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出版界と読書の変容 ―ロシア 1840 年代の文学をめぐって―

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出版界と読書の変容 ―ロシア 1840 年代の文学をめぐって―
出版界と
出版界と読書の
読書の変容
―ロシア 1840 年代の文学をめぐって―
東京大学大学院人文社会系研究科修士課程
欧米系文化研究専攻
スラヴ語スラヴ文学専門分野
修士学位請求論文
大野斉子
1999 年 12 月
1
目次
序…………………………………………………………………………………
1
第Ⅰ章
1.書物の社会的観念…………………………………………………………… 2
書物の社会的観念
書物の商品化と広告の多様化
広告が集中したメディア―雑誌の分析
2.広告の読者…………………………………………………………………… 5
不特定多数の読者を想定する広告
広告としての批評
文芸批評の読者
3.出版活動における広告の重要性…………………………………………… 13
雑誌と書籍の出版
出版システムの一部としての広告
4.書物の物質的側面の分析 ……………………………………………………
16
書物の物質的側面に言及する広告
物質的側面―文化への入り口
ズボスカールの分析 挿絵
ズボスカールの分析 表紙
ズボスカールの分析 版型
ズボスカールの分析 構成
5.商業出版の偏差 ………………………………………………………………
28
非商業的出版者との比較
ルミャンツェフの本―博物学的知と技術の結晶
6.19 世紀の均質空間……………………………………………………………
31
娯楽と芸術―無機能性ゆえの抽象的価値
娯楽と商業化―価値の一元化
書物に反映する均質空間
第Ⅱ章
1.30 年代の地殻変動……………………………………………………………
30 年代の出版界における変化
出版界における様々な概念の変容
2.文学者の集合の変動………………………………………………………… 41
2
38
作家の社会階層と活動様態
執筆業の様態をめぐる議論
議論の焦点―原稿料
3.原稿料制度の確立…………………………………………………………… 45
30 年代におけるスミルジンの功績
原稿料発生の条件
資本主義的な思考の存在
4.雑誌における作家業の変容………………………………………………… 49
雑誌の商業性
職業の細分化
作家の原稿料と職業様態
6.貨幣価値と芸術性―作品評価の尺度……………………………………… 59
ドストエフスキイの職業観
名と原稿料
名と原稿料の背景―均質空間
第Ⅲ章
1.出版者たちの読者像………………………………………………………… 66
読者像に現れる社会的想像力
社会階層を指標とする分類
生活様態を指標とする分類
娯楽としての読書
2.作品に描かれる読者像……………………………………………………… 73
風俗描写の潮流
『貧しき人々』の読者像―孤独な読書
『オストロフスク家の書斎』室内への興味と読者像
『室内で』植物、ガラス窓、読者
温室のトポロジー―親密な内部空間
第Ⅳ章
1.40 年代の社会と生理学ジャンル…………………………………………… 84
生理学ジャンルの流行
生理学ジャンルに現れた分析への情熱
ナチュラリナヤ・シコーラでの開花
観相学の転用―科学の通俗化
科学の流行する時代性
3
流行の背景にあった商業出版
2.科学的思考と認識の変容…………………………………………………… 95
社会の内部の解剖
断片化
視覚的克明さ―挿絵とダゲロタイプ
カタログ的な空間
3.社会科学としての役割……………………………………………………… 104
社会認識への欲求の現われ
生理学の科学的思考の構造とその歴史性
博物学の原理と 19 世紀の歴史観念の間で同様
4.都市ペテルブルグ―興味の焦点…………………………………………… 108
特権的題材としての都市
都市を解明しようとする欲望
解明の不可能性
均質空間
結び……
…………………………………………………………………………115
参考文献…………………………………………………………………………
ⅰ
資料………………………………………………………………………………
ⅷ
4
序
これは、19 世紀前半のロシアの文学に起こったある文化的な断層をめぐる考察である。
ロシアの文学は、19 世紀の 40 年代を境に大きく様相を変える。その変容は、例えばジャ
ンルの勢力範囲や作家の活動様態、作品の発表の仕方など様々の局面に現れる。ジャンル
は詩から散文の圧倒的な優位にかわり、作家業は貴族のディレッタント詩人から原稿料で
生計を立てる職業文士の群れに引き渡される。作品の発表の場は、サロンやサークルから
雑誌の文芸欄に移る。文学の読者層もまた変動を始める。読者の領域は、限られた貴族階
級から次第に中流階層へと広がる。そして、この新しい読者層を対象とした出版物がさか
んに発行されるようになる。
文学に生じたこのような断層は、どのようにして生じたのか。そして、文学における変
動の底流にはどのような社会の動きや思考の変容があったのか。本論文は、このような問
いを出発点として、1830-40 年代に生じた文学の変容を考察する。
文学の変容を叙述するにあたり、まず文学を作家や書物、読者、ジャンルなど様々の構
成要素に分解し、それらを文学という枠組みの中にではなく社会的な出来事の中に置き直
して考える。文学そのものを社会的現象としてとらえ、社会の文化体系の中に見る視点を
設定するのである。このとき文学の断層は、社会そのものに起きた大きな領域の文化的断
層の一端として現れてくる。
このような視点をとることによって、文学の断層が出版産業や都市における書籍商業、
作家の社会的な位置、需要層の拡大といった社会的な動きとどのように連動し、関連しあっ
ていたのかが見えてくるだろう。そして文学を含むそれら社会的な要素の関連の中に、特
定の文化や集団的な思考を読み取ることができるだろう。
出版産業の商業化や読者の拡大などの文学における変動が、明確にかつ大規模に展開す
るのは、19 世紀の後半である。しかし決定的な断層は、むしろそれ以前の 30-40 年代に起
きている。構造的変動の端緒の 30-40 年代にこそ、この変動の構造的な設計図が隠されて
いるのではないだろうか。
本論文では、この 40 年代における文学の断層を書物の商品化、作家の意味領域の変化、
出版者が想定する読者像、流行した文学ジャンルという局面において記述する。これらの
局面を 40 年代の文化への入り口として、社会の商業化と連動して起こった知の変容の一端
に迫り、そこに見出される集団的な思考の変容や社会的想像力を読み取っていきたい。
5
第Ⅰ 章
1.書物
1.書物の
書物の社会的な
社会的な観念
書物の社会的観念
書物は、それを生み出す社会や時代に応じた一定の形式をもっている。現在は印刷した
紙を束ねて一辺を綴じた四角い本が標準的な形式である。巻き物や、綴じていない紙の束
が書物の一般的なかたちであった時代や社会もある。それらの形式は、どのようなもので
あれその時代の標準形であるという点において一種の社会性を含んでいる。これらの形式
を持つことによって、どんな情報も社会の中で一定の伝達性を持つことができるからであ
る。言い方を変えれば、書物をはじめとするメディアとは、多種多様な情報にそれが社会
化されるために与えられる形式そのものである1。
書物はそれぞれに大きさ、紙質、版型、活字の種類などの点で独自の細かい形式を持っ
ている。それらの細かい形式もまた、書物の内容に社会化されるための形を与えている。
これらの細かい形式は、書物の内容、すなわち書かれた情報がどのように活用されるべき
か、どのような社会的意味を持つべきかを決める。つまり内容の社会性を決めるのである。
とすればこのような書物の形式は、文学作品の社会的な位置づけを考える上で重要な分析
対象になりうる。文学作品は著者の内面と深く結びつきながらも、言葉の世界そのものが
それを社会化する媒体と決して無縁ではない2。
書物の形式は、書物の内容、すなわち言葉を中心とする情報に対して社会というメタレ
ベルに立った視点を提供するのである。書物の形式が形と社会性を与えるのは内容に限ら
ない。書物というもの自体が社会の中でどのようなものとして存在していたのかを、書物
の形式の一つ一つが物語るのである。
またこの書物の形式は、それ自体が社会の中で生み出されたものである。書物の形式は
社会の中における書物の位置づけによって様々に変化する。時代や社会によって、書物と
は聖なる言葉を書いた経典を指すこともあれば、娯楽の道具を意味することもある。書物
が売りさばかれる商品として存在する社会もあれば、高価な財産や工芸品として存在する
時代もある。書物とは、それが生み出される時代におけるメディアの社会性によって様々
に変化する隠喩なのである。書物がどのような隠喩として社会の中に現れていたのか。こ
の隠喩は書物の形式を規定し、書物の形式はこの隠喩を読み解く鍵となるだろう。
ロシア 19 世紀前半に現れた書物は、いかなる社会性を持っていたのか。いかなるものと
して社会の中に現れ、どのように扱われていたのか。これらのことを第一章を通じて考え
ていきたい。
1
2
多木浩二『モダニズムの神話』
(青土社,1985)P.263.
同書,P.283.
6
書物の商品化と広告の多様化
19 世紀前半に書物のもつ社会性が変化する。19 世紀の初頭まで極めて高価な贅沢品で
あった書物は、次第に簡素で安価な品物となる。1830 年代になると、ペテルブルグではそ
れまで河岸通りに多かった書店が幾つもネフスキイ大通り沿いに移転して首都の中心部に
店を構えるようになる3。また、モスクワとペテルブルグをまたにかけて大規模に活動する
書籍商が現れる。書店には、それまで本を手に取ることもなかったような田舎の地主まで
もが訪れるようになる。本の市場では、安い書物を売りさばく呼び込みの姿がよく見られ
るようになる4。書店の店先や様々な出版物の紙面に書物の広告が現れるようになる。19 世
紀前半に書物に生じた大きな変化の一つは、書物の商品化だったのではないだろうか。
19 世紀前半は、書物を商品化する様々な装置が生まれたときでもある。ショーウィンド
ウ5、広告、書店のカタログ、呼び込みなどが書物に商品という意味を与え、これらの装置
によって書物は商品として社会の中に現れた。この中で特に広告に注目したい。広告は 19
世紀前半に多様化し始める。書店は自分の店の本のカタログを出し、貸し本屋は利用者向
けに目録を出版する。ジャーナリストや出版者は新刊書の紹介文を雑誌に載せる。批評家
は新しい文学作品や本の書評を書いて読者の作品への興味を喚起する。雑誌の編集者や出
版者は自分の雑誌の広告を他の雑誌に載せる6。このような様々な種類の広告が数多く現れ
だすのが、19 世紀前半なのである。
書物の広告と書物や文学作品の関係は密接である。書物の広告の多様化と増加は、宣伝
される書物や文学作品の多様化や増加と並行している。書物は、出版される量の増加とと
もに種類や用途が多層化していく。文学作品、医学書、教科書などの多様な書物が出され
る。それに比例して読者も多層化する。書物が流通する世界が、そして書物というものの
集合それ自体が複雑に多様化していくのである7。
3Гордин,
А. М., Гордин, М. А., Былой Петербург панорама столичной жизни: Пушкинский
век (Санкт-Петербург: Пушкинский фонд, 1995) с.392-393.には、1810 年代から 30 年代までの
間にペテルブルグにあった書店の所在地が記されている。記載されている書店数は 9 軒。
そのうち 6 軒が 30 年代にネフスキイ大通り沿いに移転・出店している。例えば、Н.И. и М.И.
Гразновы の書店と А.Ф. Смирдин の書店は 30 年代にネフスキイ大通り沿いにに移転。Ф.
Белизар, Я. И. Исаков, И. В. Сленин, К. П. Бегпров らはみな 30 年代にネフスキー大通り沿い
に出店している。
4Клейменова,
Р. Н., Книжная Москва: Первый половины ⅩⅨвека (Москва: Наука, 1991)
с.173-174.
5Баренбаум, И. Е., Книжный Петербург (Москва: Кника, 1980) c.107.
6Клейменова, Книжная Москва, c.201.
7 多木『モダニズムの神話』P.253.
7
広告のテクストは雑誌や新聞の中で文学作品と併置され、文学作品と一緒に社会の中に
流通する。広告は商品である作品とともに流通しながら、複雑に多様化する書物の世界を
記述するのだ。どのような種類の書物であるのか、他の本とどこが違うのかを書き綴った
テクストは、宣伝される本についての情報をわれわれに提供するばかりではない。広告を
書く当時の人々がどのような視点から書物を見、どのような視点から商品として宣伝して
いたのかということをもこれらのテクストは教えてくれるのである。
さらに書物の広告がどのように出版物に載せられ、どのように活用されていたのか、ど
のような人々を対象にそれらの広告は発信されていたのかという点にも注目したい。広告
が書物の社会性を雄弁に示してみせるテクストである以上、広告そのものの社会における
位置や動きもまた書物を考える上で重要な要素である。
広告が集中したメディア―雑誌の分析
出版者や広告作家、雑誌の出版者らが書物の広告を集中して載せたメディアが、雑誌で
ある。特に、文芸を広く扱った分厚い雑誌は書物の広告の媒体として機能していた。先ほ
ど挙げたような多様な種類の広告は、雑誌の構成部分そのものとなっていた。カタログは
巻頭に載せられ、編集後記は雑誌の巻末に載った。雑誌本体において大きな紙幅を占める
批評欄はそれ自体一種の広告であるし、書籍情報のみを扱う独立した欄が設けられていた8。
分厚い雑誌において広告文は、小説や論文、記事と併置され、雑誌という商品の一部を
同等に構成していた。紙面の構成を見る限り、広告文と文学作品の扱いにたいした差はな
い。文芸批評に至っては、書評の形を取った広告なのか、文芸批評なのか、境界が曖昧で
さえある。このことは、雑誌において、文芸そのものが当時成長しつつあった商業システ
ムの中に深く入り込んだことを暗示している。
雑誌に多くの広告が載っていたということ、また雑誌において広告と文芸の境界が曖昧
であったことから、雑誌を、出版業界の商業システムと非常に深く関わる出版物のモデル
ケースとしてみることができるのではないだろうか。雑誌に文学作品や広告が集中し、雑
誌が文学の世界の中心的なメディアとなったのは、1840 年代以降であるとベルナップは言
う9。それ以前にも広告を載せた出版物はあったが、雑誌が文学の世界で文芸と広告の両方
の機能を兼ねて機能し始めたのは 19 世紀前半の出来事であるといえるだろう。つまり雑誌
例えば 1847 年の『祖国雑記 (Отечественные записки)』(第 50、51 巻)では、文学欄、
科学欄、国内のニュース欄、批評欄、雑報欄など全部で 8 つの掲載欄が設けられており、
その中の一つに書評欄がある。例えば 51 巻では、ロモノーソフの全集や、シューの『マチ
ルド』の翻訳など、ロシア語で出版された書籍について 76 項目、仏語、独語、英語の書籍
について 6 項目、のべ約 110 頁にわたる書評が載っている。
8
9
Belknap, R. L., «Survey of Russian journals 1840-1880» Literary journals in Imperial
Russia, ed. Deborah, A. Martinsen (Cambridge: Cambridge University Press, 1997)
P.97.
8
は、19 世紀前半の書物に生じた社会性の変容と歩みを同じくして成立し、この時代の出版
界の特性を濃厚に帯びたメディアなのである。
広告をこの新しいメディアである雑誌との絡みで分析することにしたい。その際、1847
年の『祖国雑記』とそれに載せられた広告をサンプルとして用いる。40 年代後半は、19 世
紀前半における出版界の変容を受けて、ドストエフスキイやネクラーソフといった若い作
家たちが雑誌で盛んに活動していた時代である。この時代の出版界を反映する雑誌の特性
と関連付けることによって、広告の持っていた特性や機能を詳しく検討することができる
だろう。そして最終的には、書物の社会性の考察に行き着くことができるであろう。
2.広告
2.広告の
広告の読者
不特定多数の読者を想定する広告
雑誌に載せられていた様々な書物の広告のうち、まずカタログと雑報欄に載せられた広
告文に注目しよう。この二つの広告に顕著に現れている広告の特徴とは何だろうか。それ
は、不特定多数の読者を購買者として想定したテクストだということである。
1847 年の『祖国雑記』の編集後記の後の数ページに、三軒の書店のカタログが載ってい
る。一つはイサコフの書店10であり、フランス語の出版物を主に扱っていた書店の広告であ
る。書籍のタイトル、著者名、巻数、価格を一覧表にして出してある。また、ベルナール
というおそらくフランス人の書店11が楽譜だけのカタログを出している。オペラの曲、フ
ルート用などの項目別に楽譜の一覧表が組まれている。この書店のカタログは、作曲家名
(イタリア語あり)と項目、書店名、アドレス(ロシア語)以外はすべてフランス語なの
でフランスで出版された楽譜だと思われる。
ロシア語の書籍を販売している書店のカタログもある。ラチコフ書店12の書籍情報のカタ
ログである。このカタログで扱われている本は、小説、歴史書、版画の図版集など様々で
ある。タイトル、著者名、書籍情報はすべてロシア語で書かれ、出版地(モスクワかペテ
ルブルグ)、出版年月などの書籍情報まで詳しく記してある。どのカタログも価格は銀貨
ルーブル単位で表示されている。また、書店の所在地が書店名の下に明記されている。
カタログに載せてある書物のジャンルや用途の多様さを見れば分るように、これらのカ
タログは全体で非常に多様な読者たちを想定して書かれている。ベルナールの楽譜専門の
カタログは別にしても、ペテルブルグで当時比較的広く出版活動をしていた書籍商ラチコ
1847 年の『祖国雑記』に掲載されている。Исаков, Я. А. の書店。ペテルブルグのネフス
キイ大通りに面した Большой Гостиный Двор の中に店を構えていた。
11同じく 1847 年の『祖国雑記』参照。Бернард, М.の書店。この書店も、ネフスキイ通りに
店を構えていた。
12 同じく 1847 年の
『祖国雑記』参照。Ратьков, П. А.の書店。ネフスキイ通り沿いに店があっ
た。
10
9
フのカタログに載っている書物の種類や価格、材質、出版形態などの幅の広さは注目すべ
きである。一つの書店が扱う書物の種類が多岐にわたっていたことは、それぞれの書物が
想定する読者が書物の多様化に呼応する形で多様化していたことを示している。そしてカ
タログは、雑多な書物の情報を一箇所に集めるという意味で多様な読者をいちどきに想定
して作られたテクストであるといえるだろう。
『ズボスカール』13を載せたのと同じ年に、1845 年 5 月 4 日付け兄ミハイル宛ての書簡
の中でドストエフスキイは分厚い雑誌『祖国雑記』の読者数の胸算用をしている。ドスト
エフスキイは、小説『貧しき人々』をどのように発表するかで長いこと悩んでいるのだが、
この時点で出した結論が、『祖国雑記』に持ち込んで掲載してもらうというものであった。
なぜ『祖国雑記』という雑誌を選んだかをドストエフスキイは兄に説明している。
「そこで僕は、雑誌社に持ちかけて、自分の小説をただ同然で売りわたすことに決めまし
た。もちろん、
『祖国雑記』にです。なにしろ『祖国雑記』は発行部数が 2,500 部で、した
がって少なくとも 100,000 人がそれを読んでいるのです。僕の小説がそこに載れば、僕の
文学的将来と生活のどちらもすべて保証されるでしょう14。」
ドストエフスキイが掲載先を『祖国雑記』に選定するにあたり決め手となったのは、発
行部数と潜在的読者数の多さであった。この時代は、一つの雑誌を数人で回し読みしたり、
貸し本屋で複数の人間が読むことは珍しくなかった15。潜在的な読者が発行部数の 40 倍も
いるということは、平均 40 人が一つの雑誌を読んでいたことを意味している16。
広告文が効力を発揮するためには、できるだけ多くの購買力を持つ人々の目に触れるこ
とが必要である。特にドストエフスキイの書いた『ズボスカール』の広告文は、アリマナ
フを宣伝するためのものである。当時分冊のアリマナフは、購読者が集まらなくては発行
することができないメディアであった17。
原題 «Зубоскал»。ネクラーソフ、ドストエフスキイ、グリゴローヴィチが 1845 年に出
版計画を立てた«Зубоскал»というタイトルのアリマナフ(文集)の広告文である。この広告
文はドストエフスキイによって書かれ、1845 年の『祖国雑記』11 月号の雑報欄 (Смешь)
Отечественные записки, №11, отд. 6., с.43-48. に載った。
13
14
Достоевский, Ф. М., Полное собрание сочнений в тридцати томах, гл. ред. Базанов, В. Г.,
т.28, к.1 (Ленинград: Наука, 1985) с.109. «Итак, я решил обратиться к журналам и отдать мой
роман за бесценок – размеется, в «Отечетвенные записки». Дело в том, что «Отечественные
записки» расходятся в 2500 экземплярах, следовательно, читают их по крайней мере 100000
человек. Напечатай я там – моя будущность литературная, жизнь – все обеспечено.» 訳大野。
フョードル・ドストエフスキー(小沼文彦訳)
『ドストエフスキー全集第 15 巻』
(筑摩書房,
1991)P.109.を参考とした。
А., От Бовы к Бальмонту: Очерки по истории чтения в России во второй
поровинеⅩⅨ века (Москва: Издательство МПИ, 1991), c.50.
16 ドストエフスキイは書簡にこう書いているが、誇張である可能性が高い。実際に 40 倍の
潜在的読者がいたかどうかは不明。
17『祖国雑記』よりも発行部数の多い雑誌はあったのだが、この雑誌が比較的教養のある階
15Рейтбрат,
10
いずれにしても、
『祖国雑記』は同時代人の推定で数万人という多数の読者を抱えていた。
雑誌は、数万人に及ぶ不特定多数の読者が作り上げる読書空間に向けて発行されていた。
この雑誌に原稿を載せようとする作家や広告作家たちは、当然読者数の多さを考慮に入れ
ていたはずだ。彼らは、この不特定多数の読者たちが目にする可能性を見込んで雑誌に原
稿を掲載した。広告文『ズボスカール』は、
『祖国雑記』の数万人の読者に向けて発信され
ていたのである。
雑誌には、様々なタイプの書物の広告文やカタログが載っていた。
『祖国雑記』だけを見
ても、書店のカタログから雑報欄の広告文、批評の形を取った書評記事や編集後記に至る
まで、非常に多くの書物の広告が雑誌に載っていたことが分る。雑誌が多くの広告を載せ
ていたということは、いかに雑誌というメディアが広告文の媒体として有効であったかを
示している。
雑誌のどのような点が広告に適していたのか。まず、雑誌の読者層の広さが挙げられる。
レイトブラットによると、
1820 年代から 30 年代にかけて普及していたアリマナフに変わっ
て雑誌が普及し始めたとき、雑誌はより大きく広い読者を計算していたという点で、アリ
マナフと一線を画していた。雑誌は瞬く間に知りあい同士の狭いサークルの枠にかわって、
互いに顔も名も知らない不特定多数の読者共同体の大きな枠を誌面上に作り出したのであ
る18。
雑誌は、他のメディアに比べ幅広い読者層を想定していた。このことは、クラエフスキ
イの書いた『祖国雑記』の編集後記の文章から推し量ることができる19。
クラエフスキイが使っている「公衆 публика」という言葉は、特定のグループや特定しう
る階層の構成員を指してはいない。彼らは、噂を耳にし、噂を広める不特定多数の人々で
ある。出版物を眼にする人という定義以上の特定は一切することができないような、不特
定多数の人々をクラエフスキイは『祖国雑記』の読者として想定しているのである。
内容の点でも、分厚い雑誌が掲載した文章は、自然科学の論文、農地経営の論文、文学
作品、翻訳のフランス娯楽小説、雑報欄のフェリエトン、流行ファッションの記事、文芸
層を対象に編集を行っていたこと、40 年代から、
『同時代人 (Современник)』誌と並んで進
歩的な分厚い雑誌の代表格となっていたことも、選択の条件に入っていると思われる。
18Рейтбрат,От Бовы к Бальмонту, c.34.
19 Краевский,
А., «Об издании Отечественных записок в 1848-м году» Отечественные
записки,т.54. (1847) с.1-8. «Оканчивая девятый год издания «Отечественных Записок», мы
долгом считаем снова повторить благодарность свою публике, постоянно, в-течение девяти
лет, удостоивавшей журнал наш своим просвещенным вниманием.» (
『祖国雑記』の 10 年
目の出版を終えて、われわれは、10 年間にわたって当雑誌に教養豊かな注意を払い続けて
くださった公衆の皆様に、再び感謝の意を表することを義務と考えております。)訳大野。
この後に、クラエフスキイは、
『祖国雑記』が廃刊になるという噂は嘘であり、この噂を来
年の『祖国雑記』の内容と活動によって打ち消してみせると述べている。
11
批評と、多岐にわたる20。
分厚い雑誌は、様々な興味関心を持つ人たちがそれぞれに楽しむことのできるような多
面的な作りになっていた。それらのテーマのうちの一部だけに関心を持つ人でも、分厚い
雑誌の読者となりうる。分厚い雑誌は、男性向けに書かれた記事と女性向けに書かれた記
事を一緒に掲載し、教養の高い人、さほどでもない人がそれぞれに読みたがるような相異
なる記事を載せる。雑多な人々の互いに異なる性質の読書を想定した文章は、掲載欄を区
別されるだけで、同じ一つの書物(雑誌)の中に載せられる。そして想定される読者グルー
プの数と同じだけ掲載欄の枠(境界線)が作られる。枠の数に比例して想定される読者像
は多様化する。雑誌は、それぞれに異なる種類の異なる読者を想定した書物を一つにまと
めたものと考えていいだろう。
1840 年当時、単行本が共通の興味を持ち、共通の読み方をする一枚岩的な読者グループ
を想定して出版されていたとすれば、雑誌は興味も読み方も楽しみ方も異なる複数の読者
グループの集合を想定していたということができる。雑誌において、読者の興味や読み方
は常に流動的、変則的であり得た。
つまり雑誌の読者は不特定多数であり、
「公衆」という概念で把握されるような意味領域
でくくられる人々の集合だったのである。
広告としての批評
文学作品の批評の役割の一つは、読者に対し様々な作品を紹介することである。批評の
この役割に注目して、批評を、読者に優れた作品や作家、書物の情報を提供し、購買を促
す一種の広告と捉えることにしよう。
広告と批評の境界のはっきりしない文章の例として、ネクラーソフの『文学ニュース』
を挙げる21。ネクラーソフはこの文章の中で、ソログープの『旅行馬車』や『ペテルブルグ
の生理学』について内容の素晴らしさ、書物の装飾の美しさなどに言及している。
「既に読者にお知らせしたこれらの出版物のうちの一つが、ソログープ伯爵の作品『旅
行馬車』である。ソログープ伯爵の他の作品の大半と同様に、極めて独創的で機知に富む
20
Belknap, «Survey of Russian journals 1840-1880» P.97.によると、19 世紀前半の文芸雑
誌は共通して多面的な性格を持っていた。すなわち、どの発行物も詩のセクションをもち、
創作散文のセクションには短編小説や連載小説を幾つか載せていた。文芸批評のセクショ
ンでは、文芸作品に限らず、しばしば学問の全般的な領域の題材を当世風に考察し批評し
たものを載せていた。その中には、エジプト学や生物学に関する考察、あるいは農業に関
するものがあった。また政治、経済といった分野を専門に扱う部門もあった。
21Некрасов,
Н. А. «Литературные Новости» Полное собрание сочнений и писем, гл. ред. Сурков,
А. А., Храпченко, М. Б., т.12, к.1 (Санкт-Петербург: Наука, 1995) с.114-116.
12
作品の内容の素晴らしさは言うに及ばず、この作品は、
『我が』芸術家たちの助力によって、
外観の点で今までわれわれの文学において出版された他のどの作品をも凌駕するだろう。
22」
ネクラーソフは書物の内容の文学的な魅力に言及しながらも、書物の物質的な美しさ、
価格、さらにこの本を販売する書店の紹介を行っている。ネクラーソフは、これらの文章
を文学作品として扱うと同時に商品として紹介している。批評をすることを通じて、この
本が買うに値する高い商品価値を持っていることを示すのである。
テラスは、ベリンスキイの業績の一つを多岐にわたる書物や作品の評論を行ったことだ
とする。ベリンスキイは雑誌の情報伝播力を重視し、読者の文学に対する興味を喚起し、
さらに雑誌に教育的な役割を負わせるべく、偉大なものから平凡なものまで、教科書、辞
書、なにかの教則本に至るまでありとあらゆる種類の書物を批評の俎上に上した23。批評は
読者に文学の講釈を施し、同時に様々な書物の存在を知らせて読むことを勧める、いわば
宣伝の意図で書かれている。
批評というジャンルの帰属の曖昧さ、すなわち文芸か、商業的な広告かの境界がはっき
りしないという曖昧さは、文芸そのものが商業システムの中に深く入りこんでいたことを
示している。
商業システムに深く入り込んでいた批評が書籍産業の変化を享けて担った役割とは、多
くの書物の中から商品的価値の高いものを選別することであった。
批評とは、容易に把握しきれない量の活字印刷物が市場に出回るようになったときに生
じてくるジャンルである24。把握しきれない量の印刷物の中から、読者が自分の目的に合っ
た書物、あるいはできるだけ品質の優れた書物を買うためには、選択の基準を提供し、読
書のガイドをしてくれるものが必要である。批評はその案内役を引き受け、商品としての
書物の選定を行った。書物を買う前に書物をあらかじめ選定する批評の行為そのものが、
雑誌という商業的出版物の一部として成立するに至ったのだ25。批評がジャンルとして成立
し、雑誌の主要な位置を占めるようになった背景には、書物の量的な増加と商業出版の成
立があったのである26。
22
同書,c.114.より引用。訳大野。 «О первом из этих изданий мы уже извещали читателей:
это «Тарантас», сочнение графа В. А. Соллогуба. Не говаря о внутреннем достоинстве
сочнения, чрезвычайно оригинального и остроумного, как большая часть произведений графа
В. А. Соллогуба, скажем, что наружностью оно едва ли не превзойдет все, что было доныне
издано в нашей литературе, при содействии «наших» художников,…»
23
Terras, V. «Belinsky the journalist and Russian literature.» Literary journals in
Imperial Russia, ed. Martinsen, P.118.
24
小森陽一「近代批評の出発」『批評空間』1(福武書店,1991)P.70.
25
同書,P.70.
同書,P.70.
26
13
では 19 世紀前半のロシアにおいて出版物はどれだけ増加したのだろうか。残念ながらこ
れを具体的な数値で示すことはできない。ここではひとまず、ベリンスキイやポレヴォー
イが雑多な論文の寄せ集めに過ぎなかった雑誌を体系だった作りに変えた 1820 年代から
30 年代頃の出版状況を、一つの指標として考えることにしよう27。この時期に、雑誌とい
う広告を満載したメディアが、出版界において不可欠の役割を担い始めるのであり、この
ことは出版産業の商業化を示していると考えられるからである。ここでは、ペテルブルグ
については文献が少なかったため、モスクワの書籍商の状況を例に取ることをお断りして
おく。
1812 年の大火28で、それまでノヴィコフらが築いてきたモスクワの出版活動は壊滅し、
ゼロから出版産業を立て直さなくてはならなくなった。しかし 1826 年のモスクワの住所録
には 40 の書店が掲載されている。1830 年代には既にロシア全体で 100 以上の私営の本屋
があったらしい。書籍商のスミルジンがペテルブルグとモスクワをまたにかけて活動を展
開していたのも 20 年代から 30 年代である。この時期は、書籍産業が盛んになり、書籍や
定期刊行物が増加していたと考えることができる29。書物はあい変わらず高価であったよう
だが、コストを抑えて出版した廉価な小冊子や文集が出回るようになるのも 30 年代である
30。
20 年代から 30 年代にかけては、それ以前と比較して多くの書物が市場に出回るように
なった時期であるようだ。この時期は、批評が成長しつつあった時期に対応している。批
評は、多くの出版物が出回るようになった時期の書物選択のためのガイドとして機能して
いた。
文芸批評の読者
様々な種類の広告や批評、書評を載せた雑誌は、商業化しつつある出版界の中で書物と
読者の関わりを調整する役目を引き受けていた。では、読者たちはどのような意図で分厚
い雑誌を講読していたのであろうか?このことについてレイトブラットは興味深い説明を
している。
レイトブラットによれば、読者は割安の料金でしかも自分の要求にかなった読書をする
ことができる書物として雑誌を利用していた31。つまり公衆が分厚い雑誌を読んでいた理由
には、金銭上の理由と、文章の選択が既にされているという理由の二つがあったというこ
27Клейменова,
Книжная Москва, c.62-63.
田中陽兒・倉持俊一・和田春樹『世界歴史大系 ロシア史 2―18~19 世紀―』(山川出
版社,1994)P.126. 祖国戦争において、1812 年 9 月、ナポレオンのモスクワ占領の際モ
スクワの 8 割が消失した。
29Клейменова, Книжная Москва, c.129-130.
30Там же, c.128.
31Рейтбрат, От Бовы к Бальмонту, c.34.
28
14
とだ。
雑誌には、編集者や雑誌専属の批評家がおり、このような人々が雑誌に載せる文章の選
定を行っていた。文学作品に限って言うと、彼らは雑誌の傾向や特色を鑑みて、あるいは
自分の思想に沿って作品の選別を行う。彼らの思想や作品選別の傾向がどのようなものな
のかは当時の雑誌の読者によく知られていたようで32、雑誌の広告では、読者たちに雑誌の
特色を示すために批評家や編集者の名が明記されていた33。この名が雑誌の特色を示すから
である。名は、読者にとっていわば雑誌の品質保証であった。
読者が雑誌を講読した金銭上の理由は、内容のはっきりしない高価な単行本を買うより
は、批評家や編集者の名によってある程度内容が保証された雑誌を購読する方が比較的安
価であり、よいものが読めるからであった34。また単行本を買うにしても、雑誌の批評によっ
て内容が保証されたものを買うことができる。読者にとって雑誌は、数多く出回る玉石混
淆の作品の中から、玉のみを取り出す篩のような役割を果たしていたと考えていいだろう。
このように雑誌が仲介的な機能を持つ上での前提として、作品が玉石含めて比較的大量
に市場に出回り、同時に、教養の不十分な読者が公衆の中に多く存在していなくてはなら
なかった。みずからの鑑識眼で文学作品や書籍の質を見分けるのではなく、文芸の専門家
の評価に頼って作品や書籍を選ぼうとする人々が雑誌の広い読者層を形成するほどに大勢
いてはじめて、仲介的な機能を果たす雑誌が成り立ちうる。
批評家たちは、このような人々を教育しなくてはならないと考えていた35。雑誌の読者た
ちは不特定多数の人々であり、彼らの中には比較的鑑識眼のある人から作品の文化的価値
判断のほとんどできない人まで混ざっていただろう。教育の程度にむらがある読者が増大
し、そのような読者たちを基盤とする雑誌は、彼らを相手に文学の教育を行わなくてはな
らない36。というのも彼らは今や、雑誌の存続や作家の人気と生活を左右する大きな権力と
化していたからだ37。文学の世界で権力を握り、大きな影響力を行使できる人々は、正しい
判断ができなくてはならない38。ベリンスキイに従えば、文学は時代精神とナショナリティ
を反映する。そして公衆は、時代精神とナショナリティの主権者である39。
雑誌の読者を教育しなくてはならないという思考の背景には、当時批評家たちによって
想像されていたある構図があった。雑誌の不特定多数の読者は、すなわち無教養な集団で
あるという構図である。この構図は、おそらく商業主義に徹する編集者や批評家にも、読
32Там
же, c.34.
В. С., Ранний Достоевский 1821-1849 (Москва: Наука, 1979) с.194.及び、Краевский,
33Нечаева,
А., «Об издании Отечественных записок в 1848-м году» с.1-8.
Бовы к Бальмонту, c.34.
35Клейменова, Книжная Москва, c.202.
36 テリー・イーグルトン(大橋洋一訳)
『批評の機能』(紀伊國屋書店,1996)P.79.
34Рейтбрат,От
38
高階秀爾『芸術のパトロンたち』岩波新書 490(岩波書店,1998 年)P.121-124.
イーグルトン,前掲書,P.70.
39
Terras, «Belinsky the journalist and Russian literature.» P.122-126.
37
15
者を教育しなくてはならないと考えていた批評家にも共有されていたであろう。
例えばベリンスキイは「文学的空想」において、ブルガーリンやセンコフスキイ、スミ
ルジンを商業的利益のみを考える編集者や書籍商だと名指しで厳しく批判する40。そしてベ
リンスキイは、傾向と思想を持った雑誌の発行が重要だと主張する。商業主義を非難する
背景には、批評の役割とは商業出版が次々に生産する俗悪な書物から読者たちを守り、彼
らの知的水準の底上げと進歩を図ることにあるという考えがあっただろう41。
しかし、例えば「搾取者」と陰口をたたかれたクラエフスキイ42の編集後記と、まさにこ
のような商業的出版界に参入せんとしたドストエフスキイの広告文や小説と、ベリンスキ
イの批評の文体を見ると、その余りの近似に目を引かれる。
ドストエフスキイの兄宛ての書簡 45 年 11 月 16 日付け43によると、ベリンスキイはドス
トエフスキイにこういったという。すなわち、ドストエフスキイが『ズボスカール』に自
分の書いたものを載せるということは、ドストエフスキイ自身を冒涜することだと。ベリ
ンスキイは『ズボスカール』を俗悪な書物と見なした。しかし、ベリンスキイの批評文の
スタイルは、その『ズボスカール』を宣伝するドストエフスキイの広告文の文章とよく似
ている。
彼らが近似する文体を共有していたのは、みなひとしなみに不特定多数の公衆読者を対
象とし、商業化する出版産業を前提とし、読者に対し仲介を行うという役割をみずからに
課していたからであろう。彼らは商業空間に出回る雑誌を読者に買わせ、さらにその雑誌
の中で様々な書籍の購入の手引きをした。彼らの活動は、最終的には公衆が商品としての
書物を購入することを目的としたものであった。この点で、商業的な出版者や批評家とベ
リンスキイとの間にはたいした違いはない。
クラエフスキイ、ベリンスキイ、ドストエフスキイらの職種の違いやイデオロギーの違
いをクローズ・アップすれば、彼らの考え方や活動の様態は異質のものに思われる。しか
し彼らは、既に大きなものとなりつつあった商業空間の中で、潜在的書籍購入者である公
衆を相手に仲介業という同質の活動をする人々であった。しかも彼らはみな職業文学者、
編集者であり、商業出版界と切り離されては生活できない人々であった。彼らは活動と存
在の基盤を商業化する出版産業においていた。彼らが共有していた文体はこのことを示し
ているのではないだろうか。
40ヴィ・ゲ・ベリンスキー(森宏一訳)
『ベリンスキー著作選集Ⅰ』
(同時代社,1987)に収
められている論文「文学的空想」P.128-129.参照。
41
小森「近代批評の出発」P.75.
42
ニコライ・スミルノフ=ソコリスキイ(源貴志訳)
『書物の話』
(図書出版社,1994)の
巻末 P.434-486.には、訳者源による人名便覧がついている。その中の P.446.クラエフスキ
イの項参照。及び、В. В. Виноградов, «Достоевский и А. А. Краевский» Достоевский и его
время, ред. Вазанов, В. Г. Фридлендер, Г. М., (Ленинград: Наука, 1971) с.19.
43Достоевский, Полн. собр. сочн., т.28, к.1, с.116.
16
3. 出版活動における
出版活動における広告
における広告の
広告の重要性
雑誌と書籍の出版
広告は、単により多くの購買者を獲得することのみを目的にしていたのではない。この
時代の広告は、時として出版の実現そのものに欠くことのできないものだったのである。
書籍や文学作品が商品として以外に世に現れることがない以上、これらの本や作品にとっ
ては、広告を入り口にして商業空間に入り、人々の目に触れることが重要である。
広告を出し、人々の目に触れて、潜在的購買者をあらかじめ獲得しておかなくては発行
することの出来ない種類の出版物は多かったようだ。例えば分冊なら、まず購読の予約を
募り、購読者を獲得する。次の巻の発行は彼らの支払い如何による。最後まで完結しなく
てはならない事典類でさえも、購読者が離れることで出版の中断に追いこまれることがあ
る44。
レイトブラットやバレンバウムによると、1830 年代から 40 年代の書籍商業は、リスク
の高い商売だったようである45。大規模な活動を展開し、30-40 年代の代表的な書籍商とし
て名をはせたスミルジンやプリュシャルは破産してしまった。彼らは、歴史に名を残す書
籍や雑誌、画集など様々な優れた書物を出版していたにもかかわらず、幾つかの事典や書
籍の失敗によってあっさりと破産してしまった。書籍商がリスクの高い商売であればこそ、
彼らは市場の動向に常に注意を払い、熱心にマーケティングを行い、不断に宣伝をした。
それでは広告が雑誌や書籍の出版において具体的にどのように機能していたのかを、次で
考察することにしよう。
雑誌の経営者は、まず自分の雑誌の誌面に購読者を募る広告を出す。その広告は編集後
記という形で現れる。
1847 年の『祖国雑記』に「編集者より」というタイトルの文章が雑誌の最後に載ってい
る46。これは、『祖国雑記』の編集と経営を行っていたクラエフスキイが書いたものだ。こ
こでクラエフスキイはこう書いている。
「したがって、1848 年の『祖国雑記』の予約購読は、従来通り当雑誌の事務所で受け付
けます。47」
『祖国雑記』は一月に一回発行されていた月間雑誌であり、分厚い雑誌と呼ばれるもの
である。分厚い雑誌は通常、一年契約で定期購読を申し込んで読む形式を取っていた。し
44Баренбаум,
Книжный Петербург, c.114.
45Баренбаум, Книжный Петербург, c.100,114.及び Рейтбрат,От Бовы к Бальмонту, c.80.
46Краевский,
«Об издании Отечественных записок в 1848-м году» с.1-8.
же, с.6. «Таким образом, подписка на «Отечественныя Записки» 1848 года будет,
по-прежнему, приниматься в Контор этого журнала, …»
47Там
17
たがって経営者は、年末には、既に定期購読をしている読者に向かって翌年も購読を継続
するよう契約更新を勧める広告を書いた。それが編集後記である。また購読してはいない
が、図書館や回し読みで『祖国雑記』を読む可能性のある潜在的読者にも、同時に新規加
入を勧めるのである。既に言及したように潜在的な読者は定期購読者の「40 倍」はいると
考えられており、無視することのできない重要な潜在的購買層を成していた。
『祖国雑記』に限らず、分厚い雑誌では、巻末の編集後記は雑誌そのものの重要な広告
欄であった。例えばネクラーソフが書いた『同時代人』の「編集後記」においては、その
年の雑誌の内容の概観や売れ行き、評判、翌年の内容や欄の組み方の予定などが書いてあ
る。これらの項目は、雑誌の商品としての性格を決める要素だ。編集後記において、編集
者は、読者が雑誌を選ぶ際に考慮すると考えられる項目について情報を提供していたので
ある。
新刊の出版物では、定期購読の説明にあたり読者を引き付けるために、読者の名前が本
の付録の定期購読者リストに載るとか、表紙に将来の所有者の名や苗字が書かれるといっ
た内容のことを書いていた。出版物が世に出た後に、その書物の値段をもっと安くすると
いう約束をするものもあった48。
このような工夫をして、定期購読の出版物は、できるだけ多くの定期購読者を集めるべ
く努力を重ねたのである。出版物にとって、できるだけ多くの読者を獲得することがいか
に重要だったかが窺い知られる。
では実際に、例えば雑誌が発行される手順はどのようなものだったのだろうか?ベル
ナップはこのことについて説明をしている。第一段階は、数人が雑誌を始めるか、あるい
は既に存在している雑誌を引き継ぐという決定を下すことである。第二段階は、出版者と
編集者を見つけることだ。その際編集者は、定期購読者に雑誌を売るための手腕にたけた
知名度の高い専門家であることが一般的である。第三段階は、検閲の承認を得ることであっ
た。第四段階は、雑誌を始めるための経済的な援助を募り、モスクワやペテルブルグ、時
には郊外、パリなどの外国の主要都市の書籍商にマーケティングの手配をすることである。
第五段階は著名で評判の高い寄稿者を集めることである。そして第六段階が、その雑誌の
広告文を立案し、他の雑誌に有料で掲載することであった。この広告文は、目標、形態、
雑誌の寄稿者の名を書いて定期購読を請う内容のものである。数年後には定期購読者を数
百から数千人ほど獲得すべく、この広告を書く作業を雑誌関係者は常時行うことになる49。
ここで、第四と第六の段階に注目しよう。第四段階は、都市の書籍商にマーケティング
のための手配をすることである。出版のための準備段階で、市場という商業空間に雑誌が
参入していくプロセスが不可欠なのである。それは書籍商を通じてなされる。書籍商の協
力なしに雑誌が世に出て行くことはできない仕組みになっていたのである。
第六の段階は、雑誌の中心人物らが他の雑誌に載せてもらう宣伝文を立案することであ
48Клейменова,
49
Книжная Москва, c.201.
Belknap, «Survey of Russian journals 1840-1880» P.96-97.
18
る。広告文は、雑誌の存続の可能性を生み出すものだった。また、まだ世に出ていないも
のに至っては、広告文なしには世に出て存在することすらできなかったのである。
例えばネクラーソフやドストエフスキイは、発行計画を立てていたアリマナフ『ズボス
カール』の広告文を準備段階で既に『祖国雑記』に掲載している。広告文は発表されたも
のの、このアリマナフは実際には検閲に差し止められてしまい、発刊には至らなかった。
アリマナフの発行手続きが具体的にどういうものであったかは不明であるが、検閲の許可
が下りる前の早い時期に、雑誌で言えば第三段階の前に既に宣伝文を出している。
雑誌と同様、単行本の出版にも広告は不可欠であった。文学作品について言えば、文学
作品は 40 年代においては大抵まず雑誌に発表され、その後単行本として出版されていた。
ヴァレリアン・マイコフ50は、最初に雑誌に作品を載せた後に単行本として出版することの
効果を評論の中で書いている。すなわち、雑誌に作品を載せることによって何千人もの人々
がその作品を読み、作品の評価ができてくる。その作品がよいものであり、教養ある人々
が所有しておかずにはすまないような作品であれば、その作品が雑誌に掲載されている間
に、まだ出版されていないその作品の単行本に対する公衆の需要が高まる。とマイコフは
言うのである51。
雑誌に作品を載せることは、雑誌の購読者や潜在的な読者の目に作品が触れることを意
味し、それがそのまま作品の宣伝となるというのである。マイコフは、同じ論文の中で「あ
たかも定期刊行物の影響で、すべてのロシアの文学は雑誌的な性格を帯びたかのようだ52」
と言う。多くの作品が、優れた伝播力を持つ雑誌の中に取り込まれたのである。
出版システムの一部としての広告
ベルナップによれば、雑誌は 1840 年代以降文学のメディアの中で中心的な位置を占める
ようになる。「分厚い雑誌 (толстый журнал)」といわれる文芸雑誌は、宮廷、学校や大学、
劇場、芸術学校、芸術・科学アカデミー、サロン、サークルなどと並ぶ独立した文化的機
関であった53。文芸雑誌は、作家に生活や出版の市場や文体的な枠組みを提供した。また雑
誌は情報や意見の源泉であり、作家や他の文人たちがより多くを学び、自分たちの社会的・
50
Майков, Валериан Николаевич (1823-1847) 批評家、社会評論家。経済、歴史、哲学、文
学など幅広い分野に通じる。その教養をもとに、文芸評論家としても活躍した。ここに挙
げた«Нечто о Русской Литератуте в 1846 году»は、若きドストエフスキイの資質を的確に評
価 し た 論 文 と し て 名 高 い 。 Русские писатели 11-20вв., т.3., гл. ред. Николаев, П. А.,
(Москва:Советская энциклопедия, 1994)
В.Н. «Нечто о Русской Литератуте в 1846 году» Отечественные записки,т.50.
(1847) отд.5, с.7.
52Там же, с.7 «будто-бы, под влиянием периодических изданий, вся русская литература
получила характер журнальный.»
53 Belknap, «Survey of Russian journals 1840-1880» P.91.
51Майков,
19
文化的アイデンティティを構築する場の中心であった。雑誌の芸術的、政治、経済的に緊
密に作家を支えるシステムは、作家たちの知的成長を促した54。
分厚い雑誌は、商業出版を前提とする文学の世界と読者の間の仲介者であった。この仲
介者の役割は余りにも大きく、雑誌は一つの文化的機関そのものとなっていた。文学作品
は、雑誌に掲載されたり広告を載せてもらうことで初めて世に出ることができた。このよ
うに文学作品や単行本が雑誌を通じて世に出たとき、それらは、雑誌が存在していた商業
的な出版システムの中に参入することになる。
様々な広告が雑誌に集中したということは、文学の世界が雑誌というメディアを中心に
編成し直されていたことを意味している。雑誌は広告の重要な媒体であった。そして、広
告は多様な書物が世に出るための出発点であった。雑誌に載る広告文は、読者の眼に触れ
ることによって、それぞれの宣伝する新しい出版物の存在の可能性を生み出す。また既に
出ている出版物の存続の可能性を生み出す。広告は書物の出版サイクルの一部となり、出
版業界を未来に繋ぐ役割を担っていたのである。
文学が雑誌広告を出版の出発点としたことは、文学が、雑誌や広告の位置する書籍商業
システムの中で生産され、流通していたことを意味する。それは、不特定多数の読者が購
買者であり読者である商業空間であった。1840 年代に出版界は商業化し、不特定多数の読
者に向けて不特定多数の書籍を発刊しするようになった。広告を通じて見えてきたことは、
このような出版界において 1840 年代の書物は、なによりもまず商品として存在したという
ことである。
書籍産業の商業化、書物の商品化という動きは、文学に関わる人々や文学作品を載せた
書物のかたちに影響を与えずにはおかない。書物が商品として認識される社会の中で、書
物は具体的にどのように物質的な形や内容を変え、出版者はどのように出版の目的や方針
を変えていったのだろうか。このような側面から 19 世紀前半における書物について考えて
いきたい。
4. 書物の
書物の物質的側面の
物質的側面の分析
書物の物質的側面に言及する広告
1840 年代の書物の広告には、ある特徴がある。それは、書物の物質的な側面についての
情報を内容と同じ程度に詳細に記していることである。この特徴が複数の広告55に共通して
Ibid., P.91.
前掲の Некрасов, «Литературные Новости» с.114-116.及び Некрасов, Н. А., Полное
собрание сочнений и писем, гл. ред. Сурков, А. А., Храпченко, М. Б., т.13, (Санкт-Петербург:
Наука, 1997) с.61-63. また、バレンバウムは、ベリンスキイが、批評の中でスミルジンの出
版した書物の外面的体裁を誉めている箇所を引用している。Баренбаум, Книжный
Петербург, c.101.
54
55
20
いることから、物質的情報の詳細な宣伝は、当時の広告文の定石だったと思われる。当時
の書籍広告において、これらの情報は読者に必ず伝えられるべきものであったようだ。
例えば 1845 年のアリマナフ『ズボスカール』の広告文『ズボスカール』において、この
広告文の作者であるドストエフスキイは、このアリマナフの物質的な側面を繰り返し読者
に示している。
まず表題『ズボスカール』のすぐ下に、本文とは別に「ユーモア文集、二部構成(八つ
折版)、十二分冊、各冊、印刷全紙三台から五台、木版挿絵入り。56」という簡略な説明書
きを入れている。さらに『ズボスカール』本文の終わり近くに、「『ズボスカール』は自分
の裁量で、
(中略)木版画によって 2,3 の文章を飾るだろう。
(中略)最終号の第 12 巻が発
行されて本が完結する際には、読者に素晴らしい絵入りの表紙をお配りするので…57」と書
いている。ドストエフスキイは広告の中で書物の物質的な側面に関する説明を二回にわ
たって繰り返すのである。
またネクラーソフも、別の書籍の広告文で同じように装丁や挿絵についての情報に高い
比重を置いている。先ほど例に挙げた、ソログープ伯爵の書いたルポルタージュの単行本
『旅行馬車』と、アリマナフ『ペテルブルグの生理学』の広告文がそうである。ここでネ
クラーソフは、単行本やアリマナフの装丁や装飾、紙質、活字の大きさという物質的な要
素に関する情報を提示している58。このことは、それら物質的な要素が読者にとって魅力的
であるということ、そして物質的要素が商品価値の中で大きな比重を占めるということを
ネクラーソフが考えていたことを意味している。
広告作家のみならず批評家もまた、出版物の評価を下すにあたり物質的側面を重要な判
断材料とした。ベリンスキイはスミルジンの出版した『ロシア作家選集』に関して、この
シリーズ物の書籍の計画の斬新さとともに、装丁が小さくて美しいことを誉めている59。
広告や批評が、書物の魅力の中でも物質的(形式上)の魅力に高い比重を置いていると
いうことは、広告作家や批評家が持っていた当時の書物の観念の中で、物質性が二次的な
ものというよりはむしろ文章と対等なほど重要な要素として捉えられていたことを意味し
ているのではないだろうか。そして読者にとっても、物質的な魅力は、その書物の価値を
56フョードル・ドストエフスキー(小沼文彦訳)
『ドストエフスキー全集第
20 巻A』(筑摩
書房,1991)P.7.小沼訳。 Достоевский, Ф. М., Полное собрание сочнений в тридцати томах,
гл. ред. Базанов, В. Г., т.18 (Ленинград: Наука, 1978) с,5. «комический альманах, в двух
частях (в 8-ю д(олю) л(иста)), разделенных на 12 выпусков, от 3-х до 5-ти листов в каждом, и
украшенных политипажами»
57Там же, с.9. «Некоторые статьи, по усмотрению своему, «Звоскал» будет украшать
политипажными рисунками, …а когда книга окончится, именно при двенадцатом и последнем
выпуске, выдаст своим читателям великолепную иллюстрированную обертку, …» 訳大野。ド
ストエフスキー『ドストエフスキー全集第 20 巻 A』P.12.を参考にした。
58Некрасов, «Литературные Новости» с.114.
59Баренбаум, Книжный Петербург,c.101.
21
考えるときはずすことのできない重要な判断材料だったのではないだろうか。
1840 年代における広告の文章は、書物の内容と物質的な側面をほぼ同等の比重で扱って
いた。このことは、当時、書物の商品価値全体の中で、装丁や紙質といった要素が今のわ
れわれが考えるよりも大きな比重を占めていたということを示している。
さらに書物の広告に現れる書物の観念は、当時のロシア社会の中で作り上げられ人々に
共有されていたものである。書物というものはテクストであると同等に物質性を強く持つ
という観念は、商業制度の中だけでなく、当時の広い文化の中に位置していたのではない
だろうか。
広告の言葉は、書物を宣伝するときに、テクストの内容も物質面もひとしなみにおなじ
商品の構成要素として扱う。テクスト内容の魅力を宣伝するとき、広告の言葉は内容の社
会的意義、芸術的意義などあらゆる側面の魅力を作り出す。だがどのような側面からどん
な魅力が作り出されようとも、それらの魅力は最終的には商品としての書物が持つ単なる
商品価値に転換される運命にある。つまり広告の言葉は、テクスト内容に言及したとき、
内容を商品の一部に変えるのである。広告の言葉の中で、テクストの内容は商品の構成要
素のレベルに、すなわち書物の物質的な諸要素と等価な平面に置き直される。
このことは、広告文における書物の情報の記述の配置にも現れている。広告文『ズボス
カール』において書物全体の内容紹介の部分は、挿絵や表紙に関する記述と同じ段落に収
まっている60。
例えば文学作品を掲載した書物である場合、テクストの内容は文学の領域に帰属させら
れ、物質の側面は印刷技術の領域に帰属させられるか、あるいは省みられないで終わる。
1840 年代の書物の広告が興味深いのは、それが、テクストの内容と物質的側面という一見
互いにまったく異なるカテゴリーに属しているものを、それぞれのカテゴリーから切り離
し、商品性という無関係の場所に等しく置き直すからである。このようにもともと属して
いたものから切り離されたとき、テクストや物質的要素はそれぞれに社会の様々な要素と
結びつき、それまでとは異なる文化的な相貌を現してくるだろう61。
物質的な側面―文化への入り口
1840 年代に書かれた書物の広告の言葉を通じて、当時の人々がどのような書物の観念を
持っていたのか、そして書物は当時のどのような文化の中で形成されていたのかというこ
とについて考えていきたい。その際われわれが注目するのは、書物の物質的な側面である。
書物の物質性は、書物が存在して時代や場所、社会、文化に条件付けられて現れてきた
社会的な産物として考えることができる。そしてこの社会的産物である書物の物質性は、
あり得たはずの他の多くの選択肢の中から選ばれた要素(紙質、カバーの形式、大きさ、
60Достоевский,
61
Поли. собр. соч. , т.18, с.9.
多木浩二『比喩としての世界 意味のかたち』(青土社,1988)P.136-137.
22
版型、活字など)の集合体であり、それらの要素一つ一つが何らかの意味を現している。
例えばある書物の軽量で小さな版型は持ち運び用に作られていることを示す記号であり、
高価な皮の装丁はその本が裕福な階層向けに作られたことを意味する記号である。書物を
作り上げている一つ一つの物質的要素は、それぞれに時代や社会、文化のコンテキストに
即した意味を持ち、人々に向かってメッセージを発するのである。
物質としての書物の出版形態の中には物のレベルでの文化の様態が刻印され62、そこには
ある社会や時代の思考やイメージ、文化、社会に広がる空間についての興味深い手がかり
が隠されている63。「思考され得ないもの、見えないもの、語られ得ないものの不透明な次
元として書物の物質性がある64」と多木浩二は言う。書物の物質的側面を分析するというこ
とは、このような物に刻み込まれ凝縮された豊かな意味を立ち上がらせることである。以
下では、1840 年代の書物を具体例に挙げ、その書物を作り上げている一つ一つの物が発す
る意味を解きほぐしながら、この書物を生み出した 1840 年代の社会の動きや文化の様態に
ついて考えていきたい。
ズボスカールの分析 挿絵
考察の対象とする書物は、ネクラーソフやドストエフスキイらが出版する計画を立てて
いたアリマナフ『ズボスカール』である。この『ズボスカール』は、検閲で出版、発行を
差し止められて出版に至らなかったものなので、考察対象とするにはいささか不適当かも
しれない。だがここでは、書物の広告文を分析することを通じて、当時の社会におけるこ
の書物の位置づけやこの書物を生み出した文化を探ることを狙いとしており、広告文にア
リマナフの物の部分に関する相当量の情報が載っている以上、分析の作業は可能であり、
その目的も満たしうると判断する。
この広告文を通じて、アリマナフ『ズボスカール』のために計画されていた物質的側面
を読み解く。そして『ズボスカール』という文集がどのような社会的文脈の中に位置して
いたのか、
『ズボスカール』が属する 40 年代のアリマナフが同時代にどのような通念によっ
て捉えられていたかを分析したい。
まず扱うのは挿絵である。ドストエフスキイは広告文の本文中で木版画の挿絵について
言及している。
「『ズボスカール』は自分の裁量で、ペテルブルグの優れた版画家と画家に依頼する木版
画によって 2,3 の文章を飾るだろう65。」
62
小森陽一「物としての書物/書物としての物」亀井秀雄編『北大国文学会創立四十周年
記念 刷りもの表現と享受』(1989)P.31-32.
多木『モダニズムの神話』P.252.
同書,P.252.
65Достоевский, Поли. собр. соч. , т.18, с.9. «Некоторые статьи, по усмотрению своему,
63
64
23
『ズボスカール』は、挿絵入りのアリマナフなのである。
1840 年代に挿絵は、ゴーゴリをはじめとする人気作家の単行本によくつけられていた。
代表的なものでは、同時代の読者の間で好評を博した『死せる魂』のためのアーギンによ
る挿絵がある。挿絵は、40 年代には表象芸術の人気の高い一部門となっており、書物の重
要な構成要素に成長していた。また画家のアーギン、版画家のベルナツキイや、パーヴェ
ル・フェドートフ、ニコライ・ステパーノフは、1840 年代において、ヴラジミル・ダーリ
やドストエフスキイ、イヴァン・パナーエフらと仕事の上でも、私的にも交流があった。
彼らは日常生活の描写に対する興味を共有しており、文学、絵画という表現手段の境界を
越えて緊密な連帯を成していたのである66。
しかし、挿絵がアリマナフに入れらることは珍しかったようだ。ドストエフスキイは、
1845 年 10 月 8 日付け兄ミハイル宛ての手紙の中で、ズボスカールについて兄に説明をし
ているのだが、その際挿絵についてはこう書いている。
「実に内容の立派なものができました。第一に挿絵入りなのです67。」
19 世紀前半の印刷技術について、クレイメノヴァは以下のように述べている。
「大衆的な需要のある芸術その他の文献、すなわち長編小説の単行本、アリマナフ、小
さな作品などは、しばしば飾りなし、イラストなしで印刷された68。」
40 年代において、アリマナフというのは装飾やイラストのない簡素な形式で出されるこ
とが多かったようだ。さらにクレイメノヴァによると、1840 年代には散文が勝利し、本は
安くなり、新しい読者を要求した69という。このことを考え合わせると、40 年代の一般的
なアリマナフというのは、20 年代、30 年代に発行されていたような銅版画付きの装飾的に
凝った文集とは違い、大衆向けで安価な印刷物に属すると判断していいだろう。したがっ
て挿絵を入れたアリマナフというのは、40 年代にはアリマナフの標準から少しはずれた
凝った体裁のものであり、ドストエフスキイの書く通り注目すべき特長であったと考えら
れる。
挿絵を入れるということは、書物が装飾豊かになると同時に、書物の価格がそれだけ高
くなることを意味していた。ドストエフスキイは広告文『ズボスカール』で版画が高価で
あることを述べている。
「印刷、紙、挿絵の経費―挿絵は、わが国では手に入れるのは難し
«Звоскал» будет украшать политипажными рисунками, исполнение которых поручит лучшим
петербургским граверам и рисовальщикам,…» 訳大野。ドストエフスキー『ドストエフス
キー全集第 20 巻 A』P.7.を参考にした。
66
Bowlt, John E. «Nineteenth-Century Russian Caricature» Art and Culture in
Nineteenth-Century Russia, ed. Theofanis George Stavrou (Bloomington: Indiana
University Press, 1983) P.230.
Поли. собр. соч., т.28, к.1, с.113. «Составился он у нас великолепно. Во-первых,
он будет с иллюстрациями.» 訳大野。ドストエフスキー『ドストエフスキー全集第 15 巻』
P.114.を参考にした。
68Клейменова, Книжная Москва, c.128.
69Там же, c.128.
67Достоевский,
24
いし、高価である!70」
クレイメノヴァによれば、実際、挿絵を入れるのには高額の費用がかかったようだ71。通
常はイラストの入らない安価な印刷物であるはずのアリマナフに挿絵を入れるということ
は、このアリマナフが通常のアリマナフよりも値段が高いということを意味している。し
たがってズボスカールが想定する読者層は、通常のアリマナフを買う読者層に比べると少
し裕福な階層ということになる。
では『ズボスカール』の価格はいくらだったのだろうか。ドストエフスキイは、広告文
で分冊一部につき銀貨 1 ルーブルであると書いている72。分冊一部につき銀貨 1 ルーブルと
いうのは、当時の書籍やアリマナフの価格の相場からするとどのような価格と考えればい
いのか。この値段の意味を探るために 40 年代半ばに出版された書籍の価格を比較材料とし
て出し、対照させてみよう。
例えば 1847 年の『祖国雑記』に載せられた、ラチコフ書店のカタログに出ている書籍の
値段を見てみよう。
『ズボスカール』の広告文によると、ラチコフ書店は『ズボスカール』
を販売する予定であった書店である。ただしここで挙げるのはアリマナフではなく単行本
である。
Иван Мазепа, Гетман Малоросийский. Исторический роман в четырех частях. Москва
1846. Цена 1р. 50к., вес. за 2фунта.73
(『イヴァン・マゼッパ 小ロシアの首領』歴史小説全四巻。モスクワ,1846 年。値段 1
ルーブル 50 コペイカ,重さ 2 フント(訳大野))
歴史小説の単行本である。値段は銀貨で 1 ルーブル 50 コペイカである。書籍の大きさや
内容量は、ハードカバーが通常つけられていなかったことを考慮したとしても、2 フント(=
約 820 グラム74)分の送料がかかることが記されている。
『ズボスカール』の広告文による
と、『ズボスカール』を郵送で取り寄せる場合は「1 フント分の送料がかかる」と書いてあ
るところから、
『ズボスカール』のおよそ二倍の重さだと考えることにしよう。そのような
書物がおよそ 1 ルーブル 50 コペイカで『ズボスカール』の 1.5 倍の価格であるということ
は、ズボスカールは少々割高だということになる。
1 フント分の送料と書いてある書籍の価格は、いずれもペテルブルグの出版物、同じラチ
コフ書店の書籍で銀貨 30 コペイカや 40 コペイカ75である。書籍の種類にもよるだろうが、
ズボスカールと比較すると安価である。
70Достоевский,
Поли. собр. соч. , т.18, с.9. «расходы на печатание, бумагу,
картинки,—картинки, каторые у нас достаются так трудно, и дорого!» 訳大野。ドストエフス
キー『ドストエフスキー全集第 20 巻A』P.13.を参考にした。
71Клейменова, Книжная Москва, c.115.
72Достоевский, Поли. собр. соч. , т.18, с.10.
73Отечественные записки,т.47. (1847)の書店カタログの欄 с.1 より引用。
74ドストエフスキー,前掲書第 20 巻A,P.13.訳者小沼による注によると、1 フントは約 410
グラム。
75Отечественные записки,т.47. (1847)の書店カタログの欄 с.1-3.
25
1 フントで 1 ルーブル(銀貨)の書物は、
Шестая часть истории консульства и империи во Франции. Сочнение А. Тьера, полный
перевод Ф. А. Кони. СПб. 1847. Hа лучщей вел. Бумаге. К этой части приложена
отлично-гравированная и отпечатанная в Париже картинка, изображающая Императора
Наполеона, пред войском при Аустерлице. Цена 1р., вес. за 1ф.
76
(『フランスにおける(ナポレオン)執政時代と帝政期 第 6 部』ティエール著,コーニ
全訳。サンクトペテルブルグ,1847 年。上質の犢皮紙使用。第 6 部には、アウステルリッ
ツの戦いに臨むナポレオン皇帝を描いた、パリで製版、印刷した素晴らしい絵がついてい
る。値段 1 ルーブル,重さ 1 フント。)
というものである。上等の犢皮紙(веленевая бумага77)に印刷してあり、フランス製の
グラビアがついている。翻訳ものであり、翻訳料、著作権料等が原価でどのような内訳に
なっているのかは不明であるが、この時代翻訳家の原稿料は作家に比べて極めて安かった78
ことを考慮すると、かなり物質的な面で質の高い書物だったのではないだろうか。
挿絵集という出版物が同じラチコフ商会から出されている。
Сто рисунков из сочнения Н. В. Гоголя: «Мертвыя Души». Рисовал А. Агин. Гравировал на
дереве Е. Бернардский. Все издание будет состоят из 25 выпусков, каждый выпуск состоит из
4-х рисунков, в формат издания Мертвых Душ, подписная цена 10р. С перес. 11р. 50к. При
подписке вышедшия 16 тетрадей выдаются.79
(『ゴーゴリの作品『死せる魂』から抜粋した 100 枚の挿絵集』。アーギン画、ベルナツ
キイ製版。全 25 分冊。各分冊は 4 枚のイラストからなる。
『死せる魂』と同じ大きさの製
版。購読料 10 ルーブル。送料込みで 11 ルーブル 50 コペイカ。購読申込にあたっては、既
刊の 16 仮綴じ分冊が配布される。(訳大野))
ゴーゴリの『死せる魂』につけられた挿絵画家アーギンと版画家ベルナツキイによる木
版挿絵集の、定期購読のカタログである。購読料が 10 ルーブルなので、挿絵集は割高な書
物だといえる。
挿絵には様々な種類がある。1840 年代当時書物の挿絵として用いられていた版画は、銅
版画、石版画、木版画、鉄版画であった。この中で『ズボスカール』につけられる予定だっ
た挿絵は、木版画である。ほかにも様々な種類の版画がある中で、なぜ木版画が選ばれた
のだろうか。
クレイメノヴァは、挿絵用の版画について以下のように書いている。「19 世紀の最初の
76Там
же, (1847)の書店カタログの欄 с.2.より引用。
С. А., Листратенко, Книговедение Энциклопедический словарь, гл. ред.
Чхиквишвили, И. И. (Москва: Советская энциклопедия, 1981) с.95. によると、веленевая
бумага とは、細密画やパステル画、線画を描く際に用いられる、白くて上質の筆記用紙で
ある。
78Рейтбрат,От Бовы к Бальмонту, c.88.
79Отечественные записки,т.47. (1847)の書店カタログの欄 с.2.より引用。
77Клепиков,
26
40 年間は、金属による版画が栄えた。1840 年代からは、版画において、リアルな生活が描
かれるようになった。それらは、木版画や石版画で作られた。」
例えばゴーゴリの『死せる魂』に載せられた挿絵画家アーギンの書いた挿絵は、ベルナ
ツキイという版画家の刷った木版画であった。アーギンの挿絵が載った代表的な書物には、
例えば『ペテルブルグの生理学』に掲載されたパナーエフのルポルタージュ『ペテルブル
グのフェリエトニスト80』や、
『ペテルブルグ文集』に掲載されたツルゲーネフの詩『地主81』
がある82。ネクラーソフが中心になって出版したこの二つのアリマナフ『ペテルブルグの生
理学』や『ペテルブルグ文集』は、他にも数多くの木版画を載せていた。1840 年代に木版
画を載せたこれらの代表的な書物の傾向から、当時木版画がどのようなジャンルによく載
せられたかが分る。木版画は、ナチュラリナヤ・シコーラが書くようなルポルタージュや
生理学的小説といった、都市生活の断片を描写する流派に好んで用いられた。木版は、リ
アルな現実描写をする書物と結びついていた。
『ズボスカール』は、ナチュラリナヤ・シコーラと呼ばれる作家たちに属するネクラー
ソフやドストエフスキイ、グリゴローヴィチらが計画したものであり、広告文に紹介され
ている内容の点からも上記のジャンルに属するものであったと考えていいだろう。
『ズボス
カール』の企画者たちが木版画を選択したのは、アリマナフのジャンルと木版画同士の結
びつきを考慮したためであっただろう83。
ズボスカールの分析 表紙
次に『ズボスカール』のために予定されていた表紙について考えてみよう。
ドストエフスキイは、広告文の中で、表紙について以下のように述べている。
「最終号の第 12 巻が発行されて本が完結する際には、読者に素晴らしい絵入りの表紙を
お配りするので、それを使って『ズボスカール』を装丁していただくよう読者にお願いす
る84。」
この表紙は、どのような材質で作る予定だったのだろうか。そしてこの表紙は、40 年代
当時のアリマナフとしては標準的なものだったのか、あるいは標準から外れたものだった
のだろうか。
80
Панаев, И. И., «Петербургский фельетнист» 1845.
Тургенев, И. С., «Помещик» 1846.
82Книговедение Энциклопедический словарь, с.10.
83 ただし、Клейменова, Книжная Москва, c.126.によると、1840 年代には木版画は全般的に
最も典型的な挿絵として使われていたようだ。この時期には印刷技術が進歩して、それま
でテクストと別の頁に単独で載せられる版画は、テクストの中や植字の周りなどのテクス
トと同じ頁上に載せられるようになったという。
84Достоевский, Поли. собр. соч. , т.18, с.9. «…а когда книга окончится, именно при
двенадцатом и последнем выпуске, выдаст своим читателям великолепную
иллюстрированную обертку, в которую и попросит читателей переплесть его произведение.»
訳大野。ドストエフスキー『ドストエフスキー全集第 20 巻 A』P.12.を参考にした。
81
27
ズボスカールが予定していた表紙は「素晴らしい絵入りの表紙85」である。文集が完結し
た際に配布され、書物を装丁することを目的とするということは、この表紙は、アリマナ
フ『ズボスカール』を保存し本棚に飾っておくためのものということになる。
クレイメノヴァによると、30 年代頃からアリマナフのために、サテンや絹を張った表紙
が作られていた。そして紙と同じように布に印刷できるグラビア(凸版)が、布地製の表
紙の登場を促したという86。ズボスカールの表紙は、обертка、すなわち обложка という厚
紙の表紙で、ハードカバーではない87。豪華な絵入りの表紙ということなので紙製の可能性
が高いが、あるいはサテンや絹に印刷をした布製の表紙だったかもしれない。
皮表紙で装丁されていた書物を比較材料として挙げよう。例えばスミルジンが出した『ロ
シア文学 100 選 (Сто русских литераторов)』(1839-45)である88。一巻につき 10 人の作
家の作品を載せ、十巻出版する構想になっていた。実際に出版されたのは三巻のみであっ
た。その中にはプーシキン、ベストウージェフ、ダヴィドフ、クルイロフ、ナジェージディ
ン、パナーエフ、ポレヴォーイ、クーコリニク、ザゴスキンらの中編、短編小説やルポル
タージュが載っていた。またブリューロフ、チム、トルストイ、シェクチェンコ、サドウ
ルネルほか有名な芸術家たちの挿絵で満たされていた89。出版された三巻中二巻はとびきり
素晴らしい革表紙で、栽断面には金が塗ってあった90。
『ロシア文学百選』は装飾的で挿絵をたくさん入れ、多くの作家たちに高額の原稿料を
払った書物である。革表紙が装丁用に使っていたのは、このような豪華本であった。
これと比較すると『ズボスカール』の表紙は簡素であった。ズボスカールの表紙は、購
読者獲得を狙いとした宣伝のための小道具であり、40 年代当時としては標準的なアリマナ
フの付録であったと考えていいだろう。ただしこの時期に装飾のない簡素なアリマナフや
小説などは、キャラコやボール紙でできた安価な表紙が使われ始めていたことから、それ
ほど質素な部類には属していないといえる91。
ズボスカールの分析 版型
же, с.9. «великолепную иллюстрированную обертку» 訳大野。同書,P.12.を参考にした。
Книжная Москва, c.126.
87Книговедение Энциклопедический словарь, с.378.
88ドストエフスキイ『ドストエフスキー全集第 15 巻』P.39 の訳者小沼による注。
『ロシア
文学百選』について。「『ロシア文学百選』ともいうべき文集で、各巻十人、全十巻百人の
作品を載せ、1839 年にその第一巻が出た。ちなみに第一巻に収録されたのは次の十名であっ
た。アレクサーンドロフ、マルリーンスキー、ダヴィドフ、ゾートフ、クーコリニク、ポ
レヴォーイ、プーシキン、スヴィニイン、センコーフスキー、シャホスコーイ。
」
89Баренбаум, Книжный Петербург, c.102.
90Там же, c.102.ではこう記述されているのだが、Клейменова, Книжная Москва, c.125.によれ
ば、この時代、書物は、所有者が自分で好みの装丁をするのが普通であったということな
ので、
『ロシア文学 100 選』のこの革表紙の装丁がどのような過程で施されたのかは不明で
ある。
91Клейменова, Книжная Москва, c.130.
85Там
86Клейменова,
28
『ズボスカール』の表題の下に、文集の概要が簡単に書かれているところがある。その
中に、「二部構成(八折り版)」と書いてある。クレイメノヴァによると、八折り版という
のは文集や、大衆向けの簡素な書物によく使われていた版型であった92。クレイメノヴァは、
書物の種類と大きさの関係を以下のように関係づけている。すなわち宮廷の本は、精巧な
版画を伴い、荘厳で贅沢な作りで大きな版型であった。大衆的な需要のある書物、すなわ
ちロマンやアリマナフ、カレンダー等は装飾が少なく、これらの出版物はポケットサイズ
の版型が採用された93。
八折り版は、40 年代には小さな版型として考えられていたようである。八折り版は普通
15.3×24cm で、A5 版よりも縦 2cm ほど長い大きさである。もっと小さな書物も出版され
ていた。プーシキンの詩集など(1836)の「マッチ箱より小さい豆(миниатюрная)本94」
というものもあったようだが、これは例外的で、余りの小ささを売りにしているものだっ
た。
八折り版が同時代人に小さい版型と捉えられていたことを示す例として、1846 年にスミ
ルジンが出した『ロシア作家の作品大全 (Полное собрание сочнений русских авторов)』95と
いうシリーズものの作品集を取り上げよう。バレンバウムは、スミルジンが 1846 年に第一
巻を出版した『ロシア作家の作品大全』という出版物に関して触れている。この書物は大
衆向けの出版物であり、八折り本のコンパクトな小さい本であった。値段は一冊 1 ルーブ
ルであった96。
バレンバウムは、この出版物に対するベリンスキイの言葉を引用している。それによる
とベリンスキイは、この書物を「小さく、美しい版型の、コンパクトな印刷物」と呼んで
いる97。1840 年当時の人間にとって、八折り本は小さな版型だった。
この小さな版型は、1820 年代以降から詩集や文学作品集等の書物に用いられるようにな
る。19 世紀初頭までは、四折り版で 4 ページから 8 ページの、詩を載せた小冊子が人気だっ
た。1820 年代になると、八折り版で 20 ページから 60 ページの、詩やポーヴィスチの載っ
たアリマナフが増え、40 年代には八折り版の文学作品集が特徴的であった98。
さらに、八折り版は、流行の文学作品を掲載した書物に多かったという。詳しい時期は
明記されていないが、19 世紀の前半にロシアで流行した恐怖小説、滑稽小説、感傷小説、
風刺的、道徳的な小説は、八折り本の小さな版型、内容は 200 から 250 ページ程度で、美
しい表紙、本の最初か最後には出会いや別れ、祈りの場面を描いた銅版画がついた優雅な
92Там
же, c.130.
же, c.130.
94Баренбаум, Книжный Петербург, c.106-107.
95Там же, c.101.
96Там же, c.101.
97Там же, c.101.
98Клейменова, Книжная Москва, c.125.
93Там
29
小冊子で出版されることが多かった99。
八折り版は、19 世紀の前半に、文学作品を載せた書物や庶民的で比較的安価な出版物に
よく使われていた版型であったことが分る。
『ズボスカール』も、アリマナフとしては比較
的高価であったようだが、書物としては銀貨 1 ルーブルなので安い方である。
『ズボスカー
ル』は短編小説やルポルタージュ、都市の情景描写や笑い話など雑多な文章を掲載する軽
い読物であり、内容や出版の意図に即した版型を選んでいたといえるだろう。
ズボスカールの分析 構成
以上のことから、1840 年代の出版界におけるアリマナフ『ズボスカール』の出版物とし
ての性格が明らかになる。
『ズボスカール』は八折り版の小さ目サイズで、分冊形式のアリ
マナフとして計画された。印刷全紙三台から五台なので厚めだが、版型や発行の仕方につ
いてはアリマナフの標準と考えていいだろう。ただし木版画の挿絵が数多く入るという点
で、庶民向けの安価なアリマナフの定型から外れていた。挿絵のために、少々割高の分冊
銀貨 1 ルーブルとなっている。この点から考えると、アリマナフを購読する人々の中でも、
比較的裕福な階層を読者として想定していたと思われる。
ズボスカールはユーモア文集であり、いわゆる芸術性の高い文集ではない。広告によれ
ば、『ズボスカール』が計画していた内容は、アネクドート、フェリエトン、小説といった
ジャンルであった。これらは娯楽のための軽い読物であり、広く人気のあるジャンルだっ
た。『ズボスカール』は、当時流行していたよく売れそうな内容を計画していたのである。
『ズボスカール』は、いわば商業主義的な出版物だった。
ドストエフスキイの書簡からも、ネクラーソフやドストエフスキイ、グリゴローヴィチ
は、みな金銭的な利益を主要な目的としてこのアリマナフの出版を計画していたことが窺
える。ドストエフスキイは、兄ミハイル宛ての書簡の中で、このアリマナフで見込める利
益を胸算用している。「これはとてもいい仕事です。なぜなら収入は最低でも、僕だけの分
で月に 100 ルーブルから 150 ルーブルにはなりそうだからです。この本は売れますよ100」。
ドストエフスキイの書簡によれば、ベリンスキイはドストエフスキイに、ズボスカール
に載せることは自分の名を辱めることになるという忠告をしたという。ベリンスキイは、
商業主義的な出版活動を軽蔑し、激しく非難した人物である。『ズボスカール』は、ベリン
スキイに商業主義的な出版物とみなされたのであろう。
『ズボスカール』の出版計画に関わったのがネクラーソフ、ドストエフスキイ、グリゴ
ローヴィチであることに注意しよう。彼らはナチュラリナヤ・シコーラと呼ばれることに
なる若き作家たちであり、後にネクラーソフが中心となって出版する『ペテルブルグ・フェ
99Там
же, c.39.
100Достоевский,
Поли. собр. соч. , т.28, к.1, с.114. «Дело это доброе; ибо самый малый доход
может дать на одну мою часть 100-150 руб. в месяц. Книга пойдет.» 訳大野。ドストエフス
キー『ドストエフスキー全集第 15 巻』P.114.を参考にした。
30
リエトン』
『ペテルブルグ文集』の寄稿者であった。
ドストエフスキイは、広告文の中で『ズボスカール』についてこう述べている。
「そして、最後にもう一つ、例えば、ペテルブルグがその華麗さと豪華さ、轟音や騒音
にあふれ、ペテルブルグ特有の人間の無数のタイプ、無数の活動や心に秘めている情熱、
.....
紳士やいかがわしげな者たち、デルジャービンの言葉を借りれば、金色に輝く、あるいは
......
輝きなどしない塵のかたまり、山師、本の虫、高利貸、催眠術師、泥棒、百姓、その他あ
りとあらゆるものをすべて抱え込むペテルブルグが、食後の暇つぶしにぱらぱらとめくっ
てみて欠伸をしたり、にやりと笑うなりすればよい、果てしない素晴らしい挿絵入りアリ
マナフのように思われるからといって、果たして彼(ズボスカール(注大野))が悪いので
あろうか?101」
この記述から、
『ズボスカール』が同時期にナチュラリナヤ・シコーラが盛んに書いてい
た生理学ものを載せた文集の『ペテルブルグのフィジオロジー』と同じ意図、同じ方法で
計画された出版物であったことが分る。『ズボスカール』と『ペテルブルグのフィジオロ
ジー』
、他の多数の生理学ものは、同じ都市のイメージを共有している。華やかな首都の片
隅に生きる多様な人々の典型を描き出し、それらを断片的につなぎあわせ、その断片の集
積を一冊の本にするという描写の仕方や文集の作り方も共通している。また挿絵をふんだ
んに載せる点も共通している。このことについては第四章で改めて述べる。生理学ものは
当時非常に人気のあったジャンルであり、『ズボスカール』は、その流行に乗って成功を収
めようとした商業的な出版物ということができるだろう。
1840 年代までに印刷の技術が向上し、装飾の仕方や挿絵の入れ方、表紙の種類、活字の
種類などが増加した。また、書籍商や書店の数が増えた。発行される書物の数(部数、種
類ともに)が増え、安価な書物が増えてきたために、書籍の需要量が徐々に拡大してきた。
このような出版の世界の動きとともに、本の世界も多層化していった。
このように価格、挿絵、表紙、版型を指標として分析をすることによって、未発に終わっ
たズボスカールが多層化する本の世界の中でどのような位置を占め、どのような偏差を
もっていたのか、同時代の人々にとってどのような意味をもった書物だったのかが見えて
きたと思う。
5. 商業出版の
商業出版の偏差
101Достоевский,
Поли. собр. соч. , т.18, с.7. «виноват ли он, наконец что весь, например,
Петербург, с его блеском и роскошью, громом и стуком, с его бесконечными типами, с его
бесконечною деятельностью, задушевными стремлениями, с его господами и
сволочью—глыбами, грязи, как говорят Державин, позлащенной и непозлащенной,
аферистами, книжниками, ростовщиками, магнетизерами, мазуриками, мужиками и всякою
всячиной, -- представляется ему бесконечным, великолепным, иллюстрированным
альманахом, который можно переглядывать лишь на досуге от скуки, после обеда—зевнуть
над ним или улыбнуться над ним.»(訳文傍点部分は、原文斜体部分と対応)訳大野。ドスト
エフスキー『ドストエフスキー全集第 20 巻 A』P.10.を参考にした。
31
非商業的出版者との比較
『ズボスカール』はネクラーソフらが出版していた流行の読物のうちの一つであり、商
業的な成功を狙いとした出版物であった。このような商業的な出版物が盛んに生み出され
るようになるのは、1830 年代であるといわれている。1830 年代以降に成長してきた商業的
な出版活動は、出版界全体を大きく編成し直した。しかしこの商業的な出版活動は、当時
の出版産業の動きの一部に過ぎなかった。1830 年代は、様々な種類の書物が生産され、出
版活動に携わる専門的職業が多様化し、読者層が広がった時期でもある。30 年代以降、書
物は多層化の一途をたどるのである。
19 世紀前半のロシアにおける出版活動の動向の中でとりわけ大きな動きであった商業出
版の成長を、当時のロシアの多層化する出版界の中に置き直すことによって、その偏差を
割り出していきたい。その際、本の世界に商業出版と非商業出版という分節を持ち込んで、
両者の比較から、商業的な出版物が多層的な出版界の中でどのような意味を担っていたの
かを析出することにする。
まず、比較対照となる非商業的な出版者の例としてペテルブルグで出版活動を展開した
ルミャンツェフを挙げ、この人物の出版活動や書物を検討するところから始めよう。
ルミャンツェフと同時期に活動していたスミルジン、グラズノフ、プリュシャル、スレ
ニンらの間の決定的な違いは何だろうか。それは、金銭的な利益を目的としていたか否か
である。スミルジンやグラズノフ、スレニン、プリュシャルといった書籍商たちは、書物
への愛を強く持ち、非常に優れた有益な本を出版してはいたが、みな企業であった。彼ら
は市場調査をし、寄稿者を選び、出版計画を立て、広告を出し、書物を売った。彼らは自
分の書店を持ち、書店の在庫カタログを雑誌の前ページに載せて宣伝をした。彼らは本の
商人であり、彼らにとって本は商品であった102。
一方ルミャンツェフはこのような書籍商たちとは異なり、利益を度外視した出版活動を
行った。このような人々は「パトロン(меценаты)
」と呼ばれた103。彼らにとって、本はそ
れ自体として価値があった。本の出版に、彼らは財産をつぎ込んだ。出版は彼らの道楽で
あった。
パトロンとなり得たのは、こうした贅沢が許される裕福な貴族に限られていた。ルミャ
ンツェフもまた例外ではなかった。ニコライ・ペトロヴィチ・ルミャンツェフは、名門貴
族の出身であった。ルミャンツェフは、1754 年にペテルブルグで生まれ、優れた教育を施
された。商業大臣や外務大臣を歴任し、ロシアへの功労をたたえられ、国家最高文官の称
号を与えられた人物であった104。
102Баренбаум,
Книжный Петербург, c.114.
же, c.115.
104Там же, c.115.
103Там
32
ルミャンツェフの出版活動を具体的に追っていこう。まず、1813 年に出版したのが『国
家の公文書と条約集』第一巻である。これは、ロシア国内や外国の図書館、公文書館に収
められている貴重な資料を駆使した学問的に極めて水準の高いものだといわれている105。
ルミャンツェフはこのような書物の出版にあたり、ロシアの学者からなるサークルを主催
し、私有のアカデミーとも言うべき学問団体を作り上げた106。そのサークルには歴史家、
考古学者、古文書学者、書誌学者が参加していた。ロシアの作家事典の作者ボルホヴィチ
ノフや、言語学者ボストコフ、スラヴ学者カライドヴィチ、古文書専門家ストロエフ、古
文書学者で『書誌リスト』の出版者のケッペン、外務省の公文書館館長バントウイシ・カ
メンスキイ、古銭学者のクルクとフレン、博学者、百科全書的知識を誇る博識者、ロシア
の古代に関する通人らがメンバーであった。
彼らはルミャンツェフの図書館や文書館で働きながら、彼の指示にしたがって本や手書
き原稿の収集にあたった。ルミャンツェフは、外交官時代の自分の人脈を利用して、ドイ
ツ、フランス、イタリアの図書館や、スウェーデン、オランダ、バルト海沿岸の公国の文
書館で研究をした。
ルミャンツェフは、研究と書物の作成に莫大な財力と知力を注ぎ込みながら、死後に出
版が実現したものを合わせて、生涯で 40 冊余りの書物を出版した107。知と財力の結集とも
いうべきこれらの書物の物質的な側面は、どのような作りになっていたのだろうか。例え
ば『国家の公文書と条約集』は、グラビアの印刷とその説明がきによって壮麗に飾られ、
贅沢な装丁(表紙)にはルミャンツェフの紋章が刻印されていた108。
ルミャンツェフは、自分の出版物の学問的水準の高さのみを追求したのではなかった。
彼は型押しの美しさ、綺麗さ、書物の装飾、活字にも配慮した。そしてそのための労を惜
しまなかった。ルミャンツェフは『オストロミール福音書』を出版する際、これを複製す
るために古代ロシアの楷書文字の活字を特別に鋳造した。その活字は、この楷書文字の独
特の美しさと明瞭さを際立たせるように作られたという109。ルミャンツェフは自分の印刷
所を持っていなかったのだが、モスクワとペテルブルグにある当時としては最良の印刷所
を選んで印刷をした。フセヴォロジスキイ、セリヴァノフスキイ、クライ、グレチの印刷
所である110。
ルミャンツェフの本―博物学的知と技術の結晶
ルミャンツェフにとって、このようにして作られた本は一元的な貨幣価値に変換するこ
105Баренбаум,
Книжный Петербург, c.116.
же, c.117.
107Там же, c.118.
108Там же, c.117.
109Там же, c.118.
110Там же, c.119.
106Там
33
とのできる商品ではない。一つ一つが代替不可能な工芸品なのである。内容と装丁はそれ
ぞれに財力や知力、技術を結集しながら緊密かつ不可分に結びついたものである。ルミャ
ンツェフの本は、唯一無二の関係性によって織り上げられた書物であり、書物そのものが
価値の総体なのだ。
ルミャンツェフの本の内容は、その製作に携わった学者たちのサークルが示すように、
当時のペテルブルグの貴族が結集しうるおそらくは最高の知の結晶であった。そして同時
に、装丁や活字などの物質的な側面は良質の材料を用い、丁寧かつ優れた装丁技術によっ
て作り上げたものであり、ルミャンツェフにとって能う限りの美しさと質の高さを凝縮し
たものであっただろう。
このようにして知力と財力を注ぎ込まれたルミャンツェフの書物の内容と物質は、互い
に不可分の緊密さで結びつきながら、一つの書物という総体を成していた。ルミャンツェ
フの書物は、豊穣な知の広がりを封じ込めた工芸品とも言うべきものである。ルミャンツェ
フは、金銭的利益を目的としてこれらの書物を作ったのではない。彼にとって出版は、あ
くまで貴族の道楽であり、自足した世界における知の探求であり、工芸品の制作であった。
したがってルミャンツェフの本は、貨幣の一元的価値に転換されることを前提とする商品
としての書物とは異なる世界に属していた。それは、転換不可能な価値を刻み込んだもの
であり、裕福な貴族の希少価値のコレクションの中に位置づけられる工芸品であった。
ルミャンツェフは、啓蒙主義の精神の中に生きていた。ルミャンツェフは、国家の役人
として公務に携わる傍ら歴史を学び、技術、商業、工業、建築など幅広い分野にわたって
書物を収集し、もてる財力と蔵書を学者たちに提供し、国家の公文書に関する書物を制作
した。ルミャンツェフは、啓蒙主義の産物である国家という枠組みと公共性の概念を強力
に持った人物であった111。
とはいえ彼の出版活動はあくまで私的な道楽であり、彼のサークルも私的な学術団体で
あった。彼の出版活動は私的な領域に限定され、公共的な性格を持つことは最後までなかっ
た。ルミャンツェフの学問のサークルや出版物そのものは、むしろ、公共性の概念が芽生
えた時代以前の知に属していたのではないだろうか。ルミャンツェフのサークルに属して
いた学者の専門を見れば、歴史家、考古学者、言語学者や、百科全書的知識を誇る博物学
者まで多岐にわたる。このサークルに集い、書物という形に結晶した知は、17 世紀以来連
綿と続く博物学の系統に属していたのではないだろうか。
ルミャンツェフは、書物やメダル、手書きの原稿の収集家でもあった。彼の集めた書物
は、歴史、外交、文学、技術、商業、工業、芸術、建築など百科全書的な幅の広さを誇る。
ほかにも、珍しい本のコレクションがあった。生涯をかけて収集した書籍は全部で 28512
巻に及んだ。その外にも、810 の手書き原稿のコレクションがあった112。
博物学の時代には、豪華な書物は、貴族の生活空間におけるコレクションや財宝の一部
111
多木『「もの」の詩学』P.102-103.
Книжный Петербург, c.116.
112Баренбаум,
34
を成していた。ルミャンツェフが収集したのは原稿、書籍、貨幣、メダルである。書籍や
メダルは、18 世紀において博物学に熱中したコレクターたちが集めていた物の部類に属し
ている。1727 年の博物学的コレクション「ムセオグラフィア」の七部門のうちの二部門は、
「研究室(書物その他)」
「美術工芸室(絵画、コイン、メダル、金銀細工、科学器具)」と
なっている113。ルミャンツェフのコレクションは、まだ博物学的な知が世界を切り分ける
ときに用いた分類の中に位置していたのだ。そしてルミャンツェフの制作した書物は、ル
ミャンツェフが収集したコレクションの中の書物と同じ世界に属するべきものだった。そ
れは、薄れゆく博物学の光の中に残っていた、貴族の世界の残滓であった。
6.19 世紀の
世紀の均質空間
娯楽と芸術―無機能性ゆえの抽象的価値
ルミャンツェフの書物を以上のようなものとして捉え、ルミャンツェフの書物が属して
いた文化を非商業的な出版物が属していた文化の一つとして考えよう。そして 19 世紀前半
の出版界を、商業的出版と非商業的出版という分節によって区分し、それぞれの区分同士
を知の様態や書物の価値、書物の用途という共通の指標によって比較することにしよう。
すると、商業的な出版物が 19 世紀前半のロシア社会において、どのような枠組みで捉えら
れていたかが見えてくる。
『ズボスカール』をはじめとしてカタログや広告文で宣伝されている書物は、明らかに
売ることを目的として作られている商品である。これらの商品において、書物は一元的な
貨幣価値に換算されうるものとなり、使用上の価値や材質、形態などを社会的な戦略に変
えていく114。そこでは、ルミャンツェフの書物の持っていた代替不可能な物自体の統一的
な価値は消失し、書物は選択可能な要素の集積となる。
『ズボスカール』の使用上の価値は、余暇に楽しむ娯楽として消費されることにある。
『ペ
テルブルグの生理学』も同様である。これらの本の広告文は、読者にこの本の使用法を説
明する。つまり、読者に読み方を指定するのだ。例えばドストエフスキイは、広告文『ズ
ボスカール』の中で「食後の暇つぶしにぱらぱらとめくってみて115」と書いている。ネク
ラーソフは『ペテルブルグの生理学』の広告文の中で、パリの人々がパリについての本を
読み漁って大いに楽しむのと同じようにして、ペテルブルグの住人に『ペテルブルグの生
理学』を読んで欲しいと書いている116。このような読み方の指定は、出版する側がこれら
の書物を暇つぶしの消費財として捉えていたことを示している。ドストエフスキイやネク
多木『「もの」の詩学』P.94.
同書,P.81.
115Достоевский, Поли. собр. соч. , т.18, с.7. «…можно переглядывать лишь на досуге от скуки,
после обеда…» 訳大野。
116Некрасов, Н. А., Поли. собр. соч., т.13, с.145-146.
113
114
35
ラーソフの広告文の中でこれらの書物は、流行とともに次々と現れては消えていくもの、
読み棄てられる運命にある一時的な娯楽の道具という意味を与えられているのだ。
娯楽の読書という身振りは、娯楽以上の意味や目的を持たないそれだけで完結したもの
である。それは宗教的な意義を持つのでもなく、学術的な研究に役立てられるのでもなく、
実業家の情報源となるのでもない。娯楽は、美的価値を鑑賞したり愉楽を得るためだけに
行われる行為である。『ズボスカール』において、この娯楽性は商品としての社会的な戦略
の一つであり、
『ズボスカール』の商品価値は、娯楽が持つ無機能性の上に成り立っていた。
娯楽のこの無機能性ゆえの価値は、芸術の概念の成立と呼応している。それぞれのもの
が機能していた場からものを切り離し、美的価値が尺度となる場、例えば美術館や文芸雑
誌に移すことによって、それらのものはそれまで持っていた固有の機能を消失し、
「芸術品」
という枠組みにおいて捉えられるものに変わる117。例えば文学が、献上物や贈り物、貴族
の生活における社交の道具として使われていた時代から産業の一部になったとき、文学は
それ自身を社会に有機的に結び付けていた実際的な機能を喪失した。それは、不特定多数
をパトロンとする均質空間の中にほうり込まれたのであり、そこで文学は娯楽以上の機能
を持たず、抽象性、無機能性を帯びざるを得ない。この過程は、美術が装飾や祭祀の用具、
工芸品から、美術館という空間に移されて機能を失い、「芸術」とされるようになった過程
と同質であった。このような変化は、多木浩二によれば 18 世紀の後半から 19 世紀初期に
かけて起きたものである。
「芸術」という観念は社会的な変動と連動しながら形成されてき
た概念であり、歴史的な産物なのである118。
啓蒙主義の頃から芸術の観念に公共性という概念がもたらされる。一つ一つの作品は、
社会の中で共有され、鑑賞されるべき芸術的な価値のあるものとして扱われるようになる
119。このことは、出版産業の成長と読者の拡大に伴って、文学作品の読者がサークルの構
成員などの限定された集団から不特定多数の把握しがたい集団に変容していく過程と、無
関係ではないはずだ。そしてロマン主義とともに「芸術のための芸術」という観念が啓蒙
主義的思想、および古典主義的芸術の批判として現れるのだが、この芸術観は 18 世紀末に
生まれた「芸術」思想があってはじめて成立しうるものであり、
「その枠の中での対抗要素
として『芸術』を内面から一層純化していくもの120」であった。
ロシアにおいて文学作品はもちろん古くから存在していたが、それが芸術という観点か
ら見られるようになったのはそう古いことではない。啓蒙主義のもとで社会的・道徳的な
意味を明瞭に帯び始めた「芸術性」がロマン主義において深化を遂げて文学や絵画などの
「芸術」的なものを抽象的な価値に一元化し、一般の文章や工芸品と明確に区別し始める
のは、19 世紀にはいってからであろう。
117
118
119
120
多木『「もの」の詩学』P.96.
多木『比喩としての世界』P.157.
多木『「もの」の詩学』P.103.
同書,P.103.
36
19 世紀前半に、所謂「芸術」としての文学というカテゴリーが商業出版の大きな領域を
占めるようになる。クレイメノヴァによれば、出版物の 32%が文学作品であったという121。
さらにその大部分は、恐怖小説や感傷小説などの当時ロシアで流行していた娯楽もので
あった。19 世紀前半の出版界において文学作品は、消費される娯楽と芸術の二つの局面を
併せ持つようになったのである。
娯楽と商業化―価値の一元化
この文脈で考えたとき、19 世紀前半のロシアの文壇で活躍し、後世の文学に多大な影響
を与えた批評家ベリンスキイが用いた批評の方法は非常に興味深い。ベリンスキイが文学
を批評する際に用いる作品の評価基準の中で、かなり頻繁に用いられるのが芸術性という
概念である。ベリンスキイは批評を行うにあたり、この芸術性という概念をどのように用
いていたのか。
ベリンスキイは何らかの精神的な機能を果たす文学作品を評価するとき、芸術性という
概念を用いている。それは、例えば民衆を教育して進歩させ、ロシアのナショナリティを
発展させていくという機能である。このような芸術観には、歴史の概念が濃厚に染みわたっ
ている。
ベリンスキイの思想に現れる進歩の概念は、歴史の観念を前提にして成り立つものであ
る。過去を歴史として捉え、無限に開かれた時間の継起を前提にしたとき進歩の思想は成
り立つ122。ロシアの文学史が書かれ、ロシアの過去の文学者の作品集がロシア文学大全と
いう形で現れたとき、文学は歴史を共有するロシアという国家や公共の社会の枠の中に位
置づけられ、文学はこの歴史の概念によって支えられるようになる。批評家たちは、ロシ
アにおける文学史の中の位置づけによって文学作品の価値を判断し、歴史の中に作品の存
在基盤を求めた。文学者は、みずからをロシアの過去の文学者たちの後継者として認識し
歴史的に位置づけ、そこに自分の存在意義を見つけようとした。文学は、過去から未来へ
と続く単線的な時間概念の中で進歩と成長という言葉を適用されたとき、歴史的な存在で
あるべく宿命づけられる123。
このように、文学作品が芸術と歴史という二つの概念の中で評価されるようになったと
き、芸術性の度合いを決定する要素の中に進歩性、いわば新しさが入ってくる。芸術が時
代精神の発展を反映するものであるとすれば、それらは常になにか新しいものであるはず
であり、前衛はその新しさゆえに高く評価されなくてはならない124。
121Клейменова,
122
Книжная Москва, c.39.
多木『「もの」の詩学』P.102.
123
土居義岳『言葉と建築―建築批評の史的地平と諸概念』
(建築技術,1997)P.126.
124
同書,P.124-125.
37
ベリンスキイは、ゴーゴリの小説をその新しさゆえに高く評価する125。ゴーゴリの才能
は、それまで可視化されなかったものを表現してみせるところにあり、言葉によって新し
く世界を切り開いてみせるところにある。このようにベリンスキイは、ゴーゴリを卓越し
た文学者と評価するのである。
ゴーゴリの小説は、同時に娯楽として読まれる作品であった。それは 1830-40 年代の流
行ジャンルであり、売れ行きのよい商品として書店の店先に恐怖小説や感傷小説と並べて
置かれたはずのものであった。ゴーゴリの小説は、芸術の枠組みの中で評価されるときも
商品性という観点から評価されるときも、新しさという指標を適用されているのである。
芸術の観念と商業空間は、ひとりの作家の作品を新しさという同じ一つの価値で捉えて
いた。このことは、芸術性と商業性が互いに相反するものではなく、むしろ文学を包み込
んでいた一つの制度の表裏であったことを意味しているのではないだろうか。芸術性と商
業性は、同じ時期に形成された歴史的産物である。芸術の観念は公共性や公衆の概念と結
びつき、それらの観念は商業の空間と分かちがたく結びついていたのである。芸術とは、
商業のシステムと同じ世界に属する思想であった。19 世紀前半のロシアにおいて文学は、
文学作品が芸術であり、且つ商品であり得る文化的な条件のもとに位置していたのである
126。
この時代の文学が属していた文化の総体を捉えることは到底できないが、この時代の文
学に生じたある特徴的な変化を記述してみたい。
非商業主義的な出版物と比較したときに明らかになった、商品としての書物の性格を思
い出してみよう。それは、売ることを目的として作られ、複製技術によって比較的安価に
生産される代替可能な媒体であった。商品としての書物や文学作品は、一元的な貨幣価値
に変換されることによって価値を発揮する。同時に、批評において、文学作品は芸術性と
いう尺度によって価値を測られる。ここで個別の文学作品のそれぞれは、芸術性という抽
象的な価値に一元化されるのだ。
出版界は芸術性あるいは貨幣という抽象的一元的価値が論理となる空間であり、作品の
差異は芸術性と貨幣によって生じ、それらによって作品の価値が測られる。商業的出版界
の中で、批評は、商品として一元化した作品群を作家名や流行といったパラメーターで選
別する。ベリンスキイが、常に作品の新しさと才能を拡大視していることに注意しよう。
このような出版界の中で活動し、芸術性を文学の分野で積極的に作り出していったベリ
ンスキイ自身もまた、抽象的・一元的な価値の支配する世界を存在基盤としていた。ベリ
ンスキイの人生は、テラスの言うように「徹頭徹尾雇われジャーナリストのもの127」であっ
た。彼は原稿料によって生計を立てていく職業文士の一人であり、ベリンスキイの仕事は
125ベリンスキー,前掲書,P.174-177.
126
多木『「もの」の詩学』P.103.
127
Terras, Victor, Belinkij and Russian Literary Criticism: The Heritage of Organic
Aesthetics (The University of Wisconsin Press, 1974),P.117.
38
常に貨幣価値に換算され、芸術性という尺度で多くの作品を批評していったその仕事は、
次々と貨幣に変わっていった。
書物に反映する 19 世紀の均質空間
19 世紀前半のロシアにおいて本やアリマナフは、ものを一元的な価値に還元していく商
業と芸術の制度の中で生み出され、流通した。このような制度は、書物の装丁や装飾にま
といつく。書物は、高い貨幣価値に換算されるための戦略を、形態や材質など物の様々な
局面にあらかじめ組み込まれている。書物は、商品としての意味を刻印して社会に現れる
のである。
商品としての書物、特に今まで見てきたアリマナフは、安価な材質、簡素な作りである。
ページは 19 世紀前半によく見られるようなカットやヴィンエクト、飾り文字や、枠とりの
縁飾りなどの意匠によって装飾されている。これらはすべて複製技術の産物であり、書物
は一様な複製としての相貌をより強めた工業製品として現れる。ここには、ルミャンツェ
フの書物に見られるような書物製作者のフェティシズムは感じられない。また、それ自体
が工芸品とも言えるような品質も特別な技術も手間もかけられてはいない。アリマナフの
内容は、無数の雇われ文士たちによって書き捨てられ、読み捨てられていくような消費財
そのものである。ルミャンツェフの書物のようなコレクションの中の財宝が持つアウラを
喪失した商品が、そこにある。
19 世紀前半のロシアにおいて、書物の観念に大きな変化が生じた。それは、書物の商品
化であり、書物に載せられる文学作品の芸術化であった。このような書物の観念の変化を
受けて、書物はその形式や社会性を変えていったのである。
書物というものを物質的な要素や出版活動といった観点から見直して、社会の中に置き
直したときに現れてきたこれらの諸変化は、互いに連動し、何らかの関係性によって繋が
れていた。この関係性を表す修辞として、均質空間という比喩を用いることにしよう。
均質空間とは、もとは建築の領域で用いられた概念で、
「均質で無限で普遍的であるがゆ
えに、外部を持たない閉ざされた空間128」をさす。この概念が比喩的に社会の分析に適用
されるとき、均質空間とはある制度を表す隠喩となる。例えば均質空間の比喩が商品世界
に適用されるとき、均質空間とは、多様な使用価値を持つ様々な商品を価格という一元的
な価値体系に還元することでそれらに交換価値を与える貨幣の譬えとなる。
「さまざま可能
性を秘めているはずの『もの』が商品化されることで、一元的、定量的な尺度空間に射像
され129」るとき、それらの商品は制度としての貨幣が生み出す均質空間の中に閉じ込めら
れる。
128
土居,前掲書,P.86.
129
同書,P.94.
39
さらに、均質空間は「近代的な『制度としての空間』130」であり、近代における「知」
と「権力」と「制度」のありようを明瞭に示すと土居義岳はいう。例えば、近代に国家に
おいて国家空間の中の隅々まで均質に存在するようになった権力に覆われる空間が、制度
としての均質空間の例に挙げられる131。
このような比喩に用いられる均質空間という概念によって、19 世紀前半のロシアの書物
に現れた変容を表現することにしたい。均質空間の特徴には、境界がないこと、そして固
有性がないことの二点がある。1830-40 年代に発展しつつあった商業的出版は、それぞれに
多様な書物を貨幣価値に一元化した。そして文学作品は、貨幣価値に換算されると同時に
芸術性という価値に一元化され、商業的出版界やジャーナリズムの中でひとしなみに商品
に変えられるのである。出版界において、書物や作品の固有性は喪失されていく。そして
この商業空間は、郵便や鉄道などの輸送機関の発達とともに地方にも拡大されていき、ま
だ曖昧この上なく、認識しにくい不特定多数のかたまり、いわば境界を持たない読者の群
れに向けて発信されていた。書物をめぐる空間は、固有性と境界を失って均質化する。
広告という書物を商品化する装置は、組織されつつあった商業的出版システムの中に書
物を位置づけた。広告の中に現れてくる商品としての書物を分析し、アリマナフや文学作
品集などの商品としての書物を社会に置き直して分析するとき、それらの書物は、均質空
間という比喩によって語られうる世界を背負って現れてくるのである。
130
同書,P.102.
131
同書,P.100.
40
第Ⅱ 章
1.1830 年代の
年代の地殻変動
1830 年代の出版界における変化
1830 年代を境に、都市部の書籍販売と出版活動に様々な変化が現れる。町の書店の数が
飛躍的に増えた132。書店は大勢の客で賑わい、貴族や行政の高官、文学者らが足しげく訪
れて文学談義に花を咲かせる場所となる。それまでロシア語の本を手にしたことのなかっ
た地主たちまでが冬になると書店に大勢やってきて、一度にかなり多くの本を買っていっ
た133。1830 年代には印刷所の数も増え、町に出回る本の種類や数が豊富になる。印刷技術
が向上し、リトグラフやカットをたくさん使った装飾豊かな書物が作られ、書店のショー
ウィンドウを飾ることになる。中には比較的安い値段の庶民向け書物さえ現れる。また広
い読者層を対象にしたメディアである雑誌の種類が増え、雑誌が総合的な文化の伝播者の
役割を引き受けるようになる。読者層は徐々に広がり、公衆と呼ばれる読者グループが出
版活動の前提に据えられることになる。ロシアの全人口に占める識字者の割合は低く、読
書はいまだ限られた階層の贅沢だったが、雑階級人や貴族でない裕福な町人の間でも読書
が行われるようになっていた134。
この変容は、社会の商業化の動きというより大きな時代の変動の一端であった。
1830 年代のロシアの都市社会を商業化の波が覆う。ヨーロッパ全土を席捲した産業化の
動きはロシアの都市をも巻き込み、人々の生活や職業を変容させたのだ。
出版活動や書籍販売などの書物をめぐる営為も、産業化と商業化のうねりの中に巻き込
まれていく。商業化の動きはすべてのものを商品に変える。書物とて例外ではなかった。
1830 年代以降向上した印刷技術によって比較的安く生産されるようになった書物は135、書
店で売りさばかれるべき商品となる。拡大とともに多様化する読者を対象として、百科事
典から文学選集、雑誌、薄っぺらいパンフレットに至るまで実に多様な書物が考案され、
1830 年代の町の書店に並ぶことになる。
書物が商品化すると同時に、出版産業における書籍商の役割は大きくなった。1830 年代
のペテルブルグには、スミルジンやグラズノフ、プリュシャルなどの都市で大規模な商業
活動を展開する書籍商が次々と現れた136。彼らは人気のある本を販売したり自分で出版す
るためにマーケティングを行い、どのような本に需要があるのかを注意深く追った。彼ら
132Клейменова,
Книжная Москва, c.172.
же, c.172.
134Там же, c.209.
135Там же, c.125,130.
136Баренбаум, Книжный Петербург,c.114.
133Там
41
の打算的なやり方によって、本の消費は二倍に跳ね上がったという137 同時代人の言葉も
残っている。
これら大手の書籍商たちが、1830 年代以後のロシアの出版産業の中心的な担い手となっ
た。大きな書籍商は、単に書籍を販売するだけでなくみずから出版を企画し実行する出版
者でもあった。さらに彼らの中には、19 世紀前半に急成長を遂げる雑誌を所有者し、経営
する者もいた。書籍商は出版産業において重要な役割を担っていた。書籍商は商品性を濃
厚に刻印した様々な書物を生産し、販売した。その際に書籍商は、書物の著者や雑誌の編
集者と契約を結んだり、読者に向けて本の広告を出す。書籍商の活動は、読者や著者との
緊密な関係の中で展開するのである。書籍産業における商業化の波は、著者や読者をも商
業的な出版産業の原理の中に巻き込んでいく。
出版界における様々な概念の変容
出版界の商業化を文学の領域に絞って見ることにしよう。既に述べたように、書籍商の
活動の中で書物は商品として扱われる。書籍商は、自分の書店と契約を結んで作品集を出
版する作家や自分の雑誌に寄稿する作家に対して、作品の代償に原稿料を払う。書物が商
品なら、書物に載せる一つ一つの作品もまた商品なのだ。そして作家の著作が商品である
ことを明確なかたちで示すのが、原稿料である。
執筆業のみで生計を立てる職業文士の数が増加し始めたのは、1830 年代に書籍商スミル
ジンが、ロシアの出版産業において初めて原稿料制度を確立した時期とほぼ同時である138。
それ以後、文学作品の執筆や雑誌への寄稿を生活の糧とする人々が出版産業の中で職業グ
ループを形成し始める。彼らの中には、貴族や雑階級人など様々な社会階層の出身者がい
た。原稿料の導入は、執筆活動をより広い階層に解放したのである139。
原稿料制度の確立は、作品の商品化を決定付け、職業文士の増加を促した。しかし、こ
のことは単に文学者の層を広げたことを意味するのではなかった。原稿料制度の確立と出
版産業の商業化は、作家の意味領域そのものを変えてしまったのである。商業出版の世界
では、すべてが貨幣価値によって測られることが前提となっている。商業出版に移行する
に従い、作家は原稿料一枚いくらで報酬を得る労働者となったのだ。それ以前の作家、例
えば詩人、戯曲作家などの創作活動と比較すると、より商業出版の偏差が明確になるだろ
う。プーシキンの時代まで文学作品というものは、金銭によって取引される商品ではなく
外に収入の道を持つ貴族の道楽、あるいは趣味として作られるものであった。彼らにとっ
ては自分の地所からの収入や官職による収入が全収入のほとんどを占め、文学活動から散
発的に入る金額は全体のわずかな割合を占めるにとどまっていた140。
137Там
же, c.174.
Бовы к Бальмонту, c.81-82.
139Там же, c.82-83.
140Там же, c.82.
138Рейтбрат,От
42
出版界の変容は、出版界を構成する要素である文学作品や作家を巻き込まずにはいな
かった。19 世紀前半に起こった出版界の変動は、これらの概念の意味領域を編成し直した
のである。
1830 年代以降、出版界の中に新たに参入しようとした作家たち、例えば 1830 年代に少
年期、青年期を過ごしたネクラーソフやドストエフスキイは、作家を志したその時から職
業文士たるべく活動を開始していた。商業出版は、貧しい雑階級人である彼らに文学への
道を開いた。それは職業文士の道だった。彼らは原稿料のために文章を書き、金銭的利益
を見込んで文集の出版を企画した141。彼らは初めから商品として作品を書き、商品として
本を作る。出版界の変動が変えた作家の意味領域を、彼らは生きようとしたのである。
作家の概念が売文業を生業とする職業作家を意味するようになったとはいっても、彼ら
は依然として知識人であった。作家はサークルや雑誌等の場でロシアの政治、社会につい
ての議論を戦わせ、将来の展望を示し、公衆を導いていく役割を負っていた。彼らはロシ
アの文化的営為の推進者であり、知の担い手だったのである142。
知の担い手である作家の概念が大きく変容したことは、単に作家の活動形態を変えたこ
とのみを意味しているのではなかった。作家の概念の変容とともに、作家自身が商業出版
に即した新しい意味領域を生き始めるのだ。彼らは、はっきりと個別の傾向を持ち始めた
雑誌の周りに集まり、雑誌に様々な種類の文章を載せ始める。知の一形態である文学作品
は、商業出版と不可分な雑誌という書式に従った形態や内容を持つようになる。
したがって作家の概念の変容は、19 世紀前半の知の形あるいは知そのものの変容を意味
していた。出版産業にまつわるさまざまな概念の意味領域を変容させた商業化の波は知そ
のもののあり方を変容させたのであり、作家の概念の変容はその一局面だった。
知そのものの変容に直接関わる作家の概念の変容は、1830 年代ロシアの出版産業に起
こった地殻変動の発生構造を解く上で重要な鍵となる。では作家の概念の変容を記述する
にあたり、どのような入り口から入ればよいのだろうか。
ここで、作家の概念の一部を構成する作家の集合という要素に着目しよう。
1830 年代に作家という職業領域の構成、すなわち集合が変化する。職業文士が多数参入
し始めたのだ。作家の集合は、作家の概念が影響を被ったのと同じ出版産業の商業化とい
う大きな社会のうねりの中で変容を遂げていく。作家の集合は、作家の概念の変化と同時
に同じ地殻変動を経験した。
さらに作家の集合は、具体的な人間の出身階級や収入の内訳、雑誌との契約といった即
物的な要素によって組み立てられている。したがって作家の集合の変化は、出版産業の拡
大や原稿料の導入、中流階層の教育水準の向上といった社会の動きをなによりも直接に反
例えば 1845 年に『ズボスカール』の出版を企画する。ドストエフスキイの書簡による
と、ドストエフスキイは、金銭的な利益を最大の目的として、実現しないまでも 2 回ほど
兄ミハイルに文学作品の翻訳の出版を持ち掛ける。
142 Belknap, «Survey of Russian journals 1840-1880.» P.91-92.
141
43
映する。作家の集合の変動は、作家の職業概念の変容と不可分に結び付きながら社会にお
ける因果関係の網の目を映し出す、非常に便利な分析道具なのである。それではこれから
19 世紀前半に起こった作家の概念の変容を、作家の集合の変容を跡付けることによって、
記述していこう。
2.文学者
2.文学者の
文学者の集合の
集合の変動
作家の社会階層と活動様態
1830 年代の作家の集合の変動に直接関わるのが、作家の出身階層の変化である。社会階
層は、当時のロシアではかなり明確に分かれており、貴族と雑階級人の間には生活の様態
から社交、仕事の形態に至るまで相当に大きな断絶があった。このように互いに断絶して
いる社会階層を越えて執筆業が貴族から雑階級人の世界に拡大したことは、執筆業そのも
のが持つ意味領域と活動様態が変わったことを意味していた。あるいは、執筆業を含む様々
な記号の布置が、階層同士の断絶を問題にしないまでに大きな変動の只中にあったという
こともできるだろう。では作家の集合の変動を、社会階層と活動様態の局面から見ていこ
う。
レイトブラットによれば、チュコフスキイは 1830 年代の地殻変動を経た 1840 年代に以
下の様に述べている。
「チュコフスキイは正当にこう述べている。『ロシアでは、1840 年代に初めて、金の時
代に入ってから、文学の仕事に対する報酬が確立した事項となった。なぜなら閉鎖的な貴
族の才能の集まりに変わって、ペンによってのみ生活しているプロの文学者がやってきた
からだ。二流の量産作家の団体全体が現れた。彼らは、文学の階層を作った』。143」
チュコフスキイは、1840 年代までに起きた作家の集合の変動を、社会階層と活動様態の
二つの局面において捉えている。まず社会階層の変化の面では、文学の創作に対する報酬
を必要としない富裕な貴族から、報酬のみで生計を立てる貧しい非貴族出身者の団体を対
置している。そして、貴族の団体には才能という優れた創作の源泉としての概念を投射す
るのに対し、新しい集団には二流の量産作家という属性を与えるのである。貴族出身であ
り、かつ報酬を受け取る多作の作家たちもかなりいたことを考えると、チュコフスキイの
分析はいささか図式的であるといわざるを得ない。
しかしそれはあまり重要なことではない。チュコフスキイの描いたのは、ペンのみによっ
て生計を立てる作家の範疇が一つの文学階層という規模を持って現れたということ、そし
て彼らはひたすらに文章を量産したということである。
文学作品の執筆に携わる作家業は、貴族階級から雑階級に拡大した。階級の拡大を可能
にしたのは、執筆業そのものの様態の変化であった。では、1830 年代以前の貴族の作家の
143Рейтбрат,От
Бовы к Бальмонту, c.83.
44
仕事の様態を見てみよう。
レイトブラットによれば、作家は 18 世紀以来、ほとんどが官吏であったという。18 世
紀のピョートル大帝の改革後、学問の担い手は、修道院から官吏の集団に変わる。彼らの
文学の仕事に対する支払いは、結果的に勤務に対する賃金という形で実現された。多くの
文学者たちは、官吏であった144。
この頃の文学者は、作品に対して原稿料を受け取ることはあまりなかったようだ。レイ
トブラットによれば、この時代には、まだ出版者は散発的にしか原稿料を払わず、それも
しばしば現金ではなく出版物数部という現物支給で支払ったという145。この時代には、原
稿料という観念そのものが確立されていなかったように思われる。
したがって、19 世紀初頭までの貴族の文学者にとって文学の創作は仕事ではなく休息時
間の気晴らしであり、報酬に変えられるべき仕事ではなかった146。
しかし、1820 年代頃から執筆業は報酬を受け取るべき勤務であるという考え方が明言さ
れるようになる。この考え方は、例えばプーシキンの書簡の断片に垣間見える。バレンバ
ウムによると、プーシキンは書簡の中で以下のように書いているという。
「詩作は、単に私
の手仕事であり、部分的な産業の部門であり、私に、生計の糧と家政の独立をもたらして
くれるものだ147。」この言葉は、プーシキンが専門職として自分の作家としての仕事を捉え
ていたことを示している。
バレンバウムはこの書簡の引用文に説明をつけてこう述べる。プーシキンはプロフェッ
ショナルの作家であり、彼にとって仕事は義務であったと。この書簡は、プーシキンが不
本意な仕事を強要されたことに憤慨し官吏の職を退官する覚悟を表明した、知事カズナチ
エフ宛て 1824 年 5 月 22 日のものである。同じ書簡の中でプーシキンは、詩作によって入
る収入を官吏の俸給 700 ルーブルに対置させている148。プーシキンにとって詩作は、現金
の報酬という地平で官吏の勤務と同列に並べられるべき職業として捉えられていることが
分かる。
プーシキンは、1810 年代から 1830 年代にかけて創作をした詩人である。彼の活動時期
は作家の集合が変容する時期と一致する。プーシキンは裕福な貴族であり、官吏として勤
務しながら詩作を行った、まさにチュコフスキイやレイトブラットが描く 18 世紀から 19
世紀初頭の文学者像に一致する人物である。が同時に、詩作を職業と捉え、詩作に対する
報酬を当然と考える職業文士の走りでもあった。プーシキンの詩人としての活動様態は、
1830 年代に決定的となる作家集合の変動に向かう過渡期を映し出していた。
1830 年代以降に増加するのは、自分の作品を売ることによって生計を立てる職業文士で
ある。彼らは、レイトブラットによれば雑階級人であり、大衆向けの三文小説執筆や外国
144Там
же, c.81.
же, c.82.
146Там же, c.82.
147Баренбаум, Книжный Петербург, c.95.
148Там же, c.95.
145Там
45
の小説の翻訳を生業としていた149。18 世紀以来の貴族の生活に組みこまれていた創作活動
とは異なる、商業出版を活動の場とした人々が作家集合の中に参入してきたのである。
執筆業の様態をめぐる議論
作家の集合が変容するに伴い、作家の活動様態そのものが意味領域を変える。活動様態
が大きく揺れる過渡期に作家として生きる人々は、作家の活動様態そのものに意識を向け
ざるを得ない。この過渡期の 1830 年代に、従来の活動様態を遵守しようとする作家たちと
新たに成長してきた商業出版の中で職業として執筆活動をしようとする作家たちのそれぞ
れが、作家としての活動について言及することになる。
18 世紀以来の執筆形態を維持しようとしていた人々は、原稿料という報酬と交換するこ
とを前提とした創作活動に対して激しく反発した。
「『文学的貴族』と呼ばれた代表者たちは、文学生活の組織の新しい形に反対して激しく
発言し、創作に対する古い関係にとどまっていた。150」
レイトブラットによると、彼らは文学の仕事を「奉仕」と捉えていたという。原稿料を
前提としない無償の奉仕である。先ほども述べたように、彼らにとって文学作品を執筆す
るという行為は貴族の休息時間の気晴らしに属していた。
レイトブラットによると「文学作品への姿勢は、休息時間の気晴らしとしてであり、金
での保証を受け取るための仕事ではない、というものが 1830 年代まで、貴族の生活におい
て支配的であり、その後も散発的に一連の文学者のもとで起こっていた151」。
20 年代以前に文学作品を生み出していた作家の属する階層はほとんど貴族であり、彼ら
はめったに原稿料を受け取ることはなかった。
20 年代以前の活動様態にとどまる貴族の作家たちにとって、文学作品の執筆は仕事の合
間の休息という生活の一形態の行為であり、貴族の生活という場の中でのみ成り立つもの
だった。文学作品は貴族の生活を支配する論理の中に現れる。文学作品は、ある時はサロ
ンで回覧したり朗読して堪能する社交の道具として現れ、ある時は仲間内で作られるアル
バムを飾って趣味の工芸品の一部となる。
生活の中で生み出され機能を果たす文学作品は、あくまで貴族の生活の一部として存在
していた。このような世界で文学作品を作り出す作家たちにとって、文学作品は初めから
商品として現れれ得なかった。19 世紀初頭までの貴族の生活領域に、商業出版の論理はま
だ侵入していなかった。文学作品が商品であるためには、不特定多数の広い読者と作家と
読者を仲介する商人が必要であった。しかし貴族の生活の中で完結する文学作品は、作品
が商品となり得るこれらの要素を持たない全く別の世界に属していたのである。文学作品
149Рейтбрат,От
Бовы к Бальмонту, c.82.
150Там
же, c.83.
151Там же, c.82.
46
は初めから原稿料という報酬と交換されるものではなかった152。
このような考えを持っていた作家たちを旧勢力とするならば、原稿料を擁護する新勢力
の作家たちもいた。このような作家たちはジャーナリズムの専門家であり、作家業を勤務
であると考えていた。レイトブラットによるとグレチは、原稿料は仕事につきものの多く
の煩わしさや重荷に対する当然支払われるべき報酬であると明言している153。
レイトブラットやチュコフスキイに、作家として新たに参入してきた文学階層として捉
えられている雑階級出身の作家たちにとって、文学作品は初めから原稿料に替えられるべ
き商品として現れた。彼らは、原稿料を農村の重労働から得られる収入にたとえる154。執
筆の仕事は、農村の日々の重労働と等価に並べられる。作品の執筆は生活の手段である。
執筆業はここでは産業の一部門にほかならない。不特定多数の多くの読者を前提とし、そ
の読者たちに娯楽や教養を提供するための作品は、既に都市全体あるいは地方をも含んだ
広い読書空間の中に位置づけられている。この広い領域の中で、一つの作品は商品として
複製され、貨幣を媒介として移動する。
1830 年代に変容しつつあった作家の集合に伴う作家の活動様態そのものへの言及を読む
と、彼らの意識が集中しているのは活動様態を分けるある装置である。それが原稿料だ。
原稿料は彼らの議論の焦点に位置しているのである。
議論の焦点―原稿料
原稿料が議論の焦点になったのは、執筆業の様態の変化に大きな影響を与える出版界の
構造そのものに関わる問題性を持っていると認識されていたからである。それでは原稿料
とは、出版産業においていかなる性質を持ち、いかなる働きをする装置だったのだろうか。
レイトブラットによれば、原稿料とは出版産業における作家と編集者、読者と作家の間
の関係の一形態であるという。
「すなわち原稿料とは、文学システムの様々な組成の相互作用のあり方の形であり、直
接に文学者と出版者の、間接的には作者と公衆(本の買い手であり、定期刊行物の購読者)
の間の関係である。155」
原稿料は、出版者から作家に対し、作家の執筆した作品の代価として支払われるもので
ある。原稿料が介在したとき作品は商品となる。原稿料を受け取ったとき、作家は商業出
版の空間の中に位置することになる。原稿料は、作家と出版者の関係を商業システムの中
же, c.82.によると、18 世紀末から、原稿料によって生計を立てる作家たちもいたのだ
が、それは、三文小説の執筆や外国文学の翻訳に限られていたようだ。18 世紀末の文学の
活動形態を指標とするヒエラルヒーに即して考えれば、貴族作家たちにとって、原稿料の
ための執筆は、三流文士への転落を意味してのかもしれない。
153Там же, c.83.
154Там же, c.83.
155Там же, c.78.
152Там
47
に位置づけ、作家を職業文士とし、作品を商品とする装置なのである。原稿料は、出版に
関わる職業や文章を商業システムの中に取り込む装置としての関係の網の目なのだ。
したがって原稿料を受け取るか否かは、文学作品の創作が社会のどの領域に属している
のかという帰属を決定する。貴族の生活の中なのか、産業の一角なのか。作品の社会内帰
属にしたがって、作品の持つ社会的な意味も変わる。原稿料は、作家にとって文学の仕事
の意味を変え、作品の社会的な意味も変えたのであった。例えばプーシキンが原稿料を彼
の官吏としての収入に代わるものとして認識したとき、文学の仕事は国への勤務から独立
した産業部門の範疇に入り、勤務の傍らの手すさびでなく報酬に変えられるべき仕事と
なった。
作家の意味を構成する要素のうち、重要な役割を果たしていたのが「原稿料」だった。
この原稿料は、19 世紀前半の出版産業の至るところに浸透し出版産業全体を商業的な制度
へと整備する装置であった。原稿料は作家と出版者、出版者と読者の、文学作品をめぐる
人々の関係を作っていった。
原稿料は、出版産業の商業システムに組みこまれた様々な職業や商品の関係を読むため
の指標でもある。原稿料の額や支払い方はある時は作家の社会的ステイタスと直接連動し、
ある時は出版産業の中の専門職の誕生を意味する。原稿料の様々な様態は、出版産業の様
態を直接反映しているのである。
文学とは、時代、社会のコンテクストの中で作られる人々の観念の集合体の一断面に過
ぎない。文学の観念は、それが位置する社会と人々によって決定される。とすれば、1830-40
年代の文学の観念を問題化する今、30-40 年代の文学が位置していた同時代の社会や人々の
活動を何らかの形で記述していくことが必要である。ならば、どのようにしてその複雑で
不透明なものを記述すればいいのか?
この記述を部分的に可能ならしめる指標に、原稿料を設定しよう。なぜなら原稿料とは、
文学の形成現場である出版界の構成要因すべての間にはりめぐらされる関係の形態だから
である。
3.原稿料制度
3.原稿料制度の
原稿料制度の確立
1830 年代におけるスミルジンの功績
出版という営為における関係の一形態としての原稿料が確立した背景には、どのような
思考があったのだろうか。原稿料を成り立たしめた時代の動きを、原稿料を初めて制度化
した書籍商スミルジンの活動に即して追っていこう。
原稿料は 1830 年代に制度として確立する。スミルジンが原稿料をすべての寄稿者に払っ
たのは『読書文庫』という雑誌においてであった156。
『読書文庫』はブルガーリンとセンコ
156Там
же, c.82-83.
48
フスキイを編集者としたスミルジンの所有する雑誌であった。1830 年代に、この雑誌では
寄稿する作家たちに対して印刷一台につき紙幣 100-300 ルーブルを支払ったという157。そ
れまで、原稿料は散発的にしか支払われず、時として出版物の現物支給であったり、支払
われないことも珍しくなかった。しかし、スミルジンは『読書文庫』をはじめとする出版
活動において、確実に現金で執筆者たちに原稿料を支払った。
『読書文庫』ばかりでなく、スミルジンは、ある作家の単行本や作品集を出版するとき
にも当時としては相当に気前のよい原稿料の支払いをしたといわれている。例えばスミル
ジンはクルイロフの『寓話』の出版権に対して 4 万紙幣ルーブル、寓話詩それぞれに対し
て金貨 3 千ルーブルを支払っている。プーシキンには詩の一行に対して(金貨)10 ルーブ
ルを支払っている。プーシキンの詩一行に対して金貨 10 ルーブルというのは、ドストエフ
スキイが兄宛ての書簡にも書いていることであり、一般によく知られていたことのようだ。
『エヴゲニイ・オネーギン』の単行本に対しては 1 万 2 千ルーブル、
『ボリス・ゴドノフ』
に対しては 1 万ルーブルを支払っている158。
スミルジンが他の出版業者に比べてどれほど高額の原稿料を払ったかということについ
て、バレンバウムはクラエフスキイの例を引いて記述している。スミルジンが『読書文庫』
の編集者のセンコフスキイに対して一年に 1 万 5 千ルーブルを支払ったのに対し、
「搾取者」
と陰口をたたかれるくらいに原稿料を低く抑えたといわれるクラエフスキイは『祖国雑記』
の評論家であったベリンスキイに、年俸 5 千ルーブルを支払っていたという159。バレンバ
ウムは、良心的な支払いをする書籍商と商業主義に徹した書籍商の違いを、原稿料の支払
いの差によって説明しようとする160。
モスクワとペテルブルグをまたにかけ、1830 年代にロシアで最も裕福で大規模な活動を
展開したスミルジンは、最後には破産して極貧のうちに生涯を閉じる。バレンバウムによ
ると、それは採算を度外視した良心的な原稿料の支払いと、利益をもたらさない出版物の
発行を作家たちの要請に応じて盛んに行ったためであるという161。とはいうものの、スミ
ルジンの破産が実際にどのような原因によってもたらされたのかは不明である。しかし、
スミルジンが書籍商としての生涯を通じて実行してきた原稿料の徹底した支払いは、ロシ
アにおける原稿料制度の確立という大きな成果をもたらしたのであった。
スミルジンの死の一年後に、スミルジンの息子は書籍商としての活動を始め、1858 年に
『文学論文集』という本を出版した162。この論文集の前書きに、スミルジンのロシア出版
界における功績が書かれている。それによると、
157Там
же, c.82.
Книжный Петербург, c.96.
159Там же, c.96.
160これに対して、レイトブラットは Рейтбрат,От Бовы к Бальмонту, c.80.において、理想的
な出版者といわれている人々は、商業主義的な出版者よりほんの僅かに多く原稿料を支
払ったに過ぎないとする。
161Баренбаум, Книжный Петербург, c.100-101.
162Там же, c.103-104.
158Баренбаум,
49
「スミルジンは第一の書籍商であり、すべての商品を供給し文学と読者との間に正しい
関係を持っていた。
(中略)彼の主要な功績は、本の値下げ、資本としての文学作品の価格
査定、そして彼が文学者や書籍商の間に持った強固な絆であった。163」
スミルジンが、破産に至るほど多額の原稿料を敢えて支払い続けたのはなぜだったのだ
ろうか。いや、スミルジンばかりではない。1830 年代から 1840 年代にかけて、経営不振
で破産に追い込まれた書籍商は少なくなかった。ペテルブルグでは、プリュシャル書店が、
計画していた百科事典の出版が順調に進まず費用がかさんだために 1841 年に破産している
164。レイトブラットによると「出版者が一連の書物を出しても、それらの出版の利益は、
それほど成功を収めなかった出版物や検閲に発禁にされたものなどの損失の埋め合わせに
消えてしまう。したがって、出版者は、原稿料を釣り上げることはできなかった。そうで
なければ採算が取れなくなってしまうからだ。165」読者の層の薄さもあって、基本的に出
版者はぎりぎりの経営を強いられていたようだ。むしろ、スミルジンをはじめとする 1830
年代の書籍商たちが原稿料制度を導入した背景には、どのような時代の動きがあったのだ
ろうかと問うべきだろう。
原稿料発生の条件
原稿料は、文学活動に必ずついてまわる制度なのではなく、ある一定の条件や背景の上
にのみ成立しうる文学活動の社会性の一形態に過ぎない。この条件がどのようなものかを
問うことが、原稿料制度確立の重要な鍵となる。レイトブラットは、以下のような条件を
挙げている。
「А)自らの文学作品を売る準備のできている人々がいるとき(つまり、彼らには金が必
要であり、彼らは、文学作品を、仕事であると見なし、自分の作品の代価に支払いを受け
取ることを恥と思っていない。Б)この作品を必要とし、それに対し支払う用意のある人々が
いるとき。В)自分は、作品の生産者と消費者の間で仲介の機能を果たす人間であると考え
ている人がいるとき。166」
レイトブラットは、この三つの条件について以下の様に解釈をつける。
「このことは以下のことを意味している。すなわち、文学原稿料の出現は、十分に広い
公衆の発生と、その不断の、文学の代表的人物たちの形成とつながっている。「商業的な」
出版者といわれる人々や購買者の論争の方向づけをする人々である。このような出版者は、
文学作品の供給者との、安定しかつ細かく計算された関係において利害を持っていた。ま
さに彼らは、文学原稿料を支払い始めた最初の人々だった。167」
163Там
же, c.104.
же, c.114-115.
165Рейтбрат,От Бовы к Бальмонту, c.80.
166Там же, c.78.
167Там же, c.78.
164Там
50
原稿料は、職業文士、書籍商、公衆が想定されて初めて成立するものであった。原稿料
の発生は、文士と書籍商、公衆の成立という社会の大きな動きと連動して生じた現象だっ
たといえる。
資本主義的な思考の存在
このような、地殻変動ともいうべき社会の動きが、書籍商たちの経営の地盤を変えたの
だ。この地殻変動がスミルジンの「生きた資本は文学の魂だ」という確信を育てた。スミ
ルジンは文学作品の創作における資本の意義を主張した168。スミルジンの徹底した原稿料
の支払いを支えたのは、この確信であった。スミルジンが支払い続けた未曾有の高額の原
稿料の背景には、文学の創作という行為は資本との関係の中で可能となり、資本の回転の
中に取り込まれることによって初めて成立し得るという思考があった。
この思考を成り立たしめたのが、先に挙げたレイトブラットの三つの条件である。1830
年代はロシアの都市社会において商業システムの布置が整いつつあった時代であった。出
版界においても、読者、作家、商人の間の関係が商業化へ向かうという、この時代の商業
化への動きと連動する大きな地殻変動が起こったのである。この足元の変動が原稿料制度
を不可避のものにしたのである。
原稿料は、先ほども述べたように、出版産業に携わる要素の相互関係のあり方の一つだっ
た。そして原稿料は、商業原理に貫かれた関係の形であった。原稿料に関わるものは、一
挙に商業システムの中に取り込まれる。作家、文学作品、読者の概念は、商業システムの
一要素として変容していく。
原稿料によって、ロシアの作家の仕事は専門職業としての性格を獲得した。書籍商は、
文学の仕事の不可欠の同伴者となった169。作品や書籍は、原稿料がもたらした商業的な関
係の中で紛れもない商品となる。そして商品としての書物はそれまでとは違った領域に流
通することを前提として作られるようになる。輸送手段の発達と書物の低価格化等の社会
的な変動に伴って、一つ一つの書物はより広い領域に流通することを見込まれるようにな
る。書物は、都市全体、あるいは地方をも含んだ地理的に広い領域と、不特定多数の読者、
すなわち公衆という社会的に開けた領域を想定して作られる商品となったのだ。
このことをバレンバウムは「文学とジャーナリズムの中に、ブルジョワ的な関係が浸透
した170」と表現する。バレンバウムは「ブルジョワ的な関係」という言葉に二つの意味を
持たせている。まず一つは出版産業の近代化を進め、文学の活動をより活発にした進歩的
な関係という意味であり、もう一つは出版産業の中で文学にあからさまな「商売」の原理
を持ち込んだという意味である。
168Баренбаум,
Книжный Петербург, c.96.
же, c.96.
170Там же, c.96.
169Там
51
ベリンスキイは、出版産業の商業化が進むこの時代を「スミルジンの時期」と呼んだ171。
スミルジンはここで、原稿料制度の代名詞となっている。スミルジンを始めとする書籍商
たちは商業化へ向かう社会の中で、原稿料という制度をもとに出版産業を商業空間の中に
開いていったのである。
4.雑誌
4.雑誌における
雑誌における作家業
における作家業の
作家業の変容
雑誌の商業性
出版産業において商業化がどう進んでいったかを具体的に追うために、雑誌を分析の場
とした上で原稿料を指標とした分析を行うことにする。しかし、その前になぜ分厚い雑誌
というメディアを分析の場として選ぶのかということ、言い換えれば雑誌がいかに商業シ
ステムの中に緊密に組みこまれていたかということを明らかにする必要があるだろう。
分厚い雑誌は、1830 年代から 1840 年代にかけて急速に成長したメディアである。それ
以降雑誌は、新しい読者領域である公衆を束ねるという大きな役割を担うまでになった。
この分厚い雑誌の成長は、商業化の波に乗ればこそ実現されたものであった。分厚い雑誌
はいち早く原稿料制度を導入し、新しい商業出版の組識をみずからを中心として作り上げ
ていったのである。
分厚い雑誌の商業性は、その作り自体によく現れている。原稿料の成立が商業出版の開
花を意味するならば、原稿料を成立させる先ほど挙げた三つの条件は出版産業が商業化に
向かう条件となる。その条件とは、公衆の成立、職業作家の成立、書籍商の活動である。
分厚い雑誌は、この三つの要素を誌の成立構造の中に組みこんでいた。
例えば雑誌は、初めから広い公衆を計算に入れて作られている。雑誌は、多くの公衆を
購買者として獲得するために、単行本よりも割安で質の高い読書ができるような形式を
持っていたのである。
既に第一章で述べたが、19 世紀前半のロシアでは、安価な本は少なく、書物は比較的高
価な商品だった。読者は、内容をよく知らない本を買って財政的に危険を冒すことを望ま
なかった172。それに対して雑誌は、編集者によって既に選択された作品や、論文を載せる。
したがって読者は、編集者の選択に即して読書をすることになる。編集者は、大抵読者に
人気のある文学者や評論家であり、文学や学問の世界に比較的通じた人物であった。その
ような人物が選んだ文章を読むということは、内容の質が保証された読書をすることを意
味していた。
雑誌において編集者の名は非常に重要であった。読者は、どの編集者が雑誌につくかに
171
ベリンスキー,前掲書,P.128-129.
Бовы к Бальмонту, c.34.
172Рейтбрат,От
52
注目し、編集者の名で雑誌の傾向を判断するようになる173。読者は、自分が信頼する編集
者や自分の思想傾向に合致する編集者である限り、内容を保証された雑誌を読むことがで
きる。レイトブラットは「読者は、読書のために作品を選び出す編集者を信じて、雑誌の
みを見るようになる。174」という。
雑誌は、なによりも広い公衆を前提として成立するメディアだった。19 世紀の始めにお
いてサークルとサロンを基本的な単位としていた文学の世界は、20-30 年代にかけてのアリ
マナフから、30-40 年代以降、雑誌にメディアの中心が移るのと同時に雑誌ごとに集まる公
衆を単位とするようになっていく。
その上、雑誌は単行本に比べて割安だった。レイトブラットがミハイロフスキイの推定
としてある計算を挙げているところによると「分厚い雑誌は、1860 年代に本の形だと 30-40
ルーブル相当の分量、様々な読むための事柄を掲載して、12-15 ルーブルの値段だった。つ
まり、本は雑誌の三倍ほど高価だったのだ。175」
雑誌が広い読者層を獲得した理由はこれだけではなかった。雑誌は、最新の流行作品や
話題の集中している作家の作品をたくさん載せていた。雑誌は、いわゆるよい作品や内容
の有用なものばかりでなく、時代の先端をいく作品を売り物にしていたのだ176。クレイメ
ノヴァやベリンスキイの文章は、この頃の読者がいかに現代的な流行作品を読みたがった
かを書いている177。雑誌は、読者のそのような需要にも応えるメディアだったのだ。
雑誌は、このようにして原稿料発生の条件としてレイトブラットが挙げた三項目のうち、
公衆を成立の基盤として構造の中に組みこんでいた。
このことは、無名作家が文章を最初に載せるメディアが雑誌であったことと関係してい
る。ドストエフスキイは 1845 年 5 月 4 日付け兄ミハイル宛ての書簡で、無名作家は単行本
を出すよりも先に雑誌に作品を載せるのが普通だとその道に明るい人にいわれた、と書い
ている178。雑誌は、作品を一挙に広い公衆の目に触れさせるには最も役に立つ、広い公衆
を前提としたメディアであったことが分かる。
次に書籍商の商業活動が、雑誌の成立基盤の中にどのように組みこまれていたかについ
て見てみよう。これを考える上で、原稿料制度を初めて確立した書籍商スミルジンと『読
書文庫』は典型的な例を提供してくれる。
書籍商スミルジンは、
『読書文庫』の出版者であった。バレンバウムによると、彼は『読
書文庫』を強力な商業的事業と考えていた179。そしてスミルジンは、商業ジャーナリズム
で活躍していたブルガーリンとセンコフスキイを編集者に選んだ。この三人のもとで『読
書文庫』は、商業主義と非難されながらも 1830 年代としては抜群の 7 千部という発行部数
173Нечаева,
В. С., Ранний Достоевский 1821-1849 (Москва: Наука, 1979) c.193.
Бовы к Бальмонту, c.34.
175Там же, c.34.
176Там же, c.34.
177Клейменова, Книжная Москва, c.39.
178Достоевский, Полн. собр. соч., т.28, к.1, с.109.
179Баренбаум, Книжный Петербург, c.98.
174Рейтбрат,От
53
を誇る雑誌に成長する。
『読書文庫』が読者公衆の人気を獲得し成功を収めた理由の一つは、この雑誌が、商業
主義と批判されるほどに徹底して、掲載する作品を読者公衆の好みに合わせて編集したこ
とにある。例えばバレンバウムはこう書いている「1834 年から、センコフスキイは、スミ
ルジンのもとで、『読書文庫』という雑誌を出版した。雑誌は、はっきり保守的であった。
読者の趣味に沿うために、センコフスキイは、雑誌に、『魅力的な』テーマとともに、『流
行』にあった詩人の詩を載せた。この目的、すなわち読者を引き込むことのために翻訳の
文芸作品を書き直した。例えば『感じやすい』読者を喜ばせるために、センコフスキイは
バルザックの『ゴリオ爺さん』の最後を変えて、ラスティニャックを大金持にした。180」。
『読書文庫』は作品のオリジナリティよりも読者の好みを優先し、流行を重要視した。
地方の読者に『読書文庫』は人気が高く、定期購読者数は、3 年間で 7 千人にまで増えた。
雑誌は書籍商にとって強力な商業的事業であり、商業性に徹すると抜群の購読者数を獲
得し利益を上げることのできるものであった。『読書文庫』は商業主義的で保守的な雑誌と
いう悪評を一部から受けた雑誌であったが、まさにこの商業主義の雑誌から原稿料制度が
確立したことは、原稿料が基盤としていたのが商業出版システムであったことを如実に示
しているといえるだろう181。
それと同時に雑誌は、多岐に渡る種類やジャンルの文章を載せるメディアであった。例
えば祖国雑記の 1847 年の目次を見てみると、どれほど多様な種類の文章が雑誌に載ってい
たかが分かる。
「雑報欄 (смесь)」には、書籍の広告文から女性向けパリの流行ファッションの報告、果
てはフェリエトンに至るまで、さらに多様な種類の文章がその名の通りごたまぜになって
入っている。このように多様な文章すべてに対し、雑誌のオーナー(書籍商)は、原稿料
を払ったのである。
雑誌は、あらゆる文章に対して原稿料を払うことによってあらゆる文章の執筆を職業に
変えた。ベリンスキイは 1836 年に以下のように書いている。
「スミルジン氏の雑誌の登場
で、すべてが一変した。記事には報酬がつき、文学の仕事は資本主義的になった。(中略)
心から喜ぼう、今や、才能と勤勉が、パンの真面目な一片を与えてくれることを!182」と。
あらゆる文章の執筆が職業になると、小説と広告文、フェリエトンなどの複数の文章を
手がける作家が現れる。例えばネクラーソフやドストエフスキイは、文学作品を雑誌に載
せる傍らフェリエトンや町のニュース、書籍の広告など多様な文章を雑誌に書くことを生
業とした。雑誌は、様々な種類のもの書きにとって収入源のメディアだった。それと同時
に雑誌は職業としての掛け持ち作家を作り、掛け持ち作家を重要な寄稿家として構造の中
180Там
же, c.97-98.
же,c.98.によると、スミルジンは、
「商業的企業」である『読書文庫』で安定した作家
原稿料を導入する。スミルジンは、この雑誌でひとりの作家に約 200 ルーブル、有名な作
家には 1000 ルーブルかそれ以上の原稿料を払った。
182Баренбаум, Книжный Петербург, c.98.
181Там
54
に組みこんで成り立っていた。
このように雑誌は、原稿料制度を成立させる三つの条件、すなわち公衆の成立、書籍商
の活動、職業文士の成立を構造の中に組みこんでいた。雑誌は商業原理に則って作られた、
まさに商業出版を代表するメディアだった。
職業の細分化
このように、最初に原稿料が導入された雑誌というメディアは、作家、商人、公衆が結
集し、緊密な関係を取り結ぶメディアであった。この緊密な関係を成り立たしめたのが原
稿料である。原稿料は三者を結び付ける紐帯であり、雑誌という商業的事業を成立させて
いた重要な要素だった。
雑誌は、三者の間に原稿料を介在させることによって成り立っていた。原稿料によって
寄稿は職業となり、原稿は商品となった。書籍商が書いたものに対して原稿料を支払うと
いうことは、その文章が書籍商にとって利益を生むものであったからだ。原稿料を文章に
対して支払うということは、文章が商業システムの中に取り込まれ、そのシステムの中で
商品という意味を獲得することを意味していた。原稿料は文章が位置するシステムを変え、
文章にそのシステムに相応する意味を与える装置であった。
そうであるとすれば、文章を書いて原稿料を受け取る作家の仕事は、文章を商品に替え
る商業システムの一部となる。この商業システムの中に位置したとき、作家の仕事は専門
の職業という意味を獲得するのである。レイトブラットは、文学原稿料の発生の期間は多
様な文学の専門家の発達(編集者、翻訳者、ジャーナリスト、戯曲家、詩人、散文作家)
に対応するという183。原稿料は専門職を生む装置であった。
原稿料は、文章の種類と職種によって細かく区別して設定されていた。先ほど述べたよ
うに、雑誌は非常に多様な種類の文章が一緒に載っているメディアである。雑誌はそれら
の多様な文章に対し、それぞれに応じた形で原稿料を支払っていた。例えばジャンルによっ
て原稿料を算出する単位が異なっており、詩は一行単位で支払われ、小説は印刷台紙一枚
単位で支払われた。また原稿料の額の相場も、文章の種類によって大体決まっていた。同
じ小説でも外国小説の翻訳は原稿料が安くロシア語の創作小説の方が概して高いというよ
うに、標準価格に差がつけられている184。支払い方法も職種に応じて区別されており、雑
誌の編集者は一年契約の年収制なのに対し、雑誌に小説などを載せる作家の原稿料はその
都度交渉して決められた。一言に原稿料といってもその様態は対象に応じて細かく区別さ
れていたのである。
183Рейтбрат,От
Бовы к Бальмонту, c.80.
же,c.88.によると、同じ翻訳でも学術翻訳には高額の原稿料が支払われ、娯楽小説は
二束三文で買いたたかれる。さらに、作家の原稿料は、知名度によって大体の相場が決まっ
ており、有名か無名かで、印刷一台ごとの原稿料の額は歴然の差があった。
184Там
55
原稿料が細分化する過程は、雑誌の中で進んでいく文章の細分化に対応していた。雑誌
は経済論文から娯楽小説、雑貨の広告に至るまで幅広い異質の文章を寄せ集めたメディア
であった。雑誌はそれらの異質の要素を一つの冊子の中で組織立てるべく、それらを区別
し、差異化する。
雑誌による文章の差異化は、紙面の空間配分に現れた。これを最もよく示しているのが
目次である。目次は、書物の内容の要約という点で書物に対するメタ言語の一種である185。
目次は、書物の構成と内容を一枚の紙面上に空間的に配置する。内容を項目化して列挙す
る目次は、線形言語を空間言語に置換する役割を果たしている。目次において、書物全体
は「表」化された空間として把握される186のである。
目次が示しているのは、テクストを配分する雑誌内部の空間構成である。雑誌は、文学
欄、論文欄、雑報欄といった掲載欄を設け、掲載欄の境界によって文章を区分する。文章
は、商業出版の中ではジャンルによる区別以前にひとしなみに商品である187。その一様の
商品が掲載欄という空間で区別されたとき、文学、論文、雑報という相対化された意味を
持ち始めるのだ。雑誌の欄は、文章を差異化する空間装置である。この空間装置は、単に
雑誌内部の空間を整理するだけではない。それは作家や編集者の思考に入り込み、彼らは
既に区分のグリッドをかけた目で文章を見、掲載欄の分類方法にしたがって文章を生産・
編集するようになっていく。そしてこの分類方法にしたがって作家は自分自身の職業を定
義し、出版者は原稿料を設定する。
文章の細分化とそれに応じた原稿料の細分化は、ともに雑誌に携わる人々の職業領域を
決定していったのである。例えば散文作家の原稿料は作家の知名度や人気に応じて相場が
決められ、雑誌から掲載期間や回数、大体の内容の注文が出て、その注文に応じた仕事に
対して支払われるという形態を持っていた188。また彼らが掲載する欄は、初めから決まっ
ていた。分厚い雑誌の文芸欄に自分の作品を載せることが作家としてのステイタスを示し
ていたように、掲載欄そのものが載せる文章の格を決めたので、作家は掲載欄にふさわし
い作品を書こうとする。したがって作家は雑誌の出す注文を満たしながら、雑誌の掲載欄
の区分基準を内面化して、その掲載欄のステイタスや雑誌のフォーマットに応じた分量の
連載小説なり読み切りの短編なりを作り上げるという執筆形態を実践することになる。
例えば 1849 年のドストエフスキイの例を見ると、まずクラエフスキイと相談しながら作
品を掲載する大まかな期間と連載の回数を決めている。印刷一台単位の原稿料額は編集者
と予め相談して取り決めてある189。大体作家ごとに相場が決まっているようで、デビュー
185
多木『モダニズムの神話』P.265-266.
186
多木『モダニズムの神話』P.267.
ボウルビー,前掲書,P.102-103.
Бовы к Бальмонту, c.87.
189Достоевский, Полн. собр. соч., т.28, к.1, с.147-151.クラエフスキイ宛ての書簡参照。
187
188Рейтбрат,От
56
後のドストエフスキイは一台につき銀貨で 50 ルーブル強である190。作品を書くことが決ま
ると作品全体に対する原稿料額が大体決定するので、その額の枠内であれば前払いも可能
である。ドストエフスキイは、原稿料の前払いを交渉する手紙をクラエフスキイに書き送っ
ている191。
また、締切までにある一定の量のテクストを提出するという義務と引き換えに、大抵日
割りで報酬を支払われていた職種があった。この職種に分類されるのは、レイトブラット
によるとジャーナリズムに関係する職業に多く、社説の著者やフェリエトニスト、雑誌の
時事解説者、外国のニュースの翻訳家や他の雑誌や新聞の記事の寄せ集めを作るだけの記
者などであったらしい。日雇いという支払い方法に応じて、例えばフェリエトニストは幾
つかの雑誌を掛け持ちする職業形態を取ることになる。
翻訳業は、18 世紀から既に原稿料を支払われていた分野である。1840-50 から 70 年代ま
での間翻訳の原稿料はほとんど変わらず、普通印刷台紙 1 枚に対して 5-10 ルーブルくらい
だった。とはいえ、同じ翻訳といっても訳す文章によって格差があった192。
特定の技術を必要とする翻訳の場合には原稿料は比較的高かった。例えば文学論文専門
の翻訳家のレゼネルは、
『論理のシステム』の翻訳 1 ページにつき 18 ルーブルを受け取っ
(デュ
ている193。一方商業的出版物の翻訳は非常に安かった。フランス小説の翻訳に対し、
マやポール・ド・コックなど)1 ページに対したったの 3 ルーブルしか支払われなかった194。
翻訳業は、駆け出しの作家や、無名だが文筆業で生計を立てたいと望む人々が収入の足し
にやることが多かったらしい。
職業の区分は、原稿料導入の時期にも対応している。例えば詩の場合、単行本の出版の
際には比較的早い時期から詩人に原稿料が支払われていたが、雑誌において詩に原稿料を
払うようになったのはレイトブラットによれば 50 年代以降といわれている195。詩は貴族的
で芸術的な文学ジャンルであると考えられており、散文の文学作品や社会評論が支配的な
文壇にあって、詩人は職業としてみとめられていなかったようなのだ。この時期詩人は詩
から入る収入によって生活することができず、翻訳や文芸評論、フェリエトンの執筆に専
念しなくてはならなかった。あるいは作品の創作と発表はしていても、ただのディレッタ
ント詩人か地主でしかなかったという196。1850 年代末から 60 年代の初めにかけて、よう
же. с.117.1845 年 11 月 16 日の兄ミハイル宛ての書簡には、
『分身』の原稿料の額が記
してある。この中でドストエフスキイは、
『分身』は印刷台紙に換算すると約 11 台分の量で
あり、この作品に対して銀貨 600 ルーブルを受け取ったと書いている。したがって、印刷
台紙一台に対して銀貨で約 55 ルーブルを受け取ったことになる。
191Достоевский, Полн. собр. соч., т.28, к.1, с.147-151.クラエフスキイ宛て 1849 年 2 月 1 日付け
の書簡。
192Рейтбрат,От Бовы к Бальмонту, c.89.
193Там же, c.90.
194Там же, c.90.
195Там же, c.90.
196Там же, c.90.
190Там
57
やく詩は一作品単位で買われるようになった。例えば、
『同時代人』誌では、1 ページの小
さな詩に対し 10-15 ルーブルが支払われた。最高額が支払われたのは、ネクラーソフ、マ
イコフ、フェート、ポロンスキイ、プレシチェーエフで、もっと少なかったのは、ジェム
チェジニコフ、ミハイロフであった197。この時点でようやく詩人は職業として成立するこ
とになる。
このように雑誌に関わる職業の形態は、原稿料の支払い形態や雑誌における文章の位置
づけによって決定されていたのである。そして職業の形態を決定する原稿料の様態は、市
場や商業出版の論理に即して決められていた。
例えば雑誌の編集者という職業を考えてみよう。レイトブラットによれば「高尚な文学」
の提示者の中で原稿料を受け取り始めたのは、編集者が最初であった。1802-1803 という
早い時期に、
『ヨーロッパ通報 (Вестник Европы)』の編集に対し、カラムジンは一年に 2 千
紙幣ルーブルを受け取っていた。当時のレートでは 1500 銀貨ルーブルに相当する198。
また基本的に低い原稿料のために貧しい生活を強いられた専業の文学業の中で、定期刊
行物の編集者という仕事は、例外的に十分な収入があった職種であった。例えばバレンバ
ウムによると、1830 年代に『読書文庫』の編集者をしていたセンコフスキイは、スミルジ
『祖国雑記』の編集をし
ンから一年間に巨額の俸給 1 万 5 千ルーブルを受け取っていた199。
ていたベリンスキイに対して支払いをしたのは「搾取者」といわれたクラエフスキイであ
るが、それでも一年に 5 千ルーブルを支払っている。
編集者の原稿料が一年契約の年収制で安定していて、しかも高額だったのは、編集業が
出版産業の根幹に関わる重要な仕事であったからである。雑誌などの定期刊行物は、既に
述べたように出版産業の商業システムの核心に位置していた。編集業は、そのような定期
刊行物の傾向や性格を決定し、固定した読者層を作りあげていく雑誌の経営に直接影響す
る仕事だったのである。
編集者は雑誌の作りや傾向を決める要だった。編集者は、年末に翌年の定期購読募集広
告を出すとき、翌年自分はどのような作家の作品を載せるのか、どのような思想傾向にし
たがって論文を選ぶのかということを宣伝材料として読者に提示していた。編集者の名そ
のものが、一年契約の定期購読で販売する雑誌において一年間の雑誌の傾向や品質を読者
に保証する保証書として機能していた。編集者の仕事は一年間の定期購読の制度に即した
形で現れ、編集者の原稿料の年収制は定期購読の制度に対応していたのである。
作家の作品は、雑誌にとって看板商品であった。高名で人気のある作家の作品は、一挙
に購読者を増やす力を持っていたので、原稿料は非常に高かった200。一方駆け出しの無名
作家の場合は、二束三文で買いたたかれた。文学作品の値段、すなわち原稿料に大きな格
差が生じるのも、雑誌の経営の都合と関係があった。
197Там
же, c.90.
же, c.82.
199Баренбаум, Книжный Петербург, c.96.
200Рейтбрат,От Бовы к Бальмонту, c.87.
198Там
58
職種は市場や商業出版という空間を支配する論理に従って作られていったのであり、こ
のような空間において生まれた業種というのは本来的に商業出版に帰属していたのである。
これらの職業は、商業出版のシステムの中にそれぞれの意味領域を成立させていたのであ
る。
原稿料の様態の細分化は、雑誌における文章の細分化と連動していた。そしてこれらの
要素は、雑誌に纏わる職業の細分化と対応していた。そこで、職種の細分化の過程を、原
稿料の様態を指標としてたどることによって読み取ってきた。雑誌における原稿料は、出
版産業の商業的な論理にしたがって雑誌に関わる職業を細かく区別し、仕事の手順や重点
の置き方などを含む職業の形態を、言い換えれば個々の職種の意味領域そのものを決定し
たのである。
作家の原稿料と職業様態
作家業は、雑誌において細分化された専門職のうちの一つであった。彼らにとって、雑
誌から入る原稿料が主たる収入であった。しかし、作家の印刷台紙一枚単位の原稿料は基
本的に額が少なく、作家業以外の職を持たない専門文士は常に経済的に困窮していた。レ
イトブラットによると、文学作品を書く作家が生計を立てるほど稼ぐのは困難であった。
レイトブラットは、1845 年のココレフという作家の書簡を引用している。それによると作
家は、日雇い労働者としての覚悟を決めて執筆にあたり、多作にならなくては飢え死にす
るというのである201。
なぜ、それほど原稿料が安かったのだろうか。レイトブラットはその理由として、ロシ
アにおいて、文学の社会的な需要はそれほど多くなかったことを挙げている。ロシアの住
民の 80%は読書をすることがなく、残りの 20%の人々は外国の書物を原文で読んだり、翻
訳で読むことが多かった。ロシア語で書かれたロシアの作品を読む読者たちは、それほど
購買力があるわけでもないインテリゲンツィヤや官吏、商人、中小の地方地主らに限られ
ていたという202。
さらに書籍商業は、19 世紀前半当時リスクの高い商売であった。前述したが、ペテルブ
ルグでは 40 年代にスミルジンとプリュシャルという大きな書籍商が破産している。出版活
動を行っていた書籍商は、仮に何らかの出版物で成功したとしても、一方で別の出版物が
出した損失や検閲に発禁にされたために出た損失の埋め合わせをしなくてはならなかった
203。したがって、出版者は原稿料を高く設定することはできなかったのである。
このようにして作家は、文筆業よりほかの収入源を持っていない場合は、極貧の生活を
余儀なくされていたのである。
201Там
же, c.85.
же, c.85.
203Там же, c.80.
202Там
59
実例を見てみよう。ドストエフスキイの書簡には、作家として執筆業を始めた後も、金
銭的に困窮している状況が克明に記されている。
『貧しき人々』の発表でドストエフスキイは一躍文壇の寵児となり、文学的名声を獲得
した。ドストエフスキイは兄ミハイルに宛てて、45 年 11 月 16 日付けの書簡にこう書いて
いる。
「ねえ兄さん、僕の名声が今ほど絶頂を極めることはないと思います204」。
そして、いかに文壇で歓迎されているかを延々と綴るのだ。ドストエフスキイは資本と
しての名声を予告通りに手にしたのであり、作家としての第一歩を踏み出したのである。
ドストエフスキイが文壇デビューの向こうに期待していたのは、文学的将来と生活の安定
であった。資本と芸術性を繋ぐものが名であったとすれば、名を得さえすれば金銭的利益
が保証され、芸術的文学作品の創作が常に可能になるかに思えた。しかし、現実はドスト
エフスキイの期待を裏切るものだった。
ドストエフスキイが文壇に参与し始めた時期に、ドストエフスキイは兄ミハイル宛て 45
年 10 月 8 日付けの手紙の中で、ベリンスキイから原稿料の額に関する忠告を受けたと書い
ている。それによるとベリンスキイは、ロシアの文学界で生きていくためには、印刷全紙
一台分の原稿料として最低でも紙幣 200 ルーブルはもらわないといけないとドストエフス
キイに言ったという205。
ベリンスキイの忠告には、おそらく職業作家として生きていく上で常に経済的な困難を
伴うということが暗示されていただろう。1840 年代の出版界において、原稿料の額は文士
が基本的に貧困生活をせざるを得ないようになっていたのである。ドストエフスキイは、
兄ミハイル宛て 45 年 11 月 16 日の手紙で「ベリンスキイは、出版業者にたぶらかされない
ように僕を守ってくれています206」と書いている。ドストエフスキイは、デビュー直後に
して早くも出版業界において作家は搾取される運命にあることを悟らされるのである。
ドストエフスキイは、デビューから一年も経たないうちにまた借金漬けの苦しい生活を
余儀なくされる。ドストエフスキイの原稿料は、第二作以降かなり上がっている。ドスト
エフスキイの兄宛て 45 年 10 月 8 日付けの書簡によれば、ドストエフスキイは『貧しき人々』
を『ペテルブルグ文集』に載せる際の原稿料として総額で銀貨 250 ルーブル、印刷全紙一
台に換算すると銀貨 25 ルーブルをネクラーソフから受け取っている207。その後、
『9 通の
204Достоевский,
Полн. собр. соч., т.28, к.1, с.115. «Ну, брат, никогда, я думаю, слава моя не
дойдет до такой апагеи, как теперь.» 訳大野。ドストエフスキー『ドストエフスキー全集第
15 巻』P.116 を参考にした。
205Там же, с.112.
206Там же, с.116.
207Там же, с.112.によると、ドストエフスキイは、
『ペテルブルグ文集』に掲載した『貧しき
人々』の原稿料としてネクラーソフから銀貨で 250 ルーブル受け取っている。Leatherdarrow,
W. J., Fedor Dostoevsky a reference guide (Boston: G. K. Hall, 1990) P. 33.によると、この作品は
『ペテルブルグ文集』P.1-166.に掲載されている。すなわち、八折り本で言うと印刷全紙約
10 枚なので、一枚につき銀貨 25 ルーブルという計算になる。
60
手紙からなる小説』に対しては紙幣で総額 125 ルーブル、印刷全紙一台に換算すると紙幣
250 ルーブルを受け取っている208。この頃のレートで、紙幣 4 ルーブル=銀貨 1 ルーブル
だったそうなので209、紙幣 125 ルーブルは銀貨 31 ルーブルに相当し、一台につき、銀貨
62 ルーブル(=紙幣 250 ルーブル)である。この差はかなり大きい。さらに『分身』では
総額銀貨 600 ルーブルを印刷全紙 11 台分として受け取っているので、一台に換算すると約
55 ルーブル受け取っていることになる。デビュー前と名が売れたあとでは、こんなにも原
稿料が違う。
にもかかわらず、名声を得た後でも貧苦は続く。ドストエフスキイの貧困生活は、46 年
から 49 年にかけて書簡を通じてほぼ切れ目なく兄に訴えられる。また、ネクラーソフやク
ラエフスキイに対する原稿料の支払い交渉が続けられる。
ドストエフスキイの貧困の大きな原因の一つは、なによりも原稿料の額が基本的に少な
かったということ、そして、書簡に書かれていない多くの出費もあるだろうが、クラエフ
スキイとの関係にあると思われる。
クラエフスキイはドストエフスキイに原稿料を前払いしたり、自分から借金をさせたり
して、ドストエフスキイを『祖国雑記』に縛り付けていた。クラエフスキイは、常にドス
トエフスキイに前金の形で支払いをし、ドストエフスキイは困窮しているためにその金を
受け取る。そして、
『祖国雑記』のために何か作品を急いで書き上げるという状況が恒常化
する210。これは、クラエフスキイのよく用いたやり方らしい。
ドストエフスキイは、1849 年にクラエフスキイに宛てて手紙を書いている211。この書簡
原稿料の前払いの要求をする主旨のものである。この中でドストエフスキイは、借金を返
済するために期限付きの注文仕事をやってきたことの後悔の念を述べている。
「あなたのご厚情に報いるために、私は、病気にもかかわらずに働いて――出来の悪い
中編小説を書いてしまい、私にとって、唯一の資本である自分の名前を危険にさらしてし
まったこと。私が自分の作品を十分に推敲せずに、期限に間に合わせるように書いたこと、
すなわち芸術に背いたこと212。」
作家とは、基本的に少ない原稿料によって生計を立てるために、注文仕事を消化し、多
作にならざるを得なかったのであり、そのような作家の執筆様態は、1840 年代の出版界の
208Достоевский,
Полн. собр. соч., т.28, к.1, с.117.によると、この作品は、当初『ズボスカール』
に載せる予定で書いたものである。分量は印刷全紙の半分に相当する。
209ドストエフスキー『ドストエフスキー全集第 15 巻』P.77.の訳者小沼の注によると、1843
年当時のレートでは銀貨 1 ルーブルに対し紙幣約 4 ルーブルであった。
210Достоевский, Полн. собр. соч., т.28, к.1, с.147-151.
211Там же, с.147-151.
212Там же, с.148. «Чтоб отплатить Вам за одолжение, я несмотря на болезнь мою—написал
дурную повесть и рискнул своею подписью, которая для меня—единственный капитал. Что я
не обработывал достаточно моих произведений и писал к сроку, то есть согрешил против
искусства.» 訳大野。ドストエフスキー『ドストエフスキー全集第 15 巻』P.159.を参考にし
た。
61
制度によって恒常化されていたのである。
4.貨幣価値
4.貨幣価値と
貨幣価値と芸術性―
芸術性―作品評価の
作品評価の尺度
ドストエフスキイの職業観
ドストエフスキイの職業観を知る上で、ドストエフスキイが若い頃兄ミハイル宛てに
書いた多くの書簡は、非常に雄弁な資料だと言うことができる。これらの書簡には、少年
時代から流刑までの間に、ドストエフスキイが、文学について何を思い、どのように創作
活動を展開しようとしていたかが克明に記されている。
書簡の中でまず取り上げるのは、兄ミハイル宛ての 1845 年 10 月 8 日付けの書簡である。
この中で、ドストエフスキイは『ズボスカール』の出版企画について兄に報告をしている。
ドストエフスキイはこの書簡に、企画の中心人物であるネクラーソフの人となりや、出版
への期待、あるいは『ズボスカール』の企画に対するまわりの文学者の反応を綴っている。
ここから、ドストエフスキイがアリマナフの出版という出来事やそれに関わる作家たちの
行動様態をどのような視点から見、どのようなかたちで認識していたのかが見えてくる。
この書簡の中から、
『ズボスカール』について書いている部分を抜き出してみよう。
...........
「夜に僕のところへやってきて、軽装版の小型アリマナフを出版する計画を持ちかけま
した。文学に携わる人間がそれぞれ応分の協力をしてこのアリマナフを作ることになりま
す。その責任編集者には、僕と、グリゴローヴィチとネクラーソフがなる予定です。ネク
ラーソフが、自分で経費を持ってくれます。アリマナフは、印刷全紙二枚からなり、2 週間
。
に一度、毎月 7 日と 21 日に出版されます。『ズボスカール』という名前です213」
この後の文章で、ドストエフスキイは『ズボスカール』という雑誌のあらましや、創刊
号の内容、掲載予定の自分の小説について書いている。そして、ドストエフスキイはこう
続ける。
「これはとてもいい仕事です。なぜなら収入は最低でも、僕だけの分で月に 100 ルーブ
ルから 150 ルーブルにはなりそうだからです。この本は売れますよ214」。
ドストエフスキイにとって、ズボスカールの出版は金銭的な利益をもたらしてくれるが
故によい仕事なのである。このとき、この雑誌に載せるための小説の執筆もまた金銭的利
益を生むための仕事となる。
213Там
же, с.113. «у меня вечером, подал проект летучему маленькому альмнаху, который
будет созидаться посильно всем литературным народом, но главными его редакторами будем я,
Григорович и Некрасов. Последний берет издержки на свой счет. Альманах будет в 2
печатный листа и выходить будет один раз в две недели, 7-го и 21-го каждого месяца.
Название его «Зубоскал».» 訳大野。同書,P.113-114. を参考にした。
(訳の傍点部は、原文
の斜体に対応。
)
214Там же, с.114. 第一章注 100 を参照。
62
金銭的な利益を得ることは、書籍を出版する際の大きな目的の一つであった。ドストエ
フスキイがズボスカールの出版を、文学への奉仕ではなくビジネスと考えていたことは、
ドストエフスキイのネクラーソフに関する言及に見て取ることができる。
「ネクラーソフは、生まれついての山師で…215」
これは、ズボスカールの出版に関する文章の中で述べられた台詞である。出版の企画は
ドストエフスキイにとって、様々な工夫を凝らして出版を成功させ最終的に金を儲けるこ
とであり、ビジネスの企画にほかならなかった。そして、そのビジネスのためにドストエ
フスキイは広告文や小説を書くのだが、その時ドストエフスキイの中で文章を書く仕事と
ビジネスを同時に同じ雑誌の中で行うことに何の矛盾も起きてはいない。後日、兄宛ての
手紙の中で、ドストエフスキイは、自分の公告文の評判が良かったことを楽しげに報告し
ている。
1845 年、11 月 16 日
「僕の広告は、評判になりました。(中略)僕は、この広告で Lucien de Rubempré が
最初に書いたフェリエトンを思い起こしました。216」
ドストエフスキイの意識において重視されているのは、広告文の評判とその出来栄えで
ある。自分の広告をリュシアン・ド・リュバンプレの商品にたとえているところは、非常
に興味深い。リュシアン・ド・リュバンプレは、バルザックの小説『失われた幻影』の主
人公であり、新聞記者をやっている。彼は雑誌や新聞専用の文章を売りさばく仕事をして
身を立てようとする若き文士であり、ビジネス精神と野心にあふれた若者だ。ドストエフ
スキイが言うリュシアンの最初の小品というのは、「『うろたえた法官』三幕喜劇(初演)
フロリーヌ嬢の初舞台―コラリー嬢―ブッフェ217」という表題の新聞記事である。モリエー
ルの戯曲の初演を賞賛し、読者に鑑賞を促す内容のものである。作品の中でこの記事は「新
奇で独創的な書き方だとして、新聞記事界にセンセーションをひきおこした218」となって
いる。
この文章を自分の広告文の譬えにするということは、リュシアンの職業の形態そのもの
を自分の仕事の形態の比喩と考えていたことを意味している。バルザックは、同時代のパ
リの社会や人物をスケッチすることを得意とし、それを文学の創作方法の重要な手段とす
る作家であった219。その作家の作品の中で描かれるビジネスマン的な売文記者は、その時
代パリにこのような記者がいたこと、このような記者が活動する場が生じてきたことの証
же, с.113. «Некрасов аферист от природы,…» 訳大野。ドストエフスキー『ドストエ
フスキー全集第 15 巻』P.113.を参考にした。
216Там же, с.115-116. «Объявление наделало шуму….Мне это напомнило 1-й фельетон Lucien
de Rubempré»
217 バルザック(生島遼一訳)
『バルザック全集第 11 巻 幻滅(上)』
(創元社,1956)P.257.
218 同書,P.259.
219 E. R. クルティウス(大矢タカヤス監修,小竹澄栄訳)
『バルザック論』(みすず書房,
215Там
1990)P.142.
63
言である。リュシアンとは 1830 年代のパリに起こった商業出版界の新しい職業カテゴリー
の表象である。そして、この表象はそのカテゴリーを生み出した出版界の商業化という時
代の動きという背景を暗示していた。ロシアでも、1830 年代から出版界の商業化が顕著に
なる。リュシアンの比喩によって、ペテルブルグの出版界の動きはパリの出版界と、ドス
トエフスキイはリュシアンと重ねられる。その時、ペテルブルグの出版界とジャーナリズ
ムに参与した作家たちは商業出版の生み出したイメージの中に入りこむ。
ドストエフスキイは、自分の書いた広告文の新鮮さや評判の高さを兄に伝える。ドスト
エフスキイにとって、広告文を書くことと文学作品を書くことの間に明確な境界線はない。
ドストエフスキイはこの手紙の中でズボスカールの広告文に言及し、その原稿料の額を知
らせた後、すぐさま小説の原稿料の話に移る。ドストエフスキイにとっては広告文も小説
も、原稿料というパラメーターを共有する商品である。このとき、ドストエフスキイの関
心は編集者に自分の文章をどれだけ高く査定してもらうかに集中する。ドストエフスキイ
にとって、作家という職業はジャーナリズムにおける編集者との原稿料を媒介にした関係
の中に存在していた。作家とは出版界に文章を供給する文章生産者であるとすれば、この
文章が小説なのか広告文なのかを問うことに意味はない。この作家観の中に、小説家と広
告作家は互いに何の矛盾もないまま共生するのである。このとき、ドストエフスキイを広
告作家と呼び、広告を書くことが「ズボスカール」というアリマナフの出版活動の一環であ
るならば、広告作家とはビジネスマンの一種を意味している。ドストエフスキイが考える
作家という職業の意味領域には、ビジネスマンも含まれていたことになる。
名と原稿料
作家の原稿料の額は、作家によって大きく差がつけられていた。そして作家の原稿料の
額を決めたのは、作家の名であった。ここでいう名とは、人気や芸術的評価等によって決
まる名声の意味である。
例えば、前述したことだがドストエフスキイが無名作家であったときに『貧しき人々』
に対して受け取った原稿料は、印刷台紙一枚に対し銀貨 25 ルーブルである。名が売れた後
にネクラーソフのアリマナフに載せたデビュー後の作品は、一台に紙幣 250 ルーブル、す
なわち銀貨 50 ルーブルほどである。この額の差は、ドストエフスキイの知名度の差に対応
していると思われる。
出版者たちが作家の原稿料の額を決める際に重要な基準であったのは、その作家の知名
度とその作品の普及度であった220。これを見極める上で出版者たちが参考にしたのは批評
による評価や出版者自身の好み等があったが、なによりも重要だったのは読者の好みで
あった221。読者公衆の反応に応じて作家の人気と、作品の商品価値が決定される。商業出
220Рейтбрат,От
221Там
Бовы к Бальмонту,c.88.
же, c.88.
64
版においてパトロンである読者公衆は、出版者や作家に対して権力を握っていたのである
222。
出版者は、購買者を増やして出版を成功させなくてはならない。出版者や雑誌の編集者
にとって、読者に人気がある著名な作家の名を広告に出すことは、そのままより多くの購
買者を獲得することを意味していた。作家の名は、出版物の品質保証であり、看板であり、
確実な利益をもたらし、かつ雑誌や書籍の権威を高める装置であった223。商業的出版界に
おいて出版者は、読者に人気のある作家に対して高額の原稿料を支払ったのである。
レイトブラットは、50 年代末の主要な作家の原稿料を一覧にしている。それによると、
印刷一台につきルーブル単位で、ツルゲーネフ 400、ゴンチャロフ 200、ドストエフスキイ
200、ピーセムスキイ 200、シチェドリン 125、レフ・トルストイ 100、グリゴローヴィチ
75、ダーリ 75、ウスペンスキイ 60 となっている224。
名と原稿料の背景―均質空間
次に、どのようなかたちで人気の格づけが行われていたのか、そして、その格づけはど
のような場で成立していたのかという点に注目したい。19 世紀の出版界が、人気という指
標を抜きにして作品や作家の選択や原稿料の決定を行えなかった以上、人気を生み出す装
置はどこに仕掛けられていたのかを見ていくことが必要である。
レイトブラットは、作家の人気を序列化するものとして批評を挙げている。1820 年代半
ばから、『北極星』におけるベストウジェフの評論が作家の序列付けを始めた。その後、ベ
リンスキイの一年ごとの文学外観が非常に大きな影響力を持つようになる225。低い読者階
層においては、書籍商のカタログの呼び込み風の説明文をもとに人気が形成されていたら
しいが、作家の文学的名声を作り上げそれぞれの作家に文学界における位置を与えたのは、
雑誌における批評であった226。
ベリンスキイの評論という人気格づけの装置は、作品の質を芸術性によって測るもので
あった。そしてその芸術性の度合いは、原稿料の額に変換される。商業出版において芸術
性は直ちに金銭に変換しうるものであり、むしろ原稿料決定のための道具となる。作家の
人気を決定する指標は、芸術性と貨幣価値である。原稿料によって生きる作家はこの二つ
の価値を内面化していた。
これまで見てきたように、ドストエフスキイは出版活動をビジネスとして捉え、出版の
計画を立て、みずからの文学作品を商品と呼ぶ。兄ミハイル宛て 1846 年 4 月 1 日「自分の
222Там
же, c.87.
же, c.88.
224Там же, c.88.
225Там же, c.69.
226Там же, c.69.
223Там
65
商品を紙幣 1000 ルーブルで前売りしました227」。この商品の価格を胸算用したり交渉する
など、ドストエフスキイはビジネスマンとしての側面をしっかりと持っている。その一方
で自分の作品を芸術と捉え、プーシキンやラファエルの作品になぞらえ、みずからをそれ
ら芸術家になぞらえる。ドストエフスキイは、芸術家としての自己認識も強く持っている
のである。ドストエフスキイの作家としての意識には、資本主義、商業主義の論理と、芸
術のイデオロギーが共生していたと考えてよいだろう。
既に書いてきたように文学作品の商業的な出版活動は、出版界の商業化、ひいては社会
の商業化と連動して生じたものであり、19 世紀のロシアにおける歴史的産物であったとい
うことができる。また芸術のイデオロギーの発生は 18 世紀末頃からであり、1840 年代と
しては比較的新しい観念だ。ドストエフスキイは芸術イデオロギーと商業主義の二つの歴
史的産物、二つのパラダイムによって文学作品というものを認識していた。
それ以前の作家の意味領域が文学の商業化の波を受けて変動し出す時点から、新たな
1840 年代頃の作家という観念の意味領域に、この二つの概念は分かちがたく共存していた
のである。
この二つの概念は、18 世紀末頃から社会の変化を受けて生じた一つの動きの裏表である
ということができる。その社会の動きとは、既に第一章で述べた均質化である。この均質
化の動きを作家という切り口から見るならば、そこに原稿料や単行本の売上という形の金
銭を一つの変数とし、芸術性をもう一つの変数とする商業的出版に組みこまれた作家の活
動様態を見て取ることができる。
1840 年代の出版界において、作品は商品であった。作家ドストエフスキイは、自分の作
品を商品と呼ぶ。商品である以上、作品は金銭に還元される。ドストエフスキイは、46 年
10 月 7 日の兄宛ての書簡で、自分の全著作を書店かネクラーソフのどちらかに売る算段を
している228。その原稿料は 4000 ルーブルであり、ドストエフスキイはこの 4000 ルーブル
から借金を差し引いた 2400 ルーブルを旅費や服・肌着代に使うと書いている。作家自身に
とって、自分の作品は金銭に換えうる商品であり、金銭と交換されればいつでも旅費や肌
着と等価なものになりうるものなのだ。作家にとって作品と交換される原稿料は、文学作
品であろうと服であろうとすべてを均質化してしまう金銭にほかならない。そして台紙一
枚いくらの原稿料という報酬の形態は、文学作品を台紙を単位として数量化し、金銭に均
質化する制度であった。
原稿料は作家の名前によって差がつけられていた。同じドストエフスキイという名の作
家でも、デビュー作と名声を博した後の作品では、印刷台紙一枚に対する原稿料が大きく
違った。名前は自作の保証書であった。そして名前が証していたのは作品の品質であり、
その品質とは、批評において芸術性という尺度ではかられるものであった。
227Достоевский,
Полн. собр. соч., т.28, к.1, с.119. «…и 1000руб. ассигнациями продал вперед
своего товару.»
228Там же, с.128.
66
そしてこの時代の批評において、芸術性の高い作品を生み出すのは、作家の才能である
とされていた。この才能という言葉に注目しよう。ドストエフスキイは、書簡で自分の才
能について言及している。クラエフスキイ宛て 1849 年 2 月 1 日の書簡から引用する。
「私には、貧困や隷属状態、病気、もったいぶって私を葬り去ろうとする批評家たちの
熱意、そして公衆の先入主に打ち勝つことのできる才能があるのです。したがって、私に
実際に才能があるとするならば、これと真剣に取り組み、これを危険にさらすことはせず
に、推敲を重ねて作品を仕上げる必要があります。
(中略)そして最後に、私にとっての唯
一の資本である名前を大事にする必要があります229」
。
ここでドストエフスキイの用いた才能という言葉がどのように用いられているかを検討
する。才能とは読者の称賛を受けるだけのすばらしい作品を書く力であり、同時に自分の
名前、すなわち資本の根拠なのである。作品の品質の査定をする評論家は、作品の質、す
なわち芸術性を作家の才能の程度によって測る。作品の芸術性について散々述べたあと、
どれほど豊かな才能によって書かれているかを査定して、多様な特徴を才能という尺度に
還元する。才能とは、作家の作品の芸術性を測り、作家の力量を測る尺度なのである。
さらにこれがクラエフスキイ宛ての書簡であり、原稿料前払いの交渉の書簡であること
に注意しよう。ここでは才能とは読者を雑誌に惹きつける力という意味でも使われている。
言い換えればそれは雑誌の利益へ貢献する力であり、その力はそのままドストエフスキイ
の名を支える力である。作家の才能とは優れた作品を書く力であり、それはとりもなおさ
ず雑誌に利益をもたらす力であった。
ここで二つの変数、すなわち金銭と芸術性は、才能という概念を媒介にして密接不可分
な関係を取り結ぶ。才能とは、貨幣価値と芸術性という、共通して一元的かつ均質的な二
つの尺度を媒介し、この二つを均質性という特徴で結び付ける装置なのである。芸術性の
高い作品のかける作家、つまり雑誌に読者を集め利益をもたらす作家はその豊かな才能に
対して、より多く原稿料を支払われる。原稿料の額は作品の良し悪しではなく、作家の名
によって決まるのである。
原稿料は 19 世紀前半に定着したものであった。大貴族をパトロンとしていた時代、ある
いは裕福な貴族が限られた範囲で作品を回覧していた時代、原稿料は存在しなかった。原
稿料という概念が生じてきたのは、不特定多数の人々をパトロンとする読書領域が生じ、
作家とパトロンとの間を仲介する役割を書籍商が担うようになってからである。
パトロンの変容と並んで、文学作品の形態も次第に変わり、文学作品は商品というカテ
ゴリーに入るものとなる。文学作品は、不特定多数がパトロンであり、金銭がすべてを均
229Там
же, с.148. «есть во мне столько таланту, что можно было преодолеть нищету, рабство,
болезнь, азарт критики, торжественно хоронившей меня, и предубеждение публики.
Следовательно, есль есть во мне талант дейсивительно, то уж нужно им заняться серьезно, не
рисковать с ним, отделывать произведения,…и наконец, щадить свое имя, то есть
динственный капитал, который есть у меня.» 訳大野。ドストエフスキー『ドストエフスキー
全集第 15 巻』P.159.を参考とした。
67
質化する均質空間の中に放り込まれたのである。それと同時に作家業は、原稿料の導入と
ともに商品としての文章を書いて売るというビジネスマン的な性格を帯び始め、活動形態
そのものを変容させていった。原稿料の中で緊密に結ばれた商業性、芸術性という分かち
がたい二つの要素は、作家の意味領域を形成する重要な軸であった。作家というのはこれ
らの概念によって変動しうる概念であり、ドストエフスキイはその歴史的産物とともに変
容を遂げた作家の意味領域を生きていたのである。
68
第 Ⅲ章
1.出版者
1.出版者たちの
出版者たちの読者像
たちの読者像
読者像に現れる社会的想像力
出版界に関わる様々な要素の意味領域が塗り替えられていくとともに、読者の意味領域
も変容していく。
商業的な出版産業において出版者、編集者や作家らといった出版関係者は、パトロンで
ある読者の好みや市場の動向を読みながら出版計画を立てる。読者の反応如何によって出
版活動が成功するかどうかが決まるからである。読者イメージは、当時の出版活動に直接
グリッド線を与える機能を果たしていた。したがって出版物を発信する側は、どのような
人々をその出版物の読者とするのかを常に想定しなくてはならない。そしてその想定され
る読者に向いた出版物を作らなくてはならない。彼らは読者として想定する社会的集団に
書物を読ませるための戦略を立て、出版物のそれぞれに期待される購買者に向けてメッ
セージを発する記号を埋め込む。例えばその記号は、装丁や文章ジャンル、価格という形
で現れたことは第一章で既に述べた通りである。
出版関係者たちによって想定され出版計画に生かされる読者像を、読者のイメージと呼
ぶことにしよう。この読者のイメージは、出版活動に携わる者一人一人によって微妙に異
なるであろうが、しかし同じ 1830-40 年代に商業的な出版界において活動していた人々は、
ある程度読者イメージを共有していたのではないだろうか。というのも出版関係者たちに
よって想定される読者像は集団の社会的想像力の産物であり、その想像力は、出版関係者
たちが共有していた当時の出版界の状況や様々な社会的要因に支えられていたはずだから
である。
当時の出版界において、彼らが共有していたある読者イメージの一つが「公衆」であっ
た。雑誌編集者は雑誌の中で公衆読者に呼びかける。批評家や広告作家も、文章の中で公
衆に対して二人称で話しかける。公衆を読者とする新しいタイプの書物が成立していたの
である。このことは公衆が一つの特別な社会的存在として成長し、その公衆という社会的
集団が読者として認識されていたことを意味している230。公衆という社会的集団が読者と
して認識されたとき、書籍商は公衆にふさわしい書物と思われる書物を作り上げ、市場に
供給する。
公衆は、おそらくは当時最も問題化された読者集団である。なぜなら公衆と呼ばれる不
特定多数の読者たちは、ジャーナリズムや商業的出版物の購買層として確かに存在してい
ながら、出版者にとってはきわめて曖昧な把握し難い存在であったからだ。当時公衆は出
230
多木『モダニズムの神話』P.284.
69
版物の主要な購買者として大きな権力を握っていた。しかし公衆というのは 1830-40 年代
にようやく現れてきたばかりでまだ明確なイメージを持たない概念であり、したがって認
識しがたく、曖昧この上ない存在であった。出版者にとって、この曖昧極まる公衆読者と
いう集団を把握し、彼らのイメージを作り上げることは緊急の課題であった。
では出版活動に関わる者たちは、公衆読者のイメージをどのように作り上げていたのだ
ろうか。彼らが想定した公衆のイメージとはどのようなものであり、そのイメージを形作
る背景にはどのような思考が働いていたのだろうか。1830-40 年代に活躍したロシアの
ジャーナリストたちの読者に関する文章を手がかりに、彼らが共有していた読者像を分析
していきたい。
分析に用いるのは、ブルガーリン、ポレヴォーイ、ヴィスチェンゴフの 3 人の文章であ
る。そのうちブルガーリンとポレヴォーイは、編集者としても出版業界と関わっていた。
彼らはそれぞれにある指標を用いて、果てしなく複雑な社会の構成員たちを分類する。そ
して、分類した社会集団を異なる読者集団として弁別する。その際最も問題化されるべき
公衆という読者層が、彼らの分類には必ず含まれている。
読者像とは想像によって切り取られた世界の一つであり、フィクションに過ぎない。し
かしそれらのフィクションは、彼らの生きていた空間に存在していた論理や思考をもとに
形作られるものである。彼らの読者像の分析を通じてフィクションを解体したとき、フィ
クションを作っていた思考や通念は自ずとその姿を現してくるだろう。彼らが読者を分類
し記述するときに用いる指標を明らかにし、その指標の背景にある思考を分析することに
よって、公衆という概念がどう形成されたかを見ていくことにする。
社会階層を指標とする分類
まずブルガーリンの読者に関する文章を取り上げる231。
ブルガーリンはロシアの読者を三つのカテゴリーに分けている。第一に、博識で裕福な
人々、最も質の高い教育を受けた人々のカテゴリーが提示される。彼らはすべてをフラン
ス人の眼で見、哲学と呼ばれるフランスの百科全書派の「最高の知」を受け入れる人々で
ある232。
第二のカテゴリーは、
「中流階層」の人々である。この階層に入るのは、官職についてい
る貴族、地方に住んでいる地主、教育を公的施設で受けた貧しい貴族、官吏、豊かな商人、
工場主、商売人である。この最も人数の多い階層は、大部分が「月並みの読書」によって
教育を受けた人々である。ブルガーリンは、この集団を「ロシアの公衆」と呼ぶ。彼らは、
大部分はロシア語の文学作品を読み、ロシアの文学作品の流行を熱心に追う。彼らはブル
231Клейменова,
Книжная Москва, c.202.によると、この文章は、ブルガーリンが政府に提出
した«О цензуре в России и о книгопечатании вообще»という報告書の一部である。
232Там
же, c.202-203.
70
ガーリンにとっては、容易に感嘆させることのできる教養の低い大衆である。このカテゴ
リーの読者たちの間で最も流行していた文学は、ロモノーソフ、カンテミール、アブレシ
モフ、デルジャービン、シチェルバトフ、カラムジン、クルイロフ、コストロフ、フォン
ビージン、クニャジニーン、グリンカ、ジュコフスキイ、ブルガーリン自身の作品であり、
翻訳の作品では、シャトーブリアン、ディケンズ、ラドクリフ、スコット、ポール・ド・
コックのものである。人気があったのは神秘的な題材を扱った文学、宗教的な文学の不定
期刊行の文集や、歴史書であった233。
第三のカテゴリーは、読み書きのできる農民や商人などが属している「低い階級」にブ
ルガーリンが分類した読者カテゴリーである。彼らは、文学や政治に関する書物の読者と
して考えられていないのだが、実際にはかなり読書をする。特に宗教的な書物、政府の法
令、法規に関するものを熱心に読むという234。
ブルガーリンは、読者を分類する際に社会階層という指標を用いている。紙幅の都合上、
第一、第二のカテゴリーに的を絞ることにする。ブルガーリンが分類した読者のカテゴリー
は、明確に序列化されている。この序列化の基準になっているのが知のレベルと、金銭的
な豊かさである。特に知のレベルによる序列化に注目したい。
ブルガーリンの分類では、第一のカテゴリーの読者が読むものは百科全書派の文脈でい
う哲学とされている。そして第二のカテゴリーの読者が読むものは、同時代の流行小説な
どである。このジャンル分類には二つの操作が働いていることを見て取ることができる。
まず読書のジャンルを、知の領域において古くから存在していたジャンルと新しく参入し
たジャンルに分類する操作。そして、高い知性を必要とするジャンルと必要としないジャ
ンルに分ける操作である。
まず、第一の社会階層は、古くから知の領域に存在しかつ高度な知性を必要とすると価
値づけられたジャンルと結び付けられている。例えば百科全書派の哲学書などは 18 世紀の
知の領域に属しているものであり、古くから読むものとして存在していたジャンルである。
一方、第二の社会階層は、新しく知の領域に参入しかつそれほど教養を必要としないと
判断されるジャンルと結び付けられている。ブルガーリンが挙げている小説は 19 世紀に
なって多く出版されるようになった新しいジャンルであり、19 世紀になって新しく一般的
な読みの領域に参入してきたものである。
実際には、同時代に生きる人々が読むジャンルは古さや教養のレベルだけで明確に分け
られるものではないし、社会階層という枠組みに単純に当てはめられるものでもない。し
かしここでは、異なるコンセプト、異なる歴史性や文化体系に属する多様な次元の読みが
古いものと新しいものの二つに分けられ、さらに同時代に共存していた社会階層に投影さ
れることによって序列化されている。多様な読みの諸相を古いものと新しいものに分け、
それを古い順に序列化するブルガーリンの眼差しには、19 世紀に視点を据えた遡及的な遠
233Там
234Там
же, c.203.
же, c.203-204.
71
近法と単線的・通時的歴史観、及び人々の知的水準の尺度としての社会階層という強力な
枠組みを読み取ることができる。
ブルガーリンがこの読者分類で問題化しているのは、第二の社会階層である。第二の社
会階層は、ブルガーリンが編集をしていた『読書文庫』などの人気雑誌の読者に対応して
いる。ブルガーリンは彼らを公衆と呼ぶ。社会階層という指標でブルガーリンが描きだし
た公衆のイメージには、19 世紀を視点とした通時的な歴史観と、階層による知的水準の落
差という思考の枠組みが働いていたのである。
この思考の枠組みはブルガーリン一人のものではなかった。1830 年代に活躍した書籍商
のスミルジンは、それまで読者層として認識されていなかった貧しい中流階層のための書
物を出版し始めている235。さらにベリンスキイは、スミルジンの安価な書物の出版を、ロ
シア作家の作品を貧しい人々のための出版物として高く評価する236。その後少しずつ安価
本の出版や雑誌の発行が増加する。このことは、社会階層を分類指標として読者に適用し
たときに発見された中流階層という読者層が、出版物の受容者として定着してきたことを
示している。スミルジンの功績を評価したベリンスキイやスミルジンと同じように活動し
ていた書籍商たち、次々と新機軸を打ち出していったブルガーリンやネクラーソフらにも、
社会階層という指標による分類は共有されていたのである。
生活様態を指標とする分類
読者の分類は外にもいくつかある。社会階層という指標を導き出す単線的な歴史観や知
の序列化は、当時の人々が共有していた想像力の一局面に過ぎない。19 世紀前半のジャー
ナリズムには、社会の動きに連動した別の局面の想像力も存在していた。例えば、生活に
関する観念を作り上げる想像力である。
18 世紀から 19 世紀前半にかけて、ペテルブルグとモスクワは他の都市を圧倒する規模
で成長した。工業をはじめとする様々な産業が発達するとともに、この二つの都市におい
ては、社会の動きに合わせた生活の仕方が現れてきた。生活の変化という複雑なものその
ものを捉えることはここでは行わない。ここで狙いとするのは、生活の観念に織り込まれ
た公衆の要素を析出することである。このような 19 世紀の都市の動きを受けて、ジャーナ
リストが生活の諸相と読書の様態の変化をどう連動させていたかを調べていこう。
分析に用いるのはポレヴォーイ237の読者分類である。ポレヴォーイは、読者を分類し記
Книжный Петербург, c.101.参照。スミルジンは、1846 年に『ロシア作家の作
品大全』という大衆向けの出版物を出版した。1 冊 1 ルーブルと安価であった。
236Там же, c.101.
237 Полевой, Николай Алексеевич (1796-1846) ロシアの作家、批評家、ジャーナリスト、歴
史家。1825 年から 36 年にかけて『モスクワ報知 (Московские ведомости)』の出版に携わる。
文芸批評に健筆を振るった。Большая советская энциклопедия, т.20., гл. ред. Прохоров, А. М.,
(Москва: Советская энциклопедия, 1975) с.178.
235Баренбаум,
72
述するにあたり、19 世紀に生じてきた生活への新たな観念を指標とする238。ポレヴォーイ
は読者を二つのカテゴリーに分けている。第一のカテゴリーは研究や娯楽のために書物を
読む人々である。第二のカテゴリーはそれ以外、すなわち農村運営に従事する地主や官吏、
軍人、医者、建築家など、仕事に就いている人々などであり、彼らは実業や技術に関する
専門書を読む。
これを生活の様態という視点から解釈すると、以下のようになる。第一の集団は、余暇
の状態である。第二の集団は市民社会のもう一つの部分、すなわち市民社会を支える実業
等の活動の状態である。
ポレヴォーイの分類指標である生活観念において、生活は活動状態と余暇状態という二
つの様態に分けられているのだ。この活動・余暇の二分法は、市民社会において生じてき
た時間概念に見られるものである。19 世紀前半に成長してきた中流階層は、勤務や実業に
従事することによって生計を立てる人々であった。彼らの生活は、勤務に携わる時間とそ
れ以外の時間、すなわち余暇に明確に区分されるようになり、読書は、実業に役立つ一方
で、余暇時間をつぶす身振りという意味を帯び始めるのである239。ブルガーリンの分類に
従えば、この中流階層こそが 19 世紀前半の出版物の主要な読者層に成長しつつあった公衆
であった240。
ポレヴォーイの区分には、生活の中に活動・余暇という二つの形態を見る世界観が根底
にある。この二つの様態の区別が読書に適用されるとき、活動態は陽、余暇態は陰の性格
を帯び始める。それは、もはやひとりの人間の一日の生活における二種類の生活様態の交
替として現れるのではない。この生活観は、あるカテゴリーの人間は恒常的に活動態にあ
り、別のカテゴリーの人間は恒常的に余暇態にあるというように、活動=陽を活動する人々
の集団に、余暇態=陰をそれ以外の人々の集団に投影し、二種類の恒常的な読者領域を作
り出すのである。
ポレヴォーイが行ったこのような読者分類は、雑誌の構成に現れている。分厚い雑誌は
最新の科学や農村経営の方法、政治や経済に関する論文、最新の女性のパリ・ファッショ
ンのルポルタージュ、流行作家の小説、フェリエトンなど多面的な内容を持っている。雑
誌には実業に携わる男性向けの読物と余暇を楽しむ女性向けの読物が、はっきりと区別さ
れながら、同じ誌面に載せられるのである。雑誌の読物は、読者の生活の時間帯の中に初
めから位置づけられているのである。このとき、活動態に位置づけられる読物は男性向け、
余暇態に位置づけられる読物は女性向けというように、陽―男らしさ、陰―女らしさとい
Книжная Москва, c.209. クレイメノヴァによると、ポレヴォーイのこの文
章が載っていたのは、Новоселье, Санкт-Петербург, 1846. ч.3 с.500-501.である。
238Клейменова,
239
レイチェル・ボウルビー(高山宏訳)『ちょっと見るだけ
世紀末消費文化と文学テク
スト』
(ありな書房,1989)P.107.
240 ポレヴォーイが分類指標に用いた生活観は、中流階層特有のものであった。したがって、
中流階層に含まれない人々、すなわち、上流貴族や農民たちの読書はここでははじめから
分類の対象外であり、排除されている。
73
う性格付けが加わる。第二の読者区分には男性、第一の読者区分に女性が入れられる傾向
が雑誌の構成に読み取れる。雑誌の多面的な内容構成には、このような性別によるテクス
トの弁別と絡み合う生活の時間帯のイメージが投影される。
ポレヴォーイは余暇状態の娯楽の読書に注目する。哲学書、法学書、歴史書、詩、小説、
雑誌、新聞といったものは、ポレヴォーイによると娯楽性の強い読物であった241。これら
の書籍商品は、若者やうぬぼれた作家たちを喜ばせる「おもちゃ (игрушка)242」であるとポ
レヴォーイはいう。彼によるとこのおもちゃには、生活と、金と、知が同居している243。
当時本は高価でかつ読者に知性を要求するものであり、同時に生活時間の中に緊密に組み
込まれたものであった。本は生活において、娯楽のための道具という性格を強く持ち始め
た。
『ズボスカール』で言うように244、退屈凌ぎに余暇を埋めるという読書の形態が一般的
なものとして現れてきていたのである。
娯楽のための読書が公衆の読書の中で大きな領域を占めるようになってきたことは、雑
誌の構成から窺い知られる。流行ファッションから経済まで、すべての家族構成員を満足
させることのできる多様な文章を載せる雑誌において、小説や読物の比重は高かった。そ
れは雑誌の宣伝に使われるくらいに読者の購買欲を刺激するものだったのであり、そのよ
うな「娯楽」として本を読む身振りが定着しつつあったことを物語っている。
娯楽の読書の定着は、生活における時間の概念に現れた変化、すなわち生活時間を活動
態と余暇態の二種類に区分する中流階層のグリッドと対応していた。そしてジャーナリス
トたちは、このような生活観の中で生き始めた中流階層の知のありようを、まさにこの生
活観のグリッドをかけることによって把握しようとした。読者としての公衆のイメージは、
実業と娯楽を膨らませていった中流階層の生活様態を一つの指標として形成されたのであ
る。
娯楽としての読書
娯楽という読書のかたちをさらに詳しく考えていこう。その際、ヴィスチェンゴフ245と
いう作家の読者に関する記述を用いることにする246。ヴィスチェンゴフのこの文章は、1840
241Клейменова,
Книжная Москва, c.209.
же, c.209.
243Там же, c.209.
244Достоевский, Полн. собр. соч., т.18. с.7.
245Вистенгоф, Петр Федорович, (1811-1855) ルポルタージュ作家、散文作家。1830 年代から
242Там
活動していたが、『モスクワ生活のルポルタージュ (Очерки московской жизни)』(1842)で
文壇に登場。Русские писатели 11-20вв., т.1., гл. ред. Николаев, П. А., (Москва:Советская
энциклопедия, 1989) с.447.
Книжная Москва, c.207.によると、これは 1842 年に出版された «Очерки
московской жизни»の一部である。
246Клейменова,
74
年代のモスクワの読者たちを書いたものである。特に娯楽という読書形態に関して、非常
に興味深い描き方がなされている。
ヴィスチェンゴフは、娯楽としての読書を読書空間と結び付けて記述する247。読書の空
間とは、読書の様態とどのように結びついているのだろうか。多木浩二によれば、室内装
飾や家具はある時代に生きる人間の思考や感情、欲望や狡猾さまでも刻みつけている248。
人間が身を置く室内空間は「人間の社会的心理的態度と密接に結びついており、とりとめ
なく拡散した文化に対して、もっと密度の高い一種の縮減模型ないしはメタ・テキストと
して読むことができる249」のである。
このようなものとして読書空間を捉えるとき、空間は読書をする人間の思考や心性、身
振り、思想など様々のものによって構成され、かつ読書の身振りや思考、感覚などに何ら
かの形を与えるものとなる。そして読書という身振りは、文化の縮減模型としての読書空
間に意味を与えたり、逆に規定されたりしながら文化的に定式化していく行為として現れ
る。空間と関連付けて読書の様態を見るジャーナリストの記述からは、単に出版の戦略を
支える読者イメージだけでなく、この時代の読書の様態そのものと不可分の心性が浮かび
上がってくる。
ヴィスチェンゴフは特に女性の読書に注目する。ヴィスチェンゴフは、上流階級の女性
の読書と中流階層の女性の読書について記述しているのだが、ここでは 1840 年代当時公衆
読者として育ちつつあった中流階層に的を絞ることにしよう。
ヴィスチェンゴフは、中流階層の読書を客間という場所に位置づける。客間は、暇つぶ
しのための様々な娯楽が営まれる空間であった。娘たちは客間でモーツァルトの曲を演奏
し、オペラを歌う。あるいは手芸をしたり、ワルツを踊る250。このような空間に書物はピ
アノや手芸用品と並べて置かれていた。書物はピアノや手芸と同じ娯楽道具の一つだった
のであり、客間という娯楽の空間を構成する装置であった。
では中流階層の夫人や娘たちは、客間でどのような書物を読んでいたのだろうか。ヴィ
スチェンゴフによると、彼らが好んだのはフランスの小説、ロシアの文学作品である。例
えば『読書文庫』に掲載される作品。中編小説やプーシキンの詩、マルリンスキイやレー
ルモントフの詩やモスクワの小説などである251。
『読書文庫』は、読者の好みを最優先して
編集をする商業主義的な雑誌として知られる。プーシキンやマルリンスキイなどはいずれ
も同時代に流行した歴史小説や怪奇ものを得意とした流行作家である。ヴィスチェンゴフ
が中流階層の女性が好んで読むジャンルに分類するものは、どれも非常に娯楽性の強いも
のばかりだ。ヴィスチェンゴフは、中流階層の女性の読書を客間で営まれる娯楽の一つと
247Там
248
же, c.207-208.
多木『「もの」の詩学』P.2.
同書,P.2-3.
Книжная Москва, c.208-9.
251Там же, c.208-9.
249
250Клейменова,
75
見なしているのである。
ヴィスチェンゴフは、読書やダンス、音楽にいそしむ中流階層の女性たちの姿を記述し
た後こう続ける。「ああ、女性たちはなんて悲しく一生を閉じ込められてしまうのだろう。
平凡に人生を終えるのだ。しかも、光陰矢のごとしだ252」。この言葉は、1840 年代に中流
階層の女性たちが営んでいた閉塞的な社会生活のことを指している。ヴィスチェンゴフの
読者イメージにおいて、客間という一つの読書空間は、読物の娯楽性と女性の社会生活の
閉塞感を結び付けるのである。
19 世紀、中流階層の生活において、女性の行動範囲は家庭の中という狭い領域に限定さ
れる。女性たちは家事を使用人にあずけ、家に閉じこもって日々を過ごすという生活形態
を取るようになる。その結果、彼らは膨大な余暇時間を抱え込むことになる253。
中流階層の女性たちは、この膨大な余暇時間を娯楽で費やす。娯楽の営み方は中流階層
の女性たちの重要な教養となる。ヴィスチェンゴフは、中流階層の裕福な商人たちがどの
ような教育を娘たちに施したかを書いている。彼らは、娘たちにロシア語の読み書きとフ
ランス語、ダンスを教えこむ。多くの家庭でフランス語とダンスは最も重視された科目で
あった254。この教育は、娘たちに、家の中で娯楽を楽しみ、余暇を費やす方法を教えるも
のである。客間とは、中流階層における女性たちの社会的な位置づけを象徴的に示すトポ
スなのである。娯楽としての読書という身振りと中流階層の女性を結び付ける客間は、世
間から女性を隠す内部空間、閉塞的な空間として現れる。
公衆の読書は、家庭の親密な室内空間の内部に深く潜りこんでいく。女性たちが閉じこ
もって読書をする室内空間は、生活を活動と余暇に分け、余暇を閉塞的な娯楽の営みに費
やす中流階層の心性の比喩である。このような閉塞的で親密な内部空間は、19 世紀前半の
文学作品や絵画が読者を描くときに用いられるトポスとなる。
2.作品
2.作品に
作品に描かれる読者像
かれる読者像
風俗描写の潮流
以上のようにして、ジャーナリストたちの文章から 19 世紀前半の公衆読者のイメージを
割り出してきた。これらの読者イメージは、室内空間と結びつきながら同時代の作品や絵
画に現れる。
1840 年代に起こった出版界の変容に伴って、書物や作家といった出版産業の様々な要素
もまたその意味領域を変えていった。この新しい意味領域を生き始めた人々の中に、ドス
トエフスキイやネクラーソフの属するナチュラリナヤ・シコーラと呼ばれる作家集団がい
252Там
же, c.208.
253 ボウルビー,前掲書,P.107.
254Клейменова, Книжная Москва, c.209.
76
た。既に述べたように彼らの多くはビジネスマン的な性格を持ち、原稿料で生計を立てる
職業文士である。
彼らが 1840 年代に書いたのは都市を舞台にした小説やルポルタージュであった。彼らの
作品は都市の風俗描写を主軸としたものであり、カーによれば、彼らの作品は 1840 年代に
流行した人気のジャンルであったという255。このジャンルの読者たちは、小説の登場人物
と同じ都市の貧しい中流階層であり、公衆と呼ばれる人々であった。ナチュラリナヤ・シ
コーラの作家たちは、商業化する出版界が主要な読者層として依存していた公衆を、自分
の作品の読者として想定していたと考えられる。
ナチュラリナヤ・シコーラの作家たちの作品や同時代の絵画において、このような公衆
読者層が形象化されるようになる。例えば 1840 年代のドストエフスキイの作品には、中流
階層出身の読書家が登場人物としてよく現れる。絵画の分野では、この時代に画家たちが
室内の情景を好んで題材に使ったこともあって、室内で読書をする人のイメージが描かれ
るようになる。
これらの読者のイメージを分析することによって、出版活動をする人々が実際に抱いて
いた読者像がどのような修辞によって形象化されたかを考察したい。
分析対象とするのは、ドストエフスキイの『貧しき人々』に現れる読者像と、ソロカの
油彩画『オストロフク家の書斎』とフルツキイの油彩画『室内で』の読者像の三つである。
彼らの作品を題材に用いるのは彼らが共通して中流階層の読者を描いているからであり、
またナチュラリナヤ・シコーラの作家と風俗描写を好む画家は、同時代の表象文化におい
て近い関係を取り結んでいたからである。彼らは社会風俗の描写へ向かう同じ指向を共有
していた。このことについては、後に詳述する。
彼らの作品に現れる読者像は、ある共通の修辞法や特徴によって形象化されている。ナ
チュラリナヤ・シコーラと風俗画家たちは、1840 年代という時代の文化において地下でつ
ながっていたのだ。これらの読者像を分析することによって、読者像の背景に働いていた、
同時代の人々が共有する思考や感情、社会的心理的な態度の一端に触れることができるの
ではないだろうか。
『貧しき人々』の読者像―孤独な読書
ドストエフスキイのデビュー作『貧しき人々』256では、登場人物たちはほぼ同時代の文
学作品や実在の作家について頻繁に言及する。ある作家の原稿料に関する巷の噂話や、市
255
E・H・カー(松村達雄訳)『ドストエフスキー』
(筑摩書房,1975)P.39.
256
Leatherdarrow, Fedor Dostoevsky a reference guide, P.33.『貧しき人々』原題«Бедные
людь» は、1846 年 1 月 21 日ネクラーソフが出版した『ペテルブルグ文集』
(«Петербургский
сборник»)の P.1-166.に掲載されたドストエフスキイのデビュー作。
77
場の古本屋の情景なども描かれており、当時の読者たちが出版産業に向ける眼差しの一端
が窺えて非常に興味深い作品である。
『貧しき人々』に登場する読書家の代表として、ポクロフスキイ青年を取り上げる。ポ
クロフスキイという読者像は、読んだ書物に関する感想ばかりでなく読書の場所や、周り
の人間との関係、彼の読書の身振りそのものによって記述されているからである。
ポクロフスキイは自分が住んでいる部屋で読書をする。この部屋は、ポクロフスキイ以
外の人はめったに入ることのできない閉ざされた空間である。ポクロフスキイの読書空間
は、彼一人だけの孤独で閉塞的な空間なのである。
ポクロフスキイは自分の部屋で一日中読書をする。彼の読書が孤独なのは、物理的に隔
離された空間に身を置いているからであると同時に、そのことによって周りと完全にコ
ミュニケーションを絶っているからだ。ポクロフスキイの読書は、周りの世界からみずか
らを隔絶するというコミュニケーションを断ち切る身振りとして現れる。このコミュニ
ケーションの断絶は、個室という閉じた空間によって表現され、読書する空間は孤独にひ
とりの世界を生きる読書様態の比喩となる。ポクロフスキイの読書の様態は、トポスによっ
て記述されるのである。
『貧しき人々』においては、ポクロフスキイその人が書物の比喩で語られる。例えば仲
の悪いポクロフスキイとワルワーラが親密な関係に転じていくときの場面に、そのことは
はっきり現れる。
関係の変化は、ワルワーラがポクロフスキイの部屋に忍び込んで彼の本を一冊抜き取る
ところから始まる。ワルワーラがポクロフスキイの部屋に忍び込んだとき、以下の様な文
章が続く。
「長い本棚が五つ、壁に釘でとりつけられていました。机の上にも椅子の上にも、紙が
散らかっていました。本と紙!不思議な思いが頭に浮かんで、それと同時に私は何だか不
快な忌々しさにかられてしまいました。
(中略)彼は学問があるのに、私は愚かで、(中略)
本など読んだこともないのです。(中略)すぐに私は、彼の本を読んでしまうおうと決心し
ました。(中略)私は、彼の知っているすべてのことを勉強すれば、彼の友情にもっとふさ
わしい人間になれるだろうと思ったのです257。」
ポクロフスキイの部屋は本と紙に埋まり、その本と紙がワルワーラにポクロフスキイと
の距離を感じさせるのである。ワルワーラにとってびっしりと壁に並べられた散乱する紙
は、そのままポクロフスキイの世界の壁となる。それらの本を読むことはその壁を切り崩
し、みずからをポクロフスキイに近づけていくことを意味していた。
257Достоевский,
Ф. М., Полное собрание сочнений в тридцати томах, т.1. (Ленинград: Наука,
1972) с.35-36. «На стенах прибито было пять длинных полок с книгами. На столе и на стульях
лежали бумаги. Книга да бумаги! Меня посетила странная мысль, и вместе с тем какое-то
неприятное чувство досады овладело мною. …Он был учен, а я была глупа и …ничего не
читала, ни одной книги…я тут же решилась прочесть его книги, …я думала, что, научившись
всему, что он знал, буду достойнее его дружбы.»
78
その後ワルワーラは本を戻そうとして棚を壊してしまったところを、ちょうど部屋に
戻ってきたポクロフスキイに見つかる。ポクロフスキイの本は、壁から落ちて部屋中に転
がり落ちる258。ポクロフスキイが周りの世界との間に張り巡らした壁は本棚の崩壊ととも
に崩れ去り、ここからポクロフスキイとワルワーラとのコミュニケーションが始まるので
ある。この事件は、ポクロフスキイとワルワーラの間を一挙に近づけるきっかけとなった。
この事件の後、ポクロフスキイは頻繁にワルワーラに本を貸し、ワルワーラは誕生日にポ
クロフスキイに本を送る259。二人は本を介してつながりを持ち始め、本の世界を共有する
ことによって生活の中でつながりを持つのである。ポクロフスキイの読書の世界は彼の内
面の比喩であり、ポクロフスキイの読書世界に触れることはポクロフスキイの内面に触れ
ることを意味していた。
ポクロフスキイの父親であるポクロフスキイ老人は、ポクロフスキイの部屋を訪れるた
びにポクロフスキイの本に触ろうとする260。老人は、息子の本に触れることによって自分
がポクロフスキイの心に触れることができることを確かめ、自分と息子の親しさを確認し
ようとするのである。息子が心を開いているときは、老人は本を取り出し、ページをめく
ることができるが、息子の機嫌が悪いと、老人は本に触れることさえ許されない261。この
とき、本はポクロフスキイの内面世界の比喩となる。
この比喩を逆に読めば、本はポクロフスキイが自分の内面世界に没入するための装置と
して表現されていることが分かる。本を読むことによって、ポクロフスキイやワルワーラ
はそこに書かれた意味内容、すなわち虚構テクストに意識を集中させる262。彼らの意識は
完全に虚構テクスト中に入りこみ、虚構テクストの流れに沿って動いていく263。ワルワー
ラは手記の中で、読書によって開発された自分の空想癖について述べている264。この空想
は、ワルワーラを飲み込んでしまうほどに強烈な精神の活動であった。彼らの読書は虚構
テクストを肥大化させ、肥大化した空想は人間存在の多くを侵食してしまう。
ポクロフスキイとワルワーラは読書に没頭する。このようにして本を読んでいるときの
人間の意識は言葉が表象する時空へ半ば離脱し、椅子に腰掛け、書物を手で支えている自
分の身体は希薄化してしまうと松浦はいう265。身体は、読書の快楽や苦痛を感受しながら
も次第に希薄化していくのである。
意識を虚構テクストに集中させ、そのことによって身体を希薄化していく読者たちが書
物の中に見出すのは、自分の鏡像である。このような読書を極端なかたちで進めていくと
Полн. собр. соч., т.1., с.36. 訳大野。フョードル・ドストエフスキー(木村浩
訳)『貧しき人々』(新潮文庫,1994)P.62.を参考にした。
259Там же., с.40.
260Там же., с.35.
261Там же., с.34.
262 小森「物としての書物/書物としての物」P.32.
263 同書,P.33.
264Достоевский, Полн. собр. соч., т.1., с.39.
265 松浦寿輝『知の庭園―十九世紀パリの空間装置』
(筑摩書房,1998)P.14.
258Достоевский,
79
夢想家に行き着く。夢想家は、自分の内面世界で繰り広げられる空想に我を忘れてどっぷ
りと浸かる。彼らは、食事もろくにとらず明かりも満足につけず、限りなく身体性を希薄
化させていく。そしてただひたすらに孤独にみずからの鏡像を空想の中に捜し求め、みず
からを主人公にした虚構の世界を肥大化させていく。
書物に書かれたテクストの世界は、ポクロフスキイの内面世界と重なる。本を熱心に読
むことによって鏡像を見つめ続けるポクロフスキイの読書は、しかし象徴的なかたちで幕
を閉じる。ポクロフスキイの実体はどんどん希薄化し、鏡像は実体よりも濃くなっていき、
ついにポクロフスキイは身体を喪失するに至るのである266。ポクロフスキイは死に、その
後には本の山が残る。息子の心を本と重ねるポクロフスキイ老人は、この山のような本を
ポケットに詰め込んでポクロフスキイの遺体を載せた馬車を追う267。本という、実体を食
い尽くしたポクロフスキイの鏡像は、影が実体を追うようにして遺体を追うのである。
『オストロフク家の書斎』―室内への興味と読者像
次に 1840 年代の絵画に現れる読者のイメージを分析する。だがその前に、1840 年代の
文学と絵画の両分野における日常生活の情景描写の発展を概観しておこう。
絵画において生活の情景や風俗が題材となり、盛んに描かれるようになるのは、1840 年
代から 50 年代にかけてである。依然として「高尚な」歴史画が画壇の中枢を占めていたも
のの、一部の画家たちの間では日常生活の一場面や室内の情景が最も焦眉の題材として取
り上げられていた268。
同じ傾向は文学においても生じた。1840 年代に、生活の中の日常的で卑俗な出来事や平
凡な町の情景は中編小説、短編小説、ルポルタージュといった小さな散文ジャンルで注目
すべき役割を獲得するようになる269。それは例えば、ナチュラリナヤ・シコーラの作家た
ちの創作に現れる。生理学ものと呼ばれる町の日常的な情景を描いたオーチェルクや短編
小説を作家たちは盛んに書き、読者たちは熱心にそれらのジャンルを読む。ナチュラリナ
ヤ・シコーラをはじめとする風俗描写の潮流は『ペテルブルグの生理学』
『ペテルブルグ文
集』といった文集に結実する。未刊に終わったネクラーソフのアリマナフ『ズボスカール』
も、この流れに属する出版物である。
このような風俗描写を行う作家たちと画家たちは互いに交流を持っていた。第一章で既
に述べたが、例えば風俗描写の油彩画を多く残したフェドートフは、親友の版画家ベルナ
266Достоевский,
267Там
Полн. собр. соч., т.1., с.45.
же., с.45.
Т. В. «Развитие бытового жанра», История Русского Искусства, ред. Лазарев, В.
268Алексеева,
Н., Алексеева, Т. В., т.8, к.2, (Москва, Наука, 1964), с.231.
269Там
же, с.231.
80
ツキイを通じて 1845-49 年頃にペトラシェフスキイのサークルと関係していた270。この
サークルにはドストエフスキイも入っていた。ベルナツキイは、挿絵画家アーギンの絵を
版画にしてゴーゴリの『死せる魂』の挿絵用の版画を制作した版画家である271。絵画にお
いて風俗描写がこの時代に発達したのは、油彩画と文学作品の挿絵の二つのジャンルであ
る。ネクラーソフ、ゴンチャロフ、ドストエフスキイといった若い作家たちの書いた風俗
描写の中編、短編、ルポルタージュを載せた文学文集は挿絵を掲載し始め、絵にテクスト
をつけた特別の画集が刊行された。特にネクラーソフは、挿絵入りの出版物を多く世に送
り出し、ベリンスキイは若い写実派画家たちの活動を賞賛した272。ガガーリン、チム、アー
ギンといった挿絵画家たちが文学の風俗描写と協力しながら優れた挿絵を制作した273。
風俗描写は、1840 年代の文学、絵画の境界を越えた表象の世界における大きな動きだっ
たのである。風俗描写を行う際に文学においても絵画においても共通して題材となったの
が、室内の情景である。文学においては、生理学ものといわれる風俗描写のジャンルが発
達する。それは、都市空間や都市の生活の内部を人体の内部を解剖するようにして切り開
き、内部の情景を克明に記述するというものである274。
絵画の分野では、室内の情景を描いた画家の代表としてフェドートフを挙げることがで
きるだろう。
『少佐の求婚275』においてフェドートフは、室内の家具調度や家族と使用人の
挙動、衣装を克明に描いている。フェドートフは、室内のすべての人物と家具を正確に感
触できるまでに描くことに興味を集中させていた276。また他にも、中流階層や農民たちの
生活、室内、仕事の情景を描くことを専らとした画家の一派が活動を展開していた。画家
ヴェネツィアノフとその弟子たち、例えばソロカやフルツキイらの一派であった。
ジョン・ボウルトによると、これらの画家たちが描いた室内とは、特に中流か低い階層
のロシアの家庭内における日常的な生活が営まれる室内であったという。この室内への興
味は、画家や作家たちの対象への眼差しと表現方法の「内部化」の傾向と呼応していた。
フェドートフの『アンコール・アンコール!277』やドストエフスキイの 1840 年代の小説で
は、内部化した絵筆や言葉は個人の自我にまで降りていき、非常に私的で内面的な苦痛に
A・I・ゾートフ(石黒寛・濱田靖子訳)
『ロシア美術史』
(美術出版社,1976)P.301.
271 同書,P.298.
272 同書,P.298.
273 同書,P.298.
274Цейтлин, А. Г. Становление реализма в русской литературе (Русский физиологический
очерк) (Москва, Наука, 1965) с.99-100.
275Алешина, Л. С., Ракова, М. М., Горина, Т. Н., Русское искусство ⅩⅨ– начала ⅩⅩ века,
(Москва: Искусство, 1972)図版解説より。1848 年制作。 原題 «Сватовство майора»,トレチャ
コフ美術館所蔵。
276 ゾートフ,前掲書,P.300-301.
277Алешина, Л. С., Ракова, М. М., Горина, Т. Н., Русское искусство, 図版解説より。原題
270
«Анкор, еще анкор!» 1851 年制作。トレチャコフ美術館所蔵。
81
満ちた情景を描くのである278。
1840 年代において文学と絵画は、その表現方法の違いを超えて中流や低い階層の風俗や
日常生活を描こうという志向を共有していたのである。
このような風俗描写の流れに属していた画家ソロカ279は『オストロフク家の書斎280』と
いう絵画で地主屋敷の書斎で本を読む少年の像を描いている。この絵の中で主役になって
いるのはむしろ書斎の方であり、少年は家具の一部ででもあるかのように存在感が希薄で
ある。
この作品は、ヴェネツィアノフと一緒だった 2 年の歳月を経て生み出されたものである。
この部屋はソロカが実際に親しんだ部屋である281。視点は室内の入り口近くに据えられる。
手前には大きな机があり、その上には光沢のある黄色い骨製のそろばんやはさみ、黒いブ
ロンズ製の文鎮や書類が置かれている282。向かい側の壁には大きなガラス窓があり、窓際
には本の並んだ書棚がある。向かって右側の壁沿いに長い椅子が置いてあり、その椅子に
一人の少年が腰掛けて本を読みふけっている。
ソロカは、室内にある具体的な調度やその素材を再現することに興味を集中させている
かのように室内を描く283。むき出しで節だらけの壁板や床板、机の上においてある日常的
な道具類の質感、窓から射し込む柔らかい陽光のつくる微妙な陰翳、光沢のある家具の表
面に反射する光、ソファの上に坐った少年の本を読み、身動きしない姿などは、みずから
に集中した静かな生活の印象を作り出しているとアレクセーエフはいう284。ソロカがここ
で描こうとしたのは、平凡な現実の生活の形象であり書斎そのものである285。
この絵画は、したがって 1840 年代の作家や画家たちを捉えた風俗描写への志向を共有し
ている。この絵において室内は、内部への興味に満ちたソロカの眼差しで捉えられている
のだ。その眼差しは、読書をする少年を室内にある調度の一つであるかのように希薄な存
在感で描く。だが、この希薄な存在感は、自分の内部の世界に没入するような読書をする
1840 年代の読者の意識の状態と不可分である。
ソロカの描く少年の読書は、ポクロフスキイの読書と同質である。彼らは読書をすると
278
Bowlt, John E. «Russian Painting in the Nineteenth Century» Art and Culture in
Nineteenth-Century Russia, P.129.
279Алексеева,
«Развитие бытового жанра» с.248.及び、ゾートフ,前掲書,P.277.によると、
ソロカ Григорий Васильевич Сорока(1823-64)は農奴出身で、ヴェネツィアノフに師事し、
牧歌的な風景画を得意とする技量の優れた画家であった。しかし、主人である地主に絵を
禁じられ、悲劇的な生涯を送った。
280Алексеева, «Развитие бытового жанра» с.248. 原題«Кабинет в Островках» 1844 年制作。油
彩、キャンバス、ロシア美術館所蔵。
281Там же, с.248.
282Там же, с.248.
283Там же, с.248.
284Там же, с.249.
285Там же, с.250.
82
き、虚構の世界に意識を集中させ身体を希薄化させていく。この読書は、例えばフェドー
トフやドストエフスキイの作品が持つ、人間の意識の深部へ垂直に降りていこうとする傾
向と同じ心性を共有している。ソロカは、室内の内部を表現し、同時に人間の意識の内部
にまで降りていこうとする心性を室内の描写と読者のイメージの両方に表現したのである。
『室内で』植物、ガラス窓、読者
次に取り上げるのはフルツキイの描いた油彩画『室内で』286である。
フルツキイ287は、1830 年代から風俗画や静物画を描いていた画家である。彼の晩年の作
品『室内で』では、子供が二人部屋の窓際で静かに一冊の本を膝に広げて見入っている情
景が描かれている。この部屋のインテリアに注目しよう。部屋の内側の窓枠には蔦が伸び
ている。子供たちの後ろの壁には樹の鉢が幾つも置かれ、部屋の一角は植物で満たされて
いる。ガラスの大きな張り出し窓からは陽光が射し込み、子供たちを柔らかい光で包んで
いる。
フルツキイの描く子供たちの読書は、ソロカの描く子供と同じように静かに沈潜する読
書である。このような読書はあるトポスに支えられている。ソロカの読書の情景もフルツ
キイの絵も、どちらも大きな窓から射し込む柔らかい光の中に子供がぽつんと坐って本を
広げている情景である。ガラス窓と陽光は、空間に静けさと沈潜という意味を与える装置
となっている。特にフルツキイの描く読書空間は植物が部屋の一隅を占めている。これら
の植物は、大きなガラス窓とともにこの室内を温室の隠喩に変えている。
植物を室内に置き自然の生物を鑑賞用として室内に備え付けるという室内装飾は、フラ
ンスで 1840 年代に流行したものであるようだ288。ロシアにこの流行が入ってきたのは、お
そらく 40 年代であろう。この時期から地方の地主屋敷では、天井から床まで壁一面に広が
る大きなガラスの張り出し窓を作り、室内に南国産の植物の鉢を置くタイプのインテリア
が流行して作られるようになるのである。例えばモスクワ郊外にあるカチャノフの屋敷で
は、1830 年代から 40 年代にかけて非常に美しい温室のようなインテリアが作られたとい
う。それは壁一面が大きなガラスの張り出し窓になっており、窓枠はゴシック風の尖塔形
で、その窓枠には様々な色ガラスがはめ込まれていたという。床には敷物が敷き詰められ、
内部に植物の大きな鉢が置いてあった289。同じ屋敷には、熱帯植物を栽培していた冬園と
呼ばれる温室もあった290。
フルツキイの絵画において温室は、書物の世界の内部に没入するという読書をする人間
же, с.244. 原題«В комнате» 1854 年制作、トレチャコフ美術館所蔵。
Иван Трофимович Хруцкий,(1806- 55 以降)
288 小倉孝誠『19 世紀フランス光と闇の空間
挿絵入新聞『イリュストラシオン』にたどる』
(人文書院,1996)P.184.
286Там
287
289Каждан,
290Там
Т. П., Художественный Мир Русской Усадьбы (Москва, Традиция, 1997), c.196.
же, c.197.
83
の私的な行為と結びつく。温室は、家庭の室内に作られたとき、私的な生活圏の一部とな
る。繁茂する植物やガラス窓から入ってくる柔らかい陽光は、温室に敷かれた敷物や家具
の覆いなどとともに人間を柔らかく包みこむ。温室は、読書という形でみずからを外部か
ら隔離する行為と響きあう心理的な避難場所ともいうべきトポスとなるのである291。
フルツキイは、読者を温室という私的な室内に配置することによって、その読書が密や
かで私的な行為であることを表現するのである。
温室のトポロジー―親密な内部空間
温室は、内面世界に没入する読者のイメージと響きあう私的なトポスであった。温室と
いう空間が持つ親密なイメージは、ブリューロフの描いた『サルティコヴァ公爵夫人の肖
像292』によく現れている。カガノフによるとサルティコヴァ公爵夫人が坐っているのは、
ボロヒーニンの別荘の中である。夫人が坐っているのは植物の繁茂する屋内である。夫人
の周りには毛足の長い毛皮の敷物が置かれ、背の高い熱帯の異国情緒あふれる植物が生い
茂る。夫人はビロードの肱掛椅子に腰掛け、自分の衣装のサテンやショール、レースに包
まれている。カガノフは、肉体が布や植物の堆積にすっぽりと包まれ、埋まっているかの
ようだと表現する293。
このような空間表現は、1840 年代に特有のものであるとカガノフはいう。冷たい光沢の
あるアンピール風の家具はインテリアから排除され、その代わりにまんべんなく柔らかく、
表面に堅いところのない人間を包み込むかのような家具が現れた。ふかふかした張り生地、
毛羽のあるテーブルクロス、厚い絨毯などが音や光を吸収する。インテリアの中には、光
を反射するようないかなる硬く、輝くものもあってはならなかったのである。さらには壁
紙や絨毯の模様や飾りが増殖し、まるで室内そのものが巨大な花の中ででもあるかのよう
に作られていった。そして室内は、本物の植物に満ち溢れた294。
カガノフによれば、文学や絵画といった表象芸術がペテルブルグを描くときに用いた 1840
年代特有の空間表現は、人間の身体や心理を私的な内部空間に配置するものである。そし
て カ ガ ノ フ は 、 こ の 空 間 表 現 に ネ ク ラ ー ソ フ が 用 い た 「 秘 め ら れ た 内 部 (тайная
小倉,前掲書,P.200.
Г. З., Санкт-Петербург: образы пространства (Москва: Индрик, 1995) に収めら
れている論文«Тайная внутренность» с.113-130 で、カガノフは 40 年代の絵画や文学、建築
に現れたペテルブルグの表象の特徴について論じている。カガノフは分析にあたって、ナ
チュラリナヤ・シコーラや、油彩画、リトグラフ、挿絵など幅広い題材を用いる。その中
の一つがこの『サルティコヴァ公爵夫人の肖像』である。
『サルティコヴァ公爵夫人の肖像』
原題«Портрет княгини Е. П. Салтыкавой»は 1841 年制作。キャンバス、油彩、ロシア美術館
所蔵。
293Каганов, Санкт-Петербург,c.114-116.
294Там же,c.114-116.
291
292Каганов,
84
внутренность)」295という呼び名を与えるのだ。
秘められた内部は、物理的にも心理的にも内部の私的な空間である。このような空間表
現を盛んに行ったナチュラリナヤ・シコーラやフェドートフ、フルツキイ、ジュコフスキ
イといった画家たちは、室内や地下室などの都市の内部空間を描いた。それと同時に彼ら
は、人間の内面に深く食い込んでいこうとする言葉や表現を獲得し、心の内部をも描きだ
した。彼らの描く室内は人間の身体を柔らかく包みこむばかりでなく、読書という人間の
私的な精神活動そのものを包み込む空間だったのである。
読者のイメージが置かれる空間が温室の比喩で表現されているという点に再度注目した
い。温室は、鉄骨ガラス建築の走りであり、19 世紀半ば以降多く建造されるようになる鉄
骨ガラス建造物は、温室の設計技術を利用して作られている。
鉄骨ガラス建築の代表作品に、例えばクリスタル・パレスがある。これは、1851 年のロ
ンドンの産業博覧会の会場として鉄骨とガラスで作られた巨大建造物であった。このクリ
スタル・パレスは、均質空間の例としてしばしば取り上げられるものである。なぜならそ
れは、内部に仕切りのない巨大で空虚な空間を現出させる建物であり、いわば無限の空間
を任意に切り取った、空間の一断片を作り出すからである296。この特徴は、鉄骨ガラス建
築に共通するものである。
このように構造上果てしない空間を彷彿とさせるクリスタル・パレスは、同時に貨幣価
値が論理となり、すべての製品が貨幣によって一元化される商業空間の比喩でもある。ク
リスタル・パレスを会場とした工業製品を一堂に会して陳列する産業博覧会は、成長する
商業と生産力が社会に作り出す商品の世界の縮尺模型であり、商品の祭典であった297。ク
リスタル・パレスに代表される鉄骨ガラス建築は、百貨店や市場の空間を覆う。鉄骨ガラ
ス建築は、商業の発展に伴って成長する均質空間を象徴するトポスとなるのである。
このような鉄骨ガラス建築のロシアにおける代表例として、ペテルブルグのパサージュ
298が挙げられる。パサージュの空間もまた産業化の中で空間の実用性と巨大さを追求した
ものであり、産業や商業の発達と不可分の建築物であった299。
また温室は、1840 年代の文学や絵画が題材に取り上げ、次々に描いては肥大化させてい
же,c.113.及び c.130.によると、ネクラーソフは、
『ペテルブルグの片隅』原題
«Петербургские углы»でこの言葉を使っているようである。
296 土居,前掲書,P.104.
297 多木『
「もの」の詩学』P.141.
298 Пассаж
ペテルブルグのパサージュは、1846 年から 48 年にかけて、Эссен
Сенибок-Фермор 伯爵が建設した。建築家は Желязевич, Р. А.。ネフスキー大通りに面した、
ガラス張りの屋根に覆われた三階建ての建物で、内部には 64 の高価な衣料品、装飾品など
の贅沢品を商う商店が入っていた。また、カフェやレストランがあり、「解剖学博物館」等
の見世物小屋、パノラマ、ジオラマがあった。コンサートホールもあり、しばしばコンサー
トや講演会が催された。Санкт-Петербург, Петроград, Ленинград: энциклопедический
справочник, гл. ред. Пиотровский, Б. Б. (Большая российская энциклопедия, 1992) с.470-471.
299 松浦寿輝『エッフェル塔試論』
(筑摩書房,1995)P.14.
295Там
85
く人間の内面世界とその内部性の比喩でもあった。人間の精神には内部があり、それを描
きだすことができるという幻想を抱いた 19 世紀の芸術は、人間の内部世界という実体のな
い世界を果てしなく膨張させていく。第四章で詳述することとなるが、この膨張する内面
世界もまた、前章で述べたように一元的・均質的な尺度としての芸術性と同じ論理の中で
生み出されたものである。読者像に濃厚に表れる内部世界は、温室の作り出す巨大内部空
間と重なる。このイメージの重なりを手がかりに、内部世界を均質空間の比喩によって捉
えることにしよう。
産業の発達とともに現れた均質空間の一つとしての温室は、同時に、芸術の集団的な想
像力が作り出した人間の内部世界というもう一つの均質空間でもあったのだ。商業化する
出版界においてジャーナリストたちが作り上げた公衆という読者像は、家庭の室内という
内部の空間で娯楽として読書を楽しみ、同時に小説という虚構の世界にのめりこみ、自分
の内面世界を広げていく人々というものであった。彼らは、産業化が進むと同時に芸術が
生まれた 19 世紀前半という時代に成長しつつあった均質空間の比喩によって読者像を組み
立てていたのである。
86
第Ⅳ 章
1.40 年代の
年代の社会と
社会と生理学ジャンル
生理学ジャンル
生理学ジャンルの流行
40 年代のロシアにおいて、生理学的ルポルタージュ (физиологический очерк) という
ジャンルが盛んに書かれるようになる。ツェイトリンによると、10 年間(1839-48)に出
た生理学的ルポルタージュは 700 以上。雑誌の中には、生理学的ルポルタージュを載せる
ために特別に風俗描写部門を設けたものさえあったという。生理学的ルポルタージュを手
がけた作家群を見てみよう。例えばバシュツキイ、グリゴローヴィチ、ダーリ、ココレフ、
パナーエフ、ブルガーリン、ヴィスチェンゴフ、ココレフ、ネクラーソフがいる300。彼ら
は互いに異なる傾向を持ち、世代も異なる人々であった。にもかかわらず、彼らは揃って
同じジャンルを同じ方向性のもとで書いているのである。
生理学的ルポルタージュというのは、単にあるグループの作家たちの間で散発的に好ま
れた文学現象ではなかった。生理学的ルポルタージュは文壇を広く席捲した流行ジャンル
だったのだ。しかしそれだけではない。生理学的ルポルタージュを出自に遡って探ってみ
れば、これは文壇を越え、国境を越えて、19 世紀前半のヨーロッパで広く共有されていた
知の文化体系にまで行き着いてしまうほどの広がりと奥行きを持つジャンルなのである。
では、その知の文化体系とはどのようなものだったのか。それをこれから考えていこう。
このとき用いる題材は、文学作品に限らない。生理学的ルポルタージュを社会的な現象の
一つとして捉える以上、これは他の社会的な現象、例えば出版界の商業化や版画の増加、
科学の流行と同じ社会空間の中に置き直されなくてはならない。
生理学的ルポルタージュ、書物の大衆化、読書の制度などを、文学や経済といったそれ
ぞれが属している分野から一旦切り離して同じ時代の文化的空間の中に置き直したとき、
それまで見えなかった相互のつながりが見えるようになるだろう301。生理学的ルポルター
ジュが、40 年代ロシアの社会の中で出版界の商業化や読者イメージの変容と地下でどうつ
ながっていたのかを考察する。そして、生理学的ルポルタージュ流行の背景で人々をこれ
ほどまでに突き動かしていた欲望や心性に迫りたい。
生理学ジャンルに現れた分析への情熱
生理学的ルポルタージュが行ったのは都市生活の分析であった。生理学的ルポルター
ジュは、その名の通り生理学の方法を用いて都市を認識し、分析し、解明しようとするも
300Цейтлин,
301
А. Г. Становление реализма, с.98.
多木『比喩としての世界』P.137.
87
のである。ロシアで 40 年代にはやった生理学的ルポルタージュは、フランスでバルザック
らが盛んに書いていた風俗スケッチを模倣したジャンルである。ロシアの作家たちは 30 年
代からロシアによく出まわっていたパリを題材にしたフランスの風俗スケッチを読み、ス
ケッチの方法や用語など多面に渡って大きな影響を受けながら、ロシア語の生理学的ルポ
ルタージュを生産していたのだ302。
しかしツェイトリンによれば、生理学という用語は当時の作家たちによって借用されて
終わったわけではなく、むしろ市民権を得てさまざまなところで使われ始めたという303。
40 年代のロシアで生理学という用語が広まり、生理学的ルポルタージュが流行し始めたの
は、単にフランスの流行のあおりを受けたからというだけではなかった。この時代のロシ
ア社会に生理学的ルポルタージュを要請する何らかの文化的な土壌があったのだ。では、
生理学的ルポルタージュを開花させたその文化的な土壌とはどのようなものだったのだろ
うか。
40 年代は、社会を分析しようという志向が高まった時代だった。ツェイトリンは、キリー
ロフの『外国語ポケット辞典』に V.マイコフが載せた「分析と総合」という項目を引いて
いる。それによると、40 年代にマイコフが分析という言葉に与えていた意味は以下のよう
なものであった。すなわち、社会を研究し、社会の傷や病気を認識し、それらを治療する
手段を見出すことを可能にする知性(理性)の働きである。分析によって人間の生活や愛
などの感情を害する様々な愚かな考え、あるいは社会の矛盾は破壊され、これらから人間
を解放する304。
ツェイトリンはこのマイコフの文章に言及してこう述べる。「キリーロフの『外国語ポ
ケット辞典』の中のマイコフの『分析と総合』と言う論文の中のこの言葉は、まさしく、
現実をその構成部分に『分け』
、社会やその『傷や病気』のあらゆる側面を研究しようとす
る『時代の徴候』であった。305」と。40 年代というのは分析の精神みなぎる時代だったの
である。
この 40 年代の分析の精神に方法を与えたのが自然科学であった。19 世紀の初期まで支配
的だったのは、体系化された理論を柱にして統一的な世界を組み立てていく古典主義的な
世界の認識の仕方である。しかし、自然科学はそれまでの古典主義的な思考法に代わって、
分節化された世界を理論と経験に基づいて認識する思考法をロシアの知識人にもたらした。
ベリンスキイはこう述べている。「抽象的な理論、アプリオリの体系、システムへの信頼は
日に日に失われ、事実の認識における実践的で基本的な傾向に場を譲った306」
。
科学は当時の知識人にとって大きな可能性であり、希望だった。科学によってそれまで
存在し得なかった知の領域が次々と開けていったのだから。ゲルツェンはこの時代の学問
302Цейтлин,
Становление реализма,с.31.
же,с.98.
304Там же,с.99.
305Там же,с.99.
306Там же,с.99-100.
303Там
88
の成果をたたえてこう言った。
「前世紀の終わりには夢にも見られなかったことが、我々の
目の前で完遂されようとしている。有機生化学、地理学、古生物学、比較解剖学が我々の
世紀に小さなつぼみから巨大な枝へと開け、最も大胆な希望を越える収穫をもたらした307」
と。科学的な思考法はあらゆる局面で知の可能性そのものとなったのである。科学的な思
考は社会に向かう分析の精神と結びついて、ロシアの知の領域を覆っていった。
ロシアの 40 年代は社会に向かう分析熱が高まり、自然科学の方法がその情熱に形を与え
た時代であった。自然科学の一つである生理学が入ってきたのはこのような時代の文化
だったのだ。生理学はロシアの人々を捉えていた社会分析への欲望に方法を与え、生理学
的ルポルタージュはその欲望を実現する場となった。作家も読者公衆も生理学的ルポル
タージュに関心を集中させ、社会を解剖しようと試みた。
40 年代に生理学的ルポルタージュは、文学の枠に収まらない社会的な人気を獲得した。
「生理学」という用語は読者の関心を捉えるキーワードとなった。ツェイトリンは優れた
作家たちばかりでなく、公衆読者の需要を満たすことを第一とする群小ジャーナリストた
ちまでがこぞって生理学的ジャンルを書き始めたという308。まるで生理学という名を冠し
てさえいれば、読者公衆の興味を惹くことができるかのように。
確かに、生理学を受容したのは、科学の思考法と社会を分析しようという情熱を併せ持っ
た 1840 年代の文化だった。しかし、生理学の方法を実際の生理学が扱う対象から取り外し
てジャーナリスティックな文学に移植した時点で、生理学という用語はジャーナリズムを
場とした新しいレトリックを帯び始める。言い換えれば、生理学という用語はそもそもバ
ルザックとその模倣者によって風俗スケッチの方法に転用された時点で自然科学の生理学
が持っていた意味をあっさりと越え、ジャーナリズムによる濫用の只中に落ち込んでいっ
たのだ。生理学という用語はあらゆる物に似非自然科学的な分析を施す文法そのものとし
て使われるようになった。
ツェイトリンがいう優れた作家と群小ジャーナリストを区別することにあまり意味はな
い。というのも、どちらももともと自然科学の領域で使われていた「生理学」という用語
を濫用している点では同じだからだ。片や風俗の克明な描写と社会の内部の分析方法の隠
喩として生理学という言葉を使い、片やパロディ記事のネタとして生理学という言葉を使
う。そこに本質的な違いはない。両者にとって生理学というのは等しく対象に肉体の比喩
を与え、科学的な用語によって分析を加え、何らかの解明すべき内部を描き出すためのレ
トリックにほかならないのである。
いずれにしても 40 年代に生理学は多くの読者の人気を得て、盛んに生産される流行ジャ
ンルとなったのだ。ツェイトリンによると、
『文学新聞 (Литературная газета)』は、ユーモ
ラスな内容の短い覚え書きばかりを集めた論評欄「万華鏡(Калейдоскоп)」に「鼻の生理
学」「女性美の生理学」などを載せたという。ツェイトリンの引用するところでは、「鼻の
307Там
308Там
же,с.100.
же,с.102.
89
生理学」は「鼻が顔の真ん中にあれば、間違いなく合法則的だ。この嗅覚器官が我々の精
神の鏡である我々の本質の中心でなかったなら、鼻はどこか別のところに配置されていた
だろう309」という文章であった。これは生理学的な方法のパロディであり、ただの素朴な
冗談である。このように小さなユーモア記事までが「生理学」という名を冠する状況が、
ロシア 40 年代におけるこのジャンルの人気を証明しているとツェイトリンは言う310。
ナチュラリナヤ・シコーラでの開花
生理学はジャーナリズムの広い領域に渡って人気を獲得した流行だった。それが 40 年代
のロシア社会に充満する社会分析への情熱と科学的思考への期待を背景としていたことは、
既に説明した通りである。しかし、社会的現象としての生理学的ルポルタージュを社会の
更なる深層において捉えるためには、対象とするルポルタージュをジャーナリズム全体に
拡散した広い領域においてではなく、より狭い領域に絞り込む必要がある。そこで、ナチュ
ラリナヤ・シコーラを第四章の題材として設定したい。
ナチュラリナヤ・シコーラは、当時のロシアの中で最も体系的に生理学的ルポルタージュ
を作り上げた作家たちのグループである。ナチュラリナヤ・シコーラの中には既に作家と
して著名になっていたダーリ、パナーエフ、ブトコフらがいたのだが、活動の中心にいた
のは 1840 年代にようやく散文の領域に参加し始めた若い作家たちであった。そのメンバー
をみれば、後に人気作家に成長するネクラーソフ、ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、ドスト
エフスキイ、グリゴローヴィチやゲルツェンというそうそうたる顔ぶれである311。ナチュ
ラリナヤ・シコーラは、ベリンスキイを強力な纏め役として多くの生理学的ルポルタージュ
を生み出していった。
ナチュラリナヤ・シコーラは、一つのアリマナフにその成果を結実させる。
『ペテルブル
グの生理学 (Физиолокия Петербурга)』である。これは、ロシア 40 年代の生理学的ルポル
タージュの一つの到達点というべき書物であった。
『ペテルブルグの生理学』は、ベリンス
キイやゲルツェンらの理論を足場として都市を科学的に解明し分析しようとする当時の知
的欲求を典型的なかたちで示しており、この時代の社会全体に拡散していた文化体系に対
するもっと密度の高い一種のメタ・テキストとなっているように思われるのだ312。
観相学の転用―科学の通俗化
ナチュラリナヤ・シコーラの作家たちが生理学的ルポルタージュを書くにあたってまず
309Там
же,с.103.
же,с.103.
311Кулешов, В. И., «Знаменитый Альманах Некрасова», Литературные Памятники
Физиология Петербурга, ред. Гришунин, А. Л., (Москва: Наука, 1991) с.217-218.
312 多木『
「もの」の詩学』P.3.
310Там
90
手本としたのが、フランスの作家バルザックの生理学的スケッチであった。バルザックは
生理学的スケッチの発祥の地フランスにおいて、この生理学的な風俗描写の第一人者で
あった313。生理学的な風俗描写の作法はほとんどすべてバルザックに負っているといって
過言ではない。
バルザックが開発した風俗描写の方法の一つが観相学である。これは生理学的な思考法
と緊密に絡み合いながら生理学的ルポルタージュを成り立たせている重要な方法である。
では、観相学とは一体どのようなものなのか。
観相学とは、内面の性格の特徴は外面の肉体や造作の特徴とつながりがあるという前提
に立ってする、肉体的記号の解釈のことである314。観相学は古くはアリストテレスに遡る
言説なのであるが、19 世紀のフランスをはじめとするヨーロッパ諸国で観相学が流行する
きっかけとなったのは、18 世紀後半にラファーターが発表した『観相学断片』
(1775-78)
という論文であった315。この論文は、19 世紀の初頭に仏訳が出るやたちまちパリの人々の
支持を得て、19 世紀フランス文化の一部となる観相術的な記号解読の伝統を確立させたの
である316。
ジュディス・ウェクスラーは、19 世紀パリの観相学とカリカチュアを論じた著書『人間
喜劇』の中で、観相学が風俗描写の根本的な方法となっていたことについて論じている。
19 世紀の生理学的風俗描写は、パリの人々をその職業などにしたがって分類する。その際、
当時のパリが激しい変動を経験し、地方から大勢の人が移り住んできた流動的な都市で
あったことは重要な意味を持っていた。パリは見知らぬ人同士が共存する都市というイ
メージを獲得しつつあった。パリの風俗を描く人々は、作家であれ、戯画家であれ、
「性格
や出自を直接言ってしまうのではなくて、まるで人々が一人の見知らぬ人(エトランゼ)
の目から見られたもののように(つまりは、戯画化の目を通して)〈外側から〉描写すると
いう方法を典型的に駆使してみせた317」のである。彼らは外側からの描写を重ねることに
よってパリ人の類型を作り出し、その類型を集積させることによってパリの現代生活のイ
メージを作り上げていった318。
人々の特徴を外側から描き出し類型化していくための方法として盛んに使われたのが、
観相学のコードである。観相学は、豊富な図解を使いながら鼻や額の形、顔全体の造作な
どの肉体的な記号にしたがって人間を性格―類型に分類するものだった。ラファーターが
313
E. R. クルティウス(大矢タカヤス監修,小竹澄栄訳)
『バルザック論』(みすず書房,
1990)P.136.
314
ジュディス・ウェクスラー(高山宏訳)
『人間喜劇 十九世紀パリの観相術とカリカチュ
ア』(ありな書房,1987)P.25.
同書,P.49.
316 同書,P.25.
317 同書,P.21.
318 同書,P.21.
315
91
観相学を展開するにあたって前提としたことは「肉体的な外見と道徳的な性格には照応関
係がある319」ということであった。例えばラファーターは人間のある容貌がある動物に似
ているところから、その容貌を動物になぞらえて類型化し、その上でその人間の性格を似
ている動物のアナロジーによって解釈する。人間の内面は外面の類型によって解読され、
類型化されるのである。ラファーターの観相学は「人間の外面と内面の照応、可視の表層
と不可視の内面の照応をめぐる学なり知320」の一つだったのだ。
ラファーターの観相学は生得の肉体的特徴の類型化と解読に注意を向けたものだった。
生理学的スケッチを行ったバルザックは、この観相学の方法を人間の挙動や振る舞い、服
装といった社会的・外面的な特徴を類型化し、解読する方法として転用した。風俗描写の
作家の興味は肉体的な特徴ではなく、あくまで人間の社会的な側面の方を向いていたのだ。
とはいっても両者の間の認識法は共通している。類型化する手だてが肉体的特徴であろう
と、社会的な特徴であろうと、外面的な特徴に内面の現われを見るという思考の筋道は同
じであった。
生理学ものは、18 世紀の博物学の文法を冗談交じりに取り入れて人間の一類型を生物の
分類学のように描き出す形式を持っていた。
「例えば、
『学生の生理学』は、滑稽味をねらっ
て『学生』という種の種類と振る舞いを蝶々の種を説明する博物学者の口吻を思い出させ
ずには置かない形式で描き出してみせた321」。
生理学ものは、服装や挙動などの社会的な要素から人間を類型化して記述するものだっ
た。生理学において、ラファーターが定式化したような顔の造作と内面を結び付けるコー
ドは、振る舞いや服装とその人間の社会的属性を結び付けるコードに作り替えられる。そ
のコードにしたがって人間は社会的属性の様々なステロタイプに分類される。例えば人々
の歩き方、物腰、住んでいる環境、人々の衣装、食物、行く所、行く劇場、行くカフェ、
野心、そして人々のする妥協などが、分類の材料となる社会的な要素である。生理学物は、
これらの要素について定式化されたコードにしたがって記述と図解を加えるのだ322。それ
によって割り出されるのは、例えば職業や社会的属性を指標としたステロタイプである。
その中には、医者、法律家、投資家、軍人、旅行者、学生、詩人、音楽家、既婚男子、盗
人、洋服屋、妾、労働者、ブルジョワ323があった324。
同書,P.40.
同書,P.40.
321 同書,P.26.
322 同書,P.56.
323 同書,P.56.
324 同書,P.47.には、バルザックの描いたステロタイプの一例として小商人の描写が載って
いる。孫引きになるが、参考までに引用する。
「新聞からそっくり受け売りの愛国精神を持っ
ていて(中略)二日に一度、オペラ座で何らかの役割を果たそうとして、幸福感、悲嘆、
哀れみ、驚嘆を演技するのに、型通りの大声をあげたり、あるいはだんまりを決めたりす
るのにいつだって長けた人物なのだ。(中略)小売商人の次男坊は、何とか公務員になろう
とすることが多い。」
(『黄金の眼の娘』(La Fille aux yeux d’ or)より)
319
320
92
バルザックは、生理学的風俗描写によってパリの人々の新しい類型を次々と生み出して
いった。これらの類型はその後パリを舞台として書かれる小説の中に登場することになる。
バルザックの作り出した数々のステロタイプはバルザックの文章から抜け出て一人歩きを
始め、パリの新しいイメージを作り出す重要な道具立てとなったのだ。
ステロタイプが都市の住人の表象として定着したことは、ステロタイプを表現するため
の記号が定着したことを意味していた。観相術や風俗描写が持っているコードは、人間の
容貌や挙動といった外側の記号から出発して内的な特性の把握に到達するものであった。
ステロタイプが一人歩きを始めると、今度はそのコードを逆向きに利用した描写法が使わ
れるようになる。つまりある気質や社会的属性といった内的な特性から出発して、それを
表現するための記号を定式化するのである。そのため、内的な特性を描写するときにはそ
れらの記号をコード通りに使えばよいということになる。
こうしてバルザックの作り上げたステロタイプは、風俗描写や小説のジャンルで再生産
されるようになる。現実の激しい変化の只中にあって流動的にならざるを得ないパリのイ
メージは、ある程度固定化したステロタイプを構成単位とすることによって一応の固定化
をみるのである。このことはバルザックを始めとして 1830 年代にパリを表現しようとして
いた人々が目指していたことであった。
19 世紀の前半にパリは、中世都市から 19 世紀都市文化の中枢への劇的な変化を体験し
た。人口は膨れ上がり、パリは産業化とともに目覚ましい成長を遂げつつあった325。この
時期にパリの人々は、見知らぬもの同士が行き交い、次々に壊されては建て替えられてい
く流動的な都市の中で、都市を都市に住む者たちにとって了解可能なものにしようという
欲望に突き動かされていた。この欲望は 30 年代あたりから 1840 年代まで間断なく出版さ
れたパリの風景画集や、パリ風俗を描いた生理学ものの氾濫にはっきりと現れている。作
家やジャーナリスト、カリカチュアを含む風俗画家たちといったパリの表象を担っていた
人々は「『外側から』なされた人々の描写を、すなわち目に見える肉体的なものを、階級、
職業、性格そして生活環境を解く鍵と見なすパリ人たちに特徴的な強迫観念326」を形にし
たのである。
このように生理学的な風俗描写は観相学から導き出した方法によって成り立っていた。
観相学はラファーターの『観相学断片』の翻訳とともに広まり、19 世紀にドイツ、フラン
ス、ロシアなどの広い地域に渡って流行した327。
同書,P.44.
同書,P.21-22.
327 同書,P.39-40.
ウェクスラーは、ラファーターのこの論文の広まりと需要を以下のよ
うに書いている。「ラファーターの観相学研究はまずドイツで、一七七五年から一八〇三年
の間に『人を知らしめ、もって愛さしめるを目的とせる観相術論考』という訳題の下、仏
訳を験し、さらに一八〇六年から一八〇九年にはモロー・ド・ラ・サルト博士の編集で、
詳注と図解夥しい四巻本の仏訳もみ、こちらはもっと人気を得、大成功をおさめた。こち
らの訳の題は、
『顔によって人を知る法』といって、1820 年には実に十巻本の再版をみた」
。
325
326
93
巽孝之によると、同じ 1840 年代にアメリカでは骨相学というものが流行っていた。骨相
学というのは、頭蓋骨の形によってその人間の内面性を分析しようというものであり、観
相学と同じく外的な記号から内面へ到達しようとする思考法を基盤にしていた。そのほか
に筆跡から人間の内面性を分析しようとする言説もあったらしい。これらの言説は現在で
は疑似科学と呼ばれ信憑性を失っているが、当時は「いまだ確固たる裏付けこそないけれ
どもだからこそ新鮮な印象を与える最新流行科学の類として328」人気を博していた。生理
学的な風俗描写は、観相学という観点から見た場合、様々な疑似科学が流行していた時代
の文脈の中に位置づけられるのである。
流行の背景にあった商業出版
これらの疑似科学がそれほど流行したのはなぜなのか。それは、疑似科学が公衆と呼ば
れる人々を読者とし、商業出版と分かちがたく絡み合っていたからである。巽によれば、
デイヴィット・レナルズの『アメリカン・ルネッサンスの地層』
(1987)には 19 世紀のア
メリカにおけるセンセーショナルジャーナリズムの文脈が克明に記されている。そしてこ
の本では、冒険小説や犯罪小説、ポルノ小説などと並んでこの頃公衆読者に人気のあった
疑似科学が、煽情的ジャーナリズムに分類されているという329。観相学、骨相学といった
疑似科学は一見科学的かつ客観的な方法によって人間自身にとって不可視の領域である自
己の内面性を描き出す。いわば疑似科学は、人々の自己言及への欲求を満たしてくれる言
説なのである。そして当時まだ目新しかった科学的な手続きがこれら疑似科学の人気に拍
車をかけた。読者たちは、疑似科学がこのように新奇な気分を与えてくれればこそこれを
好んで読んだのだ330。
疑似科学のように新奇で、読者にインパクトを与えることのできる著作が、商業出版に
おいては高い商品価値を持っていた。観相学、骨相学をはじめ、動物磁気説や催眠術など
の 19 世紀前半に流行した疑似科学は、19 世紀前半の欧米(フランス、ドイツ、イギリス、
アメリカ、ロシア)の商業出版界において一様に売れ筋の商品だったのである331。
生理学的な風俗描写は、このような疑似科学の一つである観相学を方法として使った
ジャンルであった。生理学的な風俗描写の人気の高さや発行量の多さは、疑似科学の流行
という広範囲に渡る時代の文脈の中にあったのである。生理学的な風俗描写は、疑似科学
と同じく全ヨーロッパ的な広がりを持つ文化の中にあったことが分る。
次に、ロシアの生理学的ルポルタージュを 40 年代のロシアの社会において捉えることに
328
329
330
331
巽孝之『E. A. ポウを読む』(岩波書店,1995)P.109.
同書,P.108-109.
同書,P.109.
マリア・タタール(鈴木晶訳)
『異貌の 19 世紀 魔の眼に魅されて』
(国書刊行会,1994)
P.49.
94
しよう。まず、ロシアの生理学的ルポルタージュをロシアの 1840 年代の出版産業に位置づ
けて、このジャンルの商品性を考えるところから始めたい。
クレイメノヴァは、ロシアの 19 世紀前半に出版された文学作品を概括してこういう。
「文
学(全出版物の約 32%)のほとんど半分は小説であった。最も熱心な客たちは、本屋で『恐
怖』小説、『滑稽』小説、『感傷的な』小説、『風刺的』『道徳的』な小説を買っていた332」。
これらはみな、先ほど疑似科学の箇所で触れた煽情的な文学ジャンルとして括ることがで
きるであろう。このような種類の小説がロシア 19 世紀前半の出版界の主要な商品だったの
である。
19 世紀前半のロシアの読者は奇妙で目新しい作品や感傷的な作品に対して並々ならぬ熱
意を示し、ロシアの作家の書いた小説では満足しないほどだった333。読者に人気があった
のはイギリス、フランス、ドイツの煽情的小説であり、それらの翻訳の需要は非常に高かっ
たという。最も頻繁に翻訳されていたのはマダム・ジャンリクやコッタン、ラドクリフ、
デュクレ・デュメニユ、コツェブ、ラフォンテーヌであった334。カーによればゴシックロ
マンスが大いに流行したらしく、特にアン・ラドクリフ、ルイス、マチューリン、ホフマ
ンは、40 年代のロシアの読者の圧倒的な支持を集めていた335。
ベリンスキイは「テレサ・ジュノイエ «Тереза Дюнойе. Роман Евгения Сю.»」という論文
の中で同時代のロシアで人気のある作家を取り上げ、その作品の魅力を解説している。「善
良なるドイツ人ラフォンテーヌは、ドイツ人好みの家庭的幸福の商人の甘ったるい情景を
作品の中で描き、感じやすい心を魅了する。フランス人のデュクレ・デュメニユは、子供
についての物語を語る。その子供たちは生まれが謎に包まれていて、後に幸福にも最も大
切な両親を見つける。そして裕福で幸福になるのである。イギリス人アン・ラドクリフは、
作中の死人や幽霊の描写で読者を脅かす。それらの死者は、非常に自然に城の中での秘密
の足音やドアといったかたちで表現される336」。
ベリンスキイの論文からもこの時代のロシアにおいて煽情的な小説がいかに人気だった
かが読み取れる。
これらの作家は、前章で書いたブルガーリンの読者分類において中流階層の「公衆」と
いわれる読者たちの好む作家と大体一致している。ロシアではベリンスキイやブルガーリ
ンが活動していた 1830 年代から 40 年代にかけて、これらの煽情的な、感傷小説、冒険小
説、怪奇小説の類が好まれていたのである。
またカーは、1840 年代に人気のあった文学ジャンルを三つ挙げている。その三つとは、
フランスの感傷小説とドイツとイギリスの怪奇小説、そしてゴーゴリが創始した自然主義
332Клейменова,
Книжная Москва, c.39.
же, c.39.
334Там же, c.39.
335カー,前掲書,P.39-40.
336 Белинский, В. Г., «Тереза Дюнойе. Роман Евгения Сю.» Полное собрание сочнений, гл. ред.
Бельчиков, Н. Ф., т.10. (Москва: Академии Наук СССР, 1956) с.104.
333Там
95
的小説である337。
カーによるとこの三つが主要な人気ジャンルだったということだが、いわゆる自然主義
的な小説は、感傷小説と怪奇小説の要素を取り入れた折衷的な内容を持っていたという。
この種の小説の舞台は同時代のロシアであり、同時代の風俗が克明に描き込まれているの
だが、ゴーゴリの『外套』やドストエフスキイの『貧しき人々』
『二重人格』などは感傷小
説や怪奇小説の流れをくむものといえよう。
ゴーゴリやバルザックの風俗描写の模倣を盛んに行ったナチュラリナヤ・シコーラの生
理学的ルポルタージュは、カーが言うところの感傷小説、怪奇小説の流れをくんだ自然主
義的小説に分類することができる。これらの生理学的な著作は、観相学という疑似科学を
取り込みながら、同時に当時ロシアの公衆に人気のあった煽情的小説の要素も盛り込んだ
当時としては、かなり商品性の高い出版物だったのだ。
19 世紀前半に流行した恐怖小説、滑稽小説、感傷的な小説を載せていた冊子の特徴をク
レイメノヴァは以下のように記述している。
「そういった小説は、優雅な小冊子であり、八
折り本、小さなフォーマット、内容は 200 から 250 ページ程度で、美しい表紙、本の最初
か最後には出会いや、別れ、祈りの場面を描いた銅版画がついていた338」。これが、中流階
層のいわゆる公衆を読者として想定し、公衆が買うことを期待した書物の形式であったこ
とは第一章で既に述べた。
生理学的ルポルタージュのジャンルもまた、商業出版においては恐怖小説などと並んで
公衆を対象とした人気商品であった。この公衆向けの商品という生理学的ルポルタージュ
の属性は、生理学的ルポルタージュを掲載した書物の形式にも現れた。ナチュラリナヤ・
シコーラに属していたメンバーはネクラーソフとベリンスキイを中心としてアリマナフを
何度か出版しているが、それらのアリマナフの物質的な側面には中流階層向けであること
を示した記号が刻印されている。第一章で既に述べたことなので詳述はしないが、内容の
みならず装丁、版型、挿絵などの書物の形式の面からも、生理学的ルポルタージュが裕福
な中流階層の娯楽のために書かれていたことを推測することができるのだ。
ウェクスラーによると、生理学的風俗描写の発祥の地フランスにおいても生理学ものは
中流階層向けのジャンルとして出版されていた。フランスにおいて生理学ものの多くは日
刊紙の『シャリヴァリ』に連載された後に単行本化されており、その単行本は「一冊一フ
ラン、廉価かつ小体で持ち運びが楽339」というプチ・ブル向けの体裁をとっていたという。
また内容の面でも、バルザックの小説や風俗描写でよく引き合いに出されるのはパリの中
でも小投資家や小商人の住んでいた通りである。バルザックの描き出す人物たちはブル
ジョワジーの階層を登っていく340。生理学的風俗描写で描かれたのはパリ全体ではなく、
337
カー,前掲書,P.40.
Книжная Москва, c.39.
ウェクスラー,前掲書,P.55.
同書,P.44.
338Клейменова,
339
340
96
ブルジョワジーのパリだったのだ。
ネクラーソフは『ペテルブルグの生理学』の広告文の中で、これらのパリの生理学的風
俗描写がいかにパリの人々に人気があるか、いかにペテルブルグにおいても人気があるか
ということを述べる。
「しかし、我々は以下のことを認識しなくてはならない。すなわち、我々の多くがこれ
まで、例えばエルミタージュのギャラリーに保存されている芸術的な宝物よりもパリで出
版されている版画により多くの注意を向けてきたということを。
(中略)パリにはこれほど
たくさんの珍しいもの、ペテルブルグからどこにも出かけたことのないあなたを含む世界
中の人々に知れ渡っているものがあるのだ。にもかかわらずあなたはパリほどペテルブル
グについては知らないのである。(中略)そしてパリの公衆たちは、パリに関するものなら
すべてすぐさま買い、特別の情熱と好奇心を持って読むのである341」。
そして、
『ペテルブルグの生理学』がペテルブルグを隅々まで描き出しており、ペテルブ
ルグの住人にとって非常に魅力的な本であることを述べる。
「なぜ私たちは、ペテルブルグにおける独特なもの、偉大なもの、注目すべきもの、面白
おかしいものなどすべてに興味を引かれなかったのだろうか。何故我々のところでは、こ
れまでペテルブルグについてこれほど少ししか書かれなかったのだろうか?
既に我々が言及した本は、できる限りこの明らかな不足を埋めることを請け合う。ペテ
ルブルグの表層にちらっと触れるだけではなく、この本は生理学的的な点で読者をペテル
ブルグに完全に精通させる目的を持っている。この本においてあなたがたは、ペテルブル
グの通りや劇場、盛り場の記述を見つけるのではなく、これらすべての明らかな性格を見
つけるのである342」。
こうしてネクラーソフは、広告文の中で『ペテルブルグの生理学』がパリの風俗描写に
匹敵するものであり、ペテルブルグっ子必読の書であることを強調するのである。
ネクラーソフがこの広告文を出しているのは『文学新聞 (Литературная газета)』という新
聞である343。したがってこの広告をまず始めに読むのはこの雑誌の読者である。この雑誌
の読者が主に中流階層からなる公衆といわれる人々である以上、この雑誌に広告を出すと
いうことは中流階層の公衆を、
『ペテルブルグの生理学』の読者層に想定していることを意
味している。
さらに広告文においてネクラーソフが『ペテルブルグの生理学』を「パリの文学者たち
が、パリの、自分たちの陽気で、壮大で、豊かで、輝かしくて、汚くて、飢えているもの
について(中略)絶え間なく書き続けている344」
「何百という本345」に一貫してなぞらえて
341Некрасов,
Поли. собр. соч., т.13., с.145-146.
же, т.13., с.146.
343Некрасов, Поли. собр. соч., т.13., с.419. によればこの広告文の初出は、 «Литературная
газета», 1844, 14 сент., №36, с.612-613.
344Там же, т.13., с.145.
345Там же, т.13., с.145.
342Там
97
いることに注目しよう。ネクラーソフはパリの生理学的風俗描写の出版物に『ペテルブル
グの生理学』を重ねているのだ。ネクラーソフが『ペテルブルグの生理学』をパリの風俗
描写になぞらえるのは内容の面ばかりでない。ネクラーソフは出版のコンセプトそのもの
を真似ているのである。ネクラーソフはパリの生理学を読むパリの読者層に近いペテルブ
ルグの読者層(中流階層)をこの文集の読者に想定し、パリのフィジオロジーを読むパリ
の読者と同質の熱意をもってペテルブルグのフィジオロジーを読むことを期待する。
ロシアの生理学的ルポルタージュの代表的な文集『ペテルブルグの生理学』の読者とし
て想定されていた人々は、いわゆる中流階層の公衆であった。この文集を数ある生理学的
ルポルタージュのアリマナフの標準形と考えるならば、生理学的ルポルタージュという
ジャンルは商業的な出版産業において最も大きな購買者層を読者として持っていたという
ことになる。この商業出版における購買者層の中流階層は、煽情的なジャンルとして挙げ
た恐怖小説や感傷小説の読者層であった。生理学的ルポルタージュを出版する側は、これ
らの煽情的な小説の購買層と同じ読者集合を購買層として見込んでいたのである。
出版する側のコンセプトの点でも、内容の面でも、生理学的なジャンルは恐怖小説や感
傷小説などの商業性の強いジャンルと密接なつながりを持ち、同じ読者層を想定する商品
性の強いジャンルだった。生理学的ルポルタージュを 40 年代のロシアに位置づけると、そ
れは商業化の進む出版産業における一商品であったことが分るのである。
2.科学的思考
2.科学的思考と
科学的思考と認識の
認識の変容
社会の内部の解剖
フィジオロジーは観相学という疑似科学とつながりが深く、19 世紀前半に欧米の広い領
域を覆った科学の流行の波に乗るジャンルの一つであったことは既に述べた。次に、生理
学的ルポルタージュの名の由来となった生理学とこのジャンルの関わりという、生理学的
ルポルタージュの科学性を最も濃厚に表している問題を扱うことにしたい。
「生理学的ルポルタージュ」の呼び名に使われている「生理学」とは、人間の体内の働
きを、化学的、生物学的に分析する学問であり、19 世紀の前半にさかんとなった自然科学
の一分野である。生理学はもともと自然科学の一分野なのであるが、19 世紀の前半に生理
学的風俗描写において社会を分析する社会科学の方法として用いられるようになる。人間
の肉体という複雑極まりない組織体の構造を、肉体「内部」の分析によって明らかにしよ
うという生理学の基本的な枠組みを準拠枠として、生理学的風俗描写は社会を分析しよう
とする。すなわち生理学的風俗描写は、もともと生理学の分析対象である肉体を都市社会
というこれも複雑極まりない構造体に置き換え、都市の内部の分析を重ねることによって、
都市というものを解明しようとするのである。
ツェイトリンによると、同時代人の V.マイコフは生理学という自然科学をを社会の営為
98
の解明に奉仕させなくてはならないという考えを明確に述べていた346。マイコフによると、
社会における経済や政治的な営みは個人の身体になぞらえて観察されるべきである。社会
は経済や政治、道徳といった側面からではなく、植物や動物の代謝に見られる肉体的で化
学的側面から捉えられねばならない。生理学が肉体の物理的、科学的、力学的な要素の調
和を研究するものであるとするならば、社会哲学は社会における経済的、政治的、道徳的
な要素の安定と調和を研究するものである347。
マイコフのこの言葉が示すように、ロシア 40 年代にフィジオロジーは社会分析の方法と
して根付いたのである。中でも生理学が強い影響を及ぼしたのが社会の様々な情景を描く
ルポルタージュのジャンルであった348 。生理学がルポルタージュに与えた影響はルポル
タージュ作家たちが社会生活の描写をする際に、あるいはジャーナリストたちがそれらの
ルポルタージュに言及する際に用いた生理学の用語の多さに現れている。
当時ルポルタージュ作家たちは社会の「解剖学者」
「生理学者」として言及されていたよ
うだ。例えばツェイトリンは、ブトコフの『ペテルブルグの頂上』という作品に関する評
論の文章を引いている。それによると、ペテルブルグ中の建物の上の階はブトコフの「メ
ス」のもとに横たえられ、ブトコフは上の階を低い階から「切り離し」、「関節」に沿って
切り開き、
「解剖学用のプレパラート」を作って光のもとにさらす。
ロシアで流行したこれら生理学的な表現は、フランスでバルザックが始めたものである
ようだ349。ウェクスラーによれば、バルザックは生理学や解剖学のメタファーを繰り返し
用いて、パリ全市を分析も研究も可能な一個の有機体として描いた350。パリはあたかも頭
や胃袋、足といった器官を持つ一つの生物であるかのように表現される。例えば頭は化学
者と天才が住んでいるパリのアパルトマンの最上階、胃袋は二階、商いの出入りの多い一
階が足というように351。
このような生理学のメタファーを多く用いることによって、作家たちは、流動的で把握
しきれない同時代の都市を少しでも記述しとめたりあるいは社会の矛盾や貧困といった病
理を解明することを目指したのである。
生理学的なメタファーは、作家たちが当時共有していた社会への眼差しのある特徴的な
様態を現している。それは社会の内部へ侵入する眼差しである。生理学が人間の病理や体
の働きを肉体の内部の構造から分析しようとするのと同じように、ルポルタージュ作家た
ちは、都市社会の病理や営為を都市の内部を観察することによって解き明かそうとした。
カガノフは、18 世紀から始まって 20 世紀に至るペテルブルグの表象の歴史を一冊の本
『ペテルブルグ』にまとめている。彼は、この本の中で 1840 年代をペテルブルグの表象に
346Цейтлин,
Становление реализма,с.101.
же,с.101.
348Там же,с.102.
349 ウェクスラー,前掲書,P.44.
350 同書,P.44-46.
351 同書,P.46.
347Там
99
「内部」をもたらした時代として位置づける。カガノフによると、1840 年代は都市ペテル
ブルグを研究し解明しようという情熱が高まった時代であった。この情熱に応えたのが生
理学のジャンル、すなわち都市生活のドキュメント風ルポルタージュであった。そしてこ
の生理学とは、なによりも「内部」を観察するジャンルであったとカガノフは言う352。ル
ポルタージュの作家たちは町の「秘められた内部」を歩き回り、都市の構造の隠された営
みを見てそれらを記述しようとしたのである353。40 年代のルポルタージュにおいて、ペテ
ルブルグはその特徴的な外貌を喪失し、薄暗い地下室や部屋の内部、横丁などペテルブル
グを象徴するような記号を持たない都市の内部空間の集積に変えられていった。ペテルブ
ルグの表象は内向する想像力に満たされていく354。
ネクラーソフは『ペテルブルグの生理学』に載せた作品『ペテルブルグの片隅』の冒頭
に、都市の秘められた内部、すなわち主人公の住居となるべき建物の地階の描写をする。
そこは薄暗くて腐った水とキャベツの臭いが充満し、得体の知れない物音が響く場所とし
て書かれている355。都市の生活空間は、40 年代には生き物の腹の内部のメタファーによっ
て、人間を隠す到達困難な深み、都市の秘められた内部として描き出されるのだ。
カガノフによると、このような都市の内部空間への想像力は文学の領域のみならず版画
や油彩画、水彩画といった絵画の領域にも現れた。第三章の読者のイメージの考察で言及
した『サルティコヴァ夫人の肖像』には、40 年代の文学を捉えたのと同じ内部空間への想
像力が働いているとカガノフは言う356。夫人を包み込み、光を吸収する柔らかい布や毛皮
によって、空間の内部性は増す。繁茂する植物と軟らかな布の堆積は、空間を胎内のイメー
ジに変えるのだ。
文学作品にせよ絵画にせよ、これらの内部空間へ向かう想像力、優れた観察眼をともなっ
ていた。「観察の精神」が 40 年代の都市の表象を特徴づけていた。この観察の精神が、ロ
シアの作家たちに風俗の様々な秘められた秘密をひらき、40 年代の文学を情念や偏見、道
徳的な矛盾、貧困の最も暗い屈曲に導き、当時のロシアの状況と傾向における多くのもの
を彼らに暴露し、明らかにした357とニキーチェンコは言う。この観察の精神の現れは、バ
ルザックやロシアのルポルタージュ作家たちを巻き込んだ観相学という疑似科学の流行の
波と一致していたであろう。観相学は、まず視覚的に人間の肉体的特徴を観察することを
第一とした。そして観相学をもとにした風俗描写もまた、視覚的に人間の挙動や服装、そ
して都市空間の特徴を観察することを第一としたのである。
ルポルタージュ作家たちは、都市の秘められた内部を克明に描いたルポルタージュを
次々と生み出していった。彼らは、生理学のメタファーを重ね、都市の内部に侵入してい
352Каганов,
Санкт-Петербург, с.113.
же, с.113.
354Там же, с.113.
355Там же, с.113-114.
356Там же, с.114-116.
357Цейтлин, Становление реализма,с.103.
353Там
100
く観察する眼差しを駆使することによって、40 年代のペテルブルグの人々を捉えていた欲
望、すなわちペテルブルグを知り、解明し、病理を暴き出したいという集団の欲望を満た
そうとしたのである。
断片化
内部へと向かう眼差しは都市空間を断片化した。都市の内部空間に侵入しようとする眼
差しは、地下室や室内、片隅などの小さな空間を微細に観察し、それらの空間の情景一つ
一つを都市という肉体の一部を切り取るように描き出す。観察する眼差しは、対象を近く
から子細に見ようとして次第に近視眼的になっていく。近視眼的な眼差しは狭い領域のみ
を克明に観察し、対象を切り取って描写する。そうして描き出された建物や空間は、ジャ
ンルの別々の舞台がつながりを持たないのと同じように、また 19 世紀の半ばごろにインテ
リアの部分空間が互いに連関を持たなかったのとちょうど同じように不可避的な内部的つ
ながりを持っていなかった358。
ペテルブルグの表象装置は、小説にせよルポルタージュにせよリトグラフにせよ、切れ
切れになった細密描写の集積を基本的な構造として持つようになる。例えばドストエフス
キイの最初期の作品『貧しき人々』と『九つの手紙からなる小説』は、手紙という生活の
断片を細かく書き記した紙切れを重ねることによってのみ成り立っている。そこには手紙
同士を繋ぐいかなる言葉もなく、ただそれぞれの一人称の叙述が交替で現れるだけなのだ。
それらの手紙の内容は、時として全く脈絡のない互いに関連しない内容でさえある。ドス
トエフスキイの初期作品において、登場人物たちの住むペテルブルグはこのような一人称
の断片的な文章の集積という形で作られていく。
40 年代にペテルブルグをこの時代特有の空間把握によってリトグラフに描き出した画家
に、ジュコフスキイがいる。ジュコフスキイは『ペテルブルグの生理学』の生理学的ルポ
ルタージュに挿絵をつけるなど、ナチュラリナヤ・シコーラと交流をもった画家の一人だっ
た。カガノフは、ジュコフスキイのリトグラフの作品を描写の非関連性、すなわち断片性
という観点から分析している。カガノフが取り上げる作品は『アレクサンドル劇場からの
四散』である。カガノフはこの作品の遠景や中景に着目する。そこでは、辻馬車の御者が
自分の馬車に乗るようにしつこく婦人たちを招いているところや、官吏と商人が争ってい
る情景、そりに乗っている軍人と婦人、芝居の後、あくびをする商人夫婦、娘たちに付き
まとう酔っ払いたちが描かれている359。これらの情景すべては芝居の後という状況とは何
の関係も持たずに成立するものである。ジュコフスキイが描こうとしたのは、ネフスキイ
大通りに群がり出る人々が日常繰り広げる生活なのである。その生活は、互いに関連を持
358Каганов,
359Там
Санкт-Петербург,с.123.
же,с.123.
101
たないエピソードをモザイクのように集めて並列することによって描かれる360。さらにカ
ガノフによると、ジュコフスキイのこの作品を載せている画集は、警察官の悪行などの町
の人々を喜ばせるようなスキャンダラスなものも含め、都市の断片の一瞬一瞬のエピソー
ドを描いたページをひたすら重ねることによって一冊の書物になっている361。
ネクラーソフやドストエフスキイらが企画した『ズボスカール』という文集も雑多なエ
ピソードの集積からなる書物という点で、ジュコフスキイの画集と同じ論理によって構成
されている。『ズボスカール』は、ペテルブルグに関するものという共通項以外、何の関連
も互いに持たないジャンルの文章をペテルブルグの断片として羅列しようとする。ドスト
エフスキイの広告文『ズボスカール』において、ドストエフスキイはズボスカールの内容
構成を以下のように紹介する。
「しかしわれわれは現在でも読者のご要望に応じる用意があ
る。中篇小説、短篇小説、ユーモラスな詩、有名な長編小説、戯曲、詩のパロディー、エ
ロがかった小記事、文学界、演劇界その他あらゆる部門のルポルタージュ、注目に値する
書簡、手記あれやこれやについての雑報、アネクドート、ほら話等々といったすべてに類
するもの、…362」
このようにしてペテルブルグは断片の集積と化してゆく。町のエピソードの断片は、文
集のページの上に、あるいは画幅の中にカタログ的な空間を作り上げていったのである。
視覚的克明さ―挿絵とダゲロタイプ
都市の断片化した表象は、ナチュラリナヤ・シコーラの生理学的ルポルタージュや小説
を載せる書物の形式にも現れた。その一つが挿絵の掲載であった。例えばネクラーソフは、
『ペテルブルグの生理学』
には 50 の大きな木版画がつけられると広告文の中で述べている。
「編集者は、自分の側から出版物ができる限り豪奢なものになるよう努力することを約束
する。読者は、ペテルブルグの優れた芸術家たちによる木に描かれて彫られた 50 に及ぶ大
きな木版画を本の中に見つけるであろう363」生理学的な描写を盛り込んだ小説を載せてい
る『ペテルブルグ文集』の広告文においても、ネクラーソフは同様に 50 の版画がついてい
ることを宣伝する。
「この本の幾つかの作品(『地主』と『パリの娯楽』
)には、イラストが
つけられている。イラストは 50 まである364。」
360Там
же,с.123.
же,с.123.
362Достоевский, Поли. собр. соч., т.18. с.9. «Но мы и теперь же готовы удовлетворить желание
читателей. Повесть, рассказы, юмористические стихотворения, пародии на известные романы,
драмы и стихотворения, физиологические заметки, очерки литературных, театральных и
всяких других типов, достопримечательные письма, записки, заметки о том, о сем, анекдоты,
пуфы и пр., и пр.,…» 訳文はドストエフスキー『ドストエフスキー全集第 20 巻 A』P.12.の
小沼文彦の訳を引用。
363Некрасов, Поли. собр. соч., т.13., с.143.
364Там же, т.13., с.44.
361Там
102
挿絵は生理学的な風俗描写の作品世界を、すなわち、都市の形象を切り取るものであり、
イメージの断片であるといえる。挿絵が生理学的な文学作品に頻繁につけられるように
なったのは、挿絵が、生理学的な風俗描写がもともと持っていた断片の集積に全体を代行
させるという方法に合致していたからである。
さらに、挿絵が生理学的な文学作品の文集によく使われた理由は、挿絵がまさしく視覚
に訴える表現形式であったからである。
ナチュラリナヤ・シコーラの人々が行った生理学的な風俗描写とは、観相学という視覚
的情報を最も重視する疑似科学を転用し、人間の挙動や服装などの視覚的な情報に頼って
人間の類型化と分類を行うものであった。生理学的な風俗描写は、40 年代の作家や画家た
ちが共有する観察の精神を基礎としていた。都市空間や都市生活の内部に眼差しを侵入さ
せ、近い距離から狭い領域を微細に「観察」することが生理学的風俗描写の成立の基本で
あった。生理学的な風俗描写は、視覚的な情報をなによりも頼りにするジャンルだったの
だ。そこでは挿絵は、文章による生理学的記述の視覚的イメージをまさに視覚的映像によっ
て表現してみせるという重要な役割を担ったのである。
さらに、生理学的な風俗描写がもとより文学、絵画など一つの領域に閉じて展開される
べきものではなかったということも、挿絵が盛んに取りいれられた理由の一つにあげられ
る。というのも生理学的な風俗描写は、視覚への指向と都市への興味を共有する 40 年代の
文化そのものを土台としていたからである。したがって、ナチュラリナヤ・シコーラは、
生理学的な都市の記述を文学の閉じた領域でのみ展開することはしなかった。生理学的な
都市の描写という場で、文学と絵画の世界はともに絡み合いながら都市のイメージを作り
上げていったのである。ここにおいて、挿絵は、作品に単純に従属し作品を補う二次的な
意味しか持っていなかったわけではなかった。挿絵は、むしろ言葉による記述と等価な要
素として文学作品と共同でこれらの書物を構成していたのだ。
これらの生理学的な文学作品と挿絵は、40 年代の文化に特有の「観察の精神」を共有し
ていた。彼らが表現しようとしたのは都市空間や都市生活の内部であるが、それらの内部
は常に衣装や家財道具といった具体的な物質の描写や外面的な要素の克明な描写によって
暗示されるのである。生理学的ルポルタージュの作家たちは、卓越した観察眼を駆使して
ものの外面の描写の克明さを研ぎ澄ましていった。
これらの描写の克明さは、当時の批評家たちによって「ダゲロタイプ的」という比喩が
与えられた。ダゲロタイプというのは、1838 年にフランスの学者ルイ・ジャック・ダゲー
ルが発明した写真機のことである365。生理学的ルポルタージュや挿絵の描写の克明さは写
真機によって写し取られたかのようだというのが、この比喩の意味するところであった。
ツェイトリンはオドエフスキイやマイコフの言葉を引用して、ダゲロタイプという言葉
がどのように用いられていたのかを分析する。例えばオドエフスキイは、ダゲロタイプは
最も触覚的な証拠の一つとして役立ち得るものであり、最も正確な自然の模倣であるが、
365Цейтлин,
Становление реализма,с.104.
103
芸術ではないと言う366。ここでは、ダゲロタイプ的という言葉は機械的な模倣という意味
で使われている。またマイコフは、ブトコフの『ペテルブルグの頂上』と言う作品を評し
て以下のように言う。「ポーヴィスチの長所は、純粋にダゲロタイプ化しているところと、
苦労の叙述である。この叙述を通してチレンチイ・ヤキモヴィチが道を開くのだが、優れ
た統計からなる章のようにすばらしい367」。ここでマイコフは、ダゲロタイプという言葉を、
正確だが魂の無い写真の複製、という意味で用いている368。
ダゲロタイプの発明は、19 世紀前半の視覚文化に大きな影響をもたらした画期的なでき
ごとであった。ダゲロタイプが実現した視覚的映像の克明さが発明と同時代の生理学的な
風俗描写の比喩に使われたのは、当然であっただろう。しかも風俗描写のジャンルは、文
章のみならず挿絵によっても構成されていた。人物や情景の一瞬を切り取りそれを克明に
描写する挿絵は、ダゲロタイプと非常に似通っていた。文章はもとより挿絵は、視覚情報
を克明に記録するという本質的な性質においてダゲロタイプと共通していた。ダゲロタイ
プも生理学ものも、視覚による表現を求め、視覚によって世界を解読したいという欲望を
抱えていた文化から生まれたという点で、同じ文化の産物なのである。
しかし同時に、生理学的な風俗描写は、文学においても挿絵においてもダゲロタイプと
は一線を画する要素を持っていた。それは、生理学的な風俗描写を貫く書き手の主観であっ
た。生理学的な風俗描写では、戯画化や類型化が行われている。これらの戯画化や類型化
には、書き手の主観によって整備された外面的記号と内面的特徴のコードが働いていた。
ロシアのジャーナリズムで 40 年代に盛んに使われるようになった「ダゲロタイプ的」と
いう言葉には、生理学的描写とは相容れない意味も含まれていた。その例はツェイトリン
が挙げているダゲロタイプについての記事に現れている。
その記事は、ダゲロタイプは女性の美しさを表現し得ないという主旨のものである。肖
像画家は、女性の内面の魅力や表情の美しさを肖像画に描きとろうとする。そのため、出
来上がった肖像画は魅力的なものになる。一方、ダゲロタイプは、太陽光線によって女性
の顔を写し取るだけであり、出来上がった写真はまるで死人のように見え、女性が持って
いる魅力を損なってしまう。このように、この記事の書き手は述べるのである。
この記事の書き手は、ダゲロタイプが女性の美しさを表現し得ない理由をダゲロタイプ
が持っている技術的な不足に帰しているのだが、ここで肝心なのはむしろダゲロタイプが
光学的な仕組みによってのみ女性の肖像を映し出すという点にある。この点において、ダ
ゲロタイプ的という言葉は、一切の主観を排して純粋に光学的・物理的な手段でものを写
し取るという意味を帯びるのだ。
この意味でダゲロタイプ的という言葉が使われるとき、この言葉は生理学的描写と相容
れないものになる。生理学的な風俗描写は、文学においても挿絵においても、描くものの
366Там
же,с.105.
же,с.105.
368Там же,с.105.
367Там
104
主観、あるいは描出する際のコード体系を織り込んでいるからである。
既に観相学との関連で述べたことだが、生理学的な風俗描写は、社会における人間の類
型を作り出すことを重要な方法としていた。様々な類型を生み出すことによって、変動し
捉えにくい社会を一瞬なりとも固定化して把握しようとしたのである。
生理学的ルポルタージュの挿絵もまた、類型化の論理に貫かれていた。挿絵は、文章で
書かれている類型化された情景なり人物なりを図解する役割を負っていた。したがって、
挿絵画家もまた類型を描き出す絵画のコード体系を持っていなくてはならない。ウェクス
ラーの述べるところでは、19 世紀フランスの戯画家たちは、類型を描き出すコード体系を
記した教科書を参考にして絵を描いていた369。
ロシアの戯画家たちが具体的なマニュアルを用いていたかどうかは分らない。だが、も
ともと生理学的な風俗描写がフランスから輸入され、それと同時に挿絵をふんだんに盛り
込んだ書物のコンセプトも取り込まれたこと、そしてロシアで挿絵入りのパリの生理学的
風俗描写の書物が盛んに翻訳されていたことを考え合わせれば、ロシアの挿絵画家たちが、
都市の情景を描く際にフランスの挿絵画家たちの作品を参考にしたと推測することは可能
である。
『ペテルブルグの生理学』においてペテルブルグに見られる職業や情景を描いたアーギ
ンやチムらの挿絵を見てみれば、それらの絵は見事に類型化・戯画化されていることが分
る。ロシアの生理学的な風俗描写に使われた挿絵は、画家たちの主観や画法に内在するコー
ド体系に貫かれているのである。
これらの挿絵は、文章を貫く観相学的なコード体系と連携しながら生理学的風俗描写の
書物の世界を作っていく。生理学的風俗描写の書物において、挿絵は必要不可欠な構成要
素だった。生理学的風俗描写は、文章だけでは成り立たず、視覚芸術をも取り込んで始め
て成立するジャンルだったのである。
カタログ的な空間
生理学的風俗描写が挿絵を必要としたのは、生理学的風俗描写がもともと視覚による都
市の観察と分析へ向かう欲求に依拠していたからである。しかし、生理学的風俗描写の書
物における挿絵の機能に注目すると、生理学的ジャンルが単に 40 年代に高まった視覚への
信頼のためだけに挿絵をこれほど豊富に使っていたわけではないことが分かってくる。
この挿絵は単なる装飾のための絵ではなく、文章の図解なのである。アーギンやチムが
書いた挿絵は、ルポルタージュに出てくる登場人物の風貌を図解し、ルポルタージュにお
いて描かれる情景を図解し、ペテルブルグという都市の断片を図解する。挿絵はルポルター
ジュにおいて語られるものを視覚イメージによって補い、さらにルポルタージュは挿絵の
視覚的イメージが語り得ないものを文章によって補足する。生理学的風俗描写において、
369
ウェクスラー,前掲書,P.25-26.
105
挿絵と作品は、分かちがたく結びつくことによってペテルブルグという都市を解明してい
くのである。
生理学的な風俗描写を図解と説明文として捉えたとき、言葉によって語られるものと視
覚的に見えるものを相補完させることによって世界を記述しようとしたヨーロッパ知の形
態の一つに、このジャンルを位置づけることができるように思われるのである。図解と文
章を組み合わせることによって世界を記述しようとしたものの代表が、18 世紀の『百科全
書』である。百科全書は、膨大な数の図版を用いて言葉によって説明しきれないものを視
覚的イメージよって補おうとした。いや、百科全書において図版は単なる従属的な道具で
はなく、認識のために欠くべからざる記述法にほかならなかったのであり、それ故に百科
全書の世界に対する認識の仕方を示していると思われる370。
百科全書派の図解はいかなる思考に貫かれていたのだろうか。例えば機械の図解を見る
と、機械の全体像があり、その下に機械の内部構造を描いた図が並列されている。百科全
書派において、図は美的機能などまったくない、物の構造や内部の解説そのものなのだ。
百科全書派の図版を作り上げている眼差しは、物の形態を観察し、分析し、差異と同一性
を比較考量するという分析的な科学の眼差しなのである371。物を認識するための図、物を
認識できるようにコード化された図。このような百科全書の図の成り立ちは、都市をある
コードにしたがって類型化し、その類型を視覚的に描写し可視化することによって認識し
ようとする生理学的風俗描写の挿絵と、底流でつながってはいないか。
さらに百科全書は、物の解説と図版の夥しい断片からなる書物でもある。百科全書は、
観察し、内部を透視し、可視化して、分析され得べくコード化された夥しい物の断片によっ
て世界を代行させるのである。多木浩二はこの構造的特徴を以下のように説明する。
「つま
り『百科全書』は、体系として世界を見ることをやめ、多様な視点を許容するという立場
(それを地図になぞらえている)に立ったということである。(中略)しかしもっと現代的
な解釈をすれば、グレトゥイゼンが比喩的に地理学者の空間と呼んだものは、実は連続性
に変えて不連続性を置き、空隙と異質なものの共存を許すコラージュの空間なのである372」。
断片を張り合わせ併置するコラージュは、17 世紀的な決定論的な世界像や体系的宇宙と
いったものを喪失し、
「汲みつくせぬ多様性と無限化した世界373」を全体としてみるための
方法であった。
生理学的風俗描写が試みた流動的な都市の記述は、都市の断片であるルポルタージュと
挿絵のコラージュによって実現されている。コラージュによって、都市の様々な多様性は、
類型に分類されつつも体系化されることなくまとめられ得るのである。
コラージュによって断片を併置していくとカタログ的な空間が出来上がる。カタログと
370
371
372
373
多木『比喩としての世界』P.271.
同書,P.164.
同書,P.283-284.
同書,P.281.
106
は「分類はするが体系化しない空間を拓」く構造を持つと多木は言う374。生理学的な風俗
描写の書物を作り上げていたのは、カタログ的構造であった。
19 世紀 40 年代の生理学的な風俗描写の挿絵に着目するとき、生理学的なジャンルの底
に流れていたこのような 18 世紀の知の伝統に辿り着くことができるのである。
3.社会科学
3.社会科学としての
社会科学としての役割
としての役割
社会認識への欲求の現れ
生理学的風俗描写は、もとは文学ではなく社会科学の領域に属する言説であった。生理
学的風俗描写の創始者とも言うべきバルザックは、
『人間喜劇』を、パリを分析し捉えるた
めの社会科学としてはっきり意識していた。ロシアにおいても、カガノフによると、生理
学的風俗描写はペテルブルグという社会を研究し、分析し、解き明かそうという欲求に応
じて出てきた社会科学であった375。
1830 年代ごろからロシアにおいて、ペテルブルグは最も先鋭的な研究的興味の焦点で
あった。ペテルブルグは 18 世紀に急成長を遂げた都市であるが、19 世紀になってもその成
長と変化はとどまるところを知らなかった。ドストエフスキイは『ペテルブルグ年代記』
において、ペテルブルグを常に変化する流動的な都市として描いている376。ペテルブルグ
には、物理的・精神的なすべての対立・矛盾の基盤である都市の謎めいた存在の謎を解き
明かそうとする執拗な欲求と、多種多様な力のカオスを理解しようとする志向が集中した
とカガノフは言う377。
生理学的風俗描写は、このような社会認識への欲求に応えるべく、観相学という疑似科
学や生理学などの一応の科学らしき形式を持っている言説から分析の方法や用語の比喩を
借用して生み出されたものであった。生理学的風俗描写の方法は挿絵という図解を伴い、
ものを認識する上で信頼されていた知覚である視覚の描写を克明に行うというものであっ
た。この方法は、おそらくは百科全書あたりから芽生え始めた分析する科学の眼差しによ
るものであった。
生理学的風俗描写には、40 年代の人々が持っていた科学への信頼が濃厚に現れていると
考えていいだろう。40 年代、このジャンルにおいて文学と科学は緊密につながったのであ
る。
同書,P.284.
Санкт-Петербург,с.113.
376原題«Петербургская Летпись» Достоевский, Ф. М., Поли. собр. соч., т.18. с.23-29. 1847 年 6
月 1 日の新聞『サンクトペテルブルグ報知 (Санкт-Петербургские ведомость)』に載ったフェ
リエトンで、ドストエフスキイはペテルブルグの工事の様子や建築物の多様性に現れる躍
動感、産業、文学の発展について叙述している。
377Каганов, Санкт-Петербург,с.113.
374
375Каганов,
107
フィジオロジーの科学的思考の構造とその歴史性
生理学的風俗描写が社会科学という意識で書かれたものであり、なおかつそれらの風俗
描写が文学の領域における活動であると同時代人に捉えられていたことを考え合わせると、
このジャンルは、文学と科学の境界にあるもののように思われる。ここではひとまず、生
理学的風俗描写を貫いている、都市に向けられた眼差しの科学性に注目しよう。そして、
この科学性がどのような文化的文脈において生じてきたのかについて考えてみたい。
生理学を含む科学を純粋に知的興味から始まる学として捉えた場合、それが始まるのは、
17-18 世紀のヨーロッパの博物学であると多木はいう378。博物学が科学となる以前に属して
いたのは、実用的な本草学などとは異なる意味の次元での物の収集であった。そこには、
象牙から鰐の標本、骨董品に至るまでありとあらゆる種類の物がその時代特有の論理に
よって体系づけられ、コレクション全体が一つのミクロコスモスをなすように並べられて
いたという379。これらのコレクションにはもの同士の間を仕切る境界は存在しておらず、
鰐の標本と芸術を分離する認識の格子もまだなかった。それらはすべて一種の比喩に貫か
れた物であり、その比喩によって互いに関連付けられて共生していた380。
それ以後博物学は、コレクションに分離の格子を持ちこみ、植物や動物など様々の対象
を分類し、知識を秩序立てていくようになる。この分類の発展した形が 19 世紀の科学であ
ろう。科学というのは歴史的な産物なのである。科学的な思考は、歴史的に形成され、絶
えず変化し、生まれうる思考の一種に過ぎない。この歴史的に変動する論理が理性である381。
科学は、前史の段階では雑多な物のコレクションであった。このコレクションの中には
美術品も含まれていた。コレクションに分類の格子が入れられるにあたり、動物や植物は
科学の領域に、工芸品や絵画は芸術の領域に分かれていった。「美術と博物学の両方をとも
に文化史的に捉えてみると、その両方が単に描くべき対象というより、もっと接近したも
のになってしまうのである。美術というものの位置が社会的に確立してくる過程と、学と
しての博物学の発生とは同じ一つの歴史に属しているのである382」。
多木によると、工芸品や絵画が芸術として認識されるようになり芸術という領域が発生
したきっかけは、それらのものが装飾や権威の誇示といった機能を喪失しそれ自体として
切り取られ、美的機能以外の目的を持たないようになったときである。すなわち、美術館
というほぼ 18 世紀の末から 19 世紀にかけて成立した抽象化された空間に収められたとき
381
多木『比喩としての世界』P.157.
多木,『「もの」の詩学』
,P.88-90.
同書,P.89.
多木『比喩としての世界』P.163.
382
同書,P.157.
378
379
380
108
であるという383。いずれにせよ「芸術」という観念もまた、歴史的に形成されたものなの
だ。
ベリンスキイを捉えていた芸術の観念は、ヘーゲルの哲学をもとにしたものであったこ
とは既に述べた。ベリンスキイがヘーゲル哲学を文学に転用するとき、ロシアにおいて芸
術の観念は文学をも含むようになる。ロシアの文学における芸術の観念もまた歴史的に構
成された概念である384。
生理学的風俗描写は、同時代の評論によって美的な側面について言及されるとき芸術の
観念の中で考察され、また作家たちが都市への分析と克明な描写を研究の意識を持って行
うとき社会科学という観念の中に取り込まれる。生理学的風俗描写は、19 世紀に確立して
きた芸術と科学という二つの「歴史的に言語によって構成された概念385」、いわば 19 世紀
の歴史的産物の枠組みの中で捉えられていたのである。
博物学の原理と 19 世紀の歴史観念の間で動揺
生理学的風俗描写は、科学と芸術という 19 世紀に確立した歴史的産物である観念におい
て捉えられていた。しかし同時に生理学的風俗描写は、都市の人間を類型化し、分類し、
それらを並列していくという 18 世紀の博物学的な知の構造で組み立てられていた。
生理学的風俗描写は、18 世紀の「化学や博物学の見出すような、多様な差異の分布する
異質的空間の中でそうした差異によって織り成されるシステム386」を持っていた。しかし
同時に、生理学的風俗描写はそのような差異によって織り成されるシステムの枠内に収ま
りきらない深さへの欲望ともいうべきものに捕えられているように思われるのだ。このよ
うに考えるとき、生理学的風俗描写に、18 世紀の知のユートピアから 19 世紀の歴史の深淵
へ滑っていく知の変動を見て取ることができるのではないだろうか。
生理学の役割は、都市の構成要素を分類し、都市の様々な断片を正確にスケッチするこ
とによってそれらの差異を類型という形で現し、それらを平面に並列することにあった。
そのことによって、都市という複雑な構造物は了解可能なシステムに変換される。生理学
のこのような「分類学的な『知』の原理387」はしかし、ひたすらに目に見える人や空間の
表層ばかりをかいなでするのではなく、その不可視の内部、例えば人間の内面や町の片隅
の暗闇に到達しようという志向を伴っていた。生理学的風俗描写が部分的に依拠した観相
学が広い地域で大流行したのはなぜなのか。それは、観相学が人間の内面を、たとえそれ
383
384
385
386
同書,P.157.
同書,P.88.
同書,P.88.
浅田彰「空間の爆発―ヴィジオネールたちの建築―」樋口謹一編『空間の世紀』(筑摩
書房,1988)P.323.
387
松浦『知の庭園』P.144.
109
があらかじめ設定されたコードによって外面的記号とつながれた定式化したものであった
としても、不可視の領域である自己の内面を教えてくれるものだったからである。
生理学の眼差しが都市空間や都市の人間の内部へと分け入って、最終的にその内部を見
極めることによって都市を把握しようとするものであったことと、19 世紀の小説が人間の
内面の奥底に言葉を食い込ませていったこととは、あながち無関係ではないだろう。生理
学は都市の断片、例えば個別の人間の外面を捕える。しかし生理学が最終的に眼差しを到
達させようとするのは、人間の内面である。同時代の作家は人間の内面を「秘密」と呼び、
この秘密を暴くことを使命と自認した。例えばドストエフスキイは、兄宛ての書簡で人間
という秘密をとくことを使命としたいと述べている388。そして生理学的風俗描写の創始者
バルザックも、人間の秘密を生涯探求し続けた作家である389。
人間の内面を解明しようという欲求は、人間の内面に深さを発見し、その深さを人間の
秘密の源泉であるという観念が生まれてはじめて生じるものではないだろうか。人間に限
らず、都市という複雑極まりない構造体を把握するときに、都市に内部というものを見出
し、その内部を都市の矛盾や謎の焦点と考える思考の構造があって、はじめて生理学的風
俗描写が実現するのである。では、都市に内部を作り出したものは何だったのであろうか。
それが、この時代に流行した科学の方法だったのではないだろうか。生理学的風俗描写の
用いた科学の方法は、外面的な特徴から内部に至ろうとする観相学の方法であり、肉体の
内部を切り開いてそのシステムを解明しようとする生理学の方法であった。この科学の方
法に則って都市を見たとき、都市に探求すべき内部が生まれはしないか。
19 世紀の科学の思考は探求すべき内部を作り出した。そして科学と同時に生まれた芸術
は、ロシアにおいてはベリンスキイによって、単線的に進む歴史の中に、いわば無限に続
く時間の中に位置づけられる。果てしなく広がる人間の内部、都市の内部と、無限に続く
歴史的時間は、到達し得ない闇を生み出した 19 世紀の知の表裏である。ナチュラリナヤ・
シコーラの作家ドストエフスキイの小説は、人物たちの内面や感情の「非言語的な垂直の
深み390」へ進もうとする言葉を獲得するだろう。生理学的風俗描写の流行とその頂点『ペ
テルブルグの生理学』の出版から、ドストエフスキイのデビューを飾った作品『貧しき人々』
を掲載する『ペテルブルグ文集』の出版まではすぐである。
生理学的風俗描写には、18 世紀の分類学的な知の原理から 19 世紀を貫く無限の深淵の
探求に代わる大きな知の変動が記されているのではないだろうか。この文化的な断層とも
いうべき知の変動を、その断層の上に位置していた生理学的風俗描写という領域で詳しく
見ていきたい。
1839 年 8 月 16 日付け兄ミハイル宛ての書簡。Достоевский, Поли. собр. соч., т.28. к.1. с.63.
«Человек есть тайна. Ее надо разгадать, и ежели будешь ее разгадывать всю жизнь, то не
говори, что потерял время; я занимаюсь этой тайной, ибо хочу быть человеком.»
389 クルティウス,前掲書,P.26.
390 番場俊
「
『オネーギン』と多声空間、あるいは起こらない出来事」
『批評空間』Ⅱ-17(1998)
P.122-123.
388
110
4.都市
4.都市ペテルブルグ
都市ペテルブルグ―
ペテルブルグ―興味の
興味の焦点
特権的題材としての都市
40 年代は、都市ペテルブルグに関心が集中した時代であった。生理学的ルポルタージュ、
小説や雑誌記事においてみながペテルブルグを題材とし、ペテルブルグに言説を集中させ
た。ペテルブルグはロシアの他の都市を圧倒して、人々の社会的想像力や集合表象のレベ
ルで中心的な位置を占めるようになる391。ペテルブルグは 40 年代において、特権的な題材
となったのだ。
ペテルブルグを描き出すとき、作家たちは次第にある同じ修辞や用語、イメージを共有
し始める。例えば生理学的なメタファーや内部に秘密を抱えた都市というイメージがそれ
である。一方ペテルブルグものを読む側の読者たちもまた、作家たちが共有するペテルブ
ルグの表象を暗黙のうちに内面化していくことになる392。こうしてペテルブルグには集団
的な想像力が働くようになる。
40 年代にペテルブルグに言及した文章は数知れない。ルポルタージュ、小説、詩、フェ
リエトン、雑誌記事など様々のジャンルで多くの文士がペテルブルグを語り続けた。ペテ
ルブルグを扱う一冊の書物には複数の作家と画家が共同で作品を寄せた。そして、集団に
よって作られたそのような書物が幾つも発行された。そして同時に、ペテルブルグものは
多くの読者たちが受容することによっても成り立っていた。文士が急増し読者層が広がり
始め、街に本が盛んに出回るようになった 40 年代の出版界が、ペテルブルグものの社会的
な存立を支え、ペテルブルグものの人気と作品の多さや集団性を可能にしたのである。
とはいえ、ペテルブルグものがとった集団による創作という形態は、出版界の状況のみ
に負うものではない。むしろこの集団性は、ペテルブルグという都市そのものが持ってい
た性格に発しているように思われる。
その性格とは、第一に 19 世紀のペテルブルグが呈した多様性であった。この時代、もは
やペテルブルグは少数の人々によって描ききることのできないものになっていた。ペテル
ブルグは、集団によって生み出された数多くのイメージの断片を継ぎ合わせることによっ
てしか表現できないような途方もない多様性を持ち始めたのだ393。
第二にペテルブルグは、40 年代の人々にとってある欲望を満たしてくれる特別の題材と
なっていた。40 年代の人々が一団となってみずからが生息する都市空間の姿を一瞬なりと
も固定化しようとし、多様性と流動性の渦巻く都市を絶えず新たに捉えかえそうと努めた
小倉孝誠『19 世紀フランス愛・恐怖・群衆 挿絵入新聞『イリュストラシオン』にたど
る』(人文書院,1997)P.228.
392 同書,P.233.
393 同書,P.240.
391
111
394のはなぜだったのか。そこには、ペテルブルグ探求に向かうある欲望ないし感情があっ
たのである。ではその欲望や感情とはどのようものなのか。
小倉は『パリの自画像』の中で、パリの都市論を読みふけるパリの人々の熱意に「繁栄
を謳歌する都市に住む者たちのかすかな自己陶酔と、転変極まりない都市に対する漠然と
した不安感という、相反する感情395」を読み取る。
ペテルブルグの一連の都市論は、パリの都市論を下敷きとし、描出の方法から出版のコ
ンセプトまで模倣していた。それだけではない。パリの都市論は一種の社会科学として始
まり、ペテルブルグの都市論もまた科学であることをもって自認していたことは、この二
つが社会の客観的な分析を焦眉の課題とする同じ社会的な要請から発していたことを意味
している。
パリの都市論とペテルブルグの都市論は、同じ 19 世紀前半に急速に変貌しつつあった都
市社会を捉えようとする同じ社会的な要請の上にあったのである。このような共通性を考
え合わせれば、ペテルブルグものの流行にはおそらくはパリの都市論と同質の感情、すな
わち自己陶酔と不安があったと推測するのもあながち外れてはいまい。
そしてこの自己陶酔と不安の先にあるものこそ、ペテルブルグものの流行を貫く人々の
欲望である。
ここでネクラーソフの『ペテルブルグの生理学』広告文の言葉を思い起こそう。そこで
ネクラーソフは、ペテルブルグの人々にペテルブルグという町をよく知ってもらうために
『ペテルブルグの生理学』を出版するのだと明言する。自分たちの住むペテルブルグと都
市に住まう人々の姿を、すなわち自分自身をもっとよく知り解明するために読者にこの本
を提供するのである、と。
ネクラーソフのこの広告文に、一連のペテルブルグものを貫く集団の欲望すべてが表現
されている。それは自分のいる空間を、そして自分を解明したいという欲望なのだ。
人々をペテルブルグものの記述や読書に駆り立てていたものは、自己言及への欲望だっ
たのである。
都市を解明しようとする欲望
40 年代において、ペテルブルグは言説の集中する特権的な題材となった。ある時代に言
説が集中する場は「何らかの焦眉の問題が存在しているところであり、書けども書けども
一向にはっきりしてこない問題が潜んでいるところだと思っていい。その問題がわれわれ
自身ないしはその鏡像だからである396」と多木浩二はいう。
人々は、流動的な世界の中でみずからの位置を確かめ、みずからの住む世界の謎を、み
394
395
396
同書,P.227.
同書,P.227.
多木浩二『建築・夢の軌跡』(青土社,1998)P.303.
112
ずからの秘密を探求したいという衝動に突き動かされていた。その秘密のありかは都市の
内部に求められた。生理学のメタファーは、都市空間や都市生活に内部を作り出した。そ
の内部は、都市の矛盾や問題を孕み、人々の心の深層を投影する場としてつくられた。自
己言及を行うために、自己言及を可能ならしめる構造が都市の中に作り出されたのである。
自己言及をするためには、解明されるべき秘密がなくてはならない。そして秘密を探索す
るためには、表層から深層へ向かう垂直方向の道筋がなくてはならない。その道筋が在る
ためには、到達すべき深層がなくてはならない。
都市の内部を観察し、人々の生活の内部へと分け入ることは、人々の心の深層の秘密を
探求することの隠喩であった。都市論や生理学的な作品は、このような内面の探求の物語
にほかならなかった。外部・内部の二層構造を前提とする生理学ものの流行と、人間の心
の深部をえぐりだす小説の成長は同時であった。自己言及の欲望と深層構造の創造は、こ
の物語を動かすための重要な要素だったのである。
人々は、みずからが作り出した内部探求の物語を現実として生き始める397。内部探求の
物語は虚構でしかないのだが、この虚構の物語が強迫観念のように都市に住む人々の集合
全体を動かし始める398。次第に彼らはペテルブルグの同一のイメージを共有し、その共有
するイメージにしたがって想像力を働かせていくことになるだろう。
解明の不可能
しかしいくら内部を探求しようとしたところで、求めるものが見つかるはずはなかった。
都市の内部をえぐりだし暴き出しそうとしたところで、内部を見つめて見えるものはみず
からの鏡像でしかない。科学によって作り出された内部は所詮探求の身振りをするための
形式に過ぎなかった。したがって都市に投影されているはずの心の深層も、いくら垂直方
向に降りていったところで見えてきはしない。心の裏の裏まで描出したかのような小説を
読むという身振りが意味するものは、みずからの鏡像をひたすらに見つめ続けるというこ
となのである。
19 世紀の科学の成立を改めて思い出そう。19 世紀の科学は芸術とともに博物学の中から
発生してきたものであり、歴史的な産物なのである。科学の科学的な論理は歴史的に変動
しうる理性であり、人間の思考を支配する神話的な物語なのだ399。この産物は不可視のも
のを観察と分析によって見えるものにしようとする回路を持っていたのだが、それは、言
説によって織り成される幻影に過ぎない都市400、あるいは人間の内面に適用されたとき、
それらの幻影をそれと証明するに過ぎない閉じた回路となってしまう。都市の中に、ある
397
398
399
400
同書,P.299.
同書,P.299.
多木『比喩としての世界』P.163.
多木『建築・夢の軌跡』P.300.
113
いは人間の中に謎のありかとしての内部を作り出したものの、その内部を覗き込んだとき
に映るのはみずからの鏡像だけなのだ。
科学の思考が作り出した内部は、初めから探求の不可能性をあらかじめ持っていたのだ。
科学が人間に突きつけたのは、果てしなく広がる無限の深淵であり闇である。都市を題材
とした 40 年代のルポルタージュや小説の描き出した内部を内面化して、自己の内部を探求
しようとする読者は、この無限の袋小路にはまり込み出口を失う401。
科学の論理が持っていた探求の不可能性は、ある形を取った。それがカタログ空間であ
る。生理学的な都市論は、幾つもの都市の断片を併置することによって総体としての都市
を代行しようとするものであった。カタログは、言葉に頼るのではなく何らかの要素を併
置するという形によって、それらのつながりを形成していく構造を持った思考なのである
402。カタログとは、線形の言語に基づく論理や形而上学からは逸脱した思考を含んでおり、
特に大衆の次元でカタログ的な思考が好まれるのは、ある意味で長い正統的な知の体系が
締め出してきた思考を、ほとんど本能的に復活させようとしているからだと多木はいう403。
まさしく読者層が広がりつつあった 40 年代という時代にカタログ的な構造を持ったジャン
ルが出てきたことは、象徴的であるといえる。
カタログ的な思考が 40 年代の都市論に生じてきたのは、そこに住む人間が次第に言葉や
手持ちの分類整理法では読み切れない世界にいることを感じ取っていたからである404。カ
タログ的思考の多くは仮のものであり、とりあえずいま分かっている類型学の助けを借り
ることに過ぎない405。都市論のジャンルにおいて、都市を切り取った断片は、探求される
ことを前提としつつも、初めから探求の不可能な内部を背負った本質を把握し得ないもの
であった。しかもその断片は数限りなく増え続け、断片の集積は分類整理の定かでない複
雑な存在と化していく。そのような初めから把握不可能な都市というものを、それでも解
読するためにカタログという格子が現れるのである。それは、とりあえず羅列し、一見非
体系的な知識の集積から世界を読む試みなのだ406。
生理学的ルポルタージュが描き出した都市や人間の断片は、垂直方向に向かう眼差しに
貫かれていたという意味で内部を背負っていた。互いに関連を持たないバラバラの断片は、
一つ一つが無限の闇へと続いていたのである。
均質空間
401
松浦『知の庭園』P.269. 松浦によれば、このような「無限」は 19 世紀の産物であり、
この「無限」の圧倒的現前が理性を癒しようのない神経症の深淵に突き落としたという。
402
多木『モダニズムの神話』P.268.
403
同書,P.269.
同書,P.270.
同書,P.270.
同書,P.270.
404
405
406
114
土居義岳は、19 世紀前後に起きた都市の概念の変容を近代以前と以後に分けて説明する。
それによれば、近代以前の文化の枠組みは都市と田園の二分法にあり、都市=文化、共同
体であるのに対して、田園=非文化、他者であったという。しかし、19 世紀にはいって労
働者人口が都市に流入し、それまで自立していた都市の生態系が破壊されると、都市は把
握し得ない過剰性の象徴となるというのだ407。近代都市では、都市こそがその中にいる人
間に対して絶対的な他者となる408。
かつて都市の内部であったものは、都市に住む人間にとって絶対的他者、すなわち外部
に反転してしまう。このことは、生理学的ルポルタージュが追求を試みた都市の内部や人
間の内部が、初めから決して探求し得ない闇であり、人間にとっての外部であることと符
合する。生理学ジャンルにおいて都市は、自己の中に潜んでいる理解不可能なあるいは困
難な絶対的他者であった409。
40 年代のペテルブルグの表象において、都市の内部と外部が反転する現象をカガノフは
フォスの水彩画を例にとって説明する。それによると、フォスの水彩画の特徴は、ペテル
ブルグの外れのみすぼらしい田舎の小屋や平屋、納屋のある周辺部に視点を置き、そこか
ら都市の中心部を円形に望む構図を取っていることにある。画家がいるのは町の外部にあ
る平凡な家の中である。画家にとっての内部とは、今いる町の外れの無数の没個性的な街
区である。そして画家にとっての外部とは、円形に望む首都の中心部、いわば内部である410。
都市の地理的外部と内部は、心理的な内部と外部に逆転する。このことは、土井の言う都
市と郊外の意味の変容と重なる。すなわち都市は、人間にとって決して把握することので
きない絶対的な他者となり、郊外はむしろ休息を与える相対的な他者となるという変容で
ある。
このような外部の内部性と内部の外部性が、40 年代の空間的想像力の最も驚くべき特異
性を構成しており、絵画における町の解釈ばかりでなく町の実際の建築物においても現れ
たとカガノフはいう411。その例としてカガノフが挙げるのが、ネフスキイ大通りに面して
ガスチーヌイ・ドボールの向かいに作られたパサージュである。このパサージュは、第三
章で述べたように、1846 年から 48 年にかけてスチェンボク・フェルモル伯爵が建設した
ものであり、ペテルブルグで最初の屋根のあるパサージュであった。パサージュは、同時
代のペテルブルグのあらゆる部類の人々に、暇つぶしの場所として最も好まれたものの一
つとなった412。
このパサージュは、内部であると同時に外部でもある特異な空間であった。パサージュ
土居,前掲書,P.281.
同書,P.282.
409 同書,P.282.
410Каганов, Санкт-Петербург,с.128.
411Там же,с.128.
412Там же,с.128.
407
408
115
はパリの都市論をはじめとして既に様々な分析を施されているトポスであるが、ここでは
内部と外部の反転という局面からパサージュというトポスを考えてみよう。パサージュは
屋根に覆われているという点で内部空間であるが、その屋根がガラスでできており、明る
い自然光が外と同じように差し込むという点で外部に近い性格を持っている。これを、決
して把握することのできない内部、すなわち人間にとって外的な他者的存在でしかない内
部という 40 年代の都市論が露呈する都市の空間の隠喩として読むことにしよう。パサー
ジュは、都市の謎を探求することの不可能性、あるいは都市に住む人々の極め得ない心の
秘密を容れる深淵の空間化なのだ。都市の陽光の降り注ぐ明るい深淵がパサージュなので
ある。
パサージュの商業空間を作り出すのは鉄骨とガラスである。鉄骨ガラス建築、それは 19
世紀後半に盛んに建設され、都市空間に産業化と商業化を現出していく空間装置である。
実利性と効率性の点で抜きんでたこの建造物は、50 年代以降確実に都市空間に浸透してい
く生産力と商品の世界の拡大を示している413。
その一方で、この鉄骨ガラス建築は都市空間や人間の心の内部空間の隠喩ともなる。前
章で述べた温室の比喩で語られる読書空間もまた読者が心の内部に沈潜していく空間であ
り、人間の内面世界とイメージの上で重なるトポスである。このような読書をする際に沈
み込んでいく内面世界と、生理学ものをはじめとする小説が探求しようとした内部は、垂
直の深みへ降りていきみずからの鏡像と向き合う場所という意味で同質である。
19 世紀前半において重要な社会的集団となる中流階層は、発展する商業空間に与すると
同時に内面世界や読書空間として語られるような親密で私的な内部空間を肥大化させて
いった。このことは、散文作品という文化の一断面において現れた。一方で商品としての
書物に載った商品としての娯楽作品は、同時に人間の内面を掘り下げ心の深淵を追求する
内容をもつようになる。社会の商業化と人間の内面世界の肥大化は、中流階層の生活にお
いて、また彼らを読者とする文学作品において表裏をなす二つの側面であった。
ここで再び均質空間という比喩によってこの二面を考えることにしたい。パサージュや
温室などの鉄骨ガラス建築が均質空間の比喩で語られる建造物であることは、第三章で既
に述べた。これに均質空間という比喩を適用するのは、単にこれらの建造物が構造上巨大
で一元的な空間を現出しているからというばかりでなく、本論文全体を通じて均質性と呼
んできた制度を比喩的に示しているからである。鉄骨ガラス建築は、商業の発展を象徴的
に示す装置であるという点で、すべての物を抽象的な貨幣価値に一元化していく制度の比
喩である。それと同時に、極め得ない内面世界を生み出し追求し続ける心性の比喩である。
鉄骨ガラス建築は、このふたつの側面をイメージの上で媒介し、均質空間という概念でつ
なぐ装置である。
この均質空間の中で、40 年代に書物は商品として出回りだし、読者像は果てしなく広が
る内面の世界に沈み込むべきものとして表現されるようになる。断片の集積という形で現
413
多木『「もの」の詩学』P.149.
116
れる都市は、自己言及の果てしない欲望と不可視の闇を抱え込む。
商業化の波が書物の世界に押し寄せ、文学の世界の均質化が始まった時代。均質性の制
度の中に読者が絡めとられ、都市空間になぞらえた人間の内部に深淵が生み出されつつ
あった時代。この 40 年代という時代は、来るべき 50 年代以降決定的な拡大を見せる均質
空間の入り口ではなかったか。
117
結び
ロシア 19 世紀 40 年代の文学に起こった断層を社会における文化的な現象の一端として
捉え、書物、作家、読者像、都市論の 4 局面から記述してきた。考察の対象としてきたも
のは、ものや言説の断片である。それらの散乱する要素をつなぐ特定の文化の構造という、
捉えにくいものを認識するために、一つの比喩を用いた。それが均質空間である。
認識は、因果の分節や言葉の比喩的想像力を駆使した物語的な叙述によってはじめて可
能になるものではないだろうか。「現実」が言語によって媒介され構成されている以上414、
言説やものの断片といったばらばらに散乱する要素をつなぎあわせて認識していくために
は、何らかの物語的な叙述、あるいは修辞が必要であった。
ロシア 40 年代の文化の変容を考える上で最終章に都市を巡る言説を取り上げたのは、こ
の時代の都市論の集積が、世界を認識するための一つの物語的な方法として作られていた
からである。40 年代に流行した都市論は、この時代の人々の欲望や思考、集団的な想像力
が織りなす一種の地図であった。書物、作家、読者像の考察から見出される時代の変容は、
互いにつながりを持ちながらも社会の広い領域に拡散した要素でしかない。これらを地下
でつなぐ文化を凝縮した形で表現したメタ・テキストが、40 年代に言葉によって作り出さ
れた都市である。
何らかの修辞を用いながら文化を読むことには、文化を織り成す言葉と比喩に絡め取ら
れる危険が常につきまとう。それを回避するために、書かれたものを社会の中の物のレベ
ルに返す視点を保持しようとした。文化のメタ・テキストである一方で、都市論は、同時
代の社会的産物である商業出版や職業文士たちのもとで生み出され流通した商品であり、
社会の一部の物にほかならない。この意味で都市論は、メタ・テキストを読みながら同時
にそれを社会の一部に戻して考察するという二面的な視点を可能にする題材であった。
19 世紀 40 年代に現れた文学の断層を社会に生じた動きの一部として説明するために、
書物、作家、読者像、都市論を均質空間という比喩によってつなごうと試みた。最終的に
は都市をめぐる言説の分析に流れ込む形を取ることを意図したのだが、この終章を支える
のはあくまでも 40 年代の文学の周りで生じた書物や出版産業の変動であり、社会全体を巻
き込む大きな文化的断層に関する記述である。この記述にこそ、文学を社会の一部として
見る本論文の視点と主題を表現しようと意図したことを書き添えておく。
高橋修「はじめに」 小森陽一・紅野謙介・高橋修ほか『メディア・表象・イデオロギー
明治三十年代の文化研究』
(小沢書店,1997)P.15.
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参考文献
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多木浩二『眼の隠喩 視線の現象学』(青土社,1992)
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田中陽兒・倉持俊一・和田春樹『世界歴史大系 ロシア史 2―18~19 世紀―』
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土居義岳『言葉と建築―建築批評の史的地平と諸概念』
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フョードル・ドストエフスキー(小沼文彦訳)
『ドストエフスキー全集第 15 巻』
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フョードル・ドストエフスキー(小沼文彦訳)
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(筑摩書
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バルザック(生島遼一訳)
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吉見俊哉編『21 世紀の都市社会学 4 都市の空間 都市の身体』
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小森陽一「近代批評の出発」『批評空間』1(福武書店,1991)P.69-84.
多木浩二「弁証法の場としての室内―ベンヤミン・ノート 3」
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番場俊「『オネーギン』と多声空間、あるいは起こらない出来事」
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