Comments
Description
Transcript
世界最速列 実現 - 国際ビジネス総合研究所
Leaders Business Review December 2010 12 For Business Leaders Club Members 師走 株式会社 国際ビジネス総合研究所 ⽇本語の「クリスマス」は、英語の「Christmas」に由来し、 語源は「キリストのミサ」( “Christʻs Mass” Christ + Mass)にある。⽇本語では他に、降誕祭、聖誕祭、聖夜な どの呼び⽅がある。「クリスマス」にあたるドイツ語は 「 Weihnachten ( ヴ ァ イ ナ ハ テ ン ) 」 、 フ ラ ン ス 語 は 「 Noёl ( ノ エ ル ) 」 、 ス ペ イ ン 語 は 「 Navidad ( ナ ビ ダー)」、ラテン語は「Christi Natalis(クリスティ・ナタ リス)」であるが、語源は必ずしも同じではない。ギリシャ 語の“Χριστούγεννα”(クリストゥ・ゲナ)は、γέννα(誕 ⽣)を⽤いており、⽂字通り、「キリストの誕⽣」である。 ところが、新約聖書には、イエスの誕⽣⽇を特定する記述は 無く、この⽇がいつにあたるのかについては様々な説がある。 キリスト教においてもクリスマスは降誕(多くの教派で、 「誕⽣」ではなく「降誕」の語を⽤いる)を記念する祭⽇と ⾒なしており、救世主イエス・キリストの誕⽣⽇として⾒な している訳ではない。(左の絵はキリストの降誕のお祝いに 東⽅の三博⼠が来訪した様⼦を描いたもの) 12⽉号 CONTENTS ビジネストレンド解説 P.2 世界のベンチャーを選別・囲い込み 強者企業が投資を拡⼤ 今月のチェックポイント P.6 鉄道王・五島慶太とその⼀族 東急グループ 感動のスポーツ P.4 名選手・名場面 P.10 ⽣涯現役・⼤相撲に⽣きる 中国鉄道省 幕内通算846勝(歴代1位) 世界最速列⾞実現 楽しく学ぼう 企業歴史探訪 ビジネス英語 意外と⾔えないこの表現 ⼤関 P.5 「医療に関する表現 - ⑤」 魁皇 歴史に学ぶ ビジネスに役立つ 名句・名言 P.13 ビジネスを率いるリーダーシップ 五知の知恵 © Business Research Institute International Inc. 2010 1 Leaders Business Review For Business Leaders Club Members 株式会社 国際ビジネス総合研究所 世界のベンチャーを選別・囲い込み ビジネストレンド解説 強者企業が投資を拡⼤ ■GEの投資戦略 GEは、かねてから⾃らの事業ポートフォリオを厳しく選別してきた。世 界で2位以内に⼊れない事業は売却する。GE中興の祖と⾔われたジャッ 出典:GE サイト ク・ウェルチの⼤胆な戦略で、GEは世界の強者となった。その後継者、 ジェフ・イメルトは会⻑兼CEOとして、事業への投資を加速させている。 ■エネルギー関連への戦略投資 GEが狙う投資先は、スマートグリッド(次世代送信網)やエネルギー関 連の技術をもつ有⼒ベンチャー企業。その総数は12社。投資総額は⽇本円 にして約46億円。複数のベンチャーキャピタルと共同で進める戦略投資の 第⼀段だ。GEは、今年の夏から「エコマジネーション・チャレンジ」と呼 ぶプロジェクトを進めてきた。GEとベンチャーキャピタルが共同して投資 枠を⽤意し、世界から投資を求めるベンチャー企業のアイデアを募った。 集まったアイデアは4,000件。GEはその中から戦略的に投資先を選別し た。選ばれたのは、送電効率を⾼めるソフトウェアや監視システムなどの スマートグリッド関連の技術をもつベンチャーが中⼼だ。残念ながら⽇本 の企業は⼊っていない。「戦略的に選んだ」とはどういう意味なのか。GE の投資理由は、投資先が⽣み出すリターンを期待してのことではない。GE の既存技術やシステムと組み合わせることで、短期的に商⽤化が⾒込める 技術に絞っているのだ。 GEの投資先(国名) 保有技術 コンサート(⽶国) 電⼒会社および⾃治体向けの電⼒制御システム ジュールエックス(⽶国) データセンター向け電⼒制御システム サステインエックス(⽶国) 圧縮空気によるエネルギー蓄積技術 FMCテック(アイルランド) センサーを利⽤した送電網監視システム クライメートウェル(スウェーデン) 太陽熱を利⽤した病院、商業ビル向け空調設備 © Business Research Institute International Inc. 2010 2 Leaders Business Review For Business Leaders Club Members 株式会社 国際ビジネス総合研究所 ■投資は新たなパートナ戦略 ⾃社製品との組み合わせで短期間に商⽤化を狙う以上、GEの投資は 資⾦投資だけに留まらない。⾃社の研究開発部⾨との共同開発を積極的 に進める⼀⽅、営業部⾨も事業化を⽀援する。 今回の投資を通じて⽣まれる新たなパートナシップは、GEのエネル ギー関連ビジネスにおける付加価値となり、これまでに無いビジネスモ デルを形成する筈だ。 ■インテルの投資戦略 ⽶国半導体⼤⼿のインテルは、⾃らの投資会社「インテル・キャピタ ル」を通じて、世界のIT(情報技術)企業に投資を加速する。その投資 総額は今年度だけで⽇本円で約64億円。投資先は18社。世界11ヵ国に 及ぶ。お膝元の⽶国企業への投資が⼤半を占めるが、中国、ロシア、ウ クライナ、インドの企業が各1社あり、新興国への戦略的投資意欲をう かがわせる。 インテル・キャピタルの2010年1⽉から11⽉における出資先の株式 公開や買収は28件ある。前年は15件であったことと⽐較すると、多少 の景気回復が感じられることよりも何よりも、インテルのITベンチャー への並々ならぬ投資意欲が⾒て取れる。 ■世界の新たなビジネスモデル これまで、事業の提携は、競争⼒をもつ企業同⼠がそれぞれの価値を 補完する形、あるいは提携することでさらに規模を拡⼤する、競争⼒を 増す、という図式が⼀般的であった。ベンチャー企業への投資は、その ベンチャーの成⻑⼒とリターンに期待して⾏われた。しかし、今はそう ではない。GE、インテルという世界の強者2社を⾒る限り、ベンチャー 企業への投資は「⽀援」することから「育てて⾃らのファミリーとす る」戦略に変わっている。従来は提携先から供給を受けていた⾃分にな い技術を、投資先の有⼒ベンチャーをいち早く育成することで、⾃らの 競争⼒として⼀体化させる戦略だ。 これが今の世界の流れである。有⼒ベンチャーを早期に参加に取り込 むことで、⾃らの競争⼒を⾼め、付加価値を増す。その付加価値が投資 家の投資意欲を⾼め、⾃らの企業価値を上げることになる。 ⽇本の⼤⼿企業には無い戦略が世界で動き始めた。 3 © Business Research Institute International Inc. 2010 Leaders Business Review For Business Leaders Club Members 株式会社 国際ビジネス総合研究所 今月のチェックポイント 中国鉄道省 世界最速列⾞実現 ■鉄道先進国へ 経済発展が著しい中国。ソフトウェアやスーパーコンピューター開発 を中⼼とするIT産業の隆盛や、「世界の⼯場」としての低賃⾦での⽣産 ⼒が注⽬を集めてきたが、今、中国は「鉄道先進国」として新たな⼀歩 を踏み出した。 中国鉄道省は、2010年、ついに「世界最速」を実現した。投⼊された 「世界最速」と⾔われる 中国国産列⾞ CRH380A 新型⾞両は国産のCRH380A型。銀⾊に輝く丸みを帯びた流線形の先頭部 が、停⽌した状態でも「スピード」を感じさせる。8両編成で、集電装置 はDSA350型パンタグラフを使⽤し、パンタグラフの両側は⽴体カバー で覆われている。編成は⼀等個室つきの⼀等座席⾞(ZY)2両、⼆等座 席⾞(ZE)3両、観光席つき⼆等座席⾞(ZEG)2両とビュッフェつき⼆ 等座席⾞(ZEC)1両からなる。⼀等個室を除きすべての座席は回転可能。 観光席つき⼆等座席⾞(ZEG)は両端の⾞両となり、運転席の直後の区 画が観光席(8席)となっている。運転席と観光席はガラスで仕切られて おり、運転席⼿元のスイッチでガラスの透明度(すりガラス状・透明ガ ラス状)を変えることができる。スピードだけでなく、社内設備・装備 にも⼯夫が凝らされている。 今年9⽉、まずCRH380A-6001 - CRH380A-6010の10編成が上海鉄 路局に配置された。杭州駅から上海虹橋駅(この間、202キロメート ル)への試運転列⾞で、11時37分に416.6km/hという中国の鉄道にお ける最⾼速度を記録し、通常営業⽤の⾞両での世界最⾼速度記録をも更 新した。通常運転時には最短45分で上海と杭州を結ぶ。 ■伸び続ける鉄道網 中国鉄道の運営距離は09 年末までに8万6000キロに達している。 12年までに11万キロを突破するのは確実な情勢だ。新築駅は 800ヵ所を超える⾒込み。先述の世界最⾼速⾞両への総投資額は円に して約3600億円と⾒られるが、中国は⾼速鉄道を鉄道建設の重点として おり、スピード、運営距離などで「世界⼀」に照準を定めて開発を急ぐ。 20年までに北京を中⼼とする1時間〜8時間交通圏が形作られる予 定だ。⼤部分の省都都市は快速交通圏に組み⼊れられることになる。快 速鉄道網は5万キロに達する。実現すれば全⼟の90%以上の⼈⼝をカ バーすることになる。上海は中国鉄道網の重要な枢軸で、将来、5⽅向 の9つの幹線と結ばれ、上海⽼站、上海南站、虹橋駅、浦東駅の4⼤鉄 道駅を抱え、環状枢軸を形成すると⾒られる。 © Business Research Institute International Inc. 2010 4 Leaders Business Review For Business Leaders Club Members 株式会社 国際ビジネス総合研究所 楽しく学ぼう ビジネス英語 意外と⾔えないこの表現 「医療に関する表現 - ⑤」 今回は医療特集の5回⽬。今回は、代表的な病名を英語でどう⾔うか を特集して「医療に関する表現」の最終回としたい。 ■感染症 1.⾵疹 rubella 2. ⽔痘 chickenpox 3.ヘルペス herpes 4.HIV感染症 infection by HIV ■⽣活慣習秒 1.肥満 obesity 2.糖尿病 diabetes 3.⾼⾎圧症 hyperlipidemia 4.⾼尿酸⾎症(痛⾵) gout 5.動脈硬化 arteriosclerosis ■悪性腫瘍 1.癌 cancer 2.脳下垂体腫瘍 pituitary tumor ■呼吸器疾患 1.気管⽀炎 bronchitis 2.肺炎 pneumonia 3.喘息 asthma ■⼼疾患 1.⼼筋梗塞 heart attack 2.不整脈 irregular pulse ■消化器疾患 1.胃潰瘍 gastric ulcer 2.痔 hemorrhoids 3.肝炎 hepatitis 4.胆⽯ gallstone ■腎泌尿器疾患 1.腎炎 nephritis 2.前⽴腺肥⼤ enlargement of the prostate gland © Business Research Institute International Inc. 2010 5 Leaders Business Review For Business Leaders Club Members 株式会社 国際ビジネス総合研究所 鉄道王・五島慶太とその⼀族 企業歴史探訪 東急グループ ■東急グループと五島慶太 東急グループの歴史を語る上で、五島慶太(以下「慶太」)を語らぬわ けにはいかない。東急グループの中核を成す東急電鉄(東京急⾏電鉄)の 創業者であり、五島慶太なくして東急グループの存在は無いからである。 東京帝国⼤学卒業後、官僚を9年勤めた後に現在の東急東横線の前⾝であ る武蔵電気鉄道常務に就任。実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道を始 めとする数々の競合企業を乗っ取る形で次々と買収。その強引な⼿⼝から 東急グループ創業者 五島慶太 1943年(昭和18年)国策によっ て静岡鉄道が成⽴し、慶太は初代会 ⻑に着任する。静岡鉄道が東急電鉄 と繋がりが今も深いのはその為であ る。1944年(昭和19年)東條英機 内閣の運輸通信⼤⾂に就任した。と ころが戦後、東條内閣の閣僚だった という事で連合国軍最⾼司令官総司 令部(GHQ)によって公職追放者指 定を受ける。 追放解除後は再び東急電鉄会⻑に 就任。倒産⼨前にまで陥っていた東 映に対し、東急専務で「経理の専⾨ 家」として五島が多⼤な信頼を寄せ ていた⼤川博を社⻑として派遣し、 ⾒事に3年で⽴ち直らせた。 1953年(昭和28年)には城⻄南 地区開発を発表し、神奈川県北東部 を中⼼とした地域の多摩⽥園都市開 発に着⼿した。 慶太は⾃らの教職経験からか、⽣ 涯、教育に情熱を注いだ。1955年 (昭和30年)五島育英会を設⽴して いる。1959年(昭和34年)、その 波乱の⽣涯を閉じた。 「強盗慶太」の異名をとった。しかし、その異名とは裏腹に鉄道事業では 優れた経営を⾏い、阪急電鉄の⼩林⼀三と並び、「⻄の⼩林・東の五島」 と賞されたのである。 慶太は、1882年4⽉16⽇、⻑野県⼩県郡⻘⽊村に農業を営む⼩林菊右衛 ⾨・寿ゑ夫妻の⼆男として⽣まれた。⽇経新聞に連載された「五島慶太の 『私の履歴書』」によれば、「私の家は貧しい農家とはいっても、千⼾余 りしかない⼭中の⼀寒村では、村⼀番の資産家だった」とある。⽗の菊右 衛⾨は熱⼼な法華経の信者であった。朝に夜に「南無妙法蓮華経」を少な くとも五百遍から千遍ほども唱えていたそうである。その両親の姿勢を受 け、慶太もまた仏教に感化を受けてゆく。 ⽗親は製⽷業に失敗してしまい、家計は苦しかったが、慶太の志は⾼く、 ⽗を説得して上⽥中学(現:上⽥⾼校)に⼊学させてもらった。中学3年 を終えると、松本の知⼈の家に下宿し、松本中学校(現:⻑野県松本深志 ⾼等学校)に通い4年、5年を終了した。 経済的には苦しい⽇々が続く中、慶太は苦学して東京師範学校(現在の 筑波⼤学)に⼊学する。1903年(明治36年)のことである。卒業後、三 重県四⽇市市で⾼校教師を務め、1907年(明治40年)には最⾼学府を⽬ 指し、9⽉に東京帝国⼤学政治学科専科に⼊学し、10⽉に法学部本科に転 学する。 慶太は、1911年(明治44年)東京帝国⼤学を卒業した。既に29歳に なっていた。⾼等⽂官試験に合格し、農商務省に⼊省。⼯場法施⾏に伴い、 ⼯場監督官に採⽤されるが、施⾏が3年延期になったため、鉄道院に移る こととなった。この鉄道院への異動が東急電鉄誕⽣へつながる。 ■五島家復興 実は、慶太の旧姓は⼩林である。鉄道院転属の前年の1912年(明治45 年)2⽉24⽇、慶太が30歳の時、⼯学博⼠古市公威の仲⼈で、皇居⼆重橋 6 © Business Research Institute International Inc. 2010 Leaders Business Review For Business Leaders Club Members 株式会社 国際ビジネス総合研究所 の設計者である⼯学博⼠久⽶⺠之助の⻑⼥・万千代と⾒合い結婚した。 万千代は慶太と結婚して久⽶⺠之助の祖⺟の実家、五島家を再興した。 慶太は万千代と結婚した後に五島姓を名乗ることになったのである。 ■鉄道業界への転⾝ 東急グループの鉄道事業 写真出典:東急グループHP 鉄道院では、⽂書課をはじめいくつかの職場を経験した後、1919年(⼤正 8年)に総務課⻑に就任したが、⾼等官七等という⾝分であったために「課 ⻑⼼得」という肩書になった。しかし、慶太はこの処遇が気に⾷わず、稟 議書の認可を押す時に、わざと「⼼得」の2字を消してから、上へと回した。 この騒動の後、慶太は無事「課⻑」に就任するが、1年半ほど経ち、官吏の ⽣活に嫌気がさしてきた頃、武蔵電気鉄道社⻑の郷誠之助が資⾦集めに難 航しているという話が届く。鉄道建設に専⾨の知識を持った常務を求めて 郷が鉄道院次官に掛け合ったところ、次官は「課⻑⼼得が気に⼊らないと ⾔って「⼼得」を消してくる⾯⽩いやつがいる」と慶太を紹介した。渡り に⾈と感じた五島は1920年(⼤正9年)5⽉、鉄道院を辞め武蔵電気鉄道常 務に就任した。 ■M&Aによる拡⼤と予算即決算主義 その頃、実業家の渋沢栄⼀らによって設⽴された⽥園都市株式会社が、 東京の⽥園調布や洗⾜等に分譲⽤として45万坪の⼟地を購⼊し、⽬⿊駅と 蒲⽥駅から同経営地まで鉄道を敷設すべく、荏原電気鉄道を設⽴していた。 しかし、素⼈ばかりのため経営不振に陥っていた。そこで、⼤株主らは阪 神急⾏電鉄(後の阪急電鉄)総帥の⼩林⼀三を推したが、⼩林が多忙のた め、代わりに慶太が推薦された。「荏原電鉄を先にやって、45万坪の⼟地 を売り、その利益で武蔵電鉄をやればいい」と⼩林に説得され、荏原電鉄 の専務に就任した。荏原電鉄は⽬⿊蒲⽥電鉄と名前を変え、1924年(⼤正 13年)に全線開通を迎える。しかし、その時期が不運にも関東⼤震災と重 なってしまう。都⼼を焼け出された⼈々が沿線に移住し、業績は⼀気に好 転した。慶太はその利益で武蔵電鉄の株式過半数を買収し、名前を武蔵電 鉄から東京横浜電鉄と変え、1932年(昭和7年)に渋⾕〜桜⽊町間を開通 させた。しかし、昭和恐慌の煽りを受け業績は悪化、⼀時は⾃殺を考える ほどの苦境に陥った。その時、慶太は逆境の中から「予算即決算主義」を 確⽴する。これは後々まで五島の経営哲学として⽣き続けて⾏くこととな る。 ■鉄道事業を軌道へ乗せる 慶太は鉄道利⽤を活性化させるため、学校の誘致に積極的に動いた。鉄 道は利⽤客がいなくては成り⽴たない。原点に⽴脚した緻密な戦略だった。 7 © Business Research Institute International Inc. 2010 Leaders Business Review For Business Leaders Club Members 株式会社 国際ビジネス総合研究所 先ず1924年(⼤正13年)、関東⼤震災で被災した東京⼯業⼤学を蔵前か ら⽬蒲電鉄沿線の⼤岡⼭に移転させる。1931年(昭和6年)には⽇本医科 ⼤学に武蔵⼩杉駅近くの⼟地を無償で提供し、1932年(昭和7年)に東京 府⽴⾼等学校を⼋雲に誘致した。1934年(昭和9年)には慶應義塾⼤学に ⽇吉台の⼟地を無償提供し、⽇吉キャンパスが開設された。そして1936 東急グループの不動産事業 年(昭和11年)は東京府⻘⼭師範学校(現在の東京学芸⼤学)に資⾦援助 写真出典:東急グループHP を⾏い、下⾺に誘致するなど、東京横浜鉄道沿線は学園都市として付加価 値が⾼まっていく。そして、同時に、多くの通学客という安定的な乗客を 獲得したのである。 ■鉄道系百貨店の草分け 1934年(昭和9年)、渋⾕に関東初の電鉄系ターミナルデパートである 東横百貨店が開業した。当時、呉服が中⼼だった百貨店事業のなかで、 東横百貨店は⽇⽤品中⼼の品揃えを展開する。ターミナルであった渋⾕駅 は当時でも30万⼈近い乗降客があり、都⼼に⾏かずして買い物ができる 東横百貨店は⼈気を呼んだ。また、東横百貨店のとなりに本社ビルを持っ ていた⽟川電気鉄道を内国貯⾦銀⾏(現:りそな銀⾏)の前⼭久吉から株 式譲渡の形で買収。1938年(昭和13年)、東京横浜電鉄に吸収合併した。 この頃、慶太は東横百貨店と三越の合併を画策していた。東横百貨店を 三越の渋⾕⽀店にしようと考えてのことであった。しかし、⽼舗三越が他 の勢⼒で荒らされることを嫌った三井財閥は、産業界の系列、⼤物経営者 の学閥を利して慶太に圧⼒をかけ、慶太はついにこの合併作戦を諦めざる を得なくなった。もし実現していれば⽇本産業界はどうなっていたであろ うか。 ■⼤東急誕⽣ その後、帝都⾼速度交通営団(後の営団地下鉄、現在の東京メトロ)の 株式めぐる問題などで慶太は圧⼒を受ける。後の⾸相で、当時鉄道省総務 課⻑だった佐藤栄作は、「私鉄⼆社の無駄な競争をやめさせ、営団に⼀本 化すべき」と主張。⽪⾁にも慶太はそれまで競合相⼿を合併する際に⽤い てきた⼝実を逆に使われた。両社の株式は営団債に振り替えられたが、五 島は債券と化した株券の⼭を⾒て⼈知れず号泣したとも⾔われる。この債 券は戦後のインフレで紙屑同然となった。 1942年(昭和17年)には、陸上交通事業調整法の趣旨に基づき、既に 慶太の経営下にあった京浜電気鉄道、⼩⽥急電鉄を合併し、東京急⾏電鉄 を発⾜させた。さらに1944年には京王電気軌道を合併。また、相模鉄道 など東京⻄南部全域の私鉄網を傘下に収め、俗に⾔う「⼤東急」が誕⽣し た。 © Business Research Institute International Inc. 2010 8 Leaders Business Review For Business Leaders Club Members 株式会社 国際ビジネス総合研究所 ■東急グループを完成させた五島昇 五島昇(以下「昇」)。慶太の⻑男であり⽇本を代表する実業家である。 1916年8⽉21⽇、東京⽣まれ。学習院初等科、中等科、⾼等科を経て東京帝 国⼤学経済学部を卒業し、東京芝浦電気に⼊社した。学⽣時代は野球部に 籍を置き、捕⼿としてならしたが、中途退部の後ゴルフ部へ転向。戦時中 は、陸軍⼤尉として軍務に就いた。戦後、東京急⾏電鉄に⼊社。1948年 五島昇 新発⾜した東急横浜製作所、京浜急⾏電鉄の取締役となり、1954年、東 出典:⽇経BP 急社⻑に就任。その他、死去するまで、グループ各社の会⻑もしくは相談 役、東急の衛星企業であった京王帝都電鉄(現・京王電鉄)、⼩⽥急電鉄 昇が興した事業は、現在の東急グ ループの核となっているものが多い。 中でも、東急観光、東急エージェン シー、東急建設、東急ホテルチェー ンなどを設⽴した。ファッションや 流⾏にも敏感で、「渋⾕109」や 「たまプラーザSC」なども命名した。 1953年(昭和28年)には東急不 動産を設⽴。東京急⾏電鉄(株)の 不動産部⾨を分離独⽴させた会社で あり、東急グループでは東急電鉄に 次ぐ2番⽬の稼ぎ頭である。会⻑は 五島慶太、社⻑は五島昇。慶太から 昇に東急グループの経営が引き継が れる時期に誕⽣した代表的な企業で もある。 ⽗、慶太は世の多くの経営者同様、 昇も美術品のコレクターであった。 昇はそのコレクションを世に残すた め、1960年、五島美術館を開館した。 1989年に⽇本経済新聞の「私の履 歴書」に⾃伝が掲載されたが、連載 中の3⽉20⽇、惜しまれながら 歳の⽣涯を閉じた。 72 の取締役の他、松⽵、歌舞伎座の取締役相談役なども歴任した他、⽇本商 ⼯会議所会頭も務めた。 ■⽗の逆を⾏く経営 ⽗の慶太が強引な企業買収により事業拡⼤を⽬指したのに対し、昇は反 対の事業展開を⽬指した。1959年(昭和34年)に慶太死去の際、東急は 東洋精糖を買収⼯作中であり、激しい企業間紛争となっていたが、昇は すぐさま撤退に着⼿。慶太死去のわずか27⽇で完全撤退した。さらに傘下 の⾃動⾞メーカー東急くろがね⼯業(旧・⽇本内燃機製造、現・⽇産⼯ 機)を清算。東映の分離等も⼿掛けた。拡⼤した東急グループを再編し、 改⾰を推進した⼀⽅、グループ経営の⽅向性に合わせ、航空事業(東亜国 内航空(後の⽇本エアシステム、現⽇本航空))やホテル事業、リゾート 開発等の拡⼤を図り、最盛期にはグループ会社400社、8万⼈の従業員を 数えた。 ■⽥園都市線は⼤成功事業 ⽗、慶太とは相対する経営⼿法をとった昇であったが、慶太の残した事 業で「是」と考えるものは着実にやり遂げている。これらの事業には、 伊⾖急建設と⽥園都市線の延伸といった鉄道敷設、並びにその沿線の宅地 開発などがある。 特に現⽥園都市線の⼆⼦⽟川〜渋⾕に当たる新⽟川線に⾄っては全線地 下鉄となり、建設費の調達に⾄難を極めたが、⽥中⾓栄が社⻑を務めてい た越後交通が⼀時期東急グループに属していたことから、政界で顔が利き、 鉄建公団が私鉄の路線建設を肩代わりする「鉄建公団P線⽅式」を成⽴さ せ、新⽟川線を私鉄で初めてこの制度を利⽤して建設させた。現在、⽥園 都市線は混雑問題などを抱えてはいるが、裏を返せばそれは商業的に⼤成 功を収めている証であり、昇が⼿がけた事業の中で最も⻑く成功し続けて いる事業であると⾔える。 9 © Business Research Institute International Inc. 2010 Leaders Business Review For Business Leaders Club Members 株式会社 国際ビジネス総合研究所 ⽣涯現役・⼤相撲に⽣きる 感動のスポーツ 幕内通算846勝(歴代1位) 名選手・名場面 ⼤関 魁皇 ■偉⼤なる⼤関、魁皇 38歳の⼤関が、今も⼟俵で⼀番輝いている。通算成績は1014勝677敗。 135場所を戦い抜いた結果の通算勝星は、横綱「千代の富⼠」(現:九 重親⽅)に次いで歴代2位。幕内成績は846勝558敗。846の幕内勝星は 誰もかなわない歴代1位である。「⽣涯現役」にこだわる偉⼤な⼤関は、 「相撲が⼤好きだから、死ぬまで相撲をとっていたい」と語る。熱く純 真な⼼の持ち主である。 通常の場合、相撲界への⼊⾨は15歳前後だ。そして⼤半の⼒⼠は25歳 前後で引退を余儀なくされる。30歳を過ぎても幕内⼟俵で輝けられるの はほんの⼀握りである。魁皇は今年38歳。現役最⾼齢である。幾多の試 練や怪我を乗り越え、⾁体的な衰えと闘いながら、この11⽉に⾏われた 九州場所においても、なお⼆桁勝利を達成できるのは、とりもなおさず 努⼒と忍耐、精神⼒の賜物であろう。 ■九州、福岡が⽣んだ⼤器 魁皇博之。本名は古賀博之。福岡県直⽅⽣まれ。市⽴直⽅第⼆中学校 時代には柔道をしていた。ところがその巨体から、柔道部顧問の先⽣に ⼤関 魁皇の雄姿 相撲を勧められる。その先⽣は魁皇のために、それまでの柔道部をわざ 出典:⽇本相撲協会 わざ「柔道・相撲部」に再編成してくれた。その先⽣と相撲を取ったと ころ、先⽣は⽚⼿で体を持ち上げられ⾮常に驚かされたという。またそ の相撲部時代に、ほかの⽣徒たちが飲んだスチール⽸の空き⽸を⽚⼿で 潰して⽚づけていた。⼊幕前、⽔道の蛇⼝が硬くて廻らないのを無理に 回そうとした所、怪⼒のあまり壊してしまったことがあるという。 中学校卒業後、友綱部屋に⼊⾨した。1988年(昭和63年)3⽉場所で 初⼟俵を踏んだ。同期には後に64代横綱となる曙、後に65代横綱となる 貴乃花、そして後に66代横綱となる若乃花がいた。なんと豪華な顔ぶれ だろうか。魁皇は新弟⼦時代から才能あふれる有望新⼈とともに揉まれ 続けることとなる。その他、和歌乃⼭、⼒櫻(後にプロレスラー⼒皇と なる)など有望な新弟⼦がおり、花の六三組と称された。 若貴兄弟や曙のようなスピード昇進とはいかなかったものの、順調に 出世を果たし、初⼟俵から4年⾜らずの1992年初場所で⼗両昇進、四股 名を「魁皇」とする。1993年夏場所、20歳の若年での新⼊幕を果たし、 若⼿の有望株として注⽬を集めるようになった。 © Business Research Institute International Inc. 2010 10 Leaders Business Review For Business Leaders Club Members 株式会社 国際ビジネス総合研究所 感動のスポーツ 名選手・名場面 新⼊幕の五⽉場所に負け越して⼗両に陥落するも、同年九州場所に再⼊ 幕を果たす。その後は⽇の出の勢いで番付を上げ、1994年春場所には曙 を下し初⾦星、初の三賞受賞(殊勲賞)、翌夏場所には早くも新三役と なった。1995年の初場所の新関脇場所からは実に13場所連続で関脇に在 位(史上最⻑)し、その後も度々三役に上がり、有⼒な⼤関候補として期 待を寄せられた。しかし、相撲界の厳しさを全⾝で浴びることとなり、⾜ 踏みする時期が⻑く続いた。 豪快な投げをうつ魁皇 出典:⽇本相撲協会 ■幕内初優勝と綱取りへの道 ⼩結で迎えた2000年夏場所、14勝1敗でついに念願の幕内初優勝を果た した。これを⾜がかりに名古屋場所後にようやく⼤関昇進を決める。⼤関 昇進後は豪快な相撲で地⼒の⾼さを⾒せ付け、⼤関としては合計4度の優 勝を経験、横綱候補の1番⼿だった時期もあった。しかし、魁皇は怪我に 泣いた。度重なる負傷は精神的にも魁皇を追い詰めてゆく。⽬前に迫った 綱取りのチャンスも途中休場して無碍にしてしまうことも多かった。しか し、こうした幾度もの挫折を魁皇は乗り越えた。数多くの⼒⼠が引退して ゆく20代後半を魁皇は気迫で乗り切ってゆく。 そして32歳となる2004年。魁皇は円熟期を迎えていた。何と、全場所 で⼆桁勝利を記録。そして9⽉場所には5回⽬の優勝を遂げた。ファンの期 待は最⾼潮。魁皇は再び綱取りのチャンスを迎えた。4度⽬の綱取りとな る翌11⽉場所。2003年3⽉場所から続く⽇本⼈横綱不在に終⽌符を打って 欲しいという期待が⾼まっていた。相撲ファンの期待を⼀⾝に背負った魁 皇。しかし12⽇⽬に 3敗を喫してしまう。優勝争いからは脱落した。そ れでも「千秋楽で横綱朝⻘⿓を破っての準優勝なら昇進の可能性がある」 との発⾔が押尾川審判部⻑からあり、千秋楽の結びの⼀番への期待が⾼ まった。期待どおり千秋楽では朝⻘⿓を万全の相撲で下し、横綱昇進決定 かと思われたが、結局昇進は⾒送られた。翌2005年1⽉場所も三度綱取り 場所とされた。しかし、魁皇は今度も怪我に⾒舞われる。途中休場を余儀 なくされ、またしても綱取りは失敗に終わった。 ■怪我に泣き続けた⼤関時代 2005年1⽉場所から2006年3⽉場所までは、途中休場により翌場所⼤関 ⾓番・⾓番脱出の繰り返しが続き、⼤関の地位を⾟うじて維持するという 状況だった。特に9回⽬の⾓番となった2006年3⽉場所は、序盤から本来 © Business Research Institute International Inc. 2010 11 Leaders Business Review For Business Leaders Club Members 株式会社 国際ビジネス総合研究所 感動のスポーツ 名選手・名場面 の相撲が取れずにいた。師匠の友綱親⽅と相談し、負け越したら引退する 決意を固めていた。しかし運命の悪戯か。魁皇は7敗してから踏ん張りはじ める。千秋楽に朝⻘⿓と優勝争いをしていた⽩鵬を寄り切って勝ち越しを 決めて⾒せた。この⼀勝で勢いを得た魁皇は、2006年5⽉場所以降、千秋 楽まで皆勤の出場場所は増えてはいたが、成績は10勝すらままならず勝ち 越すのがやっとという状態が続いていた。2005年以降、引退の危機を迎え 気迫あふれる勝負で ファンを魅了する魁皇 出典:⽇本相撲協会 たのも⼀度や⼆度のことではなかった。 2007年9⽉場所4⽇⽬の安⾺(後に⽇⾺富⼠)戦で、幕内通算706勝を達 成した。この記録は67代横綱・武蔵丸の706勝に並ぶもので、⼤関以下の ⼒⼠としては最⾼記録。現役の⼒⼠としてももちろんダントツの記録で あった。しかし、その2⽇後、右太腿の負傷を悪化させ、またしても途中休 場となった。「今度こそ魁皇はダメだ」。不安と諦めに近い雰囲気が漂っ ていた。翌11⽉場所は、2006年同様に再起をかける場所となったが、14 ⽇⽬で勝ち越して11度⽬の⾓番を脱出した。この逆境の⼤⼀番でまたして も引退の危機から免れた。 ■⼤記録への道 2010年1⽉場所2⽇⽬。魁皇は豪栄道に勝ち、19年ぶりに横綱・千代の 富⼠の持つ幕内通算⽩星807勝に並んだ。そして3⽇⽬には、奇しくも九重 親⽅の愛弟⼦でかつ⻑年共に⼤関として⽀えあった千代⼤海(当時関脇) に対し、豪快な送り投げで勝利し、ついに幕内通算808勝を達成して史上単 独1位になった。 2010年3⽉場所で幕内通算在位が丁度100場所を迎えた。2010年5⽉場 所で⼗両以上の関取在位場所数が、史上単独1位の111場所となった。さら に同年5⽉場所千秋楽で琴欧洲を破り、⼤相撲史上⼆⼈⽬となる通算1000 勝を達成した。 2010年7⽉場所前、⼤関琴光喜が解雇されたため、⼤関以上の地位で⽇ 本⼈⼒⼠は魁皇ただ⼀⼈となった。しかし11⽇⽬から怪我の為に途中休場。 翌9⽉場所は13回⽬の⼤関⾓番を迎えたが、14⽇⽬に勝ち越して⾓番を脱 した。逆境に⽴つたびに劇的な勝利でその危機を脱し続けた。 初⼟俵以来20年以上に渡る現役⽣活、また⼤関に昇進して以来、10年に 渡り関脇に⼀度も陥落することなく⼤関の座を守り続けている。昭和以降 の最⾼齢⼤関以上在位記録(36代横綱⽻⿊⼭が引退した1953年9⽉場所の 38歳10ヶ⽉)にも迫る。2011年版ギネス・ワールド・レコーズに「幕内 通算846勝」「幕内在位103場所」として掲載された。 © Business Research Institute International Inc. 2010 12 Leaders Business Review For Business Leaders Club Members 株式会社 国際ビジネス総合研究所 歴史に学ぶ ビジネスに役立つ 名句・名言 中国宋時代の賢⼈、李繹の⾔葉に「五知の知恵」がある。元来「五」という数字は「五重の塔」や 「七五三」などに⽤いられるようにお⽬でたいものであり、「五」に因んだ格⾔や諺は多い。「五 知」とは、⼀、時を知る、 ⼀、難を知る、 ⼀、命を知る、⼀、退を知る、⼀、⾜るを知る、の五 つの知である。簡単な⾔葉であるが、解釈も⼈によって異なる。しかし、使われている漢字から伝 わってくる意味は、ビジネスのさまざまな場⾯で⼤いに役⽴つものであり、この「五知」を処世訓と している経営者も多い。 ビジネスを率いるリーダーシップ 五知の知恵 先ず「時を知る」。これは「時流をとらえる」こと。また「勝機をとらえる」こととも解釈できる。 ビジネスにおいて「タイミング」とはきわめて重要な意味を持つ。商談で「重要な条件を提⽰するタ イミング」、「上司に報告をするタイミング」など、タイミングを間違えると良い結果を⽣まない可 能性があるものは⼭ほどある。「世の中の動向」を把握することも⽋かせないが、これも「時を知 る」ことだ。「新製品投⼊のタイミング」など、「時」次第で命運を決することもある。 「難を知る」とは「何が難しいのか事前に意識する」ことであろう。どんなことでも、安易なこと だけで⽚付くものはない。どこかに必ずと⾔っていいほど「難しい⾯」があるものであり、それを 知っておくことが⼤切だ。 「命を知る」とは、「⾃分に与えられた使命をしっかり認識する」こと。使命が認識できてはじめ て⾃分や部下の役割を整理できる。 「退を知る」こと。これも⼤切だ。出処進退の⼼構えもそうであるし、事業の撤退を決めることも この意味に含まれる。物事は攻めだけではない。状況が不利であれば⼀旦は退くこともまた賢明な判 断なのだ。体制を⽴て直して攻めに転ずる。伊達政宗や徳川家康のように、戦国時代にも、そのよう にして数々の戦を勝ち抜いた武将は少なくないのだ。 そして最後に「⾜るを知る」。「分相応」という⾔葉がある。あまり欲張らずに、素直に成果に満 ⾜することも⼤切だ。欲深い⼈は、成功できないことが多い。どこまで⾏っても満⾜しないからだ。 「成功する意欲が強い」ことと「欲が深い」ことはまったく意味が異なる。成功する意欲を強く持ち、 何がどうなれば成功なのか、ということを意識しておく。そしてそれはあまり欲張りすぎたものでな い⽅が良い。 © Business Research Institute International Inc. 2010 13 Leaders Business Review For Business Leaders Club Members 株式会社 国際ビジネス総合研究所 Leaders Business Review (LBR) は(株) 国際ビジネス総合研究所(発⾏者)が運営する 会員組織 「Business Leaders Club(ビジネスリーダーズクラブ:BLC)」 会員のための⽉ 刊ニューズレターです。 発⾏者がサンプルとして配布する以外、⾮会員は⼊⼿できません。 LBR に記載された写真、図等の⽂字以外の情報は、出典が明記されている場合を除き、使⽤の ⾃由を認められているもの、またはLBR発⾏者に帰属するものです。 「ビジネスリーダーズクラブ」は産業界でアクティブに活動されている⽅であれば、どなたで もご⼊会いただけます。詳細および⼊会のお申し込みは、www.bri-international.co.jp で。 BRI Business Research Institute I N T E R N A T I O N A L 発⾏者: 株式会社 国際ビジネス総合研究所 代表取締役社⻑・国際ビジネスコンサルタント 植松裕史 [email protected] 〒105-6027 東京都港区⻁ノ⾨4-3-1 城⼭トラストタワー27階 電話 03-5408-8588 | FAX 03-3261-5508 Copyright © 「無断転写」、「無断複製」を禁じます。 Business Research Institute International Inc. 2010 14