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Page 1 Page 2 一橋論業 第117巻 第3号 平成9年(1997年)3月号 (118
Title
博士論文要旨および審査要旨(堀部政男・山本武利)
Author(s)
Citation
Issue Date
Type
一橋論叢, 117(3): 514-524
1997-03-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/10769
Right
Hitotsubashi University Repository
橋論叢第117巻第3号平成9年(1997年)3月号(118)
︹博±論文要旨︺
ア ク セ ス 権
1 言論の自由における構造変化
アクセス権︵ユ胴;o︸窒8鶴︶という言葉は、わが国でも。か
なり知られるようになってきた。これは、様々な意味で使われ
るが、本論文では、主としてマスメディアをアクセス権の目的
語とするものを意味している︵すなわち、ユ嘗↓o↓碧8鶉一〇
昌鶉閉昌&す︶。それは、ある評者によると、﹁戦後、われわれ
の生活において平凡な日常用語となってしまった﹃言論の自
由﹄の観念にたいして、アクセス権はコペルニクス的転回を迫
っている﹂︵藤竹暁﹃日本経済新聞﹄一九七七年九月一八日朝
刊、堀部政男﹃アクセス権﹄︵東京大学出版会︶の書評︶ので
あウて、これに大きな関心を寄せる必要がある。
ここでは、まず、 マスメディアヘのアクセス権という理論が
生まれてきた背景を抽象化してみることにする。
近代社会における言論の自由は、理念的には﹁国家からの言
堀 部
政 男
論の自由﹂を意味し、言論の目由をめぐる緊張関係は、﹁国家
権力﹂と﹁言論主体﹂との間に存在していた。これは、言論の
て、そこでは、メディアと市民は一体となって国家による言論
自由における二極構造であると把握することができるのであっ
抑圧と闘ってきた。
ところが、資本主義の発展に伴って、メディアもマス化し、
一般はマスメディアから疎外され、情報の﹁送り手﹂と﹁受け
独占化の傾向を強めるようになつた現代社会においては、市民
手﹂という二つの階層が生まれるようになった。その結果、元
アと市民の間に一定の対抗関係が生じるようになり、かつての
来、言論の自由の享有主体として一体感を持っていた、メディ
﹁メディア“市民﹂対﹁国家﹂という二極構造から、﹁市民﹂と
つた。
﹁メディア﹂と﹁国家﹂という三極構造へと移行するようにな
この三極構造の中におけるメディアと市民の間の対抗関係は、
514
体である市民が大量的な伝達手段であるマスメディアに対して
種々の形で出てきている。例えば、言論の自由の本来的享有主
第三章意見広告とメディア・アクセス権
自己の意見を伝達するように要求しても、マスメディアはみず
第一節アクセス権諸理論の概要
第六章 メディア・アクセス権の理論
第五節 CBS事件の総括と評価
第四節 合衆国最高裁の少数意見
第三節合衆国最高裁の補足意見
第一節BEM・DNC事件の発端と法的判断
第二節 合衆国最高裁の多数意見
第五章 CBS事件とメディア・アクセス権
第二節 レソドニフイオン事件とアクセス権
第一節公平原則の形成と適用
第四章 公平原則とメディア・アクセス権
第一節言論の自由と営利的言論の法理
第二節意見広告と言論の目由
からの言論の自由やそれに基づくという編集権・編成権を主張
して、市民の要求を拒絶することなどがあるため、両者の間に
も、自己の主張を通そうとするようになった。
対立意識が生まれるようになり、市民は、国家のカを借りてで
言論の自由における構造変化の理論的な枠組みは、このよう
ス化、とりわけ放送メディアの出現により決定的となうた。し
に抽象化することができるが、この三極構造は、メディアのマ
かし、この三極構造的意識は、初期の段階では稀薄であった。
リカの様々な出来事であり、また、それを理論化した学者の議
そのような意識を覚醒させたのは、一九六〇年代におけるアメ
論であった。
第七章 情報へのアクセス権−知る権利
第二節 アクセス権の問題点と将来
本論文の各章及ぴ各節は、次のとおりである。
第二節 情報自由法
第一節知る権利と国政調査権
皿 本論文の構成
第;早 現代社会における言論の自由
メディア・アクセス権の生成の背景
アクセス権という権利概念が生成してきた背景は、以上の叙
述からある程度明らかであろうが、その具体的な諸要因と考え
第三節 アクセス権の意義
第一節言論の自由 論 と ア メ リ カ 法
第 二 節 言 論 の 自 由 論 の 新 展 開
第一節 アクセス権生成の背景
第一は、民主主義社会における思想・情報などの多様性の要
、つo
第二章 メディア・アクセス権の生成と展開
皿
られうるものをいくつかあげてみると、次のようになるであろ
第二節 アクセス権の展開
第三節 裁判所・議会とアクセス権
515
彙
(119)
橋論叢 第117巻 第3号 平成9年(1997年)3月号 (120)
求である。言論の自由の保障の重要性は、民主主義社会におい
てはどのように強調しても強調しすぎることはない。この社会
では、様々な意見が自由に表明されることを通して、意見相亙
問で自由競争がなされ、多数が支持する意見によって、真理、
ので、その前提となる言論の自由は、民主主義の基本的条件で
とりわけ、政治的真理が発見され、それにより国政が行われる
ある。民主主義社会を建て前とする諸国においては、多様な思
第二に、思想・情報などの﹁送り手﹂と﹁受け手﹂の分離現
象の顕著化をあげることができる。近代においては、目己の意
見を表明する者は、大衆の前で演説する︵例えぱ、ロンドンの
ハイド・パークのスピーカーズ・コーナーで︶とか、パンフレ
ツティアー︵暑ヨ昌一9竃﹃︶という表現にみられるように、小
冊子などによって意見を表明していた。このような方法ならぱ、
性があった。
は可能であって、﹁送り手﹂と﹁受け手﹂との間に立場の互換
誰でもその気さえあれぱ、自己の意見の﹁送り手﹂となること
ところが、資本主義の発展に伴ない、マスメディアも資本主
想一情報などが提供されることが必要不可欠であoて、それは
また参政権とも結ぴついている。
意見を広く伝えようとしてマスメディアにアクセスすることも
うになったことである。市民運動に携わる人々は、ふずからの
トナム戦争反対などをめぐって広汎な市民運動が展開されるよ
に値するのは、人種差別撤廃、公害反対、消費者権の確立、ベ
事を指摘することができる。そのような出来事の中で特に注目
第三に、具体的には、一九六〇年代のアメリカにおける出来
る現象である。
は、アメリカにおいてぱかりでなく、多くの国においてみられ
け手﹂の立場に立つことを余儀なくされるようになった。これ
なり、市民一般は、マスメディアから疎外されて、単なる﹁受
そのため、マスメディアを所有・支配する者が﹁送り手﹂と
け手﹂の分離現象はますます顕著になってきた。特に電波メデ
ィアの出現によって、その傾向は、助長されることになった。
大きくなってきた。そのような状況の下で、﹁送り手﹂と﹁受
義的な企業として発達し、さらにその高度化につれて、規模が
アメリカ合衆国憲法修正第一条は、﹁連邦議会は、⋮言論
い﹂︵日本国憲法第二一条の﹁−:言論、出版その他一切の表
若しくはプレスの自由を制限する⋮−法律を制定してはならな
現の自由は、これを保障する﹂という規定とは形式は異なるが、
ころは、﹁各種のまた相反する情報源からの憎報のできるだけ
実質的内容は同じである︶と規定しているが、その意味すると
広範な伝播は公衆の福祉にとって欠くことができないという前
提に基づいている﹂と解されている︵>窒OO茎&牢窃ωチ
○巨&ω重彦曽①戸ω.−一昌︵婁蜆︶︶。しかし、マスメディ
いる。マスメディアの側も、多様な思想・意見などを提供する
アの集中化・独占化は、情報の多様化にとっては脅威となって
ことに努めているが、しかし、限界がある。そこで、市民は、
みず・からの意見の発表の場の提供や反論の機会の提供をマスメ
ディアに求めるようになってきた。そして、この恩想をさらに
の場︶として把握する考え方も出てきている。
進めて、マスメディアをパブリック・フォーラム︵公共の討論
516
あったが、しかし、彼らの意見はマスメディアから排除される
市場﹄に自由にアクセスできるという信念のとりこになってい
論は、表現の自由のロマンチックな観念、すなわち、﹃恩想の
の﹃市場的﹄解釈の初期の提唱者にも知られなかったアクセス
る﹂ことを痛烈に批判し、﹁修正第一条の起草者にも、またそ
場合も多く、﹁思想の市場﹂に参入することが容易でないこと
アの関心を引くために、激しい運動を展開するようにもなった。
を自覚するに至った。そうした状況の中で、世間やマスメディ
独占化が進み、本書の主要課題の一つである新聞との関係でい
後者を承認し、前者を否認するのはドンキホーキ的である﹂と
済的な交渉力に不平等があるのと同様に、不平等が存在する。
確保の困難さはマスメディアの変容しているテクノロジーによ
って作り出された﹂と分析して、﹁思想を伝達するカには、経
また、一九六〇年代のアメリカにおいては、マスメディアの
ーパー・シティ︵昌①君肩;一q︶が増加し、一九六七年には、
えぱ、ワン・ぺーパー・タウン︵O目oO︸O竃一〇ミコ︶、ワン・ぺ
るならぱ、表現の権利がマスコミュニケーシ目ンの経営者のお
椰楡した。バロンは、﹁修正第一条に関して現実的な見解をと
情けでのみ行使されうるにすぎないとすると、この権利は、い
日刊紙をもつ一五四七都市の、ち、六四都市のみが競争紙を有
ついて独占禁止法の適用除外を認めた新聞維持法︵寿姜君・
に、同条の目的を検討し、その目的は、﹁政治的真理の発見と
そこで、バ回ンは、修正第一条の新たな解釈を提唱するため
するにすぎなくなった。そして、一九七〇年には、新聞企業に
肩﹃零O駕∼き昌>90h−署O︶が成立し、形式的には複数の
日刊紙が発行されている都市でも、実質的には新聞の集中化が
て、こう述ぺる。これらの目的を達成するためには、惰報の多
拡張﹂およぴ﹁公共秩序の維持機能﹂にあると解釈した。そし
ささか貧弱なものであるという認識が必要である﹂と迫った。
行われる可能性が出てきた。しかし、政府は、情報の多様牲を
確保する方策をとらなかウた。
様性とそれを確保する手段が必要となるが、伝統的な表現手段、
はや公の議論のためには適切なフォーラムではない。コミュニ
例えぱ、演説をするためのソープボソクス︵閉S昌冥︶は、も
w パロンの問題提起とその反響
に発想の転換を迫る議論を展開する学者などが現れた。そのよ
ことができるにすぎず、ある思想が受け入れられるための機会
ケーシ目ンの新しいメディアのみが、公衆の前に感情を伝える
以上のような状況を背景として、表現の自由について根本的
は、一九六七年の﹃ハーパード・ロー・レピュー﹄︵雪彗;三
うな学者の一人ジェローム.Aーパ回ン︵−實oヨo中霊弓昌︶
ケーシ目ンのための憲法理論としては、レッセ・フェールは明
のは政府というよりは新しいメディアである。恩想のコミュニ
を奪うことによって表現を最も効果的に制限することができる
雲的葦︶という論文の中で、マスメディアヘのアクセス権を提
らかに不適切である。
一条権﹂︵ぎ8ω二〇;①軍易ω1>ZO冬ヨ鶉一>ヨ彗Oヨ彗一
5ξ宛婁討冬︶に書いた﹁プレスヘのアクセスー新しい修正第
唱した。彼は、この論文の冒頭のほうで、﹁われわれの憲法理
517
彙
(121)
第117巻第3号 平成9年(1997年)3月号(122)
一橋論叢
このように、バロンは言論の自由に関する伝統的憲法理論を
ている。
の脳髄に電極を通す、かの小さなスクリーンを誰が所有し、支
場は、直径わずか二一インチである。今日の権力は、アメリカ
の焦点となウたことである。一九六〇年代と一九七〇年代の戦
﹁過去二〇年間に生じた重要なことは、テレピジ目ンが権力
バロンの修正第一条に関する新しい権利論は、これに賛成す
が積極的な役割を果たすぺきであることを主張した。
批判し、マスメディアヘのアクセス権を確保するために、国家
ると否とを問わず、大きな関心を呼んだ。そのような状況の中
というのは、その権力から、他のすぺての権力、すなわち、政
配し、検閲し、プ回グラムを作るかという点から測定される。
アメリカでは、放送における表現の自由は歴史的に一定の制
V 公平原則とメディア・ アクセス権
治的・経済的・知的権力が生じるからである。﹂
で、合衆国最高裁も、一九六九年には、レッド・ライオン放送
﹃①Oo﹃竺 Oo目言目E目ざ螂=o目ω OO昌H自オ9o目一 ω㊤㎝ ⊂. ω. ω①↓
会社対連邦通信委員会事件︵雰旦=3零Oぎ8竺畠OO■く。
︵ε8︶︶で放送におけるアクセス権を承認するに至った。
アクセス権を承認する裁判所もあったが、合衆国最高裁は、一
約を受けるようになり、放送事業者は、一九三四年の通信法で
一方、新聞については、公立高校や公立大学の学園新聞では、
九七四年のマイアミ・ヘラルド・バブリッシング社対トーニロ
FCCが設置されてからは、公平原則︵雪ヨ霧ωまo巨;︶的
適当な放送時間をあてなけれぱならないこと、②放送時間が反
なものを義務づけられた。これは、放送事業者に①公的争点に
事件︵≦與邑匡o轟巨∼昌ω巨目oqOo.く.↓o∋;oし崖戸ω.
対の見解を的確に反映する点で公平でなけれぱならないことを
Nξ︵ε虐︶︶では、私有の新聞にはアクセス権を認めなかウた。
パロンとともにアクセス権を強力に主張したのは、連邦通信
義務づける原則で、FCCが﹁公平原則﹂と明示的に命名した
のは一九四九年になってからである。
委員会︵幕ま冨一〇〇昌冒⋮−Sゴ9閉Oo昌昌オ9oP勺OO︶の委
ある。彼のアクセス権論は、FCCの委員時代に具体的な事件
員でもあったニコラス・ジヨンソン︵;暮〇一塞﹄g冨昌︶で
であるところから、カ①︷=O目−8邑8血饒目OqOO.く、句&o冨一
しかし、公平原則は、表現の自由に一定の制約を課するもの
〇〇目一昌一﹄目6回饒o目ωOO−自胃二ω90目一ωo蜆O1ω.ω①一 ︵−o①o︶ におい
との関係で展開されたり、著作の中にみられるが、ここでは、
第一号︵一九七五年一月二二臼︶において、情報化社会の一つ
彼が発行人になっていた﹃アクセス﹄︵>o8鶉︶という雑誌の
の原則の目的を達成するために採択された諸規則が合憲である
て合憲性・違憲性が争われ、合衆国最高裁は、公平原則及びそ
と判示した。その際、最高裁は、放送事業者の修正第一条の主
の象徴でもあるテレピについて述べているところを簡単に紹介
張をしりぞけ、免許人の言論の自由は同じく修正第一条によっ
することにする。
ることを説き、そのことを前提としたうえで、次のように論じ
ジ目ンソンは、アクセスというものが民主主義的な躍念であ
518
て性格づけられる公衆の情報を受ける権利︵知る権利︶に従属
するものであるとした。
公平原則は、反対意見を持つ者が放送にアクセスするのに有
効な機能を果たしたが、しだいにその範囲が限定されるように
なってきた。それが示されたのは、OO巨ヨ巨印−﹃O凹αo竃饒目町q
ω︸蜆↓o胃r−目ρく.U耐目δo﹃凹Fざ20ゴO目巴OO昌目ニヰ⑭9︷−NO.ω.
た。
漫︵冨富︶においてであった。本判決については、詳しく扱っ
ちなみに、この公平原則と類似の放送番組編集準則が、一九
五〇年に制定された、日本の放送法の第四四条第三項でも取り
入れ、一九八八年の改正で第三条の二第一項となった。
w 情報へのアク セ ス 権
本論文では、マスメディアヘのアクセス権を中心に論じてい
るが、前述のように、アクセス権は多義的であるので、それ以
前から論じていた情報公開法の問題について情報へのアクセス
権という観点から検討した。このアクセス権は、ユ誓一〇↓
匿8窃一〇−のざという前置詞の目的語にoqoき昌昌昌一
[ε;o]ぎ片昌目き昌がくるものである。ちなみに、情報公
開関係。でアクセスという概念がしぱしぱ用いられることは、本
論文では論じていないが、主要諸外国の憎報公開法の題名︵英
ここでは、情報公開法についてみる前提として、当時関心を
れたもの︶をみると、アクセスという言葉が題名に使われてい
集めていた国政調査権を知る権利の観点、すなわち、情報への
アクセス権という観点から捉え直すことを試みた。それととも
に、情報アクセス権を保障している、アメリカの一九六六年の
て検討した。これは、今日の情報公開論議の端緒になった。
情報自由法︵向冨&o昌〇ニミ昌昌宙ご昌>go=㊤3︶につい
w アクセス権問題提起の評価
日本でも、先進諸外国におけると同様に、否、それにも増し
て、情報の﹁送り手﹂と﹁受け手﹂の分離現象が顕著になって
きたが、アメリカにおけるようなアクセス権的論議は、一九六
一九七〇年代初めにかけて前述のパロンの論文に言及する論稿
〇年代には明確な形では起こらなかった。一九六〇年代末から
は、﹃ジュリスト﹄一九七四年一〇月一五日号の特集﹁マス・
も発表されたが、アクセス権を本格的に正面から取り上げたの
11伊藤正己・石村善治・内川芳美・大森幸男・瀬戸丈水・堀部
メディアヘのアクセス権﹂であった。この号には、﹁マス・メ
ディアヘのアクセスの権利をめぐって﹂という座談会︵出席者
これらが、わが国では、様々な意味で問題提起の役割を果たし
政男︶及ぴ堀部政男﹁アクセス権論﹂という論文が収められた。
たとみられている。
本論文に収めた、このジュリストの拙論については、山田実
﹁アクセス権﹂︵稲萎二千男−新井直之編著﹃新聞学﹄︵日本評
論社、一九七七年三月︶︶が﹁それでは、このアクセス権とい
たのは、一体、いつ頃のことであろうか。それは、一九七〇年
う概念がわが国において明確なかたちで論じられるようになっ
519
語、ドイツ語、フランス語以外の国のものについては、英訳さ
彙
る法律名が比較的多いことがわかる。
(123)
橋論叢 第117巻 第3号 平成9年(1997年)3月号 (124〕
代の前半になってからである。もっと正確にいうならぱ、一九
七三号に掲載されてからである。[他の論稿にも言及して]、わ
七四年一〇月、堀部政男﹁アクセス権論﹂が﹃ジュリスト﹄五
が国における問題状況をしっかりふまえて、このアクセス権と
いう概念が包括的に論じられるようになったのは、やはり、な
んといウても、堀部政男﹁アクセス権﹂においてである﹂と位
置づけている。
この論文などを踏まえてまとめた﹃アクセス権﹄については、
放送界、新聞界などで多面的議論された。その一部については、
新闘をはじめとして様々のところで書評が出たぱかりでなく、
進進弘
堀部政男﹃アクセス権とは何か﹄︵岩波書店・一九七八隼︶で
取り上げた。
︹博士論文審査要旨︺
内 敏
内
村
論文題名 アクセス権
論文審査委員
本論文の構成
森山山
﹁アクセス権﹂とは、マス・メディアに接近して利用する権
クセス権︶のことである。この言葉は、一九六〇年代の後半に
利︵メディア・アクセス権︶又は情報に接近する権利︵情報ア
い概念であった。しかし、これは、七〇年代後半になると、言
いたるまでは、法学者や法律家のあいだでも余り知られていな
一般化し、今日では法学の専門用語というだけでなく、少々高
論の自由の最も現代的な問題と深く関わる権利として、急速に
度な日常用語の部類に属するまでになっていゐ。
その﹁アクセス権﹂をとくに﹁メディア・アクセス権﹂に即
して最も早くかつ包括的に考察し、言論の自由に関するパラダ
イムを転換したと評されたのが本論文である。
本論文の構成は、以下のとおりである。
第一章 現代社会における言論の自由
第一節 言論の自由論とアメリカ法
第二節 言論の自由論の新展開
第三節 アクセス権の意義
第二章 メディア・アクセス権の生成と展開
第二節 アクセス権の展開
第一節 アクセス権生成の背景
第三章 意見広告とメディア・アクセス権
第三節 裁判所・議会とアクセス権
第一節 言論の自由と営利的言論の法理
第二節 意見広告と言論の自由
第四章 公平原則とメディア・アクセス権
第一節 公平原則の形成と適用
520
(125)彙
第二節 レツドニフイオン事件とアクセス権
第五章 CBS事件とメディア・アクセス権
第一節BEM・DNC事件の発端と法的判断
第三節 合衆国最高裁の補足意見
第二節 合衆国最高裁の多数意見
第四節 合衆国最高裁の少数意見
第五節 CBS事件の総括と評価
第六章 メディア・アクセス権の理論
第一節アクセス権諸理論の概要
第二節 アクセス権の問題点と将来
第七章 惰報へのアクセス権−知る権利
第一節 知る権利と国政調査権
第二節情報自由法
二 本論文の概要
第一章 ﹁近代的・伝統的意味における言論の自由論は、マ
ス.メディアが巨大化・独占化するに至った現代社会において
は十分に機能を果たしえなくなoている﹂。そのため、﹁このよ
うな新たな状況に対処するために、新たな理論の確立が、現在
﹁国家からの自由﹂を意味したが、メデイアが巨大化した現代
模索されている﹂。というのも、伝統的な﹁言論の自由﹂は
においては、一般市民はメディアから疎外された﹁情報の受け
せざるを得ないからである。かつてのメディアー1市民対国家と
手﹂にすぎず、その﹁送り手﹂であるメデイアとの関係を顧慮
いうコ一極構造﹂から市民とメデイアと国家という﹁三極構
セス権﹂という新しい法概念が最初にかつ徹底して模索、確立
造﹂への移行が生じたのである。この移行とそれに伴う﹁アク
されたのはアメリカである。アメリカの市民、議員、法律家は、
言論の自由を重視しつつ、この﹁三極構造﹂に着目し、その解
の考察もまた、アメリカにおける重要な学説、委員会報告、裁
決をめぐづて法的な議論を厳しく展開した。それゆえ、ここで
判とその判決をめぐって行われる。
第二章 アクセス権という概念が明確に論じられるようにな
ったのは、一九六〇年代後半のことである。その先頭を切った
い修正第一条権﹂︵一九六七年︶という論文であった。彼はこ
のは、ジェームズ.A.パロンの﹁プレスヘのアクセスー新し
こで、一般市民が﹁思想の市場﹂に自曲にアクセスできるとい
スヘのアクセス権を憲法が保障する権利と位置づけるように主
う古典的﹁言論の自由﹂論の非現実性を暴き、市民によるプレ
となったが、その一年前にすでに合衆国控訴裁判所で注目すぺ
張した。この論文はアクセス権をめぐる議論を沸騰させる契機
き判決が出されている。これは、人種差別的番組を提供する放
送局の免許更新に反対する申立てをめぐる事件について、視聴
と判示したものである。この判決は市民運動に大きな影響を与
者の利益は彼らに免許更新を争う権利を与えるのに十分である、
で登場した。議会でも、一九七〇年にアクセス権を容認する法
え、以後、放送メデイアヘのアクセスを要求する事件が相次い
案が出され、成立こそしなかったが、アクセス権の思想がカを
第三章メデイア・アクセスの一つの方法は費広告である。㎜
得つつあることは明らかであうた。
橋論叢第117巻第3号平成9年(1997年)3月号(126)
合衆国最高裁は、意見広告は営利的言論であり、それに対する
しかし、公民権運動の意見広告に対する名誉棄損の訴えがなさ
保護は他に比して小さなものであるとする立場をと。ていた。
れた﹁ニューヨーク・タイムズ社対サリヴアン事件﹂︵一九六
四年︶で、最高裁は意見広告にも憲法上の保障を与える、との
﹁情報と思想の宣伝﹂の場を保障することを目指した画期的判
判決を下した。これは、﹁出版施設にアクセスできない人﹂の
決である。
第四章 しかし、意見広告に表現の自由の保障を与えること
は、一方ではその資力を持たない者たちの言論の自由を否定す
ることになりかねない。そこで新たに問題となるのが、公的争
点に関する議論に当てる時間の公平性と反対の見解を的確に反
映しなけれぱならないという﹁公平原則﹂である。これは、連
邦通信委員会︵FCC︶が採用した原則であり、メデイアを利
用した反論権を含むものであ。た。最高裁も、放送番組のなか
で人身攻撃を受けたと考えた人物が無料の反論時間を要求し拒
否されたことに対しFCCが介入した﹁レツド.ライオン事
Cの行為を違憲とは断定しなかった。というのも、その判決に
件﹂の判決︵一九六九年︶で、この原則の適切性を認め、FC
よれば、言論の自由はたしかにメディアの活動の自由を保障す
るものであるが、メディアには﹁公益﹂を配慮する義務があり、
﹁至上なのは、視聴者の権利であウて、放送事業者の権利では
ない﹂からである。この判決は、限定的ながら市民のメデイ
ア・アクセス権と視聴者の﹁聞く権利﹂を承認したのである。
第五章 レツド・ライオン判決によって、メディア.アクセ
ス権は大きく前進した。しかし、一九七三年、合衆国最高裁は、
民主党が意見広告を拒否されたことをめぐるCBS事件で、レ
ソドニフイオン判決にしたがいつつ、メディアが意見広告を拒
公平性や客観性への第一次的責任を有する、とされた。最高裁
否することを容認した。メデイアは﹁公共受託者﹂ではあるが、
たのである。ここでは、メデイアの側にかなりの程度の受託者
は一アクセスの利益とその他の利益を比較衡量する立場をとっ
裁量と編集の自治が認められている。
第六章 以上に示してきたように、アメリカにおいては、メ
ディア・アクセス権をめぐる議論は、大きく一般的アクセス権
ある。日本では、憲法二一条の規定が、単にメディアの自由を
承認論、制限的アクセス権承認論、編集権尊重論と多種多様で
いると考えられる。しかし、議論はなお熟していない。一般的
保障するだけでなく、アクセス権の根拠となる可能性を有して
には・メディアの編集権は尊重されねぱならないが、公表され
た結粟に関しては、一定の範囲で反論要求にこたえるべきであ
ャーとなるに相違ない。
ろう。その対応はマス・メディアの社会的貢任を測定するメジ
第七章 アクセス権は、また情報アクセス権、つまり知る権
一九七四年︶があり、二れによつて政府機関の情報提供義務が
利でもある。アメリカには、情報自由法︵一九六六年、改正法
定められ、そのための具体的条件や手続が定められている。日
案し、知る権利を具体化する必要がある。
本においても、将来、知る権利を実現させる体系的な立法を。提
522
や情報へのアクセス要求は、過剰な自己主張でも恩恵の要請で
第二に、本論文は、表現の自由に新しい、革新的と童言える
利にほかならない。
もなく、現代社会において何らかの形で法的に保障さるべき権
国民の共通語にさえなったのは、急速に進展した日本の言論・
アクセス権という言葉が法律家や学界、マスコミだけでなく、
を極力排除するための法的装置であり、憲法学の論点もそこに
視点を与えたことである。従来、表現の自由は国家権力の介入
三 評価
惰報環境の変化と成熟に由来すると恩われる。七〇年代になっ
集約されていた。だが、本論文によれぱ、表現の自由によって
て決定的に増殖、肥大化したメディアや惰報・通信システムは、
個人の社会生活や日常生活に快適な時間と空間を与えたが、同
保障される言論活動は、この現代社会のもとでは、巨大化した
の場を失っている。国民が、言論の自由の効果の単なる﹁受け
マス・メディアによって独占され、国民はその意見発表や反論
時にその力のゆえに逆に個人の生活空間や精神活動を侵害する
ス・メディアや情報を独占する政府、官公庁を前にして、言論
強大な手段となる危険性を孕んでいた。国民は、巨大化したマ
手﹂から﹁送り手﹂に復権するために、国民はメディアにアク
セスする権利をもつべきであり、その権利は立法、行政、司法
の自由と民主主義に対する危機感を覚え、それに対処するため
によって保障されねぱならない。むろん、その間のバランスは
に、メディアの利用や情報への接近を求めていた。アクセス権
という概念が学界とメディア・言論の世界に登場したのは、ま
る。堀部氏がその点に十分な配慮を払い、この問題に慎重に接
での表現の自由が侵されるようなことがあれば、本末が転倒す
本論文の最大の寄与は、アクセス権の現代的意義を、その母
近していることは明らかである。しかし、決定的なことは、国
極めて微妙である。アクセス権を強調するあまり、古典的意味
国であるアメリカに即して、とくに重要な学説と判例の流れの
越えた、権力をも巻き込んだ現代的塗言論の自由論がありうる、
家権カからの自由という古典的な言論の自由の基本的枠組みを
さにこのような時期であり、本論文がその過程で果たした役割
丹念な分析によって明らかにしたことである。アクセス権が現
は特筆に値するものであった。
代社会において理念的に重要な意味を有するだけでなく、制限
である。
第三に、本論文は、英米法研究の分野でも特筆に価する成果
という革新的な認識を堀部氏が説得的に提示した、ということ
接近要求が単に政治的または個人的な要請なのではなく、なに
をあげている。これは、とりわけアメリカにおける言論の自由
的にであれアメリカの最高裁で認められたという事実の指摘は、
よりも法的に正当な要求であるという認識へとわれわれを導き
これまでアメリカにおける言論の自由については、伊藤正己、
に関する研究に一層の厚みを与えた、と評価することができる。
とりわけ重要である。このことは、国民のメディアや情報への
どと同じくすぐれて現代的な新しい権利概念であり、メディア
うるからである。その認識によれぱ、アクセス権は、環境権な
523
彙
(127)
一橋論叢第117巻第3号平成9年(1997年)3月号(128〕
て、繊密で詳細にわたる学説・判例研究を行い、この研究史に
はこの先行する業績を踏まえて、最も現代的な課題を対象とし
奥平康弘、芦部信喜教授などの優れた研究があったが、堀部氏
もう少し明確に示してもよかったのではないだろうか。
の関係でアクセス権をどのように、かつどこまで評価するか、
的立場が不鮮明となっている。堀部氏が、とくに表現の自由と
第四に、本論文は、最終章に﹁知る権利﹂に関する考察をす
第三に、本論文は、複数の発表論文に加筆、訂正したうえで
点の可能性と重要性についてさらに適切な論及があれぱ、本論
の転換がいささか麿突である。二つのアクセス権を包括する視
第二に、メディア・アクセス権から情報アクセス権への議論
えることによって、情報法という新しい研究分野へも配慮を怠
っていない。情報へのアクセスという民主主義の根幹に関わる
れた。もう少し整理されていても良いように思う。
体系化されたものであるため、多少、重複している個所が見ら
法研究の水準がいっそう高められた、と言えよう。
新たな一頁を付け加えた。本論文によって、日本における英米
課題がアクセス権研究にどう関わるかを考察することは、やは
を踏まえて、この点に触れていることは本論文の長所である。
ではまったくない。
えて指摘するものであり、本論文の優れた成果を否定するもの
しかし、以上の問題点は、本論文の高い水準を踏まえて、あ
文はいよいよ光彩を放ったものと思われる。
り優れて現代的な問題であり、アクセス権に対する豊富な研究
この面をも踏まえて言えぱ、本論文は、メディアの世界にとど
審査員一同は、以上の評価と口述試験の結果に基づき、堀部
四 結論
まらず、現代社会における市民のアクセス権の重要性を指摘し、
その展開に大きく寄与した先駆的業績とみなすことができるで
以上のように本論文は高く評価できるが、問題点がまったく
ると判断する。
政男氏に一橋大学博士︵法学︶の学位を授与するのが適当であ
あろう。
ないわけではない。第一に、堀部氏は極めて注意深く、詳細に
平成八年十一月士二日
アクセス権をめぐる議論を紹介し、それぞれの長所、短所をか
なり客観的に提示するが、そのためにかえうて著者自身の基本
524
(129)彙
︹博 ± 論 文 要 旨 ︺
二つの部、そして結語と付録で構成
占領期メディア分析
本論文は、次のように序、
されている。
山 本
第二節 二つの出版団体の相克
第四章 放 送
武 利
第二節 モスクワ放送のプロパガンダ活動
第一節NHK、民放競合体制への歩み
第二部 GHQのメディア政策
第五章 紙芝居−人気と取締り
序GHQ資料の特性
第一部 占頷期メディアの動態
第一章 メディア検閲、没収
第一章 新 聞
第一節 二つの読売争議
第三章 左翼メディアの弾圧
第一節 事前検閲から事後検閲へ
第一節﹃アカハタ﹄の復刊と発行停止
第二節 ﹃朝日新聞﹄の﹁社内革命﹂
第二章 通信社
第二章 メディア民主化の停止
第一節 同盟通信社の解体
第二節 日本共産党大阪府委員会プレスコード違反事件
第二節 出版物没収と図奮館
第二節 ラヂオブレスの誕生と発展
第三節 ﹃毎日新闘﹄の戦後経営
塑二章出版
結語 メディア利用の戦後改革
第四章 アメリカ・メディアとマッカーサー
第四節 軍需と﹃日本タ介ムズ﹄
第 一 節 講 談 社 の 戦 争 責 任 処 理
525
一橋論叢 第117巻 第3号平成9年(1997年)3月号(130)
1 序
GHQ資料の特性
ディアを対象にしている。さらには電信、電話、手紙といった
ながら、本論文の方法やねらいについて説明した。本論文では、
第一章では、占領期の政治や社会にもっとも影響を与えたメ
各章を分けた。
うち、新闘、通信社、出版、放送、紙芝居の五つのメディアで
を光らせている。第一部では、これらのさまざまなメディアの
日本人が使うクチコミ・メディアにも、大規模かつ継続的に目
GHQ/SCAPが収集、作成、保存し、アメリカ国立公文書
序では、本論文の中心的資料となるGHQ資料の性格を述ぺ
館で公開された日本占頒期の資料をGHQ資料とよぷ。日本の
ディアと思われる新聞を取り上げた。まず第一節で当時のメデ
ィアぱかりか全産業における戦後の最初で最大の労働争議であ
った読売争議について、GHQ資料を軸に、労組・従業員側文
国立国会図書館でマイクロフィッシュ化されたGHQ資料の枚
GHQのG−2に所属していたCISの六十万枚を最高にC1
数は三千万枚におよんでいる。そのうちメディア関係のものは、
た。戦前の﹃読売新聞﹄の政府、軍部との癒着にかんして、G
れた数多くの日本側資料から作られた従来の通説を検討し直し
HQ資料側では、第一次争議発生時での労組側による正力松太
献、会社・経営者側文献、そして一般文献などいままで公刊さ
政策、そしてメディアとGHQの関係図を解明するのが、本論
Eなど各部局がそれに続く。これら膨大な第一次資料を出来る
文の目的である。しかしGHQ資料はメディアの直接統治を目
使双方からなされたGHQへの陳情合戦の模様だ。陳情を受け
郎糾弾の内容を追認した記述を行っている。興味深いのは、労
だけ使いながら、占領期のメディアの動態、GHQのメディア
囲が限定されたり、歪められている可能性がある。その限界性
たことがわかる。また第一次争議解決時での馬場恒吾への社長
たClEの日報を見る限り、GHQが労組側に理解を示してい
的としたGHQ自身の資料である。その目的のために資料の範
を補うべく、筆者は日本側文献や同時代人の証言など多様な資
その後の争議はGHQぺースで収拾され、正力株の社員への分
売新聞﹄支配が他紙に波及する危機感を察知したのであろう。
示があったためと推測される。GHQ幹部は共産党による﹃読
組弾圧に転じたのは、マッカーサーのメディア民主化停止の指
幹部の言動から判明する。四六年六月に急転直下、GHQが労
CIEが全面的にそれを支持していたことが、ClE週報での
という通説を覆す指摘も行っている。労組の生産管理時代には、
指名には、GHQの意向を受けた労組側の発言力が大きかった
料にあたった。ともかくGHQ資料は現場の支配者と被支配者
の実態と相互のダイナミックス、両者の息づかいを反映した資
料である。公開を予定していない内部資料であるため、正史に
ありがちな怒意性は弱い。
2 第一部 占領期メディアの動態
ド、放送︵ラジオ︶といったマス・メディアばかりでなく
GH Q は 新 聞 、 通 信 社 、 出 版 ︵ 雑 誌 、 書 籍 ︶ 、 映 画 、 レ
光ニュース、学校新聞、壁新聞、紙芝居、ピラなどのミニ
コ
、
l
"f
),
526
配という第一次争議での公約の不履行も、GHQによって見逃
んだ。GHQの方針で株式は外務省から社員に払い下げられた。
字紙であウたが、進駐した連合軍の新読者を得て、部数が膨ら
の革命﹂と呼びつつも、それが﹁資本と経営の分離﹂につなが
でたGHQの同紙分析によれば、この改革を﹁ジャーナリスト
において、村山、上野家の株に手を付けなかった。その直援に
うに、GHQは従業員側に好意的であった。しかし争議解決時
される過程を追跡した。GHQによって、四五年九月十五日に
関﹂を自任して、日本を代表するプロパガンダのメディアとな
った同盟通信社が、占領直後に共同通信社と時事通信社に解体
第二章の通信社では、まず第一節で﹁対外思想戦の中枢機
駆けの役割を演じた。
で大きな地位を築き、後に生じた一般紙のGHQへの傾斜の先
GHQの流す情報を積極的に掲載する同紙にGHQは購読や用
される結果となづた。
らなかったし、新経営陣も外部・からの新しい血の導入ではなく、
活動停止の命令を受けた同社は、数あるメディアのなかで処分
﹃読売新聞﹄と同じ時期に起きた﹃朝日新聞﹄の争議でも、
戦時下での同紙の軍部協力の活動に尽力した幹部の台頭にすぎ
第一号となウた。APなど海外通信社もGHQ同様に同社に冷
は全国紙に比べはるかに部数が少ないにもかかわらず、新聞界
ないと見なす。つまり大株主追放で嬉々としていた社員たちよ
淡であった。さらに三大紙も軍部の威光を嵩に着て、横暴な行
紙配給といった優遇策で酬いた。GHQ関係者の愛読する同紙
りも、GHQの現場幹部はこの争議が同紙の民主化にはつなが
HQ資料が証明している。この場合でも、第二節で検証したよ
らず、村山家を温存させる重みのない﹁社内革命﹂にすぎない
うした四面楚歌に気づいた古野伊之助社長は、GHQの命令を
為に走ウた同社に冷淡で、APとの新通信社結成に動いた。こ
労使双方からのGHQへのすり寄り工作がなされたことを、G
と冷徹に見ていたことがわかる。
でも、同社のGHQへの迎合とGHQ自身の既存メディア利用
先取りするかたちで二社への分割の決定をくだした。この過程
第三節の﹃毎日新聞﹄関連のGHQ資料は、他の二紙に比べ
上がらせ、その争議が労働運動全体を高揚させたという社会的
外務省でアメリカの英語のラジオの傍受にあたっていた日系二
げたラヂオプレスの占領下での軌跡を検証する。同社は戦中、
第二節は、同盟解体一ヵ月後の四五年十二月に弧々の声をあ
の方針が浮彫りにされた。
少ない。これは﹃朝日新聞﹄の﹁社内革命﹂が読売争議を燃え
な連鎖が、﹃毎日新聞﹄の戦後改革には見られなかうたことが
一因であろう。しかし社内の民主化という点では、同紙ほど占
百%社員に所有されていたし、戦争責任を問う改革の動きも静
その日本メディアヘの配信という新商法に成功し、検閲申請量
世十数人が、ClEや外務省の支援をえて、海外放送の受信と
領初期のGHQの方針に沿う模範的な新聞は少なかった。株は
かな﹁無血革命﹂であった。同紙は系列の新興紙を全国に配置
で共同、時事と首位争いを演じるほどとなウた占領期を象徴す
した最も余裕ある経営を行う全国紙であウた。
第四節の﹃日本タイムズ﹄は戦中の統制で経営強化された英
527
彙
(131)
第117巻第3号 平成9年(1997年)3月号(132)
一橋論叢
下する。
力紙の登場で需給が緩みはじめると、前者の地位は相対的に低
第四章の放送メディアの第一節は﹁NHK民放競合体制への
る新興通信社である。だが、占領後期になると、アメリカ通信
で、同社の市場も狭まった。そこで同社は社会主義国のラジオ
社の日本での活動の活発化や日本メディアの海外取材の自由化
歩み﹂である。大本営や同盟のニュースを送るだけの役割しか
と変わりがなかった。NHKやそれを支配する政府の幹部は、
なかったNHKもGHQによる取り潰しを恐れた点では、同盟
の受信に活路を見出すこととなった。
る。読売争議に代表される新聞社の一連の動きにやや遅れて、
Qの方では、それを時期尚早と見なし、NHKの改革で占領目
占領まもないGHQに民放設立の提案書をだした。しかしGH
出版を扱う第三章の第一節は﹁講談社の戦争責任処理﹂であ
四六年初頭に出版界でも戦争實任追及の声が上がった。その矢
はGHQ御用の放送局にまもなく変身した。しかしGHQは権
的の達成を急いだ。番組や人事の抜本的刷新によって、NHK
面にたったのは、戦前、雑誌界で独占的シェアをもち、戦中に
た。新聞界の争議が比較的一社内で処理されたのに対し、出版
軍部の機関誌をだし、用紙特配で優遇されていた講談社であっ
によるNHKへの対抗勢力の育成を全期を通じ断念したことは
力に弱いNHKの体質をよく認識していた。そのため民放設立
なかった。そしてGHQは占領末期に民放の開局を許可した竈
界のそれは業界ぐるみで展開した。日本出版協会の総会で追及
第二節は鉄のカーテンを越えて送られるソ連のラジオの影響
された講談社では、二誌の廃刊と野閻社長退陣で応えるぱかり
か、野間家所有株式七割の社員への分割を行った。GHQの同
局に命じる程度であった。しかしその異質なニュースの流入が、
送への対策を講じなかった。そのニュース掲載の禁止を検閲当
日本人所有者が、こく少ないことを調ぺたGHQは、モスクワ放
力について検討した。外国放送を受信できるオールウェーブの
社捜索と内部資料押収、業界民主化命令がなかったら、メディ
ア界まれに見る責任処理はなされなかったろう。
抗争と両者のGHQへの対応を検証したものである。前者は戦
第二節は、日本出版協会と日本自由出版協会の用紙をめぐる
時の統制団体であった日本出版会が換骨奪胎したもので、戦犯
とも阻害したことはたしかである。
GHQのねらう均質的なコミュニケーシ目ン空間の形成を多少
紙芝居はCCDを戸惑わせた最大のメディアといって過言で
色が強い業界団体であったが、全国の数千社にのぼる群小の出
なかった。一見マイナーと思える紙芝居に一章を割いたのは、
版社の僑報を握っている点で、GHQにとってきわめて利用価
値があった。ゲリラ的な活動で検閲処分を回避しがちな小出版
四九年に六億二千万人の観客動員という空前の人気を獲得する
ム性をもウていたからである。紙芝居は占領当初は戦争賛美、
のみならず、GHQを刮目させるほどの社会性やジャーナリズ
でにらみをき・かすことができた。後者は用紙配給で前者に冷遇
された講談社など有力出版社が結成したものだ。GHQの政策
社にたいし、GHQは前者に継承を許した用紙配給原案作成権
転換によって、後者の勢力が徐々に強まっていく。さらにセン
528
(133)彙
の研究者から軽視された紙芝居のデータをGHQが残したのは、
占領後期には左翼色の強い内容で厳しく検閲された。従来日本
なかったためである。ちなみにKAMlSH1BAーという用
欧米にないこのメディアヘのGHQ関係者の関心が、終始尽き
GHQのメディア政策
語がGHQ資料の随所に登場している。
3 第一一部
第二部では、GHQのメディア政策の全体像の把握をこころ
みた。第一章では、検閲と没収を担当したCCD、第二章では、
メディアの指導や啓発を担当したCIEという二つのメディア
関連部局の政策やその実施過程を追跡した。第;早第一節﹁事
和の政策がメディア側にどのような反応を生んだかについてま
前検閲から事後検閲へ﹂は、占領の経過とともに進んだ検閲緩
とめた。事前検閲の対象メディアは大都市の新聞社や出版社の
刊行物、通信社の配信ニュース、放送番組、紙芝居など広い範
囲にわたっていたが、検閲当局への作業負担は大きかったし、
メディア側からの不満もとくにアメリカ通信社を媒介にして届
くようになった。そこでプレスコードに引っかかる度合の低い
メディアから徐々に移行措置がとられた。雑誌、書籍の順に四
七年末に、新聞、通信社では四八年七月に移行した。放送の完
CCD傘下のPPBでは、事前検閲への復帰と軍事裁判をちら
全な移行は占頒期にはなかった。メディア検閲を直接担当した
つかせてメディアを牽制した。﹃朝日新聞﹄が模範的態度を示
したように、大多数のメディアが移行後、一層従順になウた。
左翼系新闘と.ごく一部の右翼雑誌に違反がみられた。
第二節ではCCDの行った戦前の軍国主義的刊行物の版元、
取次、書店等からの没収活動の意図や経過、結果をまとめた。
検閲よりも民主主義と矛盾すると見られるこの活動は当局によ
って極秘とされた。しかし一部の地方では、軍政府や日本側が
焚書坑儒的な過剰な反応を示して、CCD本部を慌てさせるこ
があがらないため、一部を残す形で実行された。ともかくGH
ともあつた。図書館からの没収は当初禁止されていたガ・成果
Qは情熱がさめるとともに四八年にその活動を停止した。
第二章﹁メディア民主化の停止﹂では、四五年九月から次々
とだされた﹁政府から新聞を分離する件﹂などの民主化の指令
の解体、有力紙の社長の責任追及と辞任、民主化宣言等の措置
が翌年六月頃から急に停止された過程とその背景を探る。同盟
がそれをつき動かせた。一部のメディアで株式の社員への配分
など戦争責任処理が多くのメディアに伝染した。ClEをリー
ドする幹部の情熟もさることながら、マツカーサー自身の信念
がなされた。﹃読売新聞﹄の生産管理方式が各メディアに推奨
された。新興紙誌という戦争責任のない新しいメディアの創業
た。記者クラブの改革の声もでた。しかしこれらの動きも、第
も支援された。戦前権力に弾圧されたメディアの復刊も急がれ
二次読売争議へのGHQの弾圧でストツプした。編集権の会社
側所属を確認する業界団体の日本新聞協会がClE肝いりに結
成された。新興紙誌も大資本に吸収されるか、廃刊の憂き目に
あった。
壁二章第一節は﹃アカハタ﹄とGHQの関係の占頷期での大
きな転回をたどる。四五年末の復刊から四六年にかけての時期
529
橋論叢第117巻第3号平成9年(1997年)3月号(134)
は、GHQと共産党は蜜月時代にあったというてよい。党は同
紙の部数や損益などの情報をGHQに提出した。プレスコード
処分のケースも少なく、GHQの措置も寛大だった。四七年の
がGHQによる同紙監視をつよめた。編集組織や財務構造が調
二・一ストから両者の緊張がたかまった。日刊化や部数の伸長
べられた。同紙あての電話盗聴や電報・郵便物開封があたりま
えとなった。四八年にかけて抑圧から弾圧へとすすむ。党刊行
何の検討がGHQ幹部によつて真剣になされた。しかし直接的
物の検閲処分が目立うてきた。﹁目に余る﹂違反の軍事裁判如
なGHQ批判を避け、日本政府攻撃を行う同紙への弾圧の口実
はなかなか見つからなかった。四九年の総選挙前後から同紙の
の弾圧姿勢を強めた。マソカーサー直々の指令で総力をあげた
部数は三十万部近くに急伸した。選挙での議席大幅増もGHQ
強めた。全国紙のマツカーサーのメディア化も同紙の党員外購
弾圧策が練られ、いくつか実行されたが、むしろ同紙の紙勢を
読者を増加させた。もちろん社会主義国勢や党勢の拡大もあず
かっていた。五〇年に入ウてからのコミンテルンの党批判以降、
同紙のGHQ攻撃は直接的となり、ソ連側にたった朝鮮戦争報
道を機に発行停止処分をうけた。
第二節は、事前検閲後の四九年夏に共産党大阪府委員会が中
心となって関西地区で起した米軍批判キャンペーンのため、党
府幹部がプレスコード違反として軍事裁判で重い実刑判決をう
けた事件を扱った。府委員会が糾弾した米軍人の敦賀での暴行
ているタプーに党府委員会機関紙﹃大阪民報﹄や細胞の多くの
事件の実相はつかめない。ともかくプレスコードで厳禁となっ
弾圧の好機とばかり多数に重罪を課したが、関西市民のひそか
壁新聞が挑戦したのであるから、弾圧必至だつた。GHQは党
な声援は少さくなく、党の機関紙の部数はむしろ増えた。
第四章は第三章の弾圧政策とは逆に、GHQがアメリカ文化、
民主主義の浸透、GHQのPRに役立つと推進したアメリカ通
よって、マソカーサー批判という日本メディアにはなしえない
信社、雑誌などの日本進出促進化計画が、メデイア側の反発に
﹃リーダース・ダイジェスト﹄の刊行はGHQにとつても大成
逆機能をもたらした過程を明らかにしようとしたものである。
ク﹄などの一部の記者は歯に衣を着せぬ批判でマツカーサーや
功をおさめたが、AP、﹃N・Yタイムス﹄、﹃ニューズウィー
ないアメリカ記者と契約し、かれらの記事を訳載する形で迂回
GHQ幹部をいらだたせた。日本のメディアは権力を物ともし
メディア利用の戦後改革
にはたしたかれらの役割も軽視することは出来ない。
した権力批判を試みた。また日本メディアヘの検閲体制の緩和
4 結語
﹁結語﹂は第一部、第二部の総括である。GHQのさまざま
かについてまとめ、また日本人のコミュニケーシヨンにいかな
なメディア政策が各メディアの構造や機能をどの程度規定した
る影響を残したかについても推測した。CCD,ClEという
二つのメディア関連部局が行。たメディア政策やその実施過程、
した作用を分析するなかで、マツカーサーのメディア観や権力
逆にメディア側からの反応や反発がGHQの言論政策におよぼ
欲が占領期の日本メデイアを根底から規定している、一とが判明
530
リティーがGHQのメディア政策をうみ、それを突き動かすと
した。マツカーサーという最高権力者の言動や思想、パーソナ
を悩ませた。つまりかれの強みと弱みを把握せずして、この期
同時に、妥協や矛層を生じさせ、関連部局の幹部、現場責任者
︹博±論文審査要旨︺
論文題目 占領期メディア分析
=宣光
郎義二
[論文要旨]の通りであるので、
大
の検閲分析から占領期に日本のメディアのみならず、日本人の
本論文の構成
本論文の構成は著者による
ここでは割愛する。
油田村
井崎田
接統治を目的としたGHQの資料であり、その目的のために資
E︶のメディア分析資料などである。これらは、メディアの直
は民間諜報局︵C1S︶の検閲資料や民間情報教育局︵Cl
領期の資料をGHQ資料と呼ぷ。この矢ちメディア関係のもの
本論文では連合軍最高司令官総司令部︵GHQ/SCAP︶
が収集、作成、保存し、アメリカ国立公文書館で公開された占
序では、本論文の中心的資料であるGHQ資料の特性が述べ
られるとともに、本論文の方法と目的に関して説明がなされる。
二 本論文の要旨
員
のメディア分析は不可能であることを確認した。江藤淳は自ら
言語行動や言語空間が閉鎖され、それが独立後の現代にも及ん
ニケーシ目ンをさまざまな形で規定していることはたしかだが、
でいると主張する。GHQの政策が五十年後の日本人のコミュ
戦前の検閲との連続や断絶の解明、日本メディアと権力との関
がその主張の前提になけれぱならないことを筆者は指摘した。
係の史的特性などの把握、さらにはマツカーサiの戦略の研究
日本のメディアは占領初期に民主化宣言や社内改革などで戦
争責任処理を行い、オーディエンスやGHQからの追及をのが
になってからは、戦前の体制、いや戦中の企業統制体制を存続
れようとした。しかしGHQのメディア民主化の停止が明らか
させること、さらにはマッカーサーのメディアとなることに
その時々のかれやGHQの占領目的の達成をはかった。
汲々となった。マソカiサーはそのメディアを冷徹に利用して、
論
文
審
査
委
料の範囲が限定されていたり、歪められていたりする可能性も
531
彙
(135)
橋論叢第117巻第3号平成9年(1997年)3月号(136)
あるが、現場の支配者と被支配者の実態と相互のダイナ、、、ツク
スをよく反映し、公開を予定されていない内部資料としての信
懸性があるという。
著者は六〇万枚に及ぷClS資料を閲覧するなど、これら膨
大な第一次資料をできるだけ用い、関連部局資料を相互に比較
しながら、他方で日本側の文献︵研究成果やメディアの社史
等︶や同時代人の証言など多様な資料にもあたっている。この
ようにして、占領期約六年間のメディアの動態を描き出し、G
HQのメディア政策、そしてメディアとGHQの関係を解明す
ることを目的としている 。
第一部ではGHQが対象としたさまざまメディアの、つち五つ
を順次取り上げて、占領期のその実態を克明に描いている。第
;早では、占領期の政治や社会に最も影響を与えたメディアと
最大の労働争議であった読売争議が取り上げられ、日本側資料
考えられる新聞が扱われる。まず第一節では、占頷期の最初で
ここでは、一九四五年一〇月の第一次争議発生時における労組
から作られた従来の通説がGHQ資料の観点から検討される。
時の正力による馬場恒吾社長指名においては労組側の発言力が
側による正力松太郎糾弾の内容をGHQが追認したこと、解決
大きかったこと、労組の生産管理時代にはCIEがそれを支持
していたことなどがGHQ資料から明らかにされる。興味深く
描かれていることは、労使双方からGHQになされた陳惰合戦
の模様である。その後の四六年六月の第二次争議以降GHQは、
マッカーサーのメディア民主化停止の指示に呼応して、急転し
て労組弾圧に転じる。この間の動態はプレス課の実権を握った 32
5
インボデンの動向を中心に描かれている。また、第一次争議で
約東された正力株の社員への分配の不履行もGHQに見逃され、
後の復権つながったことも論じられている。
続く第二節では、朝臼新聞の戦争責班追及、社内民主化をめ
ぐる争議の動向を描いている。ここでは、労使双方からGHQ 。
へすり寄り工作があったこと、GHQは従業員側に好意的であ
ったことを明らかにしている。また、四五年一〇月の幹部の総
辞職による改革が一般に﹁社内革命﹂と喧伝されていることに
対して、GHQは一定の意義を評価レたもののその限界を指摘
していた点を明らかにしている。これは、GHQ担当者が株式
されている点を認め、改革が﹁資本と経営・編集の分離﹂に十
保有の推移を調ぺ、社主であった村山家、上野家の持株が温存
る。
分つながっていないことを冷徹に見抜いていたというものであ
第三節では毎日新聞の戦後改革が、社会的影響力の点では先
では占領初期のGHQの方針に沿う模範的なものであったこと
述の二紙より小さく、GHQ資料も少ないが、社内民主化の点
を問う改革も静かな﹁無血革命﹂であり、系列の新興紙を全国
を描いている。株式は百パーセント社員に保有され、戦争責任
に配置した余裕のある経営であったと述べられている。
第四節では英字紙である﹃日本タイムズ﹄が、占領軍関係者
という新読者を得て、部数を急増させた様子が描かれている。
三大紙と比べるとそれでもわずかの部数であったが、GHQの
流す惰報を積極的に掲載した同紙は、新聞界で高い地位を築き、
第二章の通信社では、まず第一節では、戦中には日本を代表
と論じられている。
後に生じた一般紙のGHQへの傾斜の先駆けの役割を果たした
しかし、その直後に日本出版協会を脱退し、日本出版自由協会
間省一社長の退陣、野間家所有株式の社員への分割を実施した。
は日本出版協会の総会で戦争責任を追及され、二誌の廃刊、野
には軍都機関誌を発行して用紙特配で優遇されていた。講談社
を緒成した。これは日本出版協会が握っている用紙配給の実権
するプロパガンダのメディアとなっていた同盟通信社が、占領
直後に共同通信社と時事通信社に解体される過程が描かれてい.
ったと論じられる。
に対抗すぺく、GHQや政府へ働きかける基盤を作るためであ
第二節では、その二つの出版協会間での用紙をめぐる抗争と、
る。四五年九月にGHQより活動停止命令を受けた同盟通信社
外の通信社と連携して別の通信社結成を画策する状況で、当時
本出版会を継承した日本出版協会は、戦犯色の強い業界団体で
両者のGHQとの関係が描かれる。戦時中の統制団体である日
は、数あるメディアの中で処分第一号となった。三大紙等が海
への分割の決定を下した。この過程で浮き彫りにされることは、
いる点で、GHQにはきわめて利用価値があった。検閲処分を
あウたが、全国の数干社にのぼる群小の出版社の情報を握うて
の古野伊之助社長はGHQ命令を先取りするかたちで自ら二社
あるという。
同社のGHQへの迎合と、GHQの既存メディア利用の方針で
第二節では、戦時中に外務省情報部ラジオ室で、アメリカの
配給原案作成権を介して統制を実施しようとしたのである。日
回避しようとする小出版杜に対して、出版協会に付与した用紙
力にモノを言わせて購入したり、後に登場した統制外のセンカ
本出版自由協会は、小出版社から流出した闇市場の用紙を資金
英語ラジオの傍受にあたっていた日系二世たちが、CIEや外
務省の支援を得て、四五年二一月に発足させたラヂオプレス社
紙を使用するなどして対抗し、勢力を強めていった。
の活動を描いている。ラヂオプレスは海外放送の受信とその日
本メディアヘの配信という、占領期独特の通信社として成功し、
HQに提出されたが、GHQはその構想の稚拙さを見抜き、時
かれる。占領初期にNHKと逓信省から民放設立の提案書がG
期尚早と判断して、まず人事や番組を抜本的に刷新することを
第四章の放送メディアの第一節では、NHK改革の動態が描
の活動の自由化に伴い、社会ま義国のラジオ受信に業務は収東
求めた。NHKの放送状況は改善されたが、戦時中の軍部御用
検閲申請量で共同、時事と肩を並ぺるほど活躍した。しかし、
していった。
外国通信社の日本での活動の活発化、日本のメディアの海外で
第三章では、書籍、雑誌の出版の動態が扱われる。第一節で
いう。この権力に弱いNHKの体質をよく認識していたGHQ
からGHQ御用の放送局に変身したに過ぎないと判断されたと
は、民放設立によってNHKへの対抗勢力を育成する必要を痛
は、四六年初頭に出版界でも戦争責任追及の声が上がり、その
れる。講談社は戦前には雑誌界で独占的なシェアを持ち、戦中
矢面に立った大手出版社である講談社を中心とした動向が描か
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彙
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平成9年(1997年)3月号 (138)
第117巻第3号
一橋論叢
感し、占領末期には民放開局を許可したと論じられている。
のGHQの対応が描かれる。外国放送を受信可能なラジオを所
第二節ではモスクワ放送のプロパガンダ放送活動と、それへ
ことが求められ、その煩雑な作業には不満も多く、アメリカ通
誌、書籍は四七年末に、新聞、通信社では四八年七月に事後検
信社を媒介してその不満を表明するようになった。そこで、雑
そうGHQに従順になったと述べられている。
新聞が模範的態度を示すなど、大多数のメディアが移行後いっ
の可能性を示唆しながらメディアを牽制した。その結果、朝日
なかウた。しかし、多少であるがGHQの情報支配に風穴をあ
第二節では、CCDが極秘に実施した軍国主義的刊行物の没
閲に移行した。この際、PPBは事前検閲への復帰や軍事裁判
けた点に意味があると論じられてる。
有する日本人が少ないことを調べたGHQは、そのニュース掲
第五章の紙芝居は、民間検閲部︵CCD︶を最も戸惑わせた
ながらまとめている。民主主義のために実施された民主主義に
収について、松本剛﹃略奪した文化﹄︵一九九三年︶に依拠し
載を排除するよう検閲当局に命じる程度で、特別の対策を講じ
メディアである。一見マイナーと思える紙芝居である窄四九
子が資料をもとに明らかにされている。
反する焚書活動の、混乱、一部の過剰反応、そして不徹底の様
年には延ぺ六億二千万人の観客を動員するほどの人気を獲得し
ていた。その内容も、GHQを刮目させるほどの社会牲やジャ
四六年六月には突然停止された過程と背景が述べられている。
第二章では、占領初期のGHQによるメディア民主化指令が
ーナリズム性を持ち、占領初期には戦争賛美、後期には左翼色
究者からも軽視されていたメディアとしての紙芝居の意義を、
GHQは、旧来のメディアの幹部の戦争責任追及、一部のメデ
ィアでの株式の社員への配分、新しいメディアの創業等の動き
の強い内容で厳しく検閲された。本論文ではこれまで日本の研
多くの資料に基づき紹介している。
ズム育成を推進した。しかし、米ソ対立の冷戦構造の顕在化を
を直接♪間接に支援して、日本のメディア民主化とジャーナリ
べられている。
の懸念を契機として、民主化の抑制にGHQが乗り出したと述
背景として、一部メディアヘの共産党などの左翼勢力の浸透へ
第二部では、GHQのメディア政策の全体像の把握を試みる。
追跡される。その第一節では、CCD傘下のプレス・映画・放
第一章では、CCDによるメディアの検閲と没収の実施過程が
送課︵PPB︶による四五年一〇月頃の事前検閲の開始から、
第三章では、第一節でGHQの対共産党政策を述べながら、
から四六年にかけての時期は、GHQと共産党は蜜月時代にあ
その機関誌﹃アカハタ﹂との関係が論じられる。四五年の復刊
占頒の経過とともに事後検閲へと進んだ検閲緩和政策と、メデ
ィア側の対応がまとめられている。事前検閲の対象は広い範囲
にわたっていたが、検閲当局の負担は大きく、言論の自由を調
り、﹃アカハタ﹄はGHQの方針に従順なメディアであり、G
うGHQの民主化政策における自己矛盾でもあウた。メディア
の側では検閲の証拠を残さないように最終的な内容を作成する
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(139)彙
HQの措置も寛大であ。た。しかし四七年の二ニストから両
者の緊張が高まり、同紙の日刊化や部数の伸長にともなって、
同紙への監視体制が強まった。編集組織や財務構造が調べられ、
電話盗聴や郵便物開封があたりまえとなり、四八年にかけては
弾圧が強まり、検閲処分も増えた。四九年一月の総選挙での共
産党の大幅議席増の頃には、さらに同紙の部数は伸び、GHQ
ではさらなる弾圧策が図られたが、同紙はさまざまな形で抵抗
し必ずしも実効はあがらなか。た。そして、五〇年七月のソ連
側にたった朝鮮戦争報道を機に、発行停止処分にいたったこと
が紹 介 さ れ る 。
第二節では、事前検閲後の四九年夏に、共産党大阪府委員会
が中心とな。て関西地区で起こした米軍批判キャンベーンのた
めに、党府幹部がプレスコード違反として軍事裁判で重い実刑
判決を受けた事件が紹介される。GHQは共産党弾圧の好機と
ぱかりに多数に重罪を課したが、関西市民のひそかな声援は少
べている。
なくなく、党府機関誌﹃大阪民報﹄の部数はむしろ増えたと述
第四章では、GHQがアメリカ文化、民主主義の浸透、GH
Qの宣伝に役立つと推進したアメリカ通信社、出版物などの日
本進出促進政策が、当のメディア側の反発によって、マッカー
サー批判という日本メディアにはなしえない逆機能をもたらし
た過程が明らかにされる。﹃リーダース・ダイジェスト﹄の刊
行はGHQにとつても大成功をおさめたが、AP通信社、﹃ニ
ューヨーク.タイムス﹄、﹃ニユーズ・ウィーク﹄などの一部の
記者は、歯に衣着せぬ批判でマツカーサーやGHQ幹部をいら
だたせた。日本のメディアはこれらアメリカ記者と契約し、か
このようにして、アメリカ・メディアは日本メディアヘの検閲
れらの記事を訳載するかたちでささやかな権力批判ができた。
体制の緩和にも重要な役割を果たしたと論じられている。
結語では、本論文の総括として、GHQのさまざまなメディ
ア政策は、最高権力者マヅカーサーが日本メディアを利用して、
占領目的の達成や、自分の権力欲の達成を冷徹に図ったもので
あると論じられる。マソカーサーの言動や思想、パーソナリテ
ィがGHQのメディア政策を突き動かし、時には妥協や矛麿を
生じさせていたというのである。日本のメディアはその時々の
の存続を図つたという。もちろん、面従腹背のしたたかさも認
政策に敏感に応じて、風見鶏的な対応を繰り返し、企業として
﹁慣れていた﹂検閲等に従順に従ったと述べられている。
められるが、権力追随の儒教的精神を背景として、戦前から
三 本論文の成果と問題点
本論文の第一の成果は、これまでほとんど検討がなされてこ
なかった膨大在GHQのメディア関係資料にあたうて、知られ
ていなかった史実を明らかにし、他の資料だけでは不十分であ
うた占領期のメディアの動態を詳細に明らかにしたことである。
された点は数多く、それぞれにメデイア史研究における価値が
原稿用紙に換算すると千七百枚におよぷ大作の中で新たに指摘
見出される。第二の成果は、占領期のメデイアの動態を日本の
メデイア史全体の中で考察することによ。て、日本の主要なメ
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橋論叢第117巻第3号平成9年(1997年)3月号(140)
れぱ、日本のメデイアは権力に対抗するのではなく、権力の動
ディアの基本的性格を明らかにしている点である。本論文によ
あるという。﹁不偏不党﹂のイデオロギーも、実は自己保身の
向を敏感に読みとり、権力から自らを守ろうとする点に特徴が
産物であったと論じられる。第三に、メデイア研究の中では十
である。﹁紙芝居﹂、﹃日本タイムズ﹄、﹁ラヂオプレス﹂、﹁モス
分に焦点をあてられてこなかつたメデイアの意義を紹介した点
クワ放送﹂がそれにあたる。
第一次資料にあた。て歴史を再構成する意義を示した点も成果
以上の主たる成果に加えて、GHQ資料の価値を明らかにし、
に加えられるだろう。また、さまざまな資料を丹念に積み上げ
て成立した本論文では、随所に研究を刺激する逸話や、人間ド
ラマを則出すことができる。例えば、結語の最初の部分では、
郵便開封、電話盗聴という市民に直接関係するメデイア検閲に、
検閲する側として関わつた日本人の延言が倣り上げられている。
そのコ墨切り行為﹂をして生き延びた後ろめたさの記述は、日
本史上唯一といえる異民族に支配された時代の姿を浮き彫りに
している。必ずしも整然と叙述されてはいないが、こういった
個別の記述にも評価される点が多い。さらに八○ぺー、ソに及ぷ
付録にも、研究資料としての価値がある。
本論文の問題点を挙げるとすれぱ、まず、占領期メディアの
﹁本文で部分的に言及した各メデイアの歴史における占領期の
全体像の把握がまだ不十分な点である。著者自身もあとがきで、
める余裕がなかウた﹂と記しているが、確かに論述がメディア
位置、この期のメディア閻の有機的な関連などについてはまと
き彫りにするには、今後の研究にまつぺき点もある。次に、G
全般に及ぶため、GHQのメデイア政策総体の特徴や変遷を浮
HQの占領政策全体の観点からのメディア政策の位置に関して
ある。また、序で著者自身が論じているように、未公開の﹁極
も論述が不足している。この点でも全体の見取り図は不十分で
秘﹂資料等、未接触の資料も残。ており、それらとの接触、検
もある。もちろん、以上の問題点があるとしても、膨大なGH
討に応じて、本論文の内容の一部は将来より深められる可能性
Q資料をよく渉猟して、占領期のメデイア史に関する新たな史
実を多数発掘した成果は高く評価できる。
四 結語
審査委員一同は、上記の評価に基づき、山本武利氏に対し一
断する。
橋大学博士︵社会学︶の学位を授与することが適当であると半
平成八年十一月十三日
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