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市民的自由の欠如およびその悲劇

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市民的自由の欠如およびその悲劇
ホッブズにおける道徳的自由と
自由論
︵一四︶
口 およびその悲劇
市民的自由の欠程 ︵自由論補遺二︶、
大谷恵教
ホッブズの悲劇は、なによりもまず人間をペルソナとして把握していない点にある。すなわち、拙著﹃政治理論の
基礎としての人間性論﹄の第一部第二章﹁トマス・ホッブズの人間観﹂の冒頭で筆者が指摘したように、ホッブズが
描き出している人間像は、 ﹁中世までのキリスト教的世界のなかで主張されてきた“神の僕”たる人間ではなく、そ
︵1︶
れから解放された人間であった。人間ばキリスト教の信仰と道徳とに密接に結びつけられた人間ではなかった﹂ので
ある。
ホッブズは、﹃リヴァイアサソ﹄第十九章のなかで、﹁たいていは、公共の利益が私的利益と交差するようなことが
起こると、かれは私的利益のほうを選ぶのである。なぜなら、人びとの諸情念は、 一般にかれらの理性よりも強力だ
からである﹂︵ho門夢①ヨ。ωけ弓碧f霞90℃二げ=ρ⊆Φぎ8冨馨。匿口。Φδ自。のωΦけげΦづユく鉾ρゲ①只臥魯房夢①
︵2︶
﹁人びとの諸情念はかれらの理性よりも強力である﹂というかれの言葉は、かれの人間観において決定的な思至をも
bHぞ讐。”hoH9①℃⇔ω巴。昌ωoh日①P9おooヨヨ。巳楓ヨ。おつ08葺暴き夢①冒図Φ9ωo戸︶と述べているが、この
早稲田社会科学研究 第29号(S59.9)
69
っている。かれが描く人間像は、道徳から解放された〃非人格的人間”であって、レオ.シュトラウスやマイケル.
オークシ・ットらが指摘しているξ唱理性よりも〃意思”と〃感炉のほうが徹頭物覆製すると・ろ”意思、
感情、感動、衝動、本能ないし欲望”の”情念的入間”なのである。
なるほど、ホッブズは、かれの諸著作において、 ”理性”は中世までの人間像から解放された人間の性質の一部で
あるとい・てい郭・しかし・・§.・。”・という語は、ホ・ブズにおいては、・ックとは違って、場合によそ”理
性”と解釈したり、あるいは”推理”と解釈したり、さらには推理するということは、 ﹁たいていの人びとは、ある
程度数を計算する場合におけるように、推理︵﹃①簿ωOづ一口αq︶を少し用いるが、それは日常生活においてはかれらには
ほとんど役立たない﹂という言にみられるよう黒雲んど〃計算する”と㌢立五味にまでな・ていぎ、かれの人間
像は〃計算つく”の、あるいは〃打算的な”人間にまでなっていくのである。そのうえ、ホッブズにおいては理性は
︵6︶
﹁人間に生まれつきのものではなく、努力によって獲得される人工的なもの﹂であり、しかのみならずホッブズの思
想全体を考察するとき、シュトラウスが述べているように”理性の効力”ははなはだ疑わしくなって無力なものとな
@“万人の万人に対する戦争状態”における理性の法である自然法の無力さに典型的に示されているように、理性
対にそうであるようなものは存在しないのである。また対象それ自体の性質から引き出されるべぎ善悪についての﹁
回想Oo日8ヨ弓二三Φ︶という語は、常にそれらを使用する人間との関連において用いられるのであって、完全かつ絶
そうした人びとが自然に存在する自然状態においては、ホッブズが﹁これらの善悪および軽視すべき︵O。。P国く三
動、衝動、本能ないし欲望”の人間、あるいは欲望達成のための〃打算的な”人間だといわざるをえないのである。
はかれの理論から遂に全面的に後退せざるをえなくなるので、かれの描く人間はその本性において〃意思、感情、感
幹W
70
ホッブズにおける道徳的自由と市民的自由の欠如およびその悲劇
般的規準︵鋤Ooヨヨ。口園乱①ohOoo豪雪山南く農︶も存在しないのである。そのような一般的規準は、︵コモソーウ
ェルスが存在しないところでは︶そのひと個人から、あるいは︵コモソーウェルスにおいては︶コモソーウェルスを代
表する人格から、あるいはまた意見を異にする人びとが同意によって設け、その判定をその事柄の規準とするような
仲薯や判定老から引き出されるのであ栖あるいは﹁正邪、正義と歪義の観念はそ・︵万人の万人に対する闘
争状態一筆者註︶には存在する余地がない。共通の力が存在しないところに法はなく、法のないところには不正義
はない。⋮⋮︵中略︶⋮⋮正義と不正義は、孤独状態にある人びとにではなく、社会にある人びとに関係する性質な
のであ葱と断じているように・万人が共通にしたがうべぎいかなる法も正義も普遍的な規準や道徳律も一切存在し
ないので、人びとは”自然的情念”をムキ出しにして、﹁力を手段として無限に欲望しかつ意思し続ける﹂、すなわち
︵0王︶
﹁名声、富、および権威を求めて、飽くことなく恒久的に競争する﹂のである。そしてこの競争は、自分のほうが他
の人びとより多くの知恵を有しているという各人の優越感情から生じるので、決して偶然的、偶発的なものではな
い。かつそのような人びとの間には、恒久的かつ潜在的な〃疑惑”と〃不信”と“敵意”と〃他者からの不断の恐
怖〃とが存在していて、人格的な交わりの関係や内面的精神的な紐帯はまったく存在しないのである。ホッブズの描
ぎ出している人間像は、また砂粒のような“原子的個人”なのである。
ところが、事態はそれにとどまらないで、さらに悪いことには、各人の他者に対する優越感情の思惑にもかかわら
ず、各人の能力を綜合的にみるとほとんど平等だという”能力的平等”論一人格的平等論ではなくて一を,ホッブ
ズは展開するのである。﹃リヴァイアサソ﹄第十三章の冒頭で、ホッブズは、﹁自然は人間を身体と精神の能力︵昏①
㍗。巳江①ωohσo身,p昌仙ヨーロ◎︶において、次のように平等につくった。すなわち、明らかに他のひとよりも肉体的
71
に強く、あるいは精神の敏活なひとが、しぼしばあるとしても、しかもなお、すべて一緒にして計算してみると︵芝げΦづ
義”︵馨。邑ぎ︶が横たわぞ洗wそしてその盤徳主譲人間の間においては無道徳主謹とどまりえず、”不
ある。すなわち、ホッブズの人間観および自然状態論には、リソゼイが指摘しているように、一貫して”無道徳主
をも意味するので、うまくやれば成功するかもし肌ないという希望ば、各人に隣人の裏をかくように試みさせるので
満足tを求めての﹁力の避争状態﹂にほかならない。そして能力の平等は恐怖の平等のみならず、また希望の平等
の時どきに欲求するものを獲得するという、継続的な成功、換言すれば、継続的な繁栄﹂一継起する欲望の恒久的
︵12︶ ,
このようにして、ホッブズにとっては、人間の赤裸々な自然状態は、平等の”至福”︵hΦ一一。一q︶−﹁ひとが、そ
や正義などは一切無視され、ひたすら自然的情念のみが全面に出てくるのである。
的情念であって、権利の主張一欲望の達成一や動物的生命の維持という自己保存の目的のためには、道徳や倫理
と、ほとんど平等だというのである。その能力的平等を惑えているのが、 “ひそかな策謀”とか”共謀”という自然
避にとってば支障のない程度のものであって、身体的能力、知的能力等々人間の能力を全体的綜合的に計算してみる
ている。すなわち、ホッブズは能力的差異を全然認めていないわけではないが、しかしそれは権利の主張や危険の回
︵11︶
との共謀︵8ほ①自①轟身︶によって、もっとも強いものを殺せるだけの十分な強さをもっているのである﹂と主張し
も弱いものですらひそかな策謀︵ω①O同Φ一 ヨ節Oげ一昌餌け一〇一P︶により、あるいは自分自身と同じ危険にさらされているもの
いほどそんなに著しくはない︵昌Oけ ωO ∩Oコω同αΦ﹃pj一︶一Φ︶のである。なぜならば、肉体の強さについてい・兄ば、もっと
それにもとづいて自分自身のものとして要求しうる利益はどんなものでも、他のひとがそのひとと同様に主張できな
巴=ωHoo貯80二叶。ケqΦチΦ﹃︶、ひととひととの間の差異︵夢①商舗。﹃o昌。Φげ馨≦Φ①旨ヨpP⇔コqヨ帥昌︶は、あるひとが
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道徳主義”︵一音ヨ。鐘一凶ωヨ︶に堕さざるをえないのである。ここに、その当然の帰結として、“強力”と“欺賄”︵閃。容Φ
〃万人の万人に対する戦争状態”が展開されるのである。その“万人の万人に対する戦争状態”においては、 ﹁勤労
p巳岡毒乱︶が二つの根本的な徳︵夢①け≦00母αぎ巴く一二ε①ω︶であるところの公開の衝突、すなわちかの有名な
の余地はない。なぜなら、勤労の果実は確かでないからである。したがって、土地の耕作は行なわれず、航海も、海
路で輸入されうる財貨の使用も行なわれず、便利な建築もなく、移動の道具もなく、多くの力を要する物を移転させ
る道具もなく、地表に関する知識も時間もなく、技術も文字も社会もない。そしてもっとも悪いことには、不断の恐
怖と暴力による死に対する恐怖とが存在し、人間の生活は孤独で、貧しく、険悪で、残酷で、しかも短かい﹂のであ
以上のような人間の姿は、中世までの栓桔から解放された〃世俗的”な人間、倫理と道徳から切り離なされた〃恒
俗的”な近代の政治の世界における人間、ブラトソ的な運性とは異なった、推理︵計算あるいは打算︶し、思索し、
懐疑し、そしてなにぴとの助けも借りずに自分の足で立派に一入立ちしていけると考えた”近代的、革新的な人間”
︵5︶
悲劇である。このような人間の姿を、ホッブズは﹃リヴ一,イアサソ﹄の第十二章において、 ﹁各人は、とくにあまり
先のことを考慮するひとば、プロメテウス︵それは慎慮あるひとのことだと解釈される︶に似た状態となる。なぜな
らば、プロメテウスはひろい眺めをもつカウカスの陶にしばりつけられ、そこでは鷲がかれの肝臓を餌にして、夜の
間に恢復しただけを昼繭にくいつくしたように、まさに丁度そのようにひとが、将来に気を配って、あまりに遠い前
方を見るならば、昼の間中、かれの心は、死や貧困やその他の災難に対する恐怖に苦しめられて、眠っているときの
73
菊
lA・D・リソゼイの言葉を借りれば、﹁プロメテウスのような発明の才に富む革新者﹂一のディレンマであり、
ホッブズにおける道徳的自由と市民的自由の欠如およびその悲劇
︵16︶
ほかには、かれの懸念は休止したり途切れたりすることはないからであるしと象徴的に述べているが、このような人
聞はそれ以上であっ‘て、眠っているときですら悪夢にうなされるとまでいいうるであろう。
以上のように主張して描き出すホッブズの人間像ぱ、近世において中世までの一切のものi一理性的権威や倫理な
どをも含めて から解放された人間は、なるほど近代的韓土のひとつのパターンかもしれないが、きわめて楽観的
に描かれていて、相互の間に精神的あるいは内面的な紐帯がなく、社会を構成しえない“原子的人間”であって、綜
合能力においてほぼ平等であり、しかも各人はその平等を意識せずに、 “強力”と〃欺哺”という無道徳主義から不
道徳主義にいたる手段をもって、 ﹁名声、富、および権威を求めて飽くことなく無限に欲望し、意思し続け﹂、互い
に“懐疑”と“不信”と“敵意”と“他人からの暴力による死に対する恐怖”によって常に脅かされ、そして遂には
﹁孤独で、貧しく、険悪で、残酷で、短命な﹂ “万人の万人に対する戦争状態”というこれ以上ない悲惨な〃窮境”
へと陥っていくのである。
ここに、人間の歴史においては、あまりにも極端な楽観主義的人間観の終着駅は、実はまさにそのまったく正反対
物である悲観主義的人間観であるというディレンマ、パラドックスないしアイロニーに到達することが、如実に示さ
れていると同時に、独立で平等であるかもしれないが、各人がともにしたがうべき普遍的道徳律もなければ、.したが
って相互の間に有機的な結合もなく、自然的情念のみが優先し、それに動機づけられて各人各様にそれぞれの力と推
理や打算によって自分の私的欲求を最大限かつ恒久的に満足させようとして相い争う個人主義は、 〃道徳的自由”な
き機械的個人主義、原子的個人主義、情念的個人主義というべきであり、そのような個人主義の上に成り立つ社会は
機械的な原子的社会であり、それは利害や目的が一致するかぎり社会を形成しうるが、ひとたび利害や目的が相い反
74
ホッブズにおける道徳的自由と市民的自由の欠如およびその悲劇
するとたちまち解体して無政府状態に陥ってしまうものであることを知るのである。そのような社会を、F・テソニ
ースはゲゼルシャフト︵︵甲①ω①一一ωOげ鋤h一︶と名付けたが、ホッブズの人間観と自然状態論は、まさにそのような機械的
個人主義とその上に成り立つゲゼルシャフト的社会の欠陥を、反面教師として教えているといえよう。
いずれにせよ、ホッブズの理論は、非人格的な情念的、機械的ないし原子的個入主義を人間に適用した結果、以上
のような〃万人の万人に対する戦争状態”、あるいは原子的社会の解体ともいうべき悲劇的場面をもって、第一の幕
を閉じるのである。
さて、 〃万人の万人に対する戦争状態”においては、すべてのものが綜合的能力において実質的には平等であるの
で、いかなるひとも、他の人びとから崇められるような権威を一切もっていない。また、いかなる内面的精神的な紐
帯や共通の感情によっても他の人びとと結びつけられていないので、かれ自身の私的利益を追求するのみである。そ
のような自然状態においては、人間のあらゆる行為をその根底において動機づけるものは、他者から自分の身体の安
全を常に保持しようとする〃自己保存本能”と、 “自利”ないし〃私的利益”を追求する“利己心”という“自然的
情念”である。そのような状態においては、拘束力としての権威は本質的に拒否されるのである。
そのようないかなる権威も存在しない自然状態において、 “自己保存”と〃自利の追求”という自然的情念を満足
させようとするなかから、ホッブズ独特の〃自然権”と〃自由”についての次のような思想が、 ﹃リヴァイアサソ﹄
第十四章の冒頭において展開されるのである。
﹁著述家たちが一般に自然権と呼ぶ自然の権利とは、各人が、かれ自身の自然︵三ωo≦づZ讐ξ①︶、すなわちかれ
自身の生命を維持するために、かれ自身の欲するままにかれ自身の力︵ゴ一ωOぞく富唱O芝①﹃︶を用いるという各人がもつ
75
自由︵二σ曾ξ︶である。それゆえ、かれ自身の判断と理性︵三ωo乏⇒言らαqo∋Φ葺曽ρ巳菊①pωoコ・この開①髪。冨は、
この場合、推理ないし計算と訳しうる一筆者註︶において、そのためにもつとも適当な手段だと思われるあらゆる
ことを行なう自由である。
自由︵=σΦ詳.楓︶とは、この語が本来意味するところによれぽ、外的障害の欠如︵臼①含。σω①昌80hΦ蓉興轟一ニト昌O①,
象日①葺ω︶と解釈される。 この障害は、人間がかれの意図することを行なう力の一部分をしばしば取り去るが、しか
︵17︶
しかれが残りの力を、かれの判断と理性において用いることを阻止することができない。L
また、同書二十一章では、”自由”について、﹁自由︵ピ3興ξ層。﹁団お巴。ヨ︶とは、︵本来は︶反対の欠如︵夢①
にまかせられているのである。また、 “自由”とは、外的障害や反対の欠如、すなわち行なおうとする意思や欲望や
あり、その際用いる手段に関しては普遍的基準はなく、それは各人の判断と理性 推理、計算、あるいは打算
すなわち、ホッブズにおいてぽ、 “自然権”とは、自己保存のために、各人の欲するままにその力を用いる自由で
oh芸Φヨp口︶が意味されるのである。人間の自由とは、かれが行なおうとする意思、欲望あるいは性向をもっている
︵18︶
事柄を行なうに際して、それを止めるものがなにもないことにある﹂と断じている。
望、ないしは性向︵臼①三FαΦωマρ霞ぎ。一営鉾δ昌︶の自由が意味されるのではなくて、人間の自由︵厳①い一σ臼ξ
張し、さらに”自由意思”と”人間の自由”に言及して、﹁自由意思︵国お①i乏匿︶という語の使用からは、意思、欲
物事のなかで、かれが行なおうとする意思をもっている物事を、行なうことを妨げられないひとのことである﹂と主
よれば、自由人︵﹀団目ΦΦ−昌々︶と鳳、かれの強さと知力とによって︵9三ωω茸①コぴq臼餌巳芝詳︶、かれがなしうる
9σωo口。①ohO薯。ω︸江8︶を意味する﹂と述べ、〃自由人”に関しては、﹁この本来の受けいれられている語の意味に
76
ホッブズにおける道徳的自由と市民的自由の欠如およびその悲劇
性向をもっている物事を、なんらの妨害や反対や制約を受けることなしに行ないうることであって、その際制約があ
るとすれぽ、各人の強さと知力の不充分さだけだというのである。
ここにみられるホッブズの自由観においてぱ、悪魔の誘惑に負けたり欲望の奴隷になったりすることなく、神の命
令や理性の命令にしたがって生活するという精神的自律性の上に立つ道徳約自由ぱ存在しなくて、存在するのば、自
分の能力不足以外にはいかなる制限をももたないところの、なしたいことはなんでもなしえて、それに対して外部か
らの障害や妨害や反対が一切存在しないという自然灼情念にもとつく〃完全かつ絶対的な自由”なのである。この自
然状態における自由が“完全かつ絶対的な自由”であることを、ホッブズは、 ﹃リヴァイアサソ﹄第二十一章におい
て、 ﹁主人のいない人びとの間においては、各人のその隣人に対する永遠の戦争が存在し、息子に残したり、父に期
待したりすべき相続財産も動産や土地の所有権もなく、また防衛手段もなく、あるのは各個人の完全かつ絶対的な自
由︵O h== ①づα ①σωO一二一Φ H﹄げ①﹃一一Φ︶のみである﹂と述べている。そこに、“万人の万人に対する戦争状態”という原
︵19︶
子的無政府状態における一大特徴は、各人の“自然的情念”に発する欲望のままの絶対的自然権の絶対的行使と“完
全かつ絶対的”な“自然的自由” ︵⇔緯霞巴=ま巽蔓︶、すなわち〃放縦”のみが存在して、普遍的道徳律にもとつく
︵20︶
公共に対する義務とかモラルとかが絶対的に欠如しているということを、明白に読みとることができるのである。
〃外的障害や反対の欠如”というホッブズの主張する自由は、まさにかれ自身がいっているように、〃自然的自由”
であり、〃完全かつ絶対的な自由”なのであって、それば、現代風にいえば、〃国家権力からの自由”︵串①跨Φ一一く。⇒
◎魯ω鐙讐ωαq①類p。詳︶ないし〃国家からの解放的自由”︵一一σ①円鋤一① 黒目O︸げΦ一叶 くO一昌 ωけ餌帥一Φ︶一いわゆる〃からの自
由”1であり、これのみが存在して、〃国家権力への参与”︵↓Φ一一コ多∋o⇔コα嘆ω3簿ωσqo≦二一︶あるいは“国家内
77
での民主的自由”︵αΦ戸50犀﹃帥一一ωOプΦ ﹁頻①一げΦ一げ 一P冒 ωR騨餌侍Φ︶が欠如しているところでは、遠心力のみが働く結果、国家
や社会は存在しえず、また存在する場台にば崩壊せざるをえないことを知りうるのである。換言すれば、ホッブズの
いう〃外的障害や反対の欠如”という〃絶対的自由”は、一見するところ、積極的自由のように思われるかもしれ
ないが、しかしながら実はそれは、道服的目口なざ〃からの国田”という〃泊.趣的目撃”であり、〃放縦”に達し、
〃万人の万人に対する戦争状態”に陥って、づ①αq葺ぞΦ碕①Φ麟9つの轟αq馨一く①が意味するように自由そのものの否定
となってしまうのである。それゆえ、道徳的自由なき消極的自由は、決してデモクラシーが要請する自由ではないの
である。
さて、もしわれわれが〃万人の万人に対する戦争状態”の只中に生を受けて生心しなければならないとしたなら
ば、そのような状態をそのままに放置しておいてよいだろうか。ひとはだれしも、そのような状態における生活を望
まず、そこからの救済を求めてやまないであろう。偉大な政主治二者は、必ずそのような〃窮境”からの救済に関す
る示唆ないし見解を述べているものである。
ホッブズも然りであって、かれは、その窮境からの救済手段として、まず第一に〃理性の命令”である〃自然法”
を挙げているが、しかしかれにしたがえば、その﹁自然法ぱ内面の法廷において義務づける︵↓げ①ピβ。≦のohZ舞⊆房
〇三具。ぎh自。ぎ880︶。すなわち、自然法は、自然法が行なわれるべきだという意欲をもつように拘束する。しか
し、外面の法廷においては︵ぎ8δo鼻。£︵こ、すなわち目然法を汀為するよづには必ずしも冨には拘束しない。な
ぜならば、他のいかなるひとも謙虚でも徒順でもなく、約束を履行しないときと場合に、そうしなければならないひ
とは、庫然の維持を意図するすべての目然法の基礎に反して、かれ自身を他人の餌食とし、かれ自身の確実な破滅を
78
ホッブズにおげる道徳的自由と市民的自由の欠如およびその悲劇
︵21︶
招くことにほかならないからである﹂であり、この言葉は、換言すれば、自然法は常に良心を義務づけるが、結果に
ついては、ただ保障があるときにのみ、そのように行為するというのである。ホッブズの自然状態は、自己保存本能
と無限の欲望の継続的満足という“自然的情念”を最優先させる各人の、平等な、しかも絶対的な自然権と絶対的な
自由という思想によって貫かれ、そしてあらゆる権威が拒否されるところの無道徳主義的ないし不道徳主義的な無政
府状態であり、また戦争状態であるので、 “理性の法”である〃自然法”は窮境からの救済手段にはならないのであ
る。この窮境からの救済手段としての“理性の法”の無力さという点において、ホッブズの理論における理性の全面
的後退と、人びとがともにしたがうべき普遍的道徳律の欠如や道徳的自由の欠如、およびホッブズの〃自然的情念の
人間”観を、決定的に明確に知りうるのである。
また、社会契約も、ホツブズの思想におけるような、承認された権威の基礎がまったく失われている〃万人の万人
に対する戦争状態”という自然状態からの人びとの救済には、役立たない。なぜならば、社会契約は拘束力を有する
権威にもとつくからである。ホッブズ自身この点に関して、 ﹁盟約は、愚なくしては、単なる言葉にすぎず、人間を
︵22︶
保障する力をまったくもたない﹂、あるいは﹁言葉の契はあまりにも弱いので、ある強制的な力の恐怖なくしては、
︵Qじ
人間の野心、貧欲、怒り、およびその他の感情を抑制することができない﹂という名言を吐いている。そしてこれら
の名言のなかにも、ホッブズが描ぎ出している人間像は“自然的情念の人間”であって、人間相互間には内的精神的
な紐帯や連帯の関係がなく、あるものぽ“懐疑”と“不信”と“敵意”と〃他君からの暴力による死に対する恐怖”
のみであるということを、明白に読みとることができるのである。
そこで、遂にホッブズは、最後の救済策として、 〃強力な国家”の設立を主張するのである。ホッブズにおける国
79
家発生の起源ないし原因ば、かれが前述のように”理性”や”理性の法”を結局は無力なものとみなしているので、
︵24層︶
レォ・シュトラウスが述べているように、 “暴力による死に対する恐怖”の感情を理性と同一遅し、そしてA.D.
リソゼイが指摘しているよ診・自己2女男保持に対する弩∵し巨保存本能”iと・の〃暴力による死に対
する恐怖〃の感情ないし本能を、あらゆる他の欲望や感情や本能から切9離して、これらを起因として”強力な国
家”を設立しようと試みるのである。ホッブズの”目然的情念の人間”たちは、窮境に直面して、理屈抜きに、 ”目
然的唐念”から、 〃強力な国家”の設立へとなだれこんでいくのである。すなわち、ホッブズは、自然的情念に動機
づけられる自然人たちが惹起する”万人の万人に対する戦争状態”という破壊と滅亡から救済しうるものは、〃理性〃
や〃理性の法”ではなくて、かれらをして畏敬さすべき”共通の手刀”Il”強力な国家”tだと確信したのであ
る。
だが、ホッブズが国家設立の究極因を人間の理性に求めないで、前述の二つの欲望、感情ないし本能に求めたとい
う点において、これも前述したような”懐疑”と”不信”と”敵意”と〃他者からの暴力による死に対する恐怖”に
みちていて互いに信用しない人びとが、どのようにして法律の背後に必要な力や主権者をおくことができたかという
問題を回避していると主張するA.D・リソゼイの疑弊出てくるのも・当然といえ青。しかし、・の問題に関し
ては、これも前述したように、それらの〃自然的情念”から、理屈抜ぎに、 〃強力な国家”の設立へとなだれこんで
いったという点に、法律の背後に必要な力や主権者の設置の論理的説明不可能の理由があるといってよいのではなか
ろうか。これはさておいて、この理屈からいうとすっきりしない国家設立のゆえにこそ、その力、主権者、国家に対
して、リヴァイアサソとホッブズが命名した重要な一因があるのではあるまいか。
80
ホッブズにおける道徳的自由と市民的自由の欠如およびその悲劇
いずれにせよ、ホッブズは、この国家設立を、かれ独特の社会契約によって︵社会契約とは、矛盾している。なぜ
ならば、ホッブズの自然状態においてぱ、人びとの間には、前述のように、〃懐疑”と〃不信”と〃敵意”と〃他者
からの暴力による死に対する恐怖”のみが存在して、いかなる内面的精神的な紐帯も存在しないので、そのような社
会契約を結ぼうという意見の一致がみられるいかなる契機も存在しえないからである。そこに、前述のリγゼイの疑
問が生じ、またこれもまた前述のシュトラウスが指摘しているように、 ”自己保存本能”と〃暴力による死に対する
恐怖”の感情ないし本能を、他のあらゆる欲望や本能から切り離して、それを理性と同一視しているとみなされ、さ
らに筆者が、自然的情念から、理屈抜きに、 〃強力な国家〃の設置になだれこむという理由があるのである。理性不
信の極みは、結局は、このようなことにならざるをえないのである︶、行なうのである。
その国家は、〃道徳的自由”のない、絶対的な自然権を行使し、〃完全かつ絶対的な自由”をもつ”万人の万人に対
する戦争状態”で、社会を構成しえず、また”命短かし”というこれ以上悲惨な状態はないという窮境からの救済手
段であるので、きわめて絶大な権力を有するものたらざるをえない。すなわち、ホッブズの社会契約においては、各
︵27︶
人は、かれらの平和と共通の防衛のために、相互の間で、契約の当事者でない第三者に対して、かれらのすべての権
力と強さ︵国=夢①罵bo≦曾藍住ω導Φ轟夢︶を譲渡するという契約を結んで、ひとりの絶対的主権者を設定するので
あ魍この各人の間から主権者を準ずに・契約の当事者でない第三者iしたが・て、それは人間ではなくて、ま
さに海の巨大な怪獣か神である一を主権者に選ぶという点において、ホッブズが、人間の本性には理性的部分があ
ると、最後までみなさなかったという徹底したかれの立場を知りうるのである。J・ロックが、人間を、完全な理性的
存在だとは決してみなしていないが、かなり理性的性格があることを認めて、”理性的被造物”︵﹁置け一〇昌P一 〇﹃①P一二﹁O︶
81
どみなした結果、議会や政府に権力の︸部を〃信託”して、基本的権利は留保し、信託違反が行なわれれば、基本的
︵29ノ
権利を行使して、多数決によって.議会や政府を平和のうちに更迭しうるという信託論を展開して、デモクラシーを説
いたことに比較するとき、まったく対照的である。
ホッブズの場合、この権力全部譲渡によって、主権者はすべての人びとの人格を帯びて唯﹁の人格となり、みずか
らの〃統治権”を放棄し、 “人格”を放座したすべての人びとは、ただ臣民︵QDロ9Φ舞ω︶として、自分たちの意思を
主権者の意思に、自分たちの判断を王権者の判断にしたがわせて、主権者の意思と判断を絶対的なものとし、それへ
の絶対的服従の義務を負うのである。これに対し、主権者は、臣民たちの平和と共通の防衛のために設立されたもの
−1の罪に問われることがない。ホッブズの主権者は、まさに文字通クの“絶対的主権者”なのである。かれは、この
の、契約の当事者でないので、いかなる.義務をも有せず、またいかなることを行なっても、契約不履行 不正義i
︵30︶
れが、あの偉大なリヴァイアサソ、むしろ︵もっと敬まっていえば︶あの可死的な神︵竃。﹃冨一一〇〇住︶の誕生であ
このひとつの人格に統一された群集はコモソーウェルスと呼ばれ、ラテン語ではキウィタスと呼ばれるのである。こ
3ぎひqヨ︽。。①罵ρδ9﹃ζ節戸。賢8夢心﹀。。も。Φヨび圏楓亀目さ巳というがのようである。このことが行なわれると、
わたくしの権利を、このひとあるいぼこの会議体に与え譲渡するQ︾⊆90ユNop⊃昌ααqプ.①ρもヨ︽菊お算ohOo<ρ
うにあなたの権利をかれに与え、かれのすべての行為を正当と認めるという条件で、わたくしはみずからを統治する
して次のようにいうような、各人の各人との信約によってなされるのである。すなわち、あなたもわたくしと同じよ
そしてまさにその一つの人格のなかへの、かれらすべての真の統一であって、その統一は、あたかも各人が各人に対
ようなことは﹁同意や一致以上のものであり︵↓三ω﹃ヨ。お曳船戸Ooづωo昌け⇔昌αOo⇒oo﹃畠︶、それば、ただひとつの
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ホッブズにおける道徳的自由と市民的自由の欠如およびその悲劇
︵31︶
り、われわれば不可死筆端の下でわれわれの平和と防衛を可死的神に負うのである﹂と、述べている。このホッブズ
の言のなかでも、とりわけ冒頭の﹁同意や一致以上のものである﹂という言葉のなかに、かれらの国家設立のための
︵32︶
契約が、W・リップマンがいっているような﹁なにが善かを知る能力と、善を求める意思だ﹂という意味での理性を
もった人びとが、自由な意思決定権と判断権留保の下に、自由に話しあって理性的同意に到達した契約ではないとい
うことが、明らかに読みとれるのではあるまいか。と同時に、幾たびも指摘してきたように、ホッブズにおいては、
国家設立の原因は、リップマンがいうような理性ではなくて、 “自己保存本能”と“暴力による死に対する恐怖”の
感情という自然的情念であり、これが理性と同一視されたということがわかるのである。いずれにせよ、ホッブズが
描く人間像は、理性的人間ではなくて、ひたすら死を恐れ、どんな状態の下におかれてもよいから生きたいという本
能にもとつく〃目然的情念の人聞”であったのである。もしそうではなくて、ホッブズが、人間に、少しでもリップ
マン的理性を認めたならば、かれの契約の内容は変り、少しでもロックのそれに近づいたであろう。そのような理性
を少しも認めなかったからこそ、ホッブズにおいては、人びとは、国家設立の契約において、人格や一切の統治権や
決定権や判断権を放棄して、 “奴隷”になってしまうのである。
さて、それでは、そのようなオールマイティともいうべき絶対的主権者に対して、臣民には、果たして自由がある
のであろうか・ホ・ブズの理論においては・主事不可分であ禦で・白装は立法権執行権司法権をその掌中
に独占鰺思い通りに法を制定し癖釈し・執行し・違法を処罰する・とができる。そのような状態においては、主権
︵35︶
老は絶対的なものであり、その絶対的主権者が制定する法や命令は、それ以上ない重い”鎖”や〃足枷”であって、
捗稿﹁消極的自由︵一︶﹂においてダソトレーヴの指摘を参照しつつ述べたように、消極的自由のひとつの条件であ
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︵36︶
る政治権力が停止されなけれぽならない一線が、ホッブズの理論には全然存在せず、絶対的主権者の気紛れな恣意が
たまたま目こぼしするとき、その範囲内で臣民は偶然に一時的で僅かなぽかない自由を与えられるにすぎないのであ
る。そのことを、ホッブズは、﹁臣民の自由ば、かれらの行為を規制する際に、主権者が看過した事柄だけにある﹂、
を十分目示したので、多数者が同意の投票によって宣告した主権設立に対して、不同意のものは抗議する自由や権利
義に反しないのである。また、自発的に合議の集会に加わったならぽ、そのひとは多数者の定めるところを守る意思
︵40︶
いう自由をもたず、逆にそれらは不正義であり、そのような企てのために臣民は殺されたり処罪されたりしても、正
とがありうるし、またしばしば生じるのである﹂と述べている。それゆえ、臣民は統治形態変更や主権者を廃すると
︵39︶
生死の鍵は主権者が握っていることを強調し、﹁コモソーウェルスにおいては、臣民が主権の命令によって殺されるこ
不正義とか侵害とか呼ばれえないからである﹂と断じて、臣民の自由はあくまでも主権者が看過したものにすぎず、
なぜならば、すでに述べたように、主権的代表が臣民に対してなしうることは、どのような口実にもとづこうとも、
れは、そのような自由によって、生死の鍵を握る主権が廃止されたり制限されたりすると、理解されてはならない。
しかしながら、ホッブズは、主権者によって目こぼしされたそのような臣民の自由があるからといって、 ﹁われわ
どの自由﹂を挙げている。
︵ 3 8 ︶
たりすること、自分の住所、食物、生業を選び、自分たちの子供を、自分たちが適当と思うように、教育することな
述べている。そして、主権者が看過する臣民の自由の例として、かれは、 ﹁互いに売買し、そのほかの方法で契約し
︵37︶
る規制をも定めなかった場合には、臣民は、かれ自身の思いの通りに、行なったり差し控えたりする自由をもつ﹂と
あるいは﹁その他の諸自由に関しては、それらは法の沈黙︵ユP①ω一一Φ昌OOOhけプΦ一じ9妻︶に依存する。主権者がいかな
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ホッブズにおける道徳的自由と市民的自由の欠如およびその悲劇
をもたない。そして、各臣民は、設立された主権者のあら麟る行為と判断の本人であるゆえ、主権者の行為を非難す
ることは不当であるし、それに抗議する権利や自由をもたない。さらに、 ホッブズは、コモソーウェルスの権力に反
︵ユ4︶ ︵42︶
対する学説の宣布を容易にしたり、反対の党派をつくったりするために結合する人びとの組合︵Ooむ。鐙二8ω︶や、
邪悪な意図やわからない意図のための私人たちの力の結合による同盟︵いΦ鋤σq仁①ω︶や、主権が﹁大会議体にあり、そ
の会議体の一部の人びとが、権威なしに、残りの人びとを指導しようと企んで、別に離れて協議するような党派や陰
謀︵国&。戸。﹁Oo霧豆舜身︶や、人民の平和と安全に反し、主権者の手から剣を奪う国家の統治のための諸党派
︵﹁碧江。づω︷o門Oo<Φヨヨ①づけ。︷ω雷8︶などを、非合法ないし不正なものとして、斥けている。すなわち、ホッブ
︵娼︶
ズの思想には、言論や思想や表現や結社などの自由は存在しないのである。また、そのようなところには、教育の自
由も存在しない。したがって、ホッブズが、主権者が看過した臣民の自由として例示しているものも、いつでも主権
者によって制限されたり廃止されたりしうるはかないものにすぎないといえよう。
︵44︶
以上のように、また前出拙稿においてかつて指摘したように、ホッブズの国家においては、絶対的主権者の専横的
抑圧からの立憲的に定められた明確な自由はなく、法という垣根はむしろ臣民の自由にとっての重い〃人工的鎖”な
いし〃足枷”になっているのである。したがって、そこには、明確な消極的自由は存在せず、政治的自由も市民的自
由も存在しないのである。
なお、﹃リヴァイアサソ﹄第二十一章で、ホッブズは、第十四章における﹁強力︵ho9①︶に対して、自分自身を強
︵45︶
力によって防衛しないという盟約は、常に無効である﹂とか、 ﹁主権設立の目的、すなわち臣民たちの間でのかれら
の平和、および共通の敵に対する臣民たちの防衛﹂という理由の下に、 ﹁もしも、主権者があるひと一正当に有罪
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とされたものであってもtに対して、かれ自身を殺したり、傷つけたり、不具にしたりせよと命じ、あるいは、かれ
を攻撃する人びとに抵抗するなと命じ、あるいは、食物や空気や薬やその他のそれなしにはかれが生ぎていけないも
のの使用を差し控えよと命じるならば、それにもかかわらず、そのひとは服従しない自由︵一げ①]﹁一げ①鴨け団︷O自凶ωOσΦ団︶
をもつ﹂、﹁われわれの服従拒否︵○ξδ貯ω鋤=酔oo9曳︶が、主権が設立された目的を失敗させるならば、その場合
には拒否の自由︵甑σ臼畠8お2ω①︶はなく、そうでない場合には拒否の自由がある﹂、﹁兵士として敵とたたかう
ことを命じられるものは、かれの主権者がかれの拒否を死をもって罰する十分な権利をもっているにもかかわらず、
不正義でなく拒否しうる﹂、﹁他人一かれに罪があろうがなかろうが一を防衛するために、 コモンーウェ,ルスの剣
に抵抗する︵﹁Φω古制︶自由は、だれももたない。 なぜならば、そのような自由は、主権者から、われわれを保護する
手段を奪い去り、それゆえ統治の本質そのものを破壊するものだからである。しかし、多数の人びとが一緒になっ
て、すでに主権に対して不正に抵抗をなし、あるいは重大な罪を犯したりしたため、かれらのおのおのが死刑を予期
するという場合に、かれらは、 一緒に結合し、互いに援助し防衛しあう自由をもたないであろうか。確かにかれらは
もつ。というわけは、かれらは、かれらの生命を防衛するにすぎないのであって、それは、罪のあるなしにかかわら
ず、だれでも同じようになしうるからである。かれらが、はじめに、その義務に違反したときには、不正義であった
のは確かであるが、それに引き続いて武器をとったのは、かれらがすでになしたことを維持するためではあっても、
︵46︶
新しい不正行為ではない。そして、もしそれがかれらの身体を防衛するためだけであるならば、まったく不正でな
い﹂などと、一見、いわゆる抵抗権らしきことを述べている。
だが、これらの一見抵抗権、拒否権、不服従権、兵役拒否権などらしく見えるものは、絶対的主権者の前にあって、
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果たして実効のあるものであろうか。ホッブズ自身、ダヴィデが、かれがその妻を奪ったところの忠実な部下ウリ
︵47︶
アを殺害した例 罪のない臣民を殺す主権者の例一を挙げて、 ﹁それは、ウリアに対する侵害ではない﹂と述べ
ている、.それくらいのことであるがら、とくに不正行為をなした臣民を、絶対的王権者はなにもせすに見逃すであろ
うか。また、兵役拒否権を認めたならば、国家設立の目的が失われるであろうし、自分の身代りに腕の立つ兵士を代
置すれば、その兵士の生命を奪うことになりかねないであろう。むしろ、ホ”・ブズのこれらの言葉を通して知りうる
ことは、かれが描き出している人間像が、あくまでも〃自己保存本能”と〃他者からの暴力による死に対する恐怖”
の感情によって動機づけられる〃自然的情念の人間”だということであり、そしてホッブズのいう“理性の命令”や
民主主義の最高目標は〃人間人格の向上・完成”、“自我の実現”であり、これは換言すれぽ“道徳的自由”の確立
である。そのためには、人間は理性的側面と非理性的側面という、まったく相い反する性質を同時にもつ二律背反的
な二元的性情の持ち主であり、したがって不完全な可真南存在であるので、他人の異なる意見や考えに謙虚に耳を傾
け、自分に誤まりがあれぽ、潔くその非を認め、他人の言い分に正しいものがあれぽ、素直にそれを受けいれなけれ
ぽならない。ということは、 〃道徳的自由”を確立してその内容を高めていくためには、その手段として、言論・思
想・討論・出版・結社などの自由、すなわち“市民的自由”が不可欠なのである。ところが、ホッブズは、以上述べ
たように、 “道徳的自由”を認めず、人間を“自然的情念の人間”として描き出し、無限の欲望の継続的満足のため
には、その行く手になんらの障害や反対がないという“自然的自由”を説き、その結果“万人の万人に対する戦争状
.態”に焔り、その窮境からの救済質草を〃強力な国家”〃絶対的主権者”の設立に求めて、〃市民的自由”も認めない
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〃自然法”とは、実は﹁ひたすら、肉体的に生きよ﹂ということにほかならないということである。
ホッブズにおける道徳的自由と市民的自由の欠如およびその悲劇
と いう〃リヴァイアサ.ソ的悲劇”に陥ったのであるσ
︵1︶拙著﹃政治理論の基礎としての人間性論﹄、昭和四十三年、一五頁。
註
︵2︶ ↓.出OσσΦωーピOく一9一ゴ窪昌層Oげ●×一く。
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︵21︶ 一σ︸自二 〇げ・<一.
︵41︶ ]﹂・=Oσげ⑦oQ、ピΦ<一ゆけ7帥鵠℃ ×一一一・
︵61︶ ]り・頃Oσσ⑦ω甲一UOく一9けゲ9◎昌煽Oげ・×一一陰
︵51︶ ﹀。∪.r凶昌儀ω⇔畷顎OO●O凶一こ ℃●GQ一・
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ホッブズにおける道徳的自由と市民的自由の欠如およびその悲劇
︵17︶ Uσ置.層。 ず . × 一 く ・
︵19︶ 同σ置.
︵18︶ 一σ置二〇巨××月
︵21︶ 一σ乙こO巨×<・
︵20︶ 一び置。
︵22︶ 守乙こoF×<一一●
︵24︶ ピOOω訂9二ωρOPo詳.顎O戸=℃HもQ9一ωN噂一ら㊤IH㎝ρ
︵23︶ 同σ乙こ。げ・×一<・
︵25︶ ﹀.∪’いぎ自ω9ざoO.9f戸G。卜Q.
︵27︶ 目・出。σσoρピ①<凶簿7四Poず・×<目月
︵26︶ コ︶置こ℃●NO9
︵28︶ 3乙;oげ・×<昌.
︵29︶ 拙著、前掲書、四八−九頁参照。
︵31︶ 一σ乙こ。プ・×<一炉
︵30︶ ↓・頃。σσoρピ①≦四90Po7●×<●
︵32︶日冨田ω9け芭=宕ヨ98旧﹀勺。ヨざ巴℃三δω8ξho﹁=σΦ同委∪①Bo。ヨ。ざ①α・9Ω三8⇒園。ωω冨﹁八白ヨΦωい国HP
︵33︶ 目.出。σげΦρピΦ≦讐げ餌PoF×<閏H
一㊤①9づ■一co①.
︵35︶ ぎこ二〇F××月
︵34︶ ま乙二〇F××<月
︵36︶ 拙稿﹁消極的自由︵一︶﹂、﹃早稲田社会科学研究﹄第十八号、昭和五十三年十二月、 一〇七頁、およびダントレーヴ著、
石上良平訳﹃国家とは何か﹄、昭和四十七年、二四九頁参照。
︵37︶ ↓・出。げげ。ω唱ピ①く冨99PoF××H
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︵38︶
一σ乙●
︵39︶ 昌置.
一σ乙.
一σ置こ。げ●×<一一一■
一σ置・唱Oプ ● × × コ ■
︷σ置こOF××國■
︵40︶
︵42︶
︵41︶
︵43︶
︵44︶拙稿﹁消極的自由︵一︶﹂、前掲書、
一σご●
一げ置こOゴ・××H。
弓.=oσσ①oり﹁ピ①<す片ゴ帥POF×H<.
︵46︶
︵45︶
︵47︶
一〇八頁。
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