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レジュメ
2015.6.25
(SMILE 会)
仏教の伝播と世界 3 大仏教遺跡
辻
宏
1.仏教の伝播
古代インドで釈迦*(ゴータマ・シッダルタ、BC563 頃~483 頃)が入滅した後、原始仏教教団は
発展を続けたが、AD1C 頃大衆部(ダイシュブ)系と上座部系に大分裂した。上座部系は原始仏教
教団の伝統を強く残し、個人による出家と修行を重視する自力救済を目的としたのに対し、大衆
部系は逆に釈迦(仏陀)の慈愛による生けるものすべての救済を信じた。大衆部系は自分たちが
救済に至る「大きな乗り物(大乗)」であると考え、上座部系を少数のエリートしか救済しない「小さ
な乗り物(小乗)」として蔑視した。(根本敬「物語ビルマの歴史」)
* 仏教の開祖ゴータマ・シッダルタ、釈迦牟尼世尊、”釈迦族の聖者で世にも貴い人”の意。
** 仏教とは「仏(ブッダ)の教え」、またブッダは「目覚めた人」を意味する。従って、真理に目覚めた人はブ
ッダと呼ばれ、本来普通名詞であるが、最初に真理に目覚めたゴータマ・シッダルタが固有名詞として
呼称される。
のちに大乗仏教に発展する大衆部系の諸宗派はインドから陸上ルートで中国、朝鮮を経て 6C
には日本にまで伝播した。並行して海上ルートでインドから東南アジア島嶼部にも伝わった。
一方、上座部系はスリランカから東南アジアの大陸部のモン人に伝わり、11C 以降、そこからゆっ
くりと現在のミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアにあたる地域に広がっていった。これらの地域で
はそれぞれの王権と深く結び付き、上座仏教国家を形成するに至った。個人の救いを目指す出
家至上主義とパーリ語で書かれた三蔵(経蔵、律蔵、論蔵)を中心とする経典を信奉する点に特
徴を持つ。
<仏教の伝播>
(佐々木閑「般若心経」)
1
2.世界の仏教3大遺跡
(1)ボロブドゥール寺院遺跡
<遺跡の歴史と背景>
8C 中頃ジャワ島中部に大乗仏教を信奉したシャイレンドラ王朝が出現、8C 中頃から 9C にか
けてジャワ島中部を中心に栄えた。この王朝のもと、ケドゥ盆地やその東のプラナバン平原に多く
の仏教寺院が建立された。ボロブドゥールもシャイレンドラ王朝の手で建立されたと考えられてい
る。シャイレンドラ王朝は、強大な国力を持って、ベトナム・チャンパからカンボジアに侵入、唐とも
交渉を持っていた。
ジャワ島は、2C 頃からインド文化の影響を受け始め、仏教やヒンズー教は多くの信仰を集めて
いた。シャイレンドラ王朝の出現前には、ヒンズー教徒の王権が存在し、ジャワ島中部に数多くの
寺院や神像を建立、寄進している。ヒンズー教と仏教それぞれの宗教美術にインドネシアの基層
文化が混淆し、独自の宗教美術「ヒンズー・ジャワ美術」が生まれ、7C 後~16C 初まで続いたと考
えられる。シャイレンドラ王朝期は 8~9C に黄金期を迎えるが、ボロブドゥールはその頂点に立つ
遺構である。ボロブドゥールとは「丘の上の僧院」の意味。
インドネシア地図
中部ジャワ地図
<遺跡の特徴>
ジャワ島中部、ケドゥ盆地に位置する仏教遺跡。9C の建立。1814 年イギリス人 T.S.ラッフルズ
により再発見さる。
自然地形を利用し、盛土して作った人工の丘の表面を、安山岩の切石でおおって構築された巨
大な仏塔。段台状のピラミッドの形状。遺構の内側は開かれた空間をほとんど持たず、外観がそ
のすべてである。120m四方の基壇を含め 6 層の方形壇、上部 3 層の円壇がピラミッド状に重なり、
最上層中央に釣鐘形ストゥーパ(仏塔)がのる。方形は大地を、円は天を表すといわれるが、天地
合体の形態は曼荼羅* の世界である。
* 曼荼羅:仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表
したもの。密教的な見方。
Cf.密教: 東密(真言)、台密(天台)のほかインド・チベットの仏教思想。秘密の教え vs.「顕教」、大乗仏
教の中の秘密教。
全体の高さは 35m。6 段の方形壇の各層の周囲は回廊で、壁面に仏典の浮彫り(1460 面)や
装飾浮彫り(1212 面)が刻まれ、回廊主壁上部は結跏趺坐する等身大の仏像が納められた 432
基の仏龕が造られている。方形壇の上の 3 段の円壇の周囲には目透し格子を持った 72 基の石
積みの鐘型ストゥーパが置かれ、内に結跏趺坐する等身大の釈迦如来像が安置されている。
2
蓮華蔵世界
華厳経の中で説き明かす世界。釈尊が覚(さと)りを完成したとき、毘廬舎那仏という名で呼ば
れ、この仏が過去に行なった修行と願によって実現した清浄な世界であり、巨大な蓮華の中に含
蔵されている世界。ボロブドゥールは蓮華蔵世界観を表現しており、東大寺大仏の蓮弁に表現さ
れているものと全く同一である。 (西村公朝)
ボロブドゥール寺院
ボロブドゥール全景
(建物全体が曼荼羅を
表現している(密教?))
写真:「美の回廊」(NHK)
回廊の浮彫り→
円形壇上の仏塔と仏像
写真:「世界の歴史 18 東南アジア」(河出)
3
(2)バガン万塔遺跡群(ミャンマー)
<遺跡の歴史と背景>
ミャンマー民族がエイヤーワディ川(イラワジ川)流域に姿を現すのは 9C 以降である。もともと
ヒマラヤ山脈の北側に住んでいて、東に移動し、雲南で南詔の支配下にはいり、南詔の衰退を機
に、その支配から自立しエイヤーワディ川沿いに南下移動したものである。
ミャンマー族は中央平原部に定着し灌漑稲作を始め、勢力を徐々に拡大していった。その過程
で、エイヤーワディ川畔のバガンに町を築いた。11C 半ばに初代アノーヤター王(在位 1044-77)
から 11 代ナラハティパティ王(1254-87)に至るミャンマー民族最初の統一王朝「バガン朝」が形
成された。
アノーヤター王は南部ミャンマーのモン人の都タトンを攻撃し、上座部仏教のパーリ語三蔵法典
をバガンに持ち帰り、バガンで支配的だった密教的色彩の濃い仏教を排斥し、上座部仏教を国
教として定着させようとした。
バガン朝の 250 年の間に、王や有力者たちの積徳行為の一環として 5000 基を超えるパゴダ
(仏塔)が建立された。但し、民衆の間では 15C 末まで大乗的・密教的仏教の影響力が残ってい
たと考えられる。ともあれ支配者層はパゴダの建立、僧院の建設にとどまらず、土地を僧院に寄進
し、そこで働く聖性を帯びた僧院奴隷も多数献上した。しかして、僧院領地の増大は非課税地の
拡大として王朝の財政を悪化させ、少ない人口にあって多くの僧院奴隷が献上されたことによっ
て労働力不足を招き国力を悪化させた。13C 後半中国からの元軍の 4 度にわたる襲来と、内部
崩壊から 1299 年バガン朝は崩壊した。
(補足)
9C:ミャンマー民族中央平原部に定着
(ヒマラヤ山脈北→雲南→エイヤーワディ―川沿いに南下)
1044:バガン朝の祖アノーヤター王即位(~1077)
1299:バガン朝滅亡
1369:ペグー(バゴー)遷都
1564:アユタヤ(シャム)陥落(~1569)、
1767:アユタヤ攻略(アユタヤ王国滅亡)、Cf.アユタヤ(1351-1767)
1824-26、1852:英緬戦争に敗北
ミャンマー地図
バガン地図(寺院と仏塔)
4
<遺跡の特徴>
9C に煉瓦造りの城壁が築かれ、王城を中心に町が形成された。12C 上座部仏教の浸透と共
に城壁の内外に仏塔寺院の建立が相次いだ。
パゴダは俗人たちの宗教実践の場とされ、僧侶たちの修行の場所である僧院と区別される。上座
部仏教は、出家中心主義と戒律至上主義を特徴としている。究極の目標である涅槃への到達は、
輪廻転生からの解脱によって達成される。それは、世俗の営みを捨て 227 条の戒律を守る修行
生活を通して、最高の知を獲得することで可能となる。僧侶はこうした道を身を持って実践するも
のであり、仏陀に自らを捧げた存在として、人々の尊敬を受ける。僧院はこうした僧侶の修行の場
である。僧侶と違い日常生活に縛られる俗人たちにとって、解脱への道は遠い。取り敢えずの目
標として、輪廻転生のなかで少しでもより良い状態に再生することを願う。その再生は各人の持つ
運命(カン)によって決まり、カン自体は現世での行為、功徳と悪徳により左右される。
功徳を積むのに最も効果的に結び付くのは、喜捨・寄進の行為である。パゴダを建立するのは
仏陀に多くの財力や労力を捧げる最高の寄進の一つであり、功徳をもたらす。パゴダは俗人の来
世への願いを表し、信仰のあり方を具体的に示している。
バガンの仏塔群
ミャンマー様式のパゴダは、シュエージーゴン・パゴダ(11C、バガン、アノーヤター王/チャンシ
ッター王)を原型としている。インドが起源のパゴダにくらべ、全体として高さを強調、壮大で優美
な姿を見せる。内部に、仏陀の歯、鎖骨、などの仏舎利、仏像が奉納されている。
過去仏と未来仏
堂塔伽藍のうち、内部に仏像を祀る堂内の壁面に壁画として描かれている題材として、本生話
(ジャータカ)* 物語や、釈尊以前に成仏したとされる迦葉仏に至るまでの過去 27 仏**の成道図、
観音菩薩などの大乗仏教系の菩薩像、インドラ、ヴィシュヌ、シヴァなどヒンズー系の神々の像、須
弥山など仏教の宇宙世界など多岐にわたる。
* 本生話(ジャータカ):釈尊の前世における数々の功徳を示した 547 話からなり、釈尊が過去の世で、
どの様な善行をし、どの様な功徳を積んだから、この世で仏陀になることができたという因果が語られ
ている。仏陀がこの世で悟りを得るには、この世に生まれてから後の修行だけでは十分でなく、前世に
おいて、何十回、何百回と生まれ変わる度に様々な善行を積んだ結果。
** 過去仏:過去釈尊以前に成仏したとされる諸仏。過去 4 仏、過去 7 仏、過去 27 仏など。
(例)アーナンダ寺院 過去 4 仏-拘那含(クナガン)、釈迦牟尼(西)、迦葉(南)、拘留孫(クルソン)
5
*** 未来仏:ゴータマ・シッダルタの次に仏陀となることが約束された菩薩(修行者)でシッダルタ入滅後 56
億 7 千万年後の未来に姿を現し、人々を救済するとされる弥勒菩薩。
**** 仏陀:悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人。仏教、ことに密教に由来する。
・上座部仏教-釈迦牟尼仏は現世における唯一の仏、最高の悟りを得た仏、弟子は阿羅漢と呼ば
れ、釈迦の説法により解脱した聖者と位置付けられている。但し、過去 7 仏など釈迦以前の仏(ブッ
ダ、覚者)や未来仏(弥勒)を認めている。
・大乗仏教-諸仏の一仏としての釈迦牟尼仏。十方(東西南北とその中間の四隅の八方と上下) 三
世(過去、現在、未来)の無量の諸仏の一仏で現在の娑婆(サハー)の仏。(顕教、密教、宗派による)
シュエージーゴン・パゴダ
三層の方形基壇上に、釣鐘型の覆鉢部が載せられた構造、ミャンマー型パゴダの原型。
内部に仏陀の歯、鎖骨などが納められていると言われる。
四周に小さな方形寺院があり、内部にブロンズ製の仏陀の立像が祀られている。
アノーヤター王創建/チャンシッター王完成 1089
アーナンダ寺院
完全な正十字形をした大型の方形寺院、バガン王朝第 3 代のチャンシッター王の建立。
ヒマラヤのガンダマダナ山にあるナンダムーラ石窟寺院を模した。
中央に高塔を擁し、四方に向拝を備えた優美で力強い姿を見せる。
6
その他
タビニュー寺院:(右図→)
1124 建立、城壁内、67m、
3 層の基壇上に祠堂、その上に経蔵、高塔となり、
頂部は仏塔。
アーベーヤダナー寺院
11C 末の建立、チャンシッター王妃の名を付す中型
寺院、壁画から上座部仏教だけでなく、大乗仏教の仏、
ヒンズー教の神々の姿も見られる。
スーラーマニ寺院
12C 末の建立、高楼は 2 層構造で各面に入口をつけ
薄暗い内部を明るくする工夫。
シュエダゴン・パゴダ(ヤンゴン)
バガンの仏像
7
(3)アンコール遺跡(カンボジア)
<遺跡の歴史と背景>
クメール帝国最盛期の 12C 前半、スーリヤヴァルマンⅡによって寄進されたヒンズー寺院であ
る。建立当時は、王城(アンコール)、寺院(ワット)両方の性格を持つ建造物であったと思われる。
王朝の衰退と共に 1431 年頃放棄され、熱帯樹の中に埋もれ、ようやく 1860 年フランス人アンリ・
ムオに見出された。(放棄された後、アンコールワットの中央祠堂に上座部仏教の仏像が安置さ
れ仏教聖地として崇められてきた。)
アンコール時代の王位は、激しい王位争奪戦によって実力で玉座を勝ち取ったものが登位し
ていた。「王たちの中の王」として立った新国王は国内の支配体制を確立する必要があった。新
国王は、王たる者が神から授けられた崇高な使命を遂行し、王権の神格化を全カンボジア人にア
ンコールの地で新都城造営の形で見せる必要があった。王は古来シヴァ神などの化身と考えら
れ、神の世界と人間の世界にまたがる現人神であった。だから神の住む世界と同じ世界をこの地
上に建設する必要があったのである。この建造物は、いつも神が降臨し、祭儀を介して五穀豊穣
と王国の繁栄が保証される神の世界、という考えに基づいて造られていた。アンコール朝は、前
王の系譜と血縁関係のない新王が 18 回も登位しており、「アンコール諸王の王朝」とも言うべきも
のであり、新都城の造営と新寺院の建設が 4 回は確認できる。
アンコール・ワットはアンコール王朝の最盛期に建立されたが、強大な王権の下で初めて可能
なものであった。水田稲作に伴う灌漑用貯水池の建造や、タイ人との戦いに伴い軍役に駆り出さ
れた農民の疲弊を招き、ジャヤヴァルマンⅦ(アンコール・トム再建)以降王朝は衰退を辿り、タイ
のスコータイ王朝の攻略を受けて、1431 年頃アンコールは放棄されることとなった。
(最盛期には都城地域に約 15 万人の人々が住んでいた。)
従来フランス学会の唱える通説は過度の寺院建立による社会疲弊説であったが、上智大学国
際調査団(石沢教授)はこれに疑問を呈し、地中に埋められた大量の仏像群は、建設ラッシュ後
も廃仏命令を徹底させるだけの強力な王権の存在の証拠と説いている。
(補足)
2C 頃:カンボジア南部に「扶南」国興る(~6C)、<前アンコール時代 2C~802:地方分権>
6C:「真臘」国(扶南の属国)興る
657:ジャヤヴァルマンⅠ登位
802:ジャヤヴァルマンⅡ登位、「アンコール王朝」興る<後アンコール時代~1431 頃:中央集権>
1113:スールヤヴァルマンⅡ即位(~1150?)、アンコール・ワット建設開始
1181:ジャヤヴァルマンⅦ登位、12C 初アンコール・トム完成、当初大乗仏教→ヒンズー教化
(チャンパ軍侵攻(1177)事件を教訓に再建した城砦を兼ねた都城、チャンパ戦勝記念)
1296:周達観、元朝施設団に随行してアンコール訪問、見聞録「真臘風土記」
1431 頃:アンコール王朝陥落
1632:森本右近大夫一房(肥州在)、父の菩提を弔うためアンコール・ワット参詣、仏像 4 体奉納。
他にも全 14 の墨書(落書き)(祇園精舎?と思い込んで参詣)。
この時期、カンボジア日本人町(300-400 人)。
1884:仏/カンボジア協約(1887:仏領インドシナ連邦成立)
1893:仏/シャム条約(1907:旧カンボジア西北部 3 州のシャムより返還)
(参考)
・アンドレ・マルロー 小説「王道」
Cf. マルロー:バンテアイ・スレイ寺院 女神デヴァター像盗掘事件
・三島由紀夫 戯曲「癩王のテラス」(ジャヤバルマン王とアンコール朝滅亡に纏わる話)
8
カンボジア地図
アンコール遺跡地図
<遺跡の特徴>
カンボジア中部、トンレ・サップ湖北 20kmに位置する。アンコール・トム(北)、バンテアイ・スレ
イ(北東)等 62 ヶ所の諸遺跡を併せアンコール遺跡群と総称する(東京都区内と同面積)。
アンコール・ワットは東西 1500m、南北 1300m、周囲に幅 190m の濠をめぐらせており、全体
の面積は 200hr.に及ぶ。3 重の回廊(第1回廊の 1 辺は 780m)の中央に祠堂を配し、祠堂には
65m の中央塔があり 4 つの塔が囲んでいる。大伽藍は外側にラテライト(紅土)を積み上げ、内側
に土砂を埋め込んで土まんじゅう方式に構築し、ラテライトの外側を化粧石として砂岩で装飾する。
その砂岩で造られた回廊の壁面、柱にはクメール彫刻の最も精緻な浮彫りで、ヒンズー教の神話、
伝説に由来する「マハーバーラタ」、「ラーマーヤナ」、ヒンズーの天地創造神話の「乳海撹拌* の
図」などを題材とする物語が描かれている。
* 乳海撹拌:神々が敵のアシュラと力を合わせて、不死の妙薬アムリタ(甘露)を抽出する様を描写して
いる。
尚、ヒンズーの像はインドのそれと異なるアンコール独特の様式である。天女アプサラやガルーダ
の、口角をつりあがらせた微笑はその一例である。
また、ヒンズー一色のアンコール・ワットの中で、第 1 回廊と第 2 回廊の間にプリア・ポアン(千体
仏*) と呼ばれる場所があり、ここには 200 体以上の仏像が安置されている。
* 仏の慈悲は千体の小さい仏となって宇宙に広がる、という仏教思想の表現。
アンコール・ワットはヒンズー教的宇宙観に基づく地上の小宇宙と考えられ、中央祠堂の塔は、
ヒンズー教の聖なる山、須弥山(メール山)を表現し、それを幾重にも囲む回廊は陸と山脈を、濠
は海を表徴したものと言われる。もともと豊穣を願う稲作農耕民族に具わった、高(山)=聖という
思想(信仰)が、宇宙の中心にメール山を戴くヒンズーの宇宙観と結びつき、その象徴としてリンガ
を祠るという独自の形式に発展していったと言われる。
クメール塔と呼ばれる中央塔は、ヴィシュヌ神と合体した神でもある、スーリヤヴァルマンⅡの表
徴でもある。アンコール・ワットは王その人の墓であり、同時に王=神を崇拝する神殿でもあった。
古代カンボジアでは、3C~6C の間、ヒンズー教及び梵語を使用した小乗仏教と大乗仏教など
が併存していた。この大乗仏教系勢力は 7C~8C に伸張したが、9C から王権の神格化に向けた
ヒンズー教の王即神の儀礼が王宮で盛んになるにつれ公式の場から姿を消した。1181 年ジャヤ
ヴァルマンⅦ(仏教徒として初めての王、インドのアショーカ王(BC3C)を理想とする)の時代となる
と大乗仏教が発展、大乗仏教の大建造物が次々に建造された(タ・プローム寺院、アンコール・ト
ム都城)。建築装飾にヒンズー教と仏教の混淆が見られた。13C スリランカとの往来の結果、最終
的にパーリ語を経典とする上座部仏教が浸透してくる。
9
アンコール・ワット
アンコール・ワット(全景)
「乳海撹拌」(第 1 回廊)
-アシュラ 92 体(左)と神々88 体(右)がナーガ(大蛇)の胴体で綱引き、
大亀の背に乗るヴィシュヌ神(手に妙薬アムリタ(甘露)-
10
浮彫り(ヒンズー題材)↑
←浮彫(庶民の生活様式題材)
アンコール・トム
アンコール朝の諸王は王都の不滅と不可侵を掲げ、都城に須弥山の象徴を建立した。しかし、
1177 年チャンパ(ベトナム中部沿岸地方)軍の侵攻事件を教訓に、難攻不落のアンコール・トム
都城を建立した。10C 末以降の諸寺院、祠堂をそのままに、中心寺院バイヨン(仏教寺院)など新
築を加え、1 辺 3km、周囲 12km、幅 113m の環濠と高さ 8m のラテライト造りの周壁と 5 城門で
構成された都城を造営した。外敵に対する防御と同時に、宇宙を取り巻く霊峰に見立てた周壁と
宇宙世界を支えるナーガ(蛇神)と結びつく大洋を意味する環濠など、「神の世界」を象徴した世
界観に基づき造営されている。中央祠堂 45m。
都城への入り口は 113m の陸橋、両脇に並んだ巨人像(デヴァ(神々)とアシュラ)が、7 つ頭の
ナーガ(大蛇)の胴体で、綱引きをしている。このナーガは、神の世界と人間の世界を結びつけて
いる虹を象徴したものである。参道を進むと、須弥山を模したバイヨン寺院に突き当たる。この寺
院は四面仏顔の観世音菩薩を上部に頂く人面塔寺院で、世界でも類例のない建築様式であリ、
バイヨン様式と言われる。
11
アンコール・トム(南大門)
アンコール・トム(人面像)
12
(付)スコータイ遺跡(タイ)
<遺跡の歴史と背景>
雲南から南下してきたタイ族は、13C 頃までは強力なアンコール王朝(クメール帝国)の支配下
にあった。ところがアンコール王朝のジャヤヴァルマンⅦの死後、アンコール王朝の支配力が弱ま
り始めると、小タイ族領主がクメール人の勢力を追い出し、スコータイに小タイ族の王朝を樹立、ス
コータイ王朝が成立した(1238 年)。第 3 代のラムカムヘン大王(在位 1279 -1299 ?)時代に黄金
期を迎えた。スリランカより仏教(上座部仏教)を取り入れ国教とし、またタイ文字を考案した。更に
宋胡禄焼きを開発、中国との貿易を進めた。ラムカムヘン大王碑文に「田に米あり、水に魚あり」と
国土の豊かさを歌う。尚、スコータイはサンスクリット、パーリ語で、「幸福の夜明け」を意味する。
スコータイ王朝はラムカムヘン大王の死後各地の離反が相次ぎ、1448 年には滅ぶが、中部アユ
タヤ地方に興ったアユタヤ王朝(1351-1767)に代わる。
タイ地図
スコータイ遺跡地図
<遺跡の特徴>
仏塔には、寺院「ワット」の中に在る仏塔(ストゥーパ)「チェディ」、高塔状の祠堂「プラーン」(ク
メール建築でプラサート)、仏像を内蔵する方形の仏堂で上部に仏塔を戴くものもある「モンドップ」
などがある。
<ドヴァラヴァティ美術> ドヴァラヴァティ王国 6C-11C
・プラ・パトム・チェディ(ナコン・パトム):ミャンマー・タイに住んでいたモン族がチャオプラヤー
川中流域に建国した「ドヴァラヴァティ王国」(6-11C)が遺した仏塔。世界最大級。(現在の塔
は 19C ラマⅣ)
<ロブリ美術> 7C-13C
・プラ・プラーン・サムヨート(ロブリ):クメール王国(カンボジア)の支配下にあった折の影響を受
けた遺跡。クメール式筍状の塔堂は仏塔というより祠堂にあたる。
<チェンセン美術> ラン・ナ王国、11C-18C(16C 中-18C ミャンマー支配下)
・ワット・チェット・ヨート(チェンマイ):南下したタイ族がタイ北部に建国したラン・ナ王国。インド
のブッダガヤ大塔を模す。
・ワット・チェンマン(チェンマイ):祠堂の構造を有す。
<スコータイ美術> 13C 中-15C 初、タイ北部の南に建国のスコータイ王国。クメールの勢力を追
放し、スリランカより高僧を招き上座部仏教信奉。
Cf. ワット・マハタート(1292- ) P14
・ワット・トラパングーン(スコータイ)スコータイ様式
・ワット・チェディ・チェット・テーオ(シー・サチャナライ)スコータイ様式
・ワット・チャン・ロム(シー・サチャナライ)スリランカ様式
13
<アユタヤ美術> 14C 中-18C 中、タイ族アユタヤ朝、スコータイ美術、クメール建築様式を発展
・ワット・ラジャナプラ(アユタヤ):クメール式塔堂(プラサート)をタイ式に変化させたトウモロコシ
状の塔堂(プラーン)、アユタヤ朝の発祥地のロブリに由来。14C 中-15C 中。
・ワット・プラシー・サンペット(アユタヤ):スリランカ風仏塔(アユタヤ風)。15C 中-17C。
<バンコク美術>18C 末- 、ラタナコーシン朝、アユタヤ美術の影響
・ワット・アルン:P18
・ワット・プラケオ:本堂(エメラルド仏を安置)と 3 つの尖塔、
・チェディ「プラ・シー・ラタナー・チェディ」(金色仏舎利塔)
・モンドップ「プラ・モンドップ」(三蔵経を納める経堂)
・プラーン「プラサート・プラ・デープ・ピドーン」(ラマⅠ~Ⅷの彫像を安置)
スコータイの寺院と仏塔
城壁内中央に位置するスコータイ都 第 一 の大 寺 院 ワット・マハタート
<クメール様式>
・ワット・シーサワイ(Wat Sri Sawai):
スコータイ時代初期に建立、
もとヒンズー寺院、後に仏教寺院化。
3 基のクメール様式(ロブリ様式、トウモロ
コシ風)仏塔(プラーン、堂塔)の並ぶ寺院。
低い基壇の上に立つプラーンの表面に漆
喰で装飾が施され、ガルーダ、ナーガ、神
像のレリーフで飾られている。
プラーンの内室から、ヒンズーの神の像な
どが見つかっている。
14
・ワット・プラパイルアン(Wat Phra Pai Luang):
スコータイ最古の寺院。
城門の北側。600m 四方の城壁で囲まれている、
スコータイ王朝誕生以前、クメール支配下の時代
にスコータイの町の中心。
3 基(現存 1 基)の塔堂はクメール帝国ジャヤ
ヴァルマンⅦ(12-13C)時代建立の大乗仏教の
塔堂。後、スコータイ時代に上座部仏教寺院と
なった。
<スリランカ様式>
・ワット・チャンロム (Wat Chang Lom、
シーサチャナライ):「像が囲む寺」
3 層の基壇の上にスリランカ様式の仏塔
(基壇下層に 36 頭の象)、仏龕に漆喰製の
仏坐像。13-14C、ラムカムヘン大王建立。
・ワット・サーシー(Wat Sra Sri):
濠に囲まれた寺院
スリランカ様式釣鐘型仏塔前に仏陀の
坐像、スコータイへのスリランカ仏教伝播を
示す遺跡。
15
<スコータイ様式>
・ワット・チェディ・チェットテーオ
( Wat Chedi Chet Thaeo、
シーサチャナラーイ):
スコータイ様式仏塔(頂上部蓮
の蕾をかたどる)、33 基の仏塔
(スリランカ、クメール、北部タイ
様式など)が囲む
・ワット・マハタート ( Wat Mahathat ):写真 p14 に既掲
スコータイ都第一の大寺院、1292 以後の建立。200m の方形の城壁内の中央に位置。
中央塔堂には本来仏陀の遺骨(舎利)が納められていたと考えられる。
中央の仏塔は蓮の蕾型のスコータイ独特の様式。その仏塔を四角に囲んで、クメール式仏塔
(プラーン)とシュリヴィジャヤ式仏塔が交互に計 8 基並んでいる。境内に 200 以上の仏塔と
10 基の仏堂とモンドップ 8 基、本堂 1 と池 4 ヶ所。
・ワット・トラパン・グーン
(Wat Traphang Ngoen):
銀の池のほとりにある寺院。
スコータイ様式の仏塔(蓮の蕾型)、
仏塔上部の 4 面に仏立像がはめ
込まれている。
スコータイの仏像
スコータイ時代の仏像の典型で腰がくびれ、髪型は尖塔のように尖った形。
・ワット・サパーンヒン
(Wat Saphan Hin):
スコータイ西郊山中スコータイの都
を遠くに見下ろして立つ。
漆喰製立像、12.5m、施無畏印
(右手)、
ラムカムヘン大王建立。
「アッターロット仏」。
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・ワット・シーチュム ( Wat Sri Chum ):
方形で屋根の消失したモンドップ(箱型の堂、15m)
内安置、漆喰製仏坐像、
降魔印(仏教の宇宙観、地獄・極楽・現世表現)、
14-15C 建立。「アチャナ仏」。
釈迦遊行仏(優雅に歩く仏陀)
スコータイ文化が生み出した遊行仏は大衆の説法と自己修養のために地方行脚に出かけようと
して、正にその第一歩を踏み出そうとする仏陀の歩 く姿 を現 しているともいわれるが、悟 りを
開 いたブッダが、自 分 を生 んで 7 日 後 に亡 くなった母 親 (マーヤー夫 人 )に仏 法 を説 くた
め昇 天 し、 90 日 後 、ブラフマー神 (梵 天 )とインドラ神 (帝 釈 天 )を従 えて帰 ってくる(三 道
宝 階 降 下 )時 の様 子 を表 している、とされる。 14C のスコータイで発 展 した仏 像 様 式 。
歩きながら礼拝する 173 人
の阿羅漢像
( Wat Mahathat )
釈迦遊行仏(煉瓦製)
(Wat Traphang Ngoen)
釈迦遊行仏(青銅製(後代))
(Wat Sra Sri)
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(補足)
・ワット・アルン(Wat Arun、暁の寺、バンコック):
クメール式塔堂、アユタヤ時代に創建、
19C に現在の建築完成、75m。
バンコク様式のとうもろこし形の大仏塔を 4 つの
小塔が囲み、須弥山を具現化。
合掌する神々、翼を広げたガルーダ像、エラワン
象に乗ったインドラ神の像(塔身上段)。
ヤク(夜叉)が支える(塔身下段)、
ヒンズー・シヴァ神象徴(塔尖頂部)、
シヴァ神の住む須弥山(塔身)。
(参考)三島由紀夫「豊饒の海‐暁の寺」
(参考文献)
・「物語ビルマの歴史」 根本敬 中公新書 2014
・「般若心経」 佐々木閑 NHK 出版 2013
「ミャンマー仏教遺跡の宝庫を歩く」 邸景一、武田和秀 日経 BP(旅名人ブックス) 2007
「ミャンマー仏教遺跡」 伊東照司 柏書房 2003
「謎の仏教王国バガン」 大野徹 NHKブックス 2002
「地球紀行世界遺産の旅」 小学館 1999
「ユネスコ世界遺産東南アジア・オセアニア」 講談社 1997
・「アンコール・ワット」 石澤良昭 講談社現代新書 1996
「インド東南ア古寺巡礼」雄山閣 1995
・「古代文明と遺跡の謎」 自由国民社 1994
・「美の回廊をゆく」1-3 日本放送出版協会 1991
「世界の歴史 18 東南アジア」河出文庫 1990
・「豊饒の海-暁の寺」三島由紀夫 新潮文庫 1977
・「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ(高橋健二) 新潮文庫 1971(1922)
(後記)
ボロブドゥール(インドネシア)を訪れたのは 1988 年であった。ユネスコが、崩れた遺跡の石材
の一つ一つに番号を振って 10 年がかりの修復作業をしていた。 アンコール・ワット(カンボジア)
はポルポト政権が 1979 年に崩壊した後も、周囲は至る所が地雷原で、近づくことを許されなかっ
た。 ようやく遺跡を訪ねることができたのは、1990 年。遺跡には銃弾の跡が見られた。 バガン、
マンダレー(ミャンマー)は今年初めて訪れた。ミャンマーでは寺院や仏僧が深く尊敬され、仏教が
人々の心の中に広く浸透し、生活そのものとなっている。2000 年に産業調査のためミャンマーを
訪ねた時、夕暮れ時に空港に着いたが、がらんとした空港ビルの一角で工事をする音がわずか
に聞こえた。空港から都心までの専用道路は 2-3 ヶ所の交差点のみが点灯されていたが、それ以
外の所は真っ暗であった。今年になって再度ミャンマーを訪れた。空港からの道路は全て点灯さ
れており、都心に近付くにつれ車は大渋滞に巻き込まれた。今まさに、世界各国からミャンマーへ
と民間企業の進出はすさまじいが、中国のプレゼンスは更に顕著である。中国にとって、河川、ダ
ム、道路、鉄道などのインフラ面でのミャンマー政府支援には絶大なるものがあり、完成すれば、
中国念願のインド洋に達するルートが確保できる。 スコータイ(タイ)は機会に恵まれ、数知れず
訪れた。スコータイはまさに上座部仏教の歴史と遺跡の博物館と言える。
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