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(17)大陸を切り開いた満鉄 (17)大陸を切り開いた満鉄 米鉄道王との
(17)大陸を切り開いた満鉄 米鉄道王との共同経営を蹴る 戦前、子供時代を満州(現中国東北部)で過ごした日本人が口をそろえる思い出が ある。南満州鉄道(満鉄)線を疾走する特急「あじあ号」の雄姿だ。 昭和9(1934)年に開発された蒸気機関車が引っ張る汽車だったが、流線形の覆 いがつけられ平均時速82・5キロのスピードが出た。大連-ハルビン間944キロを14 時間足らずで結んだ。 当時の日本の特急よりはるかに速く、満州育ちの子供たちのヒーローであり自慢の タネだった。 その満鉄はもともと、ロシアが建設した東清鉄道の南部支線だった。前にも書いたよ うに、ロシアは東方進出のため明治24(1891)年、自国内を横断するシベリア鉄道建 設に着手した。 しかしバイカル湖以東が難航したため、チタから満州内を通りウラジオストクまでショ ートカットする東清鉄道の建設を清国に認めさせた。さらに途中のハルビンから、租借 している大連・旅順へ南下する南部支線も1903年に完成させ、翌年に始まった日露 戦争では多くの兵士を運んだ。 明治38(1905)年9月に結ばれたポーツマス条約で、この南部支線のうち長春郊 外の寛城子-旅順間とそれに付属する利権を日本が譲り受けたのである。 翌明治39年11月、南満州鉄道株式会社を設立し、その管理、運営を始めた。初代 総裁は台湾総督府の民政長官をつとめた後藤新平だった。 だが、満鉄の「発車ベル」がスムーズに鳴ったわけではない。 ポーツマス条約締結と時を同じくして、米国の鉄道王と言われたエドワード・ハリマン が来日、日本政府に、鉄道をシンジケートで共同経営するよう持ちかけた。 桂太郎首相や伊藤博文、井上馨ら元老は乗り気だった。日露戦争で金を使い果た し、鉄道を経営する資金のメドがたっていない。しかも日本単独では、ロシアが満州を 奪還しにくるのを防ぐ自信もなかったからだ。 このため10月にハリマン側と協定書に調印するところまでこぎつけたが、ポーツマス から帰国した外相、小村寿太郎が待ったをかけた。「満州は日本の勢力下におくこと が国益にかなう」というのが小村の主張だった。 戦争に勝って得た鉄道まで手放すことへの国民の不満も小村に味方した。結局政 府は共同経営を断念、資本金の半分を外債で賄うことで単独経営を決めた。 このハリマン提案を拒否したことについて、今では「共同経営を受け入れておれば、 日本があれほど大陸に深入りすることはなかった」との批判が根強い。だがその後、移 民問題などで日米関係が悪化したことなどを考えると、共同経営がうまくいったかどう かさえわからない。 いずれにせよ満鉄はその後、満州の軍閥政権が敷設した鉄道を次々と吸収する。 さらに中国とソ連が共同経営していた東支鉄道も買収するなどで、昭和7年に満州国 ができた後は満州全土の鉄道約7千キロをその管理下に置く。 鉄道事業ばかりではない。それに付属する利権として石炭採掘や製鉄など鉱工業 にも力を入れ「満鉄王国」などと呼ばれる一大企業に成長する。大陸を切り開く役割を 担ったわけで、多くの日本人が新たな仕事を求め、満州に渡っていくことになった。 さらに後藤の発案で「満鉄調査部」が設立される。満鉄が事業を拡大するに当たっ て需要度などを調べるシンクタンクだった。後には約2千人のスタッフを抱え、日本と中 国との戦いを想定した「支那抗戦力調査」など「国策調査」も行い、日本の大陸政策に 大きな影響を及ぼしていく。 一方でこの満鉄の事業や、そこで働く日本人を守るという名目で日本陸軍に「関東 軍」が設置される。この関東軍と満鉄とが車の両輪のようになって、満州への進出をは かることになる。 昭和6年の満州事変や翌年の満州国建設も、この日露戦争勝利による鉄道獲得に 端を発していたのである。(皿木喜久) 【用語解説】漱石の渡満 文豪夏目漱石は日露戦争終結から4年後の明治42年、満州と併合前の韓国を訪 問した。学生時代の友人である満鉄2代目総裁、中村是公に誘われたからだ。9月12 日、船で大連に到着後、主に満鉄の汽車により、旅順、奉天(瀋陽)、長春、京城(ソウ ル)などを回り、日露戦跡や都市を見学し、10月14日に帰国した。 その印象を「満洲日日新聞」に「韓満所感」として書いた。その中で日本人が「文明 事業の各方面に活躍」しているのを見て「甚(はなは)だ頼母(たのも)しい人種」と感じ たという。それまで漱石が抱いていた「自虐的」な日本人観を変えるきっかけになった ようだ。