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Title 梅原郁著 宋代官僚制度研究 Author(s)

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Title 梅原郁著 宋代官僚制度研究 Author(s)
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<批評・紹介>梅原郁著 宋代官僚制度研究
斯波, 義信
東洋史研究 (1987), 46(2): 415-423
1987-09-30
https://doi.org/10.14989/154192
Right
Type
Textversion
Journal Article
publisher
Kyoto University
4
1
5
評・紹
梅原郁著
信
一斉に刊行された。梅原氏の著は宮崎市定、佐伯富博士の皐統を、
チェイフィー氏の著は E ・タラッケ博士、何病棟博土の畢統を、李
トウェル博士の業を、それぞれ承けて成ったもので、皐者二世代の
氏の著は A ・F-ライト博士の薫陶を、ハイムズ氏の箸は R ・ハー
心血を注いだ研績の結自聞であるだけに、﹁問題史﹂としてのこの大
テ!?の深さ、 重要さと魅力がわかるのである。本書 および他の一一一
著の出現で、宋代の枇舎文化史、制度史の研究や教育に嫡る者のう
ける便盆はばかりしれない。
イルや世界観にいたるまで、これ抜きでは到底語れないし、裏返し
ていえば、中園皐の史料撃自箆が、その大宗をなす宮人の記述を整
の一基本要素と考えることもできるから、世俗の局面から文化スタ
るのである。この分析イメージ、ことに専制政治の階層秩序につい
親しんで引き出した第一印象に由来するだけに、自然な着想といえ
嫌大をより容易にするものであった。
中聞の改繁期としての﹁唐宋の出現革﹂との接合を考慮した内藤湖
南、宮崎市定、 E ・クラッケら歴史家の着眼は、後績の問題地卒の
社舎皐が重んずる債値や動機にしても、有機的﹁動態﹂(コンジヤ
ア I)との脈絡を捉えようとせず、 硬直的であるとの評が
ンクチ ュ
あれ戸このいみでは進化の諸劉期を積極的に取り上げ、なかんずく
ての洞察は、たしかに M ・ヴェ lパーによって豆歩を進められ、方
理、洞察して最大限に活用することを抜きにしては、ほぼ成り立た
才の選抜
ントルメン﹄(ケンブリッジ大出版局﹀が
Z
摩﹄(香港中文大出版(ね﹀また、 moro円
門
司
・
5 目2 博士の﹃ステ
原郁博士の大加のほかに、﹄・当・。 ERoo博士の﹃宋代における皐
(H材
H 料閥﹀﹄︿ケンブリッジ大出版局)という科翠の枇曾史
-FS の ﹃宋代の公共教育と科
研究、李広棋博士、﹃ZBSE の
奇しくも一九八五、六年度には、宋代の官僚粧品聞をめぐって、梅
ないのである。
法的にも安嘗とされるが、反面、彼の依嬢史料が狭さと偏りで拘束
されていることもあって、中園の内在開設展に目が届かず、その文化
有の連績と均衡で特色づけられる中園の古典官僚制は、その祉曾の
統合と準化のための決定因に預る康義のテクノロジー(組織技術)
それでは、なぜ官僚制が、そして宋代のそれが重要と映るのだろ
義
官僚制や官僚主義は、近年あらたな脚光を浴びつつある古くて新
波
しい、しかもグローバルな比較の課題である。世界史のなかでも稀
斯
うか。これまでの中園研究の中心モティ l フは、上は皇帝から官
僚、紳衿、民へと上下に整然と貫通する﹁秩序階層の性質﹂への聞
いにおかれて仁川 。こうした聞いは、史家が封象祉曾(の史料﹀に
宋代官僚制度研究
介
イツメンアンドジ
-185ー
批
416
それにしても、なぜ中園のケ l スが連続と均衡を保てたのか、そ
る道理である。研究史が一様にたどるこうしたジグザグの中で、新
分化すればするほど、個を全盛にリンクする新しい展望台か求められ
に負っており、、日の一つの読銭に三省六部官制の清末までの持績が
翠げられるという。たしかにその通りではあるものの、梅原氏が指
ではなぜ宋代なのか。 E-ライシャワー博士の観照によれば、中
園官僚社舎が西ロ17の轍をふまずに回生延命できたのは唐の修復
りのない情報源が公開されることを要し、そこに何らかの障害があ
れば、その克服が先決の前提になる。木哲一国
はまさしくその作業上の
重要な里程標なのである。
規の展望が事質のテストに耐えて生まれるに蛍つては、組織的で偏
の制度保誼はなにか、は依然として聞いつづけられる設問なのであ
と、それは付文臣武臣の別、行政監察一般を含めた監察制の工夫、
る。新古典汲経済摩の泰斗、 J ・ヒッタス教授の一つの示唆による
口新人登用機構および官入居の祉舎移動の工夫、日昇進制の工夫、
のせいではないかとい一日さらにこのタイプの﹁古典官僚制﹂は、
単純に全く下からの慣習秩序でもなく 、上からの(軍事)指令の秩
序でもなく、そして雨者の混合型である黙では封建制と並びつつ
も、封建制が慣習の優越で特色づけられるに比して、指令要素が相
封的に卓越する。もし内外の﹁挑戦﹂という歴力が加わると、組織
は指令に動くだろうが、それが牧まると、惰性の法則、社告間引力が
かりに﹁動態﹂との接合の脈絡に目を配り、しかも上述のヒック
働き、特定の職能やその特権を固定するカが生ずる、とされる 。
る、新社舎への遁態が随庭に顔を見せ、同捜化と動き始めた惰性との
骨奪胎をへて、植密院の温存や宰相府への権限集中をはじめとす
摘するように、十一世紀の元盟の改革も、漢より唐六典に淫して成
った三省六部の鋳型 (H祉
H 曾引力)への整合と見えても、内寅は換
スのいう ﹁
工 夫﹂の 性質と﹁挑戦 ﹂や ﹁引力﹂に即態する推移を考
えて 、この問題史を術敵すると、テ17の裾野は意外に康く、たと
進制と権力配分(選翠と濁裁、君権制到貴族ないしエリート、中央封
地方)、 同メ リトクラシ!と才の測定(識字、翠校、政治思想、専
重複やズレを是認したまま、しかも王朝が新しい理念や政策の筋を
アマルガムの成果である。さらに、木書 の官頭で宮崎、梅原博士が
いうように、二百年の大動飢の果てに現れた宋初の官制は、新替の
ω登用 ・昇
えば、制官僚制と祉禽移動(家、 富、才の相針比重)、
職釣人文数養﹀、ゆ監視の制(文と武、慣習と指令、監察の機構)、
的な相位であり、第革と持績の性質を解く手がかりを供するという
︹
6)
﹃清園行政法﹄、﹃支那官制裂淫史﹄から進んで、九品官人
同 メリトクラシ lの推移、等々が浮び上るのである。
の錯綜、ことに宋初のそれ、こそが歴史の中での宋官制の員に擦動
通しつつ、微妙な調和をはかった所産であり、やがて元堕1宣和J
南宋初の整理に牧叙されて、明清官制の租型を成したのである。こ
字、郷紳、監察、内務 ・司法・軍事 ・財務行政の具腫研究が長足に
一
方
、
法、六典官制、科襲、政治思想、宋以後の官制、率校、書院、識
進化した今日では、不均一ながらも累積された事寅関係は、例えば
この洞察を縛じて具健知識にもたらすには、難解のゆえに敬遠さ
梅原氏の指摘は、肯繁に嘗る至言であると認められる。
ヴェ I
バ l嘗時の水準とは隔絶している。しかし関心が接大し個別
-186ー
4
1
7
れがちであった﹃宋史職官士官を軸とする基本典籍(編年、停記、
職官、政書、類書、筆記、文集)を整理し、索引を作って語集や制
度の合意と推移を見きわめ、既成の仮設をテストして全慢に保理を
通すという、根気を要するプロジェクトが求められる。一九五O年
このかた、宮崎、佐伯教授がリードし、楊聯陸、田中謙二教授の参
加を得てつづけられたこの努力は、 ﹃長編﹄、 ﹃宋史職官志﹄、﹃宋
曾要職官﹄ほか、職官、書剣、﹃朱子語類﹄などの典籍の整理を竪
貨にすすめ、一九六三年には﹃宋史職官志索引﹄(佐伯)、﹁宋代官制
序説﹂(宮崎)という中聞の展望が成り、この事業の中から、梅原、
歴の順・不順という努数が、制度という常数にどう相関したかを、
個人レベルに掘り下げ、制度の貧殺のほどを堕かに例覆しているの
である。つけ加えていうと、本書では﹁昇進制﹂と同じ密度で洞察
が展開している誇ではないが、﹁選人の世界﹂、﹁恩蔭﹂、﹁保翠﹂、
﹁官職の保有と配分における中央と地方 L、﹁脅吏﹂、﹁監察﹂の議
論を通じて、梅原氏は暗均一袋に﹁官僚制の祉舎史﹂の地卒開拓と数
e
量分析の地盤 つ
くりに貢献を果 しており、先輩世代の想定をこえた
新しい歴史意識への反感が垣間見られるのである。
本文六二二 頁 の本書 は六 章 から成り、一、二 は 文 武 の 寄 糠 官
一
階、三章は差遣、四 章は館職、五章は恩蔭、六章
章は脅更を論じ、
磁波護、衣川強教授という次世代の俊秀の業績が育ったのである。
卒業後三十年、土地、一商業、財政、都市の大テ l マそれぞれに斬
新な解俸を披澄し、現役の宋代研究世代の牽引者である梅原氏は、
一、一二、五章は脱稿によりつつも、全文は新たな書き下しである。
注の字数が本文字数の一一一分の一の比重をなす重厚なモノグラフであ
さて、初めから三分の二の記述の主題排列は、寄蔽官、差遣、館
職という、元塑以後に落ちついた職官範鴎を座標におきながら、宋
(一九七八、新車研究所)、何煩様教授の ﹃
中華 閣の出世階段﹄
帝
一比べても、トータ
(一九六二、コロンビア大﹀冒頭の清制の概述と
ルで詳密な黙ではるかに徹底している。
あり、たとえば孫園棟数授の﹃唐代中央重要文官遜縛途径研究﹄
附されているので、設者の理解を容易にしている。歴然}部分は一 J
五章の記述、ことに宋代寄縁官階と差遣を全面的に検誼した部分で
るが、文章が明快であるほか、大小八十七の表が随慮に分布し、
二震では文字通り苦心の作というべき宋代選人・官人官階にお
、
一
ける叙遜の経路チャートが七つ牧められ、巻末には要を得た索引も
先輩数授の退休と前後して、右のプロジェクトを粂掌した。氏の手
許に隔地大な索引等の蓄積が錫したが、氏は新たに﹃夢渓筆談﹄など
の筆記類、そして政書、類書、墓誌銘、列停、文集、言行録、書剣を
積極的に渉猟し活
用
す
る方向で新生面を開き、またこれまで閑却さ
れがちであった﹃慶一
冗係法事類﹄、﹃吏部候法﹄という資料源を生か
すことで大きな知識の進歩をもたらした 。こうした努力で俄かに可
観的となった新分野は﹁昇進制﹂である。宮崎博士が﹁はしがき﹂
で示しているように、官職の高下別、職能別の配分秩序が、はじめ
て鮮明で統一ある系統の構図に明示されただけでなく、﹁功業﹂の
さまざまにランクされたタイプを筆頭に、﹁家﹂、﹁富﹂の要素をもそ
れなりに配慮しつつ、キャリアー組とノ ンキャリア ー組を官職ハイ
アラヒ Iに組みこみ、﹁廻 遊﹂紋に昇進を 誘導する 仕組みが級密に
示され、しかも編年、停記史料の駆使によって、選抜の諸基準や関
-187-
四
初からの制度の流れを明示する手法で 書 かれ、また﹁改革﹂の成熟
時期を元塑から政和、大観(一 O七八l 一一一 O
) にいたる三十年
の幅でみることにより、文 ・武臣の位置づ けの脇趨や、南宋に 影を
落してゆく職、蔭の濫授、制度全盛の硬直と地方化を印象づける工
、 ﹃同選g
夫が施されている。さらに、控え目に ﹃
宋史職官志﹄
tど
を土 産とした復元であると語られながらも、宮崎﹁序説﹂が職官志
の章を逐った叙述であったのに劉し、ここでは祉曾ピラミッドにお
けるマスとエリートの接合の文脈に即態させて、官人最底迭の選人
瞥がほしいが、本書 では鉄けているので、チェイフィ ー、李弘棋氏
の労作の参看を勤めたい。それにしても本書の選人分析は有盆であ
る。 ここでは四等かつ七階に成層紋に整序 された選人が、供給サイ
ドの有出身、無出身、雑流という資格僚件、そして需要サイドの一一一
京から州豚に至る幕職州脈官 の割腹ランク、 京 ・州 ・鯨ポストの戸
口、繁筒、遠近、善悪規準に照して、ポストを配分される構園が示
される。明示された映像はかなり複雑であり、明暗の縞が目だつ。
武臣も含めて 初級官人事 の運営を見ると、 義国闘の知鯨│通剣│知州
│提刑│碍運という陽の嘗る職が有出身選人に、要害透州の職に武
臣が、財政末端の監首職に武臣の三班使臣が起用されているところ
に人材主義の妙を知る反面、時を逐って過剰化する京朝官ストック
を躍するべく、中 書 の堂除人事が吏部閑人事を侵し、大牢の知豚
閥、中原はじめ四十J五十の大州の知州・通剣闘が高官の出外出鋲
に向けて留保され、この優良ポスト争奪から疏外された悪弱・僻遠
の闘を埋めたものが無出身、思蔭、武臣、宗室 の子弟であったこと
が知られる 。
ろうが、宋初に掲げた﹁公﹂理念がむしろ回避してきた﹁ネットワ
ーク﹂を再導入するものではなかったかと思われる。ともかく、親
-188-
とその改官(入流)から筆を起し、順次、京官、朝官、員郎、正
郎、卿監、侍従、大南省、使相、宰相へと 測り、職と蔭を通じて特
権に及ぶ手法が採られている。一、二、三 一
章は強く相関するので同
時に参照されることが望ましい。
梅原氏の文臣キャリアー階梯を 示す五つのチャートと選人の 二
表、差遣の記述に導かれて進むと、科翠の有出身を 筆 頭に、無出
身、雑流などの、 高下雑多な﹁メリット﹂にキャリア ーを開く宋代
職制の理念が、寅質の制度保鐙をうけていたのは、従六品以下(員
郎以下﹀であったらしく、一任づっすすむ常調では縦績に ジグザグ
以上では出身の有無がより大きく響いたらしい。かりに三十六歳が
進士及第の卒均年艇とすると、幸運な彼らも大中十は官階の中下層に
民官を重 んずる宋の政術(ステイトクラフト)とはうらはらに、良
闘を除く州豚の職は額面通りの人材主義が通用する場ではなかっ
この機能障害 を補完的 に救う袋置 として編み出された中 書 の堂
除、逃僻地方宮の掻官、定差、奏曲叶、そして選人改官、京朝官昇任
の際の薦奉(保母)は、﹁才の選抜﹂に副次の選揮肢を供したであ
滞留したはずであり、まして無出身、雑流出仕の者は朝官・京官 ・
選人上層の部分に緯めき、この層位に官人の卒均像があったとみて
なラダーが設けられ、有出身で太常博士(従七品﹀まで改官後十J
十二年、無出身で園子博士(同)まで二十年を要し、一方、正六品
よい。
この卒均官人像を鮮明にするには、ぜひ科事と皐校の推移への一
た。衣川教授の力作である俸給の問題が、この局面を深め、行政の
殺率を占う上で参照されて然るべきである。
4
1
8
4
1
9
場をとってい九日。梅原氏は三司系の差遣については磁波氏がすでに
冗官のゆえに待闘が十年にも及び、たとえ堂除されて三十歳で知
いる。この問題は官僚制の理念とメリット基準との推移を知り、そ
り、本命コiスは知制話、 蜜 諌、翰林泉土を踏み肇としたと断じて
ト昇進階梯で宰相まで淫した三司使系の者は全鐙の四分の一であ
扱ったためか深入りせず、﹃十朝綱要﹄の表を分析して、超エリー
て、選人が磨勘改官または試秩をへて高級官に進んだのちの叙述を
のクロノロジーないし時系列を立てる上で深刻であるから、別個に
豚職を得ても、七十の退休まで四任どまりという事例を念頭におい
讃むと、梅原氏が再三にわたって有出身、無出身(恩蔭・雑流﹀の
詳説されて然るべきと思う。
王安石が吏土合一に合せて、官職を有能の土に開くことを唱えな
別、進士の中の朕元以下三元、員郎から侍従にかけての館職に関係
がらも、沓法黛の流品一意識が反媛して、正六品以上人事で出身の有
づけて、キャリアー組、ノンキャリアー組の、いわば特急、急行、
普通の昇進ル Iトを設いている理由が一そう判然と分る。すなわち
いう氏の展望は新醤法黛交替に卸して筋が遜っているものの、なぜ
無を排別し、ためにトップエリート人事が宋末にかけて硬直すると
南宋の閥族集閣のサイズが北宋ほどのネイションワイドの規模でな
常調の進土や異才の雑流出身者の出世は、朝官かせいぜい員郎止ま
クラスまで登りつめることは、神話にも近い特例であり、まず初仕
いのか、一鐙、宋代での濁裁制の確立期はいつなのか、はまだはっ
りであり、格別の場合でも太中大夫(従四品﹀で頭打ちとなる。宰相
から持作監丞(従八﹀または太子中允(従八)に抜擢され、超資コ
きりと 定 設 を 得 ているわけではない。新刊のハイムズ氏の著述の一
讃を讃者にもすすめる次第である。
ースに入って 蚤 諌 官、 員 郎 、 左 右 諌談 大 夫 (従四﹀、給合、侍郎(従
一一一﹀と上り、この閲薦傘、優良差遣 、錦織が奥えられることで 高級
鍾の一 J 二割の職業軍人のほか、財務職員、末端の知州豚、提刑、巡
武臣の官階については、停記が少なく復元困難な分野である。全
この出外の優良差遣には、知豚│通剣│知州│監司と進み、以下
官への進路が一そう確定するのである。
郎官、侍従、執政と進むモデルケースがある 。 ここで、提刑l縛 運
検を含む武臣集園は、藩銀という超﹁指令﹂的秩序の所産でありな
あるので、プロテジlの封象になりやすい。この貼で 宗 室、宣官、
の 監 司 か ら 、 三 司 使 │ 橿 密 使 、 又 は 参 知 政 事 1 宰相と進むコlスが
有力者の子弟も武臣の有力な構成要素である。本書ではこうした雑
がら、﹁慣習﹂秩序に根を張るわけではなく権力者の秘書・側近で
職のそれが、財務官僚を軸にして結婚政略、保翠、蔭補、科撃を操
としての大族の喬と稽する一群のエキスパタイズ、ことに財政専門
作 し て 有 力 な 小 集 闘 を つ く り 、 科 患 の 理 念 を ある程度骨抜きにした
多な内容の武臣集闘が、文官寄級官階の形成とズレをみせながら
d京
も、政和の改革までに、 a文階の卿監以上、 b員郎、
C朝官、
展望を示し、北宋前宇について富と家の紳の影響力を高く-評する立
が、徽宗朝を境にその濁占力を 弱 め 、 勢力も局限されてゆくという
ハ lトウェル教授の解穫では、五代の遺制
北宋中期まであり、 R ・
,
品
.
、
,
-189ー
五
420
u小使臣と整序され、さら
u
官最上位、 e選人と京官という序列にほぼ釣合う形で、 a進郡・正
られ、車に中央に人材をプールするだけでなく、内外官、特定地方
るグル ープが 一
示される。さらに館職が差遣とリンクする貼職が述べ
るグループ、 c、最高級官の得職または柴容鋭、また経鐙の官に預
HG
大使臣、
、
任
官 に 特 別 の キ ャ リ ア ー を 保 護 す る い み で 行 な わ れ た という指摘があ
に枠を絞ったが、やがて枠が嫌がって濫授に傾き、恩蔭、無出身に
る。任用封象は元銭前には正途進士に限られ、負郎級の知州、漕司
V諸司使、ド諸司副使、
お全鐙に文臣に附随する不透明な外郭集幽として残り、元以降は唐
に文臣の館職に蛍る閤職、商制に嘗る横行が設けられたものの、な
制に従った整理に服するという、経過措置の性質 を州市びていたこと
、 外交使節 、
遠州豚官、監嘗官、 さらに監司│福密使のキャリア ー
見である。この時期は官制、科壁、間母校ともに整い、また念願の卒
ないという。
も輿えられてゆくが、全官員の数パ ー セントがこれに預ったにすぎ
治河 ・仙災の職に起用され、恩蔭濫授の針象でもあり、総数はつね
に文臣を上廻ったとされる。こうした記述を読むと、極力小サイズ
示した時であった。さらにつけ加えれば、この頃、南北の進土生産
和の達成が文治に活性を輿え、逃境要州に俊秀を配して文化優越を
武臣は昇進が遅いながらも優俸を給され、軍事の要衝ポストや遜
が示されている。
でコンパクトな文匡集圃を養成し、集約的な行政の飛び地を貼と線
量が桔抗し、三年一試の定制が定まってきたから、文臣制の課題は
0一
9
-1
梅原氏が帯領館職頻輿への傾斜を仁宗期に関連づけているのは卓
で結んだ文治の梅闘のなかで、行政の密度では粗放ながらも直接駐
されたとみてよいのではなかろうか。武臣の配置が特殊具鐙的な朕
硯と統制を要する部分は、武臣で一括される側近集闘の配置で相補
して、特定の機能の途行や、それに肺応ずる特権の 一字受を許される限
以前のように気前よく進士を創るよりは、すでに萌した冗官に桝到底
況の解決に向けられているとすると、外交、透防、聴燥、治安、内
的であるとした上、翠節、致仕、遺恩 、大躍を機に生ずる恩蔭授輿
者の範圏、数量を詳考し、徽宗代から南宋への濫授、仁宗以降の皇
任子の歴史は古いが、この制の整備された運用において宋代は特色
叙述である。この一軍も槻察の周悉において特筆に値する。梅原氏は
第五章の恩蔭の研究も、館職とは別に生じた特権の配分・享受の
りで権利化して、守成の位制を操縦する方向に傾いたのであろう。
中で武臣の役割が詰められてゆかないと、その比重の剣定も明らか
務、軍制、総領所などの庚い関連問題の相位が拓かれ、その文脈の
ではなく 、別個濁立の考察を要するジャンルである。
第四一章の館職の叙述は、昇進制の要所を抑える重要問題であり、
た めの鎖臨試に設き及んでいる。結局、任子は綴過のためだけでな
く、特権と勢力の相績の重要な柱であり、また透閥、監嘗、巡検閲
ルlト と 有 出 身 キ ャ リ ア ー と の 差 、 任 子 や 諸 科 か ら 出 身 に 鱒 ず る
親、外戚系の任子の増加をのべ、さらに蔭補人の初任状況 、昇進の
の慮過として、また宰執へのステップとして文化的側近に擬せられ
、 a、三館秘閣系列の由緒から生れ、高官の推薦や召試をへて選
が
、 b、侍従
任され、資料編纂に蛍りつつ将来を蝋望されるグル ープ
包括的かつ抽出系的叙述としては本書が震初である。まず館職の系列
七
4
2
1
を埋めた上に、高官への進出もある程度まで許した。ここで氏は新
この問題への解樟は目下のところ二つに分れている。 K ・ヴィツ
しい﹁官僚貴族﹂の誕生を示唆するのである。
トフォ lゲル、青山定雄博士が北宋期の高官に閥族形成を見て一石
商 人 が 輩 出 し よ 目 、 結 局 は 官 界 へ の 同 化 ( ア シ ミ レ l ション)が出
世の本命であった。女直、モンゴル、満洲族の﹁挑戦﹂も、明末清
生き抜き、徽宗の政策と靖康の難、南渡の徐波で中小族に地位を替
からつづく大族の沓が結婚政術で科傘制を骨抜きにして徽宗代まで
に、この層から有力官僚が輩出したと考える。反面、宋代では前代
トの血縁集闘が祉曾を寡占し、彼らが地位保存と縫承に巧みなため
層位に注目してきた。明・清になると、大地主上層に位するエリー
署の有更の由来、職制、昇任、人事、恩蔭、出職を詳説し、研究の
制に配置された脅吏の職種、数量の卒均像を復元し、他方で中央官
困難に属する。梅原氏はこれを率直に認めた上で、一方では地方官
と史料密度でこれに迫ることは、先行研究の偏りもあって、むしろ
提起という性質を帯びている。すなわち、これに先立つ叙述の方法
終草の脊吏研究は、史料的にも命題的にも、経過的に重要な問題
ったように思える。
初の人口爆裂も、科翠と昇進制の根づいた祉舎を闘すには至らなか
られ、蔭の敷用にも限界を生じたと展望する。これに到し、 E ・ク
歓を埋めている。宋代以降の歴史について先皐の下した﹁濁裁政
を投じて以来、 R ・
ハ Iトウェル、 H ・ピィlテ位w R ・ハイム
ズ
、 L-ウォルトン数授らは、官界をとりまくネットワークや祉曾
ラッヶ、何病棟、 J ・チェイフィー教授は科翠によるモビリティを
に役立つ樫同租数授の﹃清代の地方政府﹄ハ一九六二、ハーバード
めには、近年に自究されてきた行政の地方主義への傾斜を理解する
大、六九、スタンフォード大)、 J ・ワット数授の﹃後期中華一帝園の
治﹂のラベルの印象が徐りにも強いので、新しく問題にとり組むた
局科穆であった。科翠の下では族の紳にも競合の債値観が割りこむ
知豚﹄(一九七二、コロンビア大﹀のような集中限定した問題への
重んずる。結婚が及第の前提を築くにせよ、科翠をめざした数育へ
一方、たとえストレートな昇進が 一神話であっても、科皐と間学校が正
取り組み、そして佐竹靖彦教授が試みた官筋の分析、に関連づけて
の投資や浸入の意義は大きく、また最初の出仕を拘束したものは結
愛らないという。
一種の祉曾引力で支配され守成に入る。特定の職や特権を相績さ
あり、筆者と讃者の寛恕を乞いたい。蕪融附を重ねて恐縮であるが、
者に本書の員髄を俸えていないことは、白から自賛するところで
紹介と-評は、この記念碑的な大業の重厚な中味を正確に捉えず、讃
以上、甚しく評者の関心に引きつけて、しかも印象的に素描した
深められてゆくことが望王しく思える。
統の上昇径途である限り、普遍的に祉舎債値を統合するその役割は
ここで再びヒックス教授の論法を借りて整理すると、トインピl
せ、世襲させることでこの引力は操縦されなければならない。評者
最後に全陸の印象として感じた一、二の黙を附記して江湖の数示を
流の﹁挑戦﹂摩一力が鎮静すると、古典官僚制の組織は慣性の法則、
せず、カ l ストによる職業の専門化も現れず、また都市がおこり大
はこの操縦は結局は成功したと見たい。すなわち世襲貴族制は再生
-191-
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大方の研究者は、中園の 官僚 機 構 の サ イ ズ が 庖 大 で あ る と 想定
し、しばしばそれを制度や機能の 放率性と相関させて誘くが、果し
てそうであろうか。かりに官五高、吏三O蔦という数が宋以後の目
安とすると、一億から果てには四 億 の人口の中で、それはむしろ小
さな政府である 。 では人口増に合せて行政経費がふえ、地方主義が
官僚制が社曾と均衡し、世襲貴族の形成が阻まれたのはなぜか。一
岨唱す中で、官職数も行政都市数もコンス タントであったとすると、
つの推測は科甥制と昇進制が供する文化債値による統合を考えるで
あろうし、また﹁収入経済﹂(ヒッタス)の枠内で慢性化する職員
不足、給輿不足に射し、社曾ネットワークが補完の役を果したとも
考えられる。もしこうした想定に何がしかの 一意義があるとすると、
蛍面の宋代官僚制が濁裁政治のタイプに属することに一感異議は
ないにせよ、その機能を占うについては、刻々と後化する祉曾の動
態、空開の状況ごとに-一ュアンスの異なる行政の内容や役割につい
て、社舎史的背景を詰める作業が求められるのではないだろうか。
終りに若干の印刷上のミスを穆げると、三一行の﹁すす←す﹂、
、七七頁八行の﹁大←太﹂、二
H H 5 一一一行の﹁史←吏﹂、﹁宿←辰﹂
隅﹂、五六五頁一一一一行﹁。←、﹂が目につき、
二四頁一四行﹁紳←一
また一四頁の第二表は、手を入れてヨコに組み直していただいた方
が行文を理解しやすい。本書の諸テlマに専念されてから十銭年に
して、これほど斬新で深い貢献にまとめられた梅原氏の研績に敬服
し、上梓を慶祝するとともに、本章 が内外の研究者の必嬬書 として
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熟讃玩味されることを衷心願って筆を捌く次第である。
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