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31巻 4号 (2000年3月発行) - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

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31巻 4号 (2000年3月発行) - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部
31巻 4号
平成 12年 3月
東
京
大
学
大学院理学系研究科・理学部
表
紙
の
説
明
汎 用 並 列 計 算 機 プ ロ トタ イ プ お 茶 の 水
5号
超大型汎用計算機の性能向上が飽和 の兆候 をみせ始 め、 それに ともな うコス ト/パ ーフォーマンス
の増大 が頭著 となってきた現在、逐次または並列度 の低 い密結合汎用計算機 を置 き換 えるもの として
,の 汎用高並列計算機、 ひいては汎用超並列計算機 に対す る要求が高 まりつつ ある。超並列計算機 の汎
用な利用 に共有 メモ リモデルが重要性 を持 つ ことは既 に広 く認知 され、SMPが 次世代 のワークフォー
ス として使 われ はじめてい る。超並列の共有 メモ リ計算機 で はコス ト/パ ーフォマンス を低 く抑 える
ために、 システムのスケーラビ リテ ィを有す るとともに、逐次の システムに付加可能なほど軽 いハ ー
ドウ ェアで実現 され る ことが強 く求められている。
お茶 の水 5号
(OCHANOMIZ‐ 5:Omnipotent Conclllrrency Handling Architecture with Novel
opuMIzers_5)は 、東京大学理学部情報科学科平木研究室 における並列処理 プロジェク ト
1∼ 7号 )の 第 5号 プロ トタイプ計算機であ り、広域理学
●
(お 茶 の水
(超 並列計算 システム)の 一環 として研究
開発 された。お茶 の水 5号 で は、ディレク トリベ ー不のハ ー ドウェア分散共有 メモ リが非常 に軽 いハ ー
ドウ ェアで実現 され る。私達 が提案 したハ ー ドウェア分散共有 メモ リ方式で は、 メモ リ共有 を管理す
るディレク トリ方式 と、 プロセ ッサ間を結合す るネ ッ トワー クが協調す る ことにより、大規模 システ
ム までのスケーラビ リティを実現す る。
お茶 の水 5号 で は、実際 にプロ トタイプハ ー ドウェアおよび システム ソフ トウェアの製作 を通 して、
並列計算機 アー キテ クチャ、 オペ レー ティングシステム、 プ ログラ ミング言語、アルゴ リズム、アプ
リケーシ ョンな どの高速化 の研究 を行 っている。 さらに、 スケーラブル並列計算機 システムの性能評
よび新機構 の評価 を可能 とするため、 スケーラブルな階層構造 ネッ トワー ク、分散共有 メモ リ、
価お ―
プ ロセ ッサベース同期機構、 メモ リベ ース同期機構、高機能 ネ ッ トワー クといった先進的 な機能/機
構 を備 えてい る。主要部品 に FPGA(Field Programmable Gate Array)を 使用す る ことでそれ らの
機能/機 構 の実験 のためのテス トベ ッドとしての使用 も可能 となつている:::
田 中 清
松 本
平 木
-2-
史
尚
敬
(情 報科学専攻)
(情 報科学専攻)
(情 報科学専攻)
●
蠅 灘 購 職 翻 蠅 翻 陶 鱒 螂 撻 目
次
表紙 [汎 用並列計算機プ ロ トタイプお茶の水 5号 ]
表紙 の説明
退官者 の挨拶・ 退官者 を送 る》
《
理学部での12年 と 1箇 月 ………………………………………………………………益田
益田隆司先生 を送 る ………… …………………………………………………………小柳
東京大学 を退職す るにあたって ………………………………………………………米倉
米倉仲 之先生 を送 る ………………………………………………………………… …大森
退職 にあたって ……………………………………………………………………………・山岬
山岬先生 を送 る ………………………………… ………………………… …… ………・… …松 田
大学 を去 るにあたって …………………… …… ………………………… ……………・… …石原
石原正泰先生 を送 る ……………………………………………………………… ……酒井
隆司 ……… 4
義夫 ……… 6
伸之 ……… 7
博雄 ……… 9
正紀 ……… 10
佳久 ………… 12
正泰 ………・ 13
英行 ……… 15
東京大学理学系研究科 を定年退官す るにあたって … ………………………………釜江 常好 ……… 17
釜江先生の ご退官 にあたって …………………・………………………… ………・……・相原 博昭 ………・ 18
理学部 を去 るにあたって …………………………………………… ………………………・神部
勉 …・…… 19
神部勉先生 を送 る … ………・……………… … …………¨…… …………・……・………和達 三樹 ………・ 21
停年 を迎 えるにあたって ……… ……………………… … ………………… …………………志田嘉次郎 ………… 22
志田嘉次郎先生 を送 る …………………………………………………………………浜垣 秀樹 ……… 22
・………・………………………小澤
退職 にあたって思い 出 と感謝 …………… ………………・…
徹 ……… 23
………………………………………………………………
…
… …… 田賀井篤平 ……… 24
小澤先生 を送 る
退官 にあたって ………………………… ・……………………………………………藤田 宗孝 ……… 25
藤田 さんを送 る ……………… ……… ……… ………………………………………・……片山 武司 ………・ 26
理学部での40年 間 を振 り返 って ………………………………………………………鈴木美和子 ……… 27
,・
鈴木美和子 さんを送 る ………………………………………………………… ………東江
二つ の幸 せ ………・……………・………………………………………………・……… ………・森
森 さんを送 る …… …………………………………………………………… … ………黒岩
数 々の思 い出か ら ………………………………………………………………… …… 田中
田中さんを送 る ……………… … … …………………・…………… … ……………………・植木
退官 にあたって … …………………………………………………………… ………… 田中
田中さんを送 る ……………………… … … …… ………………… ……… ………… ……… 中田
《
研究紹介》
超関数の面 白 さ ………………………………………………………………… ………片岡
…………… ……… ………坪野
動 き始 めた TAMA300レ ーザー干渉計重力波検 出器
・
・…… ………… ……………・相原
Bフ ァク トリー始動す る ……………………………… …・
北太平洋大気海洋系 の10年 規模変動 …………… ……………………………………中村
分子振動 の代数論的構造 ……………………………………………………… ……… 山内
生体分子 と計算 ……… …… …………… ………・… ………… ……………………………・坂本
生 殖腺刺激 ホルモ ン放出 ホルモ ンの新 しい生理機能 を求めて 。
…・…………・……朴
昭夫 ……… 28
君江 …・…… 29
常祥 …… … 30
光明 …… … 31
昭勝 ………… 32
亘 …… … 33
好 一・… …… 34
清臣… ……
公夫 ………
博昭 ………
尚………
35
36
37
38
39
薫 ………
健作 ………。 40
民根 ………・ 41
群体性ボルボ ックス ロの系統学的研究 :ボ ルボ ックスはどのように進化 したのか… 野崎 久義 ……… 42
・, 44
地震発生帯 の深海掘削 …………………………………………………………………芦 寿一郎 ……・
塵 に取 り込 まれた地 球 …………………………………………………………………五 十嵐丈 二……… 45
……………………………………………………………吉田 重臣 ……… 46
木 曽観測所 2kCCDカ メラ
《
名誉教授 よ り》
日本 の教育行政・ 教育政策
………… … ………………… ……………………………………海野和三郎 …… …
47
《その他》
理学系研究科長 (理 学部長 )と 理学部職員組合 との交渉 ………… … ………………………………・…・ 48
人事異動報告 ……………………………………………・…………………………………………………… 50
博 士 (理 学 )学位授与者 ……………………………¨……………………・…………………・… ………………… 51
-3-
退官者の挨拶・ 退官者を送る
理学部 での12年 と 1箇 月
益
田
隆
司
(情報科学専攻)
[email protected]― tokyo.ac.ip
自分 の専攻以外 に知 っている方がほ とん どいなかった こ
とです。教授会で前半 と後半 のあいだの休 みの ときに話
相手がいないのが手持ちぶさたであった ことが印象 に残 っ
てい ます。当時、人類 にい らした遠藤高里先生が最初 に
話相手 になって くださった方で した。そんな とき、小石
川植物園の ビアパ ー ティーで一人 ポツ ンとしていた ら、
有馬先生が つかつ か とぃ らして、「や あ、益 田さん、 あ
なたの ことは日立 の ときか らよ く知 つてい ます よ。¨。
」
昭和 63年 3月 1日 、理学部 に赴任 してか ら、今 日まで
に、数多 くの先生方、事務 の方々 にお世話 にな り、感謝
の念で い っぱいです。本当にあ りが とうござい ました。
私 は、工 学部 の修士課程 をでてか ら、偶然 に、 自分 の
干支 に合わせて、職場 を変 えて きました。はじめの12年 、
昭和 40年 4月 1日 か ら昭和 52年 3月 31日 までが、 日立製
と話 しかけて くださった こ とをよ く憶 えてい ます。
有馬先生 とはその後 もお付 き合 い をいただきました。
平成 2年 になって、教務委員長 を仰 せつかっていた とき
に、有馬先生が 日本で もティーチングアシスタン ト制度
作所、次 の12年 、昭和 52年 4月 1日 か ら、 1年 1箇 月の
併任期間 を含 めた平成元年 3月 31日 までが、筑波大学、
そして、昭和63年 3月 1日 か ら平成 12年 3月 31日 までの
を考 えてみようとされて、総長手持ちの教育研究特別経
費 か ら500万 円 を出すので、理学 部 で試行 をしてみて欲
しい といわれ ました。 そしてその結果 を、平成 3年 9月
に、「ティー チ ングアシスタン トの試行 に関す る報告書」
にまとめました。先生 はたいへ んに感謝 をして くださっ
12年 と 1箇 月が東京大学理学部です。 その前、12年 を遡
ります と、関西 か ら、イヽ
学校 6年 の ときに東京 にでて き
て、 このよ うな しっか りとした報告書 がで きると文部省
に対 して予算 を要求で きるか もしれない とおっしゃい ま
た ときにあた ります。適 当な間隔で動 い たために、その
した。 そして、原稿用紙 2枚 に万 年筆で先生直筆 のお手
紙 をいただ きました。一 生懸命 やってよかった とぃ う気
度 に強 い刺激 を受 け、か つ、それぞれの ところで過去 を
引 きず らない行動 がで きた ことが よかった と思い ます。
さらにそれぞれの ところにいい友人が い ることが、 この
頃 になると何 よ りの財産 とい うか心 の糧 で す。
それ までが工 学の世界 にいた ものですか ら、理学部 に
お世話 になった ときには、 まず工 学 の世界 と理学 の世界
の違 い を新鮮 な もの として感 じました。研究分野、 ある
い は、研究手法、研究 の 目的が違 う ことは当然 で し ょう
が 、それが、 ものごとの考 え方の違 い、組織運営法 の違
い、 あえて い えば、そ こに属す る人 の性格、顔 つ きの違
い といった ところにまで及んで い る よ うに感 じました。
工 学系 は、常 に組織 を意識 して、人間関係で い えば上下
持 ちがい まも残 ってい ます。
ここで このような ことを書 くのは耳きずかしいのですが、
研究 の方 は、理学部 のお世話 になってか らかな りお ろそ
かになって しまい ました。私 の仕事 の分野 は、計算機の
基本 ソフ トウェアです。 なかで も日本 がいまやほ とん ど
何 も独 自の ものをもって い ないオペ レー ティングシステ
・
ムの分野です。
私 が 日立製作所 に入社 をした ときには、社内 に 2つ の
系統が あ りました。 一 方 が 国産技術路線、他方が輸入技
術路線です。私 は国産技術路線 に配属 にな りました。 国
産 はじめて の大型計 算機 で あ る HITAC5020が 開発 の
を意識 して ものごとを考 え進 める、集団、協調 の風土 で
ある一 方、理学系 は、組織 よ りも常 に個人 を優先する リ
ベ ラル な風土 と感 じました。学会でみて も、工 学 を代表
最中の頃 で した。皆、土 日もな く真夜 中 まで仕事 をして
い ました。昭和 40年 に新設 された東京大学大型計 算機 セ
する電子情 報通信学会 と、理 学 を代表す る物理学会では、
多 くの面で対照的です。理学部 にお世話 になって しばら
くは、 この理学系の リベ ラルな風土 が非常 に新鮮 に映 り
あるときで した。当時 の この受注の重み は、 とて も現在
の比で はあ りません。新入社員 としてその うしろに くっ
ついて しば らくしたあ との、 はじめての本格的仕事 は、
当時 のバ ッチ処理全盛時代 に、タイムシェア リング用の
気 にい りました。最近 になって、 また工 学 の風土 にもい
い ところが あったな と思 うようになった ことはそれだけ
年 を とって きたせいか もしれ ません。
理学部 にお世話 になったはじめの頃、辛かったのは、
-4-
ンターの受注が とれた とい う ことで、 ものす ごい活気 が
本格的オペ レー ティングシス テムの研究開発 をす る こと
で した。何 とかそのシス テムの開発 に成功 し、そのあ と
はず っ と計算機 シス テム の性能評価 の研究 を継続 してや
●
退官者の挨拶・ 退官者 を送る
りました。オペ レー テ ィング シス テムの もっ とも重 要な
課題 は、資源 の有効活用 とい う時代で した。
ち ょうど私が理学部 にお世話 になった頃が、汎用機 か
らワー クステーシ ョンヘ の移 り変 わ りが本格的に始 ま り
した。 私 が意図 して いたのは、東京大学 に大学院重点化
大学 にふさわ しい 1つ の組織 を情報 の分野 をモ デルに し
てつ くりたい とい う ことで した。具体的 には、理、工 、
他 の情報分野 の新組織 へ の参加希望組織 を融合 して、 と
はじめた ときで、オペ レー ティングシステムの研 究課題
も、性能か ら、計 算機 の使 い勝手 のよさ とい う方向へ大
りあえず は 1専 攻 か らな る、 100人 規模 の教官組織 をつ
くる、大学院 は基本的 には ドクターー貫 コー スを原則 と
きく変わ りはじめました。 自分 で第 一線 で仕事 をし、論
す る、他大学か らの学生 をで きるだけ積極的 に とるとい
文 を書 いたの は、性能 が重要な時代 で した。 で も理学部
にお世話 になって12年 のあいだに、私 の研究室 で、オペ
う意味で大学院で開かれた組織 として、学部 との独立性
を高 める、将来的 には学部学生 の数 を抜本的 に減少 させ
レーテ ィングシステムを中心 としたシステムソフ トウ ェ
る、 とい うもので した。情報 の分野 であればこのような
アの分野 で学位 を とった学生 は、8名 い ます。皆、大学、
あるいは、産業界 の重要なポス トで仕事 をして い ます。
構想 も成功すると確信 していました。内部 の合意 はで き、
吉川 さんの ときにあ と一歩 とい うところまで いったので
現在学位 を目指 して継続中 の学生 も 3名 います。
私 が理 学部 にお世話 になってか らの数年間 は、情報科
すが、結局 この構想 は実現 しませんで した。 これ はい ま
で も残念 に思って い ます。
学科 は、ち ょう ど世代交代期 に当 たってい ました。学科
の創設 に関わ られた後藤英 一先生 をはじめ とす る先生方
私 が考 えて い たのは、 これ までを否定 しなければで き
ない もので した。最近、情報 に関 して、学環 だ とか学府
が ご停年 を迎 えられるときで した。物理、数学 の色 合 い
が強 かった学科 のカ リキ ュラムを情報科学 プ ロパ ーな も
だ とかい う組織がで きつつあ りますが、 これ は従来 の東
のにす るとい うことも大 きな仕事 で した。
平成 7年 4月 か ら平成 9年 3月 まで研究科長 の重職 を
務 めさせてい ただ きました。記憶 に残 って い ることはた
くさんあ りますが、なかで もた いへんだったのは柏 に関
京大学の新組織 と同様、既存 の組織 を前提 とし、その上
に何 かをつ くろうとい う ことで、私 が考 えて いた ことと
は基本的 な ところで違 っています。
い ま一 番心配 して い ることは停年延長 の ことで す。理
いた ままで柏 に出る という約束 になっていたようですが、
学系 はもっ とも苦 しい立場 ではないか と思います。基礎
科学 の分野 は再就職 が厳 しい分野 の一つです。停年延長
の必要性 が高 い分野 ですが、 その一 方 で、基礎科学 の分
士事 力`Cき るとい う ことで
野 こそ、若 い ときが もっ ともイ
私 の ときになって、学部 を本郷 にお いて教 官 が柏 に移 っ
たのでは、学部教育 に大 きな支 障 を生ず ることが明 らか
す。 この矛盾 を どうやって解決すれば よいので しょう。
現在教授 へ の昇格 が、仮 に平均45歳 程度 であった としま
になった とい う ことで、全面移転 はや め にしたい とい う
す と、停年延長後 の定常状態 で は、昇格 がやや遅 くなる
ことを考慮 にいれて、およそ 3分 の 1近 くの教授が、60
す る ことで した。 印象深 い のは、私 の前任 の小林俊一 さ
んの ときには、生物科学専攻が、理学系研究科 に籍 をお
専攻 のご意向がでて きた ことによる もので した。黒岩専
攻長 とはよ く話 し合 い ました。私 の考 えははっきりとし
て いて、決 して無責任 になって はい けませんが、常 にそ
歳 を超 えた教授 とな り、 その分、若 い教授 が減少する こ
とにな ります。教授会 の雰囲気 も変わ ると思 い ます。 ま
れぞれの時点での現場 の意向が筋 が通 るものであれば、
以前の約束 ごとよ りもそれ を優先 してよい とい うことで
た、60歳 以上の教授 の数 だけ、若手助手 が とれない こと
にな ります。若手教官 の活動 の場 も減少 します。理学系
した。表現 を誤解 されると困 りますが、現在 の国立大学
の経営 はどの レベ ルにおいて もそれほ どしっか りした も
研究科 は、 日にみえない内 に、大幅 に変わ って しまうこ
とになるので はないで しょうか。停年延長 を決定するに
ので はあ りません。一度 約束 した ことは変 えられない と
い う組織優先で は、場合 によって はあ とに大 きな負 の影
は、慎重 な検討 が必要な ことだ けはまちが い な い と思い
ますが いかが で しょうか。
響 を残す可能性 もあ ります。経営力が弱 い ことが 国立大
学 のよさで もあ ります。当時、吉川総長、鈴木副学長か
自分 の もって い る能力全開 で走 って きた12年 と 1箇 月
で した。 それ まで は理 学系 とは関係 がなかった者 にこの
らは厳 しいお叱 りを受 けました。で もい まも生物科学専
ような場 を与 えて くださった理学系の自由に深 い敬意 を
表す るとともに、心 か ら感謝 をい た します。 そうじて、
攻 の全面移転 はしない という決断は正 しかったのだ と思っ
て い ます。 その意 味 で現在検討中の独立行政法人化 には
心配 をしてい ます。国立大学 の経営 はどのような ものか
見当がつかないか らです。少 な くとも現在 の感覚 で、独
難 しいか もしれ ませんが、 このよ うな自由の風土 が東京
大学全体 に拡 がって くれ ることを期待す る次第 です。
あ りが とうござい ました。
立行政法人 化をす るとひどいことになるのではないで しょ
うか。
学部長 を担当させていただいた頃 か ら、東京大学 の情
報系 の組織 を何 とか しない といけない ということで、理
学部 にお世話 になってか らの もっ とも精力 を注 い だ仕事
をしました。現在 も継続中の ことで もあるので、 自分の
気持 を詳 しく述 べ ることは控 えますが、 私 が 当初意図 し
ていた もの とは、 かな り異 なった方向にいって しまい ま
-5-
退官者の挨拶・ 退官者 を送 る
益 田隆司先生 を送 る
小
柳
義
夫 (情 報科学専攻 )
[email protected]‐ tokyo.ac.jp
益田隆司先生 は本学工 学部応用物理学科 (計 測工学専
修 コー ス)を 卒業 され、引続 き数物系研究科応用物理学
専門課程 において、朝香鐵 一教授 の もとで数理統計学で
修 士号を取得され ました。 1956年 日立製作所 に入社 され、
中央研究所、 シス テム開発研究所 で勤務 され ました。 19
77年 筑波大学電子・ 情報工 学系 に着任 され、講師、助教
大学院重点化、数理科学独立後 の理学系研究科・ 理学部
の大事 な時期 の舵取 りをされ ました。 とくに柏 の新 キャ
ンパス構想 や、新研究科 (現 在 の新領域創成科学研究科 )
の長 く困難 な問題 を解決 され、広 い意味の理学分野 の発
展 に尽力 され ました。世 は「 理科離れ」の時代 とな り、
理 学部 の危機 か と思われ ましたが、先生 は、「 これ は理
授、教授 を歴任 された後 、 1988年 本学 の教授 として赴任
科離れで はない、工 学離れだJと 看破 され、基礎科学教
され ました。先生 の大学での御専門 は統計学 で したが、
育研究の重要性 を力説 され ました。御 自身が工学部出身
の先生 の この発言 は諸方面 に波紋 を起 こしました。余談
日立製作所 において、 その学識 を当時わが国 で勃興 しつ
つ あった コン ピュー タ技術 に適応 し、現在 の情報科学 の
中で OS(オ ペ レー テ ィ ングシステム)と 言われ る分 野
の草分 けとして活躍 され ました。
私 が先生 とはじめてお会 い したのは私 が筑波大学 に赴
ですが、先生 を含 めて前後 4代 の理学部長 は東大理学部
出身者以外が続 きましたが、 このような理学系 のオープ
ンな性格 は、先生の寄与 による ところ も少な くなかった
もの と思われます。
任 してか らですが、それ よ りはるか昔 に先生 の御研究 を
それ とは知 らずに聞 いてい たので した。私 が本学理学部
先生 は、情報処理学会 の理事 を務 め られた他、文部省
や通産省関係な どの各種 の重 要な委員等 を歴任 され、大
物理学科 の助手 だった ころ、私 も愛用 していた当時の大
型計算機 セ ンターの 日立 の汎用計算機 HITAC 5020の
とか全 く理解 して いなかったのですが、今 か ら思 えば、
学外 において もさまざまな活躍 をなさい ました。 また先
生 は昔 か ら歯 に衣着せぬ直言 で も知 られ、先生の直球 は、
政治的配慮 を第 一 と考 えるような人 々には不規則発言 と
恐れ られ ました。 この直言 ぶ りは、通常 は反対発言な ど
少 ない大学の評議会で も遺憾 な く発揮 されたよ うです。
現在の会話型 シス テムの卵 だったわ けです。当時の計 算
機 は、パ ンチカー ドの束 を受 け付 けに持 ってい くと、 1
最近 で は、大学院重点化大学 の学部定員 は減 らすべ きで
あると主張 した朝 日新 聞「論壇」 へ の投稿、東大の教官
週間後に結果を受けとる、といったバ ッチ処理 しかなかっ
たのですが、先生 は会話的 に計算機 を使 う当時 として最
停年延長 を危惧 した読売新聞「論点」 へ の投稿 な どは、
先端 の技術 を日立の研究者 として開発 してお られたので
うな波紋 を楽 しんでお られたようにも見受 けられ ます。
今後 とも、御健康 に留意 され るとともに、教育研究 に
上 で、「DAT付 きTSS」 とかい うものの研究 が行 なわ
れて い るとい う話 を聞 きました。 もちろん当時 は何 の こ
す。先生 はこの仕事 に関連 して学会 の賞 をほ とん ど連続
して 3回 受 けられ ました。
筑波大学 へ着任 された当時の情報学類 (教 育組織 )や
電子 。情報工 学系 (研 究組織 )は 倉1設 直後 で あ り、 い ろ
い ろと苦労が絶 えなかったわ けですが、先生 は多 くの同
僚 と協力 して新 しい組織 の確立 に尽力 され ました。学生
の人気 も高 く、新入生オ リエ ンテーションな どで先生 が
壇 に立つ と、 ひ ときわ高 い拍手が女子学生の間 か ら沸 き
起 こ り、同僚 を羨 ましが らせた ものです。
本学 に移 られてか らも、先生 はふたたび創設の御苦労
を味わ う ことにな りました。情報科学科の創設 に尽力 さ
れた教授 の方々 はそろそろ御停年 の時期 が近 づ き、学科
は第 二 の創設期 を迎 えて い たので す。現在 のスタ ッフは
私 を含めすべて先生の着任後 に採用 されたものばか りで、
いわば先生のアイデアによ り現在 の情報科学科 (専 攻 )
が成立 したわけです。 その御苦労 のためか、教室主任在
任中 に健康 を害 されて入退院 を繰 り返 され、わたしが急
拠 ピンチ ヒ ッター を務 めたような事件 もあ りました。
その後、 1993年 か ら情報科学科 としてはじめての評議
員、 1995年 か ら理 学系研究科長、理学部長 の任 に着 かれ、
-6-
賛否両論 さまざまな波紋 を及ぼ しました。先生 はそのよ
邁進 され るよう、 また直言の冴 えも一 層磨 かれ るよう祈
念 して、私 の送 る ことば と致 します。
退官者の挨 拶 0退 官者 を送 る
東京大学 を退職す るにあたって
米
倉
伸
之
(地 理学専攻)
yOnekura(D geogr.s.u― tokyo.ac ip
年 か ら72年 にかけて南米 ア ンデスの海 外調査 │こ 参加 し、
1977年 か ら78年 には文 部省在外研究員 としてカ リフォル
ニアエ 科大学 とパ リ大 学 で多 くの研究者 に会 う機会 を得、
1980年 か ら82年 まで 日本学術振興会 日米科学事業 によ り
南太平洋 ニ ューヘ ブ リデス (ヴ ァヌアツ)諸 島で コー ネ
ル大学 との共同研究 を行 い、環太平洋地 震帯 における地
殻変動 の研究 に10年 ほど取 り組 む ことにな りました。 さ
1960年 4月 に本郷 の理 学部 に進学 して以来、学生、大
学院生、助手 か ら教授 まで、丸40年 の長 い期間 にわた っ
て理 学部 と理学系研究科 でお世話 にな りました。60才 の
停年退職 を迎 える ことがで き、大変感謝 してお ります。
私 自身 に とって は、 この40年 はほんの一瞬であったかの
ように錯覚す るほど、 こころゆ くまで楽 しんだ年月 であ
りました。 もちろん、 その間 には大変辛 い ことや苦 しい
こともあ った筈 ですが、 そのような記憶 はほ とん ど残 っ
らに1980年 代 には、文部省海外学術調査 (国 際学術研究 )
の枠 で「 中部太平洋 の海面変化 とテク トニ クスJ「 太平
洋 とイ ン ド洋 にお ける海面変化 の比 較研究」 とい う課題
で1990年 まで多 くの専門分野 の人々 と海外共同研究 を実
施 しました。 この20年 間 は太平洋周辺 の地域や太平洋の
島々で、海岸地域 の地形形成史 と地殻変動 。海面変化 の
変動史 の解明 に専念す ることが 出来 ました。理学部 の助
手・ 助教授 とい う立場で研究 に専念 で きた20年 で した。
また この20年 はプ レー トテク トニ クスを中心 とした「新
てお りません。 かな り自由に勉強 と研究 をさせていたい
しい地球観」 が成立 した地球科学の革命期で もあ り、地
ただける環境 に身 を置 きなが ら、 その時間 と環境 を十分
に生か し切れなかった とい う反省が頻 りです。
形学 もその影響 を受 け、私達 のような個別 の地域的な研
究 が地球規模 の研究 の枠組 みに位 置 づ けられ るようにな
大学 に入 るまで はどんな ことで身 を立 てようか とい う
ことを真剣 に考 えた ことが な く、成 り行 き任 せ 、 日和見
りました。具体的 には、 自分達 の地形 学、 自然地理学 の
を決め込 んでいたのですが、東京生 まれ、東京育 ちの自
分 に とって、 どこか遠 い ところに行 ってみたい とい う
「旅」 へ の漠然 とした想 いが、「地理学」 へ と接近 させ
ることにな りました。駒場 にい るころか ら、
「旅」がで
きる地理学 を学 んでみたい とい う気持 にな りましたが、
教養学科人文地理学分 科 に は進学で きる成績 で はな く、
当時文科系か らも進学 の枠 があった理学部地学科地理学
課程 に進学 しました。学部 。大学院で は自然地理学、 と
くに地形学 に興味 をもち、北海道 へ の旅行 の時 に見 た根
室半島の平坦な台地 (地 形学の用語で「海岸段 丘 」 とい
う)が どこまで も続 く景色 を見て、 その地形 の成 り立 ち
を調 べ てみたい とい う気持か ら、修 士課程 になってか ら
本気 で地形学の勉強 をはじめました。海岸段 丘 とは、 か
つて海面近 くで海 の侵食・ 堆積作用で形成 された平坦な
研究課題 を地球 の表 層構造 と環境変動の中で考 え、現在
お こ りつつ ある現 象 を過去 に遡 りなが ら、地球 の歴史的
発展 の過程 として捉 えられ るようになって きました。 そ
れまで個別化、専門化 を続 けて きた地球科学 の諸分野 は、
この地球科学 の革命 によって、共通 の研究課題 に向かっ
て共同 して研究する機会が必然的に多 くな り、 自然地理
学 と地質学、地球 物理学 との学問的 な関係 も深 くなって
きました。
東京大学理学部地理学教室 は、歴史的 には20世 紀 のは
じめに地 質学教室か ら独立 して、地理学 を確立す るため
に先輩 の先生がたが大変努力 をされて きました。 1990年
代 における東京大学 における研究教育体制 の改革 に とも
ない、地理学専攻で は、大学院重点化 による大学院教育
海底面 が、その後 の海面変化や地殻変動 のために陸地 に
にお ける本郷 と駒場 の実質的な分離 (そ れ まで は東大 に
おける地理学の大学院教育 は理 学系 に一本化 されていた
が、大学院重点化 によって実質的 には理 学系研究科 と総
現われた地形で、海岸地域 の環境変化の地形的指標 とし
て重要な役割 を果 して い ます。卒業論文で は東北地方 の
合文化研究科 の 2本 立 てになった)、 空間情報科学研究
セ ンターの新設 (1998年 4月 )、 新領域創成科学研究科
馬淵川の河川地形、修 士論文で は三 陸北部 の海岸地形 を
調査 して、先生 がた と先輩達 の指導 を受 けなが ら地形 学
環境学専攻 の新設 (1999年 4月 )、 理学系研 究科地球惑
星科学 専攻 へ の統合 (2000年 4月 )が つ ぎつ ぎに実現 し、
の基礎 を学 びました。 1965年 に博 士課 程 の途 中で、理学
部地理 学教室 の助手 になってか らも紀伊半島 と相模湾周
1960年 に地理学講座 1講 座 の ところに 自然地域学講座
辺の海岸地形 を順次研究 しなが ら、私 の地形学 の修業時
代 は約 10年 に及び ました。
1968年 か ら69年 の「大 学闘争 Jの 激動期 の後 に、 1970
-7-
1
講座 が増設 されて以 来 の変革期 を迎 えました。地理学専
攻 で はこの機 会 を、21世紀 における地理学、 と くに自然
地理学分野の発展 の契機 と捉 え、積極的にこれ らの組織
替 えに参画 して きました。理学系研究科地理学専攻 は結
退官者の挨拶・ 退官者を送る
2000年 3月 とい う世紀 と千世紀 の1変 わ り日に、新 しい
果的 に消滅 す ることにな りま したが、東京大学の駒場、
本郷、柏 とい う三極構造 に対応 した地理 学分野 (駒場 に
研究教育体制の発足 を見守 りなが ら、34年半 におよぶ東
京大学理学部 と理学系研究科における職 を辞することに
な り、あらゆる場面でお世話 になった地理学教室 の教職
員・大学院生 。学部学生をはじめ とす る理学部 。理学系
研究科の各位 に感謝の気持を述べ、皆様 の更 なる発展 と
ご健康をお祈 りして退職の挨拶 といた します。
おけ る人文地理学分野、本郷 における 自然地 理学分野、
柏 にお ける環境学分野 )の 発展的な組織再編 と考 えて お
ります。地理学専攻 の この決 断 に際 して は、最年長 の教
授 として大 きな責任 があるもの と考 えてい ます。 これか
らも皆 さんの ご支援 をお願 いす る次第 です。
-8-
退官者 の挨拶・ 退官者 を送 る
米倉伸之先生を送 る
大
森
博
雄
(地 理学専攻)
[email protected]― tokyo.acip
米倉伸 之先生 は、私が理学部 に進 学 した1966年 には既
に理学部 の若手 の助手 として研究・ 教育 に精力的 に取 り
組 んでお られ、 そのはつ らつ とした姿 に尊敬 と一種 のあ
こが れを抱かされ ました。 あれか ら二十数年余、あ っ と
言 う間に過 ぎて しまったような気 が しますが、現在 も学
内外 で活躍 されてお られ、頭 の下 が る思 いです。
米倉先生 は第 四紀 と呼 ばれ るここ200万 年 の間 の地 殻
変動や海面変動、海底地形やサ ンゴ礁 の形成過程 をはじ
め とする地球環境変動の研究 を発展 させて きました。地
震 による災害 は変動帯 に住 む日本人 に とって避 ける こと
がで きない頭 の痛 い問題 です。大地 の動 きは地 震時 の急
激 な動 きと、地震 と地震の間の緩やかな動 きか らな りま
すが、同一地域での大地震 は数百 年∼ 数千年 の間隔 で し
動 区Jの 存在 はプ レー トの沈み込 み帯 や衝突帯 の持 つ大
きな特徴 として知 られてお ります。
海岸段丘に秘められた地殻変動の歴史をひ もとくには、
海面変動や海底地形 の研究 が必然的 に要求 され ます。氷
期、間氷期 が繰 り返 された第 四紀 にお いて、現在 は後氷
期 と呼 ばれる温暖 な時期 に当た ります。約 2万 年前 に最
も寒冷 にな り、海面が 100m前 後低下 した最終氷期 の前
の温暖期 は最終間氷期 と呼びます。約 12万 年前頃 の最終
間氷期 には現在 と同様 に温暖な時期 で したが、 この時 の
海面 が どの程度 の高度 に達 したか は今 で も議論 の あ ると
ころです。 この時期 の海岸段 丘 は世界各地 に分布 し、地
殻変動 の地域 性 を把握す るためばか りでな く、古環境 を
か発生 しませんので、 日本 に近代科学 が導入 されて地 殻
変動 が恒常的 に観測 され るようになった19世 紀末以降、
考察す る上で も、当時の海面高度 の決定 は重要 な課題 と
な ります。米倉先生 は何段 もの海岸段丘が 発達 したパ プ
アニ ュー ギニ アにお いて、地殻変動 と海面変動 とをきれ
同 じ場所 で 2回 以上大地震 を観測 した例 はあ りません。
地表の変形 は長期 における何回 もの地震時の動 きと非地
いに分離す ることに成功 し、最終間氷期 の海面高度 は現
在 よ り 5mほ ど高か つた ことを明 らかにしました。当時
震時 の動 きの積算結果 を示 してい ます。地形 が持 つ この
ような性格 を分析 して地殻変動 を解明す ることは戦後 の
の海面高度の拠 り所 として、地殻変動や古環境研究で用
い られてお ります。
世界 の地形学 の重 要課題 の一つで したが、 この分野 にお
いて米倉先生 は常 に先駆的研究 に取 り組 まれて きました。
米倉先生 はこうした個別 の研究成果 を挙 げ られたばか
りでな く、 日本第四紀学会 の会 長 として、 また文部省 の
特 に、海岸段丘や海底地形 の形成・ 変形過程 を研究 し、
日本 の太平 洋岸 には、地震時・ 非地震時 ともに同 じ方 向
の動 きをする内陸側地域 と、地震時 と非地震時 とでは逆
科研費 の総合研究 な どの代表者 として、 日本 の第四紀研
究 の とりま とめ役 をつ とめて きました。「頼 まれれば万
難 を排 して引 き受 ける」 を教育 。研究 の信条 とし、
「言
の動 きをする海側地域 とが海岸 に沿 って帯状 に平行 して
うは易 く行 うは難 しJの この信条 を貫 き、 自由勝手な研
連 な り、両地帯 の境界 はヒンジラインとして低地 を形成
して い ることを明 らか に しました。「海側 の一帯 (地 震
性地殻変動区)は 非地震時 には海側 に傾動 。沈降 し、地
究者群 をまとめ、 その研究成果報告書 は積 み上 げれば 1
震時 には陸側 に傾動・ 隆起す る。地震時の総隆起量 が非
学院 の学生 の時、東北・ 三 陸海岸 の調査 に同伴 させてい
ただいたことがあ ります。昼のハ ー ドスケデ ュール と違 っ
地震時の総沈降量 を上回 り、結果 として、海岸 山脈 が形
成 され る」 とい う現在で は常識 として定着 して い る考 え
の礎 を築 きました。 この研究 は博 士論文 として まとめ ら
れ ましたが、 その後、南ア メ リカや ニ ュージー ラン ドを
m以 上 にも達 します。 そこに見 られ る研究成果 はラン ド
マー ク として、研究者 の指針 となって きました。私 が大
て、夕食時 には和 やかに話 され、一杯 はいる と良 い気分
になって、気持ちよさそうにうたた寝 をする先生で した。
はじめとする太平洋 の変動帯 の多 くの地域・ 島々を調査・
奥様 とフインを晩酌 され るとの こと。1年 足 らずで次の
教職 の仕事 が待 っているとの ことですが、奥様 の暖 かい
研究 して きました。 これだけ多数 の地域 の現地調査 をし
た研究者 は日本 はもとよ り世界 に もい ないので はないか
介抱 の もと、更 なるご活躍 のための鋭気 を養 って いただ
きます ようお祈 りい た します。
と思い ます。現在 で は、「 ヒン ジライ ン と地 震性地殻変
-9-
退官者の挨拶・ 退官者を送る
退職 に あた って
山
山
甲 正
紀
(地 球惑星物理学専攻)
[email protected]‐ tokyo.ac.ip
が赴任 した ときの地球惑星物理学科 が35名 にもなって い
る ことに少 し驚 か され ました。大学院の修士課程 で は10
名位 で したか ら、現在 の50数 名 は何 とも驚 きです。時代
の違 い とい うことなので しょうか。 しか し、大学の教官
は独 自のアイデアによる研究成果 を論文 として発表 す る
義務 を負 つていることを考 えるとき、修士論文 の指導 に
ある程度 の時 間 をさかなけれ ばな らない現状 に問題 がな
い とはいえない と思 っています。
私 が大学 に教官 として赴任 したのは 8年 前 の平成 4年
4月 で したか ら 8年 間 ここで過 ごした ことにな ります。
話 が変 な方向にい って しまい ましたが、既 にか いたよ
うに、私 は大 学院で は熱帯低気圧 (台 風 )の 研究 を行 う こ
理学部広報 の原稿 の執筆 を依頼 された ときにいただいた
広報 の「退官者 の挨拶」 を読 みなが ら、40年 間 を ここで
とにな りました。指導教官 は正 野教授で したが、修士課
過 ごされた方 とは違 って、退官 とか大学 を去 るとか い う
程 で は、当時助手 をしてお られた松野教授 (私 の前任者 )
にお世話 にな りました。 その頃最初 は東大 に コンピータ
よ りも、公務員 としての退職 とい う方が私 の気持 ちを適
はな く気象庁で少 しだ けですが使 わせて もらって いて
切 に表わす ことになるので はないか とい う思 いが しまし
た。 ここに赴任す るまでの24年 間 は、私 は気象庁気象研
その後博 士 課程 に入 って まもな く
東大 に コン ピュータが入 り、私 は数値 モ デル をつ くって
究所で過 ごしました。最初 の12年 間 は高円寺 (こ の うち
2年 間 はニ ュー ヨー ク)で 、 1970年 代後半 か ら80年 にか
熱帯低気圧 (台 風 )の 数値実験 をやったわけですが、当時
としては多分 ほかの分野 で もや られてい なかった最大規
けての国立研究機関 のつ くば移転 によって、後半の12年
間 はつ くばで過 ごす ことになったわけですが、8年 前 に、
模 の計算 で した。 自分 でか くの も変ですが、 その ときの
博 士論文 としての研究 は評価 されたのですが、 それ は、
本当 に久 し振 りに、懐 か しい理 学部 3号 館 に移 りました。
私 が修士課程 の 2年 になるときに増築 となった 3号 館 で
当時 の多 くの人 たちが受 け入れて いた研究 に基礎 をお い
て発展 させた ものだったか らか もしれ ません。 その時 の
したか ら、当時の新 しい建物や部屋 とは雲泥 の差 のある
3号 館、 しか し、 メインキャンパ スか ら少 し離れ た、上
私 の研究 も含 めてそれ以 前 の研究 が現象 を適切 に理解 し
た ものでない こ とに気が つい たのは、私 が気象研究所 に
(当 時 は IBM704)、
野 を遠 くに望む静かな 3号 館 を私 は好 きで した。 それ は
入 って基 礎的な研究 を始 めてか ら 5年 以上 もたってか ら
学生時代 の多 くの思 い出のつ まった 3号 館 だったか らに
違 い あ りません。 この 8年 間 を研究 と教育 のた め に 3号
で、 さ らに私 の考 え方 をはっきりした形 で発表す るのに
5年 以上 かか りました。多 くの人たちが受 け入れてい る
館 で、そして新 たな気分 で新 1号 館 で過 ごせた ことを幸
せ な ことだった と思ってお ります。
考 え方 とは違 った考 え方 を論文 の形で はっ きりか くには
慎重 を要す る と考 えたか らで した。熱帯低気圧 の研 究 に
私 の専門 は気象学 です。古 い話 にな りますが、理学部
物理学科 の地球物理学課程 (当 時)に 進学す ることになっ
限 らずほかの分野 で も私 の研究 はほかの人たちの考 え と
違 うことが少 な くなか ったのですが、多 くの人 たちが考
たのは、音 か ら「天気 」 に関心 をもち、ラジオの気 象通
報 をきいて天気図をか き天気の予測 をする ことが好 きだっ
えて い ること、 あるい はその研究 の方向が「市民権 を得
たか らで した。駒場 で も地文研 に属 して天気図をかいて
い ました。当時 の思 い出 の一つ は、昭和 34年 9月 26日 、
ている」 とい う形で正当化 しようとす る考 えを私 は何 度
か耳 にしています。研究 とい うのは非常 に難 しい ものだ
とい う思 い、 そして、研究 の評 価 とは何 か、 という基本
歴史的な伊勢湾台風 の午後、東京 で も外 は風雨 が強 まっ
ている中、地文研 の部屋 で友人 と囲碁 を楽 しんで い たの
的な問題 が存在 していることを感 じて きました。研究 と
は本 当 に時間 をか けて正 し く評価す ることがで きるよう
ですが、「台風 Jを その 3年 後 に、 自分 の最 も専門 とす
になるもの、 とい うことなので しょうか。私 はこの意 味
で、 とくに大学 の教 官 は、研究の方向性 に対 して大 きな
責任 を負って い ることを強 く感 じています。
る分野 として選択す ることになることをその ときはまだ
知 りませんで した。 また、伊勢湾台風 の「お陰Jで 、 そ
の 9年 後 に勤務す る ことになる気象研究所 の中 の一つの
部 として台風研究部がで きた とい うことも私 は知 りませ
んで した。
私 は多 くの方々のお陰 で幸 せな30年 余 を過 ごす ことが
で きた と思い ます。研究所 の時代 に私 の思 う方向で 自由
理学部 に進 学 して、今 は旧 となっている 1号 館 で 2年
に研究す ることがで きたのは研究所や気象庁本庁 な どの
多 くの方々のお陰 で あ り、 また、大学 な どの方 々か らも
間、当時 の地球物理課程 は 1学 年 が 12名 で したか ら、私
サポー トや暖か い励 ましをいただいて きました。大学 に
-10-
●
●
退官者の挨拶 0退 官者 を送 る
きてか らも多 くの方々のお世話 にな りました。
大学が国立研究機関 と異なる点 の一つはい うまで もな
く学生の教育 ですが、学生数の多 さに コメ ン トしなが ら
も、一 方 で は、純真 な学 生 との交 わ りは大学 の教 官 の喜
びの一つだ とい うことも付 け加 えたい と思い ます。また、
学生 が研究 を発展 させ る ことの喜びを感 じるのを見 るの
は嬉 しい ものです。優れ た若 い人たちが、それぞれにあっ
た方向 に伸 びてい くことので きる環境 を与 える ことの大
切 さを思 い、 また、研究 のや り甲斐が感 じられ るような
励 ましは具体的 な研究上の示唆 よ りもはるかに大切 な こ
とだ と思 って きました。 これか らは、私が果 たせなかつ
た 自然 の奥深 い謎 が若 い人 たちによって解 き明 か されて
い くことを楽 しみ にしてい ます。
最後 に、研究 と教育 を支えて下 さった研究 ス タッフ室・
事務系の方々 に心か らお礼 を申 し述 べ た い と思 い ます。
研究所 の ときもそうで したし、 ここに移 ってか らも、事
務系 の方々には陰 に陽 に大変 お世話 にな りました。 いつ
もはあま り気 に とめない陰の部分 は非常 に多 いのだ と思
い ます。 これか らも理 学系研究科、 そして私 が属 した地
球惑星物理学専攻 の発 展 で ある地球惑星科 学専攻 のた め
によろし くお願 い致 します。
-11-―
退官者の挨拶・ 退官者 を送 る
山岬先生 を送 る
松
田
佳
久 (地 球惑星物理学専攻 )
matsuda(Dgeoph.s.u― tokyo.ac.jp
山岬先生 は本学理学部地球物理学科 を卒業後、引 き続
き本学 の大学院 の気象研究室 に入 り、理学博士の学位 を
取得 され ました。 1992年 3月 まで気象研究所 の台風研究
部 に勤務 され、 1992年 の 4月 に地球惑星物理学教室 に教
授 として赴任 され ました。私 は先生 と研究テー マ を少 し
異 にしているので、 どれほど先生 の仕事 を理解 してい る
のか 自信 があ りませんが、以下 に簡単 に先生 の仕事 を紹
介 した い と思います。
先生の主な研究対象 は、熱帯低気圧 な どのように降水
を伴 う対流が重要な役割 を果 たす現 象 で あ り、一般 の人
が「気象」 とい言葉 か ら連想す るような典型 的 な気象現
CISKメ カニ ズムによる熱帯波動 の生 成 の理論 を最初 に
提 出 しました。
山岬先生の研究方法 は線型理論 もあ りますが、既 に述
べ たように、数値実験 が主 になってい ます。気象現象 を
適切 に表現す る数値 モ デル を作 る ことは容易な ことで は
あ りませんが、山岬先生 は独力 で様 々な種類 の数値 モ デ
ル を開発 して こられ、 それを用 いて台風 な どに関す る膨
大 な数値実験 を行われ ました。 これ らの数値実験 を中心
とした研究 は極 めて系統的 であ り、徹底 した ものです。
これ らの研究 は主 に気象研究所在職中になされた もので
す。 8年 前 に東大 に赴任 されてか らは、 このよ うな研究
象 です。研究手法 は主 として、数値 モ デル を使 った数値
実験 に依 つてい ます。
の蓄積 に基づいて、教育や研究指導 に当た られ、その成
果 として指導 された学生 が ユニ ー クな博士論文が完成 し
気象現象 には様 々な空 間的 スケールを持 った現象が 同
時 に存在 してい ます。積雲対流のように水平スケールが
てい ます。
10km程 度 の もの もあれば、台風 のように数百揃 の もの も
あ ります。 そこで、 このようなスケール を異 にす る現象
が どのように相互作用す るかが問題 にな ります。 このよ
うな相互作用のメカ ニ ズム として、CISK(第 2種 条件
付 き不安定 )メ カニ ズム とい う重要 なメカニ ズムがあ り
ます。対流性 の雲の集団 と大規模 なスケー ルの現象 (台
風 な ど)の 相互作用 の結果、後者 が発達す るような不安
定 が CISKメ カニ ズム と言われ て い るものです。山llT先
生 は、 この CISKメ カニ ズムの研究 におい て中心的役割
を果た して きました。例 えば、後 にアメ リカの リンゼ ン
氏 によって wave― CISKと 名付 けられ るようになった、
0
山岬先生の研究 ス タイル は決 して時流 に追 随す ること
な く、独 自の問題意識 によ り、独力 で 自分 の体系 を構築
してい くものであるとい う印象 を私 は持 ってい ます。 こ
の ことは、外国 か らも著 名 な研究者 を招 いて行われ た、
松野先生 (現 、地球 フロンテ ィア シス テム長 )の 東大定
年退官 の時 の安 田講堂でのシ ンポジウムでの山岬先生の
発表 を傾聴 して、強 く感 じました。古 き良 き時代 の学者
のスタイルであ り、今 のような時代 にこそ貴重 な存在 で
あるのに、今年 3月 で東大 を去 られ るのは、残念 な こと
で す。 しか し、今後 も引 き続 き研 究活動 を続 けるように
聞 いて い ます。 これか らの御活 躍 をお祈 り申 し上 げる次
第 です。
●
―-12-―
退官者 の挨拶・ 退官者を送る
大学 を去 るにあたって
石
原
正
泰 (物 理学専攻 )
ishihara(Dphys.su― tokyo.ac.jp
内 に閉 じた枠組 みで は求 め難 い、豊 かな研究基盤 が得 ら
れた ことを喜んでお ります。
ひるが えって、約 40年前、特 に強 い動機 もな く、研究
とは何 か も弁 えぬまま大学院 に進学 し、森永研究室 の門
を叩 い たのが、原子核研究 との関わ りの出発で した。良
き先輩、隣人 との出会 いが人間形成 に如何 に重要か は論
を待ち ませんが 、私の場合、 この感慨 はひ としお深 い も
のが あ ります。 とりわ け、大学院時代 にご指導 いただい
1987年 に、物理学教室 の教 官 として、23年 ぶ りに本郷
キャ ンパ スに復帰 して以 来、約 13年 間、再 び東大理学部
の一員 として充実 した 日々 を送 ることがで き、幸 せな気
持 ちで退 官 を迎 えつつ あ ります。 この間、数 え切れない
ほ ど多 くの方々か ら暖か い御支援 を頂 き、感謝 の念で一
杯 です。 とりわけ、歴代 の理 学部執行部 の先生方、物理
教室の同僚の先生方、理学部 および物理教室 の事務 の方々
か ら頂 いた励 ましと御助力 はひ とかたな らぬ もので、非
力 な私 が不束なが らも職務 を完 うで きたのは、 ひ とえに
こうした御支援の賜物 と深 く肝 に銘 じてお ります。
た森永晴彦先生、 お よび、大学院 を中退 して入所 した原
子核研究所での上司であった坂井光夫先生 との出会 いは
強烈 で、 ぼんや りと過 ごして きた 自分 が一 気 に覚醒 され
たお もいで した。国際感覚豊 かな ロマ ンチス トで あるお
二 方の自由闊達 な人 生 の歩みを間近 に見 て、研究す る事
の醍醐味 と楽 しさをおぼろげなが らも会得す ることがで
きました。 ユニ ー クな個性 を尊ぶ二人 を見 るにつ け、せ
めて牛後 は歩 む まい との密 かな決意 も覚 えました。
とはい うものの、真 に研究 を楽 しむ境地 に至 る道の り
私 に とって、物理教室教官の拝命 は、唐突 で あ り、か
つ、戸惑 いに満ちた もので した。当時、物理教室 の原子
核実験分野 は、 かねがね強力 を誇 ってい た教官陣 か ら、
は遠 く、漸 くささやかな自信 を持 って研究 に取 り組 み始
めるまでには、 さらに10年 近 くを要 しました。 その きつ
か けとなったのは、核研退所前 に数年 にわたって滞在 し
た、デ ンマー クのニール ス・ ボーア研究所やパ リ南大学
山崎敏光、中井浩二 、永宮正治の三氏が一斉 に転 出され
たため、半 ば空洞状態 に陥 り、そ こに新 たな研究・ 教育
の原子核研究所での体験 と見間で した。当時、重イオ ン・
ビーム を用 い た原子核研究 が ヨーロ ッパ を中心 に徐 々 に
の基盤 を緊急 に整 備す る事が求め られてお りました。 も
台頭 しつつあ り、 ち ょうどその機会 に遭遇で きたのが幸
いで した。重 イオ ン・ ビーム は、 もとよ り、原子核 その
ともと研究所で気 ままな研究生活 を送 って きた私 にとっ
て、不慣れな教育活動 に係わる こと自体 に不安があ りま
したが、それにも増 して大 きな懸念 は、巨大装置 を要す
る原子核 の研究 を大学人 の立場 で果た して展開で きるか
とい う点 にあ りました。 良 くも悪 し くも、原子核 の研究
には大型装置 で ある加速器 の利用 が必須 とな りますが、
財政状況の厳 しい大学で個別 の研究 に必要な加速器 を取
得す るのは絵空事 に近い難題 です。私 はかねがね理化学
研究所 の重 イォ ン加速器施設 を用 いて研究 を進 めてお り
ました。 そこで、 自然な発想 として、同施設 を引 き続 き
ものを力日
速 した ものですが、その衝突 が 引 き起 こす様々
な反応様式 は、 それ まで馴 染 んで きた核反応 の範疇 を超
えた もので、原子核研究 の領域 が一 気 に拡大す るお もい
で した。 ここに新天地 を求 めるべ く、帰国後 ただちに
理化学研究所 に入所 し、 日本で は唯一重 イオ ン加速 が可
能 であった 同所 の160cmサ イ クロ トロンを用 い た研究 に
着手 しました。重イオ ン反応 の研究 は未 だ揺監期 で、多
様 な反応過程 を分類・ 識別 し個 々の過程 の機構 を解明す
利用 しつつ、大学 の研究・ 教育活動 を進 める方途 を模索
い た しました。幸 い にも、物理教室 の諸先生 か ら、 こう
る事 が課題 となってお りました。 そ こで、 かって親 しん
だ高 ス ピン・ ガ ンマ線分光 の手法 を援用 しつつ、移行角
運動量 を指標 にして反応の仕組 みを探 る自己流の研究 を
した事情 に対す る深 い理解 を得 られ、理化 学研究所兼任
の承 諾 な ど種 々の御配慮 を頂 き、研究室運営の手懸 りを
進 めることにいた しました。幸 い に も、 こうした研究か
ら、反応生成核 のス ピン偏極現象や大質量移行反応 な ど
どうにか得 る事がで きました。力日
速器 を用 いた原子核 の
研究 で は、課題毎 に新 しい実験手法や装置 を発案 。開発
に関す る新 しい知見 が得 られ、国内で は余 り省 み られな
か った重イオ ン研究 が漸 く市民権 を獲得す る端緒 を開 く
す る ことが求 め られることが通例 で、そのためには、既
ことが 出来 ました。
存 の施設 の受動的利用 に留 まらず、加速器施設全体 の発
展計画 にも直接関与す ることが重要 とな ります。 こう し
た事情 か ら研究活動の大半 を理化学研究所 の現地で実施
す る変則的な研究室運営 と相成 りましたが、お陰 で、学
-13-
1980年 代 に至 って、加速器 の大型化 の時代 を迎 え、理
化学研究所で も中エ ネル ギー領域 の重イオ ンカ日
速器 リン
グサイクロ トロンが完成 い た しました。 それ を機 に、新
領域 を求 めて、
「RIビ ーム」 と呼 ばれる未開発 の手段 に
退官者の挨拶 。退官者を送る
よる原 子核研究 に手 を染 める ことにな りました。RIビ ー
ム は天然 に存在 しない不安定核種 のイオ ンを高速 ビーム
昨今、省庁 の統合 や大 学 の法人化 な どに関連 して、大
学 と他 の研究機 関 との連携や協力 の在 り方があらためて
化 した もので、当時、 その晴矢 とな る研究 が生 まれつつ
あつた ものの、実用 の範囲が 限定 され発展の展望 が不透
取 り沙汰 され る機会 が多 くな りました。一般 に、国立研
究所等 は、充実 した先端的機器 を備 え、大規模 で 目的性
の高 い研究 を指 向す る立場 にあ り、他方、大学 は、次世
明 であったため、世界 の重 イオ ン研究 の大勢 は、原子核
の高温・ 高密度状態 や相転移 の問題 に向 う趨 勢 にあ りま
した。 ここで意 を決 して取 り組 んだのが 、 ビーム強度 を
格段 に高 めた RIビ ーム発生装置 の開発 で した。程 な く
代 を背負 うべ き学生 の存在 を前提 にして、萌芽的あるい
は個 性的な研究 の推進 が求 め られてお ります。 こうした
この 目標 は達成 され、 それにより、不安定核 自身 が起 こ
両者 は、独 自の存在理 由を主張 しなが ら、 同時 に補完的
関係 にあ ります。双方が相互 の立場 を尊重 しつつ適切 な
す様々 な反応現象 を直接観測す ることが始 めて可能 とな
り、核構造 や天体核物理 の新 しい研究分野 が拓 かれて行
連携・ 協力 を進 める ことは、 自己 の体験 に照 らして も、
健 全で生産的な ことに思ゎれ ます。設立 に携 った理学系
きました。近年、 RIビ ーム による研究 は世界的 に拡大・
発展 を遂 げつつ あ りますが、 その流れの契機 のひ とつ と
研究科付属 の原子核科学研究 セ ンターが 、 こうした精神
にのっ とり、 このたび理化 学研究所 との共同研究 を開始
な り得 たことに悦 びを感 じてお ります。加速器 か ら二 次
的 に得 られ る RIビ ームが、同様 の二 次 ビームである放
す るはこび とな りました。大学 と外部研究機関 との協力
関係 の新 しいモ デル として発展す ることを願 ってお りま
射光、中性子、 ミューオ ンの如 く、幅広 い科学 の領域 に
利 用 され る時代 が来 ることを念 じてお ります。
す。
●
●
-14-一
退官者の挨拶・退官者を送 る
石原正泰 先生 を送 る
酒
井
英
行
(物 理学専攻)
[email protected]‐ tokyo.ac ip
石原先生 と切 って も切れな い ものに ビール とたばこが
あ ります。 い ろい ろな場面 で缶 ビール を片手 に議論 をさ
れて い るのをよ くを見 かけます。 たば こは一 日に一箱 ほ
ろ研究の端緒が開かれたばか りで謂わば家内工業的で あっ
た不安定原子核 の研究 を近代 工業化す ることが肝要 であ
どお吸 い になるそうですが、大 きな病気 をされたことが
定核 による二次反応が可能 になる中性子過剰不安定核 ビー
ムの製造装置、すなわち RIPSを 建設 され ました。 これ
な く大変健康で若 々 しく見 えます。ですか ら3月 に先生
が大学を御退官されるとは、にわかに信 じられない程 です。
石原先生 と私 の最初 の出会 いがいつの ことだったか覚
えて い ないのですが、記憶 にある先生 についての鮮明な
印象 は、25年 ほど前 の物理学会 での発表 です。 それ はガ
ンマ線 の多重度 を測定 して、核反応過程 の角運動量 を決
めるとい うもので したが、聞 いた時、そのあまりにエ レ
ガ ン トな方法なのに大変驚 いた ことをはっきりと思 い出
します。 その後 1989年 か らは私が東大 に移 り、先生 の隣
に研究室 を持 ち、 日々親 し く仕事 をさせてい ただいてお
るとい うことをい ち早 く見抜 かれたのです。 そ して不安
によ り日本の不安定核物理の研究 は一挙 に世界 の トップ
レベル にな りました。RIPSか ら、ハ ロー核 のクー ロン
励起、荷電交換反応による IAS、 魔法数の消失、等次々
と世界 を リー ドす る研 究 が生 まれ ました。 この様 に先生
のご研究 は、正 に日本 にお ける重イオ ン科学研究 の誕生
と発展 その ものであると言 う ことがで きると思います。
1987年 、 この RIPSの 建設が始 まるころに先生 は本学
の理学部物理学教室 の教授 に着任 され ました。若 い研究
りますが、送 る言葉 を書 くことになろうとは夢 に も思 い
者 を育成す る重要性 を認識 されたためではないか と推察
して い ます。 これ までの理研 での仕事 に加 えて教育 の責
ませんで した。
務 も加わ ったわけです。 さらに学内外 の様 々な重要な責
石原先生 は原子核物理学の中で も重イオ ン科学 の分野
で御活躍 されてい ます。先生 は、旧原子核研究所 (核研 )
任 を担 われ るようにもな りました。一時期 は、名刺 の肩
書が 6つ にもなるほどで した。 とて も全部 は書 き出せ ま
せんが、学内 にあっては学内共同利用施設 である原子力
を中心 とした日本 の原子核研究 が軌道 にの りだ した時期
1962年 に本学 の理 学部 を卒 業 され ました。引続 き原子核
分光学研究の創始者で い らっしゃる森永晴彦先生 の研究
総合 セ ンター長、そ して現在 もなされてい る原子核科学
研究 セ ンター (CNS)長 、学外 にあって は、理研 の加
室 に入 られ ました。秀才の集 まることで有名 な森永研 の
中 にあって も石原先生 はピカー の秀才だったそうです。
速器施設長、主要研究所 (KEK、 阪大 RCNP)の 運営
委員、核物理委 員会 (原 子核実験 グループの最高意志決
1964年 、修士課程 を終 えるとす ぐに原子核研究所 の助手
定機関)委 員長、学術会議物研連 委員、 な どな どです。
有能 な方 にはよ リー 層仕事 が集中す るとい うことの好例
とも言 えるので はないで しょうか。原子力総合 セ ンター
にな られ ました。FMサ イク ロ トロン加速器 を使 い高 ピ
ス トン核 の構造研究 をなさ り、それによ り理学博士の学
位 を取得 され ました。 1975年 には、理化学研究所 に移 ら
れ、理研 のサイクロ トロンに研究 の場 も移 され ました。
その当時の重イオ ン物理 は、準弾性散乱 に代表 され る複
長時代 にはタンデム加速器 の更新、 また核物理委員会委
員長 として は旧核研 の KEKと の統合 と CNSの 分離創
雑 な反応論が主流だったのですが、石原先生 はそこに直
ます。
か ようにお一人で八面六賛 の御活躍 をなさって い らっ
接反応 の視 点 を導入 し分光学的手法 を駆使 す ることで、
重イオ ン反応の角運動量移行や質量移行等、斬新 な物理
量 を求 められ ました。
核研時代 も含 め先生 は外国 にも研究 の場 を広 げ られ ま
した。 スエ ー デ ンの物理学研究所、 デ ンマー クのニール
ス・ ボーア研究所、 フランスのオルセー研究所、米国テ
キサス農工大学等 に長期滞在 され ました。 この頃が先生
御 自身 が実験現場で先頭 になって働 いた最 も充実 した研
究生活 で はなかったか と想像 してお ります。 1984年 理研
の主任研究員 にな られ ました。 この ころか らなかなか研
究三 味 の生 活 とい うわけにはいか な くな り指導者や管理
者 としての役割 をも果 され るようにな りました。
1980年 代 にな り、理研 で は現 在大活躍 している リング
サイクロ トロ ン加速器 の建 設 が始 まりましたが 、石原先
生の慧眼が ここでいか んな く発揮 されたました。 その こ
-15-
設 な ど多大 な業績 を挙 げ られた ことは衆知 の ことと存 じ
しゃるので、本郷、 田無市 の CNS、 和光市 の理 研 とど
ち らにお られ るのかなかなか捕 まらない ことが多々 あ り
ます。 困 って先生 にポケベ ル を御渡 しした ところもある
そ うですが、全 く役 に立 ちませんで した。実 は私 はある
とき先生 が机 の引 き出 しを開 けられ時 に見 て しまったの
ですが、 ポケベ ル はその引 き出 しの中 に二つ も入 った ま
まのようで した。 そんなわけで コロキ ューム な どに間 に
合わない こともよ くあ ります。 しか し、石原先生 のす ご
い ところは、ち ょっ と経 ってか らそれ までの講演 をすべ
て聞 いていたかのよ うに鋭 い質問 をされ るところです。
そしてそれが核心 を突 いた ものなので、講演者 が立 ち往
生 させ られ ることが しばしばあ ります。 これ は何事 をも
分析的に眺め、本質 を見 抜 く先生 の資質 によるものだ と
思 い ます。先生御 自身 も国際問題 の様 な複雑 に絡 み合 っ
退官者の挨拶・ 退官者を送る
た ものを分析す るのは、複雑 な原子核 の問題 を解 くの と
似 て いて好 きだ とおっしゃ っています。 この分析的視点
は、人物評価 に関 して も度 々いかん な く応用 され ます。
そ して、容易 に実力の程 を見抜 かれて しまいます。 その
意味で はとて も恐 い先生 で もあ ります。 もちろん先生 は
深 い親心 か ら鋭 い ご指摘 をなさるのですが、半 べ そをか
せ ん。 特 に先生 の御尽力で発足 した CNSが ようや く軌
道 に乗 り出 した ところで すが、 まだまだ盤石 の基盤がで
きた とは言い難 い状態です。先生 が抜け られた後 を、我 々
が頑張 らねば と決意 を新 たにしてい るところです。春 か
ら先生 は理研 を中心 にご研究 を続 けられ るとお聞 きしま
人柄 はそうして見抜 いたなかで も、 とりわけ良 い面 を強
した。 これ までの御指導、御激励 に心か ら感謝 申 し上 げ
る とともに、 ます ますの御研究 の発展 と御活躍、御健康
を心 よ りお祈 りいた します。最後 に、先生の御趣味 は畑
調 して下 さることです。
以上 に延 べ ま したように原子核物理 の研究 だけでな く、
仕事 だそ うですので、停年後 は野 良仕事 をする時間が少
しで も増 えます ように願 い なが ら、 お送 りす る言葉 を欄
様 々な ことに的確 なご理 解 とご判断がで きる先生 が停年
とはいえ大学 を去 られて しまうのはとて も残念でな りま
筆 い たします。
か された学生 は何人 もお ります。 けれ ども石原先生 の御
0
0
―-16-
退官者の挨拶 。退官者を送る
東京大学理学系研究科 を定年退官す るにあたって
釜
江
常
好 (物 理学専攻)
kamae()phys.su― tokyo.acjp
ボー ドには、有力卒業生 に混 じって一般市民や色 々な社
会層 を代表す る人 たちが入 り、大学 の運 営 に意見 を述 べ
て い ます。
東京大学 の教職員 の 多 くが、「21世紀 の日本 の大学」
について真剣 に考 えるなら、日本 の市民社会 に根 付 いた、
世界 に誇れ る新 しい大学像 が生 まれて くると確信 してい
ます。皆 さんのご努力 に期 待 しています。
私 に研究・ 教育活動の場 と、優れた学部・ 大学院の学
生 さん、教官・ 技官 。事務官 の方 々 と交流 し、議論 し、
学 ぶ機会 を与 え続 けて くれた東京大学理学系研究科 を去
学生諸君 との接触 においては、 自分 で 自分 の将来 を狭
めない よう指導 して きました。理学系研究科 には、 自分
るにあた り、改 めて恵 まれた環境 にい た との思 いが して
い ます。 しか し、昨年度 か ら表 に出て きた「大学 の法人
化」 について考 えを巡 らす内に、 私達 の世代 が、大学 を
の後継者 を育て ることだけが使命 だ と考 える先生方が、
かな り居 られ るように思 い ます。責任 もって指導で きる
日本社会 の中 にしっか りと位置 づ ける努力 を怠 って きた
ことを、反省するようにな りました。第 二 次大戦直後 に
ますが 、学生 は色々な可能性 を秘 めてい ます。私 の 自慢
の一 つ は、卒業生 が大学や研究所の教官 としてだけでな
諸先輩 がされた、新 しい大 学像や新 しい教育指針の模索、
く、多 くの会社 や官公庁で幹部 として活躍 していること
です。理学 で培 った合 理的で論理 的 な思考 は、 どの分野
で も通用するのです。理 学系研究者 は、自分 たちのクロー
研究 の レベル向上 のための組織作 りな どの努力 を、文 部
省 や国会 との接点 だけで な く、市民社会 との接点 で継承
すべ きだったように考 えてい ます。国立大学 は、 もっ と
市民社会 の中 に根 を伸 ばすべ きなので し ょう。
のは、 自分 の専門 に近 い分野 だけであるとの議論 は判 り
ンを育 て ようとしていると見 られがちです。大学院重点
化 が、卒業生 の活躍 の場 を狭 めて しまわない よう、努力
して ください。
大学院時代 を過 ごした米国 の町 で は、市民 も大学 の図
書館 を使 い、書籍 を借 り出していたことを思い出 します。
スポーツ施設なども、当然 のように開放 されていました。
定年後 に移 って行 こ うとして い る米国 の大 学 で も、寮 を
一つ立てるので も、周辺住民 と話 し合 って い ます し、 い
ろい ろな見学 メニ ュー を用意 して、常時見学 を受 け入れ
てい ます。市民向 け講義専用のテ レビ 。チャ ンネル をも
ち、毎 日放映 して い るのに も感心 します。地元選出の政
治家や、 ワシン トンの有力議員 との接点 にも気 を配 って
い るようです。大学 の最高諮問機関 で ある トラスティ 。
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私個人 としては、理学系研究 科 を定年退官す ることは、
通過点の一 つ に過 ぎない と考 えて い ます。広島大学理学
研究科 にお世話 にな りなが ら、徐 々 に、 ス タ ンフ ォー ド
大学線形加速器 セ ンター (SLAC)の ガ ンマ線天体物理
グループ責任者 として活動中心 をアメ リカに移 して行 く
つ もりです。 キャ ンパ スの大学院担当教授 を兼任す るの
で、米国で も大学院生 を育てて見 たい と考 えてい ます。
サ ンフランシスコ周辺 にお越 しの節 は、ぜひお立 ち寄 り
下 さい。
退官者 の挨拶・ 退官者 を送 る
釜江 先生 の ご退官 にあたって
相
原
博
昭
(物 理学専攻)
aihara(Dphys.s.u― tokyo・ ac.ip
釜江先生が退官 され るとい う。が、先生 のそのいつに
もまして忙 しいご様子 には、とて も「停年」 とか「引退」
な どとい うイ メージはない。昨年 8月 に発足 したスタン
フ ォー ド大学線形加速器 セ ンタ ー(ЫAC)ガ ンマ線天体
物理 グループの リー ダー として、 そして もちろん国内で
の研究教育 と本学評議員 として、太平洋 を毎月 (毎 週 ?)
往復 してお られ る最中での、 た また ま退 官 とい うような
感 じにしか見 えな い。釜江先生 は、常 に新 しい ことをさ
が し、新 しい事 を起 こしてい く人である。 そのために、
積極的 に考 え、積極的 に発言 し、積極的に専門外の事柄
に興味 を示 し、積極的 に人 とつ き合 い、そ して、積極的
に行動 してい く人である。 しか も、その行 動 に周 りの人
間 を巻 き込んでい くのである。私 の知 る釜江研 同窓生 の
一人 は、 よ く「戦 う釜江」 と言 っていた ものである (今
で もそう呼んで い るのか もしれない)。
1979年 には、日米協力事業 プ ログラム として、カリフ ォ
ルニ ア大学 ロー レンスバー ク レー研究所 へ修 士の学生 を
その後、 1988年 頃か ら、興 味 の重心 を素粒子か ら、宇
宙 に移 され る。私 自身 も自分 の興 味 を追 ってアメ リカに
戻 って しまったので、 これ以 降 の釜江 先生 の研究活動 を
直接 目にして い たわけで はない。 が、宇宙物理 とい う新
しい分野 に高 エ ネル ギ ー物理学 の手法 を取 り入れ、「新
しい土地で新 しい事業 を起 こす」 とい う得意技 をいかん
な く発揮 された ことは間違 い ない。 ガ ンマ線天文学 なる
分野 をブラジルでの気球実験 を手始 め として開拓 し、宇
宙物理学 のメインテーマ にまで育 て られた。釜江 。牧島
研共 同製作 に よる硬 X線 検 出器 を搭載 した衛星 が、今
年 2月 に打 ち上 げ られた。 (残 念 なが ら、 この衛星 を積
んだ ロケ ッ トが、 その打 ち上 げに失敗 したのは周知 の と
お りである。)釜 江研宇宙班 の卒業生 は、釜江研高 エ ネ
ル ギー班 の卒業生 に もまして優秀 で あ り、すでに、数 々
の場で独 立 して活躍 している。2005年 にアメ リカで打 ち
上 げられ る次世代 ガ ンマ線観測衛星 のスタンフォー ドに
おける責任者 として引 き抜 かれたの も、釜江先生 の卓越
した指導者 としての力 が高 く評価 されての ことだろ う。
連れて乗 り込み、新 しい実験 を立 ち上 げる。私 もこの と
き (か らずっ と)こ き使われた学生 の一人であるが、バ ー
釜江研 スタンフ ォー ド班か らは、 どのよ うな卒業生が生
ク レー の物理屋 と渡 り合 い、技術 スタ ッフにて きぱきと
まれ るのであろうか。
指示 をして、計画 を遂行 して い く様 を見て、 自分 もいつ
か はこのようになれるのかなあ と思 った ものである。 こ
学科長 や評議員等 を通 しての物理教室や理学部運営 に
対す る姿勢 に も、 釜江先生 の徹底 した合理主義、先駆性
が反映 されていたように思 う。釜江先生 は、発言す べ き
の とき、釜江先生 が実 に多 くのアメ リカ人 の友人 を持 っ
ていること、 さらに、新 しい土地で、実 に早 く新 しい友
人 を作 ってい くのに感心 した ものである。 1983年 には、
高 エ ネル ギー研究所の新加速器 トリスタ ンを使 って始 ま
ことを、発言すべ きときに、 はっき りと発言 されるので
ある。 さらに、事務 の電 算化、国際理学ネ ッ トワー クの
創設 と運営な ど、 コン ピュー タ、ネ ッ トワークの導入 に
る国際共 同 グルー プの リー ダー として50人 ほ どの高 エ ネ
ル ギー屋 を指示 しなが ら、最先端 の技術 を駆使 した演1定
器 を作 りあげる。当時、博士号取 り立ての若 い助手や大
い ち早 く取 り組 んで こ られた。暇 を見 つ けては、視覚障
害者 の計算機利用を助 けるプログラム を開発 されてい る。
学院生 は、釜江先生か ら次々に出 され る斬新 なアイデア
に感心 し、時 に戸惑 い、時 に反発 しなが らも、なん とか
今後 も、当分 の間、 日本 とアメ リカを往復す る生 活 を
続 けられ るそうである。 いかに、 お元気 な釜江先生 とい
えども、時差 の克服 は年 々つ らくなっているはずで ある。
追 いついてい ったのである。釜江先生 は、 自分 のアイデ
アを人 にわか って もらうのに、労力 を惜 しまない。 この
姿 が、時 に「戦 う釜江」 として映 るのである。
驚異的な知的体力である。
やは り、体 には十分気 をつ けて、で きれば、そ こそこに、
がんばっていただ きたい ものだ と思 っている。
-18-
0
C
退官者の挨拶・ 退官者を送る
理 学部 を去 るにあたって
神
部
勉
(物 理学専攻)
[email protected]― tokyo.ac.ip
力学 の研究 と相互作用 しつつ、今後 も発展 させ られてい
くもの と信 じます。
これ らの研究 で成果 が得 られたのは、優秀 な大学院生
お よび同僚教官 に囲 まれていた こと、 お よび理 学部 の 自
由 な雰囲気 のお蔭である と感謝 してい ます。
研究室 は旧 1号 館 の今 は壊 された一 番古 い部分 にあっ
て、音 の理論物理 グループが使 っていた部屋 といわれ 、
e
最後 の16年 間を理学部 で過 ごしましたが、振 り返 って
み ます と、本郷 の理学部 に進学 したのが1960年 4月 物理
学科 の天文 コースで、60年安保 の盛 んな りし頃で した。
大学院の方 は物理学専攻 の今井功先生 の もとで流体力学
を学 び、博 士課程 の 2年 を終 えて、駒場 の東大宇宙航空
研究所 の助手 とな りました。 その間、英国 ケンブ リッジ
で 1年 半 の研究生活 を過 ごしてか ら、理 学部助手 とな り
ました。次 いで九州大学で助教授 として 6年 間過 ごして
か ら、 また東大理学部 に戻 るとい う曲折 の コースを辿 り
ました。
学生の頃 は天体物理学 の盛 んな時期 で、星の内部構造
伝統 の重みを感 じなが ら研究 で きた こと、 および最後 の
2年 間 はモ ダ ンな新 1号 館 で研究す る ことがで きたのは
幸 せで した。
東京大学 が大学院重点化 の波 を越 えて一段落 し、一息
つ く暇 もな く、次の大波がやって来 ようとしてい ます。
言 うまで もな く、独立法人化問題 ですが、大学全体で も
理学系研究科 で も盛 んに議論 が交わ され、研究科長およ
び関係 の先生方 が大変な努力 をはらわれてい ます ことに
は大変敬意 を持 っています。 また出版物 を見れば関連記
事 が よ く目につ きます。東大 を去 る この時期 に当 り、 ど
ち らか とい うと自由な身で、私 な りに考 えてみ ました。
国立大学の独立法人化 を、時 の政治 か らの大 学 の独立
の問題 とみれば、国立 (帝 国)大 学 が発足 した明治 の頃
な ど流体力学 が応用 され る時代 で した。今井研 を選んだ
のは基礎 の流体力学 を学 ぶ ことが 目的 で したが、 その後
は流体 力学 そのものを研究対象 とすることにな りました。
い まは誰で も知 っているソ リ トンやカオスの理 論 は、学
部 生の頃はまだ知 られていませんで したし、ブラックホー
ル も理論的実体 はあっても観測的実体 はなかった時代だっ
か らすでに存在 していた問題 で、 これ は大 学 の基盤 ある
い は根 本理念 に関す る問題 だ と理解 します。 国の近代化
が まが りな りに も達成 された今 日、他の要素 は捨象 して
た と思 い ます。因み に、学部 での卒業演習 は手廻 し計算
しまって、大学 のあるべ き姿 のみで考 えます と、 (行 政
の字 のつかない)独 立法人 はむ しろ望 ましい姿で はな い
か と考 えるようにな りました。最大 の問題 は、大学運営
機 を使 っての計算│で した し、院生 時代 は出始 めのゼ ロ ッ
クス機 が物理教室 に 1台 あっただけとい う時代 で した。
および財務 の問題 で あ ろうと思います。現在 の国立大学
は、文部省 の理解 ある庇護 の もとに、 自由を享受 して き
自らの研究生活 を振 り返 って一 番印象 に残 るのは、渦
音 の研究 であ りましょう。 これ は渦運動 が音波 を放射す
る現象 についての理論的 。実験的研究で した。実験 で検
た感があ りますが、従 来 か らの経緯 は、そのため経営・
財務 について独立 の本格的機構 をもたずであった と思わ
れ ます。欧米 の超一流でかつ独立法人の大学で は、 かな
出 した音波 の信号 は理論的 に予想 され る 4重 極性 の方向
分布 をもち、時 間的パ ルス波形 もほぼ理 論的 に説明す る
りの独 自の資産 を有 し、運用 していると聞 きます。 国立
ことがで きました。類例 としては、 ジェ ッ トノイズ、木
枯 し風 の中 の送電線 の鳴 るような音 (2重 極性 )な どが
あ ります。 また助手の時代 には、水棲動物 (魚 な ど)や
飛翔動物 (鳥 な ど)の 運動の流体力学 について研究 し、
動物 の進化 の過程 での力学的 な工夫 、 お よびその運動 の
効率性 に感嘆 した もので した。
当理学部での研究 としては他 に、乱流場 の統計法則 の
研究、 および流体運動 の微分幾何学的研究 もあ ります。
大 の独立法人化 が行われ るとした ら、文部省 か らの十分
な予 算、科研費 および他 の省庁 か らの基礎研究 へ の投資
があるべ き ことは言 うまで もあ りませんが、 さらに大学
が充分 な独立資産 を有 して い なけれ ばな らな い と思いま
す。財務 。経営 の努力 がな ければ、将来 に予算不足 に見
舞われ ることを覚悟 しなければな らないので はないか と
思 い ます。
また大学入学者選抜 につ いて も、 もし国立でな くなる
な らば、必ず しも筆記試験 の ドライな客観性 にこだわ る
で、 その時間発展 の長期的な予測 は原理的に不可能であ
ると考 えられてい ます。 そのような物理系、高 レイノル
必要 もな くな りますか ら、思 い切 って AO選 抜制度 の
部分的採用 も検討 してみるのはどうか と考 えます。
60の 定年 を間近 にひか えます と、キャンパ スの至 る所
ズ数 の乱流の研究 は、地球惑星流体力学および宇宙流体
感慨 がわ き、 また往時 も偲 ばれ ます。学部生 の時だった
流体 の運 動、特 に乱流 は、高度 にカオス的 および混合的
―-19-―
退官者の挨拶 0退 官者を送 る
と思い ますが、山内恭彦先生 の最終講義 があ りました。
その ときの一 言 が今 で も耳 に残 って い ます。「定年 を延
長 して もいいので はないか とい う意見 もあるけ ど、 自分
理学 な い しはサイエンスの原点 が失われ る ことな く、
理学部 が、将来、理学部 (理 学系研究科 )ら し く発展 し
て い くことを期待 してや み ません。最後 に、 自由な研究
は これ でいい と思 つて い ます。・・・ ・・・ 」。私 自身
もその言葉 をがみ しめることので きる歳 になった ことを
環境 を与 えて くれ ました物理教室 および理学系研究科 に
感謝 しつつ、東大 を去 ります。
感 じて い ます。
0
0
-20-―
退官者の挨拶 0退 官者 を送 る
神部勉先生 を送 る
禾口 達
三
樹
(物 理学専攻)
[email protected]‐ tokyo ac.ip
神部勉先生 は、本学理学部物理学科 (天 文 コース)を
ご卒業後、大学院数物系研究科物理学専門課程 に進学 さ
れ ました。東京大学宇宙航空研究所助手 にな られ るため
博 士課程 を中退 され、1969年 に理 学博士号 を取得 され ま
した。九州大学工学部助教授 を勤 め られた後、 1984年 よ
り物理学教室 に勤務 され ました。先生 のご専門 は流体力
学 です。流体力学 は、我 が物 理学教室 の最 も伝統 ある研
究分野 であ り、寺沢寛一先生、 今井功先生、橋本英典先
生 の跡 をついで、研究・ 教育 において多 くの業績 を挙 げ
て こ られ ました。研究室 か らは、多数の優秀 な研 究者・
教育者 を輩出 されて い ます。
神部先 生の研究生活 を少 し振 りかえってみた い と思 い
ます。学位論文 としてジェ ッ トの安定性 を解析 された後、
突 と斜 め衝突 によって生 じる空 力音 の角度分布 の精密 な
測定 と解析 は、国際的 にも高 く評価 され る業績 として知
られて い ます。多 くの研究課題 の中で、若 い頃か らはじ
められた渦の動力学が、先生 にとって最 も愛 着 をもつテー
マで はないか と推察 して い ます。学生 か ら聞 い た話 で は、
授業中 にたばこの煙で渦輪 を作 るデモ ンス トレー ション
を好 んでされた との ことです。
研究 にお いて は、楽 しみなが ら進 めてお られ ることが
強 く感 じられ ました。私達 が、やや もす ると忘れがちな
研究者の心の余裕 を教 えて いた だけた もの と考 えます。
時 としてす ぐには理解で きない発言 をされ る、 とい う酒
脱 さも印象深 い もので した。大学全体 が必要以上 に忙 し
宇宙航空研究所 で は渦の研究 を始 められ ました。たば こ
の煙 を入れた箱 に穴 (円 形や楕円形 )を 開 け、煙 を押 し
ある現在、 よき時代 の雰囲気 を残す先生の研究生活 を大
出す ことによって渦が生成 され ます。渦上 の各点 で はそ
の点 の曲率 に比例 した速 度 で動 くこと、その結果、楕 円
変 うらやましく思ってい ます。
神部勉先生 の学会 や学 術行政 で の ご活躍 として は、
形渦の両端がぶ つか り 2つ の渦 にな りうる こと (渦 の分
裂 )、 が観演1で きます。理論 的には、楕 円渦 の安 定性 の
IUTAM(国 際理論応用力学連合 )の 日本代表委員、応
くな り、 また、 自由な研究 を行 う環境が せ ばめられつ つ
(日 本学術会議第 5部 内)の 委員長、
日本流体力学会会長、学術審議会 専門委員、九州大学応
用力学専門委員会
解析 をされ ました。 また、 2つ の平行 円形渦 は 1つ にな
りうる こと (渦 の融合 )、 を示 され ました。 これ らは現
用力学研究所共同利用委 員会委員、大学入試 セ ンター教
在 で もよ く議論 され る渦の基本的性質、局所誘導 と再結
合 の表れです。九州大学で は、渦輪 どお しの衝突 の実験
科専門委員会委員等 があ り、 また、学内で は学寮委員会
委員等 として研究・ 教育 の発展 に貢献 して こられ ました。
を始 められ ました。 この研究 は東京大学物理学教室 に移
られてか らも、主要テーマ として続 けられて い ます。東
ます ます活発 にご研究 を進 められてお られ る先生 には、
京大学で は、渦輪 の正面衝突 と斜 め衝突 の実験 と理論、
10
立 させてい ることが注 目され ます。特 に、渦輪 の正面衝
乱流 の統計 理論、流体力学 の微 分幾何学的定式化、 フ ァ
ラデー共鳴 の実験 と理論、等の研究 をされ ました。理論
本学 のご退 官 も 1つ の通過 点 にす ぎない と思われ ます。
神部先生 の特 に物理学教室 へ のご貢献 に対 し、 また教室
の我 々へ のご指導 に対 し感謝 申 し上 げます と共 に、今後
的考察 を主 とした仕事 とともに、理論 と実験 を見事 に両
-21-―
のご活躍 とご健勝 を心 よ りお祈 り申 し上 げます。
退官者 の挨拶・ 退官者 を送 る
停年を迎えるにあたって
志
田
嘉次郎
(原 子核科学研究センター)
[email protected]― tokyo.ac.jp
理学系大学院 に、 3年 間お世話 にな りました。
終戦以降最大 の変動が、社会 で も、研究環境 にも起 きてい るこの時期 に、無事停年を迎 えることができて、 ほっとし
ているところです。
志 田嘉次郎先生 を送 る
0
浜 垣 秀 樹 (原 子核科学研究 セ ンター)
[email protected]― tokyo.ac.jp
志田先生 は、ベ ー タ・ ガンマ核分光、ハ ドロン多体系
の研究、不安定原子核 の研究、大強度 ビーム用 ターゲ ッ
トの開発研究 と、文字 どお り原子核物理実験 の広い範囲
にわた り大 きな貢献 をされて きました。
「ベバ ラック加速器 を用 いた高 エ ネル ギー重イオ ン衝突
実験研究 Jの 日本側代表 をつ とめました。重イオ ン衝突
によるハ ドロン多体系研究 の物理的 。人的基礎 はこの時
代 につ くられ ました。 また、高 エ ネル ギー重イオ ン衝突
先生 は、 1962年 、東京大学理学部物理学科 を卒業後修
士課程 に進学 し、森永研究室 に籍 を置 きました。 1964年
で は運動量 のそろった良質 の不安定原子核 ビームが得 ら
れ る可能性 に注 目し、不安定核 の反応 断面積 を測定 しそ
の大 きさを調 べ る研 究 を提案 され ましたが、そのアイデ
修士課程終了の後、米 国 フロ リダ州立大 学大学院 に入学
し、 シー ライ ン教授 の もとで「Gd奇 偶核 における一 粒
アは共 同研究者 らによ り実行 に移 され、ハ ロー核 の存在
子状態 の実験研究」 を行 な い、 1969年 PhDを 取得 しま
した。 その後、東京大学か らミュンヘ ンエ 科大学 へ移 ら
等大 きな発見 につなが りました。
れた森永教授 の もとで 3年 間 ポス ドクをつ とめ、主 に、
イ ンビームガ ンマ分光、原子炉か らの中性子 を用 い た軽
曇£ i振 鼻こ 高色三異奮菫[頷 [:It轟 具じ
開始 しました。大強度 ビームで はターゲ ッ トの冷却方法
核 の中性子捕獲反応の研究 を行 い ました。
1972年 9月 、東京大学原子核研 究所 (以 下核研 )低 エ
ネルギー研究部坂井光大教授 (当 時核研所長 )率 い るベ ー
が大 "辱
きな問題 ですが、実用的な方法 を考案 し、 さらに循
環 ヘ リウム雰囲気 を用 い ることで効率 の高 い冷却 が可能
タ・ ガ ンマ グループの助教授 として赴任 しました。当時
核研 は、SFサ イク ロ トロンの建 設 が 開始 され、新 しい
1997年 核研 の改組 に伴 い発足 した理 学系研究科附属原
加速器 にお い て どのよ うな物理 を展開す るか模索 の時期
で した。先生 は、イン ビーム ガ ンマ分光 による錫領域 の
た淫
で ある ことを示 しました。
子核科学研 究 セ ンター に移 られ、98年 か ら 2年 間 は SF
サイク ロ トロン運営責任者 として、最大 の成果 が得 られ
るよう腐心 され ました。
核構造研究、原子核 内の深 い空子L状 態 の研究、イ ンビー
ムで のオ ンライ ン同位体分離器 の開発研究等 を推進 しま
先生 は極 めて深い学識 と先見性 をお持 ちの方で、非常
に優 れた指南役 であると思い ます。 そのため、先生の部
した。オ ンライ ン同位体分離器 は、近年盛 んになった短
寿命原子核 の研 究 にな くて はな らな い装置 ですが、20年
屋には常 に多 くの人が相談 に訪れ てお りました。物 理 的、
ほ ど前 に既 にその重要性 に着 目 し開発 を進 め られた こと
技術的課題 について、 どのよ うに考 え、 どのよ うにアプ
ロー チ した ら良 い のか、方法論 を繰 り返 し繰 り返 し教 え
は、先生 の高 い先見性 を示す ものです。
ていただいた ことが懐 か し く思 い出され ます。先生 の、
先生 は、1979年 か ら 6年 間 にわ たった核研 と米国 ロー
レンス・ バ ー ク レイ研究所 (LBL)と の 国際共 同研 究
退官後のご健康 と、原子核物理及びその周辺分野での益々
のご活躍 を心か らお祈 りいた します。
―-22-―
0
退官者の挨拶・ 退官者 を送る
退職 にあたって思 い 出 と感謝
小
澤
徹
(鉱 物学専攻)
[email protected]― tokyo.ac.ip
鉱物試料 であった。それ らの試料 は、私 よりはるかに優
秀 な前任 の研究者が既 に解析 を試みた もので、先方の研
究者達 か ら短期 間 に決着 の付 く問題でない と言われ、結
局私の手 に負 えず時間だけが過 ぎた。 それによるい らい
らを持 ったままその後 それ以外 の国 を経 て幸 いに東大 ヘ
復職 を許 され、帰国後 は何故手 に負 えなかったのか を検
討す ることがで きた。 その結果、当時の手段 で は、殆 ど
誰 が取 り組 んで も解決 は困難 だったで あろう ことを明 ら
●
私 が大学 に入学 したのは、学生運動 が これか ら安保闘
争 へ と進 もうとす る頃であった。東大で も紆余 曲折 を経
て盛 り上 が り、体制順応 の最右翼 と思 って いた法学部 の
eccentricな 奴 とい う ことに なった らしいが、帰 って く
学生 自治会迄 も一時 はス トライキを決議す るような状況
ると皆 に「 スイス暮 らしとはうらや ましいJと 言われた。
しか し、私 はあま り思 い出 した くない気持ちである。 日
であった。私 も勿論参加 して、「反民青」 の一 派 の尻 っ
ぺ たに くっついて国会 デモ な どに出か けて いた。 これ を
本 で は、X線 回折、電顕観察、EPMAな どを組 み合 わ
せて、先方で失敗 した問題 の解決 と、研究の対象 を広 げ
率 い る学生 の一人 となったN氏 の、他 の先導者 よ り鋭 い
と見 える分析 に共鳴する ところが あったか らである。後
て検討 を重ね ることが 出来 た。 これ は私 にとっての リベ
ンジ と言 えるか もしれない。 しか し、研究 はなるべ く易
に保守 の理論派 として活躍 されてい るN氏 で あるがその
著書の中で「自分 は転向 したので はない。 もともと右 で
しい題 材 を選ぶ ものだよ、 と先輩研究者 に諭 されたよう
な、 多分 に「 マニ ア ックな」題材で、手 を付 けて い る題
あって、あじった ら皆 がなびいて きて しまうのには困 っ
た」 という趣 旨の ことを書 いて い るのを見 るにつけ、あ
材 のあれ もこれ も解決が困難 な状態 にあった。定年 が近
づ くにつれ、完結 しなけれ ば誰 も後 を引 き取 って くれる
の運動 の挫折 も必然 と納得す るわけである。 またある程
人 のいない身で、中には20年 近 くも苦蘭 して きた試料 を
ごみ箱 にほうり捨 てていかねばならぬか と暗 い気分 になっ
度 の変革 を予想 した 自分の見通 しの悪 さも痛感 させ られ
る ところとなった。
lo
か にで きた。 ボスに これ は出来 な い と文 句 を言 って、
それ はともか く、大学で は、私 は卒論、修論 での研究
を通 じて対象鉱物 は異 なれ ど、硫化鉱物 に見 られ る現 象
の解析 に従事 した。 その方面 の権威 の先生方が何人 もお
いでだった ことに もよる。 それが縁 でスイスのベル ン大
学 に研究員 として滞在 した ことが、後 に述 べ るような意
味 で、今 で も私 の中心課題 になってい る複雑 な硫塩 鉱物
の研究 の きっかけになった。当時 ベル ンの教室 を率 いて
いたW先 生が外国 か ら多 くの研究者 を招聘 して、 スイス
で古 くか ら知 られた鉱床 に産す る数 多 くの硫塩 の結晶構
造解析 を行 なった。 これには日本 の特 に東大鉱物学教室
か らの研究者 の貢献 が大であったが、私が行 くと早速、
お前 に丁度良 い題材がある、 と渡 されたのが複雑 で且つ
ていた ところ、年寄 りのい らい らを見 るに見かねた大学
内外の若手俊英が手 を貸 して くれ、最近 にな りい くつ も
の長年 の課題解決 に ぐっ と近 づ い た。 おか げでか な り
happyな 気持 ちで退 職時期 を迎 える ことがで きそ うで
ある。 このよ うな状態 にあるの も、大学では地学 の教 官
の方 々 は言 うに及 ばず、 また、鉱物学、地質学専攻の技
術職員立川統 さん、吉田英人 さんの、職務範囲 を越 える
ような親身 なお世話 のおかげで もある。 これ無 しには、
殆 ど独 りで取 り組 んで きた題 材 で、海外 のライバ ル に負
けない結果 を出す ことは到底 出来なかった。最後 に、退
職後仕事 の まとめをすればあ とはお迎 えを待 つだ け、 と
言 って、家族 にいやが られてい る自分の ことはともか く、
あ とに残 る若 い方 々 の ます ますのご健勝 とご健闘 を心か
試料 ごとに長周期 の見かけが変化す る、 あるい は解析 に
向 くような結晶 を探すのが容易 でないような数種 の硫塩
―-23-―
らお祈 り致 します。有 り難 うございました。
退官者の挨拶・ 退官者を送る
小 澤先生 を送 る
田賀 井
篤
平 (総 合研究博物館 )
[email protected]‐ tOkyo.acjp
小澤先生 は、硫塩鉱物 の構造 を長 年 に亘って手が けら
れ ました。構造解析 とい うと、今で は、結晶 を回折計 に
標本 の収蔵・ 管理 に大変 に貢献 され ました。特 に、上 智
大学 か ら受 け入れた リースター・ 南鉱物 コレクションの
セ ッ トして数 日待てば、回折データが収集 され、 自動的
整理 に関わ り、4400点 の鉱物標本 のカタログ出版 に貢献
され ました。 この重要な コンクションが博物館 の管理下
に構造決定 ルーチ ンにのって解析 され、結晶構造 がデ ィ
スプレイの上 に現 れる、 とい うように誰で も簡単 に出来
るものであると考 え勝 ちです。 ところが、硫塩鉱物 は一
筋縄 で はい きません。解析 に耐 える良質 な結晶が得 られ
におかれ る条件 として、 これ を用 いた研究 が続 けられ る
こともその一つ と聞 いてい ます。先生 はご専門 の硫塩鉱
ない、良 い結晶 が見 つかって も、 X線 の吸収 が大 きく良
物 の分野 で この標本 を用 いた研究 を報告 されてい ますが、
その際多 くのラベル の間違 い を発見 された と、伺 ってい
質 な回折 データが得 られない、結晶構造 が複雑 で 自動的
な構造決定 ルーチ ンで は歯 が立 たない ことな ど難題 が 山
ます。 さらに、 4つ の新鉱物 の発見 に係わ られ ました。
Sadanagaite, Magnesiosadanagaite, Tsumoite(以 上
積 しているのが硫塩鉱物 です。小澤先生 か ら伺 った話 で
すが、ある研究者 は、1年 がか りで 1個 の結晶 を見 つ け
日本産 )、 MarumOite(ス イ ス産 )で す。先生が発見 さ
れた新鉱物 の模式標本 は総合研究博物館 に収蔵 されて い
ます。先生 は野外巡検や学部 の授業 を通 じて標本 の大切
た とか、 ドイツの同僚 は、 自室 の床 に大 きな結晶構造 モ
デルの図を広 げ、 日夜見 つめて考 えて いた とか。」ヽ
澤先
生 は、最新鋭 の高分解能電子顕微鏡 で観察 され るコン ト
ラス トを基 にして構造 モ デル を考 えて X線 回折 の結果 に
応用 され、多 くの構造解析 の結果か ら、硫塩鉱物独特 の
構造原理 を見出され ました。 学生時代 に指導教官 か ら与
えられ た 1個 の硫塩鉱物 です ら解析 で きなかった私 は、
耳きじ入 るばか りです。
また、小澤先生 は標本 につ い て も関心 が深 く、総合研
さ、標本 の持 つ情報 の豊 富 さを学生 に指導 されて こ られ
ましたが、今後 は、 その鉱物標本 に対 する情熱 と該博 な
知識 を駆使 して、総合研究博物館 のお手伝 い をして いた
だければ、 と密 かに期待 しているのですが、小澤先生、
如何 です ?!
小澤先生、長 い間、本 当 に有 り難 うござい ました。健
康 に十分 に気を付 けて、ますます御活躍 されることを祈 っ
てお ります。
究博物館 の鉱物資料部門 の部門主任 として博物館 の鉱物
0
―-24-
退官者 の挨拶 0退 官者 を送 る
退官 にあたって
藤
田 宗
孝
(原 子核科学研究センター)
[email protected]‐ tokyo.ac.ip
口 とは漢字 で「妻苦労 Jと 書 くので はないか と冗談 を言
われた りした。
無我夢 中 で数 年 が過 ぎた頃、大 阪大学 か ら平尾先生
(前 放 医研所長 )力 ゞ
着任 され、 日本で最初 の AVFサ イ
クロ トロンの建設 が始 まった。 スタッフが増 えた とはい
え、FMサ イク ロ トロンを共同利用 しなが らの建設 は大
変 な仕事 であったが 、建設 した皆様 とビーム加速 の瞬間
に立ち会 えた事 は、大 きな喜びであった。 その後 に続 く
●
初 出勤 の日、事務的 な話 を聞 い た後、長 い廊下 を歩 き、
ポケッ ト染量計 を渡 され、 サイクロ トロン室の厚 さ lm
程 のシール ド扉 を開け、薄暗 いサイクロ トロン本体室 へ
入 り、安全 スイ ッチを ONす るの を見 た時、
「 これ はエ
ライ所 へ就職 したな―」 と思 った。厚 いコンク リー トで
囲 まれた、狭 いサイクロ トロン本体室内 にある大 きなサ
イクロ トロンを見なが ら説明 を受 けたが、 ほ とん ど理解
で きなかった。
当時核研 のサイクロ トロン施設 は、共同利用実験 をし
ていたので、数少 ない実験 ので きる施設 として評価 を得
ていた。 しか し、カロ
速電極 を交換 す る事 によ り、FF・
FMサ イクロ トロン と切 り替 えられ る特徴 や装置 の故障、
安定度不良等 で、維持、運転す る ことは大変厄介 な装置
であった。 その為、帰宅時 間 はバ ラバ ラであ り、サイク
●
―-25-
装置 の開発、特 に佐藤健次氏 (現 阪大核物理 セ ンター)
との加速電圧発生部 の増幅器 の開発等一 連 の仕事 は、私
のその後 の仕事 に大変有意義 であ りました。
その後私 の仕事 は、AVFサ イ クロ トロンの運転、 維
持 が主 とな りましたが、実験者 の要求 はカロ
速粒子 の多様
化、 ビーム の安定、等 に移 つて きた。放射線、 高電圧、
重量物、高圧 ガス等 の危険物 に囲 まれなが らも、 1999年
の AVFサ イクロ トロンのシャッ トダウ ン まで、共同利
用 に穴 を開 けることもな く、大 きな事故 もな くやれたの
は、多少 の幸運 とサイクロ トロンを支 えて くれた多 くの
人 々の努力 の賜物 だ と感謝 してお ります。
良 き時代、良 き環境、良 き人々 に恵 まれた核研で した。
定年 を迎 えるにあた り、私の周辺か らノーベ ル賞受賞
者 がでなかった ことが、残念 に思われ ます。
退官者の挨拶 ◆退官者 を送 る
藤 田 さんを送 る
片
山
武
司
(原 子核科学研究センター)
[email protected]‐ tokyo.ac.ip
藤田 さんは昭和36年東京大学附置 の全 国共同利用研究
所 である原子核研究所 (核 研 )に 技官 として入所 され、
本年助手 として退 官 され る ことにな りました。平成 9年
サイクロ トロンの高周波加速部 を担当 し、成功裡 にこの
プ ロ ジェク トを終わ らせ ました。特 に発振管 9T71Aに
核研廃止 の後、原子核科学研究 センターに移 られ本年停
直列管 7F25Bを 入 れ る ことによ り高周波加速電場 の安
定度 を105以 下 とす る事 に成功 し、安定 な ビームカロ
速に
年 を迎 えられ るまでの38年 間 にわた り、原子核 の実験研
究 に必須 であるサイクロ トロンカ日
速器 の維持、改良、運
貢献 され ました。
その他 マスターオシレータ系、イオ ン源 のフ ィー ドバ ッ
転 に中心的役割 を果た して こ られ ました。核研 が全 国共
同利用研 として大 きな役割 を果た してい た昭和 30年 ∼ 40
年代 にかけて、サイク ロ トロンカ日
速器 の性能 を充分 に発
ク回路系、ガス系 の制御 シス テム な ど、得意 の電子回路
技術 を駆使 して SFサ イ クロ トロンの高度 な運転 を可能
揮 させ るのに核研不可欠 の人 材 として活躍 して こられ ま
した。
指導 も積極的 に行 い、物理学会 の発表時 にも主 導的 にア
ドバ イス してお られ ました。 お人柄 は温厚 、誠実 で多 く
藤田 さんが入所 した昭和 36年 当時、核研初期 に製作 さ
れた Fixed Frequency(固 定周波数 )サ イクロ トロン
慕われて い ました。
は Frequency Modulation(周 波数可変 )サ イクロ トロ
ンとしての機能 を併せて備 えてお り、我 が 国 の原子核研
究 に大 き く威力 を発揮 して い ました。入所 した当時 の藤
田さんはこの FMサ イクロ トロンに必 要な周波数 を可変
とす るための回転 コンデ ンサー系 に責任 を持つ ことか ら
仕事 を始 め られ ました。 この系 を改善 し、当時 として は
画期的 な ビームで あったヘ リウム 3,83MeVの 加速成
功 に 力 を 発 揮 さ れ ま し た。 そ の 後、 こ の FF・ FM
サイ クロ トロンの機能 を分離 してFF独 自の性能 を発揮
で き る新 し い 型 の サ イ ク ロ トロ ン 、 我 が 国 最 初 の
SF(Sector Focus)サ イ ク ロ トロ ンの建設 が、大阪大学
か ら赴任 して こられた平尾教授 の指導の下 に開始 され ま
にす る工 夫 を考案、実現 して こられ ました。若 い技官の
の所員、また共同利用 に くる学外研究員 か らも信頼 され 、
平成 9年 に原子核科学研究 セ ン ター に移 られた後 も
SFサ イク ロ トロン をこよな く愛 し、停年 にな られ る直
前 の平成 11年 9月 に SFサ イク ロ トロンが シャッ トダウ
ンされ るまで我 が子 のように SFサ イクロ トロンを愛 し
てお られ ました。
残念 な ことに平成 8年 に体調 を崩 され ましたので、 そ
の後 はア ドバ イザ ー として原子核科学研究 セ ンターの加
速器研究 に貢献 して こ られ ました。停年退官 された後 も
健康 に留意 され、体力 を回復 して趣 味 としてお られた写
真 な ども続 けていかれ ることと思 い ます。
本当 に長 い間、核研及 び原 子核科学研究 セ ンターの研究
発展 のために貢献 して頂 きあ りが とうござい ました。
した。藤 田 さんは得意 の高周波技術 を生か して この SF
0
―-26-―
退官者の挨拶・ 退官者を送る
理学部での40年 間 を振 り返 って
鈴
木
suzuki(フ
美 和 子 (生 物科学専攻 )
bios・ u´ tokyo.ac.jp
銘 を受 けて、引 き続 き大学 での勤務 を決 めたのですが、
研究室 のスタ ッフの方 々 との交流 で多 くの ことを学びま
した。 その後、研究 室勤務 か ら教室 の事務 室 に移 り、教
室全体 の事務業務 を担当 いた しましたが、先輩 の事務官
の方か らは研究、教育 の現場 としての教室事務 の業務 を
親身 になって教 えていた だきました。 また、仕事 に追わ
れて 日々流されていた私 に とって、教室 の技官 や事務官
の方 々の独立 した真摯 な生 き方 や、他 を思 いや リー
真剣 に
私 が初 めて東京大学の間 を くぐったのは、当時理学部
化学教室の教授 でい らした故赤松秀雄先生 の研究室 にア
ルバ イ トとして雇用 された1958年 5月 の ことで した。 そ
の時 はそのあ との長 い長 い年月 を この東京大学 で勤務す
ることになるとは夢 に も思 い ませんで した。 アルバ イ ト
のつ もりが、 そのまま23年 ちか く化学教室 で勤務 し、19
82年 に植物学教室 に異動、1995年 に改組 された生物科学
専攻 に引 き続 き勤務 して18年 、 そ して この2000年 3月 の
定年 までの40年 間 (厳 密 に言 えば42年 ですが)を 理学部
にお世話 にな ったのか と思 うと感無量 です。振 り返 って
みればこの40年 間 は大 きな変動 の時代 で もあったので し
た。 1960年 の安保闘争 で東大生 の樺美智子 さんが亡 くな
り、安田講堂前で追悼式 が行われ たのは私 が20歳 位 の と
きで した。 この記憶 は強烈 で、連 日の国会 へ の抗議 のデ
モに行 く学生 たちを心配 して当時 の理 学部長や評議員 の
先生方が 、国会 まで行かれた り、会議会議 の連続 で あ っ
た ことが昨 日の ことの ようにお もいだされ ます。そして、
0
東大紛争 が あ り、やがて 1993年 の大 学院重点化、 1997年
に生物科学専攻発足 とつづきました。一 方で職員 の定員
削減 がす すみ、そして まだまだ変革 は続 きそうです。 そ
うした大学 の変動 期 に、理学部 という限 られた職場 のな
かで楽 しく働 き、無事 に定年 を迎 える ことが 出来たのは、
ただただ、多 くの方々の ご支援 が あったれば こそ と感謝
の気持 ちで いっぱいです。
助 けあう強 い意志 に、私 はどれほ ど影響 をうけたか はか
りしれ ません。職員組合 の存在 もまた私 には忘れ られ ま
せん。職員組合 は理学部内外 の多 くの教職員の方々 と話
し合 う機会 を与 えて くれ ました。 それ は、教室 と言 う限
定 された職場 にあ って、 ともすれば閉鎖的 にな りやす い
自分 自身 へ の刺激 にな り、仕事 に もプラスになったので
した。
植物学教室 に異動 した頃か ら職員 の定員削減がすすみ、
用務員 さんの不補充な どで、学科事務 の職場環境 が厳 し
くなって きました。動物学専 攻 、植物学専攻、人類学専
攻 が改組 により統合 され生物科学専攻 へ と変 って、専攻
事務室 に定員 が 2名 となった時 はさすが に途方 に くれ ま
したが、専攻 の先生 がた も、事務室開設 にあた り事前 に
事務職員 と何度 も打 ち合わせ を行 ない、業務量 に応 じた
事務補佐員 の員数 の確保 や、良 い人材 を確保す るために
は職場環境 が大事 とい って事務室 には広 い部屋 を と配慮
して下 さいました。事務処理 の仕方 について も 3専 攻 の
や り方があ り、 それ をま とめて行 く作業 も、教官や職員
の方 々や、理学部事務 の方 々の協力 な くしては出来 ない
ことで した。
「 以和為貴」。私 の高校 の卒業 アルバ ムの巻
頭 ペ ージにはこの言葉 が書かれて い ました。和 を もつて
貴 しと為す。古 い言葉 です が、定年 を前 にして、改 めて
この言葉 を想 い起 して い ます。和 は一人で は作れ るもの
で はあ りません。 この長 い年月、困難 な時 をも楽 し く過
思 えば私 にとっては貴重 な経験 の年月 で した。高校 を
ごせたのは、 まさに この人 と人 との和のおかげで した。
卒業 したばか りで化学教室 の研 究室 に勤務 した私 は、赤
松先生 の私心 のない、公正 な科学者 としての生 き方 に感
ほん とうに長 い あいだお世話 にな り有難 うございまし
た。
一-27-―
退官者の挨拶 0退 官者 を送 る
鈴木美和子 さんを送 る
東
toh―
江
昭
夫 性 物科学専攻)
[email protected]― tokyo.ac.ip
生物科学専攻 では、「2000年 は大変 な年 にな りますね。」
「 ほん とに。 どうなるので しょうすか。」 とい う会話 が
教官や学生 の中 には書類 の提出期限 に遅れるものや書類
数 年前か ら交 されるようになっていました。 2000年 問題 ?
大教授 の退 官 ?い え、事務主任 の鈴木 さんの定年退官の
のにも時間がかか ります。時 には腹立 た しい こともあっ
たので しょうが 、 そのような ことは少 しも表 に現わ さな
いで、 いつ もに こやか に、遅れ た書類 も処理 して戴 いた
年 です。 そ して、 とうとうその年がやって きました。誰
もが この年 の専攻長 は避 けたい と思 っていました。
を無 くして しまう ものまでがあ り、一つの書類 を揃 える
ものです。 さらに、遅れた言 い訳 を中央事務 にして くれ
ていたの も鈴木 さんです。 ほん とに有難 い ことで した。
鈴木 さん は昭和 57年 の 8月 に生 物学科事務室主任 とし
て当時の植物学教室事務 を担 当 して以来今 日まで生物科
学専攻/生 物学科教職員 。学生 と理 学部事務 との間の潤
書類 ばか りではな く、古 い理学部 2号 館全体 にも目を配 っ
ている鈴木 さんの ところへ は、水漏れ、破損、盗難、な
滑油 として尽力 されて きました。 この時期 は生 物学科の
大 きな変 革 の時期 で、大学院重点化 に続 いて平成 7年 に
どな ど、あ らゆる トラブルが持 ち込 まれ ます。当然 ス ト
レス も溜 まるわけです。鈴木 さんのご趣味 は温泉旅行 で
は動物学、植物学、人類学の 3つ の大講座 と新 たに進 化
あるとうかがってい ましたが、成 る程 と合点がい きます。
たまには、ゆっ くりと温泉 に浸 かって何 もか も忘れない
と心 身 が もたないので しょう。
多様性生物学大講座が加わって、生物 科学専攻 がで きま
した。 それ に伴 なって、それ まで 3箇 所 に分 かれて独 自
に運 営 されていた教室事務室 も一 つにな り、鈴木 さんが
このよ うに大変 な仕事 の後任者 へ の引 き継 ぎにも目鼻
専 攻事務主任 として事務 を担当 ことにな りました。事務
室 を一本化す るとい って も、長 い間別 々に運営 されて き
がついたので しょう、最近鈴木 さんの表情 の晴れや かな
た ものが直 に一つになるのは難 しい のですが、鈴木 さん
の努力 により少 しずつ一本化 に向けて変わ りつつ あ りま
す。
鈴木 さんの仕事 の量 は大変 に多 く、植物学教室の事務
室主任以来今 日まで、事務室 の灯 りは毎 日夜 8時 過 ぎま
でついてい ます。その原 因の一端 は私達 にあるのですが。
ことが多 くなったように感 じます。無事 に勤 めを終 えて、
煩わ しい仕事か ら解放 され る日が近づいて きたか らなの
で しょう。本当にお疲れ さまで した。 また、有難 うござ
い ました。新年度 にな りました ら暫 くはゆっ くりと温泉
な どで寛 いで、 つ ぎの人生 へ 向 けて充電 して下 さい。 ど
うぞお元気で。
0
―-28-
退官者の挨拶 。退官者を送る
二つの幸 せ
森
君
江
(生 物科学専攻)
[email protected]‐ tokyo ac.ip
にあ ったので はな いで し ょうか 。 自分 を奪 われ た と感 じ
た時、人生 の あ り方 に疑 間 を抱 い た よ うに思 い ます。 そ
れ を解 消 す るに は人・ 仕事共 に奪 わ な い境 地 に入 るのが
最 良 の策 です 。 す なわ ち、人 生 の健 康 は両者 を共 に備 え
た境 地 に 自分 を置 くこ とにあ るよ うです。 それ はなか な
か に至 難 で した。 しか し、幸 運 に も私 の所 属 した い ずれ
の研 究 室 も、 人・学 問共 に奪 わ ぬ境 地 にあ る研 究 者 の 集
ま りで した。 そんな中で仕事 を させ て い た だ くこ とに よ
植物学教室 に勤 めて41年 にな ります。 その間 に植物分
類学教室、二つ の植物発生生物学研究室 と 3研 究室 のお
●
も影響 を受 け、 いつ しか悩 み も消 え楽 しい想 い 出 の 中 で
世話 にな りました。研究室 をかわったのは教室 の事情、
教授 の退 官 によるもので した。研究室 が変わ る度 に伴 っ
退 官 を迎 え ました。これ は何 に も勝 る得 が たい幸 せ です 。
た「私 に務 まるか しら」 と言 う大 きな不安 はそれぞれの
奪 わ な い。 あ るい は人・仕 事 共 に奪 う境 地 とは い っ た い
どの よ うな境 地 で し ょうか。 特 に人・仕 事 共 に うば う と
研究室 にお いての皆様 の親切 と大 きな包容力 のお陰 で不
完全 なが らも、 どうにか退 官 の 日まで無事務 めさせて い
ただけ、感謝 と満足 の気持 でいっぱいです。 か え りみま
す に、理学部 とい う純粋 に学問 を追求す る場 に長 い問 い
たせ いで しょうか、30才 も半ばにさしかかった頃「自分
の生 き方はこれでいいのだろうか」、「 自分 の人生 とはいっ
ところで 、蛇 足 か も しれ ませ んが 、仕事 を奪 って人 を
は…
大 学 、他 の大 学 につ いて は分 か りませ んが 、 恐 ら く東
京大 学 は世 間 の い や な波 もそれ ほ ど打 ち寄 せ て こない 美
しい水 を湛 えた場所 の よ うに思 い ます 。 一 方、最近 の世
の 中 は住 み に く く、殺 伐 さが 年 々増 加 し濁 りを増 して い
たい…」人生 の最 も大切 な時期 を技官 としてす ごして き
た時、生 きて行 くことへ の疑 間が起 り、 自間自答 し始め
ます 。 これ は人・仕事 共 に奪 うか らで はな いで し ょうか 。
人 が 人 らし く生 きて行 く為 に は両者共 に奪 わ ぬ 、 あ る い
たのです。 これ は第二 者 の手 を借 りる ことの出来 ない 自
分 で解決 せねばな らない問題 で した。 それ は困難 ではあ
ば、 植物 学教 室 は一 つ の理想 の 園 と云 え る よ うな気 が し
りましたがなん とか心の整理 をしたのです。が、 い よい
よ私 が退 官 を迎 えるにあた り、今 一度「広報」 にある≪
退官者 の挨拶 ≫を数年前 か ら読 みなお してみた時、次の
●
り、 自分 自身両 者 を共 に奪 わ ぬ境 地 に入 り込 め な い まで
ような ことを思 ったので した。
研究職 にあられた教官 の方々 は恐 らく、学問 を生 き甲
斐 として こられた、人 と仕事 (学 問)と を共 に奪われな
かつた人達 といえます。言 いか えます と最良 の人生 を追
求 し送 られた、あるいはそれの出来 た人たちと云 えましょ
う。 そして、私 の場合 は人 を奪 って仕事 を奪わない境地
はせ めて どち らか の一 方 だ け は奪 わ ぬ境地 が 必 要 とすれ
ます 。 失礼 を省 みず 申 し上 げれ ば ここを いつ まで も美 し
い水 で世 間 を潤 す源 とな って い ただ きたい と願 うのです。
研 究者 、特 に若 い皆様 を見 てい ます と、 その胎 動 を感 じ
ます。 そん な 園 か らの退 官 は二 つ 目の幸 せ です 。最 後 に
な りま したが、 この よ うな環境 で過 ごさせ て い ただ きま
した理 学部 の皆様 に厚 く御 礼 を 申 し上 げ ます。
退職 後 は これ まで の経験 を生 か し、時間 的、精 神 的 に
ゆ とりを もって心豊 か に生 きてみた い と思 ってお ります。
―-29-―
退官者の挨拶・ 退官者を送る
森 さんを送 る
黒
岩
常 祥 性 物科学専攻
)
[email protected]― tokyo.ac.ip
生物科学専攻・ 発生生物学研究室の技術専門官 。森君
江 さんが平成 12年 3月 をもって無事本学 を定年退官 され
る運び とな りました。 ここに、長年同 じ研究室 でお世話
になった者 として、ご退官 をお祝 い 申 し上 げるとともに、
一 言述 べ させて頂 きます。
森 さんは、昭和 34年 4月 に東京大学理学部植物学教室
の分類 学・ 地理学研究室の技術員 として採用 されました。
当時の研究室主任 は原寛教授で、 日本 の植物 の分類 をは
じめ世界 の中で もとりわけ ヒマ ラヤの植物 の調査 に積極
的 に取 り組 み はじめてお りました。 その標本 は膨 大 であ
り、整理 は大変 だった よ うです。採用 されて最初 に与 え
られた椅子 は、牧野富太郎講 師が使われた椅子で、立派
過 ぎて座 りごごちは悪かった との ことです。昭和38年 7
月 に文部技官 とな られ、昭和 53年 4月 に東大 の総合資料
館 (現 博物館 )へ 植物標本 の一部 を移動 させ るとともに、
シダの胞子の培養な どを行 って、教育や研究の支援 をし
てい ました。古谷先生 が退官 され、私が後任 とな りまし
たが、引 き続 き発生生物学研究室 の技官 として働 いて頂
くことにな りました。それ以来 12年 にな ります。研究室
での仕事 は、以前 と同様 に事務的な仕事 もあ りましたが、
技術的な仕事 をしたい との本人 の希望 もあ り、河野重行
助手 (現 新領域教授 )の 研究支援 とい う ことで、世界各
国 か ら集 め られた真正粘菌株 の保存 に専心 し、 また大 学
院生 へ の試料 の提供 な ど、更 にはご自分 で も膨大な量 の
株 の掛 け合わせ による遺伝的研究 をされて きました。技
官 に採用 されてか ら31年 間、原寛、山崎敬、古谷雅樹、
河野 重行 の各氏、 そ して私 と 5人 の教授 の下 で働 き、
研究 内容 もそれぞれ異 なってお り大変 だった と思います
が、良 く順応 じ研究活動 の支援 をして下 さい ました。他
の 4人 の先生方 を代表 して心か らお礼 を述 べ させて頂 き
専門的な技術 を持 っている森 さん も配置換 えにな りまし
た。当時 の植物部門 の責任者 は大橋広好講師が兼任で植
ます。
停年後 は、 ご主人 の森章二 氏 の「石雲工房 Jの お手伝
い をす るとか、 ご主人 は私 の大学院 での 4年 先輩 にあた
物標本 の整理研究 に携わ っていた との ことです。昭和 55
年 4月 に植物標本 が理学部附属植物園に移管 され、 また
りますが、現在で は生物学 か ら離 れ、明治の字彫 りや仏
大橋先生が植物園の助教授 に昇任 され るのに ともない、
今度 は植物園 に移 られ ました。 ここで 山崎敬教授 の下 で
足石の研究 とともに、手彫技術 の唯― の保持者 として制
作 に励 んでお られ、その調査 には森 さん もカメラや三脚
標本 の整理 に尽力 なされ ました。 この間東大植物学教室
をか ついで同行 し協力 されているとい う ことです。最近
は大 きく変貌 してい ました。古谷雅樹教授 により植物形
態学研究室が発生生物学研究室 に模様換 えされてい まし
た。その様 な中で、森 さんは植物園 か ら本郷 の古谷先生
で は早稲 田大学の博物館 の坪内逍遥 の歌碑 を制作 された
の研究室 に戻 られ ました。発生生物学研究室で は、主 に、
うございました。
との ことで す。 どうぞ、 ご健康 に留意 され、益 々 ご健勝
であ られ ることをお祈 り申 し上 げます。長 い間あ りが と
事務的な仕事 をしなが ら、学生や大学院生が実験 に使 う
―-30-―
0
退官者の挨拶・退官者を送る
数 々の思 い 出 か ら
田
中 光
明
(物 理学専攻)
mtanaka(Dphys.s.u― tokyO.ac.ip
他所 で長 く使用 され ました。 この時の経験 はその後 の回
路作 りに自信 とな った ことと、東大の先生 に対す る尊敬
の念 を持 つ こととな りました。
小柴昌俊先生の研究室 に所属 してい た当時富士通の大
型計 算機 M-180に 触 れ る ことが 出来 た こ と、神 岡鉱 山
の地 下 1000mに 設 け られ た Proton― Decay観 演1装 置 の
建設 に参加 し、後 に超新星 SN1987Aか らのニ ュー トリ
素粒子物理 の各実験系の研究室 に所属 しました。
当初の本業 は共同利用で あった ESR装 置 のオペ レー ター
ノ観測 に役立 つ ことが 出来 た こと等 は良 い思 い出 となっ
ています。技術職員 に とって最先端 の諸々 に関 わ ること
はや りが いであるか らです。 この ことは次 ぎの藤井忠男
先生 。釜江先生 の研究室 に所 属 して、 トリスタン計画 で
で した。副業 に生物物理実験 を手伝 っていました。
の TOPAZ―
勤 めてまもない頃、小谷正雄研究室 の博 士課 程 の院生
か ら磁気天枠用の定電圧電源作 りを依頼 され ました。 そ
れ も厳 しいスペ ックが要求 されて い ました。工業高校 を
た ASTRO― Eに おいて も同様であ りました。在職 中 に
はい くつかの研究室 を移動 しました。 そしてその度毎 に
物理学教室 での38年 間 の在職中、生物物理、物性物理、
●
出 てか ら、 2年 間 の民間会社勤 めで電子 回路 に触れ る こ
とに は慣れ て いたが、安定化電源 に関す る知識 がなかっ
た ことと、当時 の真空管時代 に安定化電源 を製作す るこ
とは簡単 で はなかった。多 くの参考書 は簡潔 に記述 され
てはいなかったが、在職 中 の物理学教授霜田光 一先生著
「 エ レ ク トロニ ックスの基 礎」 (裳 華房 )に 載 っていた
回路例 を参考 にして作 り、調整 に手間取 ることな く完成
させ ることが 出来ました。その後、目的の磁気天秤 は諸 々
TPC検 出器 において も、また最後 に関わっ
仕事や精神面で新鮮 さを取 り戻 せた と思 っています。 ま
た私 自身 の人生観 を持 つ上で様 々の方 々の影響 を受 ける
こととな りました。一 例 として、大学紛争の当時接 して
いた院生が学生運動 に熱中 してお りました。彼 に集 まる
仲間達 を見聞 きし、 その思想や行動力等 には感動す るも
のが多 々あ りました。
終わ りに、在職中には多 くの方々 に公私 に亘 る数々の
無理な依頼 につ いて協力 を快諾 していただ き大変お世話
にな りました、あ りが とうござい ました。
の理 由で動 くことはなかったが、 この定電圧電源本体 は
●
―-31-―
退官者の挨拶・ 退官者 を送る
田中 さんを送 る
植
木
昭
勝 (物 理学専攻 )
[email protected],s.u‐ tokyo.ac.jp
田中 さん は昭和 37年 (1962年 )に 物理学教室 に技術職
員 として採用 され ました。本年、所属 されている上 司 の
釜江教授 と共 に物理学教室 を定 年退官 され ます。東大 で
ProtOn‐ Decay観 瀬1装 置 の建 設 に参力日され ました。主 に
38年 間御活躍 にな りました。 この間、生物物理、物性物
1000本 の光電子増倍管
の保守 にも当 られ ました。小柴研究室での最後 の仕事 と
して は、岐 阜 県・ 神 岡鉱 山 の地 下 1000mに 作 られ た、
理、素粒子物理 の実験等 の研究支援 において広範 な面で
貢献 され ると共 に、技術者 として多 くの御業績 を挙 げ ら
(PMT)の 取 り付 けを支援 され
てい ます。 この装置 は1987年 2月 超新星 1987Aか らの
ニ ュー トリノの観測 に成功 し、 その後 PMTを 10000本
れ ました。
に強化 されたスーパ ーカ ミオカンデに発展 してお ります。
田申 さんは当初、ESR(Electton Spin Resonance)
装置 のオペ レー タ として採用 され ました。
昭和 62年 (1987年 )藤 井忠男先生 。釜江常好先生 の研
究室 に移 られ、建設途上 にあった、世界最 高 エ ネル ギー
田中さんが採用 された当時、生物物理 は黎 明期 にあ り
響冒電 子[軍 I冤 霧驚奨 511a■ 、こ1月lig袈 島曇
ました。物理学教室 にも生物物理 の講座 (小 谷正雄先生
を中心 )が 設 け られ 実験 解 析 の 手 段 として 高感 度 の
ESR装 置 が必要 とな りました。 当時、ESR装 置 は高価
を支 援 され ることとな り、TPC内 に取付 けられ る較 正
用 レーザー・ ビー コンを担当され ました。 レーザー光反
であったために、物理学教室のみで は購入出来ず生物化
学教室 な ど他教室 との共同利用 として購入 され ました。
射鏡用の ビーコン はガス ピス トンで駆動 し反射鏡 を回転
させ るもので較 正用 に用い られ る為、工 作精度、取付 け
昭和 37年 当時、 この ESR装 置 は稼動す ると同時 に東
大 内外 か らの使用申 し込 みが殺到 して御多忙であった と
精度等 が非常 に重 要であ り、 またその精度測定 を効 率的
に行 う装置が必要 となるため、 その装置 も製作 され るな
の ことです。 しか し、 この頃 の電子機器 はまだ真空管 の
ど問題 の解決 に当 られ ました。
その後、研究室の研究 テーマが宇宙 X線 天文学の分野
時代であ り保守 には経験 が必須 で あ りました。田中さん
は東大 に来 る前 、二 年間 ほ ど海上 自衛隊 の艦船 に積 まれ
に移 るに従 い、宇宙科学研究所 との共同実験、気球 によ
る宇 宙 X線 の観測 や科学衛星 ASTRO― Eに ついて も多
た無線機器 の修理・ 点検 を専 門 に行 う会社 に勤 めていた
経験 を発揮 され、ESR装 置 は15年 以上 の長 きに亘 り大
きな故障 もな く安定 に稼動 され ました。 その間、磁場測
定用 の NMR装 置 の電子 回路 を新 し く製作 す るな ど、
改良 を加 えた ものを多 く製作 され ました。
ESR装 置 の使 用 が生物物理 か ら物性物理 に移行 す る
に従 い、飯 田修一先生 の研究室 において磁性実験 にも関
わ るようにな り、実験研究 を支援 す る多 くの電子回路や
装置 を製作 されてい ます。 一 例 を挙 げる と X線 測定用
に作 られた比例計数管 (Kr Tube を使用 )用 Single
様 な面 か ら支援 され ました。
田中さんは非 常 に多 くの趣味 を持 ってい らっしゃい ま
すが、 その奥行 きの深 さはどれ も群 を抜 い たもの となっ
手l` 13運 魯8P壇 畠轟毛』蒼奢貌再雇雪 百 [8,を
f
うです。 また古典文学 に造 詣 が深 く、NHKラ ジオの古
典講読 を欠か さず聞 いてい る との ことで した。一例 をあ
Pulse Height Analyzerは 多 くの成果 を挙 げた後 、 メス
げる と、 10年 2ヶ 月余 に亘 って放送 された「源氏物語」
を聞 くと同時 に録音 されたカセ ッ ト・ テープ全 239巻 を
バ ウアー装置 に使用されるなど10年 以上 も稼動 しました。
持 っていることを自慢 してお られ ました。
ESR装 置 が老朽化 し、物理学教室 での使用 が減 った
後、田中さんは小柴昌俊先生 の研究室 に移 り、素粒子実
験 に関 わ られ ました。 そ こで も多 くの実験 を支援 され る
│
田中 さんのような非常 に有能 な人が現役 か ら退かれ る
のは物理学教室 そして理 学部技術部 に とって残念な限 り
ですが、今後 も好奇心豊かな感性 を活か されて、御活躍
と共 に、富 士通 のメイ ンフレーム計算機 で あ る M-180
―-32-―
され る ことを期待 してお ります。御多幸 をお祈 り申し上
げます。
l)
退官者の挨拶・退官者を送る
退官にあた って
田
0
1974年 木曽観測所開所 と同時 に自動車運転手 として採
用 されました。それまで天体望遠鏡などどい うものは見
たこともなかった私 にとって回径 105cmの 望遠鏡 は想像
を絶す る大 きさでした。運転 の傍 ら観測を手伝 う機会 に
も恵 まれその時の感激は今 も忘れることがで きません。
当時を思い起 こしてみます と観測所 にはまだ職員宿舎 も
な く、先生方を始 めかなりの職員が東京 との二重生活を
余儀な くされ、頻繁に行 き来をされていました。運転業
務 もそれな りに忙 しく、三鷹 の東京天文台へ も今 とは比
中
亘
(天 文学教育研究センター)
較 にならないほど出張をする機会がありましたが高速道
路 は大月か ら先 しか利用で きず機材 の運搬 だけで 2日 も
費やしていた時代です。人里離れた観測所へ来 られる方々
が少 しでも快適 に過 ごしていただけるように、かな り神
経を使 いなが らの生活 でした。特に長期滞在者 には食事
が大問題 で、限 られたメニ ューのため「食事 の内容で曜
日がわかる」 な どと言われ る こともたびたびあ りました
が、か といってあまりお金 もかけられず、かな り我`慢 を
していただいたこともあるか と思います。おかげさまで
たい した不満 も聞 くことな く今 日に至ってお ります。ま
た、外国か らの来所者 は牛肉はだめ、豚肉はだめ、野菜
しか食 べない等々さまざなま人が来 られます。 その度 に
ノヾ
― 卜の賄 いさん達 には大変なご苦労をおかけしました。
仕事柄大勢 の方 とお会 いする機会に恵まれ、例外な く皆
様 に親切 にしていただき私 の仕事 をする上での張 り合 い
にな り、 また財産 になってお ります。ありが とうござい
ました。取 り留 めのない文章になりましたが皆様にお礼
を申 し上 げなが ら退職 のご挨拶 と致 します。
│●
-33-―
退官者 の挨拶・ 退官者 を送 る
田中 さんを送 る
中
田 好
―
(天 文学教育研究センター)
nakata(D astrOn.s.u― tokyo.ac.ip
木 曽福島 の駅 に降 り立 つ と、突 き抜 けるような青空が
ひ ろが ります。駅 前 に停 まる木 曽観測所 の車 の中 にはい
つ ものように田 中 さんが待 つていました。「今 日は買 い
対 策本 部長 は田 中 さんの指定 席 です 。所 員 一 同 を指揮 し、
出 しもないか ら、真 っ直 ぐあが りましょう。今晩 は晴れ
るか ら冷 えるだろうな。J「 今晩 の観演1は 誰 ?」 「 A大 の
と指示 を出す姿 はまさに本領 発 揮 で 、何 が起 きて も田 中
H君 です よ。J走
り出 した車 の 中で、早速仕事 の打 ち合
わせが始 ま ります。「先週観測 した小 惑星 グループか ら
FAXが 来 て、新 し く見 つ けた小惑星が珍 しい軌道群 に
属す るらしいので追跡観測 を依頼 して きてるんですが、
どうします ?」 「 う―ん、 H君 の時間 に割 り込 みを入 れ
て きぱ き と「 君 と君 はポ ンプ室 へ 降 りて行 って非常 ポ ン
プ をチ ェ ック しな さい。所長 は電 話 番 をお願 い します 。」
さんさえいれば とりあえず安心 とい う気持ちを所員一 同
が抱 いてい るの も無理 あ りません。田中さんの仕事 は所
内 の活動 を仕切 るだけにとどま りません。木 曽観測所 の
敷地 は上松町、三岳村、王滝村 の 3町 村 にまたがってお
り、地元諸機 関 との連携 は非常 に重要です。除雪 の依頼、
所長交替 の挨拶、 ス キー場夜 間照明 の 自粛要請等 の手配
ると泣 きが きついか らなあ。J「 そうか と言 って明 日は雪
になるか も知れ ませんか らね。 まあ、今晩一枚 だけ撮 っ
段取 りも田中さんの独壇場 で した。
てみ る と返 事 をしてお きますか。J木 曽 に生 まれて60年
るよ亀票 []::】 1軍 ilち 声詈ξ億 35う 言長I]ふ
ましたけど、晩飯 はあ りませんか らね。」ず ぼ らな研究
の田中 さんがそ う言 うと、なんだか この好天 もいつ まで
持 つ か怪 し くなって きます。「 そ うですね。 じゃあ、割
り込 み観測 の手配 もお願 い します。J
者 をしつ ける ことに熱意 を燃やすのは、田中さんの悪 い
癖です。「 ああ、 また い じめる。 この間学生 の F君 も連
田中さんは昭和 49年 8月 に東京天文台木 曽観演1所 に採
用 され ました。観測所 の開設 は同 じ年 の 4月 ですか ら、
絡 を忘れて い たのに食事 を付 けてあげた じゃな いか。J
「そう細 かい ことを言 ってち ゃノーベ ル賞 は遠 いですよ。
開所直後 か ら今 日まで25年 間木 曽観測所 と共 に歩 んで こ
られた ことにな ります。当初 の任務 は観測所 の車 を運転
学生 さん はまあ仕方 な いですか らね。」 田中さんの悪 い
癖 の もう一 つ は、学生 よ りは助手、助 手 よりは教授 に手
厳 しい ことです。東京大学 のあちこちの施設や研究室 に
して、木 曽福島駅 に全 国 か ら訪れ る観測者 を送迎す るこ
とで した。私 は当時本郷 の天文 学教室 にお りましたが 、
は沢 山の田中 さんがいて、今 日も元気 に日常業務 を こな
木 曽で新 し く採用 された方が物品 の発注 か ら構 内 の草刈
りまで、何で もこなすスーパ ーマ ン らしい とい ううわ さ
し、研究者 に活 を入れて い るい るので しょう。 この 3月
にその 中で もとび きりの一人が木 曽観測所 を去 ることに
を覚 えて い ます。 その後昭和52年 には東京大学 の会計事
務担当者実務研修 を受講 して会計 の専門知識 も身 につけ
な りました。残 りの者で何 とかやって行 く算段 を立てる
つ もりですが、宴会 の指図を こなすのは当分誰 にもで き
られ、完全 に観測所 の主 とな られ ました。木 曽観測所 は
ないか も知れ ません。
山 の上 にあ りますか らリト
水溝が つ まった、沢か らの水 の
ンプが
汲み上 げポ
止 まった といって も東京 と違 い、業者
ろ」:暴 ふ
に電話 をして一件落着 とはい きません。 そのような時の
今晩 は良 い観瀬lが で きそ うです。
-34-―
]ム 鰺
乱
ち、
事
亀ξ」ここ sO
││
超 関数 の 面 白 さ
片
岡 清
臣
(数 学科)
[email protected]‐ tokyo acip
佐藤超関数 に基づ く偏微分方程式系の超局所解析学 は
の回折や屈折、 また物理 で は決 して現れない ような退 化
1970年 初めに佐藤幹夫 。河合隆裕・ 柏原正樹の 3氏 によっ
した作用素 の解析 にも役立 ちます。すべ ての線形偏微分
方程式系の問題 を扱 える ところまで はまだ遠 いですがそ
れで も思 いが けない ことが次 々 とみつか ってい ます。例
て基礎が確立 され ました。 L.Sぬ wartz のデ ィス トリ
ビューシ ョンの理論が一 つの式 で 自然 に書 き表 せないよ
うな可微分関数 を基礎 としている事 を不 自然 と考 え、佐
藤先生 は解析関数 を基礎 とす る超 関数 の理論 を考案 しま
した。
●
線形偏微分方程式系の超局所解析 はこの超 関数 を基礎
に、層や コホモ ロジー といった代数的な道具 を使 いなが
ら方程式 の特性多様体 の接触幾何学的性質 と超関数解 の
構造 との関連 を調 べ る理論です。上記 3氏 は擬微分作用
素や フー リエ積 分作用素な どのハ ー ド的な裏付 けの下 に
私 が修士課程 に入 る前 にはほぼすべ ての線形偏微分方程
式系 に対す る決定的な構造定理 を得 ました。 しか し色々
な面 白い問題、例 えば波動 の回折や屈折 の超局所理論 な
ど、 はこの定理 で はカバ ーで きない例外的な場合 に属 し
てい ます。
3氏 の決定的な構造定理後、私が関係す る ことで大 き
く進歩 した ものは境界値 ―混合問題 の理論、代数解析的
エ ネル ギー問題、層のマ イクロ台の理論、そして第 2超
局所解析 があ ります。 これ らは互 い に関連 しあって波動
えば佐藤超関数 はノルムによる量 的評価 が全 くで きない、
と考 えられて い たのですが 同 じ関数 の複素共役 とのテ ン
ソル積 を考 え、得 られた 2倍 の変数 の超関数 (或 いはそ
れを部分変数 について積分 した もの)に 対 してエル ミー
ト半正定値性 による不等号 を定義 します。 そうす ると通
常 の放物型方程式や波動方程式の解 に対す るエ ネル ギー
評価式 が再定式化で き、従来の超局所解析で はカバ ーで
きなかった この種 の問題 も扱 うことがで きるようにな り
ました。 また層 のマ イクロ台の理論 とい うのは柏原教授
らによる微分方程式向け とは限 らない一般理論 なのです
が、従来微分方程式の解 の一つ一つを考察 して きた とこ
ろか ら思考 を 1ラ ンクア ップ し、一 つの微分方程式の解
の全体 をひ とつの関数 のようにみなしてその特異性 の集
合 を考 えて い く理論です。 この方法の利点 は超関数解 に
関す る定理 をよ り扱 いやす い解析関数解 な どに関す る同
種 の定理 か ら代数的な操作や評価 だけで直接導 ける事で
す。
●
一-35-一
研究紹介
動 き始 めたTPA300レ ーザ ー干渉計重力波検 出器
坪 野 公 夫 (物 理学専攻)
協ubOnO@phys,s.u― tokyOtaC.jp
昨年 9月 よ り、300m基 線長 をもった レーザー干渉計
重力波検 出器 (TAMA300)の 運転 を開始 した。 これに
よ りす ぐに重力波 が見 つか る可能性 は小 さいが、重力波
検 出 に向けての大 きな一歩 であることは間違 いが ない。
現在世界 各地 で大型 レー ザー干渉計 を用 いた重 力波検 出
器 の建設 が進 め られ てい るが 、 日本 の TAMAで は、欧
米 の LIGO(ア メ リカ)、 VIRGO(フ ランス、イタ リア)
GEO(ド イ ツ、 イギ リス)計 画 に先駆 けて実 際 の観 測
を開始す る ことが 可能 になった。
一般相対性 理論 によると、重力 は 4次 元空間の曲が り
として表現 されるが、重力波 はそのような時空 のひずみ
が光速 で伝播す る現象 である。重力 波 は、中性子星 連 星
の合体や、超新星爆発のような激 しい天体現象 にともなっ
て発生 し、途 中 の物質 によってほ とんど減衰する ことな
く空間 を伝播 して、この地上 にも届 いてい る はずである。
このような レーザー干渉計 に重力波が入射すると、 2本
の腕 か ら戻 って きた光が作 る干渉縞 に変化 をもたらすの
で、重力波 を光検出器 の電気信号 として とらえることが
で きる。 レーザー とビームスプ リッターの間 におかれた
リサイクリングミラーは、干渉計内部 の実質的な光パ ワー
を増大する役目をもってい る。
昨年 (1999年 )9月 17日 か ら20日 にかけて、最初 の干
渉計運転 とデータ取得を行 った。 このときの干渉計 の構
成 は、 リサイク リング部 を除 けば最終的なセ ッ トアップ
と同じものである。最長 8時 間近 くの連続運転を達成 し、
夜間に限れ ば94%の 時間帯でデータ取得が可能であった。
現在、 ここで取 られたデータか ら重力波を抽出す る解析
を進めてい る。現在 の検出器 の感度 は、最初 の目標 であ
る phase I感 度 よ り数倍悪いレベルで あるが、今後 は、
「重力波天文学 Jは 、電磁波 によるこれ までの天文学 に
観測 と装置の改良のための期間を交互 に設定 し、データ
の蓄積 と最終的 な感度達成 の両方 の実現 をはかってい く
対 して、相補 的 な情報 を もた らす と期待 されて い る。
予定である。
TAMA300は 、国立 天文 台 三鷹 キャ ンパス に建 設 さ
れ た レー ザ ー 干 渉 計 で あ る。 図 1に 示 した よ う に、
TAMA300は 基 本 的 に は 2本 の腕 を もった Michelson
参考文献
[1]坪 野公大、21世紀 の重力波天文学 ― TAMAプ ロジェ
ク トの現状 ―、
日本物理学会誌 5■ 5(1999)328336.
型 レー ザ ー 干渉 計 で あ る。 それ ぞれ の腕 は光 共 振 器
(Fabry― PerOt cavityl を作 ってお り、 これによ り実
質的な光路長 をかせ ぎ、干渉計 の感度 を上 げてい る。
図
l TAMA300レ
ーザー干渉 計 の概念 図
図2
ーー36-―
三 鷹 の 国 立 天文 台地下 に設置 され た全長300mの レー
ザー ビーム用真空 パ イプ
研究紹介
Bフ ァク トリー始動す る
相
原
博
昭
(物 理学専攻)
aihara(Dphys s.u― tokyo.ac ip
高エネルギー加速器研究機構に昨年 6月 完成 した Bフ ァ
ク トリー を使 って研究 して い る。 Bフ ァク トリー とは、
信号 は本当 に正 しい のか、要す るに何かチ ョンボ をや ら
か して いな いのか を、検証す ることである。質量 の起 源
B中 間子 (bク ォー クと反 uま たは反 dク ォー クの結合
した粒子 )を 大量 に (設 計値 で は、年間 100万 個程度
が、我 が検 出器 の「誤作動」 にあってはな らな いのであ
作 り出す ことので きる最新鋭加速器 である。当研究室で
は、この Bフ ァク トリーの ビーム に最 も近 い ところ (ビ ー
る。我々の測定 しようとしている非対称性 は、 B中 間子
の崩壊2000回 の うち 1回 程度 にしか 出現 しない。しか も、
寿命約 1.5ピ コ秒 とい う短 い B中 間子 の一生 の うちで し
ム中心 か ら 3 cm程 度 )に 半導体技術 を駆使 した高精度荷
か起 こ らな い。我々の検 出器 は、 この短寿命 な B中 間子
電粒子検 出器 を持 ち込んで、 B中 間子 が崩壊す る様子 と
が Bフ ァク トリーで生 成 され、崩壊するまでに飛ぶお よ
そ200ミ クロンの行程 を正確 に測定 し、 Bと 反 Bの 生 ま
)
その反粒子 である反 B中 間子 が崩壊す る様子 を詳細 に調
べ、予想 され るわずかな相違 を検出 しよ う としている。
●
一般 に、粒子 と反粒子 は、その電荷 が逆である以外 は、
その振 る舞 い に違 い はない。 が、中性 B中 間子 をよ くよ
く調 べ てみると、 ほんの少 しだけ異 なる振 る舞 い をす る
であろうと予言 されている。 しか も、 このわずかな違 い
は、そ もそ も物質 にどうして質量 が あるのかを説明する、
現代素粒子理論 の根幹 にあるメカニ ズムに関係 して い る
れてか ら死 ぬ までに見 せ るわずかな違 い (崩 壊す るまで
に飛 ぶ距離 の分布 の違 い)を 検 出す るように設計 されて
い る。従 って、 これ までに得 られたデータを使 って、 B
中間子や既 に他 の実験で正確 に測定 されている粒子 の寿
命 が再現 で きるのか、非対称 があるはずのない事象 (コ
ン トロールサ ンプル)を 集 めて、我 が測定器が人為的な
とい うのである。物 理の世界 においては、対称 だ と思 っ
非対称 を作 り出 して い ないか どうかな どを、研究室総動
員 で黙 々 とチェックしているところで ある。
ていた ものが、そうでな い とき、 その非対称 を引 き起 こ
すメカニ ズムを研究す ることで、 より基本的な物理法則
現在 までの ところ Bフ ァク トリーのイ ンテ ンシテ ィー
は未 だ十分 でな く、我 が検 出器 で観測 された、粒子反粒
(原 理)の 発見 に到達す るとい う ことが しばしば起 こる。
粒子 と反粒子 の対称性 の破れ は、質量 の起 源 は何 か とい
う物理の基本問題 を解 く鍵 になる とい うのである。
とは言 え、 この高尚 なテー マ に行 き着 く前 にク リア し
な くてはいけない ことが ある。我がグループが製作 した
検出器 が設計 どお りの性能 をあげてい るのか、出 て きた
子の非対称性 を示すであろう崩壊事象 は、 まだ数事象 に
す ぎない。 目的 とす る崩壊事象 を100個 ぐらい集 めると、
質量 の起 源 の手 がか りが つかめ るはずである。今年 は、
Bフ ァク トリーに とって も、当研究室 に とって も正 念場
である。
●
―-37-―
研究紹介
北太平洋大気海洋系 の 10年 規模変動
中 村
尚
(地 球惑星物理学専攻)
[email protected]― tokyo.ac.ip
数年周期 の エル・ ニ ー ニ ョ/南 方振動
(ENSO)と
い
起 され た と推察 され る。ア が亜 寒帯前線 上空で 強 く発
散 し亜 熱帯 で赤道向 きである事実 は、PNAの 励起源 が
う気候系の最 も顕著 な振 動現象 に強 く影響 される北太平
洋 で、 よ り長周期 の 自然変動 が着 目され始 めたのは10年
程前 である。 70年 代後半以降約 10年 、ア リューシ ャ ン低
気圧が以前 より強 く中緯度北太平洋で広 く海水温 が低 い
中緯度 にあることを強 く示唆す る。 1970年 ころの亜寒帯
前線帯 が平年 よ り暖か い時期 には、ア リュー シ ャン低気
圧 に伴 う西風 も弱 まって海面か ら奪われ る熱が減 る。西
傾 向 が指摘 され、 10年 規模気候変動 (DICE)の 存在 が
示唆 された ①。以来殆 どの研究で は、その原因をほぼ同
風 の弱 まりは、亜寒帯前線 を南 へ横切 る海洋表層のエ ク
マ ン流だけでな く親潮 自体 も弱化 させ 、北方 か ら前線帯
時期 に持続 した熱帯太平洋 の高温傾 向 に求 めた。即 ち、
へ の低温水 の移流 も弱 まる。80年 代半 ばのような寒 冷期
水温の高 まった熱帯 で積雲対流 が活発化 した影響 で、中
にはこれ らの状況 は反転す る。即 ち、付随す る大気偏差
は亜寒帯前線帯 の水温偏差 を維持 。強化す るよう働 く。
緯度北太平洋上空 に特定 の循環偏差 が励起 され、 それ と
伴 に地表 のア リューシ ャ ン低気圧 が強 まって 中緯度海洋
従来 の観測的研究で は熱帯・ 亜熱帯 の変動 と混 同 されが
ちだったが、 こうした複数 の過程 を通 じた正 のフ ィー ド
バ ックの存 在 とア の分布 か ら、 中緯度北太平洋大気海
か ら奪 う熱が増 えたか らとい う解釈 で ある。 これ は、
ENSOの 遠 隔影響 の仕組 をその まま DIαEに 適 用 した
洋系独 自の DICEを 捉 えた もの と考 えられ る。但 し、 こ
のフィー ドバ ックの一部 を成す ところの亜寒帯前線帯 の
解釈 で、中緯度水温偏差 の空 間規模 には大気偏差 のそれ
(1万 km程 度 )が 反 映 され る。 だが、 よ り長 周 期 の
DICEで は中緯度海洋 が よ り主体的な役割 を担 う可能性
水温偏差が如何 にして PNAを 励起 す るかの詳細 は、 そ
もある。 その場合、水温偏差 の空 間規模 は高 々海洋循環
系 の規 模 (数 千施 )で ある
事実、北太平洋 におい
て周期 7年 以上 の水温 変動 は循環系の境界 に当たる海洋
の応答 の速 さや大気循環の内部変動の大 きさが妨 げとなっ
て、基本的な問題 にも拘わ らず、 い まだ明確 に捉 えられ
(2)。
前 線 や 沿 岸 に集 中 す る
(3)。
実 際 は これ ら中 高 緯 度
DICEと は別 に熱帯 DICEが 存在す るので、従来 の よう
に太 平洋全体 に経験直交関数 (EOF)展 開 を施 せ ば、
面積比 の大 きな熱帯 に拡 が る偏差が優先 的 に選択 され、
それに中高緯度の偏差 が人為的 に結合 されてしまう (2)。
そ こで、我 々 は中緯度北太平洋
(3)、
ていない。 また、系 を振動 させ る符号反転 の仕組 につい
て も、現在 までに提示 された諸説 はいずれ も決定的な説
明 とはな つていない。我 々 は、大気 。海洋の数値 モ デル
の結果 も踏 まえて、 これ らを探 究中である。
参考文献
及び熱帯 を含 む
北西太平洋 に限 って周期 7年 以上 の変動 の統計解析 を行
な い (4)、 各 々のケースで最 も卓越 す る変動 として北太
ttθ た Sθ
(1)T.Nitta,S.Yamada:エ ノι
ψαπ,67,375
`.ル
″θ筵 助 6.,
(1989);K.E.Trenberthi B%″ 4%ι 筵ノι
)イ
lイ
71,988(1990).
平洋独 自の DICEを 抽出す ることに成功 した。 これ を特
(2)H Nakamura,T Yamagata:Sθ
徴付 ける三陸沖 の亜寒帯前線帯 (黒 潮 を含 む亜熱帯循環
系 と親潮 を含む亜寒帯循環系 との境 )の 水温変動 は、低
(3)H.Nakamtlra,G Lin,T.Yamagata:B%〃 .42ι 筵
緯度 の変動 とは有意 な同時相関を持 たないことが判 った。
地上 にはア リュー シ ャ ン低気圧 の変動、上空 には PNA
パ ターンと呼ばれる典型的な停滞性大気循環偏差 を伴 う。
これ に我 々が定式化 した ロス ビー 波 の活動度 フラ ック
ス (5)(IIDを 適用 した (3)。 波 の局 所 的群 速度 ベ ク ト
ル と擬運動量 (力 学的保存量 )と の積 に等 しい 7が 発
散す る場所 で は、大気循環偏差 が何 らかの強制 を受 け励
-38-―
″πθι, 281, 1144
(1998).
ソ
Иθ′
ωた Sθ θ.,78,2215(1997).
(4)H.Nakamura,T.Yamagata:in'Bり o%″ E′
Dι
′
αα′Cル 72″ T/α Zα bグ ″″ :A.Navarra
“
ringer‐
ハワπケ
ed.,Sp_
Verlag,p69(1999).
(5)K Takaya,H.Nakamura:Gι
2985 (1997).
θ
クリ s,Rω .Zι
",24,
0
研究紹介
山 内
薫
(化 学専攻)
[email protected]― tokyo.ac.jp
(2)T.Sako and K.Yamanouchi,C滋 %.Pりs.Zι″ 264,
量子力学形成期か ら今 日に至 るまで、分子振動 は分子
分光学 による観測 およびその解釈 に基づ いて理解 されて
きた。そ して これ までの先達 の努力 は、基準振動 に基づ
いた振動力場展 開法 の開発 に集約 される。 しか し、 レー
403(1997).
(3)T.Sako,K.YamanOuchi,and F Iachello,C力
PttS.ι ι
″ 299,35(1999).
ザー分光学 の発展 によって多原子分子 の高振動励起状態
の振動構造が観測 され るに従 い、微小振動 に立脚 した こ
の振動力場展開 モ デル は強 く変更 を求 め らることになっ
vm
(a)
ι物
.
7
8
た。
●
我 々 はこれ まで代数ア プ ロー チ と呼 ばれ る理論 (1)に
着 目 し、高振動励起状態 の複雑 な振動形態 を この理論 に
4
ヾ
0
基づいて理解する努力 を行 って きた。代数アプ ローチは、
原 子 核 物 理 で 成 功 を 収 め た IBM(interacting boson
model)を 基礎 としてお り、 リー代数 の構造 を利用 して
分子の振動ハ ミル トニ ア ンを記述す る。 この方法で はモ
ー ス (Morse)ぁ るい はポ シ ュ 。テ ラー(Poschl‐ Teller)
4̈
0 9a4
な どの非調和振動子 を代数的 に扱 う ことがで きるため、
0) vm=16
非調和性 の影響 が大 きくなる高振動励起状態 に対 して見
通 しのよい記述 を与 えると期待 され る。実際我 々 はこの
代数 アプ ロー チを用 い る ことによって高振動励起状態 の
振動波動関数が容易 に記述 で きることを示 した (2)。
一 方、代数ア プ ローチのハ ミル トニ アンは、分子座標
ざ
を用 いて記述 された従来 の分光学的 ハ ミル トニ ア ンとの
対応関係 が不明確 で あるこ と、 そして、多重項量子数 を
保存す るために共鳴構造 に制限があるという問題点 を持
つ。 これ らの問題点 を克服 す るために我々 は、U(2)代
●
‐
4
0
924
8
数 アプローチを拡張 した「代数的振動力場展開法」 と呼
ばれ る方 法を開発 した (3)。 代数的振動力場展開法 で は、
非調和振動子 の生成・ 消滅演算子 によって定義 された座
標・ 運動量 に相 当す る演算子 を用 い ることによって、従
来の分光学的ハ ミル トニ ア ン との明確 な対応関係 を保持
(C)
しつつ、高振動励起状態 を非 常 に少ない基底関数 を用 い
て表 現す る ことがで きる。図 1に 、代数的振動力場展開
を用 い て実測の振動 エ ネル ギー構造 か ら抽 出 した、S02
ヾ
高振動励起状態 の波動関数 を示す。図 1(a)(c)は 、振
動量子数 の増加 に伴 い S02の 振動 が ノー マルモー ドか
らローカルモー ド的な形態 に変化す ることを示 している。
高振動励起状態 にお ける多原子分子 の振動形態 を知 る
ことは、化学反応素過程 を理 解す る上で不可欠である。
Ca
図
分子固有 の代数論 的構造 に着 目す るこの代数 アプ ロー チ
の重要性 は、今後広 く認識 されてい くもの と思われ る。
参考文献
ろη″ 励ι
θη グ
(1)F.Iachello and R.D.Levine,4な ι
%θ ″
as(Oxford University,Oxford,1995).
`%′
―-39-―
1
S02の 振動波動関数 :縦 軸、横軸 は無次元 S-0伸 縮座
標 を表す。 また vmは 多重項量子数 を表す。
研究紹介
生体分子 と計算
坂
本
健
作
(生 物化学専攻)
[email protected]― tokyo.ac.jp
生体分子の特徴 は、とりわけ複雑 で精密 な構造 にあ る。
このよ うな構造 はどうやって作 られ るのだろうか ?一 般
に、構造体 に必須 な要素 は「素材」 であ り、そ して「計
算」 である。 これ は人工 的 な建造物 を考 えてみると良 く
わかる のだが、建物 の建造 には、各部品の規格・ 強度 を
揃 え、必 要量 を見積 もり、全体 の強度 に至 るまで様 々な
計算 を行 う ことが必要 である。 また、素材 を加工 し、部
A.
品 を組 み立てるプ ロセ ス は、計算結果 の「実装」 で ある
と言 えるだろう。 これをその まま生体分子 に当て はめる
と、 どうなるだ ろ う ?DNAや RNA分 子 はヌクレオチ
ドが、 タ ンパ ク質 な らばア ミノ酸 が直鎖状 に結合 したポ
リマーで あ り、 2本 鎖 DNAの 規則的 な二 重 らせん構造
以外 は、1本 鎖が複雑 に「折 り畳 まる」 ことで構造 を形
成す る。ヌク レオチ ドやア ミノ酸 が「素材 Jで あるな ら
ば、 この「折 り畳 み」のプ ロセス は、 まさに「計算」 に
等 しい。だ とすれ ば、 このプ ロセ スか ら計算力 を引 き出
し、数学的な計算 に利用 で きるか もしれない。
この ような考 えか ら、情報科学専攻 の萩谷研究室 と共
同研究 を行 い、充足可能性問題 の簡単 な一例 を、一 本鎖
DNA(ssDNA)の 「折 り畳 みJに よって実際 に解 くこ
とに成功 した。計算 スキームのポイ ン トは図示 した。塩
基配列 によって「変数」 をコー ドして数学的計算 に利用
(DNAコ ンピュー タ (1))
L.Adlemanよ って創始 され
す る とい う計算 パ ラダ イ ム
は、計算機科学者 である
た (1994年 )。 彼 の発 想 の原 点 は、DNAを 、情報 を記
録 したテープ と見 な し、情報処理 の主体 には酵素 (タ ン
パ ク質 )と い う一種 のナノマ シーン を持 って くる ことで
ある
(2)。
筆者 らの研 究 は、DNAが 単 な る記 録 テープ
で はな く、計算 を実行す る主体 に もな り得 ることを示 し
てい る。ssDNAの 折 り畳 みによる「 計算」 は、比喩 で
もな く、単 な る解釈 で もな く、「 どの ような種類 の問題
で、 どの程度のサイズの問題 を解 くことがで きるだけの
計算力 であるか ?」 とい う具体的な議論が可能な対象 に
なった。
1)「
DNAコ
グ
,A
ンピュー ター (G.パ ウン ,G.ロ ーゼ ンバー
サ ローマ著 )」 (シ ュプ リンガー・ フェアラー
ク東京 )は 、今 の ところこの分野 のまとまった唯一 の
解説書 である。
2)日 経 サイ エ ンス1998年 11月 号「DNAコ ンピュー ター
が数学 の問題 を解 い た」 (L.Adleman)
―-40-
図
「文字列」中の「文字Jど う しの照合 を、ssDNAが 二次
構造 を形成する (折 り畳 まれる)こ とによつて行 う。矛
盾 した文字 の組み合わせ を持 つ文字列 を除 くことで「解」
を得 ることがで きる。「文字」 とは「変数 (x)」 、および
その「否定 (¬ X)」 の ことで あ り、文字列 は決 まつた
ルールによつて生成 されるが、 ここで は 2例 示 した。変
数 とその否定 のペ アを、相補的な塩基配列によつてコー
ドする ことで、矛盾 を含む文字列 はヘア ピン構造 を形成
す ることになる (B)。 無矛盾 の文字列 はヘ ア ピンを形
成 しない (A)。
研究紹介
生殖腺刺激ホルモン放出ホルモンの新しい生理機能を求めて
朴
民
根 (生 物稽
専攻 )
biopark@bi01 s.u‐ tokyo.ac.jp
生 殖 腺 刺 激 ホ ル モ ン 放 出 ホ ル モ ン (GnRH,
llaで 発現 され、卵胞 の成熟 に伴 い その発現 も強
原始卵胞
なるペ プチ ドホルモ ンで、脳下垂体 における生殖腺刺激
ホルモ ン (GTH)の 分泌 を促進 し、脊椎動物 の生 殖活
検出 されないが 、前胞状卵胞 (preantral follicle)と 初
期 の胞 状卵胞 (early antral follicle)に なる頃か ら検 出
動 に重要 な役割 を果 たす重要なホルモ ンとして命名 され
た。 しか し研究 が進 むにつれ、GnRHは 視床下部 のみ
ならず生殖腺 。乳腺、胎盤などの生殖関連器官 をはじめ、
で きるようになる。 その後、成熟 に伴 い その発現量 は多
副腎、視床下部以外の脳・ 免疫系細胞・ 網膜 そして膵臓
な ど幅広 い器官で分泌 されていることが明 らかになって
●
くなる。
gonadotropin― releasing hormone)│ま ア ミノ酒
変101]か ら
きた。 この よ うな結果 は GnRHが 脳下垂体以外 の器 官
で何 らかの新 しい生理的機能 を担 なって い る可能性 を示
唆 して い る。
GnRHを
(primordial follide)か らは受容体 の発現 は
くな り、主 に外側 の顆粒膜細胞 で発現 が見 られ、内側 の
顆粒膜細胞 と卵丘細胞 で は発現が見 られな い。一 方、閉
鎖卵胞 で は卵胞 の発育段階 とは関係 な く顆粒膜細胞で大
量 の発現 が検出 され る。正 常 な卵胞 の丈膜 細胞 (theca
cell)で はた まに弱 い発現 が見 られ ることもあるが、閉
鎖卵胞 の奏膜 細胞 で はより強 いの発現 がみ られ る。 また
このよ うな閉鎖卵胞か ら由来す ると思われ る間質細胞 か
は じめ とす るホ ルモ ンはその受容体 を通 じ
らも GnRH受 容体 の発現 がみ られ、GnRHは 卵胞 の正
てのみ生理 的機能 を果たす ことがで きる。多様 な組織 で
常な発育 のみな らず、閉鎖過程 に も深 く関与 して い るこ
とが示 唆 されている。
発現 されてい る GnRHが どの ような生理 機能 を持 って
いるか を解明するには受容体側 か らの研究 も必要 となる。
近 年 GnRH受 容 体 の mRNAが ク ロー ニ ン グ され、
GnRH受 容体 も脳下 垂体・ 生 殖腺・ 副腎・ 脳 な どの様
々な組織 で発現 されてい ることも確認 された。現在 まで、
in situ hybridizationに よ りその発現 の部位 が最 も詳 し
く調 べ ることがで きたのは卵巣 である。
卵巣 で GnRH受 容体 を主 に発現 して い る部位 は卵胞
である。正 常 な卵胞 での GnRH受 容体 は主 に顆粒膜細
以上 の よ うに GnRHは 脳下垂体 での GTH分 泌 とい
う生理機能以外 にも、生殖腺 をはじめ とす る様 々な組織
でその受容体 を通 じて未知 の生理 的役割 を持 っていると
思われ、今後 その生理 機能 と機構 の解明が待 たれ る。 ま
た、C」 nRH受 容体 を発現す る組織 の多様性 は GnRH情
報伝達系の起源 と進化 の研究 にも重要 な糸 口を提供す る
もの と考 えられ る。
●
―-41-―
研究紹介
体性 ボルボ ックス ロの 系統学的研究
ボ ルボ ックス は どの よ うに進化 したのか
:
野
崎
久
義
nozaki(Dbiol.s.u‐
tokyo.aclp
群体性 ボルボックス ロ は淡水産 の緑藻類 で、 クラ ミド
モナス型の 2鞭 毛性の細胞が定数個集合 した群体 をもち、
引用文 献
“ボルボ ックス傾向 "と 呼 ばれ る “細胞 が遊泳性 のまま
で細胞数 が増力日
す る傾向 "を もつ代表的 なグループであ
Kirk,D.L.1998.レ b″ οχ:A/1olecular
Genetic Origins
of A/1ulticenularity and Cellular Differentiation
.こ
れ らの生物群 で は細胞数 の増加 と共 に非生殖細胞
の分業化及 び有性 生殖 の異型配偶化 が認 め られ るので進
化生物学的に非常 に興味深 い (Kirk 1998)。 伝統的な進
(生 物科学専攻)
Cambridge Univ.Press,Cambridge.
る。
Nozaki, H. and ltoh, A/1. 1994. Phylogenetic rela―
tionships within the c010nial Volvocales(Ch10-
χはその ような進化系列 の末端 に位
化仮説 で は、 力 わθ
ように小 さな非
置 し、 その直前 の生物 として 力 わ
rophyta)inferred from cladistic analysis based on
生 殖細胞 が 分化 した Rの あ″%α 、非生殖細胞 の分化 し
て い な い a〃 ″物αが 通 常 考 え ら れ て い た。 こ の
“ボルボ ックス傾 向 "の 具体的進化 の道 筋 を明 らか にす
Nozaki,H.,Ohta,N.,Takano,H.and Watanabe,M.
"の
morphological data.
ⅣI.1999. Reexanlination Of phylogenetic relations‐
hips Mバ thin the colonial Volvocales(ChlorOphyta):
an analysis of αヵ
ウ
B and 乃
`L gene sequences J.
るために我 々 はこれ らの生物 の生殖過程 並びに栄養群体
等 の合計41組 の形態 的形質 を基 に、分岐系統学的解析 を
実施 した (NOzaki&Ito 1994)。 その結果、3扉 ンシα
か ら 2の あππα、 力 わ
の
が 1個 解
"へ 漸進的進化系列
ι は群体性
析 された。 また、 4細 胞性 の 動 π蒻%"θ 勿′
J Phycol.30:353-365.
Phycol.35:104-112.
野 崎久義 .2000,「 緑 藻類 の多様 性 と進 化 ―群体性 ボル
ボ ッ クス ロ」、 岩 槻 邦 男・ 加 藤 雅 啓 (編 )、 「 多様 性 の
植物 学 」第 2巻 、東大 出版 会 。
ボルボ ックス ロの最 も基部 に位置す る原始的な生物 で あ
ると示唆 された。従 って G sθ
ル を基 に新組 み合わ
せ ル 劾 αι
παsθ θ
勿施 と新科、 テ トラバエ ナ科 (Tet_
`カ
rabaenaceae)を 提案 した。推測 された これ らの系統関
係 を客 観性 の高 い DNAの 塩基配列 のデータによる検証
のため に葉緑体 蛋 自質 コー ド乃
伝子 お よび α″B
`L遺
遺伝子合計 2256塩 基対 のデータを用 い た分子系統学的
解析 を最近我 々 は実施 したが、テ トラバエ ナ科 の系統的
位置等 は これ らのデー タで は高 い信頼度 で支持 または否
定す ることがで きなかった (Nozaki et al.1999)。 従 っ
て、ク
伝子 1494塩 基対、ク能A遺伝子 1491塩 基対、
"B遺
L― α
クsbC遺 伝子 780塩 基対 を めθ
ttB遺 伝 子 に更 に付加
した計 6021塩 基対 に基づ く47種 類 の系統解析 を実施 し
た (Nozaki et al.in submission,野 崎 2000)。 その結果、
1994年 の形態学 的デ ー タに基 づ く系統解析 と同様 にテ
トラバエ ナ科 が他 の群体性 ボルボ ックスロの基部 に位置
す る と高 い信頼度 を伴 つて示 唆 された。 また、 このよ う
な塩基配列データでは 乃 加 は 2個 の系統群 に分離 し、
片方 の系統群 の 中 で Rι あり物αの一 系統群 が退 行進化
の結果生 じた可能性 が示 唆 された。実際 の進化系列 で は
平行進 化 で 力 あ
複 数 生 まれ、 そ の 中 か ら3の ‐
"は
"も あ る らし
め劾
"が 生 まれ る “逆 ボル ボ ックス傾 向
い。 ようや く系統解析 の研究 が終了 しそうである。 しば
らく塩基配列の決定 だけに時間 を費や した為、実際 の生
物 を忘れて しまったようで もある。
―-42-―
路銘路
●
︱︱卜∞︱︱
同形配偶
●Hcln」 Jomonar
同形配偶
Oo…
〃
Pan● ―
…
同形配偶
群体性ボルボックスロの系統
喫
異形配偶
ndOrana
異形配
Q
卵生殖
●
7otJox t― l― g Sect.7olooxl
異形配偶
葉緑体ゲノム psaA― psaB― psu… atpB― rbcL遺 伝子 6021塩 基対か ら推測された
0
劇 凝譴 ↓
研究紹介
地震発生 帯 の深海掘削
芦
寿 T郎 (地 質学専攻 )
tokyo.acjp
[email protected]‐
1995年 の兵庫県南部地震以降、その震源 となった野島
断層 をはじめ、日本各地 で活断層 の掘削が盛 んに行われ、
プ レー ト内地 震 の震源付近 の物理化学条件や岩石物性 の
研究が進 んでいる。 トラ ンスフ ォーム断層 であるサ ンア
ン ドレアス断層 で も、掘削 による震源付近 の岩石採取 。
地震観測が実施 されている。一 方、 プレー トの沈み込み
面 の粘 土鉱物が脱水 し強度 が増加す ることによ り、そし
て深部で地震が起 こらな くなるのは、温度上昇 による塑
性流動 の開始 によるとした。 これ は現在 の ところ仮説 に
す ぎないが、温度 が地 震発生の重要な要因 となっている
可能性 は高 い。
境界 で は、前弧域 の構造発達 の解明 な どを 目的 とした浅
い掘削孔 は数多 いが、地震発生 に関 して直接 に議論 で き
地震発生帯 の掘削地点 は、地 下 の構造 が詳 し く調 べ ら
れてお り、か つ現在 お よび過 去 の地 震活動 が よ く分 かっ
ている必要がある。 このよ うな条件 に当 てはまる地域 と
るものはない。現在、海洋科学技術 セ ンター を中心 に計
画・ 建造が進行 しつつ ある「地球深部探査船」 を用 い る
しては、地震 の活動履歴 を示す古文書 とともに、物理探
査 データが充実 している東海沖 か ら四国沖 の南海 トラフ
と、地震発生帯 の掘削 も可能 となる。
プレー トの沈み込み境界 におけ る巨大地震 が、 どの よ
が挙 げられ る。 ところで、沈み込み帯 は、強 い側方応力
下 にあ り掘削子Lが 崩壊 しやす く、炭化水素ガ スや流体 の
うな条件下で生 じているのか、 また破壊す る岩石が どの
異常水圧の存在 が推定 される。建造計画中の掘削船では、
これ らの問題 を解決するライザーシステムが導入 され る。
よ うな ものであるのか を知 るには、実際 に岩石 を回収す
る とともに現場 で各種 の観測 をす る必要が あ る。「地 震
ただ し、技術 上 の問題 か ら、当面 は水深2500m以 浅 か ら
の発生帯 が どこで あるのかJに ついては、 Hpdmanら
による一 連 の研究 が あ る。彼 らは、南海 トラフ・ アメ リ
カ西海岸 な どの温度構造 と地震の分布 の関係 を調 べ 、地
掘削 しな くてはな らず、地震発生帯 に到達す るには、実
に海底下 6000m以 上の掘削が必要 となる。現在、 このよ
うな技術的制約 の もと、地質学 。地球物理学・ 地球化学
震 の発生領域 が ある温度範囲 (約 100∼ 350° C)で ある こ
とを指摘 した。地震 の発生開始 は、プ レー ト間 のす べ り
の研究者 が集 まり掘削地点の選定 を行 っている最中 であ
る。
0
世界 の代表的な沈み込み帯の断面 と掘削地点。掘削孔上の数字 は国際深海掘削計画 (DSDP,ODP)に よる掘削点番号。深海地
球 ドリリング計画 (OD21)に よる地震発生帯の掘削予想図を中央 に示 す。
-44-―
研究紹介
塵 に取 り囲 まれた地球
五十嵐
丈
二 (地 殻化学実験施設 )
[email protected]― tokyo.ac.jp
地球 は、46億 年前 に原始太陽系星雲 の中で塵が集 まっ
て出来 た とされている。我 々 は、希 ガス同位体比 を手掛
か りとして、その出生の秘密 を探 る研究 を行 なってい る。
あ る。
岩石 の中 には、 ご く僅 かに希 ガスが含 まれて い る。た
とえば、ネオ ンランプな どに充填 されて い るネオ ンとい
地球 は過去 に、大量 の塵 に取 り囲 まれて いた ことが あ
るに違 い ない。 この「塵」 は、 隕石 と同 じネオ ン同位体
う希ガ スは、海洋地殻 を構成す る玄 武岩 に、主成分元素
のシ リコンや酸素 な どに混 じってお よそ十兆分 の一 の割
上ヒを持 つ と考 えられ る原始太陽系星雲中 の もともとの原
材料 の塵で はな く、星雲 ガスが晴れ上がって太陽風 の照
合 で含 まれて い る。地球人 口の一万 倍 のなかの、 たった
数人 がネオ ンで ある。
射 を受 けた塵でなければな らない。
大量 の塵 はどのようにして出来 たのだろうか。
ネオ ンは、質量数 20、
●
降下 している宇宙塵 が 同 じ割合で、地球が出来てか ら46
億年間降下 した とした量 の数千倍 とい う、膨大 な もので
21、
22の 3つ の 同位体 か らな
る。質量分析技術 の飛躍的な進歩 によ り極微量 の希 ガス
同位体分析 が可能 にな り、玄武岩のネオ ン同位体比 が地
球大気 の値 とは異 なることが発見 された。 このネオ ン同
位体比 の謎解 きが始 まったのは、十年 ほど前の ことで ある。
大気 中 のネオ ンの20 Ne/22Neは 9.8で 、太 陽 (太 陽
風 のネオ ン を計測 した値 )は 13.7で あ る。 デー タが増
えるに つ れ、地球深部起 源 の玄 武岩 や ダイアモ ン ドの
20Ne/22Neは 9.8と 137の 間 を埋 め尽 くす よ うな様 々
な値 を取 ることがみえて きた。岩石試料 には大 気成分 に
よる汚染 (コ ンタ ミネーシ ョン)が つ きものである。地
球深部 のネオ ンは太陽 と同 じ同位体比 を持 ち、様 々な割
合 で大気 の汚染 を受 けた岩石試料が我 々の手 にもた らさ
地球集積 の最終段階 で、巨大衝突 によって原始地球 の
一音
『 が はぎ取 られて月が形成 された とい う説 (ジ ャイア
ン ト・ イ ンパ ク ト説 )が ある。 このよ うな大規模 な衝突
が あった とすれば、大量 の岩石 が2000度 以上 に力日
熱 され
て蒸発 して しまう ことが、 シ ミュレーシ ョンで示 されて
い る。蒸発 した岩石 の冷却、再凝縮 の過 程 で、大量 の塵
が生成 され る。 マ ン トルの ネオ ンは、 この イベ ン トを記
録 して い るのか もしれない。
ゴ ミ箱 の隅 か ら隅 まで丹念 に調 べ上 げてようや く探 し
当 てた、大事件 の犯人 の決 定的 な証拠 。「え―、私 はあ
なたに最初 にお会 い した ときか ら、わ か つて ました。」
探偵小説 のようにいつ もうま くい けばいいのだが。
れ るのだ と、誰 もが考 えた。 これ は、「太 陽ネオ ン仮説」
と呼 ばれて いる。
ところが、 はな しはそう単純 で はない のである。我 々
は、ネオ ン同位体比 のデータベ ースを作成 し、 その ヒス
トグラム を描 いてみた。 それ は、図 のように奇妙 な分布
を示す。 これ を、大気 と太陽 (太 陽風 )の 2成 分 の単純
な混合で説明する ことは難 しい。
この分布 を複数のガウス分布の重ね合わせで表す と、
図 に示す 3成 分 モ デルが最適 で ある ことが わかる。面 白
い ことに、大気成分 (9.8)に 対応す るピー ク以外 の 2
つの ピー クは、始原的隕石 に特徴的 な成分 (10.7)と 、
宇宙塵のネオ ンの平均値 (12.1)と 一致 している。 これ
が偶然 であるとは考 えに くい。
宇宙塵 は大 きさ数 ミクロンか ら数 十 ミクロンの微粒子
で、深海底 の堆積物 な どに混 じって ご く稀 にみつか る。
宇宙塵 に含 まれているネオ ンは、宇宙空間 をさまよって
い る間に太陽風 のネオ ンが埋 め込 まれた ものである。 そ
のネオ ンが表面か ら拡散で失われ るときの分別効果 な ど
のため に、20 Ne/22Neは 隕石 とも太 陽風 とも異 な る固
有 の同位体比 を持 つ ようになる。
マ ン トルの広 い範囲 に宇宙塵起源 のネオ ンが あるとす
9
10
11
12
13
14
15
20Ne/22Ne
代 表 的 な マ ン トル起 源 物質 で あ る、 MORB(中 央海嶺 玄 武
岩)、 01B(海 洋 島玄武岩 )、 ダイヤ モ ン ドのネオ ン同位体 比
の積算 ヒス トグラ ム。 曲線 は、最小 二 乗法 で決 めた 3成 分 の
重ね合 わせ モデル。
ると、そのネオ ンを供給す るために必要な宇宙塵 の量 は
ログラム程度 と推定 で きる。 これ は現在 の地球 に
1019キ
―-45-一
研究紹介
木 曽観測所
2k CCDカ
メラ
吉 田 重 臣 (天 文教育研究 セ ンター)
yoshidaOkis。 .su‐ tokyolac.jp
天文学教育研究 セ ンター木 曽観浪1所 は105cmシ ュ ミッ
よ り100%に 迫 る ものが入手 で きるようになってい る。
ト望遠鏡 を擁 し全 国共 同利用施設 としてさまざまな天文
このような検 出器 を用 い ることによ り、写真乾板 のお よ
そ20倍 の光量 が得 られ るわ けで、 これ は望遠鏡 を約 4.5
倍大 きくした ことに相当す る。
この よ うなわ けで木 曽観 演1所 で も CCD素 子 を観演1に
現象 を対象 として観測業務 を行 なって い る。 シュミッ ト
望遠鏡 は、通 常 の反射望遠鏡 で用 いる放物面鏡で はな く
球面鏡 を主鏡 とし、筒先 に 4次 曲面 の補 正 レンズ を置 い
て球面収差 を補 正す る光 学系構成 になっている。通常の
用 い るようになった。 CCD素 子 の泣 き所 はその大 きさ
が シュ ミッ ト望遠鏡 の有 効焦点面面積 に比 べて はるかに
放物面鏡 で は収差 のない撮像範囲が30分 角程 度 (お おむ
ね月 の大 きさ)で あるのに対 し、 シュ ミッ ト望遠鏡で は
小 さい点 にある。本 曽観濃1所 で 当初用 いてい たものは 1
6度 角四方の広 い範囲 にわたって良好 な恒星像 が得 られ
cm角 でわ ずか12分 角四方 を見 ることしかで きなかった。
る。望遠鏡焦点距離 は33001nlllで 、焦点面 での像 スケール
は、62.6秒 角/11ullで ある。 したが って、有効焦点面 はお
しか し、 この問題 も近年 で は大型の素子が製造 され るよ
よそ36cm四 方 となる。 このようなシュ ミッ ト望遠鏡 の視
野 が広 い とい う特徴か ら、各種天体 の探査 に主 として用
い られ てい る。
1974年 の望遠鏡設置以来、観測 は36cm角 の特殊大型写
真乾 板 を用 いて行われて いた。微光天体 の検出 を目的 と
す る ことか ら、超 高感度 の乾板 にさらに増感処理 を施す
のだが、 それで もいわ ゆる量 子効率 は数 %に 満たない。
すなわち、望遠鏡で集光 した光の 9割 以上は使われずに
これに対 し、近年急速 に普及
逃がしていることになる。ヽ
している CCDを 代表 とする団体撮像素子では、低価格
のものでも量子効率は50%を 越え、さらに技術 の進展 に
うになって解消 しつつある。 現在 は4811ull角 02048× 2048
画素の素子 を用 い たカメラを製作 して実際の観測 を開始
している。 これにより、太陽系外縁部天体・ 宇宙初期 に
誕生 した恒星 。遠方銀河な どさまざまな天体 の野心 的な
探索観測 が緒 についた ところで ある。
シュミット望遠鏡の広 い視野 を生かす別の手法 として、
光 フ ァイバ ー を用 い た多天体分光観 測がある。 これ は、
焦点面上 の多数 の天体 の位置 に集光 口を置 き、その光 を
光 フ ァイバ ーを通 しひ とまとめにして分光器 に送 り、 こ
れ ら天体 のスペ ク トル を一度 に得 るとい う考 えである。
現在 オース トラ リア UKシ ュ ミ ッ ト望遠鏡 との共 同製
作計画 を進 めて い る。
冷却 用 クライオス タッ トに納 め られ た2048× 2048画 素 CCD素 子。 これ にのぞ き窓のつ い た、
、
ヽ
た を し、望遠鏡 焦点部 に設 置 して
観 沢1す る。
-46-―
●
《
名誉教授 よ り》
日本 の教育行政・ 教育政策
海
国 の文教行政で教育 がか えってゆがめ られて い るよう
な気が して い る人が少な くない。教養課程 を専門課 程 に
取 り入れて強化す る施 策 が教 養 つぶ しとな り、人間教育
れが逆 になると、改善策 は逆効果 になるので ある。 自己
教育 が教育 の中心 であるべ きである ことは、個人 の場合
(名 誉教授)
し、経済的支援 を送 ることが新時代 の日本 の教育 の原点
となるべ きである。
差値重視の詰め込み教育 を止めて、自由な時間を増や し、
目にみえている。教育の改善が 自発的な動 きの中で行わ
れ、文 部省 がそれを支援す る形 であればよいのだが、そ
和 三郎
対 し自己の能 力 の限 りを尽 くして立ち向か う意欲 を持 っ
てる。 こうした全人類的な教育 の動 きを国是 として結集
の場が多 くの大学特 に私立大学 か ら大幅 に失われた。偏
総合的な教育 をめざす「 ゆ とり」 の教 育 が、大幅な学力
低下 とな り、 日本の将来 に暗 い陰 を残すであろうことは
野
現在 の文部省 の文教政策 のゆがみは、以下 の抜粋す る
福 岡大 中野 三敏教授 の所論 (読 売新 聞 9。 14「 論点」)
を見て も明 らかである。「ほ とん どの国立大学 の文 学部
か ら哲 学科・ 史学科 。文学科 とい う名称 が消 え、代 り
に人 間 。行動・ 情報 。国際な どの複合学科名 となってい
る。J「 国立大学文学部予算 は、まさに疲弊 しきっている。
で も、社会 や国の場 合 で も同 じである。
そのため、研究教育 の根幹 であ り、何 はさてお き買 い整
えるべ き書物 を、年間刊行点数 の十分 の一 も買 えない状
しか しなが ら、教 育 は一 国 の運命 を左右す る重大事業
であるか ら、国が文教政 策 に力 を注 ぐことは当然 であ り
況 が既 に十数年 も続 いてい る。」「 この国 の場 合、予算策
定 の方針 は土木事業 も文教政策 も同 じで、前年度 と較 ベ
必要不可欠である。か くして、国 または社会 の教育 と個
人 や教育の場での自己教育 とのパ ラ ドックスが生 じ、同
様 に日本 の教育 と人類 の教育 のパ ラ ドックスが生ずる。
て妥当な変化 があれば変 え るが、 そ うでなければそのま
まとい うもので、そのため もろもろの改革案 が絞 り出さ
視点 の違 い によるそうしたパ ラ ドックスの構造 は、 自己
言及 のパ ラ ドックスに端 を発 し、ゲ ー デル によって論理
の不 完全性 として定式化 され、荘子 によって人生哲学全
般 に広 げられた。その構造 は、個人 と全体 の間 にあ り、
人間性 に於 い ては感性 と知性 との間 にもあ り、生命 に対
して科学 と宗教の間にもある。 この構造 を深 く理解す る
ことなしに、対症療法的な処理や即時的な効率 の追求で
教育 を処理 しようとす ると大 きな過 ちを犯す ことになる
のである。
国立大学 の独立法人化 は、国家公務員定員削減 の帳尻
を形式的に合 わせ るとい う政治的な目的か ら端 を発 しい
つの まにか強行 され ようとしている。大学 が 自主性 を発
揮 して社会 に貢献 し、独 811性 を発揮す るには独立法人 と
なる方が よい とい うのが表 向 きの理 由で、大学 を法人化
す る ことによ り行政 が コン トロール し易 くす るのが裏 に
ある意図であろう。 そこには21世紀 の人類 の危機 に立ち
向 かお うとする国家 としての倫理観 でな く、 日先 の経済
政策 を百年千年の全人類 の問題 よ りも優先 させ る効 率主
義的短絡 が ある。蓮実総長が、「 日本 には高等教育政策
がない。あるのは高等教育行政だけです。高等教育行政
が高等教育政策 をスポイル して きた。J(論 座 2000.2)と
い う理 由である。確 かに、世界 中の どの大学 も本来 の使
命 である未来志向 の教育体制 を十分 に 自覚 しているとは
言 い難 い。 しか し、 それ を不純 な動機 で外 か ら強要 して
れ、一見内発性 に基づ き、外見上か らも見 え易 い名称変
更 とい う便法が生み出 された。 だが、 ものには変 えた方
が よい もの と変 えてはい けない ものがある。文学部 の学
問領域 な どは後者 の最 たるもので はないのか。」「人文学
は 自然科学 。社会科学 。人文科学 を統合す る基礎 学 なの
であ り、 そしてそれ こそが 、文学部 の学問 の真の姿なの
だ。」「わが 国 の高等教育 へ の公財政支出の対国民所得比
は英 、独、米、 の約半分 と少 な く、 (註 :た だ し、政財
界 に伝わ っている公的資料で は、わが国 の場合 のみ公務
員給与 が加算 されて いて、諸外国 よ りむ しろ多 くなって
い る。)し か も文系基礎 学 は民 間資金 の導入 も難 しい。
独立行政法人化 の問題 で も、 この視点 か らの議論 こそが
是非 とも必要であろう。」
新 ミンニ アムにあた り、 日本の文教政策 を再編す るに
は、大 きな人 類 危機管理 の哲学 が まず必要で あ る。縁
(仏 縁 )に 始 まる宗教
と因 を追求す る科学 とを大 きく感
つ
応 道 交 させ る道 を けた玉城 康 四 郎名 誉 教授 の哲 学
(「 悟 りと解脱」宗教 と科学 の真理 につ いて、宝蔵館 )
が極 めて重要な意味 を持 っている。 また、科学技術 の発
展 に伴 って生 じた、 これ までに考 えられた こともない技
術連関 の新 たな倫理 を、企業や国家 に要求す る今道友信
名誉教授 の「生 圏倫理」エコエ テイカ (講談社学術文庫 )
は、将来世代 との感応道交 (エ ムパ シー)で あって、 こ
れな くして新 ミレニ アムの文教政策 は語れない。 こうし
た世紀 を超 えた地球規模 の大 きな哲学 と自然科学社会科
も結果 はかえつて悪 くなる一方である。 それ よ りは、政
府 はすべか らくか つ ての越 後長岡藩 の米百俵の故事 にな
らい、今 こそ苦 しい国家予算 を文教政策 に投ず る施 策 を
学情報科学生命科学の原理的先端的発展技術的発展 とを
結 び付 ける決意 を持 って、新 たな日本 の文教政策 を進め
ていかなければ 日本のみな らず人類 と地球生命 の明 るい
とるべ きである。大学人 の多 くは、人類未曾有 の危機 に
未来 はな いのである。
―-47-―
1999年 11月 25日 、12月 16日 、2000年 1月 25日 に小 間研
究科長、植 田事務長 と理学部職員組合 (理 職 )と の間 で
定例研究科長交渉 が行われ た。主 な内容 は以 下の とお り
△ロ
理学系研究科長 (理 学部長 )と 理 学部職員組
との交渉
との見通 しを述 べ た。理職 は技術専門官、技術専門職員
の選考 の時期 であるので、基準 に達 している職員 の推薦
を要望 し、補佐 は技術委員会で検討 して推薦する と答 えた。
である。
図書職員
1.昇 格改善等 について
11月 、 12月 の交渉 で理職 は行 (二 )採 用な どによ り 5
11月 の交渉 で理職 は今年度 の特昇 につ いて配布予定 を
級昇格が遅れている図書職員 の早期昇格 を重ねて訴 えた。
1月 の交渉で理職 は、 2000年 度 の昇格要望書 を手交 し、
尋ねた。事務長 は 7月 1日 に遡 り、 12月 発令、全部 で62
名 で ある と答 えた。
特 に上 記 5級 要求 の職員 について は来年度 には文部省 の
5級 昇格選考基準 を完全 に満 たす ので、最低限今年 の 4
11月 の交渉 で理職 は12月 のボーナス時の勤勉手当 (成
月 での昇格 を訴 えた。事務長補佐 は基 準 を満たすのであ
れば問題 ない と答 えた。理職 は昇格要望書 にある全員 が
績率 )に ついて、98年 6月 期 か ら数 えまだ0.7の 配分 を
得 ていない職員 について、必ず配分す るように重ねて要
求 した。 事務長 はその予定 だ と答 えた。 (12月 には要望
どお りに該 当者 へ の07の 配分 が確認 された。 )
推薦 され るのか尋ね、事務長補佐 は推薦基準 を満た して
い る人 は例年全員上 申 して い ると答 えた。
2.独 立行政法人化 について
事務職員
11月 の交渉で理職 は、本部 と事務長 との間 で行われた
11月 の交渉 で、理職 は独立行政法人化 (独 法化 )の 間
事務官の昇任等 の ヒア リングについて状況 を尋ねた。事
務長 は、 11月 18日 に人 事異動関連 の ヒア リングがあ り、
題 をめ ぐる学外の状況 について尋ね るとともに、独法化
は大 学 には馴染 まな い と主 張 した。科長 は、 この間 の経
昇任人事 についてお願 い した と答 えた。理職 は組合 で要
求 してい る職員 も含 まれてい る ことを確認 した。
12月 の交渉 で理職 は、人事院 と文部省 が学科事務 へ の
過 を説明 し、大学側 として は11月 10日 に国立大学理学部
長会議で声明 を出すな どの努力 をして い ると述 べ た。 ま
専門職員配置 は困難 との見解 を明 らかにした点 について
全国大学高専教職員組合の文書 を手交 して、今後 の理学
部 当局 の方針 をただ した。科長 は理学部 として は学科事
務 の必要性 を認 め、構成 メンバ ーが納得すれば、組織替
えも念頭 に待遇改善 を図 りたい 旨を答 えた。
11月 、 12月 の交渉 で理職 は事務主任 の 6級 昇格 につい
た、高等教育機関 と通貝J法 は馴染 まない と述 べ た。 12月
の交渉で、理職 は、労働法 の専門家 か らみて も通則法 は
問題 が 多 い ことを指摘 した上で、理学系研究 科 (理 学部 )
として独法化 に対す る意思表示 が必要で はないか と主 張
した。 また私立大学 も含 めた高等教育全体 をどうす るか
という視点が重 要 で ある と指摘 した。科長 は、 さまざま
な形で大学外 へ の情報発信 に努力 して い ると述 べ た。 ま
て、早期実現 を訴 え、事務長 は取 り組 んでいると答 えた。
1月 の交渉 で は、文部省 が昨年 か ら大学 に退職 2年 前 の
た、安 い授業料で高等教育 を受 けられ る仕組 みは残すべ
きだ と述 べ た。 1月 の交渉 で、理職 は、東大 お よび理 学
掛長 の 6級 定数 を配布す るようにな り、東大当局 もその
方針であ り、該 当者 は来年度 で退職 2年 前 になることか
ら、理学部 で も早期 に実施 してほ しい と要望 した。事務
部 の今後 の対応 につ い て尋ねた。科長 は、教官集会な ど
で教授会 メンバ ーの意見 をふ まえた上で対応 して い きた
い と述 べ た。 また、独法化 をめ ぐる状況 は流動的な面が
長補佐 は具体的 な情報 は得 て い ない と答 えたが、科長 は
事務長 に引 き続 き努力 をお願 い した い と答 えた。
あると述 べ た。
3.積 算校費 について
技術職員
1月 の交渉で理職 は、2000年 度 の昇格要望書を手交 し、
特 に 5級 昇格要求 の うち、高度 な技術 を評価 されて民間
企業か ら協議採用 された職員 が 、職務 内容 は行 (一 )で
あ りなが ら行 (二 )で 採用 とな り、中途採用な どを理 由
として同年齢 の技術職員 に比 べ著 し く昇格 が遅れている
技術職員 について訴 えた。 また、今年度の 7級 昇格 の配
分 について尋ね、事務長補佐 は 3月 中下旬頃 で はないか
11月 の交渉で、理職 は積算校費 の扱 いについて尋ね た。
科長 は、文部省 は平成 12年 度 は平成 11年 度 と同額 を出す
としているが、平成 13年 度 は大学問で差が出る可能性が
ある と述 べ た。東大内部 での配分 につ いては、総長 は従
来通 りに配分す る意 向 であると述 べ た。国 の教育 に対す
る投資額 の少なさに対 しては、大学 の姿が一般国民 に見
えるようにす るための大 学側 の努力 も必要であると述 べ
―-48-―
そ の 他
た。 また、積算校費 のような基本的な経費 につ いては、
組織 が つぶれない ように基本額 を配分すべ きであるとの
設が先決 であ り、理学系 として も 1号 館 の第 二期 工事 が
先決 であるので、 それ まで は情報科学 は同 じ場所 に とど
認識 を示 した。
まるだ ろうとの見通 しを明 らかにした。
4.定 員削減問題 について
12月 の交渉 で理職 は、2000年 問題 へ の対応 につ いて内
11月 と 1月 の交渉で理職 は、今年度で定年 になる技術
職員 3名 をその まま定員肖J減 に充 て るのか と尋ねた。科
長 は、人事委員会で、基本的には定年者 を定員削減 に当
年末年初 に対応 で きる態 勢 をとってい ると述 べ た。また、
事務系 のパ ソコンについて は対策用のDttRを 配布す ると
てるという申 し合わせがあり、今年 もそのとお りに決 まっ
た と答 えた。理職 は、事務職員 の場合 ポス トは補充対象
になるが、技術職員 は削減 され る一方であ り、現行 どお
答 えた。
理職 は補正予算 で理学系研究科 につい た内容 を尋ねた。
科長 と事務長 は、原子核科学研究 セ ンターのサ イクロ ト
りの対応 を続 ければ、理学部 の技術職員 は今年 を含 め今
後 5年 間 で10人 、 さらにその後 の 5年 間 で 12人 が定年 と
な り、現在 45名 の技術職員が 10年 後 には半減 して しまう
た。
とい う事実 を指摘 し、理学部 として どう対応す るか方針
●
容 を尋ねた。科長 はライフラインが切れた場合 に備 えて
各教室 に対策 をお願 いす るとともに、中央事務 として も
が必要 だ と主張 した。科長 は、現行 のや り方で職種構成
にア ンバ ランスが生 じることは問題 であ り、長期的 な対
応 を考 える必要があると述 べ、人事委員会で長期的な方
針 を検討 して もらう ことを約 束す る と答 えた。
5。
ロンの田無 か ら理研 へ の移設関連 の予算 がついた と答 え
原子核研究 セ ンターの移転 について、1月 の交渉 で理
職 は、職員 の調整手当 てに関連 して、本務地 はどこにな
るのか尋 ねた。科長 は、実態 に合 わせた勤務地で、和光
市 になる可能性 が高 い、調整手当 は今 まで も田無市で出
ていた、移転後 の三 年間 は同 じ額が適用 され ると答 えた。
理職 は移転 のスケジ ュール を聞 いた。科長 は、移転 自体
は7月 を目処 に田無 をク リアす る ことで進 んで い る と答
えた。理職 は移転 で職員 が不利 にな らないよ うにしてほ
しいと訴 え、科長 は要望に添えるよう努力 したいと答 えた。
その他
11月 の交渉で理職 は、学内広報 の理職書記局 へ の一部
送付 を求 め、事務長 は了承 した。
理職 は、東京大学 の設置形態 に対 する意見調査報告 に
ついて調査 の対象 と規模 を尋ねた。科長 は、調査 は各部
局長 あてに 7月 末 〆切で来 た、理 学部 で は将来計画検討
委員会 と相談 し回答 した、 その結果 は総長室 でまとめ ら
れ各部局長 に再送付 された と答 えた。理職 は報告書 は学
内広報 な どで扱われるのか と尋ね たが 、科長 は今回 の調
査 は総長宛 に出 した もので あ り広報で扱 う内容で はない
と答 えた。
理職 は情報科学専攻 が理学系研究科 か ら離れる ことに
関 して尋ねた。科長 は、今年度 の概算要求 で は情報学環
の要求順位が 1位 になった (そ してその設 置 が認 め られ
た)が 、来年度 は情報理工 学系研究科の設立 が 1位 にな
る可能性 がある、 しか し東大 として は柏 キャンパ スの建
1月 の交渉で理職 は、柏 キャ ンパ スについて柏図書館
の概算要求な どの話 を聞 いて い るか尋ね、科長 は特 に聞
いて はい ない と答 えた。理職 は、柏図書館 は全 国サー ビ
ス も盛 り込 もうとして い るのに増員要求 は出 さない らし
い、我 々 図書館員 も影響 を受 けるのではないか と尋ね た。
科長 は一般論 だが、定員削減 は非常 に厳 しく、純増 は難
しく、 コン ピュー ター支援 等 による効 率化 の方が通 りや
す い状況 にある、そち らの方向で対応せ ざるを得 ない の
で はないか との考 えを述 べ た。
理職 は東京大学の教官 の定年延長 について、 どのよう
に意見 をまとめて い くのか尋ねた。科長 は昨年 12月 の部
局長会議で、定年 を順次延 ばす とい う総長提案が基本的
に了承 され、 3月 の評議会 で最終決定 され る予定 だ と答
えた。
-49-―
宅の他
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そ の 他
博 士 (理 学 )学 位授与者
平成 11年 11月 8日 付学位授与者 (1名 )
種
別
論文博士
専
攻
生物化学
申 請 者 名
滋
賀
洋
子
論
がう 雰極藷路 絶葉 先 ,覆 た
題
文
目
ンヒ ドログル シ トールの代謝 とそのグ リコー
平成 11年 12月 13日 付学位授与者 (5名 )
種
別
専
攻
申 請 者
論
名
文
題
目
課 程博 士
天 文 学
吉
田
〃
生 物 化学
木
賀
大
介
哲幣 霜
〃
〃
安
岡 顕
人
メダカの 7回 膜貫通型受容体 の遺伝子構造 と機能 の解析
〃
生物科学
宮
崎
裕
明
広塩 性魚 テ ィラ ピアのクロライ ド代謝系 の機能分化
論文博 士
〃
八
木
ひ とみ
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RNA認 識 タ ンパ ク質 の h宙 troお よび
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ゼノパ スアル ドラーゼの C遺 伝子 のクローニ ング とプ ロモー ター解析
平成 11年 12月 31日 付学位授与者 (1名 )
種
別
課程博士
攻
専
生物化学
申 請 者 名
矢
花
聡
子
論
文
題
目
分裂酵母 の減 数分裂誘導期 における増殖抑制機構 の解析
平成 12年 1月 24日 付学位授与者 (15名 )
種
別
専
攻
申 請 者 名
論
文
題
目
課程博 士
情報 科学
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物 理 学
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2次 元電子 系 にお ける秩序状態
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HERAに お ける光生成反応 による光子放出断面積 の測定
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生物科学
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葉 の形状 の構造的特徴 に基づ く分類法
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膜 の渦対励起 と回転渦 の基礎研究
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大型水チ ェレンコフ検出器 における p→
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多光子励起 によ り誘起 された液体分子線表面の分子反応過程
寛
ラッ ト卵巣 にお けるゴナ ドトロピン放出ホルモン受容体の発現 と機能
彰
4整 ど券形
〃 〃 〃
〃
学
生物 科学
向 後
地 質 学
松
田 文
記憶の統合 による異機種環境 における分散共有オブジェク
e+π Oに
よる陽子崩壊 の探索
アヽサラフティ盆地、 フリオ油田の中新統炭酸塩岩貯留岩 の
-51-
編集後記
理 学部広報 の原稿依頼 が届 くと、「何 もこの忙 しい ときに」 とは、大方 の感ず るところで はあるまいか ?し
か し、編集委員 として、 ご寄稿 いただいた原稿 に 目を通 して い る と、 その思 い は内容 には微塵 もうかがえない
ことにす ぐ気付 きます。 むしろ、頼 まれた ときの気持ち はどうあれ、原稿 のそれぞれ は、内容が充実 し、読 む
ものを引 きつ けず にはおかない。 た とえば、毎号掲載 される「研究紹介」 は、他分野 の研究動向 を知 る上で役
に立ち、中 には、研究 の着想 とス トー リーの壮大 さにさすが と唸 らせるものがあ ります。「新任教官紹介」 は、
着任時の気持 ちの高ぶ りと、 よ り優 れた研究 に果敢 に取 り組 もうとす る情熱 が沸々 と感 じられ ます。 また、私
が最 も楽 しみ とする「退官者 の挨拶」 では、理学 のあるべ き姿 を純粋 に問い続 けた先達の生 き様 と業績 の前 に、
自 らを反省する ことしきりであ ります。編集委員 としての任期 は、あと一年残 ってお りますので、今後 とも、
理学広報の充実 に微力 を注 ぐ所存 です。
編集面 で は、本年度 よ り表紙 の図案 がカラー印刷 とな りました。 この ことによ り、表紙 に採用 で きる写真の
対象が広が り、サイエンスの現場 を視覚的 によリリアルに描写 で きるようにな りました。最後 にな りますが、
平成 8年 度以来、年 4号 の発行 が定着 して きましたが、本年度 もここに最終第 4号 を発行す る運び とな りまし
た。 これ は、 ひ とえに、 ご多忙 の中、 ご寄稿 くださった諸先生方、編 集 の労 を一手 に引 き受 けて くださった庶
務掛、他 みなさんのご協力 の賜物 であ ります。編集員一 同、心 か ら御礼申 し上 げます。
西
田 生
郎
(生 物科学専攻)
[email protected]― tokyo.ac.jp
編集
:
田 生 郎 (生 物科学専攻
[email protected]‐ tokyo.ac.jp
西
江
口
)
内線
徹 (物 理学専攻)
2447
2413
eguchi@hep― th.phys,s.u― tokyo.ac.jp
杉 浦 直 治
)
(地 球惑星物理学専攻
2430
[email protected]‐ tokyo.acjp
佐 々木
晶 (地 質学専攻
sho(Dgeol.s.u‐ tokyo.ac.jp
小 林 直 樹
)
(情 報科学専攻
2451
)
2409
[email protected]‐ tokyo.ac.ip
大 井
哲 (庶務掛)
2400
[email protected]‐ tokyo.acjp
三鈴印刷株 式会社
印刷・…・…………・…・…・…・………………………。
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