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〔東京家政大学生活科学研究所研究報告 第 子供服洋装化の導入と改良服に求められた機能性との関係 36 集,p. 41 ∼ 47, 2013〕 子供服洋装化の導入と改良服に求められた機能性との関係 ―改良服について― 山 田 民 子 * 寺 田 恭 子 * 富澤亜里沙 * 澤 野 文 香 * Relation to Functionality Requested from Improvement Clothes and Introduction of Children’ s Wear Western Clothes Making ―A Study on Improvement Clothes― Tamiko YAMADA, Kyoko TERADA, Arisa TOMISAWA, and Ayaka SAWANO うである。 1. は じ め に 我が国における『着物』は、日本を象徴する代表的なも しかし、明治期、日本の近代化に伴い従来の着物よりも のの 1 つでありこの『着物』には、伝統的な技術が結集 活動的・機能的な衣服の必要性について多くの議論がなさ している。素材をはじめ、染め、織り、文様、絞り等に日 れ、時代の流れに対応した、新しい考案服を生み出そうと 本独特の繊細で高度な技術がある。またこれらの技術は、 した運動が生まれた。 その時代に合うように改良されてきた。 これが、明治期の衣服改良運動の始まりである。 『着物』の歴史は長く、古墳時代の埴輪・土偶からも着 この運動の推進者は、寺田勇吉、下田歌子、三島通良、 物の形状がみられる。しかし、現代の『着物』のほとんど 加藤錦子、山根正次、渡邉辰五郎らで、教育者、医者等の は江戸時代に生まれ、染織技術も深み・味わい・精緻さの 1) 知識人が主体になっていたと考えられている 。 衣服改良の必要性は、1. 衛生問題 2. 女性の運動・体 点では、比類ない発展をとげたとされる。 長い間『着物』には、身分の階級があったが、日常着と して用いられていた。しかし、現在では、日常的な衣服で 育の必要性 3. 経済性 4. 国際性 の 4 要素が挙げられ、 衣服改良の主な動機となっていた 1)。 改良服は、着物をもとにして、より活動的な「改良服」 はなくなってきている。理由として考えられることは、若 い人の体型が着物向きではなくなってきていること、ライ を考案する動きと、そのような段階を経ずに、機能性に優 フスタイルが変化してきていること、さらには、洋服が簡 れた洋服を取り入れる動きとがあった 6)。 単にいつでも手に入ること等が挙げられると考えるが、 フォーマルな場では、式服として、また日本の文化である 校祖・渡邉辰五郎は、明治 14 年に和洋裁縫伝習所を創 茶の湯等の場では、着用されることが多い。また、「アン 立したが、翌年の明治 15 年には、衣服改良に着手し、明 ティーク着物ブーム」の到来により若い人が「日常のお 治 19 年には、「衣服改良会」を組織したと郵便報知新聞 しゃれ着」として着用したり、夏のお祭りや、花火大会等 10 月 30 日号に報じられている 2)。 本学の博物館には、渡邉辰五郎によって考案された改良 のイベントには、浴衣を着用しているが特別な時に着るも 服の雛形がある。主なものを挙げてみる。 のに変化してしまっている。 『着物』は、保管するのに便利という利点はあるが、縫 うことも着用することも容易なことではなく、熟練や、工 夫が必要とされる。着装の仕方は、時代によって異なる が、平面的な構造の衣服を、複雑な曲面の体に巻いて固定 ①婦人改良服:和服の優美な美しさはそのままに、より 機能的に改良されたもの ②改良被布女物:和服の被布に比べ、身体にあった動き やすい作りになっている。 するという着装の仕方はいつの時代も同じである。現在の ③女股引、女猿又:改良服の下に身につけるもの。従来 和服は、晴れ着という観念もあって、美しく着るという着 の和装下着である「腰巻」は、保温性が低く裾が乱れ 装が成立している。 やすいという理由から、作成されたものである。 幕末から明治初期のころの女性の着物の着装の仕方は、 ④医師の改良服:袖口の紐をしめると、袖が邪魔になら 胸はくつろげて、おはしょりも緩やかに、肩は落とし気味 ないように工夫されている。明治 32 年ころ、弘田医 に袖で手を包むような着方が、着物らしい着方であったよ 学博士の依頼により、実物を製作した。 ⑤看護服:婦人改良服によく似た形状のものであるが、 明治 27 年日本赤十字社が制定した看護服は、洋服型 * 東京家政大学(Tokyo Kasei University) ̶ 41 ̶ 山田民子 寺田恭子 富澤亜里沙 澤野文香 で看護服の一般的なスタイルとなったため、看護服の 改良服は、洋服型が多い。 ⑥改良袴:体操や遠足のときに着用された。普段は、通 常の女袴と同じくスカート式だが、内側のボタンをか けると脚が左右に分かれ、さらに裾の紐を占めると、 丈の長いブルマのようになる。渡邉辰五郎の長男 茂 が明治 35 年留学中のニューヨークの学校で目にした 体操スカートに想いを得て帰国後作製したとされる。 そのほか、明治の後半に作製された、子供用の西洋前掛 写真 1 婦人改良服(2 部形式) けや、女児簡単服、子供用の運動シャツやズボン、男女の 海水浴着、紳士服では、礼服の燕尾服、フロックコート、 モーニングコート等があり、また、婦人服では、バッス ル・スタイルのドレスがある。早くから、洋服の仕立てに 通じていたことがわかる。また、改良服は洋服につながる という考えを持っていたと推測できる。 著者らは、渡邉辰五郎考案の雛形にある婦人改良服の復 元を行い、改良服の必要性や改良服に求められた機能性等 写真 2 医師の改良服 について研究を行うこととした。さらに子供服との関係に ついても研究を行う。 2. 明治期の衣服改良運動 衣服改良運動の推進者の 6 人・寺田勇吉、下田歌子、 三島通良、加藤錦子、山根正次、渡邉辰五郎について特徴 を述べる 1)。 写真 3 写真 4 1) 渡邉辰五郎の改良運動 渡邉辰五郎は、明治 15 年に「改良服を考案する会」を かかるので、帯をなくし袴の紐を腰で結ぶようにしてい 設立した。設立した目的は、いかにして着物を機能化させ る。帯をなくしたことにより簡単に着られ、圧迫感が軽減 るかという点にあり、実際に着用するための改良服考案に された。着物の裾は、狭くて動きにくく、乱れも気になる 終始した。西洋の服装を我が国の風俗に合わせ、その背景 ので足さばきが楽なプリーツの入った袴になっている。写 の中で機能性を考えながら、審美性を壊さないように衣服 真 2 の医師の改良服は、袖口の紐を締めると袖が邪魔に の改良を図った。さらに、適当な教師を選出し、この縫製 ならないように工夫されている。 技術を教授することを目的とした。明治 32 年頃には、弘 田医学博士から依頼された医師の改良服を考案し辰五郎が 2) 山根正次の改良運動 3) 山根正次も明治 20 年頃より衣服改良に取り組んだ。山 自ら実物を製作した。明治 36 年には、『婦人改良服裁縫 指南』を記し、改良服の裁ち縫いを詳細に教授している。 根は、医学者であり明治 20 年代より欧州を 2 回視察して さらに学校教育において、改良服の実物製作に取り組んで いる。明治 33 年欧州の万国体育会に出席した折に、欧州 いる。渡邉辰五郎考案の婦人改良服を写真 1 に医師の改 においてもコルセットの使用による弊害が、体育上の大問 良服を写真 2 に示す。すべて授業の中で学生が製作した 題となって、婦人の衣服改良が叫ばれていることをつぶさ 雛形である。 に見聞し、帰国後、年来の構想をまとめて改良服を試作し 写真 1 の婦人改良服の特徴は、腰丈の上衣にスカート た。試作したものは、家族に着用させたり自らも着用し、 状の袴で 2 部形式のものである。袖は、筒袖になってお さらには、友人たちにも進めて着用実験をしたところ、好 り襞を取りながら、袖口をつぼめリボンでまとめている。 結果を得たので自信を持って世に普及することを願った。 幅広の帯は、胸を圧迫し不健康なうえ、締めるのに時間が 写真 3、4 に示す。 ̶ 42 ̶ 子供服洋装化の導入と改良服に求められた機能性との関係 める衣服形態は、1. 運動のしやすいこと 2. 身体を束縛 しないこと 3. 誰にでも簡単に縫製することができるも の 4. 布地は、日本の織物でできること 5. お金が多く かからぬこと としている。しかし、山根の考案服は、形 態が図示されているものの縫製方法についてはふれていな い。これらは、縫製方法以上に、いかにして統一的な日本 独自の衣服形態を考案するかに力を注いだ結果であると考 図1 えられる。標本を示したものと考えられた。 女子改良服 山根の改良服に着物的構造が残る理由は、西洋服も日本 服もともに数千年の歴史があり、人の着物として用いられ てきたので人間の体の形に従って造られている。そのた め、全く異なった形のものを提案することはできないとい う考えで、着物を用いて改良している。 また洋服の仕立て方となると、面倒で誰にでもできるも のではないので仕立て方のわかっている着物を用いた方が 良いという考えもあった。生地については、日本の気候に 合ったものを用いるべきであり、洋服を着るとなると羅紗 図 2 男子改良服 とかセルとか外国から購入しなければならないので、自国 山根は、医学的な立場から、「女性の骨格を強壮ならし で調達できるものを用いるというものである。そして運動 むる上から衣服改良を唱えることは、家庭の責任」として がよくでき、着るにも、脱ぐにも自由で洗濯も容易にでき いる。和服の弊害として 1. 袖の長さ 2. 裾の重さ 3. 帯 る着物を用いた方が良いという考えであった。 の幅が広くて重たいこと 4. 細紐の多いこと 5. 履物の 改良服は、保守的な考えの大人の人たちは容易に受け入 重いこと 6. 髪飾りの重いこと 等を挙げ着用上の問題点 れることができないのでまずは、小児から始めるのが良い を指摘している。これらは、いずれも体の運動を妨げ、体 と考えていた。ここに子供服洋装化の導入が見られる。 の発育を障害するものであるとしている。また、「日本の 古来の衣服ではなく、徳川時代の半ばに作られた風俗で、 3) 寺田勇吉の改良運動 いわば遊び女の服装である」さらに、「亡国の基をなした 衣服である」というような極言まで飛び出している。 寺田勇吉の改良服への取り組みは、女子の健康を増進さ せるための方法としてあげている。婦人が自らの力により 図 1、図 2 は『改良服図説』(明治 35 年発刊)に掲載さ れた改良服である。 衣服改良を志している点が特徴である。特に女教師の積極 的参加を訴えている。 山根は、従来使用の和服・男女服には、有害なものがあ しかし、生活の仕方を根本的に改良しない限り、衣服の るとしている。体の運動を妨げるものの弊害は、学業まで 改良も難しいとしている。畳の生活を廃止し腰掛生活をす 影響すると考え、一刻も早く男女学生より始めることを進 ることができたら、洋服に近い女服を作ることができると めていた。 しているが、これを改めるのは無理とし、一種の外出着を 「生徒の発育を良くするためには、1 日も早く小学校に 作ったらよいのではないかと提案している。外出着に改良 改良服を断行しなければならないと思う。1 日遅れれば、 服を用い、着物は、家で着るという提案である。現状の生 1 日の損になる」というくらいに、改良服の導入を早急に 活の中で改良服がどのような場合に活用できるかという視 考えていた。これらの考案服はすべて製作し、家族に着用 点で考えていた。 させ、着装写真および着装手順等も掲載している。山根 は、早期に西欧文化に触れていたが、和服を土台とし和服 4) 三島通良の改良運動 の機能上不都合な点を排した衣服が改良服であるという考 三島通良は、学校衛生の第 1 人者として活躍していた えに立っていた。被服構成の特徴は、筒袖であり、上着の が、特に女子体育の振興に力を注いでいた。三島の女子体 丈、袴丈を短くした点が特徴だが、袴の裾揚げ、肩の揚げ 育に対する見解は、 「女子の健康は、国家の健康なり」 (婦 には、着物的構造が残る。袴の裾揚げ、肩の揚げについて 人衛生会雑誌・明治 24 年 10 月 9 日号)とした国家意識 の解説には、子供の成長に伴い少しずつ揚げをほどいて着 に基づくものであった。この論考の中で三島は、男子に比 用させることができると記されている。さらに、山根の求 べ、女子の死亡率が欧米諸国と比較して我が国は高いと指 ̶ 43 ̶ 山田民子 寺田恭子 富澤亜里沙 澤野文香 摘している。その原因として、衛生上の問題をあげ、改良 ように解釈し、取り入れていこうとしたのか葛藤が見られ 服の必要性を唱えた。改良案としては、「運動に先立ち軽 た。 い衣服とやわらかい帯をつけ、玉たすきをかけ裾を端おる」 というもので衛生に重点をおいた改良を目指していた。し 実際に改良服の考案を土台として洋装の普及に取り組む のは、大正時代に入ってからになる。 かし、究極の目的は、衣服改良を通して新しい時代に対応 すべき良妻賢母を生み出す点に力がそそがれていたと思わ 3. 渡辺辰五郎考案の婦人改良服の復元 4), 5), 6), 7) 重要有形民俗文化財「渡辺学園裁縫雛形コレクション・ れる。これは、国家富強の精神に基づくものである。 7) から、明治 38 年に製作された「1 下巻 個別資料篇」 ロ 63 改 良 服 女 物」「1 ハ 3 改 良 袴」の 雛 形(実 物 の 5) 下田歌子の改良運動 下田歌子も三島と同様、国家主義的な立場から改良服に 7/20)の復元を行った。改良服の上衣は袷仕立て、袴は前 取り組んでいた。自ら積極的に改良服を考案し制服として 後布ともに二枚接ぎで裾布付きである。明治 36 年の教科 実用化した点が特色である。しかし際立った考案服を求め 書「婦人改良服裁縫指南」二尺幅の項目を参考にした。 ていたのではなく広い帯をなくすこと、袴を着用するこ 1) 用布の地質 と、被布様のものを着用することというものであった。 用布はキャラコ、メリンス、紋毛繻子、カシメル、絹セ 6) 加藤錦子の改良運動 ル、アルパカ等を用いると記載されていたが、改良服の復 加藤錦子も積極的に衣服改良運動に加わったと思われる 元には、表地に木綿布 40 番を使用した。裏地、腰あて、 が、加藤が具体的に求めていた改良服については不明であ 布袋、袴止め紐、三つ衿芯、帯芯には新モスを帯芯の厚紙 る。 には帯芯地を使用した。 明治期の衣服改良運動の推進者は、医者、および当時海 2) 用布の復元 外へいち早く留学した学識者、女子教育者であり、これら 改良服復元に用いた布地の柄は、雛形に用いられていた の人々が中心となって進めていた改良運動であったが、理 布地の柄をスキャンし、柄の大きさと色を調整して木綿布 論が先行していた点が挙げられた。 40 番にプリントアウトしたものを使用した。 明治期の衣服改良運動に求められていた改良服は、「洋 装をそのまま取り入れることは、衛生上の問題がある」と 完成した渡辺辰五郎考案の婦人改良服の復元の写真を写 真 5–1∼5–11 に示す。 され検討されていた。特に明治 19 年から 21 年にかけて、 渡邉辰五郎の改良服は、着装写真からも着物の美しさを 洋装の是非が論考の中心になっており、鹿鳴館のバッスル 残して、機能性を追求したものであることがわかる。縫 スタイルの衣装のコルセットの害が挙げられていた。 製・着装の仕方からまとめてみる。 明治 21 年の後半から 35 年に至ると和洋折衷、または、 和服を基本として日本独自の改良服が求められた。 〈上衣〉丈は長着に比べて短く裾ふきがないので、仕立 てが簡単であり、着装時には動きやすい。両脇裾には、馬 渡邉辰五郎は、教育者であり、明治 30 年 3 月に「裁縫 乗りを明けて、幅に自由度を持たせている。筒袖は仕立て 教科書」を発刊した。明治 32 年までに発刊された教科書 が簡単で、着装時は動きやすい。上前と下前の付け紐で前 は 3 冊になるが、共通している点は、洋裁を理論的に紹介 の打ち合わせを抑えているので、着装が楽である。 したに過ぎず、実際の製作方法や、技術的内容には、ほと んど触れられていない。このことは、明治 32 年以前では、 学校教育において、洋裁の実技指導をする必要性はなかっ たといえる。また、婦人の洋服に対して排斥の姿勢が見ら れたことも、大きく影響を及ぼしていると考えられる。 明治 40 年になると洋裁に関する書物、特に子供服を中 心にしたものが出版された。婦人服よりも早く、子供服の 中には、改良服=洋装という考え方が生まれてきたのでは ないだろうかと推測できる。 衣服改良運動は、和服から洋服に移行する過渡期に行わ れたもので日本における洋装導入過程の通過点であったと 考えられる。日本人の伝統ある文化の中に、異文化をどの ̶ 44 ̶ 写真 5‒1 改良服 前 写真 5‒2 改良服 後 子供服洋装化の導入と改良服に求められた機能性との関係 〈袴〉前裾は切上げを付けているが、着装時は裾線が平 らになり美しく、歩きやすい。 袴の帯は幅広く、スカートのベルト付けと同様で仕立て が簡単である。後ろ腰に腰あてを付けて、扁平な腰を形よ く補正している。袴が固定されるように、帯の内側に留め 紐を付けている。表は付け紐で結び固定する。前右脇に 布袋を付けている。女袴と比較すると、笹襞がなく、前・ 写真 5‒4 (左)上衣 前 写真 5‒5 (右)上衣 後 後共 6 襞で仕立てやすい。脇縫いに対して、前後から襞 が突合せに仕立てられている。 〈筒 袖 襦 袢〉脇 縫 い は 袖 付 け か ら 下 を 体 に 沿 わ せ て、 写真 5‒3 改良服 右脇 繰っているため余分な皺ができず、すっきりと着装でき る。 4. 子供服 婦人の改良服と同時に子供の改良服を考案したのは、山 根正次と渡邉辰五郎だけである。 子供服に一刻も早く改良服を取り入れるべきであるとい う山根の考えや、渡邉の子供服=洋服という考えに至った 明治期の子供服について写真 8), 9)を示す。 明治初期において、上流階級の子供が晴れ着や外出着と 写真 5‒6 上衣 袖口 写真 5‒7 馬乗り して身に着けるに限られていた洋服は、明治 30 年ころか ら庶民の間でも着用されるようになったようであるが、ま だ一般的ではなかった。 写真 6 は、明治 35 年に撮影された兄弟の記念写真であ り、女子は改良服を着ており男子は、洋服で靴を履いてい る。上流階級の士女と見える。写真 7 は、明治 41 年、お にごっこの一種「子をとろ」をして遊ぶ子供たちの様子で あり、全員着物を着ている。写真 8 は、明治 44 年、竹馬 で遊ぶ子供の写真であり、活発な男子は、着物を短く着て いるようである。写真 9 は、明治 46 年、子守りの少女た ちであり、着物を大人と同じように長く着て足元は、下駄 履きで子供をおぶっている。高下駄を履いている子もい 写真 5‒8 袴 前 写真 5‒9 袴 後 る。この時代、子守りは奉公に出された子供たちの仕事で あった。暑いときには、背中の赤ん坊のために日傘をさし ている写真もあった 10)。写真 10、11 は、大正 8 年の小学 校の卒業式の男女の写真である。全員着物姿である。記念 写真 5‒10 半襦袢 前 写真 6 写真 5‒11 半襦袢 後 ̶ 45 ̶ 写真 7 山田民子 寺田恭子 富澤亜里沙 澤野文香 写真 8 写真 12 (左) 女簡単服(明治 38 年製作) 写真 13 (右)女簡単服(明治 41 年製作) 写真 9 には女性が自らの力で社会を変えていくことができること を期待していたのではないかと考えられた。 5. 考 察 女服改良に関する論議と、考案された改良服は多数に及 ぶが、その中で一番顕著なものと推測できるものは、渡邉 写真 10 式と山根式であると考えられた。両者の改良服の構成の違 写真 11 いについて述べる。 式典であるため晴れ着を着ているとも考えられる。 山根式改良服の特徴を次に示す。 子供らしく活発な様子がわかる写真だが、着物の弊害を ①上衣丈は、腿の半ばより少し上までとする。 強く感じ、山根のいち早く改良服を取り入れるべきである ②袴の丈は膝下が理想で、地にひくようなものは、不衛 という考えが理解できた。子供は、大人の縮小版ではない 生でよくない。また、胸にかからぬようになるだけ低 ということ、子供のライフ生活に合った子供服を取り入れ く着用すること。 ることが急務であると感じさせる写真である。衣服の改良 ③身頃の背、両脇、前(左衿の中程)のボタンは袴をつ も必要であるが、生活の改善も必要であると感じた。女性 るためのものである。 の地位を高めるために教育者を育てることが、女性の生 ④上衣の打ち合わせに紐をつけたが、ボタンでもよい。 活・生き方を向上させ社会を発展させることにつながると ⑤袴は右明きで、行燈袴にして裏を付け、折り目(プレ 考えた、渡邉辰五郎の教育方針が納得できた。 スされたプリーツ状ではなく、タック風なもの)を付 ける。 ⑥袴の裾にある 2、3 段の縫い上げは、身体の成長につ 1) 渡邉辰五郎考案の子供服 写真 12、13 は、明治の後半に教材として製作されたワ れて丈を伸ばすためのものであり、同時に装飾をかね ンピースの雛形である。いずれも「簡単服」とあるが、細 ている。 部まで丁寧に仕立てられた女児のワンピースである。着心 ⑦上衣と袴の境目には、革の帯をする。しごきの場合 地の良さや動きやすさが必要とされる子供服には、機能性 は、後ろで蝶結びとする。これらは、装飾であるので に優れた洋服が積極的に取り入れられた様子がよくわか 胴をあまり締めないように注意する。 る。本学の博物館には、明治 30 年から大正 8 年にかけて ⑧頭髪は、束髪、あるいは、下げ髪とし、よく洗って清 製作された子供服の雛形が数多くある。 浄に保ち、就寝時は、解いて休むことが理想である。 写真 12、13 の子供服は、雛形製作であるが、子供服に ⑨帽子は、保護と装飾を兼ねてかぶることが望ましい。 ふさわしい小さな模様の生地を選んでいる。また、フリ ⑩足には、靴下をはき、運動しやすいように軽い靴を履 ル、ギャザー、レースを用いた装飾性のあるデザインや配 く。 色等を意識して製作している。子供の成長に合わせて丈を 渡邉式と山根式改良服の類似点については、次の 7 点 調整できるように工夫もしてある。1 着の雛形製作は、機 能性や縫い方を学ぶほかにファッション性も学ぶことがで が考えられた。 きるものである。渡邉辰五郎は、教員を育てることで洋 服・子供服を普及させようとしていたのではないか、さら ̶ 46 ̶ ①着物風の上衣と、行燈袴風な下衣よりなる 2 部形式 である。 子供服洋装化の導入と改良服に求められた機能性との関係 ②裁断法は、並幅(山根式は、この幅に限っている)ま 6. ま と め たは、2 尺幅を持っての従来の着物の裁ち方に準じた ものである。 衣服改良運動が起こった時期は、日本の近代化が急速に 推し進められた頃で、衣服に限らず社会の各分野にわたっ ③上衣の袖は両者とも筒袖で、袖口はやや細く絞ってい て改良運動の気運が満ち溢れていた。 る。 衣服改良については、渡邉辰五郎も山根正次も理論と実 ④上衣の打ち合わせには、衿先と脇に結び紐をつけてあ る。 践の両面から取り組んだが、明治期においては、あまり普 及させることができなかった。日本人にとって必要性を感 ⑤上衣の着装にあたっては、和装の着装形式と同じく衿 じた生活がなされていなかったこと、また、保守的な考え 元に半衿をのぞかせている。山根式は、衿は純白が良 により新しいものを受け入れることができなかったこと等 いと推奨し、渡邉式は衿もとを 2 重に見せている。 に原因があったと考えられる。産業革命が完了し、女子労 ⑥袴は、いずれも右明きとなっている。 働者が増加して、生活服や労働服としての女子の服装が必 ⑦両者とも、この上に羽織る改良被布を合わせて発表 要とされたときに、改良服は活躍するであろうと思われ している。等が挙げられた。 た。しかし、「衣服の近代化」は、洋服の普及によって果 たされ、改良服は姿を消すことになる。だが、明治後期に また相違点として次の 5 点を示す。 出現を見た改良服は、人間の機能性のある服を求める意識 ①上位丈は、山根式が腰を覆う程度の長さ・断ち切り を育てたことに衣服改良運動の役割の重要性を感じた。さ 身 丈 2 尺(76 cm)に 対 し、渡 辺 式 は、1 尺 3∼4 らに、日本において女性服装史上における機能性を意識し 寸(約 50 cm)と短めである。 た生活服の原点であると考えられた。 ②袴丈は、山根式は、断ち切り 2 尺 2 寸 5 分(85 cm、 出来上がりは、80 cm 前後と推定)、渡邉式は、2 今後は、現代のライフスタイルにあった子供服を安心・ 安全の面から追求し研究していきたいと考えている。 尺 6 寸∼7 寸(約 102 cm、出来上がり丈は、前中 央で約 91 cm)と長めである。 この論文は、生活科学研究所総合研究プロジェクトによ り行った研究の一部である。 ③袴の造り方は、山根式は折り目を付けず、タックド スカート風な形式であるのに対し渡邉式は、裾まで 折り目を付けたものである。前者は、袴丈の 6 倍 文 献 1) 夫馬佳代子(2007).『衣服改良運動と服装改善運動』東京, で構成できるが、後者は 8 倍を要する。いずれも 家政教育社,p. 8–10 2) 三友晶子,太田八重美(編集)(2010).『重要有形民俗文化 並幅の場合で総要尺に関係してくる。 ④総要尺は、山根式 2 丈 8 尺(960 cm 並幅) 、渡邉 財指定 10 周年記念 渡辺学園裁縫雛形コレクション』東京, 式 3 丈 1 尺 8 寸(1,208 cm)となる。 東京家政大学博物館 ⑤素材については、山根式は特に経済性を考慮して日 3) 山根正次(1904).『増補第 3 版 改良服図説』東京,東京印 本の織物を利用することを強調したが、渡邉式は 2 尺幅物を主題とし、キャラコの更紗、メリンス、紋 刷,p. 8–20 4) 渡邉辰五郎(1904).『婦人改良服指南 全』東京,東京裁縫 毛儒子、カシメル、絹セル、アルパカなど舶来もの 女学校 同窓会 5) 渡邉 茂(1909).『渡邉先生遺稿 新裁縫教科書』東京,東 も用いた。等が挙げられた。 京裁縫女学校 渡邉式と山根式改良服の相違点から、山根は明治・大正 6) 渡邉辰五郎(1911).『渡邉先生遺稿 渡邉裁縫講義高等部』 東京,東京裁縫女学校,p. 293–328 年間における医療行政家であり、また医学教育家でもあっ たので、着物の弊害を強く主張し、改良服をいち早く取り 7) 重要有形民俗文化財(2001).『渡辺学園裁縫雛形コレクショ ン・下巻』東京,東京家政大学博物館,p. 51, p. 197 入れたいという考えに立っていたことがわかる。渡邉は、 教育者で教員を育成することを目的にしていたため教材の 8) 下川耿史(2002).『近代子供史年表』東京,河出書房新社, p. 228, 262, 283, 288 中に取り入れ、これらを学んだ教員が改良服を普及させる ことを考えていたようであると推測できた。 9) 小泉和子(2006).『昭和のキモノ』東京,河出書房新社,p. 17 10) 小沢健志(2000).『写真で見る幕末・明治』東京,世界文化 社,p. 169 ̶ 47 ̶