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梁のゆくえ(1984)(『イルボネ チャンビョク―日本の壁』所収)

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梁のゆくえ(1984)(『イルボネ チャンビョク―日本の壁』所収)
架
橋
1984
目
5
春
次
○ 小説
梁のゆくえ
夏
………………………
…………………………………
磯貝治良
劉
竜子
裵
鐘眞
○ 評論
『見果てぬ夢』雑感ノート
……
○ 記録
農民兵士・父からの手紙
………
中山峯夫
……………
安田寛子
○エッセイ
私の中の朝鮮人たち
○ 短歌
対馬万緑
○会録
…………………………
あとがき
醴
泉
梁(ヤン)のゆくえ
いそ
がい
じ
ろう
磯 貝 治 良
1
六月の霖雨が降りつづけていた。どんよりとこもりはじめたわたしの頭のなかで、ヤン・
ソングという名前が踊(おど)る。
道路標識の取付け工事をおえて事務所へもどり、ゴム合羽の水を切っていると、妻から
の電話がかかった。ヤン・ソングと名のる四〇年配の男がたずねてきた、夕がたもういち
ど出向いてくるといって帰ったという。受話器を置こうとすると、妻が声をあげた。
「たし
か××半島にいたころの友人とか言ってたわよ」妻は、わたしがはたち頃まで住んでいた
A県の半島の名前を言った。わたしの脳裏をかすめるものがあった。しかしヤン・ソング
という名前に記憶がなかった。
家に帰ってから、妻はもうすこし詳細な情報をあたえてくれた。男は遠方からやってき
た様子で旅行カバンをさげていた。痩せて長身をかがめるようにして話しかける言葉に、
訛りがあった。風貌には端正な面影があったが、眼にだけ不自然な感じのあったのは、上
瞼が手術か怪我の跡みたいにひきつれていたからだという。わたしは声をあげた。男の風
貌が、ヨシダカツトシを思いださせたからである。
まさか、そんな・・・・・・。ヨシダカツトシは二〇年まえに半島の町で死んだはずだ。死の
噂をきいたあと、わたしは帰郷した折にかれが住んでいた家をたずねている。一家は引払
っていたが、そのとき付近の人からヨシダカツトシの死をたしかめている。かれは泥酔し
ていて、深夜、漁港のはずれにある埠頭から転落し、コンクリート壁に頭蓋骨を打ちすえ
たすえ、溺死したという。
男がたずねてきたのは、七時をまわってからであった。旅行カバンをさげて玄関に立っ
た長身痩軀の男は、丈高い木がゆれるように影をまとって薄闇に立っていた。
「ヤン・ソングだよ」男の声は変に軽かった。
丈高い木がぐらりと傾くようにして、男は部屋の上がり口へ近づいた。明かりのなかに
浮かびでた男は、まぎれもなくヨシダカツトシだった。
「ヤン・ソングだよ」かれは、わたしの一瞬の感情をすくいとるように、あらためて名の
った。
梁(ヤン)星(ソン)求(グ)との再会は、驚嘆と困惑で私の全身をふるわせた。ヨシダカツ
トシは死んだという噂と不意の来訪――どうすげ替えてみても辻褄の合わない不可解さで
あったが、たがいに手をとりあってかれを部屋へ招じ入れたとき、わたしになつかしさの
感情が湧いてきた。
わたしは妻と息子を部屋に呼んで、紹介した。
「飲もう。飲みながら、積もる話をたっぷりしようや」わたしは昂(たか)ぶる胸のうちを
やりくりするように、妻に酒の仕度をたのんだ。
妻は、傘をさして焼肉のネタを買いに出た。玄関口の部屋へ鉄板とガスコンロが運びこ
まれているあいだに、梁が「Kにいたころは二人でよくドブロクを飲んだなぁ。ほら、あ
の掘立小屋の店、なんといったか・・・・・・」と言い、わたしが「井戸掘りのかあちゃんが出
してた赤提灯。神社のわきの」と応じ、
「そうそう、どんぶり一杯四〇円」と、梁が合槌を
うったりした。
「ドブロクはないが、濁り酒ならある」わたしは言った。家には、スーパー・マーケット
で買ってくる格安の濁り酒がたやさずにあり、わたしは晩酌にコップ三杯ずつ飲んでいた。
妻がさっそく一升壜を運んできた。豚足までが塩をそえて出てきたので、梁は、「うおッ
ほッほッほぉ」と、ながく尾をひく笑い声をあげた。豚足もわたしが晩酌の肴にするのだ
が、妻も息子もいつのまにか好物にして、冷蔵庫にたやさず納まっている。
梁とわたしは、濁り酒をコップに並々と注いで乾杯した。白い液体は喉もとにすこしわ
だかまり、甘ずっぱい味を舌に残して胃袋に落ちていった。肉の焼ける香ばしいにおいが
部屋に立ちこめはじめ、妻が鉄板のうえのものを梁に奨めたときには、かれのコップは空
(から)になっていた。妻が一升壜の底を持ちあげて濁り酒を注ぐと、梁は、
「うぉッ、ほッ、
ほッ」と、大仰にコップの底をささえ、そのまま連続動作で口へもっていく。かれはいつ
のまにかネクタイをはずしていた。
いま目のまえで磊落にふるまっている男は、まぎれもなくヨシダカツトシだ。二〇年と
いう時間の経過はかれの容貌に歳月のしたたかさを刻みこんでいる。言葉の訛りにも、半
島の町Kのそれとは異質な抑揚がまぎれこんでいる。それでも、まぎれもなく、かつてヨ
シダカツトシだった男だ。
梁は、わたしの横でかしこまって正座している息子を眺めていたが、突然、これはしま
ったというふうに右手を頭にやった。そしていきなり、シャツの胸ポケットにはさんでい
た万年筆を無造作にぬきとり、おどけた身ぶりで息子にわたした。土産がわりというわけ
だ。息子は万年筆を受けとると、ペコリと頭をさげた。
妻は梁に礼を言った。かの女の手には半分ほど液体のはいったコップがにぎられている。
いつのまにか、台所から日本酒をついできて飲みはじめているのだ。
「かの女はなかなか酒豪でねぇ」わたしが暴露するふうに言うと、梁は、それが愉快なと
きの癖なのか、肩おどりみたいにたっぷりと肩をゆすった。四年ほどまえ、妻の母親が死
んで葬儀の夜、かの女が一升壜の酒を一合ほど残して飲んでしまった話をしているあいだ、
梁は肩おどりの仕種をくりかえしていた。妻は妻で、わたしの話をゴー・サインとでも決
めこんだのか、台所から日本酒の一升壜をぶらさげてきた。
「うほッ、うまい」焼き肉を頬ばったまま、梁が言った、
「きのうKの町へ行ってきたよ。そこでこの家を聞いてきたというわけだ」
「そうか。で、いまどこに住んでるの?」わたしは訊いた。
「二〇年ぶりに来たんだよ」梁はすこし呂(ろ)律(れつ)をくねらせた。質問の返答とは、
ずれている。
「どこから来たの?」
「国(くに)から来たのさ。きまってるじゃないか」梁は、手にしたコップを膝のあたりに
置いたまま、鉄板から渦をえがいて立ちのぼっている紫煙を眼線で追った。
「くにって・・・・・・」わたしは言いよどんだ。
すると横あいから妻の声がとんだ。「朝鮮ですよね」驚くほど透明にひびく声だった。
「朝鮮に帰っていたの?」わたしは、部屋のなかをおおっている形のないくもりを払うよ
うに、言葉をはずませた。
「あぁ、朝鮮から来た」
梁は至極あっさりと応えた。酔いのせいか姿勢がいくらか乱れていたが、濁り酒のはい
ったコップを口へ運ぶペースはゆるめなかった。梁は視線を天井にさまよわせ、指折り数
える表情をしながら、言った。
「おれが国へ帰ったのは、二十二歳のときだったかな。日本の女と結婚して、三年ほどあ
とに離婚した年の冬だったから」
わたしは混乱した。梁が朝鮮へ帰った時というのが、人伝(づ)てに聞いた、ヨシダカツ
トシが死んだ時とピッタリ符節が合っている。
わたしの困惑にはとんちゃくなく、梁は言葉をつづけた。口吻に外(け)連(れん)味はな
かった。
「Kの町を出て、五日もしないうちに祖国帰還船に乗って日本とはおさらばしたんだ。舞
鶴を発(た)つとき、あぁ、とうとうおれの国へ帰るんだな、そう思ったね」梁は、コップ
の酒を飲みほした。
「ただね、おれが国へ帰るについちゃ、家族のなかでちょっとしたもめ
ごとがあった。アボジもオモニも南の出身だから、おれ一人が共和国へ帰ることには不服
だった。しかしまぁ、北も南もおれたちの祖国だよ。おれがひと足さきに帰って、アボジ、
オモニをあとから呼ぶということで、なんとか帰国の手続きをとった。あれから二〇
年・・・・・・ほッ、オモニはまだ日本にいるがね。あぁ、大阪の血縁の家にいるよ。アボジ?
アボジは六年まえに死んだ・・・・・・そうだ」
梁の酔いが一線を通りすぎて、こんどは感情が妙に平静にくぐもっていくように見うけ
られた。
「お国では、どんな仕事を?」妻がめりはりを失いかけた口調で言葉をはさんだ。
「あぁ、仕事ね、図書館に勤めていますよ。ピョンヤンの国立図書館。まぁ、いまのポス
トは帰国するときから約束されてたものでしてね」
「ご家族は?」妻がまた、身上調査みたいに、口をはさんだ。
「結婚がおそかったものでね、子どもは三人いるが、一番上の息子がまだ十歳。四年制人
民学校に通っていますよ。でも、国立図書館ではそれ相当の地位を与えられているし、国
家は発展していますから、しあわせな毎日です。わたしはもちろん労働党員ですが、妻も
結婚するまえからの党員でしてね。やっぱり国へ帰ってよかった。こんど二〇年ぶりに日
本へ来て、まだ七〇万人もの同胞が異邦の地で屈辱をうけているのを知るにつけ、感慨は
無量ですよ」
わたしは、まったく心おだやかではなかった。なんと、いま梁が話している身勢ばなし
は、申(シン)聖(ソン)吉(ギル)の身勢そのままではないか・・・・・・申聖吉の「栄光」の引写
しなのだ。
申聖吉もまた、Kの町に住んでいて梁とわたしの友人だった。学年は一年下だったが、
かれの一家が梁の家と隣合せていて、親密に交友した。かれは当時すでに申聖吉という本
名を名のっていた。申は、梁やわたしとはまったく対照的に、学校の成績は抜群で品行実
直な存在だった。Kの町に朝鮮人の家が梁一家と申一家の二軒だけでなかったなら、また
わたしと梁とが友だちにならなかったなら、三人の交友関係が成立するなどということは
なかったろう。
申は、わたしたちの通った中学校を卒業すると、当時あの半島には一校しかなかった県
立高校へ進学し、さらにN市の国立大学へ進んだ。その頃わたしは定職もなくKの町を飛
びだすことばかり考えており、梁は養豚のためにリヤカーをひいて魚屋や八百屋を餌集め
に廻っていた。二人にとって、申はまぶしい存在だった。
申聖吉が祖国帰還船で朝鮮民主主義人民共和国へ帰ったのは、かれが大学へはいって間
もなくだった。家族もいっしょだった。共和国へ帰った申は、ただちにピョンヤンの国立
図書館に勤め、現在は、図書館のポストだけではなく労働党員としても相当な地位にある
という。
その申が、帰国の夢を熱っぽく語ったことがある。梁とわたしと三人で、漁港の埠頭か
ら海を眺めていたときだった。すると、申の夢をきいていた梁が突然、吐きすてるような
口吻で言った、
「ソンギルの家族はいいさ。ヒョンニム(兄さん)が日本で英雄的な死にか
たをしたからな、国へ帰れば、きっと歓迎されるさ。だけど、おれの家族はそうじゃない
ぞ。国へ帰っても、生活できるかどうかさえわからん」
申聖吉の兄は、朝鮮戦争のとき高校生だったが、朝鮮人と日本人がいっしょに参加して
N市で開かれた集会とデモのさい、日本の警官隊が朝鮮人の隊列にむけて発砲した銃弾で
射殺されていた。
わたしは、漁港の埠頭で悔しそうに語った梁の言葉、そうだ、ヨシダカツトシの言葉を、
いまありありと思いおこした。A県の半島にある町で過ごした三人の映像が闇から光のに
じむように、にじみだす。
2
二十五年まえ――
海は昏れなずむまえの異様な明るさを風に散らして、そまっていた。沖合の水平線が夕
焼けの色をにじませて、魚鱗に似た無数の繊細な粒子をきらめかせていた。無数の粒子が
うねりにのって岸のほうへ近づいてくると、しだいに大粒になり、漁港の入口あたりで波
にのまれて消えてしまう。石垣にかこまれた湾の内がわは、漁舟さえ身動きしないほど静
かで、飛びかう海鳥の群れを離れた一羽がスーと落下して、平板な海面をついばむ。
おれは、モッコ(水泳ぎ用のフンドシ)ひとつの恰好で防波堤の石垣に尻をおろし、海
鳥たちの飛行を眺めていた。ヨシダカツトシがそろそろやってくる時刻だった。おれは、
魚市場のバラックの建物の方向を二、三度見やって、沖合へ視線をもどす。
あの夕焼けの色よりもっと赤い鼻血をふきだすのは、おれのほうか、ヨシダのほうか。
不安はそれほどでもなかった。このあいだジムのスパーで小林をダウンさせた左さえ当た
れば、絶対に負けない。おれは、通っている町のジムで、二年もキャリアの長い小林をヘ
ッド・ギヤーをつけたままダウンさせた場面を、なんども自分に思いださせた。小林は中
学生のおれより三つも年上でプレス工場で働いており、上背も高くリーチもあって、ヨシ
ダカツトシの体つきとよく似ている。
ヨシダは魚市場の蔭からあらわれた。上半身裸で、よれよれのズボンがひらめき、痩せ
てひょろ長い体は、夕日のなかでおどった。おやッ。おれは眼をこらした。こちらへむか
ってくるヨシダの背後から、白い半袖シャツをきちんと着た少年がついてくるのが目には
いった。申(シン)と呼ばれている一年下の優等生だ。申は、気のすすまない足どりでヨシ
ダの影のようについてくる。
「きたないぞ、ヨシダ」おれは、ヨシダとの距離が五、六メートルに近づいたとき、申の
ほうを顎でしゃくって怒鳴った。
「こいつは助っ人じゃない。審判だ。絶対に手出しはせん。おれたちは日本人みたいな卑
怯者じゃないからな」ヨシダが仁王立ちになって、答えた。
ヨシダはゴムぞうりを脱ぎすてると、長身をかがめて身がまえた。両拳を固めているが、
ボクシングの構えではない。角力(すもう)の摺り足みたいな恰好でにじりよってくる。仕
掛けたのは、おれのほうだった。サウスポーのおれは二、三回右のジャブで牽制しながら
飛びこんだが、相手の鼻先をかすめただけだった。ヨシダは、おれのパンチを避けると、
体をぶっつけてきた。おれは左右の連打をしゃにむにぶちこんでいった。フット・ワーク
などお構いなしだ。確かな手ごたえが、たてつづけに拳をとらえた。ヨシダの鼻孔から血
が垂れるのを、見た。その瞬間、丸太ん棒をぶちこまれたような激痛を脇腹に感じた。ヨ
シダの長い足が飛んできたのだ。おれはうめき、地べたに倒れこんだ。二人の体は重なり
あったまま砂地を転げまわった。ヨシダの体重がのしかかってきて身動きできなくなった
とき、おれはふいに、意識がうすれていく前兆の恐怖を覚えた。ヨシダの腕が、餌物を喰
えこんだ犬の頑強な歯のようにおれの首にくいこんできた。振りほどこうともがいたが、
長い腕はひどく執念深かった。
「引き分けッ」
断を下すような、申の声だった。首にくいこんでいた重いものがはずれ、呼吸が急に軽
くなった。
「おれの勝ちじゃないのか」ヨシダが息をはずませながら抗議した。
「ひき分け。ヒョンニムもだいぶんパンチを受けたからな」申は、毅然と応じた。
申が二人に握手をさせようとしたとき、ひき分けの判定は意図的だな、とおもった。お
れは申に救われたような、変な気持ちだった。
ヨシダもおれも全身砂まみれだった。しばらくして、ヨシダとおれは防波堤をかけだし、
夕昏れの海へ飛びこんだ。二人は、おくれをとるまいとして波の凪(な)ぎはじめた沖へ泳
ぎだした。決闘の原因は他愛ないものだった。中学校での番長の座をめぐって、決着をつ
けようとしたにすぎない。
その年、夏休みにはいると、ヨシダとおれは毎日のように行動を共にした。泳ぎ疲れる
と、神社の森を探検して鳥に囮を仕掛けた。あるとき山鳩の死骸を拾ったことがあるが、
ヨシダはそれを砂浜に埋めて木切れを立て、山鳩の墓をつくる真似をした。そうかとおも
うと、谷間の貯水池で獲(と)った牛蛙の尻の穴に麦わらのくだを差しこんで、蛙の腹が破
裂するまで息を吹きこんだりした。ヨシダが豚の餌集めをするために家へ帰るまで、おれ
たちはそんなふうに遊びほうけた。
ある夜、三人は小舟を漕いで海へ出た。申は二人の目付け役である。
「姉(あね)貴(き)が赤いものを出したときのこと、聞かせてやるか」ヨシダが闇のなかで
言う。
「なんのことだ」おれは、艪を漕ぐ腕の力をぬいて、訊ねる。
「小学生のとき、井戸端でおふくろとあねきが話しとるの、盗み聞きしたんだ。あねきが、
西瓜を食べたらパンツにいっぱい血がついちゃった、泣きそうな声でそう言ったんだ。す
ると、おふくろがあねきのパンツを調べているらしいんだ。そのあとのおふくろのセリフ
が本日の目玉ッ。おやおや、この娘(こ)はなんてことを言うんだろう、アイグッ、月のも
のがはじまったんじゃないか、ほんとうに、この娘はなんにも知らないんだね、これで立
派にむすめになったというのにさ。おふくろはそういって、さも嬉しそうに笑ったんだぜ」
ヨシダは母親と姉の声色をまねて喋った。おれは、ひッひッ・・・・・・と笑った。申も、声
は出さないが笑っている気配だ。それでヨシダは図に乗った。
「それで、あねきの顔を見たとき言ってやったんだ、赤い西瓜食べすぎたのかってな。す
ると、あねきは顔を真っ赤にしておれのケツを蹴飛ばしたもんだ。その糞力といったらな
かったぜ。そうさ、あいつ、れっきとした朝鮮の婦(おんな)になったのさ」
ヨシダの笑い声が、夜闇につつまれた海にはじけた。沖合で合図を交すように動いてい
る漁火(いさりび)のところまでとどきそうな声だった。海面にピチャと水音を立てて鯔(い
な)がはねた。
ふいに、舳先の方向から近づいてくる舟の気配があった。ところが、そいつは急に向き
を変えて離れていった。
「ふおーッ、ふおーッ」おれたちはふくろうの声を真似て呼んだ。
「ふおーッ、ふおーッ」むこうの舟から遠去かりながら挨拶がかえってきた。
Kの町の墓地は北浦湾に面して小高い丘陵地に並んでいた。そこへ通じる、雑草におお
われた土手道の途中にヨシダの家と申の家があった。二軒の家は、土手からずり落ちそう
な位置に立っていた。八月も終わりに近い夕昏れどきだった。おれはゴムぞうりの底裏を
はねながら土手の道をのぼっていった。ヨシダの家の板壁から斜に突きだしたブリキの煙
突が、細い煙をはいている。豚舎からの人なつっこい臭気は、風に乗ってきた。その臭気
といっしょに風に乗ってくる、歌っているような婦(おんな)の哭(な)き声が、おれの耳を
そば立たせた。
豚舎で餌をやっているヨシダの姿が、低い板囲いの隙間から見えた。おれに気づくと、
かれは大人びた笑いを見せた。婦の声は、申の家からきこえてくる。囁くように沈んでい
たかとおもうと、ふいに哀切な慟哭に転じて、どこか歌のようにとぎれる瞬間もなくつづ
いている。おれには朝鮮語はまるで解らなかったが、しばしば激越に飛びだす「アイグー」
「パルチャ」
「ウェノム」といった言葉は、なにかの拍子にヨシダや申から聞いたことがあ
るような気がする。
ヨシダは、四つも五つものバケツを井戸端で洗い終えると、水を切る仕種で両手を振り
ながら、申を呼びにいった。ヨシダとおれは夏休みの宿題を申に頼んであって、おれはそ
れを受取りにきたのだ。
申は家から出てきて、その家のほうをふりむくと、すこし照れたふうに説明した。
「ハルモニ(祖母)の身(シン)勢(セ)打(タ)鈴(リョン)だよ。月に一度きまって、ああし
て身の上を嘆いてみせるんだ。故郷にいた少女の頃の思い出にはじまって、日本へきてか
らの暮しを嘆くんだ、恨みのたけをな。ウェノムの警察に殺された孫のことは、もう何十
回とくりかえしたことか・・・・・・暗いうちから起きだして、土間に坐りこんだまま、ああし
て地べたを叩きながら延々とやっとるんだ。ハルモニの身勢打鈴をきくたんびに、おれは
胸がしめつけられる。哀れなのじゃない。無性に怒りが込みあげてくる、なにかをぶっ壊
したくなる」
申の照れたふうな表情が、変化した。
ヨシダとおれは中学を卒業した。おれは町の製材工場で働き、ヨシダは養豚の家業を手
伝った。申は、相変わらず二人の目付け役だった。
真冬の、作業用革手をはめた指先も凍えそうな寒い日だった。製材工場での雑役まがい
の先(さき)手(て)を卒業して、おれが円鋸の仕事につこうとしている時期だった。チェン
ソーを運転していたヴェテランの職工が腕をやられた。右腕の肘から手首にかけて鮪をお
ろすように肉の半ぺらを喰いちぎられてしまったのである。
仕事の帰り、ヨシダの家に寄った。事故の話をすると、ヨシダはいきなりおれの右腕を
摑み、「そんな工場、やめちまえよ」と言った、「指一本でも奪(と)られたら間尺に合わん
ぞ。おれたちは土地も名前も言葉さえも奪られてきたからな、奪られるってことがどうい
うことかわかるんだ」
おれは製材工場をあっさりとやめた。そのころから、おれとヨシダは白地の背広を着こ
んで、白いエナメルの靴をはき、町のなかを歩きまわった。白地の背広上下は、
「働きに出
たら買ってやるがん」と諫める母親に、包丁をちらつかせながら金を出させて買った。
申は半島でただ一校だけの県立高校に合格してKの町から自転車で通っていたので、お
れたちと付き合うことはめっきり少なくなっていた。井戸掘りの女房が出していたバラッ
ク立ての飲み屋でドブロクを飲むようになったのが、その頃だ。
もう一軒、行きつけの店があった。ダルマ屋という小料理屋で、付けがたまると、女将(お
かみ)が家まで取り立てにきた。ダルマ屋は、興行や香具師の仕事をとりしきっているダル
マ一家の親分が女に出させている店だったので、おれの母親はすっかりふるえあがって借
金を支払った。
ある夜、ヨシダとおれが女将と飲ませろ飲ませられんの押し問答をしていると、ミイや
んが独特の目つきをして店にはいってきた。ミイやんは、おれたちより五つ六つ年上の漁
師の息子で、ダルマ一家の若い衆だ。女将とおれたちのやりとりを聞いていたミイやんが、
言った。
「姐(あね)さん、飲ませてやりな。おれがおごるで」
ミイやんはおれたちの隣へ席をうつすと徳利を手にとり、「にいさんたちよ、まぁ飲みな」
と、やくざ映画の口真似みたいな言いかたをした。そして二人に気前よく酒を奨めながら
「にいさんたちの噂は聞いとるよ。中学じゃ番長はってたそうじゃねぇか」などと言う。
五分刈り頭を後頭部から前額部のほうへ右手でツルリと撫ぜるのが癖らしく、その所作を
くりかえす。
「どうだ、ダルマ一家の盃をもらわんか。おやじさんに口をきいてやってもい
いぜ」ミイやんはやさしかった。
女将が徳利を持ってきて、
「これはあたしのおごり」と言った。
ヨシダとおれがミイやんにともなわれてダルマ親分の家へ行ったのは、数日後だった。
ダルマ一家の玄関には大きな秋田犬が寝そべっていて、吠えもせず肝だめしをするように
おれたちをジロリと睨みつけた。
壁ぎわに柳行李が積まれたり、糸の切れた三味線が立てかけられたりしている部屋で、
ダルマ親分が大きな火鉢を前にして一人ポツンと坐っていた。ミイやんはていねいに正座
して、親分に挨拶した。ヨシダもおれも、それにならって頭をさげた。
ダルマ親分は、ダルマさんとは似ても似つかない貧相な老人で、火箸で火鉢の灰をやた
ら掻きまわしながら、目やにのたまった両眼の瞼をしきりにしょぼしょぼさせた。親分は
瞼をしょぼつかせながらヨシダとおれの顔をためつすがめつしていたが、
「うん、なかなか
の面相をしとる」と、ひとことだけ言った。それっきり、だらしなくはだけた着物の襟を
合せようともせず、黙ってしまった。あばら骨の浮きでた胸から肩にかけて彫られている
倶利迦羅紋紋は、見事な色彩の龍だった。
ダルマ一家の盃を受けるというので、ヨシダもおれも、てっきり映画に出てくるような
儀式があるものと緊張していたが、それらしきことは真似事もなく、拍子抜けしてしまっ
た。それでもダルマ一家の若い衆になったというので、二人は肩で風を切って町を闊歩し、
祭りばやしが聞えてくると町々へ出かけていって、道端や神社の境内に安物の玩具、風船、
金魚など並べた。
申はといえば、N市にある国立大学への進学準備にかかっていて、二人とは付きあわな
くなっていた。というより、ダルマ一家の若い者(もん)などと悦に入(い)っている二人を、
かれは軽蔑していたのにちがいない。
そんなある日、二人の手引きをしてくれたミイやんとダルマ屋の女将が、忽然と町から
姿を消してしまった。晩秋の風が肌にしみはじめる季節だった。秋風にさそわれたのか、
手に手をとって駆け落ちしたのである。
駆け落ちまではなんの関係もなかったが、二人の道行きのおかげで、ヨシダとおれにた
いへんな役回りが転りこんできてしまった。二人の行方を探すようダルマ親分から命じら
れたのだ。
一か月ほどだって、静岡県の三島にいるという情報がはいった。ダルマ親分は、目やに
のたまった両目を血ばしらせ、
「ケツの穴に五寸釘をぶっ刺してでも、二人を連れもどして
来い」と怒鳴った。ヨシダとおれは汽車賃を握らされて、三島へ飛んだ。
正午頃探しあてていった二人のアパートは、三島の市街から出はずれた裏通りの、傾き
かかった家が低い軒を接している路地の奥にあった。ヨシダがアパートの裏へ廻って見張
ることにして、おれは音を立てて軋む木の階段をのぼり、部屋の扉をたたいた。顔をのぞ
かせたのは、寝巻き姿の女将だった。ミイやんより二〇歳も年上の女将は、一か月の逃避
行で刻みこまれたやつれを隠すように度ぎつい化粧をしていたが、おれの顔を見るなり、
あッと、怯えた声をあげた。
おれは有無をいわせず部屋へおどりこんだ。六畳一間きりの部屋でまだ蒲団にはいって
いたミイやんは、身構える姿勢で起きだし、女将が見せたとおなじ怯えた表情を走らせた。
「まぁ、坐れや」ミイやんは気を落ち着かせるように言い、眼線を伏せた。女将が炊事場
に立ったまま、いつのまにか細身の包丁を手にしている。
「おまえ一人か」ミイやんは扉の外を顎でしゃくった。
「ヨシダもいっしょだ」おれは女将の挙動を警戒しながら、ダルマ親分の名代(みょうだい)
みたいな言いかたをした。
そこへ、長身の体を折るようにしてヨシダが現れた。
「おやじさんがカンカンだ。二人をどうしても連れもどして来いってな」おれは言った。
「ケツの穴だよな」ヨシダが口をはさんだ。
「五寸釘だよ」おれが言った。
ミイやんは、女将のほうに一瞬だけ視線をくれてから言った、
「おまえたちの顔をつぶし
て悪いが、おれもあいつも帰るつもりはない」
それからミイやんと女将はこもごもに、Kの町を飛びだしてからの様子を喋った。三島
へきたのは一週間ほど前だという。女将は駅の裏通りにあるアルバイト・サロンのホステ
スをしているといい、ミイやんは三島に分校のある大学の学生だというふれ込みで、バー
のボーイをしているという。一か月ほどのあいだに三回も居場所を変えた逃避行について
話すとき、ミイやんは同情を買おうとする下心がまる見えの表情で、涙声になったりした。
三十分ほども話を聞いているうちに、ヨシダもおれも気勢をそがれてしまった。ミイやん
の芝居に付き合うのが、うんざりしてきたのだ。
「おまえたちを手ぶらでおやじさんのとこへ帰すなんて、ヤボは言わん。おれの指を持っ
ていってくれ」ミイやんは、品物でも渡すときのような言いかたをした。
ミイやんは左手の小指の付け根に細ヒモを巻きつけると、女将の手から包丁をひったく
った。女将がアッと叫び声をあげたとき、第一関節から先の小指が、コロリと畳のうえに
転がった。
ヨシダとおれは結局、ミイやんの小指をダルマ親分に届けなかった。ミイやんが小指を
おれたちに渡すときくるんだ、派手な花柄模様のハンカチごと、帰りの汽車の窓から夜の
闇へ捨ててしまった。ダルマ親分には、二人ともアパートをずらかったあとでした、残念
ですと、嘘の報告をした。
三島からもどると、ヨシダもおれも気持がむしゃくしゃしていた。そこで、ある夜、漁
港から舟を漕ぎだした。対岸の町に舟をつけると、漁港にもやってある舟のもやい綱をほ
どいたり、魚網を海へ投げこんだりして、あばれた。そのあげく、おれたちを見とがめた
漁師を艪で殴りつけて大怪我を負わせてしまった。
一日置いた日の早朝、あふれ出そうに屈強な男たちを積みこんだ漁舟が、対岸からKの
町へむけて漕ぎだしてきた。漁師たちは手に手に櫂や棒っ坑をにぎり、憎悪をペッペッと
海へ吐きちらしながらやってきて、上陸した。そしてダルマ一家の玄関に黒い人だかりを
つくった。
「二人の若い者(もん)を渡せ」漁師たちはダルマ親分に詰めよった。
ダルマ親分は困りはてた。一家の面子(めんつ)を考えたら、身内の二人を引渡すことな
どできない。かといって、非は百パーセントこちらにある。ダルマ親分は申し出た。
「二人
には指を詰めて詫びさせる」
「おれたちは魚を漁るのが仕事だ。人間の指など、庇のつっかえにもならん」漁師たちは
頑強だった。一触即発の雰囲気のなかで、睨み合いと交渉は正午近くまでつづいた。
午後になって結局、流血だけはまぬがれた。H警察署から駆けつけた署員数人が仲裁に
はいり、おれとヨシダは器物破損と傷害罪で逮捕され、N地検へ送検された。二人がN市
郊外の丘陵地帯にある少年院へ送られたのは、晩秋の頃で、翌年の夏も終わる頃まで収監
されていた。あと数か月後に起きた事件だったら、という際どいところで刑務所行きはま
ぬがれた。
ヨシダとおれが少年院を出る日、申が迎えにきてくれた。かれは、少年院の門から赫土
道をへだてた土手に、しゃがみこんで二人を待っていた。純白の半袖シャツを着て、制帽
をかむっている。二人の姿をみとめると、申はわざとらしい動作で立ち上がり、土手を下
りてきた。二人の小学生みたいな坊主頭を見て、申は吹きだした。ヨシダとおれは、申の
背中を力一杯どやしつけた。一〇か月ぶりの自由だった。
おれたちは、N駅で元小学校教頭の保護司と別れると、駅の構内にある食堂でラーメン
と銚子一本の酒を注文し、形ばかりの出院祝をおこなった。
半島の町へ着くと、その足で漁港へ行き、埠頭から水しぶきをあげて海へ飛びこんだ。
ひと泳ぎしたあと、漁港の石垣に尻を下して、二人は一〇か月間の体験を面白おかしく申
に報告した。
「少年院のことなんか、自慢にならんよ」申がふいに不機嫌な言葉で二人の腰を折った、
「町
の鼻つまみが行くところじゃないか」
申は、自分に肚を立てているような言いかたをしたのに、急に表情を弾ませるように変
化させた。かれは、銀色の粒子をきらめかせて輝いている水平線に、望むような視線をむ
けた。
「おれは国へ帰る。日本の暮しなんか、嘘の暮しだよ。日本語を喋ること、日本の学校へ
通うこと、みんな嘘っぱちだ。おれは自分の国を見たことはないさ、だけど、そこへ帰っ
たらほんものの暮しがあると信じとるんだ。絶対に、おれは帰るよ」
ヨシダは、黙って申の話を聞いていた。上瞼の吊りあがった眼の表情に歪んだ影がとま
っているのを、おれは見た。申は、沖合を望むような眼差しで話しつづけた。そのとき突
然、ヨシダが沈黙をやぶったのだ。ソンギルの家族はいいさ。ヒョンニムが日本で英雄的
な死にかたをしたからな、国へ帰れば、きっと歓迎されるさ。だけど、おれの家族はそう
じゃないぞ。国へ帰っても、生活できるかどうかさえ、わからん・・・・・・。
少年院から出たあと、ヨシダとおれはたいした悶着もなく、ダルマ一家と縁を切った。
ヨシダは家業の養豚に精を出し、おれは保護司の紹介で、H市の車輛工場へ働きに出るよ
うになった。申は帰国の準備をすすめているらしく、言葉の勉強のため朝鮮語の本をいつ
も携えていた。
申が国立大学に合格して間もない日、ヨシダがおれの家をたずねてきた。
「嫁さんもらうよ、おれ」
納戸の部屋へはいると、ヨシダはいきなり言った。
「ほんとうか」おれは驚いた。
かれは、相手の女性が七歳年上で、半島の先端にある漁師町で小料理屋の仲居をしてい
ること、二か月あとに形だけの結構式を挙げることを話した。
「日本の女だよ。だから結婚式といっても同胞を呼ぶこともできないんだ」
「よしッ、前祝いをやろう。申も呼ぶか」おれは無頓着な声をあげた。
「ソンギルは呼ぶな。きょうはあいつを呼ばんほうがいいんだ」ヨシダは険しい口吻で拒
んだ。
ヨシダの表情に苦痛が影をひいた。「じゃあ、二人だけでやろう」おれが酒を取りに立と
うとすると、かれはそれも拒んだ。
「今日は酒を飲まずに話したい」ヨシダは喋りだした、
「この話を決めたのは、おやじだよ。おやじはな、おれを日本の女と結婚させて、すこし
でも日本人に近づけたいと思っとるんだ。腹の底じゃ、あのウェノム野郎、どうしてくれ
ようと煮えくりかえっておるのに。おやじはな、酒を飲むたびに、日本人め、チョッパリ
めと、大鍋にはいりきらんほど恨みを並べたてるんだ。この恨み、いつになったら晴らす
やら、死んでもあの世で晴らしてやる、そう言って泣くんだぞ。そのくせ、おれを日本人
にしたがっとる。わかるか?
おやじはことあるごとに言うんだ。ええか、おまえはヨシ
ダカツトシなんかじゃないぞ、おまえは、れっきとしたチョソンサラム(朝鮮人)だぞ、
正真正銘、全羅(チョルラ)南道(ナムド)の梁一族だぞ。しつこいほどそう言ってきかせる
くせに、やっぱりおれをヨシダカツトシにしておきたいんだ。おやじは割れとるんだ」
裸電球の光がヨシダの屈めた背から濃い影をひきだしているのを、おれは見た。いつも
のヨシダではないぞ・・・・・・おれは喉もとが軋むのを聞いた。
「瞼のキズだって・・・・・・」ヨシダは暗々とつづけた、「こいつはな、おやじが豚を六頭も売
った金で整形手術をした痕だ。驚いたろう。おやじはおれの人相まで日本人に同化させよ
うとして、おれから民族の顔まで消そうとしたのさ。手術が失敗だったように、おやじの
目論見もむなしく失敗に終ったがね。そうだよ、息子が日本の土地で生きやすくなるよう
にという目論見は、いまのところ失敗に終ったさ。だけどな、おやじが好きこのんでおれ
を日本人にしようとしてると思うか?
それはちがうぞ。腹わたを煮えくりかえらせて、
そうしてきたんだ。そうでもしなければ、息子が無事に生きられないと思いこんでのこと
さ。おれのおやじのことが、ミッちゃん、あんたに、わかるか。日本というのは、おれた
ちには、そういうところだ」
ヨシダは泣いとるな、とおれは思った。ミッちゃん、あんたにわかるか・・・・・・ヨシダの
声はおれのなかで聞えた。それでもおれは、ヨシダの涙をおれのなかに感じることができ
なかった。
ヨシダカツトシはその年の六月、七歳年上の日本の女と結婚した。申聖吉は翌年、祖国
帰還船で一家とともに朝鮮民主主義人民共和国へ帰った。
3
梁(ヤン)星(ソン)求(グ)とわたしは、濁り酒をしたたか飲み交したあと、深夜の二時を
回ってから床についた。枕を並べて横になると、梁は旅の疲れと酔いに身をゆだねたか、
高い鼾をかきはじめた。わたしのほうは、かなりの量を飲んだのに、どこかなま酔いのざ
らざらした感覚がまぎれこんでいて、寝つけなかった。深夜に隣の蒲団に寝ている梁が音
もなく立ち上がって、部屋の壁に掻き消えていく幻覚に悩まされたりした。
朝、目を醒ましたとき、梁の寝ていた蒲団は片づけられていて、かれの姿は部屋になか
った。わたしは部屋を見まわした。梁の旅行鞄は、壁際にきちんと置かれている。それを
確かめて安心している自分が、おかしかった。まさか、昨夜寝つかれぬまま幻覚に見た梁
の姿が、あのまま壁のなかに消えてしまったものと思いこんでいたわけでもないのに。
梁が散歩からもどってきたのは、わたしが事務所の大家(おおや)に電話をかけて、きょ
うは仕事を休む旨、伝言を頼んでからだった。梁は部屋に上がってくるなり、「きのうはじ
つに楽しかったよ」と、挨拶がわりに言う。朝食のあいだも、昨晩のつづきのように磊落
な笑い声をはじかせて、箸よりも口のほうを活発に動かした。わたしは食卓に唐辛子を添
えた。Kの町にいたころ、かれと申はめしを食べるとき唐辛子をふんだんに使い、わたし
もそれに感化されたのを思いだしたからだ。
妻がパートタイムの仕事に出かける仕度をしていた。彼女が玄関で自転車をひきだして
いると、梁は玄関へ立った。
「おくさん、すっかり世話になってしまって。アイゴー、愉快な気持で失礼できますよ」
「あらッ、今晩も泊っていかれるのじゃないですか」妻が驚いている。
梁が部屋へもどってきたとき、二、三日泊っていくんじゃないのかと、わたしは訊ねた。
「他人の家に長居というわけにはいかんさ」梁は、ゆったりとした動作であぐらをかくと、
答えた。
「気がねはいらんよ」
「そういう意味じゃない。他人の家というのは、日本のこと」
「じゃ、きょう一日だけ付き合ってくれよ。二〇年ぶりの再会というのに、このままでは
あっけなさすぎる」
「ふん。一日付き合うとして、名案でもあるか」
「Kの町へ行こう。二人が二〇年ぶりに顔を合わせたんだ、Kへ行かないという法はない」
梁の気のりしない表情が、わたしの目のまえに大写しになった。それでも、かれはK行
きを承諾した。
二人は連れだって家を出た。家からK町までは、私鉄電車に十分ほど乗り、半島の喉首
まで通じている国鉄に乗りついで一時間ほどかかる。私鉄電車に乗ってしばらくしたとき、
梁が窓外を指さして声をあげた。電車が鉄橋にさしかかったとき。橋の下を、増水した川
が黄土色ににごった濁流をはこんでいる。
「朝鮮は河の多い国だ」梁が話している、
「大雨が降ったときなど、こんなものじゃないよ。
そりゃあ凄い濁流が木や牛を呑みこんで運んでくるのだから」
国鉄に乗りかえる時刻に間があって、わたしと梁は、駅の構内にある食堂でコーヒーを
飲んだ。造作は一変しているが、二十数年まえ、二人が少年院を出た日、迎えにきた申聖
吉をまじえてラーメンと一本だけの銚子で形ばかりの祝いをした食堂である。
「きょうは何の日か知ってるかね」コーヒー・カップを卓に置くと、梁が唐突に言った、
「六
月二十五日、三十年まえにおれの国で戦争の始まった日だよ。日本の侵略から解放された
と思ったら、こんどは美(ミ)軍(アメリカ軍)が乗りこんできて、血を分けあった同胞の
殺し合いがはじまった日だ」
梁は、食堂ではその話をつづけなかった。ところが、国鉄電車に乗りかえてしばらくす
ると、言った。そのときも唐突だった。
「六(ユ)・二五(ギヲ)さえ起らなければ、おれたちはとっくに日本を引払っていたはずだ」
梁は、しだいに遠去かっていくN市街の情景を棘立つ眼差しで眺めていた。一九四五年八
月十五日解放のあと、自前で船を調達していったんは釜山の港まで辿りつきながら上陸で
きずに日本へ舞いもどってきた同胞をふくめて、七〇万人の今日の運命が三十年まえの「あ
の日」によって決った。
「北」と「南」に切断された祖国の運命が、日本に残った同胞の運
命をも、手足をもぎ離すように切断した。「南へも北へも、おれたちは帰るに帰れん。統一
の成る日まで、帰れん」梁の言葉は断定的だった。
半島にいた頃の楽天性、昨晩ひっきりなしにふるまった磊落さとは豹変した梁がわたし
の目のまえにいた。梁は、長い両脚を窮屈に曲げた姿勢で坐席に掛けていたが、その体か
ら仄暗い翳りがにじみ出してきて、わたしの体をおおった。おれたちは「北」へも「南」
へも、統一が成るまでは、帰るに帰れん・・・・・・かれの口をついて出た言葉は、二十年まえ
に帰還船で共和国へ帰ったという話とは、辻褄がずれている。
だけどな、ミッちゃん、おれは言うぞ。おれたちの運命が裂かれたのは、もとをただせ
ば「あの日」からじゃないぞ。七十年も前にさかのぼるんだ。あんたら日本が、おれのハ
ラボジ(祖父)やハルモニにケダモノみたいに襲いかかったとき、貪り喰いはじめたとき、
あのときからだぞ・・・・・・わたしの気持が異様にぶれる。梁がいきなり両手を突き出して肉
塊をわしづかみにし、顎骨を波うたせて噛み砕いている様子が、わたしの幻覚をよぎった。
わたしは、しだいに濃淡を際立たせてくる窓外の風景を見た。雨は降りつづいているが、
見えかくれしはじめた海は意外な明るさに映えて、わたしのぶれつづける気持が、窓外の
景色のなかを走った。
Kに着いた。二人はわたしの実家に傘を取りに立ち寄っただけで、海へむかった。海辺
へくだる道は白っぽく煙っていたが、降りしきる霖雨を日射しがきらめかせて、漁港は目
をあざむくような明るさで望めた。
「変な天気だな」梁が言った。
「海が奇妙に明るいなぁ」
わたしが、梁の気持に自分の気持を重ねるような言いかたをした。
漁港の内側は高い波がうねり、埠頭の石垣を手荒に洗っていた。沖合では、光をはらん
だ波が不規則なふくらみかたをして漁舟を翻弄している。梁と私は埠頭の入口に佇んで、
ときどき横なぐりに吹く風に傘をとられそうになりながら、堪えていた。海鳥たちが光の
なかに影をひいて海面へ下りたつたび、ひとのそれに似た啼き声が、埠頭を走る。
「おれたちの青春は、この漁港の底に沈んでいるってわけか」わたしは、言った。つくり
ものめいた感傷を、梁の無表情な顔に投げつけてみたい衝動があった。かれがいま、どん
なに頑強な拒絶の壁をきずこうとしているか、わたしは気づきはじめていたから。
梁は、わたしに背を向け、歩きだした。雨は降りつづけているのに雲間から強烈に注ぐ
日射しが、かれの拒絶を輝かせているような錯覚を覚えた。その錯覚が消えぬあいだに、
拒絶された自分の敗北を見とどけたい――そんな衝迫が掠めた。
海岸沿いの舗装道路を左に折れ、神社の境内を抜けて、北浦湾を見下ろす墓地の丘に出
た。梁の拒絶がいかに頑強であるかを確かめたい気持だけで、丘のうえの墓地まで来た、
とわたしは思う。
梁の視線は、墓地から北浦湾の方向へ下っている土手を眺めていた。土手の一角が広く
抉りとられて赤土が露出しており、そこは途中で工事を投げだしてしまったままの粗雑な
公園になっている。雨に濡れたブランコが鎖をからませている。わたしは、公園から少し
ずれた、雑草が青々と生い繁っている土手を見た。梁の視線が注がれているさきがそこだ
った。梁の家も、申の家も、二十年の歳月が形跡なく消している。
――あそこに、あんたの家と申の家があった。
――もともとなかったさ、そんなものは。梁の眼が答えている。
二人の背後に、墓石が濡れそぼって並んでいる。離婚した年の秋、泥酔したヨシダカツ
トシは海に転落して溺死した。ヨシダカツトシの骨はだれの国の墓地に埋められたのか―
―ふいにそんな思いが胸を掠めて、わたしはドキリとした。
梁とわたしが実家にもどると、母親が、真っ赤に茹でられた蟹を笊に盛って待っていた。
納戸のある部屋で、二人が座卓をはさんで向いあったとき、
「さぁ、腹一杯食べりやなん」
と、曲がった腰に活を入れるような声で奨めた。
二人は、コップのビールを立てつづけに空(あ)けた。
「うおッほッほッほッ・・・・・・これが日本の蟹か」梁が突然、けたたましいほどの声をあげ
た。
その直後に見せたかれの挙動は、わたしに異様な感じを与えた。梁は、蟹の足を殻ごと
噛み砕いた。かれの強靭な歯は、朝鮮の伝説にあらわれて鉄をも飲み砕くという不思議な
動物ブルガサリのそれを想像させた。
わたしは梁に、かれの死の噂をつきつけるのを、観念した。
梁とわたしがKの駅から電車に乗った頃、あたりはすっかり暗くなっていた。昨夜の深
酒にまたビールを補給して、梁の全身から酔いが奔出する寸前だろうのに、かれは奇妙に
寡黙だった。わたしの意識も、他人のそれのような変な動きかたをしているのに気づいた。
わたしは目のまえの梁の姿をではなく、車外の闇を背景に窓に写る梁の影を眺めていた。
車窓に写る梁は、ほとんど体の輪郭を闇に掠め奪られ、影の領域だけを雨滴に流されまい
として必死に耐えている。影のかたちは、消されてたまるか、消されてたまるもんか、と
渾身の力をこめて窓ガラスにとどまっている。わたしは、梁の姿を見のがすまいと、懸命
に自分を励ましつづけた。
電車がN駅に着いたとき、梁は無言で席を立ち、ホームに降りた。出札口の階段を出る
ときも、ふりむきもせずにわたしの先を歩いていく。長い脚を不自然なほど軽快に運んで、
構内の雑踏をすりぬけていく。
おれは梁のゆくえを追う・・・・・・。鋭い衝迫がわたしのなかに起こったのは、梁の姿が消
えた、その瞬間からだった。
(一九七九年八月三日了)
夏
ユ
ヨン
ジャ
劉 竜 子
京子は目覚しのベルの音に八ツ当りして、重い軀を起した。昨夜の熱帯夜に何度も寝返
りを打った。眠れぬままに隣室の、捩子が緩んで間延びした柱時計の打つ刻を、うすれて
ゆく意識の中で三ツまで数えた。迎えた朝に腹を立てたところで仕方がないと、京子は覚
めやらぬ軀を起して台所に降りた。
水道の蛇口から薬罐に水を受けガスコンロに火を点けた。トースターにパンを容れ洗面
を済ませ、インスタントコーヒーを濃いめにカップに盛り、沸きたった湯を注いだ。焼き
上がったトーストにマーガリンを塗り延し、テレビのスイッチを捻った。写し出された画
面に全国の天気予報と気温が日本地図の上に標示され、
「今日も各地で真夏日を記録するで
しょう」
大写しになったアナウンサー嬢が微笑った。画面の隅の時刻が七時五〇分を告げている。
今朝は二〇分も遅い。京子は熱いコーヒーをあわてて啜り部屋に戻った。
鏡に写した寝不足の脹れぼったい顔に化粧した。肌が疲れ、口紅の色がくすんで見える。
パジャマをTシャツとジーンズに着替え、ショルダーバックを抱えて階下に降りた。
玄関脇の部屋に、背中を丸め胡坐を組んだ膝の上に両肘を突張るようにして、拡げた朝
刊に見入る父の老人くささに、ハッとした。
「行ってきまあす」
京子は一瞬の動揺を気づかれまいとおどけて云った。くぐもった呻きとも咳払いともつ
かぬ父の声が、靴を履く京子の背に届いた。
連日の炎熱に焼かれた街路樹の柳が喘ぎ、歩道に植えられたつつじの葉が、行き交う車
の排気ガスに萎れ色褪せている。九時前だというのに白熱の太陽がアスファルトの道路を
焼き、コンクリートのビルを射る。通勤のバスを待つ京子の首筋から胸を伝う汗がTシャ
ツを濡らした。
生繁った柳の枝が舗道の石畳の上に重く垂れ、厚ぼったい日陰に風がなく地熱がこもり
むし暑い。照り返す陽に細めた目が心なしか充血している。
同胞の個人経営の金融会社に勤める京子は、前日までの入出金をコンピューターに掛け、
元金、利息、貸付金別に、データーを入力し日計表を作成して経理台帳と照らし合せ、受
付と電話の応対をこなせば取りたてた仕事もなく、毎日午後からの勤務時間を持て余して
いた。
今朝は寝不足がたたってか、顧客カードのデーターを入れる、コンピューターのキーを
打つ指がにぶる。並んだ数字を読み違えないよう京子は神経を尖らせた。
半どんの事務所の中は平日に比べ顧客の出入りも少なく、問い合せの電話も鳴り潜み、
気分も緩み仕事にならない。京子とさして年齢の変らない太公望を自認する店長が、釣り
上げた獲物の自慢話を若い男子社員にぶっている。
京子は打ち終えた顧客カードをファイルボックスに戻し、午前中までの入出金と金庫の
現金残高を合せて会社を出た。
冷房の利いた事務所から一歩出ると真夏のうだる暑さがムーッと全身を包んだ。吹きだ
した汗にじっとり纏るTシャツの不快さに、うらめしく真夏の空を見上げた。ビルの谷間
から覗く青い空の色を押し返すように、入道雲が盛り上っていた。
腕時計の針は一時を少し廻っていた。
京子は食欲がないのか、食堂の暖簾をかいくぐり鼻をくすぐる美味そうな匂いも、入口
に飾られたメニューのサンプルを見ても寄せつけない。家に戻ってから食事にしようとバ
ス停に歩いた。
昼間のバスは意外に混んだ。
夏休みの真黒に陽焼けした子供たちのふざけ合う喚声、デパート帰りの大きな紙袋を抱
えた婦人達の声高なおしゃべり、足元のおぼつかない老婆を前にして、老人優先席に憮然
と座った中年のサラリーマン。バスの中は窓から吹き込む暑い風を入れて熱気に脹らんだ。
「ただいまぁ」
京子の帰りを聴きつけた妹の春子が部屋の掃除を仕終え、肩を丸出しにした木綿のワン
ピースの裾をたくしあげて、二階から降りてきた。
「お帰りなさぁい。お昼食べたの?」
台所へ駆け込み冷蔵庫から冷した麦茶を取り出して、コップに注ぎ一息に飲みほした京
子は、ガスコンロの上の鍋の蓋を摘んで覗いた。
「何かある?」
京子は食卓の椅子に腰を下して、浴槽の蛇口を捻り水を張る春子に訊いた。
「冷麦が茹でてあるから・・・・・・」
春子は甲斐がいしく昼食の献立を整えた。
銀杏切りの大根に糸切りとうがらしと三ツ葉を散らした水キムチが深鉢に、蕪青菜のキ
ムチがガラスの小皿に取り分けられ、青とうがらしと大蒜をたっぷりと刻み胡麻油で和え
た胡瓜と若布の具が、大鉢の冷麦の上に盛られ食卓を飾った。
「うわぁ、おいしそう!」
食欲を一度に取り戻した京子の冷麦を頬張る様子に、給仕をしながら春子が呆れて笑っ
た。
「やっぱり暑い日はこれに限る。ご馳走さま」
口一杯に張りついた青とうがらしの辛さを氷の浮いたコップの水で洒いだ京子は、空に
なった器を流しに片づけ食卓を拭いた。
「アボジは?」
「お昼済ませて、支部に行くって出てった。役員会議があるから夕飯いらないって」
汚した器を洗い、乾いた布巾で丹念に拭い、食器棚に戻した春子が食卓の椅子に座った。
開け放した勝手口の簀垂れの向うにうす紅色の木槿の花が咲き誇り、肉厚な寒椿の葉が
夏の陽を浴びて緑濃い。吹き込んだ風に風鈴が鳴った。
つけ放したテレビの画像に見入る春子が、対談番組の男性タレントのギャグに笑い転げ
た。春子の屈託のなさに京子は吹き出した。
「春子の笑い声の方が、面白い」
「お姉だって、テレビ見て笑うことあるでしょ」
「春子のことを変に云ったんじゃないの。あけっぴろげでいいなと思っただけ」
「どうせ私は単純で、どじで、生れつきですからね。お姉とは大違いだから」
半分怒りながらも春子は機嫌を直した。
「慶子さんから電話があって、武と来るって」
「義男も一緒に?」
「仕事が遅くなるとか云ってたけど、先に慶子さんが武と来るみたいだよ」
嫁ぎ遅れた姉妹を父の家に残し、別に住む弟夫婦が一歳になる武を連れて、休日毎に泊
りに来ていた。
二〇年前、どんな経緯があったのか母が出て行った後、小学校を頭に三人の子供を男手
ひとつで育ててきた父を想い、家に居続ける申し訳なさが京子の胸を締めつけた。
結婚だけが人生じゃないと、持ち込まれた幾つかの見合話を断ったものの、京子は当世
風の自立する女には程遠く、一人で生きてゆく不安を募らせながらも、方向を見据えるこ
とを避けてきた。
京子はある時期まで結婚に憧れた。
友人の花嫁衣裳に自分の姿を重ね合せて胸ときめかせ、結婚生活がどんなものなのか想
像もおよばず花嫁衣裳に魅せられていた。
垣間見た友人の結婚生活は京子を失望させ、生活に疲れた友人の愚痴に京子は身に詰ま
された。
嫁ぎ先が韓国籍に切替えられても朝鮮籍を固持する友人は、子供を連れて実家に戻ると
いって頑固に切替を拒みつづけているものの、おいそれと実家にも戻れず、婚家の諍いの
中にじっと身を置く毎日だと云い、年に何回かの祭祀の供物を前日から仕込んで準備する
大変さを訴え、姑との折り合いがうまくいかないことを嘆いた。
愚痴をこぼした友人は蟠りを吐き出してさばさばしたと笑い、幼稚園に通いだした子供
の可愛さに、母親の顔に戻って目を細めた。
「京子なんで結婚しないの?
まあ私が愚痴ばかりこぼして水を差すようだけど、どのみ
ち結婚するなら早く子供を生んだ方が楽だよ。ほんと、子供は可愛いから!
たまには遊
びにおいでよ」
ちゃっかりと云い置いて生活の場に戻ってゆく友人の後姿に、京子は一人のしたたかな
女を見る想いがした。
京子は、冠婚葬祭の慣習を唯一の朝鮮的なものとして受け入れているが、家族制度の中
の女の立場、とりわけ嫁の立場が弱い現実に、とても友人の真似はできないと、結婚への
夢も冷めていった。
見合を拒む京子に業を煮やした父は、親戚の伯母や、知人を介して説得してきた。
「朝鮮人は朝鮮人と、良い婿さんを見つけて子供を生んで、それが女の一番の幸福という
ものだ。いつまでも愚図々々すると、あとにつかえた妹弟が結婚できないじゃないか」
「父ちゃんは苦労してお前達を育ててきたんだから、早く孫の顔を見せてやることが親孝
行というもんじゃないか」
矢面に立つ京子の背に隠れた恰好の二ツ違いの春子は、姉を差し置いて見合話がこない
ことを良いことに、結婚なんて眼中にないと暢気に構えている。
とうが立った娘を二人も抱えた父は、
「恥ずかして、表も歩けん」
。
事あるごとに嘆いていた父も、弟の孫の顔を見てからはすっかり好好爺となり、孫のお
守りに余念がなく、娘達のこともあまり云わなくなった。
「何か買ってこようかな」
春子は冷蔵庫を覗き、買い置きの食料品を確めた。
「何か要るものある?」
「うーん、適当に買ってきて」
食卓に頬杖をついた京子は間怠っこい声で、壁に掛けた鏡に写して髪を撫ぜ、身づくろ
いをする春子に云った。
「昼寝するなら戸締りしといて・・・・・・あっこれ、アボジがあんまりおかしなのと付き合う
な、と云っとけって」
手渡された封筒の裏には、政治犯救援運動の、支援グループの名が記されていた。
父は民団の役員をしている立場上、京子が運動に深入りするのを懸念している。父と意
見を違える京子は何かと口答を返した。父は京子に直に云うのを避け、春子の口を借りて
時々云ってくるのだ。父と京子の言い争いを、剽軽をきめた春子がいつも執り成していた。
春子を市場に送り出した京子は、二階に上った。腰を締めつけていたジーンズを袖無し
のワンピースに着替た京子は、棚の上に積んだ読止の本の中から適当な一冊を抜きだし、
間仕切りの襖を取り払い藺草を敷きつめた部屋の、風通しの良い場所を選んで、座蒲団を
枕に横になった。
京子は読止のページをめくり活字を追った。一人になった家の中に、気付かなかった街
の騒音が届いた。
レールを軋らせて走る列車の音、ビル建築の工事の音、工事現場の人声、車のクラクシ
ョンの音が入り雑り、小気味のよい騒音となって京子の耳を掠めた。
活字に疲れた京子は、本を投げだし目蓋を閉じた。
突然鳴きだした油蝉の、小うるさい翅を震わす鳴き声も、いつしか単調な継続音となり
京子の転寝を誘った。
堅く肉厚な葉が重なり大きく枝を張った枇杷の木に、ジージーと油蝉の鳴きこぼれる井
戸端で、素裸になって逃げまどう京子(キョンジャ)の腕を取り押えて、頭から水を浴びせて
いる。
「じっとして、早く洗いなさい。竜基(ヨンギ)兄(オッパ)ちゃんが待っているでしょう」
いきなりの井戸水の冷たさに身を竦ませ、母に叱られやっと泥んこの手足を洗った京子
は、半分べそをかいていた。
伯父(クナブジ)の家での祭祀(チェサ)に、一足先に来合せていた従兄の竜基と出掛けるこ
とになった京子は、一人だけよそ行きの服を着てワクワクしていた。
京子の身支度に忙しく余念のない母の、腕や腰に纏いつく妹と弟が、羨しげに見守って
いる。兄夫婦への言伝を頼み、着替を詰めたボストンバックを竜基に手渡した母は、京子
に言い聞かせた。
「竜基兄ちゃんの云うことをよう訊いて、お利口にしているんだよ」
母の言葉に頷く京子は、久し振りに逢う従姉妹のことで頭が一杯だった。
学生帽を目深に冠った竜基の、陽焼けした顔がやさしく笑って白い歯がこぼれ、筋肉質
な伸びざかりの少年の大人に成り切れないひ弱さが、かえって好青年の印象を与えた。
竜基の手にぶら下ったおかっぱ頭に麦藁帽子の京子は、肩から斜に懸けた小さなビニー
ルのバックを大切に押えて、内股になった赤い靴が精一杯照れている。
「お姉ちゃん、行ってらっしゃい」
「大きいお姉ちゃん、行ってらっしゃーい」
妹と弟の甲高い声に送られ、小さな胸がはち切れそうに脹らんで駅に向う京子の足が宙
を跳んだ。
京都駅で汽車を降りた。
乗降客で混み合うホームに発着する、列車の軋る音。駅名を告げるアナウンスが拡声器
から流れ、けたたましいベルの音が鳴り響く。
京子の手を引く竜基は乗降客の人混みを分け、長い連絡通路を渡り乗り換えのホームの
階段を降りた。
京子は竜基の手にしがみつき大人達の腰を擦り抜け、必死の思いでついて行った。
西の空に陽が傾き稲田が広がる鄙びた駅に、京子は竜基に抱きかかえられるようにして
降りた。
車掌の吹く笛を合図にホームに停車した電車が、警笛を鳴らしゆっくりと走り去った。
赤いランプの点滅に合せて鳴る警報器の音が止み、遮断機の上がった踏切を渡った。見覚
えのある駅前の雑貨屋の店先に、老婆がぼんやりと店番をしていた。駅から伸びた道がな
だらかに折れ、田んぼの畔道に続いていた。汽車の長旅に疲れて頬をあからめた京子は、
生れ故郷の懐しい田舎の佇まいに目を凝らした。
「気いつけや、あんまり走るとこけるで」
京子は竜基の手を振り解いて駆けだした。
高台に見え隠れする白い校舎の屋根も、夕暮れの闇を抱えた神社の杜も、水路に架けた
石橋も土の匂いも、躓づいた石ころや穴ぼこの感触でさえも京子に覚えがあった。
暮色に包まれた田面の中に、板葺の棟割長屋が寄り添うように軒を並べ、裸電球の明り
が跼った路地にこぼれていた。夕餉の魚菜を煮る大蒜と胡麻油の匂いが、饐えた味噌の匂
いに混ってこもり、竈の煙筒から立ち登る白い烟りが、暮れ残った藍色の空に吸い込まれ
ていった。
「伯母(クヌメーッ)さん!」
「アイゴーッ、キョンジャ! 来たんか」
五人の子供を生み分けずんぐり太った伯母は、夕餉の仕度で濡れた手を、前掛の端でも
どかしく拭い京子を抱きあげた。
「アイゴー大きなって・・・・・・誰と来たん?」
「ヨンギ・オッパと」
土間に据付けた竈の薪がくすぶり、釜の蓋から湯気が蒸れていた。駆けてきて弾む息が、
汗ばんだ伯母の甘酸っぱい体臭にむせ、京子は伯母の腕の中でもがいた。従姉妹の末子(マ
ルチャ)と英子(ヨンジャ)が伯母の腰に取り縋り、抱かれた京子を見上げてはしゃいだ。土
間の戸口に立って見守る竜基が、板間にボストンバックを投げ出し、学生帽を脱いで額の
汗を腕で拭った。
「アボジは?」
「もう、仕事から帰る頃やわ」
「名古屋の叔母(チャノメ)さんが、祭祀に間に合うように来るゆうとったわ。オモニによろ
しくゆうてくれて」
「そうかぁ、叔母(チャノメ)さんも皆、元気にしてるてか」
伯母は汲んだばかりの井戸の水を、コップに充たして竜基に手渡した。京子は久し振り
に会った、同い歳の末子の矢継早な言葉に、負けずに学校のこと友だちのこと遊びのこと
などまくしたてた。
「さあ、アボジが帰ったら御飯やからな、仲よう遊んどり」
末子と英子に押し挟まれるようにして、京子は板間に上がり温突部屋に入った。油紙を
敷きつめ堅く冷たい感触が、冷んやり足裏に心地良い。散らかした紙人形の着せ替遊びに、
京子は憑かれるように夢中になっていった。
京子は目を覚ました。
ひとつ蒲団に寝た末子はとっくに起きていた。並べて敷かれた蒲団に英子が大の字にな
り、寝乱れてはだけたシャツの下から、丸く窪んだ臍をのぞかせている。京子は蒲団を抜
けだした。
板間に食膳が整えられ、伯父(クナボジ)と長兄の秀基(スギ)と竜基が朝食をとっていた。
味噌汁の匂いがプーンと鼻についた。
「やあ、キョンジャ起きたんか・・・・・・早ように顔洗って御飯食べや」
盛り上った肩と腕の筋肉が、半袖のシャツからはみだして赤銅色に光り、伯父の厳つい
体躯に似ず静かな声が云った。
「キョンジャ、そんな所に突っ立って、寝小便たれたんちゃうか?」
一廻り大きくした伯父にそっくりな、長兄の秀基が朝食を済ませ、地下足袋を穿きなが
らからかうように云った。
「寝小便なんかしてない!」
京子はむきになって答えた。朝の土間に笑いが弾けた。
忙しげに弁当を詰めている伯母に云いつけられた末子が、水を汲みにバケツを下げて表
に出て行った。
「さあ、キョンジャ、顔洗っといで」
伯母は京子の掌に塩をひと摘みのせた。京子は末子の後を追って井戸に走った。
板葺の棟割長屋が井戸を囲むようにして建ち、餌を求める豚の悲鳴に近い泣き声が、朝
の空気を震わせ、土を越した畑に放たれて草を食む牛が、間延びした長閑な泣き声をあげ
た。畑の畔道に寄った共同便所の糞尿の匂いが微かに匂った。
白い木綿のチマ・チョゴリのチマの裾を、開げた股の間にたくし込んで腰を下した老婆(ハ
ルモニ)の、鳥ガラのように細く皺寄った手が、キムチに漬ける青菜を丹念に濯ぎ、水桶に
浸した食器を洗い煤けた鍋の底を磨く、嫁入り間近な姉(オンニ)さんの、頭の後に編み下げ
た黒髪が背中で揺れた。
赤ん坊を背負った母親(アジュモニ)が、負紐にきつく締められた乳房を振るわせ、盥に山
積の洗濯物を取り出して砧を打っている。
「アイゴー、キョンジャやないの? オモニも一緒に来てるんか」
砧の手を止めた母親が、頓狂な声で訊いた。
「オモニは明後日来るの」
「そうかぁ、ちょっと見んうちに大きなってしもて、幾つになったんや」
「うちと一緒で、七ツや」
ポンプを漕いでバケツに水を満たした末子が、代りに答えた。
「早いもんやな。キョンジャ、あとで遊びに来たらええ。正男(ジョンナム)もいてるしな、
一緒に遊んだらええわ」
母親はぐずりだした赤ん坊を、軀を揺ってあやした。
一歳上の正男と末子と三人して、京子は田面を駆け廻り蜻蛉を追いかけた。水路に架け
た石橋に潜り込み蝲蛄を捕り、溜池に泳ぎにも行った。日が暮れるのも忘れて遊び廻った。
京子は久し振りの正男と、早く逢いたかった。
「キョンジャ、水汲んでやるし」
末子に急かされ、京子は塩で口を洒ぎ顔を洗った。
水をくぐった青菜が色鮮やかに緑を増して、水切り籠に積まれ、葉を伝ってこぼれた水
滴が、朝日にキラリと光った。
井戸の廻りで嘴を突ついていた鶏が、洗いあげて積まれた青菜を啄み、老婆が声を荒げ
鶏を追いやった。老婆の鶏にそっくりな仕草に、笑いが弾け井戸端が一頻にぎわった。
年頃の娘や男達が稼ぎに出払った後、家を預かる女達の雑多な家事が山積にされていた。
家事の手をわずらわす悪戯ざかりの子供を叱り、年老いた舅姑につかえ、女達は休む隙も
なく一日を暮した。
英子の手を引いて畔道を行く伯母を追い、末子と京子は豚小舎に走った。
ドラム缶に焚かれた残飯の饐えた匂いが、辺りに漂った。伯母はひしゃげたバケツにド
ラム缶の残飯を取り分け、呼ばれた末子が慣れた手つきでバケツを下げて、豚小舎に運び、
餌箱に流し入れた。糞尿にまみれた豚が悲鳴をあげ、鼻を小突き合せて餌箱に群がった。
はじき出された小豚の愛くるしさに、京子はおずおずと柵の向う側に手を伸した。小豚の
地肌が白くて堅い体毛に透けて見える。
「喰いつくで!」
張りあげた末子の声に、京子は驚いて手を引っこめた。京子の驚き様に末子と英子が笑
い転げた。
長靴を穿いた伯母が、餌場に追いやったあとの豚小舎の汚れた糞尿を、バケツの水を撒
き散らして掃き清め、子供達の様子をそっと見守っていた。
伯母に云いつけられた末子と京子は、風にそよぐ青田を駆けぬけ畑に行った。
黒土の匂う畑の畝に、黄色の花を咲かせた胡瓜がたわみ、うす紫の花の下に艶やかに実
った茄子が太陽に照り映え、ちしゃの柔らかな緑が葉を拡げていた。
可憐な白い小花を次々と咲かせ、生え揃った株が畝一杯に咲きこぼれて、葉裏に青いと
うがらしの実がのぞいていた。
「キョンジャ、とうがらし採ってや。うちは、ちしゃの葉摘むしな。かとうて、つるんと
したのんが辛いんや」
京子は大人を真似て、青とうがらしに味噌をつけ噛りついた。飛びあがる辛さに泣きだ
した。それからというもの青とうがらしを見るたびに、口の中に張りついた辛さを思いだ
した。
京子はたくし持ったスカートの中に、堅くてつるんとした青とうがらしを、夢中で摘み採
った。
むせ返る土の匂いと吹き出した汗に、頭から夏の太陽が照りつけていた。
棟割長屋の伯母の家に集まり、母親(アジュモニ)達が持ち寄った残り物のおかずを並べて、
賑やかな昼食が始まった。
大鉢に山盛りの冷飯に、豆もやしやほうれん草、干してもどした蕨のナムル(おひたし)
を入れてかき雑ぜた混御飯(ピビンパッ)を、母親が子供達に取り分けて与えた。
キムチの漬かり具合を褒め合い、嫁入り間近な娘を抱えた母親の、物入りを嘆く言葉に
頷き、生活の愚痴に慰め合いながら、匙(スッカラ)を口に運ぶ旺盛な母親達の食事が繰り広
がった。
京子は母親達の話を、訳も分らず物知り顔に聴きながら、摘み採ったばかりのちしゃの
葉に冷飯を包んで頬張った。
賑やかな昼食を済ませた京子は、末子と表に飛び出した。
「うちも行く」
英子がべそをかきながら二人を追った。
「英子(ヨンジャ)なっ、クツが右左違ごうとるやん。家に帰って穿き直して来たら連れてい
ったるわ。早ようしや」
末子に云われたままに、英子は家に走り戻った。
「キョンジャ、早よう」
一瞬迷った京子は、末子を追って走った。英子の張り裂けそうな泣き声が、遠くなって
消えた。
二人は稲田を分けて、一本道の高台の校舎をめざし、緩やかな坂道を駆け登った。夏休
みの校庭に取り残された鉄棒やぶらんこが、生い繁った木々の梢に鳴きすだく蝉の声に鎮
もっていた。
「あんなキョンジャ・・・・・・誰にもゆうたらあかんえ。うちな、大きいなったら正男(ジョン
ナム)のお嫁さんになるねん。京子はもう決めたん?」
「ううん、そんなことまだ決めてない」
遊びから戻った正男と出喰わした京子は、真黒に陽焼けして一回りも大きくなった正男
の餓鬼大将ぶりに目を瞠った。
「どこ行くねん?」
末子が少年達をしたがえた正男に訊いた。
「泳ぎに行くんや」
「うちらも行く」
「あかん、女とは遊ばん」
一瞥をくれた正男の目にぶつかった京子は、眩しさにあわてて目を逸らした。走り去っ
た正男が急に遠く思えた。
末子は鉄棒に跳び乗り、片足を懸けて軀を回転させた。
「キョンジャ、後回転でける?」
末子は息を弾ませて京子に挑んだ。
「うん。できる」
京子も鉄棒に取り付き負けずに回転した。
鉄棒に飽きた二人はぶらんこを漕いだ。高く上がったぶらんこから、広がる稲田に棟割
長屋の屋根も、豚小舎も、神社の杜も、一望に見渡せた。
高く迫り上がった京子の目の中に、眩しい夏の空が飛び込んできた。
「お姉さん、お姉さん。あっごめんなさい」
「ううん。いつ来たの」
義妹の慶子に揺り起された京子は、座蒲団の枕から頭をもたげた。
「ええ、今着いたとこ。春子姉さんが西瓜を切ってくれたから一緒にと思って、起こして
ごめんなさい」
「いいの・・・・・・武は?」
「階下で春子姉さんと西瓜を食べてるの。じゃ先に降りてます」
「すぐ行くから・・・・・・」
京子は寝汗に濡れた上半身を起し、転寝の夢のつづきをぼんやりと思った。
あれから二〇年近い歳月が流れた。
随分と逢う機会もない末子は、見合結婚をしたあと故郷を遠く離れ、今では三人の子供
に囲まれ、働き者の夫を助けて家庭を守っている。
消息の知れなかった正男は、仕事で乗った車の事故が原因で障害者となり、長い入院生
活を送ったあと、看護婦の日本人女性と結婚したと人伝に知った。
棟割長屋も取り壊され、稲田も宅地造成の波に押されて失くなり、生れ故郷の佇ずまい
もすっかり様変りしたと訊いた。
京子は呼び戻された故郷の懐しさに、幼い記憶の中に置き忘れた大切なものが突然目の
前に現われ、心が揺れた。
あれから帰ることのなかった生れ故郷に、京子は訪ねてみようと思った。
日々の生活に押し流され、取り残してきた心の故郷を呼び醒ましてくれそうな、そんな
気がした。
京子は投げ出して開かれたままの本を閉じ、座蒲団を部屋の隅に押しやった。片言を話
しだした武を囲んで賑やかな台所に降りた。
鳴きしきる油蝉が、ひとしきり高く鳴いた。
『見果てぬ夢』雑感ノート(二)
――土着の社会主義について――
ペェ
裵
チョン
鐘
ジン
眞
前回の文章は『見果てぬ夢』の作品主題や作中人物の細部についての論議を展開するた
めの序章ともいうべき雑文であった。今回の文章では、私なりにこの『見果てぬ夢』の作
品の核心の中に這入ってゆきたい。
最初、
『見果てぬ夢』を通読したとき、私はところどころに不満を感じたり、或いは作者
と違う意見を持ったりして、どちらかといえば、作品全体から受ける感銘よりは欠陥の方
が気になるという印象を抱いたものであった。その理由は私の読み方が浅くかつ不充分で、
作品理解のための下地も乏しかったということにつきる。今この『見果てぬ夢』について
なんらかの論を展開しようとして、改めて丁寧に読み直し、また李恢成の他の関連の文章
も読みついでゆくにつれて、今さらながらにこの大作の現代的意義と作者の並々ならぬ力
量を思い知るのである。
ある意味で思想小説、政治小説のこの『見果てぬ夢』では、土着の社会主義という朝鮮
分断を止揚する革命思想が大きな骨子になって、登場人物の交錯と議論の中で輪郭が明ら
かにされてゆく。言葉を換えれば、未知の分野での思想的試みとしての土着の社会主義思
想を提起することで、この『見果てぬ夢』の作品世界が成立している。
作家がすでに持っているその感性と世界観とその遠近法で人間模様を描くことは、それ
なりの困難はあるだろうが楽だと思う。それでも一般的に作家は、一つの作品を完成させ
るのに、綿密な下調べ、緻密な構成、厳密な推敲に全精力を投入するという。
以前に島崎藤村の『夜明け前』の創作ノートを全集の巻末に見たとき、その分量とすさ
まじい推敲の跡と資料の渉猟に驚いて、これは命がけの苦業だと感じ入り、歴史を書く作
家は、たいへんだなあと思ったことがある。恐らく李恢成もこの土着の社会主義思想を作
品化するに当って、前人未踏の世界に踏み込む困難と危険にたじろぎながら、作中の朴(パ
ク)采(チェ)浩(ホ)が『白首文』完成に身を削っているのと同じ体験をしたにちがいない。そ
の研鑽と思索はまさに鬼の業であったと想像するにかたくない。下手をすればうすっぺら
な観念小説に終るかも知れないからである。
しかし李恢成は土着の社会主義思想の萠芽と肉付けを、七〇年代の韓国の政治状況下で
闘う革命家たちの群像の中に見事に形象化させるのに成功した。今や土着の社会主義の思
想的潮流は、現実の韓国の民主化闘争と統一運動を担う革命理念として、この『見果てぬ
夢』によって不動の市民権を得たと言ってよい。その意味で『見果てぬ夢』の存在意義は
文学的次元を超えている。俗に言う文学のリアリズムとロマンチシズムの結合の一つの典
型だと言ってよいと思う。
ところで長篇大作『見果てぬ夢』の主題はいうまでもなくひとつは、朴ファッショ体制
の強権下で非合法の革命運動に全生命を没入し苦闘する、朴采浩と趙(チョ)南(ナム)植(シ
ギ)ら青春群像の生きざま。もうひとつは彼らが高く掲げるところの韓国の政治的風土と民
衆の中から必然的に生れたという、革命思想の土着の自生的社会主義である。一言で言え
ば朝鮮統一に向けて生きる分断時代の革命家像(革命倫理)と革命思想(革命論理)が『見
果てぬ夢』のテーマではないだろうか。
この稿では土着の社会主義についての作者李恢成の用意周到かつ労苦の結晶ともいうべ
きその論理をなぞってゆくことにする。李恢成の堅陣の牙城に少しでも爪を立てて問題点
を探ってゆきたい。しかし私の鉾先は結局のところ李恢成の築きあげた真実を追認して、
彼の偉業と思索の深さに脱帽する羽目になる。それはとりもなおさず『見果てぬ夢』の作
品の訴求力が、アクチュアルな歴史的真実で読む者に肉迫してくるからである。
現実の事件を横糸にして革命伝統を縦糸にして小説世界に、土着の社会主義の構想構成
を壮大な歴史の実験として、しかもリアリティをもった民族解放と統一の思想として浮き
彫りしたのは見事というほかない。
『見果てぬ夢』は架空の物語ではなくて現在進行中の実
録なのである。
土着の社会主義という言葉を李恢成が最初に言ったのは、七四年九月号「中央公論」誌
上に発表した論文『民族の名誉のための闘い』においてである。
『見果てぬ夢』が七六年七
月号「群像」に連載開始されるから、その二年前である。従って土着の社会主義が李恢成
の胸中で明確な思想的イメージとしてふくれあがり、徐々にしかも沸々と認識され理念化
されてゆくのは、作中の朴采浩が言うように、まさしく七〇年代前後の時期と思われる。
この『民族の名誉のための闘い』が発表されたときは、土着の社会主義と命名されたこ
の言葉もその思想的潮流も、さほど世間には注目されなかったのではないだろうか。土着
の社会主義の存在が広く知れわたるのは、非人道的な韓国のファッショ体制を撃つための
抵抗思想として、また民主回復と祖国統一を目指す分断止揚の思想として、
『見果てぬ夢』
で熱誠をこめて紹介されるのを待たねばならなかった。
この『民族の名誉のための闘い』は、七三年の金大中事件、七四年の民青学連事件など
に見せた、一連の朴正熙専制独裁政治の体質を暴露するためと、韓国の学生運動が民族革
命闘争史において常に民衆と共に闘い民衆を代弁した輝やかしい位置を浮き彫りするため
に書かれた論文である。この優れた論文は七五年一月に平壌放送が全文を紹介、その二月
に韓国の地下組織の統一革命党の機関誌「革命前線」に五回にわたり分載紹介された。「さ
らに注目すべきことは、民族主義的、民主主義的、人道主義的な思潮とともに、社会主義
的な運動の潮流が学生たちの中にじょじょではあるが、確実に拡がりつつあるということ
だろう。注意してみると私たちはそのことに気付くのである。根絶されて容易に芽を吹き
出すことがなかった社会主義思想が、ほぼ二十年ぶりに韓国の民衆の中で、甦りつつある
事実はきわめて注目すべきものである。もちろんこの社会主義的潮流をただちに“金日成
主義”と直結することはあたらない。それは外部から輸入された社会主義の波及ではなく、
韓国的状況の下で生活と闘争の中から培われ育ってきたいわば土着の社会主義といえる」
この文章の中にすでに『見果てぬ夢』の作品動機と作品主題を垣間見ることができる。
〔一〕土着の社会主義の源流
土着の社会主義という革命理論に接したとき、朝鮮民族なら、その原初的思想を日帝時
代の反日独立解放運動と、李承晩時代の反米反独裁の民主回復と統一運動の抵抗思想の中
に見つけてゆくだろう。朝鮮民族が現代のその民族革命史の経験と伝統の上で、社会主義
思想から受けた影響は測り知れない。
一九一七年のロシア革命の成功は、被圧迫民族と被抑圧階級に歴史発展段階における社
会主義思想の優位性と確かな将来社会実現の保証性を全世界に示した。
一九一〇年の韓日併合以来、民族の主権と独立を奪われていた朝鮮でも、急進的な民族
主義者は社会主義思想を砂にしみこむ水のように、その民族解放の理論と実践の指針の中
に組み込んでいった。
一九二〇年代に相次いで誕生した共産主義者、社会主義者、民族主義者の組織やグルー
プは激しい分派で離合集散を繰り返した。しかし底流では社会主義思想が民族解放と主権
獲得を闘う被植民地民族の側にとって、絶対不可欠の実践理論であることから離れられな
かった。そしてそれは民族革命史の上で一応の成果をあげていった。朝鮮の歴史的条件と
その風土の中で、つまり日本帝国主義の植民地侵略と儒教倫理による前近代の封建制、こ
のふたつの民族的歴史的矛盾を打破するために、社会主義思想がその大いなる兵站の一画
を担ったのである。強盗日本を打倒しろと暗殺テロに走った極左の義烈団から漸進的な自
治運動を唱える民族改良主義者まで、この社会主義思想の洗礼を受けないものは居なかっ
た。
特に一九四五年の解放のときから朝鮮戦争勃発までは、南では共産主義、社会主義運動
がもっとも高潮した時期である。たとえば四六年九月のゼネスト、十月の大邱事件、四八
年四月の済州島蜂起、十月の麗水反乱事件などは、李承晩ら親米派と民族反逆者らの反動
攻勢に対する民衆の不満が爆発したものであった。これらの抵抗は全民衆による救国闘争
の性格を帯びており、当時これらの闘争を指導または煽動した中核は、金日成を党首とす
る南朝鮮労働党の共産主義者たちであった。
南北政権同時成立という分断決定までの激動期とその直後の朝鮮戦争まで、過酷な南の
反共反動攻勢の中で、共産主義者、社会主義者が北を神聖な革命基地と仰ぎ、民主回復と
朝鮮統一のための思想と勇気を得ようとしたのは、それなりの歴史的必然性があった。
米ソによる南北の分割統治、全国民をまっぷたつに分けた信託か反信託かの運動、永久
分断を阻止せんと南北の民主人士が集った南北協商会議、そして南での単独選挙反対運動。
いずれも全国民をまきこんだが、分断か統一かの力学関係でアメリカと組んだ右派が圧倒
的に居直り、統一の中核の共産主義者、社会主義者は壊滅的打撃を受けた。そして終に五
〇年の朝鮮戦争の同族殺戮の悲劇が、南の国家権力だけでなく、民衆の上に決定的な反共
体質を完成させるのである。以後、南では共産主義者、社会主義者は、合法非合法を問わ
ず大衆の支持と支援という民衆的地盤のない飢餓状態の中で、孤立無援の「パルグェンイ」
として地下水脈下の陽の当らない所で闘争を進めてゆかねばならなくなる。
そんなわけで地下に潜ってしまった共産主義者、社会主義者や秘密組織の地下党は、概
して北主導の党派に属していたが、なんらかの転進か折衷の方向転換をとらざるをえなく
なる。同時に南の歴史的条件と政治状況に適合した固有の発想と展開をもつ社会主義思想
の出現要請もあった。そういう意味で曺奉岩の進歩党事件と趙鏞寿の民族日報事件は、彼
らが北主導の影響を受けていたかどうか別にして、土着の社会主義の源流のひとつとして
位置づける必要があるかもしれない。
五八年一月、北のスパイ容疑で野党第二党党首曺奉岩ら逮捕される。曺奉岩は解放前か
らの有名な共産主義者だったが、反共の李承晩体制の中で民族主義立場に転進、平和統一、
社会的民主主義を綱領としていた。五九年七月に死刑。
六一年五月、軍事クーデター直後の検挙旋風で民族日報の趙鏞寿ら逮捕される。民族日
報は「不正と腐敗を告発し、勤労大衆の権益を擁護し、両断された祖国の悲劇を訴える」
と平和統一運動と革新的世論の喚起を社是としていた。六一年十二月に趙死刑。
反共独裁政権下の合法党、合法紙としての制約をもちながらも、大衆社会の実現と平和
統一を目指した曺奉岩、趙鏞寿、そして趙と共に死刑された社会党の崔百根らの運動軌跡
は検討されなければならないだろう。彼らが金日成主義に依拠していたのか、或いは南独
自の運動方式を模索していたのか、朴采浩が作中で言うように、確かに民社路線ではあっ
たけど、当時の反共風土の中で社会主義的思潮の結集面で果した役割は否定できない。土
着の社会主義の南での脈絡と系譜をみたとき彼らとのあいだに接点はないだろうか。
李恢成は土着の社会主義が七〇年代に突然出てきたものだとは決して考えていない。朝
鮮民族の脈々たる連続革命の歴史を母胎にして生れた新しい思想であり、社会主義の七〇
年代的展開であり、当然ながら革命史の遺産と教訓を受け継いでいる、という認識を持っ
ている。
作中では朴采浩が、朝鮮近代革命の祖といわれる金玉均らの甲申政変の事件現場の郵政
局跡をたずねて、感慨を嚙みしめる箇所がある。苦節と彷徨の独立運動家であった采浩の
父朴秋嶺は回想記を書いている。李承晩時代から獄窓にある南労党の朱老人の不撓不屈の
魂と二十年間も差入れに通う妻との夫婦愛。
こうした場面や人たちを描くことで、土着の社会主義が朝鮮民族の革命史の上で、既存
の党派から生れたものではないと規定しながらも、そうした過去の経験と伝統と風土を包
み込んでいることを匂わせている。そして同時に朝鮮民族の革命史の一翼を担うとの意味
で、土着の社会主義の原初的風景としてその出自を支えようとしている。
今ここで老革命家の朱老人と趙南植の獄中での接触の場面を想い起してみよう。
七二年の自主的平和的民族大同団結の七四共同声明に潜む欺瞞性に対して朱老人と南植
はこもごも自分の考えをのべる。
「米帝の走狗と共和国が話し合いによって統一を図るというんだ。これは被搾取階級に対
する裏切りに近い」と朱老人は吐き出すように言う。
民族と階級という二つの視点から分断民族の実情を考えてゆく、つまり「南における革
命、或いは統一は階級的矛盾をもった国での、資本主義社会から社会主義社会への移行と
いう時代的命題をもったものだ」という点でふたりは一致点を見つけてゆく。先革命後統
一というわけである。民主主義社会を実現しないところでの頭ごなしの統一は、その出発
から空中分解の結末をはらんでいる。
「もし解放後に生まれてきた愛国勢力があの弾圧の時代に風説に耐えて温存されていた
ら」
「どうして南には革命勢力がないに等しいのですか」と南植は朱老人に疑問をぶつける。
その詰問の本意が「自分たちが信じている思想がはたしてこの国の土壌でほんとうに育つ
のかどうかとういう根本的な問題にたいする検討も必要だとさえ考えるからです」と熱誠
の胸のうちを明かす。
朱老人はかっての南労党員としての反省に立って「北から密使を飛ばして南の革命をや
ろうとしてもだめなんだ」と答え、さらに革命勢力の弱い理由を革命党の分派運動と米帝
と李承晩一味の徹底的弾圧のせいだと言い、
「要するに、こんにち南朝鮮で革命勢力がたい
へん弱いという責任は、誰でもないわれわれ共産主義者がとらねばならない」と革命党の
主体的力量の欠如の次元で厳しい総括を下す。
この場面では南の革命運動のあり方と反省が語られている。時代が移っても普遍の革命
精神や受難劇を写しながらも、同時に革命論理における新旧の交流に土着の社会主義の接
点を見つけようとしている。土着の社会主義の“取り上げ婆さん”を自認する李恢成の面
目躍如とその力技の一端が示されている。
朱老人と南植の獄中対話のほか、統一革命党の羅(ラ)道(ド)卿(ヒャン)と朴采浩の地下組
織者同士のひそやかな連帯の交換。北の秘密工作員高(コ)龍(ヨン)燁(ファ)と采浩の緊迫感
あふれるそれでいて静かな論争同志洪(ホン)永(ヨン)哲(チョル)の心情的発想を諫めて理論
強化を促す采浩の論理展開。学生宋(ソン)興(フン)祚(ジョ)同志の疑問に答えながら目指す
理想社会のビジョンを提示する采浩。毒(ドク)眼(サル)尹(ユン)戴(チェ)允(ユン)の拷問に悪
びれずに信念と思想を開陳して国家権力に対して堂々と革命宣言する采浩。在日の画家孫
(ソン)敬(キョ)南(ナム)との対話、弁護士殷(イン)錫(ソク)湖(ホ)との対話、朝鮮戦争の孤児
で統革党の理知的な女性党員の羅(ラ)景(ギョン)利(リ)との対話。
それらの中で朴采浩と趙南植は歴史発展法則の真実に基いて、時には彼我の革命方針と
その理念の異同を指摘し、時には歴史の総括と現状の情勢分析に深い洞察を試み、時には
不退転の抵抗運動の運命と決意を語るのである。それぞれの場面で土着の社会主義者は、
向い合う諸問題に対して思想的試練をくりひろげながら明確な立場と視点を構え、その理
念の深化とその同志の結束を強化してゆくのである。
だから注意深く読めば読むほど、私にはこの『見果てぬ夢』を簡単に“民衆不在”とか
“人物の類型化”とか“観念過多”とか逆に“理念化不足”などとは言えなくなってゆく
のである。
確かに土着の社会主義に限って言うなら、半熟かつ生硬、未解明の部分がかなりあると
思われる。しかしこれはひとえに時代制約のためであって作者の力量のせいではない。李
恢成以外に誰がこの土着の社会主義をよく書き得たであろうか。
ただ土着の社会主義の母胎の原初的な思想の構図と系譜をもう少し明瞭にしてほしかっ
た。土着の社会主義が七〇年代に出てきて、朝鮮分断止揚の最も有力な思想として、
「民衆
の支持を必ず得る」ためにも、また「南の民衆の中から生れた」革命思想であり、既成の
党派に属さない組織であることを証明するためにも、それは必要なことだと思う。登場人
物の経歴や対話や背景の中に塗り込められている周辺状況から土着の社会主義の輪郭を読
みとることはできるが、具体的かつ系統的な土着の社会主義の前史は作品中では書かれて
いない。
朴采浩が一年以上もかけて「七分通り出来上った」二千枚の分量の土着の自生的社会主
義論にふれて「南に革命をやりなおすために、過去の革命の歴史を踏まえて南の民衆が求
め、南の民衆が解放される綱領と戦略戦術をもつ革命の途につくこと・・・・・・それは革命の
敵はおろか味方からも試される思想にちがいない」と語る。土着の社会主義の沿革と綱領
と宣言が、作中の朴采浩においてすでに理論完成しているのである。それを見てみたい。
東西古今に通じた思想的造詣、科学的社会主義による的確な情勢分析と冷徹な洞察、未来
社会を固く信じる論理展開、統一の保塁の基礎工事の捨石たらんとする犠牲精神・それら
を文章化した朴采浩の『白首文』に、多くのことを教えられ魂を激しくゆさぶられるにち
がいない。
その『白首文』の中では土着の社会主義がそれぞれの時期の具体的な事件と人物を縦横
になぞりながら、それらの総括と反省の上に生れた思想であることを傍証し、分断時代の
統一思想としての歴史的必然性と分断止揚の思想としての革命的正当性をこの国の現代史
の中に論理づけているはずである。
〔二〕北主導でない南だけの革命
「なぜ、火種もないのにウチワで煽るのか、なぜ晴天に雨を降らせようとするのか」
北の秘密工作部隊の青瓦台襲撃事件(六八年一月)、韓国東海岸ゲリラ事件(六八年十一
月)を平壌放送は「南朝鮮人民内部から武装遊撃隊が蜂起した」と宣伝し、
「抗日パルチザ
ン闘争の革命伝統にのっとり、小組活動と小部隊活動を精妙に駆使して、今や山岳地帯と
農村地域での活動を都市襲撃にむすびつける大胆な作戦を展開中」とのろしをあげた。
しかし南の人民たちは武装ゲリラを歓迎しなかった。
「それどころか、六・二五動乱の戦
禍を思い浮かべて恐怖した。反共意識があおり立てられる道具立てがそこにあった」
「控え
目な人々でも、なぜ北は嘘を言うのかといぶかり、迷惑顔をした」
北の極左武力革命方針に従った南侵ゲリラ隊の事件は、逆に南の民衆の北への恐怖と不
信を植えつけ、結果的には反共強化の一層の北風となり、せっかくの火種をも絶やしかね
ない危険な暴挙で元も子も失う投資であった。
六八年八月に統一革命党事件が起きる。統一革命党は機関誌『青脈』を合法総合誌とし
て発行し(64・8~67・6)
、折しも進行中の韓日条約や韓日閣僚会談の反対闘争を軸にし
て、分断時代の民族思想の開拓と啓蒙に大きく貢献し、それは知識人、学生に広く愛読さ
れた。その統一革命党が朴正熙体制の弾圧と摘発で根こそぎに検挙される。この統一革命
党は北を革命基地と見做し、金日成の主体思想による革命を目指す南での秘密組織であっ
た。金日成の還暦を民族慶事と祝ったり、親子二代の政権世襲を社会主義国における後継
者問題の止揚だと鵜呑みにしたり、その事大的傾向が強く南だけの地域革命という特殊条
件を軽視する欠陥があった。
時代の変化を無視した武力パルチザン方式或いは南の反共風土を無視した主体思想一辺
倒の地下党、こうした事件の経過をふまえて「北が南の人々の立場をほんとうに汲んでや
っているかどうか問題」と考える朴采浩らは、北の革命方式と明確に一線を画する、南だ
けの社会主義革命方式を模索する道を選ぶ。それは南の政治状況、経済と文化の発達度、
社会習俗習慣などの南だけの諸条件を止揚したところからくる必然的帰結であった。
統一革命党の生き残り党員で「誠実な人柄だけど指令で物を考える型」の革命家の羅道
卿が「主体思想こそが南の革命を必勝不敗にする最高方針」と、北の一枚岩的な前衛党こ
そが革命を請負えるのだと胸を張って言う。
それに対して朴采浩はもどかしげに答える。
「花をもってきたから栽培してくれと言って
も、その土壌に合わなければ育つもんじゃない」
「南の人々が受け入れることのできる革命、
こいつが大切なんですよ」そして韓国の民衆は「朴正熙はまるで信じられないが、金日成
もダメだ」と思っており、自分たちが目指すものが「南の人々がみずからのたたかいを、
自分の手でこの南の風土にあったやり方」で「けっして北の言いなり通りじゃない、南の
民衆のための」革命でなければならないと強く主張する。
北から派遣された秘密工作員の高龍燁に対しても朴采浩は確信をこめて語る。腹でもの
を考える懐の深い高龍燁は思慮深い眼差しでじっくり耳を傾ける。土着の社会主義が北の
革命方式(北のすべてではなく)に対するアンチテーゼとして、南の革命の要求の中で生
れたことを強調し続けて言う。
「南の革命は南の力量でやり、同じ民族とはいえ異なった地
域における革命、異なった性格をもつ革命は一つの前衛党によって指導できない。北の誰
かの指令にもとずいて革命が強行されるならば、それは困難を引き起こす。南の革命は文
字通り南の民主的な数百万の民衆と結びついて行なわれてこそ達成される」
さらに同志の弁護士殷錫湖に「宣言書」の草案をまとめているかと問われて、朴采浩は
その時に言う「同じ民族だと言っても、解放後すでに何十年も経っていると、南と北では
政治、経済、文化、風俗どれひとつ取ってみても同一ではない。革命のテンポが異なって
いる。この断絶を無視して北と一律の革命方式で南の革命をやることは出来ないよ」
三十年の南北の体制は似て非なる一民族二国家を作ってしまった。南の革命とは政治、
経済、文化などの現実の発展段階に合わせて、南の社会の内部矛盾の爆発をとらえて、革
命テーゼと戦略戦術を構築してゆくものでなければならない。それは当然のことながら南
の地域、風土、状況、条件に合った革命方式でなければならない。
北の意向や方針で動く出先機関的な社会主義者ではなくて、朴采浩ら土着の社会主義者
はあくまでも北も南も等距離の視野の中に入れながら、南の権力機関の独裁と圧政の矛盾
と民衆の呻吟の中から解放と統一を志向してゆく。それは南の過酷な状況と条件の中で誕
生し、南の恐怖と弾圧の不自由な束縛の中で、地を這いながら闘うというものである。社
会科学的な客観条件だけでなく、南に住む人間でないと南の民衆の心情や南の風土の機微
が理解できないという皮膚感覚においても、土着の社会主義ははっきりとその革命方式と
革命理念において北の主導を拒否するのである。
七四声明の折の民衆の頭ごしの統一方式、再三のゲリラ派遣の武力方式、或いは統一革
命党の金日成の主体思想方式、いずれも南だけの南による南の革命を目指す土着の社会主
義とは相容れないものである。
民主主義のないところでは社会主義が育たない。社会主義を育てるためには徹底的な民
主化闘争をしなければならない。あらゆる分野での民主主義の保障こそが自主的平和的統
一の土台になる。統一の前提条件として民主主義政権の創建がなければならない。そうい
う意味で統一問題を革命問題としてとらえ「先革命後統一」の方針をかかげる。采浩の言
葉で言うと「統一問題は階級的矛盾をもっている国での資本主義より社会主義への移行と
いう時代的命題」ということになる。
しかしここで注意を払わねばならないことは、土着の社会主義が決定的に北と対峙して
いるわけではないということである。
「北の社会主義のもつ肯定的なものは、それとしてもっと把握しておいた方がよい」
「北の
問題は内部矛盾として全体を見てゆく立場を堅持すべきだ」
「もしそうでなく北のために南
の革命運動が駄目になったとみるとすれば、これは責任回避だし、一種の事大主義になっ
てしまう」と学生同志の宋興祚に朴采浩はさとすように言う。
六七年の夏、朴采浩は在日二世の趙南植に革命同志としての入韓を強く求めた。「いま韓
国では三千三百万の民衆があの国に縛られているということ。私たちはあの土地で苦しみ、
悩み、沈黙し、抵抗し、血を流している民衆への想像力を失っては、人間的自由を得るこ
とはできない」と同胞意識のより強い連帯を訴える。
さらに「田圃に入らずにどうして田植えができるんだ」と統一したら何かをしようとい
う熟柿主義者の待ちの姿勢を批判し、革命実践の戦場参加を勧誘する。
「みずから正しいことを信じてやっているという矜持がある。地の塩であればいいんだよ。
よしんば道の途中で殺されたり、行方不明になっても悔みはしないさ」と強権弾圧下の生
命の危機を辞さない思想の確信者の固い意志を示す。田圃に入ってゆかねばならない土着
の社会主義者たちの立場と使命を「南で本当に民衆から理解されるような共産主義者の力
がじょじょに強まってゆかないことには、力強い民衆勢力は形成されたとはいえない。ま
た誕生すべき南のその党とは、誰の代弁者でもなく、ただ南の民衆の意志を代弁する存在
になるべきだ」と力をこめて言う。
しかし国家権力の弾圧の他に、韓国の民衆の反共風土は鋤を打ち込めないほど固い地面
で覆われている。「共産主義者は孤独でまだ屋根裏部屋にひそんでいなければなりません。
これは韓国の悲劇です。しかし本当の悲劇は――残酷な悲劇は、権力が共産主義をつかま
えるのではなく、人民が眼を皿にしているという現実です。解放されるべき人々が解放者
をひっ摑まえようとしているこの現実からすべて出発しなくてはいけないのです」と日本
訪問の折、親しい者たちだけが集まる同胞の還暦祝いの席で、朴采浩は在日の朝総連の老
幹部に苦渋をこめて話す。
民衆に依拠する土着の社会主義が民衆の間に埋めがたい懸隔があり、まるで村八分のよ
うに憎悪と差別を浴びて孤立している。権力の弾圧の鋭い牙と民衆の牡蠣のように閉ざし
た固い殻。共産主義拒否の八方塞がりの厳しい状況下で戦いを展開しなければならない。
現に根を張っている体制批判勢力の宗教思想、民族民衆民生の民権思想、或いは急速に高
まってきた第三世界思想もその連帯の上で、程度の差こそあれ反共アレルギーを示す。権
力の圧力のまえでは戦術的カモフラージュの場合もあろうが、現下の韓国では容共、連共
は極端な困難を科せられている。土着の社会主義者たちは民主陣営の中でさえも孤立と犠
牲を強いられている。
清溪川のスラム街の極貧者の惨状の救援活動の中で、民衆への献身的な愛の思想で、趙
南植と同志的結合をしたキリスト者の金(キム)致(チ)烈(ヨル)は、法廷での最終陳述で宗教
家らしく感動をこめて謙虚にそして力強く訴える。
「わが国においては法の名の下にたとえ
同じ罪状を問われても、最も厳しい過酷な運命に晒されるのは民主主義者や宗教人ではな
く、彼らマルキストと呼ばれる人々なのです。・・・・・・この社会では、彼らの犠牲において
反体制運動家がつねに助けられているという事実です。もしこの国にマルキストがいなく
なれば、こんどは反朴派の民主主義運動者が弾圧の矢面に立たされるハメになるでしょう。
それゆえ私たちは銘記すべきなのです。私たちが安泰であるのはじつはマルキシズムが私
たちの防波堤になっているという事実ですが、しかし、じつは私たちが手を拱いて自分の
利益を守ることで彼らに苛酷な運命を強いているという二重の事実についてです」政権維
持と反共宣伝のためにマルキストをいけにえにする権力とは別に、共産主義を排斥しよう
とする統一勢力内部のエゴ、限界、保身が鋭く批判されている。
マルキストを魔女と見做す南の固定観念を、土着の社会主義者がどれほど民衆の中で突
き崩してゆくことができるか、それはひとえに民衆の支持を必然的に得られるかどうかに
かかっている。マルキストでない牧師金致烈の支持と理解と共感を得たように、統一勢力
の中で一粒の麦が韓国の土壌の中で根付き芽を出そうとしている。民族と民衆の革命史の
上で常に先進的かつ中心的役割を果し、現反体制運動の中でもその組織力と機動力を発揮
できる学生階級に徐々にながらも着実にこの土着の社会主義が浸透しつつあるという。
北主導でない南だけの革命を主唱する土着の社会主義者は始めから終りまでいかなる状
況下でも南の革命現場を離れないことを絶対条件にしている。革命現場を決して移動しな
いという朴采浩のこの姿勢は、六一年五月の軍事クーデターで南北学生会談がぶち壊され
たとき、越北しようと誘う友人の言葉に「よくても悪くてもこの地を自分たちの力で変え
てゆくべきじゃないのか」と反撥したときから一貫している。
金大中事件のとき、金大中の軟禁状態に抗議して内外から「国外に救出せよ」
「原状回復
せよ」との主張が大勢を占めた。そのときにも朴采浩は革命戦略と民衆信頼の二側面から
はっきりと言い切る。
「維新体制を倒すために民主勢力は誰しも犠牲を払っている。・・・・・・
人々は骨を捨てる覚悟で動いている。・・・・・・原状回復の主張は革命の立場から見れば日和
見主義以外の何物でもないでしょう。金大中氏の政治的自由の回復は韓国の民主化闘争の
一環であり、この闘いの勝利によって始めて彼の基本的人権も勝ちとられる」また「いま
求められている指導者ってのは、いざというときに海外に出てしまう人物じゃなくて、民
衆と生死を共にする指導者なんですね」
自らの逮捕の危険が迫ったとき、亡命の時間的チャンスがあったのにこの地に踏み止ま
る。最後まで民衆と共に死線を舐めてこそ、民衆の信頼をかちとり、民衆に影響を与える
ことができる。革命に生きる者は時代の殉教者の運命を不可避的に背負うべきだと考えて
いる。自らを統一を求めて死闘する分断時代の革命家と規定づけ、未来の統一民族国家の
創建と民主近代国家の樹立のための捨石になる決意を抱いている。
土着の社会主義の思想と行動はその出自から展開まで、南の土壌に這いつくばるように
根を張り、南の民衆の息吹きと鼓動を繊細に感じとり、南の受難の民衆に共生共死を重ね
るという極めて狷介な意識構造に束縛されることで独自性を保とうとしているのである。
〔三〕土着の社会主義と四月革命
李承晩独裁政権を倒した四月革命は、今なお熾烈に闘い抜かれている革命の原核的かつ
直接的な序曲であった。そしてその革命精神は今も現代的課題として、常に新しい完遂を
求める民族解放と平和統一運動の荊の道の中に脈々と波打っている。
日帝時代の解放前は、一九一九年の三一独立運動が超階級的な総力量を結集した民族解
放運動の原点であった。解放後はこの一九六〇年の四月革命が、三一運動に比肩し得るも
のとして、分断時代の民族解放運動の全民衆的革命財産の思想的根幹となっている。四月
革命を抜きにしてはいかなる民族解放の思想も語れない。
朝鮮の民衆史の上で初めて権力を凌駕し圧政を駆逐したこの四月革命は、民衆の主体的
力量の爆発が革命全体像を支配し得ることを民衆自身に教え、そして自信を与えた。まさ
に画期的な政権転覆の民衆勝利の革命であった。
南の独裁政権を打倒した四月革命が必然的帰結として朝鮮民衆の統一に向ったとき、そ
の勢力の先鋒に「民族統一学生連盟」があった。「民統連」は「行こう北へ、来たれ南へ、
合おう板門店で」を掲げ「南北学生会談」(61・5・20)を提唱した。
南北分断の凍河が学生たちの熱気でまさに氷解しようとしたその直前に、五・一六軍事
クーデターが起きた。盛り上がった統一機運と民主回復の希望が微塵にも粉砕され圧殺さ
れてしまう。そして四月革命の犠牲と成果が無惨にも踏みにじられて奪われてしまう。
以後李承晩となんら変らない新植民地主義の外勢依存の朴正熙軍事独裁国家が南を支配
し統治してゆく。
しかし挫折したといえ「この四月革命は、金芝河がその一人であるように現在も不屈の
抵抗闘争をさまざまな戦列で担っている若き知識人、青年労働者、学生たちの基底となっ
ている新しい可能性を持った世代-四・一九世代を産み出し、この世代によって四月革命
が“未完の革命”として最も核心的に意識され、この革命の完遂を求めて現在に受け継が
れている」
(韓国四月革命刊行委員会解説)
光輝ある四月革命の伝統は恐怖情報政治と兵営国家の独裁体制を打倒すべく、現実に死
を賭して闘っている人々の胸の中に赤く燃え続けてゆくのである。その闘いの最前線でそ
の一画を受け請っているのが土着の社会主義者たちである。
朴采浩と共に南北学生会談の推進に青春の血をたぎらした酔いどれ詩人の南(ナム)宮(グ
ン)弼(ピル)宇(ウ)、捕われた趙南植と朴采浩の困難な弁護を引き受ける殷錫湖、維新体制の
エリート官僚よりも民族子弟の教育に身を捧げる中学教師の池(チ)志(ジ)淵(ユン)、左右を
等距離に置いて巧妙に泳ぐ実業家の洪(ホン)永(ヨン)哲(チョル)、情報の最先端の新聞記者
の魯(ノ)昌(チャン)洙(ヌ)。彼らはいずれも采浩の同志の土着の社会主義者で、四月革命の
先頭に立った四・一九世代である。
理念の上でも人脈の上でも四月革命の勝利と挫折の経験が、土着の社会主義思想誕生の
直接的母胎になっている。
四月革命の先導的役割を担った「安(アン)岩(アム)洞(ドン)の虎」の高麗大の蜂起宣言文
の起草者だった当時二十歳の朴采浩は、思想的には社会主義的傾向から遠かった。ひとり
朴采浩のみならずほとんどの学生たちは、李承晩時代の反共風土の中で社会主義思想から
隔離されていた。
その高麗大の宣言文の中に「人間の自由と尊厳を死守せんがため滅共戦線の前衛的隊列
に立ったが、今日は真正な民主理念を争取するための抵抗の烽火を掲げなければならない」
とあるように、自分たちを「滅共」戦士と規定していた。その彼が一年の間に「民統連」
の宣言文に見るように社会主義理論に急接近していった。大半の学生たちが民族矛盾を止
揚するための思想として、社会主義に関心を向けてゆき、その影響を受けたのである。
ここで「民統連」の共同宣言(61・5・5)を見てみよう。僅か一年足らずで四月革命
の精神は豊かな理論的成熟を見せ、その大胆で広範な世界史観を提示し、そこには急激で
濃密な社会主義的傾向がのぞいている。それは血祭りにあげられ刈りとられたはずの社会
主義の人脈が根絶したわけでなく、その闘争と思想の搏動ががっちりと受け継がれている
ことを示している。
「社会主義陣営の飛躍的発展と、そして自主独立および民主主義の繁栄を争取するための
AA諸国、中南米諸後進地域における民族解放闘争の高揚によって動いている・・・・・・この
世界史の新しい局面は・・・・・・客観的情勢が人類に要請する必然的な科学的結論である」
ここにはマルクス主義史観による世界分析が明快に行われている。さらに朝鮮の統一の
ための要求が民族解放戦争の一環であると規定している。
続けて韓国の社会構造が「李朝と日帝統治の遺産」から脱却しておらず「植民地的半植
民地的半封建制の要素は八・一五解放後の政府樹立以来今日に至るまで是正されていない」
日帝時代の残滓が国家理念と権力装置の中にそのまま体質化して居坐っており、非民主的
非近代的国家の成因になっていることを鋭く指摘している。
「反民族事大主義者と買弁官僚らは家父長的専制政治を延長して」
「日本の独占資本と結託
して米国の庇護の下にふたたび産業を外勢の支配下に隷属させようと企図し」
「大衆を収奪
した」と外勢依存の売国的政府の正体をあばいている。
そして統一勢力と反統一勢力の区分を明確に下している。すなわち「買弁官僚勢力と大
衆間の矛盾」は「現実的には統一勢力対反統一勢力間の矛盾に分けられ」
「四月革命を契機
として民族大衆勢力は反民族勢力を圧倒する」と統一の具体的力量と中心的勢力が民衆の
側にあることを鮮明に宣言し、その自信と使命を鼓舞している。
「統一を達成するために彼
らの無限なる潜在勢力をいまや反統一勢力である外勢依存的売国勢力の打倒に向けて全力
を傾注する」と打倒対象を定めている。そして「前近代性と植民地性、隷属性と軍事基地
性をことごとく清算した自主、民生、平和、繁栄の祖国」が戦取する祖国像だとしている。
ここでは革命問題と統一問題を同時的課題としてとらえつつ、世界史的な連環発想に加
えて民族的視点と階級的視点がはっきりと貫かれている。
朴采浩が南北学生会談推進主導の中心人物であったからには、彼の土着の社会主義とこ
の共同宣言が地続きであることは明白だし、土着の社会主義思想の根本理念の一角がこの
宣言に深く依拠し形成されていることが理解される。朴采浩らはこの宣言をさらに発展さ
せて理論的完成を磨いてゆく。
こう見てゆくと土着の社会主義者は四月革命の精神をより一層深化させつつ、未完の四
月革命の完遂を目指すための戦いを自らの絶対使命としていることも当然である。南の民
衆特に学生階級に四月革命の伝統と基盤がある限り、四月革命の真正な継承者たらんとす
る土着の社会主義者は、この新思想が学生を中心とした第二の四・一九世代に支持される
必然性を具備していると確信している。現実に学生たちの間にそれは徐々に浸透しつつあ
るという。
四月革命の学生を軸にした革命勢力が自然発生的に闘争を展開し階級的に組織されなか
ったこと、ためにその指導原理と戦略を持ち得なかったこと、それを指導する中核の前衛
党がなかったこと、それ故に革命の完遂ができなかった。そうした歴史的教訓を生かして、
朴采浩はその革命遺産を発展継承し、土着の社会主義思想の中に再構築してゆくことに当
面の運動目標を置く。
南宮弼宇をして「ひそかに四月の再来を狙っている」
「やつは四月を軸にし年を重ねてい
る」と言わしめた朴采浩は、土着の社会主義者が第二の四月革命の到来のときに担う指導
的役割をはっきりと意識すべきだと考えている。
「四月革命が革命党に指導され、はっきりした闘争綱領をもっていれば労働者や農民たち
がたちあがったであろうし、闘争は組織的に展開されただろう・・・・・・いずれにしろ現在が
問われている。第二の四・一九が到来したときに、共産主義者がどのような役割を担い得
るのかは、現実に適合した路線と政策をいまからどのように提示してゆくかにかかってい
るのではないのか。土着の社会主義はその日のために誕生したはず」と言う。
そして国土統一の政府の要職を捨て、金鐘泌首相の政務秘書官の誘いも断り、母校の高
麗大の教壇に立つ理由を朴采浩はこう言っている。
「私の夢は六〇年にわれわれが果せなか
った南北学生会談を実現させることでしょうか。・・・・・・やはり南の学生の意識を階級的に
高める必要があるのです」
七四年の四月三日「全国民主青年学生総連盟」の悲壮な決意がみなぎる決起文をまえに
して、朴采浩は冷静に検討しつつもきびしい気分に打たれる。(民青学連事件とは金芝河、
張棋杓ら四・一九世代に指導された第二の四月革命の蜂起を狙ったもので、蜂起直前に権
力に鎮圧されて統一行動は散発的な決起に終ったが、朴体制に大きな脅威と恐怖を与えた)
「宣言文にかかげられている政治的綱領を遂行するに足る主体的力量が問われているのだ。
その力量が充分でないときには成熟した変革の諸要求を生かし、反独裁の潜在勢力を立ち
上らせることは困難である。・・・・・・そこで問われているのは主体勢力の結集だが、いま維
新独裁政権をたおそうとしている主要な勢力はキリスト者やその系統の学生に限られてい
る。社会主義思想を抱いている学生は公然とは合流することができないでいる」
民主回復運動陣営の中でも社会主義者は共同歩調をとることができない。革命勢力が小
異を捨てて大同につくという、全民衆的な主体力量の総和に結集しないことを深く憂える。
韓国のガンジーといわれ、南の代表的な民衆思想家の咸(ハン)錫(ソク)憲(ホン)翁は四月革
命の一周年を迎えたとき「四月革命は失敗であった」と規定し「革命が真に自分たちの革
命であるためにはシアル(種子)はあまりにも虚弱であった」と民衆の主体的力量の未熟
と同時に指導者層の欠如を反省した。これは全く朴采浩の認識と合致する。
民族解放闘争史において三・一以来学生階級は常に先導的役割を果してきたが、四月革
命の爆発によって学生の革命的力量は社会変革の最大勢力としての構図が定着してしまっ
た。朴時代は極言するなら、朴独裁と民衆代弁の学生との断えざる抗争といえる。朴体制
は学生を眼下の敵として脅威を感じてきたし、学生は朴体制の土台骨をゆさぶる震源地的
存在であった。
第二の四月革命の到来を目指すためにも、現下の反体制運動の民主陣営の反共傾向の閉
塞性をつき崩す突破口にさせるためにも、四月革命の光輝ある伝統と力量をもつ学生階級
に、その革命意識のより一層の高揚と成熟を求めて全力投入するのは、土着の社会主義者
の最大の責務であり、それは革命の戦略上からも正しいことなのである。
〔四〕土着の社会主義と全泰壱事件
洪永哲が朴采浩にたずねる。
「労働者と農民の問題だよ。われわれの組織にはほとんど労
働者がいない。農民はさておいてもこの問題はどうなんだ?」
「今の韓国の状況下で、労働階級が闘争の先頭に立つというのはどうかなあ。それは蓋然
性としていい得ても、必然的なものといっていいかどうか」と朴采浩はこたえる。
彼は近代社会における資本家階級の「墓掘り人」としての労働階級の成熟成長が、現在
の韓国社会では質的にも数量的にも不足していることを慨歎しても、労働者の革命的力量
を決して過少評価しているわけではない。学生主導の韓国革命という性格と特長を無視し
て、徒らに労働者独裁のプロレタリア革命を幻想すべきでないと訓めているだけなのであ
る。
民族民衆闘争史の中で革命勢力の主導的役割を過去に担ってき、かつ現に担っている学
生階級の戦闘的力量を高く評価しなければならないのは言うまでもない。同時に学生階級
に対する熱い思い入れと信頼感はそのまま労働階級へ横すべりしてゆく性質のものでなけ
ればならない。民衆に依拠し民衆の支持を必然的にかちとるはずの土着の社会主義者に、
労働階級軽視の認識はどこにもないはずである。こんなことはわかりきったことで朴采浩
のあげ足をとる気持ちなどさらさらない。ただ土着の社会主義者の民衆連帯の用意周到な
思想と行動の中に、もう一歩労働階級に足を踏み込む実践活動がなかったことに不満があ
る。
ここに『見果てぬ夢』の土着の社会主義者が労働者と絶対に共闘しなければならない現
実の事件があった。趙南植が清渓川のトタン小屋のスラム街で貧救教会の金致烈牧師と一
緒に救民の奉仕活動をしたように、土着の社会主義者が看過できないような衝撃の事件が
起きている。
現実の多くの事件を素材にしていくぶんドキュメンタリー風に、七〇年代の政治社会状
況を現代の歴史劇として模様織りしてきたこの『見果てぬ夢』が、どういうわけかこの事
件のことをすっぽり見落している。その事件とは全(チョン)泰(テ)壱(イル)青年の焼身事件
である。
現実の事件と人物と土着の社会主義の関係は読者にとっても南の権力にとってもこの上
なく好奇心をかきたてる。アクチュアルな数々の事件は韓国問題に関心を持つ者にとって
それぞれのモデルを特定できる。白日の政治的弾圧の下にさらされている革命戦士たちの
物語の『見果てぬ夢』では、はじめからモデルたちのより一層の受難が作者において予想
されていたと思う。権力にネタをばらすかもしれない危険と逡巡がある。一方では権力の
横暴と民族的矛盾に立ち向う革命家を描かねばならない。この文学的真実の追求とこの事
実暴露の緊張関係は二重三重に作者を襲ったにちがいない。
こうして産み出された革命文学的性格をもつ『見果てぬ夢』が事実を素材にして真実を
再構築してゆく作品である以上、作家的力量でその困難を克服してゆかねばならない。そ
れにしても全泰壱事件が作品の中で片言雙句もふれられていないのは納得できない。この
事件を契機にして学生と労働者の接触が小説世界以上に劇的に展開された。しかもこの全
泰壱事件は社会各層に大きな影響を及ぼしただけでなく、その後の労働条件改善を闘う労
働者の結束を固めた記念碑的位置を持つ重要な事件だからである。
全泰壱事件と、それを支援する学生たちの動きと、労働運動の高揚の概略を見てみる。
70・11・13-裁断工全泰壱(23)が清渓川の平和市場で劣悪な労働条件に抗議して焼身
自殺。11・14-「韓国労総」全泰壱事件で声明。11・16-ソウル大生労働条件改善を要求
して集会、全泰壱事件を契機にして労働実態の調査しろと決議。ソウル大生張棋杓ら数名
全泰壱の母李(イ)小(ソ)仙(ソン)を訪問、葬儀をソウル大葬にすることを提議。11・18-城
北区倉洞教会で全泰壱の告別式。ソウル大生百名抗議の無期限スト。11・20-ソウル大生
に続き高麗大、梨花女子大で「全氏の死をむだにするな」と示威。11・20-金大中大統領候
補、全泰壱事件を「現政権の反動的労働政策に対する抗議」と主張。11・23-一般市民労
働者から見舞金多数。11・27-全泰壱の遺志を継いで母李小仙が「全国連合労組清渓被服
支部」組合員五百名を結成。11・30-教会内に現実社会参与の論議高まる。一部教会の産
業宣教活動始まる。12・10-「韓国労総」世界人権宣言の日に際して全泰壱事件を繰り返す
なと訴える。
(
『炎と青春の叫び』参考)
「李小仙オモニが“息子の遺志がなしとげられるまで埋葬できない”と聖母病院の死体
安置室で炭のかたまりのような死体を守り続けて、あらゆる圧力と脅迫をはねつけていた。
死後三日目に新聞ニュースで知った張棋杓らソウル大生三人がかけつけた。オモニは学生
たちの手をとり“どうして学生がいまになって現われたのか”と大声をあげて泣きくずれ
た」
(
『炎よ、わたしをつつめ』から)
趙南植が金致烈と清渓川のスラム街で住民の辛酸を共にしていたのは、全泰壱の焼身事
件の起きた七〇年の夏のことである。このとき朴采浩はまだその志を知らなかった南宮弼
宇から「国土分裂院のうじ虫め」と面罵されながらも国土統一院に身を置いていた。采浩
も南植も韓国社会をゆるがしたこの全泰壱事件を知らないはずがなく、また土着の社会主
義思想からも彼らの重大な関心を呼んだ事件であったはずである。しかもふたりの眼前で
学生と労働者の連帯と共闘の盛りあがりが連日続いていた。
中でも張棋杓は李小仙オモニの義理の息子となり、事件から一貫して彼女のよき協力者、
助言者として働き、平和市場にもぐりこみ学生運動と労働運動の橋渡しに砕身していた。
彼は七一年学生運動で投獄、七四年民青学連事件に連座して逃亡、七五年に逮捕。民青
学連の三種類のビラの一つ、あの当初金芝河の作と言われた有名な民族譚詩『民衆の声』
の作者でもある。
その『民衆の声』には「勤労者の悲惨なくらしを
ことを
身をもって訴えた
労働闘士全泰壱が
焼身をもって絶叫し
団結して闘う
草葉の蔭で泣いている」とある。四月革
命の闘士で学生と労働者の連結に働き、
『民衆の声』の作者の張棋杓の軌跡は土着の社会主
義者のそれとぴったり重なるはずである。
李恢成は自著『青春と祖国』の中で「今韓国ではこの全泰壱の死を無駄にしてはならな
いということで、意識的な人々が労働者の組織をめざしている」と書いている。彼がこの
事件を知らなかったわけはなく、まして采浩や南植もその居る場所ではこの事件の激波か
ら自由でなかったはずである。当然労働運動の中に土着の社会主義者の種まきのパイオニ
ア活動がなければならない。
現実の諸事件が作品の重要な要素と構成を支えている以上、また土着の社会主義の実在
的展開のためにも全泰壱事件は絶対に欠かすことができないと思う。張棋杓と李小仙オモ
ニの密接な関係はこの『見果てぬ夢』のより一層の文学的リアリティを保証する好個の題
材であったと思う。
この『見果てぬ夢』の時間的背景と舞台的背景と主題的背景のいずれからも、この全泰
壱事件は省略してはいけなかったのである。
宗教人の社会参与を金致烈の貧救教会を通して生き生きと浮き彫りし、それが地に這う
土着の社会主義と接点したように、韓国の民主化と統一闘争の大きな担い手である民衆構
成員の労働者と土着の社会主義者とのかかわり合いに一典型として、それを描くべきであ
った。
農民兵士・父からの手紙
なか
やま
みね
お
中 山 峯 夫
一九三七(昭和十二)年蘆溝橋事件のおきた年の八月十四日、私の父は召集令状を受け
取った。当時二十四歳であった。すでに両親を失い、農夫として一家を支えていた父が、
その妻と、妹と、ふたりの子どもと、そして祖母を残して出征したのである。時の近衛内
閣が、中国侵略という強硬方針を、厳しい歴史のまえに承認し、軍隊を中国大陸に送り込
んだときだった。
父は、歩兵第六連隊に編入され、二か月足らずの軍事訓練をうけたのち、第三次補充員
として十月六日午前六時に名古屋の営門を発ったのである。九時十一分笹島駅から神戸へ
と向う。午後三時四十分着。その日は宿舎に泊まり、翌日午前十時乗船し、午後五時に神
戸港から出航している。
――最早、日附もわからない位。十月九日だろう。海の上で日の出をみた。四方は何も
見えない。波があらい。船がゆれる。昨日の雨は晴れて天氣がよい。朝鮮か支那かしらん
が遙かにみえる。明日の午前十時頃には○○につく。
父からの手紙が夥しく送り付けられている。母が保管していたものを、最近、実家の納
屋の奥から見つけだし読んでいると、当時の父が、農民兵士としての折々の心境を赤裸々
に語っているのである。
――只今、支那揚子江を上りつつある。水は泥水だ。左岸は敵地遠々に砲弾の音。あと
二時間で上海上陸です。雨は降っています。下船準備に忙しい。
揚子江の河口にある呉淞の鉄道棧橋に上陸したのち、父は、上海付近の戦闘に、はじめて
参加するのである。戦場にむかう前の手紙で「戰争はすんで大した事はないらしい」と書
いていることから、すぐにでも凱旋できると思っていたのかも知れない。
――明治節で菊と桐の御紋がついた御菓子を食べて酒を少し飲み、東を向ひて萬歳三唱
して祝った。敵の砲弾はやたら来るが余裕あったものだ。御紋の菓子は軍人だなけりや頂
けない。
日中戦争の戦線が拡大されて、私の父が戦闘に加わったのは十月十六日からであった。熾
烈をきわめた上海戦によって、日本軍人の「汚名」を賜ることができたのである。以来、
敗戦までの約八年間、四回の応召と帰還を繰り返し、
「皇軍」の衛生兵として活躍したのだ。
――夜通し砲弾はおちる。小銃弾はゴマをいる如くだ。いづれ戰争が一寸おちついてか
ら又委しい便りをするかな。今は○○鎮の總攻撃で不眠不休、食事は無し、水は無し、日
中は相当に暑いし兵隊はみんな非常に難儀をして国の為に働らいて居るのだ。
文中の○○鎮は、大場鎮であろう。トーチカ、クリークを利して中国軍の抗戦が強固であ
ったところ。すでに中国では「抗日民族統一戦線」が成立し、日本の無法な軍事的侵略に
激しい抵抗を展開していたのである。上海戦線は、中国にとって首都南京の防衛前線であ
り、その戦いは頑強であったのだ。上海周辺の戦闘は膠着状態のまま二か月余つづいてい
たのだった。
いまだに父は詳しく語らないが。上海での戦いは記憶なまなまし、と言って口を閉して
しまう。
――毎日の雨がようやく晴れて気持の良い日光が照らして居る。一週間も前から苦戰し
た○○川の敵前上陸も多数の忠勇なる勇士の犠牲によって遂に我が軍の占領するところと
なって直ちに追撃前進をなした。何度工兵が橋をかけてもみんな川にやられて落ちて死ん
でしまふ。新聞でみる様な呑気な船を浮べて橋を作る様な風でないのだ。涙と血でかけら
れた橋なのだ。十一月八日夜、支那軍は火を放って逃げた。午前四時から猛烈な追撃戰。
小銃を撃って逃げる。後から追っては撃つ。約二里程道のトロトロの中をすべっては轉び
走った。そうして支那の一寸良い町に入った。そこには又、便衣隊、敗残兵が沢山居って
危険千万、又一里程走って町に入った。支那の農民は沢山居る。人情ある日本軍人はそれ
を殺さない。土民は手を合わして喜んで居る。英吉利軍人が居る。伊太利軍人が居る。追
って追って追ひまくる。今に全滅するだろう。支那の美しい娘も居る。尾張名古屋、天皇
陛下萬歳と云って手で敬礼をする。可愛らしくなって殺す気にはなれない。昨夜は露営で
非常に寒かった。今日は農家の壊れた家に入ってうつらうつらとする。ピストル手に持っ
て、寝たでもなし朝となるだろう。暖かい飯を食べた。水の無いのには困る。死体の浮い
た川で死体を竹でおしてそこの水で飯をたく。腐った死体のにをひで大変うまい。豚が沢
山走って居る。鉄砲で撃って股の所からさいて煮てたべる。うまい。アヒルをウツ、ニワ
トリを撃つ、面白いものである。今に日支事変も終るだろうと思ふ。今日は始めて小銃の
音を聞かない。稍平和らしい。
この通信は十一月九日夜十一時、と記されているから上海南市へ侵入した日になる。父は
上陸後、揚行鎮を抜けて激戦地の張家楼下宅、大場鎮から真茹鎮を経て、竜華鎮そして上
海南市へと攻撃をすすめている。この手紙は、その日の戦場を走り書きしているが、状況
をよく伝えている。
日本軍の蛮行は、すでに歴史的事実である。父の手紙でも「上海はすぐそこで毎日毎日燃
えて居る。女も子供もみんな突き殺してしまう。今では慣れてしまって幾人か並べて切り
會ひをしてオレの方が上手だとか下手だとか云って、切っては切ってはほっておく。全く
生きた地獄だね」と書いている。私の父も、同じように残虐と悲劇を体験したことを、私
は疑わない。それが、いまだに父を沈黙させているのだとすれば、そのことこそ、戦争体
験を語り得ていることになりはしないか。
中国大陸を軍靴でふみにじった兵士たちの戦争体験が、いかに痛恨にあるかは、余りあ
る傍若無人をしでかした疼きを、いまも治ることなく持ちあわせていることにあるだろう。
父は戦場の写真をみて硝煙が鼻をつくというのだ。戦争のことは、楽しかったこと、戦
友のことのほか、もう忘れてしまったと、空うそぶきながら。
十二月二日、中支歩兵第六連隊は南京攻略のため上海南市を出発し、連日の強行軍であ
った。
上海南市から南京までを日に約二十五キロで急進撃しながら父は、途上の風景や、歩行
で足を痛めたことや、家族の安否を気づかう通信をこまめにしている。中隊の三分の一が
落伍したと書いていることから、かなり厳しい行軍だったろう。上海戦から休むことなく
約三百五十キロ歩くのだから、兵士たちにとっては辛いことだったに違いない。
一部に南京攻略の日を「昭和十二年十二月十二日十二時」に数字合せしようとの企みを
きく。上海防衛線を突破した日本軍は、勢いに乗じて十二月一日、首都攻撃を決定してい
るのである。すなわち、
「トラウトマン調停」工作を踏みにじり、和平の好機を逸してしま
う暴挙にでていくのだった。
記録によれば、十二月九日正午、松井石根最高司令官は南京防衛司令官康生智に対し、
「日
軍百万既に江南を席捲せり」にはじまる投降勧告文を南京上空から撒布している。そして
十二日まで猛攻して、十三日に日本軍を城壁内へ一斉に突入させている。
「南京大虐殺」の惨劇は、規模において類のない事実であり、また一九三一年にはじまっ
た十五年戦争において、もっとも象徴的事件でもあった。日本が中国大陸から撤退する道
を、自ら閉し、行きつく敗戦へと傾斜していく分水嶺にあったといえる。
翌日、
「南京陥落」のニュースで全国の市町村が提灯行列をしたとある。
――十二月二日出発以来、野原に寝て、山に伏し、砲弾で壊れたあばら屋で月光を眺め
つつ、うつらうつらと行軍前進の疲れを癒し、前進前進又前進、遂に目指す南京迄きまし
た。十二月十五日到着しました。さしもの南京も陥落して平和の風が吹いて居ります。残
敵を掃蕩して二・三日の内には入城式があるでせう。
戦場からの手紙は切手が貼られてなく「軍事郵便」と朱書されているだけ。紙と鉛筆さえ
あれば、いくらでも出せたと父は言う。兵士たちにとって便りを書くことが、荒んだ気持
を沈め、内地に思いを接続させることだったかもしれない。ローソクの明りの周りに腹這
って手紙を書く「戦友」たちを、父の拙い絵が語っている。
――暗いところで書いた。読みにくいだろう。今日は南京に遊んだ。道は死体で一杯だ。
丁度、道を小石をひいた位、頭は自動車にしかれてくだけて道は血まるけだ。南京の町は
名古屋の広小路位、兵隊で賑わって居る。自動車、自轉車、オートバイ、馬、オート三輪
で一杯だ。酒保が一日おきに来るのだが、小さなヨーカンが一本三十銭、目の出る位高い。
併し、あまいものが食べたいから今日も二本買って食べた。魚が沢山居るから今日も朝か
ら網を盛ってカヘドリに行くものもある。牛を殺して肉を取るもの、毎日、朝から晩迄食
ふことばかりだ。
父たちの歩兵部隊は、句容を通って南京の中山門に着いた。すでに「南京陥落」後であ
った。隊としては城内に入ることなく、紫金山の麓の中山陵の近くに陣どり、付近の警備
をしていたことになっている。当時の南京での記憶を父に訊ねたが、孫文の墓に行ったこ
とや、城壁のことなどで、
「大虐殺」については知らないも同然の話し振りであった。さら
に話をむけても、ときどき遠くで砲弾の音がしていたとのこと。
しかし、私には疑問が残る。極東国際軍事裁判の判決文を読むと、
「後日の見積りによれ
ば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺された一般人と捕虜の総
数は、二十万以上であった」と記されている。ほかに「南京事件」について書かれたもの
を見ても、父たちの部隊が到着したときは、殺戮の最中であったはずなのだ。十七日の入
城式を控え、兵士たちが車座になっていたとは考えられない。
後日、ふたたび父に訊ねてみた。南京市内の地図をひろげ、記憶を求めたが、話は前回
と同じであった。上海戦を語るときのような眉間の緊張がみられない。「大虐殺」の記録を
伝えても、あったかも知れん、と穏やかな口調である。
父の手紙を読んで、検閲を意識していたとは思われない。自分の妻あての通信文に構え
ることもなく、その時の出来事や感情を直截に書いているのが知れる。人殺しが嫌になっ
たと送りつけたりしているのだから。
――十二月二十日、昨日は初雪が降った。毎日寒い南京の地で藁をかぶってモルモット
の様に寝る。今年も残り少なくなった。色々忙しいだろう。二三日中、又、モット北の方
に行く。百二十里歩いて、又、三十里歩かねばならない。家の方は別に変った事はないか
ね。あと二ケ月も居たら帰れるかも知れない。
すでに入城式を終え、父たちの部隊が南京を離れたのは十二月二十三日であった。わず
か八日間とはいえ歴史的事件に父が係わっていたことは、ここで、はっきり書きとめてお
かねばならない。さらに言えば、父が何人殺害したかではなく、現実に中国で戦争をした
父のあり様を知ることが、私にとっての今日的問題であると考えているからである。
父は南京を出発して三日後に、金壇に着き、そこで住民の「熱烈な歓迎」をうけている。
兵士たちの休暇に、その町が利用されたのである。
――午後二時になると、手拭と石鹸を持って風呂に行く。とてもサービスが良い。入っ
て行くと、お茶を持って来る。着物は脱がして呉れる。出れば体をふいて呉れる。併し湯
は余り深くはない。道は焼けて居るから、自治會で掃除をして居る。自分達が行くと手を
合はして拝む。米でも野菜でも大きな声してヨイショヨイショと持って来る。今迄の戰争
に引較べて、面白い毎日である。
この手紙は戦争について考えるとき、ひとつの側面を示唆している。戦争が面白いとい
うことは、
「勝者」の日本兵が剥きだしの欲望を満たしたことにほかならないのである。そ
こには兵士たちの狂暴があったに違いない。頽廃した欲望をほしいままに、省みる力を喪
失したところの戦争の面白さ。
戦場だけが戦争ではないのである。そのことを父の通信は知らせている。
金壇で新年を迎えた父たちの部隊は、
「南京陥落」後の、つぎの指令を待っていたのだった。
歩兵第六連隊通信班の日誌には「センチで新春を迎える、無線電報は頻着し多忙を極めた」
とある。この頃、国内では政府と参謀本部が、戦争拡大か和平かで激しく対立している。
その方針が決まらずにいたことが、戦場の兵士たちにとっては「快楽」の日々を過ごすこ
とになったといっていい。
――新正月を支那で迎えた。感慨無量だ。色々内地からの慰問品を沢山もらった。支那
人は年始祝賀の為、鯉や竹を持ってきて祝って呉れる。奇麗な着物をきて、丁度内地の祭
礼の様な状況で賑かして居る。うどん屋、かし屋、とふ屋、それぞれの店が出来て平静通
りだ。餅も今朝は三切づゝ食べた。非常においしかった。
一九三八(昭和十三)年一月十一日、日本側は御前会議において「支那事変処理根本方
針」を決定し、十四日の閣議では、中国側の回答を誠意なしと決めつけるなど強硬になっ
ていた。そして十五日の大本営政府連絡会議の激論をへて、近衛内閣は翌十六日、ついに
「国民政府を対手とせず」の声明を発表しているのである。
この声明は、のちに近衛自身が語ったように、痛恨の呵責を負い、それは「南京大虐殺」
に比類する意味をもつことになる。
―― 一月十四日、今日は非常に暖かい小春日和だった。丘に登って前方を視れば、敵兵
がはっきり見える。昨日も今日も重砲の射撃があった。砲弾の交錯だ。併し元氣で御奉公
申して居る安心して下さい。家の皆は達者で居るか? 寒い折柄自愛専一に。
この時期の手紙は、走り書きもなく、読み易い字づらで書かれている。
「戰争も南京陥落
してから戰争らしい戰争もなく、毎日遊んで居る様なもので」気持に余裕があったのだろ
う。父は、あと二三カ月も過ぎれば帰還できると伝え、百姓の出来る想いを楽しそうに述
べている。政府が参謀本部を抑えて、一・一六声明を発表した重大さなど与り知らなかっ
たのだ。父にとっての関心事は、家族のことに集中していたに違いない。
――斯んな時期になると、お前の心にもすきが出来て来る。これがお前の危険区域だ。
氣をゆるめる時である。魔は斯んな時にさすのだ。ふっとした機會で取返のつかぬ禍を作
るのだ。お前においてはそんな事はないと思って居るが、心配になる。注意して呉れ。今
そんな禍を出かすと、一生の礎石は台なしに子供の教育も駄目になるのだ。この責任の重
大なるのをよく静かに考へて暮らす様に。事をなすのに萬事細心の注意をして。何事も思
ひ心配する事はないが、子供並お前達の健康と貞操である。長々書かなくても判断はわか
るだろう。
当時、父は二十五歳になっていた。若くして両親を失い、一家の働らき手としてあった
だけに、家族の動向を気づかうのも当然である。国民精神総動員運動という、厳しい戦時
体制下で、女と子供が暮らしているのだ。すでに物資の統制がはじまっていた頃である。
母から戦時の話を聞くと、結婚してから働らくことしか知らなかったと涙ぐむ。酷かっ
たことの断片を語るが、すぐ言葉が詰まり、
「口では言い表わせん苦労をした」と首を横に
小さく振り、老いた頬に大粒の涙を流す。黙りこくったあとに次いて出るのは、
「世間は冷
たいものやった」である。田五反歩、畑四反歩、豚五頭そして牛一頭を女手ひとつで遣り
繰りし十年近く生き抜いた辛苦が、一気に疼き、今も生身を痛ませるのだろうか。
陽の出るまえに起き、蒲団から、そのまま田圃に出掛けたという。夜は月明りで遅くま
で働らき、髪の毛が割れてしまっていたと悲しむ。とにかく金がなかったらしい。「米を売
った金は、つるっと持っていかれてしまった」と、憤りに涙声を震わせる。
父の父親が遺していった保証人としての、とてつもない返済金が三千五百円(現在の三
千五百万円相当)もあったのだ。
戦時下の窮乏生活に加え、多額の返済金に追われていた母は、それでも父の帰還するま
では「働らくほかなかった」と、回顧する。子供を連れて実家に帰ろうとしたことが、何
回となくあった。年寄りを残しては行けるものでないと。母は「夜になると、東の方を向
いて星に掌を合わせて、泣いた」という。
――春風吹くころとなって長閑な毎日だ。お前からの便り拝見した。今日山で一人讀ん
で泣いた。色々苦しい事話して呉れて嬉しい。本当に自分の不甲斐なさを歎くと共に、お
前にすまないと思って居る。併し、これもみんなオレのした事ではない。父それから二俣
の野郎だ。憎んでも余りある。本当にすまない。気の毒だと思い、よく辛抱して居て呉れ
ると思って居る。併し、それ以上苦労して居る女もあるのだから、それに較べてあきらめ
て呉れ。支那では食物がなく草ばかり食べて、子供持の母がみんな貞操を賣りに来るのだ。
ドン底生活推して知るべしだ。
森上も返金はするものゝ余りに情ないと思って、相手は大金持だ。先達も、森上の方
に宜ろしく頼んでおいたのだ。二俣の野郎が憎い。オレも随分苦労をした。十七才うら若
い青年の時から。不甲斐ない男だが辛抱して信じて呉れ。それに幾倍して又可愛がってや
るからな――。
私の祖父の名前が記載された「金圓貸借公正証書」が仏壇の奥から出てきた。完済したと
き、故人に報告したという。借入日は「昭和五年貳月拾九日」になっている。清算までに、
約二十年間かかり、戦後になって返済の重荷を降ろしている。
祖父が保証人になった四か月後に、その心労から他界してしまうと、早くも父は十七歳
で「家督相続人」として一家を支えなければならなかった。祖父の死後、親族会議がもた
れ、父の弟は丁稚に、妹ひとりは伯母に預けられている。この時、返済金の工面について
話し合われたかは、いまになっては定かでない。
父は、祖母と七歳の妹の三人暮しになって、何を思ったであろうか。
出征までの父の略歴
大正二年一月 太一、ちかの長男として出生
四年六月 弟・武夫が生れる
七年八月 妹・一子が生れる
十二年四月 妹・喜和子が生れる
昭和三年三月 母・ちか三十九歳で病死
九月 祖父・梅次郎六十歳で病死
五年六月 父・太一四十五歳で病死
七年十月 十九歳でヨシと結婚
八年一月 成人となり、家財、不動産の差押えを受ける
五月 畑を七百五拾円で売却し、返済に充てる
九年一月 現役兵として輜重兵第三大隊第二中隊へ入営
三月 長男・純夫が生れる
十年七月 退営して帰宅する
十一年八月 次男・英夫が生れる
十二年八月 動員され出征
妻と子と、妹、祖母、そして多額の返済金を残して、父は戦場に赴いた。呉淞桟橋に上
陸後、上海戦に参加し、のち南京に到着。その後、新年を金壇で迎え、戦火の沈まるを見
て帰還できる日を待っていたのだ。
しかし、近衛内閣は「国民政府を対手とせず」の声明を発表し、和平の道を閉ざしてし
まったのである。つまり「暴支膺懲」を一層に鼓吹して「国家総動員法」の成立にむかう
のだった。
――永らく降り續いた雪も漸く止んで警備にも一寸楽になった。長期抗戰で戰局は愈々
拡大するばかりです。凱旋なんて何時の事やらだ。今年の麦秋は先づ一人でせねばならぬ
と思って居ねばならん。体が何より大切だから余り無理をしない様に注意して働らいて呉
れ。
現在居るところは鎮江から七里ばかり離れた山の中だ。豚も野原に遊んで居るから鉄砲
で撃っては食べる。大理石の山でとても奇麗な山だ。内地で買ふならば一塊の石が何円と
するのが大きな見上げる山だから大したものだ。
その年の松が明けると、父たちの部隊は金壇を発ち、鎮江へ移動している。「軍隊手牒」
によれば「自十二月二十日ヨリ昭和十三年三月十一日迄鎮江附近警備」となっているが、
これは庶務担当の兵士が事務的に記入していたと思われる。父の手紙では、三月三十一日
付で「永かった鉄鉱山調査隊援護の任務も恙なく終へて今日中隊本部のある鎮江に帰って
き」たとあり、満鉄の調査員四人と「支那人」三十人そして父たち兵士六十人が資源調査
に出発したのが二月二十三日朝となっている。
この間の状況を父に訊ねたが、山の中で毎日が退屈だったと言うばかり。三月十六日に
「北支那開発・中支那振興両会社法案」が議会で成立している由など知るはずがなかった。
山中からの父の通信は、便箋の枚数が多い。
――現在の状況
一般平静なれども、未だ揚子江の向ふ島には多くの敗残兵が居るらし
い。併し銃声は聞えない。
農業状態
農民は一家揃って楽しく田の裏作の手入をして居る。男は山に草刈をなして
田の仕事は殆んど女ばかりでして居る。青年は殆んど子供の様な遊びをして居る。半月ば
かり前は仕事には出なかったが、今では安心して働らいて居る。山の中から帰って来ない
者は娘ばかりである。
現在の自分達の仕事
鉱山調査員の援護になり毎日山の中をあちらこちらと登ったり下り
たりして色々鉄の出るところを探して居るのである。一寸した農家に泊り起居して居るの
だが虱が多くて閉口して居る。支那では一軒の家に四夫婦位は居る。兄弟全部が嫁をもら
って一緒に居るのだ。
土地の状況
前には揚子江があり鎮江から離れる事五里、山の中腹に居る。朝がたにな
ると一寸寒いが非常に暖かくなり日中はシャツ一枚で良い加減である。前の揚子江は長さ
千里もある位で直ぐ前でも幅が一里位ある。向岸がかすんでしまって居る。日中山の頂上
に登って見ると、一目に見えて日本の運送船が二・三隻走って居る。山の向ふは先達討伐
をしたところである。桃や梅がある。
人民の心情
一般良民は日本軍に好意を持って居て色々歓迎して呉れる。それに比處の村
には日本に居たと云ふ支那人が澤山居て面白ろい。鶏の卵を持ってきて飲めと云ふ。併し
敵地だから氣は許せない。先達友軍が御茶を飲んだら毒が入って居て困った事があったか
ら。
支那軍人は
去年の十二月十日頃通ったそうだが、支那軍は雨傘と合羽を持って走り、
鉄砲は弾つき四円で道行く途中賣りつけて行く。良民から着物、食物を掠奪して逃げる。
困った者ばかりである。これでは支那も勝てない。支那服と着更へて農民になる。全体が
戰争は嫌になったらしい。大將からだんだん先に逃げる。あとから五人六人伴れだって帰
って悪い事ばかりして居くと云って日本語の話せる支那人が云って居た。
金銭上に就いて
金は日本の金が通用して支那の金は駄目だ。支那の金は四十種位あって
一年一年で凡そ駄目になる。それだから少しも働かない。其の日其の日の食ふだけだ。寒
い時は遊んで居る。税金でも其の時の政府が何年も前のを徴収するから実際一生懸命働け
ない。
服装は
一つ着物しかない。内地の乞食よりひどい物を着て居る。綿の出たのを着て縫
ふと云うことをしない。着物でも虱で一杯だ。毎日一緒に居る家の子供は自分の石鹸を渡
して母親に洗わせた。慣れてキャラメルや菓子が呉れると思って寄って来る困った者だ。
可愛ゆくもあり又嫌氣にもなる。
食物に就いて
殆んどお粥ばかりすすって居る。塩と菜を入れて三度共さ。日本軍の残飯
を競争で取る。土だらけのをむさぼり食す。遊んで居て食物が無く、そして日本の残飯を
食べる。時の政府が悪い。日本に生れた事を感謝せねばならない。
この手紙は、当時の父が現地で見聞したことを思いのまま書いている。それは兵士たち
が話題にしていたことでもあったのだろう。
父は鎮江に三か月程いて、軍港の警備、そして鉱山調査員の護衛をしている。この期間
は死闘を繰り返すこともなく過ぎたようである。しかし父、兵士たちは、この戦争が拡大
して長期化することを知らせ合っていたに違いない。死線を潜りぬけていたとはいえ、戦
局に対して関心を失ってはいないはずだ。
――戰地にも櫻の花が咲きました。今日は鎮江中學校で野球大會があった。ある中隊で
は○○方面で激戰をして居ると云ふのに明日の命を知らずに面白ろく遊んで居る。戰地に
来ると斯んなに迄、死ぬ事は何とも思って居ない。自分は山から帰ったばかりで討伐に行
かなんだが、帰ってきてみたら兵隊全部が留守だった。全部討伐に行って居る。仲々の大
激戰であるらしい。自分も何時行くかも判らない。
三月三十一日から四月十二日まで「後期廣徳附近凹角地帯の戰闘」が記録されているが、
この戦いに父は遅れて参加している。四月八日付の手紙で「毎日人殺しばかりして居るの
だ。内地では人一人の命をとれば大罪だが、当地では多く殺す程功績があると云ふから一
寸変んだろう」と書いている。
戦争に狩りだされた農民兵士たちは、辛い軍隊教育をうけたものの、好戦的になれず、
任務に精励しながらも逡巡する心の遣り繰りをしていたのであろう。家族のことを心配し、
帰還できる日を待ち望み、農作業について思案するなど、およそ「東洋平和のために」中
国兵を殺戮したとは考えられないのだ。父の手紙にも、ときに「我々の使命は尚遠く」「い
くたびか敵を撃ち一つの捨石として火も亦涼しの意氣」と威勢のよい慣用句があるが、私
には、農民兵士たちが抱いたであろう切ない郷愁と、遣りきれない苛立ちに、眼を凝らさ
ざるを得ないのである。
――豚の相談だが、子を産みましたと書いてあったからお前が又、子供を産んだか?と
思ってキャッとしたがあとで豚の子と知って安心した。豚の子供ならば先づ賣った方がよ
いだろう。賣って金に代えた方が得策だろう。畑の事は何でも好いから適当に作付してお
いて呉れ。現在戰地で砲弾小銃弾の飛び交ふところで何だか頭が無茶苦茶で深く考へる余
裕がない。今少し落ちついてからにしておくれ。まあ何でもよいから自分は未だ秋迄帰ら
ない予算で作付順序を設計して呉れ。子供の写真はみた。可愛ゆくなったね。一度見たい
がそれも不可能だ。昨夜夢が持ってきて呉れた、お前達を。懐かしく語り合った夢を。
父たちは「廣徳附近凹角地帯の戰闘」を終え、再び鎮江に戻ってきている。
――鎮江にも日本の女が沢山おり、カフェーも出来た。兵隊はだんだん淋病が多くなっ
たが、オレは健康だ。心配無用。
上海に「陸軍娯楽所」が設けられたのは一九三八(昭和十三)年一月頃となっている。
「南
京大虐殺」を繰り返さないための応急措置だったというから驚ろかされる。日本軍幹部の
倒錯と驕りのあらわれは、のちに「軍隊慰安婦」と呼ばれた彼女たちの酷い末路が、語っ
ている。兵士たちの性欲処理に供せられ死んでいった無念の声を、私たちは聴きとらねば
ならない。
それと彼女たちの八~九割が強制連行された若い朝鮮女性であったことを、記憶してお
きたい。
――久しぶりに映画をみた。ニュースをみた。戰友は皆泣いた、涙をこぼして。戰友に
伴われて支那の娘の家に遊びに行った。お茶を出すやら仲々のサービスだった。帰りにカ
フェーに立寄りサイダーを二本飲んで帰った。一本十五銭。日本の女郎も沢山居る。自分
達の居るところには、三十五六人居る。
父たちの部隊は四月十四日に鎮江を発って、徐州に向かうのであった。ここに至って日
本の対中国政策は、みずから戦争終結の目途を見失い、狂して暴走していくのである。三
月二十八日、南京に「偽維新政府」を成立させたものの、その目論見が外れ、四月七日、
大本営指令の「徐州作戦」に政府は同調せざるを得なくなったのだ。
――毎日の雨降りで困った。殆んど露営で日中は大して苦にはならないが夜は寒い。昨
日も行軍中、不意に敵が襲撃してきて戰友は中隊で四名を亡くして淋しかった。自分は幸
に無事であった。途中の道路には無数に地雷火が埋めてあり危険で安心しておけない。毎
日の様に戰争をしては目指す目的地に前進して行く。鎮江に居た頃とは状況が変って居る。
支那人は殆んど居ない。見たらば全部殺してしまふ。この手紙は午前三時、月の光で書い
て居る。朝方寒くて寝れもしない。
四月十八日午後五時から翌日午前二時まで、池河駅手前の岱山山嶺付近で、父たちは白兵
戦をしている。その後、第六中隊は津浦線を北上し、蚌埠へと行軍した。
――黄熱した麦の中を走りおる。氣温九十度近くとても暑い。雨が降ると水田同様にな
り足首まで沈む。伏せては走るから体中泥だらけ。南京虫、虱、蚊、蠅の襲撃に閉口。子
供大切に火の用心。お前も身体に注意せよ。
行軍中に一発の銃声を聞いて狂ってしまう兵士がいたと、父はいう。周囲の見境なく、
やたら発砲したので見方が危なく、後方の木に括りつけなければならなかったと。行軍中
に、哀調こめて軍歌など口ずさんではいられなかったようである。
――鎮江出発以来、幾多の辛苦を嘗めて遂に目指す徐州も昨日午前拾時陥落しました。
今日、友軍の飛行機が別紙の様なビラを撒きました。
蔣介石の率いる国民党軍は、要衝を守りきれなかったあと、六月十一日に黄河の大堤防
を決壊し、日本軍をたじろかせたものの、それが広く一帯の住民をも流浪させる結果にな
ってしまった。
中支那派遣軍の先頭部隊が徐州へ「入場」したとき、父たちの「宮川隊」は、後方約百
五十キロの蚌埠付近にあったようだ。五月二十三日まで蚌埠にいて、翌日から三十日まで
臨淮関付近を警備したことになっている。
――余り家から便りが来ないから誰か病氣にでもなったんぢゃないかと心配して居る。
自分は毎日の様に便りを書くが、誰一人として便りは呉れない。銃後の後援が冷めたのか?
それとも嫌になったのか知らん。時々の便りを呉れるのは赤の他人の小さな無邪氣な子供
に多い。自分は毎日の様に内地の各方面に忙しい乍ら走り書きで書いて居る。只内地の懐
かしさと珍しい事を聞きたいから、それが一つも知る事は出来ない。何だか淋しくなる。
以後は当分便りはしない事にする。左様御承知相成度。
五月二十三日付の手紙である。父のいじらしさが伝わってくる。このころ「手紙は四月
十日以后一度も戴かない」
「楽しいものは内地の便りだ噫々淋しい、内地通信をのぞむ」と
書きつけては、返信の来るのを待ち佗びていたのであろう。
父は郷愁にまみれながら、ただっぴろい大陸に何を見て、思い、考えたであろうか。そ
こを父に訊ねると、そっけなく「戦争のないときは、起きて、食べて、寝るだけ」との返
事だった。
――先達は手紙ありがとう。色々苦労が察せられるが何卒体に気を付けて業務に従事し
てほしい。後備兵だけは近日に凱旋するかも知れない。何れ落ちつけば又便りをする。只
今○遠に居るが、明日から寿○に向って前進する。昨日は大雷雨を冒して前進した。体中
ズブ濡れになって膝迄水に浸っての戰闘だった。取急いで書く。
臨淮関から南へ約五十キロのところに定遠があり、その西方百キロあたりが寿県である。
五月三十一日に「安慶作戦」が開始され、蚌埠周辺を警備していた部隊が指令をうけ寿県
へと向かったのであろう。記録に「携帯食糧二日分」とあるから、兵士たちの徴発は当然
といわなければならない。
寿県城を攻略したのは、五日午後六時となっている。郷土の名古屋新聞に従軍記者が、
その「輝かしい戦果」を長文で報道した。「宮川隊を第一線に前面高地から射ち出す機銃を
物ともせず、不眠不休の上に三日二晩糧食をとらぬ将兵は更に怯まずヂリヂリと進み、煙
幕を張って突撃し、間近の部落を占領やがて後方部落でつくった握り飯が運ばれたが、食
う暇もない程の激戦であった」ということらしい。
――今は蚌埠に帰ってきた。毎日梅雨で鬱陶しく閉口した。此の便りつくころは田植も
済んだところだろう。今のところ一番忙がしいところだ。体が案じられる。共同の人にも
御礼状を出しておいた。
寿県攻略から、再び蚌埠に戻ってきた父たちの部隊は、八月下旬まで、その周辺の警備
を任務としていた。約二か月半ほどの「駐留」である。この期間は、いうまでもなく兵力
の立て直しにあり、漢口作戦の発令を待つことにもなったのだ。
――昨日後備帰還兵の送別会をした。全部一同が感慨無量のシーンであった。自分達は
十月頃になるかも知れん。写真一枚送って呉れ。お前の写真を紛失してしまった。お前の
若い時分のがあったら送って呉れ。みたくなったから。
手紙の日付は七月六日であり、帰還した兵士たちが郷土に迎えられたのは、七月二十八
日であった。そのときの様子を、名古屋新聞は「おゝ征戦一歳、功赫々
我が勇士晴の帰
還 万雷の歓呼浴び原隊へ」の見出しで報道している。
――七月七日、日支事変勃発一周年記念で蚌埠山に登って東方を向いて君が代吹奏した。
敵前上陸以来の勇士を慰めた。相変らず元氣で奉公して居る。
毎日のように送られてくる父の手紙を受けた母は、当時を思いだして、
「あんまり来るも
んだから郵便屋さんに冷やかされたわ」と、深い皺を弛めて照れ笑いする。
しかし、母にとって手紙では癒されない、厳しい窮乏生活を凌がねばならなかった。戦
時下の供出は免れられないし、金があれば追われる返済に充てなければならない。粗食に
耐え、百姓の重労働をひたむきに遣り遂げていたのだろう。民生委員が「村一番の貧しい
家」と、月に九円九十銭の補助を受けられるようにしたのも、この頃である。
――カフェーが三軒ほどと、支那人経営の食堂も三、四軒ある。日本のカフェーには女
給が十五人も居て大サービスをして居る。ビール四十銭、サイダー二十五銭、オムレツ四
十銭、テキ四十銭、スシ四十銭、ウドン二十銭、酒一本三十銭、午前九時から午後十一時
迄。外出のときはそんなところに遊びに行くのだ。理髪店は支那人ばかりで一回拾五銭也。
遊廓も十軒近くもある。朝鮮人の女郎、支那人、日本人の女郎も沢山居る。一回一円五十
銭也。今迄の戰闘も忘れて戰友は遊びにいくが、一度出動となれば、又鬼神の如くなるの
だ。遊びに行くものは證明書とサックを持って行くのだ。「外出するものはサックを取りに
来い」と自分が大声でドナルと戰友はゾロゾロと並んで取りに来る。中に二個もくれと心
臓の強い兵隊も居る。
兵士たちの退屈で荒んだ日々を、この手紙が私に想像させてくれる。そして、一方では
「ぜいたくは敵だ」として遮二無二働らく母を浮べる。どんな気持で母は父の手紙を読ん
でいたであろうか。
蚌埠の街は、緯度からみれば九州の熊本あたりに位置しているが、大陸特有の気象の変化
で、昼と夜の温度差が日本より激しいようである。真夏の暑さは相当なものらしい。父の
アルバムを捲ると、その頃の写真は、裸になって写っている。
――氣温百二十度位、天氣晴朗なれども風は無し、土用に入ってから俄かに暑くなった。
内地では想像もつかない暑さだ。日中道を靴を穿いて歩いても足の裏が熱くて歩き難い位
だ。兵隊にはヘチマの麦穀帽子の様なものが渡って一寸涼しい。軍馬も帽子が渡った。一
寸異風景だ。帽子が無ければ暑いから倒れて死んでしまふ。
父の手紙から推測すれば、約二か月半ほど蚌埠に待機していたことになるが、
「軍隊手牒」
では、その頃「自六月一日ヨリ同月二十五日迄淮南炭抗及壽県附近ノ戰斗ニ参加
六月二
十六日ヨリ九月十九日迄津浦線及淮南炭抗附近ノ警備」となっており、父が蚌埠に長くい
たかどうか、私は疑しくなってきた。
蚌埠の北側を流れる淮河を五、六十キロも遡ったところに、淮南がある。寿県に近い。
私は地図をみながら、寿県の戦いに疲れた兵士たちを淮南から更に後方の蚌埠まで行軍さ
せたりしたであろうか、と思った。連隊本部が蚌埠にあったにせよ、兵士たちは淮南、寿
県付近を警備すればいいのではないかと。
寿県からの足取りについて、記憶を確めたが判然としない。「蚌埠に長いことおった」と
いい、淮南炭抗のことは「知らんなぁ、石炭も見たことがない」だった。私は歩兵第六連
隊の「写真集」から、一枚の写真を捜しだし、重ねて訊いた。その写真には、「淮南市街警
備の第六中隊兵士」の説明書きがあり、
「淮南飯店」の看板がある食堂の前に、十六名の兵
士たちが軍服姿で写っている。父は老眼鏡をかけ「ここでよく飯をたべた」と言葉を切っ
て、兵士ひとり一人を指の腹で撫でながら、
「これも戦死したなぁ」と呟くのだった。
しかし、淮南についての思い出はない、と父はいう。写真の「淮南飯店」も蚌埠に思え
てならないらしい。そこで私は、毎日の寝起きの場所を父に訊ねてみた。蚌埠に飛行場が
あって、その近くの兵舎にいたそうだ。中国軍が使用していた建物だったと、父はいった。
四十五年も前のことである。父の記憶に鮮明な部分と、薄らいだ部分があるようだ。蚌
埠については、黄河の決壊で辺り一面が洪水になったことを話すのだった。
――支那軍の暴挙、黄河決潰に依り五十里余りある蚌埠の町も大洪水になり一面の泥海
となり道路は人間の糞や犬や猫の死体浮いて流れております。附近の部落は泥海で農民の
溺死するもの數知れず。農家は凡そ水の中に沈んでしまった。可愛そうなものだ。
記録によれば六月十一日、蔣介石の率いる国民党軍が徐州から撤退する途中の鄭州あた
りで、黄河の大堤防を決壊している。河南、安徽、江蘇の三省のうち、約五万四千キロ平
方メートルが水没したという。その面積は北海道の六十五パーセントに当る。死者八十九
万人と記されているから、いかに大災害であったかが知れる。
蚌埠では、七月三日頃より淮河が増水し、二、三日後に氾濫したとある。黄河の濁流は
日本軍の前進をはばんだものの、中国の民衆をも巻き添えにしていたのだった。父の手紙
に「水が悪くて下痢患者ばかり」とあり、洪水はなかなか引かなかったようである。大陸
の暑い日々が続いたのであろう。
その頃について父に訊ねると、兵士たちは警備の余暇に釣糸を垂れ、鯰や鰻をよく釣っ
ていたという。見渡す限りの洪水に、のんびり釣りをしている兵士たちの風景が、私のな
かに浮ぶ。
――先般の手紙は非常に怒っての便りだったが、二、三日前の便りで安心した。一体何
が原因だったか知らないが、字をうまく書けと云ふことで怒ったかも知れないが、可愛い
いから言ったのだから、そんなにむきになって怒らんでもよいと思ったのに。もう一つの
原因は、余り女の写真を送ったでとも思ってみたが、あれは慰問袋の縁ばかりで何の関係
もないのだから心配して呉れるな。たとへあったにしても、そんなに早く怒っては女とし
て損だ。おちついた心で迎へてくれる位に大きな氣であってほしい。何も書く事はないか
ら斯んな事を書いた。純夫も英夫も元氣だろうと思って居る。今夜は暴風だ。大雨だ。柳
の木が折れそうだ。あたりは一面に泥水だ。黄河の水らしい。
八月十日付の通信である。まだ「漢口作戦」の発令前であり、兵士たちも気紛れに日々
を重ねていたであろう。この頃の父は、写真や絵葉書を頻繁におくりつけていたようであ
る。日本から写真屋がきて商売していたそうだ。兵士たちが、その雄姿を内地に届けてい
たに違いない。
写真を包んだ折目のある便箋に、父は「高粱畑の真中で懐かしい故郷を連想しつゝ。後
方にみえるのが支那の兵舎」と説明書きをして、母へ「支那と云ふことがわかるだろう。
人に渡さない様、アルバムにはっておいてくれ」と、短く用件を伝えている。
私は父のアルバムをみた。四冊あるが、そこには剥がされた跡が沢山あり、半分ほどの
写真が消失していた。高粱畑で撮られたものもない。捲り終えて私は、それを母がやった
のではないかと直感した。
しかし父も母も、破って燃したことを知っていた。父は残念がった。敗戦後、村に進駐
軍がやってくる噂がひろまり、身に危険を覚えた父が、中国にいたことの証になるもおの
を急いで破棄したのだった。
――相変らずお達者ですか。お伺ひ申します。二百十日も近づき本年の稲作の大半は決
定したも同然だが、作柄は如何。小生、元氣で居る、御安心下さい。
封筒の裏に部隊名が添え書きされている。藤田部隊川並部隊松本部隊宮川隊が父の居所
になるのであろう。その宮川隊の父たちが蚌埠を発つのは九月二十日になっており、
「漢口
作戦」発令後、約一か月も過ぎてからであった。
「歩兵第六聯隊史」では、
「九月下旬第二大隊は第二次淮河遡江部隊」として「十月上旬光
州北側の地点に上陸、覆面部隊として光州攻略戦に参加」したことになっている。
黄河決壊によって進軍を阻まれた日本の兵士たち。奇しくも国内では、宇垣外相と陸軍
の対立から、対中国政策の方針がなかなか定まらずにいたのだった。また、張鼓峰で日・
ソ軍の衝突事件が起きたりして、陸軍の勢いは、一拍おかざるを得なかったのである。そ
れが兵士たちにとっては、気ままな休息期間であったのではないか。
しかし、ソ連と停戦処理をしたあとは、一気に日中戦争に片をつけようと大本営は、約
三十万人の兵力を動員して武漢三鎮の攻略にむかうのであった。
――二百十日となり当地も一寸暴風雨氣分であります。屋根がトタン張りだから余計に
降って居る様に見えるかも知れない。急に涼しくなって秋の虫がすだく様になり、憶! 秋
だな――と云う氣分を満喫した。朝起きたらば未だ暴風明けの様に低い荒雲が北に走って
居る。二、三日前から風を罹い氣分が優れぬが、起きて直ぐ北の方の鉄道線路迄出て見る。
直ぐ向ふが淮河で濁水渦を巻いて流れて居る。支那人の家屋は全部浸水して一、二軒が漸
く水に浮いて居る。そこに支那人が十五、六人も寄り集って豚を殺して居る。三、四人し
ておさえて一人が無理矢理に咽頭のところを切る。二匹はすでに皮をはがれて吊してある。
風邪をひいて居るから、どうも氣分が悪い。
十一月頃には帰れるかも知れない。併し帰ってみたところで、これと云ふ楽しみもない。
再び苦しい世の中だ。苦労ばかりのオレの境遇だ。戰死した隣村の遺族に對しても何だか
すまぬ様な氣がしてならない。兎に角、命があったら帰って行くから宜しく頼む。
漢口を攻略すれば戦争が終結にむかうであろうと、最大規模の作戦にでた大本営の期待
は、そのまま兵士たちに伝えられていたであろうか。この作戦が成功したら還れるぞ、と。
父の手紙が厭世的に読める。この通信は「第一次淮河遡江部隊」が蚌埠を発った翌日の
もので、
「第二次」として残留した父の、宙ぶらりんの心の遣り繰りを考えさせる。百余隻
の舟艇に乗り込んで、濁流の淮河を上流へと侵攻していった「第一次」を、父たちは見送
ったに違いない。そして激しい戦いになることを知っていたはずだ。
これからの戦闘を覚悟しながら出発を一日のばしに待つ兵士たちの念は、どうであった
ろう。
――毎日の様に便りをして余り出し過ぎるかも知れないが、種々変った事があったらば
報らして下さい。徳市さんの家は胃腸胃腸のいつもの手だが御氣の毒だな――。徳市さん
にも余り無理をしない様に申してやりなさい。御天王は何も変った事はないか?
前の為
さに女優の写真を送ってあげたら非常に喜んで呉れたから、今日も三枚程送ってやった。
西玉野の喜市(庭師)さんは何んと云って居たかしらんが!! 犬山の服部と云う戰友が須(ス)
脇(ワキ)のオチョボ様に詣りの帰り立寄るかも知れんと云って居たから若し寄ったらば、お
茶位は出して待遇してやって呉れ。毎日一緒に寝起した仲の好かった戰友だから。帰って
から僕のところへ昨日も小包を送って呉れたし。
今頃二百廿日位だろう。今日は朝から非常な雨降りで暴風の様だ。蔭氣(インキ)臭くて
仕様がない。鹿児島の一男さんが帰省したそうなが嫁さんと一緒だったか?
百姓を手傳
ふなんてハリキッテ手紙がきて居たが。おせきさの由一君も入營したそうなが忙しかった
だろう、あれも多分補充兵と思ったが。重吉様が逝(イ)かれたそうなね。西玉野のかじ屋の
も。三河のおやじは達者か?
お母さんは大丈夫かしらん。手紙でよいから時々お伺ひす
べしだ。暇があったら行ってお慰めしてやれよ。
井戸側の無花果も熟したろうね。純夫や英夫が毎日そこを離れないだろう。腹をこわ
さない様に注意して居てね。すくすくと大きくなっただろうな――。英夫もオレが出征の
頃は、未だはってばかりだったがな-。
前の為さは、もうじき嫁さんを貰ふか?
ほしい様な事を云って呉るが。塚原の功は
どうだ、新家を作ってどうして居る。話相手のオレもおらぬから多分淋しがって居るだろ
うと思って居る。裏の高さは此の頃どうした、今迄に何度となしに手紙は出したが一度も
便りは呉れない。瀬古中は今年になって三回位は出した心組だ。一番のよく返事をくだれ
る人は、善さに、仙さんの家の東一さ、それから時々為さが呉れる。あとは便りはこない
方が多い。瀬古の人にもよく謙遜して決して無駄口を言って遊んで歩くでないよ。オレは、
おさ賣が一番嫌だ。併し徳市さんの家には時々言ってやれ。余り行き過ぎても心配になる
しな。まあ適当がよかろう。
望郷の思いを浮ぶままに語りかけている。戦場にあって荒んだ気持を落ち着かせ、沈ん
だ意気を呼び戻す妙薬が内地との繫がりにあったようだ。それは軍紀の及ばない、心の襞
として揺れうごく。父の手紙は、隣近所や、親戚、知人などにも飽くことなく出されてい
たようである。
徳市さんの家は二百メートルほど離れたところにあって、母にとっての駆け込み場所で
もあったらしい。徳市さんは仲人であり、母が遠くから嫁いできただけに何かと勇気づけ
ていたに違いない。母の実家は、三河の安城である。尾張に来て一番困ったことを母に訊
くと、さっぱり言葉が解らなかったことと、農具が変っており、扱いかねたことだという。
――九月の月も過ぎただろうと思っております。今日が何日だとすら知りません。只明
けては暮れて夜になる事だけは識っております。夜明方は一寸寒さを感じます。皆様お達
者でせうね。此の手紙をみて私が無事で居る事だけは御承知下さい。走り書ですみません。
父の「軍隊手牒」によれば「九月二十日ヨリ十月二十二日迄信陽ニ向フ前進及信陽攻略
戰斗ニ参加」となっており、この手紙は淮河遡江のさなかにあって走り書きしたのであろ
う。
淮河は大別山脈の北側を流れる。当時黄河決壊の影響で氾濫し、流速四十メートルだった
と記録にある。父たちの部隊は淮河を遡って西進し、京漢線の要衝の一つである信陽を目
指すのであった。漁船ほどの小舟に乗って。
淮河を遡り上油崗に上陸したのち、父たちの部隊は大別山脈の麓を光州、羅山、信陽へと
行軍したと思われる。
「先遣隊」のあとだけに大きな戦闘はなかったようだった。
――今日は十月十七日で内地では各地に祭礼の眞最中だろう。田の面も黄色を帯びてす
っかり秋景色となっただろうね。井戸端の無花果も熟れて朝の冷たさに喉咽の当りがヒャ
ーとして気持よいだろう位を空想して居る。純夫も英夫も達者だろうね。だんだん成長し
て悪戯をする様になり骨の折れる事と思うが何分、頼ろしく、自分達は今、蚌埠から約百
里南下して現在○○におり漢口攻撃の戰機の熟するのを待って居るのだ。広東の敵前上陸
にも大成功してグングンと北上して漢口に向けて前進して居る。自分たちは糧秣輸送の困
難から一寸困って居るが豚やさつまいもでその苦難を補って居る。元気でハリキッテ居る
から安心して呉れ。
日本軍が香港の東、バイアス湾に奇襲上陸したのは十月十二日で、信陽が「陥落」した
日でもあった。
――十月十八日丁度一年前は川並部隊が一番激戰した張家楼下宅の第一日だ。吉藤の野
村利勝君が自分のそばで壮烈な戰死をした一周年が近づいてきた。十月二十二日遠い戰地
から故国に向って黙禱はするが、お前から、東の敏さにその家を聞いて自分に代って着物
の一枚も着替へて線香持ってお詣りし、その霊を慰めて呉れ。同村の親友と生死を共にし
て出征したものの、早く護国の花と散って逝った。生き残った自分達が斯の様な事をする
のは当然であるのだ。然し遠い事故思ふ様にすらならない。同様西玉野の小川正盛君の英
霊に對しても。遺族に對して何度か便りを書いたものの、どうしても書く事が出来ない。
前進中忙しいから一寸思った事だけ走り書きで書いたのだ。自分の心中を想って呉れて暇
を割いてお詣してやって呉れ。
父たちの部隊は信陽に留まることなく、大別山脈を横断して京漢線の花園に到着。そし
て孝感を経て、漢口へと行軍するのであった。
――十月三日発信の便り本日二十四日拝見した。豚も惜しかったね、やっぱり肥過ぎた
かも知れない、賣却した方が得だったかも知れないよ。子供を買って飼うもよい方法だろ
う。沗も仲々多収穫だったね。お前達の苦労が思われる。そろそろ麦まきの時になったが
東ての畑は徳一さんが嫌と言わるなら仕方がないが、成る可く頼んで蒔いて戴いた方がよ
いかしらんと思ふがね。来年の四五月頃になれば日支事変も目鼻がつくだろう。他の畑は
適当に蒔きつけてよいだろう。稲扱機を買ったのはよい、大分悪くなったからね。併し畳
の表替へは大の不賛成だ。やっぱりお祖母さんの處榮から出た仕業と思ふが、目下のとこ
ろ現状維持だ。そんな一文のためにもならぬ事をして隣の人々、村の方々の同情を薄くす
る様なものだ。直接関係のある事外絶對、新規事業は止めだ。病気になれば医者にも行か
ねばなるまい。捨ておくわけにはいかない。自分が貯へたそして送った金四十五圓斯んな
ために使って呉れるとは夢にも思わなかった。今、大別山脉の密林の中で泣けた。若し帰
ったらば百姓をせようと思へば金だ、うんとためておいて呉れ。眞先に牛が一頭ほしいし
な。雨さえ漏らねば家屋はなぶるでない。黙々と金をためるべし、成り可くお祖母さんに
話さない様にせよ。二人の子供も達者だと聞いて安心した。英夫も大きくなっただろうな。
腕白に成長させよ。男のおらない子供はとかく温順しくなるから將来社會の落伍者となり
易い。
自分は大別山脉を横切り漢口迄約三十里のところまで進出してきた。至って元気だから
安心して呉れ。漢口が陥落したらば又ゆっくり便りを書く。
父が「戦友」の家へ遊びに行って先日もらったという写真を、私は見た。十三名の汚れ
た髭づらの兵士たちが写っている。父の話では、孝感の駅前広場に落ちた爆弾の大きな穴
のなかで、新愛知(現在の中日新聞)の記者が撮ってくれたものだという。蜜蜂が沢山い
て、蜂蜜を腹いっぱい食べたともいう。
当時、その写真は「○○支局」發で「宮川隊勇士の陣中近影」として新聞に載ったので
ある。父が新聞の切抜きを手紙に封入し「漢口をへだゝる北へ約四十里の花園と云ふとこ
ろの町で撮ってもらったのだ。大きな爆弾の穴の中で写したのだ」と説明書きをしている。
父の記憶は孝感だというが、話のなかで「大別山脉を越えて敵の前にでたので、敵は逃げ、
大砲や糧秣が沢山駅にあった」といっていることから、写真の場所は花園ではないか。中
隊は山中の宣化店、夏店を通って京漢線の花園に出たという記録がある。
――支那も柿がたくさん熟した。一寸渋いので大して美味い事はない。こちらにきたら
桑の木の太いのがある。お宮さんの大松位のはいくらもある。そばに粟が沢山ある。非常
に寒くなってきた。さつまいもが沢山あるから毎日そればかり喰べて居る。
十月二十五日、中国軍が武漢三鎮の守備を放棄したことで日本軍は続々と入城し、二十
七日には占領を果したのである。日本中が旗行列や提灯行列を行なって熱狂したという。
大本営は「南京陥落」につぐ「漢口陥落」をもって中国側を屈服させ、戦争終結を目論ん
でいたようだが、すでに奥地の重慶へ遷都した国民政府の抗戦方針に遭い、失敗するので
あった。
日中戦争の展開について毛沢東は、その年の五月、国民党軍が徐州から撤退したとき、
延安において「持久戦論」の講演を行ない、抗日戦争の見通しを的確に指摘していた。早
期終結をと焦りをみせる日本軍に対し、毛沢東は戦争を三つの段階に括り、その頃を第二
段階として、最後は中国が勝利することを説いていたのだ。
――相変らず元氣で居る。酷暑に代りシトシト降る雨には閉口。糧秣輸送の不便からあ
らゆる植物が喰べられると云ふ悟りを開いた。
日本側の行き詰まりは十一月三日の「東亜新秩序声明」によって、その状態を露呈する
ことになった。武漢三鎮を占領しながら戦争終結に至らしめれない政府。戦場には憔悴し
た兵士たち。日本が守勢になったのだ。
毛沢東は第二段階を日本側の戦略的守勢、中国側の反攻準備と規定した。日中戦争を歴
史的にみて、その軌跡が毛沢東の見通しを追認していることは衆目のところである。
戦争終結に失敗した日本政府は、十二月十三日に国家総動員法の発動を決定している。
続く戦時体制に備えるためであった。物資や食糧の統制を一段と厳しくして、士気を鼓舞
する。ぜいたくは敵だ、と、国民は生活を窮地に追いやられながら、なお従順になってい
たのだった。
その年の暮、汪兆銘の重慶脱出に呼応して近衛三原則が声明されるなど、日本は惑乱の
まま新年を迎えることになった。
――今日は正月だ。朝霧が多かった。相変らず銃聲は聞ゆる。酒が少し渡って敵前乍ら
飲んだ。
戦場にいる兵士たちのことを、政府要人は、いかに考えていたのか。三箇日が過ぎると、
近衛内閣は総辞職してしまったのである。和平の展望を失ない、策略の破綻が明らかにな
ったことから投げやってしまったのだろう。元老たちの弥縫策で、一月五日、平沼内閣が
成立し、ますます問題を攪拌する結果になっていった。
――寒さ嚴しき折柄、相変らず達者で居るか?
案じて居る。自分は元気で警備に任じ
て居る。今年も御苦労だった。百姓の仕事も大方終了したろう。安城の方は皆無事か? 暇
があったらば時々見舞すべきだ。一月五日曇。
父たちの部隊は漢口に入城することなく、城外で引き返し、応山から随県に向っている。
そして随県の手前、浙河付近で戦闘している。近くを流れる涓水という河の水が透けてい
たと、父はいう。浙河付近の地図のうえに赤鉛筆で行動を記録しながら、父は記憶を辿る。
十一月十二日夜十一時浙河を出発して、馬鞍山を大きく左に迂回し、十三日朝に東王庿の
近くで戦闘した、と言って鉛筆を止める。
浙河付近の警備を父は、三月二十九日まで続けたことになっている。
――当地も大雪が降った。今日は旧正月だそうなが毎日の日附さえ解らない今日だ。旧
正月かしらんとさえ思へない。正月でも飛行機が爆弾を落して行くから楽しい事もない。
昨日、御下賜の煙草を中隊全員整列して頂戴した。有難いものである。軍人だけに賜わる
のだ。末代に寶として後す心組である。子供は風邪に罹り易いからよく注意する様に。留
守中感謝する。
いまでも父は、菊の紋の付いたケースの十本入り煙草を大切に保管している。父は遺品
とすべき品物を衣裳罐の中に整理し、後世に遺す準備を早くから完了しているのだ。
――旧正月と云って内地では面白ろい一日であったのだが当地では花々しい激戰があっ
た日だ。自分は其の戰闘に参加の光栄に浴した。其の状況をお報らせしよう。
前日夜十時○○に敗残兵○○○○名集結した。当大隊は一ケ中隊の集成中隊を編成し
て明朝揚曉を期して總攻撃をなすの命令。当夜は色々準備乃為十一時頃就寝した。翌二月
一日午前一時起床し出発準備。午前三時自動車五輛に分乗し大雪の中を闇を利して出発す。
残留の戰友は「しっかり頼むぞ」
「氣を付けて」とお互にはげまし合って名残りを惜しむ。
大隊長は營門前で兵全員無事帰る様にと合掌して祈っておられた。懐かしの兵舎を後にし
たのは午前三時。途中、山又山の坂路を縫ってフールスピートで走った。午前五時二十分
目的の敵地二千米迄ついた。下車して人員点検。途中の自動車で冷えた体、下車しても寒
さのふるゑがとまらない。雪は澤山で道は凍結して非常に寒いやら悪い。それに暗い為水
溜り雪氷の薄いドブ落ちては上り、足はずぶ濡れになり、軍衣はカンカンに凍結する。外
套を脱ぎ一同軽装になる。眞暗の山道、犬の遠吠を氣にしながら肅々と行進する。敵の陣
地前方五百米迄きた時、東天白み静かに礼拝して自分の無事を祈願した。
友軍も陣地を作り午前八時を期して猛烈果敢なる總攻撃○○砲○関、重機関銃○挺。
午前七時三十分、先づトカンと一發見舞ふ。続いて○○砲の集中射撃。其の他自動火器、
小銃撃って撃って撃ちまくる。各小隊は散解して突撃準備。雪の泥だらけのところ寒風身
を切るその中で、伏せては走り走っては寝轉び、機関銃の掩護射撃と共に突撃をした。支
那人を突き殺す、撃つ、悲惨たるものである。子供は撃たれて体が三つにも四つにも切れ
る。生れ落ちたばかりの子供をほっておいて逃げる母親。飯を食べかけて死んで居るもの
もある。愛児を撃たれて泣くものもある。斯んな事をしてもなんともないまでに荒んで精
神はしまったのだ。約三時間の激戰に依り遂に陥落した。日章旗を立て萬歳を叫び抱き合
って喜んだ。戰友全部寒さにふるえながら、内地の旧正月の楽しい事を思ってもみた。今
日の敗残兵掃蕩は斯んなものだ。
相変らず元氣だ、安心して下さい。併し凱旋したならば氣が短かいから従順そのもの
で氣を付けねば二、三ケ月は自分の氣質が癒らないよ。
異常のなかで異常になること。輸送トラックに乗せられ戦場に赴く兵士たちは、迫りく
る危機に立ちむかうため、いかにして心の平衡を保ったであろうか。号砲一発が精神の緊
張を解き放つ。兵士たちの錯乱がもたらす恐るべき力は「勝利」に駆られて酔いしれる。
戦いすんで父が眼にした惨状は、底抜けの果しない地獄の光景だったに違いない。
――先達って送ってやった写真はついたかね。余りきつくうつって純夫が見違へるだろ
う。それだから今日そのひげは剃った。元通りになったから安心して呉れ。
凱旋も近い中だろう。只今その準備中です。帰ることは帰るが余り怒らない様にして
呉れよ。帰ったらば伊勢参宮と御礼旁々戰友の英霊に對して安らかに眠れよと祈る心組だ。
手紙の発信は二月二十一日になっている。父たちは「敵も居なくなって楽しい毎日を送
って居」たのであろう。帰還後のことを考えながら。日本を離れて一年半が過ぎ「当地も
非常に暖かくなって内地の春と殆んど同じ位だ」と書き添えている。
季節は、冬から春に移っていた。
※
三月二十九日まで浙河付近の警備をしていた父たちの部隊は、その翌日から嚢東会戦に
参加したのであった。応山西北地方で中国軍の四月攻勢がはじまったのである。毛沢東の
率いる八路軍および新四軍が華中において活躍したのが、この頃からであった。
――サクラガサイタ、サクラノシタデ、ウマイミズガノミタイ。
三月三十日から四月十三日まで応山県西北地区の戦闘。十四日から十六日まで随県南方
地区の戦闘。十七日から五月六日まで高城河陣地の戦闘。七日から八日まで風火山の戦闘
と続く。
嚢東会戦は激しい戦いであったらしい。記録に死傷者続出とある。父たちの第六中隊長
も、風火山の戦いを前に、戦死している。
――氣温九十五度を示す大陸の酷熱をアカシヤの並木路に避けて走り書き乍ら今迄の
種々苦しんだ事を訴へて心の慰めを求めて乞ふ。想へば幾山河、進軍の跡!!
四月二十
日約半歳に亘り對峙した遮蔽を一挙に粉砕せんと行動を開始したのが四月下旬。五月一日
の○○庿の激戰、日露戰役以上、上海戰以上であった。その間の状況は軍機秘密につき申
上げる事は出来ません。最後の○○山の攻撃、午後六回の果敢なる突撃その時の心境、自
分達の中隊長は第二回の突撃に壯烈な戰死をされました。○○山の約半分は戰友の血と肉
で彩られてしまった。五月八日の午前一時三十一分、生涯忘れ得ぬ感慨無量の萬歳を山頂
に於いて叫びましたが、怨萬魂に残る○○山も折りからの下弦に照り映へて悲壯を極めま
した。占領した喜びと戰友の紅に染めて斃れて居るのは目撃した私の心は!!
泣けて泣
けて。最後の據点を占領されて敵は大敗走しました。糧秣輸送の不便なる地、山嶽重壘た
る西大別を西へ西へ追撃前進に移りました。途中糧食はなくなり蜿豆蚕豆ばかり喰べて征
った時もあり、雨の降る日、夜這いし追撃した事もあり、食はなくズブ濡れの衣服を乾か
す術なく木の蔭で雨を避け、ゆでた蜿豆ばかりを喰べて前進。思ひ出すだによく出来た事
と自分乍ら全く神業と思ふより外ありません。「父よあなたは強かった」この唄以上に苦し
んだあの時の心境は今こゝで到底書き盡す事は不可能であります。全く道なき山をわけて
聖戰達成のため奮闘してきました。落ちついたらば又委しく当地の状況を報らす。胡瓜が
沢山ある。南瓜も今に結果成熟するでせう。この戰闘で總べての草が喰べれる新体験をし
た。内地で思っても見た事のない様な物が食べれて、それが非常に美味かった事を思ひ出
す。日の出六時二十分。日没八時三十分。
激しい戦いが過ぎ、ふたたび浙河周辺の警備に就いた父は、安堵して会戰を顧み、長い
手紙を書いたのだろう。日付は五月二十九日になっている。この頃になると、字体は癖の
あるくずし字が多く、私には読みづらい。「くずし字解読辞典」も役立たない字だ。父は古
い手紙を読みたくないという。
――(1)非常に暖かくなってきました。(2)昨日身体検査があった。十七貫七百匁。(3)フチ
の赤黒い表紙の辞典を至急送って呉れ。
「国防婦人會豊濱町分會寄贈」の葉書に走り書きしている。兵士たちに配給されたのだろ
う。
「日の丸」が印刷され、右上には「敷島の大和心を人問はゞ朝日に匂ふ山櫻花」という
歌がある。
――氣温百度毎日暑い日ばかり續く。煙草を知らない自分達はソレをチシャだと思って
ゆでゝ食べて、其の夜は下痢をしてしまって苦しんだ。
「万民輔翼の日本精神」を強調した平沼内閣の執った政策は、和平を置きざりにした、ま
すます戦争の拡大と長期化であった。戦争は泥沼化の様相を深め、増大する戦費の影響か
ら国民生活が厳しい状況に追い込まれていった。官憲の弾圧も一段と強化された。三月に
軍用資源機密保護法公布、五月にノモンハン事件の勃発、七月には国民徴用令公布と事態
は急下降していった。
ヨーロッパでは、独伊軍事同盟が調印されるなど第二次大戦が不可避の情勢にあった頃
である。
――北支の弟より今日便りがきた。大へん元氣で御奉公して居るときいて安心した。兄
弟二人御奉公出来ること非常に喜んで居る。弟としても希望がかなへて安心したろう。そ
して喜んで征っただろうと信ずる。
私の叔父は一九四五(昭和二十)年八月八日に比島ミンダナ島で戦死している。行年
三十一歳であった。両親の死後、十五歳で東京へ奉公に家を出て、二十四歳に出征したの
である。叔父が戦場に赴くとき、家の財産分けを要求したという。すでに死を覚悟してい
たに違いない。私の母は、押問答のすえ貯えたなけなしの金を全て渡して、別れとしてい
る。
叔父の写真は敗戦後、居間に長く掲げられてあり、私は少年の頃から聞かされ知ってい
た。
――毎日暑い日が續くが相変らず元氣で暮して居るか。自分は元氣に花唄で再び下る追
撃命令を待って居る。支那の柳はなびいて東洋平和の来るのも程近い事だろう。内地は麦
の収穫で忙がしいだろう。純夫や英夫は元氣で遊ぶかね。これからは小児の病氣が発生し
易いから罹らない様に呉々も注意してほしい。
二人の子供たちは長男が五歳、次男が三歳になっていた。戦場から家族の安否を気づか
う手紙は、そのまま父の生存を知らせていることでもあった。「一、火の用心。一、健康注
意。一、小生元氣。一、衛生留意。
」といった簡潔なものもある。
――稲の穂も出た。高粱も穂を出した。戰地で第二回の穂を見る。今日、支那人を四人
使って白菜を蒔いた。昨日、新愛知新聞のニュース係がき、自分達が蓄音機をかけて笑っ
て居るところを撮って呉れた。ニュースがきたら見えるだろう。大きな口を開けて笑って
居たところだ。敵は前方二〇〇〇米位のところに沢山居る。夜になると、ときどき出てき
てパンパン撃って夜襲して来る。併し愈々元氣だ。
父は、出征して二年目を随県で迎えようとしていた。
――度々御手紙ありがとう。僕も負傷はしましたが、何のこれしきかすり傷。日本男子
の名誉です。敵の陣地撃ち落ち、一番乗りをしたときは、男と生れた嬉しさに、僕は涙で
泣きました。ほめて下さい戰友の、仇は立派に打ちました。今ぢゃ元氣な鼻唄で、進軍ラ
ッパを待ってます。髪も刈ります、ひげもそる、若い戰友は床屋さん。僕は医ム室で戰友
を、衛生保險に注意する。夏がきました戰地にも、支那の柳はなびいても、東洋平和の来
る迄は、僕は断じて帰りません。
中国軍の七月攻撃がはじまり、随県にいた父たちの部隊は七月二十日より八月十日まで
戦闘をしている。この頃になると、日本軍の侵攻は大いに鈍り、守勢にまわることが多く
なっていく。
――当地は傳染病「コレラ」が流行して、昨日も一人その犠牲になりました。中隊全員
整列して慰霊祭をした。蓮の花を立てゝ遺骨を安置して、支給品の羊羹、煙草を供へて中
隊長の焼香をして野戰乍らに供養をしました。昨日迄元氣で一緒に食事をした戰友が五時
間経たぬ中に白骨となるなんて全く夢の様だ。斯んな恐ろしい病菌が野に山に蔓延して居
る。暑くても水を飲めば直きに斯のごとき状態だ。
平沼内閣が「欧州の天地は複雑怪奇」と声明し總辞職したのは、八月二十八日であった。
変転する国際情勢に対処しきれないまま、退場したのである。
ついで八月三十日阿部内閣が発足。そして九月三日には、ヨーロッパで第二次世界大戦
が勃発。その翌日、政府は「帝国はこれに介入せず、もっぱら支那事変の解決に邁進せん
とす」と声明している。
――氣温九十八度、大陸の酷熱下に大元氣で聖戰達成のため奮闘して居る。乞安心。
戦場の兵士たちは、食べることと戦うことが日課であったようだ。国内の動きを、どの
程度に知らされていたか定かでないが、終りそうにない戦いの日々を送りながら「年季明
け」を辛抱強く待つほかなかったに違いない。命令どおりに動くだけで、何もわからなか
ったらしい。
――此の寫眞は寸暇のとき中隊長殿にうつして戴いたのだ。一寸、男振りが悪くなった。
毎日戰争ばかりして居てはね。辛抱して呉れ。
九月中旬、父たちの部隊は随県から涓水河を渡り、対岸の擂鼓屯へ移動している。そこ
は前線で、ゲリラの襲撃を何回もうけ、補給路や通信線がやられたりした、と父がいう。
日本軍は第一線を強化し、中国軍の冬期攻勢に、その反撃態勢を整えつつあったのであ
る。
戦争の拡大と長期化が物資の不足を深刻にしていた頃、第二次世界大戦が勃発し、さら
に物価を急騰させてしまった。厳しい生活を強いられていた国民は、一段と窮乏していく
のであった。政府は、加速するインフレに対し「九・一八価格ストップ令」を公布するが、
ヤミ取引の横行によって混乱を治めることは出来なかった。
「阿部の野郎を打殺せ国民は彼
が為大苦しみ米は上げるし煙草は上げるし物価はうなぎ昇り夫れに米はなし炭はなし国民
は此寒さに食はずに寒さに死ぬより外にない」という調子の投書も記録されている。落書
や貼紙による「不敬不穏事件」が多発したようだ。
――毎日忙がしくて便りも出さなかったが毎日元氣で御奉公申して居るから乍他事御安
心下さい。二三日前から一寸寒くなってきて、シャツに上衣で丁度よい程度。又、寫眞を
五六枚送る。一枚も無くさない様に頼む。無断で他人に渡す可からず、今迄のも全部。留
守中、種々困る事もあるだろうが、よく氣をつけて暮して下さい。
父の手紙で「御奉公申して」いるという常套句が頻りに使われている。この文句が兵士
たちの至極当然な言葉としてあったと思われる。
「御奉公」する意識が、どの様な構造をも
って父のなかに組み込まれていたかを考えてみるとき、私は兵士たちが軍事教練で習得し
たとは結びつけ難い。もっと日本人が共同のなかで蘇生させてきた滅私奉公の意識が、底
流にあったと考えるのである。いまでも父は、「御奉公申し」たと思っているに違いない。
――さとのき、菠薐草、大根、白菜、さつまいも、葱等沢山あるから青物にはさほど苦
労はしない。魚等も時々暇をみて穫りに行く。二三日前に東の敏さんから手紙がきたが、
この手紙のつくころには多分、敏さも戰地に向けて出発されて居るだろう。秋になっても
特に体に氣をつけて暮して下さい。油断せぬ様火の用心又肝心なり。
浙河から随県、そして擂鼓屯へと軍靴をすすめてきた父たちの部隊は、第一線にあって、
中国軍の時折りみせる攪乱戦法に悩まされるのであった。戦線は膠着状態がつづく。
――本日は明治の佳節にて中隊では午前九時、宮城搖拝をした。祝砲旁々大砲は敵陣に
撃ちこんで居る。今年で三回目。第一回は蘇州河で激戦の眞最中。第二回は漢口突入後一
週間徳安の城内で迎へ、第三回目は随県城外擂鼓屯の山の上にて迎へた。全く感慨無量で
ある。饅頭と酒が渡った。寫眞を二三枚封入しておく。
この頃の通信は、封書から葉書が多くなっている。封書のときは決まって写真を送って
おり、父は戦場の思いを一足先に故郷へ送り届けていたのであろうか。「今迄に沢山の寫眞
を送ったが家には到着しておらぬか。若しついて居たらすまぬ報らして呉れ」と心配して
いる。
――相変らず元氣で居る。永い間の戰闘で便りが書けなかった。又、来信も無かった。
八月の手紙が今日着き、内地は旧盆ですとの珍現象を呈した様な訳だ。併し元氣なだけは
此の便りをみて證明出来るだろう。寫眞を二三枚入れておく。
十一月二十七日に書かれたものである。中国軍の活発な攻撃に日本軍は苦戦し、父たち
の部隊も擂鼓屯から前進することはなかった。大隊本部は随県に、連隊本部は応山のまま
である。
中国軍の冬期總攻撃がはじまったのは、十二月十二日からであった。蔣介石は「日本軍
は本年春以来、広域に亘り占領し自ら兵力配置に制約を受け、機動力の自由を失った為、
従来の如く大部隊を以てする進攻作戦を改め、守勢を採るに至った。即ち日本軍を制圧す
る好機にして、各戦区の冬期攻勢は頗る重大である」と訓令したという。
この冬期總攻勢は三か月に及び、翌年二月十日まで続くのである。父たちの部隊が襲撃
を受けたのは、十二月二十日で、その時、父は死を覚悟したといっている。隊を見失ない
独り溝に伏せているところを、銃を持った二人の中国兵が側を通り過ぎていったと、深い
皺を引きつらせて語る。その恐怖を父は、いまも深夜にうなされ、身体から追いやること
がない。
父は擂鼓屯の戦闘について「聯隊史」に手記を寄せて「二十日の晩、久しぶりにビール
の配給があった。支那家屋の薄暗い部屋に、藁をしとね、そこに座り、小坂井上等兵外二、
三名の戦友とビールを傾け、尽きぬ故郷の話が座を賑していた。夜半十二時頃、表の門に、
手榴弾の炸裂音がした。次いで敵兵の声が渦巻いた。「夜襲だ」と、素早く装具を持ち、裏
の窓から飛び出た。伏せたまま、遠くを見ると、相当数の敵兵。・・・・・・」と、約一ケ連隊
の攻撃を受けたときのことを書いている。蒼白い上弦の月を鮮明に記憶していると。
――二千六百年の新春も掩蔽壕の中にて至極元氣にて迎へた。いつもの新年より一寸暖
かい様な氣がするが、支那軍の冬期攻勢で寸時の油断も許されず徹宵の警戒で今年の初日
出も待って居て拝んだ。十二月三十一日の除夜も内地のと意味を異にしてる。兎に角元氣
で御奉公して居るから安心して呉れ。落ちついたらば又便り書くが、寫眞送るため走り書
きで恐縮です。御自愛専一に。
年変わり、国内では阿部内閣が一月十四日に総辞職して、翌々日に米内光政内閣が成立
している。しかし日中戦争の集結に目処はなく、果しない泥沼から、ますます和平の道は
遠ざかっていった。戦場の兵士たちも、長期化の様相にあって戦闘の日々に慣らされてい
たに違いない。
一月十八日、父は二十七歳の誕生日を擂鼓屯の戦線で迎えている。中国に上陸して二年
三か月が過ぎていた。子供の成長を思わずにいられなかっただろう。
この頃、父からの手紙が見当らず、一月十四日付を最後にその後の通信はない。母が紛
失したのか、または父が書かなくなったのか、確かめようにも父も母も記憶がないという。
※
父は最後の手紙から一か月後の二月十四日に、
「三師参動一八〇号」によって、内地帰還
の命令を受けたのである。
私の中の朝鮮人たち
やす
だ
ひろ
こ
安 田 寛 子
1
明るい五月の陽光と青々とした空と共に想い出す光景、それが私の朝鮮人に対する最初
の記憶である。
昭和十八年頃、神戸市灘区にある大石川上流の河原で、幼稚園帰りの私は大石川を渡る
橋の上から不思議なものを見つけ立ち止まった。六甲山腹から流れ出ている川はさして広
くない川はばのまん中だけ水が流れていて、その両側は白茶けた石ころの川原で、初夏の
光が川原全体を白っぽくまぶしくしていた。流れをはさんで数人の女たちが向い合うよう
にして陣どった足場にしゃがみ、ぬれた石の上に置いた白い布のような物をしきりに棒で
たたいているのであった。リズミカルな音と振り上げたり打ちおろしたりする棒、その合
間をぬって動くもう片方の手、賑やかな音に負けない声高な話し声、何を言っているのか
わからない。ぼんやり見ている私の頭の中は、何してるんだろ?
ということばだけがぐ
るぐる渦をまく。と突然「わあーっ」と喚声が上がり笑い声が川原いっぱいに弾けとび一
瞬座がくずれる。びっくりしている私の眼の下で再びくり広げられるせわしない棒の動き
や、音、一層賑やかになった話し声や笑い声。
ある日幼稚園の帰りに何故か母と一緒であった。その時また例の光景にぶつかった私は母
に聞いた。「あれ、何してるの?」
「朝鮮の人たちがせんたくしてるのよ、朝鮮の人はああ
いうやり方でせんたくするのだって」
初めて聞く朝鮮人という言葉、せんたくという意外な答え。何故なら私の知っているそ
れとはあまりにも違いすぎたから。私が知っている洗濯は、裏庭に木製のタライを持ち出
してしゃがみ、タライのふちから底へななめに渡した洗濯板につけてある波紋状の凹凸の
あたりで布をこすり、終るとうす黒く汚れた水を片すみの溝に流し、そのあとはポンプか
ら何回も水を運んでは濯ぐという重労働であった。裏庭はいつもジメジメして、そこら一
面に緑色の苔が生え、大きな枇杷の木が一本あったが果がなったようなこともなく、私に
は洗濯と裏庭のイメージが重なっていたのだ。
河原で、あんなやり方で洗濯する朝鮮人――暫くの間鮮明に覚えていたのに、神戸を離
れて東京へ移り住んだ頃から、しまい忘れた古い写真のようになって、記憶の底の方へ沈
んでいってしまった最初の朝鮮人たちであった。
2
子どもにとっても嵐であった数年の後、東京、御殿場、鳥取と移りあるいた末に、やっ
と関西へ帰って来たのは昭和二十二年の春であった。私たち一家が住むことになった所は
阪急神戸線の園田(そのだ)にあった寮である。園田はその頃名前の通り一面の田園地帯であ
った。学校の帰りにはいくらでも道草が出来た。もう、あの厭な警戒警報のサイレンに怯
えて走って帰る必要はなかった。B29 の爆音で下腹部のあたりから急に力がぬけ去り、走
っても走っても前へ進まない夢の中のようなあんな気持を味わわなくてよいのだった。草
を摘んで編んだり、すもうとり草ですもうを取ったり、勉強道具を道端に放ったらかして
川で水遊びをしている男の子たちを土手の上から眺めたりしてゆっくり帰ることはどれ程
楽しかったか。おとなはみんな生活に追いまくられていて、子どものことに干渉している
ヒマなど誰も持っていなかったのだろう。食べ物は極端に乏しかった頃だと思うが、食べ
物の事よりのんびりした通学が出来た事をよく憶えている。
四年生になっていた私が寮の中の子ども集団でまず教えられたのは、学校の行き帰りに
どうしても守らねばならないという一つのきまりであった。寮から学校まで二キロくらい
あったろうか、右も左も田や畑の中を歩いていくと大きな川の堤防の上に出る。川には長
い橋がかかっていたが、橋のたもとに今にも壊れそうな小さな小屋があった。その中に、
誰も見た事はないがひとりの朝鮮人が住んでいて、しかも彼は(私たちは男だと考えてい
た)ハンセン氏病にかかっていて、左手の親指が無いということであった。したがって、
私たちはそこを通る時少し手前で立ち止り、病がうつって私たちの指も無くなるといけな
いので両手の親指を掌の中へ折って握りこぶしを作り、息を止めてその小屋の前を走りぬ
けなければならないというのであった。他所から移って来た四年生の私にとって、さも恐
ろしそうに話してくれるその話を、
「ええか、わかったな、ぜったいそうせなアカンのやで」
という上級生の言葉は絶対であり、私はその日からきまりに従った。それからの毎日、私
は朝に夕にその小屋の前を言われた通り親指を中へ折りこんで握りこぶしを作り、息を止
めて走りぬけた。転校して暫くの間朝の登校どきに上級生たちは、私が言われた通りやっ
ているかどうかと点検したものだが、私がルール通りにして走りぬけるのを見ると、いつ
しかやめてしまった。それでも朝は上級生が一緒の為に何となく一種の緊張感があって皆
も走りぬけたものだが、帰りともなると上級生はいないし、のんびりした気分で、三々五々
バラバラと走りぬけるくらいであった。そのうちに私も慣れてくると、本当に朝鮮人が住
んでいるのだろうかとずい分訝しんだものであった。堤防の上の道からは、ゆるい下り坂
になって、草いっぱいの河原が広がっていたが、小屋は道にごく近く建ててあり、いつも
しーんとして何の物音もしなかった。板が簡単に打ちつけてあるだけという小屋は、その
板もあちこち相当傷んで破れており、どう見ても人が住めるような物に見えなかった。そ
のうえ子どもの私でさえ、あれで人が住めるかなと思ったほど小さかった。破れ目から一
度覗いてみれば一目瞭然であるのだけれど、誰もそんな恐ろしい事をする者はいなかった
し、私もやっぱり恐かった。
ある昼さがり、数人の同級生たちと連れだって帰る道でしゃべったり草を摘んで遊んだ
りしていた私たちは、いつもの所へ来ると何となく足を止め、例のきまりでひとりひとり
走りぬける前に誰いうともなく全員がじっと耳をすませ、小屋から何か気配でも感じられ
ないかと全神経を耳に集中したことがあった。思いなしか小屋は急に大きく黒々として来
たように見え、今にも誰かが出て来そうな気がして、私たちは息を殺して小屋の入口を見
つめていた。期待と不安で緊張の数秒が過ぎた。しかし何事も起らず、ふと我に返った私
たちの頬に風が触れ、さっきからそうだったのか、広い河原一面に生えている青々とした
草がさやさやと鳴っている音が聞こえ、遠くの鉄橋の上を音もなく電車が渡って行くのが
見えると私たちはほっと安堵し同時にかすかな失望も味わった。小屋は相変らずいつもの
所にひっそりと建っていた。
このことがあってから、私は小屋に朝鮮人が住んでいるという話にはかなり疑問を持つ
ようになったが、きまりは言われた通りに守って、一学期の終了と共に再び転校したので
ある。
3
同じ阪急神戸線の終着三の宮駅から二つ手前の西灘(にしなだ)、そこは私にとって懐しい
駅で、幼稚園へ通っていた頃住んでいた家もこの駅から南東の方角に歩いていくのだった
が、もうあの家には他人が住んでおり、私たちが住んだのは駅より北西の方、青谷にある
寮であった。戦災で焼け残った前の家の辺りと青谷の寮とは丁度西灘の駅をはさんで対角
線を引いた位置になった。前の家の近くの両親の親友の家も焼けずに残り、そこにいくば
くかの家財道具を預かってもらっていた為もあって、私は青谷からそのMさんの家まで
時々使いに出された。その当時西灘の駅は現在の場所よりずっと大阪寄りにあった。今の
コンクリート、高架式のプラットホームなど及びもつかない、材木を井桁に組んだ上に横
板を渡したホームに形ばかりの屋根をつけただけの駅で、線路は道路と同じ地表上にあっ
た。神戸も他の都市同様空襲を受けて焼け野原であったが、駅の周辺は早くもバラック建
てとはいえ、家が建ちかけたり、ヤミ市が出来たり賑やかであった。駅に隣接して踏切り
があり、つぎの踏切りまでの百メートルほどだったろうか、大阪方面へむかう線路の北側
にヤミ市があった。
ヤミ市の線路側の店はみんな、後の鉄道独特の黒い柵に寄りかかるようにして建ってお
り、通路をはさんだ反対側の店は隣同志つっかい棒の役をしながら建っているという具合
であった。たいてい平屋、といっても屋根がボロ布のような店もあったが、中には二階建
てのもあった。もっとも二階といっても階下が階下だから、通路からおとなが手をのばせ
ば二階の窓へとどきそうな具合であった。私は何も買うわけではないのだが、お使いの往
き帰りに焼け野原を通らずにヤミ市の中を通るのが好きであった。ゴム長を片方だけ売っ
ている店や、ボロ布のような衣類、新品の衣類を売る店、くたびれたコートをいっぱいぶ
ら下げて売っていたり、さつま芋をふかして二つに切り、小さなお皿にのせて、まるで山
海の珍味のごとく麗々しくガラスの小さなケースに二皿、三皿入れて売っている店もあっ
た。甘い物に飢えていた私はこの前を通る時、つめたく冷えたさつま芋の黄緑色の果肉を
一口かじると共に口の中に広がるであろう甘味にいつも憧れ、満たされた事のないこの味
覚はおしまいには通りがけに見ただけで味わったような錯覚さえ起こすようになったので、
よく憶えている。ヤミ市はいつもゴチャゴチャとして売る人買う人通る人が入り乱れてい
た。このヤミ市に多ぜいの朝鮮人がいたのである。店を出している人が多かったようであ
る。何故なら彼らはいつも奇妙な日本語で買手を呼び商いのやりとりをしていたから。
そして私の記憶に残っているのは彼らの喧嘩である。ヤミ市で人だかりがしていると大
てい喧嘩であった。朝鮮人と日本人との喧嘩もあったと思うが、朝鮮人どうしでよく喧嘩
が起ったようであった。双方が私にはわからない言葉で激しくやり合っていたから。そし
て人が集まって来て見物人が多ぜいになるにつれ日本語が交じってくるのである。その奇
妙な日本語がおかしいとて見物人がどっと笑うと、喧嘩の方もますます張り切ってくるの
であった。私はそこを通る時こわいと思ったことは一度もなかった。とても愉快な喧嘩で、
殴り合っているのに遭遇したことは殆んどない。延々と双方で言い争っているのであった。
お使いの往きに出会った喧嘩が帰りにまだやり合っていたり、途中で選手交替したのか場
所は同じ所なのにやっている人が女から男に替っていたりしたこともあった。例の道路か
ら手がとどきそうな二階の窓にひとりのチマチョゴリ姿の女の人が両手を腰にあててすっ
くと立ち(もうそれで二階の天井に頭がつかえそうなのだが)階下の通路を見下ろして猛
烈な勢いで何か怒っていると、下では下でやっぱりチマチョゴリを着た女の人が二階を指
さしてわめいており、そのまわりを多ぜいの人々がとり囲んで双方のやり取りを聞いて笑
っていた時には、私もずい分長い間見物していたものであった。
このヤミ市がいつ頃までここにあったか覚えていない。いつの間にかきれいに無くなっ
てしまい、西灘の駅は今の王子競技場近くに移って、あたり一面もう昔の面影はどこにも
残っていない。
4
五年生の二学期から私は本山第一小学校へ通うようになった。東京で入学してから(当
時は国民学校といったが)転校すること六回目の学校で、ここで私は小学校を卒業したの
である。本山(もとやま)はその頃武庫郡本山村といってまだ神戸市になっていなかった。阪
急西灘からは、大阪へ向って六甲、御影、岡本と駅がつづき、岡本で降りてつぎの芦屋川
の方へ約一キロ程歩いた所の二軒続きの長屋の片方が今度の家であった。岡本の駅から南
へ五十メートル程下りたところに阪急神戸線と殆んど平行しながら一本の大通りがあり、
長屋はその大通りを行ってからほんの少し線路側へ入りこんだ所にあった。大通りに面し
た所は大きな米屋で、米の他に薪、炭、夏には氷も商いしていた。その米屋の向い側に金
山という朝鮮人の一家が住んでいた。大きな二階建ての黒っぽくすすけた家で、一階の屋
根の上に看板がかかっているのだが、ペンキがはげにはげてもとは何色だったか見当もつ
かないくらい全体が白っぽくなっており、少し離れた所からよくよく見るとうっすらと「金
山商店」と書いてあるのが読めるという代物であった。私は商店というからには何か売っ
ているだろうと思ったが、最初の頃は何を商いしているのか全くわからなかった。金山商
店の家の前にはいつも紙が貼っていない障子類、雨戸、板戸、ガラスの入ってない建具類
などが雨ざらしのままワンサと立てかけてあって、半円を描いて道路へはみ出していて、
倒れないようにかそれとも盗られないようにかわからないが、荒縄が一、二本そのおびた
だしい戸の腰のあたりにぐるりと張りめぐらしてあった。通りに面した家は一階も二階も
みんな雨戸が閉めたままで出入口半間ほど開けてあるほかはどこも開いたところはなかっ
た。その半間ほどの出入口から中を窺うとまっ暗で、驚いたことには出入口と同じ幅の通
りみちだけ残して家の中両側にもいろんな物がびっしり積み重ねてあった。さすがに家の
中の物は外の戸類ほどひどい物でなく、引き出しのついた古いタンスやいわくありげな道
具類。暗がりの中でぼんやり光って輪郭が見えたのはガラスの置物のようで、コウモリ傘
が何本も束ねてあったりした。金山さんの家が俗に言うところの古物商だとわかったのは
しばらくたってからであった。雨ざらしの表の戸のかたまりが時々増えたり減ったりして、
店の主である小柄な男の人がしょっ中戸をあっちへやったりこっちへ持って来たりするか
と思うと、いろんなガラクタ(と私には思えた)を大事そうに動かしていたり、リヤカー
を引いた人が来て何か立ち話をして戸を持って行ったり別の戸をどこからか持って来たり、
ある時は家の前に山のようにボロ衣類をつんでそれを選り分けたりしていることもあった。
古物商と廃品回収業とを一緒にしたような商売をしていたのだと思う。
金山さん一家は何人家族だったか正確に覚えていないが、主人である小柄でやせた金山
さんと彼の奥さんに何人かの子どもがいたことは確かである。私と同じ年の女の子がいて、
その下に数人の弟妹たちがいた。彼女たちの名前を全く覚えていないのは単に忘れたため
でなく、話をしたことも遊んだこともないといった方がよいくらい、私たちとは接触がな
かったせいである。金山さん一家は私に不思議な気持を抱かせる存在であった。主人の金
山さんは一見して老人かと思うような人相で、やせて小柄にもかかわらずもの凄く大きな
声でいつもいつも怒って怒鳴りちらしていた。怒鳴っていない時でも苦虫をかみつぶした
ような顔で家のまわりを歩きまわって忙しそうにしていた。白いチマチョゴリを着た彼の
奥さんがまた彼に輪をかけたようにやせて小さく、いつも金山さんに怒鳴られてはますま
す小さくなっていた。乱れ勝ちの髪をうしろへひっつめに結って俯いて歩いている奥さん
を見て、子供心にも私は病気とちがうかしらんと何度も思ったものである。
夏の夕暮れ時など、家の奥の暗がりのむこうに明りが見えるあたりで突然、もの凄い怒
鳴り声が聞こえ、続いてガチャンガチャンッというすさまじい音がして瀬戸物のわれる音、
それにまじって小さい子どもの泣き声、奥さんが泣きながら何か言っている声などが入り
乱れて聞こえてくることがあった。時には奥さんが外へとび出してくることもあった。周
囲の人たちは慣れっこになっていたのかみんな平気な様子であったが、私は偶然通りかか
ってこんな光景を目にすると何故か気になって仕方がなかった。ところが私と同年だとい
う女の子は、いつもケロッとして何事もなかったような風情なのである。彼女は父親にど
んなに怒鳴られても、お母さんがどんなに怒鳴られていても、どこ吹く風といった感じで
あった。彼女が両親の不仲をいっこうに気にかけていない姿が不思議であった。また彼女
は両親に似ず大柄な少女で、気難しい顔をした金山さんと小さくしぼんで疲れ切った表情
の奥さんからは想像も出来ないくらい可愛い顔をしていた。そのせいでもあったし、子ど
もの私には金山さん夫婦が彼女の両親にしては年を取り過ぎているように見えたからかも
しれない、私は彼女のことを金山さん夫婦の本当の子どもかしらと失礼なことをよく考え
た。彼女は学校へ行っている様子はなかった。少なくとも私たちと同じ学校へは通ってい
なかった。彼女はいつも弟妹たちと一緒にいたが彼等の面倒を見るでもなく見ないでもな
く、弟妹たちも彼女が西へ行くと西へ、東へ行くと東へとゾロゾロくっついて歩いていた。
私たちはたいがい大通りで遊んでいたが、一度私たち日本人の子ども達と彼女と一緒に遊
び始めたところ、渋面の金山さんがやって来て何か言うと彼女は私たちに何も言わず黙っ
てむこうへ行ってしまった。弟妹たちもゾロゾロとつづいて行ってしまった。私たちも金
山さんが何か彼女に用があって連れ出したのではないということは何となくわかった。そ
んな時でも彼女はケロリとした顔で家の前に立っており、悪びれた様子もなければ残念そ
うな素振りも見せなかった。
そうこうするうちにそこを引越した私は、金山さん一家とも顔を合わせることはなくな
ってしまい、その後どうされたか全く消息を知らない。
5
本山から南へ阪神国道を渡ってさらに南、魚崎町へ引越したのは私が中学二年の頃であ
った。私が通っていた本山中学校はあの頃一学年に常時一~三人くらいの朝鮮人生徒が在
学していた。そして私にとって忘れられない朝鮮人の同級生に会ったのもこの頃である。
同級生の中には二人の朝鮮人生徒がいた。ひとりは男生徒で李さんといったが名前の方
は忘れてしまった。李さんとは同じクラスになったことは一度もなかったし話をしたこと
もなかった。が彼は大変目立つ生徒だった。まず体格がよかった。全体に貧弱な体格をし
ていた私たち日本人生徒の中にまじると彼はひときわ目立つ体型をしていた。背はとびぬ
けて高いというわけではなかったが並ぶと後の方であったことは確かである。彼の体はが
っしりとして筋肉が引き締まり色が赤黒く精悍な感じの少年だった。その上に彼はサッカ
ーが巧かった。放課後になると彼は他の体の小さい日本人生徒が誰もかなわない巧みな足
さばきでボールを自由に操り、運動場を走りまわっていた。本山中学校のサッカーは彼に
よって成り立っていたし、彼の名と技は他校にも鳴り響いていた。運動場で走っていない
時の彼はそのパリッとした服装で他の生徒を圧倒した。私は彼があの黒い詰め衿の学生服
を着た姿を思い出すことは出来ない。殆んどの男生徒が黒い学生服を着ていた中で、彼は
たいがい半袖の白か何か淡い色の今風に言うところのTシャツのような上衣を着て半ズボ
ンをはき、赤銅色に陽に焼けた太い脚をむき出しにしてソックスをはき革靴をはいていた。
彼がたくましい脚で廊下を歩くと、戦後の急ごしらえで出来た新制中学校のオンボロ校舎
の床板は、ギーギッギーギッとイヤな音をたてて軋んだ。私の耳にはその音が今でも残っ
ており、あの頃彼が廊下を歩いているのに出くわすといつも私の目は彼の足もとの革靴と
床板に吸い寄せられ、李さんに足を踏まれると痛いだろうなぁとしみじみ思ったものであ
る。彼には兄さんがいて私たちが一年の時三年に在学していたらしいが、兄さんのことは
何も覚えていない。しかしその兄さんと同学年に朴さんという無口で穏やかな性格の男生
徒がいて、ハイキングや飯ごう炊さんに行っても黙って歩いているだけなのだが、火をつ
けたりかまどを作ったりする時になると誰よりもたくさん雑木を集めて来たり、うってつ
けの石を運んで来たりしたことを薄らと憶えている。
李さんは中学を卒業と同時にサッカーで有名な私立の名門校へ進んで、私はそれ以来一
度も彼の姿を目のあたりにした事はないのだが、彼の事は新聞のスポーツ欄や同級生たち
から知る機会があったが、もうひとりの同級生のことは卒業以来フッツリと消息が途絶え
てしまい今に至っている。
彼女とは二年と三年と同じクラスで過ごした。金玉子というのが彼女の名前であり、そ
の名前の故に彼女はいつもからかわれていた。まだまだ子どもっぽさの抜け切らない男生
徒たちは、毎日面白がって素頓狂な声を張り上げては「キンタマコ!」と叫んだりゲラゲ
ラ笑ったりのくり返しであった。
「キンタマ!」までを大声で言ったあと小さく「コ」とつ
け加えたりもした。大声で言うだけの元気のない男の子は彼女のそばを通る時小声で「キ
ンタマコ、キンタマコ」とこっそり言ってみたり、席の近くに座っている子は彼女の机や
椅子を足で蹴ったりしていた。三年生の時私は彼女の一つ前の席に座っていたことがあっ
たのでよく憶えている。男生徒だけでなく教師の中にも「卒業式で証書の名前を呼ぶ時は
やなァ、金っとゆうてひと息吸うてから名前を呼ばなアカンなァ」と笑いながら話してい
た教師がいたのである。私たち女生徒は「金さん」と呼ぶしかなかったのだが、それも何
か悪いような気がして妙な具合であった。音楽の時間に私たちは北原白秋作詩、山田耕作
作曲の「からたちの花」を習った。
からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ
まではみんな真面目に歌うのである。ところがだんだん歌いすすんでいって、
・・・・・・・・・・
からたちも秋はみのるよ
まろいまろい・・・・・・
と最後の「いー」をのばしている頃にはもうあちこちでクスクス笑う声や「キンタマコ」
「キ
ンタマコ」と言う小声でいっぱいになり、
金のたまだよ
のところは誰も歌う人がいないのであった。大部分の男生徒は完全に笑っていて歌ってな
いし、笑ってない男生徒も口の中をモゴモゴさせており、私たち女生徒は女生徒で詞の通
り歌っても金さんに悪いような気がするし、歌わないと何か男生徒と一緒になってしまう
ように思えるし、その上教師に気がねをして複雑な気持で過ごしたものである。そのやま
場がすんでしまうと男の子たちも気をとりなおし私たちも何かほっとして続きを歌ったも
のである。
からたちのそばで泣いたよ
みんなみんなやさしかったよ
からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ
と。私は「からたちの花」とこの時のことが一体となってしまい、以来この歌を聞くと複
雑な心境になり、同時に必ず金さんを想い出す。
こんな状況の中で、金さんのとった態度が私をして彼女を忘れられない存在にしている
といえる。彼女は最初からいっさいを黙殺した。彼女は誰とも口をきかなかった。男生徒
は勿論私たち女生徒とも一言も自分からは話しかけなかった。何か用があって「金さん、
あのね」と遠慮がちに言っても必要な事以外はいっさい返事を返さなかった。彼女は背す
じをしゃんと伸ばして頭をしゃきっと上げまっすぐ前を見ていた。彼女は白い衿のブラウ
スにあざやかなオレンジ色のすかし編み模様の入ったセーターを着て、紺のスカートをは
いていた。彼女は小麦色の肌をしており、面長ですっきりと額を出して髪は後に束ね、二
つに分けて両肩に三つ編みをたらすか、一本の太いお下げにして背中にたらすかどちらか
であった。彼女の眼はいつも澄んでいてどこか遠い所を見ているようで形のよい鼻の下の
唇は真一文字に閉じられていて、ひどく大人びた感じであった。金さんはどうしてあんな
風にしていられるのだろうと何度私は思ったかしれなかった。
どんなに男の子がからかっても彼女は微動だにしなかった。いつも冷静で知らん顔をし
て前を見つめていた。彼女は授業中でも発言したことはなかった。教師に名指されて席か
ら立ち上がることはあっても答えなかった。ある時何の授業か忘れてしまったが、彼女が
指名された。いつものように答えない彼女に教師は質問を誰でもわかるようなやさしいの
に変えて再度たずねても、彼女は答えなかった。その時私は「あゝ、金さんはわからない
んやなくて言いたくないんやわ」とはっきり感じ、彼女が私たちの誰かれという個人でな
くて日本人全体に対して、何か私たちにわからないある感情を持っている事を初めて意識
した。それが何であるのか全く私にはわからなかったが、彼女の態度についてある納得が
いったものである。彼女の学校でのこういった態度が彼女自身の意志によるのか、それと
も家庭での教育や両親の言いつけによるのかはわからない。が終始一貫彼女はこの姿勢を
崩さなかった。教師の方もそれ以上追求して「何故答えない」などと怒るような事はしな
かったし、授業中答えない事で彼女が職員室へ呼び出されて叱られたような話も耳にしな
かった。それどころか彼女の事はある了解があったのか、授業中彼女を指名する教師はも
う殆んどいなかったといってよい。それでもクラス全員が列の端から順に当てられて答え
たり、本を読まされたりする時は、金さんも皆と同じにやっていたのである。
金さんにはひとりだけ友人がいた。同じクラスの加古井さんという丸顔のよく笑う女生
徒だった。私はクラスの友人たちの名前も顔もあらかた忘れてしまった中で、加古井さん
だけは金さんと一緒に鮮明に憶えている。二人はいつも一緒に登下校していたし、休み時
間も一緒に過ごしていた。金さんは加古井さんとは自由に話し遊んでいたようである。あ
る昼休み、時間が来て午後の授業の始まりの鐘が鳴り、皆三々五々教室へ入ろうとしてい
た時、私が自分の席につこうとしていると、後の入口から加古井さんが笑いながら息せき
切って走りこんで来て、すぐそのあとを追って金さんが「加古井さん、そんなずるい、い
かんわあ」と半ば甘え半ば訴えるように言いながら走って入って来たことがあった。私が
気づくと同時に金さんもはっとしたように口をつぐみ急に静かになった。座席の間をぬっ
て自分の席についた時の金さんは、もういつもの静かな金さんにかえっていて、さっきの
彼女の姿はどこにも見当らなかった。が彼女の顔は表情と裏腹に汗ばんで額の生え際に小
さく縮れている毛がぬれてぴったりと張りついていた。私は後に座ったそんな金さんをち
らりと見ながら「やっぱり金さんも私らと同じなんやわ」と何故かわからないが安心した
ような気になったものである。
三年の終りが近づくと、私は自分の受験の事で頭が一杯になり、誰と誰がどこの高校へ
行くとか行かないとかの話の中で、金さんの進路については話題にも上らなかったので、
悲しい事に彼女がどうされたか全くわからない。私にとって忘れられない存在だなどと大
きな口をきいてみても、所詮自分の身に何かの火の粉がふりかかってこない時の事であっ
てみれば、この様な文など書けるものではないと思うが、三十年程前の出来事の中で何気
ない生活の一コマ一コマが鮮やかに想い出されてみると、私の中に彼女が残したものはや
っぱり大きいと思う。その限りにおいてのみあえて忘れられない存在と言わせてもらいた
いのである。
金さんの事はそれっ切り何もわからなくなってしまったが、私達が高校へ進学してから
も、関西学生サッカーの名門校で活躍する李さんは新聞にその活躍ぶりが書かれ、相変ら
ずボールを追って走っている彼がうかがわれた。
私が入学した県立高校にもやっぱり李さんという女生徒がいたが、彼女は快活な話好き
の、金さんとはタイプの異なる美少女で男生徒に人気があった。親しくつき合った事はな
く断片的な印象しか残っていないが、ある年の文化祭で演劇部が「学生王子」の劇をした
時に、李さんはヒロインのケイト役を演じ、白いレースの頭かざりと胸当てのついた白い
エプロン姿で舞台に立ち、ますます男生徒の人気を博したようであった。
この頃国鉄三の宮駅前に新聞会館(神戸新聞社ビル)が建ち、相前後するようにその前
を走る阪神国道をまたいだ斜め向い辺りに、小さなストリップ劇場が出来て、あのサッカ
ーをしている李さんの兄さんがその経営者であるという話がどこからともなく伝わって来
た。当時の私たちは阪神国道を走るバスが街で用足しをする時も帰る時も便利であったの
で、私はその話を聞いて以来バスに乗るたびに窓から見えるその劇場を見ずにはいられな
かった。ストリップなる物がこの世にある事を知ったのもこの時であったが、私は劇場の
上の極彩色の看板を見ても女の裸なんか見てどうするんだろうと理解に苦しむ、何も知ら
ない高校生だった。裸が見せ物になるという事が解せなかった。
李さんは高校から大学へ進んで四年間の大学の間は東西対抗試合だ、学生全日本だとサ
ッカーに明け暮れた時期だったと思う、しかし私たちの世代も親のスネかじりの時期は終
り、各人が社会へ旅立つときがやって来た。街なかや駅や思いがけない所などで昔の中学
校、高校の同級生とぱったり出会ったりするようになり、坊主頭の中学生や甘ったれの女
子高生からは想像もつかないスーツ姿の青年や美しく変身した友人達と誰彼の消息を聞き
あったりするうち、李さんは結局どこへも就職出来なかったらしいという事がわかった。
日本人同級生でも羨む私立名門校の大学出、しかもあれだけサッカーで活躍したのだから
当然サッカーで有名な企業へ行くと皆思っていたのに何故という疑問。答えは一つであり、
朝鮮人だからというハンディの意味するものとその正体について私は考えこまずにはいら
れなかった。数カ月してからか一、二年たってからか、今度は李さんは兄さんと一緒に例
のストリップ劇場の仕事をしているらしいという話がきこえて来た。この話にはオマケが
ついていて、彼が本山中学校時代のある教師に「先生、ぼくらは結局こんな商売しか出来
へんのですわ」と言ったとか。真偽の程は定かでなかった、彼が言ったという内容が日本
の社会の中で朝鮮人がおかれている現実そのものである事は、当時の私にもわかった。だ
が私に何がわかっていたろう。
6
私は自分が歩いて来た道をふり返ってみて、特にその歩き始めの部分にまつわる何人か
の朝鮮人の事を書いてみた。日本人の私から見た朝鮮の人々であってみれば、陽の当る側
にしか立ち得ない者の思い出話にすぎないであろう。いい気なものだと言われても仕方な
いと思っている。しかし私は書いてみたかった。それは朝鮮の人々が私の歩む道の上に何
かを落として横切って行ってくれたと思うからで、その何かを一つ一つ拾い集めてようや
く私は「読む会」に到達出来たと感じるからである。
園田の河原で出会った彼が落として行ってくれたものを今私は両の掌を開いて拾い上げ、
持っているつもりである。私はあの小屋には誰も朝鮮人など住んでいなかったと確信する。
私の中の朝鮮人たちは皆、各々に顔を持ち名前を持ち確かに実在した人々なのである。た
とえ私が名前を知らなくても、話をした事がなくても、通りすがりに見かけただけであっ
ても、存在していた事実のある人々なのである。しかし彼はちがう。彼は顔はおろか、名
前も何も影すら見た事もない朝鮮人であったのだ。それでも否それ故に、私にとってかけ
がえのないものを遺して行ってくれた朝鮮人であったと思っている。後年、私はハンセン
氏病の症例の中に手足の指が欠損するのがあるという事を知り、あの話が全くの作り話で
つじつまも合わないといった例でなく、実にいやな所である正確さを持っているのに、言
い知れない腹立たしさを覚えたものである。
旧西灘駅のそばにあったヤミ市で喧嘩をしている朝鮮人たちが、記憶の底から浮かび上
がって来たのも、
「読む会」に入って金史良の「親方コブセ」を読んだ時であり、奇妙な日
本語をまじえてやり合っていた喧嘩のその日本語がどんなものだったか甦って来たのは、
金泰生の「私の日本地図」に描かれている一世の人たちの有様を読んだ時である。私が愉
快な喧嘩と感じた奇妙な日本語のやり取りについて、金泰生は言う――それらは朝鮮人が
彼らの恥多い異国の暮しの中でかたくなに守っていたことばと生活習慣にもかかわらず、
強いられて変形させられてくる生活のうらづけのある生きた記号としての奇妙な日本語で
あり、一たん朝鮮人の家の外すなわち日本人社会の中へ出ると特定の意識的悪しき拡大再
生産がおこなわれ、民族的差別のいろどり濃い蔑視をふくんだことばとなって朝鮮人へも
どってくる(
「私の日本地図」から筆者要約)と。
そうだったのか、便所(ベンソ)とか電球(テンキタマ)とか水道(スト)の水(ミス)とか、たし
かに耳に憶えのあることばは、彼らが生活の必要にせまられて、自らの母国語と異国のこ
とばである日本語とが「互いに歪めあっていた不幸なかかわり」そのものであったのだ。
これは「ことばだけの問題にとどまるものではない」と金泰生も書いている。まさにその
ような例の具体的な一つが、園田の河原であったと思う。朝鮮人は言葉も知らない、満足
に発音も出来ないアホやということが拡大再生産をくり返し、様々な社会的歴史的要素が
からみ、だから忌み嫌われて当然の存在であるとして日本人の中に根深く定着していった
ことは事実であろう。
人々が落として行ってくれたものをそれが何かわからずに拾って持っていた私にとって、
「読む会」はなぞ解きのように一つずつ明解にしたり、つなげて見せてくれたり、足りな
いところを補ってくれたりしてくれるのである。彼らの誰とも親しく口をきいた事のなか
った私が、今「読む会」の仲間として、何人かの在日の友人たちを知り、共に在日朝鮮人
作家のものを読み、討論をし、コーヒーを飲みに行き、時には焼き肉をつつき合ったりし
ている事を思うと、感慨深いものがある。そんな時必ず私の脳裡をよぎるのは金玉子さん
であり、彼女は元気で彼女の在日をどこかで生きておられるだろうか、それとももうとっ
くに日本をあとにされているのだろうかということである。李さんは彼の兄さん共々健在
で居られるらしい。
今夏、私は小学四年生の末っ子をつれて、今は母がひとりで住んでいる魚崎の実家へ帰
った。滞在中、息子にせがまれて街へ行き、例のポートライナーに乗り、私が子どもの頃
は海であった所に出来た人工の島ポートアイランドへ行き、遊園地で遊んだ。大かんらん
車に乗ると、次第に高くなるにつれて眼の前に広がる大パノラマ、一望のもとに見わたせ
る大阪湾、空と海にはさまれて蜃気楼のように見える対岸の街、東の方かられんれんと連
なる六甲の山なみ、その中腹まではい上がるようにして建っている神戸の街の家々、眼下
にひろがる港が西の和田岬のむこうから東灘の方までのびている。港の中央のポートタワ
ーやドックメリの船、首をのばした恐竜のような形をした川崎重工のいくつかのクレーン、
大小さまざまの船、人工の島に建築中の大きなビルや船会社の倉庫などがつぎつぎと目に
入る。水の色は濃い碧青であったが、地上はるかなゴンドラの中から見ても、海は昔のよ
うに澄んでいるようには見えなかった。
ポートアイランドから街なかにもどって、
「帰りも阪神電車に乗る?」という息子に私は
「帰りはバスにしよう」といって、何年ぶりかで阪神甲子園行きのバスに乗った。国鉄三
の宮駅前、新聞会館をすぎるあたりから右側の窓の外に目をこらしていると、ストリップ
劇場のあった辺り一帯、うす茶色をした円柱型の三~四階建てのビルになっており、もう
極彩色の看板はどこにも見えなかった。
私と息子を乗せたバスはその前を通りすぎ、阪神国道を東へと走りつづけて行った。
(83・11・12)
対馬万緑
醴
泉
いくさ無き三十八年訪わざりしヒロシマの空を痛みもち飛ぶ
海の青空の青より顕われて
ここが対馬
対馬八月万緑のなか
朝鮮が見ゆとう国境の対馬の風に吹かれ降りたつ
元寇の小茂田の浜に波光り若きらが砂に肌を灼き居り
「絃二郎文学碑」ありとガイドより聞きし上見坂にて酔い止めを服む
水底の廃船のごと暗ぐらと羊歯に埋もるる明治の兵舎
展望台にのぼる道傍の草深く防衛庁の界標立てり
喘ぎつつ登り来たりし展望台
海峡の彼方祖国は見えず
晴れた日は朝鮮が見ゆとう地に立ちて目凝らせど海と空があるばかり
東洋一の高さを誇るオメガ塔
国境の島の鋭き触覚
海流の激ちは見えず青の果て暗き底ゆく艦影あらん
海峡は蒼く漲りわが裸なる怒濤の灘の波揺れやまず
見ゆ見えぬとさざめく中に居て寂し
足長き少年
南北に分かたれし祖国が口惜し
夕べの渚にて「韓国」の黒きブイを拾い来ぬ
殿崎の台地の原に群れ咲ける撫子の花のうす紅のいろ
比田勝の宿のテラスに語らえば潮風に虫の声のぼり来る
杉の秀の直立つ谷地の青暗きなだりのホダに茸太るらし
朝鮮の種とおぼしき赤牛のせまき草地に食みて人無し
島山の緑濃きなかいち早く血の色に赤く櫖は燃え初む
「芳州」に傾倒ふかき白晢の氏を先導に城山のぼる
植生を滅ぼす林野行政と鋭くつきてけもの道攀ず
いにしえの石塁くずし敷かれたる明治の軍道古りて草生う
中腹の砲台跡に瑠璃きよく桔梗咲けり花無き夏を
「百船の泊つる対馬の浅茅浦」いま快速に繁吹きつつゆく
朝鮮式山城と謂う頂に立てど指呼の間の祖国は見えず
渾身に日本人が語る「身世打鈴」幾万のオモニの声ごえ顕つも
戦争の酷さ知るゆえへだてなく生命愛ぐしきわれら戦中派
イヤイヤのさまに散り敷く
かえで小春風なき午後の舗道に
『架橋』バックナンバー
一号(一九八〇年冬)
ばならないもの」
磯貝治良「会のあゆみ」
蔡太吉「独白」
中山峯夫「朝鮮人と、父親と」
安田寛子「さらさね
藤本由紀子「読む会と私」
竹内新
「極楽トンボ」 五十棲達彦「読む会に参加して」 裵鐘眞「朝鮮人としての再発見」 会
録など。
二号(一九八〇年夏) 磯貝治良「
〈民衆〉という陥穽-『見果てぬ夢』一つのこと」 蔡
太吉「金石範の小説に触れて」
劉竜子「架橋に寄せて」
藤本由紀子「私自身をとりも
どすための」 小室リツ「作品の中の朝鮮の婦女たち」など。
三号(一九八一年春)
で」
裵鐘眞「傷だらけの構図-李恢成著『死者の遺したもの』を読ん
文学謙「喪失と脱自」
与語潮「架橋小話」
権星子「命運憶う」
分にとっては」 磯貝治良「抵抗史を継ぐ-許南麒『火縄銃のうた』覚書」
みたたみ「自
会録など。
四号(一九八二年夏) 裵鐘眞「
『見果てぬ夢』雑感ノート・一」 劉竜子「『見果てぬ夢』
の中の女たち」 与語潮「友人の花嫁」 会録など。
会
録
第 52 回(1982・7・18)成律子「異国への旅」
報告者・裵鐘真
参加者 7 名
第 53 回( 8・15)成律子「白い花影」
報告者・鼓けいこ
参加者 9 名
第 54 回( 9・19)朴寿南「もう一つのヒロシマ」
報告者・吉野尚樹
参加者 8 名
第 55 回(10・17)成允植「朝鮮人部落」
報告者・中山峯夫
参加者 6 名
第 56 回(11・21)金賛汀「朝鮮人女工のうた」
報告者・伊藤啓子
参加者 7 名
第 57 回(12・5 )
「架橋」4合評会
報告者・金蓬洙
参加者 12 名
第 58 回(1983・1・9)金蒼生「わたしの猪飼野」
報告者・鼓けいこ
第 59 回( 2・ 6)金蒼生さんを囲んで
参加者 11 名
参加者 17 名
第 60 回( 3・ 6)金石範「幽冥の肖像」
報告者・磯貝治良
参加者 8 名
第 61 回( 4・ 3)竹田青嗣「
〈在日〉という根拠」
報告者・伊藤啓子
参加者 8 名
第 62 回( 5・ 8)鄭貴文「故国祖国」
報告者・津田通夫
参加者 9 名
第 63 回( 6・19)高史明「少年の闇」
報告者・安田寛子
参加者 7 名
第 64 回( 7・10)李恢成「サハリンへの旅」
報告者・劉竜子
参加者 10 名
第 65 回( 8・ 7)金石範「火山島」Ⅰ
報告者・磯貝治良
参加者 9 名
第 66 回( 9・11)金石範「火山島」Ⅱ
報告者・磯貝治良
参加者 6 名
第 67 回(10・16)金石範「火山島」Ⅲ
報告者・磯貝治良
参加者 9 名
第 68 回(11・13)金石範さんを囲む集い
はなし・金石範
第 69 回(12・18)84 年にむけて望年会
参加者 35 名
参加者 11 名
第 70 回(1984・1・22)李良枝「かずきめ」
報告者・蔡孝
参加者 9 名
「読む会」へ参加を
在日朝鮮人作家を読む会は一九七七年十二月に発足以来、七年目に入っています。毎月、
例会をひらいて、在日朝鮮人作家、詩人、評論家の本を読み、レポーターの報告とざっく
ばらんな討論を行なっています。読書会のほかにも、二度にわたって作家・金石範さんを
招いて集いを開いたり、
『わたしの猪飼野』の著者・金蒼生さんを囲んで語りあったりしま
した。この四月で会は七十三回目を数えました。
「読む会」には、愛知県内だけではなく、遠く奈良や京都から参加する朝鮮人の友人もい
ます。現在、毎回の参加者は、朝鮮人と日本人がほぼ半々。文学を通して、朝鮮人と日本
人が出会い、ふだん着の交流をかさねながら、おたがいの違いを正確に確認し合い、接点
を求めて活動しています。
(い)
あとがき
在日朝鮮人がいかに生きるか、日本人はいかに生きるか。歴史をふまえて現在と明日を
どう生きるか。そうした互いの積極的な問いを出しあって、
「読む会」は営みをつづけてい
るつもりである。六年余の営みのなかで培われた何かが「架橋」誌面に写しだされるのか
どうか、自信はない。たぶん、道のりは遠いだろう。
ともかく、文芸雑誌ふうな装いの会誌にふみきることはできた。装いとして、この号が
創刊号であってもいい。ただ、過去四号はこの号を生みだすうえでかけがえのないもので
あったという気持で、五号と銘打った。
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