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ポピュリスト運動と「人種」 - SUCRA
2007 年度修士論文
ポピュリスト運動と「人種」
―20 世紀転換期アメリカ合衆国における国民化のプロセスと「白人支配」―
埼玉大学
大学院
文化科学研究科
文化構造研究専攻
06CS015 深松
亮太
提出日:2008 年 1 月 10 日
埼玉大学文化科学研究科修士課程学位論文・特定課題研究成果要旨
文化構造(アメリカ研究)
学籍番号 06CS015
ロ ー マ FUKAMATSU RYOTA
国籍
(留学生)
字
ポピュリスト運動と「人種」
―20 世紀転換期アメリカ合衆国における国民化のプロセスと「白人
支配」―
研究専攻(専門領域)
氏名 深松 亮太
修士学位
論文名
特定課題研究名
提出年月日
体裁
(論文)
2008 年1月 10 日
論文 91 項(1 項文字数 1200 字)
指導教員
言語
有賀夏紀
日本語
別冊添付資料等
キーワード
ポピュリスト運動 人種 米西戦争 帝国主義 国民統合
本稿は、アメリカ合衆国における国民の境界の制定が、国内外を横断して行われつつあ
る状況において、
「人種」の違いに対する意識が強化されていった過程を、ポピュリスト運
動の文脈のなかで考察した。20 世紀転換期に展開されたポピュリスト運動では、貧しい白
人と黒人による経済的利害に基づいた連帯が試みられていた。このポピュリストによる人
種連帯に関しては、その存在や実体をめぐって解釈の論争が繰り返されてきた。そして近
年では、この人種連帯を打倒する目的で「人種」の概念が構築されていったと提起する研
究が現れ始めている。しかし、それらの研究では、人種連帯の打倒を望む民主党が、白人
の反黒人感情を煽る宣伝を行ったことの帰結のみに関心が向けられており、これらの宣伝
に対するポピュリストたちの反応に関する検討が加えられてこなかった。また、人種連帯
を打倒する目的で展開された「反黒人」の宣伝は、南部のポピュリストたちの「人種」の
違いに対する意識が変化した経緯を示すことができるが、中西部のポピュリストたちの人
種観の変化を示すことは、できないのである。
そこで本稿は、南部と中西部の双方のポピュリストたちの人種観が変化していく経緯を
示すために、20 世紀転換期のアメリカ社会において、国民としての条件が「人種」によっ
て規定されていく過程に注目した。具体的には、この時期のアメリカ南部では、ポピュリ
スト運動によって分裂した白人層を再統合するために、投票権を制限する州法改正が急速
に進んでいた。そして、南部ポピュリストたちは、貧しい白人の投票する権利が奪われる
ことに対する危機感から、
「人種」の差異に対する意識を強化すると共に、階級に対する意
識も強めていったのである。また、中西部のポピュリストたちは、米西戦争を通じて獲得
した諸国の住民を、アメリカ人として受け入れるかをめぐる議論に積極的に参与していた。
そしてこの論争では、アメリカの植民地保有に賛成する者と反対する者の双方が、「人種」
の違いに基づいて自らの正当性を訴えていた。
これらの国内外を横断して行われつつあった国民の境界をめぐる問題では、「人種」の
違いに基づく政治的適性をめぐる議論が行われており、アメリカの黒人と植民地の異なる
人種には、政治的適性がないものとされ、国民としての権利が否定されたのである。また、
他国における白人による「異人種支配」とアメリカ国内における「白人支配」は、互いに
正当化しあいながら、優秀な白人が劣等人種を支配することを当然視する考え方が定着し
ていった。つまり、ポピュリストたちは、
「人種」の差異と国民の境界をめぐる問題に日常
的に触れることを通じて、人種に関する自らの意識を変化させていったのである。
-1-
目次
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
第一章:ポピュリスト運動と「人種」をめぐる史学史的検討・・・・・・・・・・・・8
1.ポピュリスト運動研究における「人種」
8
2.構築主義と「人種」
14
第二章:ポピュリスト運動と反黒人キャンペーン・・・・・・・・・・・・・・・・・23
1.南部諸州における「反黒人キャンペーン」の展開
23
2.民主党による社会不安の醸成と宣伝
27
3.「黒人支配」に対するポピュリストの反応
35
第三章:国民の境界の確立と「白人支配」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42
1.南部諸州における投票権剥奪の進行
42
2.投票権剥奪を通じた「白人支配」の確立
45
3.投票権剥奪の議論とポピュリスト
52
第四章:ポピュリスト運動と「人種」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61
1.人種の違いと「理念」に基づく反領有の立場
61
2.新たな機会の創出と「白人支配」
68
3.国民の条件と「人種」
74
むすびに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・77
参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・80
-2-
はじめに
「ここ[アメリカ合衆国]は、白人の国なのだから、白人男性が管理し、統治しなければ
ならない。……なぜならば、かれら[白人男性たち]は、それ[国家の管理と統治]を黒人
よりもうまくやり遂げることができるからである。黒人たちが[国家の管理と統治に]
挑戦してみれば、彼が統治に対して無力で不向きであることが、証明されることにな
る で あ ろ う 」。
― 『 民 主 党 ハ ン ド ブ ッ ク 』( 1898 )
「アメリカ合衆国とヨーロッパの白人種は、この世界を管理することに適しているの
だ」。
―メアリー・E.リース 1
近年、人種に関する研究への関心が以前にも増して高まると同時に、人種という概念そ
のものを見直そうとする試みがなされている。それは、人種の概念が歴史を通じて変化し
てきたことを示すと同時に、人種の概念を軸とした不平等かつ複雑な社会関係を解明しよ
うとする試みであるといえる。このような人種を歴史的及び社会的に構築されてきた概念
として位置づける研究は、1990 年代以降さかんに行われ、多くの成果があげられている。
特に、それまで不変的な存在とみなされてきた人種カテゴリーとしての「白人」に疑問を
呈し、その流動性を明らかにしたホワイトネス研究は、アイルランド系移民たちが自他共
に白人として認識されるに至る過程を描いた、ディビッド・ローディガーの研究をはしり
として、急速な広まりを見せた。しかしこのホワイトネス研究では、白人の境界に関する
考察に関心が向けられており、アメリカ南部の白人と黒人の関係に注目した研究が少ない
のが現状である 2 。
アメリカ合衆国において、人種の概念が構築されていく過程では、白人の境界が定めら
れていったのであり、そこではいわば、白人でないものを選別し、排除する作業が行われ
たのである。ホワイトネス研究は、白人というカテゴリーから排除された集団ではなく、
白人として包摂されてきた人々が、白人であるがゆえに得てきた特権などに関心を寄せて
きたのである。しかしホワイトネス研究によって、人種カテゴリーとしての白人の流動性
が示されるほど、そのカテゴリーから排除されていった「白人以外の人種」が固定化され
て理解される危険性がある。それゆえアメリカ社会において、人種の概念が構築されてい
く過程を理解するためには、白人の境界線が引かれていく過程を検討すると共に、白人と
「白人以外の人種」の境界が明確に認識されていく過程もまた、検討していく必要がある
といえる。たとえば、白人と黒人の間における関係は、奴隷制度の時代から続く不平等な
State Democratic Executive Committee, Democratic Handbook, 1898 (Raleigh: Edwards &
Broughton, Printers and Binders, 1898), 38; Mary Elizabeth Lease, The Problem of Civilization
Solved (Chicago: Laird Lee Publishers, 1895), 31.
2 ディビッド・R・ローディガー著、小原豊志他訳『アメリカにおける白人意識の構築―労働者階級の形
成と人種―』(明石書店、2006 年).
1
-3-
関係が継続してきたと理解されてきた。しかし実際には、両者の関係は社会の慣習と共に
常に変化してきたといえるのである。白人と黒人の関係に、最も顕著な変化を露呈させた
のは、奴隷制度の崩壊であった。貧しい白人たちは、奴隷から解放され、投票権をはじめ
とした政治的諸権力を獲得した黒人と接近していき、そこでは、
「連帯意識」と呼べるよう
な関係が築かれつつあったのである。
貧しい白人と黒人たちが接近した背景には、工業化の進展によって顕在化した中西部や
南部の農民たちの困窮化があった。農民たちは、このような苦境を打開するために自らを
組織し、農民運動の基盤を形成していった。そのなかでかれらは、当時そのほとんどが農
民であった黒人との連帯を模索したのである。かれらは、農民たちの苦境を打開するため
に、「農民金融公庫」(subtreasury)を立案し、その実現を強く訴えることで、多くの農民
たちからの支持を糾合した。この「農民金融公庫」とは、政府が作った倉庫(サブトレジ
ャリ)に収穫した農産物を保管し、農民がそれを担保にして融資を受けることができるシ
ステムである。農民たちは、このシステムを通じて、農産物価格の下落と事業拡大に伴う
債務という、かれらが抱える二つの問題を同時に解決することができると期待した。さら
には、銀貨の無制限自由鋳造(free silver)や、鉄道の国有化を訴えることを通じて、農
民層に限られず、多くの貧しい労働者たちからの支持を獲得した。
この農民たちによる運動は、次第に規模を拡大していった。1892 年には、「全国農民同
盟」と第三政党としての「ポピュリスト党」の結成によって頂点に達する。そして同年の
大統領選挙では、第三政党としては異例の 100 万票以上の票を獲得し、既存の二大政党を
震撼させるまでに至ったのである。しかしポピュリスト党は、1896 年の大統領選挙におい
て、民主党に接近したことによって、第三政党としての独自性を喪失し、その勢力は衰退
していくことになる。ポピュリスト党が民主党と接近していった背景には、かれらの独自
の改革案として提起されたフリー・シルバーが、全国的に議論されるようになり、民主党
がこれを要綱に取り入れたことにある。その後、ポピュリスト運動は、独自の改革路線を
進む「ミッド・ローダー」 (mid-roader)と、フリー・シルバーを改革案として掲げた民主
党のブライアンを支持する提携派に分裂することになる 3 。
mid-roader には、中立的な立場や穏健派といった意味を持つ「中道」とうい訳語が一般的に用いられ
る。しかしポピュリストたちは、この用語をより急進的な意味で用いていた。つまりかれらにとって「中
道を進む」とは、共和党や民主党といった既存の「古い政党」の間を進むことを意味し、かれらはこの言
葉を二大政党と真っ向から闘うという姿勢を表す目的で用いていた。よって、本稿では、「中立」や「穏
健」といった誤解を避けるため、訳語を「ミッド・ローダー」に統一することにする。Lawrence C. Goodwyn,
The Populist Moment: A Short History of Agrarian Revolt in America (New York: Oxford University
Press, 1978), 230-231.
3
-4-
かれらが模索した黒人との連帯は、同じ時期に徐々に終焉へと向かい、冒頭の引用に見
られるような「白人支配」を当然視する認識を有するようになる。この他人種との連帯が
終焉に向かった歴史的背景に関しては、これまで様々な局面から検討がなされてきた。特
に近年の研究では、黒人との連帯を試みるポピュリストたちに対して民主党の指導者たち
が行った、「反黒人キャンペーン」に関心が寄せられている。この「反黒人キャンペーン」
では、黒人との連帯を試みるポピュリストたちが、黒人による政治支配をもたらすと宣伝
され、白人民衆の反黒人感情が煽られた。また民主党指導者は、黒人による政治支配に対
抗するように、
「白人支配(white supremacy)」の必要を訴えたのである。そして、
「反黒
人キャンペーン」を通じて、ポピュリストによる黒人との連帯は崩壊し、階級を軸として
分裂した白人層は、再統合に向かったのである 4 。
しかし上記の解釈には、注意を喚起すべき点が二点ある。第一に、黒人との連帯を実際
に試みたポピュリストたちが、民主党による「反黒人」の宣伝に対してどのような反応を
示し、結果として自分たちの白人としての認識を強めていったのかという疑問である。ポ
ピュリストたちが、白人としての認識を強化するに当たっては、民主党による「反黒人」
の宣伝と併せて、かれらがそれに呼応していく側面が存在するはずである。したがって、
その両者を包括した分析が必要であるといえる。
今ひとつの問題点は、民主党による反黒人の宣伝は、南部ポピュリストたちの人種に対
する意識の変化を示すこが可能であるが、中西部のポピュリストたちの人種意識の変化は、
この宣伝を通じて説明することができないということである。ポピュリスト運動は、南部
のみで展開された運動ではなく、中西部においても大きな勢力を築いており、かれらの人
種観においても変化が見られるのである。たとえば、ミネソタ州のポピュリストであるイ
グネィシアス・ドネリーは、『ドクター・ヒューゲット』において、「もしも黒人種が穏や
4 Jane Dailey, Before Jim Crow: The Politics of Race in Postemancipation Virginia (Chapel Hill:
University of North Carolina Press, 2000); Glenda Elizabeth Gilmore, Gender and Jim Crow: Women
and Politics of White Supremacy in North Carolina, 1896-1920 (Chapel Hill: University of North
Carolina Press, 1996); Stephen Kantrowitz, “Ben Tillman and Hendrix McLane, Agrarian Rebels:
White Manhood, ‘the Farmers,’ and the Limits of Southern Populism,” The Journal of Southern
History, 66 (August 2000), 497-524; Kent Redding, Making Race Making Power: North Carolina’s
Road to Disfranchisement (Urbana: University of Illinois Press, 2003). 第 2 章で詳述する「反黒人キ
ャンペーン」では、黒人による政治支配(negro domination もしくは、negro rule)がもたらす脅威が
宣伝された。そして民主党は、この脅威に対抗するために、white supremacy という言葉を頻繁に利用
したのである。一般的にこの用語は、
「白人優越主義」と訳されるが、この言葉には、domination と同義
の「支配」という意味も内包されている。また、反黒人キャンペーンにおいては、白人の優越性を示すよ
りも、「黒人支配」と対比的に用いられていた経緯がある。したがって本稿では、white supremacy の訳
語を、文脈によって使い分けることにしたい。具体的には、「黒人支配」と対比的に用いられている場合
には、
「白人支配」とし、明らかに優越性を示す意図が認められる場合は、
「白人の優越性」の訳語を当て
ることにする。
-5-
かな気候[の地域に]幾世代にわたって住み続けたならば、頭蓋骨は不必要な密度を失い、
脳[の比重]が拡張することは明らかだ」と述べているのである。この引用からは、彼が「頭
蓋骨の厚さ」に基づくとされた人種の優劣を固定化された不変的なものと考えておらず、
変化の可能性を有するものとして理解していたことがわかる。しかし、1898 年の「白人種
(White Race)」と題された論文では、
「私は別に黒人種、黄色人種、赤色人種を卑しめる
つもりはない。しかし、脳の活動、理解力、肉体的な強健さと耐久力、世界を席巻きし征
服し、植民する力等々において白人種が人類の最先端に立つという事実は動かしがたい」
と述べている。この引用においては、『ドクター・ヒューゲット』と異なり、「人種の可変
性」は一切考慮されておらず、白人の優越性が徹底的に示されており、彼の人種観が変化
したことを表しているといえる 5 。
これらの南部と中西部のポピュリストたちの人種観が変化した背景を考察するに当た
っては、20 世紀転換期のアメリカ社会において、国民としての条件が人種によって規定さ
れていく過程に注目する必要があるといえる。この時期のアメリカ南部では、ポピュリス
ト運動によって分裂した白人層を再統合するために、黒人の政治的権利の剥奪が急速に進
んでいた。また、中西部のポピュリストたちは、米西戦争を通じて獲得した国々の住民を
アメリカ人として受け入れるかをめぐる議論に積極的に参与していた。つまり、ポピュリ
ストたちは、人種の違いと国民の条件をめぐる問題に日常的に触れており、このことは、
かれらの人種観に変化をもたらす大きな要因となったと考えられるのである。
したがって本稿では、アメリカ社会において国民の条件が人種の違いに基づいて規定さ
れつつある背景のなかで、ポピュリストたちの人種観が変化していく経緯を示すことを目
的とする。そこでは、以下の二点を中心として考察を進めることにする。第一点は、黒人
との連帯を模索した南部のポピュリストたちが、どのような背景からそれを断念するに至
ったのかである。この点に関しては、先の研究で示された民主党による「反黒人キャンペ
ーン」と、黒人投票権の剥奪運動に対するポピュリストの反応を見ることによって明らか
になってくるであろう。二点目は、米西戦争を通じて顕在化した他国の異なる人種の問題
が、アメリカ国民としての適性と結び付けられたことである。つまりポピュリストたちは、
上記二点の社会背景のなかで、日常的に人種の差異と国民としての適性をめぐる議論にふ
れることによって、かれらの人種意識を変容させていったと考えられるのである。
5 Ignatius Donnelly, Doctor Huguet (New York: Arno Press, 1969), 57; Ignatius Donnelly, “The White
Race,” The Northland Magazine, 1 (July/August 1898), 185-186. 以下より引用。平野孝「イグネィシア
ス・ドネリーの世界再考」『アメリカ研究』第 22 号(アメリカ学会、1988 年)、28.
-6-
第一章では、ポピュリストによる黒人との連帯に関する研究史を概観する。そこでは特
に、ジム・クロウ(人種隔離)制度の成立過程と同運動との関係に注意して論じることに
する。またここでは、
「人種」が社会的および歴史的に構築されてきた概念であると提起す
る近年の研究と、ポピュリスト運動研究の接点を探ることを通じて、本稿の基盤となる議
論を提示する。第二章では、南部のポピュリストたちが目指した黒人との連帯に対する南
部(白人)社会の反応を考察する。ここでは、ノース・カロライナ州の 1898 年の選挙に
おいて、民主党によって宣伝された「黒人支配」の恐怖に対して、同州のポピュリストた
ちが示した反応を探ってみたい。そして第三章では、ノース・カロライナ州の民主党が投
票権を制限することを通じて、同州における「白人支配」をさらに強化しようとしたこと
の帰結を検討する。ここでは、
「貧しい白人」たちの投票権が制限されるという危機に直面
したポピュリストたちが、黒人との連帯に対する姿勢を変化させていく過程が示されるこ
とになるであろう。さらに第四章では、特に中西部のポピュリストの帝国主義者および反
帝国主義者たちの発言や著作を通じて、かれらの人種意識の変化を考察する。ここでは帝
国主義論争を通じて、異国の異なる人種の問題に直面したポピュリストたちが、
「白人支配」
を当然視するに至る過程が示されることになるであろう。以上の分析を通じて、アメリカ
合衆国の内外において国民の境界が人種によって規定されつつある背景のなかで、ポピュ
リストたちが「白人支配」を当然視するに至った経緯が示されることになるであろう。
-7-
第一章:ポピュリスト運動と「人種」をめぐる史学史的検討
1.ポピュリスト運動研究における「人種」
ポピュリスト運動と人種に関する研究は、今日までに膨大な蓄積があり、なかでも南部
ポピュリストによる黒人との連帯をめぐる解釈は、常に論争の焦点とされてきた。まず、
ポピュリストによる黒人との連帯に対する諸解釈を概観し、そこに内在する問題点を探っ
てみよう。
黒人との連帯に対する対立的見解の確立
ポピュリストと人種に関する議論を提起した最初の研究は、C・ヴァン・ウッドワード
によるトム・ワトソン研究である。ワトソン(Thomas Edward Watson)は、ジョージア
州のポピュリスト党において、精力的なスポークス・パーソンとして活躍した人物である。
彼は、1890 年にジョージア州の民主党の候補者として立候補し、現職のバーンズ(George
T. Barnes)を押さえて、連邦下院議員の座を勝ち取った。翌年に同州においてポピュリス
ト党が結成されると、ワトソンはすぐに入党の意を示し、積極的な活動を展開するだけで
なく、「黒人との連帯」を強く主張したのである。
ウッドワードは、ポピュリスト運動におけるトム・ワトソンの活躍を通じて、「ポピュ
リストの闘争の時代ほど、南部における白人と黒人の二人種が歩み寄った例は、後にも先
にもなかった」と述べている。その根拠となる事例は、ジョージア州のポピュリスト党の
綱領に、リンチ法やKKKに対する非難を盛り込んだことや、ワトソンを支援する演説を
積極的に行った黒人牧師のドイル(H. S. Doyle)をリンチの脅威から救うために、ワトソ
ンが彼を自分の敷地に匿い、仲間の農民たちを二日間警護に当たらせたことなどが挙げら
れている 6 。
このようにワトソンは、黒人たちに対して友好的な態度を示していたのだが、ウッドワ
ードは、彼の後期の政治活動において、その態度が変化したことを示している。その変化
が最も顕著に現れてきたのは、1904 年にワトソンがポピュリスト党の大統領候補として選
出された頃からだった。彼はそれまでの黒人に対する態度を一変し、
「黒人支配」の恐怖と
「白人による政治支配」を訴えるようになると共に、黒人の投票権剥奪へと動き出すので
C. Vann Woodward, Tom Watson: Agrarian Rebel (New York: Oxford University Press, 1938), 222; C.
Vann Woodward, “Tom Watson and the Negro in Agrarian Politics,” The Journal of Southern History,
4 (February 1938), 17, 21-23. ポピュリスト運動研究の総合的な研究史として、ここでは以下の三点をあ
げておく。William F. Holmes, “Populism: In Search of Context,” Agricultural History, 64 (Fall 1990),
26-58: Worth Robert Miller, “A Central Historiography of American Populism,” Journal of Central
Plains, 16 (Spring 1993), 54-69; Robert C. McMath Jr. “C. Vann Woodward and the Burden of
Southern Populism,” The Journal of Southern History, 67 (November 2001), 741-768.
6
-8-
ある。またワトソンは、同時期に黒人への蔑視を強めるだけに留まらず、カトリックやユ
ダヤ教などの異教徒への軽蔑的な態度も強めている。これらのワトソンの「他者」への軽
蔑的な態度は、しばしば北部の産業資本への嫌悪感や、
「女性の純潔」が墜落することへの
脅威と関係付けて論じられている。たとえば、ユダヤ系の工場主であるフランク(Leo
Frank)へのリンチ事件に際してワトソンは、ユダヤ系と北部の産業資本を結び付けると
共に、それが白人女性の純潔さを汚す主因としたことをウッドワードは指摘しているので
ある。ウッドワードは、このようなワトソンの人種観の変化それ自体が、
「南部の農民政治
の人種に関する見解の変化を示している」7 と述べており、ワトソンの黒人に対する態度の
変化が、一般の住民を代表していたことを示唆している。しかし、ウッドワードのトム・
ワトソン研究では、ポピュリストによる黒人との連帯に対する社会の反応や、その試みが
終焉に向かった背景に対する検討が加えられてはいなかった。
ポピュリスト運動は、肌の色を問わない貧しい農民層の連帯を試みることを通じて、白
人間に階級対立をもたらした。そして、ワトソンの黒人に対する態度の変化は、この階級
対立が終焉に向かったことを示しているといえる。それでは、どのような背景からこの階
級対立は終焉に向かったのだろうか。ウッドワードは、
『アメリカ人種差別の歴史』のなか
で、ジム・クロウ制度の成立や黒人投票権の剥奪が、20 世紀転換期の南部社会に定着して
いく過程を詳述している。そこで彼は、これらの人種差別法の成立が、階級を軸として分
裂した白人を再統合する役割を果たしたことを指摘している。これらの人種差別法が成立
していく過程において、民主党の保守派は、ポピュリストと黒人との連帯が、黒人による
政治支配を招くものとして、徹底的に批判した。特に選挙に際しては、黒人による犯罪率
の増加や黒人男性による白人女性への強姦などを宣伝する「反黒人キャンペーン」を通じ
て、白人民衆の危機感が煽られた。そして民主党の保守派は、
「黒人による脅威の解決」と
いう名目のもとに、分裂した白人の再統合する目的から、人種差別法を成立させていった
という。つまりウッドワードが述べているように、黒人からの諸権利の剥奪は、
「将来白人
のいずれかの党派が、[ポピュリストのように]黒人の支持を糾合して他の党派に対抗し、
白人社会の平和を乱すことを防止するための保障として提案された」のである 8 。
1970 年代に入ると、ポピュリスト運動研究は社会史研究との出会いによって、新たな展
開を迎えることとなる。社会史研究では、歴史研究において今まで無視されてきた一般大
Woodward, “Tom Watson,” 33.
C・ヴァン・ウッドワード著、清水博他訳『アメリカ人種差別の歴史』
(福村出版、1998 年)、92―104.
引用は、95.
7
8
-9-
衆に焦点を当て、以前よりもローカルな地域の研究に対象を絞った、具体的かつ詳細な考
察が行われ、多くの発見がもたらされた。そしてこの社会史研究によって、ポピュリスト
運動が有する多様な側面が明らかにされ、かれらが試みた黒人との連帯に関しては、その
存在や実態をめぐる解釈の論争が加熱することになる。
前述したように、ウッドワードは、ポピュリストによる黒人との連帯を高く評価してい
るのであるが、チャールズ・クロウは、この解釈に対して批判を加えた。彼は、ワトソン
の人種観は変化したのではなく、常に黒人に対して友好的な側面と対抗的な側面の二面性
を有していたと指摘した。そして彼は、黒人に対して友好的な立場を示していたワトソン
の前期の活動を、ウッドワードは強調しすぎていると批判しているのである。その根拠と
して提起されているのは、ワトソンが人口構成における黒人の割合を配慮した演説を行っ
ていたという事実である。具体的には、黒人人口が多い地域で行われたワトソンの演説で
は、人種の境界線(color line)の打破と人種間の政治的平等を訴える一方で、白人人口が
多い地域での演説では、人種間の社会的平等と人種混交を批判しているのである 9 。
また、ウッドワードが強調した、黒人牧師のドイルに対するリンチをワトソンが防衛し
た事象に関しては、正確に言えば、ワトソンが自らの自宅をドイルに提供したわけではな
く、彼のプランテーション内の黒人の家に行くように命じたことが強調されている。さら
には、ジョージア州のポピュリストたちが、列車内における人種隔離法の成立に加担した
り、連邦政府の資金を用いて黒人大学をアトランタに設立する計画を頓挫させたりした事
実を主張しているのである。そしてクロウは、選挙に際してワトソンが不正や買収を行っ
ていたことを強調し、
「州法の制定においては、ポピュリストのほうが民主党よりも暴力的
であった」と述べている。これらの事実を通じて彼は、ウッドワードが示した南部ポピュ
リストたちによる黒人との連帯の存在を否定しているのである 10 。
クロウのように、ポピュリストによる黒人との連帯を否定する解釈を示す研究者がいる
一方で、ローレンス・グッドウィンは、テキサス州グライムズ郡(Grimes)の事例を通じて
ポピュリストによる黒人との連帯が存在した事実を示そうとした。人口の半数以上が黒人
であった同郡では、ポピュリスト党が黒人の支持を集めることを通じて選挙に勝利し、保
安官助手などの多くの公職が黒人に与えられていた。このような状況に不快感を募らせた
民主党は、「白人男性連合」(White Man’s Union)を組織し、その構成員以外の投票を認
9 Charles Crowe, “Tom Watson, Populists, and Blacks Reconsidered,” The Journal of Negro History,
55 (April 1970), 102, 112-113.
10 Ibid., 104, 107-109. 引用は、104.
- 10 -
めないことを制度化することを通じて、同郡における支配力を奪取した。しかし同郡のポ
ピュリストたちは、黒人たちが投票権を奪われた後も、かれらとの連帯を放棄することは
なかった。特にその事実を象徴しているのが、
「白人男性連合」とポピュリストの白人保安
官の間で繰り広げられた銃撃戦である。グッドウィンは、この銃撃戦において、ポピュリ
ストの黒人保安官助手が白人保安官に協力した事実を、かれらの娘や友人などからの聞き
取り調査を通じて論じている。彼はこの事例を通じて、黒人と白人のポピュリストの間に
自然で個人的な関係が存在したことを示すと共に、ポピュリストの時代において両人種の
友好関係が増進する可能性があったことを示唆したのである。また、グッドウィンはこの
論文において、ポピュリストによる黒人との連帯の試みに対する民主党の激しい非難があ
り、それに付随して黒人の投票権が剥奪されていった事実を示している 11 。
黒人との連帯が挫折した背景の考察
1970 年代以降に行われた、ローカルな地域に対象を絞った社会史的考察では、ポピュリ
スト運動が有する地域的特性が明らかになると共に、黒人との連帯に関しては、その存在
有無が問われるようになった。また、特定の郡などに考察の対象が向けられることによっ
てポピュリスト運動が有する多様性が明らかになった結果として、運動の全体像を捉える
ことが困難になったという指摘もなされている。しかし、このような「全体像の把握」と
いう社会史研究に対する批判は、グッドウィンによって克服されることになる。彼の著書
『ポピュリストの時代』は、
「ポピュリスト運動に関する総合的な全国史であると共に、最
も信頼できる研究」 12 として高い評価を受けているのである。
同著は、研究が蓄積された結果として明らかになったポピュリスト運動が有する様々な
側面を、一つの理念型にまとめたといえる。グッドウィンは、社会運動の展開には、運動
形成(movement forming)、大衆動員(movement recruiting)、運動教育(movement
educating)、政治化(movement politicized)といった四段階が存在することを示し、そ
れを「運動を醸成する文化(movement culture)」と呼んだ。彼は、農民同盟の結成と第
三党運動への動員における、農民金融公庫の立案が果たした役割を強調している。農民た
ちは、
「農民金融公庫」といった一つの問題意識を共有することによって、運動の基盤を形
成し、このシステムの教育活動を通じて人々の動員を進めていった。つまりグッドウィン
C. Goodwyn, “Populist Dreams and Negro Lights: East Texas as a Case Study,” American
Historical Review, 76 (December 1971), 1435-1456.
12 Walter Nugernt, “Review of Democratic Promise by Lawrence Goodwyn,” Journal of American
History, 64 (September 1977), 464-465.
11Lawrence
- 11 -
は、農民金融公庫を基盤として醸成された農民たちの有機的な関係の強化を「運動を醸成
する文化」とし、その拡大をポピュリスト運動のなかに見たのである 13 。
グッドウィンは、ポピュリスト運動における運動形成、大衆動員、運動教育といったプ
ロセスが急速に展開し、多くの支持を集めることに成功したことを示しているのだが、政
治化の段階に対する彼の評価は消極的であるといえる。先述したようにポピュリスト党は、
1896 年の大統領選挙において民主党に接近し、独自の改革路線を進む「ミッド・ローダー」
と、フリー・シルバーを改革案として掲げた民主党のブライアントを支持する提携派に分
裂していった。しかしグッドウィンは、「提携派」と「ミッド・ローダー」への分裂という
見方を否定し、ポピュリスト運動の内部にネブラスカ州を中心とした機会主義的な「影の
運動」
(shadow movement)が、常に存在していたことを指摘したのである。つまり彼は、
「影の運動」という新しいカテゴリーを用いることを通じて、提携派のポピュリストを運
動の中心から除外したといえる 14 。
ここまで、ポピュリスト運動の展開に関するグッドウィンの解釈を簡略的に紹介してき
た。次に『ポピュリストの時代』に見られる黒人との連帯について見てみると、同著は、
テキサス州の事例を扱った前掲論文よりも、黒人との連帯に対して消極的な評価を示して
いることがわかる。グッドウィンが『ポピュリストの時代』において、ポピュリストによ
る黒人との連帯を消極的に評価せざるを得なかったのは、彼が提起した「容認された(階
層性の)文化」(received culture)の影響力を考慮したからである。この「容認された文
化」とは、地域主義(sectionalism)に対する忠誠心と、白人のプロテスタントを中心に
据える文化であり、グッドウィンは、この文化が改革における「精神的、感情的な障害」と
なったことを主張している。彼によると当時のアメリカ社会では、南北戦争の記憶に基づ
いた二大政党への忠誠心が存在すると共に、人種的および宗教的な違いに対する意識も明
確に持ち合わせていたという。したがって、ポピュリスト党に対抗する二大政党やグッド
ウィンが主張する「影の運動」は、ポピュリスト運動への参加を、地域主義や政党に対す
る忠誠を裏切る行為として批判したのである 15 。
特に南部では、「容認された文化」を通じた批判が、反黒人キャンペーンや黒人投票権
の剥奪運動として現れたのであり、ポピュリストによる黒人との連帯の試みは、その影響
力に屈したといえる。つまり、
「ポピュリストたちは、容認された白人優越主義の伝統から
13
14
15
Goodwyn, Populist Moment, ⅹⅶ-ⅹⅹ, 109-114.
Ibid., 125-129.
Ibid., 97.
- 12 -
脱することを試みたのだが、かれらは白人のアメリカ人であったがゆえに、白人優越主義
の精神(ethos)の範囲内で行動せざるを得なかった」 16 とグッドウィンは述べているのであ
る。
1970 年代の後半までのポピュリスト運動研究では、黒人との連帯の存在有無やその実態
を考察するという共通した特徴が見られた。また、ウッドワードの『アメリカ人種差別の
歴史』やグッドウィンの『ポピュリストの時代』では、ポピュリスト運動に対する社会の
反応として、反黒人キャンペーンが台頭したことによって、ポピュリストによる黒人との
連帯が終焉に向かったことが示された。しかしこれらの研究では、白人間の対立のみに言
及されており、
「連帯」の対象とされた黒人たちが示したポピュリスト運動に対する反応に
は、あまり目が向けられていなかった。このような状況の克服を試みたのがジェラルド・
ゲイサーの研究である。彼の研究は、アメリカ合衆国の南部諸州における投票結果を通じ
て、黒人人口の比率とポピュリスト党の勢力の間における関係を考察したものである。ポ
ピュリストたちが黒人との連帯を強く訴えていたのであれば、黒人人口の多い地域ではポ
ピュリスト党が多くの黒人票を得ていたはずである。しかしゲイサーの研究によって示さ
れたのは、逆の結果であった。つまり、テネシー州とノース・カロライナ州の例外を除い
て、黒人人口の多い地域におけるポピュリスト党が獲得した黒人票の比率は、必ずしも高
くなかったのである。ゲイサーは、その理由として白人と黒人の間における利害の相違を
強調している 17 。
その利害の相違は、黒人たちの政治要求において顕著に現れている。たとえば、小規模
の土地を所有している白人農民たちが、生産量の拡大を求めていたのに対して、その多く
が土地を持たない農業労働者であった黒人たちは、より多くの賃金を求めていたのである。
この点に関してゲイサーが注目するのは、1891 年の「綿摘み労働者のストライキ」
(cotton
pickers’ strike)である。これは、綿摘み労働に従事する黒人たちが 100 ポンドあたり 50
セントの賃上げを要求したものであり、黒人たちは白人ポピュリストにこのストライキの
指揮を求めた。しかしポピュリスト運動の指導者層の多くは、プランター層の白人であっ
たことから、かれらは、自分たちの生活を脅かす危険性を有するこのストライキを支持し
なかったのである 18 。
16
Ibid., 294-295.
Gerald H. Gaither, Blacks and the Populist Movement: Ballots and Bigotry in the New South
[Revised Edition, 1977] (Tuscaloosa: The University of Alabama Press, 2005), ⅹ-Ⅺ, 109-113,
198-210.
18 Ibid., 13-14, 26-29, 45.
17
- 13 -
また、白人ポピュリストたちは、黒人たちが望んでいた選挙の公正な投開票を盛り込ん
だ「ロッジ選挙法案」(Lodge Force Bill)に対しても同様の態度を示した。この法案は、
連邦政府によって任命された選挙監督官に有権者登録を統制する権限を与え、連邦政府と
州政府の開票検査官が、共同で開票を行うことによって、公正な投開票を実現することが
盛り込まれていた。ポピュリストたちは当初、この法案に賛成の意向を示していた。しか
し、民主党がこの法案を「黒人による政治支配」を招くものであると批判した結果、この
法案に対して多くのポピュリストが反対にまわったという。このようにゲイサーは、黒人
たちが自らの利害に基づいてポピュリスト党を支持しなかったことを明らかにしたのであ
る。そして彼は、
「白人ポピュリストたちが示した[黒人との連帯という]レトリックに対し
て、先行する歴史家たちは好意的すぎる印象を与えてきた」と述べており、その評価は、
消極的であるといえる 19 。
その後、ポピュリスト運動における人種に関する研究は、グッドウィンとゲイサーに見
られたような総括的な研究は行われず、特定の州や郡に対象を絞った社会史研究の流れに
沿ったものであるといえる。そして、それらの研究は、ポピュリストによる黒人との連帯
を、肯定あるいは否定のどちらかといった選択的な解釈に留まり続けていることも事実で
ある。しかしその一方で、1990 年代の後半以降になると、ポピュリスト運動の黒人との連
帯に対する南部社会の反応を通じて、
「人種」の概念が構築されていく経緯を示そうとする
研究が現れ始めてきた。次節では、人種概念の自明性に疑問を投げかけた諸研究を概観す
ると共に、それらの研究とポピュリスト運動研究の接点を論じた研究を見てみよう 20 。
2.構築主義と「人種」
人種カテゴリーの流動性
本稿の冒頭でも述べたとおり、1990 年代以降、「人種概念」の可変性を念頭に置いた研
究が数多く行われるようになった。そのきっかけとなったのが、ホワイトネス研究の勃興
と流行であり、そこではアメリカ合衆国の建国以来「不動」の存在とみなされてきた人種
カテゴリーとしての「白人」を問い直すことが目的とされている。つまりホワイトネス研
究は、アメリカ合衆国に移住してきた様々な出自を有するヨーロッパ系移民たちが、
「白人」
19
Ibid., 55-56, 60. 引用は、112.
特定の地域を考察対象としたうえで黒人との連帯に否定/肯定の解釈を示す研究として、Barton C.
Shaw, Wool-Hat Boys: Georgia’s Populist Party (Baton Rouge: Louisiana State University Press,
1984); William F. Holmes, “Populism in Black Belt Georgia: Racial Dynamics in Taliaferro County
Politics, 1890-1900,” The Georgia Historical Quarterly, 83 (Summer 1999), 242-266.などが挙げられる。
20
- 14 -
という単一の人種カテゴリーに統合されていく歴史的プロセスを明らかにしたのである。
従来の移民史研究においても、アメリカ合衆国にやって来た移民たちが、いかにしてア
メリカ人として統合されてきたのか、あるいは、独自の文化を維持してきたのかをめぐっ
て論争が繰り広げられてきた。それに対してホワイトネス研究は、ヨーロッパ系の移民た
ちがアメリカ人として統合されるに当たって、
「白人であること(ホワイトネス)」が重要な
条件として機能していたことを強調しているのである。本節では第一に、ホワイトネス研
究をはじめとした、
「人種」を社会的および歴史的に構築されてきた概念として位置づけよ
うとする諸研究が提起する問題意識と、それに対する批判を整理する。その上で第二に、
人種概念の構築とポピュリスト運動の関係を論じた研究に関して検討を加えてみたい。
まず、ホワイトネス研究の問題意識及び批判点を整理するうえで、これらの研究の先駆
けとなったディヴィット・ローディガーの著作を見てみよう。ローディガーは、白人労働
者たちが、白人であるがゆえに得られる投票権などの社会的および政治的な報酬(wages)
としての「ホワイトネス」が、階級関係の不平等を埋めあわせるために利用され、労働者
階級が人種の違いに基づいて分断されていった悲劇的な過程を考察している。その過程に
おいて強調されているのは、「自己」と「他者」の差別化、つまり白人労働者たちが、
「『奴隷
にあらず』して『黒人にあらず』」という自己のアイデンティティを作り上げてきたことで
ある。具体的には、南北戦争以前のアメリカ社会において、黒人と同様に「劣等な人種」
として認識されていた、アイルランド系の移民労働者たちが、ネィティビズムに対抗する
ために、自分たちが「白人であること」を主張するとともに、反黒人的な感情を全面に出す
ことを通じて、確固たる白人としての地位を築き上げてきたことを提起している。ローデ
ィガーは、アイルランド系移民たちが「ホワイトネス」を行使できた理由として、かれら
の票田としての魅力と共に、民主党がアイルランド系をも包含した政治における「白人の
特権化」を推し進めようとした点を指摘している。このことからわかることは、
「ホワイト
ネス」を獲得するプロセスは、白人として認識されたいと望むアイルランド系の感情と、
かれらを白人として包摂することを通じて、政治的支配力を強めたいと望む人々との呼応
関係によって成り立っていたといえるのである 21 。
ローディガーは、アイルランド系移民の白人としての地位を獲得するプロセスを考察対
象とすることを通じて、
「白人」という人種カテゴリーの流動性を指摘し、ホワイトネス研
究の基礎を築いたといえる。この研究分野は、その後急速に深化し、他のヨーロッパ系移
21ローディガー『アメリカにおける白人意識』
,38,38-39,216-261.
- 15 -
民たちが、アイルランド系移民と同様に「ホワイトネス」を獲得していく過程が指摘され
た。そして人種カテゴリーとしての白人が明確に規定されていく過程では、投票権をはじ
めとした国民としての権利をめぐる問題が大きな要素となっていたことが、ローディガー
の研究において強調されている。このような視点は、後の研究においても引き継がれこと
になるのだが、特にマシュー・ジェイコブソンの研究において顕著に現れている 22 。
ジェイコブソンは、アメリカ合衆国における白人の境界の変遷過程を三期に分けて考察
しており、その過程は、人種の違いに基づく「自治能力の適性」や「市民権」をめぐる問
題意識が常に存在していたことを指摘している。ジェイコブソンによると、
「帰化できる条
件を自由な白人に限る」とする 1790 年に制定された帰化法の法規定においては、人種カ
テゴリーとしての白人の範囲に対する明確な規定が存在しなかったという。しかし、アイ
ルランド系移民が増加し始める 1840 年頃から白人の境界に対する疑問が提起され始める。
この問題意識は、人種のヒエラルキーに関する科学的議論を通じて現れ、自治能力の適性
は、アングロサクソン系の白人に基づくものと認識されるようになった。そして、19 世紀
末における南東欧系やアジア系の移民の増加を背景として、白人の境界をめぐる議論が再
燃したが、1924 年の移民制限法を機に、多様な出自を有するヨーロッパ系移民たちは、「白
人種(caucasian)」という同一のカテゴリーに再統合されていくことになる。このようにジ
ェイコブソンは、
「ホワイトネス」の概念が、社会の変化に直面したときに、その変化に対
応するように変化してきた過程を示したのである 23 。
このような「人種」が決して不変な概念ではなく、社会の状況に応じて構築されてきた
概念であることを明らかにしたホワイトネス研究は、歴史学研究をはじめとした人種に関
わる研究に多大な影響を与えた。しかし近年では、ホワイトネス研究に対する批判的見解
も現れ始めている。ピーター・コーチンは、ホワイトネス研究の拡大と普及によってもた
らされた成果を評価しつつも、いくつかの問題点を指摘している。その問題点の中心に位
置しているのは、
「ホワイトネス」という用語そのものが有する曖昧さであり、ホワイトネ
ス研究は、この用語に対して十分な規定を行わないまま研究が普及し、具体性に欠けた分
析が行われているという点である。彼は、ジェイコブソンの研究において指摘された 1790
年の帰化法に基づいて、アイルランド系移民たちが白人として受けいれられることが承諾
され、後にかれらが白人になったとする解釈を、抽象的であると批判している。その上で
国民としての権利と「ホワイトネス」の関係に関しては、ローディガー『白人意識の構築』59-60,104-109,
104,109,188,229-238,270.
23 Matthew Frye Jacobson, Whiteness of Different Color: European Immigrants and the Alchemy of
Race (Cambridge: Harvard University Press, 1998), 8-11, 13-14.
22
- 16 -
コーチンは、「もしそれ[ホワイトネス研究]が抽象的な理解に留まるのであれば、それらの
分析手法は崩壊するであろう」24 と述べている。つまり、ホワイトネス研究が提起した「ホ
ワイトネス」という概念は、白人としての自己認識を示しているような印象を与えている
のである。
このようなホワイトネス研究における、白人としての承認と自己認識をめぐる問題が顕
在化してくることの問題点は、
「白人」という固有の人種カテゴリーが考察の対象とされる
ことによって、白人以外の人種カテゴリーが固定化される恐れがあるからである。ローデ
ィガーの研究において示されたように、アイルランド系の移民たちは、黒人に対する差別
的な行為を行うことを通じて自他共に白人として認められるようになっていったのだが、
そこでは、白人と黒人の対立的な関係が固定化されているといえる。ここで問題とされる
べきことは、ホワイトネス研究の多くが、
「人種カテゴリーとしての白人の境界」のみを問
題とし、その他の人種カテゴリーの流動性に対する配慮がなされていないということであ
る。つまり、
「人種」の概念が構築されていく過程を理解するために、以下のような作業が
求められるといえる。それは、人種の違いによってもたらされてきた「自己」と「他者」と
いう認識が、どのような社会的役割を果たしてきたのかを明らかにすると共に、その役割
が歴史を通じてどのように変化してきたのかを考察することである。次に見るバーバラ・
フィールズの研究は、上記の問題を考察する上で重要な意味を有している 25 。
フィールズは、
「人種」の概念が歴史的あるいは社会的に構築されてきただけでなく、な
によりもイデオロギー的な要素を持つ概念であることを主張している。ここでいうイデオ
ロギーとは、一般的に理解される「虚偽意識」や「偏った観念形態」を意味するのではな
く、
「日常の存在を描写する語彙」である。フィールズは、人々が日々の生活や社会関係に
おける慣習的行為を通じて人種を理解していることを重視しており、
「人々は、社会的な現
実における素朴な感覚のなかで、[人種の概念を]日々創り出している」 26 と述べている。
つまり、人々は人種について考えることや語ることといった、日々繰り返す何気ない行為
を通じて人種の違いや、その違いによってもたらされる不平等な関係を自明なものとして
認識しているのである。また、人種の概念を「日々創り出している」という上記の引用から
解かるように、フィールズは、
「人種」の概念が単に構築されるだけでなく、社会関係の変
24
Peter. Kolchin, “Whiteness Studies: The New History of Race in America,” Journal of American
History, 89 (June 2002), 163.
25 Ibid., 161-162.
26
Barbra Jeanne Fields, “Slavery, Race and Ideology in the United States of America,” New Left
Review, 181 (May/June 1890), 110.
- 17 -
化に応じて絶えず変化してきた概念であることを示唆している。
このようにフィールズは、人々の認識を支配するイデオロギーとしての「人種」の概念
が、日常的な行為を通じて、構築されてきたことを示したのだが、彼女は人種の違いに基
づく社会関係を規定する要素として、法律の重要性を提起している。フィールズは、奴隷
制度の時代における「奴隷法(slave code)」が、人々の行動を規定するイデオロギーとし
ての役割を担っていた事実を通じて、
「人種が法律の説明となるのではない。現実的な必要
(needs)―奴隷所有者が有する所有権の範囲を明らかにする必要と自由人(free people)
と奴隷の親しい関係を妨げる必要―が法律を呼び寄せたのである」 27 と述べている。つま
り、奴隷法が制定される以前の社会において、奴隷と貧しい白人の間における関係は曖昧
であったが、法律によってその関係が細かく定められていくことによって、両者の不平等
関係は自明な現実となったというのである。
ポピュリスト運動研究と「人種」の構築
これまで、ローディガーを中心としたホワイトネス研究と、フィールズによる日常実践
を通じた人種イデオロギーの構築という、
「人種」の概念が社会的および歴史的に構築され
てきたとする二つの議論を見てきた。以下では、ポピュリストによる黒人との連帯と人種
概念の構築の関係について論じた研究について見てみよう。
先述したようにフィールズは、
「人種間の境界線の明確化」という現実的な必要に基づい
て奴隷法が制定された経緯を説明したのだが、19 世紀末から 20 世紀初頭において黒人投
票権の剥奪やジム・クロウ制度などといった、人種差別法の制定が進む過程においても同
様のことがいえる。つまり、貧しい白人と黒人は、自由であるか否かによって隔てられて
いたが、奴隷制度の崩壊によって、かれらの境界は再び曖昧なものとなった。その事実を
象徴するように、
「経済的に貧しい」という共通の意識の基に、両者の連帯が試みられたの
である。前節で見たようにウッドワードは、人種差別法の制定が階級を軸として分裂した
白人層を再統合するために考案されたことを示した。しかし彼は、人種差別の法制化に当
たって人種主義が社会に浸透していく社会背景については、あまり関心を示していなかっ
た。
ジョエル・ウィリアムソンは『人種のるつぼ』において、人種主義が 19 世紀末のアメ
リカ南部において急速に普及していく過程を詳述している。彼の研究によると、南部の白
27
Ibid., 107-108.
- 18 -
人男性たちは、1880 年代の後半から 1890 年代にかけての農業不況や、奴隷から解放され
た黒人との競争にさらされた結果、家父長としての責任を果たせないことから、男性とし
ての自信を喪失していたという。当時の南部社会では、女性を信心深く純潔な存在とみな
すヴィクトリアン思想が根強く残っていた。それゆえ男性と女性の関係においては、男性
が「か弱い女性」を経済的に保護することは、当然のこととされていたのである。しかし
男性たちは、経済的な困窮化によって家族を保護することが困難となり、それは同時に、
白人男性が理想とする「男性性(manhood)」を示すことをも困難にした。このように南
部社会では、家族の保護と「男性性」の間に深い関係があったのだが、1880 年代の後半か
ら急速に普及し始める人種主義は、かれらの男性性の再起において重要な役割を果たすこ
とになる。
この時期は、ポピュリスト運動の躍進によって、民主党の南部における支配力が低迷し
ており、この状況に危機感を募らせた南部の民主党指導者たちは、人々の人種偏見に訴え
ることを通じて、支持を糾合することを試みていた。そこで用いられたのが、奴隷解放後
に生まれた「新しい黒人(new negro)」たちを退化した存在としてみなす、北部で発展し
た「科学的人種論」である。ウィリアムソンは、上記のような人種論を「急進的人種主義
(radical racism)」と呼んでいる。このような、急進的人種主義思想を有する指導者たちは、
南部白人の心性(mentality)を支配していたヴィクトリアン思想と、「黒人退化論」を融
合させ、
「退化した黒人たちは、白人女性を強姦する」という言説を形成した。そしてかれ
らは、
「野蛮な黒人による白人女性の脅威」という言説を一般大衆の間に浸透させることを
通じて、自分たちの政治的支配力を回復したのである。このことは、一般の南部の白人男
性にとっては別の意味を持った。つまり、女性を経済的に保護することが困難であった彼
らは、
「野蛮な黒人」から女性の純潔や家族を守るという目的を共有し、それを実行するこ
とを通じて、喪失した男性としての自信を回復していったのである。ことからウィリアム
ソンは、「反黒人キャンペーン」の成立過程を体系化したといえる 28 。
ウィリアムソンの研究は、南北戦争を分岐点として人々の黒人に対する認識が変化した
ことを示すと共に、黒人に対する恐怖心を宣伝することを通じて、南部の白人男性たちが
衰退しつつあった稼ぎ手としての「自信と力」を回復していったことを示している。また、
ウッドワードも黒人差別法の制定を通じて、政治的に分裂した白人たちが再統合していっ
た事実を示した。彼らの認識は、
「他者への抑圧を通じた確固たる白人としての地位の確立」
28 Joel Williamson, The Crucible of Race: Black-White Relations in the American South Since
Emancipation (New York: Oxford University Press, 1984), 111-119.
- 19 -
といった、ホワイトネス研究の視点と類似した要素を有しており、近年の人種研究に大き
な示唆を与えたといえる。そしてアメリカ南部において、黒人の権利が制限されていく過
程を人種概念の構築と結び付けた最初の研究は、グレンダ・ギルモアの『ジェンダーとジ
ム・クロウ』である 29 。
ギルモアによると、19 世紀末のノース・カロライナ州では、規範的行動や中産階級的価
値観といった曖昧な定義に依存した「最良の男性(best man)」というイデオロギーが存
在し、それによって政治的諸権利や公共の場における自由の行使が規定されていたという。
このイデオロギーには、人種の境界に基づく制限がなく、しばしば黒人も「最良の男性」
として認められることがあった。ギルモアは、その背景として以下の二点をあげている。
それは第一に、ポピュリスト運動の躍進に伴って任命された「公職についた黒人」である。
ノース・カロライナ州のポピュリスト党は、1894 年の選挙において共和党からの提携の
要請に応じることによって、州議会における与党の座を得ていた。この時期のポピュリス
ト党は民主党との提携を試みる勢力が強まっていたことは既に述べた。しかしウッドワー
ドによると、南部のポピュリストの多くは、民主党との提携に嫌悪感を有しており、共和
党との提携を望む勢力のほうが強かったという。その要因となっていたのは、第一に、当
時の大統領である民主党のグローバー・クリーブランドとポピュリスト党の間にフリー・
シルバーや関税などの政策面における相違があったことが挙げられる。第二に、ポピュリ
ストたちは、南部における民主党の一党支配体制を打倒したいと考えており、南部におい
てかれらが民主党と提携すれば、民主党の支配力をさらに強めることになると考えていた
からである。これらの背景から南部のポピュリストたちは、民主党よりも共和党との提携
を強めようと試みたのだが、ノース・カロライナ州以外では大きな成果を上げることは出
来なかった。そして同州では、共和党とポピュリスト党が与党の座に就くことによって、
多くの黒人が公職に任命された。このことは、かれらが「最良の男性」として認識される
好機となったのである 30 。
黒人たちが「最良の男性」としての承認を得る好機となった第二の要素は、米西戦争で
ある。同州では、黒人将校によって引率された黒人部隊が結成されており、黒人たちは、
部隊に参加することを通じて、自分たちの「男らしさ」を示そうとしたのである。これら
29
ギルモアは、同著においてウィリアムソンの研究から多くの示唆を得たことを述べている。Gilmore,
Gender and Jim Crow,ⅹⅲ-ⅹⅳ.
30 C. Vann Woodward, Origins of the New South, 1877-1913 (Baton Rouge: Louisiana State
University Press, 1951), 286; Joseph F. Steelman, “Republican Party Strategists and the Issue of
Fusion With Populists in North Carolina, 1893-1894,” The North Carolina Historical Review, 57
(July 1970), 243-269; Gilmore, Gender and Jim Crow, 61-63.
- 20 -
の背景から、多くの黒人が「最良の男性」として取り込まれることに対する危機感を募ら
せた白人たちは、
「新しい白人男性(new white man)」という新たな概念を創り出した。前
述の「最良の男性」が人種による規定を持たなかったのに対して、この「新しい白人男性」
という概念においては、白人のみが政治的権利を行使できるものとされた。そして民主党
員たちは、ノース・カロライナ州における支配力を回復すために、白人の優越性と白人に
よって州政府を統治することの重要性を主張するようになる。そこで宣伝されたのが、黒
人と白人の(性的)接触の脅威である。彼らは黒人に対する民衆の嫌悪感を煽り、黒人か
ら政治的諸権利を奪うことを通じて、ノース・カロライナ州における支配力を回復しよう
と試みたのである。ギルモアは、上記の「反黒人」の宣伝が終結した時に、
「男性性が人種化
されると共に、階級から人種への置換が行われた。……[つまり]実際には異なっていたに
せよ、民主党は白人貧困層を擁護し、階級を超えて白人貧困層の男性の個人生活を政治化
し、ポピュリスト党に垣間見られた白人と黒人の脆弱な政治的連帯を崩壊させた」と述べ
ているのである 31 。
このように、南部における黒人の諸権利が剥奪されていく過程と、人種概念の構築を結
びつける研究は、ギルモアを初めとした、再建期以後の南部におけるジェンダー関係を再
検討する試みから生まれてきたといえる。彼女が提起した上記の視点は、南部史研究に大
きなインパクトを与え、ジェーン・ディレィーやスティーブン・カントロウィッツに引き
継がれた 32 。
社会学者のケント・レディングは、上記の諸研究と同様に、南部における人種概念の構
築過程に見られる「人種と階級を軸とした権力構造の再編」を重要視している。この研究
が、ギルモアなどの「男性性」を中心に据えた考察と異なるのは、再建期以後の南部にお
ける人々の政治的動員(mobilization)の原動力となる構造が変化するなかで、
「人種」の
概念が構築されていったことを示した点にある。彼によると、再建期の終結から 1880 年
代までにいたる南部における政治は、白人エリート層の民主党員を頂点とし、血縁関係や
近隣関係などの社会関係、および地域的な支援によって支えられた「垂直的(vertical)」な
組織化がなされていた。この垂直的な組織化における、白人エリート層の支配は、階級も
しくは人種的な分極化を必要とせず、白人層の階級的不平等を和らげる機能を果たしてい
たという。この垂直的な組織化は、ポピュリスト運動の躍進と、経済的不況を背景として
亀裂が生じることとなる。つまりかれらは、社会関係に根ざした垂直的動員に替わるもの
31
32
Gilmore, Gender and Jim Crow, 83.
Dailey, Before Jim Crow; Kantrowitz, “Ben Tillman”.
- 21 -
として、農民層の連帯といった階級的利害に基づいた、「水平的(horizontal)」組織化に
基づく動員を展開したのである。そして農民同盟、及びポピュリストたちが目指した水平
的動員は、政治的活力を奪われた民主党のエリート層が、反黒人レトリックの宣伝を通じ
た白人層の再動員を図ったことによって、崩壊させられることになる。このようにレディ
ングは、南部における動員方法が変遷していく過程を形式化したのだが、その過程のなか
で民主党の白人エリート層の支配力が回復されると共に、かれらによる人種主義的宣伝に
よって、「人種」の概念が構築されたことを示したのである 33 。
以上見てきたように、ポピュリストによる黒人との連帯の試みに対する社会の反応とし
て、「人種」の概念が構築されたとする視点は、1990 年代の後半から現れてきた。これら
の研究は、それまでのポピュリスト運動に関する研究が示してこなかった、黒人との連帯
の試みが失敗に終わった事実の歴史的意味を示したといえる。それは、民主党が行った反
黒人キャンペーンを通じて、ポピュリストたちが目指した黒人との連帯を放棄させること
によって、階級横断的な白人層を築き上げる役割を果たしたということである。これらの
研究は、いわばエリート層の白人である民主党指導者たちが一般の白人民衆に対して、人
種の違いに対する意識を植え付けていく過程を強調しているといえる。しかしこれらの研
究では、民主党指導者による反黒人の宣伝に対してポピュリストが示した反応が示されて
いないのである。
また、前述したようにローディガーやジェイコブソンの研究においては、
「人種」の概念
が構築される過程において、国民としての権利を行使できる範囲をめぐる問題が大きな要
素となっていたことが指摘されていた。しかし、人種概念の構築とポピュリスト運動の関
係を論じた近年の研究においては、国民の条件をめぐる問題よりも、白人民衆の反黒人感
情の高まりに関心が向けられているのが現状であるといえる。そこで次章以降では、民主
党による反黒人感情を煽る宣伝に対してポピュリストたちが示した反応を再検討したうえ
で、国民の境界が人種によって規定されていくなかで、
「人種」の概念が構築されていく経
緯を考察する。
33
Redding, Making Race Making Power.
- 22 -
第二章:ポピュリスト運動と反黒人キャンペーン
1.南部諸州における「反黒人キャンペーン」の展開
前章では、ポピュリストによる黒人との連帯をめぐる研究史を概観してきたのだが、そ
の結果として最近の研究では、民主党が「反黒人」の宣伝を通じて黒人との連帯を模索す
るポピュリストを打倒しようと試みたことに関心が寄せられていることが見えてきた。南
部におけるポピュリスト運動の展開をみると、そこでは、黒人との連帯を呼びかけるかれ
らの活動とともに、民主党による反黒人の宣伝を通じた応戦が存在していることがわかる。
この反黒人キャンペーンでは、政治における「黒人支配」の進行という宣伝が最も多く、
そして効果的に利用された。政治における「黒人支配」という宣伝が威力を発揮したのは、
1890 年代の南部社会では、「南北戦争と再建期の記憶」が鮮明に残っていたからである。
共和党による再建計画によって黒人たちは、投票権をはじめとした諸権利を獲得するだけ
でなく、黒人の州議会議員や知事が登場するなど、かれらの地位は飛躍的に向上していた。
しかし、再建期が終結し、南部における共和党の支配力が低迷し始める 1877 年以降、そ
の状況は一変することとなる。そしてポピュリスト運動は、黒人に公職が与えられていた
再建期の政治状況の再来を髣髴させた。このような状況を脅威として捉えた民主党は、人々
の再建期の記憶に働きかける「反黒人レトリック」を、ポピュリスト運動を打倒する有効
な手段として利用したのである。
この「黒人支配」の恐怖とポピュリスト運動を関係付けたのは、先述のロッジ選挙法案
の制定に際してであった。民主党は新聞や演説を通じて、このロッジ選挙法案の制定によ
って任命される黒人の選挙登録官が、白人の有権者を妨害することを宣伝したのである。
さらにはロッジ選挙法案が制定されたあかつきには、
「人種間の社会的平等」がもたらされ
ることを伝えることによって、白人民衆の危機感を募った。黒人たちは、買収やごまかし
の対象とされていた自分たちの票を守る目的からロッジ選挙法案を支持しており、ポピュ
リストたちも当初はこの法案可決に積極的であった。それは、南部ポピュリスト運動の機
関紙であった『ナショナル・エコノミスト』において、
「かつてどのような政党や団体も黒
人たちに示したことがないような、公正な黒人投票権を保障する」 34 ことが正式に表明さ
れたことから明らかである。しかしかれらは、民主党の宣伝を打ち消すような有効的な宣
伝手段を持たず、
「黒人支配」という同様のレトリックを用いることを通じて民主党を批判
し、法案支持の立場から不支持へと傾斜していったのである。結果としてロッジ選挙法案
Washington National Economist, January 10, 1891. 以下より引用。Gaither, Blacks and Populist,
59.
34
- 23 -
は、民主党の徹底的反対にも屈せず下院を通過したが、上院において可決されることはな
かった 35 。
反黒人キャンペーンでみられるもう一つの特徴は、ウィリアムソンなどの研究が示した
「白人女性の脅威」の宣伝である。たとえばサウス・カロライナ州では、ベン・ティルマ
ン(Benjamin Ryan Tillman)率いる民主党が徹底的な反黒人キャンペーンを展開したこ
とによって、同州のポピュリスト運動は大規模な発展を遂げることができなかった。ティ
ルマンは、徹底的に「黒人支配」の恐怖を宣伝すると共に、白人女性が黒人によって脅威
にさらされていることを訴えたのである。たとえばかれは、1892 年の州知事選挙のキャン
ペーンに際して、もしも自分が州知事に選ばれたならば、
「白人女性を強姦する黒人に対す
る[白人]民衆のリンチの先頭に立つであろう」と宣言している。ティルマンはこの州知事
選挙に勝利した翌年に、バーンウェル郡(Barnwell)において起こった黒人男性による
14 歳の少女に対する強姦事件に際して、その黒人を郡保安官ではなく、白人の暴徒たちに
引き渡し、かれらによるリンチを容認したのである 36 。
南部社会において、「白人女性の脅威」の宣伝が広範に広められた結果として、1881 年
から 1903 年の 22 年間にわたって 2060 人の黒人がリンチされた。当時のリンチは、見世
物的な意味合いが強く、新聞などを通じて時と場所が予告され、
「しばしば、男性ばかりで
なく、女性や子供までもが[その一部始終を]見守る地域的な行事」であった。リンチの原
因のほとんどは、白人に対して生意気な口を聞いたなどの些細な理由であったが、黒人男
性による白人女性に対する強姦や強姦未遂を理由とするものは、そのうちの 34.3%を占め
ていたのである 37 。
黒人が白人に対して生意気な口をきいただけでリンチが行われたのであれば、当然ポピ
ュリストたちのように黒人との連帯を試みれば、リンチの対象となりえたことが想像でき
る。しかし、サラ・A.ソウルは、リンチ数がポピュリスト党への支持率が高い農村部よ
りも工業地帯のほうが多いという事実をもって、
「経済的競争が黒人に対するリンチ数を増
大させている」と述べており、ポピュリスト党支持とリンチ数の関連を否定しているので
ある。一方、ルイジアナ州では、1896 年の選挙時において、同年の合衆国内で起こったリ
ンチ数の 5 分の 1 に当たる、21 件のリンチ事件が発生し、同時にポピュリスト党支持者に
Gaither, Blacks and Populist, 58-62.
Charleston News and Courier, July 7, 1892.以下より引用。 Williamson, Crucible of Race, 113:
Kantrowitz, Ben Tillman & the Reconstruction of White Supremacy (Chapel Hill: University of North
Carolina Press, 2000), 174-181.
37 Gaither, Blacks and Populist, 33; Williamson, Crucible of Race, 529 n11.
35
36
- 24 -
対する放火などの暴行が多発した 38 。
ジョージア州においてポピュリスト運動が勢力を強め始めた 1890 年代初頭においても、
同様の反黒人キャンペーンが展開された。トム・ワトソンは、
「黒人支配」をもたらす政党
というポピュリスト党に対する非難に対して、当初は冷静であったといえる。彼は、
『アリ
ーナ』誌に投稿した論文において、
「私は、黒人が支配することを恐れて、膝と歯をがたつ
かせ、青ざめた顔をしているアングロサクソン系の白人に対して、軽蔑を表現する言葉以
外は思いつかない」と述べていたのである。同様の発言は、ワトソンが 1893 年 7 月 4 日
にダグラスビル(Douglasville)で行った演説においても見られる。ワトソンは、彼自身
が白人の優越性を誰よりも信じていることを聴衆に訴えた上で、白人と黒人の「両人種は、
離れて暮らすことが最良の方法なのだ。しかし……私は、
『黒人支配』への恐怖心から肌の
色で判断し、法的権利を全ての人々に認めないアングロサクソン人種を軽蔑する」と述べ
ているのである 39 。
その後トム・ワトソンは、1896 年の大統領選挙においてポピュリスト党副大統領候補と
して選出されたが、民主党と提携したこの選挙では大きな成果を挙げることはできなかっ
た。そして彼は、一時的に政治活動から退き、1904 年にポピュリスト党大統領候補として
の指名を受けて政治活動を再開する。しかし、同時期から次第にワトソンの黒人に対する
寛容な態度は変容しはじめ、
「黒い危険」や「白人女性の脅威」といった反黒人レトリック
を用い始めるのである。たとえば彼は、1916 年の著書において、「彼ら[黒人たち]は、少
女たちを強姦しようとしている。……彼らは、白人の少女をドアの前で捕らえようとして
いるのだ。[黒人は、]彼女を一晩中痛みつけ、その後彼は、残忍にも彼女を殺害し、深く
傷つけられた遺体を通りに遺棄するのだ」 40 と述べているのである。
見てきたように、ポピュリスト運動が展開した 1890 年代の初頭には、同運動が模索し
た黒人との連帯に対抗する形で、民主党による「黒人支配」の恐怖や「白人女性の脅威」
が宣伝され、白人民衆の危機感が煽られた。トム・ワトソンの例が典型的に示しているよ
うに、ポピュリストたちは、民主党によって宣伝された反黒人キャンペーンに最後まで抵
抗することができず、同様のレトリックを用いたことによって、次第に黒人との連帯の姿
Sarah A. Soule, “Populism and Black Lynching in Georgia, 1890-1900,” Social Forces, 71
(December 1992), 444; Williamson, Crucible of Race, 529, n11; Gaither, Blacks and Populist, 33, 77.
39 Thomas Edward Watson “Negro Question in the South,” Arena ⅳ (October 1892) 540-550. 以下よ
り引用。George Brawn Tindall [eds.], A Populist Reader: Selections from the Works of American
Populist Leaders (New York: Harper & Torchbooks, 1966), 128; Thomas E. Watson, Life and Speeches
of Thomas E. Watson (Thomson: The Jeffersonian Publishing, 1911), 128-129.
40 Thomas Edward Watson, The Sketches: Historical, Literary, Biographical, Economic, Etc.
(Thomson; The Jeffersonian Publishing, 1916), 40.
38
- 25 -
勢を見失ってしまったといえる。
本章では、ノース・カロライナ州において 1898 年に展開された反黒人キャンペーンを
一次例として見ることを通じて、民主党による「反黒人」の宣伝に対してポピュリストたち
がどのような反応を示していたのかを考察する。前述したように、ノース・カロライナ州
のポピュリスト党は、共和党との提携を組むことによって、州議会における与党の座を築
いていた。南部のポピュリスト運動のなかで、州議会における与党の座を得ることができ
たのは、ノース・カロライナ州のみである。具体的には、1894 年の選挙においてポピュリ
スト党は、34 の下院議会の議席を獲得し、上院議会では、24 議席を得た。また共和党は、
下院に 38、上院に 18 の議席を獲得した。一方民主党の議席数は、下院に 46 議席、上院
に 8 議席に留まったのである。また、1895 年には、全国ポピュリスト党の党首であるバ
トラー(Marion Butler)が連邦上院議員となり、1896 年には、共和党のラッセル(Daniel
L. Russell)が州知事に就任した。バトラーは、南部のポピュリスト運動において連邦上
院議員の座を得た唯一の人物である 41 。
黒人に対して寛容な態度を示していた共和党と提携関係を築いたノース・カロライナ州
の事例は、民主党による一党支配が再建期の終結以降つづいてきた南部において特殊な事
例であるといえる。それゆえ、同州を考察対象として選択するに当たっては、その特殊性
を考慮する必要があることは十分に承知している。しかしその特殊性を思慮しても、国民
としての権利を行使できる範囲が決定していくなかで、
「人種」の概念が構築されていく過
程を考察する上で、同州を考察する意義は大きいといえる。つまりノース・カロライナ州
のポピュリストたちは、かれらが掲げる政策に共感を示す者であれば、肌の色を問わずに、
党内に招きいれようという姿勢を有していたのが、黒人の投票権剥奪をめぐる議論が活発
になるなかで、その態度が変容していくのである。
ここでは史料として、ノース・カロライナ州の州都ローリーにおいて発行されていた、
民主党系の新聞『ニューズ・アンド・オブザーバー』
(以下『オブザーバー』と略記)とポ
ピュリスト党系の新聞『コケィジャン』および、両党の選挙パンフレットを使用し、その
なかの記事とともに風刺画の分析も行うこととする。まずは、1894 年および 1896 年の選
挙において、支配権を奪われた民主党が 1898 年の選挙に際して、どのような宣伝のもと
に政権を奪取しようと試みたのかを見てみよう。
Helen G. Edmonds, The Negro and Fusion Politics in North Carolina, 1894-1900 (Chapel Hill:
University of North Carolina Press, 1951), 37.
41
- 26 -
2.民主党による社会不安の醸成と宣伝
「黒人支配」の問題化
1898 年選挙における『オブザーバー』の宣伝を見る前に、同紙の特徴について触れてお
く必要がある。『オブザーバー』は、1880 年から現在まで発行されている新聞である。同
紙は、民主党のジョセファス・ダニエルス(Josephus Daniels)を中心とした 70 人の民主党
支持者によって 1894 年に買収され、
「反黒人」と「反ポピュリスト党」を掲げる民主党の
機関紙となった。
『オブザーバー』の当時の発行部数は 1800 部であり、これはローリー市
の総人口の約 18 パーセントに当たる 42 。
ポピュリスト党と共和党の提携派を打倒し、州議会を民主党の支配化に置くことを掲げ
た 1898 年選挙の特徴は、以下の二点にまとめることができる。一点目は、過去二期にわ
たってポピュリスト党と共和党の提携派が与党の座についた結果として、ノース・カロラ
イナ州における「黒人支配」が進行したことを伝えることである。そして二点目は、この
「黒人支配」の進行が、白人女性にとっての脅威として伝えられていたことである。
『オブ
ザーバー』は、上記の二点を中心とした徹底的な反黒人キャンペーンを繰り広げるのだが、
そこでは、漫画家のノーマン・ジェネッ
ト(Norman F. Jennett)による風刺画
が効果的に用いられており、白人民衆の
反黒人感情が煽られている。たとえば、
図 1 では、白人男性が黒人に踏み潰され
る様子が描かれており、これらの風刺画
を通じて、
「黒人支配」が意味する恐怖を
白人民衆に伝えているのである。
図1.Raleigh News and Observer, August 13,
1898.
これらの宣伝において主たる批判の対象とされたのは共和党であり、ポピュリストに対
しては、その全てを敵視していたわけではなかった。たとえば、8 月 24 日の「増加するポ
ピュリストの離党者」という見出しの記事では、独自の改革案を固守しようとする「ミッ
ド・ローダー」のポピュリストたちが、ノース・カロライナ州の党大会で多数派を占める
見込みが伝えられている。翌日の記事では、
「ミッド・ローダー」の「誠実なポピュリスト
たちは、金本位主義者(gold bug)と黒人の政党[共和党]との接合の誘惑にさらされな
がらも、かれらは白人であること、銀本位主義、そして反トラストといった方針を民主党
The News and Observer Publishing and Co. “News Observer.Com ”
<http://www.newsobserver.com/443/story/200547.html>. 31 December 2007.
42
- 27 -
と共有しているのだ」と述べられている。この記事において、
「誠実な」と形容詞を用いる
ことによって、民主党が「ミッド・ローダー」のポピュリストたちに敬意を払っているこ
とが窺える 43 。
そしてこのことからは、共和
党や黒人との提携を快く思わな
いポピュリストたちを、自らの
政党に取り込みたいという民主
党の強い欲求を読み取ることが
できるのである。それは、9 月
16 日に掲載された図 2 におい
て明らかに示されている。この
挿絵には、
「民主党」と記された
帽子を被り、星条旗に見立てら
れたドレスを着た女性が、
「誠実
図 2.News and Observer, September 16, 1898.
なポピュリスト」たちを招き入
れている様が描かれている。そしてこの挿絵の上には「彼ら[誠実なポピュリスト]は戻って
くる」と記されているのである。『オブザーバー』は、1898 年の選挙キャンペーンにおい
て、図 2 の他にも、「ミッド・ローダー」の誠実さを描いた風刺画を多く掲載しているの
である 44 。
このように『オブザーバー』は、「ミッド・ローダー」を民主党に取り込もうとしてい
たのに対して、共和党との提携を模索するポピュリストに対しては、軽蔑感をあらわにし
ている。たとえば、「どのようにして黒人たちが支配するのか」という見出しの記事では、
「二年前は、多くの黒人たちが選挙登録を行ったのだが、この状況はポピュリストが選挙
登録官を務める所では、今年も継続されることになるだろう」という見通しを立てた上で、
黒人との連帯を試みるポピュリストたちを、次のように批判している。バトラーは、
「ポピ
ュリストの[勢力が強い]諸郡では、共和党と闘うのと同様に民主党とも闘うつもりらしい。
……何人かのポピュリストたちは、黒人人口の多い地域(black belt)において黒人たち
と提携しようとしている。……[その一方で、]誠実なポピュリストたちは、提携に嫌悪感
をおぼえているのだ」。これらの引用から読み取れるように、民主党は黒人との連帯を模索
43
44
Raleigh, News and Observer, August 24, 1898, August 25, 1898.
Ibid., September 16, 1898.
- 28 -
する全ての者を敵とみなすと同時に、黒人との癒着を持たない白人ポピュリストたちを誠
実な精神を有する仲間として表現することを通じて、かれらとの協力関係を築き上げる道
を残したといえる 45 。
それでは 1898 年の選挙キャンペーンにおいて頻出する「黒人支配」とは、具体的に何を
意味していたのであろうか。
『オブザーバー』によると、ノース・カロライナ州の市や郡(特
に黒人人口が多い州東部)などの各行政において、多くの黒人が公職に就いており、民主
党は、このような黒人が増えることによって、行政区がかれらに「支配」されることを恐
れていた。つまり民主党は、黒人が公職に就き、行政における黒人の支配力が強まること
によって、人種間の社会的平等がもたらされることを危惧していたのである。このことか
ら民主党は、『オブザーバー』を通じて、「黒人支配」が意味する恐ろしさを民衆に伝えた
のである。たとえば、
「黒人主義(negroism)が高められた」という見出しの記事では、7
月 20 日に開かれたノース・カロライナ州の共和党大会における協議について報じており、
各地区選出の議員や党綱領、そして代表者たちの演説が掲載されている。そのなかでも特
に目を引くのが、共和党選出の黒人の連邦下院議員であるホワイト(George H. White)
の演説である。そこでは、
「私は、[白人と黒人の]社会的平等を恐れない。私は公職に就い
ている黒人(negro office-holder)であるとともに、ここ[ノース・カロライナ州]では、多
くの黒人が公職に就くことになるであろう」というホワイトの発言が引用されている。こ
のホワイトの発言を通じて民主党は、共和党とポピュリスト党による州議会における支配
体制のもとに、多くの黒人が公職に就く可能性を示唆するとともに、その脅威を宣伝して
いるのである 46 。
民主党が、「黒人支配」という表現を用いることを通じて、黒人が公職に就くことを批
判したのは、政治を掌る能力において、黒人よりも白人のほうがより優れているという認
識からであった。民主党は、1898 年の選挙パンフレットにおいて、「政治的適性」におけ
る人種の優劣について言及している。
「ここ[アメリカ合衆国]は、白人の国なのだから、白
人男性が管理し統治しなければならない。……なぜならば、かれら[白人男性たち]は、そ
れ[国家の管理と統治]を黒人よりもうまくやり遂げることができるからである。黒人たち
が挑戦してみれば、彼が統治に対して無力で不向きであることが、たちまち証明されるこ
とになるであろう」 47 。つまり民主党は、政治における「適性」を持たない人種として黒
45
46
47
Ibid., October 6, 1898.
Ibid., July 21, 1898.
Democratic Handbook, 1898, 38.
- 29 -
人を位置づけることを通じて、優劣を内包した「人種」の概念を構築し、それを白人民衆
に伝えようとしたのである。
このように黒人は、政治における「適性」を持たない人種とされていったのであるが、
『オブザーバー』は、紙面において黒人の怠惰と傲慢な態度を強調し、白人と黒人を対比
することを通じて、黒人が公職に就くことが不適切であることを伝えようとしている。そ
れは、「クレーヴン郡(Craven County)における公道建設の黒人監督」という記事にお
いて明らかに現れている。この記事では、記者と黒人監督および、記者と白人農民の会話
が掲載されており、その会話において黒人と白人の品行が対比されているのである。そこ
では、「この道路区画の監督は誰ですか」という記者の質問に対して、「彼[黒人監督]は、
自画自賛を伴った『私だ』という返答をした」と書かれており、ここからは、黒人監督が、
節度をわきまえない黒人として描写されていることがわかる。また、この記事において、
黒人監督は、呼び捨てにされていたのに対して、白人農民のアキンソン(D. F. Atkinson)
には、敬称 (Mr.) が用いられると共に、記者に対するアキンソンの返答は、黒人監督より
も丁寧な言葉遣いが用いられているのである 48 。
さらに、この記事には、紙面を
埋め尽くすほどの大きな風刺画が
掲載されており、その図は「黒人の
傲慢な態度」を引き立てていると
いえる。つまり図 3 に見られるよ
うに、黒人監督は、タバコを咥え
て偉そうに指揮を執っており、彼
の下で働く黒人労働者は、笑いな
がら遊んでいるか、働いている様
子をただ眺めているだけである。
図 3.News and Observer, September 11, 1898.
その一方で白人の労働者たちは、
黒人監督の指揮の下で懸命に汗を流しながら働いている。このような風刺画や記事におけ
る対比を行うことを通じて記者は、公職に就く「傲慢な黒人」や黒人労働者の怠惰に対す
る白人民衆の怒りを煽ったのである。
『オブザーバー』は、「怠惰で傲慢」といった黒人像を創り出すことを通じて、公職に就
48
News and Observer, September 11, 1898.
- 30 -
く黒人を批判し、かれらに対する白人民衆の怒りを煽ったのであるが、公職への黒人の登
用は、何よりも人種の社会的境界を乱すものと捉えられていた。8 月 18 日の第一面では、
黒人政治家のヤング(James H. Young)が教育委員長に任命されたことが、図 4 の風刺画
と共に伝えられ、彼に率いられた教育
委員会に対する嫌悪感は、1898 年の選
挙における重要なテーマの一つとなる。
その記事では、ジム・ヤングに率いら
れた「汚れた委員会は、
『生徒に対する
全ての規則を規定し』、
(その)
『規則の
問題は、教師と生徒および委員長と教
師、[委員長と]生徒の間の関係を誤解
していることにある』」と述べられてい
る。
『オブザーバー』は、この記事を通
図 4.News and Observer, August 18, 1898.
じて、白人の生徒は白人の委員長によって率いられた教師によって教育されるべきである
ことを民衆に訴えているのである。それは、以下の記事において明らかに示されている。
「人々は、黒人政治家に白人女性教師と白人の盲目児童に対する権力行使の権限を与えて
いると信じている。……白人男性たちが白人の学校を、黒人たちが黒人の学校を統治する
べきであると信じるのであれば、白人支配を擁護する政党[民主党]に投票するべきである」。
これらの記述から解かるように、ヤングが教育委員会における権限を得た事実は、白人と
黒人を隔てる社会的境界を乱すことと結び付けられ、人種の境界線を守る目的において白
人による政治支配の重要性を訴えたのである 49 。
白人女性の脅威と黒人
黒人の公職への登用に対する批判というかたちで現れた「反黒人キャンペーン」は、次
第に黒人を邪悪な存在と印象付け、白人女性が黒人による脅威にさらされていることが報
じられるようになる。黒人支配と白人女性の脅威を関連付けた記事が増加した背景には、
ノース・カロライナ州の南東部に位置する港湾都市、ウィルミントン市における唯一の黒
人新聞『ディリー・レコード』
(The Daily Record)の 8 月 18 日の社説が大きく関係して
いる。その内容は、黒人男性と白人女性との接触は、貧しい白人男性たちが日々の農作業
49
Ibid., August 18, 1898, August 25, 1898.
- 31 -
に追われ、彼女たちの保護を怠っていることに原因があり、黒人男性は、「『黒く』、『たく
ましい』だけでなく、文化的で洗練された白人の少女が恋に落ちるほど十分に魅力的なの
である」といったものである 50 。
『オブザーバー』は、黒人男性と白人女性の性的接触を正当化するこの社説を、白人男
性の恐怖心を煽る恰好の材料として徹底的に利用すると共に、ウィルミントン市における
「黒人の横暴」を宣伝することを通じて、その恐怖心をさらに掻き立てた。たとえば、週
末のウィルミントン市を伝える記事では、
「黒人たちが通りでぶらつき、汚れた群れをなし
ている」状況が伝えられている。その記事では、「18 歳程度の三人の黒人少年たちが、買
い物を終えた二人の若い女性を取り囲み、通り抜けたければ回り道をするように彼女たち
に話しかけていた」ことを伝えることで、同市における黒人たちの横暴な態度が強調され
ている。また、
「ウィルミントン市の黒人たちは、拳銃の購入を企んでいる」という見出し
の記事では、黒人たちが注文した 25 口径のライフル銃は、「オーデル社(Odell Company)
の調査の結果、好戦的な黒人たちに渡ることは無かった」、と伝えられているのである 51 。
このように『オブザーバー』は、政治的支配力を手にした黒人たちを、白人女性を強姦
するなどといった不正な権力行使を行う存在として印象付けようとした。それは、白人の
女性教師が黒人の教育委員との面談および給料の受け取りのために 7 マイルの道のりを歩
いていった経緯が、怒りに満ちた論調で記述されているほか、
「悪魔(黒人)は、……白人
女性の貞淑と純潔を冒涜している」 52 といった記述から垣間見ることができる。また、図
5 は、このような恐怖を植えつけるため
に当時盛んに描かれた風刺画の一つであ
る。この図において黒人は悪魔として戯
画化され、その翼には「黒人支配」(negro
rule)、足元の箱には「連立政権の投票箱」
(fusion ballot box)と記されている。そし
て両手の中で三人の白人女性が逃げ回っ
ているのである。つまりこの風刺画が当
時の人々に伝えようとしたメッセージは、
図 5. News and Observer, September 27,
1898.
州議会がポピュリスト党と共和党の手に渡ることによって、投票箱(=政治)が黒人によって
50
51
52
Ibid., August 28, 1898.
Ibid., September 8, 1898, October 8, 1898.
Ibid., August 25, 1898.
- 32 -
支配されるようになったと同時に、白人の女性が「野蛮な黒人」の脅威にさらされている
状況だったのである。このような黒人の脅威に対抗するために、
『オブザーバー』は、悪魔
に戯画化した黒人を描いた風刺画を連日掲載すると共に、
「白人の優越性」や白人男性の「男
らしさ」といった言葉を多く用いるようになる。
たとえば 9 月 22 日の紙面では、他よりも大きなフォントを用いた目立つ記事の中で、
「黒
人評議会(Afro-American Council)による黒人と白人不気味な結婚に関する法律の撤廃
要求」という見出しのもとに、以下のように述べられている。
「ニューヨーク州のロチェス
ターでは、先週、黒人評議会が招集された。……[この評議会の]大きな目的の一つは、24
州に渡って施行されている黒人と白人の結婚を禁止する法律を訂正・撤廃することである。
ノース・カロライナ州もそれらの[24]州のひとつである。異人種混交(miscegenation)を
望む全ての白人男性は、共和党に投票すべきである。アングロサクソンの優越性を望むす
べての白人男性は、白人男性の政党[民主党]に投票すべきである」。この記事からは、人種
間の社会的平等に対する強い嫌悪感を読み取ることができる。このような危機感は、同日
の紙面に、ジョージア州のポピュリストであるフェルトンの(William Felton)の演説が
掲載されたことからも垣間見える。つまりフェルトンは、
「貧しい白人と黒人は今では平等
である……間もなく貧しい白人男性は、黒人を家に招き入れ、寝食を共にすることになる
であろう」と述べているのである 53 。
人種混交や人種間の平等が進行することを危惧する『オブザーバー』は、翌日の記事に
おいて、
「白人女性の脅威」をポピュリスト党と共和党の提携による黒人との融合の産物と
して位置づけている。そしてその脅威に対抗するために、
「白人男性の結束」の強化を訴え
ている。たとえば、「多くの黒人の悪行」という見出しの記事では、「黒い獣たち(Black
Beasts)は、品行のよい農家の若い娘に対する暴行を試みようとしている。……日曜学校
の帰り道のブランズウィック郡(Brunswick)の公共の大通りで襲撃された……彼女の悲
鳴は、死よりも悪い運命から彼女を守った」と述べられている。記事によると、ブランズ
ウィック郡は、人口にしめる黒人と白人の比率が3対1であり、共和党とポピュリスト党
によって支配されている郡であるという。このブランズウィック郡の説明に続いて、「15
歳の私の娘が 12 歳の弟と共に日曜学校から帰宅の路に付いたのは、昼の 3 時ごろだった
と思います。自宅からだいたい 4 分の 1 マイルに差し掛かった時、16 歳から 18 歳ぐらい
の二人の黒人少年が、コートを頭の上からかぶって顔を隠し、私の娘の後を追いかけて、
53
Ibid., September 22, 1898.
- 33 -
彼女を捉えようとしていました」という父親の証言が掲載されている。そして、この記事
は、
「ブランズウィック郡の白人男性諸君に告ぐ。君たちは、このような事態に我慢できる
のか。[ポピュリスト党と共和党による「黒人支配」が続く限り、]君たちの娘は、郡をぶ
らつく好色な黒い獣から娘たちを守る護衛なしには、教会にも日曜学校にも通うことがで
きないだろう。ブランズウィック郡の白人男性の勢力を高めよ、君たちの男らしさを示す
のだ。共和党、ポピュリスト党そして黒人の融合の痕跡を撲滅するために投票所に向かう
のだ」という熱い論調で結ばれているのである 54 。
このようにして高められた反黒人感情と白人による政治支配の重要性に対する意識は、
10 月 20 日の民主党大会において、多くの白人民主党員たちに共有されることとなる。
『オ
ブザーバー』は、この党大会の開かれた日を「白人男性の日」として大々的に報じている。
それによると、「ターボロ(Tarboro)で開かれた木曜日の集会は過去数年間のあいだで最も
大きな政治集会となった。そこには概算すると 5000 人もの白人によって埋め尽くされて
いた」という。そして、この政治集会では、選挙が行われる 11 月 8 日の「火曜日が白人
男性のための日であり、そこには黒人がいないようにすることに関する完全な了解が得ら
れた」と述べられている。
『オブザーバー』は、このターボロで行われた政治集会には、
「古
き良き民主主義の教義が現れて[おり、そこで歌われた愛国的歌である] 『私の故郷の繁栄
(My Country Tis of Thee)』は、参加者全ての心に響く感動を与えた」と伝えている 55 。
また、選挙を翌々日に控えた 11 月 6 日には、
「キャンペーンの見事な結末」という見出
しのもとに、各地で開かれた「民主党大会の感動は、州全土に響き渡った」ことが伝えら
れ、
「白人支配」の勝利に対する熱狂的な決意が宣誓されている。そして 11 月 8 日の紙面
では、
「キリスト教文明は、南部の黒人たちが[政治を]統治する特質を持たないという事実
を示しており、優秀な人種に運命をゆだねるべきであるというという教訓が次の火曜日に
示されることになるであろう」という、11 月 6 日の『ワシントンポスト』
(Washington Post)
の記事が転載されている。こうして、ノース・カロライナ州の白人たちの反黒人感情を高
潮させる選挙キャンペーンは幕を閉じ、投票の翌日の紙面において、民主党が州議会の上
下両院の三分の二を占め、ノース・カロライナ州における支配権を奪取したことが伝えら
れたのである 56 。
54
55
56
Ibid., September 23, 1898.
Ibid., October 21, 1898.
Ibid., November 6, 1898, November 8, 1898, November 9, 1898.
- 34 -
3.「黒人支配」の宣伝に対するポピュリストの反応
「黒人支配」に対する「まやかし」という批判
これまで、
『オブザーバー』を通じて、二期に渡ってノース・カロライナ州の州議会にお
ける支配権を奪われてきた民主党が、どのような戦略のもとに支配権を奪取しようと試み
たのかを見てきた。そこで徹底的な批判の対象とされていたのは、第一に民主党が州議会
における支配権を奪われたことによって、
「黒人支配」が進行したということである。この
「黒人支配」に関する批判は、黒人たちが公職に登用されたことに対して行われていた。そ
して二点目は、公職に登用された黒人たちによって、白人女性の純潔さが汚されることに
対する脅威である。民主党は、これらの社会不安をポピュリスト党と共和党の提携と結び
つけ、その脅威に対抗するために、政治におけ「白人支配」が必要であることを訴えたの
である。
以下では 1898 年の選挙において、民主党によって行われた「反黒人キャンペーン」に
対して、ポピュリストたちがどのような反応を示していたのかを、
『コケィジャン』を通じ
て見ていくのであるが、まずは、同紙の特徴について簡単にふれておこう。
『コケィジャン』
は、1888 年から 1910 年までの間、マリオン・バトラーによって発行されていた新聞であ
る。『コケィジャン』は、日本語に直訳すると「白人」であり、新聞の名称から想像すると、
この新聞は「白人のための新聞」のような印象を受けるかもしれない。事実、
『コケィジャン』
の第一面の上部には、「純粋な民主主義と白人支配」というスローガンが掲げられていた。
しかし、このスローガンは、1893 年以降に紙面から姿を消すことになる。
『コケィジャン』
における上記の変化が、何を意味していたのかは明らかでないが、同紙は少なくとも 1898
年までは、黒人に対して友好的な態度を示していたのである。
民主党によって宣伝された「黒人支配」に対して、ポピュリスト党の機関紙である『コ
ケィジャン』が正面から反論を加えるようになったのは、10 月に入ってからであった。そ
こからは、民主党によって扇動された「反黒人レトリック」を受容し、同じ土俵のうえで、
選挙を戦おうとしていたように見受けられる記事が多く存在する。しかしそれらの記事は、
公職に就いている黒人そのものを批判しているわけではない。つまりポピュリストは、か
れらが州議会における与党の座を勝ち取る以前から、黒人は公職に就いており、当時の状
況を無視して、人種偏見に訴える民主党の手法を「まやかし(hypocrisy)」として批判して
いるのである。
たとえば、「『白人男性の政党』である民主党が、その正体をあらわにした」という大見
- 35 -
出しの記事では、民主党が選出したとされる、107 人の黒人行政官の実名が公表されてい
るほか、民主党によって黒人の警察官や市職員が選出されたことが報じられている。一見
するとこの記事は、黒人が公職に任命されたことを批判しているようだが、この記事は以
下のようなことも主張している。
「かれら[民主党]は、100 人以上の黒人を公職に就かせた
うえで『黒人支配』の突風を吹かせるのだ」。つまり民主党は、批判の種である「公職に就
く黒人」を自ら任命し、それがあたかもポピュリスト党と共和党によってもたらされたこ
とのように宣伝していると、『コケィジャン』は主張しているのである 57 。
『コケィジャン』が、民主党による「黒人支配」の宣伝をスケープゴートとして捉えてい
ることを示唆する記事は、先述の『ディリー・レコード』の白人女性と黒人男性の性的関
係を正当化する社説への反論において、明確に現れている。そこでは、「この発言[マンレ
イの社説]は、誰か別の者によって作られた[記事である]ということは確かである。……彼
は、共和党から正式に認められていないだけでなく、非難されており、彼は[民主党の政治]
マシーンによるスケープゴートの一つのツールであると結論付けるほかない。……事実『デ
ィリー・レコード』は、現在までに一度も共和党……との一切の関係を持っていない」 58
と述べられている。つまり『コケィジャン』は、マンレイとの関係を否定することを通じ
て、自分たちが「人種混交」を擁護してないことを示すと共に、
『ディリー・レコード』の社
説がポピュリストを攻撃するための材料
として書かれたと主張しているのである。
このように、「黒人支配」の恐怖を煽り
立てる民主党の選挙キャンペーンを「ま
やかし」として批判する『コケィジャン』
も、人種間の境界が乱されることに対し
ては、嫌悪感を露にしている。たとえば、
民主党が州議会を支配していた 1893 年
において、
「白人の少女が黒人男性たちと
共に労役を課せられていた」ことが、風
図 6.Raleigh, The Caucasian, October 20,
1898.
刺画と共に伝えられている。『オブザーバー』と『コケィジャン』の風刺画を比較すると、
図 3 においてみられたように、前者は多くの場合、黒人を怠惰な存在として描いていた。
これに対して、『コケィジャン』では、図 6 が示しているように、黒人と白人が共に懸命
57
58
Raleigh, The Caucasian, October 20, 1898.
Ibid., October 20, 1898.
- 36 -
に働いている様子が描かれているのである。この記事が問題にしている白人の少女、マッ
ティ・プー(Mattie Pugh)の罪名は明らかにされていないが、彼女をめぐる裁判は、民
主党主導のもとで行われたという。記事によると、マッティ・プーは、
「あまり弁護を受け
られないまま、6 ヶ月の労役が言い渡され、……労役所において料理人もしくは、使用人
として働かせることが判決の趣旨であったはず」が、彼女は黒人と共に公道建設の現場で
働かされていたというのである。そしてこの記事は、民主党に対する怒りを込めて次のよ
...............
うに述べている。
「民主党監督官は、この白人の少女が『時々、黒人男性たちと一緒に溝の
............
中でシャベルを使っていた』と言明して
いる。これが『白人支配』の政党が行っ
ていた実態である」。この記事が、白人の
少女が黒人と同じ建設現場での労働を強
いられていたとことを批判していること
から、
『コケィジャン』が、人種の境界線
を守られるべき重要なものとして認識し
ていたことがわかる 59 。
図 7.The Caucasian, October 20, 1898.
また、民主党が多くの黒人を教育委員
会の公職に登用していたことを批判する
記事においても、人種間の社会的境界線が乱されることに対する嫌悪感が現れている。そ
の記事では、
「ダプリン郡(Duplin)の公立学校の校長であったグレイディー(B. F. Grady)
は、教師のための正規の研修会を開催した。グレイディーは、民主党員であり、黒人と白
人の双方の教師たちを出席させ、同じ室内で対談させたのである」 60 と述べられている。
また、この記事を風刺した図 7 では、白人の女性教師と黒人が同じ室内で対談し、黒人が
白人女性に対して鉛筆を突きつけている様子が描かれている。この記事から明らかなよう
に、ポピュリストたちは、白人と黒人が同じ室内で研修を受けることにすら嫌悪感を示し
ており、両人種が分離されるべきであることを当然のことと考えていたといえる。
「愛国的な男性」の共同体の確立
見てきたように、ポピュリストたちは人種の境界線が乱されることに対する嫌悪感とい
う点においては、民主党と同様の認識を有していた。しかし『コケィジャン』は、黒人が
59
60
Ibid., October 20, 1898. 強調はイタリック。
Ibid., October 20, 1898.
- 37 -
公職に任命されること自体には批判をせず、民主党がいう「黒人支配」は、民主党が自ら
作り上げた「虚偽」であることを主張したのである。このように『コケィジャン』が、民
主党によって広められた「黒人支配」の恐怖に対して冷静な態度を示していたのには、1898
年の選挙の争点が人種偏見に集約されることによって、ポピュリストが掲げる改革案が影
に隠れることを恐れていたからであるといえる。つまりポピュリストたちは、「黒人支配」
を恐れているどころか、自分たちが掲げる改革案を達成する目的において、肌の色の違い
は考慮の対象にならないと考えていたのである。それは、
「一種の白人男性の政党が必要と
するもの」という見出しの記事のなかで、明らかに示されている。
この記事では、民主党が黒人への恐怖心を煽ることを通じて、独占などの諸問題を解決
しようとする改革の機運をかき消そうとしていることを暴き出し、冷静な判断に基づいて
人々が団結することの重要性を訴えている。つまり民主党は、
「人々にとって最も重要な問
題に対する論争を避ける一方で、[人種に対する]偏見の感情に訴えることを通じて[経済的
な諸問題を]覆い隠そうと企んでいるのだ」と述べて次のように、宣言している。
「『コケィ
ジャン』は、[金本位主義や独占などの諸悪に反対し、より良い公立学校と州政府を築き上
げることを支持する]全ての善人によって団結し、全般的な人々の繁栄のために努力する。
……もしも愛国的な黒人男性であれば、[ポピュリスト党に]入党すべきであり、かれらが
助力を尽くす限りにおいて、愛国的な男性の共同体における少数派ではない」。このように
『コケィジャン』は、民衆に対して「反黒人」ではなく、人々の繁栄のために結束するこ
とを呼びかけたのである 61 。
またバトラーも、民主党が経済の諸問題から目をそらし、「反黒人」を掲げることを通
じて、支持を糾合しようとしている状況を冷静に見据えている。それは、彼がクリントン
(Clinton)で行った 10 月 22 日の演説において、「かれら[民主党]は、あなたたちの背後
に忍び寄り、ポピュリスト党の綱領を盗み取ったのです。……[しかし]彼らは、1896 年に
は、全ての方針を忘れ去ってしまったことを認め、……今日では古臭い政治的いかさまと、
人種偏見の民衆扇動に身を落としてしまったのです。[民主党系の]新聞は 50 の風刺画を通
じて人種偏見に訴えると共に、……男性たちの怒りをかきたてたのです」と述べているこ
とから明らかである。そしてバトラーは、演説を次のように続けている。
「黒人は銀貨の通
用を廃止し、黒人は独占やトラストを組織し、黒人と白人双方の……農民や労働者に痛み
を負わせ、まっとうな生活ができなくさせるために働いたのでしょうか。……それは違い
61
Ibid., October 6, 1898.
- 38 -
ます。なぜ違うのかというと、かれらは、1896 年や今日において正直であったし、……銀
貨を廃止する手段と方針を有する人々を批難・糾弾しようとする私のために立ち上がり、
手を貸してくれたからです」 62 。
引用に示されているように、バトラーは政党を超えて「真の銀本意主義者」たちが団結
することの重要性を訴えると共に、黒人たちをフリー・シルバーの方針を共有する仲間で
あることを堂々と宣言しているのである。さらに、1898 年の選挙キャンペーンにおける、
ポピュリスト党の選挙パンフレットでは、黒人と白人の共闘を明確に宣言している。つま
り、
「同胞である君たちは、白人農民たちと黒人テナントたちが同一の利害を有しているこ
とを知っているはずだ。[すなわちそれは、白人と黒人の]両者が、低い税率とより良い法
律、そして農業生産物の正当な価格を求めているということである」 63 。つまり、これら
の史料が示しているように、1898 年の選挙キャンペーンにおいてポピュリストたちは、民
主党による「反黒人の宣伝」にも屈せずに、黒人との連帯を維持しようとしていたという
ことである。
またポピュリストたちは、政治利権などといった不正を断固として許さない姿勢を示し
ていたのだが、この姿勢においても肌の色の違いは、考慮の対象とされていなかったとい
える。このような『コケィジャン』の態度は、性犯罪の容疑で逮捕された、ディビス
(Freeman Davis)という黒人男性に対する恩赦をめぐる論争において見ることができる。
『コケィジャン』は、ディビスの事件に対して大きな関心を寄せており、10 月 20 日の第
7 面は、彼の事件に関して寄せられた多くの「公開状(open letter)」によって埋め尽くさ
れている。
『コケィジャン』に寄せられた公開状は、共和党の州知事であるラッセルが、金
銭を受け取ったうえでディビスに対して恩赦を与えた疑いをかけられていることに対して
反論しているのである。
ディビスは、性犯罪の容疑で逮捕されたことはすでに述べたが、裁判所はこの事件に対
する十分な証拠を得られないままで、彼を懲役 2 年の刑に課したということが、これらの
公開状には記されている。そして彼は、恩赦を得られるように 27.5 ドルを検事に支払った。
しかしディビスは、恩赦を得られないどころか、民主党議員のウィリアム・アレン(William
R. Allen)から、刑期の代わりとして金銭を要求されたのである。そして公開状は、金銭
を要求しているアレンに対して、次のように批判している。
「最終的に、この黒人があなた
62
Ibid., November 3, 1898.
State Executive Committee of the People’s Party of North Carolina, People’s Party Hand-Book of
Facts, Campaign of 1898 (Raleigh: Capital Printing Company Printers and Binders, 1898), 95-96.
63
- 39 -
[アレン]に 100 ドルを支払ったならば、彼は服役を免れるが、あなたが 100 ドルを得るこ
とができなければ、この黒人は刑務所行きになるであろう。全ての白人たちは彼の事件や、
知事に彼の恩赦が申し立てられていることについて何も知らない。……ダップリン郡の全
ての人々は彼に対する恩赦を求めており、何人かの善良な女性たちも、彼の恩赦を妥当な
ものとして要求しているのである」 64 。このように『コケィジャン』が、ディビスの事件
を大々的に取り上げたのには、たとえ被告が黒人であろうとも、裁判における不正を許さ
ない姿勢を示すことを通じて、黒人と白人双方からの支持を獲得したいという意図があっ
たといえる。
さらに『コケィジャン』には、購読者からの投書も掲載されており、そこからはポピュ
リストたちが、投票権は全ての人々に与えられるべき権利として認識していることがわか
る。たとえば、
「私がポピュリスト党に入党した理由」というポピュリスト支持者からの投
書では、
「かれら[民主党]は、常に貧しい白人と黒人をだまし、投票権を奪おうとしてきた
……民主党は、ポピュリストたちが買収をせずに黒人票を得ることができるのは、この州
の恥だといっている。[その一方で]民主党は、黒人票を買収しようとしており、それがこ
の州における名誉だと考えている」と民主党を批判している。そして投稿者は、
「私は、両
人種の貧しい労働者に伝えておきたい。もしも民主党がこの州において勝利したならば、
その時かれらは、貧しい白人男性や黒人に頭を悩ませることはなくなるだろう。君たちが
.................
民主党に投票するならば、投票権を剥奪されることになるだろう」と述べているのである。
また、「彼が民主党を離れた理由」という投書では、「民主党は、文字の読めない者から投
票権を奪い、教育を受けた全ての人々からは投票権を奪わないことを提案している。私は
貧困を理由にして、多くの男性から投票権が剥奪されることに反対である。投票権は貧し
い男性にとっての唯一の武器であり、彼はこれを通じて政治的権利のために闘うことがで
きるのだ」と述べられている。これらの投書は、投票権を維持するという一つの目的の上
に、一般の白人ポピュリストと黒人とが共闘する姿勢を有していた事実を示しているとい
えるのである 65 。
見てきたように、1898 年の選挙キャンペーンにおいてポピュリストたちは、民主党によ
って宣伝された「黒人支配」の恐怖を冷静に受け止め、民主党が自ら作り出した「虚偽」
としてそれを批判している。また、
『コケィジャン』やバトラーは、民主党によって広めら
れた「反黒人」の感情によってではなく、フリー・シルバーや反独占といった改革案に基
64
65
Caucasian, October 20, 1898.
Ibid., October 20, 1898. 強調はイタリック。
- 40 -
づいた団結を促しており、その団結は、理念を共有する黒人をも包括したものであった。
しかし、第三章で考察する 1900 年の選挙においては、ポピュリストによる黒人との連帯
に亀裂が生じ始めることになる。既に述べたように、
『コケィジャン』の購読者による同紙
への投書からは、貧しい白人と黒人が、投票権を固守するために共闘する姿勢が見られた。
しかし皮肉なことに、「投票権の固守」を基盤とした貧しい白人と黒人の共闘は、貧しい白
人が投票権を奪われるという危機感によって崩れ去ることになる。
- 41 -
第三章:国民の境界の確立と「白人支配」
1.南部諸州における黒人投票権剥奪の進行
前章で見てきたように、ノース・カロライナ州における 1898 年の選挙キャンペーンで
は、民主党によって広められた「黒人支配」の恐怖が重要な争点となって展開された。民
主党は、公職に就いた黒人よって、白人女性が脅威にさらされていることを徹底的に宣伝
し、白人民衆の恐怖心を煽った。そこでは、政治における「白人支配」に基づいた団結が
訴えられると共に、白人男性の「男らしさ」という表現が多用されていた。その一方で、
ポピュリスト党は、民主党が宣伝した「黒人支配」の恐怖を「まやかし」であると主張し、
フリー・シルバーや反独占という、かれらが主張する諸改革を共有した黒人との連帯を訴
えることによってそれに応戦した。
このような徹底的な政党間の対立を見せた 1898 年のノース・カロライナ州の選挙では、
民主党が勝利し、かれらは同州における支配権を奪取したのである。この勝利によって民
主党は、ノース・カロライナ州の上下両院の 3 分の 2 を獲得したのだが、黒人人口の多い
地域では依然として共和党もしくは、ポピュリスト党への支持が高かったことも事実であ
る。民主党は、人種の人口比率に応じて選挙の結果が左右される状況を好ましく思わず、
かれらは投票権を制限することを通じて、この状況を打破しようと試みるのである。ノー
ス・カロライナ州における主に黒人を対象にした投票権剥奪に際した議論を具体的に見て
いくに当たって、まずは他の南部諸州において、黒人の投票権が剥奪されるに至る経緯を
見ておく必要があるだろう 66 。
黒人の投票権は、
「人種・肌の色あるいは過去の隷属の状態」を理由として、投票権を制
限することを禁止する憲法修正第 15 条(1870 年制定)によって保障されていた。しかし
1890 年以降、南部の諸州は、この修正第 15 条の規定の裏をかき、財産や教育水準を条件
とすることによって、黒人の投票権を徐々に制限していくことになる。その先駆けとなっ
たのがミシシッピー州であり、同州では選挙登録に当たって「人頭税(poll tax)」納入と
「読み書きテスト(literacy test)」を課すことによって投票権が制限された。その後、1895
年にサウス・カロライナ州で同様の州法が採択され、ルイジアナ州(1898 年)、アラバマ州
(1901 年)、バージニア州(1902 年)、ジョージア州(1908 年)そして、1910 年にはオクラホ
マ、テネシー、フロリダ、アーカンソーの諸州といった具合に南部全域に広がっていった
のである。C・ヴァン・ウッドワードは、ポピュリスト運動において見られたような、下
66
Edmonds, Negro and Fusion, 152, 208.
- 42 -
層の白人と黒人による連帯を防ぐ目的から、投票権の制限が行われたことを指摘している
ことは、既に述べた。この主張を裏付けるようにウッドワードは、黒人の投票権を剥奪す
る州法が早期に採択された「サウス・カロライナ州とミシシッピー州は、南部諸州のなか
で第三政党[ポピュリスト党]による力強い挑戦を防止した唯一の州であった」 67 ことを
指摘している。
サウス・カロライナ州では、ベン・ティルマン率いる民主党が徹底的な反黒人キャンペ
ーンを展開したことは、第二章において前述したが、彼は、
「黒人有権者の投票権を剥奪す
ることに対して、白人たちが政治的に反対することを許すのであれば、
[政治における]白
人支配を危うくする」と主張し、黒人投票権剥奪に乗り出したのである。また、アラバマ
州のポピュリストは、1890 年代前半に黒人投票権の保護を主張していたが、後にその態度
を変え、黒人の投票権剥奪の動きに傾斜していったという。さらにルイジアナ州やテネシ
ー州においては、多くのポピュリストが黒人投票権を剥奪する法案に賛成票を投じたので
ある 68 。
ジョージア州においても同様であった。同州は、トム・ワトソンの影響もあり、ポピュ
リスト党の勢力が特に強かったのだが、民主党のホーク・スミス(Hoke Smith)によっ
て 1908 年に提案された投票権を制限する法案に際しては、多くのポピュリストたちが賛
成の立場を示した。しかしトム・ワトソンは、黒人と白人の政治的平等を強く訴えており、
黒人の投票権剥奪に関しても当初は、強い反対の意を示していた。彼が投票権の制限に対
して慎重な姿勢を示していたのには、投票権の制限が行われることによって、南部におけ
る民主党支配が強化されることに対する危機意識からであった。たとえば彼は、サウス・
カロライナ州において黒人投票権が剥奪されたことに対して、
「この復古的な法制定は、全
て間違っている。……この完全なる陰謀は、サウス・カロライナ州の民主党によるもので
あり、かれらの政党による支配を永続させる」ためのものだと批判しているのである。こ
のように述べたワトソンも黒人の投票権剥奪に対する民衆の関心が高まるなかで、1908
年に提案された黒人投票権を剥奪する法案を通過させるために、ホーク・スミスに全面的
に協力した 69 。
このようにして南部諸州では、財産や教育の水準を基準として投票権を制限する州法改
Woodward, Origins, 322.
Kantrowitz, “Ben Tillman,” 524; Gaither, Blacks and Populist, 166-168, 121-22; O. Gene Clanton,
Congressional Populism and the Crisis of 1890s (Lawrence: University Press of Kansas, 1998), 44.
69 People’s Party Paper, November 8, 1905. 以下より引用。 Russell Korobkin, “The Politics of
Disfranchisement in Georgia,” The Georgia Historical Quarterly, 74 (Spring 1990), 35.
67
68
- 43 -
正が急速に進んでいったのだが、これらの改正案は、多くの黒人から投票権を剥奪すると
同時に、基準を満たせない貧しい白人たちもその権利を奪われる危険性を有していた。つ
まり、投票権の獲得に障壁を設けることは、黒人だけでなく、気に食わない白人からも投
票権を奪おうという意図があったのである。その一方で、南部諸州において投票権が剥奪
される際に、条件を満たすことができない白人を救う手段として様々な「抜け道」が考案
された。たとえばサウス・カロライナ州では、選挙登録に際して課せられる読み書きテス
トにおいて、黒人には難解な問題を、白人には容易な問題を課すことを認める「了解条項」
(understanding clause)が、1895 年の投票権を制限する州法改正のなかに盛り込まれて
いた。そして、白人を投票権剥奪の危機から救う「抜け道」として最も普及した方法は、
ルイジアナ州で 1898 年に制定された「祖父条項(Grandfather clause)」である。これに
は、1867 年 1 月 1 日以前において選挙資格を有していた者及び、その子孫は、有権者登
録における「読み書きテスト」を免除することが示されている 70 。
この「祖父条項」によって、投票権の有無は明確に人種の境界線と重なり合い、黒人と
貧しい白人の間に本質的な違いと序列化がもたらされたといえる。それは、
『アトランティ
ック・マンスリー』に掲載された匿名の論文において、
「無知な[貧しい]白人の群集や純粋
なアングロサクソンの多くは、……『祖父条項』によって保護されることで、文明化の行
進において黒人たちに勝ることができる」と述べられていることから明らかである。この
引用からわかるように、
「祖父条項」支持者は、黒人から投票権を奪い、無知な(=貧しい)
白人にその権利を与えることによって、自らの優越性を認識させると同時に、黒人との連
帯を断絶しようと目論んでいたといえる。裏を返せば、投票権を制限されることのない裕
福で教育を受けた白人たちは、白人が階級を軸として分裂し、下層の白人が黒人と連帯す
ることに対する強い警戒心を有していたがゆえに、人種の境界線の明確化と序列化をもた
らす「祖父条項」を支持したのである。それは上記の論文の一節において、貧しく無知な
白人は、
「われわれ[裕福で教育を受けた白人]の国民生活における最も哀れで危険な構成要
素なのだ」と述べられていることから明らかである。以下では、1900 年のノース・カロラ
イナ州における投票権の制限をめぐる議論を分析するが、ポピュリストたちはこの議論に
直面することを通じて、白人と黒人の境界に対する認識を強化すると同時に、階級に対す
る意識も強化していくことがわかる 71 。
Woodward, Origins, 326-37; Williamson, Crucible of Race, 135, 232-234; Gaither, Blacks and
Populist, 167-168, 179.
71 Anonymous, “Reconstruction and Disfranchisement,” Atlantic Monthly, 88 (October, 1901), 434.
70
- 44 -
2.投票権剥奪を通じた「白人支配」の確立
投票権の制限に当たって問題とされたのは、1898 年の選挙キャンペーンと同様に、「黒
人支配」とそれに付随した諸問題であり、黒人からの投票権の剥奪は、必然的にこれらの
問題と結び付けて論じられることとなった。
『オブザーバー』が投票権の制限に対する議論
を本格化し始めたのは、1900 年の 6 月末からであったが、それらの記事は、以下の二点
を中心に報じていることがわかる。まず第一点は、共和党とポピュリスト党の提携派と黒
人たちの関係、およびその危険性を伝える記事である。これらの記事のなかでは、黒人た
ちが選挙日当日に白人を襲撃することが報じられた他、黒人による犯罪を報じることを通
じて、白人民衆の恐怖心が煽られている。二点目は、政治における「白人支配」をさらに
強化するための宣伝である。そこでは、多くの民主党の政治集会で行われた演説が掲載さ
れると共に、投票権を制限する州法改正に反対するポピュリストたちへの批判が集中して
いる。これら二点の宣伝は、1898 年選挙における反黒人キャンペーンよりも暴力的であり、
民主党はこれらの宣伝を通じて、
「白人支配」に基づいた白人層の強固な団結を目指したの
である。それでは順をおってこれらの記事を見ていくことにしよう。
「黒人支配」の恐怖と投票権の剥奪
1900 年の投票権法の改正をめぐって、民主
党が徹底的に報じたのは、選挙登録および 8
月 2 日の投票日に、共和党とポピュリスト党
の提携派と黒人たちが暴力的な手段を用いて
この法案の可決を妨害するという宣伝であっ
た。たとえば、7 月 27 日の記事では、「黒人
たちと共和党員は、……『棍棒を持って投票
箱の前に立ち、選挙監督官(poll registrar)
と選挙登録官(poll holder)の頭を棍棒で殴
図 8.News and Observer, June 27,
1900.
るであろう』」と報じる記事が、風刺画(図 8)と共に掲載されている。そして、
「ノース・
カロライナ州の善良な白人たちは、流血の惨事を扇動する男性たちや、政党のいかなる言
動も信じてはならない。8 月の選挙では、強圧、不正や買収は行われない」と述べること
を通じて、
「善良な白人男性」の結束を促しているのである。また、7 月 10 日の記事では、
投票権法の改正が可決された場合、黒人たちがフランクリントン(Franklinton)の町を
- 45 -
焼き払おうと計画していることが明るみになったとして、「白人民衆の[投票権法]改正支持
への熱狂が奮起された」と報じられている。このような、ポピュリスト党と共和党の提携
派と黒人が、投票権法改正に対して暴力を通じて抵抗しようとしていることを伝える記事
は連日伝えられ、それらの記事は、次第に過激さを増していった 72 。
7 月 3 日には、投票権法の改正に対する
反対票を獲得するために、黒人たちが、白
人票を買収していると、報じられた。図 9
は、それを伝える風刺画である。ここで描
かれているのは、共和党の元州議会議員で
あるホルトン(Eugene Holton)が黒人に
操られて、白人票を買収するための資金を
集めている様子である。ホルトンは、紐に
繫がれていると共に尻尾が生えた動物とし
て描かれており、この挿絵を通じて共和党
図 9.News and Observer, June 3, 1900.
員が黒人の支配下に置かれた様が示されている。
民主党は、このような風刺を通じて、白人民衆に「黒人支配」の恐怖の帰結を再び訴え
たのである。また、7 月 13 日の記事では、黒人たちが拳銃を携帯して選挙登録所に来てい
ることが伝えられている。たとえば、モンゴメリー郡(Montgomery)では、選挙登録官
であるスティード(James E. Steed)に対して、「拳銃を携帯した三人の黒人男性と三人
の白人男性が頭に拳銃を突きつけて脅迫した」ことが伝えられている。そして、「黒人たち
が 8 月2日[の投票日に、投票権法改正をめぐる]投票に対して宣戦布告をし、暴力的な手
段を用いるものならば、白人たちは[投票権法]改正の目的[遂行]のためにいかなる手段を用
いてでも、これに抵抗しなければならない」と述べて白人民衆の感情を刺激したのである
73 。
『オブザーバー』は、選挙登録所における黒人の横暴や、投票日当日に黒人たちが計画し
ている悪事を伝えるのと同時に、ポピュリストの動向にも関心を寄せていることが窺える。
ポピュリストは、7 月 5 日の会合を通じて、共和党との提携の方針を取り付けたのだが、
この提携に対する民主党の反応は至って冷静であった。なぜなら、民主党はポピュリスト
と共和党の提携が不完全なものであると共に、今では共和党の支持者は黒人のみであると
72
73
News and Observer, June 27, 1900, July 10.
Ibid., July, 3, 1900, July 13 1900.
- 46 -
考えていたのである。それは、6 月 28 日に掲
載された図 10 においても、明らかに示され
ている。民主党はこの風刺画を通じて、事実
関係は不明にせよ共和党の州大会に 63 人の
黒人と、たった 4 人の白人しか参加していな
いことを伝えることで、共和党とポピュリス
ト党の提携が衰弱した様を白人民衆に知らし
めたのである。
このように、ポピュリスト党と共和党の提携
図 10.News and Observer, June 28, 1900.
が不完全である状況を読む民主党は、8 月の
投票権法の改正に際しては、政党を超えて多くの白人民衆が賛成票を投じると予測してい
た。その事実を示すために7月 15 日の記事では、マリオン・バトラーとロイド(A. L. Lloyd)
が黒人のジョージ・ホワイトを連邦下院議員に再当選させたことを告発する、ポピュリス
ト党の前州議会議員であるファンティン(W. F. Fountain)の手紙が掲載されている。彼
は、民主党州議会議員のシモンズ(Furnifold M. Simmons)に送った手紙のなかで、「バ
トラーとロイドがホワイトを[連邦議会に]置いたことは、愚かな行為だ」と罵っているの
である。民主党は、ポピュリスト党のファンティンがバトラーを批判する手紙を掲載する
ことを通じて、白人による政治支配を望むポピュリストが、民主党へと接近してきている
ことを伝えようとしたのである 74 。
また、7 月 20 日の記事では、
「全ての民主党員と多くの共和党員とポピュリスト党員は、
今年の選挙で民主党に投票することになるだろう。そして[投票権法の]改正に際してはさ
らに多くの人々がこれに賛成票を投じるであろう。……[ポピュリスト党と共和党の]提携
は衰弱したのであり、二度と目覚めることはない」と報じているのである。さらに 7 月 28
日の第一面では、ポピュリストの州議会議員であるマーティン(Charles H. Martin)が、
「白人支配」と投票権法の改正を支持することを表明したことが大きく掲載されている。
彼は、投票権法の「改正案を通じて、政治を困惑させる黒人を排除することが『成就され
ることを熱烈』に望んでいる。これ[投票権法の改正]を通じて、白人支配によって調和の
取れた自然で不朽の社会」が構築できるのだ、と述べているのである。このように民主党
は、ノース・カロライナ州における投票権法の改正案が、政党を超えて承認され始めてい
74
Ibid., July 8, 1900, July15, 1900.
- 47 -
ることを報じることを通じて、この法案可決に対する民衆の感情を扇動したといえる 75 。
また、1898 年の選挙において用いられた「白人女性の脅威」の宣伝は、黒人から投票権
を奪うことを正当化する手段として再び用いられただけでなく、この脅威を打破する目的
を共有した白人男性の勇敢な姿が描かれた。たとえば、6 月 27 日の記事では、若い黒人男
性が、オバーマン夫人(Edwin Overman)の寝室に侵入したことが伝えられた。そしてこ
の記事では、近隣に住む数名の男性がこの黒人を追跡し、逮捕した経緯を伝えることを通
じて、白人男性の勇敢さと団結力を示そうとしているのである。この事件の他にも、通学
路で待ち伏せしていた黒人の少年が、白人の少女に噛み付いた事件が報じられ、そこでは、
「少女が怖がっていたから噛み付いた」という黒人の供述が掲載されている。この記事で
は、上記のように証言する黒人を「今まで見たなかで最も愚かな黒人」として位置づける
と共に、白人の少女が良家の育ちであることが伝えられている。つまりこの記事は、黒人
男性と白人の少女を対比することを通じて、白人の優越性を示そうとしているのである。
このような黒人男性による犯罪を憎む『オブザーバー』は、黒人へのリンチを容認してい
る。たとえば、アラバマ州ハンタビル(Huntaville)で 7 月 22 日に起きた白人の少女へ
「黒人が犯した罪に対する制裁が与えられた」という見だし
の暴行事件を伝える記事では、
と共に、リンチの詳細が伝えられている 76 。
そして、投票前の最後の日曜日である 7 月 29 日の第一面では、2 年前の選挙において繰
り返し利用された、黒人男性と白人女性の接触を正当化したマンレイの社説が再度、掲載
されるとともに、彼とバトラーの関係が伝えられた。マンレイは、1898 年 11 月の選挙直
後に白人民衆によって組織された革命家(revolutionist)に先導されて起こった、ウィル
ミントン暴動によって町を追放されていた。しかし、同日の記事では、1900 年の選挙に民
主党が敗退することになれば、
「マンレイとその支援者たちが、再びノース・カロライナ州
の女性のもとに戻ってくることになるだろう」と報じると共に、次のように続けている。
ノース・カロライナ州の白人男性たちは、ウィルミントン暴動を起こした革命家たちより
も過激であり、同州の「女性が黒人によって屈辱を受けるのを黙ってみていることはしな
い」。このように『オブザーバー』は、「黒人支配」がもたらした諸悪を打倒する目的を共
有した、強い白人男性像を示したのである 77 。
75
76
77
Ibid., July 20, 1900, July 28, 1900.
Ibid., June 27, 1900, July 22, 1900, July 24, 1900.
Ibid., July 29, 1900.
- 48 -
白人層の団結に基づく政治支配の確立
1900 年の投票権法改正案をめぐって『オブザーバー』は、ポピュリスト党と共和党、お
よび黒人たちが暴力を介してこの改正案に抵抗することを警告し、白人民衆の危機感を煽
った。これらの宣伝と同時に民主党が行ったのは、投票権を制限し、政治における「白人
支配」を実現することの重要性を白人民衆に対して啓蒙することである。7 月 5 日の記事
では、黒人たちは法律によって「保護されてきたにもかかわらず、自己救済のためだけに
権力を行使してきた」と黒人たちを批判した上で、以下のように続けている。投票権法を
改正することは、黒人たちがもたらす害悪の根絶よりも、一部の「邪悪な白人による彼ら[黒
人]に対する支配を取り去ること」を意味する。この記述が示しているように、自己利益し
か考えていない黒人と、かれらを利用しているポピュリスト党と共和党の提携派は、共に
社会の害悪とされており、かれらを打倒する目的の上で投票権法の改正案が正当化された
のである 78 。
『オブザーバー』は、投票権法の改正案を脅かしかねないポピュリスト党と共和党の提
携派に対する批判的な記事を連日掲載したのだが、この法案に対する議論の加熱には、民
主党指導者層の演説も大きな影響を与えた。
『オブザーバー』は、連日かれらの演説を引用
して、ポピュリスト党と共和党の提携派と黒人の関係を断ち切ることの重要性と、政治に
おける「白人支配」を訴えることを通じて、投票権を制限する法案に対する民衆の関心を
集約したのである。1900 年の州知事選挙に民主党候補として選出されたアイコック
(Charles Brantley Aycock)は、ノース・カロライナ州の各地において、投票権の制限に
関する演説を繰り返し行った。たとえば、6 月 14 日のゴールズボロ(Goldsboro)での演
説には、5000 人もの群集が集まったことが伝えられており、「白人支配」を熱烈に訴える
彼に対して、群集の関心が集まっていたことが伺える。アイコックは、この演説において、
「マリオン・バトラーと彼の脅迫によって妨害された選挙登録官は、我々を抑止すること
はできない。全てのノース・カロライナ州の過激な提携派は、この州の男らしさ(manhood)
を萎縮させることはできないのだ」と述べた。そして、投票権法の改正に賛成する人々に
対して政治における「白人支配」を求める者の団結を訴えたのである。また、1900 年選挙
の下院議員候補者のブルックス(A. L. Brooks)は、
「我々は黒人と食事を共にすることは
おろか、かれが私たちのベッドで寝ることを許すことはできない。……そして我々が黒人
たちに同様の……権利を許している限り、かれらは我々の社会を規制するための投票を行
78
Ibid., July 5, 1900.
- 49 -
うことになるだろう」と述べている。彼の発言が示しているように、黒人から投票権を剥
奪することは、人種の境界線を確かな物にすることと、密接な関係にあったといえる。こ
れを裏付けるように、1900 年の『オブザーバー』では、列車内における人種隔離を法制化
するジム・クロウ車両を徹底的に導入する必要や、黒人と白人の囚人を同じ鎖につなぐこ
とに対する怒りに満ちた記事が多く掲載されているのである 79 。
民主党の指導者層による演説は、しばしば紙面を通じて日時が予告され、会場で行われ
たのは、演説だけでなくバンドによる演奏やバーベキューが振舞われたりした。7月 29
日の紙面では、投票権法を改正に導く選挙キャンペーンを締めくくる各地の演説が告知さ
れている。それによると、7 月 30 日と 8 月 1 日の両日とも、ローリーにおいて民主党員
による演説が行われることが伝えられ、演説者の紹介文が掲載されている 80 。
民主党によって提起された投票権をめぐる議論は、指導者層の演説や『オブザーバー』
の記事を通じて、民衆の一大関心事となり、かれらの「白人支配」に対する熱気は高めら
れた。そして政治における「白人支配」を確立しようとする意識は、次第に暴力性を帯び
始めることになる。その一つはいわゆる「赤シャツ隊(Red Shirt)」と呼ばれる民主党の
過激派であり、1900 年の『オブザーバー』では、かれらの動向に対する関心が示されてい
る。たとえば、アイコックとその賛同者たちが、7 月 21 日のホワイトビル(Whitevill)
で行った演説には、多くの赤シャツ隊が拳銃を携帯して参加し、演説者と参加者による投
票権法改正に関する議論が展開されたたことが報じられている 81 。
今ひとつは、
「白人支配クラブ」(White Supremacy Club)である。7 月 20 日のウェイク
郡(Wake)における選挙キャンペーンの成功を伝える記事では、1898 年の前回よりも、
「白人支配」を訴える民主党に賛同する白人群衆が倍増したことが伝えられた。そして、
「白人支配」に対する熱気が高まったウェイク郡では、キング(A. W. King)をリーダー
とし、42 人のメンバーによって構成された「白人支配クラブ」が結成されたことが報じら
れたのである。
『オブザーバー』が「赤シャツ隊」や「白人支配クラブ」のような過激派の
動向を伝えたことの意図は、投票権法改正に反対する人々に威圧感を与えるためであり、
かれらもその役割を果たそうとしていた。たとえば、ポピュリストが選挙登録官を逮捕し
たという報道に対して、
「白人支配クラブは全ての構成員を呼び出し、その選挙登録官が逮
捕された原因を」突き止めようとしたのである 82 。
79
80
81
82
Ibid., July 15, 1900, July 17, 1900, June 30, 1900.
Ibid., July 29, 1900.
Ibid., July 24, 1900.
Ibid., July 22, 1900, July 20, 1900.
- 50 -
見てきたように、1900 年に行われた投票権法の改正をめぐる議論では、この法改正に反
対するポピュリスト党と共和党の提携派と黒人たちが、改正案の可決を妨害することが伝
えられていた。しかし、投票権の制限がどのような方法で行われ、誰が制限の対象になる
のかは、投票日が間近に迫るまで伝えられなかった。投票日を三日後に控えた日曜日(7
月 29 日)の紙面では、前述したようにマンレイなどの黒人男性が白人女性に及ぼす脅威
が伝えられていたのだが、同時にこの法改正の真の意味を伝える多くの記事が掲載されて
いる。そこでは明確に、投票権法の「改正が採用されたならば、黒人を政治から排除する
ことができる」のであり、白人男性は、その対象となることはないと報じている。そして、
連邦議会上院議員としての任期が切れるマリオン・バトラーが 1900 年に再当選を果たす
ことになれば、
「その後の四年間は流血を伴う暴動、不法侵入や放火などの暴力が起こるで
あろう」と述べて、提携支持派への警告を促しているのである 83 。
また、黒人からの投票権剥奪を正当化するポピュリストのバスビー(C. M. Busbee)の
発言が掲載されている。この記事によると、
「黒人票は、[南北]戦争によって生じた衝撃が
落ち着いていないことによって、南部の諸州において都合よく利用されてきた。このこと
は文明に対する罪悪的な行為である」 84 とされている。つまり、このように発言するバス
ビーは、黒人たちに投票権が与えられたことによって、黒人票をめぐる不正や買収が増加
し、南部の政治と白人たちの結束に亀裂が生じたと考えているのである。そして、黒人か
ら投票権を奪うことは、彼が回想する古き良き南部の文明の回復に繋がるということを白
人の民衆に訴えたのである。
このように、民主党員たちが、投票権の制限を通じて築き上げたかったのは、「白人支
配」と愛郷心によって統治された、白人のための社会だったのである。そして、この理想
社会を創造するために民主党は、白人の民衆に対して「白人男性の政党」
(民主党)に投票
することによって、
「自分たちが白人であることを示すことができる」ことを訴えた。それ
は、7 月 26日にシャーロット(Charlotte)で行われた、民主党のスポークス・パーソン
であるオズボーン(Frank I. Osborne)の演説において顕著に現れている。彼は、
「もしも、
私がある男性になぜ民主党に投票するのかとたずねたとしたら、……彼は民主党員である
理由を、自分自身が白人であり、白人の優越性を信じているからだと答えるであろう」と
述べているのである。つまりオズボーンは、「白人男性の政党」である民主党への投票が、
自分たちが「白人であること(「ホワイトネス」)」を示すことになることを、白人の聴衆た
83
84
Ibid., July 29, 1900.
Ibid., July 29, 1900.
- 51 -
ちに訴えたのである 85 。
3.投票権剥奪の議論とポピュリスト
民主党の宣伝によると、投票権を剥奪される対象は黒人であることから、この問題をめ
ぐる議論そのものが、人種性を帯びたものであったといえる。民主党員たちは、
「白人支配」
に基づいた、
「白人のための理想社会」の実現を民衆に訴えることを通じて、投票権法の改
正案を可決させようとしたのである。このような民主党の主張に対してポピュリストたち
は、1899 年に提出された投票権法の改正案の「真意」を伝えることで、支持を得ようとし
た。つまりポピュリストは、投票権法の改正によって投票権が剥奪されるのは、黒人に限
られず、貧しい白人たちも同様の危機にさらされていることを訴えたのである。まずは、
1900 年のノース・カロライナ州ポピュリスト党の綱領から、投票権法の改正に対するかれ
らの危機意識を探ってみよう。
1900 年 4 月 18 日にローリーで開かれたポピュリスト党の州大会では、民主党が提案し
た投票権を制限する改正案に関して議論され、ポピュリスト党綱領が採択された。ポピュ
リストたちは、この党大会において採択された綱領を通じて、投票権法の改正案を批判し
ている。この綱領では、
「改正案で述べられている極悪非道な憲法違反である第 5 項は、
『祖
父条項』の名で知られている。しかし、この憲法違反の条項には、1898 年の選挙で……
50000 から 60000 人の教養ある白人有権者たちから[州]議会における権力を与えられた民
主党によって、[貧しい白人が]投票権を剥奪される重大な危険性を残している。[民主党に
投票した人々の]無知に過失はないが、……民主党は、かれらから投票権を剥奪し、かれら
の無知を犯罪と同列に並べようとしているのだ」と述べている。ポピュリストたちが綱領
を通じて批判しているように、投票権法改正の条文では、民主党が黒人だけでなく、貧し
い白人からもその権利を剥奪しようと目論んでいた事実が確かに窺える 86 。
21 歳以上の全ての男性に投票権を与えていたノース・カロライナ州の投票権法には、こ
の改正案において第 4 項と第 5 項の二つの条項が付け加えられた。まず第 4 項では、選挙
登録に当たって人頭税の納付と法律に関する読み書きテストを受けることを条件として規
定している。そして第 5 項は、「祖父条項」である。そこでは、「1867 年の 1 月 1 日、…
…もしくはそれ以前において……投票する権利が与えられていた者と、その直径の子孫以
85
86
7.
Ibid., July 27, 1900.
The Proposed Suffrage Amendment: The Platform and Resolutions of the People’s Party. (1900[?]),
- 52 -
外は、……この条項が承認される 1908 年 12 月 1 日までの期間に、選挙登録を行うことが
できなければ、この州で行われるいかなる選挙においても選挙登録と投票する権利を否定
される」と記されている。この第5項が示しているように、「祖父条項」によって、第 4
項の条件を回避できるのは、1908 年までに選挙登録を行える者に限られている 87 。
つまり、ポピュリストたちが危惧しているように、「全ての白人少年が[選挙権を得られ
る]年齢に達したとしても、1908 年以降は、かれら[白人少年]が読み書き出来なければ、黒
人と同じ立場に置かれ、投票することができない」のである。さらに綱領では、
「投票権の
[法改正における]不道徳は、不快で面倒な階級である黒人の全住民と、最も誠実で親切で
あり秩序正しい人種[白人]の投票権を完全に剥奪する」ことであると述べている。この引
用にみられるように、ポピュリストたちは、黒人のことを「不快で面倒な階級」とする一
方で、白人を「品行の良い人種」とすることによって、両人種を明確な差異の下に分類し
ているといえる。上記の引用から解るように、ポピュリストたちは、投票権法の改正案に
よって貧しい白人が投票権を剥奪されるという危機に直面することによって、黒人との連
帯の姿勢を示していた態度を一変し、貧しい白人と黒人の間に境界線を引きはじめたので
ある。つまりポピュリストたちは、国民としての権利を行使できる条件が「人種」によっ
て規定されつつある背景のなかで、自らの人種観を変化させていったといえるのである。
以下では、1900 年の選挙におけるポピュリストたちの演説と、『コケィジャン』の記事か
ら、ノース・カロライナ州のポピュリストたちが、投票権剥奪の議論を通じて「人種」の
違いに対する意識を強化していく過程を考察する 88 。
演説によって高められる貧しい白人の危機意識
前節でも見てきたように、1900 年の選挙キャンペーンは、投票権を制限する州法改正を
めぐって展開されていた。この選挙キャンペーンが、前章で見た 1898 年の「反黒人キャ
ンペーン」よりもその加熱振りをうかがわせるのは、他州の著名なポピュリストを招き、
投票権をめぐる演説を行わせたことである。ノース・カロライナ州のポピュリスト党は、
投票権法の改正を阻止するために、
『コケィジャン』を通じて時と場所を予告し、多くの演
説を行わせた。これらの演説には、各郡の選出者と共に、サウス・ダコタ州のケリー(John
Kelly)、テキサス州のトレィシー(Harry Tracy)とアッシュビー(Stump Ashby)など
といった他州の著名なポピュリストも参加した。他州のポピュリストのなかで、特に精力
87
88
Ibid., 4.
Ibid., 7.
- 53 -
的に演説をして回ったのは、テキサス州のトレィシーである。彼は、ノース・カロライナ
州の農民同盟を組織し、同州のポピュリスト運動の勃興に多大な貢献をした人物である。
トレィシーが、1900 年のキャンペーンに全面協力する意向を示したことは、『コケィジャ
ン』において力強く報じられた。彼は、3 日間で 6 箇所も演説して回り、貧しい白人が投
票権を奪われる危険性を有した州法改正に対する民衆の関心を集約したのである 89 。
1900 年のノース・カロライナ州の選挙に際した、演説における一つの特徴は、演説の聴
衆がポピュリスト党の支持者に限られていなかったことである。ポピュリスト党支持者の
多くが、貧しい白人であったことはすでに述べたが、1898 年の選挙において反黒人感情が
煽られたことによって、多くの貧しい白人たちが民主党支持に傾斜していた。ポピュリス
トたちは、2 年前の選挙において民主党を支持した貧しい白人たちを、再びポピュリスト
党に投票させるために、かれらに対して積極的に働きかけたのである。たとえば、テキサ
ス州のポピュリストであるアッシュビーの演説を予告する記事では、参加者はポピュリス
トに限られず「公正な選挙と男性の投票権」に関する開かれた討論が行われることが伝え
られている。また、演説や紙面では、投票権剥奪の対象となりうる全ての貧しい白人男性
への配慮がなされており、真実を知らない一般の民主党員を心配する発言が多く見受けら
れる。さらに、『コケィジャン』には紙面の隅に小さくではあるが、「8 月の投票日の前に
20 部の『コケィジャン』を 1 ドルでお送りします。今こそあなたの友人に『コケィジャン』
を送るときです」と述べて、投票権剥奪の危機を多くの貧しい白人たちに知らせる必要が
訴えられている 90 。
これらの演説で繰り返し強調されたのは、貧しい白人から投票する権利が奪われること
である。たとえば、7 月 10 日のランバートンでは、ノース・カロライナ州のポピュリスト
党で精力的に活躍していたロイド(J. B. Lloyd)と、サウス・ダコタ州のケリーが討論を
行った。この討論においてかれらは、投票権法の改正が憲法違反であることを示し、この
法案が可決された場合、
「五万人の白人が投票権を奪われるであろう」と述べた。また、同
日のサンプソン郡(Sampson)では、同郡におけるポピュリスト党の党大会が行われた。
この党大会において、フォウラー(John E. Fowler)は、
「投票権法の改正案が可決され、
機能し始める 1908 年には四万人か、それ以上の都会の黒人たちが投票しているのに対し
て、数千人の白人が投票できなくなるであろう」と警告している。ロイドとケリーは、7
月 12 日のケナンズビル(Kenansville)で再び対談したのだが、そこでケリーは、
「その[投
89
90
Caucasian, July 19, 1900, July 26, 1900.
Ibid., July 26, 1900, July 19, 1900.
- 54 -
票権の]改正案は黒人に対してよりも、読み書きができない白人に対してのほうが、より厳
しい」と述べて聴衆の危機感を煽ったのである。このように投票権法の改正案をめぐる選
挙キャンペーンの終盤には、多くのポピュリスト党の有力者が演説をしてまわり、貧しい
白人から投票権を奪い、教育を受けた黒人を放置するこの法案への批判を繰り返したので
ある 91 。
前述のフォウラーの演説に見られたように、
ポピュリストたちが、貧しい白人からの投票
権の剥奪に対して危機感を感じていたのには、
ノース・カロライナ州には、多くの読み書き
ができない白人がいたからである。とくに
1900 年の同州のポピュリスト党綱領では、投
票権を剥奪する州法改正案が機能し始める
1908 年までに、選挙権を得られる年齢に達し
た貧しいがゆえに教育を受けることができな
い白人少年が投票する権利を奪われることが
危惧されていた。マリオン・バトラーは、モ
ーガトンで行なった 6 月 16 日の演説におい
て、上記のことについて触れている。図 11
は、彼の演説の内容を伝える風刺画である。
図 11.The Caucasian, July 5, 1900.
一見するとこの図は、
「白人支配」と書かれたバッジを胸に着けた少年に対して、マリオン・
バトラーがその真意を確かめていることを示しているように見える。しかし、この図に付
された記事を読むと、そこで問題にされているのは、
「白人支配」そのものではないことが
わかる。この記事で問題とされているのは、この少年が文字を読めないという事実である。
バトラーは、現在 11 歳で、読み書きができないこの少年に対して、選挙権を得られる「21
歳に達するまでに、君は教育を受けることができると思うか」と訊ねた。すると少年は、
教育を受けることができないことを恐れていることをバトラーに伝えた上で、
「僕は、貧し
いので、働かなければならないのです」と答えたのである。この少年との会話の後にバト
「彼は投票権を奪われるのであり、
ラーは、この少年が選挙権を得る年齢に達したとしても、
この州に住む全ての 12 歳以下の白人の少年が同じ状況に立たされるのだ」と述べたので
91
Ibid., July 19, 1900, July 26, 1900.
- 55 -
ある 92 。
そしてバトラーは以下のように聴衆に訴えた。「もしもあなたが裕福かつ教育を受けた
者であり、あなたの息子から投票権を剥奪する危険のある陰謀に投票したならば、彼を都
会の黒人野郎(town negro dude)よりも下位に位置づけることになるのです。投票する
権利を奪われたあなたの息子は、大災害を引き起こす愚かな投票を行ったあなたを許すこ
とはないでしょう」。この演説からは、バトラーが貧しい少年から投票権が奪われることに
よって、かれらが、黒人たちよりも下位に位置づけられることに対して強い嫌悪感を有し
ていたことがわかる。つまり、バトラーの演説に示されているように、教育や貧困を理由
として、貧しい白人の投票権が奪われるという危機に直面したポピュリストたちは、黒人
と白人の境界線を明確に意識し始めるのである。以下では、投票権を剥奪する州法改正の
議論によって顕在化した、教育と貧困の問題をめぐるポピュリストたちの危機意識を見て
みよう 93 。
顕在化する貧困と教育の問題
ポピュリストたちの演説において見られたように、かれらは、貧しい白人の少年が教育
を受けられないことによって、投票する権利を奪われることに対して危機感を持っていた。
そのため、1900 年の『コケィジャン』では、投票権剥奪に対する貧しい白人たちの危機
感を募る記事が連日のように掲載されている。たとえば、「白人の少年たちから投票権が
奪われる」という記事では、民主党が 13 歳以下の子供たちに対して教育を施すことによ
って、かれらの選挙権を守ると宣伝しているのに対して、以下のように述べて民主党を批
判している。ノース・カロライナ「州には、千六百人の学校に通う年齢に達した子供たち
がいる。[しかしその内の]八百人の子供しか入学しておらず、ほぼ毎日通っているのはた
った四百人である」。そして「この[投票権法の]改正案には、白人の優越性などどこにも
なく、貧しい白人の少年たちを格下げし、奴隷に仕立て上げるのだ」と述べて民主党によ
って提案された法案を批判しているのである。このようにポピュリストたちは、教育を受
けられないことによって子供たちが投票権を奪われることに危機意識を有しているのだ
が、その根拠は当時の識字率にある 94 。
1900 年の国勢調査を見てみると、ノース・カロライナ州における白人の有権者は
92
93
94
Ibid., July 5, 1900.
Ibid., July 5, 1900.
Ibid., July 5, 1900,
- 56 -
286,812 人おり、その内の 18.9%に当たる 54,334 人が文字を読むことができない。一方
黒人の総人口は、127,078 人であり、文字を読むことができないのは、その内 53.1%に当
たる 67,481 人である。全体では、29.1%に当たる 121,815 人が文字を読めないことにな
る。つまりポピュリストたちは、1900 年の段階において約 2 割の白人男性が文字を読め
ない現状と、教育を受けている子供の割合を照らし合わせた上で、8 年後の州法改正時に
おける識字率向上に難色を示したといえるのである 95 。
投票権を制限するこの州法改正は、ノース・カロライナ州以外の南部諸州でも行われて
いたことは、既に述べた。
『コケィジャン』は、それらの諸州において、白人の投票権が奪
われた後の悲劇的状況を報じている。同紙いわく、1898 年の選挙に当たって、「ルイジア
ナ州では……69,654 人の白人男性から投票権が奪われており、3人のうち1人しか投票で
きていない。……サウス・カロライナ州では 63,841 人の白人男性が投票権を奪われてお
り、9 人のうち一人しか投票できていない。……ミシシッピー州では……81,849 人の白人
男性から投票権が剥奪されており、3 人のうち 1 人しか投票できていない」という。そし
てノース・カロライナ州において、
「改正案が採択されれば……投票権剥奪の改正案が機能
しているこれら三州と同様」の結果がもたらされるだろうと警告している。また、7 月 26
日の記事では、サウス・カロライナ州において、投票権剥奪の州法改正が行われてからは、
「選挙に当たって民主党の票のみが有効とされるようになった。そしてポピュリストは必
然的に資格を得ることができず、投票することができない。……[結果として]サウス・カ
ロライナ州の貧しく、読み書きができない白人男性は投票する権利を奪われたのである。
ノース・カロライナ州でも改正案が批准された場合、同様の結果となるであろう」と伝え
られた。このようにポピュリストたちは、投票権の制限がすでに行われた近隣の州の状況
を伝えることを通じて、この法改正が何を意味するのかを示すとともに、白人たちの危機
感を募ったのである 96 。
ポピュリストたちは、民主党が提案した投票権法の改正案が黒人だけでなく、教育を受
けることができない貧しい白人たちからも投票権を奪おうと意図していることを指摘し、
貧しい農民や労働者たちが、この法改正を否決するために団結する必要を説いた。しかし、
この投票権法否決のための団結から黒人たちは除外されていたといえる。先述のバトラー
の演説に見られたように、ポピュリストたちは、貧しい白人が読み書きできる都会の黒人
95 United States Department of Commerce, Burceau of Census, Twelfth Census, 1900, Vol. Ⅰ, Part
Ⅰ, Complied from Table 92, 992-93.
96 Caucasian, July 12, 1900, July 26, 1900.
- 57 -
たちよりも下位に位置づけられることに対して嫌悪感を示していた。つまりかれらは、教
育を受けた都会の黒人たちが投票できる可能性を有していることを批判しているうちに、
かれらを貧しく、教育を受けられない白人の敵として認識し始めたといえる。このように
ポピュリストたちは、投票権の制限が人種を軸として行われつつあるなかで、
「人種」の違
いに対する意識を強化し、両人種の間に境界線を引いていったのである。
それは、6 月 14 日に掲載された図 12 に
おいても明らかに現れている。この図では、
前方左側に立つ黒人が、誇らしげな表情を
浮かべながら投票箱に向かっている。彼は、
小奇麗なスーツを着ており、その背面には、
「俺は文字を読むことができる」と書かれ
ている。中央では選挙管理官が、右にいる
白人を投票箱に向かわせないように、けん
制していのである。その白人は、左側の黒
人よりも古い服を着ており、彼の胸には、
「読み書きができない白人有権者」と書か
れており、黒人および選挙監督官をにらみ
図 12.Caucasian, June 14, 1900.
つけている様子が見て取れる。そして、この図には、以下のような説明が加えられている。
「次の選挙で[投票権法の]改正案が採択された場合、何が起こるのだろう。……黒人野郎
が投票できるのと同時に、読み書きができない白人は、わきに追いやられる」のである 97 。
1900 年の『コケィジャン』において多用されている「(都会の)黒人野郎」という表現
は、教育を受けた黒人を示しており、バトラーおよびポピュリストたちは、この用語を通
じて黒人のエリート層に対する嫌悪感を強めていった。
『コケィジャン』に寄せられた、ロ
ブソン郡の市民からの手紙では、
「都会の黒人野郎が投票箱の前で待つ[姿と]、……正直だ
が、貧しい上に忙しく、読み書きができない白人の[投票する]権利が永遠に否定される[こ
とによって]、黒人の貴族階級が現れる」のを見たいのであれば、民主党の改正案に賛成票
を投じればよいと述べている。この手紙の一節が示しているのは、民主党の改正案が可決
された場合、教育を受けた黒人が選挙監督官に指名されることと、貧しい白人の投票権が
否定される可能性に対する憤りである。投稿者はこの手紙の結びにおいて、
「我々は自由な
97
Ibid., June 14, 1900.
- 58 -
政府と自由な投票権を信じており、……民主党が……赤シャツ隊に固執し、流血の暴動で
威嚇[しようとも]、自由民(free men)である我々は、高潔さと忍耐を持って自らの権利の
ために闘う」と宣言しているのである 98 。
前節で見たように、民主党および『オブザーバー』は、ポピュリスト党と共和党の提携
と黒人の関係を批判し、政治が白人によって統治される「理想社会」の構築を訴えていた。
一方『コケィジャン』は、投票権法の改正を争点とした 1900 年のキャンペーンにおいて
は、民主党が白人と黒人のエリート層によって、政治支配を行おうとしていることを批判
しているのである。このことは、次のように解釈することも出来る。つまりポピュリスト
たちは、投票権が制限されるという危機に直面することを人種の違いに対する意識を強化
していったのだが、それと同時に、持つ者と持たざる者といった「階級的区分」をより明
確に認識したといえるのである。
それは、図 13 の風刺画において、明らか
に現れている。この図では、立派な服に身を
包んだ白人と黒人の「貴族階級」が共に和や
かな表情を浮かべながら、堂々と胸を張って
立っている。その一方で右側では、ぼろぼろ
になった服を着た、読み書きができない白人
と黒人が立ちすくんでいるのである。さらに
興味深いのは、この図では、白人と黒人の「貴
族階級」と「貧しい」白人と黒人の間に境界
図 13.Caucasian, July 26, 1900.
「もしも、
線が引かれているのである。そしてこの図の下には、以下のように記されている。
かれら[民主党]の改正案が採択されたならば、ノース・カロライナ州[の政治]は、『白人貴
族階級』と、
『黒人貴族階級』によって支配されることとなり、読み書きが出来ない白人男
性と黒人(darky)の老人は除外されることになるであろう」 99 。
また、「『白人支配』の黒人」という見出しの記事では、民主党の政治「マシーンは、大
胆にも選挙監督官に黒人を任命することによって、[民主党の]白人を守ろうとしている」
と報じている。さらに、先述の「白人支配クラブ」の結成を報じる記事では、
「ジョーンズ
郡(Jones)……では、
『白人支配』クラブと呼ばれる組織が結成された。このクラブでは、
ノアー・ヒル(Noah Hill)という黒人が、郡の[民主党政治]マシーンによって会長に任命
98
99
Ibid., July 12, 1900.
Ibid., July 26, 1900.
- 59 -
され、この黒人は『白人支配』の手先として精力的に活動している」ことが伝えられてい
る。このように『コケィジャン』は、貴族階級の黒人を貧しい白人の敵として徹底的に批
判することを通じて、「人種」の違いに対する意識を強化していったのである 100 。
以上見てきたように、民主党が 1899 年に提案した投票権制限の改正案は、ノース・カ
ロライナ州の政党間に大きな議論を巻き起こした。ポピュリストたちは、この改正案が貧
しい白人の投票権を剥奪するものと捉えて民主党を徹底的に批判したのだが、この批判を
通じてかれらは「人種」に対する認識を大きく変化させることとなった。その変化とは、
フリー・シルバーや反独占といった、ポピュリストたちの理念に基づいた黒人との連帯を
放棄し、政党を超えた貧しい白人の連帯を促すといった、人種の違いを鮮明に意識した呼
びかけである。このようにポピュリストたちは、投票権剥奪という危機に直面することに
よって、自分たちが白人であることを明確に意識し始めたといえる。この事実は、ギルモ
アが提起した「階級から人種への置換」が、この時期のノース・カロライナ州において確
かに起こったかのように見える。しかし、ポピュリスト党の機関紙である『コケィジャン』
を見ると、
「人種」の概念が構築されるなかで、階級に対する意識が薄れていったとは、言
えないことが解る。つまり、「貴族階級の黒人たちと……貴族階級の白人たちは、共に[投
票権剥奪の法案に]投票し、ノース・カロライナ州を共に統治することになることを忘れて
はならない」101 と述べているように、かれらは、エリート層の黒人を批判することで、人
種の違いを明確に認識すると同時に、階級に対する意識を改めて強めていったといえるの
である。第 4 章では、ノース・カロライナ州の事例を離れ、特に中西部のポピュリストた
ちが、米西戦争によって顕在化する「国民の条件をめぐる問題」に接することを通じて、
かれらの人種観が変化していく過程を考察する。
100
101
Ibid., July 19, 1900.
Ibid., July 26, 1900.
- 60 -
第四章:ポピュリスト運動と「人種」
1.人種の違いと「理念」に基づく反領有の立場
1896 年大統領選挙後のポピュリスト運動
前章を通じて明らかになったように、ポピュリストたちは、民主党によって提案された
投票権を制限する法案に関する議論を通じて、黒人との連帯に替わって「貧しい白人の連
帯」を呼びかけるようになっていった。つまりかれらは、黒人だけでなく、貧しい白人か
らも投票権が奪われるという危機に直面することを通じて、自らの白人としての意識を強
めていったといえる。このように、20 世紀転換期のアメリカ南部の諸州では、階級と人
種の間に、投票権を軸とした境界線が引かれていったのである。この人種を軸とした国民
の境界の制定は、南部の黒人に留まらず、国内外の人種的に異なる人々に対しても、同様
の規定がなされつつあった。
本章の目的は、ポピュリストたちが、アメリカ合衆国の帝国主義論争に直面することに
よって、白人を頂点とした人種の序列化を当然視するに至る過程を考察することにある。
しかし、帝国主義論争におけるポピュリストたちの発言を考察するに当たって、一つの問
題がある。それは、1896 年の大統領選挙に際してポピュリスト党が分裂し、その勢力が
急速に衰退していたという事実である。
本稿の冒頭で述べたように、ポピュリスト党は 1892 年の大統領選挙における躍進によ
って、二大政党を震撼させる勢力としての確固たる位置を築き上げた。しかしポピュリス
トの民主党との接近は、その直後から議論されるようになり、分裂の兆しが見え始めてい
た。そして、1896 年の大統領選挙においてポピュリスト党は、フリー・シルバーを政策
として掲げた民主党のブライアンを大統領に指名し、副大統領候補にトム・ワトソンを指
名したが、独自性を喪失したかれらは、4 年前のような大きな成果を残すことができなか
ったのである。多くの先行研究が示してきた解釈では、民主党に接近していったポピュリ
スト党は、第三政党としての独自性を喪失したことによって、かれらの推進力は急速に衰
退していったとされており、それゆえ、かれらの 1896 年以降の活躍には、あまり関心が
示されていないのが現状である。しかし近年では、ポピュリスト運動と 20 世紀初頭の革
新主義の間に見られる連続性を重視する研究が現れ始めてきており、特に政治学者のエリ
ザベス・サンダースは、
「ポピュリストの[政策]プログラムの多くは、ポピュリスト党と農
民同盟が衰退した後に実行に移された」 102 事実を示している。
Elizabeth Sanders, Roots of Reform: Farmers, Workers, and the American State, 1877-1917
(Chicago: University of Chicago Press, 1999), 413.
102
- 61 -
ポピュリストたちは、1896 年を転換点として、民主党との連携を強めていったことは、
事実として否定できないが、私はこのことを理由として、その後のポピュリストたちの活
動を軽視するべきではないと考えている。その理由は、以下の二点である。それは第一に、
ポピュリスト党は第 55 期連邦議会(1897-1899)において、過去最多の議席数(上院 6
人、下院 26 人)を獲得したことである。かれらの多くは、民主党や共和党との提携を支
持する者たちであったが、通信機関と運輸機関の国有化などの、ポピュリスト党が独自に
提起した改革案の実現を強く訴えていた。そして第二に、ポピュリスト党の綱領が 1908
年の大統領選挙まで継続して提示されていた事実である。オマハ綱領以降に作成されたポ
ピュリスト党の綱領に着目すると、1900 年においては、「ミッド・ローダー」と提携派が
別個に綱領を規定していた。しかし 1904 年においては、「ミッド・ローダー」と提携派と
いう表記は消え、「ポピュリスト党綱領」とされている。これらの事実は、ポピュリスト
党が 20 世紀の初頭まで政党としての活動を継続していたことを示しているといえる。そ
して、1896 年以降のポピュリストたちの活動を見ることは、国民としての権利を行使で
きる範囲が人種によって規定されていくなかで、かれらの人種観が変化していく過程を考
察するうえで、重要な位置を占めているのである 103 。
議会における帝国主義論争とポピュリスト
アメリカ合衆国の海外膨張は、キューバの対スペイン独立闘争に対する介入から始まる
のだが、反スペイン勢力を後押ししたのは、共和党政権だった。キューバの独立闘争の勃
発後、アメリカ国内のメディアは、同国に対して同情的な立場をとり、世論を扇動した。
特に新聞の風刺画などにおいては、キューバは女性や子供や黒人として描かれる一方で、
アメリカ合衆国は高貴な白人の成人男性として表現された。これらの表象における共通点
は、アメリカとキューバの間における「力の差」や、「社会の発展」の度合いの違いが表
現されていることにある。つまり、黒人や子供としてキューバを表象することで、その「未
開性」や「無知」を示し、アメリカ合衆国が、かれらを教育する必要があることが示唆さ
れていたのである 104 。
103 Clanton, Congressional Populism, 180-181; D. B. Johnson and K. H. Porter, National Party
Platforms, 116-118 (Platform of 1900); 135-136 (Platform of 1904); 155-156 (Platform of 1908).
104 John J. Johnson, Latin America in Caricature (Austin: University of Texas Press, 1980), 72-74,
116-119, 157-159. また、キューバなどの国々を女性として描いたのは、黒人や子供として描くことと同
様に、かれらの「無力さ」やアメリカによる「保護」の必要を示す為であった。このように帝国主義の問
題は、人種の理念のみでなくジェンダーの理念も重要な役割を果たしており、これらの理念が連立して働
いていたといえる。このような帝国主義における人種理念とジェンダー理念の関係に関しては、Kristin L.
- 62 -
このような風刺画やキューバの「苦境」を報じる社説などを通じて、アメリカの世論は
同国に対して同情的に扇動されたのだが、アメリカを対スペイン戦争(=米西戦争)へと
導いたのは、ハバナ港に駐留していた戦艦メイン号の爆発事件(1898 年 2 月 15 日)であ
った。この爆発の原因は、エンジン室の事故にあったという事実が次第に明らかになり始
めている。しかしアメリカ人の多くは、スペインによる攻撃としてこの事件を捉え、「メ
インを忘れるな、スペインを地獄へ突き落とせ」105 というスローガンと共に、戦争を求め
る声は高まった。このように、米西戦争の開戦に当たっては、19 世紀末に拡大していた
メディアの影響が大きく働いていたのである。
米西戦争は、「宣戦布告」の議会通過(1898 年 4 月 25 日)を持って開戦するのだが、こ
れに先立ったキューバの交戦状態に対する「軍事的介入の是非を問う決議」において、ポピ
ュリストの票は、反対2票と1票の無投票を除いて、全員が賛成票を投じた。リチャード・
ホーフスタッターは、「1890 年代のアメリカ合衆国に、ポピュリズムと侵略的愛国主義が同
時に起こってきたことは偶然の一致ではない。不寛容なナショナリズムの気分の勃興は全国
的な現象であり、ポピュリストの勢力が強かった地域に限定されていないことは確実である。
しかし、このような気分[侵略的愛国主義]が最も強かったのはポピュリストの階級であった」
と述べている 106 。
しかし、アメリカ国内全体が、メイン号の撃沈のようなセンセーショナルな事件やメディ
アの扇動によって戦争賛美に向かっており、特にポピュリストの間で侵略的意識が強かった
とはいい難い。なぜなら多くのポピュリストたちは、戦争の開戦に賛成することを通じてア
メリカ合衆国の帝国主義化に関与していたが、同国が伝統的な植民地主義国となることには
反対していたのである。このような姿勢は、民主党のブライアンも同様であり、彼はフィリ
ピンが政治的独立のために奮闘している間、他国の干渉から同国を保護するべきであると提
案した。ブライアンの構想の裏には、フィリピンの政治的独立を支援することを通じて、併
合に伴う対立を回避すると同時に、同国を経済的に支配することがあり、ブライアンは、こ
のような立場を「帝国的反植民地主義」(imperial anti-colonialism)と呼んでいる。そして、
Hoganson, Fighting for American Manhood: How Gender Politics Provoked Spanish-American and
Philippine-American Wars (New Haven: Yale University Press)を参照。
105 Clanton, Congressional Populism, 137.
また米西戦争に関しては、以下の文献も併せて参照した。Louis A. Perez Jr, The War of 1898: The United
States and Cuba in Historiography (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 1998), 54-55,
58.
106
リチャード・ホーフスタッター著、清水博他訳『改革の時代―農民神話からニューディールへ―』
(み
すず書房、1988 年)、82; Clanton, Congressional Populism, 141.ちなみに「軍事的介入の是非を問う決
議」は、325 対 19 の賛成圧倒的多数で通過した。
- 63 -
ポピュリストたちも 1896 年以降、ブライアンが率いる民主党との共闘を進めていたため、
彼の立場に賛同していたと考えられるのである 107 。
反領有の立場と「強国」としての責務
それは、戦時中から戦後にかけて議論された「領有問題」や、軍事力増強を目的とした「軍
事費歳出予算案(army appropriation bill)」
(1899 年 1 月)に対するポピュリストたちの反
応を見れば明らかである。まず、ハワイの併合問題(1898 年 6 月)においては、カンザス州
のアレン(William Allen)以外の 5 人のポピュリスト党の上院議員が賛成票を投じた。しか
し、下院議員の票は賛成 8 人、反対 7 人、無投票6人と票が分かれた。また、1896 年 12 月
10 日に調印されることになる、「パリ講和条約」の批准をめぐってポピュリストたちは、民
主党のブライアンを支持して賛成票を投じた。この「パリ講和条約」では、スペインの植民
地であるキューバを独立させ、グアム、プエルトリコをアメリカ合衆国に割譲することが明
記されていた。また、同じくスペインの植民地であったフィリピンは、アメリカ合衆国がス
ペインに二千万ドルを支払うことによって、その割譲が承諾された。一方で、
「軍事費算出予
算案」に対しては、ノース・カロライナ州選出の下院議員スキナー(Harry Skinner)以外
の全てのポピュリストが反対票を投じていたのである 108 。
結果的に米西戦争は、開戦後約3ヶ月でアメリカの勝利によって終結し、戦争に向けて世
論が扇動されたことによって国民の一体感は高まった。ポピュリストたちは、議会において
かれらの改革案である鉄道や通信などの政府による所有と運営を訴え続けた。しかしかれら
の議題は脇に追いやられ、アメリカ合衆国議会の議題は帝国主義に付随する諸問題へと集約
されていったのである 109 。
米西戦争を通じて獲得された諸地域の人々とアメリカ合衆国の関係は、前者が「保護を
必要とする人々」であり、後者を「保護者」とする認識が定着していたことは既に述べた。
このような考え方は、新聞の風刺画や記事などに限らず、議会などの公的な場における発
言においても同様であった。アレンは、キューバの領有をめぐって、「われわれの方針は、
国内の人々を満足させることである。われわれは、キューバを求めない。われわれは、彼
女[キューバ]の保護者になることを望まない。しかし私たちは、彼女[キューバ]を自由にす
るつもりであることを、そして支配者による隣接する国の占領を終結するために、純潔な
107
ウィリアム・A.ウィリアムズ著、高橋章他訳『アメリカ外交の悲劇』(お茶の水書房、1986 年)、68.
Clanton, Congressional Populism, 148, 153. 以下の文献も併せて参照。中野聡『歴史体験としての
アメリカ帝国―米比関係史の群像-』(岩波書店、2007 年)、37; ウィリアムズ『アメリカ外交』、67‐68.
109 Clanton, Congressional Populism, 145-164.
108
- 64 -
血を流すことを決意している」と述べている。アレンの発言が示しているように、彼はキ
ューバに自由を与える名目で戦争を正当化しているが、国内の問題を優先するべきという
考えのもとに、キューバの領有に対する否定的な見解を示しているのである。つまり彼は、
後に述べているように、アメリカには強国としてフィリピンに「自由」を与える責務はあ
るが、「フィリピン人の群集を抱える力はないし、彼らから自治権を奪う権利も持たない」
と考えていたのである 110 。
ネブラスカ州選出の下院議員ネービル(William Neville)は、パリ講和条約によってア
メリカに割譲されることになったフィリピンの植民地としての位置づけや、フィリピン人
たちを同じ国民として認めるか否かを問う演説を行った。そこでかれは、「『白人男性の政
府(White man’s Government)』は、財産と教育水準を基準として黒人の投票権を制限す
ることを正当化しているのと同時期に、共和党は褐色人種[brawn man=フィリピン人]を
彼の同意なしに統治しようとしていることを宣言している」と述べている。この引用から
読み取れるように、フィリピン人は黒人と白人の中間的な「褐色」の人種として位置づけ
られているのだが、そこからは剥き出しの人種差別主義は見られない。それどころか、彼
は南部の黒人の権利が制限されていることと、フィリピンがアメリカ合衆国によって統治
されることに強い嫌悪感を示しているのである。アメリカ合衆国の内外で行われようとし
ている、人種的に異なる人々の統治を批難する根拠としてネービルは、
「生命と自由、そし
て幸福を追求する権利は、白人と同様に黒人や褐色人種の人々にとっても大切なものだ」
と述べており、そこからは万人の平等を重んじる思想が窺える 111 。
アレンやネービルの発言に見られるように、連邦議会のポピュリストたちは、アメリカ
合衆国の植民地主義に対して、反対する姿勢を示しているのだが、1900 年の綱領を見ると
この姿勢が議員ポピュリストに限られていなかったことがわかる。前述したように、1900
年のポピュリスト党は、「ミッド・ローダー」と「提携派」の双方が綱領を規定しているの
だが、これら二つのポピュリスト党綱領を比較すると、興味深い事実が見えてくる。まず、
「ミッド・ローダー」の綱領では、財政問題や土地問題そして交通機関の国有化などのポピ
ュリストたちが一貫して主張し続けてきた改革案の実現が求められており、パリ講和条約
によって割譲された諸地域の位置づけをめぐる見解は示されていない。一方、提携派の綱
領では、
「フィリピンを管理するための活動が、優先されるべき国民生活に対する矛盾にな
Congressional Record, 55th Congress, 2nd session, March 31, 1898, 2556-57. 以下より引用。
Clanton, Congressional Populism, 140; Congressional Record, 55th Cong, 3rd session, February 4,
1899, 1483. 以下より引用。 Clanton, Congressional Populism, 154.
111 Congressional Record, 56th Congress, 1st session, February 6, 1900, 1589-90.
110
- 65 -
っている」と述べると共に、フィリピンが独立し、「自ら政府を築き上げるために[アメリ
カ合衆国が]保護する」と宣言している。このように宣言するかれらは、アメリカ合衆国が
参与する戦争が、「侵略のための戦争から、人道主義に基づいた戦争へ転換する」必要があ
ることを訴えているのである 112 。
上記の比較を通じて明らかなように、「ミッド・ローダー」と提携派の双方のポピュリス
トたちは、国外の問題よりも国内の問題を最優先課題としている点において共通している
が、国外の問題に一切触れていない「ミッド・ローダー」の方が、内政問題重視の姿勢が強
かったといえる。そして、ポピュリスト議員の発言と綱領を見た結果として言えることは、
前述した「ポピュリストたちが戦争を後押しした」というホーフスタッター解釈は、妥当
ではないということである。
見てきたように、連邦議会のポピュリストたちは、「強国」としてアメリカ合衆国が異国
の人々を「保護」する必要を認識していたが、経済的諸問題の解決を掲げていたかれらは、
他国の保護よりも、国内の問題を最優先課題とする姿勢を示していた。このような姿勢は、
連邦議会のポピュリストだけではなかった。ドネリーは、アメリカ合衆国が植民地保有国
になることはおろか、戦争の開戦をも批判していたのだが、その反対の根拠からは、異な
る人種に対する脅威の眼差しを見ることができる。彼は、連日報じられるキューバ人たち
の不幸な境遇に対して、
「キューバで裸の未開人がバナナをパクついている図は、アメリカ
の文明人が職がないために自殺する光景にくらべればそんなに悲しいものではない」 113
と述べて、戦争に反対しているのである。このドネリーの発言から解るように、彼は、キ
ューバ人よりも、白人が人種的に優れているという理由から、劣等人種であるキューバ人
の問題よりも優秀な人種である白人の問題の解決が優先されるべきであることが示されて
いるのである。
またドネリーは、フィリピンの領有問題に関して、フィリピン人は人種的に劣っており、
自治能力に欠けるため、
「われわれ自身の自由を危うくしてまでも彼らをわが家族の一員と
することはできない」と述べている。この発言が示しているように、アメリカ合衆国は、
海外膨張によって異国の白人以外の人種と遭遇することによって、人種を軸とした国民の
境界に対する意識が、さらに強化されたことを示しているといえる。つまり帝国主義的膨
張をめぐる論争は、南部の黒人問題と同様に、白人以外の人種を国民として認めるか否か
112
113
Johnson and Porter, National Party Platforms, 117, 118.
Representative, August 10, 1898. 以下より引用。平野孝「ドネリーの世界」、23.
- 66 -
の問題と深く結びついていたといえるのである 114 。
南部のポピュリストたちも、アメリカ合衆国の帝国主義化反対の姿勢を示している。トム・
ワトソンは、ジョージア州のトムソン(Thomson)で行った 1898 年 7 月 27 日の演説に
おいて、銀行家や特権階級そして政治家たちが米西戦争を通じて利益を得ていることを告
発し、人々が本当に重視しなければならないことが他にあることを聴衆に訴えている。つ
まりワトソンは、この戦争が「人々の経済に関する問題に対する関心を逸らし、不公平な
システムを永続させようとしているのです。[そして政治家たちはこの戦争を通じて、経済
的な]諸問題にあえて向き合おうとしないばかりか、それを葬り去ろうとしているのです。
人々はこの戦争によって何を得られるのでしょうか」と述べているのである。このように
述べるワトソンも帝国主義論争に際して、異なる人種に対する蔑視を露にしているのだが、
先述のドネリーと異なるのは、蔑視する対象が人種的に異なる異国の人々ではなく、黒人
であったという事実である。彼は、自らが編集を務める『ピープルズ・パーティー・ペーパ
ー』において、「黒人部隊の採用は、人種問題をさらに悪化させるばかりか、[人種間の]
社会的平等の恐ろしい第一歩となるであろう」と警告しているのである。つまりワトソン
は、部隊や戦場において、黒人たちが戦場に動員されて白人と共に戦うことに対して嫌悪
感を抱いており、戦場において機関銃を持った黒人と白人が遭遇することを恐れていたの
である 115 。
以上見てきたように、多くのポピュリストたちは、自らが掲げてきた政策プログラムの
実行を最優先課題とし、アメリカ合衆国が植民地保有国となることに関しては、消極的な
意見のほうが強いことが見えてきた。しかし、ここで付け加えておくべき点は、ドネリー
やワトソンの発言から見られたように、ポピュリストたちは、国外の問題に直面すること
を通じて、人種主義的な態度を国内外の異なる人種へと向けると共に、しばしばアメリカ
合衆国の海外膨張を批判する根拠として用いていたという事実である。
次節では、アメリカ合衆国が植民地を獲得することに対して、積極的な立場を示した二
Representative, August 10, 1898, February 22, 1899. 以下より引用。平野「ドネリーの世界」、23. 平
野孝は、ポピュリストの主要な新聞を検討した結果として、かれらの多くが帝国主義賛成よりも反対の立
場に立っていたことを指摘している。また平野は、アメリカ合衆国において帝国主義論争が活発に繰り広
げられていた 20 世紀転換期のポピュリスト系新聞では、戦争に関する記事よりもかれらの政策に関わる
問題に関する記事に多くが割かれていたことも指摘している。前章までで検討した『コケィジャン』にお
いても同様のことが言えるのだが、当時のノース・カロライナ州では、「黒人支配」の問題が一大関心事と
なっていたため、必然的に州内の状況に多くの関心が向けられていたという点を指摘しておきたい。平野
孝「農民運動と戦争―ポピュリストの場合―」本間長世編『現代アメリカの出現』
(東京大学出版会、1988
年)、117-137.
115 Watson, Life and Speeches, 179-180 ; People’s Party Paper, April 29, 1898.
以下より引用。Shaw,
The Wool-Hat Boys, 194.
114
- 67 -
人のポピュリストの発言を検討するのだが、その賛成の根拠においても、人種の違いが大
きく関わっているのである。つまりかれらは、海外膨張を通じて遭遇した「異なる人種」
の問題と触れることによって、白人による他者支配を自明のこととする認識を強めていく
のである。まずは、ポピュリストを帝国主義者とする解釈を示したホーフスタッターの中
心的史料となっているメアリー・リース(Mary E. Lease)の著書を見てみよう。
2.新たな機会の創出と「白人支配」
メアリー・リースによる南北アメリカ大陸の統一構想と「人種」
メアリー・E.リース(1853-1933)は、アイルランド系の女性である。彼女は法律を
学んだ後、1888 年の労働者同盟(Union Labor)の支援をし、その後カンザス州の農民同
盟と接近していくことになる。リースは、同州においてポピュリスト党が結党される直前
の 1890 年には、約 160 回の演説を行い、そのなかで「農民たちはとうもろこしを作るの
をやめて、地獄を作り出すべきである」と述べた演説は有名である。しかし彼女は、1896
年の大統領選挙におけるポピュリスト党の敗北を待たずに同党を離れた後、ニューヨーク
において共和党のマーク・ハナの配下として活動することとなる。平野孝は、ホーフスタ
ッターによるポピュリストを帝国主義者とする解釈に対して、史料面における問題点を指
摘しているのであるが、その根拠の一つとなっているのが、上記のようなリースのポピュ
リスト党からの離党である。ここで検討するリースの著書『文明の問題の解決』(The
Problem of Civilization Solved)は、彼女がポピュリスト党を離党したのと同時期に刊行さ
れたものであり、それゆえにリースの著作をもってポピュリストたちが海外膨張を望んで
いたとする解釈に批判が向けられるのである 116 。
しかし、アメリカ合衆国の海外膨張を奨励するリースの著作では、鉄道と通信網の国有
化や、フリー・シルバーに多くの項を割くと共に、アメリカ合衆国の「繁栄は我々[農民た
ち]が生産してきたのだ」 117 と述べている。これらのことから彼女は、農民層が抱える経
済的な諸問題を解決したいという思いから植民地の獲得を奨励したと考えられるのである。
それでは、
『文明の問題の解決』におけるリースの南北アメリカの統一構想と人種の関係に
ついて詳しく見ていこう。
リースが考える「文明の問題」とは、アメリカ合衆国における貧困問題、ホームレスやア
John D. Hicks, The Populist Revolt: A History of the Farmers’ Alliance and the People’s Party
(Lincoln: University of Nebraska Press, 1961), 159-60. 引用は 160.出典は、未見。;平野「農民運動
と戦争」,134.
117 Lease, The Problem, 12.
116
- 68 -
ルコール中毒の問題などが増大している裏で、資本家たちが私欲を肥やしていることであ
る。そして、これらの諸問題の「解決案」として彼女が想起しているのが、ポピュリストに
よって提起された個々の改革案と南北アメリカ大陸の統一なのである。リースは、
「新しい
運動のためのわれわれの準備は整った。……われわれの共和主義と民主主義、そして人民
.......
主義(populism)は、一つの巨大なアメリカニズム運動に[よって]融合されるのだ」と改
革の呼びかけを行い、アメリカニズム運動の綱領を提示している。その政綱で掲げられて
いるのは、第一に、世界各国で起こっている戦争を仲裁することであり、第二に挙げられ
るのは、南北アメリカを統一したうえで、アメリカ合衆国がそのリーダーとして君臨する
ことである。そして第三は、南北アメリカを統一して、そのリーダーとなったアメリカ合
衆国の白人が、ラテン・アメリカの熱帯地方を東洋人と黒人、そしてインディアンのテナ
ントによって植民することである。この綱領で興味深いのは、鉄道と通信の国有化やフリ
ー・シルバーといったポピュリストの改革案に関わる項目よりも、南北アメリカの統一に
関する政綱が上位におかれている事実である。このことから考えられるのは、リースがア
メリカニズム運動の推進を成し遂げ、南北アメリカを統一し、そこで築き上げた政府にお
いて、ポピュリストの諸改革を達成しようとしていたということである 118 。
具体的にリースの帝国主義構想を見てみてみると、
「植民は政治的脅威のはけ口」と彼女
は考えており、西ヨーロッパ諸国による植民地の争奪戦において「アメリカ合衆国はその
必要に最近になって目覚めたが、遅すぎた」と述べている。リースが植民地の争奪戦に参
与する必要を抱き始めた背景には、ロシアの勢力拡大に対する懸念があり、
「近代における
ロシアのゴート人(Goth)は、西洋の優越性の中枢であるインドにおけるイギリス帝国に
とって重大な脅威」として同国を位置づけている。アメリカニズム運動の綱領において見
られるように、リースは南北アメリカを統一し、アメリカ合衆国がその支配権を握ること
を構想していた。そして支配権の獲得は、合衆国が南北アメリカに対する他国の非干渉を
実現してきたという事実によって正当化されている。つまりリースは、
「我々は永年に渡っ
てラテン・アメリカをヨーロッパによる侵略から防衛するために血を流す用意をしてきた
のである。それら[の国々]は、この大陸における主導権を我々に与えることによって報い
ることはできないだろうか。もしそれができないのであれば、我々がそれ[主導権]を手に
するまでだ」と述べている。そして、南北アメリカの統一が達成された後の社会では、
「全
てのアメリカ諸国(Americas)には、強力な姉妹関係(sisterhood)が結ばれ、アンクル・
118
Ibid., 267-270. 引用は、267。強調は、イタリック。
- 69 -
サムの力強い保護を受けることができきるのだ」と述べているのである 119 。
彼女がラテン・アメリカの熱帯地方の獲得を望んでいるのには、この地域を「単に北ア
メリカの農業製品だけでなく、商業製品の市場に利益をもたらす黄金の好機」として捉え
ていたからであり、国内の余剰生産の輸出先としての可能性を見出している。またリース
は、
「人口の密集した中心地のホームレスたちに、かれらが自ら植民に行く手段を伝えるべ
きである」と述べていることから、熱帯地方を増加したアメリカ合衆国の人口のはけ口と
しても認識していたことが解かる。リースは、熱帯地方を輸出先として捉えるとともに、
そこにある豊富な資源にも言及している。そこでは、コーヒーやフルーツなどの栽培に適
した気候や、銀、ルビー、ダイヤモンドなどの鉱山資源などが挙げられている他、安価な
男性労働者についても言及している。そして最も重要なのは、ラテン・アメリカが有する
広大な土地である 120 。
リースの人種を序列化し、白人をその頂点とする考え方が現れてくるのは、南北アメリ
カが統一された後の構想においてである。彼女は、
「神に選ばれた民[である白人]は、年季
奉公人を仕えさせてきたのだが、今後は、熱帯地方における大土地所有者(planter)とな
り、下級人種(inferior race)の管理者となるのである。……かれら[白人]に配分された熱
帯地方の土地は、農奴(serfs)や使用人(servant)ではない黒人と東洋人によって耕される」
ことになると述べている。この引用からは、リースが白人を優秀な人種、黒人や東洋人を
劣等人種と捉えており、そこからは剥き出しの人種主義が窺えるが、最終的にこの関係は、
平等に向かうとリースは考えている。つまり彼女は、南北アメリカの統一が実現したあか
つきには、「人類同胞主義(human brotherhood)と平等によって導かれる、正義と反映
の黄金の融合に祝杯を挙げることとなるだろう」と述べているのである。またリースは、
獲得した「100 万平方マイルの占有されていない土地を植民のために解放し、白人と劣等
人種のテナントによる三人[白人、黒人、東洋人]の家族に、それぞれ一定の法律に基づい
て 200 エーカーずつ」分配すると述べている 121 。
これらの引用からわかるようにリースは、人種間に存在する優劣こそ認めているものの、
将来において平等がもたらされることを示唆している。しかし、彼女が平等の達成に言及
していようとも、そこには紛れもない従属関係が存在することも確かである。その根拠と
してリースが挙げているのは、人種間の肉体的な違いである。つまり彼女は、
「東洋人たち
119
120
121
Ibid., 73, 151, 22, 178, 97.
Ibid., 159, 203.
Ibid., 31, 169.
- 70 -
は、永年の経験から熱帯地方の気候的要件での農耕作業に適している。それに対してヨー
ロッパとアメリカの白人種は、外国の気候に最少の年月しか触れていないため、肉体労働
をするには不向き[であるため]……肉体労働から解放されるべきである」と述べているの
である。このような根拠のもとに白人は、統一された南北アメリカの管理者となることが
正当化されている。その一方でリースは、
「インドの農夫と中国の日雇い労働者たちは、多
くの[経済的な]改善を得られるため、[植民地における労働に]喜んで応じるであろう」と述
べているのである 122 。
「未開人」の文明化と人種的優越感
メアリー・リースによる南北アメリカの統一構想は、白人の優越性を根拠とした白人に
よる他国支配が描かれると共に、いずれは平等な社会がもたらされることを宣言していた。
他国の侵略に当たって、獲得した領土に居住する人々に段階的な平等を与えていくという、
リースの立場と一線を画した主張をしているのが、ウィリアム・ペッファーである。彼は、
カンザス州において 1890 年に結成されたポピュリスト党から出馬し、初の連邦上院議員
に当選したポピュリストである。ペッファーは、民主党との提携の動きが加速するなかで、
「ミッド・ローダー」の立場を貫いたのだが、1896 年の選挙において連邦上院議員として
の再選を果たすことができなかった。その後彼は、1898 年にはカンザス州知事の候補者と
して禁酒党から指名され、1900 年の大統領選挙では共和党を支持したのだが、ポピュリス
トの理念を完全に捨て去ったわけではなかった。
ペッファーは、提携派のポピュリストたちがフリー・シルバーを単一の争点としたうえ
で、民主党と接近したことを批判し、二大政党とポピュリスト党の間には政策面における
根本的な相違があることを指摘した。彼は改革の争点とされたフリー・シルバー一つをと
っても、民主党案とポピュリストたちが主張し続けてきたものが異なることを指摘し、土
地問題や雇用問題などの重要な改革項目が置き去りにされたことを批判している。そして、
ペッファーは、
「ポピュリスト党は、最終的に二つの勢力に分裂した。……しかし、この政
党[ポピュリスト党]は……提携を勇壮に断ち切るとともに、新体制における新たな同胞を
得るであろう。……フリー・シルバーのみ[の改革]では、無職の者に仕事を与えることも、
貧しいものに食事を与えることも出来ないのである。英雄的な処置は、ポピュリスト党が
提案した改革案以外では達することができない」と述べているのである。さらにペッファ
122
Ibid., 34-35, 34.
- 71 -
ーは、共和党支持の立場に立っていた 1902 年において、ポピュリスト党が「初発のまま
であったならば、私は尚その忠実な活動家、誠実な指導者の一人であるだろう」と述べて
いる。つまり彼は、離党し共和党に移った後も、ポピュリストの理念を固持し続けていた
といえるのである。このことを念頭に置いた上で、以下ではペッファーがフィリピン諸島
の領有と支配に対して、どのような立場に立っていたのかを見てみよう 123 。
ウィリアム・ペッファーは、「スペインとの戦争は神の意思に見え、本国の境遇と海外の
状態を救済する手段として役立つ好機を、私たちに与えてくれた」124 と述べていることか
ら明らかなように、アメリカ合衆国が植民地保有国となることに賛成したポピュリストの
一人である。メアリー・リースが「南北アメリカの統一」を構想したのに対して、ペッフ
ァーは、「パリ講和条約」を通じて獲得したフィリピン諸島の処遇に関する議論を活発に展
開している。彼は、1900 年に出版した『アメリカニズムとフィリピン諸島』において、反
帝国主義者(anti-imperialist)が提起した反対事由に答えながら、フィリピン諸島を領有
することの重要性を訴えているのである。
ペッファーは、アメリカ合衆国の帝国主義的膨張は、同国の建国当初から始まっており、
それが大きな繁栄をもたらしたことを示すことを通じて、フィリピン諸島の領有を正当化
している。つまり彼は、アメリカ合衆国が行ってきた大陸内膨張や、アラスカとハワイの
領有と、それによってもたらされた繁栄を通じて、フィリピン諸島を獲得することの重要
性を訴えているのである。このように考えるペッファーは、以下のように述べている。
我々がフィリピン諸島を必要とする理由は、[フィリピン諸島の]住民たちを、より良い
文明人にする助力ができるからである。そしてそれは、我々にとってもよい事であり、
豊富な資源と実り豊かな地域との貿易によって、世界に安定がもたらされ、100 万の雇
用が生み出されるのだ。そして……フィリピン諸島の主権と支配権が[アメリカ合衆国
に]託されることは、我々に新しい国際統治(new international regime)における多
くの役割が与えられることになるであろう 125 。
ペッファーは、フィリピンの領有を「双方の繁栄」という根拠を通じて正当化している
William Alfred Peffer, “The Passing of the People’s Party,” The North American Review, 166
(January 1898), 23; Peter Argersinger, Populism and Politics: William Alfred Peffer and the People’s
Party (Lexington, 1974), 301. 以下より引用。横山良「ウィリアム・アルフレッド・ペッファーと『中道』
政治―世紀転換期政治史の中のポピュリズム―」
『徳島大学教養部紀要』第 17 巻(徳島大学教養部、1982
年)、165. ウィリアム・ペッファーの帝国主義観を示す史料として、以下の三点を使用した。William
Alfred Peffer, Americanism and the Philippines (Topeka: Crane & Company Publishers, 1900);
William Alfred Peffer, “A Republic in the Philippines,” The North American Review, 168 (March 1899),
310-20; William Alfred Peffer, “Imperialism Amerca’s Historic Policy,” The North American Review,
171 (August 1900), 246-258.
124 Peffer, “A Republic in the Philippines,” 311.
125 Peffer, Americanism, 50.
123
- 72 -
のだが、その一方で「支配権」といった言葉から垣間見られるように、この領有は、フィ
リピンに対する侵略という側面を有していることは間違いない。ネービルの発言に見られ
たように、反帝国主義者は、
「当事国であるフィリピンの人々の同意なしの領有は認められ
ない」と主張していた。このような反帝国主義者からの批判に対してペッファーは、フィ
リピン人が「自治能力」を有していないことを根拠として同国の領有を正当化している。つ
まりペッファーは、「かれら[フィリピン人たち]から、どのようにして同意を得るというの
か。かれらは、政治的な目的に立った組織化がなされておらず、かれらは、選挙制度を持
たないばかりか、かれら自身が築き上げた総体的な政府も有していない」と述べているの
である。さらに彼は、アメリカ合衆国におけるインディアンの存在を対比的に用いること
を通じて、上記の根拠を強調している。つまり、
「我々は、インディアンたちのために改善
の手を差し伸べてきたのであり……南部諸州のインディアンたちは、白人男性のモデルに
基づいた政府を自ら築き上げたのだ」と述べることを通じて、
「自治能力」を持たないフィ
リピン諸島の人々も、いずれはアメリカ合衆国の保護の下に、自ら政府を築き上げること
を示唆しているのである 126 。
このようにアメリカ合衆国によるフィリピン諸島の支配を正当化するペッファーは、
「フィリピン人の文明化」を主張し始めるのであり、その構想の根底には、フィリピン人
たちが人種的に劣っているという認識があった。彼は、アメリカ合衆国にとって「異国の
人々の間に自由な政府を樹立することは、神に与えられた仕事」なのだと主張した上で、
以下のように続けている。
「我々にはフロンティア[の開拓]を成し遂げた千人の男性がおり、
彼らはその連続として半野蛮人(semi-barbarous people)のために町を築き、鉄道を建設
する準備ができているのだ」。この引用から解るようにペッファーは、他国の人々に対する
蔑視と共に、かれらを文明的に改善する必要があると訴えているのである。さらに彼は、
「フィリピン諸島においてアメリカのモデル[に基づいた文化と政府]が適用された後は、
国家間の多様な貿易へと向かうのであり、……世界政治は高いレベルに引き上げられるの
だ。[そして、]アジアにおける世界貿易の扉は開かれ、我々は東洋の文明を転回させるの
だ」と述べて、文明化されたアメリカの優越性を示している。このようなペッファーの「ア
メリカの文明と価値観の輸出」という考えは、リースにも共通して見られた思想である。
かれらは、他国の異なる人々への軽蔑的および、同情的な眼差しを通じて、白人の優越性
を認識し、白人以外の人種が下位に位置づけることを当然視するに至ったといえる。この
126
Ibid., 84, 97-98.
- 73 -
ようにして獲得した白人を序列の頂点とする人種概念を通じて、白人による他者への支配
は正当化されえたのである 127 。
3.国民の条件と「人種」
見てきたように、アメリカ合衆国における帝国主義論争は、賛成派と反対派の双方が共
に人種の違いを根拠にして、自らの主張の正当性を訴えていたといえる。このような局面
において、アメリカ合衆国における帝国主義論争は、
「人種化」されていたといえるのであ
る。つまり、ペッファーやリースの発言において見られる他国の侵略と支配は、異国の人々
を「野蛮」や「下級人種」と称し、白人による保護が必要な人々とすることによって正当
化されていた。一方、ウィリアム・アレンの議会における発言に見られたように、反帝国
主義者たちも、異国の人々をアメリカ合衆国による保護が必要な存在という認識を共有し
ていたのである。
また既に指摘したように、ドネリーは、異国の「劣等人種」がアメリカ合衆国に流入す
ることへの懸念から植民地の領有を批判しており、領有をめぐる問題は、国民の条件に対
する問題意識と深い関係にあった。このような、他国の支配に付随した国民の条件をめぐ
る問題は、アメリカ合衆国の植民地保有に対して賛成する者も共有していた認識であると
いえる。つまりメアリー・リースは、熱帯地方の植民における白人と東洋人・黒人の不平
等関係の存在を認めながらも、この状況は次第に平等へと向かうと述べていた。またペッ
ファーも同様に、アメリカが過去に獲得してきた地域においてそうであったように、
「自治
能力」を持たないとされたフィリピン諸島の人々に対しても、段階的に国民としての権利
を認めていくことを示唆しているのである 128 。
このように、アメリカ合衆国の帝国主義論争は、「人種化」されていたと同時に、南部の
黒人問題と同様に「国民の条件」をめぐる議論との接点も有していたのである。そして、
これらの国内外に存在する「白人でない人種」を、国民として位置づけるか否かをめぐる
問題は、国内の人種差別と国外の人種差別を互いに正当化しあう役割を果たしたのである。
たとえばペッファーは、
「フィリピン人の同意なしにフィリピン諸島を領有することは認め
られない」とする反帝国主義者の批判に対して、以下のように反論している。つまり彼は、
上記のような「反帝国主義者の原則が正しいのであれば、インディアンたちの慣習を自ら
127
128
Ibid., 143, 148, 149.
Ibid., 129-132.
- 74 -
の州において容認するべきだ」129 と主張しているのである。この引用からわかるようにペ
ッファーは、国内における異なる人種の統治が許されるのであれば、当然その原理は海外
においても通用すると考えていたといえる。そしてこのような考え方は、南部における黒
人差別を正当化する根拠としても用いられている。それは、
『アトランティック・マンスリ
ー』に掲載された前傾論文において、明らかに現れている。
われわれが獲得した海外の地域が、未来においてどれだけ歓迎されていたとしても、
平等な権利がもたらす悪影響は、すでに証明されている。…… [つまり、]政治的な権
利における平等は、決して現実にならないように後置におかれたのである。もしも、
より強力で知的に優れている人種が、地球の反対側の「新たに支配下におかれた不機
嫌な人々」に対して、自由に影響力を行使することができるのならば、なぜそれは、
サウス・カロライナやミシシッピー[などの南部諸州]では許されないのであろうか 130 。
つまり、ペッファーの発言や『アトランティック・マンスリー』の論文が示しているよう
................
に、国内外を横断して行われつつあった人種を基準とした国民の境界の制定は、互いに正
当化し合う関係にあったといえるのである。
以上見てきたように、20 世紀転換期のアメリカ社会において、国民の条件は人種を条件
として確定されつつあった。つまり南部においては、自治にふさわしい人種は白人のみと
され、黒人は投票権をはじめとした政治的権利を奪われることによって、事実上、州の自
治から排除された。また中西部では、異国における植民地支配をめぐる論争を通じて、他
国の異なる人種の問題が顕在化し、そこでもかれらの国民としての位置づけが、
「自治能力」
の有無をめぐって議論されたのである。このようにアメリカ社会の人々は、異なる人種を
めぐる議論と日常的に接することを通じて、人種の違いに対する意識を強化し、
「自治能力」
を持たない人種とされた人々を、アメリカ国民から除外する法律を次々に制定していった。
つまり黒人はジム・クロウ制度を通じて社会的に隔離されただけでなく、政治的権利も
奪われたのであり、プエルトリコやフィリピンの人々は、「非編入領土」の住民と定義され、
合衆国市民としての権利を与えられることはなかったのである。このような法律による人
種を基準とした国民の境界の制定は、人種差別の結果の現れであることも事実である。し
かし別の見方をとれば、顕在化した人種問題の多様化に対して、法制化された人種の境界
線という現実を突きつけることによって、
「白人による統治に基づいた社会秩序」を回復し
ようとしたとしたことの表れであると考えることもできる。つまり、20 世紀転換期のアメ
リカ合衆国において、国民の境界が「人種」の違いによって規定されていくプロセスのな
129
130
Ibid., 99.
Anonymous, “Reconstruction and Disfranchisement,” 435.
- 75 -
かで、白人をその頂点とする「人種」の序列化が行なわれたのである。平等思想から出発
したポピュリストたちの人種観は、人種に規定された国民の境界に対する認識が広まった
結果として、変化していったのである。
- 76 -
むすびに
本稿では、アメリカ合衆国における国民の境界の制定が国内外を横断して行われつつあ
る状況において、
「人種」の違いに対する意識が強化されていった過程を、ポピュリスト運
動の文脈のなかで考察してきた。そこでは、しばしば個別のものとして扱われるアメリカ
国内における人種差別と、アメリカ合衆国が海外膨張を通じて獲得した国々で遭遇した「異
なる人種」に対してなされた差別の連動性に留意した分析を心掛けてきた。そこで最後に、
本稿を通じて明らかにしてきた「国民の条件と人種の関係」を再度確認することによって、
本稿のむすびとしたい。
20 世紀転換期に展開されたポピュリスト運動では、貧しい白人と黒人による経済的利害
に基づいた連帯が試みられた。特に本稿が考察したノース・カロライナ州では、ポピュリ
スト党と共和党が提携し、州政府における権限を得ることによって、政治における黒人の
進出が進みつつあった。黒人たちが公職に就くことを快く思わない南部の民主党の白人た
ちは、権力を得た黒人たちが「政治的支配権」を握っていくことの恐ろしさを、1898 年の
選挙キャンペーンにおいて、徹底的に宣伝した。そしてこの宣伝において、ポピュリスト
党は、「黒人支配」をもたらす政党として、批判の対象とされたのである。
この「反黒人キャンペーン」においては、公職に就く黒人の傲慢な態度や、政治的権力
を手にした黒人が白人女性に脅威をもたらすことが宣伝されており、そこではしばしば、
「品行の良さ」を軸として、黒人と白人が対比されていた。このような民主党による「反黒
人キャンペーン」にさらされながらも、ポピュリストたちは、民主党が「黒人支配」の恐
怖を選挙の争点とすることによって、経済的諸問題が隠蔽されつつあることを批判した。
そしてポピュリストたちは、民主党による「反黒人キャンペーン」に屈することなく、経
済的諸問題を解決するという理念に基づいた、黒人との連帯の姿勢を固守していたのであ
る。しかし、「反黒人キャンペーン」を通じて白人民衆の反黒人感情が高められたことによ
って、民主党は多くの白人票を獲得し、ノース・カロライナ州の政治は再びかれらの手に
渡ることになる。
民主党は、1898 年のノース・カロライナ州の選挙によって、同州における支配権を奪取
することに成功したが、黒人人口の多い地域では、依然として共和党やポピュリスト党の
勢力が強かった。民主党は、ノース・カロライナ州における「白人支配」をさらに強化す
るために、1900 年の選挙に際して、財産と教育を基準として投票権(つまり国民としての
権利を行使できる範囲)を制限しようと試みたのである。ここで再び「反黒人」の宣伝が威
- 77 -
力を発揮した。民主党は、投票所において黒人が暴力を介して白人の投票を妨害すること
や、黒人による白人女性の強姦などの犯罪を連日報じた。そして黒人と提携するポピュリ
ストは敵としてみなされたのである。民主党は、演説や新聞を通じて投票権を制限する州
法改正に対する民衆の関心を集約したのだが、この改正の内容に関しては、選挙キャンペ
ーンの終盤まで語られることはなかった。
ポピュリストたちは、民主党によって提案された、投票権を制限する州法改正によって、
黒人だけでなく、貧しい白人たちの権利が奪われることを指摘し、民主党を批判した。か
れらは演説や紙面を通じて、民主党がこの法改正によって何を企んでいるのかを民衆に訴
えると共に、黒人に対する態度を変化させていった。つまりポピュリストたちは、投票権
を制限する州法改正によって、黒人の権利が剥奪されることに対する批判は行わず、貧し
い白人の権利を守ることのみに言及していたのである。またかれらは、教育を受けた黒人
エリート層が投票でき、貧しい白人からその権利が奪われることに対して、徹底的な批判
を繰り返し、民主党が、黒人と白人のエリート層による政治支配を企んでいると訴えた。
このことからポピュリストたちは、投票権を奪われるという危機に直面することによって、
黒人との連帯の姿勢を放棄すると共に、階級に対する意識も強めたといえるのである。つ
まり、投票権という国民としての権利を行使できる範囲が、人種によって規定されつつあ
る状況のなかで、かれらは「人種」の差異に対する意識を強化したのである。
人種を基準とした国民の境界が、南部において確立しつつあるのと時を同じくして、中
西部のポピュリストたちは、アメリカ合衆国が植民地保有国になるか否かの議論を繰り広
げていた。アメリカ合衆国が、他国の領土を支配することを望む人々は、自分たちを優秀
な人種と位置づけると共に、異国の住民を「野蛮」や「劣等人種」とすることによって、
前者による後者の支配を正当化した。その一方で、植民地支配を望まない人々は、他国の
問題よりも国内の問題の方が、より重要であることを訴えながらも、アメリカ合衆国には、
人種的に劣る異国の人々を保護する「強国としての責任」があると考えていた。つまり、
植民地支配をめぐる論争は、反対派と賛成派の双方が、異なる人種に対する同情的および
軽蔑的な眼差しを通じて自らの主張の正当性を訴えていたのであり、この点において帝国
主義論争は人種化されていたといえるのである。
またアメリカ合衆国の南部において、
「政治的適性」は白人のみにあるとされ、黒人の政
治的権利が否定されたのと同様に、植民地の人々をめぐる論争でも、かれらの「政治的適
性」が問われた。そこでは、植民地支配を進めようとする人々が人種間の優劣を認識しな
- 78 -
がらも、国民としての権利を与えていこうと考えていたのに対して、反対派は、人種的に
劣る人々は、
「自治能力」に欠けるため、同じ国民として受け入れることはできない、と主
張した。結果的に、アメリカ合衆国が獲得した領土の人々は、国民として受け入れられる
ことはなく、人種に規定されたアメリカ国民の境界に対する認識が広まっていったのであ
る。
アメリカ合衆国の植民地支配に関して、もう一点指摘しておく必要があることは、白人
による他国の支配と、国内における「白人支配」は、共に正当化しあう役割を持っていた
ということである。つまり、南部における「白人支配」を望む人々は、他国の異なる人種
を支配することが認められるのであれば、国内において白人が黒人を支配することは当然
のことであると主張したのである。その一方で、他国を支配することを望む人々も同様に、
国内の「白人支配」を通じて、人種的に異なる異国の人々に対する支配を正当化した。こ
のようにして、国内外における「白人支配」は、共に正当化し合いながら、優秀な白人が「劣
等人種」を支配することを当然視する考え方が定着していったのである。
このようにして、アメリカ合衆国の内外における「白人支配」が当然視される風潮が広
まり、人種によって規定された国民の境界が確定していくなかで、
「人種」の差異に対する
意識が強化されたのである。そして、白人のポピュリストたちの他人種に対する態度が変
化していった事実は、
「人種」の差異に対する意識が高まりつつある 20 世紀転換期のアメ
リカ社会を、忠実に反映しているといえる。
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の文化と中国人問題」
『アメリカ史研究』21 号(アメリカ史研究会、1998 年)、67-82.
120.貴堂喜之『帝国と国民国家のあいだ―アジア系移民の越境・人種・アメリカ―」
『大阪大学日本学報』22 号(大阪大学大学院文学研究科、2003 年)、1-20.
121.貴堂喜之「南北戦争・再建期の記憶とアメリカナショナリズム研究―『ハーバー
ズ・ウィークリー』とトマス・ナスト政治諷刺画リスト(1)」『千葉大学人文研究』
31 号(千葉大学人文学部、2002 年)、509-542.
123.小林清一「ナショナリズム―同化と差異―」『アメリカス研究』第 6 号(天理大
学アメリカス学会、2001 年)、1-21.
124.近藤健「『ポピュリズム』と『ナショナリズム』―冷戦終焉後のアメリカ政治の
動向―」『社会科学ジャーナル』(国際基督教大学社会科学研究所、1971 年 1 月)、
1-19.
125.佐々木孝弘「黒人男性が白人女性をレイプするとき―アメリカ合衆国南部社会に
おける人種、階級、ジェンダーの構築過程―」『東京大学アメリカン・スタディーズ』
Vol.3(東京大学大学院総合文化研究科付属アメリカ研究資料センター、1998 年)、
75-93.
126.スコット、ジョーン・W『ジェンダーと歴史学』(平凡社、1992 年)
127.ストウ、ディビッド・W 著、坂下史子訳「アメリカ研究における白人性の諸問題」
『同志社大学アメリカ研究』36 号、
(同志社大学アメリカ研究所、2000 年)、33-44.
- 88 -
128.高橋章『アメリカ帝国主義成立史の研究』(名古屋大学出版会、1999)
129.チャウ、エスター・アンリン著、ホーン・川島遥子訳「人種/エスニシティ、階
級、およびジェンダー―アメリカにおける理論と研究の発展―」
『ジェンダー研究』3
号(御茶の水大学ジェンダー研究センター、2000 年 3 月)、67-81.
130.中條献『歴史の中の人種-アメリカが創り出す差異と多様性-』
(北樹出版、2004
年)
131.中條献、樋口映美編『歴史のなかのアメリカ―国民化をめぐる語りと創造―』
(彩
流社、2006 年)
132.都留文科大学比較文化学科編『記憶の比較文化論―戦争・紛争と国民・ジェンダー・エ
スニシティ―』(柏書房、2003 年)
134.中野聡『歴史体験としてのアメリカ帝国―米比関係史の群像-』(岩波書店、2007
年)
135.林義勝「スペイン・アメリカ・キューバ・フィリピン戦争―海外植民地領有のレ
トリックと統治の実態」『駿台史学』112(駿台史学会、2001 年 1 月)、1-20.
136.バリバール、エティエンヌ、ウォーラースティン・イマニュエル著、若森章孝他
訳『人種・国民・階級-揺らぐアイデンティティ』【新装版】(大村書店、1997 年)
137.バージェス、ジャクソン他著、小川葉子他訳『メディア空間文化論』
(古今書房、
1992 年)
138.樋口映美「再建期における白人優越主義の台等―ウィルミントンの場合―」『ア
メリカ史研究』第 6 号(アメリカ史研究会、1983 年)、29-41.
139.樋口映美「白い革命と南部社会―1898 年のウィルミントンの場合―」
『アメリカ
研究』第 13 号(アメリカ学会、1979 年)、71-95.
140.樋口映美「白人優越主義と黒人社会―世紀転換期のノース・カロライナ」『アメ
リカ研究』第 18 号(アメリカ学会、1984 年)、134-156.
141.平野孝「イグネィシアス・ドネリーの世界再考」
『アメリカ研究』第 22 号(アメ
リカ学会、1988 年)、14-32.
142.平野孝「カンザス・ポピュリストー中西部農民運動に関する-試論―」『アメリ
カ研究』第 7 号(アメリカ学会、1973 年)、85-106.
143.平野孝「ポピュリズムと黒人―その再検討」『アメリカ史研究』第 4 号(アメリ
カ史研究会、1881 年)、7-13.
- 89 -
144.古矢旬『アメリカニズム「普遍国家」のナショナリズム』
(東京大学出版会、2002
年)
145.ホーフスタッター、リチャード著、清水知久他訳『改革の時代―農民神話からニ
ューディールへ』(みすず書房、1988 年)
146.堀西健夫「奴隷制廃止後のアメリカ合衆国における人種の再構築-異人種間結婚
禁止法(Anti-Miscegenation Law)と白人男性支配の検討を中心に―」
『国際文化研
究』10 号(東北大学国際文化学会)、21-35.
147.本田創造『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1991 年)
148.本田創造編『アメリカ社会史の世界』(三省堂、1989 年)
149.本間長世編『現代アメリカの出現』(東京大学出版会、1988 年)
150.本間長世編『現代アメリカ論』(東京大学出版会、1971 年)
151.松本悠子「アメリカ人であること・アメリカ人にすること―20世紀初頭の『ア
メリカ化』におけるジェンダー・階級・人種―」
『思想』854 号(岩波書店、1998 年
2 月)、53-71.
152.南川文里「アメリカ社会における人種エスニック編成―エスニシティのナショナ
ルな条件」『社会学評論』55(1)(日本社会学会、2004 年)、19-32.
153.村田勝幸「人種化されたネィティビズムの史的背景-19世紀末から20世紀初
頭のアメリカにおける移民・人種・同化-」
『思想』962 号(岩波書店、2004 年6月)、
109-131.
154.森孝一「ジョサイア・ストロングにとっての米西戦争」
『基督教研究』55(2)
(基
督教研究会、1994 年 3 月)、161-179.
155.油井大三郎、遠藤康生編『浸透するアメリカ、拒まれるアメリカ―世界史の中の
アメリカニゼーション―』(東京大学出版会、2003 年)
156.横山良「アメリカの中西部における柵問題―カンザスの例」『アメリカス研究』
創刊号(天理大学アメリカス学会、1996 年)、25-47.
157.横山良「アメリカ反帝国主義運動試論―その諸グループと帝国主義理解を中心に
―」『史林』57(3)(史学研究会、1974 年 3 月)、54-102.
158.横山良「ウィリアム・アルフレッド・ペッファーと『中道』政治―世紀転換政治
史の中のポピュリズム」
『徳島大学教養部紀要』
【人文・社会科学】第 17 巻(徳島大
学教養部、1982 年)、131-168.
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159.横山良「オマハ網領の世界―ポピュリズムにおける私有財産と共同社会」『アメ
リカ研究』18 号(アメリカ学会、1984 年 3 月)、87-105.
160.横山良「『ファーマーズ・ワイフ』―ある女性ポピュリスト新聞―」
『徳島大学教
養部紀要』【人文・社会科学】第 26 巻(徳島大学教養部、1991 年)、46-56.
161.横山良「ポピュリズムから革新主義へー世紀転換期政治史の一課題」『徳島大学
教養部紀要』【人文・社会科学】第 18 巻(徳島大学教養部、1983 年)、277-293.
162.横山良「ポピュリズムと土地問題―アメリカ・ポピュリズムの歴史的起源」『近
代』90 号(神戸大学近代発行会、2002 年)、51-91.
163.横山良「ローレンス・グッドウィン『デモクラティック・プロミス』は崩壊した
か?-ポピュリズム研究の現状と課題」『アメリカ史評論』9 号(関西アメリカ史研
究会、1990 年)、1-20.
164.歴史学会編『19 世紀民衆の世界』(青木書店、1993 年)
165.ロチェスター、アンナ著、山岡亮一他訳『アメリカ農民と第三政党』(有斐閣、
1959 年)
166.若森章孝他編『歴史としての資本主義―グローバリゼーション近代認識の再考―』
(青木書店、1999 年)
167.渡辺利夫「米国にとっての米西戦争」『外務省調査月報』2000(2)(外務省国際
情報局調査室、2000 年 9 月)、1-42.
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