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日本英文学会中国四国支部 第64回大会 プログラム 梗概
日本英文学会中国四国支部 第 64 回大会 プログラム 梗概 会 期:平成 23 年 10 月 29 日(土)・30 日(日) 会 場:島根大学(松江キャンパス) 〒 690-8504 島根県松江市西川津町 1060 日本英文学会中国四国支部事務局 〒 739-8522 東広島市鏡山一丁目 2 番 3 号 広島大学大学院文学研究科英文研究室内 TEL / FAX 082-871-1675 () 第一日 10 月 29 日(土) (参加受付 12:30 より) 開会式・総会(12:45 ∼ 13:15 教養講義室棟 2 号館 504 室) (司会)島根大学教授 渡 部 知 美 開会の辞 日本英文学会中国四国支部会長 地 村 彰 之 挨 拶 島根大学副学長 三 宅 孝 之 (司会)三重大学教授 西 村 秀 夫 広島大学大学院博士課程後期・島根大学特別嘱託講師 田 本 眞喜子 (司会)倉敷芸術科学大学准教授 大 野 英 志 総 会 研究発表(13:30 ∼ 16:45) 第 1 室(13:30 ∼ 16:45 教養講義室棟 2 号館 404 室) 1 The Token of Virgin Maria in the Old English Gospels 【招待発表】 2 『パストン家書簡集』とシェイクスピアの劇における呼掛け表現について 3 対外経済貿易大学准教授 石 小 軍 (司会)元広島市立大学教授 土 井 悠 子 Jane Austen の作品を読む ―「短縮形 n’t」に焦点をあてて― 安田女子大学非常勤講師 4 辰 本 英 子 ヴァージニア・ウルフ後期作品における内的描写の分析 くらしき作陽大学講師 那 須 雅 子 (司会)徳島大学教授 宮 崎 隆 義 第 2 室(13:30 ∼ 16:45 教養講義室棟 2 号館 501 室) 1 2 3 解体される自然と科学 ―『フランケンシュタイン』におけるジェンダーの問題― 広島大学大学院教育研究補助職員 徳 田 加 奈 広島工業大学非常勤講師 山 内 香 澄 (司会)県立広島大学教授 高 橋 渡 The Woman in White における恐怖 The Unconsoled に関する一考察 ―人間関係における断絶からの回復を求めて― 松山大学大学院修士課程 阿 部 卓 郎 4 「ベルファストの贈り物」、あるいは魔女の大飢饉 ―“Clay” の政治性を再考する― 香川大学准教授 田多良 俊 樹 第 3 室(13:30 ∼ 16:45 教養講義室棟 2 号館 503 室) (司会)松山大学教授 1 神戸大学大学院博士課程後期 2 吉 田 美 津 現実と複製 ―Fred Wah の Sentenced to Light にみる写真の機能― 吉 岡 由 佳 The Portrayal of the Nisei in Naomi Hirahara’s Summer of the Big Bachi 熊本大学講師 大 島 カレン () 3 4 (司会)広島大学教授 新 田 玲 子 島根大学教授 渡 部 知 美 The Bluest Eye における Claudia の二重意識 彼/彼女自身の部屋 ―Paul Auster, The Book of Illusions(2002)の語り手/ミューズたち― 岡山大学教授 中 谷 ひとみ (司会)福山大学准教授 重 迫 隆 司 第 4 室(13:30 ∼ 15:00 教養講義室棟 2 号館 603 室) 1 Keats における King Lear と Negative Capability ―“The bitter-sweet of this Shakespearian fruit” についての探求― 広島大学大学院博士課程後期・広島大学非常勤講師 2 児 玉 富美恵 ギンズバーグの時と空間 ―セザンヌとの関わりにおいて― 広島修道大学准教授 谷 岡 知 美 (司会)島根大学他講師 伊野家 伸 一 京都府立大学大学院博士課程後期 森 新 子 第 5 室(13:30 ∼ 16:45 教養講義室棟 2 号館 502 室) 1 ハーンのユダヤ人への視点 2 ハーンの『日本瞥見記』の創作をめぐって ―理想と現実の狭間― 3 島根県歯科技術専門学校非常勤講師 横 山 純 子 (司会)京都府立大学博士課程後期 森 新 子 Robert Browning を介してみるハーンの一面(2) 岡山大学・ノートルダム清心女子大学・吉備国際大学非常勤師、島根大学嘱託講師 【朗読】 4 伊野家 伸 一 (司会)島根大学他講師 伊野家 伸 一 島根大学法文学部 河 野 良 太 (司会)兵庫県立大学准教授 寺 西 雅 之 いき がみ さま 津波とハーン、「 生神様」“A Living God” 第 6 室(13:30 ∼ 16:45 教養講義室棟 2 号館 601 室) 1 文学の大学英語教育への活用 ―実践的コミュニケーション能力の養成をめざして― 2 リーディング指導における誘因の活用 3 一般英語授業で英語小説教材を使用した場合のテストについての提案 【招待発表】 4 阪南大学講師 杉 村 醇 子 京都外国語大学京都外国語専門学校講師 幸 重 美津子 県立広島大学准教授 西 原 貴 之 (司会)広島大学教授 中 尾 佳 行 到達目標型教育プログラム導入による教科専門科目の変容 ―英文学関連科目の場合― 広島大学准教授 小 野 章 () 特別講演(17:10 ∼ 18:10 教養講義室棟 2 号館 504 室) (司会)広島大学教授 中 尾 佳 行 演題: 中世英国詩人チョーサーの新しさ 講師: 駒澤大学教授 河 崎 征 俊 懇親会(19:00 ∼ 21:00) (司会) 島根大学教授 渡 辺 知 美 会場: 松江東急イン 会費: 5,000 円 第二日 10 月 30 日(日) シンポジアム(10:00∼13:00 教養講義室棟 2 号館 504 室) 題目:戦後イギリス演劇 ―Nation / Globalisation― Samuel Beckett と BBC ―サード・プログラムのラジオドラマとイングリッシュネスの再編成― (司会・講師)広島大学准教授 川 島 健 State-of-the-Nation と Globalisation ―David Hare の近作を中心に― (講師)東京工業大学教授 谷 岡 健 彦 モダン・ドラマとクリティシズム ―1947-54 年の Raymond Williams― (講師)関西学院大学准教授 大 貫 隆 史 閉会式(13:00 ∼ 教養講義室棟 2 号館 504 室) 閉会の辞 (司会)島根大学教授 西 野 義 彰 日本英文学会中国四国支部副会長 福 永 信 哲 () 第 一 日 ― 研 究 発 表 ― The Token of Virgin Maria in the Old English Gospels た もと ま き こ 広島大学大学院博士課程後期・島根大学特別嘱託講師 田 本 眞喜子 本発表では、聖マリアが聖霊によって身ごもった古英語版マタイ 1:18 を吟味し、そこから何が読 み取れるのかを論じる。 クリスチャニティーにおいて、結婚の際、処女であることが合法であり、そ うでない場合には投石の刑に処される。マリアの夫ヨセフは、マタイ 1:19 などにおいても離縁を考 えていた。マリアとヨセフの馴初めは如何なる様で、結果結婚に至った関係に纏わる真相とは何か を考察する。本論は、古英語に関する結婚に纏わる用語を研究する上で、その言葉が事実上現存す る写本またそのエディションから、文献を「読み、吟味する」上で言葉に付随する核となる箇所を取 り上げ、更なる研究における理解を深めて行くことを目的としている。古英語版福音書並びにマタ イ 1:18 に関する結婚の表現は、ラッシュワース写本には 3 重の OE グロスが、リンディスファーン には 4 重の OE グロスが、またウェストサクソン写本にも OE グロスがあり、それぞれ多様性を示して いる。それだけ注訳が念入りに施された背景は、キリスト出生の根本となる箇所、つまりクリスチャ ニティーの中核である。 【招待発表】 『パストン家書簡集』とシェイクスピアの劇における呼掛け表現について せき しょう ぐん 対外経済貿易大学准教授 石 小 軍 本発表は、 『パストン家書簡集』とシェイクスピアの劇における呼掛け表現に注目し、15 世紀の 20 年代から 17 世紀始めまでの二百年間で、英語呼掛け表現の具体的な状況と発達、即ち構成要素およ び形と意味の変化を把握する上で、呼掛け表現の文法化プロセスを解明しようとするものである。 『パストン家書簡集』とシェイクスピアの劇から収集された呼掛け表現の用例は話し手と聞き手の 関係によって、上から下、下から上、仲間同士(恋人同士も含む)という三つの種類に分類される。 Hopper and Traugott(2003)の文法化プロセス理論(content item > grammatical word > clitic > inflexional affix)に基づいて、まず、聞き手を修飾する形容詞を中心に考察し(例えば、you naught mocking uncle, Ryght worchipffull cosyn)、この二百年間の呼掛け表現の構成要素の変化を分析する。次に、統語と 意味の両方から、呼掛け表現全体における変化の流れを捉える。最後に、初期近代英語における呼 掛け表現と現代英語における呼掛け表現には英語史的にどのような関係があるのを究明する。 Jane Austen の作品を読む ―「短縮形 n’t」に焦点をあてて― たつ もと えい こ 安田女子大学非常勤講師 辰 本 英 子 本発表の目的は、Jane Austen(1775-1817)の否定表現である「短縮形 n’ t」 、特に、その文の種類 に着目し、文脈を通してその表現が用いられる実態を考察することである。その際、Jane Austen の 主要 6 作品である Northanger Abbey(1818 [1789]) 、Sense and Sensibility(1811) 、Pride and Prejudice (1813) 、Mansfield Park(1814) 、Emma(1816) 、Persuasion(1818)を言語資料とする。 () Jane Austen の作品に見られる否定表現のうち、二重否定 not un- / not in- 及び not + 否定的な意味 をもつ動詞、否定副詞 barely, hardly, rarely, scarcely, seldom 等の言語表現は、登場人物の性格付けや心 理描写などに反映させながら、Jane Austen の作品の特徴とされる普遍的な人間性を巧みに描き出す ことと常に関わっている。「短縮形 n’t」での文の種類においても、その表現の周辺、すなわち文脈か らその表現のもつ特徴が得られるのではないだろうか。「短縮形 n’t」が、どのような物語の場面にお いて用いられているのか、また、なぜ使う必要があるのかなどについて調べながら、上記のテクスト から Jane Austen が用いる「短縮形 n’t」の特徴を明らかにしたい。 ヴァージニア・ウルフ後期作品における内的描写の分析 な す まさ こ くらしき作陽大学講師 那 須 雅 子 英国モダニスト作家であるヴァージニア・ウルフ(18821941)の心理学的研究においては、ジーク ムンド・フロイト(18561939)の精神分析の理論が援用されて論じられる場合がほとんどである。そ れは、ウルフの伝記的背景にフロイトとの接点が多く見られることにも起因している。一方、カール・ グスタフ・ユング(18751961)の理論からウルフ作品を読み解く研究は稀有なのが実情である。その 理由として、フロイトとは対照的に伝記的背景からはウルフがユングの心理学理論に触れていた形跡 が見えてこないことが挙げられる。しかしながら、ウルフの作品に表現されている無意識世界は、フ ロイトよりむしろユングの提唱する無意識世界の特質を色濃く帯びている点は注目に値する。 フロイトの説明する無意識世界とは、意識世界から抑圧された個人の領域であり、個々の人間の 内面に閉じられている。ユングの無意識世界とは、 「個人的無意識」と「集合的無意識」の 2 つの層か ら成り立つ。特に注目すべきは、人類が共通して持っている「集合的無意識」である。 ウルフの作品を包括的に分析すると、彼女の抱く無意識世界がフロイトではなくむしろユングの概 念に重なることが明らかになってくる。本発表では、ウルフの後期作品に用いられる内面描写の手 法を文体論・物語論的観点から分析し、ウルフの描出する無意識世界と、ユングの主張する「集合 的無意識」との関連性を解明する。 解体される自然と科学 ―『フランケンシュタイン』におけるジェンダーの問題― とく だ か な 広島大学大学院教育研究補助職員 徳 田 加 奈 本発表は、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』におけると自然と科学の問題、そして怪 物表象から、ジェンダーの議論に新たな光を当てることを目的とする。 第一に、自然がどのように描かれているかを分析する。従来、自然は生命を育むものとして、母 性的な象徴だと考えられてきた。しかしこの作品では自然の制御不能で強大な力が崇高な美として 賞賛され、時として男性的な特徴が強調されることがある。第二に、科学の両義性を分析する。人 類に秩序と安定をもたらすものだと考えられてきた自然科学が既存の価値観を破壊する力を内包し、 人類に破滅をもたらすものとして描かれている点を分析する。これらの議論をもとに、最後には、科 学/自然=男性/女性という従来のジェンダー的二分法が転覆されていることを検証する。ヴィク ター・フランケンシュタインの行った怪物創造が、自然と科学の両義性を引き継ぎ、また彼によっ て人工的に創造された怪物が、曖昧で不安定な性質を体現し、結果的に伝統的な家族観やジェン ダー観を破壊することを明らかにする。 この物語では男性たちの濃密な絆と家庭を持つことへの挫折が描かれるが、女性はただ排除され () ているわけではない。科学によって成し遂げられる怪物創造の物語において、ジェンダーを巡る価値 観が脱構築されることを検討したい。 The Woman in White における恐怖 や ま の う ち か すみ 広島工業大学非常勤講師 山 内 香 澄 1860 年代に隆盛した sensation novel の代表作である Wilkie Collins の The Woman in White は、1859 年 11 月から 1860 年 8 月まで All the Year Round に連載された。この小説は、sensation novel の要素で ある恐怖と関わりがあり、物質的・社会的に閉じこもる恐怖と、他者によって家庭や社会に閉じ込 められる恐怖を主題とする。 現実社会から自らを隔離し、逃避する Sir Percival と、狂気であるとして社会において閉じ込められ る女性が強いられた状況が、19 世紀の社会事情と関連して読者に恐怖を感じさせる。Henry James は、身近に起こる不可解なミステリーを小説の中に持ち込んだのは Collins であると指摘している。 Collins は、社会的規範に囲い込まれる女性の置かれた当時の状況を批判してはおらず、現実性のあ るプロットの展開が、sensation を引き起こし、恐怖感を煽っているのである。 また、この作品に組み込まれた犬のテーマは、社会的弱者が置かれた状況の描写により、同じよ うに読者に恐怖を与えている。 本発表では、The Woman in White における恐怖を、犬や女性の幽閉との関連から考察したい。 The Unconsoled に関する一考察 ―人間関係における断絶からの回復を求めて― あ べ たく ろう 松山大学大学院修士課程 阿 部 卓 郎 Kazuo Ishiguro の The Unconsoled は、初期三作品のリアリズム的手法とは異なり、超自然主義的手 法を用いた物語となっている。そのテーマである「過去の追究」については、1 作目から 4 作目まで一 貫していると言える。The Unconsoled では主人公のライダー(Ryder)は、 「過去に囚われた」何組かの 親子や夫婦との関わりを持つ。しかも、彼は各組の人間関係に見られる「断絶」からの救済の役目 を負わされる。 本発表では、1)グスタフとゾフィー親子間の関係、2)ホフマンとシュテファン親子のあり方、3) ブロツキーとミス・コリンズに見られる夫婦間の問題について検討する。その上で、4)主人公ライ ダー自身の両親及び「妻」との関係について考察する。作者が、何故このような断絶状態にある夫婦 や親子を登場させているのか、またその意図はどこにあるのか、という問題について検討した上で、 これらの幾組かの人間関係は、実はライダー自身の人生の各段階における一断面を示していること を明らかにしたい。 「ベルファストの贈り物」、あるいは魔女の大飢饉 ―“Clay” の政治性を再考する― た た ら とし き 香川大学准教授 田多良 俊 樹 1990 年代以降、James Joyce 研究においてポストコロニアル文学批評が隆盛していくなか、Dubliners (1914)所収の短編 “Clay” が、その対象となることは極めて稀であった。たとえば、この潮流を代表 () する論文集 Semicolonial Joyce(2000)でさえ、本短編に関しては、わずか 4 頁の小節を含む論考 1 本を 収録するにとどまっている。 このように “Clay” がポストコロニアル的読解の死角であり続ける理由のひとつは、おそらく、本短 編が、初老の独身女性 Maria の侘しい境遇を前景化している(ように読める)からだろう。その写実 的な筆致の背後に象徴主義を読みとり、空白や欠落を伴う Joyce 特有の語り/騙りを分析してもな お、“Clay” の政治性が浮上しないとなれば、この物語を歴史的文脈に向けて開くほかあるまい。 かかる観点から、本発表では、“Clay” に含意されたアイルランドの植民地史と政治状況について検 討する。具体的には、Maria の職場である Dublin by Lamplight における宗教対立の構図、「老紳士」 や Joe の人物造型に暗示される帝国の優位性、そしてハロウィンの占いゲームに示唆されるアイルラ ンド大飢饉の余波を考察する。これによって、Maria が、大飢饉後の植民地アイルランドにおける女 性の在り様を体現している点を検証し、看過されてきた “Clay” の政治性の再考を試みる。 現実と複製 ―Fred Wah の Sentenced to Light にみる写真の機能― よし おか ゆ か 神戸大学大学院博士課程後期 吉 岡 由 佳 19 世紀に商業サービスとして急速に広まった写真は、今日では肖像や記録のみならず、文学表現 にも積極的に取り入れられている。写真は「真」ではなく、偽りの現実であり、不在の象徴であると Susan Sontag が『写真論』 (1977)において指摘しているが、こうした現実に対する新たな解釈を生み 出し、再生産する写真の機能は、芸術作品において重要な役割を果たしている。 アジア系アメリカ人詩人 Fred Wah(1939-)は、Charles Olson に影響を受け、視覚表現を追及する 実験的創作を行っている詩人である。詩集 Sentenced to Light(2008)は、“image-text project” とも呼 ばれる写真と詩のコラボレーション作品であり、表題作 “Sentenced to Light” では、メキシコの写真家 Eric Jervaise が撮影した 19 枚のパノラマ写真の上下の余白に息の長い詩行が一行ずつ配置されてい る。 本発表では、Sontag や Walter Benjamin による写真論を援用しながら、Sentenced to Light における 写真と詩の相互作用による Wah の詩作の独自性を明らかにしたい。また、写す・写されることに注 目し、投影された映像に Wah 自身が写り込む作品 “Me Too!” における現実と複製の間の身体性の問 題についても検討する。 The Portrayal of the Nisei in Naomi Hirahara’s Summer of the Big Bachi おお しま か れ ん 熊本大学講師 大 島 カレン In novels written about World War II and the experiences of Japanese Americans, the Nisei are often portrayed in their youth as people who suffer stoically in concentration camps with their Issei parents or fight injustice heroically by joining the army to fight in Europe. However, in Naomi Hirahara’ s Summer of the Big Bachi, she presents the Nisei in old age in the aftermath of the war and the doubtful future of the Japanese American community represented by the identity-challenged Sansei children. In the first novel of her mystery series, she introduces an elderly Nisei gardener named Mas Arai as the unlikely hero. He did not fight in the war nor was he incarcerated in a concentration camp; instead, he, as a “Kibei,” born in the U.S. but educated in Japan, is a “hibakusha,” a survivor of the atomic bomb that hit Hiroshima. Arai thus stands between two worlds and two cultures, not quite able to assimilate into the American mainstream () completely yet also rather suspicious of the Japanese whom he sees as foreign. In my presentation, I will examine the way Hirahara portrays the various types of Nisei and how they interact with each other, with their Sansei children, with other Americans, and with the Japanese. The Bluest Eye(1970)における Claudia の二重意識 わた なべ とも み 島根大学教授 渡 部 知 美 一登場人物かつ語り手としての Claudia は、作者 Morrison が語るように、「Pecola と読者との架け 橋」の役割を果たし、Pecola への共感をある程度読者に抱かせるのに成功している。しかし、過去を 振り返り Pecola に起こった悲劇の物語を語る大人となった Claudia は、W. E. B. Du Bois が『黒人の 魂』 (1903)において語っている二重意識の葛藤を抱えていると考えられる。 本発表においては、Claudia の中の未解決のままのこの二重意識とその葛藤の意味を考察する。 彼/彼女自身の部屋 ―Paul Auster, The Book of Illusions(2002)の語り手/ミューズたち― なか たに 岡山大学教授 中 谷 ひとみ Paul Auster はインタビューで、 「物語は魂になくてはならない滋養である」と語っている。人は物語 を通して、世界の意味を発見したり、生きる/生きなおす道や方法を見出したりするのである。彼 の The Book of Illusions(2002)でも、主人公 David Zimmer や Hector Mann は、妻子に死なれたことや 三角関係で恋人を自殺に追いやったことなどのトラウマに苦しむことになる。しかし、後者は映画製 作や日記を書くことを通して、そして前者は後者の映画や日記言説の「物語」を見る・体験するこ とを通して、自分の苦渋に満ちた人生を内省し、打開の道を見出してゆく。ひいては自身の物語を 語れるようになるのである。 自分の人生譚/物語を紡ぎ出せるということは、再生の可能性を示唆する。困難に直面する男 たちが自分を客観視できれば、自身の物語を語ることができるからである。語り手が物語を語る大 きな助けとなるのが “Muse” だとすれば、この機能を果たすのが、この小説では、物語内物語の作家 Martin に対する Claire, David に対する Alma, Hector に対する Frieda である。男性登場人物たちの物 語は語られ、ある意味で完結するかもしれない。しかし Muse としての機能を期待される彼女たちは どんな物語を生き、そこにはどんな問題があるのだろうか。本発表では、語るという行為とジェン ダーの視点からこの小説を考察したい。 Keats における King Lear と Negative Capability ―“The bitter-sweet of this Shakespearian fruit” についての探求― こ だま ふ み え 広島大学大学院博士課程後期・広島大学非常勤講師 児 玉 富美恵 ロマン派詩人 John Keats(1795-1821)は過去の偉大な詩人たちに関心を抱き、傾倒していくこと によって、詩的成長を遂げてきた。とりわけ、Keats にとって William Shakespeare(1564-1616)の存 在は大きい。彼の書簡において、しばしば Shakespeare への思いが吐露され、作品の引用も頻繁に なされている。彼がこの偉大な詩人・劇作家に心酔していく背後には、批評家・随筆家の William () Hazlitt(1778-1830)の存在も見過ごせない。Keats の中心思想である Negative Capability(消極的受 容力)は、1817 年 12 月 27 日頃の書簡において公にされるが、その形成には Hazlitt の Shakespeare 論 に負うところがあると言われている。また、Keats がこの時期に読んでいた Shakespeare の作品は King Lear であり、Negative Capability 思想の確立に大きく関わっている。 本発表では、ソネット “On Sitting Down to Read King Lear Once Again”(1818)の一節、‘The bittersweet of this Shakespearian fruit’ に注目し、oxymoron の “bitter-sweet” に込められた Keats の思いを同時 期の書簡や作品とともに考察する。また、Keats の Shakespeare に対する態度を Hazlitt の Shakespeare 論を分析することによって明らかにする。これらを踏まえ、Negative Capability 自体もある種の oxymoron であることに着目しつつ、如何にして Negative Capability が Keats の中心思想となりえたの か解明する。 ギンズバーグの時と空間 ―セザンヌとの関わりにおいて― たに おか とも み 広島修道大学准教授 谷 岡 知 美 ビート詩人アレン・ギンズバーグ(Allen Ginsberg, 1926-97)は、フランスのポスト印象派の画家ポー ル・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839-1906)に強い関心を寄せていた。ギンズバーグは 1965 年のインタ ヴューで、セザンヌの絵画における “the reconstitution of the petit sensation of experience” は、ギンズ バーグ自身の作詩方法に繋がることを論じ、「吠える」(“Howl,” 1956)以降の彼の作品におけるセザ ンヌの重要性を説いている。 本発表では、セザンヌの影響が如何に「吠える」に表現されているかを分析する。まず、ギンズバー グはセザンヌの絵画構成理論に注目し独自にそれを解釈した。特に、セザンヌの絵画に見られる時と 空間における間隙に興味を示したことは注目に値する。続いて、「吠える」においてセザンヌに言及 した詩行に着目し、それらが実践された「吠える」の実例を挙げる。 「吠える」において、ギンズバー グは自分の詩学にセザンヌの画法を重ねた。セザンヌの絵、特に『聖ヴィクトワール山』 (Mont-Sainte- Victoire)のギンズバーグ独自の解釈をとおして、両者の芸術表現におけるギンズバーグとセザンヌの時 と空間の共通性を指摘し、最終的にギンズバーグが目指した彼の詩学を検討する。 ハーンのユダヤ人への視点 もり しん こ 京都府立大学大学院博士課程後期 森 新 子 ラフカディオ・ハーンは西洋において、特別視されてきたユダヤ人をアメリカ時代に取り上げて作 品に書いている。また、東大での講義でもヴィクトリア朝の代表的小説家ジョージ・エリオットの 最後の大作『ダニエル・デロンダ』について講義をしている。ハーンの解釈の中には、異端視されて きたユダヤ人に対する差別意識のないとらえ方があり、これらは、ジョージ・エリオットのユダヤ人 への視点と共通するものである。しかし、両者の意見は微妙に意見を異にする点が指摘できる。 本篇では『ダニエル・デロンダ』を主に取り上げ、ハーンの解説を読み解き、その上でハーンのア メリカ時代の記事を検討し、ハーンが、差別意識のない考え方を持っていた事を実証してみたい。 この検討は、ひとつユダヤ人の問題として捉えてみると、小さな事柄であるかもしれないが、ハー ンの獲得していった考え方はハーンの複雑な人生が強い影響を与えていたのではないかということを 示唆してみたい。そこに、ハーン文学の一つの重要な特色が表われることを論証していきたいと考え る。 () ハーンの『日本瞥見記』の創作をめぐって ―理想と現実の狭間― よこ やま じゅん こ 島根県歯科技術専門学校非常勤講師 横 山 純 子 ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn, 18501904)は、1894 年に出版された日本時代の第一作 『日本瞥見記』 (Glimpses of Unfamiliar Japan)において、異文化に対する違和感を感じながらも、作品 ではそれを昇華して描いている。ハーンのメモ帳・原稿・手紙等を辿って彼が感じた異文化に対す る違和感を艦みながら、ハーンが作品に描き出した世界を考察する。 Robert Browning を介してみるハーンの一面(2) い の け しん いち 岡山大学・ノートルダム清心女子大学・吉備国際大学非常勤講師、島根大学嘱託講師 伊野家 伸 一 昨年の発表では、ラフカディオ・ハーンによる On Poets の “Studies in Browning” の前半に焦点をあ て、そこにみられるブラウニングの詩とハーンの解説等を通して、ハーンのいかなる面がみられるか 検討を試みた。 今回はその後半に目を向けてみることにする。そこには “Abt Vogler”、“In a Gondola” といった音楽 や官能的世界を示すブラウニングの詩を紹介しながら、“A Grammarian’s Funeral” や “The Patriot” と いった作品を示し、学究者の姿、苦い人生哲学について語ってゆくハーンがみられる。そして、ハー ンをして「シェイクスピアを除けば、これほど真に迫った恐ろしい戯曲は実際には一つもない。加え てこれは完全な心理劇である」と言わしめる “The Ring and the Book” を紹介、考察してゆく。 こうしたところから、ブラウニングの詩を介して、人間、人生、社会等について、ハーンが有して いた思いや考えを検討してみたいと思う。甘美な世界を味わうことにやぶさかではないハーンと、同 時に、峻厳なまでの生き様や底知れない人間の業といったものにも深い洞察を示すハーンを考えて みたい。 【朗読】 いきがみさま 津波とハーン、「 生神様」“A Living God” こう の りょう た 島根大学法文学部 河 野 良 太 ラフカディオ・ハーンは怪談以外にも様々な作品を残している。当作品は、地震の後、津波が襲っ てくることを予知した村長濱口五平衛が、収穫した稲に火をつけ(それは自らの財を失うことを意味 する)、その炎と煙で村人たちに異変を感じさせ、彼らを高台に避難させるという話である。 そこには、新聞記者でもあったハーンが「地震・津波」という日本の特質に目を向ける様がみられ る。しかし、それにとどまらず、災害という状況のなかで、村人を救うために懸命に力を尽くす村長、 その恩義を決して忘れまいとする人々といった人間の姿を注視し、描こうとするハーンも認められる のである。さらにハーンは、そこから「日本人とは何か」との示唆も投げかけているように思える。 この話は現在の和歌山県で起こった安政津波(1854)に基づいているが、平川祐弘によれば、明 治 29 年の三陸大津波直後、安政津波の際におけるこの話を、ハーンは深く印象に留めたという。 そして、ハーンの「生神様」に基づいて、「稲村の火」という話が昭和 12 年から小学校の国語教科 書にも掲載されたのである。またハーンによるこの作品を介して、「津波」という日本語が広く世界 へ知られるようにもなったとも言われている。 ここでは、東日本大震災への御見舞、追悼の意をもって、当作品の朗読を行わせて頂きたい。 (伊野家伸一) () 文学の大学英語教育への活用 ―実践的コミュニケーション能力の養成をめざして― すぎ むら じゅん こ 阪南大学講師 杉 村 醇 子 本発表では文学を実践的コミュニケーション能力の養成の教材として使用する有用性について考 察する。発表は二部から構成される。 文学作品が大学英語教育の現場で活用されなくなって久しいが、その敬遠の理由として、難解な 語彙や複雑な文構造など主に作品固有の問題と、文学作品を扱った授業にしばしば見られる教授 法、すなわち「文法訳読式教授法」への懐疑という二つをあげることができる。第一部では初めにこの 二つの問題について検証する。次にこのような問題点をふまえて行われた発表者の授業実践例を報 告する。発表者が担当した English Reading のクラスでは、トマス・ハーディの Tess of the d ’Urbervilles を取りあげた。教材として「多読」に用いられることが多いマクミラン社のリトールド版と原書の 2 つ を使用した。授業はリーディング・スキルの養成を主目標とするため、リトールド版、原書からの抜 粋、または付属の音声教材を使用する際にはそれぞれ異なるタスクを与え、学生に総合的な「読み の多様性」を体験させた。第二部ではそれぞれのタスクの詳細とそれに対する受講者の反応を紹介す る。そして最終的に文学作品は後発のリトールド版や音声教材と共に用いることで、実践的コミュ ニケーション能力の養成に充分に有効であることを明らかにしたい。 リーディング指導における誘因の活用 ゆき しげ み つ こ 京都外国語大学京都外国語専門学校講師 幸 重 美津子 リーディング指導における教材選択の際、大学の必須・選択科目の位置づけ等によって、対象学 生のレベルやクラスサイズを予見することは必ずしも容易ではない。ましてやその素材の選択が、学 習者の「興味や希望」に合致するとも限らず、それが結果的に読み手のモチベーションを左右するこ とも想像に難くない。 一般に、人には心理学的に「成功すると期待できるもののみを行なう(Feather, 1982) 」傾向がある。 これを英語学習におけるリーディング指導に応用すると、学習者が読み始めるためには「理解できる」 という期待を持つことが必要だということになる(Day, 1998)。さらに読み続けるための興味を維持 するためには「誘因と手段」が必要(Harris & Sipay, 1990)である。文学作品を使用したリーディング 指導においても、まず「理解できる」という期待を学習者に与え、読書中に「読みの誘因」となり理 解の助けとなる「適切な作業」を与えることで、学習者の知的好奇心と興味を維持することが可能に なると推測される。 本発表では、私立大学教養課程の学部混合の学習者を対象にヴァージニア・ウルフの作品をテク ストとした Reading Workshop を紹介する。誘因として Checklist を使用することで「目前の読みの目 的」が明確となり、学習者の意欲の向上や授業参加の活性化を導き、好結果を得られた授業形態の 1 例を報告する。 一般英語授業で英語小説教材を使用した場合のテストについての提案 にし はら たか ゆき 県立広島大学准教授 西 原 貴 之 本発表は、(1)これまでの文学テスト研究の成果の整理、 (2)一般英語授業で英語小説教材を使 () 用した場合の期末テストについての実践報告、の 2 点を目的とする。まず、これまでの文学テスト 研究で示されてきた問題点を指摘する。次に、この問題点と近年の文体論や文学理論の知見を合 わせて、テスト問題作成のための基準を提案する。そして、その基準に基づいて作成した期末テス ト(発表者が担当した一般英語授業で実際に使用したテスト問題)を具体例として示し、学習者の 実際の解答について検討する。本発表が提案する基準とは、 (a)あくまでも内容理解を問う設問を 主とすること、 (b)作品解釈をさせる設問が多くなり過ぎないように注意すること、(c)言語の創造 的側面など文学作品の特徴となるような箇所についての設問を作ること(ただしこの種の設問がテス トの主とならないように注意すること)、 (d)読者の作品に対する反応に関する設問を設定すること (ただし、その設問数には注意すること) 、 (e)学習者が目指す理想の読者は理想的英語文学読者で はなく、あくまでも標準的な英語母国語読者とすること、の 5 つである。 【招待発表】 到達目標型教育プログラム導入による教科専門科目の変容 ―英文学関連科目の場合― お の あきら 広島大学准教授 小 野 章 本発表の目的は、中等学校の英語教員の養成を主たる目的とした教育プログラムの導入によって、 英文学関連の教科専門科目がいかに変わったかを分析・報告することである。 発表者が所属する広島大学は、独自の学部教育システムとして「到達目標型教育プログラム」を平 成 18 年度から採用している。同プログラムの特徴のひとつは、学部卒業までに学生に付けさせたい 力を明確に定めている点にある。また、その力を付けさせるためには、どの授業がいかなる役割を果 たすべきかについても明文化されたものが存在する。同プログラム導入前までは、複数の授業がなん となくつながり合いながら、学生の力を「結果的に」育んできた感があった。それが改められ、プロ グラム導入後は、あらかじめ定められた明確なゴールに向かって、異なる授業がより有機的に関連 し、ひとつの体系を構築しつつあると感じている。 広島大学の「到達目標型教育プログラム」における計 66 の「主専攻プログラム」のうち、発表者が 所属する教育学部第三類英語文化教育学講座は「中等教育科学(英語)プログラム」を提供している。 中等教育科学(英語)プログラムの主たる目的は、中等学校の英語教員として相応しい人材を育成 することである。そのような目標を掲げる教育プログラムにあって、英文学関連の教科専門科目がい かに変容していったかを、発表者が担当する授業「英語文学概説」を例に取りながら分析・報告した い。 () 第二日 ―シンポジアム― 題目:戦後イギリス演劇 ―Nation / Globalisation Samuel Beckett と BBC ―サード・プログラムのラジオドラマとイングリッシュネスの再編成 かわ しま たけし (司会・講師)広島大学准教授 川 島 健 ダブリン生まれのサミュエル・ベケットは若くしてパリに移住し、フランス語と英語で執筆をした。 構造主義の時代はそのコスモポリタニズムと脱領域性が評価の対象となり、ポストコロニアリズムの 時代はそのナショナリズムとの距離感が論じられる。ベケットは常にパリ(コスモポリタン)とダブリ ン(ナショナリズム)を結ぶ想像の線上で語られてきた。本発表はこのような解釈には当てはまらな いベケット像を浮かび上がらせることを目的とする。そのためにベケットと BBC の関係を考える。ベ ケットは計四作のラジオドラマ台本を執筆し、すべてが BBC サード・プログラムで制作・放送されて いる。 1946 年に開局されたサード・プログラムは、戦後復興と 1945 年に政権を奪った労働党の躍進に 支えられ、イギリス文化の大衆化にこたえる重要な装置となる。クラシック音楽から前衛音楽、著 名な作家や研究者へのインタヴュー、ポエトリー・リーディングなどで構成されたそのプログラムは それまで特権的に享受されてきた文化を広く大衆に広めていく啓蒙的な目的を有している。またイ ギリスの伝統的音楽の紹介も彼らが力を入れた要素のひとつであり、50 年代から 60 年代にかけての フォークミュージック・リバイバルをサポートする。この時期のサード・プログラムは高尚なもの、大 衆的なものを含め、イギリス文化の確定に貢献したといってもいい。 ところで、サード・プログラムのために執筆したラジオドラマでベケットが強調するのはアイルラン ド訛の英語とダブリン郊外特有の風景である。サード・プログラムが推進するイングリッシュネスの 再編成のなかで、その作品はどのような緊張感を醸し出したか。彼の生まれ故郷を舞台にしており、 ベケットの作品の中でも最もアイルランド的といわれる『すべて倒れんとする者』を中心に論じていき たい。 State-of-the-Nation と Globalisation ―David Hare の近作を中心に― たに おか たけ ひこ (講師)東京工業大学教授 谷 岡 健 彦 自分の手元にある演劇事典には見出し語として収録されていないが、英国の演劇界では、よく State-of-the-nation play という言葉が用いられる。文字どおり、「国家/民族の状況についての劇」、 現在の英国社会のパノラマを観客に提示しようとする劇のことである。国家なるものを主題にしよう とするのだから、当然、物語のスケールは壮大になり、キャストも多人数になりやすい。いかにも、 「演劇は社会を写し出す鏡」という言葉が生きている国にふさわしい演劇ジャンルと言えよう。 しかし、国家の壁を越える Globalisation が進行している今日、国家/民族という枠組みにこだわ ることの有効性に疑問が持たれ始めてきている。いま、あえて国家/民族の状況を描こうとするの は、より大きな世界的趨勢に目を背けることではないだろうか。それとも、Globalisation は必ず国民 () 国家の内側にも影響を及ぼすのだから、丹念に自国の社会を見つめれば、おのずと世界的な規模の 問題も浮かび上がってくるのだろうか。 David Hare は、1970 年代以来、数多くの State-of-the-nation play を書き続けてきた劇作家である。 本発表では、彼の 1978 年の作品 Plenty を取り上げて、State-of-the-nation play の典型的な作劇法を 確認したのち、The Permanent Way(2003)など、2000 年以降の彼の作品を検討してみることにした い。 モダン・ドラマとクリティシズム ―194754 年の Raymond Williams― おお ぬき たか し (講師)関西学院大学准教授 大 貫 隆 史 本報告は、Raymond Williams, Drama from Ibsen to Eliot(1952)を主たる考察対象とする。1947 年 を執筆開始時点とする同書は、ドラマをひとまずは文学とみなして議論するもので、この方法は、当 時の Williams が活動していた成人教育の関係者からの厳しい反発を呼び起こした。 この批判に Williams は、クリティシズムやテクストという言葉の意味を明確にすることで応答して いる。とはいえ、成人教育運動内部で小規模に展開したこの論争を振りかえるうえで、いまの私た ちに分かりにくいのは、当時の Williams がドラマやクリティシズム、テクスト、さらには文学という 言葉に、いったいどういう意味合いを込めていたのか、という点である。 そこで本報告では、同書と Drama in Performance(1954)の関係、この時期のモダン・ドラマ研究情 勢、インタヴュー集 Politics and Letters(1978)における回想を概観することで、194754 年の Raymond Williams が、ドラマやクリティシズムという言葉に、どういった意図を込めていたのか検討していく。 加えて、近年のウェールズと日本における Williams 研究の力を借りることで、同時期の Williams が 模索していた「文化」の問題と、本報告が力点を置くクリティシズムの関係を探ってみたい。 () ―交通案内― JR 松江駅より *市営バス 北循環線内回り 島根大学前下車 ……所要時間約 15 分 大学・川津 島根大学前下車 ……所要時間約 25 分 ※他に「平成ニュータウン」 「あじさい 団地」などもあります。 いちばた *一 畑バス み ほ のせき 美保関ターミナル 島根大学前下車 マリンゲート 島根大学前下車 ※他に「東高校」 「ソフトビジネスパー ク」などもあります。 ……所要時間約 20 分 *タクシー ……所要時間約 10 分 島根大学公式ホームページより抜粋 () ―教室配置図― () ― 会場のご案内 ― 法文学部棟 2階 多目的室 1 教養講義室棟 2 号館 1 階 ロビー 第1室 教養講義室棟 2 号館 1 階 404 室 書籍展示場 教養講義室棟 2 号館 1 階 ロビー 第2室 教養講義室棟 2 号館 2 階 501 室 開会式・総会 教養講義室棟 2 号館 2 階 504 室 第3室 教養講義室棟 2 号館 2 階 503 室 特 別 講 演 教養講義室棟 2 号館 2 階 504 室 第4室 教養講義室棟 2 号館 3 階 603 室 シンポジウム 教養講義室棟 2 号館 2 階 504 室 第5室 教養講義室棟 2 号館 2 階 502 室 司会者・発表者控室 教養講義室棟 2 号館 1 階 402 室 第6室 教養講義室棟 2 号館 3 階 601 室 一般会員控室 教養講義室棟 2 号館 1 階 401 室 役員・事務局控室 教養講義室棟 2 号館 1 階 403 室 理事会会場 受 付 研 究 発 表 会 場 ― 建物配置図 ― ※懇親会は、 「松江東急イン」で開催いたします。