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各国憲法の制定年(∼1940年代)と改正の実際

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各国憲法の制定年(∼1940年代)と改正の実際
1
〔研究ノート〕
各国憲法の制定年(∼ 1940年代)と改正の実際
西 修
1.は じ め に
最初に後掲の表を参照されたい。2009年10月末現在における現行憲法の
古い順から1949年末までに制定された成典化憲法を並べてみたものである 1)。
最も古い成典化憲法はアメリカで、1787年9月に採択され、翌88年6月に発
効した。1940年代に制定された最後の成典化憲法はインドで、1949年11月に
採択され、翌50年1月から施行された。
これら古い成典化憲法の制定年と改正の実際を掲示したのが本表である。
現在、世界には187の成典化憲法国が存する。それゆえ、この表から以下の
ことが理解できる。①いまや1940年代に制定された憲法は、世界的に非常に
古い部類に属すること(1940年代に制定された成典化憲法は187の成典化憲
法中、わずか19か国であり、その他の168か国は1950年代以降に憲法を制定
2)
、
している。ちなみに1990年代以降では93か国で新しい憲法を制定している)
②それらの諸国憲法は、かなり頻繁に改正がなされていること、③そのよう
な動向のなかで、日本国憲法は世界でいまや古い方から14番目であり、施行
されてから63年間、一度も改正されていないという点で、きわめて特異な存
在であること 3)。
表示された諸国のうち、アメリカ、中華民国、ドイツ、およびフランスの
憲法体制については、別に論述したところなので 4)、ここでは、それ以外の
諸国の憲法について、憲法改正の手続と実際を中心に、概観する。
2
2.ベルギー憲法
(1)略 史
ボナパルト・ナポレオンが失脚したのちのウィーン会議(1814年9月∼
1815年6月)でベルギー領はオランダに併合された。1830年7月のフランス革
命に影響を受けて、翌8月ブリュッセルで暴動が起こり、9月には臨時政府が
樹立、翌10月に独立を宣言した(同年12月にはロンドン会議で認められたが、
オランダが承認をしたのは1839年4月のこと)
。この独立にあたり、国民議
会で共和制にすべきか君主制にすべきかの投票がおこなわれ、174対13の圧
倒的多数で君主制が承認された。
(2)過去の憲法
ウィーン会議でオランダに併合されたおりに、1815年のオランダ憲法がベ
ルギー領にも適用されたが、独立後に制定した1831年の憲法が今日まで存
続している。
(3)現行憲法の成立経緯
1830年10月、14人からなる憲法起草委員が任命され、わずか5日間で起草
作業が完了した。同年12月には国民議会で審議され、翌31年2月7日に公布、
同月25日に施行された。ある調査によれば、起草に際して、約40%が1815
年のオランダ憲法に、35%を1830年のフランスに、10%が1791年のフランス
憲法に、そして5%がイギリス憲法体制に依拠しており、ベルギー独自の内
容はわずか10%にすぎないという 5)。しかし、できあがった憲法は、国民主
権にもとづく議会制君主を擁するなど、その民主的性格は、19世紀における
ヨーロッパの憲法のモデルとされ、スペイン憲法(1833年)、ギリシャ憲法
(1844年、1864年)
、ルクセンブルク憲法(1848年)、プロシア憲法(1850年)、
ブルガリア憲法(1864年)
、およびルーマニア憲法(1864年)などに直接の影
響を与えた 6)。
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
3
(4)若干の特色
ベルギー憲法は、議会制君主国憲法として各国に影響を与えてきたが、国
王の章は、第3編(「権力」
)において、連邦議会(第1章)
、連邦立法権(第2章)
についで、第3章(85条以下)に設定されている。憲法上、国王は、上院およ
び下院との共同の立法権、行政権、判決の執行権を有するほか、大臣の任免、
軍隊における階級の付与、貨幣の鋳造権などを有する。国王の身体は不可侵
との規定が存在している。ただし、
「国王は、憲法自体にもとづき、および
憲法にもとづいて制定された個別の法律により正式に付与された以外の権限
を有しない」
(105条)
。
こうして、国民主権のもとで、国王には形式的な権限しか与えられていな
いようであるが、実際上、国政に影響を与えることがある。たとえば選挙制
度として比例代表制がとられ、多様な言語、文化などを背景に多党分立制が
常態化しており、新しい首相の任命に際しては、国王の意向が反映されるこ
ともある。なお1991年の改正により、女王誕生への道が開かれることになった。
連邦と共同体、地域圏との関係については、憲法上、連邦には明確に授権
された権限(外交、国防、司法など)のみが付与され、三者のあいだに優劣
関係はないとされている。連邦、共同体、地域圏の定める法律の合憲性を判
断する機関として、1988年の憲法改正により、仲裁裁判所が設置された。こ
の仲裁裁判所は、法の前の平等原則、イデオロギー的少数者の権利・自由、
教育の自由に対する違反に対しても審査権を有する。今日では、実際上ほと
んどの場合に違憲審査権を行使し、憲法裁判所としての役割を演じている。
(5)憲法改正の手続きと実際
憲法改正手続きは、次のようである。まず両院が憲法改正の必要性を宣言
すれば(この場合、特別多数決が要求されていない)
、両院は自動的に解散
される。総選挙後、あらたに召集された両院が、国王との合意により、その
可否を判断する。その際、両院では総議員の少なくとも3分の2の賛成票を
得なければならない(195条)
。
いかなる憲法改正も、戦時中または両院が連邦領域で自由に集会するこ
4
とが妨げられているときは、遂行することができない(196条̶この条項は
1968年1月の改正によるもの)。また摂政がおかれているときは、国王の憲
法上の諸権限および世襲制、国王の身体の不可侵性なども改正されてはなら
ない(197条)
。なお新しい規定との用語の統一、フランス語、オランダ語間
の一致を確保するための調整ができるが、その場合も各議院で少なくとも3
分の2が出席し、投票総数の少なくとも3分の2の賛成票を必要とする(198条)
。
憲法は、以下のごとく頻繁な改正がなされてきている 7)。①1893年、②
1920 ∼ 1921年、③67年、④68 ∼ 71年、⑤78 ∼ 81年、⑥81 ∼ 85年、⑦87 ∼
91年、⑧91 ∼ 94年、⑨96年3月(1か条)、⑩97年2月(1か条)、⑪97年3月(1
か条)、⑫97年5月(1か条)、⑬98年6月12日
(1か条)、⑭98年6月17日(1か条)、
⑮98年11月(1か条)
、⑯98年12月(1か条)、⑰99年3月(1か条)、⑱99年5
月13日(1か条)、⑲00年3月(1か条)、⑳00年5月(1か条)、 01年3月(1か条)、
02年2月(2か条)、 02年12月(1か条)、 04年6月(1か条)、 04年7月(1
つの表題)、 05年2月2日(1か条)、 05年2月25日(32か条)、 05年3月(1
か条)、
05年12月(1つの表題)、
5月(1つの表題と1か条)、
07年4月(1つの表題と1か条)
、
07年
08年12月(1か条)。
以上のうち、初期の1893年および1920 ∼ 1921年の改正は、普通選挙制を
段階的に導入するためのものである。当初は139条でスタートしたが、1994
年に統合された憲法は、198か条と施行および経過条項6にふくれあがってい
る。
1993年の改正では、連邦制国家への移行が明記された(1条「ベルギーは、
共同体と地域圏から構成される連邦国家である」
)。以前からも連邦化が進ん
でいたが、ここにベルギーは、三つの共同体(フランス共同体、フラマン共
同体、ドイツ共同体)
、三つの地域圏
(ワロン地域圏、フラマン地域圏、ブリュッ
セル地統合域圏)、四つの言語地域圏(フランス語地域圏、オランダ語地域圏、
ブリュッセル首都二言語地域圏、ドイツ語言語地域圏)からなり(2条∼ 4条)
、
複雑な重層構造が確定された。
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
5
3.オーストラリア憲法
(1)略 史
1770年4月にイギリスの探検家ジェームズ・クックがボタニー湾(現在の
シドニー郊外)
へ上陸、同年8月、東海岸をイギリスの領有地であると宣言した。
1788年1月には、アーサー・フィリップ海軍大佐率いる第一次船隊がシドニー
湾付近に錨をおろし、入植が始まった(フィリップは初代総督に就任)
。そ
の後、ニューサウスウェルズ(1786年)、タスマニア(1803年)、西オースト
ラリア(1829年)
、南オーストラリア(1836年)
、ビクトリア(1851年)
、およ
びクインズランド(1859年)が植民地として編入され、1901年1月1日、オー
ストラリア連邦が発足した。
(2)過去の憲法
上記植民地では、独自の憲法が制定されていたが、連邦憲法としては、
1901年から施行された現行憲法が1世紀以上にわたり適用されている。
(3)現行憲法の成立経緯
1850年代から連邦制の動きがみられたが、1895年、植民地首相会議が連
邦制国家の必要性を確認した。97年から翌98年にかけて3回の憲法制定会議
が開かれ、憲法草案について、各州の国民投票に付され、99年9月には各州
の承認を得た。この憲法草案がイギリス議会に送られ、同議会で『オースト
ラリア連邦の憲法を制定する法律』
(前文と9か条からなり、9条に「連邦憲法
は、以下の通りである」と規定され、8章128か条、および別表で構成される
『連邦憲法』が記載されている)として成立、1900年7月9日、イギリス女王
の裁可を得た。そして、1901年1月1日より施行された。
(4)若干の特色
現行憲法について、以下の特色を指摘することができる。
第一に、イギリスとの歴史的経緯から、英女王を国家元首とする独特の体
制がとられていることである。行政権は、英女王に属し、女王の名代として
6
総督がこれを行使する(61条)
。また立法権は、英女王、上院および下院で
組織される連邦議会に与えられる(1条)
。このように憲法上、英女王がオー
ストラリアの統治機構に組み込まれているが、実際には、英女王のオースト
ラリアへの関与規定は、ほとんど死文化されている。とくに1986年の『オー
ストラリア法』により、各州に残されていた英枢密院への上訴権や英議会の
オーストラリアに対する立法権は、一掃された。
1975年には、総督がみずからの裁量により、ときの首相を罷免した。こ
のいわゆる1975年危機は、立憲君主制、議院内閣制、二院制のあり方などオー
ストラリア憲法の基本的問題点を露呈した。
第二に、アメリカ型の連邦制を採用している。すなわち、憲法51条およ
び52条で、連邦議会の権限を列挙し、107条において、連邦議会に専属され
ていない事項および州議会の権限とされていない事項については、州議会に
留保すると定めている。このことは、州に大きな権限を付与していることを
意味する。もっとも109条には、州法と連邦法とが抵触する場合は、連邦法
が優位するむねの規定がある。
第三に、国民の権利条項について、個別的には、たとえば選挙人の投票の
権利の保障(41条)
、連邦が国教を樹立し、宗教儀式を強制し、自由な宗教
活動を禁止する法律の否定(116条)などの規定はあるが、体系的な形では設
定されていない。このことについて、次のように論じられている。
「人権を
憲法に明記することは、人権をきびしく限定することになるか、あるいは解
釈の幅が広くなり、政府および秩序ある社会にとって固有の紀律が存在不可
能になるかのいずれかである。
」
実は、憲法に国民の権利条項を入れるための憲法改正案が提案されたが、
選挙人の30.79%の支持しか得られず、支持を得た州は皆無であった8).
(5)憲法改正の手続きと実際
憲法改正手続きは、以下のようである。①憲法改正案は、各院の総議員の
絶対多数で可決し、その通過後、2か月以上6か月以内に各州および準州にお
いて、下院議員の選挙権を有する選挙人に提案しなければならない。②ただ
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
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し、先議院が総議員の絶対多数で可決した改正案を後義院が同意しないとき
は、3か月後に先議院が再審議し、総議員の絶対多数で可決し、なおも後義
院がこれに同意しないときは、総督は先議院が最後に議決した改正案を、各
州および準州において選挙人に提案することができる。③選挙人に提案され
た改正案は、過半数の州において、投票した選挙人の過半数が承認し、かつ
投票した全選挙人の過半数が承認したときは、女王の裁可を得るために総督
に提出される。④州選出議員の割合の変更、州の領域の拡大・縮小など州の
利害にかかわる場合は、当該州において、選挙権を有する者の過半数の承認
を得なければ、成案とならない(128条)
。
この手続きにもとづき、今日まで6回8件の改正がなされてきている。①
1906年(上院議員の任期の起算)
、②09年(連邦による州の債務の引き受けの
拡大)
、③28年(連邦と州の公債に関する協定の条項追加)
、④46年(出産手
当等に関する措置を連邦に付与するための条項追加)
、⑤67年(原住民に対
する差別条項の廃止)
、⑥77年(上院議員の欠員の補充方法)
、⑦77年(裁判
官の定年を70歳に規定)
、⑧77年
(憲法改正国民投票に対する准州住民の参加)
。
データはやや古いが、1901年に憲法が施行されてから1988年にいたるま
で、憲法改正のための法案が両院を通過し、選挙人の投票に付されたのは
44回にのぼる。38回が否決されたことになる。選挙人の過半数は得たけれど
も、過半数の州(オーストラリアは6州なので4州が必要)の承認が得られな
かったので、挫折した例が5回ある 9)。
近年の憲法改正として、共和制に移行すべきかいなかで国民投票が実施さ
れた1999年の事例は、まだ記憶に新しい。すなわち2001年1月1日に憲法施
行100周年を迎えるにあたり、憲法の抜本的改正が検討された。その最大の
焦点が、君主制から共和制への移行問題であった。98年2月に開催された「憲
法会議」は、共和制へ移行することで合意、
「英女王と総督をいただくオース
トラリア憲法を改正し、上院および下院の3分の2以上の承認によって選出
された大統領を国家元首とする」ことについての賛否が99年11月に国民投票
で問われ、賛成45%、反対55%(6州のうち5州が反対)で否決された。
8
4.メキシコ憲法
(1)略 史
1519年にエルナン・コルテスの率いるスペイン人が侵入、以後約300年間
にわたりスペインの植民地下におかれた。1810年には独立闘争が開始され、
14年10月、いわゆるアパチンガン憲法(地名に由来、正式には『メキシコ・
アメリカの自由のための憲法律』)が起草されたが、施行されるにはいたら
なかった。21年、スペインからの独立を達成し、24年憲法のもとで、連邦共
和国家となった。同憲法以降、以下のような変遷をたどった。24年∼55年(独
裁制)、55年∼ 76年(改革期)、76年∼ 1910年(独裁制)、10年∼ 20年(革命期)。
この間、1846年にアメリカとの戦争が勃発、48年に敗北したメキシコは、カ
リフォルニア州、アリゾナ州、ニューメキシコ州など国土の約半分をアメリ
カへ割譲した。
(2)過去の憲法
①『メキシコ・アメリカの自由のための憲法律』
(1814年、ただし施行されず)
②『メキシコ合衆国憲法』
(1824年、1847年に復活)
③『七憲令』
(いわゆる1836年憲法)
④『メキシコ共和国統治組織基本法』
(1843年)
⑤『メキシコ共和国憲法』
(1857年)
⑥『メキシコ帝国暫定統治法』
(1865年)
(3)現行憲法の成立経緯
1910年には、35年の長きにわたり政権の座についていたディアスが民衆の
蜂起(メキシコ革命)により、フランスへ亡命。その後、内乱に発展したが、
カランサが政権を掌握した。16年10月には選挙が実施され、選ばれた議員た
ちは12月1日より新憲法制定議会として行動した。最終的に翌17年1月31日
に全議員の署名によって成立し、2月5日には公布、5月1日に施行された。こ
の憲法は、地名にちなみ、ケレータロ憲法ともいわれ、正式には『1857年2
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
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月5日づけの憲法を改正する、メキシコ合衆国憲法』と称する。
(4)若干の特色
以下の特色を指摘することができよう。
第一に、メキシコ国民の意思により、代議制、民主制かつ連邦制の共和国
に組織することをうたっている(40条)
。
第二に、世界に先がけて、社会権規定を導入した。メキシコで憲法案が審
議されたころの労働者の地位は低く、その改善をはかるため、1日8時間労働、
女性および16歳以下の子どもの非健康的または危険な就業禁止(現在、
「女
性」の文言が削除)などの社会権保障のための諸規定が導入された(6章「労
働および社会保障について」)
。これは、よく知られているワイマール憲法
(1919年)の2年前のことであり、非社会主義国家として、世界ではじめて社
会権規定が憲法に組み込まれたことを意味する。
第三に、メキシコではカトリック教会が教育を支配していたことにかんが
み、3条に教育は世俗的であり、いかなる宗教からも独立であることを明記
するとともに、祖国愛、国際的連帯意識の促進などを教育の目的とすること
が定められた。国家と宗教との分離を徹底させるために、聖職者は大統領、
上下両院議員のみならず、公職についてもならないとされている(130条)
。
第四に、スペイン植民地時代は、あらゆる財がスペイン王室のものとされ、
その後も大土地所有制が残された。革命の目的は、このような制度を打破す
ることであり、メキシコ国民全員が土地の所有を享有すべく、土地および水
は本源的に国家が所有するとの規定(27条)が設けられた。
第五に、個人の権利保護(アンパロ)のみならず、憲法の保障についても、
詳細な規定がほどこされている。連邦裁判所は、個人の権利侵害、州または
連邦管轄区の権限に対する侵害、連邦の管轄権に対する州などの侵害に対処
する。また連邦最高裁判所は、一定の機関間で争われた憲法訴訟、連邦法に
ついて下院または上院の33%以上(条約に関しては上院の33%、州法に関し
ては州議会議員の33%以上)によって提訴された違憲の訴えを最終的に審査
する。
10
第六に、大統領の任期は6年で再選は許されていない。上院議員の任期は
6年、下院議員の任期は3年で、それぞれ連続再選は禁止されている。上下
両院の選挙は、近年、少数党にも配慮されたものに改正された。これらは、
大統領の独裁や議会での単独政党の長期支配を阻止するためのものである。
(5)憲法改正の手続きと実際
憲法は、連邦議会(2院制)における出席議員の3分の2以上の賛成と州議
会(31州)の過半数の承認があれば、増補または改正される。州議会の投票
の算定および増補または改正の宣言は、連邦議会またはその常設委員会がお
こなう(135条)
。この常設委員会の付加の部分は、1966年に改正され、その
3年後に施行された。136条には、この憲法が反乱によって中断されても、そ
の効力を喪失しないこと、反乱によってこの憲法の原則に反する政府が設立
されたときは、国民がその自由を回復したのち、ただちにこの憲法の遵守が
回復されること、反乱によって生じた政府に荷担した者は、この憲法および
法律によって裁判に付されることを定めている。
憲法はきわめて頻繁に改正されている。オセアナ出版社の2008年3月発行
の著書 10)には、1921年7月8日の第1回改正から07年11月13日までに改正さ
れたすべての年月日と対象となった全条項が記載されている。それによると、
07年11月13日の改正が175回目にあたり、改正された条項はのべ457条にお
よぶ。連邦議会の権限を定めた73条だけでも、51回もの改正がなされている。
本調査の09年10月末時点では、同国のウエブサイト 11)にのべ487か条にのぼ
るとされていた。
5.インドネシア共和国憲法
(1)略 史
1602年、オランダがジャワに東インド会社を設立、以降3世紀以上にわ
たりオランダの植民地下におかれた。1945年8月、民族統一党の指導者・ス
カルノらがインドネシアの独立を宣言。オランダは、当初この独立を認め
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
11
なかったが、49年12月、最終的に独立を承認した。その後、スカルノ、ス
ハルトの長期独裁政権が続いた。99年6月、44年ぶりに国政選挙が実施され、
スカルノ元大統領の長女メガワティ率いる闘争民主党が第1党になり、長年
政権を担当していたゴルカルが第2党に転落した。また同年10月に大統領選
挙がおこなわれ、ワヒドが当選。しかし、不正資金疑惑が発生し、01年7月、
国民協議会特別総会で解任され、副大統領のメガワティが大統領に就任した。
04年7月には、同国ではじめて大統領の直接選挙が実施され、同年9月の決
選投票により、ユドヨノが当選、さらに09年7月に再選された。
(2)過去の憲法
1945年8月に前文と本文37か条
(ほかに最終規定4か条、付則2)からなる『イ
ンドネシア共和国憲法』が公布。49年12月14日、オランダからの完全独立に
ともない、オランダ憲法に影響を受けた『インドネシア連邦共和国暫定憲法』
(前文197か条)が採択・公布されたが(施行は同月17日)
、翌年8月8日に同
国を単一国とする『インドネシア共和国暫定憲法』
(前文146か条)が連邦議会
で採択(同月15日公布、同月17日施行)された。しかし、59年7月、45年の『イ
ンドネシア共和国憲法』への復帰が宣告された。
(3)現行憲法の成立経緯
1945年6月、インドネシア独立調査会が第一次草案を作成し、8月には同
独立準備委員会で成案を得た。そこで強調されたのは、スカルトによって
示された「パンチャシラ」である。パンチャシラとは、5つの原則という意味
で、①唯一神への信仰、②公正かつ文明化した人間性、③インドネシアの統
一、④代表による討論から生じる全会一致の内なる知恵に導かれる民主主義、
⑤インドネシアの全人民のための社会正義をいう。これら5つの原則は、イ
ンドネシア国家建設の基本的理念とされ、憲法改正手続きによっても改める
ことのできない憲法の上位規範とされている。
また59年8月、スカルノは、45年憲法に復帰させたことに関し、次のよう
に述べている。
「1945年憲法への復帰によって、われわれはいまや革命精神
を再発見し、心の『はずみ』を得た」と。
12
(4)若干の特色
パンチャシラの5原則は、現在も前文に残されているが、後述のように、
03年の改正により、1条3項に「インドネシア国は、法の支配にもとづく国家
とする」との条項が入れられ、西欧的観念も取り込まれた。従来の為政者の
意のままになる憲法から脱皮がはかられたことは事実である。
当初、37か条だった憲法は、いまや70か条となった。民主主義のさらな
る発展は、公務員の「制度化された腐敗体質」や基本的人権の改善に向けた
努力などがいかになされるかにかかっている。
(5)憲法改正の手続きと実際
当初の規定は、次のようであった。
「①憲法改正をおこなうためには、国
民協議会の総議員の少なくとも3分の2が出席しなければならない。②議決は、
出席議員の少なくとも3分の2の同意を必要とする」
(37条)
。
この条項により、後述する4回の改正がなされたが、02年8月の改正により、
現在では、次の規定になっている。
「①本憲法の条項の改正案は、国民協議
会の総議員の少なくとも3分の1により提出された場合に、国民協議会の議
事日程に含められる。②本憲法の条項のいかなる改正案も、文書で提出され、
改正されるべき条項と改正の理由を明確に提示しなければならない。③本憲
法の条項を改正するためには、国民協議会の総議員の少なくとも3分の2が
出席することを必要とされる。④本憲法の改正の議決は、国民協議会の総議
員の少なくとも半数に一人を加えた議員の同意がなければならない。⑤イン
ドネシア共和国が単一国家であることに関する条項は、改正の対象にしては
ならない」
(37条)
。ここに、国民協議会は、国民代表者会議の議員と地方代
表者議員で組織される(2条)
。
1945年の憲法制定時にあっては、前述のパンチャシラを憲法の上位概念
として位置づけ、インドネシア特有の伝統価値観であるゴトン・ロヨン(家
族主義的な相互扶助概念)を基礎とする非西欧的な憲法概念が前提とされて
いた。
しかし、98年のスハルト体制崩壊以降、4度の憲法改正(99年10月、00年8月、
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
13
01年11月、02年8月)により、西欧的な憲法体制が取り入れられるようになっ
ている。
①99年10月19日(9か条の改正) 大統領および副大統領の再選を1回かぎり
とし(1任期はともに5年)
、長任期化に歯止めがかけられた。また大使の
任命につき国会の意見を尊重すること、恩赦について最高裁判所の意見を
尊重することなど、大統領の権限に一定の制約が付された。
②00年8月18日(8か条の改正と19か条の追加)
人権の不可侵性、思想・良
心・表現の自由、生存権、環境権、知る権利などの人権規定の追加、国民
代表者会議議員のすべてを国民による直接選挙とすること(従前は法律に
よることとされ、1985年の法律では、500人中100人は軍人のなかから大統
領によって任命されていた)12)、地方分権の促進、国軍と国家警察の分離
などがなされた。
③01年11月9日(8か条の改正と15か条の追加)
主権行使機関と明記され、
絶大な権限を有していた国民協議会の権限を弱め(
「主権行使機関」の文言
削除)、国民代表者会議の議員と地方代表者会議の議員で組織するものと
されたのをはじめ、大統領を国民の直接選挙制としたこと、違憲審査機関
として憲法裁判所を新設したことなど、国家構造を基本的に変更する大改
正がほどこされた。
④02年8月17日(9か条の改正と3か条の追加) 大統領の決戦投票規定など
が追加された。この追加規定により、既述のように、04年9月、メガワティ
とユドヨノとのあいだで決戦投票が実施され、ユドヨノが勝利した。
6.イタリア憲法
(1)略 史
1861年3月、イタリア王国が建設された。それ以前には、たとえば1820年
にナポリでスペインのカディス憲法(1820年)に範をとった憲法が制定され
たこともあったが、存続しなかった。イタリア王国建設時、王国に施行され
14
た憲法は、1848年の『サルデーニャ王国憲章』
(そのときの国王カルロ・アル
ベルトの名をとって、
『アルベルト憲章』ともいわれる)である。イタリア王
国の建設にともない、
『イタリア王国憲章』となった。同憲章は、フランスの
1814年憲章、1830年憲章、1831年のベルギー憲法に影響を受けたといわれ
ている。1922年10月、ローマ進軍により、ファシスト党のムッソリーニが政
権を掌握、同政権は、43年7月まで存続した。44年6月には、暫定憲法の性
格を有する国王代行命令が制定され、憲法制定議会が召集されるまでの臨時
体制が確立された。そして46年6月、共和制を採択するか否かの国民投票と
憲法制定議会選挙が実施された。前者については、54.3%が共和制採択に賛
成し、また憲法制定議会選挙にあっては、反ファシズムの母胎をになったキ
リスト教民主同盟、社会党、および共産党が三大勢力としての議席を占めた。
(2)過去の憲法
『サルデーニャ王国憲章』
(1848年)
『イタリア王国憲章』
(1861年)
(3)現行憲法の成立経緯
憲法制定議会は、46年6月25日に活動を開始、翌47年3月から本会議で審
議され、同年12月22日、453票対82票で可決・成立した。そして48年1月
1日より前文、2編139条、経過および最終規定18からなる現行憲法が施行
された。現行憲法は、フランス第4共和制をモデルにしているが、自由主義、
マルクス主義およびカトリシズムの不安定な混合との見方もある 13)。
(4)若干の特色
憲法は、冒頭に「基本原則」として、次のような規定をおいている。
「イタ
リアは、労働に基礎をおく民主共和国である」
(1条1項)、
「共和国は、個人と
しての、またその人格が発展する社会組織における、人間の不可侵の権利を
承認し、保障し、ならびに政治的、経済的、および社会的連帯の放棄するこ
とのできない義務の履行を要求する」
(2条)。このような規定方式は、自由
主義先進諸国憲法とは、
「労働に基礎をおく」としている点、
「政治的、経済的、
および社会的連帯」を求めている点で、かなり様相を異にしている。前者に
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
15
は、労働を強調するマルクス主義的色彩が、また後者には、カトリック教説
が反映されているといわれる。カトリック教説にあっては、人間の存在は個
人から家族を経て国家にいたるという思想が根幹にあり、人格は、さまざま
の社会組織(家族、組合、政党などの中間団体)を通じて完成する。この2条
は、イタリア憲法の根幹であるとの見方もなされている 14)。実際にも、カト
リック、マルクス主義左派、世俗主義者というサブカルチャーが形成されて
いる 15)。
第二に、これに呼応して、第1編「市民の権利および義務」の構成も、独特
なものになっている。同編は、
「市民的関係」
(第1章)、
「倫理的、社会的関係」
(第2章)、
「経済的関係」
(第3章)
、
「政治的関係」
(第4章)からなる。とくに「倫
理的、社会的関係」の章において、
「共和国は、婚姻にもとづく自然的結合と
しての家族の権利を承認する」
(29条)
、
「子どもを養育し、訓育し、教育する
ことは、たとえその子が、婚姻外で生まれたものであっても、両親の義務で
あり、かつ権利である」
(30条)
、
「共和国は、……大家族に対して、特別の配
慮をする」
(31条1項)
、
「共和国は、母性、子どもおよび青少年を保護し、こ
の目的のために必要な諸施設を促進する」
(同条2項)
、
「共和国は、健康を個
人の基本的権利および共同社会の利益として保護し、貧困者には、無料の治
療を保障する」
(32条1項)などの規定が配されている。これらは、2条の「政
治的、経済的、および社会的連帯」の具体化としてとらえることができる。
(5)憲法改正の手続きと実際
憲法改正の手続きは、次のようである。憲法改正法案は、各議院で3か月
以上の期間をおいて引き続く2回の会期により議決される。第2回目の議決
にあっては、各議院で総議員の絶対多数により承認されなければならない。
この憲法改正案は、公布後3か月以内に一議院の5分の1、50万人の有権者ま
たは5つの州議会の要求があるときには、国民投票に付される。ただし、前
記憲法改正案が第2回目の議決で総議員の3分の2以上の多数により承認され
。このように任意国民投票制をとっ
たときは、国民投票に付されない(138条)
ているところに特色がある。なお、共和制は憲法改正の対象にしてはならな
16
い(139条)。
憲法改正は、03年5月までに14回、のべ37か条についてなされている 16)。
①63年2月(56、57、60条̶下院議員数を596人から630人に、上院議員数
を246人から315人に、上院の任期)、②63年12月(57、131条̶モリーゼ州
の新設にともなう)、③67年11月(135条̶憲法裁判所裁判官の任期を12年
から9年にして再任を無制限に)、④89年1月(96、134、135条̶大臣の弾劾
裁判制度を国会から通常裁判所へ移行等)、⑤91年11月(88条̶大統領の解
散権の緩和)
、⑥92年3月(79条̶大統領の大赦・特赦を法律事項に)
、⑦93
年10月(68条̶議員の不起訴特権の一部廃止)、⑧99年11月22日(121、122、
123、126条̶州自治権の強化、州知事の直接選挙制)
、⑨99年11月23日(111
条̶刑事被告人の権利保障)
、⑩00年1月(48条̶在外投票権の保障)
、⑪01
年1月(56、57条̶在外選挙区の設定)、⑫01年10月(第5章関係、13か条̶
中央と地方との関係の抜本的改正)、⑬経過規定8(旧王家の選挙権付与等)、
⑭03年5月(51条̶男女平等の促進)17)。
以上の諸改正のうち、⑫をのぞき、憲法の基本原理にかかわる内容の改正
ではない。⑫は、同国を事実上、連邦制へ移行するという点で抜本的な改正
といえる(関連する条文の追加・削除も15か条におよんだ)。すなわち、同
改正により、①国の排他的立法権が限定され、州が明示的に国の立法権に留
保されていないいかなる事項に関しても、立法権を有する(117条)
。②行政
機能は、市町村に属し、補完性の原理にもとづき、県、大都市圏、州および
国に移譲され得る(118条)
。③市町村、県、大都市圏および州は、収入およ
び支出の財政自治権を有する(119条)など、一般に連邦制諸国にみられる諸
規定が導入された。前述のように、憲法改正の方式は、国会のみによる方式と、
国民投票による方式があるが、⑫がはじめて国民投票(投票率34.1%、賛成
64.2%、反対35.8%)によって成立したという意味でも画期的であった。
憲法改正という点で、06年6月に実施された憲法改正国民投票において憲
法改正案が否決された事例をとりあげておかなければならない 18)。この改正
案は全57か条からなり、憲法第2部「共和国の組織」の85か条の半数以上を
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
17
しめる膨大な内容である。
大きく①二院制の改革、②首相権限の強化、③分権化のさらなる推進、④
憲法保障制度の充実に分けることができる。①の二院制改革については、
(i)
「完全なる2院制」を廃止して、上院を地方代表院化させ、それぞれの任務と
権限を分担化させる。
(ii)内閣の両院への信任を下院のみとする。
(iii)両院
の被選挙権年齢を下院は現行の25歳から21歳に、上院を現行の40歳から25
歳に引き下げるなどを内容としている。②の首相権限の強化に関しては、
(i)
首相の地位を「同輩者中の第一人者」から政治的リーダーシップを発揮でき
る「首相」にするため、大臣の罷免権を与える。
(ii)ドイツ型の「建設的不信
任制」を導入するなどが内包されている。③の分権化は、01年の改正を再推
進・整備するものとされた。たとえば保健・衛生、教育、地方警察に関す
る事項を州の排他的事項とすることとするものとされたが、他方で州法が国
家的利益を侵害すると政府が判断するときは、政府がその侵害すると判断す
る部分の規定の削除を求めることができるとされた。④の憲法保障制度の
充実については、
(i)憲法裁判所裁判官の数を15人とすることは変更しない
が、国会による選出裁判官の数を5人から7人に増加させる。
(ii)憲法改正手
続きとして、2回目の審議の際、3分の2以上で可決されれば国民投票は不必
要とされていたが、3分の2以上で可決されても、国民投票の請求を可能にす
る。
(iii)大統領を「憲法の保証人」とするとの規定を入れるなどが案出された。
この改正案は、06年6月25日と26日の両日、国民投票に付され、賛成
38.7%、反対61.35%(投票率52.3%)という圧倒的多数で否決された。
7.インド憲法
(1)略 史
1600年にイギリスの東インド会社が設立された。このときエリザベス女
王1世によって発せられた憲章がその後のインドにおける法制度や憲法原理
に大きな影響を与えた。1858年8月、インド統治法により、イギリスの直轄
18
植民地になった。1885年には国民会議派が結成され、マハトマ・ガンジーの
指導のもとに独立運動を展開、1947年8月15日、イギリスからの独立を達成
した。
(2)過去の憲法
1935年のインド統治法でイギリスとインドの二元政府と州政府の自治が
成立した。
(3)現行憲法の成立経緯
1946年12月29日、第1回憲法制定議会が開催され、翌47年1月22日には、
ジャワハーラル・ネルーが提唱した「目的決議」
(インドは独立した主権を有
する共和国であること、後進地域、被抑圧階級に対して適切な保障がなされ
なければならないことなど)を採択し、憲法の基底におかれた。48年2月、7
人の起草委員からなる委員会案が憲法制定国民議会に提出され、49年11月
26日に可決、50年1月26日から施行された。憲法を起草するにあたっては、
アメリカ、カナダ、アイルランドに代表団が派遣された。
(4)若干の特色
インド憲法の最大の特色は、その長大さにある。全体が前文、22篇395か
条と付則12からなる。しかも、06年12月までに94回もの改正がほどこされ
ている。長大さの最大の要因は、州憲法が存在せず、憲法で州に関する細部
まで規定されており、ちょっとした変化にも憲法改正がかかわってくるから
である。
憲法前文は、インドを「主権を有する社会的・非宗教的な民主共和国」と
し、すべての公民に対し、
「社会的・経済的・政治的正義、思想、表現、信念、
信仰、および崇拝の自由、地位および機会の平等を確保」し、かつ「個人の
尊厳、民族の統一と統合を促進」することを厳粛に誓っている。
第4編には、
「国家政策の指導原則」
(36 ∼ 51条)として、国民の福祉増進、
母性保護、14歳までの子どもに対する義務教育、指定カーストなど弱者層に
対する特別の配慮、栄養水準・生活水準の引き上げ、環境保護、森林・野生
動物の保護、国際の平和と安全の推進などを掲げている。これらは、裁判所
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
19
によって強制されるものではないが、国家統治の基礎をなすものであって、
国が法律を制定するに際して、これらの原則を適用しなければならない(37
条)
。この「国家政策の指導原則」規定は、1937年のアイルランド憲法に影響
を受けたもので、インド憲法への導入は、その後のアジア諸国憲法に伝搬さ
れている。
基本的人権として、法の前の平等(カーストなどに対するアファーマティ
ブ・アクションの容認)、不可触民の廃止、人身売買の禁止、14歳以下の子
どもに対する工場・鉱山などでの労働禁止など、インド特有の規定がみられ
る。一方、76年の憲法改正により、すべてのインド公民に対して、憲法の遵
守、国旗・国歌の尊重、インドの主権護持、国防と必要により兵役につくこ
と、インド文化の伝統を尊重し、維持することなどの義務が加えられた。
ほかに、民族の多様性を反映して、ヒンディー語を公用語としつつ、憲法
で22の言語の使用を認めている(343条、付則第8)。
インド最高裁判所の各種判例により 19)、以下の事項がインド憲法の基本原
理とされている。
(a)憲法の最高法規性、
(b)法の支配、
(c)権力の分立、
(d)
憲法前文に規定されている諸目的、
(e)司法審査および権利侵犯に対する最
高裁判所の救済措置、
(f)連邦制、
(g)非宗教主義、
(h)主権を有する民主共
和国構造、
(i)個人の自由と尊厳、
(j)国家の統一と統合、
(k)平等の原則、
(l)
基本的権利の本質、
(m)福祉国家を建設するための社会的、経済的正義の概
念、
(n)基本的権利と国家政策の基本原則とのあいだのバランス、
(o)議院内
閣制、
(p)自由で公正な選挙の原則、
(q)憲法368条(憲法改正条項)に付与さ
れている憲法改正権に対する制約、
(r)司法の独立、
(s)司法への有効な接近
(裁判を受ける権利)。
「世界最大の民主主義」を誇っているインドが、国民全体の生活水準をい
かにレベルアップさせていくかが問われている。
(5)憲法改正の手続きと実際
憲法改正手続きを定めている368条の概要は、以下のようである。憲法改
正案が両議院においてその総議員の過半数で、かつ出席して投票した議員
20
の3分の2以上の多数で可決したときは、大統領に提出され、大統領が当該
改正案を承認したときに憲法改正が成立する。ただし改正案が大統領の選挙
条項(54条、55条)、連邦の行政権の範囲(73条)
、州の行政権の範囲(162条)
、
連邦高等裁判所(241条)
、連邦司法(5編4章)
、州高等裁判所(6編5章)
、連
邦と州の立法関係(11編1章)
、連邦と州の立法事項(付則7の表)
、連邦議会
における州の代表性、または連邦改正条項(368条)にかかわるときは2分の
1以上の州議会の賛成を得る必要がある。この憲法改正条項にもとづいてな
された改正については、いかなる制限もない。
この憲法改正条項にしたがい、51年6月18日を皮切りに、06年6月12日
まで94回の改正がなされてきている 20)。改正中、とくに注目されるのは、
1975年6月に成立した第42次改正とその後始末というべき諸改正である 21)。
すなわち、インディラ・ガンジー首相は、71年の総選挙で選挙違反に問わ
れ、首相の辞職を要求された。そこで同首相は、その対抗策として、76年6月、
非常事態宣言を発するとともに、報道機関を規制し、反対派議員らの逮捕を
はじめた。また翌76年11月には、59か条にのぼる第42次改正を通過させた
(施行日は条文によって異なる)
。同改正は、前文に「社会的、非宗教的」な
る文言を入れること、反国家的活動または反国家的結社を禁止すること、国
家政策の指導原則は基本的人権に優越すること(基本的人権の程度がそれだ
け小さくなる)
、あらたに10か条の国民の義務規定を導入すること、行政府
の権限強化と司法府の弱体化をはかること、州との関係で中央政府の権限を
いっそう強化することなどが含まれており、かなり独裁色の強いものであっ
た。けれども、これらの改正は、78年から79年にかけてなされた第43次お
(前文の上記追加は残されてい
よび第44次改正により、大部分、復元した 22)
る)
。
インドでは、2000年2月22日、
『憲法改革検討委員会』
(The National Commissions to Review the Working of the Constitution)が設置され、同委員会(委
員は各種の専門的分野の学識経験者10人からなる)は、50年間の運用に照ら
し、憲法をさまざまの角度から検討し、その結果を02年3月31日、大部の報
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
21
告書にまとめた 23)。そこでは、当面する憲法問題が詳細に論じられ、人口抑
制や異宗教間の調和などを含むインドの憲法的価値を高めることの必要性が
強調されている。インドにおける憲法問題の総括という点で同報告書の意義
はすこぶる大きい。
近年の憲法改正論のなかには、議院内閣制から大統領制への変更を求める
ものもあり 24)、同国の今後の憲法論議が注目される。
8.その他の諸国憲法
ノルウェー(1814年5月17日採択)では、国会(1院制)で憲法改正案が議
決されれば、総選挙を経た次の国会で再審議され、総議員の3分の2以上の
多数により、前国会で議決した憲法改正案が可決されれば、憲法改正が成立
する。ただし憲法の原則に反するような改正は認められない
(112条)
。この
「憲
法の原則」について、同国国会のホームページには、国民主権、権力分立お
よび人権の3つが掲示されている 25)。同国では、すでに200回以上もの改正
がなされている 26)。近年の改正として、03年には選挙権・被選挙権年齢、比
例代表制の比率が手直しされた。04年には表現の自由に、国家機関および地
方機関の文書に対する知る権利が加えられた 27)。さらに、07年には国会が従
来の変則的2院制から完全な1院制に改められ、09年の選挙から実施された。
すなわち、同国では選挙によって国会(Storting)議員が選ばれ、そのうち4
分の1が上院(Lagting)を、4分の3が下院(Odelsting)を組織することとされ
ていたが、Lagting も Odelsting も廃止された。
ルクセンブルク憲法は、1868年10月17日に採択された。同国憲法は、1848
年憲法の原理を継承しているが 28)、おなじく総選挙を介在させている。総選
挙後の新しい国会(1院制)で、4分の3以上の議員の出席と3分の2以上の賛
成により、憲法改正が成立する(114条)。ただし摂政の在職中は、大公の憲
法上の特権、地位、継承順位に影響を与える改正はおこなわれない(115̶
この条項は1998年1月12日に採択された)
。08年12月の改正では、大公は国
22
会で表決された法律案を3か月以内にかならず公布するものとされた(34条)
。
オーストリア憲法は、1920年10月1日に制定され、その後、1929年12月7
日に大々的に改正されたものが現行憲法である。憲法改正の手続きは、やや
複雑である。
「憲法的法律」または「単純法律に含まれる憲法的規定」は、国
民議会(下院)で少なくとも半数の議員が出席し、投票の3分の2以上の賛成
により改正される。州の立法または行政の権限を制約する「憲法的法律」ま
たは「単純法律に含まれる憲法的規定」は、さらに連邦議会(上院)で少なく
とも半数の議員が出席し、投票の3分の2以上の賛成により改正される。そ
して連邦憲法の全部改正はつねに、また部分改正は国民議会または連邦議
会の3分の1以上の要求があった場合にかぎり、大統領が署名する前に国民
投票に付される(44条)
。国民投票では有効投票の絶対多数で決せられる(45
条)。同憲法は、かなり頻繁に改正されており、2000年から04年までだけで
7回の改正がおこなわれている。03年の改正により、ヨーロッパ議会への被
選挙権を18歳以上に、選挙権を19歳以上に与えられることになった。
リヒテンシュタイン憲法は、1921年10月5日に採択された。憲法改正は、
政府、国会(1院制)または1500人以上(注:国民は約3万5千人)で少なくと
も4つのコンミューン(注:11のコンミューンからなる)によって提案され、
国会において連続2会期で出席議員の全員一致(注:議員は全員で25人)ま
たは4分の3以上の賛成により成立する(111条)
。03年まで21回の改正がなさ
れているが、03年3月の憲法改正は、現代民主主義にとって非常に異常とも
いえる経過と内容を有する 29)。改正の内容は、大公に法律案の不裁可権を与
えたこと(国会を可決した法律案を大公が6か月以内に裁可を与えないとき
は廃案となる̶65条1項)、大公は裁判所の判決に従う必要はなく、また法
的な責任を負わないことが追加されたこと(7条2項)
、大公の発する緊急命
令は、生命の権利、拷問、 法律によらない処罰 を制約しない(10条)など、
大公に大きな権限を付与することになった。もともと同国の憲法は、主権を
大公と国民の双方に存せしめる(2条)という二重の主権構造をその特色とし
ているが 30)、03年の改正によって、比重が大公に大きく傾いたといえる。改
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
23
正にいたるまでの経緯も異例であった。大公は、国民に強いプレッシーをか
け、もし憲法改正が受け入れられなければ、国外に去り、ウィーンに移住す
るとまで宣言した。その結果、03年3月16日に実施された国民投票で64.3%
の支持を得た。
ラトビアは、90年5月4日、共和国の再独立を宣言、翌91年9月6日、ソ連
邦国家評議会は、他のエストニア、リトアニアのバルト諸国とともにラトビ
アの独立を決定した。独立とともに、ラトビアは、1922年2月15日に採択さ
れていた旧憲法を施行した。しかし、施行後、94年1月、96年6月、97年12月、
98年10月、02年4月、03年5月、04年9月、05年12月の8回、改正されている。
とくに98年10月の改正は、基本的人権の章(第8章、89-116条)の導入をはじ
め、大々的なものであった。なお憲法改正は、国会(1院制)で少なくとも3
分の2の議員が出席し、3つの読会で出席議員の3分の2以上の賛成があれば、
成立する(76条)
。ただし、同国が民主的共和国であること(1条)
、主権が国
民にあること(2条)など6つの基本条項については、国民投票に付される(77
条̶この条項は98年10月の改正で挿入された)
。
レバノンは、1922年7月24日、シリアとともにフランスの委任統治下にお
かれたが、1926年5月23日公布のレバノン共和国憲法をもって、シリアから
の分離が確認された 31)。憲法改正は、大統領が発案すれば、政府により代議
院(1院制)に提出される。代議院議員も発案できるが、その場合は少なくと
も10人の議員による提案にもとづき、法定議員数の3分の2以上の多数の賛
同が必要である。代議院議長は、この提案を政府に通報する。政府がこれ
を承認するときは、憲法改正草案を作成し、4か月以内に代議院に提出する。
政府が承認しないときは、代議院に差し戻す。代議院が再審議をし、法定議
員数の4分の3以上で再可決すれば、大統領は、代議院の再可決に従うかま
たは代議院の解散を命じるかの選択をおこなう。新選挙は、3か月以内に実
施される。新しい代議院が改正の必要性を議決したときは、政府は、代議院
の提議に従い、4か月以内に憲法改正案を提出する義務を負う(76条)
。代議
院で憲法改正案が提出されたときは、最終的な議決があるまで、他のいかな
24
る案件を扱ってはならない(78条)
。代議院に憲法改正案が提出されたときは、
法定議員数の3分の2以上が出席しなければ、議事がおこなわれず、議決は
法定議員数の3分の2以上の賛成がなければ成立しない。大統領は、代議院
に対して再審議を要求することができるが、代議院で法定議員数の3分の2
以上の多数により、再議決されれば、大統領は憲法改正を公布しなければな
らない(79条)
。憲法は、27年10月
(54か条)をはじめとして、29年5月(5か条)、
43年11月(8か条)、43年12月(1か条)、47年1月(18か条)、48年5月(2か条)、
76年4月(1か条)、90年9月(32か条)、95年10月(1か条)、98年10月(1か条)、
04年9月(1か条)などの合計98回、のべ124か条の改正を受けている。この
うち、大統領の地位(現在では、
「大統領は国家元首であり、かつ祖国の統合
の象徴である」と規定されている)
、役割、任期、選出方法にかかわる49条は、
8回も手直しされている 32)。
1937年7月1日に制定されたアイルランド憲法は、下院のみが憲法改正の
発案権をもち、両院で可決されれば(この場合、特別多数決が要求されてい
ない)、国民投票に付され、投票の過半数の賛成により、成立する(47条)
。
同憲法は、1937年12月29日に施行されて以来、2009年10月までに31回もの
国民投票が実施され、22回が成立している。最近、成立した憲法改正として、
02年10月19日の国民投票で承認されたリスボン条約批准にともなう改正と、
国内で生まれても両親がアイルランド国籍を有しない子どもに対しては、憲
法上の市民的権利を与えないことを定めた04年6月24日の改正がある。また
国民投票が実施されたにもかかわらず、過半数の承認を得ることができな
かった近年の改正案として、妊娠中絶を強化することを企図した改正案があ
る(02年3月6日、国民投票実施)
。
1944年6月17日に制定されたアイスランド憲法は、以下のごとき手順で改
正される。国会で憲法改正案が採択されれば、ただちに解散され、総選挙が
実施される。総選挙後の国会(1院制)において前国会が議決した憲法改正案
を修正なしに再議決すれば、大統領によって確認され、施行される。ただし
国教会(注:62条で福音ルター教会を国教会と定めている)にかかわる改正
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
25
は、有権者の投票にゆだねられなければならない(79条)。同憲法は、02年
までに8回改正されている。このうち、91年5月31日の改正は、従来の変則
的な2院制を廃して、1院制に変更するものである。従来は、国会議員とし
て選挙されたのち、3分の1が上院を、3分の2が下院を構成するというもの
であった。この改正により、21か条に手を加えられた。また6月28日の憲法
改正は、基本的人権条項を新しく組み直すもの(63­78条)である。
コスタリカの憲法は、1949年11月7日に採択され、翌日から施行された。
憲法改正手続きは、以下のようである。まず憲法改正について、全部改正と
部分改正とに分けられる。全部改正は、特別にそのために招集される憲法制
定議会によってのみ制定される(196条)33)。部分改正は、すくなくとも10人
の立法議会議員(注:議員数は57人̶106条)または選挙人名簿に登録されて
いる有権者の5%以上によって提案される(注:「有権者の5%以上」は、2002
年5月28日の改正で追加された)。当該提案は、審議に付すかどうかをめぐっ
て、6日間の間隔をあけた3読会で検討される。審議に付すこととされた場合
は、立法議会は、絶対多数により任命された委員会に送付し、当委員会は、
20日以内にその意見を提出しなければならない(注:当初、委員会による報
告書の意見提出機関は「8日」とされていたが、1977年6月15日の改正により
「20日」とされた)。改正は、立法議会の総議員の3分の2以上により承認され
なければならない。改正が承認されたときは、立法議会は、適切な委員会に
より改正案を準備する。この改正案の承認は、立法議会の絶対多数を必要と
する。当該改正案は、執行府に送付され、執行府は、次の立法議会の常会に、
所見または勧告をそえて、大統領教書を立法議会に送付しなければならない。
立法議会は、最初の会期中に、当該憲法改正法案を三度、審議する。当該改
正案が立法議会の総議員の3分の2以上の表決により承認すれば、憲法の一
部となり、公布および施行のため、執行府に対して通知する。この憲法一部
改正については、立法議会により承認されたのち、次の立法議会が開会され
るまでのあいだに、立法議会の総議員の3分の2以上の決定があれば、レファ
レンダムに付されることができる(195条。注:このレファレンダムに付す
26
ことの部分は、2002年5月28日の改正によって追加された)
。このような複
雑な手続きが定められているにもかかわらず、同憲法は、54年6月に第1回
目の改正がなされてから、03年7月まで53回、のべ81か条にわたり改正され
ている 34)。
9.まとめとして
以上、別表『各国憲法の制定年(∼ 1940年代)と改正の実際』に掲示されて
いる諸国のうち、本稿でノルウェー、ベルギー、ルクセンブルク、オースト
ラリア、メキシコ、オーストリア、リヒテンシュタイン、ラトビア、レバノン、
アイルランド、アイスランド、インドネシア、イタリア、コスタリカおよび
インドの諸憲法について概観してきた。また別項では、アメリカ、中華民国、
ドイツ、フランス、スイスおよびフィンランドの憲法体制を論述した 35)。
これら諸国の憲法改正の手続きと実際について、比較憲法的視点から若干
の総括をしておきたい。
まず第一に、表中、憲法改正の手続きについて、日本国憲法と同じく、強
制国民投票制を採択している国家は、オーストラリア、アイルランド、スイ
ス、中華民国の4か国でしかない。筆者はかつて、アメリカ、ルクセンブル
ク、ノルウェー、オランダ、アイルランド、デンマーク、ドイツ、ブラジル、
メキシコ、アルゼンチン、ベルギー、スペイン、ポルトガル、フィンランド、
ギリシャ、フランス、イタリア、トルコ、アイスランド、スウェーデン、ス
イス、オーストラリア、インド、オーストリア、ロシア、カナダ、アイルラ
ンド、ニュージーランド、中華人民共和国、中華民国、大韓民国、朝鮮民主
主義人民共和国の33か国を対象に調査したが 36)、そのうち強制国民投票制
を取り入れている国家は、日本、オーストラリア、アイルランド、スイスお
よびデンマークの5か国でしかなかった。いたって少数といえる。
わが国では、憲法改正と国民主権とを不可分の関係ととらえ、強制国民投
票制を採用しなければ、国民主権、ひいては民主主義の証明にならないとの
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
27
見解が主流であるが、世界的にはかならずしも主流でないということは、明
白である。
ここに、かつて他で引用したこともあるが、世界的な比較憲法学者と政治
学者の二人の見解を示しておきたい。
カール・レーベンシュタイン「いままでに蓄積された経験からは、理論
上国民意思の真の表明として論難の余地がないように見えても、憲法につ
いての国民投票が有用であるか、または危険な制度であるか断定できない
ように思われる。問題は、通常の選挙民が現代憲法のような複雑な文書に
ついて、実際上合理的な判断を下すことができるか、あるいはまた、国民
投票における決定が真の意思決定を不可能ならしめるほど感情に左右され
るのではないか、ということである。
」37)
ハロルド・ラスキ「そもそも民主的体制のためには、憲法が国民発案
と国民投票の制度をそなえている必要があるといわれていることがある。
……しかし、立法は、原則の問題であると同時に細目の問題でもある。と
ころが、選挙民は、かれらの検討を求められている法案の細目を処理する
ことができない。だから、直接民主政治は、実際上は現代政治の目的に沿
わない、あまりにも粗雑な手段である。
」38)
憲法改正のための国民投票制が「あまりにも粗雑な手段」であるかどうか
はともかく、多くの民主主義国家は、憲法改正国民投票制を民主主義に不可
欠の制度と考えていないことはたしかである。
強制国民投票制をとっている諸国にあっても、高い頻度において、憲法改
正がおこなわれている。前述したように、オーストラリアではすでに8回の
改正がなされ、国民投票が実施された事例は40回を超える。アイルランド
にあっては、31回の国民投票がおこなわれ、うち22回が国民の賛成を得てい
る。スイスにいたっては、1874年憲法下で約140回もの改正が実現し、つい
に1999年4月、まったく新しい憲法が採択された。
その一方で、強制国民投票制をとり、57年間にわたって一度も憲法を改正
していない国として、1953年6月5日に制定されたデンマークをあげること
28
ができる。デンマークの憲法改正手続きの概要は、次のようである。国会
(1院制)で憲法改正のための法律案が可決されれば(この場合、特別多数決
を要求されていない)、総選挙が実施される。総選挙後に集会した国会で再
びこの憲法改正案を無修正で可決すれば、6か月以内に国民投票に付される。
この国民投票において、投票の過半数でかつ有権者の40%以上の支持があっ
たときに、憲法改正が成立する(憲法88条)。このように、総選挙を介在さ
せて2回の国会で同一改正案を可決したうえに国民投票を要求し、さらに有
権者の40%以上の同意を得なければならないという点で、きわめてハード
ルが高くなっている 39)。同国で57年間も憲法改正がないのは、国民に憲法
改正へのアレルギーがあるわけではない。事実、同国では05年8月、皇太子
妃に子どもが誕生する兆候がみられたとき、男子優先になっている憲法条項
を改めることで与野党間に合意がみられた。結局、男子が誕生したことで憲
法改正が現実にならなかった。
中華民国では、従来、憲法改正は、国民大会の権限であった。05年6月の
増修によって、国民大会が廃止されたことにともない、憲法改正は、以下の
手続きによるものとされた。すなわち、憲法改正案は、立法院
(国会=1院制)
において立法委員(国会議員)総数の4分の1以上で提案され、立法委員の4
分の3以上の出席と出席委員の4分の3以上の賛成により、国民投票の公示が
なされる。この公示があってから半年後に選挙人の投票に付され、選挙人総
数の過半数を超える賛成があったときに憲法改正が有効となる(05年増修11
条)。このように硬性度のきわめて強い規定になったが、05年以降の改正は
なされていない。
第二に、憲法改正の限界について、いくつかの国は憲法で明示している。
たとえばフランスおよびイタリアでは、共和制を憲法改正の対象にしてはな
らないとされている(それぞれ憲法89条、139条)
。ドイツでは、連邦が州(ラ
ント)から成り立っていること、立法に際しての州の原則的な協力、または
1条(人間の尊厳の不可侵性、人権の不可譲性など)
、20条(民主的、社会的
国家であること、国民主権、立法の憲法的秩序への拘束、抵抗権など)を改
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
29
正の限界事項としている(79条)
。
また時期的限界として、たとえば、ベルギー憲法は、戦時中または摂政が
おかれている期間と定めている(196条、197条)
。これらの事項と期間中は、
それぞれの国家で憲法改正の対象になり得ないことは当然であるが、問題は、
憲法改正の限界が憲法で明示されていない場合、憲法改正に限界があると考
えるか、もし限界があると考えるならば、何をもって限界の対象とすべきか、
という点である。
この点においても、わが国の学説と各国憲法の規定方式とはギャップがあ
るように思われる。いうまでもなく、わが国にあっては、憲法改正限界説
が大勢である。憲法改正手続きに従っても、憲法のよって立つ基本原理を改
正することは、いわば自殺行為というべきであり、改正の限界を超えるとい
うのである。この点、たとえば改正の限界を明記していないアメリカにあっ
ては、無限界と考えられているようである。小林直樹教授はいう。
「
(憲法改
正の限界を定めていない)アメリカでは理論上、憲法改正限界説を認める学
説はほとんどなく、原理的には第5条の手続きでいかなる改正もなしうると、
一般に考えられているとおもわれる」40)。憲法改正の限界を定めていないア
メリカで、理論上、憲法改正には限界がないと考えられているにもかかわら
ず、おなじく憲法改正の限界事項をもうけていないわが国で、なぜ理論上、
憲法改正に限界があるとされるのか、小林教授を含め、十分な検討がなされ
てきていない。とくに日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正手続きを経て成
立したことになっているが、その有効性について、憲法改正限界説の立場か
ら、8月革命説という奇抜な理論が導かれている。憲法改正無限解説によっ
て、その有効性を説明する方がはるかに合理的かつ説得的であろう。
第三に、憲法改正の実際との関連でいえば、表でみるように、各国は、わ
が国を除き、例外なくかなり頻繁に憲法改正を断行している。憲法改正に抵
抗感がなく、憲法と柔軟に向き合っていることが歴然としている。憲法を 生
きたもの にしておくための努力がなされてきていることの証左ともいえる。
時代が変化すれば、あるいは現行の制度に欠陥が明らかになれば、躊躇する
30
ことなく憲法改正を考える。それが各国にみられる共通の姿勢といえる。環
境条項の導入、2院制の見直し、中央と地方政府の再編成などがその典型と
いえる。
もっとも、多くの改正は、それぞれ憲法の基本原理を覆すような内容では
ないことも指摘しておく必要がある。とくに連邦制をとっている諸国では、
連邦の専属立法事項、州の専属立法事項、および競合立法事項が細かく定め
られているので、立法事項の見直しがなされるたびに、憲法改正がおこなわ
れる。
しかし、憲法の基本原理にメスが加えられた例も少なからずみることがで
きる。ドイツの再軍備条項、非常事態条項の導入は、安全保障の根幹にかか
わる改正である。大連立内閣が、国の安全保障に真剣に向かい合った結果の
産物である。フランスの近年の諸改正は、第5共和制から第6共和制へのステッ
プとみられている。
憲法改正の頻繁さは、その国の憲法の欠陥、不安定性を露呈しているので
はないかという疑問に対して、西ドイツ時代におけるベンダ元内相の次の言
葉は、有意味であるように思われる。
「
(改正の頻繁さは、
)かならずしも、わ
が国の憲法が全体としてあるいはその本質において、古くなったことを意味
しているものではない。むしろ、それは、生きとし生けるものが、その存在
を主張しようとする場合には、適応能力を維持していかなければならないこ
との事実の証明であり、基本法(憲法)もその例外ではない。
」41)
まさに憲法を「生ける存在」
(living being)として、適応能力の必要性が強
調されている。後掲の表は、憲法をすこぶる硬直的に考えてきている日本国
民に、さまざまのことを教示しているように思われてならない。
最後に、世界史に名を残している二人の人物の憲法改正に対する考え方を
紹介して、本稿のしめくくりとしたい。
トマス・ジェファースン「人間の作品で完全なものはない。時代の流れ
のなかで、成典化憲法の不完全さが顕わになるのは、避けられない。さら
に、時代の経過は、憲法が国家にとってふさわしいものであるべきとする
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
31
ならば、憲法が適合しなければならない社会に変化をもたらすであろう。
それゆえ、憲法改正という現実的な手立てをしておくことは、絶対に必要
なのである。」42)
ジャワハーラル・ネルー「憲法には、ある程度の柔軟性がなければなら
ない。憲法を固定的で、永続的ものにしてしまえば、国家の成長と、活気
のある、生き生きした、そして有機体としての人びとの成長をも止めてし
「もし諸君がこの憲法を抹殺したいというのであ
まうことになろう。
」43)、
れば、憲法を本当に神聖で不可侵のものにすればよい。変更されず、静止
状態にある憲法があるとすれば、その憲法は、それがよいものだからでは
なく、その使用が過去のものになってしまったからである。生きるべき憲
法は、成長しなければならない;適合しなければならない;柔軟でなけれ
ばならない;変化し得るものでなければならない……。
」44)
1 )拙著『世界地図でわかる日本国憲法』
(講談社、2008年)8-11頁参照。なお同書9
頁にヨルダンとデンマークがともに⑳とあるが、デンマークは
である。
2 )拙稿『1990年以降に制定された各国憲法の動向̶いくつかの項目との関連を中
心に̶』
『駒澤法学』第1巻第1号参照。
3 )拙著『日本国憲法を考える』
(文春親書、1999年)11頁に「日本国憲法の 神話
として、以下の点などが指摘されている。①日本国憲法は、世界的にも新し
い憲法であること。②日本国憲法は、世界で唯一の平和主義憲法であること。
4 )拙稿「世界の憲法制度概要(3)」
『駒澤法学』第9巻第4号、拙稿「世界の憲法制
度概要(4)
」
『駒澤法学』第10巻第1号、拙稿「世界の憲法制度概要(5)」
『駒澤法
学』第10巻第2号参照。
5 )Gillessen, J., La Constitution belge de 1831: ses sources, son influence Res publica, 1968, 107-141. cited from André Alen, Belgium, Kluwer Law and Taxation
Publishers,1992, p.38.
6 )André Alen, ibid., p.38.
7 )①から⑧までは、André Alen, ibid., Gilbert Flanz, The Coordinated Constitution
32
of the Kingdom of Belgium, in Constitutions of the Countries of the World, Oceana
Publications, Issued December 2005を、⑨から
までを Ibid., Issued November
2009を参照した。ほかに、武居一正「ベルギー王国」
(阿部照哉・畑博行編『世
界の憲法集[第4版]』
(有信堂、2009年)、拙著『憲法体系の類型的研究』
(成文堂、
1997年)
。
8 )The Constitutional Commissions and the 1988 referendums, Edited by Brian Galligan & J.R. Nethercote,1988, p.137.
9 )拙著、前掲書、448頁。
10)Rainer Grote, The United Mexican States Commentary, in Constitutions of the
Countries of the World, issued March 2008, Oceana, pp.37-41.
11)http://www.cddhcu.gob.mx/, http://www.yucatan.com.mx/especiales/constitucion/presentacion.asp 参照。
12)拙稿「インドネシアの国防制度」
(大平善梧編『世界の国防制度』第一法規、1982
年)所収。
13)S. ボルゲーゼ著、岡部史郎訳『イタリア憲法入門』
(有斐閣、1969年)14頁。
14)イタリア憲法2条誕生の背景、とくにカトリックの人権論との関係については、
井口文男『イタリア憲法史』
(有信堂、1998年)199頁以下参照。
15)Joseph Lapalombara, Democracy Italian Style, Yale University Press, 1987, p.258.
16)Rainer Grote, The Italian Republic Commentary, in Constitutions of the Countries
of the World, Issued December 2006, Oceana, p.7,
『衆議院 欧州各国憲法及び
国民投票制度 議員調査団報告書』
(平成18年10月)133頁、山岡則雄「諸外国
における戦後の憲法改正【第2版】」
(『調査と情報』431号、2003年11月20日)
、
拙著、前掲書、434-435頁による。
17)上記 Oceana 出版の著書には、53年3月、58年3月、61年3月、67年6月にも改正
され、合計18回と記されている。
18)前記『衆議院 欧州各国憲法及び国民投票制度 議員調査団報告書』のほかに、
岩波裕子「イタリア2006年憲法改正国民投票」
(『調査と立法』No.259、2006年9
月)を参照。
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
33
19)D.K. Agarwal, India, Constitutional Law, Supplement 3, Kluwer Law and Taxation
Publications, 1993, pp.49-50.
20)http://indiacode.nic.in/coiweb/coifiles/amendment.htm (accessed on August 5,
2010).このサイトには、全法案の目的と理由が掲載されている。また、衆憲
資第20号『インド憲法̶資料と解説̶』
(衆議院憲法調査会事務局、平成15年5
月)には孝忠延夫教授の執筆で、第1次から第86次(2002年1月10日)までの改
正案の内容が紹介されている。
21)拙著、前掲書、450頁。
22)拙稿(共稿)
「インド」
(飯坂良明・清水望・堀江湛・宮里正玄編『世界政治ハ
ンドブック』有斐閣、1982年)101頁。ほかに Government of India, Ministry of
Home Affairs, Why Emergency? 1975, Communist Party Publication, Ideology and
Emergency, 1976, K.L. Rathee & Balakrishman, A Critical Analysis of the Constitutional Amendment, 1976.
23)Review of the Working of the Constitution, Report of the National Commission to
Review the Working of the Constitution, http://lawmin.nic.in/ncrwc/finalreport.
httm 邦訳(要約)として、衆憲資第20号、前掲書参照。
24)Rainer Grote, The Republic of India, in ibid., p.35.
25)http://www.stortinget.no./In-English/About-the-Storting/The-Constitition/ (accessed on August 12, 2010)
26)Bjørn Erik Rash and Roger D. Congleton, Amendment Procedures and Constitutional Stability, p.537.ウェブによる。筆者は、この点について、ノルウェー
の政府広報部にメールで問い合わせたところ、公式な改正数をもちあわせて
いないという返信があった。
27)The Constitution of the Kingdom of Norway, in Constitutions of the Countries of the
World, Issued, November 2005. Oceana, p. ⅵ - ⅶ .
28)Marcel Majerus, L état Luxembougeois, Imprimerie Centrale, 1983, p.31.
29)The Constitution of the Principality of Lichtenstein, in Constitutions of the Countries
of the World, Issued August 2005. Oceana, pp. ⅵ - ⅷ .
34
30)拙著、前掲書、276頁。
31)浦野紀央・西 修編著『憲法資料 中東』
(パピルス出版、1979年、119頁。
32)Reiner Grote, The Lebanese Constitution, in Constitutions of the Countries of the
World, Issued, October 2007, Oceana, p.6.
33)当初の憲法規定では、全部改正は、本文のように、憲法制定議会によっての
み制定されるとしか定められていなかったが、1968年5月31日の改正により、
憲法制定議会を招集する法律は、立法議会(国会)の総議員の3分の2以上の議
決を必要とし、執行府の承認は必要としないとの文言が加えられた。
34)Rainer Grote, The Republic of Costa Rica, Commentary, in Constitutions of the
Countries of the World, Issued April 2007, Oceana, pp.6-7.なお同国の平和条項
については、本書第1章参照。
35)アメリカ、中華民国、ドイツ、フランスについては、注4参照、スイスおよび
フィンランドについては、拙稿「二つのミレニアム憲法̶スイスとフィンラン
ドの新憲法について」
『駒澤大学政治学論集』第53号所収)参照。
36)拙著、前掲書、419頁以下。
37)カール・レーヴェンシュタイン著、阿部照哉訳『憲法改正と日本』
(有信堂、
1962年)45頁。
38)ハロルド・ラスキ著、横越英一訳『新版 政治学入門』
(東京創元社、1965年)
88-89頁。
39)スウェーデンの比較憲法学者、Joakin Nergelius は、このような高い硬性度が
デンマーク憲法を1953年以来、まったく改正に導いていない世界的にも珍し
い、ユニークな憲法にしているのだ!と、
「!」つきでその特異性を強調してい
る。Joakin Nergelius, The Kingdom of Denmark, Commentary, in Constitutions of
the Countries of the World, Issued March 2007, Oceana, p.4. ちなみにわが国の場
合、総選挙を介在させていないこと、2007年5月から施行されている『憲法改
正国民投票法』には、全有権者の支持率まで定められていないという点で、デ
ンマークの方が硬性度が高いといえる。
40)小林直樹『憲法改正条項の考察』
(憲資・改第2号、1962年)33頁。
各国憲法の制定年(1940年代)と改正の実際(西)
35
41)拙稿「ドイツ連邦共和国基本法」
(大西邦敏監修、比較憲法研究会編『世界の憲
法̶正文と解説』成文堂、1971年)219頁。
42)Thomas Jefferson on Politics & Government, http://etext.virginia.edu/Jefferson/
quotations/jeff1000.htm (accessed on August, 2010).
43)1948年11月8日の憲法草案に関するスピーチ。前掲20)の報告書による。
44)1951年6月2日のスピーチ、前掲ウェブサイト、孝忠訳参照。
各国憲法の制定年(∼ 1940年代)と改正の実際
(2009年10月末調べ)
国 名
制定年
改正の実際
アメリカ
ノルウェー
ベルギー
ルクセンブルク
オーストラリア
メキシコ
オーストリア
リヒテンシュタイン
ラトビア
レバノン
アイルランド
アイスランド
インドネシア
日 本
中華民国
イタリア
ドイツ
コスタリカ
インド
1787年
1814年
1831年
1868年
1901年
1917年
1920年
1921年
1922年
1926年
1937年
1944年
1945年
1946年
1947年
1947年
1949年
1949年
1949年
1992年までに18回、27か条の追補
頻繁(200回以上、近年改正04年、06年)
頻繁(96年3月∼ 08年12月まで24回改正、82か条)
2008年までに約20回改正
1988年までに8回改正
頻繁(08年9月までにのべ487か条改正)
頻繁(1996年から05年まで15回改正)
2003年までに25回改正
1993年に復活、07年までに10回改正)
2004年までに7回改正(のべ123か条)
2009年までに2回改正
2002年までに7回改正
1959年に復活、2002年までに4回改正(のべ71か条)
無改正
2005年までに7回改正(うち1回は無効判決)
2003年までに14回改正(のべ37か条)
2009年7月までに57回改正(のべ198か条)
2003年7月までに28回改正(のべ80か条)
2006年12月までに94回改正
参考:フランス(1958) 2008年7月までに24回改正。08年7月の改正は全条文の約
半分の47か条におよぶ大幅なもの。
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