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Title ラプソディ史補論 Author(s) 伊東, 信宏 Citation
Title Author(s) Citation Issue Date ラプソディ史補論 伊東, 信宏 待兼山論叢. 美学篇. 48 P.1-P.18 2014-12-25 Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/11094/56607 DOI Rights Osaka University 1 ラプソディ史補論 伊 東 信 宏 キーワード:ラプソディ/音楽の民族主義/フォークロリズム/異国趣味/ F. リスト はじめに 本稿は、筆者が最近書いた別の論考「音楽におけるナショナリズム:ラプ ソディの歴史と第一次世界大戦」 (山室信一他編『現代の起点:第一次盛会 大戦 3 精神の変容』岩波書店、2014 年所収、以下「前稿」と表記する)に 対する補論である。この「前稿」は、第一次大戦が西洋文化(およびそれに 影響を被った地域)において持っていた意味を、 「ラプソディ」という一つ のジャンルの歴史を通して見直してみる、というものだった。この論文を準 備する過程で、筆者は 19 世紀以来、連綿と書き継がれてきた様々な「ラプ ソディ」を収集し、そのリストを作ってみた。この作業は、後で述べるよう に、これまでにも何人かの研究者が試みており、決して全く新しいものとい うわけではない。また、古今東西の有名無名の全ての「ラプソディ」を網羅 する、ということは不可能であり、リストアップできた「ラプソディ」は、 あくまでも出版された記録があるもの、後世に伝わっているもの、あるいは 多少とも音楽界に認知されているものに限られている。それでも目につく範 囲でこれらの「ラプソディ」を整理してみると、これが 19 世紀から 20 世紀 の音楽史のミニチュアのように見えてきて、筆者はしばらくこの作業に魅了 された。「前稿」は、第一次大戦を主題としているので、このラプソディの リストから浮かび上がってくる問題の全てに触れ得たわけではないし、 「ラ 2 プソディ」のリストも紙幅の関係から、最小限のものに絞らざるを得なかっ た。そこで、本稿では、この「ラプソディ」のリストをなるべく包括的な形 で示すことを主目的とし、加えて先の論考では触れ得なかった論点につい て、いくつか補足的に論じておくことにしたい。 「前稿」との重複はなるべ く避けるが、本稿自体の完結性という意味で、多少の反復はやむを得なかっ たことをお断りしておく。 1.「ラプソディ」の位置:音楽の民族主義 ナショナリズム 音 楽 に お い て「 民 族 主 義 」 が 問 題 に な り 得 る た め に は、 音 楽 と ネ イ シ ョ ン 国家/国民/民族の間に何らかの連関を見る必要がある。しかも、それは音 楽の作り手(作曲者、演奏者、伝承者)の側だけではなく、受け手(聴衆、 民衆)の側にも共有されていなければならない。具体的には、ある音楽の要 素(たとえば音階、旋法、リズム、楽器法、修飾法等)が民族的なものであ る、と認められ、しかもこの認識が国境を超えて聴く者の多くに浸透してい なければならない、ということである。このような条件が整うのは、音楽の 場合かなり遅かった。工芸品や衣料なら、旅先から持って帰って、自国の 人々と分かち合うことができる。そうであればこそ、異国の事物を愛でるこ ともできるし(エクゾティシズム) 、隣国と自国の文化的差異を意識してそ れをナショナリズムの根拠とすることもできる。けれども音楽や踊りは持っ て帰れない。楽器は持って帰れても、演奏は持って帰れない。もし異国の音 楽を聴く機会があるとすれば、 (録音機の発明以前には)遠くから旅の楽団 がやってくるというような例外的機会を待たねばならなかった。例えばオス マン・トルコが、当時のヨーロッパの有力な宮廷に楽団をプレゼントした、 という 18 世紀の事例は、そのような例外の一つである。ヴィーンのハプス ブルク宮廷にズルナと太鼓を中心とするトルコのイエニチェリ楽団が雇用さ れるようになったのは 1741 年のことである。熱心なオペラファンで、詳細 な日記を残したことで知られるカール・フォン・ツィンツェンドルフ伯爵 ラプソディ史補論 3 ( 1739 ∼ 1813 年)は、次のようにその強烈な印象を記している。( 1763 年 7 月 15 日)。 「昨日、シェーンブルン宮殿でハルシュの部隊が奏するトルコ音楽を聴いた。 1) これは世界で最も素晴らしい効果をあげるものだ。」 これは異国の音楽の特質(後に音楽における「民族性」と考えられるに至 るもの)が、聴衆によって意識されるようになった顕著な記録である。この ような経験が聴衆に共有されるようになってはじめて、グルックは『メッカ の巡礼、または思いがけない巡り会い』 ( 1764 年)で「トルコ風音楽」を書 いて、この異国の舞台を音楽に反映させることもできた。そして、これとほ ぼ同じ時期に、ヘルダーが『オシアンおよびいにしえの諸民族の歌謡をめ ぐる書簡より』Auszug aus einem Briefwechsel über Ossian und die Lieder alter Völker( 1773 年)において Volkslied「民謡」という言葉を初めて用い、さ らに『歌謡における諸民族の声』Stimmen der Völker in Liedern(刊行は 18ö7 年だが、その原型は 1773 年に遡る)を構想して、異国の民の歌を記録しよ うとしたこともおそらく異国の音楽が具体的に身近に知られるような時代に なったことと無関係ではない。 ここではいくつかの水準の出来事がほぼ同時に起こっている。まず異国の 音楽の実相が知られるようになり、耳慣れぬ音楽への関心が高まる(音楽の エクゾティシズム アルカイック 異国趣味)。この「遠くの」人々の音楽は、時間的に遠くの「古代の」人々 の音楽と共振する現象だった。 「遠くの」 「古代の」人々を、自然の感覚を 失っていない活きいきした藝術の担い手として称揚する、という論じ方は、 いわば啓蒙主義のネガだったのだが、この感じ方は同じ社会の下層にいて啓 フォーク 蒙の光の及ばない「民衆」にも目を向けさせることになった。かくして、音 エクゾティシズム アルカイスム フ ォ ー ク ロ リ ズ ム 「古代趣味」 「民俗への関心」が絡まりあいながら成 楽における「異国趣味」 ナショナリズム 立し、これが 19 世紀における音楽の民族主義の展開のための素地となった。 本稿で扱うラプソディというジャンルは、まさしくこのような音楽の民族 主義を考えるのに格好の素材である。音楽によって民族主義を表現する際の 重要な場であった国民オペラや自国語による歌曲が結局のところ、言語を問 4 題としていたのに対して、実際に音符のレベルで民族主義を表現しようとす る作曲家は、一度はこの「ラプソディ」というジャンルに向き合わねばなら なかった。従属民族や少数民族は、自分たちが誇るべき文化をもった民族で あることを証明するために、自前のラプソディを持とうとした。本稿で示す ようなおびただしい量のラプソディを見ていると、19 世紀後半から 20 世紀 前半までの約一世紀の間、人々はそのような信憑を競って内面化していた ように思われる。それは「古代趣味」を基礎として成立し、「異国趣味」と、 それと裏腹の関係にある「民俗への関心」をともに反映しながら、器楽にお ける音楽の民族主義の主要なジャンルへと発展する。そして、第一次大戦を 転回点として「民族主義」が辿らねばならなかった屈折を忠実に反映し、や がて衰退していった。ここでは、このような「ラプソディ」というジャンル の歴史を概観し、その展開を辿り、このジャンルが音楽史において持ってい た意味のうち、「前稿」で触れ得なかった問題について補足的に確認してお きたい。 2.「ラプソディ」の定義 「ラプソディ」という言葉の定義については、 「前稿」でも述べたが、ここ では必要なことを確認しておきたい。この言葉は現在ではもっぱら音楽の ジャンル名として知られているが、本来は古代ギリシャにおいて唱えられる 叙事詩を指した。19 世紀はじめに音楽ジャンルの名称として用いられるよ うになり、やがてそのジャンルの特質としての不規則性は、 「ラプソディッ クな空模様」といった幾分否定的な転用まで生むことになる。このような 語義の変遷を、厳密に整理した T・ヴィドマイエルの記述を元に辿ってみよ 2) う。 まず「ラプソディ」の語源となったギリシャ語 ῤαψῳδἰα( rhapsodia )は、 ῤάπτειν( raptein )と ᾠδή( ode )から成り、前者は「縫いあわす」を、後者 は「詩」を表すことから、元々は様々なテクストを「縫いあわす」ようにし ラプソディ史補論 5 て語る古代ギリシャの語り物文芸のことを指した。その語り手は ῤαψῳδός ( rhapsodos )と呼ばれた。この基礎の上に、近代以後、次のような意味が生 まれてくる。 1 )16 世紀以後には、「ラプソディ」は多少とも技巧的に組み合わされたテ クストを指し、文学から音楽に比喩的に転用されることもあった。18、19 世紀においては、様々な素材を並べ、つなぎあわせたもの、という意味で用 いられるようになり、時としてそれは。「不出来な継ぎ接ぎ細工」という否 定的な意味でも使われた。例えば、W. ヘーベンシュトライト編纂による『学 術的文学的美学百科』 ( 1843 年)においては、「音楽において、ラプソディ は本来、断片ないし引きちぎられた音楽の破片を組み合わせて作られた曲、 3) ないし短くてほとんど無秩序な幻想曲という意味を持つ」 とされている。 また、多様な内容の文章を集めた論集にタイトルとして用いられること があったが、音楽に関するものとしては C. F. H. シューバルトの論集『音楽 的ラプソディ』 ( 1786 年)くらいしか見られない。J. Fr. ライヒャルトの歌 、およびブラームスの「ラプソディ」 (通称 曲「ラプソディ」 ( 1870 年刊行) 『アルト・ラプソディ』1870 年)は、いずれもゲーテの「冬のハルツへの旅」 を歌詞とする作品だが、この場合は「テクストの一部に音楽をつけたもの」 というような意味だったようだ。 2 )古代の朗唱家のイメージが広まった 17、18 世紀には朗唱ないし口述のパ フォーマンスに関して革新的方向を指し示すもの、という意味でつかわれる こともあった。 3 )19 世紀前半には「性格的小品」(特にピアノ曲)のタイトルとして用い られるようになるその最も早い例は、V・J・トマーシェクの「ピアノのた めのラプソディ」Op.40( 1813/14 年)であろう。彼は後の自伝で、この作 品について、次のように述べている。 「そのような〔交響曲やソナタといったジャンルの〕圧迫で、私は自分の創 作の避難所を求めざるを得なくなり、そして様々な詩のジャンルを音楽に 移植し、そのことによって、ともすれば狭まりがちな音楽詩の世界を広げる 6 ことができないか、と考えるようになった。 ・・・私は厳粛さが力とエネル ギーとに結びついたような作品を作りたかった。そのとき、私の脳裏に、ま るで魔法のように鮮やかに、ラプソーデ〔ラプソードス〕たちの活躍する太 古の世界が現れた。私は彼らがホメロスの『イーリアス』のあらゆる詩行を いかに朗誦し、皆がそれにどれほど熱狂したか、を目にし、耳にしたように 4) 感じた。 」 この文章から明らかなのは、このとき「ラプソディ」というタイトルは序 論で述べたような「古代趣味」の関連で喚び出された、ということであろ う。トマーシェクは、この頃「ラプソディ」と共に「エクローグ(牧歌) 」 や「ディテュランボス(酒神讃歌)といった古代ギリシャに由来するタイト ルを持つ作品を書いていた。 「ラプソディ」もそのような文脈から選ばれた ものだろうと言える。実際に比較してみると、 「エクローグ」との対比にお いて「ラプソディ」は、厳粛で、力強く、決然としたもの、といったニュア ンスを持っていたようだ。 4 )F・リストの『ハンガリアン・ラプソディ』( 1851/53/82/86 年)は「ロマ が伝えるハンガリーの民族的アイデンティティを規定する叙事詩の断片をつ なぎあわせたもの」とされた。この作品をきっかけとしてラプソディは「形 式的には結びつきが緩く、しばしば民俗的旋律を用いた器楽曲ないし声楽 曲」を指すようになる。例えば、1882 年の『リーマン音楽辞典』において は、「現代の作曲において、ラプソディという名の下に理解されているのは、 民俗的旋律をいくつか組み合わせて出来た器楽による幻想曲である」という 5) 記述が見られる。 先に挙げたヘーベンシュトライトによる規定が、リスト のハンガリアン・ラプソディ以前のものであって、そこに民族的/民俗的含 意が全く含まれていなかったことと比べると、この語義の変容は明らかであ ろう。 かくしてリストの作品以降「ラプソディ」は、音楽のジャンルとして広く 認知されるようになり、本稿の表で示すように、それぞれの民族や地域の名 を冠する大量のラプソディが生まれることになった。 ラプソディ史補論 7 さらに主に世紀転換期から第一次大戦頃までのイギリスで「声楽曲のシ リーズ」に対して用いられるケースが増える。これらの作品は、「バラード」 「カプリッチオ」 「ファンタジー」 「ポプリ」 「組曲」「交響詩」などと呼ばれ ても不思議ではなかったような内容をもっていた(後述の「声楽的ラプソ ディ」)。 「ラプソディ」の指すものは変質してくる。たとえ 20 世紀後半になると、 ( 1955 年)においては、 ば、V・ジャンケレヴィッチの著作『ラプソディ』 ラプソディは「非人称的で抽象的な普遍主義」に対立する「多元性の原理」 6) 。 だった (合田正人『ジャンケレヴィッチ:境界のラプソディ=』より) だとすれば、ナショナリスティックな統合のベクトルを持つものだった 19 世紀のラプソディからすると、完全に逆の方向を含むことになって、この語 の流行としての寿命が尽きたことを示しているようにも思われる。 3.ラプソディ史におけるいくつかの論点 本稿の最後に掲げる表「ラプソディの系譜」は、音楽のジャンルとしての 「ラプソディ」が確立して以来、世界で書かれた様々なラプソディを集めた ものである。もちろん全ての「ラプソディ」を列挙しているわけではない。 出版された作品だけでも網羅的に数え上げるには限界があり、全ての「ラプ ソディ」を盛り込むのは不可能である。そして年代的には 1960 年頃までの ものを挙げており、それ以後ポピュラー音楽の文脈で現れた多くのラプソ ディ(クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」や、これはバンド名だがイタ リアの「ラプソディ・オブ・ファイア」と称するメタル・バンドなど)も対 7) 象外である。 このような制限はあるにせよ、この表からは次のようないく つかのポイントを読み取ることができる。(表では、作品名、作曲者名とも 原語表記を原則としたが、ここでは文意を取りやすくするため、それをかな り意訳してカタカナで表記する) 。 まず注目すべきなのは、この「ラプソディ」というジャンルが、もともと 8 持っていた語義から離れ、民族的なアイデンティティ表出の場へと変貌を遂 げた経緯である。前述のとおり、この語は本来的には「古代趣味」の領域か 「民 ら喚び出されたのだが、19 世紀半ばの F.リストによる改鋳に伴って、 俗的/民族的旋律をつなぎあわせた器楽曲」という意味を持つようになる。 そして、19 世紀後半から 20 世紀前半にかけての約 1 世紀の間に、様々な民 族、国家、地域アイデンティティを託したラプソディが続々と作られること になった。それらは時代を反映し、植民地における宗主国の作曲家による ラプソディである場合もあれば、被支配民族を代表する作曲家によるラプソ ディという場合もあり、未だ国家として認められていない一地域の名を冠し たラプソディである場合もあれば、抽象化された「異国」 「黒人」の名を冠 するラプソディという形をとることもあった。そして東欧、北欧から始ま り、周圏論的に広がりを見せ、時とともにアジア、新大陸、アフリカの諸地 域も巻き込んでゆく。この大きな流れは、表からまず最初に読み取られるべ きものであると考えられる。 ただしここにはいくつかの留保が必要である。第一に、この間に書かれた 全てのラプソディが上記のような民族主義的な意味合いを持っていたわけで はなく、世紀転換期前後の英国において書かれた様々なラプソディは、主と して声楽曲であり、 「ラプソディ」のタイトルは、説話的・叙事詩的なもの を指していたようである(表中、網掛けのある項目は、この一連の「声楽的 ラプソディ」を示している) 。 また上記のような民族主義的ラプソディが少数民族や被支配民族において は、極めて熱心に書かれたのとは対照的に、フランス、ドイツ、イタリア といったヨーロッパ音楽の中心に位置した諸国においては、影が薄かったこ とは注目に値する。「ドイツ」を対象とするラプソディは 1907 年に F・E・ 「フ コッホによって書かれ、 「イタリア」は 1909 年、A・カゼッラによって、 ランス」は 1911 年フローラン・シュミットによって書かれているが、いず れも 20 世紀に入ってからのものであり、作品の規模として控え目であった り、変則的であったりした。また手がけた作曲家も、それぞれの国を代表す ラプソディ史補論 9 る作曲家とは言い難いところも面白い。ドイツのブラームス、フランスのド ビュッシーなど、著名な作曲家も「ラプソディ」と題された作品を書いてい るが、ブラームスのものは前述のとおりリスト的な意味での「民族的」ラプ ソディではないし、ドビュッシーの作品はマイナーな性格的小品であったに 過ぎない。 以下に掲げる表は、音楽における民族主義という一つの考え方が、何を きっかけにして定着し、どのようにして広まり、どのように命脈を終え、さ らにその有効性を終えたように見えながらどこに生き延びるか、ということ を考える手頃な例を示している。音楽と社会との関係を示すモデルケースと してここに提示しておきたい。 表:ラプソディの系譜(網カケの項目は「声楽的ラプソディ」を表す) 曲 名 作曲者 作曲年ない 対象となった し初演年、 国名、地域 出版年 名、民族名 備 考 Rhapsodie (Aus der Harzreise ) J. Fr. Reichardt 1790 ゲーテやシラーなどと親交があった作曲 家、ライヒャルト( 1752-1814 )による歌曲。 ゲーテの詩「冬のハルツへの旅」に付曲して いる。 Rhapsodie pour le pianoforte, Op.40 V. J. Tomášek 本文参照。 Rhapsodie N. Burgmüller 1835/36 Ungarische Rhapsodien I-XIX F. Liszt 1851/53/ 82/86 ハンガリー 本文参照。 Rhapsodie espagnole F. Liszt 1858 スペイン 1845 年のスペイン旅行に基づく。リストには Die Rhapsodie für eine Altstimme, Männerchor und Orchester, op. 53 J. Brahms 1870 ブラームスは先に挙げたライヒャルトの「ラ プソディ」を通じて、ゲーテの「冬のハルツ への旅」を知り、この曲を作って、同じタイ トルを付した。 Norsk Rapsodi 1-4, Op.17,19,21,22 J. Svendsen 1877 , ノルウェー (1-3) 1878( 4 ) ス ヴ ェ ン セ ン( 1840-1911 )。 オ ス ロ(ク リ スチャニア)生まれ、ほとんどをコペンハー ゲンで暮らした。ちなみに作曲当時、ノル ウェーはスウェーデンの支配下で、独立は 1905 年。L. リンデマンのピアノ編曲集『ノ ルウェーの新旧の民謡旋律』( 1853-67 )にヒ ントを得た。 1813, 14 ピアノ教則本で有名なヨハン・ブルクミュ ラ ー の 弟、 ノ ル ベ ル ト・ ブ ル ク ミ ュ ラ ー ( 1810-1836 )による小品。 この他に、ロシア、ポーランド、フランスな どの旋律を使った編曲作品がある。 10 作曲年ない 対象となった し初演年、 国名、地域 出版年 名、民族名 備 考 曲 名 作曲者 3 Slawische Rhapsodien, Op.45 A. Dvo ak 1878 Rhapsodies,Op79 J. Brahms 1879 Rhapsodie norvegienne E. Lalo 1879 ノルウェー Rhaposodie ecossaise, Op.21 A. C. Mackenzie 1880 スコットランド マッケンジー( 1847-1935 )は、スコットラ ンドの作曲家。 Suite algérienne (No.2 Rhapsodie mauresque) C. Saint-Saëns 1880 ムーア人 当時フランスの植民地だったアルジェリア への紀行を描く。第 2 曲が「ムーア風ラプソ ディ」だが、第 4 曲はフランス軍がアルジェ の街を行進する様子を描いた行進曲であり、 政治的含意を隠せない。 Jihoslovanská rhapsodie K. Bendl 1881 南スラヴ ベンドル( 1838-1897 )はチェコの作曲家。 ドヴォルザークの同窓。 Suomalainen rapsodia No.1, No.2 R. Kajanus 1881/86 フィンランド カヤヌス( 1856-1933 )。1885 年の交響詩「ア イノ」はシベリウスに影響を与えた。 Rhapsodie cambodgienne L-A. BourgaultDucoudray 1882 カンボジア ブ ル ゴ ー = ダ ク ル デ ィ( 1840-1910 ) は ブ ルターニュ生まれ。1 )序で、洪水の被害に あった人々の神への祈りが描かれ、2 )でそ の願いがかない、見事回復した土地を称えて の祝いが描かれる。 España, rapsodie pour orchestre E. Chabrier 1883 スペイン フランスの作曲家、シャブリエ( 1841–1894 ) によるスペイン旅行の印象。 Rhapsodie d’Auvergne, Op.73 C. Saint-Saëns 1884 The Star. A Rhapsody for Tenor or Soprano Voice Ch. K. Salaman 1886 Rapsodia española, Op.70 I. Albéniz 1887 スペイン Vosto naja rapsodija (Orientalische Rhapsodie) A. Glazunov 1889 東洋 スラヴ チェコの歴史的情景を描いた作品、とされる。 献呈されたヘルツォーゲンベルクの要請に よって、「ラプソディ」と改題されたピアノ 独奏曲。 ラロ( 1823-1892 )は、バスクの血を引くフ ランス人。ヴァイオリンと管弦楽のための 『ノルウェー幻想曲』 ( 1878 年)の管弦楽版。 オ ー ヴ ェ ル 緩急の対照から成り、急の部分でバッグパイ ニュ プ風の音楽となる。オーヴェルニュ人→ミュ ゼット→パリ郊外のバルミュゼット( 1880 年代)→シャンソンへ ロンドン生まれのユダヤ系作曲家、サラマン ( 1814-1901 )による声楽的ラプソディ。プラ トンに基づく E. Arnold の詩による。 ピアノ曲。他にピアノと管弦楽のバージョンも あった。アルベニス( 1860-1909 )はカタルー ニャ生まれで、リストの崇拝者でもあった。 1 )Andante「夕べ。町は眠る。見張り番の 呼び声。若い大道芸人の歌。 」 、2 )Presto「若 い 男 女 の 踊 り」 、3 )Andante( a capriccio ) 「老人のバラード」 、4 )Moderato alla marcia 「ファンファーレ。勝利した兵士たちの帰還。 民衆の歓声。 」 、5 )Allegro「兵士たちの宴。 踊りの中に若い大道芸人が現れる。遠慮ない オージー。」 ラプソディ史補論 曲 名 作曲者 作曲年ない 対象となった し初演年、 国名、地域 出版年 名、民族名 11 備 考 Rhapsodie basque Ch. Bordes 1890 バスク シャルル・ボルド( 1863-1909 )は、フラン ス人だがバスク民謡の収集もおこなった。ピ アノと管弦楽のための作品。 Irish Rhapsody V. Herbert 1892 アイルランド ハーバート( 1859-1924 )はアイルランド生 まれでアメリカに帰化した。 Rapsodia Cubana, Op.66 I. Albéniz 1895 キューバ アルベニス(既出)によるピアノ曲。 Armyanskaja rapsodija, Op.48 M. M. IppolitovIvanov 1895 アルメニア イッポリトフ=イワノフ( 1859-1935 )は、 ロシアの作曲家。出版されたコミタスのアル メニア民謡集を見て、このラプソディの作曲 を思いついたとされる。 In Memoriam. 3 Rhapsodies for Low Voice and Pianoforte, Op.24 S. ColeridgeTaylor 1898 Rapsòdia almogàver I. Albéniz 1899 コールリッジ=テイラー( 1875-1912 )は、 ロンドン生まれのクレオールの血を引く作曲 家で、 「アフリカのマーラー」と称された。 (アラゴン?)「アルモガバルス」はアラゴン王国の傭兵集 団。 Rapsodia L. Sinigaglia piemontese, Op.26 1900 ピエモンテ シニガーリャ( 1868-1944 )はトリノ生まれ のユダヤ系作曲家。ヴァイオリン協奏曲風。 2 Rumänische Rhapsodien, Op.11 B. Enescu 1901 ルーマニア エネスク( 1881-1955 )はルーマニア・モル ドヴァ地方の生まれ。第一番には、ジプシー ヴァイオリンの定番「ヒバリ」の引用。 Rhapsodie Nr. 2, Op.90 M. Kaempfer 1901 Midsommarvaka, Svensk rhapsodi No.1, Op.19 H.Alfvén 1901 Meg Blane. A Rhapsody of the Sea for Mezzo-Soprano Solo, Chorus and Orchestra, Op. 48 S. ColeridgeTaylor 1902 コールリッジ=テイラーは既出。T. ブキャナ ンの詩による。 A Night’s Rhapsody. Part Song for Two Female Voices, No.5 M. L. White 1902 H. E. Clarke の詩による。 Irish Rhapsody No.1, Op.78 C. V. Stanford 1902 Indian Rhapsody Fr. H. Cowen 1903 (シュヴァー シュヴァーベン地方の民謡を用いている。 ベン) スウェーデン アルヴェーン( 1872-1960 )。第 1 番「夏の徹 夜祭」1901 年。スウェーデン民謡に基づく。 第 2 番「ウプサラ・ラプソディ」1907 年、リ ンネ生誕 200 年のために書かれた。第 3 番「ダ ラーナ狂詩曲」1932 年。 アイルランド スタンフォード( 1852-1924 )はダブリン生 まれ。Irish rhapsody は第 6 番( 1923 年)ま で書かれた。 (?) コーエン( 1852-1935 )はジャマイカ生まれ、 英国籍の作曲家。 12 曲 名 作曲者 作曲年ない 対象となった し初演年、 国名、地域 出版年 名、民族名 ヘブライ 備 考 ゾロタレフ( 1873-1964 ) 、タガンログ生まれ のロシア人。 Yevrejskaja rapsodija, Op.7 V. A. Zolotarëv 1903 The Time-spirit, Rhapsody for Chorus and Orchestra. Gr. Bantock 1904 Welsh Rhapsody E. German 1904 Dem Verklären. Eine hymnische Rhaposodie, für gemischten Chor, Bariton und großes Orchester, Op.21 Max von Schillings 1905 シリングス( 1968-1933 )は、反ユダヤ主義 者で、ナチスへの協力の故に上演されなく なった作曲家。この「賛歌的ラプソディ」の 副題を持つ作品は、シラーの詩に基づく。 Kubla Khan. A Rhapsody for Contralto Solo, Chorus and Orchestra S. ColeridgeTaylor 1905 コールリッジ=テイラーは既出。この他に、 Once Only( 1906), Dea Drift( 1908 ) な ど、 ラプソディの副題を持つ作品がある。 Canadische Rhapsodie, Op.67 A. C. Mackenzie 1905 カナダ マッケンジー( 1847-1935 )はスコットラン ド出身だが、1903 年にカナダ民謡の調査を行 う旅を行った。 Capriccio op een D. Schäfer gamelang-melodie (Rhapsodie javanaise) 1906 ジャワ島 シェーファー( 1873-1931 )はオランダの作 曲家。 Rapsodia Litewska, Op.11 M. Karłowicz 1906 リトアニア カルウォーヴィチ( 1876-1909 ) 、ポーランド の作曲家。タトラ山脈で雪崩に遭い、亡くな る。 Norfolk Rhapsody No. 1 R. Vaughan Williams バントック( 1868-1946 )は長くバーミンガ ム大学で教鞭をとった作曲家。夫人、ヘレナ の詩に基づく作品。 ウェールズ ジャーマン( 1862-1936 )、ウェールズ系。4 つのウェールズ民謡を使っている。 ( 1906, rev. ノーフォーク ヴォーン=ウィリアムズ自身がノーフォーク 1914 ) 地方で集めた民謡が用いられている。第 2 番 もあるが未完。第 3 番は失われた。 Deutch Rhapsodie, Fr. E. Koch Op.31 1907 ドイツ ヴ ァ イ オ リン 協 奏 曲。 コ ッ ホ( 1862-1927 ) の兄、Max Koch は歴史画を得意とする画家。 Rapsodija na ukrainiskie temy, Op.28 S. M. Ljapunov 1907 ウクライナ リャプノフ( 1859-1924 )はロシアの作曲家。 ピアノと管弦楽のための作品。ブゾーニに献 呈。 Brigg Fair, an English Rhapsody F. Delius 1907 英国 P. グレンジャーが 1905 年 4 月に録音した民謡 に基づく。ディーリアスはグレンジャーのテ ナーと合唱のためのアレンジを聴き、この主 題に基づく変奏曲としてこのラプソディを書 いた。 Hallowing Night, Rhapsodie for Mezzo Soprano, Op.55 L.. V. Fr. Saar 1908 サール( 1868-1937 )はオランダ生まれ、後 にアメリカで活動した作曲家。この作品は、 Fr.Hebbel の詩に基づく。 ラプソディ史補論 曲 名 作曲者 作曲年ない 対象となった し初演年、 国名、地域 出版年 名、民族名 13 備 考 ハサウェイ( 1870–1956 )はオックスフォー ド大学出身の作曲家、音楽研究者。メンデル スゾーンに関する研究書が今も読み継がれ る。この作品の他に、バッハの平均律ト短調 の主題に基づく Master Hugues of Saxe-Gotha, Op.35( 1910 )も「合唱ラプソディ」の副題 をもつ。 Among the Trees, J. W. G. Choral- Rhapsody, Hathaway Op.21 1908 Rapsodie espagnole M. Ravel 1908 Rapsodie pour orchestre et saxophone C. Debussy The Wedding of Shon MacLean. A Scottish Rhapsody for Chorus, Soli, and Orchestra. H. Bath 1909 Rhapsodie aus Goethes ‘Faust’ für Chor, Soli und Orchestra. Op.3 K. von Wolfurt 1909 Italia. Rapsodia, Op.11 A. Casella 1909 1ère Rapsodie pour orchestre avec clarinette principale C. Debussy 1910 音楽院試験のために書かれた小品。タイトル に「第一」とあるが、「第二」は知られてい ない。 Cáhál Mór of the Wine-red Hand, A Rhapsody for Baritone and Orchestra. H. W. Parker 1910 パーカー( 1863-1919 )は、アイヴズの師と して記憶されるアメリカの作曲家。この作品 は J. C. Mangan が書いた 12-13 世紀のコノー ト王、カザル・モルに関する詩に基づく。 3 Rhapsodies: I-Francaise, II -Polonaise, IIIViennoise, Op.53 Fl. Schmidt 1911 2 台ピアノのための作品。フローラン・シュ フランス、 ポロネーズ、 ミット( 1870-1958 )は、ロレーヌ地方のド ウィーン イツ系フランス人。 Rapsodia mexicana No.1&2 for Piano M. M. Ponce 1911, 1914 メキシコ ポンセ( 1882-1948 )はメキシコの作曲家。 ボローニャとベルリンで学び、後メキシコ国 立音楽院教授。1915-17、キューバに滞在。 Gethsemane, Symbolic Rhapsody for Chorus of Mixed Voices and Orchestra. G. Strube 1912 ストルーブ( 1867-1953 )は、ドイツ生まれ でボルティモア交響楽団を設立した作曲家。 ( 1908), 1919 スペイン (ムーア人) 1 )夜への前奏曲、2 )マラゲーニャ、3 )ハ バネラ、4 )祭り 現行版の元になったスケッチには「ムーア風 ラプソディ」というタイトルがついている。 作曲家の死後、1919 年に管弦楽化され現行の タイトルで出版。 (スコットラ バース( 1883-1945 )は英国の映画音楽作家。 R. Buchanan( 1841-1901 )の詩による。この ンド?) スコットランド・ラプソディの他に、ウェー ルズ風ラプソディ( Look at the Clok, 1910 )、 アイルランド風ラプソディ( The Wake of O’ Connor, 1913 )も残している。 ヴォルフルト( 1880-1957 )はラトヴィア出 身、ドイツの作曲家。 イタリア 後半、突然「フニクリフニクラ」が出てくる。 14 曲 名 作曲者 作曲年ない 対象となった し初演年、 国名、地域 出版年 名、民族名 備 考 Rapsodia polska, Op.25 Gr. Fitelberg 1913 ポーランド フィテルベルク( 1789-1953 )は、現在のラ トヴィア生まれのユダヤ系作曲家。 Rapsodia cubana No.1-3 for Piano M. M. Ponce 1915/16 キューバ ポンセ(既出) 。キューバ滞在中の作品。 Taras Bulba, Rapsodia per orchestra. L. Janá ek 1915/18 Schelomo: Rhapsodie Hébraïque for Violoncello and Orchestra E. Bloch 1916 ヘブライ 当初、旧約聖書「コヘレトの言葉」をテクスト とする声楽曲として構想されたが、A. バルヤ ンスキの雄弁なチェロに触発され、また彫刻 家であったバルヤンスキの妻のソロモン像を 見て、チェロと管弦楽の作品として完成した。 Rhapsodie Danoise, Op.6 O. Olsson 1916 デンマーク オルソン( 1879-1964 )はスウェーデンの作 曲家。管弦楽曲。 Rapsodie nègre F. Poulenc 1917 Sehnsucht. An das Meer. Rhapsodie für Altstimme, Klavier und Streichquartett (黒人) 18 歳のプーランクが書店で出会った「マコ コ・カングルー詩集」Les poésies de Makoko Kangourou という、黒人がフランス語で書い たという触れ込みの詩集に刺激されて書いた 声楽曲。 1917 異国(!) カルク=エーレルト( 1877-1933 )は、ドイ ツの作曲家。これはギーゼキングに献呈され たピアノ曲。 B. Martinů 1918 チェコ チェコスロヴァキア独立に際してイラーセク の演説への熱狂のもとに作られた。1919 年 1 月 12 日初演。24 日の再演には新共和国の大 統領マサリクも臨席。 P. Graener 1920 グ レ ー ナ ー( 1872-1944 ) は、 ザ ル ツ ブ ル ク・モーツァルテウム、ライプツィヒ音楽院、 第三帝国帝国音楽院などの要職にあった、作 曲家。ナチスへの傾倒の故に戦後は忘れられ た。ベートゲの詩に基づく作品。 1921 ストック( 1872-1942 )は、シカゴ交響楽団 を育てたことで有名な指揮者、作曲家。 Exotische S. Karg-Elert Rhapsodie, Op.118 eská rapsodie ウクライナのコサックを主人公とする、ゴー ゴリの小説『隊長ブーリバ』に基づく標題音 楽。 A Psalmodic Fr. A. Stock Rhapsody for Chorus, Tenor solo, Orchetra and Organ 1922 ブルガリア パンチョ・ヴラディゲロフ( 1899-1978 )は、 スイス生まれのブルガリア人。母やロシア系 ユダヤ人でパステルナークの親戚。後、ソ フィアの音楽院ピアノ科教授(現在のヴラ ディゲロフ音楽院) 。ヴァルダールはブルガリ アの川の名。つまりブルガリア版「モルダウ」 。 A. Tscherepnin 1922 グルジア チェレプニン( 1899-1977 ) 。チェロと管弦 楽。 G. Gershwin 1924 Bulgarian Rhapsody Vardar, op.16 P.H. Vladigerov Rhapsodie géorgienne, Op.25 Rhapsody in Blue (管弦楽版 1928 ) (アメリカ) 作曲中には「アメリカン・ラプソディ」と呼 ばれていた。 ラプソディ史補論 曲 名 作曲者 作曲年ない 対象となった し初演年、 国名、地域 出版年 名、民族名 15 備 考 Choral Rhapsody for Solo Quartet, Chorus and piano T. C. Whitmer 1928 ホイットマー( 1873-1959 )。詩はホイット マンによる。 Rhapsody No.1, No.2 B Bartók 1928 ラヴェルの「演奏会用ラプソディ」 (ツィガー ヌ)に対する音楽的返答。自身が集めた民俗 音楽旋律(主としてルーマニア語地域のロマ のヴァイオリン弾き達の旋律)をつなぎあわ せて作られている。 Africa, Rhapsodia coloniale A. Lualdis 1935 アフリカ ル ア ル デ ィ ス( 1885-1971 ) は イ タ リ ア 人。 ムッソリーニへの協力の故に戦後忘れられた。 日本狂詩曲 伊福部昭 1936 日本 チェレプニン賞第 1 位。本来 3 楽章構成だっ たが、賞の規定にあわせて第 1 楽章をカット。 以来現在の 2 楽章構成で知られる。 Rapsodie flamande, Op.56 A. Roussel 1936 フランドル ルーセル( 1869-1937 )は、ここで 16、17 世 紀のフランドルの歌を用いている。 Turkmenische Rhapsodie A. Shaposhnikov 1939 トルクメニス シャポシュニコフはロシア人。1937-1949 年、 タン トルクメニスタンの首都アシガバードに滞在。 Rapsodia Negra E. Lecona 1943 中国狂想曲 冼星海 1945 Rhapsody on Moldavian Themes, Op.47 M. Weinberg 1949 American Rhapsody, Op. 47 E. Dohnanyi 1953 (南米?) 中国 レ ク オ ー ナ( 1896-1963 )。 キ ュ ー バ の 作 曲家。他にラプソディ・クバーナ、ラプソ ディ・アルヘンティーナもある模様。 Xian Xinghai( 1905-1945 )。パリ留学後、帰 国。抗日歌曲を多数作曲した。 (モルドヴァ) ヴァインベルク( 1919-1996 )は、ワルシャ ワ生まれのユダヤ系作曲家。一族はベッサ ラビア(現在のモルドヴァ共和国)の出身 で、祖父や曾祖父は 1903 年のポグロム犠牲 者。ナチの侵攻により、ソ連に亡命。ミンス ク(ベラルーシ)→タシケント(ウズベキス タン)と移り住み、最終的にモスクワへ。ジ ダーノフ批判以後、民俗的作風に変化。この ラプソディに帰結。 アメリカ ドホナーニ( 1877-1960 )晩年の作。第二次 大戦後アメリカに移住した。曲中、オクラホ マ・ミキサーなどアメリカ民謡が用いられる。 [注] 1) この引用は、Ch- W. von Gluck, La rencontre imprévue ou les pèlerins de la mecque, Erato/ Radio France/ Opéra de lyon, WE 815 ZA. 所収の B. A. Braun による解説か ら訳した。 2) T. Widmaier, “Rhapsodie”, Handwörterbuch der musikalischen Terminologie, H. H. 16 Eggebrecht (Hrsg.), A. Riethmüller (Fortführer), 35. Auslieferung, 2003. 3) W. Hebenstreit, Wissenschaftlich-literalische Encyklopädie der Aesthetik , Wien, 1843. 4) V. J. Tomášek, “Selbstbiographie”, Libussa, Prag, 1846, S.327-341. 5) Hugo Riemann Musik-Lexikon, Leibzig, 1882. 6) 合田正人『ジャンケレヴィッチ:境界のラプソディー』みすず書房、2003 年。 7) このようにこれまで書かれてきた「ラプソディ」をリスト化するという試みは、 すでに W. Salmen, Geschichte der Rhapsodie, Freiburg i. Br. 1966. に見られる。表 1 は、この情報を基礎に、T. Widmaier, Op. cit., 他の情報を補い、本論文の目的に 沿って整理したものである。 (文学研究科教授) 17 SUMMARY An Addendum to the History of “Rhapsody” Nobuhiro Ito In this paper, I explore the history of the musical genre of “rhapsody.” I discuss the meaning and the transformation of “rhapsody” in the history of European and non-European music cultures. This paper also serves as an addendum to another paper by the same author which discusses the relationship between the history of rhapsody and World War I. Here, I include a comprehensive list of rhapsodies written from the eighteenth to the twentieth century. Based on this list, I conclude: 1) After Franz Liszt’s “Hungarian Rhapsodies” (1851-), the genre of “rhapsody” became a vehicle for the expression of national (or regional) identity. This trend gradually spread from Central Europe to the Scandinavian countries, the Balkan Peninsula, and Asia; and 2) there were also different types of rhapsody, including the “vocal rhapsody” written in the late nineteenth century UK.