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「私」一般ではないこの私について語ることの可能性

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「私」一般ではないこの私について語ることの可能性
個人研究発 表
「私」一般ではないこの私について語ることの可能性
新田 智弘
序
この私についての命題としての「この私 にとって『私だけが本当の
1
痛 みをもっている』
」
「この私にとって 『私だけが本当の痛 みをもって い る』
」 とい うこ
との意味
2.
この私についての命題 と「私」一般 の命題の差異
2
1. 3
他者はこの私についての命題をこの私 と同様には理解できない
2
他者によるこの私についての命題の読みかえの可能性
3
結び
序
「私 とは どの ような存 在 か」 とい う問 い は哲 学上 の重要 な問 い であ る。 この
問いは往 々 に して「私」 一 般 の 問 い として 問 われて きた。 「私」 一 般 の 問い と
はどうい うこ とか。「私 とは どの ような存在か」とい う問い に対す る答 えは「私
とは<…
>で ある存在で あ る」 とい う形 を取 る。 しか し、 この答 えが、 いか な
る人に とって もそ うであ る、 とい うことが 暗黙 の 内に前提 されが ちである。 つ
ま り「 い か なる人に とって も『私 とは <…
>で あ る存 在であ る』」 とい うこと
が前提 されが ちである。 これ が 「私」 一般 の 問 い として問われて きた とい うこ
とである。
なぜ「 私 とは どの よ うな存 在か」 とい う問 いの解 明 に対 して、 いか なる人に
とって も同 じもの を求め る とい うこ と、す なわち「私」一般 の解 明であ るこ と
が前提 されが ちなのか。通 常 、私 の存在 の解 明 に限 らず、 一 般的 な学問的解 明
においてはそ の解 明が客観 的 で ある こ とが 前提 とされる。 例 えば、「地球 は太
陽の周 りを回っている」 とい うことは客観的でなければならない。この客観的
であるとい うことの意味は「いかなるひとにとっても同 じである」 とい うこと
である。このような一般的な学問的解明が もつ客観性 とい う前提 を、「私とは
どのよ うな存在か」 とい う問いの解明 の場合にも無批判に取 り入れた場合、い
かなる人にとっても同 じことを求めるとい う結果になるのである。
もし「私 とはどのよ うな存在か」 とい う問いに対す る答 えが、 この私「1身 に
ついて答える場合にも、「私」一般について答える場合にも同 じであるならば、
上で示 したような前提 に問題はないであろう。 しか し、これは証明されてお ら
ず、 したがって前提する ことができない。この私 についての答えには「私J
^
般についての答えにはない ものが存在す る。ではそれは何であるのか、そ して
それは どのような性質の ものであるの か、 これ らに答えるのが本論の課題であ
る
l。
さて、 ここで実際 の解明に入る前に、 この私についての解明 と形式上、混同
じやす い事例を挙げ、予 め排除す ることによって本論 の対象をさらに明確化 し
ておこう。その事例 とは この私 につい ての単なる個別的事象 を扱った事例であ
る。例 えば私 =新 田であるときの「この私 は京都 に住 んでいる」 とか「この私
は明石の出身である」 とかい う事例 である。これらは確 かに対象 としてのこの
私に当てはまる事象 を述べ ている。す なわち「この私 は京都 に住 んでいる存在
である」 とい う形で言 い表される。それゆえ一見、形式的には、本論の探究 の
対象 であるかのように見える。 しか し、本論が問題としたいのはそのような事
例ではない。なぜならば、私 =新 田であるときの「この私 は京都に住んでいる」
はなるほど対象 としてのこの私に特有 の事象 についての言明であるが、しか し、
いかなる人にとって も同 じ事象 につい ての言明である。 また、確かにこの私 =
新田に よっては「この私は京都に住んでい る」 とい う「 この私は」 とい う表現
を使 うが、 このときの「この私 は」 とい う表現は新田ではない他者が新 田を指
して「この人は京都に住んでいる」 とい うことと同じことしか指 してい ない。
すなわち「 この私 は京都 に住んでいる」は、「いかなるひとにとってもこの人
(新 田)は 京都 に住んでいる」ということと同じことしか指 していない。したがっ
て、「この私 は京都 に住んでいる」における「私」は、「私」 とい う語を使用
す る必然性がない。本論で問題とした いのは「私」 とい う語を使用する必然性
104
_
「私」一般ではないこの私について語ることの可能性
がある場合 のこの私 の存在 なのである2。
1
この私 につい ての命題 としての「 この私 にとって『私だけが本当の
1. 1
痛みをもっているJ」
「この私 にとって 『私だけが本当の痛 みをもっているJ」 とい うこ と
の意味
さて、 「私 とはどの ような存在か」 とい う問いに答えるために、「私 だけが
本当の痛みをもっている」という命題を取 り上げたい。そ して、この命題が「私」
一般ではな く、 この私 の存在をあらわす とき、その命題 にお ける「私」は新 田
を指す ものとする。 したがって「この私 =新 田にとって 『私だけが本当の痛 み
をもって いる』」 と表現 で きる。 これに対 して「私」 一般 の場合には「いかな
る人にとっても『私だけが本当の痛 み をもってい る』」 となる。これ らは序 で
使った言い回 しにそれぞれ書 きなおすなら「この私 =新 田にとって、私 とは、
それだけが本当の痛みをもってい る存在 である」 と「いかなる人にとって も
『私』とは、それだけが本当の痛みをもっている存在である」となる。本節 1.
1で は、特 に断らない場合、 「私だけが本当の痛 みを もっている」は前者の、
私 =新 田の場合について述べ ているものとす る3。
「私だけが本当の痛 みをもっている」 とはどのような意味であろうか。 これ
はこの私の痛 みと他者 の痛み とが根本的に相違 し、本当の痛みと言えるのがこ
の私の痛みだけであることを指す。このことを以下で明 らかにしたい。
「私だけが本当の痛 みをもっている」 とは、字句通 り受け取るならば、端的
に偽であるように見 える。確かに私は本当の痛みをもつが、 もちろん他者も本
当の痛 みを もつ。 したがって私だけが本 当の痛みをもつのではない。それゆ え
上の命題は偽であるように見える。 しか し、この命題が主張 したいのはそ うい
うことではない。私 も他者 も、もちろん痛みをもっているのであるが、上の命
題が指 してい るのは私の痛 み と他者 の痛み とが根本的に相違 していることであ
る。そ してこの二つの間の相違 はこの私 にとって「私 の痛 み」がその感覚の内
実をもってお り、「他者 の痛み」がその感覚の内実をもって いない とい うこと
に基づ く。それではこの内実 とは何を意味するのであろ うか。
私 の痛 み の感覚 の 内実 とは、 まさに感覚その もの を指す のであ り、 したが っ
て これ は明 白であ る。で は他者 の痛 みの感覚 の 内実 は どうで あろ うか。ある意
味 では、他 者 の痛 み にも内実が存在す る とは言 える。 つ ま り、他者が痛が って
痛 みの振 る舞 い を見せ る ときに、我 々は、他者 に 関す る感覚 や感情 な しの中性
的な振 る舞 い 、言わば物理的 に記述 され うるだけ の振 る舞 い を見て い るのでは
ない。我 々は他者 の振 る舞 いの うちに痛み を見て取 って い るのである(,そ れは
すで に痛 み の振 る舞 い な の であ る
4。
通常 の 人 間 には、他 者 の振 る舞 いにお い
て他 者 の痛 み を見て取 る能力が存在す る。 この よ うに考 えるな らば、他者 の痛
み に対応す る ものは存在 し、それは他 者 の振 る舞 いの うちに見て取 ることがで
きる他者 の痛 みである と言 うこ とがで きる。
しか し、本論 で他 者 の痛 み に感 覚 の内実が あ るか どうか 問 うときに問題 とし
た いの は、 そ の よ うな ものでは ない。確か に私 は他 者 の振 る舞 いの うちに他者
の痛 み を見 て取 るこ とがで きる。 しか し、他 者 自身は 自分 の痛 み をもつ とき、
どうなのであ ろ うか。他者 自身が 自分 に痛 みが あ るこ とを見て取 る場合 には、
自分 の振 る舞 いの うちに(例 えば鏡 を見 るな ど して)自 分 の痛 み を見て取 るわけ
ではない。他 者 は 自分 自身 の痛 みの感覚か ら自分 に痛 みがあ るこ とを見て取 る
(回
りくどい 言 い 方 にな って い るが、 つ ま りは他 者 は 自分 の痛 み を直接 に感 じ
るとい う こ とであ る)。 ここで他者 の痛 みの 感覚 の 内実 として問題 としたいの
は、他 者が 自分で感 じるときの他者 の痛 みの感覚 なのである。
この ような他 者 の痛 みの感 覚 を問題にす るな らば、 この私 に とってはその内
実は存 在 しな いこ とになる。 とい うのは、他者が痛み をもって い る とき、私 は
痛 みを もた な いか らであ る。 したが って私 の痛 み の感覚 と他 者 の痛 みの感覚 は
相違す るのである。 しか し、そ の相違 とは上で根 本的 な相違 であ る と言った。
それは どの よ うな意味 で根本的 な相違 なの だろ うか。
私 の痛 み と他 者 の痛 み の相違が根本的 であ る とは、その相違が偶然的相連 で
はな く、論 理 的相違 であ る とい うこ とを意味 して い る。 偶然的相違 とは二つ の
ものが論理 的 には同 じである可能性 があ るのだが、偶然、異 なって い るだけの
もの を意味 す る(例 えば、私 は黒 髪 であ り、あ る人が 金髪で あ った な ら、 この
二つの 間の相違 は偶然的相違 であ る。 とい うの は、私 が金髪であ ることは論理
的 にはあ りうるか ら)。 仮 に他 者 の痛 みの 感覚 の 内実 を偶然 、 この 私が もつ こ
「私」一般ではないこの私について語ることの可能性
とがで きな い だけで あ り、場 合 によっては もつ こ とがで きる性格 の ものであ っ
たとしよ う。そ うす る と、私 の痛 みの感覚 の 内実 と他者 の痛 みの感覚 の 内実は、
偶然 もつ こ とがで きる性 格 の もの と偶然 もつ こ とがで きな い性格 の もの との相
違(偶 然的相違 )と い うことに なる。 しか し、 二つの間の相違はそ うい うもので
はない。他者 の痛みの感覚 の 内実をこの私 は偶然、 もつこ とがで きないのでは
なく、論理的にもつ ことがで きないのである。
このことを明 らかにするために、仮に、この私が他者の痛 みの感覚 の内実を
もつことがで きるとしたならば、 どのような事態 が考えられるかを想像 してみ
る。私の痛み と他者の痛 みが 同 じであるとする。 このような想像 によって考え
うる事態 は、 具体的には次の ような事態であろう。他者が他者 の身体 のある部
位 に痛みをもつ とき、私 もそ の他者 の身体 の同 じ部位に痛 みを もつ。痛みの部
位だけでは な く、痛みの性質、痛みの継続時間などもまった く同 じである。こ
のようなことは経験的にはあ りえない としても、論理的にはあ りうる。このと
き、私は他者の痛みをもつ ことがで きるであろう。
しかし、 このような想像 の 下でさえも、実は私は他者の痛 みを もつ ことはで
きない。上の想像が、いか なる事態であるか、 よ り詳細に考えてみよう。「私
が他者の痛 み をもつことがで きる」 とは、「私は他者の身体 のある部位に私の
痛みをもって いる」 とい うこと、そ してその ときに他者 も他者 自身の身体の同
じある部位 に痛みがあると言明するというこ とが経験的に確かめ られる、とい
うことである。 これは「私 は他者が痛みをもっているとい うことを知ることが
できる」 とい うことに過 ぎず、「私が他者 の痛みをもってい る」 とい うことで
はない。上の想像でも私が可能なのは、私が他者 の痛みを もつ とい うことでは
なく、あ くまで私が私の痛 み をもつ とい うことである。よって、私が他者の痛
みをもつ とい うことは論理的に不可能なのである。 したがって、私 の痛 みと他
者の痛みの相違 は論理的な相違であ り、それゆえ根本的な相違なのである。
以上か ら、経験上、私は他者 の痛みの感覚をもつこ とはないが、論理的にも
他者の痛みの感覚の内実は存在 しないことが示 された。そ して、私 の痛 みの感
覚の内実のみ がこの私 にとって明 らかである。 したがって「私だけが本当の痛
みをもってい る」のである。
1.2
この私 についての命題 と「私」一般 の命題の差異
以上で「 この私 =新 田にとって 『私 だけが本当の痛 みをもっている』」 とい
うことが、私の痛 みには内実があ り、他者 の痛みには内実がなく、その 間の相
違が論理的相違であるとい うことに基 づ くことが示された。次に「この私 =新
」 が「私」 一般の命題、すな
田にとって 『私 だけが本当の痛みを もっている』
わち「 いかなる人にとっても『私 だけが本当の痛 みを もっている』」 と異なる
ことを示 したい。 この私 についての命題 と比較されるべ き命題は、 1[確 には
「私」一般の命題の一事例 としての「新 田にとって『私 だけが本当の痛みをもっ
てい る』
」 とい う命題である。これ ら二つはどのように異なるのか。
これ ら二つの命題はその主張根拠が異 なる。 この私 についての命題の場合、
その主張根拠 は、私の痛みの内実に基づい た私の痛み と他者の痛みの論理的相
違であった。主張根拠 は必要条件である。 これに対 して「私」一般 の命題の 一
」では、その
事例 である「新田に とって 『私だけが本当の痛みをもってい る』
主張根拠は先 の論理的相違 を必要 としない。例えば、新 田の「私だけが本当の
・
・』」
痛 みをもっている」 とい う言明を根拠 として「新田に とって 『私 だけが・
と主張することがで きる。 この主張根拠 だけで十分であ る。この主張根拠 の違
いか ら帰結するのは次のことである。「私」一般の命題の一事例は新田以外の
もので も、いかなる人にでも主張可能 である。また「私」一般の命題の他 の事
」 「Zさ んにとって
例(「 Yさ んにとって 『私 だけが本当の痛 みをもって いる』
『私だけが本当の痛 みをもっている』」な ど)と 主張根拠 とい う観点にお いて(そ
の 人の言明を主張根拠 とすることがで きる)同 列の ものが存在す る。 この 私 に
ついての命題の場合、主張可能なのはこの私 =新 田だけである。以上の点か ら
これ ら二つの命題は異なるのである。
1.3
他者は この私 についての命題 をこの私 と同様には理解できない
次に他者 はこの私 についての命題 をこの私 と同様には理解できない とい うこ
とを考 えてみ よう。他者が この私 についての命題を理解する仕方は、私 =新 ユ
l
「彼 =新 田にとって『私 だけが本当の痛 みをもっ
によるこの私の命題の言明から
「私」 一 般 で はな い この私 につ いて語 ることの 可能性
ている』」 と理 解 す るこ とであ る。 しか し、 これは前節 で 見た ように、 「私」
一般 の一事例 に他 な らな い。 したが って、 この理解 の仕 方 は この私 と同様 の 理
解 の仕方ではない。
もし他 者が この私 につ い ての命題 を上 とは異 なる仕 方で私 と同様 に理 解 で き
る としたな らば、 どうい う事態が考 え られ るで あろうか。 それは他者が 私 の痛
みの内実 を もつ とい うよ うな事態であ る。 経験 上、 これは あ りえないこ となの
で他者は私 と同様 に理 解 で きないこ とに なる。 しか し、仮 に他者が私 の痛 み の
内実 を もつ とした な らどうであろ うか。 この よ うな想定が不可能であるこ とは
1.2で 論 じたこ とと同 様 の根拠か ら言 える。 つ ま り、他者 が私の痛 み の 内実
を もつ とい うこ とで 考 え られ るのはこの私 が痛 み をもつ ときいつ で も、他者 も
痛 み を もつ と言明す る とい うような こ とであ る。 た とえこの ような ときで も、
それは他 者 が他 者 自身 の痛 み を もって い るのであ って、 決 して私の痛 み の 内実
を もって い るので はない。 これは論理的 に もつ ことが ない の である。 したが っ
て、他 者が この私 につ いての命題を この私 と同様 には理解 で きない とい うこ と
は単 に経験 的に理解で きないのではな く、論理的に理解 で きないのである5。
しか し、以上 の よ うに、他者が この私 につ い ての命題 を この私 と同様 には理
解 で きない とす るな らば、1.1で 主張 したこ とは本論 の読者である他者 に とっ
て も理解 で きない こ ととなる。 それで はこの私 につい ての 命 題は他 者 に とって
は何 の 意味 ももたな い もの なのであろ うか。 そ うでは ない。 この私 につ い ての
命題 は、あ る仕方で他者 に も意味 を もって くる。それ は どの ような仕方 で、 ど
の ような意味であるのか、 この問い を次の 課題 とする。
2
他者 に よるこの私 につ いての命題 の読みか えの可能性
他者 は、 この私 につ い ての 命題、 「この私 =新 田に とって 『私だけが本 当 の
痛 み を もって い る』」 にお ける「 この 私 =新 田」 を自分 自身 に読みか える こ と
に よる理解 がで きる。 この とき、読みか え られた命題 とこの私 =新 田の 命題 と
の 共通性 は、その主張根拠 が、その人 には痛 みの 内実があ り、そ の他 の 人 の痛
み には内実 が存 在せ ず、 それ らの間 の相違 が 論理的相違 で あ るとい うこ と、 そ
してそれが 「私」 一般 の 命題(「 いか なる人 に とって も 『私 だけが本 当 の痛 み
109
をもって いる』」 )の 一事例 ではない とい うことである
()
につい て
しか し、 ここで注 意 しなければな らないこ とがあ る。他 者が この〃、
の命題 にお け る「私」 を読みか える とい うときに、 この私 =新 川の 命題 は1也 考
に何か を理解 させ る とい うこ とを、 この私 =新 ‖1は 、 あなた =読 者に示そ うと
して いるが 、 この とき「私」 を読みか える他者 は、 この私 =新 田で もな く、あ
なた =読 者 で もない ような第 二者 と考えてはい けない。 「私 Jを 読 みか える他
者 とは、 あ なた =読 者 自身 であ らねば な らない とい う こ とで ある
6ぃ
それ はな
ぜであろ うか。
まず、「私」 を読みか えるのが、 第 二 者(Aさ ん とす る)で ある場 合 を考 え よ
う。 この とき第二者(Aさ ん )が 読 みか えた命題 は、 この私 =新 Ill、 あ なた =読
者 に とって は「 Aさ ん に とって 『私 だ けが本 当の痛 み を もってい るJJと い う
ものに なる。 これは 「私 J一 般 の命題 の一 事例 である。 なぜ な ら、今、 第 1者
を Aさ ん と したが、 これ は任意の人で あ ったので、 い か なる人を も当て はめ る
こ とがで きる。つ ま り、 「いか なる人に とって も 『私 だけが本当 の痛 み をもっ
て い る』」 の一 事例 とな る(,さ らに 言 うな らば、「 Aさ ん に とって 1私 だけが
本当 の痛 み を もってい る』」 とい う命 題は、 Aさ んが そ の ように 言っ てい る と
い うこ とが 主張根拠 となるぃ したが って、 11張 根拠 とい う観点 にお いて 同列 の
7。
もの が存 在す る 例 えば、 「
I〕
さん に とって 「私 だ けが本・ 1の Jlliみ を もって
・JJな どである
だけが ・
いる』」、「 Cさ んに とって ∫
利、
この私 につ いての 命 題は「利、
J ^般 の 命題 の ・11例 と異なるもの と してたて
られて いた。 したが って、第 1者 が この私 につ いての 命題 の「私」 を読 みか え
S(,
る と考えた場 合、 この私 につ いての 命題 とはそ もそ も異な る もの を考えて しま
うこ ととなる。
それで は この私 につ いての命題 におけ る「私Jを 読 みか えるの が、あ なた =
読者 であ る場 合 には どうであろ うか。 この ときには、 あなた =読 者 に とって、
この命題 はその人がそ の ように言明 して い る とい うこ とを主張根拠 として い る
のでは ない。 この場合 には痛み の 内実が存 在す るので 、それ に基づ いた あなた
=読 者 の痛 み と他者 の痛 みの論理的差異 を主張根拠 とす るこ とがで きる.,こ の
‐
ときには この私 につ いての命 題にお け る「私」 を読みか えた命題は「私 」 1支
の命題の一事例 とはな らない。
「私」一般ではないこの私について語ることの可能性
だが、 ここで さ らに注意が必要 で ある。あなた =読 者が この私 につ いての命
題の「私」 を読 みか える ことがで き、そ してそ の ときには「私」 一般 の 命題 と
は異なる命 題 であ る とい うこ とは、 あなた =読 者 の立場 にお いて は じめて成 り
立つ もの な ので あ る。それは、 この私 =新 田の立 場 で は、本来、言 うこ とがで
きない。 なぜ な ら、 この私 =新 田にお いて、痛 み の 内実が存在す るのは私 =新
田のときだけであ り、あ なた =読 者 の痛みの内実 は存 在 しないか らであ る。 も
し私 =新 田がそれを理解 しようとするなら、あなた =読 者 の言明を根拠 として
「あなたに とって 『私だけが本当の痛 みをもって いる』」 とい うことになるで
あろう。そ うすると、この私 =新 田の立場にあるなら、あなた =読 者の命題も、
9。
やはり「私」 一般 の命題 の一事例 である したがって、あなた =読 者がこの
私についての命題の「私」 を読みかえることがで きるとは言って も、そ こで何
が起こっているのか、この私 =新 田の立場からは本来言えない。それはあなた
=読 者の立場 においてのみ明 らかになるものである10。
3
結び
最後 に本 論 の主張 をまとめて終 えたい。「私 とは どの よ うな存 在か」 とい う
問いに対 して「私」一般 とは異 なる この私 につ いての答 えが存在す る(11、
12)。
しか し、そ れ をあ らわす この 私 につ いての命題 を他 者 はこの私 と同様 には理解
できない(13)。 別 の理解 の 可能性 として、他者が この私 についての命 題 の「私」
を自分 自身 に読 みか える とい う仕 方があ る(2)。
この とき、読 みか え る他者 は
この私 で もあ なた =読 者 で もな い 第二者である と考 えてはな らない。 あ なた =
読者自身で あ る と考 えねばな らな い。その ときは じめて痛み の 内実 とい う主張
根拠 に基づ いて読 みか える とい うこ とがあなた =読 者 にとって理解 で きるので
あるの
註
本論の問題意識はヴ ィトゲ ンシュタインの独我論の問題やそれをめ くる我が睡│の 議論
(特 に永井均氏の議論)に 触発されたものである。例えば次のようなヴィトゲンシュ タ
インの言葉を見てほ しい。「…そのとき私はまだこの独我論を『私が見るもσ
λまたは、
今見るもの)だ けが本当に見られるものである』 と言って表現できる.)そ してまた、
『私』 という語で L・ W[Ludwtt Wi■ gCnstcin]を 意味 してはいない。1中 略]私 は私の 11
張 を、『私は生命の器だ』と言うことによって も表現できるだろう 注意してほしい
つ まり本質的なのは、私がこのことを言 ういかなる人も、私の言うことをJL解 で きて
はならないことなのである。他者には 『私が本当に意味することJが 理角
子できてはな
らぬことが本質的なのだ。[11略 lし か し、私が望んでいるのは、彼が私の言うことを
の :1う
理解するとい うことが論理的に不可能でなければならない、すなわち、彼が夕、
ことを理解す ると言うことが、偽ではな く無意味でなければならない、ということで
ある。 したがって、私 の表現は、様々な場合に哲学者が使う、それを言う人には何か
伝達すると思われているが、他の誰にも何 も伝達できないのが本質的であるような、
数多 い表現 の一つ なので ある。 ところで、 もしある表現 に とって、意味を伝達す る と
い うことが、ある経験 に伴われるとい うことやある経験 を生 じるということを意味す
るのな ら、我々の 表現 はあ らゆる種類の意味 をもつ であろ う.だ が私はそれ らにつ い
て語 りた くはないじ
J(Ludwig Witgcnstcin、
pp 64-65。
下線は引用者の強調。日は引
7カ
て
,1!ν
′θ力′
ぐ″″
′θ′
'11者
の挿人 │)
'390(ド
l)asil Bhck、 、
cll 1958
ただし厳密には「 この私は京都に住んでいるJは 「この人は京都に住んでいる」 と同
じではない。この私 =新 田にとっての「この私は京都に住んでいるJは 「私とはこの
人であ り(A)、 この人は京都に住んでいる(B)」 という複合 した命題として成 り立って
いる。Bは いかなる人にとっても同 じ命題であるが、Aは いかなる人にとっても同 じ
命題であるかというと簡単にそうは言えない。「私とはこの人であるJと いうことは、
予め「私」 という概念があって、その概念に「この人」 という概念を付加 している
この私の概念がいかなる人にとっても同 じ客観的事象だけに分析できるかというとそ
の保証はないか らである。 もちろん部分的にはいかなる人にとっても
「」じである客観
的事象 に分析できるだろうが、すべてがそ うであるとい う保証はない
本来は、「新田」 とい う固有名詞をつ けて、それが誰のことを指すのか読 者に4tそ う
一般 ではな い この私 につ いて語 ることの可 能性
として も意味がないのであるが(13参 照
)、
ここでは使宜上、そのような表現を使用す
る。
4物 理的にのみ記述
される振 る舞いに対 して他者の痛みの感覚を付加することによって
「他者の痛みの振る舞 い」が起源的に成 り立っているのではない。以下の論文を参照。
新田智弘、「他者の感覚 をあらわす語の意味
―後期ヴィ トゲ ンシュタインを手がか
りに」、京都大学大学院人間・環境学研究科総合人間学部 『人間存在論』刊行会編 、
『人間存在論』第 8号 、2002年 。
'一 般には同一の命題 として理解 していなくとも理解 していると言 うことができる。例
えば「今年の夏は暑かった」を「2002年 の夏は暑かった」 として理解 し、同一の命題
として理解 していな くてもそれは理解 していると言われ うる。ある命題を理解 してい
るとい う概念は同一の命題 を理解 しているとい う概念 よ りも広 い ものである。 した
がってここで主張 されているのは、この私についての命題を広 い意味で理解す ること
が不可能であるとい うことではなく、「この私 と同様に」理解することが不可能であ
るとい うことである。
6し
たがって他者が読みかえると言うが、この ときの他者 とはこの私 =新 田から見て他
者とい う意味であ り、あなた =読 者にとっては他者ではない。
'も ちろん第三者のAさ んが読みかえた命題は彼 =Aさ んにとっては「私」一般の命題
の一事例ではないか もしれない。 しか し、あなた =読 者にとってはそれは「私」一般
の命題の一事例で しかあ り得ない。
Rこ
れはこの私についての命題を他者が「彼にとって『私だけが・
・
・』」 として理解す る
ときに必然的に「私」一般の命題の一事例に変質 してしまうとい う 13の 議論と同 じ
構造をもっている。
り
その人の言明だけを主張根拠 としているか らである。 12を 参照。
・ このことは逆に考えるならば、この私 =新 日の命題の唯一性 を示 している。この私 =
新田の立場においては、痛みの内実に基づ く「この私にとって『私だけが本当の痛
みを もっている』
」 とい う命題は並び立つ ものが ない唯一の命題である。
(に
った
ともひろ/相 愛大学)
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