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福音のすすめ ~年間第26主日~
-1- 福音のすすめ ~年間第26主日~ (今日の聖書朗読箇所) 第一朗読 エゼキエル書(18章25-28節) 第二朗読 フィリピの信徒への手紙(2章1-11節) 福音朗読 マタイによる福音書(21章28-32節) 今日の福音書のたとえは、兄が父親から「ぶどう園へ行くように」と言われると、兄は 「 い や だ 」 と 断 り ま し た が 、 後 で 思 い 直 し て 行 き ま し た 。 そ し て 、 父 親 は 弟 に も 、「 ぶ ど う 園 へ 行 く よ う に 」 と 言 い ま す 。 そ う す る と 弟 は 、「 承 知 し ま し た 」 と 言 う も の の 実 際 に は ぶ ど う 園 に は 行 か な か っ た と い う 話 で す 。わ た し た ち も イ エ ス か ら 、 「この二人のうち、 どちらが父親の望み通りにしたか」と訊かれると、おそらくほとんどの人が祭司長や民の 長 老 た ち と 同 じ よ う に 、「 兄 の 方 で す 」 と 答 え る こ と で し ょ う 。 で は 、 な ぜ イ エ ス が こ の ようなたとえをユダヤ人の宗教指導者たちに問いかけたのかをみていきたいと思います。 ユダヤ教の宗教指導者たちにむけての話ですから、当時のユダヤ教の問題点を指摘した ものでしょう。となると、彼らは、今日のたとえにでてくる弟の方を指しているといえま す 。少 し 、ユ ダ ヤ 教 、言 い 換 え れ ば イ ス ラ エ ル の 民 の 歴 史 を 振 り 返 っ て み た い と 思 い ま す 。 イスラエルの民の歴史は、旧約聖書に記されています。それによると、アダムとエバがエ デンの園から追放され、あまりに罪人が多かったのでノアの時代には、洪水を起こして、 ノアと各動物のつがいだけを助けました。他にも、少しでも神に近づこうとして高い塔を 建てようとした人たちに対して互いの言葉がわからないようにされたこともありました。 ここまでですと、怒りの神、裁きの神といった、恐い神の側面しか見えてきません。 アブラハムの時代には、自分の息子イサクを焼き尽くす献げ物として神に差し出させよ うとし、アブラハムの誰よりも、また、どんなことよりも神への忠誠を試します。次に、 出エジプト記では、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民をモーセというリーダー を通して、約束されたカナンの地まで導きました。その道中、民は、喉が渇いただの、食 べ物がないだのと不平不満をこぼします。その民の願いを、神は聞き届け、人々に必要な 水や食べ物を与えました。ここに神のわたしたち人間に対する愛の大きさを感じとること ができます。 カ ナ ン の 地 に 戻 っ て か ら 、神 は 、士 師 と い う 民 の リ ー ダ ー を 選 ん だ り 、預 言 者 を 選 ん で 、 ご自分のメッセージを民に伝えようとなさいました。ある時には、イスラエルの民が喜ぶ ようなことも伝え、ある時には、民にとって厳しいことも伝えました。当然、民は、優し い方をよく聞き入れますが、厳しい言葉には耳をふさいでしまいます。しかし、神が厳し いことをおっしゃるのは、きまって、民がこの世的なものを第一に求めたり、本当の神を 見失っている時に発せられます。たとえば、預言者エリアの時には、イスラエルの民が他 の民が神として崇めていた偶像のバアル神を本当の神だと信じ始めた時に、バアル神を崇 める祭司と預言者エリアとの対決があり、預言者エリアが勝ちます。このことを通して、 目に見える形で本当の神とはどなたなのかを示されたのです。 それから時が経って、イスラエルの民は、バビロン、今のイラクの地へと捕囚として連 れて行かれます。捕囚の期間は、神殿で神を崇め、焼き尽くす献げ物を捧げることができ ません。そこで、神殿に行かなくても神を信じ、崇め、祈るための指針がまとめられまし た。それが、律法という形となります。ただ、律法というユダヤ教としての指針だけでは 抽象的すぎるので、それをどう守るのかという手引書のようなものができてきます。それ が、安息日には、何もしてはならないとか、手を洗ってからでないと食事をしてはいけな いなどなど、数多くの事柄が示されてきます。このようなことを守ることこそが神の望ん -2- でいることであり、救いだと説いていたのがファリサイ派を中心とした、ユダヤ教の宗教 指導者たちの教えでした。それでは、今までの旧約時代からイエスの時代までのユダヤ教 における変遷をお話ししてきたことをもとに今日の福音書を考えていきたいと思います。 今日の福音書は、最初にもお話ししましたが、兄弟が父親から頼まれたことをどのよう に受け止めたのかということでした。そして、弟の方が、当時のユダヤ教の宗教指導者た ち だ と も お 話 し し ま し た 。な ぜ 、弟 の 方 か と い う と 、弟 は 口 で は 、お 父 さ ん の い う こ と を 、 「 わ か り ま し た 」と 返 事 し ま す が 、実 際 に 行 動 に 起 こ す こ と は あ り ま せ ん 。と い う こ と は 、 心の中では、いい加減に父親の言うことを捉えていたのでしょう。この状況がまさしく当 時のユダヤ教の姿でした。当時のユダヤ教は、とにかく律法というよりも、律法をもとに してまとめられた手引書を優先にして、律法の精神をないがしろにしていました。律法の 精神というのは、イエスが説き、唯一の掟だと定めた「愛」です。愛はすべてのものより も優先されます。ですから、律法よりも優先されるべきものです。その部分が、当時のユ ダヤ教には欠けていたのです。 彼らは、とにかく表面的には、律法を守ることにとても熱心でした。しかし、律法を破 るようなことは、たとえ特段の事情があろうとも赦そうとはしませんでした。たとえば、 イエスが病気の人をいやしたり、弟子たちがイエスと歩いている時に空腹のため麦の穂を 摘んで食べたことも、安息日にする行為ではなく、律法を破る行為であるとして、当時の ユダヤ教指導者たちからは、激しい非難がありました。それらは、愛に基づいた非難だっ たのでしょうか。そうではありません。目の前で、病気で苦しんでいる人がいれば、助け るでしょうし、空腹でどうしても我慢ができなければ、麦の穂を摘んで食べたりすること も あ る で し ょ う 。こ れ ら の 行 為 は 、す べ て は 愛 を 背 景 に し た も の で す 。た だ し 、イ エ ス は 、 一言も律法を破っても良いとは言っていません。律法の精神に従って生きなさいというこ とを伝えただけです。 今日の福音書では、弟の方は、お父さんの言うことを形だけで守ろうとしました。しか し、心の中では言うことを守ろうとは思っていませんでした。一方の兄の方はというと、 口 で は 、父 親 の 言 う こ と に 反 抗 し て い ま す 。こ の 兄 の 態 度 は 、罪 を 犯 し た 行 為 と 同 じ で す 。 なぜならば、ここでいう父親とは神のことだからです。神のいうことを聴かないのは、罪 です。でも、この兄は、後で思い直し、父親の言っていたことに従います。この行為が、 回心の行為です。回心は、今までの生き方、特に神に背をむけた生き方を改め、神の方だ けを見つめ生きていく生き方のことです。神は、やったかやらなかったのではなく、回心 したかどうかに重きを置いています。 こ の こ と を 福 音 書 の 最 後 に イ エ ス は 、「 徴 税 人 や 娼 婦 た ち の 方 が 、 あ な た た ち よ り 先 に 神の国に入るだろう」と言っています。徴税人や娼婦たちというのは、当時の罪人のシン ボルでした。その彼らの方が、ユダヤ教の宗教指導者たちよりも早く神の国に入りやすい と い う こ と で す 。と い う の は 、彼 ら の 方 が 罪 の 意 識 を 深 く も っ て い る か ら に 他 な り ま せ ん 。 では、わたしたちはどうでしょうか。ミサや祈りの本による祈り、ロザリオを何よりも優 先していたり、教会の決まり事や伝統をあまりにも重視していないでしょうか。たしかに それらのものは良いものであり、奨められるものです。しかし、たとえ良いものであった としても、自己満足に陥っていたり、自分自身に閉じこもっているのであれば、それは、 弟の立場と同じです。そうではなく、わたしたちは、その時々によって、今は何をなすべ き な の か と い う こ と を 常 に 聖 霊 と と も に 識 別 し つ つ 、選 び 取 っ て い か な け れ ば な り ま せ ん 。 それこそが、不断の祈りであり、もっとも大事な祈りです。わたしたち一人ひとりが神の 声を聞き分け、その声に対して「YES」という答えだけではなく、行動によっても神の 声に従って生きていきたいものです。 わたしたちが、神の声を聞き分け、神に従って生きていくことができますように、聖霊 の導きと照らしを祈り求めましょう。