Comments
Description
Transcript
1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について
Agora: Journal of International Center for Regional Studies, No.13, 2016 131 研究ノート】 1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について 大 平 陽 一* はじめに 1. カチャーロフ・グループの欧州巡演と亡命劇団プラハ・グループの成立 2. カチャーロフ・グループ,プラハ・グループの伝統志向 3. カチャーロフ・グループ,プラハ・グループの新機軸 4. 1920年代におけるモスクワ芸術座に対する否定的な評価 5. チェコのアヴァンギャル演劇とモスクワ室内劇場 おわりに はじめに 戦間期にヨーロッパ各地を巡演したロシア や演劇観がそこに反映されているように思わ れるからにほかならない。 の劇団とそれらの劇団がどのように受容され モスクワ芸術座にロシア演劇の伝統の正当 たかについて紹介するのが,小論の目的であ な継承者を見る人は欧州にも多かったが,そ る。ここで主に言及されるのは,ふたつの の一方で,1920年代ともなると芸術座はも 「異境のモスクワ芸術座」1) ――よんどころ う古いという見方もあった。それがどんな状 なく革命後の中欧を巡演した《モスクワ芸術 況であったかは,1992年に出版された『モ 座カチャーロフ・グループ》とその後カチャ スクワ(世界の都市の物語)』という本の次 ーロフ・グループのメンバーのうちソ連への の一節からもうかがえる。 帰国を拒んだ俳優たちが結成した《モスクワ 芸術座プラハ・グループ》,そして芸術座と 日本ではある時期までモスクワの芝居小 は異なる演劇観に立つ《モスクワ室内劇場》 屋といえば,モスクワ芸術座があまりに である。 も有名だった。日本の新劇人にとっても 前二者が(とりわけスタニスラフスキィと それはあこがれの舞台であった。私自身 は無縁のプラハ・グループが),ロシア演劇 も1962年の春はじめ芸術座を訪れ,『か のエスタブリッシュメントと化していた芸術 もめ』の舞台を観たときは,舞台そのも 座の名を謂わば「僭称」して行なった数々の のよりも自分が芸術座の座席にいるとい 公演に対する評価は,賛否両論,振れ幅が大 うことの方に感激したものである。しか きい。しかし,その評価の客観性を問うこと し,その後足しげくモスクワを訪れ,友 は,その上演自体の映像資料がない以上,も 人たちと親しくなるにつれて,いつしか はや不可能である。それにもかかわらずこう 芸術座に足を運ぶことが稀になっていっ した上演とそれに対する評価をあえてここに た。[…]次第に友人たちの意見に感化 紹介するのは,演者や観客のロシア=ソ連観 されて,いつしかタガンカ劇場に宗旨変 * 天理大学地域文化研究センター教授 1)本稿における歴史的記述の多くは,諫早勇一氏の「異境のモスクワ芸術座:モスクワ芸術座プラハ・グル ープと女優マリア・ゲルマノワ」に負っている。この覚書が氏の論考へのマージナル・ノートとして構想 されたことを明記するとともに,この場を借りて諫早氏の学恩に対する感謝の意を表したい。 132 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) えしてしまった。(木村1992: 341-342) ――コンスタンチン・スタニスラフスキィと イワン・モスクヴィンという大看板こそ欠い ソ連時代にあっても引き続きロシア演劇の てはいたが――充実した顔ぶれであった。 殿堂とみなされていた芸術座に対する失望, し か し,ハ リ キ ウ で の 公 演 が 終 わ っ た その失望と裏腹な(もっぱら知人からの耳学 1919年6月24日,同地はデニーキン率いる白 問による)反体制的なタガンカ劇場への讃美 軍に占領され,モスクワ芸術座カチャーロ ――唯一公認されていた社会主義リアリズム フ・グループは赤軍支配下のモスクワと切り の立場から形式主義と批判され,粛清された 離されてしまう。国内戦に巻き込まれること メイエルホリトなど,1920年代のロシア・ を避けるために中立を宣言した一行は,前線 アヴァンギャルドの方法を大胆に復活させた から黒海沿岸に移るが,ちょうどこの頃,エ ことで当局と軋轢の絶えなかったユーリィ・ スエル左派に属していたために政治訴追を受 リュビーモフ率いる反体制的な劇場に対する けた考古学者の夫アレクサンドル・カリチン 賛美は, 19世紀リアリズム文学の翻訳者か スキィと共にモスクワを捨て,キエフで暮ら ら反体制作家ソルジェニーツンの翻訳者へと していたモスクワ芸術座の女優マリヤ・ゲル いう木村浩氏自身の変化と無関係ではないよ マノワも,一座に招かれてロストフ・ナ・ド うにも見える。つまるところ,劇団に対する ヌーで合流する。 評価とはいっても,純粋に個々の上演の評価 ロストフ・ナ・ドヌー,エカテリノダール から結論づけられたものではなく,むしろ木 と回った一行は,1920年3月にはノヴォロシ 村氏のソ連に対するイメージの変化が反映さ イスクから海路グルジアに渡る。ここに至っ れた演劇観のように思える。 てようやくモスクワと連絡がついたものの, 同様のことは,戦間期に国外にいたロシア 劇団からはいま帰ってもしょうがないとのつ 人たちの間にもあったのではないか。同じ国 れない返事がかえってきただけ。そこで再び 外に暮らすロシア人とはいえ,亡命者と正式 海路コンスタンチノープルへ渡った一行は, 出国者という立場のちがいはその演劇観にも 公演を重ねながらバルカン半島を北上して行 相違を生みだしたのではないか。公演地の演 くことにした。この巡演は「ソフィア,ベオ 劇関係者の評価と亡命ロシア人の見方の間に グラード,リュブリアナ,ノヴィ・サド,ザ も,異なる傾向が見出されるのではないか。 グ レ ブ な ど,ど こ で も 熱 い 歓 迎 を 受 け」 小論では上演そのものよりも劇評に注目しつ (Inov 2003: 44),バルカン諸国に多くの芸術 つ,異境のロシア演劇について紹介したい。 座シンパを生んだのだという。 1. 芸術座カチャーロフ・グループの欧州巡 ロヴァキアの首都プラハでも大人気を博し カチャーロフ・グループは,中欧チェコス 演と亡命劇団プラハ・グループの成立 た。すでに当地では1906年に,モスクワ芸 1919年夏,食糧難に苦しんでいたモスク 術座の公演が一大センセーションを巻き起こ ワ芸術座の劇団員の一部は,夏のシーズンオ しており,その時の公演がきっかけで芸術座 フに,食糧が潤沢にあると噂された南ロシ の熱心な信奉者となった劇作家で演出家のヤ ア,ウクライナへの巡演を決行した。名優 ロスラフ・クヴァピルと人気女優であったそ ヴァシーリィ・カチャーロフをリーダーに, の妻ハナ・クヴァピロヴァーは,カチャーロ 看板女優のオリガ・クニッペル=チェーホワ, フ・グループの来演間近との報に接するや, ニコライ・マッサリチノフ,ニーナ・リトフ すぐさま有名俳優やロシア文化の紹介者らを ツェワ,マリヤ・クルィジャノフスカヤら 糾合して《芸術座友の会》を結成,歓迎ムー 大平陽一:1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について ドを大いに盛り上げた(Inov 2003: 44-45)。 133 パ各地を巡回したため《モスクワ芸術座ベル カチャーロフ・グループの公演は,興業税 リン・グループ》と呼ばれていた。ただベル の免除など破格の好条件のもと,ヴィノフラ リンを本拠地とすると言っても稽古場もない ディ劇場を間借りして行われた。1921年5月 放浪劇団の運営は困難を極めていた。そんな 2日第一回公演(『桜の園』)は,チケットが 折 も 折,《ロ シ ア 支 援 活 動》を 始 め て い た 高額であったにもかかわらず満員の盛況, チェコスロヴァキア政府から,プラハを本拠 《芸術座友の会》のメンバーのチェコ人俳優 に活動しないかとの申し出があり,経済的援 たちはオーケストラピットでの観劇を余儀な 助も保証してくれた。そこでベルリン・グル くさせられた。この圧倒的な成功を受けて公 ープは,チェコスロヴァキア政府の誘いを受 演は,家主であるヴィノフラディの劇団の上 け入れてプラハに移る決意をするが,ゲルマ 演を不可能にするかっこうで,一ヶ月半にわ ノワの回想によれば,内実は少しちがったら たって続けられた (Inov 2003: 45)。 しい。まず考古学者カリチンスキィに対し カチャーロフの息子ワジム・シヴェルボ チェコスロヴァキア政府がロシア支援活動の ヴィチはその回想録のなかで「ザグレブとプ 一環として救いの手が差し伸べられ,ビザン ラハは芸術座の面々を,彼らの芸術にただ歓 チン美術の権威として知られた亡命ロシア人 喜しただけでなく,創作面でも理解してくれ ニコジム・コンダコフのために創設されたコ た。ここプラハで重要なのは,創作への関 ンダコフ研究所の研究員にというオファーが 心,我々の劇場の方法,スタイル,性格に対 あった際に,妻のゲルマノワもチェコスロ する知的で深い関心であった」と得意げに振 ヴァキアが受け入れるという話だったのだと り返り,プラハに演劇学校を創設しないかと いう。しかし,自分一人が優遇されることを の 申 し 出 さ え あ っ た,と 書 き 記 し て い る 潔しとしないゲルマノワは,劇団員を置いて (Vagapova 2007: 103) 。 いくことは忍びないと,チェコスロヴァキア このようにして,順調に北上してきたカ 外務省に増員を懇願し,最終的に16名ほど チャーロフ・グループに,ベルリンで大きな がプラハに移り,当地にいたメンバーも加え 変化が起きた。ひとり戦火をくぐってモスク て,1923年にモスクワ芸術座プラハ・グル ワに戻っていたニコライ・ポドゴールヌィが ープが発足する。しかし,プラハ・グループ 現れ2),帰国を促したのである。この要請に と名乗ってはいたものの,プラハの演劇ファ カチャーロフ,クニッペル=チェーホワたち ンにとってこの亡命劇団は「まれ人」であっ は帰国を決意したが,ゲルマノワ,マッサリ たらしい。そもそもロシア語の芝居を一年中 チノフ,クルィジャノフスカヤらは国外にと プラハで上演したところで,多くの動員が望 どまる道を選ぶ。こうしてカチャーロフ・グ めるはずはない。ヴィノフラディ劇場はモス ループは分裂する。1922年5月カチャーロフ, クワ芸術座の信奉者で同劇場の主席演出家ク クニッペルらはモスクワに向けて出発する一 ヴァピルの好意で,同劇団の公演の合間に使 方,残されたゲルマノワ,マッサリチノフら わせてもらっていたのだから,軒を借りてい のグループは亡命ロシア人の劇団として活動 る身分で母屋を取るわけにもゆかず,プラハ を続けることにしたのである。 での公演は一年の三分の一程度にとどめ,残 当初,残留組はベルリンを拠点にヨーロッ りをヨーロッパ各地の巡業で過ごすことに 2)誤解しがちなことであるが,1920年代はソ連からの出国は比較的容易であり,本稿の最後で言及する民族 誌学者ボガトゥィリョフのように正式出国したロシア人は決して珍しくなかった。そもそもカチャーロフ・ グループ自体,決して亡命劇団ではなかったのである。 134 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) なった。稽古場の手配も思うに任せず,ベル リン・グループ時代と同様,ゲルマノワのア 2. カチャーロフ・グループ,プラハ・グル ープの伝統志向 パートやホテルの部屋でリハーサルをする有 プラハ・グループの演目は,おおむねモス 様だったが,それでもチェコスロヴァキア政 クワ芸術座のレパートリーをスタニスラフス 府から財政援助が得られ,本拠地となる劇場 キィらの演出そのままに上演することを基本 を得たことは,浮き草的な亡命劇団の維持に としていた。一種のあやかり商法ではあった とって絶大な意味があった。 が,チェコ文化研究者イーゴリ・イノフが こうしてプラハを拠点に活動を開始したモ 「変わらぬ芸術的な高さで際立っていたモス スクワ芸術座プラハ・グループだったが,2 クワ芸術座プラハ・グループは,ロシア人亡 年後の1925年には大きな危機に直面する。 命者だけでなく,公演旅行を行った国の人び まずゲルマノワとともにグループの中心的存 とからも愛された」(Inov 2003: 92)と総括 在だったマッサリチノフが,ブルガリア文部 しているように,欧州各地で好意的迎えら 省の招きを受けてブルガリアの国立劇場へ移 れ,専門家の評価も決して悪くはなかった。 籍した。さらに同じ年のベルリン公演の最中 たとえば1924年にユーゴスラヴィアを巡演 にゲルマノワの心臓病が悪化して降板を余儀 した際には,マッサリチノフの演出による なくされ,一年後のパリ公演まで舞台を離れ 『ワーニャ伯父さん』や『ステパンチコヴォ ざるをえなくなる。しかもこの年にはもう 村』が人気を博し,ザグレブでのさよなら公 チェコスロヴァキア外務省からの資金援助も 演のカーテンコールでは,観客の投げ入れる 減額されていた。そもそもチェコスロヴァキ 花束で舞台が埋め尽くされたほどであったと ア政府による《ロシア支援活動》は,そう遠 いう(Vagapova 2007: 143)。 くない未来にボルシェビキ政権は倒れるであ こうした好評の背景には,演劇研究者のセ ろうという予測のもと,ソ連崩壊後に民主的 ルゲイ・オストロフスキィが指摘するよう で文化的なロシアを建設するため有為の人材 に,1906年に行われたモスクワ芸術座本体 を育成しようとの目的で始められたもので の中欧公演が演劇関係者,演劇ファンの間に あった。ボリシェヴィキ政権が当分倒れそう 呼び起こしたセンセーション――人気という にないことがはっきりした1920年代半ばと よりは芸術座に対する深い敬意の念があり, もなると,その意義は薄れ,援助額は縮小さ その敬意が「レパートリーの選択においても れる一方であった。それでも1926年につい 高い芸術的水準を維持しようと努力していた ては大幅に減額されたとはいえ援助を確保で プラハ・グループに投影されていた」可能性 きたが,その交渉の過程で翌年の援助につい は小さくない(Ostrovsky 1992: 96)。ましてや ては約束できないと通告されてしまう。翌 観客の中に多く含まれていた亡命ロシア人の 27年,劇団の財政状態は深刻化し,欧州各 学生,知識人たちは,プラハ・グループの芝 地を巡業することで何とか帳尻を合わせるほ 居に革命以前のモスクワ芸術座の伝統,ロシ かなかった (Inov 2003: 86)。そこで劇団はモ アの演劇文化の継承を探し求め,実際に見出 スクワ芸術座プラハ・グループという名称は したと感じ,あるいはかつての感動を反復し そのままでパリに本拠を移すことに決め,ゲ ようとしたり,あるいはかつて耳にしていた ルマノワもパリに移住することになる。 感動を追体験しようとしたりといった努力が なかったとは考えにくい。時はまだ20年代 前半,祖国の再生,祖国への帰還を夢見てい られた彼らにとってゲルマノワの劇団は過去 大平陽一:1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について 135 の,そして願わくば未来の祖国ロシア――ボ ルシェヴィキのソ連ではないロシア――と流 なるほど,1906年の総選挙で国会議員に 謫の地の間の架け橋のように感じられたにち なった立憲君主党のウラジーミル・オボレフ がいない。 ス キ イ の『過 去 の 印 象』は,1931 年 に ベ オ 亡命ロシア人の回想録についてのシンポジ グラードで出版された回想録だが,生彩に富 ウムの報告集『国外ロシア文化における回想 んだ描写が捧げられているのは,当時,この 録』の基調講演的な巻頭論文「問題としての リベラル派の政治家が亡命生活を送っていた 回想録」において,F. P. フョードロフは, パリではなく,「私の子供時代のペテルブル 十月革命によって失われた「ロシア的な経験 ク」であり,「あの壮麗な世界的都市,革命 を,ロシア的な精神世界を守り,未来に伝え 前にそうであったような威風堂々としたペト よう」という亡命者特有の動機から多くの回 ログラートによりもずっと[…]プーシキン 想録が書かれ,「革命以前の生活を一望にお の時代のペテルブルクに似ていた」 ペテル さめる巨大なパノラマ」 がもたらされた, ブルクだ。 という(Fjodrov 2010: 10)。 親密な語り口が魅力的なオボレフスキイの 同じく『国外ロシア文化における回想録』 回想録とちがって,1929年にプラハで初版 所収の論文「実存の空間としての回想録」で の出た元モスクワ大学・歴史学教授のアレク 3) O. R. デミードヴァは,第一波亡命者 たち サンドル・キゼヴェッテルの『二つの世紀の の集合意識の中では「時間と歴史についての 狭間で:回想1881-1914年』は,学者・政治 きわめて特殊な表象が,そして亡命以前の表 活動家としての回想録であり,より公的な性 象とはまったく異なる時間・歴史双方の知覚 格が強いが,その公的性格以上に目を惹くの の仕方が形成された」と主張する(Demidova は,立憲君主党の有力メンバーであったキゼ 2010: 23)。 ヴェッテルの回想録が「革命以前」について しか語っていないという事実だ。 第一波の亡命者たちの集合的意識におい プラハ・グループをめぐる言説の中にもこ て唯一の基準点となったのは,「革命以 うした回想のあり方を想起させる文章があ 前・革命以後」であり,亡命のある部分 る。たとえば,当時プラハに亡命していた作 にとって時間は止まったまま,第二の部 家ヴァシリィ・ネミロヴィチ=ダンチェンコ 分にとって時間は後ろ向きに流れ,第三 ――スタニスラフスキィと並ぶモスクワ芸術 の部分にとって時間は霧消した。時間と 座のもう一人の創始者で,ゲルマノワにとっ 歴史は,亡命者の自意識と経験の中で, ては劇団内で唯一の理解者であったウラジミ 連続的なカテゴリーから離散的なカテゴ ル・ネミロヴィチ=ダンチェンコの兄のヴァ リーになってしまったのである。その結 シリィ――が「ゲルマノワは私たちにとって 果,「過去・現在・未来」の三分法は, 遠い祖国の,遺憾ながら当分近づくことので 日常のレベルと自己感覚のレベルにおい きない祖国の余光」であり,芸術座プラハ・ て,第一の要素(過去)の著しい優勢に グループはこの地にあって偉大な母国につい 対して,それに続く一つないし二つの構 ての記憶を心のなかにとどめておくためのよ 成要素(すなわち現在と未来)が存在し す が に な っ て い る,と 述 べ て い る よ う に ないがために,欠如的な三分法にならざ (Inov 2003: 82)。 るを得なかった。 (Demidova 2010: 23) 先に言及した歴史家のキゼヴェッテルも, 3)十月革命およびその後の国内戦のために祖国を捨てた亡命者が「第一波」と呼びならわされている。 136 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) ある雑誌への寄稿の中で,ママエワ(オスト つとめる眼差しが感じられはしないだろう ロ フ ス キ ィ『ど ん な 賢 者 に も 抜 か り は あ か。 る』),ド ン ナ・ア ン ナ(プ ー シ キ ン『石 の さらに時代が下って,プラハ・グループが 客』),グルーシェンカ(ドストエフスキィ パリに拠点を移した翌年の1928年のことに 『カラマーゾフの兄弟』)などゲルマノワの なるが,4月上旬から5月半ばにかけて,プ 当たり役を列挙し,彼女の作り出した人物像 ラハ・グループがロンドンのガーリック劇場 を素描した上で「ゲルマノワには,昨今の舞 で 公 演 を 行 っ た 際,4 月 13 日 付 け の 高 級 紙 台を埋め尽くしている不自然な様式,生気の 『タイムズ』紙に次のような公開書簡が掲載 ない図式性,冷たい様式化が見られない 」 された。ヴォルコンスキィらの甘口の評価と (Inov 2003: 81)と賞賛しているが,この賞 は正反対の手厳しい批判を寄稿したのは,当 賛には,当時のチェコやソ連の実験的な演劇 時ロンドンで活躍していた亡命ロシア人演出 に多く見られた様式化に対する反感と伝統的 家 の フ ョ ー ド ル(セ オ ド ア)・コ ミ ッ サ ル なリアリズム演劇への共感がふたつながらあ ジェフスキィであった。 らわれている。それはいかにも功成り遂げた 後に亡命を強いられた知識人らしい評価では 現在ガーリック劇場に出演しているロシ ないのか。キゼヴェッテルの図式的なゲルマ ア人俳優たちのグループは,「世界に知 ノワ賛辞には,旧世代の演技を,あるいは自 られた」モスクワ芸術座だと自称してい 身の願望をプラハ・グループの演技に読み込 ることに,新聞各紙が何も書かないこと まれているように思われる。後に述べるよう を,私は驚きをもって見ている。実際の に,むしろ多くの演劇人はゲルマノワの様式 ところ,彼らはモスクワ芸術座の指導者 化の名人芸を称えていたのであるから であるスタニスラフスキイの演技・演出 (Vagapova 2007: 155)。 法と,ほとんど何の共通点ももっていな 1921年に亡命するまで全てのモスクワ芸 い。上記劇団の仕事がどれほど興味深い 術座の公演を見続けた高名な演劇人で辛口の ものであろうとも,スタニスラフスキィ 批評家としても知られたセルゲィ・ヴォルコ の劇場の名を名乗ることで彼らが英国の ンスキィにしても,1926年11月10日付けの 公衆を惑わせていることにちがいはな 新聞紙上で『カラマーゾフの兄弟』のゲルマ い。モスクワ芸術座は国外にいかなる支 ノワを評して,「グルーシェンカは彼女のレ 部もたない唯一無二の存在なのである。 パートリーの中でも最高の役ではあるが,ゲ (Korčevnikova 2012: 34) ルマノワは若さの輝きを失っていないだけで なく,人物造形におけるより鮮明な輪郭とよ 辛辣なこの批判に対し,ゲルマノワは報道 り大きな『ロシア性』を獲得している。愛も 陣に配布したプレスシートで次のように反論 憎しみも,その慈愛も嘲りも,不遜さも謙遜 した。 も全てが高度にロシア的なのである」と賞賛 したというが(Dubrovina 1995: 765),この評 故郷の街のことを,師であるスタニスラ 価からは,ゲルマノワたちに伝統を維持する フスキィやネミロヴィチ=ダンチェンコ 傾向があったことが推測できる一方,還暦を のことを,若手にとってその演技術が常 過ぎて故国を捨てざるを得なかったヴォルコ に見習うべき手本であった先輩俳優たち ンスキィが亡命劇団の看板女優の演技のなか ――幸運にも共演し,モスクワ芸術座全 に懐かしいロシア的なものを,見つけようと 体の成功を分かち合う機会に恵まれたカ 大平陽一:1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について 137 チャーロフ,モスクヴィン,クニッペル 相手に自らの権威を誇示してみせたようにも =チェーホワといった年長の戦友たちの 見える。 ことを私が思わないとしたら,むしろそ 当時の上演を見ることがあたわず,コミッ れは奇妙なことでしょう。[…]どうか サルジェフスキィとゲルマノワのいずれにも 私たちのお芝居に美しい装飾や背景が見 軍配を上げることのできない我々にとってむ られるなどと期待しないで下さい。確か しろ興味深いのは,論点になっていたのが, にそれは私たちの故郷である劇場が誇っ つまるところ,モスクワ芸術座の伝統に忠実 てきたものですが,今の私たちは装飾や であるか否かという同一の問題であったこと 背景を文字通り無から作り上げなければ ――キゼヴェッテルら第一派亡命ロシア人の ならないのです。しかし,私は,私たち 賞賛の根拠と同じであったことと,その正統 の仕事の中に皆さんがアンサンブルの芸 性の所以がコミッサルジェフスキィにとって 術という教えについての一つの解釈を見 はスタニスラフスキィの演出であったのに対 いだして下さることを期待します。アン して,ゲルマノワにとってはアンサンブルで サンブルこそは舞台上で最も重要なもの あったという相違である。そして,ゲルマノ であり,ここに私の演劇の最大の名誉が ワが力説したアンサンブルに関する限り,イ あるのです。アンサンブルの原理に従っ ギリスの演劇評論家のJ. E. エィガトは, てみれば,それが国と言語を超えて普遍 『タ イ ム ズ』の 日 曜 版『サ ン デ ィ・タ イ ム 的であることがお分かりになるはず。こ ズ』の劇評においてプラハ・グループを次の れこそは私たちの理念であり,モスクワ ように絶賛することによって,コミッサル 芸術座の理念,その偉大な創設者である ジェフスキィの事情通ぶった見方を暗に批判 スタニスラフスキィとネミロヴィチ=ダ したのであった。 ン チ ェ ン コ の 理 念 な の で す か ら。 (Korčevnikova 2012:35-36) 彼らの公演を語る上で,一人ひとりの俳 優の演技を凝視してはならない。彼らは 要するに,国外にとどまった自分たちも本 トランプのいかさま師たちのように結託 家の芸術座に負けずに伝統には忠実だ,と訴 しているのだ。このロシア人俳優たちは えたのであるが,反論の甲斐なくロンドン公 互いに助け合っているので,一人の俳優 演は興行的に失敗に終わり,この後,傷心の がどこで演技を終え,もう一人がどこで ゲルマノワはプラハ・グループを離れてしま 演技を始めたかを言いあてることは難し う(Ostrovsky 1992: 95)。 い。彼らの演ずる登場人物は舞台の上で コミッサルジェフスキィの批判は,プラ 生きているし,舞台を去った後も生き続 ハ・グループのあやかり商法的な面をたしか ける。[…]この俳優たちが直接モスク に衝いてはいたのだろう。だが,アントン・ ワからやってきたのではなく,モスクワ チェーホフの戯曲『かもめ』のアレクサンド 芸術座のスタイルと名称が「今はスタニ リンスキィ劇場における初演のニーナ役でロ スラフスキィの直接の影響から遠く離れ シア演劇史に名を残した大女優ヴェラ・コ たところに位置している」俳優によって ミッサルジェフスカヤを姉に持ち,亡命先の 使われていたという事実が,彼らの崇拝 ロンドンにおいてロシア時代とは比較になら 者になると思われる我が国の観客を果た ぬほど大きな影響力を誇っていたコミッサル して困惑させたのであろうか。私はそう ジェフスキィが,高級紙上で弱小亡命劇団を は思わない。[…]このロシアの俳優た 138 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) ちはモスクワから遠いところへ移り住ん 年のモスクワ芸術座公演の再現か,あるいは だが,彼らはスタニスラフスキィから離 十月革命以前の記憶を喚起してくれる馴染み れてはいない。それに彼らがモスクワで の作品の上演を期待していたのである。実 どれほど有名であるかに,私たちの関心 際,翌22年にスタニスラフスキィ率いる本 はない。私たちの関心の的は,今日ここ 家のモスクワ芸術座がプラハで上演したの で,私たちの間で彼らがどれほど偉大で も,『三 人 姉 妹』,『桜 の 園』,『ど ん 底』,そ あるかだ。彼らは偉大な俳優だと,少な してアルクセィ・トルストイの『皇帝フョー くともその何人かは偉大だと言っても差 ドル・イオアノヴィチ』というように1906 し支えないだろう。(Korčevnikova 2012: 年のプラハ公演以来なじみの旧作ばかりで 36-37) あった。 アンサンブルに関しては,すでに1921年 に行われたカチャーロフ・グループのプラハ 3. カチャーロフ・グループ,プラハ・グル ープの新機軸 公演について劇作家でもあったカレル・チャ 先に引用した亡命ロシア人の歴史学者キゼ ペックが,その素晴らしさを賞賛し,チェコ ヴェッテルのゲルマノワ評には「昨今の舞台 演劇は模範とすべきであると評していた を埋め尽くしている不自然な様式,生気のな (Inov 2003: 47)。これに対して,ウィーンの い 図 式 性,冷 た い 様 式 化 が 見 ら れ な い 」 劇評が,伝説的名優としてオーストリアでも (Inov 2003: 81)とあったが,ここで「昨今 知られていたスタニスラフスキイやモスク の舞台を埋め尽くしている」とキゼヴェッテ ヴィンを欠いていることの失望感をあらわに ルが慨嘆しているのは,約束的な演劇―― したのは,モスクワ芸術座の演劇の本質を理 「様式化」と「約束性」による演出でリアリ 解していなかったということだろう。 ズム演劇からの離脱を図ったロシア・アヴァ そのウィーンの劇評はチェーホフの『桜の ンギャルド演劇の雄フセヴォロト・メイエル 園』と『三 人 姉 妹』,ゴ ー リ キ イ の『ど ん ホリトやアレクサンドル・タイーロフたちの 底』などの旧作の再演ばかりで目新しさがな 実験やそれに影響を受けた上演を指している いことを悪し様に書いてもいた。たしかに のであろう。 1921年5月,6月のプラハ公演の演目を見て しかし,芸術座の看板女優クニッペルのリ も,チ ェ ー ホ フ の『桜 の 園』『三 人 姉 妹』, アリズム的な演技,ほとんどパトスのない演 ゴーリキイの『どん底』,オストロフスキイ 技とはちがってゲルマノワは「様式化の名 の『どんな賢者にも抜かりはある』,ドスト 手」であるとするセルビアの劇作家トドル・ エフスキイの『カラマーゾフの兄弟』 など, マノイロヴィチの意見をはじめとして すべて再演ばかりであった。しかし,急遽決 (Vagapova 2007: 151),多くの専門家が彼女 まった海外公演に初演を期待することには無 の様式化の名人芸を称えている事実を考え合 理があるし,ウィーンで待望されたスタニス わせるならば(Vagapova 2007: 155),左翼芸 ラフスキィやモスクヴィンといった大御所が 術への嫌悪と裏腹になっているゲルマノワ賛 出演するとなれば,たぶん,芸術座十八番と 辞があまりにも図式的で見当外れに見えてく でも喩えたくなる旧作の上演が期待されたの る。 ではないか。芸術座の旧態依然は実はスタニ ロシアの古典的なドラマトゥルギーと芸術 スラフスキィが演出,出演したところで変 座の精神的伝統に忠実であることで,多くの わったとは思えないし,多くの観客は1906 国々で観客たちの共感を得ることができたに 大平陽一:1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について もかかわらず,ゲルマノワは国外の舞台にお 139 多く残されている。 ける自らの演出に西欧演劇の新機軸をいくつ たとえば,1924年のベオグラード公演を か導入してもいた。そもそも彼女は,ウラジ 観たセルビアの劇作家T・マノィロヴィチは ーミル・ネミロヴィチ=ダンチェンコと演劇 ゲルマノワの仕事から受けた精神を揺すぶら 観を――スタニスラフスキィのイリュージョ れるような印象について,次のように語っ 4) ニスティックな原理 とは相容れない傾向を た。 分かち持っていたのである。その演劇観の根 底には,スタニスラフスキィやその弟子たち この不世出の女優の『メディア』は,悲 が護持するリアリズム――徹頭徹尾写実性を 劇がもたらす本能的な体験の――ほとん 追求し,さまざまなニュアンスの憂鬱な気分 ど宗教的とさえ言いたくなる神秘的体験 を表現しようとする傾向――と相容れないも の果実であると同時に,優美な芸術文化 のがあったようだ。悲劇を得意としたイタリ にはぐくまれた高度に洗練された美意識 アの名優エレオノーラ・ドゥーゼを偶像視す の所産であり,この美意識のおかげで悲 るゲルマノワにネミロヴィチ=ダンチェンコ 劇的経験は輝かしい芸術形式に結実し が目をかけたのも,そうした共通点があって た。 (Vagapova 2007: 153) のことだろう。ゲルマノワとカチャーロフを 主役に据えて『石の客』(プーシキン)を上 スタニスラフスキィを離れ,芸術座の伝統 演したことについて,兄で作家のヴァシー に対して反旗を翻したような試みだったにも リィ・ネミロヴィチ=ダンチェンコは,「弟 かかわらず,亡命ロシア人の劇作家イリヤ・ は自然主義に飽き飽きしていた」からだと述 スルグチェフも1926年にパリで上演された べている。(Inov 2003: 52-53) 『メディア』について,「きのう我々は深い しかし,ゲルマノワが長年抱いていた悲劇 感動に打ちのめされた。希有の出来事を目撃 に主演するという夢がようやく叶ったのは, した最初の証人となる幸運に我々は恵まれた いや自らの演出によりモスクワでは叶えるこ の だ」と 興 奮 を 隠 さ ず (Korčevnikova 2012: とのできなかった夢を実現したのは,亡命先 17),やはり亡命ジャーナリストのウラジー のプラハであった。1924年11月,ゲルマノ ミル・ゼンジーノフは『王女メディア』が, ワの女優生活20周年の記念公演においてエ プラハ・グループの新機軸と言うにとどまら ウリピデスの『王女メディア』を自らの演出 ず,「演劇の新しい成果,新しい達成」であ と主演で上演したのである。モスクワ芸術座 ることを強調し,フランスの批評家さえもが の伝統にはない悲劇の上演,満を持しての演 「この芝居に行った者はあらゆる表現的要素 出――どうやら彼女は賭に勝ったらしい。そ の完璧な合一を目の当たりにするであろう」 の後プラハ・グループの人気演目になった と賞賛したのである (Korčevnikova 2012:19)。 『メディア』を観た批評家の多くは,プラ プラハ・グループには「核になる強力な俳 ハ・グループの新機軸に瞠目し,そしてモス 優と真の演出家がいなかったために,創造的 クワ芸術座で培われてきた自然主義の伝統と な発展があるとはいえなかった」というオス は決定的に異なる様式化の名人芸を見いだし トロフスキィの指摘,「ゲルマノワは自分が たのである。ゲルマノワを絶賛する劇評が数 覚えていたモスクワ芸術座の演出法をただ繰 4)スタニスラフスキィの現実再現的な自然主義,リアリズムという通念については異論の余地が多々あろう が,1920年代の中欧においてスタニスラフスキィの演出や演技法がそのように理解されていたのは,よし んばそれが誤解であろうとも,厳然たる事実である。 140 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) り返すだけだった」というオストロフスキィ ベムの批評だけを根拠に『メディア』を失敗 の批判は(Ostrovsky 1993: 86),これらの劇評 と決めつけるイノフの論法には疑問を禁じ得 を読む限り不当に思える。むしろ,マノィロ ない。 ヴィチの言うとおり,『メディア』によって ロシアの演劇研究者ワガポワがプラハ・グ この特色ある創造集団がまだまだ伸びるだけ ループの中心メンバーで,かつてカチャーロ の生命力をもっていることを証明した フ・グループの一員としてヨーロッパ各地を (Vagapova 2007: 155)。 巡演したシャロフに宛てたカチャーロフの手 しかし,プラハの初演に限っては,その後 紙を紹介しているのだが,モスクワ芸術座に 『メディア』が同地の演劇ファンのもっとも 復帰したカチャーロフにも『王女メディア』 好む演目になったという指摘がある一方で, 成功のニュースは伝わっていたらしい5)。 チェコ文化研究者のイーゴリ・イノフは,伝 統的な演目である『結婚』(ゴーゴリ)の成 スタニスラフスキィ先生は悲嘆に暮れ, 功に引きかえ『王女メディア』の評判は全く ご機嫌斜めだ。ここで正真正銘の成功が もって芳しくなかったとしている。その根拠 えられなかったからだ。そこへ追い打ち となっているのは,A. B. というイニシャル をかけるように僕ら,すなわち古い芸術 の匿名記事――おそらくは亡命ロシア人の文 座がダンチェンコを唯一の例外として葬 学研究者アルフレト・ベムの筆になると推測 り去られようとしているモスクワから, される辛辣な劇評であった。劈頭から匿名の 「永遠に若く元気な」ダンチェンコがス 評者は,あたかも本家のモスクワ芸術座につ タニスラフスキィをはじめとする「故 いて述べるかのごとく,「悲劇はこの劇団の 人」を出し抜き,新しく若い劇場を作っ 守備範囲ではない」と切って捨てる。さらに てしまったという知らせが届いたのだか 「プラハ・グループは悲劇のリズムを感じて らなおさらだ。ゲルマノワ女史のこと, おらず,作品の『核』を脚色することで卑小 『王女メディア』のことうれしく拝読。 化,細分化してしまった。彼らの持ち味では この箇所をスタニスラフスキィや俳優仲 ないパセティックで似非古典的な朗読,だら 間に読んで聞かせてやった。もちろん, だら退屈な朗読に取ってかえられ,発声の資 誰も信じなかったし,ベテラン連中は噛 質の弱さが露呈してしまった。身振り,動 みつきそうな顔をしてたよ。実際君は喜 き,衣装の着こなしも実に弱い。群衆に引き びにあふれているんだろうけど,才能が 下げられたのはまだしも,女友達にまで引き あるってこと,賢明だということは,い 下げられて舞台に居座るというのは全く根拠 ずれにしても素晴らしい。私は女史を高 が な く,不 可 解 で 退 屈 だ」と 酷 評 は 続 く く買っているつもりだし,その成長を喜 (Inov 2003: 80-81)。 所詮は水掛け論なのだ んでいる。(Vagapova 2007: 144-145) ろうが,「彼らの持ち味ではないパトス」と いう決めつけは,モスクワ芸術座のリアリズ 1920年代半ば以降のモスクワ芸術座に, ム演劇を念頭においているかのようであり, その幹部俳優の間に閉塞感が漂っていたこと 5)ただこの手紙には問題がある。《モスクワ芸術座博物館》に保管されているこの手紙をワガポワは1923年初 頭にニューヨークから投函された手紙と考えているが(Vagapova 2007: 144), 『王女メディア』の初演は1924 年11月であって文面と矛盾する。また1922年からのヨーロッパ,アメリカ巡業は大成功をおさめたという 広く認められているという事実とも手紙の文面は齟齬する。その一方で,検閲を気にした風もない筆致と モスクワを離れた場所にいることのうかがえる文面から外国からの手紙だろうと推測させるだけに, 《ネミ ロヴィチ=ダンチェンコ音楽劇場》への言及を考えるならば(ただし《音楽スタジオ》は1919年以来存在 していた),1926年頃に海外公演先から投函された書簡ということか。 大平陽一:1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について のうかがえるエピソードである。さらに手紙 141 のまま世界最高の芸術家であり続けただ の中でカチャーロフは旧友にこう問いかけ ろう〈…〉。モスクワ芸術座の俳優たち る。「ねぇピョートル,ちょっと考えて説明 とその追随者たちの前には新たな課題が しておくれでないか――なぜ君たちの仕事の 提起されている。すでに完成の域に達し 方が今ここでの自分たちの仕事よりも近し た傾向は終焉を迎えつつあるのだ。今 く,気になるのかを。現在よりも過去の方が 日,ロシアにおいても,他の国と同様, 大切で気になるものだからかね。僕はそう それとは別の潮流が起こりつつあり,異 じゃないと思う」 (Vagapova 2007: 145)。 なる潮流である以上,俳優に求める資質 も異なってこざるをえない。十五年前私 4. モスクワ芸術座に対する否定的な評価 たちが彼らの芸術を実験と受け止めたと 話は再び1920年代初頭に戻るが,カチャ すれば,今日その実験は汲み尽くされて ーロフ自身がリーダーとして1919年の夏か しまい,精神的探求をはぐくむことはな ら1922年5月まで3年近くに及んだヨーロッ い」6)。(Solntseva 2002: 80) パ公演の頃すでに,モスクワ芸術座は過去の 遺物だとする見方が中欧の演劇界には確かに 芸術座の演目と演技が果たしてモダン精 存在していたようだ。1921年春のプラハ公 神,現代の観客の好みにかなっているのかと 演の際にも,開幕前から感激の面持ちで拍手 いう公演以前に提起された疑問は,それなり 喝采の準備をしているかのような熱心なシン の根拠があったらしい。深く繊細な心理描写 パがいる一方で,「今さら芸術座がチェコ演 やディテールにこだわり抜いた結果生み出さ 劇にどんな新しいものをもたらすというの れる血の通ったイメージといった芸術座の俳 だ」という問いを投げかける人々も少なくな 優の名人芸に対してはそれなりの敬意を払い か っ た。「ま た ま た『ど ん 底』,ま た『ワ ー つつも,一部の批評家は演技におけるリアリ ニャ伯父さん』,また『桜の園』――これが ズム――日常的現実にもたれきったかのよう プラグマティズムの新時代にふさわしいの な自然主義的なカチャーロフ・グループの演 か。今日の趣味に適っているのだろうか。近 技に限界を見いだしてもいた。 年,芸術座は進歩していないのではないか。 しかし,モスクワ芸術座カチャーロフ・グ 何ひとつ新しいものを生み出していないので ループの公演の全てが,芸術座的リアリズム はないか」とある匿名記事は手厳しく書いて に忠実だった訳ではなかった。後にプラハ・ いた(Inov 2003: 44-45)。 グループの中心メンバーとなるマッサリチノ 建築家で舞台芸術も手がけていたヴラヂス フらの演出作品には,様式化への志向をあら ラフ・ホフマンも雑誌『舞台』への寄稿文の わにしているものもたしかに存在した。そこ なかでモスクワ芸術座はすでに峠を越えたと では主要なものがクロースアップされる一方 宣告していた。 で,ディテールは後景へと退くというよう に,遠近法的自然主義的なイリュージョンが 演劇の発達のある時期にとって,モスク デフォルメされていた。チェコ人批評家たち ワ芸術座の芸術は頂点をなしていた の先入観をいわば悦ばしい形で裏切るこの傾 〈…〉。もし彼らが私たちのもとに帰っ 向は,『ワーニャ伯父さん』における芸術座 てこなかったなら,私たちの中に伝説が の伝統に,ということは表面的なリアリティ 保たれていなかったとしたら,彼らはそ を目指す舞台装置と『カラマーゾフの兄弟』 6)Hofman, Vl. 1921. „Divadelní poznamky o Moskevských“, Jeiště, 22, S. 359. ソーンツェヴァの論文からの引用。 142 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) や『どんな賢人にもぬかりはある』における 深く意義深いもの」を見せてくれたのは,実 大道具を切り詰めた(後者においては,日常 はウラジーミル・ネミロヴィチ=ダンチェン 生活の描写が前景化しているオストロフス コによって創設された《音楽スタジオ》の公 キィの戯曲であるにもかかわらず,扉のない 演(1925年11月)であったと力説している 部屋,木のない庭といった)舞台装置のちが (Inov 2003: 83) 。 いに見てとれたという。チェコの評論家ヴァ チェコ・アヴァンギャルドを代表する演出 ーツラフ・ティレは様式化にむかうこの傾向 家として知られるインジフ・ホンズルは, について,「舞台装置のリアリティが削り取 1928年に刊行された著書『現代ロシア演劇』 られた結果,登場人物のリアリティがこの上 において,「モスクワ芸術座の命脈は1905年 な い ほ ど ま で に 高 め ら れ た」と 賞 賛 し た に尽きた。メイエルホリトによって命を絶た (Inov 2003: 46) 。 れたのである」と宣告していた。ホンズルの こうした新機軸にカチャーロフ自身も共感 見 る と こ ろ, 19 世 紀 末 の ロ シ ア 演 劇 は, していたのだろう。それはとりもなおさずス たった二つのリアリズムの抗争として――没 タニスラフスキィの芸術座の限界を,スタニ 落した「シシェプキン的」リアリズムと革命 スラフスキィが「もはや葬り去られた故人」 的革新的なスタニスラフスキィ的リアリズム であると認めていたということになる。芸術 の対立と――見なすことができるが,シシェ 座内部にすでに巣くっていた不安――自分た プキンのリアリズムが18世紀の30年代から ちは時代遅れになったのではないかという不 世紀末まで続いたのに対して,スタニスラフ 安は,観客の側の受け止め方にも反映されて スキィのリアリズムは,その完成の限界に達 いたにちがいない。少なくとも1906年のプ し,可能性を全て汲み尽くすまでにたった8 ラハ公演の頃に比べて,1920年代の芸術座 年しかかからなかった,と言うのである。そ は,ロシア演劇を代表する劇団としてソ連政 して,20世紀初頭のロシア演劇の危機は, 府公認の謂わばエスタブリッシュメントと モスクワ芸術座によるチェーホフの戯曲の上 なっていた。当時の芸術座には,すでに初発 演が依拠していた基盤の危機にほかならない 的な新鮮さは失われており,ひとつの伝統と と指摘した(Honzl 1928: 5)。 化していたことは,例えばカチャーロフも感 じていたのだろう。 ブレイやホンズルのような見方に対して反 論したのは,亡命ロシア人のジャーナリスト 当然ながらチェコにおいても,若い世代の であった。1924年1月の芸術座プラハ・グル 演劇人の間には,「何をいまさら芸術座をあ ープのプラハ公演において初演されたディケ りがたがるのか」という疑問が根強くあっ ンズ作『生存競争』が人気を博したにもかか た。モスクワ生まれのイギリス人で芸術座・ わらず,チェコ語新聞の評価が冷淡なもので 第2スタジオに学んだA. A. ブレイ――1920年 あったことに憤慨した亡命ジャーナリストの にイギリスに強制送還されたが,22年から K・ベリゴフスキィは『学生時代』誌への寄 はチェコスロヴァキアに住んで,プラハのロ 稿文に「どうやらそれは流行への譲歩なのだ シア語劇団で活動していた俳優のブレイ―― ろう。まるでこの古いものの中に美が,不朽 は,1922年に実現したスタニスラフスキィ のものが,完全なるものがあることに気づか 率いるモスクワ芸術座公演,本家の芸術座の ないかのように,モスクワ芸術座は過去のも 公演について「これまでの成果を集大成する のだという流行におもねているのだ」とチェ がごときものであった」と冷淡に述べる一方 コの報道のあり方を批判した (Inov 2003: 80)。 で,「まったく新しいもの,飛び抜けて興味 これらの事実は,芸術座がもはや過去の存 大平陽一:1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について 143 在であるという見方が流布してことを裏書き シア人の劇団は芸術座やその流れを組むグル する一方,相異なる見方が共存していたこ ープだけではなかった。文学,絵画,建築, と,概してチェコの若い世代の演劇人が芸術 そして演劇の分野における試みは今なお高く 座の伝統に否定的であるのに対して,亡命ロ 評価され,繰り返して論じられている。しか シア人が伝統を賛美する傾向にあることを示 し同時代の評価は賛否両論相半ばするもので しているように思われる。 あり,しかもその評価は芸術観だけでなく政 ただここで注意しておきたのは,様式化を 伴うゲルマノワの悲劇が,スタニスラフス 治的イデオロギーにも大きく左右されてい た。 キィ的なリアリズムから離れていたのは確か 20年代初めからめざましい活躍を始める であるにしても,また,彼女の様式化への志 アヴァンギャルディストのグループ《デヴェ 向が彼女の舞台にリアリズム離れを引き起こ トスィル》の中心メンバーたち――詩人の したのが事実であるとしても,だからといっ ヴィーチェスラフ・ネズヴァルやヤロスラ て,「様 式 化」と「約 束 性」に よ る 演 出 に フ・サイフェルト,理論面でのリーダーだっ よってリアリズム演劇からの離脱を図ったロ たカレル・タイゲ,画家のトワイヤンやイン シア・アヴァンギャルド演劇の雄フセヴォロ ジフ・シュティルスキーら自身,社会主義へ ト・メイエルホリトやアレクサンドル・タイ の共感を隠さない若者たちであり,チェコに ーロフたちの実験に共感を覚えていたわけで おけるアヴァンギャルド演劇の代表者インジ はなかった。ゲルマノワはアヴァンギャルド フ・ホンズルとE・F・ブリアンも例外では 芸術に対し旗幟鮮明に批判的であり,構成主 なかった。彼らはロシア・アヴァンギャルド 義的な舞台装置のアヴァンギャルド演劇の背 を高く評価し,劇作家でもあった詩人のウラ 後には,個性をおとしめる政治的な指示があ ジーミル・マヤコフスキィや演出家のフセ るのだ,といかにも亡命者らしい見解を公言 ヴォロト・メイエルホリト,アレクサンド してはばからなかった (Litavrina 1995: 774)。 ル・タイーロフを信奉していた。(Solnceva 2002: 81) 5. チェコのアヴァンギャル演劇とモスクワ 室内劇場 彼ら革命後に現れた親ロシア派に対して, 古くからの親ロシア派はスラヴ主義を奉じる ゲルマノワ同様スタニスラフスキィもア 保守層が中心で,芸術面においては伝統主義 ヴ ァ ン ギ ャ ル ド 演 劇 に 対 し,少 な く と も 者としてアヴァンギャルド芸術を毛嫌いして 1920年代のチェコ・アヴァンギャルドに対 いた。やはり反ボルシェビズムを共有する亡 しては否定的であったらしい。1922年の秋, 命ロシア人にも同様の傾向が認められるよう アメリカ公演に向かう途上モスクワ芸術座が で,亡命ロシア人には多くの学者,文化人が プラハに立ち寄った時,スタニスラフスキィ 含まれていたが,彼らとチェコのアヴァン はチェコ演劇の新しい試みを――ネズヴァル ギャルディストとの間に交流があった形跡は やヴァンチュラたちアヴァンギャルディスト 認められない。 の戯曲はもちろん,世界的に好評を博したカ 先に言及したマヤコフスキィ,メイエルホ レル・チャペクの『R. U. R』までも――鼻の リト,タイーロフはみな第一共和国時代のプ 先でせせら笑うように全否定したらしい。 ラハを訪れている。なかでもタイーロフは自 しかしながら,1920年代のチェコは,ア らの主宰する《モスクワ室内劇場》を率いて ヴァンギャルド芸術の勃興によって記憶され 1930年にプラハ公演を行っている。この公 てきた。また,戦間期のチェコで公演したロ 演はアヴァンギャルド集団《デヴェトスィ 144 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) ル》の努力によって――とりわけ《解放劇 フの演出に直接触れることが叶った。その上 場》の演出家インジフ・ホンズルの長年の努 演では,俳優の身振りにも舞台装置にも《モ 力の結果,ようやく実現したものであった。 スクワ芸術座》のように写実的なところは一 すでに1923年には,タイーロフのモスク 切なく,城の描かれた書き割りの代わりの青 ワ室内劇場が独仏公演で圧倒的な成功を収め いスクリーンの前には紅白二本のポールが立 たことがチェコの新聞雑誌に報じられてい てられているだけ。舞台の両袖に黒い階段が た。ピカソ,レジェ,ドローネー,詩人のト おかれ,俳優たちはこれらのポールや階段を リスタン・ツァラたちフランス在住の前衛芸 すばしっこく上ったり下りたり,あるいはス 術家がこぞって室内劇場を賛美したという クリーンの陰に隠れたり,陰から現れたり ニュースは,それらの前衛芸術家を高く評価 …。前景には用途のはっきりしない木製の構 していたデヴェトスィルのメンバーたちの関 成物が置かれていたが,この不明確さ,約束 心をタイーロフに向けることとなった。同じ 性がかえって演技者の連想を誘い,俳優と 年にベルリンでタイーロフの『演出家のノー ニュートラルな対象との絶妙な相互作用の結 ト』のドイツ語訳が刊行されると,そこに自 果,その対象物の相貌,用途,意味が様々に 身の創作の柱となるものを見いだした思いを 具体化されていくことに,ホンズルは感銘を したホンズルは,文字通り巻を措く能わずで 受けたという(Inov 2003: 327-328)。形状は あったらしい。その4年後の1927年には同書 変わらないまま,同じ構成物がテーブル,ベ のチェコ語訳に序を寄せることになる。 ンチ,鏡,司令艦橋のいずれにも変化したの 1924 年 に な る と,ホ ン ズ ル は デ ヴ ェ ト である。 スィルのいわば座付きの理論家であるK・タ いたく感動したホンズルはチェコ語新聞 イゲ,そしてタイゲ同様デヴェトスィルの設 『ルデー・プラーヴォ』に「ウィーンにおけ 立メンバーで演劇評論家のアルトゥシュ・ るロシア人の成功:タイーロフの劇場につい チェルニークと共に,1920年からプラハに て」と特に舞台装置に着目した批評「ロシア 置かれていたソ連の全権代表部に働きかけ, の劇場の成功:タイーロフのセノグラフィ」 同全権代表部を通じてソ連邦内の様々な創作 の二編を発表した。そして十月にはチェコ・ 集団に出版物の交換を呼びかける書簡を送っ 新ロシア経済文化交流振興協会の訪ソ団の一 た。チェルニークの名で出されたこの申し出 員として,初めてモスクワを訪れ,多彩きわ をタイーロフが快諾したことにより,ロシ まる演劇生活をその目で見るという夢が叶っ ア・アヴァンギャルド演劇を代表する劇団の た。とりわけ彼が惹かれたのが,小道具を巧 一つであるモスクワ室内劇場とプラハのア みに使った演技とリズミカルな動き,台詞回 ヴァンギャルディストたちの交流が始まっ しが合い寄って詩的なファンタジーに結実す た。返事を受け取ったホンズルは,タイゲと るモスクワ室内劇場の舞台と,メイエルホリ 共に自らが常任委員を努めていた《チェコ・ ト劇場の「合理的」とでも形容するほかない 新ロシア経済文化交流振興協会》を通じて, 道化芝居であった。タイーロフと面識を得, モスクワ室内劇場と《メイエルホリト劇場》 劇場を案内してもらいながら,直接その演劇 のプラハ公演をソ連側に陳情した。 観に触れることができたのである。 ホンズルは,翌25年7月にウィーンに巡演 そして1930年,ようやくモスクワ室内劇 した室内劇場の公演に馳せ参じ,アレクサン 場のプラハ公演が実現し,《新ドイツ劇場》 ドル・シャルル・ルコック作のオペレッタ でオストロフスキィの戯曲『雷雨』とルコッ 『ジロフル=ジロフィア 』で初めてタイーロ クの2本のオペレッタ『ジロフル=ジロフィ 大平陽一:1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について 145 ア』,『昼 と 夜』が 上 演 さ れ た。実 は,1925 ロスが作り物めいているよう感じられ 年のウィーン公演の頃からすでにタイーロフ た。安っぽいトリックは日常生活を再現 は,『ジロフル=ジロフィア 』のように音楽, したドラマとは場違いに見えた。私見に 美術,舞踊を駆使した総合芸術を志向する一 よれば,この上演で勝利を収めたのは, 方で,モスクワ芸術座的な自然主義演劇を断 オストロフスキィのテクストとカチェリ 固否定する姿勢を和らげ,「具体的リアリズ ーナを演じたアリサ・コオニェンの疑い ム」へと転向しはじめており,形式性の肥大 もない才能である。コオニェンの真情あ を克服すると宣言していた(Inov 2003: 329)。 ふれる台詞からほとばしる言語の音楽と そうしたリアリズムへの回帰ないしは退歩と カチェリーナの経験の深さは外国の観客 位置づけられるオストロフスキィの『雷雨』 を魅了し,オストロフスキィの力を感じ について,ホンズルより上の世代に属する演 させる一方で,観客をして構成主義的な 劇評論家のヴァーツラフ・ティッレは,脇役 ナンセンスや曲芸を大目に見ることを可 の外見や身振りが写実的であるのに対して, 能にした。タイーロフはオストロフス 主要登場人物の台詞回しや造形には様式化が キ ィ に 勝 て な か っ た の だ。(Inov 2003: 見られると指摘し,リアルなものと様式化さ 334) れた約束的なものとのバランスをとろうとす る演出家の意図をそこに見ようとしたが,よ 「外国の観客」という表現,何よりロシア りラディカルなアヴァンギャルド演劇を信奉 語新聞に掲載されたという事実は,この評者 するホンズルは,古典的なオペレッタをまる が亡命ロシア人ではないかと推測させる。さ でサーカスの道化らの演じるハチャメチャな らに言えば「構成主義的ナンセンス」という 仮面劇にしてしまった――すなわち心理的経 罵言に評者のアヴァンギャルド嫌いを読み 験よりもサーカスやアクロバットを思わせる とって良いのかも知れない。この亡命ロシア ような身体性が前景化されたいかにもアヴァ 人とおぼしき評者の『昼と夜』に対する評価 ンギャルド的な――オペレッタの方に(すな はさらに厳しかった。この総合芸術を志向す わち以前のタイーロフ,総合芸術を目指して るオペレッタの一場面を――道化が登場する いた頃のタイーロフに)強く惹かれたようだ いかにもアヴァンギャルド的な場面を―― (Inov 2003: 330-331)。 「古くさくて無内容なオペレッタをもっと無 しかしモスクワ室内劇場のプラハ公演に対 内容な芝居に,そのテクストからしても曲芸 する評価が賞賛一色だったわけではない。た からしても卑俗この上ない」と切って捨て とえば『ジロフル=ジロフィア』に対する否 た (Inov 2003: 334-335) 。 定的な評価は,つまるところ「細部から全体 ただ『ジロフル=ジロフィア』だけは「は まで実によくできているが,オペレッタ自体 るかに洗練されている」と意外なほど評価が は 退 屈 で 空 虚 だ」と い う 見 解 に 帰 着 す る 高く,タイーロフのアイデアも「悪くない」 (Inov 2003: 334)。なかでもプラハのロシア とずいぶん寛容だった。中でも衣装の美しさ 語週刊誌に掲載された匿名評はことのほか手 を賞賛しているが,この奇抜な衣装について 厳しかった。 は,政治的にも芸術的にも亡命ロシア人劇評 家とは正反対とも言って良い演劇観をもつ左 外面の輝かしさ,そして遺憾ながら空虚 翼文化人ホンズルも高く評価している。政治 な内面。それが上演全体から受けた印象 観,演劇観のかけ離れている両者が(たとえ だ。私には『雷雨』における導入部のコ ば,タイーロフの『雷雨』にについてホンズ 146 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) ルの場合は自然主義への退行の兆しがある点 代表部でプラハ言語学サークルの創立メンバ に不満を覚えるのに対し,ロシア人劇評家は ーであり,言語学者としてだけでなく,『最 アヴァンギャルド的な形式的実験がオストロ も新しいロシアの詩』や『チェコ詩につい フスキィの戯曲には場違いとするというふう て』など詩学の分野における業績でも知られ に,理由こそ違うにしても)『ジロフル=ジ る新進気鋭の研究者であったロマン・ヤコブ ロフィア』をもっとも高く評価している事実 ソンが,その発足当初から働いていたのであ は興味深い。端的に言って『ジロフル=ジロ る。1921年には,ヤコブソンの紹介によっ フィア』があらゆる芝居好きにとっていちば て採用されたのであろう,モスクワ大学の学 ん面白い,出来の良い舞台だったということ 生時代にモスクワ言語学サークルで共に活躍 なのであろう(Inov 2003: 335)。 していた盟友ピョートル・ボガトゥィリョフ しかしソ連の前衛芸術家と亡命ロシア人の ――チェコに移り住んだ後はプラハ言語学サ 間の壁はおいそれとは越えられぬものであっ ークルのメンバーにもなった構造民族学の先 たらしい。室内劇場のプラハ公演の際,在 駆者ボガトゥィリョフ――も通訳兼調査員と チェコスロバキアソ連全権代表部で催された して赴任していた。《ロシア国立文書館》に レセプションに潜り込んだ亡命ロシア人は, はホンズルからタイーロフ宛のロシア語の手 タイーロフにこう詰め寄ったという。 紙 が 保 管 さ れ て い て い る が,そ れ は ボ ガ トゥィリョフの手で翻訳されたものである 同志タイーロフ。あなたはソ連邦の達成 (Solnceva 2002: 91)。 した成果について語られたが,なぜ自由 民衆演劇を研究テーマの柱にしていたボガ を求める闘士たちであふれている収容所 トゥィリョフ,そして芸術にも造詣が深く, については口をつぐんでおられるのか? ロシア時代には画家のマレヴィチや詩人のフ 全ての権利を奪われたソヴィエトの奴隷 レーブニコフ,マヤコフスキィらアヴァン たちについて,民警たちに追いかけ回さ ギャルド芸術家と交流のあったヤコブソンが れる大勢の浮浪児について何もおっしゃ ホンズル,ブリアンらチェコのアヴァンギャ らないのか?それは彼らの存在があなた ルディストたちが親しくなったのは当然の成 方の作り上げた生活を批判するからで り行きであろう。実際,ヤコブソンはデヴェ しょう!(Inov 2003: 335-336) トスィルへの入会を認められたほど,チェ コ・アヴァンギャルドの間で影響力を持つに ところで,このレセプションが行われた全 至る。このことからして,チェコとロシアの 権代表部については,すでに出版物交換の提 アヴァンギャルディストの交流の陰には,ヤ 案について述べた箇所に言及していたことを コブソンとボガトゥィリョフが黒幕としてい ご記憶であろうか?これはチェコスロヴァキ たと推測される。正式承認以前とは言え大使 ア共和国とソ連との間に正式の国交が結ばれ 館に代わる外交機関である全権代表部に勤務 る以前の1920年に,捕虜の交換についての するヤコブソンとボガトゥィリョフは,亡命 交渉のためにプラハに置かれた外交機関で 者ではなく正規に出国したソ連国民であっ あった。チェコ側からメイエルホリト劇場や た。1930年代に入ってスターリンが国境を 室内劇場の派遣を要請したり,ソ連に訪問団 閉鎖する以前には,ソ連国民も比較的自由に を送ったりしたチェコ・新ロシア経済文化交 国外に出ることができた。ベルリンやプラハ 流振興協会にしても全権代表部と密接な関係 で暮らすロシア人の全てが亡命者というわけ を持つ組織であったと推測される。実はその ではなかったのである。 大平陽一:1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について 147 ソ連全権代表部に勤務するかたわらボガ は,創作者側の標榜する芸術原理や手法,観 トゥィリョフは,第一次大戦後チェコスロ 客の嗜好だけでなく,亡命ロシア人が数多く ヴァキア領になったカルパチア地方に調査に 住まっていた20年代の中欧やパリといった 出かけたり,ブラチスラバ大学で講義をした 文化空間にあっては,政治的立場や気分まで りするなど研究者と二足のわらじを履いてい もが演劇の評価に影響していた様を紹介した た。今日,機能=構造民族学に分類されるボ いからであり,しかもそうした政治的立場を ガトゥィリョフの業績のほとんどは,彼の こえて演劇が観客の心を動かすことがあった 1921年から40年に及ぶチェコスロヴァキア という事実を紹介したいからである。 時代でも1920年代後半以降に残されたもの 最後に1920年のカチャーロフ・グループ になる。これは一方でボガトゥィリョフが の公演について書いたミロスラフ・クルレ チェコ・アヴァンギャルドの左翼演劇人たち ジャ――イデオロギー,芸術の両面において と 親 交 を 深 め て い た 時 期 に,他 方 で 彼 が 左翼に属していた20世紀クロアチア最大の 1926年に結成されたプラハ言語学サークル 文学者クルレジャのエッセイの引用で,小論 のメンバーとして機能構造主義の言語学と間 を締めくくりたい。 近に接していた時期にあたる。ホンズルやブ リアンとの交流するうちに演劇に対する関心 芸術座の連中には気に入らないことが多 が自然に強まる一方,芸術記号論の創始者と い。まずどこから見てもブルジョワ的で も言える二人のプラハ言語学サークルのメン 古臭いそのレパートリーだ。その上に彼 バー,チェコの美学者ヤン・ムカジョフスキ ら特有の旧制度の信奉にツァーリズムと ーと旧知のヤコブソンとの親密な交流の結果 いう古き良き時代へのノスタルジー,病 書かれた演劇論によって,ボガトゥィリョフ 的なまでに軟弱で,破廉恥なほど女々し は演劇記号論と呼ばれる分野の創始者とされ い,肥 大 し た セ ン チ メ ン タ リ テ ィ。 るに至った。彼が先鞭をつけた演劇記号論 […]だがこうした認めがたいあれやこ は,1930年代に入るとプラハ学派の構造美 れやにもかかわらず[…]私は生きてい 学の優れた業績が集中する分野となってゆ る限り,クニッペル=チェーホワが,泣 く。 き笑いしながら神経質にマッチをすって は消していた瞬間を忘れることはないだ むすび ろう。なんと驚くべき女か,ヴェルシー 以上見てきた通り,一編の劇評というのは ニン(カチャーロフ)が愛の告白してい より客観的な評価と,より主観的な評価が不 るかたわらで,笑い声をたてマッチを 可分に入り交じった評価的空間であり,それ 折っているとは。[…]『三人姉妹』。灰 らの劇評が演劇人たちや一般の観客と相寄っ 褐色の汚い灰のようで,ボンヤリしたロ てつくりだしている演劇界の謂わば世論は一 シアの夕暮れ,オーバーシューズや灯油 枚岩的なものではなく,多声的なものなので ランプや泥道がつきもののロシアの田舎 あろう。宿命的に一回的性格をもつパフォー のアルツェバーシェフ的,チェーホフ的 ミング・アーツについて劇評を頼りに妥当な な夕暮れ,幸薄い二人,人生に満足でき 評価を下すことは不可能である。また,小論 ぬ男女が暗い部屋の長いすに座っていら においてそうしたことを試みたつもりはな れる夕暮れ。手に手を取ると心臓は早鐘 い。20年代国外ロシアにおけるロシア演劇 のように打ち出し,通りからは遠い声, をめぐる様々な見解を長々と紹介した意図 消え入りそうな声がうつろに響いてくる 148 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) […]そう,それは演劇のもたらす偉大 フはマッチを折っていた――それがもた な,真に親密な,それであって厳粛な瞬 らす印象は,観客が思わず知らず神経質 間だ。空間とすべてのリアルのものがど に指を鳴らし初め,その頭に血が上るほ こかへ消え去る瞬間,舞台からあなた方 ど強かった。(Vagapova 2007: 137-138) の脳みそに陳腐きわまりない感化力が流 れ込み,悪魔的で不可解で,暗く魔術的 [本研究はJSPS科研費15K02426の助成をう な戯れが始まる。クニッペル=チェーホ けたものです] [引用文献] Demidova, O. P. 2010. „ Memuary kak prostranstvo kak èkzistencii, “ Memuary v kul'ture russkogo zarubež'ja. (Moskva: Nauka): 23-32. Dubrovina, T. 1995. „Materiary k istorii Pražskoj gruppy MXT,“ Václav Veber, et.al. (eds.) Ruská a ukrajinská emigrace v ČSR v letech 1918-1945 : sborník studií, Sv. 2. (Praha : Seminář pro dějiny východní Evropy při Ústavu světových dějin FF UK): 762-768. Fedrov, F. P. 2010. „ Memuary kak problema, “ Memuary v kul'ture russkogo zarubež'ja. (Moskva: Nauka) : 5-22. Honzl, Jindřich. 1928. Moderní ruské divadlo. (Praha: Jan Fromek). Inov, Igor'. 2003. Literaturno-teatral'naja, koncertnaja dejatel'nost' bežencev-rossijan v Čechoslovakii (20-40-je gody 20-go veka) I. (Praha: Národní knihovna ČR - Slovanská knihovna). 諫早勇一 2012. 「異境のモスクワ芸術座:モスクワ芸術座プラハ・グループと女優マリア・ゲ ルマノワ」 『辺境と異境:非中心におけるロシア文化の比較研究』第3号(科学研究費補 助金研究成果報告書) : 1-11. 木村浩 1992. モスクワ(世界の都市の物語) 』 , 新潮社. Korčevnikova, I. L. 2012. “Ona žila, kak čuvstvovala, i čuvstvovala, kak žila," Marija Germanova, Moj larec s drogacennostjami: Vospominanija. Dnevnik. (Moskva: Russkij put'): 5-48. Litavrina M. G. 1995. “K portretu Russoj Duze : k voprosu o tvorčeskoj rukovoditekja Pražskoj gruppy MXT M. N. Germanovoj,"Václav Veber, et.al. (eds.) Ruská a ukrajinská emigrace v ČSR v letech 1918-1945 : sborník studií, Sv. 2. (Praha : Seminář pro dějiny východní Evropy při Ústavu světových dějin FF UK): 769-776. Ostrovsky, Sergei. 1992. “Maria Germanova and the Moscow Art Theatre Prague Group," Laurence Senelick (ed.) Wandering Stars: Russian Emigrè Theatre, 1905-1940. (Iowa City: University of Iowa Press): 84-101. Solnceva, L. P. 2002. “Petr Grigor'evič Bogatyrev i češkaja teatral'naja kul'tura,“ L. P. Solceva (ed.) Petr Grigor'evič Bogatyrev : Vospominanija. Dokumenty. Stat'i. (Sankt-Peterburg: Aletejja): 73-108. Vagapova, N. M. 2007. Russkaja teatral'naja èmigracija v central'noj Evrope i na Balkanax: očerki. (Sankt-Peterburg: Aletejja).