西洋的な
美的センスが凝縮されているんだよ。キリスト教、カトリックの総本山と
いう意味も大きい。束縛が無いとは言え、実は僕もキリスト教の家柄だか
31
ら、前々から興味があったんだ。それに、ゲーテの『イタリア紀行』を読
んだ印象や、数々の映画の中のローマの印象。多くの芸術家や哲学者がこ
の街を訪れて、一様に何らかの大きな印象を受けているという事実。こん
な魅力的な都市が、ほかにあるかと思うぐらいだね。」
「筆者:つまり、君は行った事もないのに、その街が好きだったとい
うわけですか。」
「ムイシュキン青年:そうさ。それに、僕がしたいのは『再生』の旅
だ。古代から続く文化が死にかけていた時、中世イタリアでは、レナッシ
メント(ルネセンス:再生)という再生文化が花開いた。そう、ローマは
再生都市なんだ。そういう都市のパワーを、どうして僕が見過ごす事が出
来るんだい、え?」
「筆者:なんだか挑発的な口調ですね?」
「ムイシュキン青年:うんざりなんだよ。この国じゃ、いつも、どこ
でも、なぜ、なぜ、なぜってね。馬鹿馬鹿しい。答えなんかない。ローマ
を旅したいから、ローマを旅する事にした。本来なら、これで終わりなん
だ。なんなら、僕も同じ事をしてやろうか?あ、今どうして、右足から歩
き始めた?あんたはなぜ、さっき背中をかいた?なんだって、痒くなった
から?じゃ、どうして痒くなったんだ?そこんところを、詳しく聞きたい
もんだな!」
「筆者:落ち着いて下さいよ。」
32
「ムイシュキン青年:なんで、なんで、とうるさい世の中だ!もう、僕
がキリスト教的に、全ての決着をつけてやるよ!生まれたからだ!この世
に生まれたからだ!」
「筆者:そんなに興奮する事ないじゃありませんか。まぁ、君の言う
ことも一理ありますよ。理由ばかり聞いて、嫌な世の中ですよね。退屈な
論理をこねくり回すのが大好きな民族というものが、この世にはあります
から。よほどの暇人が多いんですよ。......で、ところで聞きますが、なん
で君、そんな坊さんみたいなスキンヘッドにしたんですか?なんで、寝袋
なんか持っているんです?あ、しかも、その端っこにあるのは折りたたみ
式のテントですね?なんで、テントなんか持っているんです?大都市ロー
マでテント生活でもするつもりですか?ねぇ、なんで、そんな発想をしで
かしたんですか?」
「ムイシュキン青年:......」
......
......
ーームイシュキン青年がはっと目を覚ました時、時刻はもう午前11時
を少し回っていました。しかし、寝過ごす心配はありませんでした。青年
はこの旅をする当たって、唯一の電子機器を持参したのです。それが、
100円ショップで売っている、日付表示機能、目覚まし機能付きのデジタ
ル時計なのです。しかしこの時はまだ、この時計が狂ったような暴風雨に
よって故障するとは思ってもいなかったので、彼はこの小さな機器に全幅
の信頼を寄せていました。事実、青年が目を覚ましたのは、この時計がピ
33
ーピー鳴ってくれたからでした。ですが、そんな事は大した話ではありま
せん。
青年は早速、航空会社の空港カウンターへ向かったわけですが、ここ
で驚いた事がありました。リュックサックは27キロもあったのです。この
黒いリュックサックの中身は、サバ缶30缶、清涼飲料の粉末30袋、インス
タントスープ30袋、数枚の衣類、エアー式の枕、小さな鉄鍋、プラスティ
ック食器、レインコート、軟膏、包帯、耳栓、アイマスク、折りたたみナ
イフ、そしてドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』に、筆記用具ー
ーなどといった具合でした。本当に彼は、テント生活をおっぱじめるつも
りだったのです。
では、『カラマーゾフの兄弟』というのは何の意味があるのでしょう
か?それは青年にとって、いわゆるお守りのようなものだったのです。つ
まりそれは、子どもが気に入った絵本を常に読んで貰おうとするのと一緒
で、かのロシアの文豪の文章を目にすると、彼はほっと心を落ち着ける事
が出来たのです。彼の意見からすれば、「作家ドストエフスキーの圧倒的
な論理能力に気がつく事の出来る人間というのは本当に幸せだ」という事
らしく、それは音楽で言うなればモーツァルト、絵画で言うなればゴッ
ホ、哲学で言うなればプラトン、ファッションで言うなればディオール、
といった具合に、作家ドストエフスキーは文学という文化領域における最
高峰であるというのです。
ところで、彼にはもう少しだけ、荷物がありました。リュックサックの
他に腰に巻きつける形のサイドバック、現金100ユーロ札数枚、イタリア
全土地図、方位磁石、ランタン、マッチ、チョコレート数枚、といったも
34
のです。そして、リュックの上にナイロン紐で結わえてあるのが、寝袋と
2人用の小型ツーリングテントでした。
青年は1ヶ月間の旅を想定していました。ローマのフィウミチーノ空港
(別称レオナルド・ダ・ヴィンチ空港)から北東に35キロを歩いてローマ
市街地へ、そのままトスカーナ州の田舎を約300キロ北上し、イタリア半
島中央に位置するフィレンツェへ。フィレンツェから北東へ約250キロ、
ヴェニスへ。ヴェニスから西へ約300キロ、ミラノへ。ミラノのマルペン
ザ空港から、島国へ帰還するーー。つまり、この数千キロの道を歩き通そ
うというのが、彼の再生の旅のプランだったのです。
しかし、筆者は口を挟ませてもらいます。読者諸賢は、それほど真剣
に、彼の旅の計画に耳を傾ける必要はありません。すぐにも、彼はその計
画を大胆に修正してしまうのですから。
とにかく、ムイシュキン青年はカウンターを過ぎ、お決まりの金属チ
ェックを受け、搭乗ゲートのある待合室へ向かいました。彼はスターバッ
クス・コーヒー店の前にある椅子に座って、ぼんやりとガラス窓から目一
杯飛び込んでくる飛行機たちの雄姿を眺めながら、何か恐ろしく平然とし
ていました。
少なくとも青年の考えているような旅の方法は、もう少し気分が高揚
しても良さそうなものでした。行く先のルートも、行く先で泊まるホテル
も決めず、6万円程度の現金片手に、未知の世界へ踏み入れるーーそんな
旅を前にしても、彼はなんだか傲岸とした表情を浮かべていました。
35
昼12時30分、17番の搭乗ゲートが開かれました。ローマへの入口が開
かれたのです。ムイシュキン青年はゆっくりと立ち上がって、既に押し合
いへし合いしている行列に混じりました。
もっとも、このゲートの先にあるのは、経由地である中国の北京で
す。往復7万円という安い航空券は、ローマまでの直通便ではありません
でした。しかも、乗り継ぎがうまく行かないので、北京では1泊をしなけ
ればなりません。空港で寝るのか、それともどこかに仮眠所でもあるの
か。ムイシュキン青年はそうした計画を、敢えて立てませんでした。
読者諸賢の中には、「そういう無鉄砲な青年が浮ついた気持ちで海外
に出て、危険地域に首をつっこむような真似をするから、後々で大変な騒
ぎを引き起こすのだ!なんという迷惑な輩め!」と怒鳴り出す者もあるで
しょう。そういう人々は「虎穴に入らずんば虎穴を得ず」ということわざ
の意味をひとつも考える時期がなく、安寧の生活と肩書きの保証にどっぷ
り浸りきってしまった、怠惰な人々が多いように思います。明らかに生命
の危険が叫ばれているような地区へと潜り込むような人間に対してなら効
果的な論拠ですが、それ以外の場合は往々にして、鎖に繋がれた老いた仔
犬が、独立不
の情熱で野はらを飛び回る野良犬に対して、安全な犬小屋
からぎゃんぎゃんと耳障りなわめき声を立てているに過ぎないような気が
してなりません。こうした人たちは、生きる為には多くの覚悟が必要であ
るという事を、とっくの昔に忘れてしまった哀れな存在なのです。
筆者が彼の代わりに弁解してあげるとするのなら、彼はひとつも浮つ
いた気持ちなどなく、むしろ、少しぐらい浮ついた気持ちがあっても良い
36
ぐらいのものでした。それだけ、彼には幾つかの、重要な覚悟というもの
が存在していたのです。
北京行きCA106便、中央列の左通路側、10D、それが青年の席でした。
左隣の2人は若い、むしろ幼い感じのする女性2人組でした。大学生の卒業
旅行といったところです。その反対側、通路を挟んで右にいるのは、眼鏡
を掛けた細身の中年男性でした。こちらはビジネストリップの雰囲気があ
ります。
騒々しい会話、ばたばたと上部収納スペースに荷物を入れる音。それ
からしばらくして、機内アナウンスが流れ出しました。
<本機体は午後1時に離陸し、到着予定時刻は現地時間の午後3時5分、
日本時間の午後4時5分を予定しております。約3時間のフライトを皆様が
快適に過ごせるよう、わたくしどもは最善を尽くします。>ーー
37
チ ャプタ 5
しっぽの生えた悪魔
「ムイシュキン青年:あくま!」
北京のホテルの一室で、そんな叫び声がこだましました。こうした発
言を、冗談や言葉のあやではなく、至極本気の体でその言葉を吐き出すよ
うになったのなら、読者諸賢はその人物と少しばかり距離を取った方が良
さそうです。
「ムイシュキン青年:この悪魔め、こっちへ来るな!」
これに至ってはかなりの重症です。熱烈な狂信者か、熱烈なヘビメタ野
郎か、あるいはただの狂人か、そのどれかであるかは別にしておきまし
て、やはり教養ある人たちは、この会話者から少し身を引かねばならない
でしょう。しかしありがたい事に、読者諸賢とムイシュキン青年との間に
は時空間的な距離があるからして、しばらく様子を観察していても害はな
いように思われます。
「悪魔:なに、驚かれるのも当然で御座いますな。」
悪魔は肩をすくめました。
38
「悪魔:とは言え、ムイシュキン殿、私はあなたの近くに寄ります
ぞ。少しでもお話をさせて頂かなければ、私の登場の意味がないと思われ
ますからな。」
「ムイシュキン青年:天に召します我らが父よ、願わくば皆を崇めさ
せたまえ御国を来たらせたまえ御心の天になるが如く......」
ムイシュキン青年は急いで主の祈りを唱え始めました。彼は真っ青な
顔に油の乗った汗を滲ませ、がたがたと全身を震わせました。が、相手は
のんびりとソファの上に腰を掛けると、その優雅なヒゲの下にある口にぱ
くりとパイプを加えて、それをプカプカやり始めました。
「悪魔:『S・W・インマン』と言うのが私の名前で御座います。そし
てもちろん、あなた様がお察しの通り、悪魔と呼ばれる事が通例となって
おります。もっとも、ある者はまったく逆の事をおっしゃりますよ。救世
主よ!だなんて。実際、俺はどちらなので御座いましょうな。」
「ムイシュキン青年:......!」
青年は絶句して、シーツをすっぽりと頭まで被ってしまいました。
その男ーー悪魔S・W・インマンは、急に彼の部屋に現れたのです。山
高帽を被った、この紳士然とした物体は、本物の紳士ではない事の証拠
に、尻のあたりから絵に描いたような尻尾を生やしていました。その先端
は尖っていて、ちょうどクローバーと肴のカレイを合わせたような形をし
ています。まぁいわゆる、誰が見ても悪魔だと言うような、恐ろしい尻尾
を生やしているのです。
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ところでついでに言っておきますと、悪魔S・W・インマンはバイオリ
ン持参で現れて、その音色だけを聞くのならなかなか美しいものであった
のですが、そのくせ恐怖に満ちた、ぞっとするような音楽を奏でていまし
た。聴いているだけで耳に穴が開きそうだとか、嘔吐をしそうだとか、そ
ういう音で想像し得る限りのものをまとめて、さらにそれを倍掛けしたも
のが、ちょうどこの時、ムイシュキン青年が耳にしていた音楽に近づくと
いった感じです。
(ムイシュキン青年:早速、2日目から、もう旅の疲れが出てしまった
のか!なんて軟弱な野郎なんだ、僕ってやつは!)
ムイシュキン青年はがたがたと震えながら、思ってもみなかった、自
らの特別な才能に我ながら驚きました。幻覚を見るとは、生まれてこの
方、一度もなかった現象です。
それにしても、彼は不思議に思いました。「旅の疲れ」といったっ
て、彼はまだほとんど何も疲れていないばかりか、この青年はいっそ、こ
の経由地である中国の北京を満喫していたのです。
ムイシュキン青年の乗ったCA106便は、ほぼ時間通り、現地時間の午
後3時5分に到着しました。そして手続きを経た後、到着ロビーへ出たのが
午後4時ちょっと過ぎ。彼が乗るローマ行きの便は、明日の午後2時。とい
うわけで彼は早速、寝られるような場所を捜すのも兼ねて、北京空港の
方々を散策する事にした。重い荷物を背負い、この青年は、えっちらおっ
ちらと歩き始めました。
北京空港は、ひと口に言って、かなり安穏としていました。この印象
に、彼はすっかり驚かされたぐらいです。近代的で綺麗な造り、吹き抜け
40
になっている細長い廊下に、肩を張らない庶民的な店がずらりと並んでい
ます。そのほとんどが食堂になっていて、「24小時(24時間営業)」と書
かれた休憩室もあります。従業員たちの「你好(こんにちわ)」「歓迎光
臨(いらっしゃいませ)」は義務感が優先され、実にぶっきら棒ではあり
ますが、ムイシュキン青年にとっては、それがかえって、不自然な笑顔や
システムが蔓延している祖国の島国よりも、ずっと親しみのある印象を覚
えました。
外に出てみると、乾燥した砂っぽい風が、さっと彼の体をなでまし
た。そうして、外に出たり、中に入ったり。彼はこの空港の敷地内を端か
ら端まで歩き通し、とうとう背中にある27キロの荷物にうんざりして来た
頃、ようやく地下2階にある大衆食堂に身を落ち着かせました。
木目調のプラスティックテーブルがずらりと並ぶこの大きなレストラン
は、横一面に小さな屋台風のレストランが軒を連ねています。客はデポジ
ットカードを購入し、このカードを使って、それぞれの屋台から自由に料
理を購入しているようです。
ムイシュキン青年は見よう見まねでカードを買い、「大上海」という
看板が掲げられた豚肉の料理店に向かいました。彼は28元の酢豚らしき定
食物を注文しました。もっとも、この時の彼は不慣れな旅行者の誰もがそ
うするように、メニュー表を指差して、臆病そうに「This one(これ)」
と呟いただけでした。
料理は「香茄
老人肉蓋飯」という名前でした。片栗粉の優しいとろ
み、赤ピーマン、タマネギ、ニンジン、パイナップルたちが引き出す独特
の甘みと、後に残るぴりりとした辛味。目玉焼きにタマゴのスープ。既成
41
の味ではありますが美味しいものです。で、腹の減っていたムイシュキン
青年は、続けて「排骨米緎」という名の麺類も注文しました。これはカル
ビ肉の入った細麺で、黄色掛かった透明に近いスープ、そして薄味のもの
です。赤ピーマン、細ネギ、ニンジン、タマネギ、ほうれん草。どれもス
ープの邪魔をしない、調和の取れた味であると、彼は感じました。
午後9時頃になって、ムイシュキン青年は再び荷物を背負い、空港内の
放浪を始めました。この時、彼はどこか静かな場所で仮眠を取ろうとして
いました。が、彼は店を出てしばらく歩いた先の廊下で、若い中国人の兄
ちゃんに呼び止められて、そこでお互いの片言英語を交差させた後、いつ
の間にやら商談を成立させる事になりました。で、結局、彼は北京空港か
ら少し離れた場所にあるホテルに泊まることになりました。
彼らの用意していた薄汚いバンに乗った時、ムイシュキン青年は本当
に面白がったものでした。彼らは青年が思わず笑ってしまう程にあっけら
かんとしていて、客の事なんぞ少しも気に掛けず、大声で何かを話し合っ
ては、ぎゃあぎゃあと笑い合っているのです。
中国という大地に初めて足を踏み入れた生粋の島国人にはよくある事
ですが、ここでは島国でしこたま魂に叩き込まれた「他人に迷惑をかけて
はなりませんよ」という足枷から解放されたような気がして、とても愉快
な心持ちがするものです。中国の人々や文化には、成熟した島国には見ら
れない大雑把な雰囲気、開放的な希望というものが、どこかしこに存在し
ています。が、そういった感動も長く続く事はなく、住めば住むほど、う
んざりするような文化の違いーーすなわち、彼らの自分勝手な発想や秩序
のない体制を目の当たりにする事になるのです。しかし、それを逆手に取
42
れば、中国という大地には、尊敬するべき点のみならず、反面教師の意味
でも大きな財産を持ち合わせているような場所なのです。
とにかく、これで話を戻しましょう。ムイシュキン青年が熱いシャワ
ーと白いシーツを堪能した後、午後10時過ぎ、「この旅の最後の文明生
活」と位置付ける温かさを満喫して寝ようとした瞬間に、例の悪魔に遭遇
しました。少なくともその時まで、ムイシュキン青年は、ゴミゴミした一
角にある小さなホテルの、白く安っぽいモルタルの壁で囲まれた2016号室
を楽しんでいたのです。
(ムイシュキン青年:冷静になれ。論理的に考えろ。つまり、こうい
う非論理的な事が起こるという事は、僕が感じているこの世界は非論理的
な世界であって、いつもの論理的な世界ではないという事で、つまり論理
的な世界から隔離された非論理的な空間に落ち着いているのであって、そ
の事に気が付いていない程、非論理的な法則性の中に埋没しているのであ
って、要するに、夢か何かだという事なんだ。)
そんな事を考えていると、もうバイオリンの音楽も、声も聞こえて来
なくなりました。ムイシュキン青年は安
しました。彼はシーツからそっ
と顔を出して、絶叫しました。いつの間にやら、彼の隣のベットに腰掛け
ていた悪魔S・W・インマンが、鼻の辺りを撫でながら、にやりと口元を
緩めたのです。
「悪魔S・W・インマン:つまり、悪魔S・W・インマンの仕事は、人
を信じないという事っすな。」
悪魔S・W・インマンが、まるで何事も無かったかのように、会話を続
けます。
43
「悪魔S・W・インマン:あんたは、自分を信じない。悪魔S・W・イ
ンマンは、人を信じない。つまり、俺たちは似た者同士という事が言える
わけっすな。」
ムイシュキン青年は何を言って良いのか分かりませんでした。しか
し、この青年は得意の表情を浮かべました......つまり、差しさわりの無
い、愛想笑いを浮かべたのです。
「悪魔S・W・インマン:それそれ。それがあんまり上手くないっす
な。つまり、人と付き合う上で、あんまりやっちゃいけねぇ事っすな。自
分の意見を腹に隠し、顔に仮面を貼り付けて、波風が立たないように人と
付き合うだなんて、人生の明るさというものを踏みにじる行為っす。そう
思わないっすか?」
「ムイシュキン青年:何だか、さっきとは感じが違うように思うけ
ど......」
ムイシュキン青年がかろうじて口にできたのは、そんな言葉でした。
彼の声は弱々しく、そして実に臆病でした。
「悪魔S・W・インマン:その話し方も良くないっすな。」
「ムイシュキン青年:......」
「悪魔S・W・インマン:もっとハキハキ、感情を込めて話をしないと
ダメっすな。目を反らすのもダメっすな。相手の表情や仕草を見るっす。
そうすると、印象が良いだけじゃなく、相手によっては自分も楽しくなっ
てくるんすな。ところで、この中国はどうっすか?この気がねの無さとき
たら、君って奴も、きっと気に入ったと思うっす。広大な大地、永遠の歴
44
史、素朴な民衆。そりゃ、中国人も色々っすけど、なかなか骨のある、優
しい奴らっすよ。ちょっと、今は金に目がくらんでおかしくなっちまって
るけど、根底にある素質は十分なんすからね。で、君って奴は、明日から
ローマに行くんすな。イタリア人はまた違うっすよ。君はどういう想像し
てるっすか?陽気で楽しい民族を想像してるっすか?想像するのは勝手っ
すけど、期待しちゃいけないっすよ。色眼鏡で他の民族を見ると、ロクな
ことにならないって事が常っすから。でも、それでも君が何か、イタリア
の国と国民に何かを期待しているんなら、面白い事を教えてあげましょ
う。あの人たちが好きなのは、自分が好きな事っすよ。つまり、あの人た
ちは自分が好きなんすよ。今のぼくたちとは逆ってことっすな。分かった
っすか?」
ムイシュキン青年は、もう話を聞くまいと心に決めました。彼はま
た、急いでシーツを被りました。悪魔はまだ何かぺちゃくちゃと、ニワト
リのように話を続けていたのですが、青年はもう耳を塞いで、しっかりと
目をつむりました。
そして幸いにも、彼は深い眠りに落ちたのです。
45
チ ャプタ 6
悠久の都を待ち焦がれ
3月16日、午後12時30分。ムイシュキン青年は北京の夜を終えて、ホテ
ル側が用意した薄汚れたワゴン車に乗り込み、一路、空港へと向かいまし
た。
午後1時30分、ローマ行きCA939便に搭乗。午後1時32分、窓側31Kの座
席へ。午後2時30分、離陸。午後3時30分、軽食。午後5時15分、映画を鑑
賞。午後7時30分、機内消灯。翌日深夜、マイナス6時間の時差、イタリア
時間、3月16日、午後5時03分、機内アナウンス開始......
<当機はあと25分程度でローマ、フィウミチーノ空港に着陸します。
>ーー
......
長い12時間のフライトに幕が降りようとしていました。この時、ムイ
シュキン青年は「人の大きさ」というテーマが頭に浮かびました。と言っ
ても、それは哲学的な命題に関する考察ではありません。彼は、同じ座席
の料金を支払っているにも関わらず、自分の占有する座席の体積が少ない
ように感じる、不条理なこの状態を考えていたのです。彼は窓際の席にい
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て、運の悪い事に、左の両隣にいたのは巨大な
のような外国人の老夫婦
だったのです。
ムイシュキン青年は巨大な
の圧迫感に負けまいと、閉じきっていた
航空機窓のしきりを押し上げました。すると、先ほどまで真っ暗だと思っ
ていたその世界は今や、美しい、オレンジ色の閃光を放っていました。ま
さにそれは「黄金の夕日」とでも呼べるもので、右翼にときどきは遮られ
ながらも、地上では見られないような穏やかな輝きが延々と機内の青年を
照らし続けるのでした。
イタリア時間、3月16日午後5時28分。機体が下降を始めます。重力と
浮遊感。翼の中央にある調整板が上昇し、右に旋回。西から南西へ針路を
変更。徐々に降下。中央にある調整板が元の位置に戻り、代わりに外側に
ある調整板が延長。夕日に照らされ、窓の霜がきらきらと解け始める。そ
して、翼の
間から、次第に見え始めるイタリアの大地。
そう、イタリアの大地。島国から3万キロを隔てた、ヨーロッパの半
島。斜めに伸びていた大地が、平行になり始めます。大地の高さが、青年
の目線に近づいて行きますーー......
......ーー
「悪魔S・W・インマン:それで、あんた、どうするってのよ?」
ムイシュキン青年ははっとして、そして次に愕然としました。隣にいた
はずの
のような老夫婦はどこかに行っていて、そこには、ぷっくりと膨
れた唇と頬を持つ、コケティッシュな金髪の女性が座っていたのです。彼
女は媚びるような甘い口調で、青年に話しかけていました。
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が、青年はその見知らぬ女性の真の姿を、すぐに悟りました。なぜな
ら、彼女の座席の下に例の「尻尾」が付いていたからです。
青年は沈黙しました。そして目をきょろきょろと、落ち着かなく動か
してから、にたりと愛想笑いを浮かべてみせました。
「悪魔S・W・インマン :何か言ったらどうなんだよ?そんな事だから
あなた、生きるのに困ってるんじゃないのかよ。言いたい事をちゃんと言
えない人って、何を考えているか分からないから、相手の気が詰まるだろ
うが。相手が言って欲しいと思うような事を言わなくちゃなんて、誰もお
願いしてねえよ。自分の話したい事、主張したい事、意見、感想、批評、
賛辞、時には悪口。こういうものを自分の言葉で伝える事が、人間として
生きる為に必要な、もっとも必要のある社会的技能なんだ。さ、何か言っ
てみな。」
「ムイシュキン青年:君は......昨日の悪魔か......?」
「悪魔S・W・インマン:昨日どころじゃないわ。ずっといたもの。」
ムイシュキン青年は愛想笑いを浮かべたまま、しかし悲しそうな目つ
きで、彼女をーー悪魔S・W・インマンを、インマンの尻尾を見つめた。
視線はそのまま漂って、彼女の豊かな胸元の方へと進んでいきました。
「悪魔S・W・インマン :気持ち悪いっつの。」
と、悪魔S・W・インマンが言うと、ムイシュキン青年が慌てて顔を上
げて弁解がましく言いました。
「ムイシュキン青年:いや、別にそういうつもりじゃなくって......」
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悪魔S・W・インマンが溜息をついて、冷たく彼を見つめます。
「悪魔S・W・インマン:あんたって、本当に絡みづらいったら、あり
ゃしない。胸が気になったって構わないわ。どうぞ、見てもらって結構。
あんたたちみたいな若い男には自然な事じゃん。そうじゃなくって、私が
言ってんのは、あんたが何を考えているのか分かんないってこと。」
「ムイシュキン青年:......」
ムイシュキン青年が言いたかったのは、下世話な心など一切なく、た
だ人と視線を合わせるのが苦痛であったから、なんとなく目を中途な場所
で落ち着けてしまったという事だったのですが、やはり彼は何も言えず、
愛想笑いを浮かべただけでした。
「悪魔S・W・インマン:それが良くねぇって言ってんだよ、小僧。」
そう言ったのは、悪魔S・W・インマンの隣にいる、悪魔S・W・イン
マンなのです。いつの間にかこの悪魔たちは、ダブルの存在で、青年に会
話を仕掛けて来たのです。
「悪魔S・W・インマン:愛想笑いに逃げるんじゃねぇ。人とは真面目
に接しろよ。つまり、自分に真面目になれってことだ。そうオレ様は言っ
ているんだぜ。ほら、言ってやりゃ良いじゃねぇか。こいつの乳なんざ、
さらさら興味ねぇってな。だいたい、こんな街中にゴロゴロいる女に対し
て、何をそうビビッちまってるんだ。どっかの偉い奴が昔、言ってたぜ。
『女は子供を産んで育てる道具に過ぎない』なんてな。イヴだってアダム
の骨から生まれたってんだしな。」
「悪魔S・W・インマン:馬鹿じゃないの、信じられねえ!」
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と、 悪魔S・W・インマン がいきりたって言いました。
「 悪魔S・W・インマン :今時、そんな女性
視につながるような
事、言う?じゃ、言わせてもらうけど、男性なんてどんなに偉ぶっても、
昔から今まで変わらず、下半身だけで物事を考える大馬鹿者に過ぎないん
だ!世界の9割以上の不幸や憎しみの原因は、あんたたち男性にあるんだ
からな。男さえいなければ、この世は何倍も平和な、穏やかな世界になる
に違いないって。なんなら、これからは女が男の全てを管理するような世
界にするべきじゃねえの?男なんて、管理されなければ何一つ、自分では
物事を順調に進められないんだから!」
「ムイシュキン青年:あの......」
ムイシュキン青年が口を挟もうとすると、隣の悪魔S・W・インマンが
指でおどかしにかかったので、彼はすっかり閉口してしまいました。
「悪魔S・W・インマン:女こそ、男がいなくっちゃ、何一つ決断でき
ない生き物じゃねぇか。」
「悪魔S・W・インマン:とんでもない。それどころか、男さえ威張り
腐らなかったら、女性はなんでも決断出来るんですからね。だいたい、1
人で気持ちよくなるだけで満足するような男なんて、人類が始まって以
来、穢れた存在でしかないのよ。」
「悪魔S・W・インマン:うっせぇな、このクソったれ!だいたい、お
前のような......」
「中国人:......チョット、ココ、OK?」
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ムイシュキン青年ははっとしました。出国審査の長蛇の列に並んでい
た彼は、裕福そうな中国人の中年女性から片言の英語を話し掛けられて、
愛想笑いを浮かべました。お団子のような中年女性は零れるような笑みを
浮かべながら、腰を低くして礼を言い、そそくさと青年の前に入り込みま
した。これは別に彼女が割り込んだわけではありません。青年が、なんだ
か呆然と仁王立ちしていたものですから、彼らの家族が両断されていたの
です。
中年女性の母親が嬉しそうに父親と息子の所へ合流すると、せいぜい8
歳といった息子が母親を見上げながら、『ケイサツ?』とつぶやきまし
た。察するところ、アニメ作品の『ケロロ軍曹』のキャラクターがプリン
トされたリュックを背負っているこの男の子は、ムイシュキン青年を「何
らかの公権力を持った人物」だと勘違いしたようです。実際、彼はその
時、恐ろしく鬼気迫るような顔つきをしていたのです。
そもそも、筆者は読者諸賢に向けて、ムイシュキン青年のイタリアへ
の旅に関する、彼の真意を伝えてはいないはずです。それはもちろん、彼
は旅によって自分自身を高めようと思ったのかもしれません。が、それに
ついて言えば、彼は「一度死ななければ」ならないのです。当然、何かを
殺されなければ、再生なんてありえない道理ではありませんか。
となりますと、彼がこの時に考えていたのはーーというより、それは
考えていたというより、それでも当然そうあるべきだと頭の隅のあたりが
勝手に囁いていたという具合だったでしょうがーー彼は、自分自身を破壊
しよう、それまで培ってきたが、それほど大切でもないという下らない悪
癖や性質をぶっ壊そう、と思っていたに違いありません。だからこそ、ム
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イシュキン青年は、非常に恐ろしい攻撃的な意志がにじみ出て、鬼のよう
な顔つきをしていたという事なのです。
それにしても、大変な混み具合でした。この天井の低い、せいぜいテ
ニスコート大の空間に
れかえる旅行客に反して、入国審査を行っている
レーンは4つしか存在しなかったのです。しかも、その1つはイタリア国民
専用のレーンなので、実質的に外国人客が通れるのは3レーンとなってい
ました。また、更に有難い事には、青年はその中でも最も仕事の遅い、マ
イペースな仕事人のレーンに並んでしまったようです。
が、ここで行う「ギャンブル」は危険です。「ギャンブル」というの
は、入出国の混雑した審査のゲートで、比較的スイスイ進んでいる列に並
び直すという行為の事を、筆者は言っています。もちろん、ムイシュキン
青年もその事を考えましたが、その為には5メートルも後ろに移動をしな
ければなりません。なるほど、確かにそうしてでも早く脱出できるかもし
れませんが、そんなギャンブラーの心理を
笑うかのように、審査官がぱ
っと入れ替わったり、並び直した途端に誰かがつっかえてしまう、なんて
憂き目を見ることだって有り得るのです。
(ムイシュキン青年:そりゃ、人間というものは、)
なんて、彼も考え始めました。
(ムイシュキン青年:どこかの列に並んで、自分の順番が来るまで待
たなけりゃならない事がある。だが、それは大変な苦痛だ。だから、外に
飛び出して、新しい列に並んだり、別の出口がないか見つけたりしてみる
もんさ。だけど結局は、どっしりと落ち着いて、最初から最後まで並び通
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していた人が、もっとも早く脱出に成功するなんて事が、しばしばある。
こういう時は動かない方が良いかもしれない。)
「悪魔S・W・インマン:本当にそう思っているのですかな?」
「ムイシュキン青年:また君か......」
「悪魔S・W・インマン:言っておきますぞ。あなた様はそこで、確か
に順番をお待ちです。それはゴールが明らかであるし、ルールもしっかり
しているし、ゴールをした人が何人もいて、その状況がよく分かっている
からこそ、待てるわけで御座いますな。ですが、ゴールがどこにあるか分
からない、ルールがあるかも分からない、ゴールをしたというのも極々少
数だとなれば、あなた様はそこでお待ちになる勇気がございますか?も
し、そのまま進まなければ、一生ゴールできない可能性もございます
よ?」
「ムイシュキン青年:......どっちだって......」
「悪魔S・W・インマン:なんですって?」
「ムイシュキン青年:どっちだって、同じ事さ......」
「悪魔S・W・インマン:では、何が違うので御座いますか?」
「ムイシュキン青年:早くゴール出来るかどうかなんて......そんな事を
気にしているようじゃ、一生、ゴールなんて見つからないんだからさ......
そもそも、人生にスタートなんて、ゴールなんて、どこにも存在しないん
だ......人間ってのは、円だよ......ただの円だ......違うのは、行列の中でいか
に早くゴールするのかではなくって、行列をどうやって並んでいたのか、
ということなのさ......」
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「悪魔S・W・インマン:ほう、スタートもゴールもなかったら、あな
た様にはこの世に何があると思っておられるのですか?」
「ムイシュキン青年:『足跡』。この世にあるのは『足跡』だ。」
......
「イタリア出国審査員:で、君は何をしに来たの?」
「ムイシュキン青年:足跡を残す為にさ......あ、観光!観光目的。」
「イタリア出国審査員:......はい、どうぞ。次!」
イタリア時間、3月16日午後6時30分。この後に青年が何度も体験する
ぶっきら棒な「放り投げ」ーーつまるところ、人の物を手裏剣のようにヒ
ョーイと投げるイタリア式の手渡し方でパスポートを受け取った彼は、入
国審査ゲートを通過し、ベルトコンベアから荷物を受け取ると、ガラスの
自動ドアを経て、一歩、外に出ました。
外気温、摂氏15度。快晴。無風。薄暗い空。空港の建物、タクシー、
皆が列車を使う為にまばらな人影。排気ガスと澄んだ大気が入り混じっ
た、島国よりも深みのあるような香りがします。それはおそらく石灰質の
大地や特有の植物が織りなす、ユーラシア大陸西部の匂いというやつなの
でしょう。
ムイシュキン青年は電車に乗るという当然の観光客としての選択肢を
取らないで、あくまで自分の足でローマの中心部まで
り着くというのを
目的に、しばらく歩き進めてみました。 しかし、前方の道は途切れてし
まって、後方にも道はありませんでした。そこで、左手にあった狭い鉄製
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の階段を降りて、駐車場の垣根をすり抜けると、ようやく人が歩けるよう
な土の小道がありました。
彼は心の中で、「本当に、もうここからは何もない。自分の歩くまま
に、道が作られる。」とつぶやくと共に、一瞬だけ、実にやりきれない不
安、恐怖の念が去来したように思いました。とは言え、その不安と恐怖は
すぐに覚悟の力に代わり、続けて彼の心を満たしたのは希望と歓喜でし
た。今の状況には何か、世界の新しい見方が出来るようになるだろう、世
界を新しい角度で見る事が出来るようになるだろう、偉大な経験値が存在
するように思われました。
ムイシュキン青年は心を弾ませました。彼は方位磁石を手に取って、
ローマ市街地のある、北東の方角へと歩き始めました。イタリアの大地
を、一歩、そしてまた一歩と、踏み締めたのです。
「悪魔S・W・インマン:しかし、あれっすな。こういうやり方って、
無駄っすよ。高速道の脇道を歩く為に、3万キロも飛んで来たんすか?い
やぁー、最初ぐらい、列車を使えば良いじゃありませんか。それぐらいの
金はあるでしょうに?」
「ムイシュキン青年:......」
「悪魔S・W・インマン:それにほら、今更、荷物のバランスが悪いだ
なんて気が付いても遅いっすよ。さっきから言っているっすが、なんでテ
ントや寝袋なんて、そんな物を持って歩かなくっちゃならないんすか?そ
んなぐらぐら揺らしながら。なんでっすか?意味不明っすよ。」
「ムイシュキン青年:なんで、なんでと言うな!」
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「悪魔S・W・インマン:ま、ムイシュキン君が満足しているのなら、
それでも良いんすけどね。でも、いずれ、ムイシュキン君の体験談をモチ
ーフに作品が出来るとしたら(しかし、そんな馬鹿みたいな旅物語を作品
にするだなんて、誰も思いつかないでしょうけどね!)、その点をもっと
説明しなきゃならないっすよ。」
「ムイシュキン青年:......」
「悪魔S・W・インマン:あ、もう何も言わない事にしたんすね?無視
するんすね!ははぁ、そうっすか、ムイシュキン君には、答えているよう
な余裕なんてないんすな。君の額に滲む汗、肩が痛いっていうような辛そ
うな顔。するってえと君って奴は、疲れて来ているんすな。なぁに、まー
だまだっすよ!ほら、左手をごらんあれ。まだ空港が見えるっすよ。とい
う訳で、まだあっしらは、空港の敷地内から出てすらいないんすな。ほ
ら、頑張って、頑張って!ハーレイ、ハーレイ!」
「ムイシュキン青年:......」
午後7時が過ぎていました。ムイシュキン青年は実際のところ、少しは
自分の計画性の無さに後悔していた。つまり、せめて道があるのかどうか
ぐらいは確かめて置くべきだった、と。彼が歩いている場所は、本当に道
というよりも、「溝」と言った方が、より正確に物事を定義出来ると思え
るぐらいでした。
イタリアの映画監督、フェリーニ監督(映画『82/1』『甘い生活』な
どで知られる、独自の映画芸術を築き上げたイタリア人映画監督)が、映
画『ローマ』で言っているように、このあたりは高速道路で窒息しそうで
した。青年はかろうじて通れる道を進み、駐車場に迷い込んだり、パトロ
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ール中のパトカーから逃げるように垣根をすり抜けたり、一面が芝生の広
大な空き地を突っ切ったりした後、やがて高速道路脇にある土の溝を進み
始めていました。
左手には、滑走路や高速道路のライトが燦燦と輝き、まるで昼間のよ
うに明るく照らされていました。この溝は高速道路から一段下がってお
り、ムイシュキン青年はちょうど、すっぽりこの溝にはまるような形で、
誰にも咎められずに歩き続けていました。もちろん、そもそもこんな場所
には誰もいないので、いっそ咎められたくとも、それは不可能な話なのだ
と言えるでしょう。
「悪魔S・W・インマン:退屈っすな。」
「ムイシュキン青年:......」
「悪魔S・W・インマン:あー、退屈っすなー。」
「ムイシュキン青年:......ちょっと黙っててくれるか。」
「悪魔S・W・インマン:お、やっと話してくれたっすね。それじゃ、
そうっすね、映画談話でもおっ始めるっすか?君って奴の映画好きは、も
う狂っているぐらいっすからね。」
「ムイシュキン青年:......」
「悪魔S・W・インマン:フェリーニ監督って、『映像の魔術師』と呼
ばれてるっすな。確かに、あれだけ大掛かりな、しかも凝りに凝ったセッ
トを造って、スタジオ撮影にこだわって、あれだけの真実味を出せる映像
を作るんすから、アナログ映画時代の最高の芸術家のひとりと断言して
も、申し分がないぐらいっすな。ムッチムッチした女性ばっかりが登場す
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る点においては、なんだかうんざりする所もあるっすけど、内容的には生
きる喜びだとか、生き抜く意志といった、明るいだけじゃない、真
なヒ
ューマニズムのようなメッセージが込められていて、好感が持てるっす
よ。けど、やっぱり、最新のデジタル技術による特殊映像の興奮という点
と比較すると、どうしても退屈に思ってしまう部分もあるっすよね。
Youtubeの動画で十分満足している気軽な世代が、何時間も椅子に座り込
んで、宇宙人も超能力も登場しない真剣な映像にじっと見入るだなんて、
なかなか根性のいる作業っすよ。そう考えると、もうフェリーニ監督のよ
うな芸術的な映像作品というのは、商業化された現代ではほとんど作る事
のできない一品という事になるっすよね。そういう意味では、黒澤明監督
のような完璧主義者の映像芸術家も同じっすね。あの人の映像ときたら、
天候から群衆はもちろんの事、主人公の感情やその場の雰囲気に至るま
で、あらゆるすべての計算がされ尽くされているっすからね。同じものを
作るにはあまりに多くの才能と根気がいるし、もしそれが可能であって
も、現代の群衆の特殊映像慣れした感性には合いませんよ。で、ムイシュ
キン君はどう考えるっすか?」
「ムイシュキン青年:......」
彼は口を開きかけたのですが、またそっぽを向いて、そのまま溝を突
き進みました。
「 悪魔S・W・インマン:でも、それだって、ハイブリッドの作品を作
れると思わないっすか?つまり、古典の美と現代の鮮やかさを兼ね備え
た、中間点の作品というものを?こちらの筆者は、そういうものを目指し
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ているんすよ。そうでしょ、ねえ?そういう大事業だって、不屈と不断の
信念さえあれば、可能だと思わないっすか?」
「ムイシュキン青年:......」
「悪魔S・W・インマン:なんだ、結局、だんまりっすか。あーあ、退
屈っすなー。」
そうして歩く事、1時間30分。何とこれだけの時間を要して、ようやく
ムイシュキン青年は、左手に見えていた空港を背にすることができまし
た。滑走路の明るさがなくなって、歩いている溝は、ぼやけたような明る
さとなりました。
そして、溝は、いつしか途切れてしまいました。直後、彼の前に現れ
たのは、横に走る高速道路となっていました。これは1車線で、せいぜい5
メートルほどの幅といったところです。ここを渡らないと、向こう側に伸
びている道へ進めそうにありません。
「悪魔S・W・インマン:これ、渡るんすか?」
「ムイシュキン青年:渡るさ......」
「悪魔S・W・インマン:法律違反では?」
「ムイシュキン青年:その法律が今の僕を守ってくれるとは思わない
から、僕も守らないのさ.......」
「悪魔S・W・インマン:そんなチンケな詐欺師みたいな言い訳をした
って、ダメなものはダメっすよ。それが社会ってもんじゃありませんか。
白であろうと黒であろうと、ルールはルールっすよ。」
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「ムイシュキン青年:全ての事はルールによって成立しているけど、ル
ールは全ての事を制限しているわけじゃないよ......」
「悪魔S・W・インマン:別の道もあるんじゃないっすか?」
「ムイシュキン青年:......残念だけど、いつも道があるとは限らない。
ここを通らなくっちゃならない時ってのが、人生には訪れるものさ......」
実際、ムイシュキン青年は途方に暮れたような顔付きで、後ろを振り
返りました。道(というよりも、あくまで溝ですが)は、ここまで1本だ
ったのです。両脇が高速道路で囲まれているがゆえに、他に道は見つかり
ませんでした。また空港まで1時間30分を掛けて戻るには、彼はもう疲れ
過ぎていました。
「ムイシュキン青年:やっぱり、渡る事にする......」
「悪魔S・W・インマン:え、本当に渡るんすか。」
ムイシュキン青年は悪魔S・W・インマンの皮肉っぽい口調を無視し
て、車が来ないのを確認した後、急いでこの高速道路を横切りました。そ
のすぐ後で、高級車がものすごい勢いで道路を走り去って行きました。ム
イシュキン青年はぞっとして振り返りながら、首を弱々しく降って、また
溝のような場所を進みました。
ただ、ここの道は先ほどとは少し違っていました。ありがたい事に、
この溝を500メートルほど進んだ所で、うまい具合に、まともな舗装され
た道が現れたのです。そこには左手に、大きな工場のような建物がありま
した。
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工場の側面は綺麗な針葉樹林が立並び、その外側には立派なフェンス
が設けられています。ムイシュキン青年は先程まで高速道路の風景に寂し
さを覚えていたので、少なからず、人間の気配を察して嬉しくなりまし
た。とは言え、そう考える事が出来たのも、ほんの十数分といった具合
で、舗装された道はまたもぶっつりと途切れてしまいました。工場側と、
自分の歩いている道の中央で、大規模な水路の工事か何かをしているの
か、4メートルは掘り下げられたであろう巨大な穴が開いていたのです。
その穴の中には、直径2メートルはあろうかという灰色のパイプ管がずい
っと伸びています。
結局のところ、これらの風景は先程よりもずっと荒涼とした印象でし
た。青年は穴を回避するように、なんとか横にある溝を伝って、溜息をつ
きながら、そのまま歩き続けました。
と、それからまた30分程歩くと、彼の歩いていた道は両側をコンクリ
ートで囲まれている、小さな水路となりました。と言っても、水はもう随
分前から通っていないらしく、このコンクリートは乾ききっていました。
そして、この水路の左側には、延々と続く雑草地帯ーー腰の高さほどもあ
る、稲のような草がぼうぼうと生え
う地帯が広がっていました。またこ
の草は相当に生命力が強いのか、右の壁の
間からもぼうぼうと生え茂っ
ていました。
で、ムイシュキン青年は愕然として、思わず立ち止まりました。それは
想像を絶する光景であったのです......
「悪魔S・W・インマン:ありゃりゃ。こりゃ、あんまりっすね。」
と、悪魔S・W・インマンが口にします。
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「悪魔S・W・インマン:言うなれば、『エスカルゴ地獄』ってところ
っすかね。これは恐ろしい水路っすよ。」
最初、ムイシュキン青年は、このぎらぎらと輝く「実」は何だろう、
と呑気に考えたものでした。草の実が雫で輝いているのだろうか、だとし
たらなかなか優美なものだ、などとも考えてみました。が、それは『草の
実』ではなかったのです。この背の高い草にびっしり張り付いていたも
の、というよりも、張り付いていた生物、それは「カタツムリ」でした。
そもそも虫という奴は、単体で動く限り、これがなかなか可愛いもの
なのです。人類の大敵であるゴキブリにせよ、先入観さえなければ、ああ
みえて可愛らしい仕草をしているような気がしないでもありません。ヒョ
イと顔を出し、じっと立ち止まっておずおずと辺りを見回してから、また
ヒョイと隠れるその仕草は、そんなに毛嫌いするようなものでもない、と
いう人もいるでしょう。
ところが、これはあくまで、「1匹ならば」の話です。虫という奴は、
増えれば増えるほど、こちらをぞっとさせてくれるものです。アマゾンで
はあれだけちっぽけな蟻であっても、密集すれば人間を殺す事さえ可能で
す。当然、カタツムリだって、これだけ集まれば、それはまるで地獄のよ
うな陰惨な光景になるものです。
このおぞましい道は、それから1時間も続いたのでした。
月の夜に怪しく輝く粘液よ
まかり通らん坊主の紳士
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「悪魔S・W・インマン:こういう詩を思いつきましたが、いかがで御
座いましょう?なかなか幻想的では御座いませんか?」
「ムイシュキン青年:黙れ!ちっくしょう!」
ムイシュキン青年は、ぞっとする気持ちを抑えながら、命からがら地
獄から脱出しました。そして、彼は水路を出てから、もうしばらく溝のよ
うな一本道を進んだのですが、とうとうそこで力尽きてしまいました。
この時、ムイシュキン青年は、ちょうど高速道路の車線が三角形に交
差している、中洲のような場所にいました。右手にあるのは自動車ブラン
ド「OPEL」の電光看板で、数キロ先には大きなホテルらしき建物があり
ました。そのほか、無秩序に地中から生えている建物がいくつかあるとい
う以外には、これといった華やかな景色はなく、延々と空き地らしきもの
が続いています。左手は高速道路に遮られて何も見えませんが、そこから
少し後ろに目を転じてみると、フィウミチーノ空港の滑走路がぼうっと、
闇の中に小さく浮かびあがっていました。
ムイシュキン青年がここから更に先へ進むには、また高速道路を横断
しなければならなりませんでした。しかし、それはかなり難しい所作のよ
うに思われました。第一に、右手にある2本の道路は独立した高架線で、
渡った先には道がないように思われるのです。第二に、左手にある大きく
カーブした道路は途中で一般道に接していますが、その接している場所ま
で十数メートルもある上に、その境には大きな柵が設けられているのが確
認できます。第三に、この左手の高速道路はひっきりなしに車が通過して
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いて、もしこの車に体当たりでもされれば、宇宙の彼方まで吹っ飛びそう
なものでした。
という訳で、青年はしばらく思案した後、車の往来が静まる時間ま
で、ここで仮眠を取る事にしました。彼は上手く潅木の隅に身を寄せ、こ
こに記念すべきテントの第一号を張る事にしたのです。
テントは小型とは言え、なかなか頑丈なものでした。収納時は小さな
枕ほどの大きさで、中に折りたたみ式のポール2本、内側のテントシー
ト、外側に被せるもう1枚のテントシートが入っています。これを組み立
てると、底面が長方形の四角錐になるわけです。それは2名の大人が隣り
合わせに寝そべる事が出来るぐらいの規模となります。そして、さりげな
い工夫ではありますが、テント内部の天井にはランタンを掛けるフックが
付いていて、側面には小物を入れるのに便利な網状の小さなネットが張ら
れています。
ムイシュキン青年はこれをてきぱきと組み立てて、15分後には靴を脱
ぎ、テント内で寝袋に包まり寝そべって、LED式のランタンの揺れる光を
ぼんやりと見つめていました。彼は大きな息を吸い、そして、その全てを
吐き出しました。
「最高だ」というのが、彼の一言目でした。読者諸賢には、こんな彼
の西洋旅のどこが最高なのか、と疑問に思うのでしょうが、その言葉通
り、彼自身は本当に、この空間が最高に心地良いものに思われたのです。
今まで自分を縛っている、目には見えないあらゆる束縛から解放された喜
び、それが彼の中にある魂を癒しているように思われました。
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そして、実際面でも、彼は体力的な癒しを覚えていました。誰しもがこ
ういう経験を持っていると思いますが、疲れ果てて限界だと思われた瞬間
から、また更に疲れ果て、いよいよ体が言う事を聞かなくなってから、遂
に体を休めるような場合、それがいかなるなる場所であろうとも、大変な
安
感、満足感を覚えるものなのです。足の痛みも肩の重さも、いまや、
かえって、それらが血流の温かさに代わり、彼にじわじわとした充足感を
与えるのでした。そして1分もしないうちに、彼は眠りの世界へ落ち込ん
でいきました......
......と、目覚まし時計の電子音が鳴り、彼は目を覚ましました。彼はつ
いさっき寝たばかりのような気がしたけれど、驚いた事に、時間は4時間
近くも経過していました。午前2時30分、青年は寝袋から
い上がって、
顔をさすりました。体の調子はすっかり元に戻っていたばかりか、いっそ
ますます力がみなぎるようでした。
彼はテントを出て、辺りの様子をうかがいました。車はもうほとんど
通っていませんでした。不気味なほど静まり返り、虫の音ひとつ聞こえて
は来ません。
ムイシュキン青年は手際よく荷物をまとめ、左側の高速道を縦断し始
めました。と、車が遠くから来る気配があって、実際に姿を現しました。
彼は急いで道路の柵を乗り越え、脇にあった砂利の空間に身を潜めまし
た。車は無事に通過しました。
そのまま中洲のような溝を進むと、小さな砂利の安全地帯が開けまし
た。その前には、どんと大きな柵が設けられていました。これは赤色のプ
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ラスティックで出来た、とても柔らかい代物で、壁というよりもネットと
いった具合でした。
彼は荷物を向こう側へ放り投げた後、ネットの支柱に足をかけて、何
とかこれをよじ登りました。そこは高く長い歩道橋となっていました。彼
はその歩道橋を左に進み、階段を駆け下りて、下の道に降りました。する
と、ここでようやく、彼は「一般道」と呼べるべき場所に足を踏み入れる
ことができました。
瞬間、ムイシュキン青年は目を見張りました!それは何気ない看板な
のですが、彼がまさに求めていた、素晴らしい単語が書かれていたので
す!左に向いた白い矢印と、その下に書かれた「ROMA」の文字!そ
う、この道は、ローマに通じていたのです!
彼は1本の道を歩き続けました。途中、2度ほど道が分かれるタイミン
グがあったものの、それ以降は本当に1本の道となりました。自動車工
場、線路、野原、建築中の工事現場、そしてまた工場......人の気配の全く
無い、荒涼とした景色が続きました。
午前3時。摂氏10度。街灯がぽつん、ぽつんと立並び、道がほんのりと
照らし出されています。しかし、夜空はつい先程から、重苦しい、黒い雲
に覆われていました。 道の脇の見慣れる樹木の中には、灰色の太い幹と
ぐねぐね捻じ曲がった枝を持つ、寸胴の松がありました。それはゴシッ
ク・ホラー映画に強いティム・バートン監督が好んで映像に使いそうな、
イタリア松なのです。霧までが出てきて、気持ちが沈むような光景が続き
ました。が、右の空を見上げると、その霧の中に、ぽっかりと白い月の影
が見えました。それは、ゆらりと揺れたようにも思いました。
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松と夜霧、白い月は、実に幻想的でした。実際、ムイシュキン青年は
この旅が、夢のように思われました。しかし足は痛いし、肩は嫌という程
凝っていて、歩けば歩く程汗が滲み、止まればヒヤリと寒気がしていまし
たから、いや、これは紛れも無く現実であったのです。
歩き、歩き、歩き......
時刻は午前4時を過ぎました。夜霧は晴れました。月の姿は再び雲の中
に消えていました。
思いがけず、ムイシュキン青年の努力が実って、小さな街に出くわしま
した。が、壁は落書きだらけで、道路はゴミだらけ、そしてここに建って
いるものと言えば、何だか古ぼけた民家やら、経営しているのかしていな
いのか分からない、小さなモーテルだけでした。こういうわけで、それは
彼の気持ちを晴らしてはくれませんでした。
街は、しんと静まり返って人気がありません。進むと、大きな十字路
が現れました。彼はこの分かれ道の中央で、方位磁石を確認しました。そ
して、北東を示す道を選びました。それは急な上り坂となっていて、大変
な苦労が必要でした。ムイシュキン青年は息をきらしながら、坂を進みま
した。
時刻は午前5時30分を過ぎました。上り坂と下り坂の応酬が続いていま
した。この山道(というより、丘の道でしょうか)には、ぽつん、ぽつん
と大豪邸が立ち並んでいました。どの門構えもかなり古さを感じるので、
先代からこの土地に住まっている古い人たちが住んでいるのでしょう。
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午後6時頃。 ムイシュキン青年は味気の無い、それほど広くもない、1
本のコンクリートの道を、相変わらず歩いていました。ここで、彼は犬の
洗礼を浴びました。それはある豪邸の前の道端だったのですが、大きな狩
猟犬が4匹、ついでに小さなヨークシャーテリア犬までが出てきて、歯を
むき出しにし、不信感を露わにして、ぎゃんぎゃんと吠えたくっているの
です。それらは野良犬ではなく、豪邸の番犬といった具合でした。ここは
裏口のようなのですが、門がとてつもなく大きく、柵の間から犬が簡単に
飛び出せるような構造になっていたのです。
ヨークシャテリアと大きな黒々としたハウンド犬4匹が、けたたましく
騒ぎ立て続けたので、ムイシュキン青年はすっかり立ちすくんでしまいま
した。動物の本能というものは、常に激しく動く者に対して攻撃を行うよ
うに出来ているものです。ですから、彼はしばらく落ち着いて立ち止まっ
てから、ゆっくりと歩き始めようと決心しました。
と、そこにいかにも可愛らしい、この家のお嬢さんらしき娘が登場し
ました。 彼女は西洋人らしい端正な顔付きをした、しかしまだ幼さの残
る娘で、ほっそりと、それなりに背が高く、綿の寝巻きを着たままでし
た。 ムイシュキン青年は困った顔をしました。犬の問題はもちろんの
事、この女の子に何を言うべきなのか、途方に暮れてしまったのです。
(ムイシュキン青年:どうしたものだろう!)
彼は心の中で呟きました。本当にその言葉通り、青年は彼女に何を話
し掛けるべきなのか、そもそも何か話し掛ける必要があるのか、よく分か
りませんでした。その最中も、犬は今にも噛み付かんばかりに、自分を吠
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え立てているので、ムイシュキン青年は猶予なく、なんだかうわずったよ
うな声でこう英語で切り出しました。
「ムイシュキン青年:ごめん、君さ。」
ムイシュキン青年はそう言いながら、娘の目から不審そうな目が消
え、どちらかと言うと好奇の光が輝いたように見えました。彼は意を決し
て、ここぞとばかりに、犬をどかしてほしいとお願いをしてみました。す
ると、彼女は何だか慌てたように、あなたは中国人なのかと質問をしまし
た。ムイシュキン青年は何と答えて良いか分からず、違うよと答えて、愛
想笑いを浮かべました。
ムイシュキン青年はそう言い終わってから、戸惑いました。相手が戸
惑っていたからです。彼は相手が誰であれ、自分の事を認めて貰えないの
は、何にも増して恐ろしい事に思われました。青年は焦り、さらに何かを
言わなければならないと感じた。瞬間、彼の心がひねり出したのは、自分
の目的地でした。彼は右手で、この味気のない、1本のコンクリートの道
の先をずいっと指し示しながら、言いました。
「ムイシュキン青年:ROMA?(ローマへ続く道?)」
娘さんの方は、その単語も、その仕草が意味する所も、完全に理解し
てくれたらしいと思われました。
「カロリーヌ嬢:Si,ROMA.(ええ、ローマに続く道よ。)」
青年はこの娘に片言のイタリア語で礼を述べると、ひらりと身を翻
し、そろそろと歩き出しました。犬は彼がいなくなってからも不信感いっ
ぱいに、何度か吠えてはいましたが、追いかける事はありませんでした。
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そして彼は、目の前に登場した傾斜の激しい下り坂を、一目散に駆け下り
て行きました。
3月17日午前7時。北東、60度の方角に、きらきらと輝いていたひとつ
の星が、次第にその輝きを失い始めました。その代わりに、空が真っ白に
輝き出しました。朝日はまだ見えません。が、新しい朝が、始まろうとし
ていたのです。
青年のいる場所は、この真夜中に歩き通した道の雰囲気とは大分違っ
て来ていました。そこは明らかに人の住む街で、高さが程よく統一され
た、西洋の建物が建ち並び始めました。特に、これらの建物の窓に、人の
温かさがあった事は、大変な発見のように思われました。観音開きの窓枠
にはだいたい小さなバルコニーのようなものがあって、その全てとは言い
ませんが、多くのこのバルコニーに綺麗な花が飾られていました。
大きなキャンプ地のような場所を過ぎると、この道はますます活気を
みせ始めました。「TABAKKI」という看板の掲げられた、キオスクのよ
うな小さな店舗が、ガソリンスタンド脇に姿を見せました。続けて、マン
ション、民家が次々に現れたかと思うと、とうとう、公共交通機関である
路線バスも登場しました。
その時、まったく怪しくはない雰囲気の、バスを待っていた若い男が
何か慌てた様子で「携帯電話を持ってないか?」と話しかけて来たので、
ムイシュキン青年は驚いてしまいました。賢い読者諸賢にはお分かりでし
ょうが、この手合い(観光客らしき男に、道案内や携帯の貸し借りなど、
急に何かを頼むという現地の人物)のほとんどは、吐き気がするほど馬鹿
げた詐欺師であるというのが通例です。ムイシュキン青年は、早くもこう
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いう都会的なアプローチをされた事が、なんだか新鮮だと思いました。な
にしろここまで、彼は人気のない溝ばかりを歩いて来たのですから。
「ムイシュキン青年:ノー......」
ムイシュキン青年は愛想笑いを浮かべて、首を横に振り、続けて歩き
ました。
午前8時30分になりました。それはもう早朝とは言わず、朝の日常的な
時間帯でした。 道路では犬を散歩させている人もいれば、通学、通勤の
人たちもちらちらと見かけるようになり、車の往来も次第に激しくなり始
めていましたが、あくまでそこは「西洋のちょっとした片田舎」といった
場所に過ぎないように思われました。彼のもとには、まだまだ
「ROMA」と呼ばれるような光景は現れていなかったのです。この時、彼
はまだ中心部から西寄りの場所を歩いていました。
午前9時。ムイシュキン青年は、体力の限界を感じ始めていました。も
う、7時間半も歩き通しなのです。彼は広大な公園を見つけて、そこに入
り込み、小高い丘に上ると、そこにあった草むらに腰を落ち着けました。
で、彼はうとうととし始めましたが、すぐに目を覚ましました。犬!本当
にこのイタリアの犬という奴が、どうしてもムイシュキン青年を嫌ってい
たのです。
筆者が、この犬たちの気持ちを通訳するとすれば、彼らは相手を怪し
んで吠えているわけではありません。彼らはご主人たちの気配を敏感に感
じ取っているのです。つまり、草むらでうとうとしている東洋人を見るや
否や、犬を散歩中のイタリア老人が、彼を怪しいと思ったので、この気配
を察知した彼の部下である犬が、急いで主人の気を揉ませている犯人を排
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除しに掛かったというわけなのです。「どうです、俺、仕事してるでし
ょ!ご主人様、褒めて、褒めて!」というのが、あの手の犬の心の声とい
うわけです。
ムイシュキン青年は、なんだか、急にむかむかと腹立たしくなって来
ました。
(ムイシュキン青年:僕が何か悪いことでもしたか、この馬鹿犬!そ
して、この傍若無人な犬に注意をしない、愚かな飼い主のじいさんめ!)
ムイシュキン青年はどうなっても良いというぐらい、あからさまな怒
りを全面に押し出しながら、一方で快活に「BUONGIORNO!(おはよ
う)」と、飼い主の老人に怒鳴ってやりました。で、その場から立ち去っ
た後になってみて、ムイシュキン青年は「へえ、自分にはそういう事も出
来るのか」と、我ながら感心をしました。というのは、彼は常に他人の目
を気にしていて、自分に自信がなく、あからさまに闘志をむき出しにする
ような事が今まで一度も無かったと言っても良いぐらいだったのです。何
か気に食わない事があっても、その原因は自分にあると考えていました。
が、彼はさきほど、明らかに腹を立てていて、攻撃的に打って出て、相手
を驚かせました。それが、単に疲れているからかどうかは分かりません
が、とにかく腹を立てて、その気持ちを率直、現実的行動へと移したので
す。
午後10時過ぎーー。「片田舎」は「街」と呼べるぐらいの賑やかさ、
統一感を持ち始めました。次第に、車や人びとの喧騒が増して来ていまし
た。が、相変わらず、青年は苦々しい思いをしていました。彼は正直な
所、このイタリア国民は根っから陽気な人間であり、何にも増して楽天家
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であり、変人だろうが何だろうが、気軽に声を掛けたり、冗談を飛ばして
くれるものと考えていたのですが、そこでは誰もが気難しそうな顔をし
て、犬を引き連れている場合は犬までもが眉に皺を寄せるようにしなが
ら、またもぎゃんぎゃんと吼えたてる始末なのです。
「悪魔S・W・インマン:だから、そんな事ありゃせんと、言っておっ
たがのう。」
青年がはっと顔を上げました。悪魔S・W・インマンがいつの間にか白
くなった髭を撫でながら、語っています。
「悪魔S・W・インマン:イタリア人は親愛なる国民じゃが、一方で警
戒心も強いのじゃ。自分に馴染みのない者には、拒絶をするのも当たり前
じゃ。誰も彼もが仲良し、だなんて、お前さんの考えているほど、この世
界は甘くはないぞい。」
「ムイシュキン青年:そりゃ、そうかもしれないけど、しかし、何も
あれほどムキになって排他的にならなくても......」
「悪魔S・W・インマン:お前さんのような、めでたい島国の頭では、
そういう事が疑問に思うじゃろうなあ。そりゃ、誰もがあんたみたいに、
自分以外の何でもかんでもを許しちゃれっというのなら、差別みたいなも
んも無くなるんじゃが、人間の多くは真逆じゃぞ。自分の事なら何でもか
んでも許す、他人の事は何が何でも許さない、これが世界の常識じゃ。そ
の間をかろうじて取り持っているのが、美しい徳だとか、温かな愛だとか
言われるものじゃが、それだって、首の皮一枚で繋がっているようなもん
じゃ。お前さんが期待をするような理想郷なんて、ありえんぞい。」
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「ムイシュキン青年:でも、仲良くして損をする事ってあるのか
い......」
「悪魔S・W・インマン:仲良くして得をする事があると思っとるの
か、お前さんは?人間の憎しみというのは、喜び以上に根深いもんじゃ
ぞ。何世代にも渡って、憎しみの種を植え付けられているような人間たち
が、いかに多いことか。それはな、お前さん、もちろん時間が経てば、そ
ういう気持ちだって薄らいでいくと思うじゃろう。じゃがな、逆に言え
ば、ほんの少しの手違いから、薄らいでいくような気持ちそのものが薄ら
いで行くのじゃ。人間というのは、自分たちを最適に保存しようというの
が、無意識の中の共通の考えとなっておるが、その『自分たち』の定義が
どんどん狭まっていく事によって、民族、人種、地域、宗教、貧富の差、
肩書き、権力、性別、趣味趣向、そういう方面による軋轢というものが広
がっていき、ついには憎しみと呼べるような感情が湧きあがって、いとも
簡単に平和というものを汚してしまうのじゃ。ここだって、そうだったじ
ゃろうが。ローマ帝国がどれほど他国に憎しみの種を蒔いて来たか。どう
して世界の覇者であったローマ帝国が潰れたのか。それはひとえに、バラ
ンスが崩れたからじゃ。憎しみの発生が喜びの再生力を上回ってしまった
結果じゃ。そこで、わしが考えるに、こういう失敗を繰り返さぬ為には、
喜びの再生力というものを補填するような価値観、都市、産業というもの
が必要になって来る。その具体的な方法というのは、すでに考えておると
ころじゃて。当然、お前さんはわしの考えというものを、耳にしてくれる
ものと思っておるので、このまま話すとするが、つまるところ、社会に必
要なのは法律ではなく、生命保存の原則なのじゃ。生命保存の原則という
のは、何もかも余計な現実的方面の説明を省いた、たった3文からなる、
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純粋なる生命理論なのじゃ。わしは、これをもう、この筆者の別の著書に
書いているのを目にしておるところじゃが......」
「ムイシュキン青年:そういう発言をし始めると、読者が欠伸をし始
めてしまうよ......だいたい、もうここでだって、飽きてきている所かもし
れないしね。これ以上、君がろうろうと演説を始めたら、もう僕は永遠に
ローマへはたどり着けなくなってしまうって。それより、僕、喉が渇い
た。お店に入らせてもらうよ......ほら、ちょうど今、店が開いたようだか
らね......!」
「悪魔S・W・インマン:ちょ、ちょいと待ちなされ!この悪魔S・
W・インマンの演説ほど大切なものはないのじゃぞ!」
ムイシュキン青年は悪魔S・W・インマンの話をすっかり無視して、
「SUPERMERCATO(スーパーマーケット)」の看板が掲げられた小狭
い店に足を踏み入れました。午前10時30分頃の事でした。
このスーパーマーケットは実に愉快だと、ムイシュキン青年は感じま
した。他国の食文化というのは興味深いものがありますが、まさにこのイ
タリア地元のスーパーでは、それが十分に表現されていました。特に目に
付くのが、パスタの種類の多さと、パン販売の充実ぶり。ワインやオリー
ブオイルを取り扱う棚も豪勢でした。色鮮やかなパッションフルーツも目
を惹くものがあり......ーー
「悪魔S・W・インマン:なぁに、負けないっすよ!いくら無視されて
も、話してやるんすから!」
「ムイシュキン青年:なんだ、まだいたの。ご自由にどうぞ......」
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「悪魔S・W・インマン:あ、なんすか、その態度!ちょっと、怒った
っすよ!表に出るっす!......あれ、もしかして、もしかして?あぁ、なる
ほど、分かったっすよ。そういうことっすか。」
悪魔S・W・インマンが少し気になる素振りを見せたので、ムイシュキ
ン青年が慌てて振り返りました。彼の顔に臆病な色が浮かんでいました。
「悪魔S・W・インマン:やっぱり、そうっすか。」
「ムイシュキン青年:何の事だい......」
しかし、そう言いながらも、ムイシュキン青年はますます顔色を変え
ました。
「悪魔S・W・インマン:ムイシュキン君、自分でも分かっているくせ
に。ここの店の人に、変な人だって思われたくないんでしょう。と言いま
しょうか、変な人だって怯えさせるのは可愛そうだ、と思っているんす
ね。自分に自信が無いんすよ、君は。ただ買い物するだけでも、店員や客
たちに、妙に気を遣っているんすな。なんすか、お笑いっすね!こんな、
君とはまるで関係のない国の、まるで関係のない人にも、きみは気を揉ん
どるんすからね!こりゃもう、きみ、かなりの重症っすね。なるほど、こ
うなると、再生するにも、時間が掛かるっすね!かなりの重症、かなりの
じゅう.......10......ーー10ユーロ札、使える?」
「店員のおばちゃん:あんた、細かいの無いの?」
(ムイシュキン青年:大きなお札を崩しておきたい......)
「店員のおばちゃん:ほら、あんたの財布の中に、そこあるじゃな
い。その5ユーロ札を使いなさいよ。」
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レジのおばちゃんは有無を言わさぬ調子で、むしろ親切心から、買い
物に慣れていないらしい東洋人の手から5ユーロ札を、ほとんど奪い取る
ようにひょいと取り上げました。ムイシュキン青年は何も言わず、寂しげ
な愛想笑いを浮かべました。
彼が購入したのは、島国よりも丸っこいデザインの、コカコーラ社
「アクエリアス」飲料水でした。0.95ユーロという価格です。で、次の瞬
間、彼は自分の目を疑いました。おばちゃんはアクエリアスのボトルを、
乱暴と思えるような勢いでレジの端にほいと投げたのです。ボトルはごろ
んと、レジ台の隅っこ(レジ台は少し横に長い形状で、出口に向かって斜
めに下がり、その先がちょうど塵取りのような空間になっている)にぶつ
かって止まりました。青年は何か、このおばちゃんを怒らせてしまったの
かと思ったのですが、少しもそんな雰囲気はありませんでした。要する
に、これがイタリア式の買い物であると、彼は納得しなければなりません
でした。
彼はお釣りを受け取ると、またも愛想笑いを浮かべ、「グラッチェ」
とお礼を言いました。おばちゃんは豪気に「PREGO!(はい、どう
も!)」と相
を打つと、もう早速、次の買い物客の商品をバーコードに
通しては、ぼんぼんとレジ台の縁にぶつけ始めました。
ムイシュキン青年はスーパーを出ると、その店の隣にあったマンショ
ンの塀の縁に少し腰掛けて、購入した水をぐいぐいと飲み始めました。渇
ききっていた青年の喉が、砂漠に雨が降ったとでも言うように、速やかに
吸収されていきました。飲料水が血液のように、体中へ駆け巡るような気
がしたものです。
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と、人の良さそうな老夫婦が青年の傍にすっと立ったので、彼ははっ
と顔を上げました。彼は本来の困惑した心情を覆い隠すように、また愛想
笑いを浮かべました。老夫婦は相変わらずにこにこしながら、一冊の、痩
せこけた子どもの写真が表紙になっている、中国語のタイトルが書かれた
薄い冊子を差し出しました。
「老婦人:私たちの教えの月刊誌です。無料でお配りしております。ど
うです?これを読めますか?」
それは純然たるイタリア語でしたが、ムイシュキン青年は何となく彼
らの言っている事を察して、首を振りました。
「老婦人:それでは、これはどうですか?」
お
さんの方が英語で書かれた冊子を差し出しながら、そう質問をし
ました。ムイシュキン青年は、もうこちらで良いだろうと思ってうなづ
き、英語の冊子を手に取りました。で、またもや、あの愛想笑いを浮かべ
ました。
老婦人は安心したように頭をゆっくりと揺らして、二人でほとんど一
緒に「CIAO(それでは御機嫌よう)」と言いながら、来た時と同じ、ゆ
ったりとした歩みでその場を立ち去っていきました。ムイシュキン青年
は、ぺらぺらと冊子をめくって内容を確認した後で、記念にこれをバック
の中へ放り込みました。
(ムイシュキン青年:エボバの証人か......あの人たちは熱心な布教活動
をしているからなぁ!こんな薄汚れた外国人に自分たちの冊子を配るだな
んて、たいした営業活動だと思うね。)
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ムイシュキン青年はそう感想を漏らすと、また立ち上がって、歩き始
めました。実はこの時、彼は次のような考えを頭に浮かべていました。も
しかしたら、もうとっくに「ROMA」を通り過ぎていて、別のルートを進
んでいるのかもしれない、と。
何しろ一向に、彼が知っているような「ROMA」がないものですか
ら、彼は諦めかけていたのです。この時はまだ、スティーヴ・ジョブスと
いう男がステージ上でスマートフォンなる発明品を大発表する前の段階で
すから、彼は自分が立っている位置をリアルタイムに知るだなんて芸当が
可能ではありませんでした。彼は方位磁石や看板を目にしながら、なんと
なく雰囲気の良さそうな道を選ぶしか方法がなかったのです。
が、彼はまだ知りませんでした。自分が着実に、ローマへ続く道を歩
んでいるのだという事を。
で、これから5分後、歩き続けたムイシュキン青年は、先ほどよりもず
っと大きな公園ーーと言うよりも、まるで1つの森のような場所に行き着
きました。もっと正確に言うのなら、人工的に美しく整えられた、馬鹿で
かい庭といった印象です。ムイシュキン青年は知りませんでしたが、これ
はローマ・ヴァチカン市国のサン・ピエトロ寺院から南西3キロ程の位置
にある、「パンフィリ公園」でした。
「悪魔S・W・インマン :あー、ちょいとお空から失礼するっすよ。ほ
ら、あれ見て欲しいっす。どこ見ているっすか。そりゃ、右の方に見えて
いる超絶美しい街並みも気になるっすけど、左の方を見てやって欲しいっ
す。あそこで、相変わらず犬に吼えられてる東洋人がいるっすね?あれ
が、我々の主人公っすよ。公園でうとうとした途端、また大きな犬に吼え
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られてるっす。大丈夫っすよ。今回は飼い主が犬を呼び戻してるっす。そ
れにしても、イタリア犬の世界では、どうやら厳守すべきこんな三原則が
あるみたいっすね。『俺たちは常に大きい』『常に東洋人を蹴散らせ』
『東洋人が逃げ出すまで吼えよ』って感じっす。まったく、前の戦争では
味方をしてやったってのに、恩知らずな奴らっすよね。え、なに、そんな
言い方は不謹慎だって?差別的だって?そんな事、別に良いじゃないっす
か。あんたたちは、考え過ぎなんすよ。神経質過ぎて、何も面白くない。
哲学者ニーチェは言ったっすよ。汚れた感情を乗り越えて、無邪気になれ
って。だって、もう十分に、あの戦争の事に悩んで、苦しんで来たじゃな
いっすか。過去を振り返るばかりが、人類の仕事じゃないっす。真っ向か
ら向き合ったら、今度は笑ってみるんす。まだまだ無理っすけどね、いず
れ、人類全体が手を結べる時が来るのを願っているんすよ。え、さっきと
言っている事が反対だって?ま、人ってのは矛盾した生き物っすからね。
ただでさえ矛盾しているのに、思考を中途半端にしか表現できないような
言葉という道具で、思考の交換会をしているんすから、そりゃ、こういう
ふうに混乱するってもんすよ。時にはまるで意味のない事を言うかもしれ
ませんや。いちいち考えちゃダメっすよ。で、そんなこんなで、時刻は午
前10時45分。ほら、我々のムイシュキン君が歩き始めたっすね。見るっ
す、木の根元に鍋を置いて行ったっすね!重かったんすね。あんなもの、
なんでバッグに入れていたのか、まったく血迷ってるっすよ。良いっす
か。無茶すれば良いという訳じゃないっす。あの人の行動は特別なんす。
良識ある人は、あんな無鉄砲な旅をしたらダメっす。それにしても、暖か
いっすね。この陽気ときたら!もしこんな日に、誰からも頼まれもしない
のに、その必要もまるでないのに、夜中からずっと27キロの荷物を背負っ
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て歩き続けている馬鹿みたいな旅人がいたとしたら、この陽気には耐えら
れないかもしれないっすよ。公園の穏やかな芝生の丘で、寝ちまうっての
は、当然の事っす。ほら、ちょっと歩いてから、寝ちまった!というわけ
で、2時間の休憩!ムイシュキン君は2時間、足止め!この悪魔S・W・イ
ンマンも、ちょっと昼寝をするっすよ!」
ところで人間の体にはまだまだ
が多く、これといった確固たる法則
性が発見されていない事に、我々はいささかうんざりするばかりです。ム
イシュキン青年はつい先程まで英気に満ちており、確かに重いとは言え、
リュックサックはあくまでリュックサックだったのです。ところが、2時
間の睡眠を経て、立ち上がった彼に襲いかかったのは、考えてもみなかっ
た、恐ろしい疲労感でした。突然、彼は全身という全身に重りが垂れ下が
ったような感じがしましたし、リュックサックは岩か何かのように、先程
よりもずっと重く、固くなってしまったように思えました。今や、彼は自
分が歩いている事が不思議でならないように感じました。むしろ、彼は止
まるだけの元気がなく、仕方なく歩き続けているような気がしたぐらいで
した。
それからも、歩き、歩き、歩きました。青年は途方も無いと思い始め
ました。いったい、どこまで歩けば納得出来るのか、それがさっぱりわか
らなくなりました。が、そのくせ、時計を見ると、歩き始めてから30分し
か経っていない事に、彼は愕然としました。
ムイシュキン青年はその時、マンションの建ち並ぶ一角にいました。
それは穏やかな陽気の下にある、穏やかな道で、昼下りの静かな一角でし
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た。しかし、彼にはその風景が代わり映えのしないもののように思えて、
いよいよ心身ともに疲れ果て、悲嘆し始めました。
そう、青年はそういう至って閉塞感のある状況の中で、その曲がり角
を曲がったのです。で、彼はそこを曲がった途端、呆気に取られ、腕を振
り下げ、ただ茫然と、唖然と、その先にある風景を眺めました。青年は一
瞬、そうやって金縛りにかかったように、痺れて動けなくなりました。
と、次の瞬間、彼は早足で歩き出しました。早足は、やがて疾駆と呼
べるぐらいの速さになりました。そして、彼はとうとう、その開けた丘に
り着いたのです!
ムイシュキン青年は見つけました!青い大気の中にたたずむ、豪壮な
円天井の建物を!
間無く敷き詰めた、技巧を凝らした街並みを!驚天動
地、狂喜乱舞、感動、感動!彼は見た、ようやく彼は見たのです!
急に足取りが軽くなった青年は、くねくねと曲がっている道路を駆け
下りるように進んでいきました。その街並みは、一瞬だけ、姿を隠しまし
た。そうして、彼は白けたような住宅街を抜けて行ったのですが、下まで
到着すると、一挙に道全体が花咲きました!
「ROMA」なのです!相変わらず、壁の落書き、ゴミは落ちているわ
けですが......それでも、ここは明らかに「ROMA」だったのです!青年は
ますます活気付いて、大きな道を進んできました......
ふと彼は、街角でローマの観光地がプリントされた絵ハガキが売られ
ている事に気がつきました。それはまるで、小さなクローゼットのような
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雑貨店でした。彼は喜び勇んで、この土産店に入り、5枚ほどの絵ハガキ
を購入しました。1枚1ユーロという値段です。
「悪魔S・W・インマン :ところで実はすでに、青年はこの場所を目に
した事が、あーる。映画の中で。」
と、悪魔S・W・インマン。
「悪魔S・W・インマン :マーシャル・コマンドーの達人、カンフー俳
優のブルース・リー主演のアクション映画『ドラゴンへの道』。あれはロ
ーマが舞台の物語で、あーる。香港からローマに出てきた田舎者の拳法家
リーが、居候する家に到着したシーン。それが、ここなので、あーる。こ
こなので、アールーー......Rってなんの意味だろう?」
「R」と地面に書かれた場所で、ムイシュキン青年は立ち止まりまし
た。 そこは、ガソリンスタンド脇にある縁石のような場所になっていま
した。この縁石がちょうど台として使えそうだと思った彼は、早速、ポス
トカードに手紙をしたためようと思いました。
と、ガソリンスタンドの店長らしいアラブ系の若い男性がのっそのっ
そと近寄って来ました。彼は明らかに不審そうな顔をして、「何している
んだ。」と声をかけたのですが、相手の東洋人が片言の英語で「手紙を書
いている」と言いながら、はにかんだ愛想笑いを漏らすのを見て、なんだ
か途端に優しい顔付きとなり、「OK、OK!」と返事をして去って行きま
した。
一方、ムイシュキン青年は、そのアラブ系の男が近づいて来た時、視
界の端にこの男を捉えて恐怖に近いものを覚えたものです。ところが、こ
83
んなにも簡単にお互いに理解をし合ったばかりか、男は優しい情を示して
さえくれたので、彼は少しばかり驚きました。不思議な話ですが、そこに
は自国の言葉で何行もの会話をする以上に、理解をし合えたような気がし
ました。「結局、言葉というものは道具に過ぎないんだな。」と、ムイシ
ュキン青年は心の中でつぶやきました。
ガソリンスタンドを過ぎますと、目の前に飛び込んで来たのは力強い
城壁でした。ローマの市街地は周囲5キロに渡って、未だにこの城壁が巡
らされているのです。ところが、この偉大な古代遺跡ときたら、落書きは
されているし、自転車は立てかけられているし、犬が平気で小便をする
し、とにかく現代イタリア人の生活の一部に過ぎないのだから、ムイシュ
キン青年は度肝を抜かされました。それは、よくぞこの時代まで生き残っ
たと、深い感慨を覚えざるを得ませんでした。
ムイシュキン青年はまた歩き出して、城壁の横にあった古めかしい階
段を駆け上り、また駆け下りました。彼はこの階段の上に、何か特別な遺
跡があるかと思ったのですが、それは何の変哲もないマンションへ通じて
いるだけでした。階段を降りると、彼は再び城壁の前で立ち止まりまし
た。彼は城壁を見上げ、手を添えてみました。2000年の歴史を見続けてき
た城壁が目の前の日常に溶け込んでいる風景というのは、実に不思議な心
持ちがしました。
と、彼はこの時、歴史的な感慨に耽るより、もっと実際の生理的欲求
を覚えました。ありがたい事には、彼の立っている城壁のすぐ先に、何や
ら洒落たステンレス型の公衆トイレがありました。
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公衆トイレの扉はスライド式で、0.5ユーロを投入すると開く仕組みに
なっているようでした。彼は1ユーロコインを投じました。ドアは勢い良
く開いて、そのまま勢い良く途中で止まりました。青年が開けようとして
も閉じようとしても、まるで言う事を聞く気がないらしいこのドアは、か
たくなに沈黙を続けました。彼は中途半端に開いたドアのまま、さっさと
用を足して外に出ました(こういう時、男性というのは便利なもので
す)。このドアは、これから修理人が来るまで末永く、東洋人の投じた1
ユーロを飲み込んだまま黙り続ける事になるのでしょう。
彼は歩き出しました......が、もう彼は迷わなかったのです。道は1本で
した。すぐ先には、あの建物の円天井ーーカトリック教の総本山、サン・
ピエトロ寺院の円天井が、はっきりと見えているのです。そのほか、何気
ない街角の建物も、何気ない石畳の道も、何もかもが、あるひとつの結論
を確実に主張していました。そこが、悠久の歴史の染み込んだ都市である
事を。そう、彼の道は、確かにそこへ続いていたのです。
「ROMA」に!
※英語表記「ROME」、イタリア語表記「ROMA」
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