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都市における住民意識の変容と小学校: 大正・昭和期の

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都市における住民意識の変容と小学校: 大正・昭和期の
Kobe University Repository : Kernel
Title
都市における住民意識の変容と小学校:大正・昭和期の
阪神間地区の尋常小学校(The Meaning of the Elemntary
School in Urbanization:A Case Study of 'Hanshin Kan'
area in the Taisho-Showa Era)
Author(s)
湯田, 拓史
Citation
研究論叢,11:15-26
Issue date
2004-12
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81008634
Create Date: 2017-03-29
都市における住民意識の変容と小学校
ー大正・昭和期の阪神間地区の尋常小学校ー
湯田拓史
はじめに
動向の差異とその全体像を把握できないことを
本研究では、戦間期にあたる 1
9
2
0年代 -1930
意味する。
年代の阪神間地区を対象として、尋常小学校(対
そこで本研究は、精道村の住民意識の変容を尋
象には尋常高等小学校も含まれるが、ここでは尋
常小学校と住民との関わりを通じて明らかにす
常小学校と表記する)の支持基盤である地域住民
る
。
の動向を検証する。
対象としての精道村
当該期は、都市問題に対処するための施策が本
まず、対象である精道村における都市基盤の整
格化しだした時期にあたる。さらに対象とする阪
備の過程を検証する。
神間地区の社会環境が、現代に通じるものへと変
[精道村の開発形態}
容しだした時期でもある。著者はこれまで当該期
の神戸市と周辺町村における都市化の進展と都
そもそも精道村は、明治 2
2年の町村制施行の
市計繭に基づく施策によって変容した生活圏域
際に芦屋村・三条村・津知村・打出村の 4つの部
に対する住民の動向に注目してきた。具体的には、
落が合併することで成立したに芦屋市がまとめ
神戸市内のかつて学区と旧町村が、学校設置主体
た精道村の統計データ 3によれば、精道村の人口
としての権能を失いながらも尋常小学校の校舎
は、大正初期まで 5
,
000人に満たなかったが、
を通じて行政団体に対し自らの意向を認、めさせ
5
,
0
0
0人を越えた 1
9
1
4(大正 3
)年から 12年後
たことを指摘した l。また、神戸市の住民構成が
の1
9
2
5 (大正 1
5
) 年には 20,
0
0
0人を越えた。
旧来の住民・新規流入層・新規流入富裕層の三種
さらに、 1
9
3
1(昭和 6
)年には 3
0
,
0
0
0人を越え、
に分類でき、彼らの教育関心は教育行政が一般行
市制を施行した 1
9
4
0 (昭和 1
5
) 年には 4
0,
0
0
0
政へ一元化した後、学校の設置運営から子弟の進
人となった。僅か四半世紀の聞に、人口が劇的に
学へと変化したことも指摘した。
増加したことが指摘できる。
しかし、これらの研究だけでは、阪神間におけ
この様な人口急増の要因は何であったのか。そ
る都市化の類型をすべて網羅したとはいえない。
の要因に関して、阪本勝比日 4は、当該期の阪神
北に六甲山系、南に大阪湾があり、東西の両極
間地区で大規模な郊外地開発が進展したと述べ
に大阪と神戸が存在する阪神間地区では、その間
ている。坂本は、阪神間地区の開発形態が、「私
にあって郊外地として位置づけられた精道村(現
鉄による住宅地経営Jと「土地業者による住宅地
在の芦屋市である。以降、精道村と記す)を対象
経営 j、「耕地整理組合による住宅地分譲 J
、「その
としなければ、阪神聞における都市化は明らかに
他 J (個人地主によるものなどー著者注)の四種
できない。それはまた、都市化に伴う地域住民の
類であり、私鉄は中間サラリーマン層で和風住宅、
、
戸
υ
唱Eよ
神戸大学教育学会「研究論叢J 第 1
1号
土地業者は富裕層で洋風、耕地整理組合は和風と
2004年 1
2月 20日
的住宅都市化現象を投資的にとらえた地主層を
洋風の混交など、売る対象と建物の趣向がそれぞ
中心とした上層民による住宅地化事業 J5であっ
れ異なっていたと述べている。とりわけ精道村で
た。とりわけ大正末期から昭和初期にかけて活発
は、六麓在など民間土地業者による高級住宅地の
に事業が行われた。また前述のように広く区画を
開発と耕地整理組合による邸宅向けの区画造成
とり富裕層向けの郊外地として売り出したので、
精道村では新規流入層のうちでも新規流入富裕
で、主として新規流入富裕層が購入した。
土地業者と耕地整理組合の 2つの開発形態を
もって、高級な郊外地としての開発が推し進めら
層の大量流入を促したのである。
I
都市域の拡大と都市基盤整備]
高級な郊外地としての住宅地の拡大は、農業中
れていったことを阪本は指摘するのである。
もっとも、耕地整理組合に関しては、補足説明
心だった精道村の様子を一変させた。市街地拡大
が必要である。精道村では大正 6年 1月に第一耕
過程図や表 1が示すように、田畑を減少させ建造
地整理組合ができたのを始めとして、 1
6の組合
物を増大させた。そして、急激な都市化は、都市
ができ昭和 1
6年まで続いた。その内容は有力地
基盤の整備を必要とさせた。その最たるものとし
主を中心とした住宅地開発であった。
て学校の校舎、とりわけ尋常小学校において鉄筋
つまり精道村の耕地整理組合は、「農地改良を
目指すものではなく、大阪・神戸聞における先行
コンクリ}ト造校舎が四校も建設されたことが
挙げられる。
市街地拡大過程図
図 1:大正3
年
図2:大正 1
2
年
図3:昭和7
年
図 2と図 3は等高線有りの図である。
図中の黒が住宅地もしくは商業地である。
図l
の網入りの箇所、図2と図3の自の箇所は、田畑である。
(出典) 新修芦屋市史』巻末付録より。
r
-1
6-
[研究論文]都市における住民意識の変容と小学校(湯田拓史)
表1
大正 5年
農業(回・畑)
大 正 10年
単位(町)
昭和 5年 昭和 10年 昭和 15年
大 正 15年
昭和 19年
301
.6
278.6
253.8
215.8
183.3
1
5
4
.
1
宅地
143.8
50.5
7
0
.
6
114.6
158.2
197.2
225.7
254.9
山林
349.8
371
.8
375.6
364.6
354.4
1
0
.
4
359
10
350.7
原野
4
.
6
4
.
6
3
.
1
2
.
1
1
9
.
5
(W新修芦屋市史 ~705頁の表 73を参照)
精道尋常高等小学校(以下、精道小学校とする)
校が建設された。さらに木造校舎で開校した岩国
では大正 1
3年に鉄筋コンクリート造校舎が増築
尋常小学校も昭和 1
2年に鉄筋コンクリート造三
された。その後すぐに、精道第二尋常小学校(現:
階建てに改築された。これら四つの尋常小学校の
宮川小学校)が昭和 2年に建設され、昭和 8年に
新造改築には莫大な費用がかかり、その度に村費
は鉄筋コンクリート造三階建ての山手尋常小学
を圧迫した(表 2を参照)。
表2
事業費の総額
2年
大正1
124995
大正1
3年
大正1
4年
大正1
5年
I
I
B和 2年
I
I
B和 3年
f和 4年
間 和 5年
昭 和6
年
昭 和7
年
133519
31588
258954
105452
47656
256413
253777
193332
240934
精道精小道小学校建買収築費費 8
11
1
9
7
学校土地
7004
9
8
2
0
1
7
8
.
6
%
1249
精学道校小学土校地建買築
収費 1
精道小
81555
小学
il
J
f
宮川小学
宮川小学
小学唆 ー
小学費 理
92804
7750
106743
61387
13415
13686
6
9
.
5弘
2
4
.
5
%
41
.2%
5
8
.
2
%
2
8
.
1施
5
.
3
%
2
5
7
9
1
1
3
.
3
%
115218
4
7
.
8
%
3
5
3
1
6
1
6
9
.
5
%
375
15218
3
6
.
8
%
9
2
375
岩園小学校学敷校地買繕収費費9
小 営
7
2
学校営繕費(岩園小学校)
18647
94205
8
.
8
%
4
9
.
1
%
164545
覧
5
4
.
2
0.
4
弘
9
.
1
%
u
l
なし
宮川小学校増築工事
小学校営繕費
内訳(山手小 1
14272、岩園小 9
4
6
)
昭 和 8年
岩
小
学
園
校
小建 設 費
508294 内訳(山手小 292045、
昭 和9
年
41379
昭和1
0年
昭和1
1年
昭和1
2年
昭 和1
3年
昭 和1
4年
昭和1
5年
単位(円)
%
費用
総額に占める割合
教育施設に関する事業項目
211823
191805
303669
338924
164350
岩園小
6
1
1
1
6
)
9843
学校敷地小買学収校費 5
4
1
521o
岩園小学小校学建校設補事修業費1
9335
1
3
0
2
学技
J堂錨費
14900
第五小学校敷地整地費
中学校敷地買収繕費4
費1
4
4
250
524327
学校営
715 418965
註:W~市制・町村制実施以来の財務統計資料』より作成した。
昭 和9
年の項目は「小学校 J
のみであった。
7
9
.
9
%
mJ'
EA
曾
神戸大学教育学会「研究論叢 J第 1
1号
さらに、これらの建造物は、当時としてはモダ
2004年 12月 20日
た
。
ンなものであった。この当該期の阪神間地区のモ
ダンな校舎の建設に関しては、民間建築家が関与
E
していたことを指摘する川島智生6の先行研究が
ある。川島は、精道村も神戸市も同時期に鉄筋コ
る住民の意向を検証する。
【都市計画区域への編入 1
ンクリート造校舎を建設したが、神戸市が営繕課
などの行政当局が行ったのに対して、精道村では
民間建築家が行ったことを指摘している。
精道村民の意識の表出
本章では、都市計画事業や居住地の地名に対す
当該期に精道村の東西に位置する西宮市と神
戸市は、それぞれ都市計画事業を推し進めていた。
しかし、 }
I
I島はこの差異を指摘するのみで、そ
都市計画法と市街地建築物法が施行した翌年の
の原因に関して言及していない。この点に関して
大正 1
0年に神戸市の都市計画区域が確定したえ
は、当該地でとりわけ装飾性を抑えた様式で親し
5
) 年に都市計画法適用
西宮市も 1926(大正 1
みやすさを特徴とする「ポピュラー・アーキテク
都市の指定を受けて、都市計画区域を定めた 100
チャー Jとしての公共施設が数多く建設されたと
しかし、新聞記事には、
r
(都市計画区域は一著
する梅宮弘光 7の指摘がある。梅宮は、公共施設
者注)西宮市を中心として今津、瓦木、芝甲東、
の管理が市町村単位であり、建設の際に地元から
鳴尾、大社、精道の七村を含んでいるもので、た
の寄附が存在していたことから、当該地において
だ右の中、精道村が以前菟原郡に属していた関係
都市中間層の都市環境への意識が高まり、中央集
上神戸市都市計画区域内に編入せよと云う議論
権的で威圧的な「上からの近代化Jに対して「下
が一部に高唱された事もあり、或は多少の問題を
からの近代化」の受容をあらわした公共建築が当
起すかも知れぬが結局は西宮都市計画区域内に
該地において広まったとする。このことは、前述
編入せられることとならう J11と、はやくも精道
した新規流入富裕層が、村内で多数を占めていた
村の動向が問題とされていた。
ことと、都市基盤整備に積極だったことを示して
そして新聞記事の予想通り、精道村会において
西宮都市計画編入に関して反対する意思表示が
いる。
なお、中等教育機関に関しては、設置自体が本
なされた。「西宮都市地域編入に精道村丈けは反
格化するのが昭和 10年代後半であり、初等教育
対、昨日四度目の村会で態度決定、県の出方を一
機関に比べるとかなり消極的であった。その理由
般に注目」との見出しで、次のように述べている
として土方苑子は、当該地がベッドタウンであっ
1
2
0
たからだと説明しているえしかし、土方は当該
期に既に存在していた私立の高等女学校の存在
先に県当局から諮問を発せられた西宮都
や県立中等学校の建設の動きを見逃しており、そ
市計画地域決定の件に就てはそれぞれ関
の説明に関しては再検討が必要である。今後の検
係町村で異議なき旨の答申を為しつつあ
るが独り精道村のみは反対気分が頗る濃
討課題としたい。
本章では、精道村の地域構造が、農村から高級
厚で既に三回迄も村会を開き県都計課か
な郊外地へと劇的な変化を果たしたことを示し
ら小野技師が出張して説明を加えるなど
た。そして、こうした劇的な変化に対処するため
百方手を尽して反対派の説服に当る所あ
に都市基盤の整備が進められ、とりわけ尋常小学
り、一日正午から四度村会を招集して最
校の校舎を集中的に整備したことを明らかにし
後の採決を行った結果、出席議員十六名
-1
8-
[研究論文]都市における住民意識の変容と小学校(湯田拓史)
中大多数を以て遂に左の如き反対答申を
とて歯の抜けた様な区域を定める訳にも行かず
通過して二日早速県に其の手続きを執る
決定しようとすれば内相の権限で定められるが
事となった
夫では不親切の議を免れぬからよく説明して諒
本村の現状並に将来に鑑み本案に反対す
解させ様と云う所から中井都市計画課長其他職
反対の理由に就いて聞くに
員が来る十五日尚該両村へ出張することになっ
精道村は他の各町村と異り耕地整
たJ と述べている 14
0
理其他道路の改修等全く竣功して
しかし、「西宮市都市計画地域編入反対決議に
いるので若し都計地域に編入せら
関し県当局から中井都計課長出張し村会議員一
れて道路の貿収其他の負担を命ぜ
同に対し綾々都計問題の詳細を説明し再考を促
られては甚だ困る、精道村は独立し
し委員よりも種々質問があって結局是が為め三
てやって行けるから今更他の御厄
時間余も費すに至ったが県として如何なる事情
介になる必要はない
あるも絶対村会の決議は変更できぬと云うに一
と云うに在るもので飽迄も天下の芦屋を
致し県当局の説明も何等の結果をもたらさず散
以て誇りとしている点に同村の荒い鼻息
会した J15と翌日の新聞記事にあるように、精道
がうかがわれるが勿論村会の決議如何に
村は頑なに西宮都市計画区域への編入を拒否し
拘らず県としては其の有する権力に拠っ
たのである。
て強制的に編入を命ずる事が出来るから
この精道村会に対して、兵庫県は強引な態度に
でられなかった 16、結局精道村は、昭和 1
5年に
今後県の態度は相当注目せられている
芦屋市として発足 17したことをもって西宮都市
精道村の村会議員たちは、精道村独自に進めて
いる耕地整理の事業の貫徹のため、兵庫県の都市
計画担当者の説得をも無視して都市計画区域編
計画から脱退し、芦屋都市計画区域として独立し
たのである 18
0
一方の神戸都市計画との関係は、どうだ、ったの
か。著者は別稿で、すでに東灘区・灘区の一部と
入に反対したのである。
この反対決議を受けての対応は、「小栗内務部長
精道村が大灘市もしくは甲南市を建設する構想
此程助野村長と会見して事情を聴取する所あり
をもっていたことを指摘している 19 この構想は、
十二日は更に都計課長等とも善後策を講ずる J13
都市化による周辺町村の地域構造の変化と神戸
ものであったと新聞記事は報道している。
都市計画の進展による周辺町村の吸収合併の推
0
もっとも助野精道村長は、「県当局が何んと言
進によって、精道村以外の神戸市周辺町村が神戸
うと村会の決議を取り消す事は勿論出来ない相
市と合併していったことで実現しなかった 20 こ
談だから県でも大分頭を悩しているらしい結局
のあたりの経緯は、財産区の問題が絡んで、いる可
神戸都計地域決定の際住吉村が反対したが県で
能性が高く、本研究の目的からそれるので、この
決定して了た様に今回も或ひは無理矢理に押し
あたりで言及を止めることにする。
0
付けて了う事になるであろうがそれにしても県
都市計画事業に関していえば、精道村は神戸都
では相当無理押しするだけの理由を揃えねばな
市計画と西宮都市計画との間で独自性を堅持し
らぬから困るであろう今更兎に角云っても何分
たのである。
は村会の決議を支持する外なしリと述べている。
引き続き県の説得は続いた。新聞記事は、「都
市計画は一定の区域を必要としし反対があれば
-1
9-
神戸大学教育学会「研究論叢 J第 1
1号
I
村の名称】
2004年 1
2月 20日
名称、を望むようになったと述べている。この動き
精道村民の意向は、地名に関してもあらわれた。
は、一時のものではなかった。「芦屋」への改称
前述のように、そもそも「精道」なる名称、は、西
の意向は、市制施行の際、以下のように明確に主
宮の漢学者が明治 19年に小学校名として「養精
張された 240
修道」からつけたもので唱あった 21。
市ノ名称、ヲ「芦屋J ト定ムル理由
それを、明治 22年の町村制施行の際に芦屋
村・三条村・津知村・打出村の 4つの部落が合併
「芦屋 Jハ打出・三条・津和ト共ニ
した際に、村の名称、として選んだ 22のである。校
本村ノ一大字名ナルモ、本村ノ中央
名が村をまとめる名称、として機能したといえる。
部ニ位シ、其ノ中間ヲ流ノレノレ芦屋川
しかし、村内の地域構造が劇的に変化した後の
ノ両岸ニハ老松多ク、芦屋海岸ノ風
住民たちの意向は、それまでとは異なったもので
光ト共ニ、高級住宅地芦屋トシテ今
あった。新聞記事には、「精道村を芦屋村に改称
日ニ至上面積・戸数・人口等何レ
したいとブ、ル連中の運動精道村では名が通らぬ」
モ本村ノ大半ヲ占メ、今ヤ芦屋ノ名
との見出しで、次のような文章が掲載された 230
ノ¥全国ハ固ヨリ、遠ク海外ニ知ラル
ル所ニシテ、本村民ニ於テスレ本村
ノコトヲ芦屋ト呼ピ、従テ隣接スル
芦屋と云えばアノ兵庫県のかと誰でもす
ぐ解るが武庫郡精道村と聞をかけるとど
阪神間ニ於テモ一般ニ精道村ノ名ヲ
の辺りにあるか兵庫県の人でさえ知らな
知ラザルモノ多キ実状ニアリ
い人が多い位であるがそれでは困ると流
本村ニ在ル官公街ノ名称ハ総テ「芦
石に警察署設置に十二万円も投げ出して
屋」ヲ冠シ、即チ省線芦屋駅・芦屋警
太っ腹を見せている富豪揃いの芦屋だけ
察署・芦屋郵便局・芦屋電話分室・
に精道村を改めて芦屋村と改称しようで
神戸職業紹介所芦屋分室・芦屋高等
はないかと云う議論が頗る盛んになって
女学校等之ナリ、又電話モ芦屋ヲ冠
来て村会議員の中でも打出から出ている
シ、阪神・阪急両電鉄ノ停留所モ芦
一二の議員を除いては殆ど全部賛成して
屋又ハ芦屋川ト呼ピ、精道ヲ冠スル
いるから遠からず実現を見るべき気運に
モノ更ニナシ
向いつつある、右に就き同村の某有力者
以上ノ理由ニ依リ、新市ノ名称ヲ世
は『現在の精道村は芦屋打出三候津知の
間一般ニ知ラルル「芦屋 J ト定ムル
四つの大字に別れているが三越や大丸に
ヲ最モ適当ト認ムルニ依ル
荷物の運搬をして貰う際など芦屋字三僚
そして、ついに「芦屋」の名称をもって市制を
と云えばすぐ届けてくれるが精道村三僚
と云うと何所か分からないで届けて呉れ
しいたのである 250
以上、精道村の住民の意向をみた。精道村の住
ないこんな例は他には少なくないから改
称する必要は十分ある』とて頗る鼻息を
民は、西宮市と神戸市の都市計画事業に属さずに
荒くしているが成程ブル階級の為す所唱
都市計画事業を進めた。精道村のまとまりとして
う所は違っている
の独自性を堅持したのである。
ただし、まとまりとしての名称に関しては、「精
新規流入富裕層を中心とした住民が「芦屋 Jの
道 Jよりも「芦屋」にこだわり、市制施行と同時
-20-
[研究論文]都市における住民意識の変容と小学校(湯田拓史)
に改称した。このことは、かつて町村制施行にお
となったことをあらわしている。
いて「精道」の村名がついた経緯を知る旧来の住
では、こうした状況下での精道村内の尋常小学
民層よりも、「芦屋」の名称にこだ、わった新規流
校の位置づけはどうだ、ったのかを次章で検証し
入富裕層が量的にも力学的関係においても上位
ていく。
班
村内における尋常小学校の位置づけ
明治期の精道村立の小学校では、児童が 500
教育費に関しても、増加する児童を収容するた
人も満たなかったが、時代が経るつれ急激に増加
めの小学校校舎を建設する度に著しく増加した
した(表 3を参照)。
(
表 4を参照)。
表3
小学校児童数(高等科を除く)
精道小学校 宮川小学校 山手小学校 岩園小学校
明治 3
2年
2
7
5
2
9
6
3
7年
4
2年
4
9
2
大正 3
年
7
0
3
8年
1
1
3
6・
1
3年
1
7
9
3
昭和4年
2
1
0
8
8
2
0
9年
1
5
4
9
1
0
7
2
9
6
9
2
4
2
1
2年
1
5
6
0
1
4
1
3
1
0
6
0
4
1
5
1
5年
1
3
7
8
1
4
7
6
1
1
5
7
9
2
9
計
2
7
5
2
9
6
4
9
2
7
0
3
1
1
3
6
1
7
9
3
2
9
2
8
3
8
3
2
4
4
4
8
4
9
4
0
『市制・町村制実施以来の財務統計資料~(芦屋市総務部財政課、昭和 38 年)より作成した。
表4
教育費
(円)
大正 3年
8年
9年
10年
1
1年
1
2年
1
3年
14年
1
5年
昭 和2年
昭和 3年
4年
5年
6年
7年
8年
9年
10年
7730
28952
32558
39278
44131
147966
146971
70358
174752
140929
106425
117980
111590
140091
232692
475872
155626
175706
註・『市惜)
1・町村制実施以来の財務統計資料』より作成した。
EA
噌
9M
神戸大学教育学会「研究論叢J 第 1
1号
2004年 1
2月 20日
精道村は、村内の人口増加に伴う就学児童の急
の頃から学級 45名中、 4
2名ぐらいは中学
激な増加に逐次新増改築をもって対応したので
進学をめざしていました。(中略 ) 0その
ある。
かわりよく勉強しました。精小で中ぐら
では、より詳しく昭和初期の時点における精道
いでも転校して行くと上位になりました
小学校の子どもの状態をしるために、精道小学校
し、反対に他の学校から上位の子が転入
の文集「青空Jや学校誌を参考とする 260
してくると、中くらいにさがるのもいま
まず「健康」と題する 6年生の女子の作文には
した。
次のような記述がある 27。
当時の健康などの衛生に関する言説は、 ~IJ途考
健康は私たちに取って一番大切なもので
慮しなければいけない事項29であるので、これ以
す。若し身体が丈夫でなければ、学校を休
上検証しない。ここでは、上級学校への進学に関
む。すると勉強がおくれると、お父さん
して熱心であり、かっ富裕な家庭の子弟たちが数
お母さんが心配なさいます。
多く通う小学校であった点を指摘するにとどめ
此の村は、別荘地幣なので大部分の人が、
る
。
すききらいをしています。精道校では身
I
進学校としての位置づけ]
体の弱い人が多いので、朝学校へ行って
上級学校への進学の実態はどうだったのか。当
から朝会があり、其の後でラヂオ体操を
時の進学状況を知るために、精道小学校の他に 4
し、又三時間目の勉強が終れば業間体操
校の進学状況をとりあげて比較を行う 30
をし、五時間目の勉強がすめば又業後体
操といって演などを散歩するのです。
0
第一は、神戸市の工業地区に位置する蓮池尋常
小学校(以下、蓮池小学校とする)である。
此のように私たちは学校で一生懸命に運
第二は、かつての富裕な「学区 J31にあり進学
動をし、太陽を浴びて身体を鍛えていま
率が高かった雲中尋常小学校(以下、雲中小学校
す。私は一年間一度も休まないという事
とする)を取り上げる。
が一度もないので今年こそは、一生理革命
第三は、かつての富裕な「学区 j にあった山手
に体を鍛えて休まないようにしようと思
尋常小学校(以下、山手小学校とする)である。
っています。(以下省略)
第四は、当時神戸市の周辺町村であり、阪急電
鉄によって中間サラリーマン層を対象とした住
自分自身に対してだけでなく、全校的な特質を
宅地開発が進められていた武庫郡本山村立本山
克服する誓いの文章となっている。将来獲得すべ
尋常高等小学校(以下、本山小学校とする)を取
きものとして頑強な身体を挙げているのである。
りあげる。
さらに、精道小学校の 1
00周年記念誌には、
進学率に関しては、旧制中学校・高等女学校入
かつての児童の回想として次の文章があるお。
学者から算出した。比較に際しては、昭和 5年と
昭和 6年のデータを用いる。ただし、本山小学校
0昭和の初からは、もう天下の精道でし
た
。 0そうでした。胸の病気をなおすた
め入院すると目立つので、芦屋の空気の
に関しては、史料の問題から昭和 7年と昭和 8
年のデータを掲載する。
なお、精道小学校の進学率に関しては、昭和 5
いいところで別荘を建てて養生しながら
年度の進学実績一覧 32はあるが当該年度におけ
勉強するというひとがありました。 0そ
る卒業生の人数が不明である。前年度の尋常小学
“
ヮ
“
ヮ
[研究論文]都市における住民意識の変容と小学校(湯田拓史)
校 在 校 生 が 2100人 で 、 次 年 度 が 2400人 で あ っ
測すると、ー学年 350人 か ら 400人とした(表 5
たことから、 2000人 "'2400人の聞で、あったと推
を参照)。
表5
雲中小学校
蓮池小学校
精道小学校
進学率
進学者
進学率 卒業生
進学者
卒業生│ 進学者 │進学寧 卒業生
年度
2
.
1目
1
6
7 6
8
.
2
百
2
6
9
6
8 1
3
7
3
154138.5~44也
昭和5年 350~400 I
首
4
.
4
1
7
4 6
略
2
7
0
6
.
2
5
7 1
3
5
1
昭和 6年
1
9
7 6
0
.
8首
目
324
5
.
9
5
5 1
344
昭和 7年
首
5
.
9
6
0 1
378
昭和8年
本山小学校
山手小学校
進学寧 卒業生│ 進学者 │進学率
進学者
卒業生
年度
4
3
.
5
%
1
1
3
2
6
0
昭和5年
4
3
.
3首
1
1
6
2
6
8
昭和6年
5
0
.
2
%
1
2
8
2
5
5
昭和 7年
4
6
1 2
7
.
4
覧
4
略
40.
1
1
4
2
8
2
昭和8年
註:精道小学校の数値は文集『青空』より。
蓮池小学校の数値は、『創立十周年記念肱~(神戸市立蓮池尋常小学校、 1937年)より。
雲中小学校の数値は、『創立六十周年記念総~(神戸市雲中尋常小学校、 1933年、 473~474頁より。
山手小学校の数値は、『山手教育四十年~(山手尋常小学校、 1940年、 117 頁より。
本山小学校の数値は、『本山第一小学校九+年誌~(神戸市立本山小学校、 1966年、 92~93頁より。
これら 4校と比較すると、精道小学校の進学率
さらに、中学校と高等女学校への進学先の内訳
は 、 神 戸 市 の か つ て 富 裕 な 「 学 区j に 位 置 す る 山
を比較する。精道小学校と雲中小学校、本山小学
手小学校と同じぐらいになる。
校 の 3校 の 実 績 を 示 す ( 表 6と表 7を参照)。
表6
中学杉
l
精進小学校 雲中小学校 │本山小学校
1
6
2
7
2
戸時空学
兵庫墜立
兵庫県立 ー 戸中学
8
兵庫県立 ー 戸中学
2
20
兵庫 立 丹中学
3
私立甲南学園
3
3
私立甲陽中学
2
1
6
4
私立灘中学
4
2
6
5
私立関西学
5
1
0
4
私立神港中学
3
込立瀧川中学
ム
手立 関 置 第 中 学
大阪府立北野中学
1
5
大阪府立豊中中学a
大阪府立堺中学a
川越中学4
定(埼玉開)
暁星中 E障校(東京
時成中
.
/
1
憤
中
天理中
小田原中学校
沼津中学校
註:精道小学校の進学状況は、昭和5年度(昭和6年3月卒業)のものである。文集『青空』から。
年3
月卒業のものである。『創立六十周年記念誌』雲中小学校から。
雲中小学校の進学状況は昭和8
本山小学校の進学状況は、昭和8年3月卒業のものである。『本山第一小学校九+年誌』から。
の
ノ
“
qd
神戸大学教育学会「研究論叢」第 1
1号
2004年 1
2月 20日
表7
精道小学校 雲中小学校 本山小学校
1
3
2
兵庫県立第一 等女学校
兵庫県立第一 等女学校
神戸市立第一 等女学校
樺戸市立第高等女学校
私立神戸女学院
私立親和高等女学校
私立山手高等女学校
私立成徳高等女学校
私立松蔭高等女学校
私立甲南高等女学校
私立聖母高等女学校
J、ヮイ高等女学校
私立窓高等女学校
私立日の本高等女学校
私立野田高等女学校
兵庫県立伊丹高等女学校
兵庫県立西宮高等女学校
大手前高等女学校
清水谷高等女学校
相愛高等女学校
大阪市立高等女学校
梅花直筆女学校
京都府立第一高等女学校
東京ー輪田高等女学校
6
7
6
4
5
2
4
1
4
9
1
4
2
0
4
7
3
1
4
1
9
2
2
4
8
3
4
2
3
註;年度と出展は男予と同樟である。
当時、精道小学校は神戸の公立上位校であった
ことも達成できた。こうして住民との聞に小学校
兵庫県立第一神戸中学校や兵庫県立第一高等女
に関する肯定的な教育経験が築かれていった。こ
学校に 2桁の入学者をだしていたことから、自他
の肯定的な教育経験があったからこそ、とりたて
共に認める富裕層の通う進学校で、あった。
て尋常小学校をめぐる紛争は起きなかった。
以上から、尋常小学校をめぐる紛争が精道村で
この肯定的な教育経験は、市制施行後、市の名
おきなかった理由として、次のように考える。前
称を「芦屋」に変更しでも、市の中心部にあり市
述のように精道村は、精道小学校の他にも鉄筋コ
の小学校を代表する伝統校である精道小学校の
ンクリート造校舎の尋常小学校を 3校建設した。
名称を変更することはなかったことからも指摘
これらの村内の小学校建築に関しては、西宮都市
しうる。精道村の住民たちは、市民としては「芦
計画の一環ではなく、村が独自に施行した。莫大
屋」を冠するまとまりに変化した。だが、精道小
な村費を費やしてでも住民の要求に対応したこ
学校で学んだ住民のまとまりとして校名を変え
とで、神戸市の旧「学区」の住民が主張したよう
ることはなかった。シンボルとしての名称に関し
な校舎の整備に関する要求はなかった。むしろ、
て、一般行政区画の名称である「精道 j と校名で
自らの子弟の健康や進学へと関心が移った。
ある「精道」とを別々の事項にさせるほどの肯定
一方の精道小学校の側も、住民の進学要求に応
的な教育経験が積まれていたのである。
じて、卒業生の約 4割が旧制中学校や高等女学校
へ進学するほどの進学校となった。校舎の環境整
小括
備の早期達成ができていたからこそ、生徒の進学
精道村の地域構造は、農村から高級な郊外地へ
対策に励むことが出来、進学校の評判を獲得する
と大きく変化した。それに伴って多くの新規流入
-24-
[研究論文]都市における住民意識の変容と小学校(湯田拓史)
富裕層が流入し、住民構成も変容したのである。
拓史「地方行政団体への教育行政の一元化と住民J、
『教育行財政研究~ (関西教育行政学会、 2
004年 3
村内において多数を占めた新規流入富裕層は、
月、第 31 号、
行政当局との対立は避けながらも、自らの意向を
13~26 頁)。
2 芦屋市『新修芦屋市史』芦屋市、
押し通した。
3
まず、精道村の独自性を堅持するため、西宮都
603頁
。
W
市制・町村市j
実施以来の財務統計資料(武庫郡精
道村・芦屋市)~芦屋市財務部財政線、 1963 年。
W
4 阪本勝比呂「郊外住宅地の形成J 阪神間のモダニズ
市計画区域への編入に関しては、市制を施行する
ム』淡交社、(初版) 1
9
9
7年(再版) 1998年
、 26
形で脱退した。
~54 頁。
5芦屋市『新修芦屋市史』芦屋市、 1
9
7
1年
、 704頁
。
整理した土地を売却したことで、旧来の住民のうち
地主層は富裕層へと変化していったと考えられる。
その後村会が新規流入富裕層と同様の見解を示した
のは、都市化による恩恵を得て富裕となった議員で
占められていたからであろう。村内の政治勢力の動
向についての検討は別の機会にしたい。
6川島智生「大正・昭和戦前期の大都市近郊町村にお
ける鉄筋コンクリート造小学校建築と民間建築家
との関連ー兵庫県旧・武庫郡の町村を事例にー」
『日本建築学会計画系論文集』第 515号
、 1999年
、
次に、市制施行に際して地名を改称し、「精道」
から「芦屋 j へ名称を変えた。「精道 J よりもブ
ランドとしての「芦屋」にこだわる意識が住民に
広がっていた。
尋常小学校をめぐ、つては、校舎の新造改築の時
期が社会変動に適応していたので、神戸市やその
周辺町のような校舎をめぐる住民と行政当局と
の紛争は起きなかった。精道村の住民の教育関心
235~242 頁。
J
W
阪神間のモダニズム』
淡交社、(初版) 1997年(再版) 1998 年、 92~100
頁
。
8 土方苑子「中等学校の設置と地方都市J
、大石嘉一
郎・金津史男編『近代日本都市史研究』日本経済評
は、自らの子弟の進学であり、小学校そのものを
7 梅宮弘光「阪神間の公共建築
進学のための機関として利用しようとするもの
であった。精道小学校の方も、その教育関心に応
え、自他共に認める進学校となった。
論社、 2003 年、 651~698 頁。
行政当局と住民との対立も無く、進学校として
r
神戸都市計画区繊決定諮問ニ対スル答申 JW都市計
商要鑑』第 2巻、内務大臣官房都市計画課、大正 1
1
年刊行、(復刻版)柏書房‘ 1
6
5頁
。
1
0 W西宮市史』第三巻、西宮市、 1967 年、 341~347
頁
。
1
1 神戸又新日報 J 1
9
2
6 (大正 1
5
)年 5月 1
8日付。
9
2
7 (昭和 2
) 年 7月 2日付。
1
2 神戸又新日報 J1
1
3 r
神戸又新日報 J1
9
2
7(昭和 2
)年 7月 1
2日付。
神戸又新日報 J1
9
2
7 (昭和 2
)年 7月 1
3日付。
1
4 r
神戸又新日報 J1927 (昭和 2
)年 7月 14日付。
1
5 r
1
6W
西宮市史』第三巻の都市計画の項には、精道村区
域で都市計画事業が実施されたことは記述されて
いない。精道村に関しては、西宮都市計画区犠に含
まれたことと、昭和 3年に市街地建築物法が精道村
にまで拡張適用されたこと (
3
4
7頁)しか記述され
ていない。『新修芦屋市史』には、西宮都市計画
との関係についての記述はない。
1
7 r
官報J第 4151号
、 1940(昭和 1
5
)年 1
1月 6日
。
1
8 兵庫県史編集委員会『兵庫県百年史』兵庫県 1967
年
、 957頁
。
19 湯田拓史「教育行政区画の再編と住民 JW
神戸大学
発達科学部紀要』第 1
1巻第 1号
、 2003年 191-201
頁
。
2
0神戸市の周辺町村に関しては、前掲書 (
1
9
)におい
て検証した。ここでは尋常小学校を介在させながら、
神戸市へ合併する周辺町村の動きを追跡した。
9
の評判も得たことで小学校と住民との聞には、肯
定的な教育経験が形成され、蓄積されていった。
市制施行後も校名を示すものとして「精道」の名
称を残したことから、とりわけ精道小学校に対し
ては、肯定的な教育経験に依拠した名称へのこだ
わりが住民の意識に定着したのである。
以上のように、都市化に伴って変容した新規流
入富裕層の意識は、シンボルとしての名称に関し
て、芦屋市民としてのこだわりと教育経験から得
た精道小学校卒業生としてのこだわりとを分け
て思考するものであった。このことを踏まえて、
今後は中等教育機関に対する住民の動向を検討
していきたい。
(神戸女子大学非常勤)
註
1 湯田拓史「教育行政区画再編と住民 J (
W
神戸大学発
達科学部紀要』、 2003 年 9 月、 191~201 頁)、湯田
F同
。
ιυ
神戸大学教育学会「研究論叢 J第 1
1号
2
1 芦屋市『芦屋のうつりかわり
市制施行 5
0周年記
9
9
0年
、 5
4頁。ただし、現:
念写真集』芦屋市、 1
精道小学校の校長の談によれば、出典は不明で郷土
史家が調査中とのこと。
2
2 芦屋市『芦屋今むかし』芦屋市、 1
9
9
0年
、5
8頁
。
23 r
神戸又新日報 J1
9
2
6 (大正 1
5
) 年 9月 1
4日付。
2
4
市ノ名称ヲ「芦屋」 ト定ムル理由」、「市制ニ関
スル綴 J1
9
3
9(昭和 1
4
)年。芦屋市史編集委員「新
修芦屋市史 資料編 2
J 芦屋市役所、 1
9
8
6年より。
2
5 前掲書 (
1
7
)。
26 文集 f
青空」は、戦前に発行された分の大半が散
逸していた。最近になって同窓生が偶然に古本屋で
2
0数冊見つけ、複写と再製本を施し精道小学校へ
寄贈した。今回ょ山口晋精道小学校校長のご協力を
得、保管されていた「青空」を閲覧させていただい
た。文集の内容は、児童の綴り方の他にも、著書写の
優秀作品の掲載、スポーツ行事や保健の記録、教員
執筆のエッセイや進学実績など多岐にわたる。書式
を統ーしたうえで、印刷所で発行されたものである。
2
7 文集「青空J第 1
0巻第 1号
、 1
9
3
8 (昭和 1
3
)年
7 月 28 日、 49~50 頁。
W
精小創立 1
0
0周年誌』芦屋市立精道小学校、 1
9
7
2
年
、 7
0頁
。
2
9 当時の健康に関する言説は、国家総動員体制に向け
ての国民の身体を管理しようとする国家の厚生事
業の一環であったとの指摘がある(藤野豊『強制さ
0
0
0年)。とくに、当時の
れた健康』吉川弘文堂、 2
芦屋は「健康地Jであることで売り出しており、三
田谷治療教育院など「治療教育」がおこなわれてい
た(小野高裕「健康地のライフスタイルを築いた医
7
)lló~114 頁、と加藤瑞穂「近
学者たち」前掲書 (
代精神の結実」前掲書 (
7
) 149~153 頁)。郊外地
と健康、それに学校教育の関係についての検討は、
別の機会にしたい。
30 進学率に関して、『兵庫県教育史』では兵庫県全体
で算出しているため、都市部にあたる神戸市や阪神
間地区の値は読み取れない。当該地域の進学に関す
るデータは、各学校の実数から算出するしがない。
8
1 ここでの「学区」とは、かつて学校の設置運営主
体であった歴史的学区のことを示す。神戸市では、
大正 8年に廃止された。
32 r
昭和五年度(六年三月)中等学校入学者調」、文
、 1
9
3
1 (昭和 6
)年 6
集「青空J昭和六年度第 1号
28
月 1 日発行、 35~37 頁。
-26-
2004年 1
2月 20日
Fly UP