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福岡県地方史研究連絡協議会会報

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福岡県地方史研究連絡協議会会報
rl`
EL 092 641 1123
The Liaison CouRCi1 011 Local History of Fukuoka Prefecture
連
福 史
12・25
1993・
福岡県地方史研究連絡協議会会報
(1)
ヽア
ol.26 No3
通巻 第 8 5 号
平成 5 年 1 2 月2 5 回
印刷発行
発行所
福 岡市 東 区箱 崎
1 丁 目4 1 - 1 2
福岡県立図書館内
現 代 的 差 別 観 に思 う
民 俗 学 でケガ レ論 が提 起 さ れ てか ら
、
神 事 にお け る女 性 差 別 が急 にか し ま し く
、
。
″
な った これ も古 代 か ら あ る 血 忌 み″
、
、
女 性 の月 のも の 出 産 に限 って 女
を
性 だ け が不 浄 のも のと決 め つけ ら れ てし
。
ま った感 が あ る
、
は 百
根も菜もな い迷信﹂ で片付 けられ
み″ が大 き な ウ エイ トを 占め て いた こと
に課 せ ら れ る厳 重 な潔 斎 のな か に
佐 々 木
なぜ そ のような言 い伝 えが生 じた のか に
神 事 に奉 仕 す る男 たち
″
血忌
市 史 の民 俗 綿 に ﹁サ ンバさ ん ﹂と 書 い
、
印 刷 会 社 の社 内 校 ■ で ﹁助 産 婦
たら
。
ついてはほと んど考 えられ ていな い
い つだ ったか、 あ る新聞社から電話 が
、
あ って ト ンネ ルエ事 の現 場 を 視 察 に
のたとえもあるよう に生と死 が裏表 にあ
て︶ や海 の仕事 はい つも生命 の危険 にさ
一 、
らされ ている。 ﹁
板子 枚 下 は地 獄 ﹂
ると いう民間解釈を そ のまま信 じ ている
。
だけ であ る 現代感覚からすれば たわ い
博 多 祇 園 山 笠 の山 小 屋 に立 てら れ る戒
″
間 刃物 を 用 い てはな ら な い″ と いう禁
。
忌 が 課 せ ら れ て いた のも そ の 一つであ る
。
出 血 を はば か る ため の斎 戒 であ る
板 の ﹁不 浄 のも の立 ち 入 る べか らず ﹂ を
、
女 性 と 即断 し て 女 人 禁 制 を う た ったも
、
のと解 釈 さ れ る こと が多 いが ﹁不 浄 の
も の﹂ は ﹁
浄 めざ るも の﹂ と読 む べき で
。
″
山 笠 行 事 は箱 崎 浜 への 汐 井 採
あ ろう
り″ に始 ま る。 ″
汐井 採 り″ は潔 を 意 味
し て いる。 以後 十 五 日 の追 山 の当 日ま で
神 事 に携 わ るも の には厳 重 な 潔 斎 が要 求
別と怒 る前 にそ の人 たち の仕事 がどんな
にと っては真剣 そ のも のであ る。女性差
、
別 と短 縮 さ せ てし ま う こと は 却 って本
。
本会副会長︶
︵
質 を 見 失 う こと にな ろ う
れ ら れ てし ま った現代 感 覚 でケガ レを差
ケガ レは潔 斎 と対 比 さ せ た上 でな いと
。
誤解 を 生 む も と にな る 潔 斎 の意 味 が忘
。
。
さ れ る 潔 斎 には禁 欲 も 含 ま れ る も し
一
それ を 犯 す こと が あ れば も う 度 楔 を し
。
て身 を 浄めなければならな い 斎戒を怠 っ
。
て いる のが ﹁
浄 め ざ るも の﹂ にあ た る
に厳 し いかを理解し てあげ る いたわりが
、
。
あ って欲 し い と答 え てお いた
、
のな いことかもしれな いが ご本人 たち
は民 俗 事 例 の中 か ら いく ら でも 引 き出 せ
、
る。 祭 り の当 役 に当 た ったも の に 一年
行 った女性議員が ト ンネ ル内 に入 る のを
″ と ど ち らを 使 った ら い い でし ょうか﹂
、
″
と尋 ね た ら ﹁
庄 頭 は 座 頭 市 ク のご た
、
″
盲 僧 ″ のほう が よ か
。
と書 く わ け にも いか な い 盲 僧 琵 琶 の伝
″
″
承者 の方 に直 接 ﹁首 倍 ″ と 座 頭 さ ん
。
で っし ょう や﹂ と答 え て下 さ った も っ
る。 そうした仕事 に従事する人 々がタブー
。
を重視す る のは︼然 であ る ご当人 たち
や っば し
。
とも
は晴 眼 だ った が ﹁サ ン バ さ
そ
の
方
。
婆 さ ん﹂ が悪 いら し い 桃
ん﹂ の方 は ﹁
るか ら
太 郎 の話 を ﹁古 々あ ると ころ に年 齢 を重
ね た男 の人 と女 の人 が いま し た﹂ と語 れ
、
と 言 う のだ ろう か。 そ う な ると 市 話 を
語 り のま ま で採 録 す る こと も でき な くな
る。
苦 話 には現 在 井 別 語 と さ れ て いるも
。
のが いく ら でも 出 て来 る か ら 問 題 は
︲
﹁
井 別 語 ﹂ そ のも の ではな く 一差 別意 識 ﹂
。
の方 な のだ が と い つも そ う思 う
最 近 よく 民俗 が差 別 の 九内 のよ う に 言
。 とし
て禁 ,占 ・
主
われ て いる のを 聞 く
、
兆 ・呪 に関 す る部 分 であ る が た い て い
ら男 が同性を つれ て 一緒 にくると嫉妬す
は女性差別など はま ったく意識 し ていな
、
い。山 の神 海 の神 は女性神と いう古代
、
信仰を そ のまま引き継 いで 女性神だか
拒絶 され て女性差別だと激怒 した のをど
う思 う か と、 意 見 を 求 め ら れ た こと が
。
あ った 山 の仕事 ︵ト ンネ ルエ事を含め
日 の不 自 由 な 人 の琵 己 ﹂
首僧 琵琶 ﹂を ﹁
﹁
哉
。
さ ん﹂ と 訂 止 され てき た 一荒 神 盲 僧 ﹂
。
には? マー クが つい て いた こ日僧 ﹂ は
、
ち ょ っと ひ っか か るか なと思 っていたが
哲
於 田主丸中央公民館
筑後善導寺系 の石塔 に ついて
発表者 内 藤 正 夫 氏
筑後 と対馬を結 ぶ卵生説話
発表者 日 野 文 雄 氏
口主丸 町誌編纂をめぐ って
研究発表︺
︹
十 一月 二十七 日的 午後 一時 より
筑 後 地 区︺
︹
平成 五年度地区研究集会報告
本年度 の地区研究集会 は左記 の如く開
、
、
催 され 盛会裡 に終 了し 各 々成果を挙
げ る ことが出来 た。本号 はそ の発表要旨
。
を収め る
筑 前 地 区︺
︹
於 福岡県立図書館
十月二十 一日0 午後二時より
講 演︺
︹
﹁
福岡県史﹂編纂 と民学脇同
発表者 佐 藤 誠 氏
豊 前 地 区︺
︹
於 団川市美術館
一
十 一月 四日働 午後 一時 三〇分 より
︹
研究発表︺
近隣 の人形浄瑠璃芝居と浄瑠璃
発表者 村 上 利 男 氏
﹁
福岡県無形民俗 文 化 財 伊 加 利 人 形
芝居﹂かしら の調査を終 え て
発表者 小 方 泰 宏 氏
と は、県史編纂 は編纂者、執筆者 の努力
は勿論 であ るが、史料 の調査、整備、閲
、
、
、
、
、
覧 文献利 用 写真 印刷 校正 製本、
、
編纂事務等 々のす べての力 地域 の ﹁
す
ぐれた本 を造 る力﹂ の結集 があ って、す
ぐれた県史編纂 が可能 であ る こと で、 ま
さ に県 の文化水準 なり、県 の力全体 が間
われ ているよう に思う のであ る。
そ の意味 で以前 から提唱し ている学界
の研究者 と民間研究者 の協力 ﹁
民学協同﹂
はます ます重要 であ る。 民間研究者 は学
界研究者 と交 わる こと によ って学界 の動
、
向 や視野 方法論 に ついての示唆を得 る
し、学界研究者 は民間研究者 と交 わ って
自 ら の学問 の原点 に帰 り、豊富な生活体
。
験 から の異な る視角を学ぶことが出来る
、
生涯学習 の時代 であ るから 民間研究者
と投 げ やり になる のでなく、
一つのテー
此 の十数年編纂代表とし て痛感す る こ
いに協力し て県史編纂 の基盤を造 りた い
と思う。 ロー マは 一日にし て成 らず であ
る。 ︵
本会顧間 ・久留米大学客員教授︶
、
、
支 えられなければならな いし 学界 民
、
間 いずれもが謙虚 に 時間をかけ てお互
今後
ア マもなく学問 は 一つである。
、
県史編纂 はます ます民学協同 に
でにそう いう人たちが何人も居 られ る。
とく に近世史、近代史、民俗学等 は最も
アプ ローチし やす い分野 であり、 プ ロも
は自分 は ア マチ ュアだから これ位 でよ い
第 二期 には史料編 のほか通史を数巻刊
、
行す る予定 で 昨年度 に ﹁
福岡藩 文化
、
。
0 ﹂ 今 年 度 m が 刊行 され る さ ら に
マに ついて本格的 に学 ぶ こと であ り、す
後 の近世庶民史料調査以来 の史料 の厖大
、
な発掘と 藩政史 ・社会経済史 の飛躍的
。
﹁
福岡藩 社会い﹂を編 纂 中 であ る 戦
基礎 とな っている ことを深く考慮 し て永
。
続的 に編纂す る ことを理想 とし ている
東京都 が明治 四十 四年 以来 ﹁
憂 昼理史稿﹂
の刊行を続 け、 バイ エルンのモ ニ ュメ ン
タ ボイカが 一七六三年以来 刊行 され て
いる のを はじめ各国 の県 ・州 の地域 が世
、
紀を こえ てそ の歴史を編纂 し ており 福
岡県も今後公文書館 の設置とも関連 し て
。
真 に考 え る時 が来 ている
、
チームを つくり 福岡と東京 で研究会を
。
重 ね ている
村
、
発展を受 け て ねば り強く進められ てい
る。現在稿本をす べて雑誌、紀要等を利
、
用し て印刷し 内外 の批判を得 て練 り に
、
練 る つも り で 日本的 せ っかちな突貫作
。
業をす る つも りはな い 近代も ﹁
明治﹂
と ﹁
大正 ・昭和﹂ の二 つのプ ロジ ェクト
選
講師 秀 村 選 一
二氏
﹃福 岡 県 史 ﹄ 編 纂 と 民 学 協 同
は
に始 ま
福 岡 県史 の
八
編
纂
一
九
〇
年
り、第 一期十年を経 て現在第二期 ︵
十年︶
に入 り、 これま で四十六巻を刊行 した。
わが国 の県市 町村史 の多 くが創設何周年
、
記念 の御祝儀物 記念碑 とし て 一定期間
内 に完 結 す る形 で編 纂 さ れ る の に対 し
、
て 我 々は県史 の編纂を たんな る記念碑
、
でなく 各国 の県 ・州地域史編纂 が永続
、
的 にな され 地域を深く正しく省察す る
秀
(2)
か
お、 く お
史
方
地
か
広、 く お
史
方
地
後 と 対 馬 を 結 ぶ卵 生 説 話
藤
正
夫
。
文明十八丙午六月 二 日卵七類 フ
内
女也
産 テ卒 シ玉 フ是 ヲ府 ノ東南飯盛山浄上
寺境内笠松 ノ下 二葬 ル甚 夕甚異 ︵
霊︶
アリ故 二是 レフ祭 ル ニ土 用祭又御卵塔
始 ル又奈多連神 ト ス即奈多連社 二祭 ル
。
。
七張弓 ノ祭 ヲ以 テスト云 牌名不伝
四 ﹃
津島紀事﹄文化六年 ︵一八〇九︶平
。
山東山編
東海夷浦恵比須社側
在二
前の ﹁
貞国﹂ とした混乱 があ る のも卵生
、
共に ﹁
将盛﹂ とし ているが 日口は四代
らしく不審 でなく興味を覚 える。
ここで花 田夫人 の実家 と父花 田将監 に
。
ついて考察す る 前記 の史料 では実家を
、
山熊里 今熊里とし ているが この二 つは
近隣地 で今 回の三井郡大 刀洗町と小郡市
に近 い。有名な矢野 一貞 の ﹃
筑後将士軍
、
談﹄ は山熊城 別名立花城を紹介 し てい
る。 父花 田将監 は属将とし て城内か、近
した であ ろう。私
く
に
の
の
前
記
里
村
居
住
、
はそ の後 花 田氏 は ﹁
鯵坂城﹂ に転 じ其
、
城主 或 いは重巨だ ったと 考 え る ︵口不
。
氏系譜﹄ に依 る︶ ま た花 田将 監 な る姓
名も卵生 の不祥を悼 っての仮名 で伝承 さ
、
れ 他 の実名を持 った実在 の武将級 の人
。
物 であ った であ ろう また家系 は初稿時
は玄海灘岸 を領 した原 回氏 の 一族とも考
、
、
えたが 今 日 では少弐氏 宗氏 の氏姓 に
。
あ ると推定し ている
次 に ﹃三国 史 記﹄ 新 羅 本 記 第 一には新
羅 国 始 祖 赫 居世 の有 名 な卵 生 に続 く 四世
。
要旨 ︶
脱 解 王 の記 を 紹介 す る ︵
、
、
﹁
其 国 王 女 国 の王 女 を 要 り有 妊 七 年
、
、
、
乃生 大 卵 王 国人 而 生 卵 不 祥 也 宣 し
く之 を 実 つべし と。 其 の女 、 忍 び ず 、 卵
と宝 物 を 包 み箱 に入 れ海 に流 す 、 時 に老
。
婆 拾 い 一小 児 の在 るを と り て之を養 うと
これ が 四世 脱 解 王 と な る。 花 田夫 人 の卵
特 に不 祥 也 と あ る のは正 に筆
、
対 馬 の 一小 祠
生 説 話 の源 流 は右 の ﹃
新 羅 本 紀 ﹄ に求 め
、
ら れ るが
者 の説 の依 る 一つであ り
の縁 起 は新 羅 国 王生 誕説 話 を 伝 承 し たも
。
の であ ろう
、
ま た 花 田夫 人 の卵 生 は肉 塊 の異 常 出
、
又 は胞 状 奇 胎 ︵ぶど う ご ︶ も考 えら
産
れ るが筆 者 は今 日 でも 多 い医 病の 配瞳冶﹂
。
の排 出 を 推 定 し て いる 医 療 には暗 黒 で
あ った中 世 では肉 塊 出 産 や結 石 の排 出 は
終 わ り に卵生 説 話 は小 祠 の縁 起 に付 会
不 吉 不祥 と す る 日本 古 来 の習 俗 が強 く伝
。
世 され て いた と思 われ る
し たも の であ ろう。 然 し島 主 の家 譜 にも
。
記 載 さ れ た こと は重 要 であ る 然 し 筑後
さ て花 田夫人 の卵生を考 え てみた い。
。
永留久恵氏 の近著 に左記 ︵
要し
じ がある
の御 霊 会 の縁 起 と し て語 ら れ て いるが
、
の文 献 に 一切 見 えな い こと は異 常 で 私
。
は筑 後 では故 意 に隠 され たと 見 て いる
﹁この卵生説話 は不慮 の死 を 遂 げ た愛 妾
﹃
対 州神社誌﹄ には ﹁古 来 よ り祭 来 ると
、
云﹂ とあ る ことから 本来 あ った神話的
で死 し其霊崇を鳥すと て之を国府后山
の東奈多礼 に祀 る又干蘭塔念佛躍を行
、
冒頭 に紹介 した谷川健 一氏 の史料
然 し対 馬 に根 付 いた卵 生 説 話 が な ぜ 日
。
本 本 上 に伝 承 され な か った か
付会 した伝説とな った例 が少なくな い﹂
。
工
⊂
古伝が中世 にな って変化 し当時 の名家 に
尚
は日と口 であ る。
また注意す べき は夫人 の大君を 付働は
目頭引用 の卵生史料 のうち、
お願 い 日
日 の
﹁
御卵塔﹂。口の ﹁
干蘭塔﹂ の意味が私 に
は判りません。御存じ の方から の御教示
を願 います。 ︵
久留米郷土研究会︶
。
ひ以 て其霊を鎮めたりと云
。
5 、
改訂対馬鳥誌﹄昭和 1
口 ﹃
年 教育会編
、
文明十 八年 初 め貞国筑後 の人花 田将
。
監 の女を納 る 妊 み て七個 の卵を生 ん
鳥〓陰 肩 ・
鴻二
依於人 一
以レ
故 察 レ之 琥 日二
。
日稚神
新神 一
相侍筑後州
奈多連 の神 此神古来 より祭来 ると云
居 馬丙午文明十 八年 六 月 暴 死 其 魂 晩
御原郡今熊里人花 田将監女来 干本州 ・
、
説有 又御祖先将盛公之御奥様と云説
筑後州産御原郡今熊邑 ノ人花 田将監 ノ
。
日 ﹃
宗氏家譜略﹄編年 不明べ立花氏清編
。
貴重 な宗氏史料 の第 一に推されている
日居筑後国 二原郡山熊
奈多連社 一宇 土
、
里花 □将監之娘 宗将盛君之為妾 誕生
。
。
卵七而死央 葬飯盛山 此霊会六月五
日。故弾 ハ張弓祭之。
日 ﹃
対馬州神社大帳﹄天明年間 ︵一七八
。
一∼ 八九︶撰
、
た し神 妹 御 幣 仁 位 宮 看 宮 と て祭 居
。
也
有 就之色 々之俗説有 と い へとも考 か
的 ﹃
対州神社誌﹄貞享 三年 ︵一九八六︶
。
撰
は対馬 の永留久恵氏 から教示を受けたも
、
。
の 他 は私が蒐集 したも のであ る
。
存在を知 り大きな感激を覚 えた この卵
、
生 に関す る資料を左 に紹介す るが 一部
著述 で ﹁
筑後と対馬を結 ぶ卵生説話﹂ の
、
、
数年前 私 は民俗学者 谷川健 一氏 の
筑
近 隣 の人 形 浄 瑠 璃 芝 居 と浄 瑠 璃
oは じ め に
o人 形 芝 居、 浄 瑠 璃 へのと り く み の経
緯
※全 国 人 形芝 居 サ ミ ット参 加 団 体 の
歴史 と 現状 の概 要
※九 州 にお け る人 形 芝 居 系 譜 の概 要
、
一 福 岡県 内 にお け る人 形浄 瑠璃 芝 居
1、 県 内 各 地 の人 形 浄 瑠 璃
o調 査 報 告 書 を 中 心 に
県内各地 の人形浄郵璃座 の現状
県内 における現存 ︵
継承︶ の人形浄
子→
男
4、採銅所 の浄瑠璃語 り 本 田 潮、米
会番付表﹂
3、浄瑠璃師匠 野澤七 二郎 ︵
永野覚太
、
郎︶ 鶴浮富枝
素浄瑠璃
2、大正五年 ﹁
第 二回素人浄瑠璃九州大
︵
甚兵衛 ︱紫楽︶
、
工 花 田真次 ︵
真玉︶師匠
オ、 三味線師匠 野澤吉直師
力、上野村義太大師匠 長末千太郎師
、
キ 一人遣 い人形寄贈 荒木小菊 さん
ク、火野葦平と伊加利人形
、
三 当地方 における浄瑠璃 語り
1、 ﹁
浄瑠璃月報﹂ よ り み た筑 豊 地 方 の
2、伊加利人形 の周辺 の人 々
ア、島 屋座太夫 士日田藤 五郎師匠
イ、島屋座人形遣 い 松本鉄蔵師匠
ウ、 元松 の義太 夫 師 匠 松 本 爾 吉 郎
玉川座︶ 豊前市
0松江人形座 ︵
、
二 伊加 利人形 の周辺
1、伊加利人形 の歩 み
0古 野操人形 ︵
桂木座︶ 飯塚市
上
谷琴警
5、添田町 におけ る浄瑠璃
6、鞍手町 ﹁
今村あや つり座﹂と猪倉 の
7、
薫下
豊
竹
町
塔
犀
川
大
村
、
四 当 地 方 にか かわ る浄 瑠 璃 の外 題 ︵
狂
一
一
一
向
一
︶
、
ア 彦 山 権 現 誓 助 鋼 九 段 日 ﹁六 助 住
家﹂
※彦 山 権 現 誓 助 鋼 にま つわ る古 跡
、
イ 菅 原 伝 授 手 習 鑑 四段目 ﹁
天拝山﹂
ウ、 国 牲 ︵
平戸浦﹂
性 ︶爺 合 戦 一一
段目 ﹁
、
、
工 博 多 小 女 郎 浪 枕 上巻 ﹁
門司 の沖
奥 田屋 内 ﹂
※近 松 門 左 衛 門 の作 品 と 九 州
、
オ
須 磨 都 源平 印 瞬 一
二段 目 ﹁
宇佐八
、
尾 形 屋敷 の場 ﹂
幡 の場
人 形 浄 瑠璃 芝 居 にか か わ る今 後 の課
郷 土 出 身 の文 楽 絵 師
浄 瑠璃外 題 ︵
狂 言︶と祇 国会 山 鉾 人 形
内 の段 ﹂
、
力 菊 池 大 友 姻袖 鏡 五段 日 ﹁九 州 の
、
段 不 知 火 の段 ﹂
、
日 本城 ﹂
キ
陣
八
守
本
﹁
護
城
八
段
ク、 契 情 小 倉 色 紙 四 の切 ﹁
小 平次
、
、
、
五
六
七
題
oお わ り に
︵
香春町郷土史会 ・田川郷i研究会︶
・人 形 浄 瑠 璃 芝 居 に学 ぶ
﹁
福 岡 県 無 形 民 俗 文 化財 伊 加 利
人 形 芝 居 ﹂ か し ら の調 査 を終 え て
﹁
九州人形芝居 フ ェステ ィバ ル﹂ を 成 功
。
色自 の好青年とし て作 られ ている 仕掛
田久吉製作 が多 いと思 われ ていた。
これま で漠然 と、伊加利 のかしらは吉
させ、 日川市伊加利 に伝承す る人形芝居
、
を支援す るため に 田川郷上研究会 では
。
人形 の写真撮影と図化記録を実施した
伊加利人形 は中津 ・北原から購入 し て
いる。 そ の初め は明治 二十 二年 であ る。
明治前半期 ・北原 の人形師 に吉 田久吉
、
の存在 が知られ 伊加利 にも招 かれ てい
、
て縁深 いが そ の人物像 に ついては記録
けは ﹁うなづき﹂だけ。
﹁
敦盛﹂を演ず るか し ら は知 的 で聡 明
、
考古学的な実測を行 い かしら各部を
。
、
詳細 に記録 した 一例を記すと
人形 そ のも のが近代 におけ る民俗資料 で
あ る ことを明らか にす る目的 で実施した。
、
今 回 の調査 は客観的 な図化 により 他
、
地区 の資料 と比較を行 う基礎資料 とし
。
がな いのか良 く判 っていな い
一九九 四年 二月 に田川市 で開催 される
宏
本
寸
三味墓基
泰
瑠璃芝居
o今津人形芝居 ︵
恵比須座︶ 福岡市
o旭座人形芝居 黒木町
吉富町
o伊加利人形 田川市
o八幡古表神社 の神舞 ・神相撲
※古要常 の古要舞 と神相撲
中津市伊藤 凹︶
︵
o福鳥燈籠人形 八女市
4、県内 における廃絶 された主 な人形浄
瑠璃芝居 ︵
座︶
0勝浦 ︵
古賀︶人形浄瑠璃 津屋崎町
0伊賀人形 ︵
操座︶ 粕屋町
0金五郎人形福地座 直方市
的勝楽舎人形浄瑠璃 小竹町
方
2
3
(4)
か
広、 く お
史
方
地
か
お、 く お
史
方
地
(5)
5
7 、
8 m、 は
1mヽ
幅
幅
幅
m
頬
m
7
7
m
頭長 1
額
。
0 、
6
1
長 さ の6 % と や や細 面 顔 額 の厚 み︲
剛
。
頬 の厚 み 錨脚であ る
、
、
中津﹂ 国立
﹁
前﹂ 軍口田久 吉 ﹂ な ど が見
られ る。今回、吉田久吉 の在銘墨書をも
、
計 測と墨書銘 と の比較検討 の結果 豊
。
かしら﹂を計 四例確認した
つ﹁
前中津北原村人形師吉 田久吉作 のかしら
は三十九個 で六割強を占め ていた。
、
調査 の結果 伊加利人形 のかしらは明
治初期 の民間技術を今 に伝 える貴重な文
。
化財 であ ることが明確とな った
したが って初期 の様相を残す人形や諸
道具 はそ のまま保存す べきとも考 えるが
、
そ の反面 人形 は役柄 に合 わせ て塗 り替
、
えられたり 故障し て補修 されたりす る
も ので、人形芝居 であ るかぎ り動 かす た
。
め には補修 は当然 の処置 であ る
しかし人形 のかしらは今とな っては重
。
要な民俗文化財 であ る
一人 の民衆 の手先 から数 々の製品が製作
近世期 におけ る ﹁カ ラクリ﹂ は民衆 の
。
器用さが基礎とな って製作 され ている
され ているのである。全 てが分業化 され
、
た今を見 つめ るとき 全 ての民衆 が匠 で
あ った時代 こそが現代 日本 の基層な ので
はなか ろうか。
、
古 いかしらは保存し て 新 しく製作す
る ことも方法 の 十つであ ろう。行政 ・民
田川郷土研究会︶
︵
間から の援助が今 こそ必要 であ る ことを
。
訴 えた い なお詳細 は ﹃
伊加利人形芝居
。
特集号﹄を参照 された い
福 岡県 の指定 文 化財 側
。
定 される
、
居宅部分 はク ス材 で 主屋 は入母屋造
、
。
、
妻入 本瓦葺 であ る 桁行 一四 ・九 m
。
梁行 一二 ・九 m 主屋 の南北 に角座敷 二
。
つが平行 し て連 なる 主屋内部 は通 り上
、
、
間 の 一方 に床上 の部屋 二列あ り 玄関
現存主屋 は略 々文政期創建時 のも のと推
ら に、母屋本玄関入 回の墓股 に文政八年
。
、
︵一八 二五︶ の墨書銘 があ る 従 って
三
︱ ︱ 近 年 の指 定 か ら ︱ ︱
、
平成 五年十 二月現在 前号掲載 の重要
、
文化財 二件 に続き 以下 の文化財指定 が
。
なされ ている
福 岡県指定有形文化財 ︵
建造物︶
◇ 旧吉原家住宅 一棟
、
附 天保九年古図
平成 五年七月 二目指定
大川市小保 一三七 ノ四 大川市
御境
吉原家 は旧柳川藩 と久留米藩 が ﹁
江湖﹂ の掘割 で接す る柳川領小保村 の別
。
、
当職 の家柄 であ った 先年 大 川市 が市
玄関向拝 の墓股 は唐草文を配す る当世
、
、
。
寄付 の間 茶 の間 台所 の四室 であ る
、
、
、
そ の奥 に二 の間 納戸 仏間 奥納戸が
。
、
あ る なお 北側角座敷が二階座敷とな っ
。
ている
◇木造薬師如来立像 一躯
、
附 日光菩薩像 ・月光吉薩像 一一
躯
、
。
風 であり 県内 でも珍し い 町屋とし て
は大規模 であり、細部 の意匠も優 れた九
。
州 でも重要 な町屋建築 であ る
。
そ の歴史的価値も高 い
さ て、同住宅 は、花宗川流域港とし て
、
栄 えた船津小保 の街並 の中 に 一際広 い
、
、
屋敷構 えをもち 表通 二棟 浦 通 一棟 の
、
、
門 こ つの七蔵 屋敷神天満神杜を配し
る旧街道沿 いにあ り、聖武天皇神亀 五年
八女郡立花町谷川五六 五 谷川寺
、
谷川寺 は 矢部川南岸 の熊本県 に通ず
平成 五年七月 二日指定
福 岡県指定有形文化財 ︵
彫刻︶
。
ていた ﹁
家柄取調書﹂ 及 び ﹁古 図 ﹂ に
、
よれば 天保年間 の記録 に邸宅新築 の記
、
、
述 があ り また 天保九年 ︵一八三八︶
。
の屋敷平面図 は略 々現状と 一致す る さ
指定文化財 とし て購入保存 した同家屋敷
、
は、久留米藩側榎津 の高橋家住宅と共 に
。
餐駐連物 である
大川市 の代表的な近世 町と
、
同家 には多量 のi文書も残 され ており
賢
頭 頂 部 は平 ら で サカ ヤキを 示 す青 色 に
。
。
塗 ら れ ている 顔 は白 胡 粉 が塗 ら れ る
5m、 で く に を き
眉 は長 さ 2m
筆 黒 横 線 描
。
周 囲 を 薄 墨 で縁 取 り 写実 感 を 表 現 す る
。
日 は 3m
m隆 し て色 付 け さ れ る 日 尻
起
︲m、 さ 7m、 は き く く 、
の長 さ 2
黒
m 高
m 瞳 大
。
左 右 を 灰 色 の線 で描 か れ る ま ぶ た の線
、
は細 く 彫 ら れ ているが 色 付 け が な く 目
、
。
立 た な い 目 の周 囲 と 唇 両 端 鼻 の両 脇
。
に薄 く紅 が引 か れ て いる
0 m、
6m
m、 高 さ 1
鼻 は長 さ 2
m 鼻 筋 真 っ直
ぐ で幅 広 く な く、 り りし い。
、
、
日は薄 開 き 唇鮮 やか に示 く塗 ら れ
。
上 の歯 が白 く小 さ く 覗 い て いる
、
耳 は外 耳 を 掘 り出 し て いるが 穴 は開
。
、
け ら れ て いな い 色 付 け も な く 髪 に隠
。
れ てほと んど見 えな い
髪 は 二十 本 程 度 の人 髪 を 二 つ折 り にし
。
m
て紐 に留 め てゆく 組 の長 さ 9
7 mのな か
。
に九十 八 組 を留 め て いる これを 三宣 に
し て四木 の真 鋳釘 で留 め て いる。 右 側 と
。
左 側 で頭 髪 は八 千 本 以上を使用し ている
mでぁ る が 、 頭 内 部
のど 木 の長 さ は 0
7m
、
。
0m
0m
り
に3
が
入
m
首 は 4 mでぁ る の ど 木
、
バネ材 であ る クジ
の内 部 は繰 り抜 か れ
ラ の歯 を薄 く し て竹 釘 と ニカ ワで糊 着 さ
。
。
れ る う な づ き の角 度 は 四〇度 であ る
、
内 部 の墨書 銘 と し て ﹁明 治 十 五 年 ﹂
池
か
お、 く お
史
方
地
七 二八︶僧行基開基 の寺伝をも つ寺 で
︵
。
ある 七堂伽藍を整 えた筑後随 一の大寺
、
であ ったが 大火 で焼失 し建久 五年 ︵一
。
一九 五︺ に再建 されたと言 う
三像共 に平安時代彫刻 の特徴を よく残
、
m
すが そ の本尊薬師像 は像高九 五 ・七 c
の古式 の 一木造 り であ る。左肩から袖 に
、
編杉 が見られ そ の上 に大衣を着 け てい
る。裾 は足 の甲 にかかり、台座 に接す る
。 、
、
程 に垂 れ る 九 一〇世紀 の作と思われ
、
量感豊 かな作風 は 京都神護寺 の薬師像
に通ず るも のがあ る。平安初期 における
木造彫刻 の地方伝播を考 える上 で貴重 で
糸島郡 二丈町福井 四五七六 大法寺
平成 五年七月 二日指定
当薬師如来立像 は、像高 一五 四 ・八 例
で樟材 の 一木 から彫 られ ている。頭部螺
、
、
髪 は碁盤 の目 に切 り着 け 耳 は紐耳 肉
いる。左肩から腕 にかけ て編杉 が見え、
そ の上 に大衣を着 け ている。下半身 には
。
裳を付 け蓮台 に立 っている 全身茶褐色
の古色 々彩 が施 され ている。
、
平安時代後期 の作 であ るが 後世 の修
。
正が見られる 表情 は相知 町医王寺 の薬
師像 に似 るなど地域的特色 を示し、松浦
沿岸 と の地域的関連性 が推定 され貴重 で
あ る。
◇木造十 一面観音菩薩坐像 一躯
寧 に彫 られた鎌倉彫刻 の基準作 とも 云う
。
べき優品 である
福 岡県指定有形民俗文化財 ︱追加指定 ︱
◇修験道深仙宿資料 ︵
行者堂︶ 一棟
朝倉郡小石原村大字小石原七 二二
小石原村
、
新指定 四件 に併 せ て 平成 五年七月
十年五月 二十 八 日指定 の修験道峰入行 の
二日追加指定
、
今 回追加指定 された行者堂 は 昭和六
清水寺
鞍手郡若宮町大手黒丸 一五五八 ︱ 〓
器 ・玉類を副葬す る卓越 した内容 の墳墓
。
群が発見 された 高木地区墳墓群 は独立
した墓域 を形成し ており、調査面積 二五
2
、
、
0 mの範囲 に木棺墓 四基 甕棺墓 王ハ基
。
小型甕棺墓 一八墓 が密集す る 小 児用 の
小型甕棺 と成人用と解 され る墓 は東西 に
、
区分 され 東半 の墓壊 は主軸を北東方 に
。
揃 えた整然 とした墓域 を構成 し ている
、
、
成人墓 は大型墓壊をもち しかも 墓填
、
上 に花蘭岩 ・安山岩 の墓標をも つなど
同時期 の墳墓 とし ては他 と規模 ・構造共
に造 られ、蕨手状刻目突帯文 のも の、疾
。
駆す る鹿 ︵二頭︶を描くも のがあ る 銅
に差異 があ る。 副葬品 は木棺墓 四基、甕
。
棺墓七基 で確認 された
甕棺墓 は弥生時代前期末∼中期初頭 に
、
属す る金海式甕棺 で 成人 用は特 別大型
福 岡市西区大字吉武字高木 福岡市
◇吉武高木遺跡
、
剣 一回と玉類を納 めるも の四基 銅釧 二
る室見川 の中流左岸 に、吉武遺跡群 の 一
部を構成す る弥生時代 の墳墓 と建物跡 か
らな る遺跡 が広が る。昭和 五十六∼六十
、
年五次 にわたる調査 は 弥生時代を最盛
期 とす る縄文時代から中世 に及 ぶ大規模
。
、
遺跡を確 認した 実 に 弥生時代前期末
、
来 た頸飾 り 碧玉製管玉 四〇個 で出来 た
、
。
、
腕飾 り 小壼等を副葬し ていた また
、
、
三号墓 は 二号墓 よりやや小 さ いが 二
、
号墓 と同じ頸飾 りと共 に 多鉦細文鏡 一
硬玉製勾玉 一個と碧玉製管玉九五個 で出
四基 の木棺墓も甕棺墓 と同時期 のも の
で、大型墓援を有し、内部 に組合式木棺 ・
。
割竹形木棺 の痕跡を残す 特 に墓域中心
、
、
部 の二号墳 は 長 さ四 ・八 m 幅 三 ・五
mの長大 な墓壊、割竹形木棺 も長 さ二 ・
、
、
五 m 幅 一mの規模をもち 銅剣 一口、
、
点 と玉類 のも の 一基 玉類 のみ のも のこ
。
基 であ る
平成五年十月 四日指定
国指定史跡
遺品群 が納められ ていた英彦山修験関係
。
坊 の 一である
平成 五年七月 二日指定
、
清水寺 は 行基開基 の伝 承をも つ鞍手
。
郡内 の古利 であ る 現在 は真言宗仁和寺
、
末 であ るが 戦国時代立花軍 の兵火 に罹
り、江戸初期上野 の興国寺 元寿 によ って
、
復興し 承応 二年 ︵一六五三︶ に本堂建
。
立を見 たと云う
、
十 一面観音像 は 像高 一〇八 ・三 m
cの
、
寄木造 で 体内背部 に ﹁
嘉禎 四年 ︵一二
、
三八︶戊成十 一月九 日﹂ の墨書銘 同じ
く右腹部 ・膝曲 裏 ・肘曲 異にも墨書銘 が
ある。従 って、鎌倉時代初期 の遺品 であ
Z。
O
、
頭頂上 に仏面を付け そ の根元 に五 つ
の花弁状 の輪を付 け五体 の菩薩面を、花
。
弁状 の間 に五体 の菩薩面を巡 らす 体部
から中期後半 にかけ ての甕棺を主体とし
た墳墓 一二〇〇基、丹塗磨研土器を投入
した土壊 五〇基、竪穴住居 ・掘立柱建物
。
等を検出 し ている
福岡市 西部早良平野 の中央部 を貫流す
に藤原時代 の彫法を残す が、顔面 には鎌
吉武高木遺跡 はそ の南端部を占 る遺跡
、
であ って 高木 ・大石 の二地区から青銅
あ る。
。
両脇侍像 は製作年代が下 る 日光 ・月
、
、
光 の像高 は各 八三 ・二 御 八二 ・○ 伽で
、
冠を着 け 両肩 の天衣 は体側 から膝下 ヘ
。
、
ニ重 にまわ っている 共 に彫眼 で 肉身
、
・ 鳥 ・裾 に彩色を施 し て
に
胡
粉
天
衣
条
いる。 日光像背部 に ﹁
寛永拾六年﹂ の修
。
理銘があ る
髯 から地髪 へ連な る境界 はなだらかな曲
。
倉時代 の作風が明瞭 に認められ る 頭 ・
、
、
体部 のバ ラ ンスも良く また 細部も丁
◇木造薬師如来立像 一躯
。
、
線とな っている 彫眼 で 首 に三道を表
し、右手 は胸前 に左手 は差 し出 し て薬壺
。
を のせ る 第 一指と第 二 ・四指を揃 え て
資
料
計
12
(平成 5年 12月末 日現在)
武 器 は朝 鮮 半 島 か ら舶 載 さ れ たも のと考
。
えられ る
、
、
、
以上 墳 墓 の規 模 形 態 副葬 品 等 か
ら、 及 び共 同墓 地 か ら独 立 し て営 ま れ て
、
、
お り 当 高 木 地 区遺 跡 は 須 玖 岡本 遺 跡
、
伊都
︵
奴 国 王 墓 比 定 ︶ 三雲 南 小 路 遺 跡 ︵
。
国 王 墓 比 定 ︶ へと発 展 す る要 素 があ る
被 葬 者 は早良 平 野 に覇 を 称 え た首 長 層 で
△ロ
文化財、史跡、名勝、天然記念物 を含む。
。
あ った ろう
、
同墓 群 の東 方 四O mの位 置 に 大 型 掘
、
。
高 床 倉 庫 が確 認 さ れ て いる
]
無形民 俗 文 化 財
5
5
」ヽ
6
6
5
5
無 形 文 化 財
選 定 保 存 技 術
有形民 俗 文 化 財
民俗 文化財
注(1)国
宝 ……特別史跡、特別天然記念物 を含む。
(2)重 要文化財 ……重要無形文化財、重要有形民俗文化財、重要無形民俗
立柱建 物
1
勝
名
572
計
4
1
2
1
跡
史
物
記
然
5
、
、
、
面 細形銅剣 二日 細形銅え 細形銅矛
古
1
、
各 一口が副葬 され 他を圧倒す る内容 で
。
、
ある なお 他 の二基 に ついても銅剣を
、
出 し ており 甕棺墓 に対す る木棺墓 の優
有 形文 化 財
考
5
8
料
7
11
資
9
史
」
目指定文化財
2
歴
19
2
籍
室
1
。
位性を示し ている
、
高木地 区墳墓出土 の副葬品 は 細形青
、
、
、
銅製武器類 ︵
剣九 日 文 一回 矛 一口︶
、
、
多鉦細文鏡 一面 銅釧 二点 玉類 ︵
碧玉
、
、
製管玉 四六八個 硬玉製勾玉 四個 ガ ラ
指定文化財種 目別件数 一 覧
ス製小玉 一個︶有茎式磨製石鏃 一点、小
、
、
壼 一口など 多量 にわたり 鏡 と青銅製
5
工
17
彫
亥1
19
画
17
絵
2
念
天
物
造
建
合 計
市町村指定
文化財
県指定
文化財
重要文化財
国 宝
目
種
か
お、 く お
史
方
地
(7)
、
、
大型建物 は 桁行五間 ︵
総長 一二 ・五 m︶
同九 ・五 m︶ の身舎 に西府 が
梁行 四間 ︵
、
。
付 く 南北棟 で そ の北 ・東 二面 は軒支
。
柱 が巡 る 同時期建物とし ては既発見 の
も のの最大を示し、墓墳被葬者 の居館 の
。 、
、
一部 と想定 され る 又 高床倉庫 は そ
、
の南方五O mに七棟 ︵
五棟は二間 × 一間
。
二棟 は方 一間︶確 認され る 他 に 一般集
、
落を示す住居跡 は付近 に確 認出来 ず こ
、
。
ている 山頂 ・山腹 の密集域 では剥片
、
、
破片 が多量 に混在 し 石斧未製品 敲石
も出iす る包含層が確認され、 また、山
麓端 では敲打過程 で破損 した未製品も多
く残 る。
、
製作 された大型蛤刃石斧 は 長 さ二〇
、
、
g以上 に
伽前後 厚 さ五 m前後 重 さ 一k
。
、
定型化 され ていた 但 し 地点 により原
敲打仕上 工程 ま でを行 っていた ことも証
。
明 され ている
角礫 ・風化円礫等︶によ っ
石産出 の違 い ︵
、
、
て 製作 工程 製品法量 ・形態 に若子 の
。
、
差異をも つ如 く である また 今山 では
の区画が首長層居住域 とし て独立 し てい
。
た可能性 が高 い
、
弥生時代 の階層分化過程 工権伸長過
、
、
程を解明す る上 で また ﹁漢 書 ﹂ が語
石斧製作 は弥生時代初頭 には始 ま って
、
おり 中期 に飛躍的 に増大す ると推定 さ
。
を語 る遺跡 である
、
上掲 の六件を加 え て 平成五年末 の県
、
、
内指定文化財件数 は 別表 L 不す通り 一
。
県立図書館郷土課岳
五六六件 とな った ︵
分業
。
れる
、
弥生時代中期 におけ る集落数 の増加
、
耕地開拓 の進展が石斧需要を増大 させ
、
専業化を刺激し た社会形成 の実態
。
のもあ る
、
今山遺跡 では 原石産地 で専業的 に石
、
、
斧製作を行 い 一方 集落間を結 ぶ供給
シ ステムも整備 され つつあ ったと考 えら
、
。
れ ている 今山製品 の分布 は 県内域 は
、
、
、
勿論 佐賀県域 大分県 日田地方 熊本
、
県宇i半島 にま で広 がり 遺跡 によ って
は石斧 の八∼九〇%を今山産 で占め るも
る倭人社会を追究す る上 で、貴重な遺跡
。
であ る
福岡市西区横浜 二丁目 福 岡市
◇今山遺跡
平成五年十 一月十 二日指定
、
、
福岡市西北部 博多湾岸糸島平野 に
。
標高 八 二 mの独立小丘陵今山があ る 丘
、
陵北半 は削平 され ているが この山 は大
正期中山平次郎 によ って発見された石斧
。
、
、
こ 房遺跡 であ る 既 に 原石採取所 粗
、
加 工石斧製作跡が世 に知られ ていたが
、
昭和 四十 三年住宅増築 の際 多量 の石斧
、
未完成品が出上 し 本格的調査 が同 四十
、
七年以降数次 にわた って実施 され 遺跡
。
の概要 が把握 される に至 った
遺跡 は山頂玄武岩露頭付近 ・南斜面中
腹 の熊野神社西方域を頂点 とした南 ・東
、
、
南側中腹斜面 山麓 西側山麓 に展開 し
地
方
史
ぶ、 く お
か
(8)
│
福岡県人 ベルー移住史 福 岡県人 ペルー移住史編纂委員会 城 県)東 門書屋 1992
i二雄 著 福 岡
す
んまっせん 西 島伊 二 雄山i文集 ―lTLH島
〔
編〕 〔リマ〕 〔
福岡 クラブ〕 1993
サ
イ
すか ら一福岡都市圏14大学教育者 ・研究者 リス トー 福 岡 西 島伊二雄 章山i集刊行会 1993
太
宰府戦国史 新 装版 古 永止春著 福 岡 海 鳥社 1993
市総務局企画調整部企画調整課編刊 福 岡 平 5
1 1993(田 中穣 の
私 の記録 ・糸 ―筑豊 の被差別部落 で 一 松 崎 ‐
著 大 阪 織 田広喜 出 中棲著 東 京 芸 術新聞ネ
ー トライブラリー)
ア
解放出版社 1992
蒙古襲来 上 網 野羊彦著 東 京 小 学館 1992(小 学館 鉄 腕一代 ―超人投子 の豪快野球人生 ―稲尾和久著 東 京
ー スボール ・マガジン社 1993
ライブラリー 24)
ベ
蒙古襲来 下 網 野善彦著 東 京 小 学館 1992(小 学館 西 日本新風上記 西 日本新風上記取材班著 福 岡 商 日本
ライブラ リー 25)
新
聞社 1992
お、
くおか文化情報 一あなたの時間を創 りませんか 文 化凹 日 本一歩 いた 「冬」兵団 ―第 二十 七帥同 ・ 軍 医 の人陸転
体 ・施設案内 一 福 岡市 〔
編〕福岡 福 岡市市民局文化 戦 記 ― 江 頭義信著 福 岡 草 書房 1993
5
半
生の記 新 装版 松 木清張著 東京 河出書房新社 1992
部文化振興課 平
福岡地区 マンシ ョンレポー ト 1993年度 九 州流通 システ 比 較研究北原 白秋 ・萩原朔太郎 ―対応詩集詩誌等 の検証
ム協会編刊 福 岡 平 5
附
論考 ‐ 宮本 一宏著 福 岡 櫂 歌書房 1993
バ、
くおか人物誌 1 貝 原益軒 な、くおか人物誌編集委員 冷 水峠物語 今 給黎靖子 〔
著〕福岡 葦 書房 1993
福
岡アメ リカン ・セ ンター40年 福 岡 アメリカン ・センター
会編 福 岡 西 日本新聞社 平 5
福岡市都市計画地図帳 平 成 5年 福 岡人文社 〔
編〕 刊 40年 展実行委員会編 福 岡 福 岡 IH米脇会 1993
福
福岡 平 5
岡県 」R全 駅 弓 削信夫著 福 岡 章 書房 1993
寺小屋講 ・十六夜話 加 来宣幸著 東 京 日 本教育新聞社 〔福岡市博物館〕 収蔵 品 目録 8 福 岡 市博物館編 福 岡
出版局 平 5(民 話 ・民俗 いのちの寺小屋叢書 第 2巻) 福 岡市博物館 1993
写真が語る大黒流 日 高裕行写真 ・編 福 岡 マ スプ ロ 弥 生文化の成立 と東 ア ジア 福 岡県教育委 員会編 東 京
学
仕社 1993
平5
財産評価基準書福岡国税局管内路線価図 平 成 5年 分 大 夢 の道 一関門海底国道 トンネル ー 古 川薫著 東 京 文 藝
春
蔵財務部協会 〔
編〕刊 福 岡 平 5
秋 1993
玄洋高等学校〕倉1立 5年 誌 福 岡県立玄洋 高等学校編刊 歴 代鎮西志総索引 高 野和人編 熊 本 青 潮社 1993
〔
倭
福岡 昭 62
国を掘 る一地中か らのメ ッセー ジー 小 田富十雄著 東
京
鞍高70年 福 岡県立鞍手高等学校編刊 直 方 昭 62
吉 川弘文館 1993
彩 ―女性美 の道具 だて 秋 吉源右 工門 ヨレクシ ョン 平 成 北 九州思い出写真館 ―街 と人を映す時代 の万華鏡 ・北九州
4年 度特別号 一 北 九州市立歴史博物館編刊 北 九州 市 制30周年記念誌 ― 北 九州 北 九州市 1993
北
九州彩時記 ―わがまちの風物詩 ―春季編 北 九州市 ・北
平4
「江戸学」のすすめ ―貝原益軒 の 「
慎思録Jを 読 む ― 久
九 州都市協会編 北 九州 北 九州市 1990
北
九州彩時記 ―わがまちの風物詩 ―夏季編 北 九州市 ・北
須本文雄著 東 京 佼 成出版社 平 4
久留米市史 第 8巻 資 料編 近 世 1 久 留米市史編 さん 九 州都市協会編 北 九州 北 九州市 1990
北
九州彩時記 一わがまちの風物詩 ―秋季編 北 九州市 ・北
委員会編 久 留米 久 留米市 平 5
加藤時次郎 成 田龍 一著 東 京 不 二 出版 1983
九
州都市協会編 北 九州 北 九州市 1991
現代女性図鑑 一福岡か らのメッセー ジー 福 岡市市民局女 北 九州彩時記 ―わがまちの風物詩 ―冬季編 北 九州市 ・北
性部編 福 岡 海 鳥社 1993
九
州都市協会編 北 九州 北 九州市 1989
勝機なき ビルマ戦 ―「
菊兵団」大砲 とともに 一 武 末達 二 北 九州市の建築 ―明治 ・大正 ・昭和 ―第 2版 片 野博著
九州 北 九州市 1992
北
郎著 福 岡 葦 書房 1993
九州むか しばな し―民話 と伝説 マ ップー第 3集 北 九州
昭ちゃん人生 太 田毅著 福 岡 章 書房 1993
北
心棒ひ とす じ―嘉穂劇場 とともに ・伊藤英 子聞書 ― 銅 野 市 ・北九州都市協会編 北 九州 北 九州 市 1993
陽一著 福 岡 西 日本新聞社 1993
近
世筑前海事史 の研究 高 田茂康著 東京 文献出版 1993
杉田久女遺墨 続 杉 田久女 〔
著〕石昌子編 二 和町 (茨
ム化と
古文書 ・
文献 ・
資料 のマイクロフ刊レ
高精度カラー複製
歴史の重みを美 しく再現。
ーエ業写真センター騨そ
ギ
盤クローメ
偏
思
g冒
薔 習弓ず榔
Fly UP