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植民地作家の変奏:台湾人作家から見た朝鮮人作家張赫宙1 台湾清華
植民地作家の変奏:台湾人作家から見た朝鮮人作家張赫宙1 台湾清華大學台湾文學研究所 王惠珍 一、前言 二、張赫宙の経歴、及び文學活動 三、張赫宙と台湾文壇との交流活動 四、張赫宙と台湾人作家との比較 五、結び 一、前言 張赫宙(1905~1997)は、戦前の日本語台湾人作家たちがよく知っていた朝 鮮人作家で、日本統治期台湾文學に関する資料で、その名を目にすることがで きるが、しかし、戦後には「忘れられた」名前になってしまった。任展慧の論 文〈張赫宙論—付・1945年以前の在日朝鮮人文學関係年表〉(1965 )の後、二 十数年を経てはじめて白川豊〈張赫宙の初期長篇作品について——『虹』,『三 曲線』,『黎明期』を中心に〉(1986)という発表が現れる。90年代、韓国の 研究者は、民族主義的な立場からの論考を反省するようになり、さらに近年、 東アジアにおける植民地文化の研究が盛んになり、日本の旧植民地作家の研究 が再び重視されるようになった。それゆえ、戦後、「親日派」と見られて歴史 の記憶に閉じ込められていた朝鮮人日本語作家張赫宙もふたたび日の目を見 て、その作品があらためて編集され、 《張赫宙日本語作家作品選》2という形で 復刻されて出版されたのである。張赫宙の研究の成果としては、この作品選の 編集者である白川豐3と南富鎮4が最も優れている。 2007年には張赫宙に関する二編の博士論文が発表された5。辛承模はその 1 本文は 2008 年度台湾の国科会計画「東亞殖民地作家的變奏:台灣作家的張赫宙想像」 (NSI97-2410-H-007-54)の一部分の研究成果である。補助金をいただいたことにお礼を申し上 げます。 2 南富鎮、白川豐編『張赫宙日本語作家作品選』、東京:勉誠出版、2003年10月。 3 白川豐『植民地朝鮮の作家と日本期』、岡山市:大学教育出版、1995 年 7月の第二部「張赫 宙研究」 。 南富鎮「第七章 近代への方向と挫折—張赫宙論」、『近代文学の「朝鮮」体験』(東京:誠勉 出版,2001 年)頁 245-282。「 〈内鮮結婚〉の文学—張赫宙の日本語作品を中心に」(《人文論 集》 55:1,2004 年)、「日本近代文学のアジア(6)張赫宙の朝鮮と日本—日本語への欲望と近 代への方向」、 『アジア遊学』52(東京:勉誠出版,2003 年 6 月)、「張赫宙文学と近代への挫 折」、 『日本文化研究』11(東京:勉誠出版、2000 年) 等。 辛承模『植民地日本語文学の混淆性:張赫宙‧湯淺克衛の文学を中心に』 (名古屋大學、2007 年 11 月)と金淑貞『張赫宙文学の研究: 〈十五年戦争〉下の〈在日〉作家』(日本大學、2007 4 5 1 博論で、在朝日本人作家の湯淺克衛と在日朝鮮人作家の張赫宙を例として、殖 民地における日語文學の「混淆性」 (hybridity)を提起している。即ち、彼は、 二人がどのように混淆的な文化とアイデンティティを模索し、挫折したか、そ の過程を解明しようとした。辛は「親日」と「抗日」という二元対立のなかで 張赫宙の文學作品を論じるのではなく、彼の立場と時代背景に基づいて、彼の 親日のプロセスの考察し、さらに進めて、張赫宙文學の継続的な文學テーマを 明らかにし、張が戰時中、模索した「內 鮮一體」という「過程」を強調した。 さらに張がこの「親日」のプロセスの中でどのように挫折し、戰後、どのよう に転じて彼の「日本語文學」を完成したのかを考察した。 金淑貞の博士論文《張赫宙文學の研究: 「十五年戦争」下の「在日」作家》 では、張赫宙を「在日」朝鮮文學の系譜に置き、あらためて 1931年から 1945 年にかけての「在日」朝鮮作家張赫宙の文學創作活動を検証し、作品を考察し ている。任展慧が作品《加藤清正》から張赫宙を親日作家としたことに反論し ている。仁が抗日精神の観点から金史良を「在日」文學の始祖としたのに対し、 金は「在日」という範疇で張赫宙文學の重要性と代表的な意味を強調し、これ によって張赫宙に「在日」朝鮮文學史における新しい地位を与えようとしてい る。 台湾の日治時期における台、韓の文化交流活動に関する研究では、下村作 次郎の〈「宵月」について――『文芸首都』同人、金史良の手紙から〉6が重要 である。その中で金史良の〈光之中〉と龍瑛宗の〈宵月〉が《文藝首都》に発 表された情況、及びお互いの影響について究明している。また、〈現代舞蹈和 台灣現代文學――透過吳 坤煌與崔承喜的交流――〉7では、崔承喜が台湾公演 を行い、《台灣文藝》に作品を発表した過程とそのいきさつを明らかにし、こ の過程において吳 坤煌がどのような役割を果たしたかを考察している。 また、比較研究の観点から張赫宙が取り上げられた論文が幾つある。例え ば、張赫宙と楊逵との比較研究である。金尚浩は〈楊逵與張赫宙普羅小說 之比 較研究——以「送報伕」與「餓鬼道」為例〉8で、張赫宙の生涯と〈餓鬼道〉の 內 容を簡単に紹介し、当時の評論家の作品に対する評価を取り上げている。そ れらの内容は、殆んど白川豊の《張赫宙研究》(東國大學大學院博士學位論文) から引用されたものであり、金尚浩は、二人の作品を細かく比較してはいない。 これと比べると、山口守の〈想像/想像される植民地—楊逵と張赫宙〉9のほう 6 7 8 9 年 3 月)。 下村作次郎「 『宵月』について──『文芸首都』同人、金史良の手紙から」 、『台湾文学の諸 相』 、大阪:咿唖之会、1998 年 9 月、49~73頁。 下村作次郎「現代舞蹈和台灣現代文學―透過吳坤煌與崔承喜的交流―」 、 『台灣文學與跨文化 活動』、行政院文化建設委員會、2007 年 4 月、158~175 頁。 金尚浩「楊逵與張赫宙普羅小說之比較研究——以〈送報伕〉與〈餓鬼道〉為例」 , 『楊逵文學 國際會議學術研討會論文集』 ,台中:靜宜大學台灣文學系主辦,2004 年 6 月 19-20 日。 山口守「創造/想像される植民地──楊逵と張赫宙」 、『記憶する台湾─帝国との相剋』 、東 京:東京大学出版社、2005 年 5 月、77~100 頁。 2 が深く論じられている。山口は、日本プロレタリア文學者たちが二人の植民地 作家の出現をどのように見たか、彼らにどのような異なる評価をしたかを考察 している。また、李文卿の〈帝國中的朝鮮像:朝鮮的「親日文學」〉は、大東 亜文學圏の枠組みのなかで、張赫宙が太平洋戦争後期に「親日」作家として果 たした役割と創作活動について考察している10。 戦後、台灣文学界における戦前の朝鮮人作家、張赫宙に対する認識は、一般 には、本名が呂石堆である呂赫若は「赫」という字を、この朝鮮人作家張赫宙 の「赫」から取ったということ程度であり、呂は「若い張赫宙」になりたかっ たのだ、11という説がある。そのほか、1937年に《改造》懸賞創作賞を受賞し た龍瑛宗が「台灣の張赫宙」と称えられたという説もある。張赫宙とはいった いどのような作家なのか。なぜ戦前の台湾人作家たちは、しばしばその名を取 り上げ、模倣しようとしたのか。なぜ楊逵は彼に原稿を依頼しようとし、中国 の胡風や范泉は、張赫宙の作品を次から次へと中国語に訳したのか12。胡風の 《山靈——朝鮮台灣短篇集》では、「山靈」、「上墳去的男子」が翻訳されている が、戦後になって張赫宙の作品集《朝鮮風景》が范泉の手で翻訳され、1982 年 8月に台北の新文豐出版公司から出版された。 日本帝国における台湾人にとって、彼は一体どのような植民地作家だったの だろうか。張赫宙が左翼作家から親日作家へと変遷したことは、朝鮮人にどの ように理解されたのだろうか、台湾人作家にはどのように受け取られたのだろ うか、この点を考察してみたい。 本稿で筆者は、張赫宙の文學や文學活動が台湾人作家にどのような影響を もたらしたのかについて考察しようと思う。筆者は、張赫宙の文學活動、張赫 宙と台湾作家たちとの交流、及び台湾人にとっての張赫宙の作家像という三つ の側面から考察してみたいと思う。 10 11 12 李文卿,「帝國中的朝鮮像:朝鮮的〈親日文學〉 」、 『共榮的想像:帝國.殖民地與大東亞文 學圈(1937-1945)』 ,台北:稻鄉出版社、2010 年 7 月、288~318 頁。 巫永福,「呂赫若的點點滴滴」 ,『巫永福全集』(台北市:傳神出版社,1991 年),116 頁。 張赫宙作品が中国語で訳された作品である。 作 者 譯 者 篇 名 期 刊 頁數 張赫宙 王笛 被驅逐的人們 『文學雜誌』(1933 年、第 1 卷第 3-4 期) 79-9 7 張赫宙 黄源 叫作權的男子 『文學』(1934、第 7號) 缺 張赫宙 馬士 朝鮮文學近狀 『客觀』(1935年、第 1卷第 7期) 14 張赫宙 蔣俊儒 朝鲜文壇的作 『文海』(1936 年第 1 卷第 1 期) 56-5 8 家和作品 參考資料:『大成老舊刊全文數據庫』 http :// www .da che ngd ata .c om.n thu lib -oc .nt hu. edu .t w/se arc h/s ear ch. act ion ?k anpi an= 2&f i eld= 3&s w=张赫宙 3 二、張赫宙の生涯とその文學活動 張赫宙は戦前の日本帝國文壇ではよく知られている朝鮮人作家である。本 名は張恩重、1905年に朝鮮慶尚北道大邱府の大地主の家に生まれだが、 「妾腹」 として生まれ、生母に連れられて朝鮮の南部を転々とした。彼は、この原体験 的なコンプレックスの呪縛を一生持ち続け、深い孤独感を感じていた。彼は 1926年大邱普通學校を卒業し,在學中アナキズムに傾倒し、その後慶北の普 通學校の教員をしながら、日本語の習作を書き始めた。1929年朝鮮語で書い た作品が採用されなかったために、日本語の創作に転じ、日本文壇に進出しよ うと決意した。 1930年農本主義作家の加藤一夫(1887~1951)と知り合って、処女作「白楊 木」を加藤の主宰する『大地に立つ』に発表した。この時の作品は、素朴なリ アリズムで、アナキズムの思想に近いものが現れている。1932年、27才で「餓 鬼道」が《改造》第五回懸賞創作の第二位に入選し、文壇にデビューした。そ の後、彼は、『文藝首都』の主宰者である保高德藏と知り合った。雑誌の同人 となり、大邱と東京を何度も往復した。1936年、千葉龜雄の手紙に激励され て、日本に居を移し著作活動に専念し、日本文壇での成功を目指して努力した。 日中戦争勃発後、1939年、自分から「親日路線」を宣言し、「滿州」、「北支」 へ視察、取材旅行等を行い、各種座談会や雑文等を通じて、時局への発言も多 くなった。1943年、皇道朝鮮研究委員会委員になり、時局に応じて、作品《岩 本志願兵》や《開墾》を書いている。1930年から 1945年までの間に、長篇小 説 20篇(含朝鮮語 1篇)、短篇小説 85篇(含朝鮮語 7篇)、單行本 31冊(含朝鮮 語 1冊)を発表した 。日本文壇の中で、彼は主に朝鮮人の生活を題材として作 品を書き、その内容はどれも注目を集めた。戦後、彼は、日本の崎玉県に住み、 日本籍に帰化し、野口稔に改名している。朝鮮戦争の間、《嗚呼朝鮮》、《無窮 花》等の作品を発表した。 張赫宙の創作時期は大体三つの時期を分けることができる。初期は 1930 年から 1942年まで、中晚 期は、1942年から 1945年まで、晩期は戦後以降で ある。初期の作品は、主に小作農、地主、都會のサラリーマン等の人物を題材 として描かれ、彼らの封建性、小市民性、及び轉向の問題が扱われている。中 晚 期の作品は、滿洲開拓、內 鮮一體、歴史の題材を中心として書かれた国策文 學である。戰後になると、彼は、人道主義の立場に立って、戦後の東京と朝鮮 戦争を中心として描いている。彼の作品には、常に植民地風景の描写が欠けて おり、作品から植民地の現況の描写を排除していて、作品には作者の支配者に 対する批判意識がない。しかし彼は、伝統的な朝鮮社会の「封建性」に焦点を 絞って批判している。例えば「白楊木」、 「餓鬼道」、 「迫田農場」、 「山靈」等で ある。その外に『仁王洞時代』では、作者は都会のサラリーマンを中心として 描き、民族主義と社会主義を排除し、金銭と家庭生活を最優先する小市民的な 4 利己主義者をとりあげ、当時の朝鮮の社会状況、植民地的な現実には関心を持 たないようにしている。植民地下の朝鮮社会を背景としながら、それらの状況 をあらわす語りを排除している。作家の張赫宙が社会主義やアナーキズムに傾 斜したことのある点を考えると、ここに作家の方法意識があったことは明らか であると指摘されている13。彼は、中立で客観的な創作態度に立とうとし、民 族主義と社会主義の典型的な人物を書かなかったのである。 戦後、張赫宙の文學は「生活」と「家」の価値を強調している。そのため 彼は、「親日派」として在日朝鮮人の左右両派から指弾され、常に脅迫からの 不安と背中合わせに生きた。だが、彼は、やはり文學を捨てられず、創作活動 を続けている。晚 年になって彼は、祖国の朝鮮語と帝国の日本語を共に捨て、 英語で書くことによって、民族のしがらみを越えた世界作家になろうとした。 彼は、ただ一人の作家として、イデオロギーに左右されないという、一貫した 態度を取っていると言われている14。台湾の日本語作家は、戦後、言語の問題 で悩まされた。だが、張赫宙は、三つの言語を操って文學の世界で自由を見つ けようとした。結局、彼は、台湾の日本語作家と同じように、時代に忘れられ た植民地作家になってしまった。 戦前の朝鮮文壇では、張赫宙は常に物議を醸す人物であった。「文壇のぺ スト菌」によって、朝鮮文壇との間に齟齬が起きた。また、1938年 10月「朝 鮮文學の未來」座談会では、彼が翻訳した古典文學「春香傳」から、朝鮮語の 「翻譯可能性」についての論争がおこり、彼は朝鮮作家と激しく議論した。そ の後、彼は憤りを持って「朝鮮の知識人に訴ふ」を書いて、朝鮮文壇と決裂し たことを宣言した。 彼はなぜこのように激しく反応したのだろうか。白川の研究によれば、両 班、文人が尊敬される朝鮮社会にあって、両班ではない自分が尊敬を勝ち得る 道は文人になることしかないと考えたのではないだろうか。自尊心過剩の性格 は、被害妄想的な態度と表裏の関係にある。彼の作品もそのほかの文章も感情 的に訴えたり、他人の批判に感情的に反発するものが多いのである15。この状 況は、彼が日本文壇におけるプロ系の評論家や朝鮮文壇の人達に対してとった 反発的な態度からも伺えるのである。 張赫宙と朝鮮文壇との対立関係によって、多くの論争が起こった。その中 で、朝鮮語「翻譯可能性」についての問題、及び朝鮮の民族性に対する検討に ついてよく論じられている。南富鎮の研究によると、当時、 「朝鮮文學の未来」 の座談会では、朝鮮人作家が朝鮮文學の翻訳の不可能性を強調していたが、そ の後、そのうちの多くの朝鮮人作家の作品が日本語に翻訳された。金史良は翻 13 孫喜才「張赫宙文学における連続と非連続」 、 『日本文化の連続性と非連続性:192 0~1 970』 , 東京都:勉誠出版、2 005年、141~180頁。 14 白川豐「付論:戦後の張(野口)赫宙」、 『植民地期朝鮮の作家と日本期』、223~226 頁。 15 白川豐「廉想涉と張赫宙——朝鮮近代作家の二つの〈生〉と文学」 、 『朝鮮学報』第 20 3輯 2007年 4月、1 ~2 9頁。 5 訳機構の設立を提案するほどだった。 朝鮮文壇にとって、翻訳文學はいったいどのような意義をもっているのだろ うか。李光洙を例として取り上げると、彼は、日本語創作では創氏名の香山光 郎を使っているが、翻訳では、最後まで李光洙で貫かれている。政治的(国策 的)なものは日本名で日本語で書き、翻訳になると朝鮮的なものに回帰してく る構造である。日本語創作における体制協力と、翻訳における朝鮮的なものへ の固執が見られるのである。つまり、日本語創作には日本的な政治性が投影さ れ、朝鮮語翻訳には朝鮮的な政治性が投影されていると指摘されている。 戦時中、朝鮮語と朝鮮文化が危機的な状況のなか、翻訳者は朝鮮の文化を翻 訳を通して残そうと模索していた。日本語創作にはおいては内鮮一体の国策的 な作品が発表され、翻訳では朝鮮の民族主義を土台にした作品が多く選ばれて いる。その点、日本語創作は日本の政治性を反映する公の表の場で、翻訳は朝 鮮の政治性を反映する秘かな裏の場でもあったと指摘されている16。台湾文壇 では、40年代前半多くの中国白話古典小説が日本語に翻訳されているが、こ の状況をどのように理解したらいいのか、朝鮮文壇の状況が参考になると思う。 朝鮮の民族性の問題については、常に知識人から問いかけられている問題で ある。だが、これは、張赫宙が知識人の立場から大衆に対しての啓蒙するため に、取り上げたことはない。彼は、東京から届いた読者の手紙形式で発表した 「文壇のぺスト菌」を通じて、朝鮮文壇人の性格的な欠点を論じている。 張赫宙は、朝鮮文壇側の批判を一つずつ取り上げ、反論していた。 「餓鬼道」 は「朝鮮人が書いたから当選させた」とか、「追はれる人々」は「紹介文にす ぎず」、「権といふ男」「ガルボウ」は「唾棄すべき作品」であるというような 朝鮮文壇側の批判は、朝鮮文壇の体質化された「嫉妬心」、 「猜疑心」の現れに すぎないと反論したのである。彼は、朝鮮文壇の「嫉妬心」、 「猜疑心」を朝鮮 王朝時代の党争に由来するとし、朝鮮民族性の「遺伝的天性」とであるとした のである。また、「朝鮮の知識人に訴ふ」には、直接に朝鮮人の「ひねくれて いる」、 「激情的である」、 「落ち着きがない」、 「正義心に乏しい」などの欠点に 対してそのままに批判している。朝鮮文壇側の文人からの反論があったが、朝 鮮社会で朝鮮民族性の問題が一層展開され、社会の封建性及び民族性に対して 深く考えるようになったと指摘されている17。 張赫宙は、朝鮮文壇に排斥され、お互いの緊張状態が続いていた。しかし、 彼が、戦前の朝鮮、日本文壇、帝國の日本語圈の中で,朝鮮の代表的作家の位 置に置かれていることは否定できないのである。張赫宙の文才を惜しむ気持ち から朝鮮側では、『三千里』誌などを主宰していた金煥東と俞 鎮午らは張と近 しい関係を保っていた。また、日本に渡ってからは、《文芸首都》や《文學案 16 南 富鎮「 〈翻訳〉の政治性-戦時期における朝鮮文学の翻訳をめぐつて時期」、『靜岡大学 人文論集』57:2、靜岡: 靜岡大学人文学部、2006 年 1 月、49~86 頁。 17 南 富鎮「朝鮮文壇と朝鮮民族性の論爭」 、『近代日本と朝鮮人像の形成』、東京:勉誠出版 社、2003 年 7 月、129~149 頁。 6 内》同人誌の同人を中心として張赫宙に理解を示す文人たちとの交流は確保し ていたと言われている18。また、彼は、受賞した後、日本帝國のなかで改造社 の文化商品として「和製.国産」の植民地スターになり、朝鮮の代表的な日本 語作家であった19。1930年後期からは、彼の創作活動はピークを迎え、在日半 島人作家の代表と見られている。戦争期に入ってからは、当局にしばしば動員 された彼は、日本の文學界に利用されているが、専業作家である彼は、時勢に 従っていろいろな機会を利用しなればならなくなっていた。生計を立てるため に、「親日」の道を選ばざるを得なかったのである。 戦後、朝鮮はもはや張にとって帰って行ける所ではなかったので、日本と運 命を共にせざると得なかったと言われている。日本で著作活動を続けており、 朝鮮文學から排除されてしまった。彼は、歴史の流れから「忘れられた」在日 朝鮮人作家として日本文壇の周辺で文筆活動をしていた。「ここに日本文學界 で終始ピエロ役を担った張の悲劇がある20」といわれるが、これは、植民地作 家の共通的な悲劇であるとも言える。戦後、張赫宙は台湾人作家のような言語 転換の問題に直面することなく、書き続けているが、「読者の不在」という問 題は、最も克服しなければならない課題ではないだろうか。 三、張赫宙と台灣文壇との交流について 台灣は 1895年に日本の植民地になった。日韓合併(1910年)より 15年早い のである。それゆえに、台湾における日本文化等の影響力は、朝鮮におけるよ り強かったのである。台湾では、日本語作品の割合が次第に増えていった。ま た、1937年 4月から、新聞雑誌の漢文欄が廃止されている。40年代の台湾文 壇は、殆んど台湾の日本語作家と在台日本人作家が共に支えていたのである。 これと比べると、1941年までは、朝鮮語文壇はまだ存在しており、よく知ら れている在日朝鮮人作家である張赫宙や金史良が日本語と朝鮮語で創作や翻 訳をつづけていて、日本語作家の割合が台灣ほど多くなかったのである。 戦前期の「朝鮮ブーム」は、日韓合併前後後を第一期とし、日中戦争から太 平洋戦争に至る時期を二期とするが、それらは「官製〈朝鮮ブーム〉」である と批判されている。21即ち、それらは日本側の意図と政治性が介入したもので ある。また、大村益夫が編集した目錄 22から、当時の日本語で書かれた朝鮮文 學或いは訳された朝鮮文學の題目や数などを詳しく知ることができる。 18 白川豊「廉想涉と張赫宙——朝鮮近代作家の二つの〈生〉と文学」 。 高榮蘭「交錯する文化と欲望される〈朝鮮〉— ——崔承喜と張赫宙の座談会を手がかりに」 、 『語 文』第 136 號、2010 年、69~84 頁。 20 白川豊「張赫宙研究」、188 頁。 21 朴春日「 “韓国ブーム”の虚像と実像」、 『(增補)近代日本文學における朝鮮像』、東京:未来 社、1985 年 8 月、327~378 頁。 22 大村益夫、布袋敏博編『朝鮮文學關係日本語文獻目錄』 、東京:綠蔭書房、1997 年 1 月。 19 7 1934年 1月『中央公論』は新人発掘を拡大し、 「論文‧中間物‧創作」の懸賞 応募を行った。柳斗基「朝鮮の問題の行方」が『中央公論』 (1934年 4月、臨 時号)佳作として掲載されている。その選評によると、「特に、朝鮮、台湾の 人々から投稿された悲痛な叫び」のものが多かったと述べられている23。だか ら、1932年、張赫宙が懸賞に当選したのは、こうした朝鮮植民地状況と日本 語へ欲望の結果である24。ただ、張赫宙は朝鮮の文學青年に影響をもたらした だけでなく、台灣にも影響を及ぼした。その後、台湾の文學青年たちは、積極 的に中央文壇の懸賞応募に参加した。そのうち、龍瑛宗は張赫宙の受賞によっ て刺激を受け、自分も《改造》懸賞創作に応募してみようとしたと述べている。 懸賞応募の活動は、雑誌社の宣伝技法の一つにすぎないのであるが、懸賞小説 当選作は、そのまま作家デビューにつながったわけではないのである25。だが、 張赫宙の受賞の波紋が大きかったので、植民地文壇の文學青年が中央文壇に進 出したいという欲望を刺激したと言えるだろう。台湾人作家では、楊逵、張文 環、翁鬧等が懸賞小説に応募した。 張赫宙は、受賞後文壇の注目を浴びており、台湾の文芸雑誌からも原稿と葉 書での回答を依頼された。それらの雑誌には、三つの短い返事が掲載されてい る26。その内容によれば、それらは殆んど編集者の質問に答えるために書いた ものである。だが、小説などの作品は見当たらなかった。理由は、台湾の文芸 雑誌の性格が同人雑誌であり、彼に原稿料を払えなかったからかもしれない。 『台灣文藝』の「編輯後記」や「二、三言」には、しばしば朝鮮人作家や舞 踏家崔承喜などのことが文壇のニュースとして書かれている。これによって、 台湾の文化人は、やはり同じく植民地出身の朝鮮人の日本中央での動きに注目 していたことが窺える。また、吳 坤煌は台湾文聯東京支部第一回茶話会で、1935 年の台湾の文藝界の動きについて、次のように発言している。 例へば文評に紹介された楊逵氏、或は新年の中央公論の懸賞で佳作二位 に入つた張文環氏の如き、特に日本の文壇のレベルに肉迫してゐる。又二 三の隠れた同志は文藝春秋や改造の牙城をねらつてゐる。皆が一生懸命に 奮鬪努力してゐるから、近き將來に朝鮮の張赫宙の樣な作家がこの中から 産出されると確信する27。 23 「選者の言葉」、 『中央公論』臨時増刊号、1934 年 4 月。 南富鎮「第二章植民地の言語空間」、 『文学の植民地主義——近代朝鮮の風景と記憶』、京都: 世界思想社、2006 年 1 月,76~141 頁。 25 紅野謙介「投機/思索の対象としての文学——懸賞·小説· 相場」 、 『越境する知5 文化の 市場:交通する』 、東京:東京大學出版社、2001 年 6 月、127~152 頁。 26 「台灣の新文學に所望する事」(『台灣新文學』創刊號、1935 年 12 月 28 日、29 頁)、 「明信 片」(附錄『新文學月報』第 2 號、1936 年 3 月 2 日、3 頁)、 「諸家芳信」(『文藝台灣』第 2 卷第 1 號、1941 年 3 月 1 日、60 頁)。 27 「台灣文聯東京支部第一回茶話會」 、『台灣文藝』第 2 卷第 4 號(1935 年 4 月),24-25 頁。 24 8 昨今中央文壇をめがけて我が島の作家達は死物狂ひになつて努力した。 その意氣壯とすべし、フレフレ。 ◇ この島の真裸かな姿を創作し、鄉 土特色を發揮するのが作家達の任務 である。日本文學の尻にばかり嚙りつく必要は毫もない。臺灣は臺灣特 有の藝術があり文學があるのだ。 ◇ 徒らに朝鮮の張赫宙に見傚ふこと勿れ!張赫宙は飽迄朝鮮的であるか らえらいし、この島も飽迄臺灣的の張赫宙を產 まなければえらくなれら い。 ◇ 張赫宙は偉大な作家である。この島も張赫宙より偉大な作家多く出でよ 2 8 。 上述のように、1935年頃、多くの台湾の文學青年は、張赫宙を見習う対象 とし、中央文壇への進出を目標として努力しようとしているが、台湾的な要素 を捨ててはならないことも強調している。つまり作者は、台湾の文學青年達が 張赫宙のように中央文壇に進出しようとも、台湾文學の主体性を失ってはなら ないと考えているのではないだろうか。 戦時中の出版事情からみると、用紙の統制は法的には、1938年 8月から 始まっているが、実際的な用紙割当の開始は 1941年 6月からであった。また 1942年 3月からは全ての書籍が発行承認制となり、しかもその割当総数は次 第に削減されていった29。白川の統計によれば、張赫宙が戦前出版した冊数は、 1941年:8冊,1942年:4冊,1 943年:3冊,1944年:1冊(各々の共著は除 外)と減っているが、発行部数は 42年の《和戦何れも辞せず》、 《わが風土記》 (隨筆集)がそれぞれ 1500部、43年の《開墾》4000部、《浮き沉み》3000部, 44年的《岩本志願兵》に至って一万部が刷られるというように、部数はむし ろ増えているのである。これらの数字からみると、単純に読者の増加として片 付けられるものではなく、明らかに日本の国策のための当局の特別措置であっ たことが考慮されねばならない。しかし、当局による張赫宙の「利用価値」も 44年 1月出版の『岩本志願兵』までだったと見え、それ以後はさすがに単行 本も、作品も減ってしまっている30。 出版用紙が厳しい時期、どうして張赫宙の国策に応じた作品集『新しき出発』 が台湾で 5000部も刷られたのだろうか。このうち、 「新しき出発」は京城で国 民総力戦のために朝鮮に徴兵制を実施した記念として書かれた作品である。 28 29 30 蔭口專問屋「二言、三言」、 『台灣文藝』第 2 卷第 7 號、1935 年 7 月、131 頁。 布川角左衛門「戦時の出版事情」 、『文学』 、29巻 5号、196 1年 5月。 白川豐、 「戦前日本文学界の状況と張赫宙」、 『植民地朝鮮の作家と日本期』 、岡山市:大学教 育出版、1995 年 7月、186 頁。 9 「ある篤農家の述懐」、 「懐徳農村」、 「遼河にて」などは、二度の満州開拓地視 察で得た素材を小説化して書かれた作品である31。 〈あとがき〉には、次のように述べられている。 私はこの書が、朝鮮と同じやうに大いなる道を步 み、内臺一體、遠か らずして内臺鮮一元化するところの臺灣の同胞に讀まれることを嬉しく、 幸好に思つてゐる。 戰局は深刻である。が、われわれはより大きい歡びに輝くこころで、 あらゆる苦しみと試練に耐へよう。 南國の香り高く、色彩鮮やかな臺灣の近頃の作品は實に賢實で、優秀 作ばかりである。最近數年間の全日本の傑作小説の半ばは臺灣の作品で 占めてゐると日頃考へてゐる私なので、その臺灣の讀者にこの書が滿足 を與へるか何う危懼してゐる。 これから見ると、張赫宙は、彼の「利用価値」を再利用し、同じ殖民地で台 湾総督府に認められる内容をもう一度出版しようとしたのであろう。だが、 『新 しき出発』の発表部数は、同年に呂赫若の刊行された《清秋》の 3000部より 多かったが、台湾の読者の反応や評論者の評価が何であったかまだ不明である。 ただ、1944年張赫宙から長崎浩を通じて龍瑛宗に送った葉書が残されてい る。その內 容は、次のように述べられている。 拝啓 その後は元気ですか。芹沢さんと時々噂してゐます。台湾文芸で御作 拝見懐かしく思つてゐます。つきまして、突然お願ひです。台北太平町三ノ 九ノ一八、大木書房(李清輝)より拙著「新しき出発」が刊行されましたが、 印税を送つてくれないので、弱つてゐます。十月初めに請求したところ。十 月末と言ひ、十一月末になり、年末になり、再印刷を理由に一月と言ひ、ま だ送つてきません。本が年初に届いたので、奥附を見ますと、十一月五日発 行になつてゐます、当然もう支払はねばならず、東京なら年内のものは年末 までに片付けた筈です。後二冊も出す本があり、不信用したくありませんが。 何うも怪しいのです。今年になつて返事すらくれません。台湾青年といふこ とも(本名も)本の奥附で初めて知りました。七千部検印を押して送りまし たから(千七百五十円)になります。一つご交渉して航空で返しくれません か32。 この葉書の内容によると、二つの点を注目すべきだと思う。一つは、張赫宙 31 32 張赫宙「あとがき」、 『新しき出発』 、台北:大木書房、1944 年 11 月、228 頁。 葉書の表に次のような住所と日付に書かれている。 台湾台北市福住町三ノ/長崎浩様方/龍瑛宗様 東京中野区新山通三ノ二六 一月二十三日 張赫宙 10 は龍瑛宗と同じく改造社と深い関係を持っている植民地作家である。だから、 彼は、龍に頼んで印税の問題を打診しようとした。芹良さんが誰か、まだ不明 であるが、 『文芸台湾』が『台湾文芸』と間違って書かれているのではないか。 もう一つは、もし日本が戦争に負けなければ、張はほかの著作を出版し続けよ うとしていたということである。 太平洋戦争に突入して、時局の要請が厳しく作家達の身に迫ってきたので、 日本人の作家達の多くは方途に迷って、腰を据えての本格的な文學作品は書け なくなった。したがって、純文學的創作の出版には見るべきものが現われなく なった33。とくに専業作家として生活している在日朝鮮人作家である張赫宙が、 どのように経済の問題を解決して書き続いていたのかを考えなければならな い。それゆえに、当時、彼は、大東亜共榮圈の拡大にしたがって、日本語の文 化圏の中で自分の著作を出版する計画を立てたのではないか。これによって、 彼の生活の営みと創作活動をどちらも解決することができるようになったの である。 四、台湾人作家と張赫宙との比較 戦前、日本人評論者は、いずれも同じく殖民地出身である台灣人作家と朝鮮 人作家張赫宙と並べて論じようとした。一つの主な原因は、彼らが同じ植民地 作家であることである。張赫宙は、一番早くに日本文壇に認められた植民地か らの代表的な文學者である。植民地における文學青年が目標にした人物である。 以下では、楊逵、龍瑛宗、呂赫若、張文環を例として彼らと張赫宙との比較的 な関係を考察してみたい。 1.プロレタリア作家楊逵と張赫宙 張赫宙は、受賞する前に、かつて日本の左翼的な雑誌で作品を発表したこ とがある。彼以前の日本語の朝鮮人の作品は、いずれも日本のプロレタリア文 學運動の刺激と支持の中で生まれ、それらの機関誌に発表されたものであった。 したがって、『改造』の懸賞創作賞の受賞によって日本文壇に登場する、最初 の朝鮮人作家は張赫宙である34。彼は、最初、東京と朝鮮との間で往来してい たが、ついに東京に移住し、創作活動を行おうとしたのである。当時、文壇の 日本作家芹澤は、彼が日本文壇に「污 染」されるのを心配して、次のように述 べている。 33 34 岡野他家夫「第五章 昭和時代中期」 、 『日本出版文化史』 、東京:春歩堂、195 9年 7月、445 頁。 任展慧「張赫宙と日本文壇への登場」 、 『日本における朝鮮人の文学の歷史──1945 年まで ──』,東京:法政大學出版社,1994 年 1 月,頁 202。 11 作者の成長のためには郷土を離れて上京してはいけなないと、忠告したこ ともある。どうやら弱い魂や性格を持つてゐるやうであるから、郷土にあ つてこそ鋭敏に郷土の匂を反應し、悲しい民族の憤りを代つて激しく憤つ てゐられたのだが、東京に住むやうになつては、その鋭い弱さの故にまた、 様々な影響をただ受けて壓倒せられ、處女作以來持つてゐる作家としての 特長を心の裡に毀してしまひはしないだらうか。それを同じ作家として私 は愛情から惧れるのである。半島の大衆を代表した筈の作家が、半島から 離れて中央に移ることに依つて己の藝術を磨滅することは日本の讀者だけ の損失ではない。地方にあつて郷土の魂をわが文學に生かして行くことが、 どれほど貴しことか、そして、日本でも必ずしもそれが不可能ではあるま い35。 だが、この忠告は彼の耳に入らなかった。彼は多くの作品が改造社の雑誌に 掲載され、文壇で活躍している。「何も書けなくなつて」( )から「餓鬼道」 の世界から後退した場でのエキゾチックな素材の面白さだけをねらって器用 に細工するという風土的興味への傾斜が色濃く現れ始めている36と言われてい る。それゆえに、徳永直に「朝鮮の作家に張赫宙君が、最近比較的小ブル的テ イマに移行しつつある。37」と指摘されている 1934年楊逵は「新聞配達夫」によって《文學評論》懸賞小説の第二位(第 一位欠)に入選し、張赫宙の受賞より二年遅れた。受賞した時には《文學評論》 には色々な審査意見が掲載された。その後、德永直は、楊逵と張赫宙を比較し、 次のように述べている。 これはついでに紙上を通じて、張君に知らせたいのだが、台湾から楊 逵といふ若い人が出た。この人は作家としてはまだ君に及ぶない、しか し非常にガツチリした氣魄をもつてゐる。彼の「新聞配達夫」は本島人 の間で、大変な反響をよび起し、そのために臺灣字の新聞で連載されて ゐた「新聞配達夫」の批評は、掲載中止を命ぜられたといふ事を、その 新聞自體が社告を出した程である。君にとつて素晴らしい競爭相手では ないか38。 これ以外、壺井重治は、また、『文學評論』の「文芸時評」には、楊逵と張 赫宙を比較し、次のように述べている。 それらに比べると同じ殖民地出身の作家でも、張赫宙の文章は非常に 35 芹澤光治良「張赫宙と茅盾:郷土的作家の離郷の問題」 、 『都新聞』 、1937 年 5 月 4 日。 任展慧、『日本における朝鮮人の文学の歴史』 、207 頁。 37 德永直「プロレタリア文壇の人々」 、 『行動』 、第 2 卷第 12 號、1934 年 12 月。 38 德永直「プロレタリア文壇の人々」 。 36 12 ちがつたスタイルをそなへてゐる。この文章の相違が何處から來てゐる かを檢討することは、確かに意義のある題目の一つであるが39。 壺井と徳永の見方は、共通して楊逵の方により素朴さを感じ、張赫宙に素朴 さが薄いことを指摘するものである。作家の個性の相違を超えて、素朴という イメージの濃淡に注目する必要があるのは、そのエキゾチシズム認識が植民地 を想像/創造する時の重要な手段である40と指摘されているからである。これら の評論には、中央文壇の植民地作家に対する期待や指導も反映されているので はないか。それゆえに、張赫宙は德永の批評に対して次のように反発している。 このやうに私は決して朝鮮を代表とした作家だとは思つてゐないです。私は 単に張赫宙一個人としての作家になりたいと思つてゐます。(略) 張赫宙をなぜ當り前の、一人の作家だとはみないですか。朝鮮人だから、と いふ眼でみることは侮辱ではないか。(略) しかし、作家としての私は自分の個性を殺したくはないのです。私は、私と 、 、 、 しての藝術感つてものがあります41。 張赫宙は、上のようにプロ系の評論家に対して強く反発していた。また、台 湾人作家との比較されることに対して次のように述べている。 朝鮮人と臺灣人がどつちがよけいに發禁を喰ひ拘束されるか見てやら うてな口吻をもらすのは甚だ吾々植民地人をみくびつた言ひ方ではないで ママ せうか。私はことさらに揚逵氏が台灣人だからといつて競爭したくないはな いです42。 これによれば、張赫宙は日本文壇でどのように植民地作家を評価するかの基 準点として見られているのである。彼の作品は、民族主義者とプロレタリア系 の評論者から繰り返して検証され、評価されているも。これは、植民地出身の 作家である彼の逃れられない宿命と課題である。 台湾人作家である賴明弘は「新聞配達夫」の受賞後、台湾人の目から次の ように二人の植民地作家と比べて述べている。 39 壺井重治「文藝時評」、 『文学評論』第 2 卷第 2 號、1935 年 2 月。 山口守「創造/想像される植民地──楊逵と張赫宙」 。 41 張赫宙「私に待望する人々へ——— 徳永直氏に送る手紙—— —」 、 『行動』第 3 卷第 2 號、1935 年 2 月。 42 同上。 40 13 勿論我々台灣人が日本の作家に認められたからと云つてこれで滿足する のではない。「新聞配達夫」は未熟の新作品であることは否認できない。 創作筆法の幼稚は到底朝鮮の張赫宙の比ではないが、張赫宙の作品は楊 逵のやうな植民地の歷 史的現實の生々しさが取り扱われてゐない。そこ にこの「新聞配達夫」の價值 が認められてゐる43。 以上のような評価からみると、賴明弘の意見は日本文學者とほぼ一致している。 それにもかかわらず、張赫宙は、楊逵に対してあまり悪意を持たなかった。彼 は、楊逵が主宰する『台灣新文學』からの質問「一、植民地文學の進むべき道; 二、臺灣に於ける編輯者作家讀者への訓言」に対して答えている。彼は、次の ように述べている。 朝鮮や臺灣などのやうな植民地で生產 される文學を植民地文學といふ すれば、かりに廣い範圍の内容を含むことにならう。しかし、私は、例 へばこの朝鮮に發生した朝鮮文學を特に「植民地文學」といふ特殊の名 稱を附し、そういふ狹い世界に閉ぢ込めようとは考へてゐなかつた。 (略) 成る程朝鮮は植民地には違ひないし、 「植民地文學」を「植民地」を題材 にした文學といふ風に解釋するならば、例へば農民文學、地方小説、都 會小説といつたやうな區別の仕方だと見なすならば私は容認する。(略) 今後のすゝむ可き路も他のプロ文學と歩調を合はして進むであらうと思 ふ。44 上述のように、張赫宙は「植民地文学」なる特殊名称を好まないが、プロレタ リア文学という特殊の文学になると、かなり鮮明した特徴を帯びてくると思っ ている。『台灣新文學』のプロ系の同人雑誌が認識されるうえに、植民地にお けるプロレタリア文学者の連帶関係が強調されている。その文章からは、一部 の内容が削除されている。それは、植民地における檢閱 の問題を避けるため、 編集者によって削除されたのではないだろうか。 二人は、日本文壇にデビューした時、多くの日本プロレタリア作家の好意 を受けて、色々な交流活動ができたのである。張赫宙は朝鮮の代表者であり、 楊逵は台湾の代表者である。それぞれは、プロ系の雑誌、例えば『文學案內 』 と『文學評論』に作品を発表している。彼らは、1933年から 1935年まで植民 地作家が日本雑誌に発表した一番目のピークに迎えている代表作家である45。 43 賴明弘「読者評壇──植民地文学を指導せよ!」、『文學評論』第1卷第4號、東京 : ナウカ 社、1934年11月。 44 45 張赫宙「台灣の新文學に所望する事」、 『台灣新文學』創刊號、1935 年 12 月、29 頁。 白川豐「日本雑誌の発表された旧植民地作家の文学、2~20 頁。 14 1936年出版された『弱小民族小說 選』46では、胡風は張赫宙「山靈」(馬荒譯) と楊逵「送報伕」(胡風譯)を選んでいる。このことから、彼らは、日本文壇で よく知られている植民地作家であると考えられるのではないだろうか。 二人は、同じく植民地の人々の生活を描いているが、植民地文壇との関係が 全く違っている。張赫宙は、30年代前半、まだ朝鮮語によって創作していた が、その後、朝鮮文壇側からの酷評に対しての反論や、『春香伝』の翻訳の問 題の反応が激しかった故に、朝鮮文壇との関係を断絶するようになり、在日朝 鮮人作家として日本文壇で大活躍していた。これに対して、楊逵はかつて台湾 話文によって創作したことがあるが、戦前ほぼ日本語で創作していた。楊逵に とって文学活動は、社会主義の理想を実践するための一つの方法である。受賞 した後、彼は日本文壇と台湾文壇との重要な架け橋になっている。とくに『台 湾新文学』には、積極的に日本プロレタリアの作家たちの言説が紹介されてい る。戦後初期、彼は中国から渡ってきた進歩的な知識人と積極的に交流してお り、中日対照の本や雑誌を刊行していた。30年代前半には、二人は常に農民 の生活を題材として扱っていたが、その後、張赫宙は、国策文学に傾斜して、 日本文壇で親日作家の役割を果たしている。 2.《改造》懸賞創作の受賞者である龍瑛宗と張赫宙 龍瑛宗は 1937年に《改造》懸賞創作を受賞した時、インタビューを受け、 「台湾の張赫宙」47と称され、文壇から多くの注目を浴びた。しかし、彼は、 張赫宙と同じように植民地文壇からは肯定されていなかった48。彼は、東京へ 出発して《改造》懸賞創作の賞を受け取る前に、改造社を通じて張赫宙に手紙 を送った。張赫宙かは、龍瑛宗に直接、保高德藏を訪れるほうがいいと勧めた。 それゆえ、彼は、東京に着いてから、文芸首都社に保高を訪ねた。 《文芸首都》 の編集者保高德藏は、個人の朝鮮経験に基づいて、来日の植民地作家を好意を もって面倒を見ていた。とくに朝鮮人作家に対して、生活の世話だけではなく、 雑誌の紙面を提供して発表の機会を提供していた。張赫宙と金史良は、日本に 移住した初期、彼の世話を受けている49。龍瑛宗は、帝都の旅が終わって帰台 後、保高からの激励を受け、《文芸首都》の同人たちと交流を行っている。彼 は、積極的に日本に寄稿し、德高保藏を通して金史良との手紙で交流したこと がある50。 植民地作家の在日の文学活動は、殆んど日本プロレタリア文学運動との提 46 世界知識社『弱小民族小說選』、上海:生活書店、1936 年 5 月。 「台灣文壇の新人/颯爽、檜の舞台に登場/ 劉君のパパイヤのある街/ 「改造」懸賞創作に入 選」 、 『台灣新民報』(龍瑛宗的剪報資料)。 48 拙論「殖民地文本的光與影──以〈植有木瓜樹的小鎮〉為例」 、『台灣文學學報』第 13 號、 2008 年 12 月、205~243 頁。 49 保高みさ子, 『花実の森——小説文芸首都』 、東京:立風書房、1971 年 6 月、20 頁。 50 拙論「龍瑛宗と『文芸首都』同人との交流」、 『天理台湾学会会報』第 12 号、2003 年 6 月、 71~84 頁。 47 15 携関係によって行われている。だから、それは、日本プロレタリア文学の一環 とされてしまう。だが、龍瑛宗は、このルートを通して日本文壇との人脈につ ながったのではなく、懸賞小説の受賞によって日本文壇の人脈に入ったのであ る51。この経歴は、張赫宙が日本の中央文壇に進出した情況に似ているが、張 赫宙は、最後には教職をやめて、東京に移住して文学創作に専念しているが、 龍瑛宗は、家計のために台湾銀行の仕事を続けている。改造社の山本實彥 社長 は何回も書簡を通じて龍瑛宗との連絡を取っており、ある程度のつながりを維 持しているが、再び「台湾の張赫宙」を複製することはできなかった。 二人は、同じく留学の経歴を持っていなかったので、コンプレックスを持 っている。龍瑛宗の個性は內 向的であり、台湾では客家の行商の子でもあった ので、台湾文壇からの批評に対して、張赫宙のように激しく反発せず、沈黙し て、弁解しようともしなかった。40年代、閩南人を中心とした《台灣文學》 から排斥されても、彼は、文学創作を通じて、自分の存在感を示している。 つまり、龍瑛宗は張赫宙と同じく学歴が高くなかったが、懸賞小説の受賞 者という経歴がよく似ているのである。だが、個人の性格と選択においては、 受賞後の文壇における役割が全く違っている。 3. 文學才子呂赫若と張赫宙 巫永福は、かつて呂赫若の「赫」が張赫宙から取った字であると述べてい るが。これからも、張赫宙の文學は、同時代の植民地作家に多かれ少なかれ影 響をもたらしていると言えるかもしれない。だが、高見順は、呂赫若の「合家 平安」、「月夜」を読んで、次のような感想を述べている。 私は、朝鮮の作家の張赫宙君を思ひ出した。張君は私の友人であるせ ゐもあるが、張君を思ひ出したのは、呂赫若氏と張君と作の感じが似て てゐるからだ、呂赫若氏は張君と同じ力量(ちょつと失禮な言ひ方だが) だと思つた。52 二人が作の感じが似ていることは、よく指摘されている。台北帝大国文學教授 瀧田貞治は呂赫若の《清秋》序文53に、特に上述の高見順の賞賛の言葉「説話 體小說 作家としての呂赫若を朝鮮の張赫宙と同じ力量を推賞し」を引用してい る。文末で植民地の国語普及の問題を取り上げ、在地作家に課せられていると 述べている。呂赫若の「合家平安」、 「月夜」には、台湾の伝統社会の封建性と 51 52 拙論「揚帆啟航─殖民地作家龍瑛宗的帝都之旅」 、『台灣文學研究學報』第 2 期,2006 年 4 月,29~58 頁。 高見順, 〈小説総評—昭和十八年上半期の台湾文学—〉 , 《台灣公論》第 8 卷第 8 期,1943 年 8 月。 53 呂赫若,《清秋》 ,台北:清水書店,1944 年 3 月。 16 後進性が書かれている。これは、張赫宙の初期作品に、同じく殖民地における 家族的な封建性などが扱われていることと同じと言えるかもしれない。高見順 は、封建性に対して批判する力量が同じであると言っているのではないか。 1943年には張赫宙の文學が国策文学に傾くようになったが、この発想は、や はり二人がともに植民地作家であり、小説の題材がよく似ているからであろう。 さらに、当時、張赫宙と並んで評価されることが光栄だと思われていたのかも しれない。 4.台灣文壇のリーダである張文環と張赫宙 台湾人作家のクループと友好関係を持っている台北帝大教授中村哲は、張 文環に対して評価した時、「朝鮮の李光洙や張赫宙に對抗し得る臺灣文學の選 士たる任務が彼に課せられてゐることを自覺してほしい54」と述べている。李 光洙は、1917年『每 日申報』に朝鮮近代文学の第一篇長篇小說 『無情』を発 表したのち、新聞の編輯を務めながら、朝鮮独立運動を進めていた。1937年 に日中戦争が勃発すると、彼は、転向して親日団体「朝鮮文人協會」の会長を 務め、香山光郎と改名して、積極的に、戦争宣傳に力を注いでいる。彼は、文 学の面では、朝鮮の多くの作家に大きな影響を与えたので、韓国近代文学の父 と尊称されている。中村は、台湾文壇のリーダである張文環を励まそうとして、 李、張二人を取り上げたのではないか。張文環に、もっと台湾文壇への影響力 を発揮してほしかったのではないか。 文学風格については、戦後、王詩琅が、張文環の作品について、張赫宙と比 較して次のように述べている。 記得遠在日據時期,筆者讀過他(張文環)的作品所獲的印象,覺得有如 在 日本文壇活躍的朝鮮作家張赫宙初期的作品的風格,縱然內 容、題材,描 寫手法及其意義各不相同,但同樣粗獷,猶如天馬行空,一種壓迫感令人 非讀到結末不忍掩卷的力量卻是沒有二致的。兩人的作風都是『粗線條』 的。55 上述したように、王詩琅は印象的にこの二人を比較して評価したのである。注 目すべきなのは、戦後になっても、日本統治期における日本語世代は張赫宙を 忘れていなかったということである。民族の立場から張赫宙を批判するのでは なく、文学的な「ほねぶと」という特徴によって評価している。さらに、王詩 琅の植民記憶には、張赫宙が成功した植民地作家として残っていることが窺え る。 つまり、戦前の台湾人作家、或いは評論家は、張赫宙の文学に対していず 54 55 中村哲,〈論近日的台灣文學〉 ,《台灣文學》第 2 卷第 1 期,1942 年 2 月。 王詩琅「粗線條的人粗線條的作品」 、『台灣文藝』第 59 期、1978 年 6 月、115~118 頁。 17 れも彼の初期作品を基準として評価している。40年代前半、彼の国策文学に 対しては、あまり触れていない。それは、同時代の作家達が彼の行為に同情と 理解をし、認めているからかもしれない。戦時体制における協力問題では、個 人的な意志は常に抹殺されるのである。張文環は台湾決戦会議で、「台灣には 非皇民文學はありません。若し假に非皇民文學を書く奴が居れば須らく銃殺に 處すべきである、と沈痛の辯を述べた。56」と発言している。こうしてみると、 戦争末期まで作家達は、当局との間に緊張感があったことが感じられる。張赫 宙の、一人の植民地作家としての日本文壇での動きや言説は、もっと注視され ていたのではないか。専業作家である彼は、生き残って著作の印税をもらうた めに、国策文学を書かなければならなかったのではないだろうか。 「張赫宙」という名前は、かつて日本文壇でよく知られて活躍していた植民 地作家の名字だと思われている。彼は台湾の日本語世代が憧れ、忘れられなか った朝鮮人作家である。植民地の文学青年は、彼のように日本文壇に進出しよ うと夢を膨らませたのである。彼自身がこのような役割を果たそうと思わなか ったが、彼は、歴史の責任を背負わなければならなかった。彼は、一人の作家 として書いたものが認められる文学者になろうとしたが、この夢が叶うことは 一生、なかったのである。 五、結語 日本文壇から張赫宙をみると、彼は植民地から来た「朝鮮人」作家であるが、 朝鮮文壇から彼をみると、彼は「在日」朝鮮人作家である。さらに、日本帝国 における「日本語」作家である。大東亜共栄圏では、彼のニュースを常に各地 の「親日」雑誌で見ることができた。言い換えれば、彼はお手本として日本語 圏ではよく知られている朝鮮人作家であり、日本語で朝鮮文化を紹介している 人であった。彼は時代の流れに従って、プロレタリア文学者に賞賛された作品 を書き、戦争中、態度を変えて国策文学を書くようになった。だが、いくら題 材が変わっても、彼は、自分の体験に基づいて書き続けていた。彼は朝鮮の農 民、満州国の朝鮮人移民や在日朝鮮人を書こうとしたが、いずれも「在日」朝 鮮人の立場から描いている。彼は、帝国と植民地とのはざまで、朝鮮民族が置 かれている状況がよく見えるようになり、独特な視点を提供することができた。 これは、張赫宙文学で見逃すことができない点である。 張赫宙は、戦前、雑誌メディアとの関係を上手に保っていた植民地作家であ る。日本の出版界では、ほかの植民地作家とは比べられないほど多くの単行本 が出版されている。彼は日本文壇への進出に成功したお手本だと見られている。 しかし、彼の本当の読者は、どこにいるのだろうか。売れる作家として、彼は、 朝鮮文化によって日本の読者にどのような好奇心や新鮮感を感じさせたのだ 56 「台灣決戰文學會議」、 『文藝台灣』終刊號,1944 年 1 月。 18 ろうか。この点はもっと深く究明しなればいけない。戦後になると、彼の文学 活動は、文化と民族のアイデンティティなどの問題を越えた。それゆえ、白川 豊は彼を「知日派」作家として彼の戦後の文学を一貫させようとしたのではな いか。 戦前から戦後まで、台湾の日本語世代には、朝鮮人作家張赫宙の文学に対す る深い印象が残っている。彼らの蔵書57にも日本語によって訳された『朝鮮文 学選集』を発見することができる。彼らは、30年代前半の張赫宙に対して論 じているにすぎない。戦争中、彼の「堕落」に触れて責めるようなことはあま りなかった。これは、台湾の日本語作家がほかの朝鮮人と同じ民族的感情を持 っておらず、また、張赫宙と同じく植民地の体制に悩まされた経験を共有して いるからではないか。 アジア植民地の「台湾」の視点から見れば、張赫宙文学は、日本帝国中の朝 鮮文学であり、単なる在日朝鮮文学ではない。彼は、日本文壇の植民地作家の 模範として現れており、ほかの植民地作家が憧れていた対象である。日本帝国 による植民地作家の動員の成功の好例である。つまり、戦争中、彼の植民地文 壇に対する影響力を過小評価することはできないのである。 57 台湾大学図書館「楊雲萍文庫」には『朝鮮文学選集』 (東京:赤塚書房、1940 年 3 月)が所 蔵されている。 19