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析 分 勢 情 東 中

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析 分 勢 情 東 中
中 東 情 勢 分 析 文化紹介
預言者の奇跡について
東京大学大学院
人文社会系研究科
教授
宗教と奇跡
竹
下
政
孝
これから紹介するイスラーム神学者(ムタカ
現代の我々にとって,奇跡は決して宗教の重
ッリム)たちも,奇跡だけが預言者の言葉の真
要な部分を占めるものではない。どちらかとい
実性を証明するものであると考え,奇跡に重要
えば,近代の自然科学的思考に慣れた現代人に
な役割を与えた人々であった。
とって,奇跡の存在は宗教のネガティヴな側面,
イスラームにおける奇跡
非合理的,迷信的な側面を代表しているように
思われるだろう。たとえば,イエスの深い愛の
しばしば,現代のイスラームの護教論者は,
教えを信じる現代のキリスト教徒も,イエスが
キリスト教に比べてイスラームはより合理的・
水の上を歩いたり,数切れのパンで何千人もの
科学的な宗教であると主張し,キリスト教にお
人を満腹にしたり,水を葡萄酒に変えたりとい
けるイエスが「神の子」として超自然的な存在
う奇跡を文字通りの事実とみなすことはできな
であるのに対して,ムハンマドは我々と同じよ
くなっているのではないだろうか。旧約聖書や
うに飲み,食べ,結婚し,子供をつくった普通
新約聖書にあらわれる多くの奇跡譚は,宗教に
の人間であったことを強調する。しかし,
『コー
混入した古代の迷信の痕跡であり,荒唐無稽な
ラン』が聖書に比べて奇跡譚の数が少ないとい
作り話であるとして全く否定されるか,あるい
うわけでは決してない。聖書や聖書外典にあら
は,現代人を満足させる合理的・科学的な解釈
われる奇跡譚の多くは,
『コーラン』にもあらわ
が与えられるかのどちらかであろう。たとえば,
れる。たとえば,モーゼに関しては,杖が蛇に
イエスの水上歩行は作り話としか考えられない
変わる奇跡や紅海が二つに裂ける奇跡が述べら
が,イエスの病気治しは,病気がヒステリーの
れているし,アブラハムに関しては,火の中に
ような心因性の機能障害だとしたら十分にあり
投げ込まれても全く無傷であったという奇跡が
えることであると説明される。しかし,宗教か
述べられている。『コーラン』に特に多いのは,
ら超自然的な要素を全て取り去って,合理的科
イエスの奇跡譚である。イエスの誕生自体が処
学的な要素だけにしてしまったならば,宗教は,
女から生まれたという奇跡だし,赤ん坊のとき
人間の考えた道徳・哲学と変わらなくなってし
にすでに揺りかごで話をしたし,子供のときに
まうのではないだろうか。超自然的な奇跡こそ,
は粘土で鳥を作ってそれに魂をいれたという。
宗教の超越性のしるしであり,超越的存在と人
もちろん,イエスが病気を治し,死者を蘇らせ
間の出会いの場であると考えることもできるの
たという奇跡も『コーラン』の中に言及されて
ではないだろうか。
いる。しかし,これらの奇跡を認めているから
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といって,イスラームがイエスを神の子である
学者の「習慣」の考え方は,事物間の因果規則
と主張しているわけではない。イエスは,モー
性の実在を否定して,規則性の根拠を人間の意
ゼやムハンマドと同じように神の預言者であ
識の習慣付けにあるとした1
8世紀のイギリス哲
り,奇跡をおこなうことは,イスラーム神学者
学者ヒュームの思想に非常に近い。ヒュームと
たちによれば,預言者であるために絶対に必要
同じようにイスラーム神学者も因果規則性の実
な条件なのである。
在を否定する。
習慣からの逸脱
奇跡の分類
神学者たちは,奇跡を総称して,
「習慣からの
さて,習慣からの逸脱の全てが奇跡と呼べる
逸脱」という。この概念を理解するためには,
わけではない。習慣には,個人的な習慣もある
最初に「習慣」とは何かを理解しなければなら
し,時間的あるいは地域的に限定された習慣も
ない。バーキッラーニー(1
0世紀後半のアシュ
あるし,あらゆる時代のあらゆる人間に共通の
アリー派神学者)は,習慣とは二つの要素から
習慣もあるからである。たとえば,ある人が通
なると考える。一つは「習慣的なもの」
,すなわ
常の食習慣から逸脱した行為をしても,それは
ち規則的に同じような仕方で生起することがら
当然,奇跡ではない。それが奇跡であるために
や恒常的に継続する性質であり,もう一つは,
は,あらゆる時代のあらゆる人間に共通の習慣
「習慣付けられる者」すなわち,
外界に生起する
からの逸脱でなければならない。そのような習
ことがらや性質を習慣的・規則的・恒常的なも
慣とは,我々が通常の自然現象と考えるもの,
のとして認知する主体である。我々が日常的に
前述した「自然法則に近い意味での習慣」であ
使う意味での「習慣」
,たとえば,朝食には必ず
り,それからの逸脱とは,超常的な(extraordi-
バターを付けたトーストを食べる習慣というの
nary)現象である。バーキッラーニーによれば,
は,
「習慣的なもの」と「習慣付けられるもの」
奇跡は被造物の力の及ばない行為,すなわち神
が同一の場合である。それに対して,習慣的な
にしかできない行為である。このことは,奇跡
ものとそれを習慣として認知する主体が異なる
を神の業とみなすキリスト教の考えと共通す
場合は,
「習慣」は我々が日常的に使う意味での
る。奇跡とは決して預言者や聖者など特別な人
習慣というよりは,
「自然法則」の意味に近くな
間の持っている超能力によっておきるのではな
る。しかし,その場合でもイスラーム神学者の
く,神の力によっておきるものである。超常現
「習慣」と我々の「自然法則」には違いがある。
象は特定の人間に関係しておこる場合と,そう
我々が理解する自然法則は,我々の外にある自
でない場合とがある。後者は,たとえば,最後
然の中に客観的に実在しているとみなされるの
の審判の日におこるとされる様々な天変地異で
に対して,
イスラーム神学者の理解する「習慣」
ある。
『コーラン』によれば,その日には,諸々
は,我々の知識の中に主観的に存在する。たと
の星が消され,天が裂け,山々が塵のように運
えば,
「太陽は東から昇って西に沈む」というの
び去られ,大洋が沸き立ち,死者が蘇ってくる。
が自然法則であるのに対して,
「毎日毎日繰り返
前者の場合には,さらに預言者の奇跡(ムージ
し太陽が東から昇り,西に沈むのを観察するこ
ザ)と聖者の奇跡(カラーマ)
,魔術(シフル)
とによって,我々は太陽が東から昇り西に沈む
に分けられる。もっとも,イスラーム神学者の
ものだと考えるように習慣付けられる」という
中でもムータジラ派は,預言者の奇跡以外の奇
のが神学者の考えである。この点において,神
跡を否定したが,大多数のムスリムは,預言者
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以外の人にも奇跡がおこることをみとめてい
先行するということである。預言者によるこの
る。なぜならば,
『コーラン』の中にはエフェソ
ような宣言は,「挑戦」
(タハッディン)という
スの7人の眠り人の話とかイエスの母マリアの
術語で呼ばれる。なぜならば,預言者はこの言
奇跡譚とか,明らかに預言者以外の人々の奇跡
葉によって,自分が預言者であるということを
が言及されているからである。魔術に関しても,
信じようとしない人々に対して挑戦しているか
ムハンマドの伝承(ハディース)によって,魔
らである。
術が存在することは確かであると考えられてい
「挑戦」こそ預言者の奇跡の最も重要な要素で
る(イスラームが魔術をどう考えているかとい
あると,神学者たちは考える。アシュアリー派
うことは,以前に本誌の2
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0年2/3月号に「イ
神学者たちによれば,
「挑戦」は預言者の奇跡に
スラムと魔術」として書いたことがあるので参
絶対に必要な条件であると同時に,預言者の奇
考にされたい)
。預言者の奇跡も,
聖者の奇跡も,
跡を聖者の奇跡や魔術と区別する唯一の指標で
魔術も,それが自然界の法則からの逸脱であり,
ある。預言者の奇跡と聖者の奇跡あるいは魔術
神の業であるということに関しては同じであ
の間に,これ以外の区別を設けようとした人々
る。しかし,預言者だけではなく,聖者も魔術
もいた。たとえば,死者を蘇らせるとか大海を
師も超常現象にかかわるとしたら,超常現象が
二つに裂くとかの大きな奇跡は預言者の奇跡に
かなり頻繁に出現することになり,通常現象と
しかないというような質的な区別を考えた人も
超常現象の境界が曖昧にならないのかという疑
いた。また,預言者の奇跡は公に知られるのに
問がおきる。
この疑問に対してジュワイニー(1
1
対して,聖者の奇跡は隠されねばならないと考
世紀のアシュアリー派神学者)は,何が通常現
える人々もいた。あるいは,預言者が意図的に
象であり何が超常現象であるかは,直感によっ
奇跡を行うのに対して,聖者はしばしば本人の
て明らかであると答える。前述したように,自
自覚が全くなしに奇跡を行うと考えた人々もい
然の法則性は我々の主観的な知識の中にあるの
た。しかし,これらの区別はどれ一つとして決
だから,我々にとって何が法則からの逸脱であ
定的なものではない。
「挑戦」の有無だけが,預
るかは自明的なのである。
言者の奇跡を他の超常現象から本質的に区別す
るものである。逆に言えば,預言者の行う奇跡
預言者の奇跡の特徴
であっても,挑戦が先行していなければ,それ
ムータジラ派が預言者の奇跡以外の奇跡を否
は預言者の奇跡(ムージザ)ではなくて,聖者
定したのは,預言者以外の人に奇跡がおこると
の奇跡(カラーマ)である。たとえば,ムハン
預言者と預言者以外の人の区別が曖昧になり,
マドの生誕時の奇跡や子供時代の奇跡は,ムー
奇跡が預言者であることの証明にはならなくな
ジザではない。なぜならば,彼はそのときはま
ってしまうからである。しかし,アシュアリー
だ預言者ではなかったので,当然預言者である
派神学者は,そのような心配はないと断言する。
という宣言がその奇跡に先行しておこなわれな
なぜならば,預言者の奇跡とそれ以外の人々の
かったからである。
奇跡との間には大きな違いが一つ存在するから
ムージザであるためには預言者の挑戦が先行
である。その違いとは,預言者の奇跡の場合に
しなければならないことは,ムージザの語源か
は,
「私は神の預言者であり,その証明はこれか
らも伺われる。
「ムージザ」の原義は「不能(ア
ら行う奇跡である。嘘だと思う者は,同じよう
ジュズ)にするもの」である。つまり,ムージ
なことを行うがよい」という宣言が必ず奇跡に
ザとは,預言者の敵たちが預言者の挑戦に答え
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て,預言者がもたらしたものと同じようなもの
と同じようなことを行い,彼の預言者であると
をもたらすことをできなくさせるようなものの
いう主張を打ち破るであろうというものであ
ことである。預言者の真似をすることができな
る。つまり,
「私と同じことを行えるか」という
いことが奇跡なのだから,行為自体が通常の行
預言者の挑戦に誰一人答えることができなかっ
為であってもムージザの場合がありえる。たと
たという事実は,それが科学の力ではなく,神
えば,預言者が「私は神の預言者である。私の
の力による超常現象であったことを示してい
奇跡は次のような行為である。あなたがたには
る。
このようなことはできないであろう」と言って
それでは,聖者が預言者と同じような奇跡を
手を動かし,席から立ち上がったとする。そし
行うならば,
「私と同じことを行えるか」という
て,居合わせた人々が,同じような行為をしよ
預言者の挑戦が答えられて,預言者の主張が嘘
うとしたときに,金縛りのような状態になり,
であるということになってしまわないのだろう
誰も手を動かすことも席を立つこともできなか
か。それに対してジュワイニーは次のように答
ったならば,それは立派な奇跡である。なぜな
える。もしも聖者の奇跡によって預言者の挑戦
らば,
「自由に手を動かし,席を立つことができ
が破られるのであれば,預言者の奇跡も,それ
る」という通常の習慣からの逸脱がおこり,預
以前の預言者の挑戦を破ったことになり,それ
言者の挑戦に誰も答えることができなかったか
以前の預言者の主張が嘘であることになってし
らである。
まう。しかし実際には,そのようにはならない。
さて「私と同じことを行えるか」という預言
なぜならば,預言者の挑戦は,預言者であるこ
者の挑戦に対して敵たちが応答できなかったと
とを信じない敵たちに対してなされたものであ
いう事実は,預言者の奇跡は決して超常現象で
り,彼らが預言者と同じ奇跡をおこなうことが
はなく,単に我々の知らない隠れた自然法則を
できなければ預言者の挑戦は有効であり,その
利用しているだけであると唱えて,預言者の奇
主張は真である。つまり,後代に出現する預言
跡を否定する人々への反論にもなる。彼らによ
者の奇跡が過去の預言者の奇跡を無効にしない
れば,預言者の奇跡は銅を金に変えたり,軽い
のと同じように,聖者の奇跡も過去の預言者の
道具で重いものを動かしたり,磁石で鉄を引き
奇跡を無効にするものではない。
付けたりするのと同じように,一見,超常現象
預言者の証明としての奇跡
に見えるが,実際には自然現象である。このよ
うな反論は,聖書にあらわれた奇跡を何とか科
神学者たちによれば,ある人が自分は預言者
学的に説明しようとする一部の現代の学者たち
であると主張したとき,その主張の真偽を啓示
の考えと共通するところがある。これに対して
の内容から判定することはできない。神は理性
ジュワイニーは,二通りの答えを与える。最初
では知りえないことを啓示するわけだから,理
の答えは,前述したように,何が超常現象であ
性ではその真偽判断はできない。我々がその主
るかは直感的な知識に属しており,死者を蘇ら
張の真偽を知る唯一の手段は,奇跡の有無によ
したり,杖を蛇に変えたりすることが自然現象
ってである。つまり,ある人が預言者であると
でないことはだれにとっても自明であるという
主張して奇跡をみせれば,彼の主張は真である。
ものである。第二の答えは,もし預言者の奇跡
では,どのように奇跡は「私は神の預言者であ
が実際には隠れた自然の力を利用しているので
る」という言葉の正しさを証明するのだろうか。
あれば,人々は必ずや預言者の挑戦に答え,彼
ジュワイニーによれば,奇跡による証明は理性
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による証明とは異なる。奇跡は「彼の主張は真
対して,ジュワイニーは次のような例を挙げて
である」という神の言明に等しく,理性による
答える。病人は自分には何か治療が必要なこと
推論よりもっと直接的な証明である。ジュワイ
を知っている。しかし,具体的な治療法は知ら
ニーはこのことを次のような例で説明する。
ない。それを教えてくれるのは医者である。同
人々が王様の宮殿に集められる。謁見の広間で
じように我々に,具体的に何が善であり,何が
各自が定められた席に着いたとき,王の近臣の
義務であるのかを教えてくれるのは預言者であ
一人が立ち上がって次のように宣言する。
「私は
る。我々は神の存在と神の属性を理性で知るこ
あなた方に遣わされた王の使者であり,あなた
とができるけれども,倫理的な善悪,また何が
方に対して王から委託を受けた者である。私は
人間に義務として課せられているかを理性では
王に代わってあなた方を監督する。私のこのよ
知ることができないというのが,アシュアリー
うな主張は王の十分な了解を得てなされたもの
派神学の考えである。
である。もし,私の言ったことが真であるなら
それでは,神の言明が必ず正しいとどうして
ば,王様よ,どうかあなたの普段の習慣を破っ
いえるのだろうか。神は人間を欺くことが絶対
て,お立ち上がりください。そして再びお座り
にないと言いきれるのだろうか。この問題に対
ください」
。王は,この近臣の望んだように,立
するジュワイニーの答えは面白い。彼によれば,
ち上がり,そして座る。それによって居合わせ
「彼の預言者であるという主張は正しい」
という
た人々は,王がこの男の言葉を真であるとみな
神の言明は「私は彼を預言者に任命した」とい
したことを確信する。つまり王の行為は「彼の
う言明と同じことであり,神はこの言葉によっ
言葉は真である」という言明に等しい。
て彼を預言者に任命するのだから,この言葉自
現代的表現を使えば,奇跡とは,
ジェスチャー
体は,その真偽が問えるような性質のものでは
と同じような神の非言語的コミュニケーション
ない。現代的に言えば,
「私は彼を預言者に任命
の手段なのであり,
「彼の言っていることは正し
した」という文は遂行文(performative)である。
い」という言葉と同等なのである。しかし,こ
遂行文とは,たとえば,オークションでの「買
のようなコミュニケーションが全ての人に通じ
った」という言葉のように,その文を発話する
るわけではない。居合わせた者が神からの非言
ことがその文の表す行為の遂行となる文であ
語的メッセージを理解するためには条件があ
る。
「買った」と言うことが「買った」という事
る。第一に,神が存在することをあらかじめ理
実になるわけだから,
「買った」という言葉を事
性で知っていなければならない。さらに,神が
実と照らし合わせてその真偽を問うことは意味
預言者を遣わすということが神の属性に矛盾せ
がないのである。
ず,十分に可能であるということも知っていな
上にみてきたように,アシュアリー派神学に
ければならない。そのときにはじめて奇跡は証
とって奇跡は理性と並ぶ重要な役割を与えられ
明となる。しかし,理性によって神が存在する
ているといえる。周知のように,イスラームの
ことを知ることができるのならば,なぜ預言者
最も根本的な信条は,神が唯一であることとム
が必要なのだろうか。もし,預言者が理性に反
ハンマドが神の預言者であることの二箇条から
したことを教えるのならば,我々はそれを受け
成る。我々は,神が唯一であることを理性によ
入れることはできないし,理性に則したことを
って知ることができるが,ムハンマドが神の預
教えるのならば,理性で十分であり,預言者の
言者であることは,奇跡によってしか知ること
必要はないように思われる。このような疑問に
ができないのである。
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