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植松 二郎

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植松 二郎
かな緑に、さらにもっと深い、常盤
の松のごとき色といわれる千歳緑へ
と変わった。そしてふいに有機物の
弾性を示し始め、ぷるるん、と湯で
もどした高野豆腐のように震えた。
﹁ ま ち が い あ り ま せ ん。 あ れ は、 河
あっと啓示を受けた。
不覚といえばかなり不覚、それま
で私は﹁おかっぱ頭﹂の語源が河童
河童について、すこし調べてみよ
うかと思い立ったのは、ふたつの理
のヘアスタイル・女児のおかっぱ頭
はわかっていた。そのついでに、あ
Ⅷ 水あふるる里にて
だと考えたこともなかった。雨具の
ほうの合羽はポルトガル語のカパが
由からだった。どちらもちょっとお
からも河童の影が削除されていたに
語源だとだれかに教わっていたから、
かしな理由で気が引けるが、次のよ
ちがいない。
理解した。ああ、まんなかにお皿を
雨に濡れた少女の頭のてっぺんは
光っている。それを見て、とつぜん
あれと河童とは縁もゆかりもないの
うなものだ。
ひとつは、雨の街で見かけた、傘
も差さずに懸命に泣くのをこらえて
歩いている少女のこと。
しだろう。老人の包容力が伝わって
それは、ホッとして気を許したしる
少 女 は み る み る 泣 き べ そ に な っ た。
固まった彼女の緊張をほぐしている。
うすで少女に屈みこみ、カチカチに
を越された。老人は慈愛に満ちたよ
み出すよりまえに、白髪の老人に先
う。手助けに駆けつけようと私が踏
た。すると、水は一気に吸いこまれ
た彼は、ためしに川の水をかけてみ
い。もしや、と胸の高鳴りをおぼえ
片かと思って拾うと、意に反して軽
ほどの大きさで、うすみどり色。岩
したという。手にすっぽりおさまる
流釣りを道楽とする彼は、過日発見
こ と が あ る と 言 い 張 っ た の だ。 渓
という経験がひとつ。
もうひとつは、まさにその河童の
皿 の こ と だ。 知 人 が カ ケ ラ を 見 た
乗せた河童の頭だ⋮⋮。
いるのだ。もう自分の出る幕ではな
る。吸いこんだとたん、その岩片の
ひと目で迷子だとわかった。母か
父 か、 そ れ と も 祖 母 か 祖 父 に 連 れ
いと私は立ち止まって眺めるだけに
ようなものはうすみどり色から鮮や
ら れ て き た 街 で、 は ぐ れ た の だ ろ
したのだが、少女のヘアスタイルに、
られていた。しかし眺望はいい。茨
城県が一望のもと。
なんと120メートル。奈良の大仏
メートルほど、ニューヨークの
曇 っ て、 全 体 に 灰 色 の 景 色 で は
あ っ た が、 あ あ、 あ れ が 霞 ヶ 浦 だ、
じていたのだ。
が
うから、圧倒的の威風堂々。ギネス
と大きな水の面積はすぐに確認でき
メートルほどとい
ブックも公認する世界一のスケール
自由の女神でも
JR常磐線牛久駅からバスで牛久
沼を目指そうと決めた。
だそうだ。
る。琵琶湖についで日本で二番目に
駅を降りたら、独特のにおいがす
る。これは水のにおいではないかと
すかな風に赤やピンクや白が揺れる
いる。ちょうどコスモスの盛り。か
れ。ブーメランみたいな形の沼。
だろう。方角からすると、たぶんあ
それを取り囲むように、いくつか
の沼が点在している。牛久沼はどこ
大きい湖である。
しかし、どうも乗るべきバスをま
ちがえようだ。座席のとなりの人に
その真上に、天を突くかのような阿
思った。さて、においを頼りに沼を
そう彼は断言するのだ。
少女のおかっぱ頭と、その千歳緑
のぷるるんがしばらく私の眼前にち
尋ねると沼には行かないと気の毒そ
て い る と、 思 わ ず、﹁ お お ッ﹂ と 声
適当なところで下車して、方角だ
けでも確かめようときょろきょろし
ないため、 ミリほどの厚みしかな
あって、巨大な質量を支える必要が
説明文によると、仏像表面の青銅
板は葉のように浮いているだけで
おこうと、もういちど眼下を見渡し
る。牛久沼の方角をよく頭に入れて
まれたのもさもありなんと思えてく
目指そう。
らついてしかたなくなった。で、河
弥陀如来である。
カッパという呼称はもともと関東
地方でつかわれてきたもので、ガワ
が出た。なんということか、中空に
いらしい。銅板で全体の質量を支え
こうしてみると、このあたり一帯
はじつに水面が多い。河童伝説が生
タロ、ヒョウスベ、スイジンなどと
巨人が立っているのだ。
かすみがうらマラソンという市民
マラソン大会がある。平成 年に土
と記憶がよみがえってくる。
た。霞ヶ浦は、つくづく広い。そう
メ ー ト ル ま で、
胸にあたる地上
エレベーターで昇ることができると
いえば、あの湖周を走ったのだなあ
ひどく陰鬱である。だが、目を凝ら
いう。河童の沼へ向かうはずが大仏
る奈良の大仏と大きなちがいだ。
すまでもなく、入道などの妖怪では
の胎内に入ることになるのはへんな
どんより曇った日だったから、そ
うした空を背景にしたその立ち姿は
呼んでいるところもあるそうだ。こ
の妖怪、ほぼ日本全国、水景色のあ
るところにはほとんど分布している
といっていい。
なかった。大仏である。
成り行きではあるが、ナントカと煙
は高いところに昇る、好奇心をおさ
浦市市制 周年を記念して始まった
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大会だ。第 回からは、全国盲人マ
まさか大仏に展望台を設けるわけ
に は い か な か っ た か ら だ ろ う、 ス
するようになった。全盲の三木君の
市民ランナーのはしくれである私
は、いつからか視覚障害者の伴走も
ラソン大会も兼ねることになる。
リット状の小窓だけがこっそり開け
えがたくなった。
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その中から、手始めに牛久沼を目
指した。小川芋銭という明治元年生
こ れ が、 ま た ば か で か い。 高 さ、
大仏だった。
尊である阿弥陀如来像、通称・牛久
面してそれは立っている。同寺の本
真宗大谷派から分離独立して結成
まれの画家が﹃河童百図﹄といって、
された浄土真宗東本願寺派の霊園に
河童をたくさん描いているのを思い
出したからである。
芋 銭 は 少 年 時 代 を 牛 久 で 過 し た。
したがって作品は空想の産物ではな
いのかもしれない。つねづねそう感
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うに至った次第である。
うに教えてくれる。
つ い ふ ら ふ ら と、 そ の 足 元 ま で
行ってみた。あたりは花畑になって
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童について調べるしかないか、と思
童の皿のカケラです﹂
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うえまつ じろう 作家。1947 年神戸市生まれ。
『春陽のベリーロール』で第 12 回織田作之助賞、
『ペンフレンド』で第 40 回毎日児童小説賞を受賞。
植松 二郎
伴走者としてこの大会に参加したの
月だった。
がミソだ。そしてラジオを一台用意
する。三木君はロープの端をぎゅっ
牛久大仏の胎内から出て、私は沼
へ向かわず、阿見町にある陸上自衛
隊武器学校へ足を運んだ。
そ こ に 見 学 可 の﹃ 予 科 練 記 念 館 ﹄
があると聞いていたからである。
披露されたなあ。入り江となった海
﹁昭和
予科練記念館は、その敷地内に建
てられている。案内板にこうある。
ふと円谷幸吉を想ったのは、自衛
隊ということからの連想だろう。
にあった海軍航空隊である﹂
年ま
七つボタンは桜に錨、の予科練習
生は、全国でおよそ 万人が教育を
は﹁事柄﹂だった。重く、哀切の度
合いが比較にならなかった。
そういえば、予科練記念館の写真
に見る風貌のどれも、どこか円谷幸
吉に通じている気もする。顎が張っ
が、 腰 や ア キ レ ス 腱 を 故 障 し、﹁ も
おいおい、河童はどうしちゃった
のだ。なかなか、牛久沼にたどりつ
て、頑丈な奥歯を秘めている。
館内には、たくさんの遺品が展示
されている。父母にあてた、あきら
う走れません﹂との遺書を残し、東
シコ大会のホープとして期待された
かに遺書とわかる文面の手紙が几帳
かないのである。うろうろしている
て い て、 私 は 見 学 に 訪 れ た こ と が
いまはもう閉じたが、福島県須賀
川の彼の生家の一室が記念館となっ
つけたら、河童は泣いて詫び、もう
めようと村人が河童を松の木に縛り
小川芋銭に﹃河童松﹄という文章
がある。わるさをする河童を懲らし
あの円谷幸吉。
あった。便箋にしたためられた遺書
ている。
京練馬の自衛隊体育学校宿舎で右頸
面な字で残っている。
練習生の顔写真も数多くある。ど
れも若い。先刻、入口で先輩に指導
されつつ応対していた少年とほぼ同
世代だろう。
見学者の数は、予想をはるかに超
えて多い。ほとんどが年配の人々で
も展示されてあった。上部に
た。 そ れ 以 来、 水 難 が な く な っ た。
しませんと誓ったので放免してやっ
あ る。 遺 品 を 食 い 入 る よ う に 見 る。
チほど、和紙の典雅な文様のように
その松を、河童松という。
セン
同行の人とあまり言葉を交わさない。
薄紅色が滲んでいるのは頸動脈から
律しているという風情だ。
た﹂とごちそうになったことへの感
に、
﹁あれは美味しゅうございまし
緑色に震える皿のカケラならばぜひ
人が見たという、ぷるるんと美しい
そういうのは、あまり見たくない
なあ、とも思った。それよりも、知
昭和史の自殺として、私には三島
由紀夫よりもずっと衝撃が深かった
うから、霞ヶ浦の鯉のあんかけでも
ま、次の機会にしようか。ヘルペ
ス被害からはすでに立ち直ったとい
の血だ。兄弟や親戚のひとりひとり
を 歩 い た。 ひ ょ っ と す る と﹁ 三 木 ﹂
謝を連ね、最後に父母に万感の詫び
私は手紙類をひととおり読んでか
ら、写真と名前を見比べながら館内
という苗字がありやしないかと思っ
といまでも思っている。三島由紀夫
とも見つけたいが。
を述べた遺書。
をじっくり観察しよう。甥の、全盲
の三木君と面影に重なるところがあ
るかもしれない。
霞ヶ浦大橋
琵琶湖についで、わが国で 2 番目に面積の大きい
湖・霞ヶ浦。湖上に架かる土浦市と行方市を結
ぶ霞ヶ浦大橋は、平成 17 年より通行料が無料と
なった。
年の
筆になるわけだ。ラジオはスタート
三木君が、鯉のあんかけを食べな
がらこう言った。
じが言っていました﹂
こうと思い立ったのだ。
陸 上 自 衛 隊 武 器 学 校 の 入 口 で は、
若い隊員がていねいに応対してくれ
る。あきらかにまだ十代という少年
隊員が、先輩の兄貴分に指導を受け
が陸に封じこめられてできた海跡湖
制度が設立されて以来、昭和
くほっとしている反応が、われなが
戦局が終焉に近づいた昭和 年秋
に神風特別攻撃隊による特攻戦法が
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たからだ。もしあったら、その写真
3
食って帰ろうか。
帆曳き船発祥の地の碑
帆曳き船は、霞ヶ浦独特の漁法。かつては湖面
が帆で真っ白になるほどだったという。昭和 50
年代前半でその伝統は閉じ、現在は観光用に数
少なく走らせるのみ。
は平成
と 握 り、 握 っ た ま ま 走 る。 つ ま り、
年 齢 で は 完 全 に 光 を 失 っ た と い う。
地点に置き、その音声で一周まわっ
杭を中心として自分がコンパスの鉛
頭脳明晰な男で、大学で宇宙物理学
たことがわかる。
三木君は幼稚園に通うころから次
第に視力が減衰し、小学校に上がる
を専攻した。その学科に全盲の学生
から二人でこの地の名物、鯉料理を
﹁ 霞 ヶ 浦 と い え ば 予 科 練 で す ね。 ぼ
食べた。それをみょうに印象的にお
あのときは時間がなくてその記念
館に行けなかった。今回は、沼に行
は、後にも先にも彼のみという。
卒業後、精密機器メーカーに就職
した。コンピュータにへばりついて
ぼえているのはわけがある。同じ年
くまえにちょっとそっちへ寄ってい
くの叔父が予科練だったって、おや
います、
という。
ディスプレイを触っ
月に鯉ヘルペスという感染症が
年のかすみがう
彼と走った平成
らマラソンは快調だった。終わって
て操作できる特殊な機種があるのだ
の
広まり、あっというまに霞ヶ浦の養
殖の鯉が全滅してしまうという事件
があったからだ。
その悲劇の半年前のあの日、もち
ろんそんな感染症の予感などさらさ
私といっしょに走る以外に、彼は
個人トレーニングもやっていると聞
だということも、そのとき彼から教
で、わが国海軍航空兵養成所の中枢
ながら、見学者に接している。
いた。家の近所の広場をつかう。広
わった。とにかく物知りな男だ。こ
的役割を果たしてきたのが、この地
センチほ
どのロープを輪にして、私の右手と
らない中で、鯉のあんかけを食べな
場の中心に杭を打つ。もちろんこれ
の 湖 を め ぐ っ て、 い ろ い ろ 話 題 が
がら、霞ヶ浦についての彼の博識が
は目の不自由でないお姉さんにやっ
移ったものだ。
受け、18564人が今次大戦で戦
らふしぎだった。
始まった。若い命が、石つぶてのよ
20
5
うちに、方角がこんがらがってもき
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動脈をカミソリで切って命を絶った、
うに散った。
年の東京オリンピックのマ
昭和
ラソンで銅メダルをとり、次のメキ
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年、 横 須 賀 に 予 科 練 習 生 の
てもらう。その杭に長いロープをく
死した、とも記されている。
にがっちり固定してしまわないこと
くりつける。結び目を輪にして、杭
の伴走である。
三木君の左手をそれでつなぎながら
海辺をいっしょに走る。
三木君の勤務が休みの日、彼は私
の住む町まで白杖一本でやってきて、
ただ敬服するばかりだ。
そうだ。想像もつかないことであり、
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あ、そうだ。
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のは﹁事件﹂だったが、円谷幸吉の
陸上自衛隊武器学校
阿見町にある陸上自衛隊武器学校は一部を除い
て見学可。旧軍火砲や三式中戦車や車両館など、
くわしい解説付きで展示されている。日清・日露
戦争当時のものもある。
4
が、見当たらなかった。なんとな
山本五十六元帥像
陸上自衛隊武器学校の内部にある予科練記念館・
雄翔館。その前庭にはソロモン諸島ブーゲンビル
島上空で搭乗機を撃墜され戦死した山本五十六
元帥の像が建つ。
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