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ス エ ズ 運 河 と P

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ス エ ズ 運 河 と P
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
スエズ運河 と P & 0*
1860・70年代におけるP&0の経営危機
後 藤
Ⅰ はじめに
ⅠI1867年逓送契約の改訂問題と経営者の交替
ⅠⅠⅠスエズ運河開通の影響
ⅠV P&0の対応策一朝争カの強化
Ⅴ おわりに
Ⅰ
交通・通信網の整備,つまり−・般にインフラストラクチャーの整備は,それ
までアクセスが困難であった地域を新たに市場に組み込むことによって,イン
フラストラクチャーそれ自体に従事する企業を含め,さまざまな企業に,拡張
なり参入なりの事業機会を等しく創出する。しかし,その場合,新規参入企業
は環境に適合的と思われる戦略を最初からとることによって,新たな事業機会
から利益をすばやく引き出せるのに対して,既存企業は環境の変化に適合すべ
く,それまでの経営戦略を破棄し,新たな戦略の策定のために試行錯誤を繰り
返すことになる。もちろん,この試行錯誤の過程は新たな環境に対する的確な
認識と,それにもとづいた戦略の早期立て直しによって,スムースにすること
が可能である。しかし反対に,この移行過程に靡けば,それは企業経営に重大
な危機を招き寄せるであろうことが予想される。
*Iwouldlike to thank the NationalMaritime Museum for permission to consult
the P&OArchives
伸
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
−Jニ才一
香川大学経済学部 研究年報 27
ところで海運史上,1869年11月におけるスエズ運河の開通は,インフラスト
ラクチャーの整備とういうなかでも,特筆すべき輸送上の革新であった。つま
り,それは地中海側(ポート・サイド)と紅海側(スエズ)とを運河で結ぶこ
とによって,西洋と東洋との間の汽船による海上一貫輸送を初めて現実的なも
のとし,この結果,欧州/インド・中国貿易の一層の拡大をもたらしたのであ
る。この新たなアクセスの方法と市場の拡大は,当然,新規の汽船会社による
東洋への参入を促したが,上述のごとく,東洋に配船してきた既存の企業にと
ってみれば,新たな環境に適応するために,その経営上さまざまな処理課題を
背負うことになった。そして,このようなスエズ運河の開通がもたらした諸々
の問題を一・企業の経営のなかに鮮やかに集約してみせたのが,すでに1840年代
始めより東洋に配船していたイギリスの海運企業,P&0であることはいうま
でもない。
しかも,P&0はこの新たな環境適応において,これをスムースに消化した
というよりも,かなり置きつつ,問題を解決したように思われる。ちなみに,
同社の社史を執筆したB・ケーブルは,その著書に「運河とP&0の危機」と
いう章を設け,この時期にP&0が直面したクリティカルな経営状態を描いて
いる。 1)いわく,新規参入企業との競争の増大,運河開通によってもたらされた
既存施設の陳腐化,運河通航適船の建造問題と運航スケジュールの再編成など
等。たしかに,スエズ運河の開通がもたらした諸問題は,P&0の東洋航路経
営の上で重大な挑戦課題であり,P&0に経営危機といえる状態を現出させた。
しかし他方で,運河開通による新たな企業機会が,ケーブルが強調するように,
なにゆえP&0にとって−・方的に不利に作用する結果となったのかという疑
問,つまり運河開通がもたらす影響に対してP&0はなにゆえもっと速やかに
適応する手段を講じ,できればそれを経営成果でのプラス要因に転化できなか
ったのか,という当然提起されてしかるべき問題が残るのである。それゆえ,
もしP&0がスエズ運河の開通によって経営上重大な危機に直面したとするな
らば,それはケーブルが指摘するようにスエズ運河という輸送上の革新によっ
て不可避的にもたらされたものというよりも,むしろ開通前後における,P&
1)Cable1937,ChXXIII
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スエズ運河とP&0
−Jこ了−
0の環境適合の失敗によるところが大きいのではないかと考えられるのであ
る。2)
そこで本稿では,スエズ運河開通前後の,P&0の運河に対する取り組み方
はどうであったのか,またそれによって発生したP&0の経営上の諸問題とは
どのようなものであり,さらにP&0は1870年代を通してこれらの諸問題をど
のように解決しようとしたかを明らかにすることを課題としている。いわば,
1860年代後半から70年代前半の,危機のなかにおけるP&0の経営を取り上げ,
その打開にみられる特質を探ろうとす−るものである。以下,ⅠⅠでは,スエズ運
河開通がいわば秒読みの段階に入った時期における,P&0の対スエズ運河へ
の取り組み方の問題点を考察する。ⅠⅠⅠでは,スエズ運河開通という新たな環境
のなかで,P&0に訪れた危機の具体的な様相を述べる。ⅠⅤでは,その危機打
開のためにどのような戦略を展開したのかを,P&0の競争力の回復策という
面から検討する。そしてⅤでは,本稿での検討からえられる若干の結論を述べ
ることにしたい。
ⅠI
1859年の起工から10年の歳月をかけてスエズ運河は1869年11月に完成する
が,この間,運河の開通が競争上どのような影響をもたらすか,そのためどの
ような対策があらかじめ必要なのか,というような運河開通に関わる問題を
P&0が事前に詳しく検討していたことを示唆する資料は,現在のところ見当
たらない。き)むしろ,P&0はスエズ運河の技術的価値(航行可儲性)はとも
2)P&0の企業収益がスエズ運河の開通以前にすでに悪化していたことについてはHar・
COuTt1981を,また,スエズ運河開通前後のP&0の経営上の危機は多分にP&0自身の費
任によるものとの指摘についてはDivine1960を,それぞれ参照のこと。また,この時期の
P&0を対象とした,あるいはその山部として取り上げた研究として,この他つぎのよう
な研究業績をあげることができる。中川1959;澤1982−4;Howar・th1986.
3)P&0の営業報告書をみていくと,スエズ運河に初めて言及するのは,運河がすでに完
成したあとの1869年度報告番であり,それもP&0の船舶がスエズ運河開通式に参加した
ことを簡単に記述しているにすぎない。P&06/7,AnnualR密Ort,30SeptemberI,
1869.
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一上布−
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J5材7
かく,その経済的価値について,事前には十分に検討・評価しえなかったので
はないか,という疑いを裏付ける資料が散見されるのである0たしかに,1869
年から1870年にかけて,P&0はスエズ運河が自社の船舶にとって通航可能で
あるかどうかの技術的検討を行ってはいた。その結果,1871年に入ってからは,
本国から新・修造船を東洋に配船する場合,また逆に東洋から船舶を本国に送
り返す場合,従来の喜望峰経由にかえてスエズ運河を利用し始めた。4)さらに,
このような新・修造船の移動に止まらず,日本から蚕卵紙を運搬する汽船に関
しては,同貨物がデリケートであることにくわえ,輸入業者が頻繁な積替えを
嫌ったことから,スエズ運河の通航を予定するというように,特定貨物を積載
した汽船の運河利用も検討されていた。5)
しかし,このような新・修造自社船の空荷航海や特殊な積荷にかぎった運河
の−・時的利用を除けば,P&0の主要航路である郵船ルートの一風程としてス
エズ運河を本格的に利用することは,当面の検討課題とはされなかった。つま
り,少なくとも1873年になるまで,P&0は運河の本格的利用を決意するには
いたらなかったのであるが,そのことは営業報告書のつぎのような記述となっ
て現れている。すなわち,「〔当社汽船の週便ルートとして運河を利用する時期
の問題について取締役会がいえることは一引用者補足。以下同じ〕最大限の注
意をもって運河の航行性を見守りつづけることだけ」であるといい,また,「運
河が,端から端まで20∼24時間以内に当社の大型汽船が安全に通過することを
確かにする状態にあるというまで,取締役会は運河を郵便ルートとして採用す
る許可を政府に願いでる立場にはない」,という。6)このような運河の利用に対
するP&0の消極的な姿勢は,当然のことながら,運河開通前のP&0の船隊
建造政策にも如実に反映された。すなわち,スエズ運河の起工年である1859年
から開通式を迎える1869年までの間,P&0は1500トン以上の船舶を合計23隻
4)この配船・返船ルートを喜望峰経由からスエズ運河経由に変更したことによって,P&
0はこれまで年間およそ3万ポンドにも上った配船費用を全て節約することができたo
P&0 6/7,AnnualR勿OYち30September,1871.
5)P&0 6/7,AnnwIRゆOrt,30September,1870.
6)P&0 6/7,HaUl旅arly R砂Orち31March,1870:AnnualR@ort,30Septem・
ber・,1870
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スエズ運河とP&0
建造したが,そのうちどの一・隻として運河通航をあらかじめ予定して建造され
た船舶はなかった。第一・に,23隻のうち7隻はその喫水が運河設計水深よりも
深いか,あるいは通航が疑問視される船舶であった。第二に,イギリス本国と
インド間との直通輸送を予定して設計・建造された船舶もー・隻としてなく,相
変わらず貨物棟載スペースの少ない,旅客・郵便輸送中心の船舶が建造された。
そして第三に,各々の船舶はスエズ以東と以西で別々に使用すべく設計されて
おり,就航海域間での船舶の配船替えは,その船型や速力の点で不可能であっ
た。この結果,P&0はスエズ運河開通前の10年間に,運河の通航には不適格
な船隊を4万トンあまりも建造していたのである。7)このように,P&0では,
運河がもつであろう経済的・商業的な価値に関する,事前の検討と評価が欠落
していた事実を窺わせる資料が容易に見出されるのであるが,しかし翻ってみ
て,なにゆえ,P&0がスエズ運河の経済的・商業的可能性にかくまで疎かっ
たのであろうか。それについては,スエズ運河の開通直前に生じた二つの事情
がP&0から運河検討のための時間的・人的な余裕を奪ったため,と考えられ
る。その事情とは,一つは郵便輸送契約の改訂問題であり,もう一つは経営陣
交替の端境期に生じたリーダーシップの欠如である。
〔1〕郵便輸送契約の改訂問題
1866年,英国議会調査委員会は乗洋における郵便輸送を再編成するとともに,
その拡充を求める勧告をだした。8)この勧告を受けて,郵政長官はP&0に対
し,東洋との二つの郵便輸送契約,つまり1853年のインド・中国契約および1854
年のボンベイ/アデン契約を1868年2月1日をもって打ち切ることを通告し,
かくて,東洋航路の郵便輸送契約は,1867年9月16日に再入札されることにな
った。9)p&0にとって,この東洋航路の契約が再入札されることは,歓迎すべ
き事態であった。というのも,当時P&0自身もこの東洋航路の郵便輸送契約
を,とくに契約金の面で改訂することを切望していたからである。いま少し,
これを敷術しておけば,つぎのとおりである。
7)Divine,pp.134−5.
8)β」)P1866.
9)P&0 6/7,肋折‡セα7・(γβ砂0枕31MarCh,1867.
−ノア7−
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一丁乃トー
東洋における汽船交通は,1860年代に入って,もはやP&0一社の独占する
ところではなくなった。1861年,仏政府の後援の下に,仏郵船企業のMes−
sageriesImperiales(後にMessageries Maritimesに社名を変更。以下,M
Mと略記)が東洋への配船を開始したのである。10)この新たに衆洋航路を開始
したMMは,仏政府より当初から手厚い保護を受けた。たとえば,東洋への配
船を開始するに際し,MMは運航助成金として仏政府よりマイル当たりおよそ
20シリングの契約金をえたが,その額はP&0の当時のマイル当たり契約金4
シリング6ペンスの,約4倍にあたる高額であった。さらに,MMはこの運航
助成金のほか,東洋に配船する船舶の調達資金として,仏政府より1862∼5年
にかけて,総額およそ1,400万フランの前貸しを受けた。11)かくてP&0にとっ
て,このようなMMとの競争はたんに「−・民間企業との競争」というよりも,
「強力で資力に富む外国政府との競争」12)にほかならず,航路経営上,重大な圧
迫を受けた。その端的な一例を示せば,P&0にとって極東からの重要な船荷
であった生糸横取の,相対的な落ち込みがあげられよう。第1表に掲げたとお
り,P&0の中国・日本からの生糸の横取比率は,MMとの競争のために,1863
第1表 中国・日本からの生糸横取 川63∼6丁年
単位:ベール
年 合 計 P&0汽船(%) MI汽船(%)
1863 45,553 40,221(88小3) 5,332(11“7)
1864 37,458 30,775(822) 6,683(17。8)
1865 54,964 39,372(716) 15,592(284)
1866 38,609 22,249(57小6) 16,360(42“4)
1867* 14,934 8,685(582) 6,249(41.8)
*6月30日までの期間
資料 P&037/2,5〝肋gγ由乃d「sゐ′おれ4.Iuly,1867
10)Saugstad1932,p103.
11)乃∠d
12)Reportjiomihe Committee qfMa,叩menんdatedlO October1862,inP&0 6
/7,助〆‡セαγか斤¢0γち31MaTCh,1867.
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スエズ運河とP&0
−J乃)−
年の9割近くから,66,67年には6割以下へと落ち込んだ。1さ)それゆえ,政府か
らの強力な支援を受けたMMとの競争に対抗するためには,P&0としても東
洋の逓送契約の改訂を長らく待ち望んでいたのであった。
契約の打ち切り通告を受けたP&0は,ただちに,1867年2月15日付書簡を
郵政長官宛に送り,P&0の考える配船の改善プランを呈示し,非公式な交渉
による逓送契約の改訂を打診した。14)しかし,郵政長官は,逓送サービスの民間
13)MMとの競争でP&0が不利な立場にあったことに関する証拠は,つぎのような資料か
らも拾うことができる。すなわち,1867年にP&0が逓送契約の打ち切り通告を受けて間
もなく,極東との交易に従事するイギリスの貿易商から,大蔵委員会宛に既存の汽船交通
の迅速化を求める書簡(3月8日付)が送られた。そのなかで,中国からロンドンへの郵
便物運搬において,1866年をとおしてみると,P&0の汽船は平均51日を要したのに対し,
MMの汽船は443日と,P&0にくらべ約6日ほど早いことが指摘されたのである。乃?O
Tl/6768A∴月蝕物・わ娩βエ0γds Co椚∽ま.s該用のS q/〟わノ肌如s秒てs mαS〝籾8
March1867.この必要航海日数の適いは,MM汽船がP&0の汽船よりも1∼2日ほど早
くに極東から本国に向けて出航する,という航海スケジュールの相逮ともあいまって,後
発企業であるMMの,極東での蒐荷兢争力を高めた。すなわち,この間の経緯について,
1866∼r67年にインド・中国方面の海外代理店の巡回視察を命じられたP&0の社員サザー
ランドThomasSutherland〔前中国支配人,後に業務執行取締役,会長に就任〕の報告書
はつぎのように述べている。「わたしはつぎのような結論に達しました。つまり,MI〔M
Mの前社名,以下同じ〕社の船荷が多いのは主に一実際のところ,ほとんどもっぱら中国・
日本からその汽船を出航させる日付によるものである,ということです。もちろん,〔ポワ
ン・ド・〕ガルでの横替えがない事実や復航汽船の迅速な航海にもー・理ありますが,それ
らはけっして主因ではありません。かれらにそのような優位性を与えているのは,かれら
がわれわれの汽船よりもわずか一両日早く汽船を出航させ,それゆえ数日早く本国に帰港
するという事実であります。生糸市場が非常に不安定な状態にあること,また荷主が入手
する資金が日々にかなり逼迫していることは重要であり,ために−・両日遅れて出るわれわ
れの船舶に生糸を送りだすため,すでに買付けて手形も振り出された生糸を荷主が手元に
おいておく,などと期待するのは無理でありましょう」。P&0 37/2,S〝肋βγ彪紹d「s
letieYS,4thJuly,1874サザーランドはこのほかにも同じ手紙において,MMに有利に作用
する別の原因として,最近の生糸が,手数料ベースで仕事を行う,したがって商機の機敏
性を重視するコミッション・マーチャントによって取引されていること,しかもその出身
国がおもにフランスであることをあげている。
14)P&0 6/7,HaU:iセaY伽R4)Ori,31March,1867.このなかで,P&0はMMと
の競争のため収益が悪化しており,既存の契約をP&0自身も打ち切らざるをえないこと,
しかし,契約の突然の中断が公益におよぽす影響の大きいことを考慮して,既存の契約に
かわる東洋への逓送航路として,つぎのような配船の改善プランを呈示した。①インド郵
便物に関しては,イギリス本国/ボンベイ間過−・回の逓送サービス,②インド/中国その
他東洋間…・週一周ないしこ週一周の逓送サービス,③上海(または香港)/横浜間二遇−・
回の逓送サービス,これである。
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−/べ()−
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企業との交渉を非公式に行うことは,下院の決議ならびに大蔵委員会によって
禁じられており,P&0のプランを交渉の土台とすることはできないとして,
P&0の提案を却下した。15)p&0にとって思惑違いであったのは,たんに非
公式の交渉の途が断たれただけではない。さらに,郵便輸送契約に関する政府
側の最終的権限をもっていた大蔵委員会が,これまでの東洋における逓送契約
の慣行を無視する,突然の問題発言を行ったのである。すなわち,1867年6月
3日,大蔵委員会のSecretaryは議会での答弁において,インド・中国の郵便
輸送契約について仏の郵船企業のオファーを勧誘すべく,入札書類を仏郵政局
に発送したことを明らかにした。16)この思いもかけぬ大蔵委員会の措置を知っ
たP&0は,当然のことながら,外国企業へのオファー勧誘の撤回を求める行
動をただちにとった。すなわち,P&0は,つぎのような書簡を6月27日付で
大蔵大臣宛に送った。
〔平均してマイル当たり20シリングの〕高率の補助金を享受することで,
このフランスの会社はP&0よりも低い料率で貨客を輸送することが可能
であります。‥・……フランス政府からすでに受けとっている高額の補助金
にくわえてイギリスの補助金を与えることは,かかる不平等な環境の下で
の競争が実行不可能であるため,MessageriesImperiales社に,P&0の
利害をいちじるしく損なわせ,かつ,その進歩に終止符を打つ立場へとお
くことになりましょう。l……
それゆえ,わが社のためにも,また…・…
その株主のためにも,入札の勧誘が最近なされた,インド・中国の逓送サ
ービスのいかなる部分も,外国企業との間で契約が締結されること−この
ことは,イギリス資本と企業にとって損害であります−のないよう,丁重
に,しかし,折衷より懇請する次第であります。17〉
しかし,このP&0の要請に対する大蔵委員会の返答は,かたくななものであ
15)1867年2月23日付P&0宛郵政局書簡。P&0 6/7,HaLfiセaYblR4)Ort,31Mar’Ch,
1867.
16)Hansardてs,3rd Ser,VolCLXXXV,3June1867,pp.1493−4
17)P&0 6/7,Appendirio the AmualR¢ort,30September−,1867.
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−J∂J−
った。同委員会は1867年6月29日付P&0宛書簡のなかで,「提案したインド・
中国との逓送交通に関わるサービスを公的な競争に晒すことは,政府の義務と
考えており,したがって,サービスの総て,あるいはそのいかなる部分に対し
ても,申し込みを呈示しようとする個人,または会社の国籍のいかんを問うこ
となく,公募により入札を勧誘したものである」1る),と述べたのである。かくて,
P&0の提案したプランは受理されなかっただけではなく,外国企業との郵便
輸送契約の可能性を撤回する要請をも撥ねつけられたのである。この結果,東
洋航路の郵便輸送契約は,9月の公開入札の結果次第となった。幸いなことに,
P&0の反対キャンペインの効もあってか,MMの入札は結果的にはなされな
かったが,入札に応じたP&0は全航路について50万ポンド,マイル当たり約
7シリング9ペンスの契約金を申し込んだ。19)1853∼54年の,東洋航路のマイ
ル当たり契約金は約4シリング6ペンスであるから,このたびのP&0のマイ
ル当たり契約金は,53年契約をおよそ86パーセント上回る水準であったことが
わかる。そのため,この入札でP&0が呈示した契約金に対して,政府側は高
額であるとして難色を示した。しかしその後,両者の−L連の話し合いをへて,20)
最終的につぎの線で合意が形成された。21)すなわち,(》契約期間を12年とし,契
約金の最低額を40万ポンド,また最高額を50万ポンドとする,②P&0の「コ
ントロール下にはない原因によって」配当可処分資金が株式資本年6パーセン
トの配当支払に必要な額にみたなかった場合,50万ポンドの最高契約金を上限
として,22)その不足分を郵政局がP&0に支給する,③配当可処分資金が年8
%の配当支払に必要な額を上回る場合,最低契約金40万ポンドを支払った上で,
18)PO月 T、19/5,Tね綱のりわ娩βαγgCわ乃〆肋βP&0,29.June1867.
19)P&0 6/7,Ann〝αlR¢orち30September■,1867.
20)この話合いのなかで,P&0の提出した契約金が必ずしも高額ではないことの財務的根
拠を確かめるため,P&0の提案にもとづいて政府派遣の会計官がP&0の会計帳簿を調
査した。P&0 6/7,AnnualReport,30September,1867.その調査結果とそれにも
とづく勧告を盛り込んだ報告杏は,1867年10月26日に郵政長官に提出された。PだO Tl
/6768A,〟β∽0γα乃ゐ研〆〟γ Sc〟(お仰柁
21)P斤0〟β∽0′α乃ゐ∽,§10,12.
22)6%の配当を確保するために,最高契約金50万ポンドの支払いがなされる場合のP&0
単独の配当率は,年間2パーセントとなる。P貯O Aクe∽0和乃d〝刑,§21.
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J一鎚㌢7
その超過額の五分の−・を郵政局が受けとる,というものである。
かくて,この合意にしたがって,1867年11月19日,インド・中国の郵便輸送
契約は郵政局とP&0との間で正式に締結されることになった。両者の間で結
ばれた契約内容を−・覧すれば,第2表のとおりである。保証最低契約金40万ポ
ンドは,マイル当たりに換算すると6シリング1ペンスとなり,これはP&0
が最初に呈示した契約金50万ポンド,つまり,マイル当たり7シリング9ペン
スよりは低かったが,1853年契約や54年契約でのマイル当たり契約金4シリン
グ6ペンスにくらべれば,およそ・35パーセント増であり,かくてP&0はその
第2表1867年契約航路
航 路
寄港地
航海回数
マイル数
(契約時間)
1 サウサンプトン 過1回
/アレキサンドリア
マルタ
2,951(295)
2マルセーユ
/アレキサンドリア
週1回
1,410(141)
3スエズ
週1回
2,972(313)
/ボンベイ
4スエズ
2週1回
ガル,マドラス
/カルカッタ
2週1回
6 香港/上海
2週1回
7 上海/横浜
長崎
シンガポール
2週1回
870(92) 950
1,120(118) 9.50
注 1867年11月19日締結
マイル数,契約時間はともに片道航海
資料 βPP1867/8より作成
当初の狙いどおり,契約金の引き上げに成功したといえよう。
このように半年にわたる長い交渉過程の結果,ようやく獲得した1867年契約
は,既述のとおり,P&0の収益に応じて契約金の支払い額を変動させる方式
をとっていたが,実施してみるとこの方式は不都合であることが判明した。つ
まり,①郵政局のP&0に対する契約金の支払いは,最初の14ケ月の契約期間
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スエズ運河とP&0
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の間,その最高限度額の50万ポンドに達し,2き)しかもさらに,②その支払いの算
定にあたってP&0の帳簿類を調査し,当期利益額を確定する作業に多くの人
力と時間を費やす必要があった。かくて,郵政局は従来の定額契約金の支払い
方式に戻ることをP&0に提案し,この結果,1870年8月6日,郵政長官とP&
0の間で,改訂契約が締結されることになった。その要点は以下のとおりであ
る。24)①全ての逓送サービスを現行のまま継続する,②契約金は年間45万ポン
ドの定額とし,1869年4月1日を支払い開始日とする,③契約期間は1869年4
月1日より1880年2月1日までの約11年とする,以上である。
この改訂契約で特徴的なのは,郵政局とP&0の間で交渉が行われていた時
期にはすでに開通していたスエズ運河利用の件が,一切触れられていないこと
であり,P&0もこの改訂交渉のなかで,郵船のスエズ運河通航問題を提議す
ることはなかった。つまり,すでに指摘したとおり,この時点では,P&0に
は郵船ルートの−・航程としてスエズ運河を利用する考えはなかったのである。
このことは,スエズ運河を郵送ルートの−・環として利用することにP&0が遅
れたのが,政府の側というよりも,むしろP&0の側に問題があったためであ
ることを示唆する。実際,P&0にとって,スエズ運河を利用することは,た
んに郵船の運河堪航性というような純粋に技術的な問題に止まらず,それ以上
に経営的・経済的な問題を提起した。つまり,スエズ運河の利用に全面的に切
替えるためには,運河通航に適した船舶の建造だけではなく,P&0がこれま
でエジプト陸上ルート(陸上インド通路)に投下してきたさまざまな施設を廃
棄する必要があった。このようなプロジェクトを長期にわたって企画し,それ
を郵便輸送契約のなかに盛り込んでいくには,この時期のP&0にはあまりに
も時間的余裕がなかった。というのも,すでに述べたように,当時のP&0は,
逓送契約から外国企業を排除することから始まり,一題の政府との契約交渉な
らびにそ・の後の契約改訂にいたるまで半年以上もの間,郵便輸送契約の確保に
23)郵政局はその原因として,貿易の停滞やフランス郵船の競争にくわえ,スエズの開通が
P&0に新たに競争を挑む内外の汽船企業を出現させたことをあげ,この結果,P&0の
収益が低迷したと述べている。1870年7月20日付郵政長官の大蔵委員会宛報告番。戯P
1870に所収。
24)乃∠d,§39,45.
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
−J朗−
香川大学経済学部 研究年報 27
J9β7
その精力の大半を費やさざろうえなかったからであり,それ以外の事情を考慮
する余地はほとんどなかったと考えられるのである。しかしながら,このこと
は,スエズ運河開通に対するP&0の事前の取組を,決定的に立ち遅らせるこ
とになった。くわえて,この契約の締結直後,P&0ではトップ経営者の交替
=後継者の問題が生じるという,多難な時期が重なったのである。
〔2〕経営者の交替1860年代後半,P&0のトップ・マネジメントもまた大
きな替わり目を迎えることになった。その意味を明らかにするためにも,ここ
でP&0のトップ・マネジメントの特徴とその人的構成の変化についてまとめ
ておこう。25)
創立当初のP&0では,総数14名の取締役員からウイルコックスBrodie
M.,Willcox,アンダーソンArthur Anderson,カールトンFrancis Carlton
の三名が業務執行取締役ManagingDir・eCtOr・Sに選ばれ,取締役会の統制を受
けながらも,社の全般的経営の一切がかれらによって執行されることになった。
さらにこの三名の業務執行取締役については,1840年に決められた付随定款
the Deed of Settlementsによって,その手数料と報酬に関する特別の取り決
めがなされた。すなわち,三名の業務執行取締役は,①P&0の収入の2シ≦パ
ーセントを経営手数料として受けとるかわりに,この経営手数料の中から経営
業務執行に必要な諸経費(このなかにはロンドン事務所の経費や業務執行のた
めに必要なスタッフの給与が含まれる)を支払う,②その役職にとどまるかぎ
り,P&0の当期利益の5パーセントを役員報酬として受けとる,というもの
である。このような特別の業務執行取締役の任命とその特殊な手数料制度がと
られたのは,第一・に,創業当初の事業基盤の不安定な企業の経営にあたっては,
実務に習熟したフル・タイムの経営者が業務の全般的な管理を行うことが必要
なこと,また第二に,そのような経営者を業務に専心させるには,コストなら
びに利益の双方で,企業の成果を個人の利害と同一L視できる仕組=モチベーシ
ョンが必要であること,によるものであった。
しかしながら,三名の業務執行取締役を頂点とするトップ・マネジメント体
25)P&0のトップ・マネジメントの特徴とその人的構成の変化について,以下の叙述は断
りのないかぎり,P&091/20によった。
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
スエズ運河とP&0
−Jβ5−
制は,その創立当初はともかく,やがて事業基盤が確立するにつれて問題があ
ることが明らかとなった。第一・に,この体制の下では,P&0の収入が増加す
るにつれ,業務執行取締役の経営手数料はそれに比例して増加することが約束
されていた。だが,このことは逆に業務執行取締役の経営行動について,なく
もがなの疑念,つまり個人的収入の増大を図るために企業の経営拡張をむりや
り押し進める,といった疑念を社会的に引き起こす可能性があった。P&0は
政府との契約のもと,公の資金を契約金の形で受けとって郵便輸送に従事して
いたために,郵便輸送契約の引き受けにおいて,個人的利害の観点だけから契
約航路の拡張を図っているとの疑念をもたれることは,P&0自体としても,
またその業務執行責任者にとってみても都合のわるいことであった。このため,
経営航路の拡張期である1850年代に入って,業務執行取締役はその約束された
手数料報酬の受取を一部放棄することで,この疑念の解消に努めることになっ
た。 26)
だが,さらに第二の問題は,業務の拡大にともなって,当初設定された三名
の業務執行取締役では十分な経営管理ができなくなったことであり,そこから
当然必要となった経営スタッフの補充は,既存の業務執行取締役の存在とその
報奨制度のためにスムースには行われなかったことである。いま創業以来のト
ップ・マネジメントの人的構成の変化を簡単にたどれば,つぎのようである。
1848年,初代の業務執行取締役の「人か−ルトンが死去したが,それにかわ
って創設以来P&0の秘書であったアランJamesAllanが業務執行取締役に
就任した。ただし,かれの場合,創設時の付随定款に定められていた特殊な手
26)P&0の付随定款では,経営手数料について,初代の業務執行取締役に欠員が生じた場
合,残りの初代業務執行取締役がこの欠員の分の手数料を受けとる資格があった。しかし,
1848年にカールトンが死去した際,ウイルコックスとアンダーソンは,カールトンの分の
経営手数料の受取資格を放棄した。P&0 6/1,AnnualReporち30September’,1848
さらに,1853年1月1日,P&0が東洋の郵便輸送契約の更新・拡大に成功した時,ウイ
ルコックスとアンダーソンは,新たに契約航路となったラインから上がる営業収入に対す
る2%パーセントの手数料受取資格を放棄し,また翌1854年9月30日以降,ウイルコック
スは業務執行取締役に留まるかぎり保証されていた当期利益に対する5パーセント役員報
酬を,またアンダーソンは全航路からあがる貨客収入に対する経営手数料(ただし事務所
等の諸経費を控除したあとの残額)の受取資格を,それぞれ放棄するにいたった。P&0
1/103,6thJune,1854
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
−Jβ6−
香川大学経済学部 研究年報 27
J鎚∼7
数料・報酬制度は適用されなかった。27)その後,1854年になって,業務執行取締
役の一人であるウイルコックスが,取締役会の−L貞としては留まりながらも業
務執行取締役を辞任する旨取締役会に申しでて,了承された。28)かくて,この時
点でP&0のトップ・マネジメントを構成する業務執行取締役はアンダーソン
とアランの二、人となったが,業務負担はこの二人の処理能力を超えるほどに増
大していったと考えられる。というのも,1856年になって,アンダーソンは管
理業務が個人の処理能力を超えて過重となっている事実を取締役会に報告して
おり,これを解決すべく従来の管理機構にはない新たな管理職の設置を自ら行
ったからである。すなわち同年末,アンダーソンはかれ自身の責任において,
P&0の中国支配人Superintendentの経歴をもつI.A”Oldingをアシスタン
ト・マネジャーに抜擢し,これに自ら担当していた業務の一部を委ねた。29)ここ
でいうアシスタント・マネジャーとは,業務執行取締役の監督の下,かれから
委譲された任務を業務執行取締役にかわって担当する者で,その報告も取締役
会ではなく業務執行取締役にたいして行い,給与はアンダーソンによって決め
られ,支給を受けた。
このアシスタント・マネジャー制はその後,アンダーソンの高齢化とそれに
ともなう業務委譲の必要性がますにつれて強化され,同時にP&0の管理機構
のなかに公式に取り込まれていった。すなわち,1861年1月,アンダーソンは
取締役会にたいして,従来,業務執行取締役の管理下におかれていたⅠ.A。01ding
を取締役会に責任を負う首席アシスタント・マネジャーにするとともに,あら
たにP&0の本社社員H‖Bayleyを次席アシスタント・マネジャーに任命する
よう提案し,了承をえた。30)この提案の意味するところは,アシスタント・マネ
ジャー制が従来,業務執行取締役の私設補助機関という位置付けであったのを,
P&0の取締役会に直属する公式の管理補助機関とするということであり,そ
の給与もいまやアンダーソン個人が支払うのではなく,P&0本社が支給する
27)P&0 6/1,HaU・iセaYlγR勿Orち30September,1848.
28)P&0 6/1,秘β(おJ〟β¢滋才略12一丁une,1854.
29)AndeYSOn:sletierわHowelL dated21December,1860.P&0 1/105,15Janu−
ary,1861.
30)P&01/105,15and18January,1861.
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スエズ運河とP&0
−Jβ7−
ことになった。しかしながら,この新たな措置によってP&0に追加コストが
かからぬようにとの配慮から,アンダーソンは付随定款によりかれに報酬とし
て与えられていた,郵送契約金の三分の一・に相当する額の受取を放棄し,その
資金をアシスタント・マネジャーの給与支払いに充当できるようにした。帥な
お,1862年1月,ボンベイ支配人であったJ.Ritchieが,アンダーソンの推薦を
受けて三人目のアシスタント・マネジャーに任命された。32)
このように,次代のトップ・マネジメントを担う人材の選出は,ようやく60
年代に入ってから,しかも業務執行取締役の補佐としてのアシスタント・マネ
ジャーの選抜という形でなされることになった。しかし,このようにして選出
された01dingとRitchieは健康を害してはやくも1865年には辞任あるいは実
質上の引退をしたため,ふたたびマネジメメント層の不足が生じた。33)このた
め,同年10月,アンダーソンからつぎのような提案がなされ,取締役会はこれ
を承認,実施されることになった。すなわち,①アシスタント・マネジャーは
Bayley−L人とする,②AlexanderBethune(P&0のエジプト代理人),Mann
(石炭・船舶部門の主事principalclerk),Woolley(カルカッタの前船舶事
務支配人)の三名をマネジメント・スタッフmanagementStaffとする,とい
う提案である。ここでいうマネジメント・スタッフとは,その権限と義務とが
業務執行取締役によってその時々に委譲されるというものであり,業務執行取
締役が経営を行っていくうえでの,直属の補助機関としての機能を担ってい
た。34)それゆえ,マネジメント・スタッフとアシスタント・マネジャーは,機能
的にみるかぎり本質的な差異はないといってよい。違いを見出せるとすれば,
後者が取締役会に直接責任を負う上位の職位であるほかは,給与面の格差であ
り,そもそもマネジメント・スタッフが設けられたのは,この給与面での節約
を意図してのことと考えられる。つまり,アシスタント・マネジャー三名の体
制から新たにアシスタント・マネジャーー名とマネジメント・スタッフ三名か
31)動感椚胡うゐ独γわ月払励ム姑d
32)P&01/105,7January1862;P&0 3/18,MemoYmdum Ye Woiniemen
〆〟α乃昭套喝卜仇γどCわγ……,21November■1872.
33)P&01/106,310ctober,1865.
34)P&01/106,310ctober,1865;MemoYandum Y’e
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−Jお−
香川大学経済学部 研究年報 27
J鉄97
らなる体制への組み替えによって,P&0が支払う給与面での節約額は年間
1300ポンドに上り,したがって経営スタッフの増強と同時に管理費の節約が可
能となったのである。35〉
以上述べた,P&0の経営トップにみられる人的な変遷経過から,経営者補
充に関してつぎのことが指摘されよう。第一・に,P&0創業当時の最高執務者
であった三名の業務執行取締役は死去や引退をとおして減少したが,そのトッ
プ・マネジメントの補充はスムースには行われなかった。一つには,初代の業
務執行取締役であったアンダーソンの卓越した指導力を長年にわたって仰げた
ことが,補充の要を緊急のものとはしなかったためといえる。しかし,また一
つには,初代の業務執行取締役に対する特異な手数料・報酬制度の影響がある。
つまり,初代の業務執行取締役が経営スタッフの強化・補充を行う場合,自ら
の責任において費用も自己負担でおこなうか,あるいは会社負担とする際には,
管理費の節約を重視するあまり,自らの手数料受取資格を放棄して管理費に充
当するというような,一・種の犠牲的・奉仕的精神の発露をまっておこなわれた。
このような経営スタッフのリクルート方式は,初代の業務執行取締役の個人的
裁量に依存する余地が大きいために,企業内部での人材の育成と選択といった
組織的な方式にくらべ,どうしても系統だった補充を困難にしたといえよう。
しかしながら第二に,長年トップとしてリーダーシップを発揮してきたアン
ダーソンも1860年代までにはかなりの高齢となり,さ6)そのため60年代に入って
からは,トップ・マネジメメント執行上の補佐としてアシスタント・マネジャ
ーが企業組織のなかに公式に設けられ,P&0の社内から内部昇進をとげてき
た実務家が選抜された。だが,こうしてアシスタント・マネジャーに任命され
35)P&01/106,310ctober,1865.この後,問題の契約改訂時期にあたる1866年10月
には,唯Nrのアシスタント・マネジャーであったBayleyの業務執行取締役への昇格,およ
び,P&0の船長の一人CaptainGeorgeBainのマネジメント・スタッフヘの選抜,のそ
れぞれが業務執行取締役によって提案され,取締役会の承認を受けた。前者の件は取締役
会に出席して報告する業務執行取締役をつねに一人は確保しておくために,また後者の件
はアシスタント・マネジャーがいなくなることによるマネジメント層の不足を補うために,
それぞれとられた措置であった。P&01/107,300ctober,1866.
36)1866∼67年の契約改訂時にはすでに70歳代半ばに達していた。NicoIson1932.アンダー
ソンは1792年2月19日に生まれ,1868年2月27日に死去した。」軌道,pp2,109.
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スエズ運河とP&0
た三名のうち,二名までもが病気のため途中で経営スタッフから脱落するとい
う偶発的な障害が生じ,経営層ならびに後継者の絶対的な不足を招くことにな
った。しかも,この時点では,初代の業務執行取締役が自らの費用で経営層の
補充を行う可儲性は,アンダーソンがそ・れ以前に手数料報酬の受取資格をすべ
て放棄していたため閉ざされていた。
そのため第三に,このようなトップの人材不足に急遽対処すべく,しかも人
数を増しつつ管理費を節約するために,マネジメント・スタッフなる制度が設
けられ,とり急ぎ人材補充が進められた。同スタッフに選出された人々はアシ
スタント・マネジャーと同じく,P&0の社内から内部昇進をとげて,海運の
専門経営者としてキャリアをつんできた人々であった。しかし,アシスタント・
マネジャーを含め,かれらが創業時期からの業務執行取締役にかわってリーダ
ーシップをとり,トップの意思決定を実質的に担当していくにはキャリア不足
であり,いますこしの時間的経過が必要であった。一・方この時期,高齢化して
いたアンダーソンはアランとともに,郵送契約の更新問題の解決に専念してお
り,それ以外の新たな経営政策を策定する余裕はなかったのである。
総じて,この60年代なかばのP&0はトップ・マネジメントの交替時期にあ
り,その選抜方式においても,初代の業務執行取締役の個人的な裁量によるア
ド・ホックな方式から,企業内昇進制度にもとづく選抜方式へと転換しつつあ
ったといえよう。しかし,この転換期において,創業以来のトップ経営者の高
齢化次期経営者の選抜における初発的な蹟き,その結果としてのトップ・マ
ネジメメントの不足とその一・時的なリーダーシップの空白などが生じ,このこ
とは郵便輸送契約の更新以外に長期的な戦略を組みたてるに必要な人的な余裕
を,P&0から事実上奪うことになったと考えられる。この結果,すでに指摘
したように,P&0のスエズ運河に対する本格的な取組は運河開通前になされ
ることはなかった。しかし,このP&0の立ち遅れは,他の海運企業による運
河の先駆的利用と競争上の優位性を許すことになった。結果からみれば,この
他の海運企業の優位性は一・時的なものといえたが,それがP&0の海運経営に
もたらしたインパクトはそれがために小さかったわけではない。そこで次節で
は,スエズ運河開通がP&0にもたらした影響をみていこう。
−Jβ9−
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
J玖97
香jll大学経済学部 研究年報 27
ーJ90−
ⅠⅠI
1869年11月17日に開通したスエズ運河が,世界の貿易・商業や海事産業に与
えた影響は多方面にわたるが,ここでは行論の関係上,海上輸送におよぼした
影響を中心に,既存の研究成果によりつつ簡単に触れるにとどめたい。
スエズ運河の開通以前,欧州と東洋を海上で結ぶルートは通常,喜望峰を経
由する長距離航路であったが,運河の開通によって地中海と紅海の間の船舶航
行が可能となることで,欧州/東洋間の海上距離はいちじるしく短縮された。
しかし当然のことながら,その短縮効果は一・様ではなかった。いまロンドンを
起点として,東洋の主要な地点とを結ぶ海上距離を,運河経由と喜望峰経由と
で比較してみると,第3表のとおりとなる。同表からも明らかなように,運河
開通による距離短縮効果はインド方面がもっとも大きく(短縮比率41∼33パ、−
セント),つづいてシンガポール,香港,上海,横浜の順(短縮比率28∼22パー
セント)となるが,豪州方面は運河経由と喜望峰経由ではほとんど差がない状
態となっている。
第3表 口ンドンを起点とした各地点までの海上距離く浬)
地 点 喜 望 峰 スエズ運河 運河経由 %
ボ ン ベ イ 10,719
カルカ ッタ 11,730
シンガポール 11,417
香
上
横
シ ド ニ
メルボルン
港 13,030
海 13,790
浜 14,287
12,530
12,220
経
由 経
由 による節約
6,274
7,900
8,241
9,681
10,441
11,112
11,542
11,057
4,445
3,830
3,176
3,349
3,349
3,175
41
33
28
26
24
22
988
1,163 10
資料 Kir.kalday1914repr■inted1970,pp.330,600−1
このような距離短縮効果の不均等性に関連して触れておくべきは,つぎの二
点である。一つは,貿易風の影響で帆船による紅海の航行が困難であったとい
8
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
スエズ運河とP&0
−J9J−
う技術的な問題のために,スエズ運河は当初より汽船専用の運河として利用さ
れ,したがって運河がもたらす距離短縮効泉はもっばら汽船が享受した,とい
う点である。この結果,遠洋航海においても帆船は汽船との競争に敗れ,衰退
することが決定的となるが,しかし他方,−一時期ながらも,汽・帆船両者の就
航方面での地域的「棲み分け」と石炭補給における共生関係が形成された。だ
が,このことについては既存の研究がたびたび触れているので,ここではこれ
以上詳説の要はないであろう。37)第二に,汽船が享受した距離短縮効果に不均
等性がみられたとはいえ,その不均等性が各地の海上貿易ルートにおける汽船
の進出度合を決定した唯一・の要因となったわけではないことである。ちなみに,
1873年時点で,ベンガル・ビルマと中国の各方面からそれぞれイギリスに入港
した船腹量のうち汽船が占める比率は,前者が40パーセントであるのに対し,
後者は70パーセントと,むしろ遠距離ルートからの,したがって距離短縮効果
が小さい方面からの汽船入港が多いという事実がみられた。S8)っまり,各貿易
ルートにおける汽船の進出度合は,当該ルートにおける距離の短縮効果の大小
とともに,そのルート上に,汽船が運搬の対象とする貨物(または旅客)がど
れほど多く出回るか,という貿易の中身の問題にも依存しているのである。と
もあれ,スエズ運河の開通によって,西洋と東洋の間の汽船による定航事業を
新たに開始する欧州の海運企業,とりわけイギリスのそれがいっせいに出そろ
うことになった。これについて,スエズ運河の政治経済に関するFarnieの浩瀞
な書39)に依拠しながら,簡単にみておこう。
スエズ運河を商業的な汽船ルートとしていち早く利用したのは,就航の規則
性とならんで航海の迅速性が重視された郵船企業ではなく,すでに東洋方面に
配船していたイギリスの貨物定期船企業であった。すなわち,リヴァプールの
ブルー・フアンネル・ライン(Holt&Coい)は,カルカッタ航路におけるスエ
ズ運河の利用を決意し,1869年12月にその旨宣伝広告した。つづいて,同じく
37)たとえば,つぎの文献をみよ。Graham1956:HarIley1971.また,国別の帆船と汽船
との交代過程については,Knauer・hase1968;Fritz1980;Gj≠lberg1980;Hornby and
Nilsson1980;Kaukiainen1980をそれぞれ参照のこと。
38)Harley,p“224
39)Farnie1969.
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
ー」一94−
香川大学経済学部 研究年報 27
エ玖97
復や経費の節減に努めはじめた。48)
−・方,貨物運賃は旅客料金以上の下落をみたが,その具体的様相について,
P&0の年次報告書はつぎのように述べている。
1866年度に,わが社は1,088万8千ポンドの価値の正貨を運搬し,その運賃
として22万8千ポンドをえた。1872年度に,わが社は〔1866年度の〕ほぼ
倍の1,750万ポンドの価値の正貨を運搬したが,22万8千ポンドを受けとる
どころではなく,わずか6万ポンドをえたにすぎない。さらに,生糸につ
いてみてみよう。運河開通前の1869年度に,わが社は中国・日本産の生糸
4万5,613ベールを運搬し,11万1千ポンドを受けとった。1871年度には,
5万744ベ、−ルを運搬し,かくして競争にもかかわらずわが社の取扱量を増
やしたが,〔旧レートであればえられたであろう〕11万9千ポンドをえるか
わりに,わずかに4万4,500ポンドを受けとったにすぎなかった。49)
貨客両面にわたる,運賃・運収のかかる大幅な下落は,運河開通に伴う一博
的な現象にとどまるものではなかった。英国や地中海諸国の貨物定期船企業や
郵船企業によるスエズ運河利用は時間をへるごとに増大し,また貿易の繁忙期
を選んで東洋に不定期配船する新参企業がふえ,運賃の下落傾向が一層進んだ
からである。P&0の業績の低迷状態は,1860年代後半から70年代半ばにいた
る貨客収入の動向を図示した第1図からも明らかである。同図によれば,P&
0の貨客収入には年々の変動がみられるものの,70年代に入ってからは,運賃
の下落のために収入水準に大幅な落ち込みが生じたことが明瞭に読みとれる。
ちなみに,1864年度を100とすると,1865∼69年度の貨客収入の平均が94であ
るのに対して,1870∼74年度のそれは83と,11ポイントも低下した。とくに1870
年代半ばには,P&0の主要航路の一つであるボンベイ航路において運賃の崩
落が発生し,運河開通以来の業績悪化のピークを迎えた。つまり,このボンベ
48)P&0 6/7,HaU:旅arb,R¢orち31Mar・Ch,1871,
49)P&0 6/10,〟∠乃〝ねs 扉乃0(eed吻αf 伽 AタZ乃据JGe乃β昭J〟ββf∠タ賂 5th
December,1873.
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スエズ運河とP&0
−J95−
(単位千ポンド)
1865 66 6」7 68 69 70 7172 73 74 75 76年
注 一貨客収入(左スケール)‥−・一一当期利益(右スケール)
資料 P&0 6/7,6/53よl)作成
第1図 P&0の貨客収入と利益1865−1876年
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−J.96−
香川大学経済学部 研究年報 27
イ航路では,−・般に5月から9月は閑散期で航海実績は赤字,対して10月から
翌4月にかけての繁忙期で先の期間の損失をも回復する,というサイクルを繰
り返したが,74年10月からの時期はかつてないほどに運賃が低落し,損失のと
り戻しさえも思うにまかせず,結局,年度上半期の配当を見送らざるをえない
という状態に陥ったのである。50)
このような1870年代の運収面での停滞ないしは落ち込みにみられる,スエズ
運河開通後の新たな競争局面は,P&0がそれ以前,とりわけ1860年代前半ま
でのような,せいぜい仏郵船企業MMとの間で競争しつつ,両社で汽船による
東洋貿易のほどんど全てを掌握できた時代に享受した繁栄を,全く過去の,帰
らぬ時代の思い出としてしまったのである。P&0は,企業間競争による運収
面での落ち込みに直面し,この競争局面に対してとりあえず,他企業との生存
を賭けた,競争力強化の戦略を展開していくことになった。以下,次節ではこ
の競争力の強化戦略の具体的な様相をみていくことにしよう。
ⅠV
P&0の競争力の強化のためには,まずその新たな戦略の担い手が登場する
必要があった。そこで,スエズ運河開通前後の,P&0のトップ・マネジメン
トの変遷について,必要最小限ふたたび触れておこう。
すでに指摘したように,1867年の郵送契約が締結されてまもなく,P&0の
最高経営者であったアンダーソンが亡くなったために,この時点での業務執行
50)このような収入の減少について,75年度上半期報告書はつぎのように述べている。「ロン
ドンからボンベイヘの往航運賃は今年度の10月から3月の期間,トン当たり25シリング以
上となることはめったになかった。しかも,当社と競合する汽船はしばしば,リバプール
港でFOB(本船渡し)トン当たり15シリングに等しい運賃で同港から荷を受けとってい
た1い・ボンベイからの復航運賃についても,昨年との比較は不利な結果を示している。
当社は,1873/4年度の対応する6カ月間よりも,平均してみてトン当たりおよそ20シリ
ング低い運賃を受けとらざるをえなかったし,それ以後も運賃は低くなっている…事
実なのは,ボンベイ航路で当社と虎争している船舶のうち定期船とみなせる船舶は,ほん
の少数でしかないことである。それら〔競争)船舶は,ヨーロッパや地元の商会が棉花を
本国に持ち帰るために投機的に傭船したものが大部分である」。P&0 6/10,A乃柁渥J
斤ゆ0γち31Mar■Ch,1875.
Jガ7
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
スエズ運河とP&0
一J97−
取締役はアランと1867年に昇格したベイリーの2人となった。しかし,アラン
をトップとするマネジメント体制の下では,P&0はスエズ運河開通による新
たな競争局面に十分には対応することができなかった。たしかに,アランは70
年代の業績の低迷に直面して,すでに述べたように,旅客料金の引き下げや無
料ワインの廃止などの措置を講じたが,それはどちらかといえば守勢的な措置
であり,P&0の苦境を打開するための積極的な方針を呈示するにはいたらな
かったのである。かくて,新たな経営戦略の構想は新たな経営者によって担.わ
れるほかはなく,かかる役割を担うべく登場したのが,トマス・サザーランド
であった。かれが1866∼67年にかけて,取締役会の命を受けて,東洋方面の代
理店巡回視察の任務に就き,東洋海運におけるMMとの競争の現状とその対策
について報告したことは,すでに触れた。その活動が評価されて,かれは視察
をおえるとともに,68年3月,マネジメメント・スタッフの一・貞にくわえられ
た。51)さらにかれは,4年後の1872年半ばには,マネジメント・スタッフから業
務執行取締役に抜擢されることによって,業務執行取締役の責務から退任する
準備にはいったアランにかわり,P&0の最高経営者の地位に就いたのであ
る。52〉このサザーランドをトップとする新たな経営体制の下で,P&0の競争
力弓削ヒのための戦略が展開されることになるが,それは大きく分けて,つぎの
三つであった。すなわち,郵送契約の改訂を含む航路の競争的再編,船隊の更
新,そして社内の経費削減=合理化,である。以下,その各々についてP&0
がどのような施策を具体的に展開したか,説明をくわえていこう。
〔1て〕航路の競争的再編1840,50年代のP&0の航路の再編は,主として,
51)1867年時点で,マネジメント・スタッフには新任のペイン船長を含め4人いたが,この
うちの一人,マンが67年宋にP&0を退社したため,その後任補充にサザーランドが選ば
れた。P&0 3/8,〟g∽0γα乃d〟弼.如∽〟γA地形査乃頑柁乃(eわ娩♂〟α乃αge椚e乃ち
17March,1868.サザーランドThomasSutherland(1834∼1923)は,18歳でP&0のロ
ンドン事務所に入り,20歳の時,ボンベイに転勤,その後さらに香港へと海外勤務をなが
らくつづけるなかで,東洋における貿易や海運業務の経験を積み重ねていった。HowaT■th,
pplO2−3.
52)P&0 3/18,〟押研御感刑二 柁 一物坤励加卵〟扉■ 鳳鯛拶庵r 瓜柁Cわγ……21
November,1872.その後サザーランドは,1914年にP&0がBI(BritishIndiaSteam
NavigationCo.)と合併して,BIのインチケープ卿に席を譲るまで,P&0の最高経営
者としての地位を占めた。
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−ヱ.9∂−
香川大学経済学部 研究年報 27
開設した新航路にいかに貨客を呼び寄せるかという観点からなされたのに対し
て,1860年代以降の航路の再編は,既設の航路に新規参入してくる海運企業に
いかに対抗していくか,という競争的な観点からなされた。以下,P&0の主
だった経営航路の再編過程を時系列的にみていこう。行論の必要上,スエズ運
河開通以前の仏郵船企業MMとの競争によって引き起こされた航路の再編から
始めたい。
(1)中国/日本航路の再編 MMとの競争上の不利を埋め合わせるべく,
1867年契約が締結されたが,それ以降もMMとの競争,とくにその頃から増大
しはじめた日本からの欧州への蚕卵紙輸送をめぐる競争がつづき,しかもこの
貨物についてP&0はMMにくらべ就航上の不利をかかえることになった。す
なわち,第2表にも示したように,1867年契約では,中国・日本の逓送航路は
香港/上海,上海/横浜の二つの部分からなり,メイン・ルートの一つである
ボンベイ/香港航路への接続は前者の航路によってなされていた。したがって,
日本から欧州へ蚕卵紙をP&0の船舶で輸送する場合,まず横浜から上海へ積
み出し,そこで香港向けに積替え,さらに香港でも大型郵船に積替えてボンベ
イに輸送する,というように頻繁な積替えの手間が必要であり,その間に船荷
に損傷が生じる可能性も高かった。これに対して,MMの船舶はすでに香港/
横浜間に直接就航しており,P&0の船荷自にくらべ,中国/日本間の航海日数
で5∼6日早かった。53)このような競争上の不利を埋め合わせるべく,P&0
は契約航路の−・部変更を求めて郵政局との交渉に入った。この結果,1869年5
月に,つぎの点で合意をみた。すなわち,中国/日本間の逓送サービスは,従
来の上海/横浜から香港/横浜に変更され,これによって,日本への往航は二
日,また復航は五日短縮され,MMとくらべた就航上の不利が改善された。な
お,香港/上海間のサービスは別ラインを仕立てることで継続された。54)
(2)プリンデジ郵送ルートの採用 スエズ運河の開通とともに,運河利用船
社とくらべたP&0のサービスは,当然,いちじるしく不利な立場に立たされ
た。というのも,P&0の郵船の場合,東洋方面との往来にはアレキサンドリ
53)P&0 3/8,6th Apr’il,1869.
54)P&01/107,7th May,1869:6/7 HaU二itwb7Report,31March,1869.
J9β7
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スエズ運河とP&0
ー」.99−
アとスエズで二度貨客の横替を必要としたのに対し,他社の運河通行汽船では
かかる手間ひまは全く不要であったからである。スエズ運河開通後の,そのよ
うな東洋航路における新たな競争過程の様相について,1872年時点の−・報告書
はつぎのように述べている。
メサジェリ社やホルト社がいまやわが社を上回る顕著な有利性を持ち,ま
た,このことがほとんど日々まごうかたなく明らかとされているという,
明白な現実を締めだすことはできません。つい今朝しがた,ここ〔上海〕
の有力な商人がつぎのように私に語ってくれました。かれはいつもできれ
ばわが社の船舶に船積みしたいとのことですが,マンチェスターでの梱包
室からちょうど取りだしてきたような,清潔で完壁な往航製品を運河経由
の本船渡しでもっているかぎりそうはしないし,また,復航で生糸や茶を
わが社の船舶に船積みして,積替えに起こりがちな手荒な取扱に晒すよう
なことはしたくないのだ,と。55)
このような運河開通がもたらした新たな競争環境に対する,P&0の最初の
対策は,1870年契約で認められていた,イタリア南部の港プリンデジを起点と
したインド郵送ルートの採用であった。つまり,P&0は72年,マルセーユ/
アレキサンドリアの逓送ルートをブリンデジ/アレキサンドリアに変更して,
輸送時間の短縮を図った。56)また,さらに同じ72年には,イタリア政府との間
で,ヴェニス/アンコナ/プリンデジ間の郵送契約を年間50万リラ(およそ1
55)P&0 37/2,Macau毎yてs R砂Ortio Manqgi7q DYeCio筍22ndJune,1872.
56)1870年改訂契約において,アルプス山岳地帯のモンスニ・トンネルMontCenisTunnel
(フランスのModaneからイタリアのBardonnecchia近辺へと通り抜けるトンネル,
1871年竣工)の完成と,同トンネルを通る鉄道の郵送サービスへの利用という二つの条件
が満たされれば,P&0は郵政局への事前通知によって,マルセーユ/アレキサンドリア
のかわりに,プリンデジ/アレキサンドリアを郵送航路として選択することが認められた。
BBP1870,§12:P&0 6/7,AmualRゆOYIち30September,1870.もちろん,マ
ルセーユにくらべ,プリンデジの方が郵送時間は短縮された。つまり,1870年契約で決め
られた,停泊時間を含んだ就航時間は,マルセーユ/アレキサンドリア間1,410マイル,141
時間に対して,プリンデジ/アレキサンドリア問825マイ/レ,75時間であった。ヱ済P1870,
p12.
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−2(フ0一
香川大学経済学部 研究年報 27
J鎚77
万9千ポンド)の契約金で締結し,7月よりサービスを開始した。57)これによっ
て,P&0の,さきのプリンデジ/アレキサンドリアの郵送ラインを介して,
イタリア中部ならびにマルセーユとスエズ以東のラインとの接続がなされ,同
時にイタリア鉄道に支払う貨物運賃の節約が可能となった。いうまでもなく,
このことは,とくに生糸など高級貨物の横取りをめぐる,スエズ運河利用船社
との競争力を回復することを意図したものにほかならない。58)
(3)スエズ運河の利用 しかしながら,運河利用の欧州船社にくらべ,これ
を利用しないP&0の競争上の不利は免れなかった。すでにスエズ運河を郵船
の正式ルートとして採用している競争企業がフランスの郵船にとどまらず,イ
タリアやオーストラリアの郵船へと広がり,その結果,高級貨物の横取りに関
するP&0の立場はより一層悪化していったからである。かくして,結局,ス
エズ運河の堪航性が広く確認されるにつれ,P&0としてもスエズ運河を正式
の郵送ルートとして採用することを最終的に迫られたといってよい。すなわち,
運河開通から3年4ケ月をへた1873年3月,P&0は郵政長官宛てに,スエズ
運河利用による東洋への逓送サービス改善の具体的プランを呈示したのであ
る。59)
57)P&0 6/7,HaUl‡セarb)R¢orL31March,1872;AnnualReport,30Septem−
ber,1872
58)極東産生糸に関する,欧州大陸へのイギリス再輸出は,1870年代に入り,欧州各国の極
東からの直輸入取引の増大のために減少していった。たとえば,イギリスからフランスに
輸出された生糸豊は1868年の276万8千Ibsから1879年には106万8千Ibsへと減少をみ
ている。肝1883,p22.このような生糸をめぐるイギリス中継貿易の衰退にともなって,
最大の生糸輸入国であったフランス市場の確保はもちろんのこと,生糸の主要輸入国の一
つであったイタリアの業者からの生糸運搬契約の確保も,P&0にとって重要となったの
である。
59)P&0 6/10,AnnMIR¢oYt,30September,1873.これ以前にも,P&0はスエ
ズ運河の利用に関して,政府機関に打診してはいた。すなわち,1872年10月,P&0は郵
政局宛の手紙のなかで,スエズ運河の郵送ルートとしての利用に言及し,しかし運河通航
税の引き上げなどから具体的なプランを呈示するにはいたらない事情を述べながらも,ル
ート変更に関する郵政局の意向を探った。このP&0の手紙に対する郵政局の返事は,来
年6月に満了となるエジプト政府とのエジプト横断郵便契約が終了する前に,あらかじめ
6月以降の就航スケジュールを組むことは不都合であるというものであった。かくて,こ
の時点では郵送ルートとしてのスエズ運河の採用問題は,政府機関の意向触診という以上
には進展しなかった。P&017/1∼3,P&0 ね=伽1如矧物γ 扉■ Gβ乃β和才ヱわsf
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スエズ運河とP&0
−20J−
この時にP&0が提議したのは,インド郵便物のうち重量郵便物をスエズ運
河経由で運搬するということであったが,政府機関との交渉は容易にはまとま
らなかった。これは英国政府がスエズ運河の堪航性に技術的な不信を抱いてい
たというよりは,運河の通航を許可サるかわりに,郵送サービスの迅速化と契
約金の引き下げの双方をP&0に求めたからである。60)p&0は,航海サービ
スの迅速化については基本的にこれを受けいれたが,政府,とくに大蔵委員会
が主張する6万ポンドにおよぶ契約金の減額については強く反対した。P&0
にとって,スエズ運河の利用は,運河開通によって悪化した競争上のポジショ
ンの回復を図るものではあっても,契約金の減額を積極的に図るものではなか
ったからである。このように契約当事者の主張は真向から対立したが,しかし
結局,両者の相違は妥協の形で決着がつけられた。すなわち,大蔵委員会は6
万ポンドの減額要求を撤回するかわりに,P&0も2万ポンドにおよぶ契約金
の減額に応じたのである。かくて,スエズ運河の利用を認めた新契約は1874年
8月1日,P&0と郵政長官との間で締結され,契約金は従来の45万ポンドか
ら43万ポンドへと引き下げられたが,契約期間は前と同様,1880年2月1日ま
でであった。61)
新契約における就航航路と回数を一層すれば,第4表のとおりである。契約
金の減額という不利益を受けいれてまで郵送ルートとしてスエズ運河を採用す
q伊ce,210ctber,1872:娩eふ狛矧如ッq′G如彿協L托Sf q析cβわ出ね5ね化ぬツq一班β
P&0,14November,1872.
60)BPP1874a,Treasu7T Minuies,dated13July1874.すなわち,減額を強く求めた
大蔵委員会の主張によれば,1867年契約を1870年に改訂した際,すでにスエズ運河の開通
がP&0の輸送にどのような影響を与えるかは十分に掛酌でき,また契約金も最低支給額
40万ポンドから固定額45万ポンドヘと,5万ポンド引き上げられたのは,P&0の郵船が
スエズ運河を利用できない契約上の不利を補償するためであり,それゆえ,P&0が運河
を利用するのであれば,さきの契約金から補償額相当分を差し引くことは当然である,と
いうものであった。P&017/1∼3,乃easu7/γ k)ihe EbstmsteY− Gene7t2乙 dated
15thMay,1874 契約の改訂問題を審議した英国下院の討議でも,海運の利害関係議員か
ら,P&0がスエズ運河を利用するのであれば,大幅な契約金の減額を求める声があがっ
た。その理由は,もし契約金の減額なしに契約条項の規定が緩和されれば,それは余剰資
金をP&0に与えて,運河通行汽船からの競争を抑圧するために使用させることになる,
というものである。たとえば,Rathbone議員の反対演説などを参照。HansaYd’s,Vol
CCXXI,4August1874,pp1310−1.
61)肝1874b.
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香川大学経済学部 研究年報 27
・一二lピー
エ9β7
第4表1874年郵便輸送契約航路
航
路
就航回数
帰 港 地
1サウサンプトン/ボンベイ* 週1回 ジブラルタル,マルタ,スエズ,
アデン
2プリンデジ/アレキサンドリア 週1回
3スエズ/カルカッタ
2週1回 アデン,ポワン・ド・ガル,
マドラス
4ボンベイ/上海
5香港/横浜
ポワン・ド・ガル,ペナン,
シンガポール,香港
2週1回
*サウサンプトンはプリマスまたはリバプールに代替可能。
資料 肝1874b
ることによって,62)p&0は競争上,かつての契約とくらべどのような適いを
手にいれたのであろうか。これについては,つぎの三点が指摘できよう。63)①サ
ウサンプトンから東洋への(あるいはその道方向からの)郵便物を運搬する週
便汽船は,往復航ともにスエズ運河経由となり,これまで必要であった頻繁な
積替えの手間が大幅に減少した。64)②東洋からの復航郵便物の到着時間は従前
どおりであったが,東洋への往航郵便物の到着時間は24時間早められた。③印・
中航路では,ボンベイ/上海の直通ルートが郵送ルートに組み込まれることに
よって,香港での積替えがなくなり,もともとその必要のないMMやホルト社
など,有力船社との競争上の不利益が解消された。
このような郵送ルートとしてのスエズ運河の利用は,P&0が直面した競争
上の不利を回復するための制度的な,あるいは環境的な基盤整備という意味を
62)このほか,スエズ運河利用にあたって,P&0が大幅に譲歩した項目は,ペナルティ条
項である。すなわち,ターミナル港での最終引渡し時間に遅れた場合,課せられるペナル
ティは従前の4倍の金額となり,また課する条件も,潤座や機関の故障をのぞけば,無条
件ペナルティーとなった。ただし,中間港での引渡時間の遅れについてこれまで課せられ
てきたペナ)L/ティーは全廃された。P&0 6/10,AnnualRゆOrt,30September,1874.
63)P&0 6/10,Ann〟αlR¢orム30September,1874.
64)ただし,プリンデジの郵便物あるいは速達便の運搬については,従来どおりアレキサン
ドリアに揚げられ,鉄道を利用してエジプトを横断した。同郵便物の復航ルートも同様で
あった。P&0が運搬する総ての郵便物に関してスエズ運河経由となるのは,1888年2月
から発効した新たな契約においてである。P&0 6/10,AnnualR¢ort,30September,
1886.
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スエズ運河とP&0
もっていた。その上で,P&0が実際に競争力を回復し,なによりも落ち込ん
だ業績の回復をはかるには,さらに2件の課題処理が必要であった。次節では
このうちの一つ,船隊の更新をみていこう。
〔2〕船隊の更新
〔1〕でも述べたように,1874年までにP&0郵船のスエズ運河通航を認め
る契約改訂がなされたが,運河の本格的利用を行うためには,なによりもスエ
ズ運河の開通以降の新たな環境に対応できる新型の船舶を早急に整える必要が
あった。ここでいう新型の船舶とは,従来のP&0の船隊を構成していた船舶
とはまったくタイプを異にするものであった。スエズ運河開通以前にエジプト
の陸上ルートを通過した貨物は,その嵩が張らないかわりに単価が高いため,
高運賃をとれる優良貨物であった。そのため,P&0の貨物運搬業務はこのよ
うな少量の優良貨物だけを対象とし,その船舶のカーゴ・スペースは一・般に狭
かった。しかし,スエズ運河開通によって,それまで書望峰経由であったあり
ふれた商品の東洋方面への運搬も,いまや運河経由が−・般的となり,かつ,運
賃も既述のとおり大幅に下落するにいたった。それゆえ,P&0が運収面での
回復を図るためには,かつてのような少量の優良貨物を運搬するためのカー
ゴ・スペースを持った船舶ではなく,より広いカーゴ・スペースを持つ大型船
舶に全面的に改めることが必要であった。P&0の1874年の年次報告書は,そ
の間の事情をつぎのように述べている。
現在では,〔エジプト〕陸上横断取引の存在はほとんど皆無となり,東洋と
の一・般取引はほとんど大部分がスエズ運河経由で運搬されている。また,
わが社は,以前えていた運賃の四分の−・ほどにも満たない運賃で,取引の
シェアを争わなければならなくなっている。この結果,わが社の汽船は1868
年と同一の運収を上げるためには,この年に運搬した貨物の四倍近くを運
搬しなければならない。65)
いままで標準とされていた船型・機関をすべて棄却し,新たな船型・機関を採
65)P&0 6/10,AnnMIR4)Ort,30September,1874.
−2玖ヲー
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一見)4∬
香川大学経済学部 研究年報 27
J9β7
用していくことは,既存の資本設備を自ら陳腐化していくという,大きなコス
トを支払うものであったが,他の船社との競争圧力はこの変更を急ピッチで行
うことをP&0に余儀なくさせた。いまその全容を示す適切な数値がえられな
いが,判明しているだけでも述べれば,つぎのとおりである。
スエズ運河開通直前の1869年度末(勘定締めは9月30日)現在のP&0の商
船隊は,46隻8万3,160トンであり,このほか3,400トン・クラスの船舶が十隻
建造中であった。これ以降,P&0の船舶建造は急増する。すなわち,各年度
末建造中船舶の隻数,トン数,および新造船勘定支払額をみると,1870年度5
隻1万6,175トン,2万7千ポンド,71年度5隻1万4,221トン,16万1千ポン
ド,72年度8隻1万7,952トン,19万ポンドと推移している。66)1873∼75年優に
ついての建造中船舶の隻数とトン数は記載がないため不明であるが,新造船勘
定の支払額は,73年度以下,2万2千ポンド,4万6千ポンド,12万6千ポン
ドと推移しており,1876年度の上半期報告書によれば,船隊の更新は1876年上
半期にほぼ完了したという。67)この間,P&0は運河通航に不適格な旧船およ
そ4万トンを処分する−・方,新船8フぎトンを建造した。68)この結果,P&0の船
隊は,1869年度末の46隻8万3,160トンから1876年度末の48隻12万3,417トンヘ
と,5割近くも増大した。69)
しかも,これら船隊は単にその一・隻当たりの平均船型が大型化した(1869年
度1,808トン→1876年度2,571トンヘと42パーセント増加)だけではない。新造
船はもちろんのこと,在来の船舶についても,燃料効率の優れた達成機関
(compoundengine)の取り付けがなされたのである。P&0がこの新たな機
関を初めて採用したのは1861年のことであったが,船舶の主機を達成機関へと
全面的に転換したのは,やはりスエズ運河開通以降の,この船隊の大改造期の
ことであった。70)もちろん,燃費の上で達成機関が従来の機関にくらべてどれ
66)P&0年次報告雷およびP&0 5/625.
67)P&0 5/625;P&0 6/10,助防yeaYb)RゆOY’ち31March,1876.
68)P&0 6/10,AnnualRゆOrt,30September,1877.
69)P&0の年次報告書より。
70)1875年未時点で,P&0船舶12隻が達成機関に主機を改造中であり,この完了とともに
達成機関装備の船舶は合計41隻に達し,機関の改造はほぼ完了するという報告がなされて
いる。P&0 6/10,AnnwIRゆOrt,30September,1875.
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スエズ運河とP&0
一.ユ)こ了−
程効率的であるかは,比較すべき機関の種類や時期によって異なる。だが,P&
0の船舶に則していえば,達成機関の効率が優れていたことは,つぎのような
断片的な例示からもうかがい知れよう。
例1.P&0の船舶のうち最初に達成機関を取り付けた鉄製汽船
“MOOLTAN”(1861年建造,2,257トン)の場合,処女航海で630トンの石炭を
消費したが,旧型機関を備えた僚船であれば,その石炭消費量は同じ航海で2
倍近くの1,200トンを必要とした。71)
例2。1874年に達成機関を取りつけた“MONGOLIA”(1865年塵造,2,833
トン)の三カ月にわたる航海実績(1874年1月15日∼4月21日)を,主磯の改
造以前の実績(1872年1月15日∼1873年3月27日)と比較すると,一月当たり
石炭消費量は前者が31トンであるのに対して,後者は52トン,またマイル当た
り石炭消費量もそれぞれ25cwt。と4“5cwt.であった。72)
例3 P&0は1876年に,“HINDOSTAN”(1869年建造,3,113トン)の主
機を達成機関に転換することを決定したが,その当時,この主機転換によって
節約される石炭消費量はおよそ三分の−・と見積もられた。73)
例によって異なるとはいえ,達成機関の採用によって石炭消費量は従来の機
関にくらべ,およそ三分の一から二分の一服ど減少したことがわかる。この石
炭の節約=経済性が焚料費の逓減に連なることはいうまでもない。
ところで,これら船隊の更新に費やされた資金については,これを全体的,
かつ具体的に示した数値は見当たらないが,1874年度の年次報告書によれば,
1868年4月以来74年末までの間に,22隻6万6千トンの新船が建造され,その
総費用は200万ポンド以上に上り,くわえて,旧来の汽船への新機関の取り付け
や改造に40万ポンドの費用がかけられたことが述べられている。74)このような
新造船や新機関の取り付けの大半は,すでに述べたように1870年以降のことと
みることができるが,75)この額は,当時のP&0の資本金270万ポンドの五分の
71)Cable,AppendixII,pp268−9.
72)P&0 3/21,Apri11874.
73)P&0 6/10.A乃乃〝αJ斤¢0γた31MarCh1876.
74)P&0 6/10,LhlU・Year抄RゆOrt,30September,1874.
75)1873年度の年次報告書によれば,過去3カ年に新船15隻が建造され,およそ150万ポンド
が投下されたという。P&0 6/10,AnnualR¢ort,30September,1873.
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−206−
了知77
四以上に相当する額であり,もってP&0の船隊更新に投下された資金がいか
に大規模であったかの一囁を垣間みることができよう。しかも,P&0がこの
巨額の資金手当てを外部に頼ったようには思われない。すなわち,P&0の資
本金は1868年4月におよそ12万ポンドの払込請求がなされて270万ポンドとな
って以降,1875年に未払部分の払込請求がなされるまで変化がなかった。しか
も,この75年の払込請求は,額も20万ポンドであり,同年度の業績不振による
資金繰りの悪化による緊急避難的な請求であり,船隊更新には直接関係がなか
った。76)他方,社債発行残高は,1868年度に80万ポンドに達していたが,1871年
度に6万5千ポンド,また73年度に10万ポンド発行された以外,社債による資
金調達は行ってはおらず,1876年度以降からは急ピッチの償還がなされ,81年
度には社債発行残高がゼロとなった。77)
かくして,P&0の船隊の更新のための資金は,社債による一部資金の調達
第5表 P&0船舶の減価償却勘定と修繕勘定
1868年∼1877年 (千ポンド)
年度
修 繕 勘 定
総 計
9月30日
締め
1868
1869
1870
1871
1872
1873
1874
1875
1876
1877 4936
経常費 特別費 小 計
137小9
1270
1583
2076
1404
1403
198.5 1282
3407 4786
3362 463“2
2597 4180
221,4 429小0
210.9 351.3
1747 3150
1392 326.7 4659
139.0 175小3 270。6 4459 584“9
2000 1510 112“1 263,1 463小1
1507 524 203.1 6967
注 修繕勘定の1868年から1873年までは内訳がない。本文参照。
資料 P&0 5/625より作成。
76)P&0 6/10,Am〝αlR砂Ort,30September,1876.
77)P&0の各年次報告否より。
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スエズ運河とP&0
一次)7−
を除けば,もっぱらP&0の内部留保から賄われたといえよう。ちなみに,P&
0の船隊更新の原資となったとみられる,この時期の減価償却と修繕勘定の毎
年の推移を一・覧すれば,第5表のとおりとなる。同表の修繕勘定で,特別費の
項目に1874年から記載されている金額は,同年から設けられた「更新勘定
renewalaccount」への計上額である。この勘定は,達成機関の登場以前に建造
された船舶に達成機関を取りつけるためにとくに創設されたもので,主機の転
換に拍車がかけられたことが知れよう。」78)
〔3〕経費削減
競争力強化のための戦略として最後に取り上げるのは,P&0の社内経費の
削減である。すなわち,スエズ運河開通以降,P&0は諸経費の見直し,内外
施設の統廃合,配船の合理化など,可能な経費削減にすでに取り組んでいたが,
社内の経費削減を最重要課題として取りあげ,そのための委員会を設置してま
で本格的な検討に入ったのは,1875年初頭のことである。そのような措置をと
る直接的な契機となったのが,さきにも触れた75年度上半期におけるボンベイ
方面での業績悪化であった。P&0はこの過当競争による運賃惨落の結果,上
半期の株式配当を見送らざるをえなくなったが,そのような事業不振がしだい
に判明してきた75年1月5日,取締役会は社の財務状況の検討,とくに経費削
減に関する方途を検討すべく,取締役会長をはじめ6名からなる特別の委員会
を発足させた。委員会は任命以後ニカ月間にわたる調査活動をつづけ,75年4
月13日,勧告内容を含む調査報告書を取締役会に提出した。79)この報告書では,
当時のP&0の経営陣が経費削減の可能性をどのような箇所に求めたか,その
具体的指摘がなされているので,興味深いものといえる。
報告書ではまず,1869年のスエズ運河の開通による経営環境の変化や,郵便
輸送契約期限の満了をひかえ,契約金の減額等,ありうる状況の厳しい変化を
78)P&0 6/10,AnnwIReport,30September,1874.だが,この「更新勘定」は,「修
繕勘定」との区別が実際上は困難であるとして,主機転換が一・段落した後の1878年度から
は「修繕・更新勘定」の名のもとに一層されることになった。P&0 6/10,A”乃M/
Reporち30September,1878.
79)P&0 2/6,RゆOrt特別委員会のメンバーは,P.DHadow(取締役会会長),
Edward Thomton,RLMelvi11e,TCowie∴TSutherland(業務執行取締役),H.
Bayley(同)の6名であった。以下,断りのないかぎり同文書によった。
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香川大学経済学部 研究年報 27
−2(娼−
考慮にいれて,社の財務ポジションを改善するため経費節約の必要が生じたこ
とを述べている。80)具体的に報告書があげている経費削減の主な項目は,船舶
経費,陸上経費,その他,の三項目である。このうち報告書で中心的に検討さ
れ,また見込まれる削減額がもっとも多いとされたのは,船舶経費である。そ
れゆえ,以下では主に,この項目に関する委員会の検討を紹介しながら,P&
0の当時の経費削減策がどのようなものであったのかについて述べていこう。
検討された船舶経費は大きく二つに分かれ,一つは船員給与,もう一つは配
乗人数である。まず,船員給与については,スエズ運河の開通とP&0のその
本格的利用にともなって,高級船員(officer・S)に支給されていた「インド給与
率Indianratesofpay」の改訂が大きな問題となった。この賃率制度はもとも
と,スエズ以東で何カ年にもわたり航海に従事する高級船員を対象に,地中海
以西での賃率(「本国給与率home r・ateS Of pay」)よりも高い賃率を支払う
という,給与優遇策であった。81)しかし,スエズ運河の開通によって,地中海方
面と東洋方面との間の配船替えが短期間のうちに容易となる−L方で,スエズ以
東に一・時的にも就航した船舶の船員が,相変わらず「インド給与率」の適用を
受けるという,元来の給与制度の趣旨からははずれる支給事例が発生すること
になった。82)委員会ではこの改善策として,スエズ運河通行船には「本国給与
率」を適用するということも考えたが,一つには,同給与率がインド方面への
就労対価としては低すぎて高級船員の間にスエズ以東への配船を忌避する傾向
が生じるかもしれないこと,また二つには,特定船舶と特定船員を組合わせて
一・定の航路に張りつけることは船隊運営上困難であること,などの理由から対
策としては勧告されるにはいたらなかった。8き)委員会が代替案として勧告した
のは,インドと本国の給与率の区別を全廃し,新しい給与スケールを考案し,
これを全航路について一・律に適用することであった。84)委員会が他の船社の賃
80)月郎0れ§23.
§
6
81)晶妙〝・ち§26.時期は異なるが,1850年代初頭の,インド対本国給与率の適いに関する具
体的数値については,後藤1986,第3表を参照のこと。
2
9
§
︵.もJ
2
84)斤砂0γち
8
83)尺¢0γち
2
82)尺¢07ち
J9∂7
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スエズ運河とP&0
率も参照にして起草したという新スケールは,(∋大多数の高級船員や機関士に
関してはインドと本国との給与率の「妥協」的な水準に決められ,また②船長,
パーサー(事務長),船医など上級職種に関しては実質的な減額となり,さらに
③各職種内の昇給や昇進年限の延長がはかられた。このような賃率の−・元化・
見直しによって可能となる削減額は,年間1万2千ポンドに達すると見込まれ
た。85)っづいて委員会は,従来,高級船員に現金で支給されていた「酒類手当
Wineallowance」の廃止を取りあげ,今後ワインやピー)L/の船員への支給に際
しては,旅客が支払う正価より25パーセント引きの代価を受けとるよう勧告し
た。この措置により見込まれる節減額は賃率改訂によるそれよりも大きく,年
間2万ポンドと推定された。86)この他,船員給与面で大なたがふるわれたのは
司厨部員報酬(stewards’fees)であり,これは他の船社がこのような慣行をす
でに廃止しているため,P&0でも全廃するよう勧告された。なお,この廃止
がもたらす節約額は年間1万6千ポンドに達すると見積もられた。87)
他方,配乗員については,主に甲板員の削減が検討課題となっている。まず,
大西洋の旅客船とくらべてみても,P&0の船舶にはパーサー(事務長)や事
務員があまりにも多く配乗されている事実が指摘され,今後は漸次減少させて
いくことを勧告している。88)また,乗組員については,ヨーロッパ人,マニラ人,
中国人,ラスカー(インド人水夫)など,国籍の異なる乗組員の混乗政策とら
れているが,これは現在の船内業務の分業関係からも必要であることを認め,
その混乗の組み合わせの適正化と,それによる経費の削減を勧告した。さらに,
ラスカーの配乗人数についてとくに触れ,何隻かの船舶については現行の35名
から30名へと減員するよう勧告しいる。89)このような甲板員の配乗員の適正化
と減員による削減額は,年間およそ1万5千ポンドと見積もられた。90)−L方,機
関部貞の減員は甲板よりも少数にとどまり,年間節約額も数千ポンドとされ
85)尺砂0γム §31∼5.
86)βゆ0γ1ち §35.
87)尺¢071た§37.
88)斤ゆ0γん§36.
89)風砕〃ち§38.
90)斤ゆ07’た§38.
ー209−
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−ごノ()−
香川大学経済学部 研究年報 27
た。91)
以上のような船員給与と配乗人数に対する削減勧告が実施に移されれば,そ
れによってもたらされる航海経費の総節約額は,年間6万5千ポンドと推計さ
れている。92)
報告書は,つづいて陸上経費の節約,つまり施設の統廃合と海外代理店経費
の節約を取りあげている。まず,運河開通以来,不用・不急となった内外の施
設の処分が順調に進められていることが簡単に報告されているが,93)これにつ
いては別の資料によってもう少し詳しく述べておこう。
スエズ運河開通以来,P&0は既存施設の陳腐化にともなう施設の整理縮小
を推進したが,その具体的事例をみるとつぎのとおりである。まず,スエズ運
河の利用によって,従来必要であった海外での船舶・機械の修繕施設は大部分
が不必要となり,ボンベイのドックを除いて海外の修繕施設は撤収され,修繕
作業の多くはイギリス本国に集中されることになった。94)また,イギリス本国
では,1874年にターミナル港がサウサンプトンからロンドンに移転した。これ
はもともと,ロンドンで横卸する貨物の比率が次第に増していったことが基本
的な背景となっていたが,タ、−ミナル港の移転を決定的なものとしたのは,ス
エズ運河の開通であった。すなわち,第一・に,P&0と対抗関係にあった,他
の汽船会社のスエズ運河通航汽船は,荷主に対してロンドンで直接積卸するサ
ービスを提供した。しかし,これに対し,P&0船舶は郵便契約の本国ターミ
ナル港であるサウサンプトンで貨物を陸揚げし,サウサンプトン/ロンドン間
は鉄道によって運搬する,という積替えの手間がかかり,荷のありうる損傷を
含め,その分不利な立場にあった。また第二に,競争企業の出現による運賃の
低落は,サウサンプトンでの倉庫料や鉄道運賃という,追加チャージをP&0
が負担することを次第に困難とし,かといってこの費用を全面的に荷主に転嫁
91)斤ゆ0γち§38.
92)斤砂0γん§39.
93)斤ゆ07た§40∼1.
94)施設の撤収を行う前,P&0はボンベイ以外に,スエズ,カルカッタ,香港に海外修造
施設を保有していた。また,オーストラリア航路では,独自の修造施設はなく,船舶・機
械の修繕作業は地元シドニーのドック会社との契約によって処理していた。P&0 91/
20.
J9β7
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スエズ運河とP&0
−2Jノー
することも競合ラインの存在からして不可能であった。95)この結果,長年イギ
リス本国でのターミナル港であったサウサンプトンは施設の縮小,つまり,郵
便契約に定められた本国寄港地という役割に相応する施設規模を残して,あと
は大幅に縮小された。同様なことは,スエズ運河の開通によってその役割を低
下させたエジプト陸上ルート施設についても当てはまり,かくして,1875年に
は,サウサンプトンとエジプトの各々の施設は,それぞれ年間維持費が1万2
千ポンドと1ブヨ∵ポンドまでに縮小されたのであった。96)
以上が,報告書が簡単に触れている,施設の統廃合に関するP&0の具体的
な施策であった。さて,ふたたび報告書の記載にもどる。海外代理店の経費節
約については,余剰人員の整理による人件費の削減が勧告され,これによる節
約額は多く見積もって年間3千ポンドという。97)しかし,その他の代理店経費
については,各店がおかれている地域や環境の遠いから,一・律の削減基準を設
けるのは困難であるとして,つぎのような代替案を呈示した。つまり,各店は
年間の支出計画書を事前に本社に提出してトップ・マネジメメントの裁可を受
け,その後,本社の会計部が各店の年間支出計画と実際の年間支出を項目ごと
にチェックできる制度を採用する,というものである。98)各店の実情に合わせ
た,しかし本社のコスト管理の徹底を図ろうとする代理店管理であることがわ
かる。最後に,報告書が取り上げている「その他」の主な経費項目は,燃料炭
購入に関してである。これについては現行の,複数の石炭ブローカー商会との
契約による調達方法を維持すること,しかし手数料報酬の引き下げを行うこと
が勧告され,これによる節約額は年間4千ポンドに達すると見積もられた。99)
以上,経費削減に関する委員会の検討と勧告内容について紹介してきた。こ
の勧告内容はP&0の取締役会において承言宝を受け,改善の具体的提案はただ
ちに採択された。100)資料的な制約のために,勧告内容による節約効果はどれほ
95)P&0 6/10,AnnualR@orち30September,1874.
96)P&0 6/10,AnnualR4)OY’L30September・,1875.
9L7)且妙〝ち§」43.
98)点呼0γち§45.
99)斤勿∂γち§47.
100)P&01/109,13th April,1875.
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−2J2一
香川大学経済学部 研究年報 27
どの大きさであったのかを,個々の費用項目について具体的・数量的に裏付け
ることは困難である。しかし,報告書に盛られた費用項目のいくつかについて
は,それ自体としてか,あるいはP&0の費用構造全体に占める割合としてか
の,いづれかで経費節約のおおよその効果をみることが可能であり,このこと
はP&0の経費削減に対する取組かたの特徴をさらに浮き彫りにすることにな
ろう。
第6表は,1875年度と1876年度の,P&0の営業費用の主な項目を抜きだし
たものである。残念ながら,航海経費の項目別詳細が示されるのは,報告書の
作成がなされたのと同じ1875年度からである。しかし,経費削減プランが呈示
され,採択された時点は1875年度の後半であることから,75年度と76年度を比
較することによって,おおよその改善効果を推量することができよう。その場
合,事業の拡大にともない当然増加していくとみられる費用項目があり(たと
えば,表の(3)スエズ運河通航税,仙減価償却費,(13)修繕費など),それらは単純
に減少したからといって経費削減の効果が上がったとみなされるべきではな
い。そこで,異時点間の増減比較で意味ある項目は,第6表でいえば(1)の「航
海経費」と(2)の「−・般管理費」のなかに含まれる項目であろう。しかるに,さ
きの報告書でも削減の検討対象となったのがこれらの項目であれば,かかる比
較項目の限定は埋に適うものと思われる。同表から,以下の点が指摘できる。
第→・に,P&0の単一・の費用項目として最大であったのは焚料費(これには
海外各地にある貯炭所への運搬費用が含まれる)であり,「航海経費」と「一・般
管理費」とを合わせた額全体の,およそ4割近くを占めている。1875年と76年
の両年度を比較すると,76年度の焚料費は前年度をおよそ4万6千ポンド近く
減少していることが分かる。この焚料費は年々大きく変動しているが,その変
動要因は主に,トン当たり焚料費,マイル当たり石炭消費量,年間航海距離の
三つに求められる。このうち最初の要因,つまり石炭価格の下落(または上昇)
は,石炭の運搬にあたる帆船の運賃動向と同じく,P&0にとっては自らコン
トロールできない外部要因に属した。これに対して,後者の二要因はP&0が
コントロール可能な内部要因といえる。ところで,このような焚料費の変動を
規定した要因のうち,外部と内部のどちらの要因が重要かはその年どしによっ
J.玖97
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スエズ運河とP&0
−2J3−
第6表 P&0の支出項目内訳1875∼76年度(9月38日〆)
支 出 項 目
1875年度
ポンド
1876年度
増減(▲)
1,118,100(554%) 1,017,763(524%) ▲100,337
(1)航海経費
焚料費
舶用備品
港費・船舶臨時費
船員賃金
船員・船客食料費
(2)一般管理費
役員報酬・事務員給与
地代・火災保険料
通信費・印紙税
鱒告費
文具・印刷費
交通費・事務所諸経費
従業員生保分担金
(1)+(2)
(3)スエズ運河通航税
(4)エジプト横断鉄道運賃
(5)建物償却
(6)法人所得税
(7)社債利子
(8)利子・手数料支払
(9)貨物弁金
(10)係船費
(11)減価償却費
(1Z)船舶保険料
(1う)修繕費
総 言十 (1)∼(13)
488,606390%
442,822386% ▲45,784
33,606 29% ▲20,679
54,285 43%
93,562 82%
18,203
75,359 60%
246,200215%
6,380
239,820191%
260,030207%
201,573176% ▲58,457
135,100(67%) 128,660(66%) ▲ 6,440
92,563 73%
89,507 78% ▲ 3,056
15,33112%
15,21913% ▲ 112
6,090
▲1,580
7,670
4、494
4,238
▲ 256
3,309
279
3,030
7,247
▲ 614
7,861
3,050
▲1,101
4.151
1,253,200(621%) 1,146,423(590%) ▲106,777
156,751(78%) 159,464(82%)
2,713
16,677
▲ 597
17,274
unknown
14,545
14,545
2,037
1,736
▲ 301
35,576
▲ 577
36,153
4.753
▲12,731
1L7,484
▲ 620
9,374
8,754
4,195
4,195
140,000(69%)
200,000(103%)
60,000
130.000(64%) 100.000(51%) ▲30,000
255,311(12、7%) 250,998(129%) ▲ 4,313
2rO17584(1000%) 1,943121(1000%) ▲ 74,463
注 ()内のパーセントは総計に対する比率,それ以外は(1)+(2)に対する比率。
資料 P&0 5/620,6/53より作成。
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−2J4−
香川大学経済学部 研究年報 27
J.9β7
て異なるが,75年と76年を比較した場合,もっとも重要と思われる規定因は,
マイル当たりの石炭消費量であった。101)マイル当たり石炭消費量の逓減は,
〔2〕でも述べた,P&0船隊の達成機関の全般的な採用によるものであり,
したがってこの時の焚料費の逓減の多くはP&0の自助努力の成果といえよ
う。しかしながら,P&0の最大の費用項目が内部コントロール要因であるに
はほど遠いという事実がこれによって掻き消されたわけではなく,P&0のこ
の項目の検討も当初より限られていた。事実,先の報告書でも,この費用項目
に関しては,石炭の供給契約を外部ブローカーと締結する際に契約者を単数に
するか複数にするかという,どちらかといえば些細で限られた問題の検討しか
行わなかったのである。
第二に,航海経費のうち石炭につぐ費用項目として登場するのは,人件費で
ある。船員貸金の比率は二割前後にのぽるし,さらに,食費(これには旅客用
の食費も含まれている点で,解釈上の困難がともなう)もあわせれば,ほぼ焚
料費と同じ比率の費用項目となることがわかる。しかも,この賃金と食費から
なる人件費は,P&0の内部コントロール要因であり,報告書でも詳細な検討
がくわえられたこ.とはすでにみたとおりである。その際,船員賃金の改訂と配
乗人数の見直しによる節約額は年間6万5千ポンドと見込まれていた。75年度
と76年度を比較すると,賃金は若干の上昇,対して,食料費は大幅な下落,総
じて人件費の節約はおよそ5万2千ポンドと,見積額よりは下回ったことがわ
かる。102)船員給与の見直しにもかかわらず,賃金支払い総額が増えたためであ
るが,この増加がなにによるものかは,現在のところ不明である。とはいえス
101)舶用石炭の年間供給量,トン当たり石炭価格,年間航海距離,マイル当たり石炭消費患
は,1875年度(1876年度)はそれぞれ,263,206(251,246)トン,37シリング1%ペンス
(35シリング3ペンス),1.610,744(1,676,939)マイル,1633(1498)短であった。
P&0 5/620.これらの数値から計算すると,75年にくらべた76年のマイル当たり石炭
消費量の逓減による節約額はおよそ4万ポンド,たいして石炭価格の下落による節約額は
2万3千ポンド,航海距離の増加による焚料費増分は1万7千ポンドと見積もられる。
102)節約見込額と実際の人件費の減少とくらべる場合,本来,船員賃金と「船員食費」の
合計額が見積額と対比されるべきであるが,記述したとおり,「食費」には船客向け食費
が含まれるため,この比較はできない。ただし、船客の食費はそう大きくは変化するもの
ではなく、船員食費の減少がほとんどを占めていたであろうと想定することは可能であ
る。
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スエズ運河とP&0
一2J5−
ユズ運河の開通を契機に,いままでとられていた船員の二重給与制度が−・元化
され,かつ昇給・昇進年限の延長がなされたことは,配乗員の人数の再検討と
もども,P&0の今後のありうる船員人件費の上昇カーブを緩やかにする効果
はもっていたといえよう。
第三に,−L般管理費であるが,その全体の費用項目に占める比率は7パーセ
ント弱と,航海経費の5割台にくらぺ比較的小さな値であった。しかし,−・般
管理費の内訳をみると,陸上職貞や役員の給与・報酬など,陸上の人件費がほ
とんどを占め,−・般管理費の7割近くに達していたことがわかる。その陸上人
件費であるが,76年度は前年度にくらベ3千ポンドの減少をみている。これは,
まさに報告書で節約が可能と見込まれた額と一・致するものであったが,同じく
報告書が強調するように,この経費を−・律に削減することは難しく,節約額も
海上職員のそれにくらべればわずかな額にとどまった。しかしながら,内外各
店に対し年間経費の見積書呈示を義務付けて予算統制に似た管埋法をもって支
出の監視にあたったことは,すでに明示されていた陸上職員の昇給・昇進に関
する原則103)とあいまって,海上職員と同じく,将来の人件費の上昇に一・定の歯
止めをかけたことに着目する必要があろう。
以上で検討したように,P&0の経費削減計画は支出の各項目ごとに丹念に
検討をくわえ,できるかぎりの節約を実現しようとしたものであるが,総じて
その意義はつぎの2点に求めることが可能である。つまり,第一一に,費用上の
削減は,P&0の内部コントロール下にある人件費の削減,すなわち,賃率の
改訂,昇給・昇進の見直し,人員の削減などに,ターゲットが絞られていた。
この手法は今日の企業でも業績不振の時期にとる,主な合理化手段の一つであ
り,この時のP&0もその例外ではなかった。ただ,注目すべきは,このよう
な合理化の手法が幅広く検討され,昇給・昇進に関する系統立った人事政策と
103)1873年に,ロンドンとサウサンプトンの陸上職員から給与の引き上げ要求が出された
折,P&0の取締役会は,これを認めるかわりに,今後の昇給・昇進に関する原則を職員
に明示した。すなわち,①年間給与が150ポンド以下の下級職員(juniorclerks)を除き,
昇進あるいは特殊サービスのほかは,勤続年数のいかんにかかわらず,将来は定期的な昇
給もボーナスもなくなる,②本社の上級職は数が限られていることから,昇進への最優先
権は,種々なる資格にくわえ,一般に海外勤務の経験がある者に与えられる,というもの
である。P&0 3/20,3rd Apr’il,1873.
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−2J6−
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して確立したのが,スエズ運河の開通を契機とした,全般的な経費見直し作業
のなかであった,ということである。遅ればせながらも,さきのP&0のトッ
プ・マネジメントの交替とその再編につづいて,職員層に関する体系的な人事
管埋がようやくこの時期に確立した,ともいえよう。第二に,新たな競争環境
の下で最低限の資本配当を維持していくためには,低い貨客収入の水準のなか
でも利益を生みだせるコスト体質に転換しなければならなかったが,経費削減
はまさにそのようなP&0の体質作りに大きく貢献するものであったといえよ
う。ちなみに,第1図からも知れるように,1876年度のP&0の収入は75年度
のそれを5万6千ポンドあまり下回ったが,配当可処分利益は逆に前年度を2
万ポンドあまり増大した。この収入減のもとでの利益増を可能としたのは,す
でに述べたような経費節減効果であったことはいうまでもない。
V
1840・50年代のP&0の東洋航路の経営は,汽船交通の確立にむけて,先発
企業としての試行錯誤の繰り返しであったとすれば,この1860・70年代の東洋
航路の経営は,後発企業からの競争に直面して,これにいかに対応していくか
の一う垂の過程であった,と特徴付けられる。つまり,1860年代前半のフランス
郵船企業MMの東洋への配船から始まり,スエズ運河の開通を契機としたイギ
リス貨物定期船会社や大陸郵船の新規参入へと連なる,−・群の競争企業の登場
は,P&0がそれまで20年以上にわたり築き上げてきた汽船交通のコンセプト
に対して真向から挑戦し,これを根底から揺るがす過程であった。ここでいう
P&0の汽船交通のコンセプトとは,汽船経営の危険負担に対しては郵便輸送
契約を裏付けとし,またスエズ以西と以東との間の地域分割を前提に航路経営
を考えるというものである。P&0はこのコンセプトの上に諸々のノウハウ,
たとえば寄港地の選定や就航スケジュールの編成,最適な船型・機関の選択,
内外修造施設や貯炭所の適正配置など,東洋航路の汽船経営におけるP&0独
自のノウハウを築きあげてきたのである。しかし,そのノウハウの多くが,と
くにスエズ運河の開通以降の競争において陳腐化するという事態に,P&0は
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スエズ運河とP&0
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直面した。それゆえ,スエズ運河の開通をめぐるP&0の経営危機とは,この
ような既存ノウハウの環境不適合であり,P&0は変化する環境に対して汽船
交通の新たなコンセプト作りを早急に迫られることになった,といえよう。
しかし,すでに述べたように,P&0のこの新たな環境への適応過程は,ス
ムースには運ばなかった。その最大の理由は,やはり,経営者にあったという
べきであろう。創業以来,P&0の経営を担当してきたアンダーソンに代表さ
れる従来の経営陣は,汽船経営のなによりの優先課題を郵便輸送契約の獲得に
置いていた。これは,一腰に汽船交通が貿易・商業を先導するという危険負担
が大きい時代,つまり,航路の運搬収入が不確定である一・方,航路の開設と維
持には多額のコストがかかることが確定的な時代にあっては,たしかに正鵠を
えた戦略であったといえる。しかしながら,1840・50年代をとおして,汽船交
通網が自らの手で整備され,海上貿易の順調な拡大がみられる時代をむかえて,
なおこの戦略に最優先権を与えたことは,既存のコンセプトを弓削ヒすることで,
肝心な環境変化の意味を読みとる能力を衰えさせたといえる。もっとも,P&
0以上に多額の補助金をえたフランス郵船企業の登場と,1867年の郵便輸送契
約をめぐるイギリス政府との一題の交渉は,アンダーソンをはじめとするP&
0のトップ・マネジメントの関心をもっぱら郵便輸送契約の獲得に狂奔させる
に補強材料となったことは否めない。しかし,このために汽船交通に関する既
存のコンセプトに過剰な意味付与がなされた結果,P&0の経営陣はスエズ運
河の開通がもたらす交通上の革新をほぼ完全に捉え損なうことになった。104)
この結果,あらたなコンセプトの形成にはあらたな経営者の登場が必要とな
り,P&0でも遅ればせながらも,スエズ運河開通を境に経営者の交替が実現
104)だが,−・説によれば,イギリス政府との間の1867年郵便輸送契約の存在のために,P&
0のスエズ運河の利用が他の船社にくらべ遅れたという。Cable,pp164−5すでに述べた
ことから明らかなように,これはことの真相を突いた指摘とはいえない。この当時のP&
0の関心は,経営航路の競争上の不利を,なによりも契約金の引き上げによってカバーし
ようとすることにあり,運河を利用した航路の競争的再編によることは念頭になかった。
そのことは,1870年に契約金を改訂する政府との交渉でも,P&0がスエズ運河の利用に
ついて…切触れてはいないことにも表れている。また実際,この時に獲得した契約金は
P&0の業績不振をカバーするに大きな役割を果たしたのであって,1867年契約の確保は
P&0自身が切望するものであった。
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香川大学経済学部 研究年報 27
した。汽船交通の揺藍期から経営の任にあったアンダーソンにかわり,サザー
ランドを中心とする新経営陣は,そのキャリア形成の途上で,すでに複数とな
った東洋配船企業の間で展開された競争に関する生々しい現場感覚と認識とを
養ってきていた。そのため,この新たな環境への適合にむけたP&0の戦略転
換に,したがってまた,輸送革新の時代にふさわしい汽船交通のコンセプト作
りに不可欠の人材となった。しかし,この新たなコンセプト,つまり,運河を
利用した貨物輸送や通し輸送の開発など,貨物輸送の革新機能を重視したコン
セプトといえども,その多くはP&0独自のものというよりは,多分に競争企
業がすでに形成したコンセプトヘの追随と′いう側面をもった。それゆえ,P&
0が競争力回復のために打ち出した新たな戦略の多く,たとえば,船型の大型
化や達成機関への全面的な転換,あるいは横替回数の減少を図る航路の再編な
どは,他の運河利用船社が新たな汽船交通のコンセプトのなかですでに採用し,
その効果も十分証明済みの戦略であり,P&0も競争上採択するほかはない戦
略であった。これは,スエズ運河という一つの輸送上の革新にたいして他社よ
りも遅れをとったことの当然の結果といえるが,それにしてもP&0の革新機
能は,他の船社にくらべてはもちろんのこと,汽船の開拓時代にみられたP&
0自身の危険負担機能にくらべても,微弱であったことは否定すべくもな・い。
ただし,この過程で,P&0に独自の展開がみられるとすれば,それはむし
ろ企業の内部管理における徹底した合理化であったであろう。スエズ運河の開
通を契機に,新・修造船の配返船や海外修造施設の整理統合など,P&0がコ
スト削減=合理イヒにす早く取り組んだことは記述のとおりであるが,とくにそ
れは,P&0の内部コントロール要因である人事面での合理化において顕著で
あった。つまり,陸上職員からはじまった昇給・昇進ルールの設定は,運河開
通を契機に海上職員の給与一元化と昇給・昇進の改訂へと進み,P&0の人事
管理面での新たな展開をもたらした。このような人事管理は,さきの経費削減
のための他の施策とあいまって,営業収入が伸び悩むなかでも利益を生みだせ
るという,P&0の不況に強い体質への転換を促したといえよう。つまり,ス
エズ運河という革新にたいしてP&0の取り組み方は緩慢であったといえ,そ
の結果迫られた経営戦略の転換において,P&0はスエズ運河が可能とする経
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費削減のチャンスを的確に捉え,これを実施するという,組織内部の調整能力
において真骨頂を発揮することになった。それは,スエズ運河の開通と前後す
るトップ・マネジメントの交替を契機として,P&0の汽船経営のコンセプト
が,先発者としての危険負担機能をベースとするものから,組織をとおした管
理・調整機能をベースとするものへと方向転換を遂げていったことの端的な表
明であったともいえよう。
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