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Title Author(s) 啓示と星座 : ベンヤミン「認識批判序説」について 長濱, 一真 Editor(s) Citation Issue Date URL 人間社会学研究集録 .2013 ,8 ,p.3-22 2013-03-29 http://hdl.handle.net/10466/12847 Rights http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ 人間社会学研究収録 8(2012),3-22(2013年3月刊行) 啓示と星座 -ベンヤミン「認識批判序説」について- 長濱一真∗ はじめに ワルター・ベンヤミン Walter Benjamin の Ursprung des deutschen Trauerspiels〔『ドイツ哀悼劇の根源』、以下『根源』と記す〕には erkenntniskrithische Vorrede〔「認識批判序説」、以下「序説」〕が本論の前に 掲げられており、『根源』のなかでもとりわけこの「序説」には注意が多々向けら れ、そこから数節が引かれたうえで論述されることもままある1。が、しかし最終的 に『根源』に付された「序説」とその草稿との異同を前景にそこに読まれる意義を 積極的に解読した――例えば「序説」の不明な部分に関して直接的な解答がそのど こかに隠されている補助材料として草稿が参照される、等々ではない――論考は見 られない2。本稿ではその課題を、特に啓示と星座の概念を核としつつ、そしてベン ヤミン自身のドイツロマン派論との関係も含め、草稿と決定稿との異同を捉え、考 察することで行なうこととする3。 ∗ 1 2 3 大阪府立大学大学院人間社会学研究科博士後期課程(人間科学専攻) それは日本だけでなく、世界的にもそうなのであって、ベッティーネ・メンケが以下に記すと おりであり、引用にあるように、 「序説」に関しては自身の読解を諦めるほどだ。 「 『哀悼劇』 論の継承史においては「認識批判序説」がながらくまったくほかを優越する位置価を持ってき ている、 〔…〕 。それ故私はここで「序説」については見合わせていかなる「認識批判序説」― ―その継承においてとても優先的に扱われてきた――の固有の読解も行なわない」 (Bettine Menke, Das Trauerspiel-Buch, transcript, 2010, p. 11) 。 ベンヤミンの「序説」を主題に扱った論文には日本語文献では、山本拓也「ベンヤミンにおけ る叙述の意味と意図について―「認識批判的序論」の読解―」 『文明構造論:京都大学大学院 人間・環境学研究科現代文明論講座文明構造論分野論集』6 巻 1-14 頁 2010 年、道簱泰三「言 語と歴史――ベンヤミンの「認識批判的序論」をめぐって」 『ドイツ文学研究』38 巻 123-178 頁 1992 年がある。 本稿は、これまでの筆者のベンヤミン研究が纏められる予定の博士論文の最後を締めるものにな るだろう。筆者の博士論文はこれまで総体的な読解が敬して遠ざけられてきた『根源』の、総体 的な再構成を試みるものであり、のちに本論で詳細に確認するとおり、 「序説」は一度「序論」 として草稿が書かれたものの、 『根源』本論を仕上げた後に不充分として大幅に改稿された。し たがって、博士論文において『根源』本論が再構成されたのち、草稿である「序論」と決定稿で ある「序説」との異同をめぐる本稿は、改めて、あるいはまとめに代えて本論の内実を再確認す る位置づけを与えられる。すなわち本稿は、筆者の博士論文で論述される『根源』本論の叙述に おいて形成された、 「序論」 草稿段階ではいまだベンヤミン自身に自覚されていなかった思考が、 それが「序論」と「序説」のあいだの差異として読まれるものと捉え、論述される。 1 4 長濱 一真 「序説」成立過程 まず「序説」を含めた『根源』の成立過程を押さえ、「序説」草稿及び決定稿そ れぞれの『根源』での位置を確認したい。ベンヤミンは『根源』執筆に本格的に取 り掛かるまでそれに纏わる多くの引用や独立した小論などを書いてはいたが、とも かくも完成された著作のなかで最も長編で紛れもない主著でもある『根源』が書き 始められたのは、知られるように、それを教授資格申請論文として纏めあげるべく 急を要してからだった。1924 年 3 月 5 日ゲルショム・ショーレム宛て書簡では「ま だいまは書き始められていない4」と述べられながらも、その段階での構想が記され ている。「冒頭と結論には(いうなれば装飾的な縁取りとして)文芸学に対する方 法論的覚え書が提供されるのだが、そこではなるべく文献学についてのロマン派的 な概念が披露されることとなるだろう。それから章が三つ。哀悼劇の鏡における歴 史について、16・17 世紀におけるメランコリーの秘方的な概念について、アレゴリ ーとアレゴリカルな芸術形式の本質について5」。章立てもその内実もいずれも、メ ランコリーについては第一部第三章で触れられ、「アレゴリーとアレゴリカルな芸 術形式の本質について」の論述が決定稿では第二部を占めることを除いては『根源』 とはほとんど重なるところがない。 同年 6 月 13 日のショーレム宛て書簡で『根源』の仕事が思いのほか「ハードに なっている」ことを洩らし、実際先の構想がもはや書かれるべき『根源』には到底 通用しないことが自覚され改めて手探りの状態から再開されていることが、「叙述 の経過において、そこで事柄と哲学的展望が近くなり互いに緊密さが高まれば、楽 になるだろう」の言葉に幾許かなりとも読みとられ、さしあたり現在は序説を書い ていることが記されている6。 同年 9 月 16 日ショーレム宛て書簡には「この数カ月――つねに楽だったとは限 らない――に、論文の認識理論的な序論 die Einleitung、第一章:哀悼劇における 王、おおよそでなら第二章:哀悼劇と悲劇も仕上げられたので、なお第三章:アレ ゴリーの理論とひとつの結論が書き残されている7」とあり、少なくとも本論に関し てはおよそ現在読まれる『根源』に近いものがこのとき書かれつつあったと推定さ れる。察するにこの段階での第一章が『根源』第一部第一章に――あるいは第一部 第三章とに分割されて――、第二章がおなじく第一部第二章にあたり、いまだ書か れていない第三章が第二部に展開されたのだろう。ここで確認すべきは恐らくこれ までの経緯から推すに、序説 die Vorrede――まだ序論 die Einleitung と呼ばれて 4 5 6 7 Walter Benjamin, Gesammelte Briefe bandⅡ 1919-1924, Suhrkamp, 1996 p. 432〔以下 GB2 と記す〕 Walter Benjamin, GB2, pp. 436-437 Walter Benjamin, GB2, p. 464 Walter Benjamin, GB2, pp. 481-482 2 啓示と星座 5 いる――が最初に書き始められたことだ。現在 Benjamin Gesammelte Schriften band 1-3 に読まれる草稿はこのあたりの段階の初稿と見做して大過ないだろう8。 実際、同年 12 月 22 日ショーレム宛て書簡では次のように書かれている。「私が ここを提出しようと考えている、その部分の下書きは、終わった。これが主要部分 だ。序論と結論――方法論的な問いに向けられている――を私は一時見合わせるこ とにした9」。つまり、遂に書かれなかった結語についてはここでは措き、一度は書 かれたはずの序説/序論はここで一旦取り下げられている。「外見については論文 は(序論と結論は換算しないで)次のように呈示されるだろう。表題はドイツ哀悼 劇の根源。Ⅰ哀悼劇と悲劇 Ⅱアレゴリーと哀悼劇。両方の部が三つの章に区分け されている10」とあるとおり、いまひろく読まれる『根源』と同じ章立てとなって いて、本論に関してはほぼ決定稿に近いかたちができあがっていたものと思われる が、ここに至って「序説」草稿はベンヤミン自身『根源』に据えるにあたり不充分 で、故にその改稿が不可避と判断されたのだ。1925 年 2 月 19 日ショーレム宛て書 簡に至って、それが最終稿とまったく同一であるか否かはともかく、それに近い「序 説」改訂稿が書きあげられたことが報告されている。 啓示から星座へ 以上から踏まえるべきは草稿と「序説」とのあいだの差異には『根源』が書かれ つつあるあいだ次第にベンヤミンにおいて輪郭が明確に浮きあがった、当初は思い もよらなかった『根源』の相貌が、刻印されていることだ。そして、両者を読み比 べたとき、草稿が多くの節に、ベンヤミン自身『根源』の叙述をそれに喩えたモザ イクもしくはトラクタートのように、分断され、しかもそれらひとつひとつの節の うちの幾つかは、ばらばらに各処から拾いあげられた幾つかの破片‐断片を順序も 崩しながら結合し、書き換えられ、書き加えられたものであることにはむろん、そ のこと自体で興味が引かれる。が、それを措いて最も注意を向けるべきは啓示と星 座のあいだでの転換にほかならない。 星座‐布置 die Konstellation とは「序説」中最も人口に親炙され「序説」に言及 される際には必ずや触れられるのみならず、しばしばこれひとつで「序説」が語ら れるほどの、確かに核をなす――ベンヤミンによれば概念ではなく――理念の譬喩 だが、この語は実は草稿では一度として現われていないのだ。かろうじて唯一の例 8 Benjamin Gesammelte Schriften の編者もこれと同様の判断をしている。Walter Benjamin, Gesammelte Scriften band 1-3, Suhrkamp, 1991 pp. 924-925 参照〔以下 GS1-3 と記す。ほかの場 合も同様〕 9 Walter Benjamin, GB2, p. 508 10 Walter Benjamin, GB2, pp. 508-509 3 6 長濱 一真 外に挙げられるのは「理念の布置 die Konfiguration11」だけであり、この言葉は「序 説」決定稿でも残されている。 他方、草稿では頻りに主題にあがりながら決定稿に至る過程で姿を消した語があ り、それは啓示 die Offenbarung だ。これも例外はあり、そのひとつは「哲学が啓 示として語る、と思いあがるのではなく12」と否定的にのみ言及された箇所であり、 最終稿では「哲学が啓示しつつ語ると思いあがるのではなく13」と書き換えられて いる。かなり改稿が加えられているとはいえ、草稿そのものが完膚なきまでに棄却 され顧みられなかったわけではなく、幾つかの箇所、幾つかの断片は充分に活用さ れていながら、明らかに自覚的にベンヤミンによって抹消線を引かれた啓示から、 決定稿ではひとつの節の表題にまで掲げられた星座への転換――啓示に代わって、 ではなく――には故に、しばしばまことしやかに唱えられる「前期ベンヤミンの総 決算」なる規定以上の何かが『根源』には内包されており、それがこの差異に現出 しているといえないだろうか。この場合、とりわけ念頭に置かれているのは「前期 ベンヤミン」の成果のひとつであるドイツロマン派論を無批判に、かつ連続的に『根 源』にあてはめることをもって後者を理解するようなものだ。本稿は両者が決定的 に異なることを明確に示すだろう。ドイツロマン派の名は先に引いた『根源』当初 の構想を明かした書簡のなかにも読まれたが、「序説」決定稿とドイツロマン派の 思考を明確に峻別することは、したがって草稿と決定稿のあいだの転換を捉えるこ とともかかわる。しかも、それは後述するように、直接的にかかわるものなのだ。 もちろん、繰り返すが、最初の構想からさらに数ヵ月の熟考を経て改めて書き始 められているのだから、既に草稿においても決定稿で通用する、故に実際採用され た節、言辞が幾つも読まれるのは確かだ。だが、そこには仮に読み流してしまいそ うな微妙な差異ではあれ、決定稿からみれば草稿ではいまだベンヤミンにも明瞭に 捉えきれていなかった、そのためその内実にも無視し難い齟齬を生じさせる差異を 明らかにすることが、本稿の狙いとなる。 『根源』の本論を読めば、事実、星座なる語はその第二部第三章、すなわちまさに 終幕に差し掛かったところで集中的に現われている。現在「序説」に読まれる星座 の内実を確たるものとしたのは、 だから上記のことを鑑みても草稿が書かれた段階、 したがって『根源』が書き始められた段階ではなく、ましてや 1916 年に書かれた、 もちろん『根源』に繋がる論旨も含んではいる着想を纏めたふたつの小論ででもな く、そのほかのベンヤミンの論考においてでもない、――たとえ事後的にその兆し を見出せるとしても。 翻って啓示についてはその出自を指示することはたやすい。1924 年 6 月 13 日シ ョーレム宛て書簡でこの「序説」に触れた際その表題を挙げてショーレムに期待さ せているように、ベンヤミン自身がこれを Über Sprache überhaupt und über die 11 12 13 Walter Benjamin, GS1-3, p. 946 Walter Benjamin, GS1-3, p. 937 Walter Benjamin, GS1-1, p. 217 4 啓示と星座 7 Sprache des Menschen〔「言語一般及び人間の言語について」、以下「人間の言 語」〕に次ぐ、それを継承しつつもより踏み込んだ、とは「人間の言語」の結末に 見た名を毀損した人間の言語にみずからが途方に暮れていた場所から幾らかでも前 進した思考が繰り広げられる、そのような論考にしたいと考えていた。もちろん「人 間の言語」には啓示が重要な概念として扱われている。 啓示 したがって、草稿が書き始められたときに、そこに「人間の言語」から啓示の概 念が移植されたとしてもなんら不思議ではなかった。「人間の言語」は膨大な言及 が為されている一筋縄で片づかない論考だが、ここでは啓示について次のことだけ は押さえておきたい。すなわち「ひとが表現されないもののパースペクティヴにお いて同時に究極の精神的本質を見る」傾向にあるのに抗して、「言語的に最も実在 するもの、とはつまり最も確定された表現、最も簡潔かつ含蓄あるものそして最も 脇へと動かし難いもの、ひと言でいえば、最も表現されてあるものが、同時に、純 粋に精神的なものなのだ」、とベンヤミンが主張するとき、その言語的‐精神的な 表現されてあるものが啓示されてあるものの謂いなのだ14。 ただし言語的と規定されるとおり、それは人為、制作的あるいは主観的な表現で はない。詳述の余裕はないが、人間の言語が事物の言語と神の言語とに隣接し三つ 巴に絡みあったなかで、まさに言語を人間が支配し統制し任意に使用するツールと するのではなくて、人間が言語においてあり、その表現にあって初めて――むろん 言語を自在に総べる類いのそれではなく――精神と呼べるなにがしかが人間に宿る ‐受胎される。故に啓示は特殊かつ特権的な魔術師的能力によって随意に引き起こ される神秘的な奇跡ではないし、だれもが躓く出来事でもない。 さしあたって注意すべきはこの啓示にあっては、「人間の言語」に叙述される堕 罪、失楽園の契機以前の、神の言語と幾許なりとも親和的な状態にある人間の言語 ――それでも両者にはそもそもの始めから修復不能な決定的な差異がそのあいだに ひらいていたのだが――、その核たる名の最も楽園にふさわしい状態をともかくも 理想として措定されていることだ。ベンヤミンにもその叙述にゆらぎが見られない わけではないが、「人間の言語」におけるアンチノミー、命題:精神的本質と言語 的本質は一致する、及び、反命題:精神的本質と言語的本質は一致しない、で先の 引用にも瞭然たるように前者に与するものである以上、そのように判断すべきだろ う。 14 Walter Benjamin, GS2-1, p.146 5 8 長濱 一真 この啓示は「序説」草稿においては「根源的なものがしかし啓示されなければ、 それは根源的ではないだろう15」――この箇所は決定稿では削除される――とある ように、根源的なものと結びつけられる。そして次のように書かれている。 それにしかも根源的なものそれ自体はもっぱら二重の洞察に明らかにされるの だが、その洞察は根源的なものを一方では啓示の復帰‐再帰 Restauration とし て、かつ他方ではまさにこの復帰‐再帰においては不可避的にも未完結な復帰‐ 再帰として認識する16。 この一文はのちに触れるとおり決定稿では書き換えが為されており、やはりそこで は啓示の語が姿を消しているが、決定稿にも通じ『根源』にも通ずる重要な既定の 大枠は既に提示されている。 とは、 根源的なものとは復帰‐再帰としてのみありえ、 加えてそれは決して十全なものではありえず、必ずや未完結で未熟な、歪な復帰‐ 再帰としてしか現世に惹起されえないことだ。 だがこの場合、復帰‐再帰はあくまで啓示の復帰‐再帰と考えられている。だか ら次のようにも――これも決定稿では削除――書かれる、「啓示の忘れ去られた諸 連関を再現前するもの eines Repräsentanten としてのある現象のとあるアクチュ アリティの発見17」、と。この「発見」はもちろん復帰‐再帰において為されるの だが、この規定はしかし事後的に『根源』及び「序説」決定稿に即して読むことも 可能ではあるとはいえ、啓示が先述したような概念であるかぎり、「忘れ去られた 諸連関」とは失楽園する以前の人間の言語とそのほかの諸言語の喪失した連関を指 すのだともいえないことはない。実際、「序説」では「人間の言語」には主題化さ れていない理念がひとつの核をなしており、これは草稿にも決定稿にもある言だが 「諸理念は現象の世界に与えられていない18」以上、「ある現象のとあるアクチュ アリティの発見」は『根源』的な理念に繋がる復帰‐再帰にふさわしい規定とはい い難いところがある。 確かに草稿でも理念は何度も俎上にあげられている。そのうち啓示と結びつけら れている一節はこうだ、「名の存在によって諸理念の所与性が規定される。すなわ ち諸理念の所与性は啓示された原言語において与えられており、〔…〕19」。しか しこれは決定稿で書き換えられる。 15 16 17 18 19 Walter Benjamin, GS1-3, p. 935 Walter Benjamin, GS1-3, p. 935 Walter Benjamin, GS1-3, p. 936 Walter Benjamin, GS1-1, p. 215、Walter Benjamin, GS1-3, p. 936 Walter Benjamin, GS1-3, p. 937 6 啓示と星座 9 名の存在が諸理念の所与性を規定する。けれども諸理念の所与性はある原言語 einer Ursprache において与えられているのではなく、とある原聴き取り einem Urvernehmen においてであって、〔…〕20 ここでは、そもそも『根源』においてあまり啓示の概念を取りあげたくないとの思 慮を除けば、「啓示された原言語」を「ある原言語」に書き換える必要は必ずしも なかっただろう。言い換えるなら両者の「原言語」は同じものの謂いだと見做して 差支えないだろう。「序説」でこの語については詳述されていないのだが、原言語 としての名こそが啓示されると想定されていることを鑑みても啓示には、先に指摘 した傾向が認められる。ここで諸理念はその所与性ともども原言語としての名の啓 示において与えられるものだ。もちろん「人間の言語」で叙述される楽園の言語の 再興は不可能であり、そのことを充分知悉しているベンヤミンは、人間の言語にお ける名を「経験の本質を(少しもその経験に暴力を加えることなしに)最初に刻印 する暴力21」として現世に遂に未完ながら復帰‐再帰させることが、理念をもたら すことと考えていた。 けれども、決定稿ではこれは逆接詞を伴って否定される。やはり「経験の本質を 最初に刻印する暴力22」、名の存在が諸理念の所与性を規定しはする、が、それは 原言語においてではないのだ。 ベンヤミンは原聴き取りなる些か誤解を招きかねず、 またにもかかわらず明確な説明を付していない――ただ少なくともそれが啓示と異 なることは明瞭に記されている――言葉で名づけた出来事のなかに、理念の契機を 見出す。名だけでは理念は生起しえない。名の復帰‐再帰はそのままでは理念たり えない、と『根源』を経て決定稿に至る過程で、ベンヤミンは思い至ったのだ。 しかし、原聴き取りとは何を指すのかについて、「序説」決定稿がなんの示唆も 与えていないわけではない。いま取りあげている一連の叙述が含まれる決定稿にお ける節「理念としての言葉」のなかで、ベンヤミンは諸理念の相貌として、「互い に触れあうことのない星辰の運行にもとづく諸天穹のハーモニー23」に触れている24。 つまり、この「諸天穹のハーモニー」なる言葉が音階を見出したピタゴラスにとり あえずは由来することを踏まえれば、原聴き取りにおいて歪ながら、未完結ながら も、いわば音階を聴き取るように聴き取られるのはこの諸理念のハーモニーにほか ならない。けれどもここで「諸天穹のハーモニー」と仮に呼ばれているものが、一 方でベンヤミンが「序説」で繰り広げた理念‐星座に直結することも疑いようがな 20 Walter Benjamin, GS1-1, p. 216 Walter Benjamin, GS1-3, p. 937 当然ながらこのとき「暴力批判論」の神的暴力が念頭に置かれていたはずだが、ここでは措く。 22 Walter Benjamin, GS1-1, p. 216 23 Walter Benjamin, GS1-1, p. 217 24 ここでは比較しないがこれに似たものは草稿でも確かに読まれる。しかし、本稿で草稿全体 に関して示すように、この叙述も草稿では充分にいかしきれていなかったと判断される。 21 7 10 長濱 一真 い。だとすれば、聴き取りなる語が誤解を招きやすいのも、おなじくこれをもって ピタゴラスの教義をベンヤミンにあてはめれば確実に、 決定的な間違いに陥るのも、 『根源』において理念‐星座は聴き取られるものではなくむしろ読まれ、読みとら れるべきものであり、かつ、例えば音階とは異なり、「ある純粋に論理的なもので はなく、歴史的なもの25」だからだ――ただし「序説」でも、それはたとえ知的直 観であれいかなる直観にも与えられない、との言で注記はしているのだが26――。 とまれ、かくして原言語から原聴き取りへの移行が、理念‐星座への転換に繋が っている。 認識と概念 さしあたって「互いに触れあうことのない星辰の運行にもとづく諸天穹のハーモ ニー」と書いたときにベンヤミンがピタゴラスから遊離しながら規定せんとしてい ることを具体的に確認すれば、その諸天穹、諸々の星座を成り立たしめる星々のあ いだの「止揚不可能な距離27」であり、これに尽きているといって過言ではない。 そして、このことは理念‐星座においてもあてはまる。草稿には書かれていなかっ た「星座としての理念」の節にはこうある、 理念がその捉えたものを類概念が諸々の種をそのもとに包含するように包含す るか否か、はだからその〔理念の〕存立の試金石として解されえない。というの もそれは理念の使命ではないのだから。ある比喩がその意義 die Bedeutung を叙 述‐表現する darstellen かもしれない。諸々の理念は諸々の事物に対して星座 die Sternbilder の星々に対する関係にある。このことはまず第一に次のことを述べ ている、すなわち諸理念は諸事物の概念でもそれらの法則でもない、と。諸理念 は諸現象の認識に仕えたりしないしまたいかなる仕方においても諸現象は理念 の存立にとっての試金石ではない。むしろ諸理念にとっての諸現象の意義はそれ らの概念的な諸々のエレメントに汲み尽くされている。諸現象がそのこの存在ihr Dasein、その共通性、その諸差異によってそれを包括する諸概念の外延と内実を 規定する一方で、諸理念に対してはその関係はこれとは逆なのだ、――理念が諸 現象、否その諸々のエレメントの客観的な解釈として、それらの互いに対して緊 密に組まれた関係性を規定するその限りで。諸理念は諸々の永劫の星座でありそ して諸々のエレメントがそのような星座における諸点として捉えられることに よって、諸現象は分割され同時に救出されている28。 25 26 27 28 Walter Benjamin, GS1-1, p. 226 Walter Benjamin, GS1-1, p. 215 Walter Benjamin, GS1-1, p. 217 Walter Benjamin, GS1-1, pp. 214-215 8 啓示と星座 11 「諸々の種をそのもとに包含する」類概念と理念とがまったく別ものであることを 示すために掲げられる星座の比喩も、したがってその星々のあいだに横たわる「止 揚不可能な距離」の強調も、いずれも「諸々の種をそのもとに包含する」類概念へ の止揚にその自己展開を見るフリードリヒ・ヘーゲルの弁証法とベンヤミンのそれ とを峻別するべくしてのものであることは、一目瞭然だが、もう少しくわしく読み ほぐし、さらに理念‐星座を捉えていきたい。 まずベンヤミンはとある概念が諸現象のうちのなにがしかを包括するとしても、 その外延も内包も規定するのは諸現象であり、概念がではない、とする。この意味 で、とりあえず概念とイデアをとりあえず同一視するとして、少なくとも単純に理 解されたプラトンのイデア論――確かに「序説」で言及されてはいる――と安易に ベンヤミンの理念とを結びつけて考えれば間違いに陥るだろうことはたやすく推せ る。例えばベンヤミンが鉄槌のイデアすなわち鉄槌なるものの現象に対して優位に それを規定する鉄槌なる概念を認めるとは到底考え難い。 また、「認識の対象は概念の志向において規定されるものとして、真理ではない 29」、と決定稿でベンヤミンが書くとき、そこでは一般に概念は、認識に伴う認識 する側のなにがしかの志向をもって諸現象、そしてそこにある事実 ein Faktum に 対峙され、そうして得たものであり、事実とは認識するこの志向的な行為の対象に 措定されたものである、と告げられている。この指摘を理解するために補助線を引 くなら、あくまでそれに限って、最も妥当なのはフリードリヒ・ニーチェへのそれ だ。つまり、概念はしばしば実体的に、しばしば真の世界――例えばイデア界―― を構成する実在として、諸現象を総べ、あるいはそんな仮象世界に落下することも ある真理を指し示すものとして顕揚される。だが、個々のあの人間やこの人間、個々 のあの葉っぱは現にあっても「人間」なるものあるいは「人間」なる概念や「葉」 なる概念はだれにも知覚することができず、この意味で存在しないように、諸現象 及び事実がではなく、概念こそがニーチェが欲望や信仰、衝動と呼んだもの、また 認識主体が自由意志で操作しうるのではない、ベンヤミンが志向と呼ぶものにおい てつくられた、決して中立的でも先験的な正解を誇るものでもないが、にもかかわ らず諸現象、諸事物に実体的に投影される遠近法的倒錯の産物にすぎない、云々。 ベンヤミンはその限りで、そして概念が事実や経験に意図を捉えるような志向性に おいて認識をもたらすものであるかぎり、たとえ概念に諸現象を包括する働きがあ るとしてもその外延と内包を規定するのは諸現象、というよりむしろそのこの存在 ein Dasein の方であることを認める。 だが、だとしても決定稿で記されるように、「諸理念は諸現象の世界のなかには 与えられていない30」。繰り返すが「むしろ諸理念にとっての諸現象の意義はそれ らの概念的な諸々のエレメントに汲み尽くされている」のだ。諸現象がたんなる事 29 30 Walter Benjamin, GS1-1, p. 216 Walter Benjamin, GS1-1, p. 215 9 12 長濱 一真 実的なものである以上は、 そこに理念の所与性はない、 とベンヤミンは書いている。 では、理念が認識からさらに悪しく抽象された砂上の楼閣でないとすれば、理念‐ 星座を叙述‐表現するところの、その星々を担う「概念的な諸々のエレメント」と は何か? 認識とは突き詰めれば、ベンヤミンがバートランド・ラッセルを俎上にあげてあ る覚え書で批判した記号論理学に顕著なとおり31、例えば記述理論のような相関 die Relation における知見に還元される。なかんずく事実――それがたんなる事実にす ぎないとしても――の全体性また客観性をそこに網羅的に確保せんとすれば、そう ならざるを得ないだろう。しかし、決定稿で述べられるように、「真理は決して相 関のなかにそしてとりわけいかなる志向的な相関のなかに入っていくことはない 32」。そうではなく、「真理の構造はある存在を必須とするのだ33」。真理の構造と はここでまさに理念‐星座と書き換えられるべきものを指すが34、ベンヤミンはこ のとある存在とは「志向の死35」、無志向性において初めて現出するもの、と規定 する。 けれども注意すべきは、それが志向、意図を排したところにのみ存在するとして、 しかしそれは「人間の言語」における言葉を再度用いれば、人間の言語を排して事 物の言語だけ、事物そのもの、事実それ自体を謂うのではないことだ。むしろそれ は先に触れた「経験の本質を最初に刻印する暴力」としてあり、したがってあくま でも名の存在なのだ。かくして、ここで改めて先の一節に戻る、――「名の存在が 諸理念の所与性を規定する。しかしそれはとある原言語において与えられているの ではなく、ある原聴き取りにおいてなのだ」。 理念と諸々のエレメント もちろん、概念は名ではない。したがって、概念的な諸々のエレメントもまた名 そのものではない。だが他方で、「人間の言語」を読めば知れるとおり、名は堕罪 後に人間の言語から消滅するわけでは決してなく、なお残る。とはいえ、むろん名 は既につねに自然にあるのではなく、命名において生起する。何故なら「人間の言 語」で論述されたように諸現象は、もとより事実ないし諸事物は名を持っていない 31 32 33 34 35 長濱一真「ヴァルター・ベンヤミンの初期言語論断片と「言語一般及び人間の言語について」 : ベンヤミンのラッセル記述理論への応接から」 『人間社会学研究集録』5 号 大阪府立大学大 学院人間社会学研究科 2010 年 59‐81 頁、参照 Walter Benjamin, GS1-1, p. 216 Walter Benjamin, GS1-1, p. 216 ちなみにまだ星座の語が読まれない草稿では、恐らくそれ故に「真理の本性」 (Walter Benjamin, GS1-3, p. 937)と書かれている。 Walter Benjamin, GS1-1, p. 216 10 啓示と星座 13 のだから。むしろ人間の言語において「名なきものの名への受胎36」、「名なきも のの名への翻訳37」が行なわれて初めて与えられる。そこでは諸現象‐事実以上の 言語における過剰なものが孕まれ、故にたとえ命名する人間であっても、「いかな る人間も名に〔…〕適ってなどいない38」。のみならず人間の言語においても固有 名が属性の記述に還元不可能であるのと同じに名は諸認識に還元されえない。名そ のものは叙述不可能だ。名は呼び掛けられるのであれ描写されるのであれ映される のであれ、奏でられるのであれ書き留められるのであれ、名であるかぎりそれぞれ 唯一ひとつだけのものとして屹立している。名はさまざまな仕方で人間の言語―― その諸々のあり様――に与えられてある。それらはだから相関ではなく、また諸現 象そのものでもなくましてや諸認識ではないところの存在なのだが、ベンヤミンは 人間の言語、それも堕罪以降の人間の言語に認識をもたらす以外の役割を決定稿で ある「序説」において見出した。それが概念的な諸々のエレメントと呼ばれたもの のそれであり、というのも、その場合「すべての哲学的な概念形成の傾向は新たに その古い意味――現象の生成をその存在において突き止めること――においてみず からを規定する39」こととなるからだ。 このとき現象の存在とは無志向的な、志向の死を経た人間の言語、そして事物の 言語のあいだで、名の存在において指差されるものであり、いまや概念は認識にで はなく、この名の存在に可能な限りで即した機能を獲得する。しかし何故か? そ の諸概念が理念における諸々のエレメントとなるから、だ。「理念が諸現象、否そ の諸々のエレメントの客観的な解釈として、それらの互いに対して緊密に組まれた 関係性を規定する」以上、理念が諸々のエレメントの内包及び外延を規定する、と はこのことを謂う。 いうなれば理念‐星座とは不可能な名の叙述‐表現 die Darstellung の試みなの だ40。もちろん、それは名への裏切りでもあり、したがって堕罪以降の被造物ある いは人間の為さしめるところだが。にもかかわらずベンヤミンはこれを肯定する。 諸概念は理念の諸々のエレメントとなることによって名の存在を理念において叙述 する、その欠くべからざる言葉と化す。 認識の言語に欠如しているのは名であり、さらには理念にほかならない。ベンヤ ミンは理念が「諸々のエレメントの客観的な解釈」であることを述べるが、その際 逆に改めて踏まえておかなければならないのは、この「客観」性を欠いた人間の言 語すなわち認識がいかなるものなのか、だ。決定稿ではこう書かれている、「認識 はとある所有なのだ。その対象そのものはそれが意識において――たとえ超越論的 36 37 38 39 40 Walter Benjamin, GS2-1, p. 150 Walter Benjamin, GS2-1, p. 151 Walter Benjamin, GS2-1, p. 150 Walter Benjamin, GS1-1, p. 228 注記すれば、名を理念‐星座に書き換えたとき、そこにはかつての啓示される原言語として の名の相貌は消え、別のあり様において捉えられている。 11 14 長濱 一真 なそれであれ――内的に所有されなければならないことによって、規定される41」。 超越論的な意識‐主観においてであるとしても、あるいはむしろそこでこそ決定的 に、認識は所有されてある。 恐らくこれはイマニュエル・カントから、というよりベンヤミンが博士論文で扱 ったドイツロマン派に即して把握した事態ではないか。通常なら主観と呼ぶところ で意識と書き換えるのも、「ロマン派は無意識による制限を忌み嫌うのであって、 相関的‐相対的な relativ 制限以外にはありえずかつそれは意識的な反省そのもの において与えられなければならない42」、とするベンヤミンのドイツロマン派論を 受けてのことと考えるのが最も妥当だろう。実際超越論的意識‐主観においては自 己の意識すらもが所有‐認識される。そこではすべてが相関的‐相対的であり、そ のような制限のもとでそのたびに、つまり意識的な反省が連続的な認識及び経験の 領野に制限を加えるたびに諸々の認識は位置‐意味を変えて、その領野を包摂する 意識‐主観によって所有される。「反省とは体系の絶対的に把握せんとする志向的 行為でありかつこの行為の妥当な表現形式が概念なのだ43」。ロマン派にあっては 概念とはこのような認識‐志向的なものに留まる。そして、この反省する超越論的 意識‐主観が客観性――ドイツロマン派には「絶対者」とも称される――を得んと するなら、その内部にあってはどこまでも相関的‐相対的な関係を出ない以上、そ の外延を拡張し、認識及び経験の領野を拡大していくほかにない。が、結局イロニ ーが極まるところでは「ロマン派たちは反省的な自己局限も、また同様に自己拡大 も〔…〕その頂点において相異なく互いのなかへ移行する44」までに行き着く。つ まりいずれにせよ、それは必然的に網羅的に、巨視的かつ微視的に視線を動かす。 微視的な特殊性に拘りながら巨視的にも認識の量を拡大していくこと、かくして網 羅的となることがその意識‐主観が一般性を得ることに相即するものと考えられる。 そして一般性がつねにそうであるように、加えて認識とは相関的‐相対的であるか ぎり、少なからず総体的にはそれら認識は平均的な意味に、あるいは均衡のとれた 位置に収斂せざるを得ない。 然るに、名は決して所有されえない相関‐相対性を超えた存在であり、したがっ てこの超越論的意識‐主観が総べ、その所有する認識が反省的にならべられた領野 には存在しない。だから、名を、理念‐星座において叙述する諸々のエレメントも また認識‐概念ではないために、ここには場を持たない。諸々のエレメントは、そ してそれが叙述する理念も、反省ないし一般性には決して収まりえない横暴な野蛮 さをそなえている。だからこそ諸々のエレメントとしての諸概念は反省にはない暴 力を伴い諸現象に、諸々の事実にあたることとなる。「序説」決定稿にはこう書か れている、 41 42 43 44 Walter Benjamin, GS1-1, p. 209 Walter Benjamin, GS1-1, p. 36 Walter Benjamin, GS1-1, p. 47 Walter Benjamin, GS1-1, p. 98 12 啓示と星座 15 諸現象はしかし統合されてその生の経験的な存立――そこには仮象が混じって いる――においてではなく、ただその諸々のエレメントにおいてのみ、救出され、 理念の領域に入り込んでいく。その偽りの統一を諸現象は放棄するのだ、分割さ れ真理の真正な統一に参与するために。この諸現象の分割において諸現象は諸概 念のもとにある。諸事物に諸々のエレメントへの分離‐解決 die Lösung を遂行 するのが、この諸概念なのだ。〔…〕その仲介役によって諸概念は諸現象に理念 の存在への参与を授ける。そしてまさにこの仲介役が諸概念をほかの、同様に根 源的な哲学の課題、すなわち諸理念の表現に役に立たせしめる45。 ここで真理とは理念の謂いと理解してなんら差支えない。そこに参与すべく為され る概念の諸々のエレメントへの分割あるいはむしろ分離‐解決が、草稿でいわれる ところの「すべての現象性を引き剥がす存在46」に即した諸々のエレメントにそな わる暴力そのものであり、横暴さのあらわれにほかならない。繰り返すが、さしあ たって諸概念はこの理念‐星座の仲介役を担う限りで、その星々となる限りで、そ の力を獲得する。加えて、 その諸々のエレメント――その諸現象からの解放‐遊離deren Auslösung が概念 の使命なのだが――は極端なものにおいて最も厳密にあらわとなるのだ。一回的 な‐極端なもの das Einmalig-Extreme がそれと同様のものとともにある、その 連関の形態として、理念は確定されている。それ故に偽りであるのは、言語の普 遍的な指示を――それを諸理念として認識する代わりに――諸概念として理解 することだ。普遍的なものをある平均的なものとして説明せんとするのは、転倒 している。普遍的なものとは理念なのだ。経験的なものはこれに対してより厳密 にそれがとある極端なものとして識別されればそれだけ、より深く浸透している。 この極端なものに概念は端を発している47。 諸々のエレメントとしての、星々としての諸概念は決して平均的なもの、または相 殺され平均的なものをもたらす諸々の特殊なものではない。いうなれば諸概念は理 念なる普遍的なもの――先に触れた諸々のエレメントの客観性はここに拠っている ことは疑いない――において、諸現象もしくは事実や経験から極端なものをこそ遊 離せしめ、分離し、存在へと引き剥がす。 45 46 47 Walter Benjamin, GS1-1, pp.213- 214 Walter Benjamin, GS1-3, p. 937 Walter Benjamin, GS1-1, p. 215 13 16 長濱 一真 ロマン派における歴史 以上に論述したところで既に、単純に『根源』が前期ベンヤミンの総決算、ある いは、その連続的な発展の帰結するところだと見做す見解、とりわけ Der Begriff der Kunstkritik in der deutschen Romantik『ドイツロマン派における芸術批評の 概念』〔以下『ロマン派』〕がそのまま肯定的に『根源』に繋がっているのかにつ いては、疑義を呈するに充分な指摘は行なっておいた48。むしろ『根源』の核のひ とつには『ロマン派』との対決が含まれている、と捉えるべきなのだ。ここで、『ロ マン派』では「反省は認識の過程のある固有な無限性を保証する49」ものと措定さ れていたことを改めて付言しておく。つまり、ドイツロマン派の観点は「序説」に おいて、とりわけその決定稿において決定的に斥けられるものなのだ。反省とは認 識する所為にほかならず、『ロマン派』におけるこの認識のための概念を「序説」 の諸々のエレメントとなる諸概念にそのままあてはめれば「序説」を読み誤ること となるほかない。 ところで先述したことは「序説」決定稿において書き込まれた箇所に読まれる批 判だったが、次に草稿から削除された箇所を取りあげ、『根源』もしくは「序説」 のロマン派批判を読みとりたい。というのも、先に引用したショーレム宛ての『根 源』の構想を披露した最初の書簡で、「なるべく文献学についてのロマン派的な概 念」を携えて書かれるだろうとされた50「序説」の草稿にはそのような文献学概念51 は認められないとはいえ、それでもベンヤミンの『ロマン派』の痕跡――決定稿に おいては抹消線を引かれた――が確認できるとすれば、それもやはり両者のあいだ の看過すべきでない転換だろうからだ。 決定稿では次の叙述が、それほど多い事例ではないのだが、改稿もなく、ほんの わずかな部分的な転用も一切なく、まるごと削除されている。 ただ根源の現象はある平板で、ひとえに因果の推移の方を向いた歴史考察には与 えられていない。むしろそれはある次のようなものに属する、つまりその考察の 中心を歴史的時間の研究に置きそしてそのエポックを主観的な見解の形成物で はなくある客観的かつ目的論的に規定された律動学――そこにおいては因果連 関が道徳概念のもとで始まる――として把握するべく努める。自然史と世界史の あいだの境界を真面目に疑わしきものにしなければならないそのような構想は、 48 49 50 51 もちろん『ロマン派』も含め、それまでの仕事の成果が『根源』に注ぎ込まれていることは いうまでもないとしても、だ。 Walter Benjamin, GS1-1, p. 21 これ自体はほどなくして早々に撤回され、ここで扱っている草稿でも現に斥けられている構 想ではあるが。 ちなみにこれは『ロマン派』では「まったく取り扱われない」 (Walter Benjamin, GS1-1, p. 50) と注記されていた。 14 啓示と星座 17 反復を両者におけるあらゆる時代区分の最も本質的なもののモティーフとして 考察するだろうし、そして問い――どのような意味で歴史、すなわち反復不可能 な経過としてのとあるものにおいて、反復はそれにもかかわらずあるのか――を その歴史哲学の決着ヲツケル実験にするだろう。ひとつの実験、これは永劫回帰 なる教理が恐らく行ないしかし解決する能力をもたなかったものだ52。 一読したところ、『根源』及び「序説」の内実にさほど相反するように思えないか もしれず、どころか合致するように思える箇所もないではない。にもかかわらず、 この一節は決定稿では採用されなかった。また、一読してみて、この一節にドイツ ロマン派はなんら関係がないように思われる。しかし、『ロマン派』を読めばここ にはベンヤミンがその時点で批判的にではあれ、独自に評価したドイツロマン派の 批評概念が援用され、組み込まれていることがわかる。すなわち、それは「実験」 だ。 確かにベンヤミンの『根源』に即しても「根源の現象はある平板で、ひとえに因 果の推移の方を向いた歴史考察には与えられていない」ことは論を俟たない。しか しそのことはロマン派にも該当する。少なくともベンヤミンが論述したドイツロマ ン派にあっては、そのような「因果の推移の方を向いた」歴史は否定されている。 「反省の無限性とはシュレーゲルとノヴァーリスにとってまず第一に進行‐進展 des Fortgangs の無限性ではなく、連関の無限性なのだ53」。 確かにドイツロマン派、それを論じた『ロマン派』においてなにがしかの歴史哲 学が、ベンヤミン自身断わっているとおり既に規定されているわけではない。むし ろこの草稿箇所ではベンヤミンが新たに、独自にロマン派にふさわしかるべき「歴 史的時間」の内実を、あるいはドイツロマン派を超えて独特な「歴史的時間」の内 実を『ロマン派』から練りあげ提示していると見做すことが可能であり、それがま さにこの引用した一節のように一読ではベンヤミンの理念‐星座に似て見えるだけ にそれだけ、その内実を以下に示す必要がある。 例えばベンヤミンが『根源』で言及するカール・シュミットが『政治的ロマン主 義』で批判したように、ロマン派はしばしば主観的にすぎることが難詰の対象とな る。が、そのことはいましがたの引用の内容にそぐわないように思われる。しかし、 『ロマン派』ではまったく的を外しているわけではないにしても些か安直で紋切型 でもあるその類いの判断で済ますことが慎重に避けられ、次のように述べられてい る、「作者のある主観的なたんなる願望が表現すること、とはまったく無縁に、だ から〔イロニーによる――引用者註〕形式のこの破壊は芸術の客観的な審級の、〔ロ マン派的な――同前〕批評の使命なのだ54」。すなわち、近代以降時折その個人的な 才能や素質、「天才」、同じことだがその主体性に還元され偶像視されることのま 52 53 54 Walter Benjamin, GS1-3, p. 935 Walter Benjamin, GS1-1, p. 26 Walter Benjamin, GS1-1, p. 85 15 18 長濱 一真 まある「作者」が創造する不可侵な「作品」に対して、それに対する客観的な、「絶 対者」に至る芸術批評の立場を確立せんとしたのがロマン派だとするのが、ベンヤ ミンの『ロマン派』の骨子なのだ。 たんに「作者」があるいは任意に扱う素材だけでなくその「作品」を成立させる 形式まで射程に含めそれを絶対的に未完なもの、主観性に留まるものと措定し、 「客 観的な審級」に照らして、ではなく――何故ならそれは批評者にもいまだ知れない から――、あるべき「客観的な審級」を目指して「作品」を反省的に破壊する、言 い換えるなら「作品」をその形式まで認識するべく、そのために反省において相関 的‐相対的に志向し、破壊するのだ。 『ロマン派』はとりわけ、文字どおりに「芸術批評の概念」に主眼を置いているが、 これを「歴史的時間」を把握するものと捉えることは、ベンヤミンが行なったよう に不可能ではない。「あるひとつの全体があり、そしてその道――その全体を認識 する――はだからいかなる直線でもなく、ある円環なのだ55」、とする『ロマン派』 で引かれたフリードリヒ・シュレーゲルの言はここで「ある平板で、ひとえに因果 の推移の方を向いた歴史考察」に反駁する根拠と充分になりうるだろう、――「あ るひとつの全体」が芸術における「絶対者」に限定されなければならないわけでは ない以上は。つまり、ロマン派的には歴史過程とは歴史が全的に包摂される「ある ひとつの全体」を認識すべくして辿られるその過程であり、直線的な、進行‐進展 とは重なるところのない、その内包的‐外延的な連関において無限性を獲得する反 省の織りなす歴史は、故に円環を描くものとなる。しかし、円環を形成する反省‐ 認識の過程から導き出されるのは、それが「客観的な審級」に至る過程でありなが ら、同時にそれが自己認識であることだ。この円環はいうなればイローニッシュな 批評に携わる者、詰るところ超越論的意識‐主観がつねにより客観的な歴史認識を 得るために網羅的な反省の連関を辿る過程であると同時に歴史そのものが 「絶対者」 に至る、その自己認識に至る過程でもあって、「反省的な自己局限も、また同様に 自己拡大も〔…〕その頂点において相異なく互いのなかへ移行する」のとおなじく、 イロニーが極まるところでは主観と客観の相異は消滅している。 したがって、『ロマン派』を敷衍すればロマン派的歴史とは主観と客観とを分離 し、客観を厳密に対象化したうえでそれに労働を加える主体が創造するものでは決 してない。歴史は主体が開発‐発展させるものではないし、自然に対してそのよう に振舞うその蓄積が歴史なのでもない。歴史は反省的な連関のなかにおいてあり、 それを認識する超越論的意識‐主観もこの連関においてのみ、反省的に、すなわち 相関的‐相対的にのみありうる。 だから反省を行なう超越論的意識‐主観がその超越論的意識‐主観を円環的に 保つためにも対峙するそれは対象であるよりも、むしろ「生きているものや活動的 なもの」――ここまでの語に換言すれば反省において自己認識する/されるもの― ―であり、それは「それ自体からかつそれ自体によって認識を発生させるものだ。 55 Walter Benjamin, GS1-1, p. 43 16 啓示と星座 19 〔…〕哲学者の仕事はこの事情においては、この生きているものを、合目的な活動 状態に置き、生きているもののその活動を見物し、それを解しそして一なるものと して了解することよりほかにない。彼はひとつの実験を行なうのだ」56 。反省は 労働ではなく、実験にほかならない。この実験が人間‐主体の労働によって自然を 開発する、通常近代的と称される自然科学観とは相容れるものでないことは既に示 唆したとおりだ。「歴史的時間」を「主観的な見解の形成物ではなくある客観的か つ目的論的に規定された律動学」において捉えることは、「一なるもの」、引いて は「あるひとつの全体」をこの「合目的な活動状態」すなわち合目的な自己認識‐ 反省の活動に委ねる実験そのものが、――ロマン派的には――歴史であることと同 義なのだ。 律動と理念‐星座 いまやこの反省的実験において現出する「律動」が何に由来するのか、理解する ことは難しくない。それは反省がその連関のなかで描く円環がきざむ律動にほかな らない。 だが、ここで注意すべきことがある。先に触れてきた名及び啓示が、「認識の過 程のある固有な無限性を保証する」反省にあっては認め難いものであることは幾度 でも強調されて然るべきだろう。ところで、草稿において啓示の語が集中的に読ま れた箇所が決定稿にて書き換えられた後、むしろそこで新たに書き加えられている 言葉こそが、ほかならぬ律動なのだ。「根源は生成の流動のなかに渦巻きとしてあ りそしてその律動のなかに発生の素材‐原料を巻き込む」、そして「律動は復帰‐ 再帰として、回帰として一方では、まさにその復帰‐再帰のなかで不完全なもの、 未完結なものが他方で認識されてあることを望んでいるのだ」――ここは以前に決 定稿で書き換えられたと指摘したところに該当する――57、とあるように。だとす ればこれは名及び啓示を否定してロマン派的な歴史を全面的に導入したことを意味 するのだろうか? むろん、そうではない。先に引用した一節すべてに抹消線を引いて改めて律動の 語を、復帰‐再帰が主題となるところでそこに引きつけて書き込んだのはほかでも なく、一読では似て見えてしまいかねないロマン派的な歴史を『根源』及び「序説」 が叙述する歴史もしくは自然史から引き離し峻別するためだ。 復帰‐再帰とは名の復帰‐再帰だ。しかし堕罪以降もはや人間にあって啓示され る原言語は不可能性に曝されている。ただ、原聴き取り――繰り返すがこれは誤解 を招きやすい言葉だ――、否むしろ理念‐星座を読むことにおいてのみ、すなわち 幾許かは如何ともし難く不完全で未完結たらざるを得ず、歪な姿において捉えられ 56 57 Walter Benjamin, GS1-1, p. 59 Walter Benjamin, GS1-1, p. 226 17 20 長濱 一真 るだけなのだ。それは往還する反省、主観と客観が相互に移行しあう反省が、認識 からなる諸連関において「客観的な審級」に向かい、「絶対者」に至る過程で打ち 鳴らされる律動とはなんの関係もない。そもそもが理念‐星座は「絶対者」に至る べく打たれる楔ではなんらなく、名からして反省の「客観的な審級」の無限性とは その位相を異にするのだから、つまり復帰‐再帰して読まれ、書かれる理念‐星座 は諸概念を、理念を叙述する諸々のエレメントへ、幾つかの存在と化すべく、その 内包及び外延を規定するのだから、両者にはかかわるところがない。 故に、たとえベンヤミンが『ロマン派』において次のように書いており、それが 読者に『根源』の理念‐星座を思わせることがあったとしても、両者を混同するこ とは許されず、厳密に峻別されなければならない。すなわち、「個々の作品の規定 された形式――叙述‐表現形式と呼んでいい――はイロニー的破壊の犠牲となる。 この形式を超えてしかしイロニーは永遠の形式の天空、諸形式の理念――絶対的形 式と名づけられるかもしれない――を引き開けるのだ58」、また「それに対して次 のような振舞いが、すなわち作品そのものの維持のもとでそれでも芸術の理念への 作品の完璧な関連を観てそれとわかるようにすることが可能な振舞いが、(形式に 関する)イロニーなのだ59」、と。 特に後者のベンヤミンの言は、個々の作品を作品としては維持しつつそれが「芸 術の理念」――「絶対者」――の内部にありその連関においてあることを示すこと がイロニーだと述べているのだが、字面だけを追えば「序説」の理念‐星座におけ る諸現象の救出なる言葉や、「個々のものは理念においてあり60」云々の言辞に引 きつけて誤って同一視に陥る可能性はないわけではない。だが、既に論述してきた とおり、個々のものは諸々のエレメントとなり理念のなかにあって、それは確かに 諸概念ではあるが、認識のための概念ではなく、存在を示す概念であり、反省の連 関のなかで個々の作品が保存されもすることとは相容れない、別のことだ。 そのため、『ロマン派』のなかで引用されたノヴァーリスの次の言葉もまた、な るほどその始めの一文はあたかも星座を思わせないではないが、読み進めるほどに 「序説」と相容れないことが明瞭と化してくることを訝しむ必要はない。 ここでも諸成分‐項 Glieder だけが永遠にやすらった、ひとつの全体のまわりで 動いている。…諸々の文の運動がここでもより単純で、より一様で、より平穏で あれば、その混合が全体においてより調和していれば、その連関がよりゆるんで いれば、その表現がより透き通っていてより無色であればそれだけ――ポエジー は完全なものになる〔…〕61。 58 59 60 61 Walter Benjamin, GS1-1, p. 86 Walter Benjamin, GS1-1, p. 86 Walter Benjamin, GS1-1, p. 227 Walter Benjamin, GS1-1, p. 101 18 啓示と星座 21 「より単純で、より一様で、より平穏で」「より調和し」、自在な反省が施される ようにその連関がゆるんでおり、表現が「より透き通っていてより無色である」こ とは、認識においてはふさわしいあり様だとしても決して、理念‐星座のそれでは ないはずだ。とは、そこでは極端なものこそが、それも「止揚不可能な距離」に決 定的に隔てられた極端な存在同士がそれでもその理念においてとある星座をかろう じて構成するのだから。また『根源』で論述される哀悼劇、すなわちけばけばしく て、当然ながら単純高雅とは程遠く法悦とも無縁な、「本来的で、無媒介な表現62」 が遮断されていることが強調された哀悼劇の表現が「透き通って」「無色」である などとは、読めばだれも思いはしないだろう。 加えてそのエレメントの数々は「一回的な‐極端なもの」であり、そしてその星 座における遭遇も一回的なものだ。「どのような意味で歴史、すなわち反復不可能 な経過としてのとあるものにおいて、反復はそれにもかかわらずあるのか」、はロ マン派的実験としてではなく、復帰‐再帰として決定稿でも問われている。ロマン 派的な実験においては反省が往還し諸認識がその内包及び外延を微視的かつ巨視的 に増殖させていけばその過程が即、その「歴史的時間」と一致しており、その律動 は反省が「絶対者」に漸次的に接近する際の音であり、それは一なる連関のなかで 連続的に切れ目なく円環を結ぶ「歴史的時間」のものだ。然るに復帰‐再帰及びそ こで叙述される理念‐星座にあっては、 現実の最も内部から理念が言葉として剥がれ離れるのだが、 その言葉は新たにその 63 命名する権利‐正当性 seine…Rechte を要するものだ 。 言葉が、流動してやまない自然の、現実の、諸現象のなかに起こる根源的な事象に 端を発し、そこから剥がれ、存在へ遊離し分離される諸々のエレメントとなって、 とある理念の叙述に与するのだ。そしてそれはその都度命名、すなわち名を与える ことにひとしい厳しさを伴い、権利‐正当性が懸かった試行‐思考とならざるを得 ない。しかも繰り返すが、理念は歪に復帰‐再帰する。その――ベンヤミンの言葉 に倣えば――自然史の過程はとある理念が叙述され、また叙述されたこの理念が試 される過程にほかならず、それは復帰‐再帰そのものとは一致しない。復帰‐再帰 は理念を叙述するだろう者に突如として訪れるのであって、それはそれ以前をその とき初めて事後的に取り返しえない前史へと変貌させる切断と相成るのだが、自然 史が孕む律動とは、故にこの前史と後史から構成されてあり、両者のあいだが解消 されることも決してない。 また、律動の語が決定稿で書き込まれたことは、草稿における啓示から理念‐星 座への移行と抜き難い関係がある。まさに律動こそ啓示では持ちえなかった――何 故ならそれは楽園状態を仰いでの名の啓示なのだから――歴史が繰り返しきざまれ、 62 63 Walter Benjamin, GS1-1, p. 258 Walter Benjamin, GS1-1, p. 217 19 22 長濱 一真 反復されていくこと、 自然史が何度でも繰り広げられるそのしるしにほかならない。 啓示を前面に押し出すかぎり、 その都度の復帰‐再帰がもたらす自然史の律動は 「序 説」に現われえなかっただろう。 かくしてベンヤミンは、啓示の概念を導入していたために、またロマン派的な視 覚が残されていたために、草稿ではまだ読まれた『根源』及び「序説」の内実には ふさわしからぬ齟齬を、『根源』本論の執筆を経て決定稿に至り、克服した。 Constellation and Revelation ‐Walter Benjamin’s “Erkenntniskritische Vorrede”‐ Kazuma NAGAHAMA In this paper I discuss Walter Benjamin’s text “Erkenntniskritische Vorrede” which he put at the beginning of his “Ursprung des deutchen Trauerspiels”. At first Benjamin wrote the first rough draft of that foreword, and then he wrote main chapters of “Ursprung des deutschen Trauerspiels”, and after that he rewrote the foreword. The first draft is extant. In this paper I compare the definitive text of the foreword with its first draft that is extant. In doing so it, we can understand through that what ideas he acquired after having written the main chapters of “Ursprung des deutschen Trauerspiels”. We can find the most important difference of two texts in the relation of the two concepts “Konstellation” and “Offenbarung”. In the first draft the concept “Offenbarung” plays a very important role, but it disappears in the definitive text, and instead of that we meet there the other concept “Konstellation.” Here I discuss these things in detail. 20