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「腐肉」の多義性について

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「腐肉」の多義性について
Nara Women's University Digital Information Repository
Title
「腐肉」の多義性について
Author(s)
小山, 俊輔
Citation
小山俊輔:外国文学研究(奈良女子大学外国文学研究会), 第29号,
pp.49-66
Issue Date
2010-12-30
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/2683
Textversion
publisher
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「
腐肉」の多義性 について
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1. は じめに
この作品には、奇妙 なヴァリアン トが存在す ることが知 られている。*1 ァ-
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》 と題 された 自筆 ?原稿 で、
サー ・シモ ンズが所蔵 していた 《
最終節 を欠 いている。 その最終節 は 1
952年 に出現 し、現在両者 ともにテキ
サス大学 の所有 とな っている らしい。 ピショワはこの原稿 の真正性 は証明 さ
れていないと し、最終節が後付 けであると考えないよ うに忠告 している。
ただ最終節が後付 けで はないか と勘 ぐりた くなる気持 にさせ るものを この
作 品が持 って いる ことは確 かであ る。 この詩 が、 ルネサ ンスやバ ロ ックの
《
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》の伝統を引 き継いでいることは諸家が指摘す るところである
が、 ルネサ ンスやバ ロックの詩 にあるべ き、 ロンサール流の 《
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つ まりエ ピキ ュ リア ンらしい現世享楽 の勧 めが、 この詩 には一切見当た らな
- 51-
「
腐肉」の多義性 について
い。
*
2もしか した ら、最終節 は差 し替え られたのではないか という疑念を招
くものと言える。
それだけではな く、 この作品は意地悪 く見れば断片の寄せ集めのように見
えな くはな い。 9節 まで は 「描写」 あるいは 「
物語」 であ り、 それ以降 は
」
「
呼びかけ 「
命令」の羅列 となる。 冒頭に命令文があるか ら、かろ うじて、
これが最初か ら 「
命令」だ ったのだ と読者 は思 い返 して、作品の統一性を捉
えることができるが、一見客観描写のような叙述が長す ぎる。 この詩 に関 し
て、バ ロック風 の 「
死 を思え」 の着想 によるのか、「
超 自然主義」的な芸術
論なのかで作品の解釈が割れ るのは、 このためで もある。
慧眼なサ ン ト-ブ-ヴは 「
醜悪 な ものをペ トラルカ風 に歌 う」と警句 めい
た非難をボー ドレールに浴びせている。題材 と口調の不調和 は挑発的なパ ロ
ディの常套手段であるが、 ち ょうど腐肉の綿密な 「
描写」の部分が 「
題材」
に、ペ トラルカ風の口調が 「
命令」 に対応 している。 作品が内容 と形式 に分
裂 しているだけではな く、実際にペー ジの上で事実上分割 されていると言え
る。 たとえば、 ここに 「
若書 き」 の未熟 さを見 ることもで きよう (この詩が
40年代前半 に書かれていたとい う見解 に関 しては、異論 は出ていない)。*3
確認 してお きたいのは、 これをロマ ン主義のなれの果てに生 まれた挑発的な
パ ロディと見なす場合で も、 たとえばクレマ ン ・マロのブラゾンのような調
子で笑 ってお しまいにはで きないとい うことである。
『
悪の花』 の読者 は、
たとえ若書 きの冗談であるとして も、 そこに詩人の思想を読み込んで しまう
のだ。そ して 『
悪 の花』 とい う詩集を詩人による自己批判の試み として読む
なら、なおさら思想の読み込みは避 け られない。
阿部良雄 は 「もっぱ らこの詩の写実性や不潔 さを強調 し非難 した同時代 の
批評への反動 として、最後の二行 に表明された思念のほうに重点を置 く解釈
が今ではむ しろ有力である。」 と述べている了
4
結局 9節 までか、 それ以後
の詩節か、 どち らを中心 と見 るのかで解釈が二分 されることになる。 事実、
- 52-
「
腐肉」 の多義性 について
サ ン ト・ブーヴと同時代 に、パルベー-ドールヴィイーは 「イデア リズムの
勝利 を歌 う」 ものと、 この詩を激賞 している。 この詩 は、軽蔑すべ き物質 ・
自然を麗 々 しく歌い上 げることによって 「
高尚」 な文学を笑 い飛ば した もの
なのだろ うか、それ とも物質 ・自然 に対す る精神の勝利を歌 うものなのだろ
うか。
筆者が ここで試みたいのは、 この作品の意味をどち らかに統一 して決着を
つけるのではな く、 この詩の両義性をできるだけ解放するような読みである。
この詩 を もっぱ ら分裂 していて、無惨 にも収拾のつかな くな った もの として
提示す ることにより、引 き裂かれた不幸な意識 としての詩人の場所を再確認
す ることを目的 とす る。
2.形式的な読み
まず 「
描写」 と 「
命令」の形式的な対立 を論 じる。
・時制
この詩 はまず 「
命令」 で始 ま り、直後 に、《
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》 とい う単純過去
時制が来 る。 以後 は基本的 に半過去 で二人が動物 の腐敗 しっっある死体 に
出会 った ときの ことが描写 され る。 いわば後半 の 「命令」 と合 わせ て、
《
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》 を包 み込 むよ うな形 にな っている。詩人 は 「あな
た」 に思 い出す ことを命 じた直後 に一気 に過去の時空 に入 り込み、その時空
の出来事 をなめるように語 るのである。 そのなかで 「あなた」 とい うことば
が使 われたとして も、 それは 《
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》 としての 「あなた」 と単純 に一
致す るものではな く、過去の時空 に存在 した 「あなた」である。
最後 の 3節 を構成す る 「
命令」 で は、時制 は当然命令-基本的に現在 と単
純未来形で独 占されている。- カ所だけ複合過去が使われていることは、後
に論 じる。
ここで問題 になることが 2点 ある。
- 53-
「
腐肉」の多義性 について
一つは第 8節の現在形である。 ここまでは詩人 は過去の時空の描写 に熱中
していた。「
芸術家が成 し遂 げる」 とい う現在形 は、おそ らく一般論 を述べ
る現在形で、詩人の語 りの現在 とは関係 ないと考えてよい。では 《
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》
の流れの中で、 カ ンバスに形相 は定着で きたのであろうか。詩人 はそれにつ
いてははっきりと語 ることがない。末尾で 「
保存 したと語 るがよい」 とは言 っ
ているが、「
保存 した」 とは言 っていない。
もう一つは、第 9節の唐突 さである。 上の問題 と絡むが、第 8節では詩人
の精神が極度の集中状態に入 り、 いわば霊感を得 たオルフェウスのよ うに創
作のプロセスに入 ったかに思われ る。 ところがその精神の高揚状態の描写 は
突然、腐乱死体を食べようと機会を うかが っている雌犬の姿の描写へ と転 じ
る。 しか もそれが長々と続 いた 「
描写」 の物語の終結なのである。 ここで詩
人の ことばは突如転調 して、「あなた」 への激越 な命令が続 く。 なぜ この一
見意味のない雌犬の描写が物語の結末 となるであろうか。む しろ 「
形 と神聖
な本質」 を定着 した喜 びをこそ歌 い上 げ、末尾の勝利宣言 につな ぐべ きでは
ないのか。
この第 9節の もた らす違和感 に着 冒 して、多田道太郎 は 「
悪女 ジェゼベル
の復活」 という独創的な解釈を提案 している。*5 筆者の考えは後 に述べ るこ
ととす る。
・直境 と暗愉
「
描写」の部分では、直職がすべてである。
「
命令」の部分では、「あなた」
がさまざまに暗愉されている。 この対立 も見逃す ことはで きない。
ボー ドレールの直境 と暗噂については、おな じ 「
髪」 というテーマを扱 っ
た韻文詩 と散文詩 を比較検討 したバ ーバ ラ ・ジョンソ ンの有名 な研究が あ
る
。
*6
それを想起すれば、何 も付 け加 え るべ きことはないが、物語的、説明
的な 「
描写」では直職が優勢であ り、叙情的、音楽的な 「
命令」の部分では
-5
4-
「
腐肉」の多義性 について
暗境が要請 となるのは当然であろう。
しか しここで注目すべ きなのは、詩人の精神に即 していうと、彼 は 「
描写」
の部分で高揚 し、「
命令」 の部分で醒 めているとい う矛盾 した態度 を示 して
いることである。 詩人 は腐敗 してい く死体 に魅了 され、そ こか ら霊感を得て
創作のプロセスへ と突入 してい く、 ここでは直職が優勢である。
一方眼前 に 「あなた」を置 き、高 らかに麗々 しく命令を下す場面では、 じ
つは美 しい 「あなた」の死後の姿を透視 しているのであり、恋情が盛 り上が っ
ているわけではない。女 に対 して冷 め切 っているとしか言 いようがない。む
ろん芸術家 としてのプライ ドという面で は高揚 しているのだが、暗境の対象
はあ くまで も 「あなた」である。
こうした観察か ら次のよ うな仮説 を立 て ることが可能か もしれない0 「
描
写」 と 「
命令」は、単 に分割 され断片化 しているのではな く、一方の表層が
深層 と入れ替わる形で立体的に交錯 しているのだ。ち ょうど第 9節 は、 その
地層の表裏が切 り替わるライ ンにな っている。 それが奇妙 な感 じを与え る原
因 となっている。
。
言 い方 を変えよう 「
描写」 の場面では詩人 は生 と死 の区別 のないよ うな
「
連続性」の世界に魅せ られていることを、形式的にはきわめて冷静 に語 る。
語 りの現在 と語 られる内容である過去 を隔てる 「
非連続」の時間感覚 は基本
。
的 に正常 に作動 している 「
命令」 の部分 では未来 は現在 と混同 され る。 い
わば透視 された無限遠点の未来か ら現在 は絶えず浸食 され無化 される。 現在
か ら死 までの時間、死後の経過時間は消去 され、語 りの現在が生み出すのは、
ひたす ら女 に呼びかける頓呼法 と未来の骸 のイメージだけである。 ここでは
「非連続」 の時間感覚 は 「
連続性」 の前 に失調 を釆 している。 そ して詩人 は
女 の骸 に魅了 されてはいない。バーバ ラ ・ジョンソンはロマ ン主義の詩 にお
ける頓呼法 を論 じ、「
不在 の ものを眼前 に立 たせる」働 きを していると述べ
ている。*7 詩人 はここでわざわざ不在の ものとして、死後の愛人を眼前 に立
- 55-
「
腐肉」の多義性 について
た しめた。 それ に向か って 「
女王」「
星」 と呼 びか ける。 語 りの時間感覚 は
崩壊 している。 だが逆 に、奇妙 に 「あなた」 のアイデ ンテ ィテ ィは維持 され
ている。 土 に帰 った り、動物 に食 らいっ くされた りす るのではな く、 自分 を
か じる姐虫 に呼びかける主体性 さえ予期 されている。 腐敗する動物 の死体が、
次 々 と直境の羅列 によって多義的な存在 にな ってい くのに比べ ると対照的で
ある。
時間感覚 の混乱 とい うと、気 にかか るのは (
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》 とい う複合過去 で
ある。 複合過去が発話の 「いま」 と離れて考え られないことはい うまで もな
い。ではこの複合過去 にとっての 「いま」 はい ったいどこにあるのだろ うか。
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》 を発話 した時点 の 「いま」 なのか。女性の死体 はウジ虫 に 「い
命令 《
ま も形相 と聖 な る本質 を保存 している」 と言 うわ けだか ら、何十年 か先 の
「いま」 なのか。 だいたいなぜ ここで、単純過去 を使 わなか ったのかが問題
である。 冒頭 1行 目では、 ペ トラルカ調 の荘重 な言葉遣 いで 《
nousv壬
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》
と言 って い るのだ。 ここで もそれ に対応す るよ うに、 (
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ega
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i》 で締 め く
くるのが本来 のあ り方 なのではないだろ うか。
要約す ると、「
描写」 の場面で は、非連続的 なアイデ ンテ ィテ ィが崩壊 し
てい く様 に魅了 されてい く様子 を冷静 に語 り、「
命令」 の部分で は維持 され
るアイデ ンテ ィテ ィをめ ぐって熱狂的 に (
混乱 しなが ら)歌 い上 げていると
い う、キアスム交差的な入れ替えが観察で きるのである。
こう考え ると、先 はど述べた第 9節 の奇妙 さが説明で きる。 この節 は上記
の交差地点である。詩人 は第 7節で、 まず視覚的な空間識を喪失 して、聴覚
だ けが残 る意識状態 にな った ことを記述 している。 その状態が創作 の とば ぐ
ち となる らしいのだが、 この時点で詩人 はこれ以上事 の顛末を物語れない状
況 になる。意識の集中が極度 に達 したためで もあろ うか。 いわば この世 を離
脱す る際 に、 あたか も末期 の目に映 った光景 のよ うに、雌犬が死体 を狙 って
いる様子が映 し出 される。 ここでは時間が停止 している。 意味のなさそ うな
-
5
6
-
「
腐肉」の多義性 について
明瞭な映像 は白日夢のような印象を与え るが、 この映像の背後で大 きな変化
が起 こっている。 おそ らくこの 「
雌犬」 の映像 は、実際に夢 として解釈可能
な ものであろう。
氏mmef
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≫ の変貌 と考え られ る。 わざわざ
ひとつ には、 おな じみの 《
「
雌」 と断 っているところか らも、男 を食 い尽 くす激 しい欲望の主体 と して
の女性 と見なす ことがで きる。 しか しこう考えると、あまり文脈 につなが ら
ないようである。
む しろこの雌犬 は 「自然」のまなざ しと考え ることはで きないだろうか。
雌犬は腐敗する死体を狙 っていると記 されているが、気絶 している 「あなた」
、
そ して忘我 の境地 にある詩人を狙 っている可能性 はないのだろうか。腐散 し
ている死体 と、生 きている二人 とどち らを選ぶのだろうか。つまり雌犬のま
なざ しか らは、死体 と生 きている人間の区別 は存在せず、すべては餌 として
等価なのである。 だか ら 「このようにあなた もなるだろう」 と詩人が叫ぶ と
き、詩人 もまた餌 -死体 となることは自明なのだ。雌犬を自然のまなざ しと
考えて、「
女 は自然である。 よって厭わ しい。」 とい う言葉を想起す るとき、
初 めて 「
雌犬」 は 《
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》 と接続す るか もしれない。
だか らこの第 9節で、物語 は終了す るのである。 芸術 における理念の勝利
を歌 うと同時に、詩人 は自らを死体 と等価 の もの として相対化す る視線を感
じ、生身の人間 としての敗北を痛感せざるを得 ないか らだ。
3.内容的な読み
・グロテスクな同一性
「
腐敗 は、私 たちが生 まれでて、ついには帰 ってゆ くこの世界の縮図なの
であった。 この見方 において、恐怖心 と恥辱感 は私 たちの誕生 と死の双方 に
結 びついていたのである。/ うごめき、悪臭を発 し、生温か く、醜悪な外観
で、生が発酵 している、腐敗のさなかのあれ らの物質。卵、微生物、虫がひ
- 57-
「
腐肉」の多義性 について
しめいているあれ らの物質 こそ、私たちが吐 き気、胸のむかっ き、嫌悪 と名
付 けている決定的な反応の根源 にあるものなのだ.
了 8バ タイユは腐敗 の魅
力について こう語 っている。 死体が腐敗す ることは、新 しい生命の誕生の希
望 なのだ。
「
描写」の部分で詩人が しつ こいはど繰 り返 しているの も、 この生 と死の
同一性のイメー ジである. 腐敗 しっっある動物の死体 は 「
淫蕩 な女」 のみだ
らな姿勢を取 り、「花が咲 く」様子 に例え られ、液体 を流す主体性 を持 ち、
。
「
漠然 とした息吹に膨 らみ、増殖 しなが ら生 きていた」 と語 られる 「
人間が
自然 に突 きつけた<否 >」 (
バ タイユ) としての秩序 は、生死 とい う根本か
ら自然 に探潤 され る。 そこに出現するのは、 ウォルフガ ング ・カイザーの言
うよ うな意味での 「グロテスクな」世界である。
*
9
なによ り、何が腐敗 しているかが一切特定で きないことに注意 しなければ
i
j
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mb
e
s
》 とい う
な らない。通常何気 な く 「
犬の死体」 と思われがちだが、(
単語が使われていることを根拠 に、多田道太郎 は、 これは馬の死体であ り、
さらには人間の女性 の死体であるとい うよ うに論を展開 している.'10 た しか
p
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≫と言 うほうが普通であろう。 しか し人間や馬の死体
に犬猫な らば、《
9世紀 ラルース』 によれば、《
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Ⅵe
》が普通であるよ うだ。 いずれ
は、『1
に しろ、何が腐乱 しているのかは一切明 らかにされてお らず、そこにあるの
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g
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e
≫であ り、得体 の知れない 「もの 《
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asd
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n
g
≫
」、 それ
は、端的な 《
も無限に増殖す る 「もの」 なのである。
さ らに念の入 った ことに、「あなた」は腐乱死体 のそばに気絶 して横 たわ
る。「
淫乱 な女のよ うに」足を広 げた死体のそばに。 ここには明 らかに、防
接関係によって 「あなた」 と死体を換愉的に重ね合わすような トリックが働
いている。 生 きている美 しい 「あなた」 と、腐敗す る獣の死体が相似である
ことが示 され る。
その世界に耐え られない 「あなた」 に比べて、詩人 はその世界に魅惑 され、
-
58 -
「
腐肉」の多義性について
「
侵犯」 の興奮状態 に入 ってい く。
そ して 「
命令」 の部分で、詩人 は最上級 の讃辞 「
我が 目の星、我が 自然 の
太陽、我が天使、我が情熱/恩寵の女王 」が腐敗す る死体 と等価 であること
を練 りかえ し強調す る。 これは確かに女性 の うちの肉体的な ものの価値穀損
と、芸術 による女性の形式的美の救済を歌 っているよ うに見える。 地上で最
上の美であ って も、芸術家がそれを作品 と して救済 しない限 り滅 びてい くも
のに過 ぎない。 自然の等価性 に対 して異質 でよ り価値 あるもの と して 自己主
張で きるのは、超 自然的な理念 だ けであ る。 つ ま り差異 は人間 の担造 した
「
腐肉/女性」 とい う秩序 にではな く、 自然 と超 自然 との問にこそある。
だが一方で、 こうした暗職が は らむ危険 も確認 してお きたい。 いずれ も宗
教的な含意 の強 い 「
星、太陽、天使、恩寵 の女王」 またキ リス トの受難 を表
す 「
情熱」が、死体 と同一だ とされていることは、天上的な ものの否認や価
値穀損 につなが りかねないか らである。超 自然的な もの も、 あるいは担造で
はないのか. ボー ドレールを愛読 したニーチェは、 そ う考えた。
では最終行の勝利宣言 はどうなるのか。 これに関 して も、別の解釈が可能
であることを後で述べ る。
・トランスか中毒か
第 8節 の現在形 などが持っ問題 について上で簡単 に触れた。
もともとこの詩人 の空間識喪失 と聴覚の鋭敏化、意識の陶酔が、 はた して
詩人 の言 うよ うに芸術創作 のプ ロセスの必然 なのか どうか も怪 しい。 隣で
「あなた」 が気絶 して倒れているのである。 詩人 の興奮 も、腐敗す る死体 の
放っ毒 ガスの もた らした中毒 と考え られない こともな い
。
だがそれよ りも謎 なのが、「
忘れ られたカ ンバ スの上、 なかなかで きあが
らない素描、芸術家が記憶 によ ってのみ仕上 げるものだ」 の 「
素描」、 あ る
いはそれを元 に した作品 は完成 したのか ど うかある。 なぜカ ンバ スは忘れ ら
- 59-
「
腐肉」の多義性について
れているのか。 あるいはその作品は、バルザ ックの 「
知 られざる傑作」の絵
画のように、永遠 の未完成を運命づ け られているのではないか (
「
知 られざ
る傑作」 は 1
830年 に発表 されてお り、 ボー ドレールが知 らないことはあり
えない)。先 はども述べたように、当然次 に作品の完成を述べ るべ きところ
が、「
雌犬」 の視線を感 じて 紬a
s
c
o
》 を起 こしているように見えることは先
に述べたとお りである。 それに先 はどふれた複合過去の問題 もある。 客観的
に 「
保存 しえた」 な ら、単純過去を使えばよいのである。
この節 の中で 《
br
me
s
≫ とい う単語 が使 われて お り、 これが最終節 の
《
払r
me
》 と対立す る意味を持 っていることは、 ピショワが論 じている.*11
複数形 はこの地上世界の様々な存在物 の形のことであ り、単数形 はプラ トン
的な 「
形相」の意味で用 い られているという説明である。 だが これに類する
記憶」である。
暖昧さを持つ単語が、 もう一つある。 それは 「
実 はボー ドレールは、一生を通 じてみると二つの意味で 「
記憶」 という単
語を使用 している。 ひとつはプラ トニズム的な用法で、人間の魂がイデア界
のことを記憶.
してお り、芸術 はその記憶の模写であるという考え方 を踏襲 し
た もの、 もうひとつ は 「
現代生活の画家」 の中で述べている、「
細部」 をそ
ぎ落 としてよ り本質をっかみ出すために記憶 に頼 るとい う、方法 としての記
憶である。 作品の執筆年代 を 40年代 とす ると、前者 の意味で用 いている可
能性が高いと言 える。 だが どち らに して もこれはおか しなことになる。元 よ
り本論文の主 旨は、作品や語の意味を一つに決定することではな く、両義性 ・
多義性を解 き放っ ことである。
もしもイデア界の記憶 に頼 って腐乱死体を表現 したのな ら、 イデア界 に腐
乱死体のイデアがあることになる。 これは 「うん このイデア」「
生 ゴ ミのイ
デア」のように、 ア リス トテ レスが論外 として斥 けた問題であ り、芸術論 に
まった くそ ぐわな くなる。
もしも腐乱死体の細部 をそぎ落 としてその本質をっかみだ し、芸術作品に
- 60-
「
腐肉」の多義性 について
仕立てのだ とした ら、わざわざ女を腐乱死体 に仕立てて罵 る理由がわか らな
くなる。 む しろ腐乱 して姐虫 に食われる 「あなた」の死体をイデア化 して、
芸術作品に仕立て上 げるべ きであろう。詩人 はそれがで きる自負 しているの
だ。
そもそ も 「
私」の保存 したものは何なのか。死んで腐敗 していくことによっ
て失われ る女性美なのか、腐敗す る死体 の中に こそ兄 いだされる美なのか。
あるいは先 に述べたように、女性美 と腐乱 の美 は同 じものなのか。詩人 は、
vo
uss
e
r
e
zs
e
mbl
a
bl
e
…》 と語 る。 いまは両者 は違 うらしい。
単純未来形で、《
あるいはそれ は詩人 の認識ではな くて、 「あなた」 の認識を代弁 した ものな
のか。
この作品が、 それほど素朴 に自然 に対す る芸術の勝利を歌 っているとは、
考えに くいのである。
4.芸術 と性愛
では最後の勝利宣言 はどうなるのか とい う問題である。先 にも述べたよう
に、「
形相 と聖 なる本質を守 り抜いた」 という宣言ではな く、そ う岨虫 に言 っ
て くれ とい う命令なのである。伝言を頼 まれた死体 と岨虫 も困 ると思 うが、
詩人が 「
守 り抜 いた」 のが事実かどうかはわか らない。作品が完成 したのか
どうかわか らないままなのと同 じである。
その うえ この文 は別 に解釈することが可能だ と思われ る。通常 この一節 は
愛す る女性 の腐乱す る身体か ら、美の本質 を抽出 して永遠不滅の ものとした
のだと解釈 されている。 ところで、 これを 「
恋愛の本質を守 った」 と解釈す
ることはで きないだろうか。恋愛の本質 はイデア的な美への憧憶であ り、 自
然や質料 の世界 に属す る生殖行為 とは別の処 にある。詩人 は、美への憧憶か
ら女性 に近づ いたが、ついに生殖行為 に及 ばず、 イデアへの回帰 という恋愛
の本質を守 り抜 いたのである。 この場合 《
me
sa
mo
ur
s
≫ は愛人である女性で
- 61-
「
腐肉」の多義性 について
はな く、単 に 「恋愛」 とい う意味、 そ して 《decompos
e
s
》は 「
変質 した」、
つまりイデア的美への憧憶か ら動物的発情へ と変質 したとい う意味 と受 け取
。
る 「
霊肉の分解 した (
一致 しな くな った)
」 と読み込むのは、や り過 ぎと言
われるか もしれない。そ して先 はどの複合過去の話であるが、詩人 は 「いま」
も、つまりは不定の時間、 ひいてはいっまで も、その本質を大事 に守 り続 け
ているのである。
要す るにこの一節 は芸術創造 とは関係な く、腐乱死体 となるべ き生身の女
性の体 にあえて手 を出さなか った詩人が、偉そ うに自己弁護 しているか、言
い訳、 もしくは捨て台詞を吐いているものとも考え られる。 なるほどこのよ
うな経験談 を女性 は他人 にで きず、死んでか ら姐虫に話す くらいが関の山で
あろう。
この一節が芸術の、理念の勝利を歌 うものという解釈を斥 けるわ けではな
い。その芸術の勝利が、性的不能 と裏腹の ものであった可能性を指摘すれば、
とりあえず は足 りる。
事実 ボー ドレールは、サバティエ夫人 との間にこのような事件を起 こして
いる。 匿名の熱烈な恋愛詩を送 りつけて くる男がボー ドレールであることを
察知 した夫人が、思 し召 しで彼を部屋 に招 き入れ、事 に及ぼ うとした ら詩人
が一 目散 に逃 げ出 したとい うエ ピソー ドは有名である。作品執筆 とは時代 は
違 うとは言え、最晩年 に もブ リュッセルで、ナダール ら仲間たちが娼婦を買
いに出か けるのに、 ボー ドレールだけが興味を示 さず一人残 ったというエ ピ
ソー ドが書 き残 されている. '12 ここに一生変わ らない性行を見て取 ることは
難 しくない。天上的な美の受肉 としての女性を憧慣す ることはあれ、性行為
に及ぶ ことを過剰 に美への辱めと感 じるような心性があるか らこそ、彼 は露
悪的な振 る舞 いに出ざるをえなか ったのであろう。
- 62-
「
腐肉」の多義性について
・「
知 られざる傑作」 との類似
腐乱死体 は、それが腐敗す るがゆえに、生体 よりも生命の力を如実 に表す
もの とな った。他方 「
失われた傑作」の老画家 は、「
生命」 をカ ンバスに塗
り込めることを目指 し、それに成功 したと自負 したのである。 その彼の自負
を突 き崩すのが、若 きプ ッサ ンたちのまなざ しである。 彼 らは、率直にカ ン
バスに 「
何 も描かれていない」 ことを見出 し、それを巨匠に理解 させて しま
う。 では巨匠 フレンホ-フェルは何 に挫折 したのか。
よく 「
知 られざる傑作」が、印象派やキュビズムを予言す る作品であると
言われ るよ うに、「
何 も描かれていない」絵がすなわち否定 に対象 になるわ
けではない。 フレンホ-フェルは、作品の 「
美」 を第三者 と共有することに
失敗 したのである。作品 は、第三の視線が存在す る空間で自立 しなければな
らない。 それができない 「
作品」 は、存在す ることがで きない。
ここで 「
知 られざる傑作」 におけるプ ッサ ンの視線 と、「
腐肉」 における
「
雌犬」の視線の類似を強調 しておきたい。それ らはいずれ も、芸術家 にとっ
ての 「
第三者」の視線 なのである。 フレンホ-フェルの揮身の大作 は、 プ ッ
サ ンにとっては何 も描かれていない絵の具 まみれの板 に過 ぎなか った。 それ
に似て、詩人の創作意欲を刺激す る腐肉は、雌犬 にとっては餌 に過 ぎない。
プ ッサ ンは恋人の ジレッ トをフレンホ-フェルにモデルとして提供す るにつ
いで悩んでいるが、芸術一徹の巨匠 とは違 い、彼 は恋人を一介の女性 と見な
す ことができていた。彼 は恋人であるジレッ トをモデルとしてフレンホ-フェ
ルに提供す るが、最後 にジレッ トは 「あなたを愛 し続 けるほど恥知 らずにな
れない」 と泣 き始める。彼 は恋人を巨匠に 「
売 った」のだ。 それを ジレッ ト
は敏感 に察知 している。 だか ら巨匠はジレッ トを買 ったのだ。若 い女性の完
壁 な美 しさを持っ肉体 に惹かれて、秘蔵の絵画を見せ るとい う取引を したの
である。 だか ら巨匠の自殺 は、 自らが絵が続 けた絵画が絵 の具 まみれの板 に
過 ぎないことに気がっいたか らと言 うだけではな く、女性 に恋を した こと、
- 63-
「
腐肉」 の多義性 について
そ して生身の女性 と絵画の中の女性を天秤 にかけて取引を したことを恥 じた
ためとも言える。 巨匠にとどめを刺 したのは、売 り買いされた女性 の鳴咽な
のではなか っただろうか。
「
腐肉」 の詩人 は、少 な くとも表面的には、女性 の 「
腐敗す る部分」 と
「
永遠 のイデアとして残 る部分」を並べて後者を採 ると言 い立てている。 し
か しその後者を定着す るはずの作品が完成 したのかどうか不明なことば述ベ
たとお りである。いわば彼 は本当の意味で自負することす ら許 されていない
巨匠である (
詩で語 られている自負が怪 しいことも述べた とお り)。彼 は常
に 「
雌犬」 に見っめ られていることを意識せざるをえない。「
雌犬」 は、生
と死の不可分な世界、食欲 と性欲の世界に住 まっている。その日か ら見れば、
「あなた」 も 「
私」 もある種の 「
腐敗性物質」 (
田村隆一) として等価 な もの
に過 ぎない。そ してその視線 は、詩人 の母が、あるいはオー ビック家の顧問
弁護士 アンセルが詩人を見 る視線で もある。
第三者 との 「
美」の共有 に不安を抱かざるを得ない詩人 は、せめて 「あな
た」との間に共犯関係を確保 しようとす る。 それだか らこそ、彼 の 「
命令」
は悲鳴のよ うに響かざるをえない。詩人 にとっての恋愛 は、「
美」 の理念 の
共有 とな らざるをえないが、「
知 られ ざる傑作」の最後で ジレッ トが 「
私を
殺 して」 と泣 きじゃくるよ うに、「
美」 の理念 となることは女性 にとっては
ある意味死を意味 している。 詩人の恋 は、結局 は芸術的な 「
美」も肉欲 と分
離で きないものである事実 に突 き当たる。そ して詩人の悲鳴は、 自 らが 「
形
相 と聖 なる本質を守 り抜かざるをえない」 ことへの悲鳴に変わ る。 詩人 はな
ぜ 自分が女性を求めるのか、 自分で知 っていない。 それは自らが腐敗す る物
質であることを肯いえない ことと同 じことである
結び
『
悪の花』の中での位置
この 「
腐肉」 とい う詩 は、『
悪 の花』 の詩 の流れの中で、一つの転換点 に
- 64-
「
腐肉」 の多義性 について
なっている。 これ以前 は、女性の現前の彫刻的な美 しさ (
「
無題 2
7」)、運動
す る しなやかさ (
「
踊 る蛇」)が歌われていたのに、 ここか ら後 は、「死体 の
サイ クル」 とで も呼ぶべ き、 陰惨 な詩 が続 く。 30が 「DE PROFUNDI
S
CLAMAVI
」、31が 「吸血鬼」、つ ぎに 「ある夜ユダヤ女 の隣 に-」「死後 の
悔恨」が来 る。筋書 きとしては、女の肉体の造形的な美が静的に ・動的に歌
い上 げ られた後、その女性の肉体が腐敗す るものであ り、詩人が求めるもの
はその 「
形相」であったことが明 らかになると言えよう。 だが 「
形相」 の国
の不毛 さが次 に歌 い上 げ られ、動物の生を うらやむ詩人 は死んで も死なない
吸血鬼 に身を捧 げることになる。だか ら 「
腐肉」の中で完成 された 「
作品」
は、その前 に並ぶ作品群 一女性の造形美/形式美を歌 った-の ことを示す と
言える。
詩人 は女性の形相的な美を追究 し、作品に定着 しうると自負 した。だがそ
れゆえに、一方でそのような擬似的恋愛の不毛 さが強調 され るのと同時に、
かえ って女性の動物的側面が強調 されることになる。 やがてその動 きが落 ち
着いたところに、等身大の女性 との情感を歌 う、 いわゆる 「ジャンヌ ・デュ
ヴァル詩編」が登場す ることになる。
『
悪の花』を詩人の自己批判の展開 と見 る読み方か らすれば、一つの詩 に
完成 された思想を読み取 ることはで きない。批評者である詩人 自身が 自らの
作品に亀裂を見出 して、次の作品へとア リア ドネの糸を繰 り出 している以上、
われわれ はそこに詩人の挫折 をこそ読み取 るべ きなのである。 この小論 はそ
の試みの一つである。
*1 Baudelaireαuvrescompl占tesI,gd.ClaudePichois,laP16iade,Gallimard,
1
975,p.
889.
*
2 Hg
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- 65-
「
腐肉」の多義性について
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979,Ch.
Ⅱ《
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*
3 Ba
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Ci
t
.
,p.
88
9.
*4 『全集 Ⅰ』筑摩書房、1
98
3,p.
5
02.
*5
『ボー ドレール 「悪の花」註釈 ・上』多 田道太郎編、京都大学人文科
学研究所、p.
298.
*6 バ ーバ ラ ・ジョンソン 「
髪 とその分身」、『詩的言語 の脱構築』土 田知
則訳所収、水声社、 1
997.
*7 バーバ ラ ・ジョンソン、「頓呼法、生命化、妊娠中絶」、『差異 の世界』
大橋 ・青山 ・利根川訳所収、紀伊国屋書店、1
99
0.
*8 ジョル ジュ ・バ タイユ 『ェロテ ィシズム』酒井健訳、 ち くま学芸文庫、
p.
90,
*9 ヴォル フガ ング ・カイザー 『グロテスクな もの』竹内豊治訳、法政大
学出版局、1
9
68.なおこの著述でカイザーが実証的に論 じていることは、
同時代のブランショなどの理論的著作 に通 じるものがあると思 われ る。
*10 多田編、上掲書、p.302.
*ll Baudelaire,Cp.C .
,p.
8
9
0.
*12 GeorgesBarral,Cinqjou7:ne'es avec CharlesBaudelaires aBruxelles,
it
Obs
i
di
a
ne
,1
995,p.
77.
- 66-
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