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KKHR2012/W_05 各論10

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KKHR2012/W_05 各論10
3.5.1.
アムステルダム・ウェステラッケ・エイランデン地区とハールレムメル地区における
17 世紀初期の都市デザイン手法
正会員 ○成清仁士*
同
アムステルダム
ネーデルラント
ルネサンス
運河
グリッドプラン
オランダ
杉本俊多**
Realeneiland、プリンセン島 Prinseneiland、ビッケルス
1.序
17 世紀のオランダは大航海時代を背景として黄金の世
島 Bickerseiland からなるウェステラッケ・エイランデン
紀とも呼ばれる隆盛を誇り、その中心都市アムステルダム
地区とハールレムメル地区を扱う6。
は 16 世紀のアントワープに代わる経済中心地となった1。
3.2
1609 年、市参事会は 16 世紀末の旧市街東部に続く都市
西部湾岸地区の変遷
以下、
古地図を用いて対象地区の変遷を見ていく
(図 2)
。
拡張計画について議論を始めた2。1613 年には旧市街西部
①1613 年:ハールレムメル堤防は中世以来の歪んだ形
に新市壁を建設する計画がまとめられ、その内側には直線
状であり、その北側のエイ湾沿岸の土地が新市壁によって
的な運河網を用いた新市街が形成された。ここでは、その
囲まれている。1601~1611 年、この土地はニシン漁業者
うち新しい港地区として計画された、エイ湾沿岸のウェス
のための港として計画されており、その名残が見られる。
テラッケ・エイランデン Westelijke Eilanden(西の島の
②1614 年:ハールレムメル堤防は直線化され、その北
意)地区とハールレムメル地区 Haarlemmerbuurt に着目
側には二つの島と入り堀が現れている。1613 年、市当局
する(両地区を合わせ、以下、
「西部湾岸地区」とする)3。
はこの土地を造船業等に解放された港とする決定をして
おり、そのための土地開発が進んでいるものと見られる。
2.研究の目的と方法
③1623 年:ウェステラッケ・エイランデン地区の土地
17 世紀初期拡張地区の内、三運河地区やヨルダーン地
形状はほぼ完成しているが、レアレン島の一部が造船所と
区については比較的よく知られるが、本稿で対象とする西
して利用されている他は、土地利用が進んでいない。ハー
部湾岸地区に関する研究は少ない4。居住地区たる前者に
ルレムメル地区では堤防を継承した中央街路を軸として
対して、西部湾岸地区は貿易関連施設が集約された地区で
直線と直角を基軸に六分割した街区構成が見られるが、建
あり、オランダ西インド会社(WIC)関連の貿易施設など
物の立地はまばらである。
が立地した。貿易は当時のオランダの主要産業であり、そ
④1625 年:プリンセン島において整然とした街区分割
れに関わる新地区がいかに形成されたのか、興味深い。本
が見られ、建物の立地は少ないものの、運河に面した外周
稿では、17 世紀初期における、同地区の都市デザイン手
の河岸空間は材木置場として利用されている。ビッケルス
法を明らかにすることを目的とする。
島においても同様の街区構成が見られるが、材木や建物は
分析史料としては各年代の都市形状を示す古地図を用
全く描かれておらず、なお利用されていないものと思われ
い、1613 年、1614 年、1623 年、1625 年、1650 年、1657
る。ハールレムメル地区では堤防を継承した主軸街路南側
年の都市地図を主に用いた。さらに、アムステルダム市文
の 3 街区がさらに分割されている。部分的に建物の立地が
書館(Stadsarchief Amsterdam)所蔵の 1613/22 年頃の
見られるが、土地利用は進んでいない様子である。
計画図、及び 1623
年のプリンセン島街区分割図を用いた5。
これらの古地図について、まず 1870 年地籍測量図を
⑤1650 年:この頃には地区全体の土地利用が進んでい
るのが見て取れる。ビッケルス地区の街区形態は変更され
CAD を用いてトレースし、現代の地籍図を参照して修正、
ており、造船所地区となっている。
これをベースマップとして古地図の情報を落としみ、これ
らの復元図を用いて以下の分析検討を行った。
4.各地区の街区構成方法と機能
3.西部湾岸地区概略
いて各地区の街区構成方法と機能について見る(図 3、4)
。
次に、1657 年の対象地区復元図と 1657 年都市地図を用
3.1
1)レアレン島の街区・倉庫・造船地区の混合
17 世紀初期の都市拡張
17 世紀初期の都市拡張後の都市の姿は、1623 年、及び
ほぼ平行四辺形に整形された島型をなす。六分割された
1625 年の都市地図に見ることができる(図 1)
。
東の二区画はほぼ二面町型で中型の建物が密に並び、西側
本稿では運河を間に挟んだ 3 つの島、レアレン島
の四区画は一部に大型倉庫が立ち並び、残る大半は造船所
Study on the Town Planning Idea of Westelijke Eilanden
and Haarlemmerbuurt of Amsterdam in Early 17th Century
65
NARIKIYO Hitoshi, SUGIMOTO Toshimasa
地区として利用されている。
る。図から以下のような点が読み取られる(図 5)。
2)プリンセン島の倉庫群地区
1)開発前の土地所有状況
ほぼ台形に整形された島型をなす。中央を東西に走る街
開発前は、市所有地と個人所有地が帯状に並ぶ土地所有
路によって二分割され、各区画は中央で背割りされた二面
状況であったことがわかる。さらに、図中のやや時代が下
町型の大型敷地と中央街路沿い等の小型敷地で構成され
ると思われる書き込みから、個人所有地は 1622 年に市当
る。周囲の河岸空間は全て材木置場に供されており、多く
局によって購入されたらしいことがわかる7。
旧土地境界はレアレン島と並行となっており、レアレン
の材木の積み上げが見られる。
北側区画の大型敷地には倉庫が立ち並ぶが、南側区画で
島とその両側の運河についてのみ既存の土地状況を継承
は空地が目立つ。中央街路沿いの小型敷地には小型の建物
し、その他の部分については無視して計画されたものと推
が密に並び、この街路が主要な動線であったことがわかる。
測される。
2)運河幅のヒエラルキー
小型建物は職人の居住用等に供されたと考えられる。
3)ビッケルス島の造船地区と職人居住地区の混合
図にはウェステラッケ・エイランデン地区の全ての運河
幅が記載されている。運河幅は 140、150、200(約 40m、
ほぼ台形に整形された島型をなす。長辺方向に二分割さ
れ、西側区画はさらに短辺方向に三分割される。島の東側
43m、57m)となっており、運河幅にはヒエラルキーが与
は造船所地区とされ、等間隔に敷地が分割されている。島
えられていたことがわかる8。
の西側は二面町型の小型敷地に低層の建物が密に並び、職
3)街区分割の初期計画案
人の居住に供されたと推測される。この小型敷地の西側は
図には以下のような実施されたものとは異なる街区分
割が見られ、初期計画案を示す。
一部空地が見られることから、中央街路が主要な動線とし
て表の扱いであったものと思われる。また、島の西側と北
a.レアレン島
側の水際は材木置場に供されている。
中央街路によって長辺方向に二分割されており、各街区
4)ハールレムメル地区の軸状街区
は直接水際に接する。それぞれ「Brau erven」「Timmer
ハールレムメル堤防周辺の土地がほぼ平行四辺形に整
erven(大工作業場)
」の記載が見られ、南側街区には中央
形されており、西側で市壁に繋がる。ハールレムメル堤防
街路に直交してプリンセン島へ向かう街路が見られる。
を継承した中央街路を主軸として、直線街路によって九分
1623 年都市地図と比較して(参照=図 2 ③)、西側につ
割され、一部の街区がさらに二分割される。ハールレムメ
いては概ねこの初期計画案通り実施されたことがわかる
ル門の内側には広場が設けられており、中央街路と広場に
が、東側部分については計画変更されたことがわかる。
b.プリンセン島
おける活発な都市活動が推測される。
十字街路によって島を四分割する計画である。南北の中
各街区は短辺幅が比較的狭く、背割りされて二面町型に
央街路は無くして実施されたことがわかる。
近い。街路を中心として両側の建物の用途が考えられてい
c.ビッケルス島
ると見られ、背割り線は中央ではなく、偏った位置となっ
ている。北側の水際は材木置場として供され、街路を挟ん
東西に走る街路で島を二分割する計画であり、プリンセ
で倉庫群が立ち並ぶ。中央街路沿いには都市建築が密に建
ン島の実施案と同様の計画となっている。水際の河岸空間
ち並び、店などに供されたと推測される。さらに南側の街
は材木置場として計画されたものと推測される。実施案で
路には奥行きの短い敷地に小型の建物が密に並び、商人等
は造船所地区へと計画変更されたことがわかる。
の居住に充てられたと考えられる。南側のブロウウェルス
d.ハールレムメル地区
(ビール醸造者の)運河沿いには倉庫が立ち並び、運河の
東西に走る主街路の南側三街区が分割されておらず、
名称からビール醸造に関連した用途に用いられたと考え
1623 年都市地図に見られる形態に近い(参照=図 2 ③)
。
られ、河岸空間は荷役に供されたと推測される。
実施案ではこの三街区が街路によって分割され、街路沿い
5)市壁内側の製塩、ロープ製造所地区
には奥行きの短い小型敷地が密に並び、より機能的に整理
市壁の内側には細長い土地に製塩所やロープ製造所な
された計画的な土地利用がなされるに至った(参照=図 4)
。
5.2
どが立地し、工業地区的な役割を担っている。
1623 年のプリンセン島の土地分割図
さらに、同文書館には 1623 年のプリンセン島(図上で
は Middelste Eylant と記載)の土地分割図が残されてい
5.西部湾岸地区の都市デザイン手法
る(図 6)。同島の土地は 1623 年に競売にかけられたとさ
続いて、西部湾岸地区がどのように計画され実現された
れ、当時の配布図とされる。
のか、その都市デザイン手法を探る。
5.1
同図では南側街区と北側街区にそれぞれA、Bの記号が
1613/22 年頃の計画図
アムステルダム市文書館には、西部湾岸地区の計画段階
記載され、n゜1、n゜2、…と土地区画番号が与えられて
の状況を示すと考えられている貴重な史料が残されてい
いる上、街区幅と奥行きは一定の幅で分割しようとする意
66
図が見られる。大型敷地は全て 32×125[voeten](9×
画的に配されていた。
35[m])、中央街路沿いの小型敷地は 20×40[voeten](6
(6)市壁
×11[m])を基本とし、一部の間口が 15voeten (4m)
市壁は簡略なネーデルラント型とされ、運河の配置は市
とかなり狭い。角については小型敷地の短辺が運河側に向
壁に対して平行配置ではなく、市壁の内側に三角形の土地
くようにされ、運河側のファサード景観が重視されたもの
が生じている。ここには製塩所やロープ製造所が立地した。
と推測される。材木置場となる河岸空間については向かい
合う区画に合わせて分割され、奥行きは一定の 55voeten
6.結
(15m)となっている。中央街路には 20voeten (6m)
ここではアムステルダム・ウェステラッケ・エイランデ
の記載があり、全ての街路幅はこれに従うものと見られる。
ン地区とハールレムメル地区を取り上げて、17 世紀初期
このように、ここには非常にシステマチックな街区分割
における近世型の都市デザイン手法の実態を明らかにし
方法が見られる。1657 年の復元図と比較すると実施に至
た。そこでは直線と直角を基軸として、システマチックな
ってやや歪んだものとなったことがわかるが
(参照=図 4)
、
計画意図が見られた。土地の用途と宅地、街路、運河の空
街区分割を計画する上で、土地の分譲を合理的に行おうと
間構成には用途に合わせた機能的な計画手法が形成され、
する意図が強く作用したものと推測される。
それらが街路を中心としたまとまりによって計画的に配
5.3
された。運河と街路のネットワークはこれらの地区を合理
西部湾岸地区の都市デザイン手法
対象地区の都市デザイン手法を以下に整理する。
的に繋ぐものとなっている。
(1)街路網
れ、特にプリンセン島の初期計画案と実施案、ビッケルス
謝辞
本研究は平成 18~20 年度科学研究費補助金基盤研究
島の実施案では地区を街路によって等分割する幾何学的
(C)課題番号 18560631「16世紀ネーデルランドおよびド
な街路構成が見られた。全ての地区において主要な動線は
イツにおける理想都市理論に関する研究」の研究成果の一
地区の中央街路であり、水際の側は業務用の裏的な扱いで
端をなす。加えて、日本建築学会中国支部による 2009 年
ある。また、ハールレムメル地区では主軸街路と水際の街
度「中国支部奨励研究助成」を受けて行われた。記して感
路との間に居住者用の街路が通された。地区間の連結は概
謝申し上げる。
各地区は直線と直角を基軸とする街路によって分割さ
ねこれらの街区に直交する街路と橋によってなされ、街路
註
ネットワークを構成している。
1 アムステルダムの都市史に関しては、主に以下を参照した。
(2)運河網
・W.Frijhoff & M.Prak(red.), ‘Geschiedenis van Amsterdam :
Centrum van de wereld 1578-1650’, Amsterdam, 2004.
・R.Roegholt, ‘A short history of Amsterdam’, Amersfoort, 2006.
・E.Taverne, ‘In ‘t land van belofte : in de nieue stadt -deaal en
werkelijkheid van de stadsuitleg in de Republiek 1580 – 1680’,
Maarssen, 1978, pp.112-176.
運河は直線で構成され、平行に配されている。土地を島
型とすることで運河は循環し、運河ネットワークが形成さ
れている。また、運河幅にはヒエラルキーが与えられてい
た。これらの運河は既存のポルダーを継承するものではな
2 16 世紀末東部拡張地区については既に報告した
(参照=杉本俊多、
く、計画的に新たに掘削された。
浜上友美、岩森健太、
「アムステルダム 16 世紀後期形成地区の空間
構成の復元的研究」、日本建築学会中国支部研究報告集、第 29 巻、
729-732、2006.)。
(3)河岸
運河に面する部分は全て船が着けられるようにされ、造
3 本稿は、ネーデルラント(低地地方の意:現在のオランダとベル
船用敷地、材木の貯木場、荷揚げ場とされた。河岸空間の
ギーを含む地域)において形成された近世型の都市デザイン手法に
関する建築史、都市計画史的な一連の研究の一端をなすものである。
利用は計画的であり、土地の用途と宅地・街路・運河の断
4 J.H.Kruizinga の研究があるが、都市デザイン手法に関心を置くも
面構成には一定の都市計画的な手法が形成されていた。
のではない(J.H.Kruizinga, De Westelijke Eilanden van
Amsterdam, Amsterdam, 1986.)。
(4)街区形態と街区分割方法
5 Stadsarchief Amsterdam, Archief 5039, Thes. Ord. Kaartboek C,
街区形態は長方形を基本とするが、島の形状に合わせて
kaart 76 en 77。なお、2009 年 4 月に臨地調査を行っている。
変形されている。一部を除いて街区の角は直角であり、奥
行きは均一となっている。
街区の分割方法は、敷地の用途に合わせて幅を均一にし、
街路の機能によって背割り線の位置を偏らせて奥行きを
調整するという、非常にシステマチックな方法が見られた。
(5)土地利用
6 当初は Vooreiland、Middeneiland、Achtereiland と呼ばれた。
7 例えば、
「oetgens」と書かれた土地に、
「nu die stadt(現在は市
市当局)
」
「gecost 1622(1622 年に購入された)
」という書き込みが
なされている。oetgens は 10 代目市長 F.H.Oetgens を指すと思わ
れ、開発前の安い土地を購入し、市当局に高額で売却したことで非
難された人物として知られる(R.Roegholt, op.cit., p.47)。
8 単位はフート voet と考えられ、アムステルダムにおける 1 フート
は約 0.283 メートルである(W.C.H.Staring, ‘De Binnen- en
Buitenlandsche Maten, Gewichten en Munten’, ed. R.W.van
Wieringen, 4th edn, Schoonhoven, 1902, p.10.)。
西部湾岸地区は全体として材木輸送や造船、ビール醸造
などの貿易関連の工業地区的な扱いとして計画されたが、
そこでは職人や商人等の居住地区などが機能に応じて計
67
1 レアレン島
2 プリンセン島
3 ビッケルス島
4 ハールレムメル地区
5 ヨルダーン地区
6 三運河地区
7 ダム広場
8 東部拡張地区
1
2
3
4
5
エイ湾
6
7
エイ湾
8
図 1 1625 年復元図
図 4 1657 年の西部湾岸地区復元図
②
①
破線:開発前の土地境界線
a
図に記載の開発前土地所有者
b
c
d
e
a stadt
b stadt
c Oetgens,
nu die stadt gecost 1622
d Pos Cons,
nu die stadt gecost 1622
e stadt
f
Oetgens, nu de stadt 1622
g wits
h Oetgens
f
g
h
③
④
⑤
図 5 西部湾岸地区初期計画案の復元図
図 2 古地図に見る対象地区の変遷(全て下が北)
(①1613 年、②1614 年、③1623 年、④1625 年、⑤1650 年)
図 6 1623 年プリンセン島街区分割図(中央街路東側部分)
1)レアレン島
3)ビッケルス島
2)プリンセン島
4)ハールレムメル地区
図 3 1657 年都市地図(各部分)
*広島大学大学院工学研究科
**広島大学大学院工学研究科
博士課程後期
教授・博士(工学)
図版出典
図 1、4、5:著者作成。
図2 ①:B.Bakker & E.Schmitz, ‘Het aanzien van Amsterdam,
Panorama’s, plattegronden en profielen uit de Gouden Eeuw’,
Amsterdam, 2007, p.27.
②:E.Taverne, op.cit., p.148.
③:B.Bakker & E.Schmitz, op.cit., p.201.
④⑤:J.Hartmann, "Atlas Amsterdam",
‘Historical Atlas of Amsterdam’.
http://mapserver.sara.nl/amsterdam,
(参照 2009-08-04).
図3:B.Bakker & E.Schmitz, op.cit., p.108.
図6:Stadsarchief Amsterdam所蔵。
*Graduate school of Engineering, Hiroshima University
**Prof., Graduate school of Eng., Hiroshima Univ.,Dr.Eng.
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