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柳宗悦著・紙装私版本﹃朝鮮の美術﹄︵一九二二年五月︶の出版と

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柳宗悦著・紙装私版本﹃朝鮮の美術﹄︵一九二二年五月︶の出版と
柳宗悦著・紙装私版本﹃朝鮮の美術﹄
︵一九二二年五月︶の出版と時代的位置の究明をめぐって
︵ May 1922
︶ written by Yanagi Muneyoshi
On the Publication and Historic Significance of the Privately Published Handmade Book "Art of Korea"
ムジュムダール
アシュトシ
プラカッシュ
MUJUMDAR Ashutosh Prakash
要旨
従来の白樺時代柳宗悦研究や民藝運動研究において一九二二年五月に柳が私費出版した紙装の和綴じ単行本﹃朝鮮の美術﹄の装幀
︵素材︶
、出版や制作の過程は考察の対象とされてこなかった。本研究によって件の限定版私版本が、大正期信州白樺運動に著者柳宗悦と
ともに活躍していた小学教師一志茂樹と芝田五一郎とが協力して信州地方︵長野県︶より出版されたということを、戦後の信州白樺運動を
再見する文脈のなかで見出すことができた。出版に到るまでの経緯や白樺教師たちその他よりなる協力関係を物語る具体的証拠の確認はま
だ取れていないが、本稿で扱っている一連の記述や資料に基づいて、件の本は単なる﹁私版本﹂というよりも、朝鮮や信州地方に及んだ共
同制作による工藝作品の性格をもっているといえる。しかも、共同によるその具体的工藝作品は、
﹁抽象的な﹃記号﹄によって個々の具体
的作品を﹃代行﹄﹂すると蓮見重彦がいう﹁大正的﹂言説と同時代の白樺運動の内部から生まれたのだ。
﹃朝鮮の美術﹄の印刷および装幀をめぐる様々な謎
結論にかえて
Ⅳ
﹃朝鮮の美術﹄の出版と信州白樺の教師たち
一志茂樹と今井信雄の指摘
﹃白樺﹄に登場する諸記録
白樺時代末期の再見へ
Ⅲ
非買私版本﹃朝鮮の美術﹄の制作過程を求めて
キーワード
﹁信州白樺﹂派、共同性、
限定版紙装和綴じ、朝鮮苔紙、信州の和紙、
目次
はじめに
Ⅰ 一九四〇年代の追想録に見る民藝運動と白樺時代とを繋ぐ手が
かり
Ⅱ
﹃朝鮮の美術﹄、﹃思ひ出﹄、﹃陶磁器の美﹄の書誌的詳細
﹃朝鮮の美術﹄
﹃陶磁器の美﹄
27
人文社会科学研究 第 21 号
めの運動のミニコミメディアとして機能しただけではなく、個々の
具体的作品自体が、自然としての様々な素材と地域の手工藝を使用
かった。厳密な意味で手工業や工藝制作に従事することもなかった。
ら れ て い る が、 彼 自 身 は 美 術 家 や 工 藝 家 と し て 活 躍 す る こ と は な
︵
﹁民
柳宗悦︵一八八九︱一九六一︶は一九二〇年代半ばに民藝運動
藝﹂は﹁民衆的工藝﹂の略称︶を創始した中心人物の一人として知
そのもうひとつの空間は、一見、いかにも特異な性格をもったもの
ができる。差別と破壊を基調にした帝国日本の植民地時代を背景に
を通して新たな空間が生成していく特殊なプロセスを見て取ること
かれたような作ることや用いることの在りようや、そういった共同
はじめに
白樺同人で、大学教授をしていた柳は、周囲から知識階層の文化人
し、各地からの協力者や職人たちの協同を通してできた工藝的出版
として見なされ、後代の研究者も彼のことを文化エリートとして大
と 見 え る。 西 田 幾 多 郎 に 依 拠 し た﹃ 柳 宗 悦
手としての人間﹄︵平
凡社二〇〇三年︶の著者伊藤徹の言葉を借りて意訳すると、そこに
テムとして見なされてきた。つまり、従来、柳は厳密な意味で工藝
確固たる近代的自己による所産、言い換えれば一個の不変的なシス
は、他者との出会いを待ち受けて内部から変化しないというような
た創作だという考えに帰して称賛または批判されてきた。彼の思想
た様々な功績が、詰まるところ、彼個人の創意やイニシアチヴによっ
物が研究の対象として取り上げられるにもかかわらず、時折遺され
て、この私版本とその出版は三〇年代以降の共同出版活動のプロト
介するように、その外装や出版をめぐる詳細を究明することを通じ
立った大正期白樺運動の一環として上梓されている。しかし次に紹
紙 装 の 和 綴 じ に 注 目 す る。 時 代 的 に は こ の 私 版 本 は 民 藝 運 動 に 先
稿では柳宗悦著﹃朝鮮の美術﹄という二二年五月に自費出版された
た筆者も本研究において右に述べた共同の問題に接近している。本
近代日本における手漉き製紙業の盛衰や和紙言説の史的考察を経
て、とりわけ柳などにまつわる三〇年代以降の工藝的出版に着目し
物となっている。三〇年代以降のその展開に、私たちは、社会に開
衆︵手工業者一般も含む︶と対極的に位置づけて考えることが多い。
は唯主観的制作ではなく、共同性の別の在りようを見て取ることが
︶
また、後代の研究者による柳宗悦の人物史や民藝運動の研究におい
できよう。
︵
て柳という一個人を神格化し、その偶像を破壊や復活させる傾向が
や美術制作者としての藝術作家として見なされてこなくても、いず
タ イ プ と し て 位 置 づ け ら れ る ぐ ら い 後 者 と 酷 似 し て い る。 以 後、
強く目立っている。いずれにおいても、柳が交流をもった様々な人
れ彼自身に近代美術の天才画家像にも相通じるような、卓越した独
二二年当時の動向に限定した考察ではあるが、限られた範囲でも得
脈絡においてこの私版本やそれにまつわる共同の特殊な位置のみな
創的個人の地位が与えられている。
しかしながら、民藝運動が果たした成果を取り上げてみると、工
藝品の展覧会や新作活動などの外に、しかもそれと結びついた形で
らず、七〇年代以降の柳宗悦朝鮮美論の批判言説が孕む諸問題に注
ることが出来た成果を通じて大正デモクラシーと白樺運動の時代的
雑誌や特製本の出版が行われている。その出版物は記録や伝達のた
28
1
柳宗悦著・紙装私版本『朝鮮の美術』(1922 年5月)の出版と時代的位置の究明をめぐって(ムジュムダール)
意を向けさせることができる、と願っている。
Ⅰ 一九四〇年代の追想録に見る民藝運動と白樺時代とを
繋ぐ手がかり
筆者が初めて和綴じの紙装私版本﹃朝鮮の美術﹄︵図①︶や﹃陶
磁 器 の 美﹄
︵図 ②︶ に つ い て 知 っ た の は 日 本 に 留 学 し た 二 〇 〇 一 年
以降のことである。
当時筆者は、大正・昭和戦前期の近代日本で手漉き製紙が衰退し
ていくなか行われ
た、日常生活空間の
紙を使用しており、二二枚の地方産紙の見本を貼りつけて手間と愛
情を込めたつくりとなっている。
日本民藝協会刊行で部数二〇〇冊。
二七・八×一九・二センチ。本文三四頁と手漉き紙の見本二二枚収録
された二四枚他合わせて計四四枚本文用紙。本文用紙に武州︵埼玉
りょう さく
かみ こ がみ
きょう せい し
県︶小川産の未晒し楮紙の天地裁断、本書表紙に陸前︵宮城県︶柳
生の阿部 亮 作による﹁紙子紙/強製紙﹂が用いられている。外箱
用紙に山本國蔵制作の純三椏糸の紙布。題箋は鈴木繁男による漆筆
つき。小間絵は芹沢銈介。実はこの私版本自体が、柳のそれまでの
地方製紙との出会いや、それを通じて知り合った﹁紙友﹂との関わ
り合い、紙友同士との間の共同を鮮やかに物語るドキュメントでも
ある。その企画を記念して柳は一〇年以上に遡る紙友との交流や活
聚楽社東京・計一二〇冊︶や﹃ブレイクとホヰットマン﹄
︵三 一 年
一月∼三二年一二月・同文館東京︶の出版企画によって三一年に出
︵2︶
来た島根県出雲の安部栄四郎との交流とその後の共同活動に筆者は
注目した。その際、東京の国会図書館で私版本﹃和紙の美﹄ととも
に﹃陶磁器の美﹄をも手に取って見ることもあったけれども、二〇
年代に上梓された和綴じの紙装私版本の重みに当時気づくことはな
かった。
実際、三〇年前後よりも前から著述家柳宗悦自身の、手漉き紙を
含めた地方の工藝産物と関連分野に活躍する手工芸職人たちとの出
29
動を紹介した﹁和紙十年﹂を書いている。これが本論に注目する私
0
なかに和紙を取り戻
版本を最初に知るきっかけとなった文章だ。
0
す試みについて研究
『朝鮮の美術』
﹁和紙十年﹂のなかで柳は﹃朝鮮の美術﹄﹃思ひ出﹄及び﹃陶磁器
の美﹄の出版に信州の紙を使ったと言及している︵同書一六頁︶
。
0
しかしこれを読んだ当初、雑誌﹃工藝﹄︵三一年一月∼五一年一月・
0
を進めていた。これ
を追究することは民
藝運動に改めて出会
う契機ともなった。
四三年、柳の母勝子
が亡くなってから半
年余り経った後の九
月に私版本﹃和紙の
美﹄が上梓されてい
る。和紙についての
主な論篇をまとめた
冊子だが、外装に和
図① 明治大学附属図書館蔵
図② 日本民藝館蔵
『陶磁器の美』
人文社会科学研究 第 21 号
り上げて見ると、民藝運動において、日本の辺境や周辺地域に及ん
いうのも、この太平洋戦争︵大東亜戦争︶に到るまでの数年間を取
ヴメントとしてのその運動が多種多様な性質を体現し得たのだ。と
いった。多元的な地理的要素が加わることによって、その時々、ムー
合うことによって民藝運動のあり方自体自体が様々な展開を遂げて
会いが次々と重なり合っていることは見逃せない。出会いが重なり
頁︶
。
を私費で出版することを思いついた初心を振り返っている︵同書九
版本に心を傾けるのは為である﹂というふうに述べて柳は工藝的本
すると今のところ私費出版より他に適当な道が見つからぬ。私が私
所載﹁序﹂の抜粋︶。そのなかで、
﹁少しでも良心的に本を出さうと
村秀太郎編﹃限定版手帖﹄第一二号一九五四年﹃柳宗悦私版特集﹄
だ展覧会や地方工藝の視察、調査研究および蒐集の企画や、保護展
運動の一環としてしばしば私版の紙装単行本が刊行されたその趣
︵3︶
旨について柳自身は戦争中に﹁民藝運動は何を寄興したか﹂という
かに生かしていくという民衆的工藝にまつわる藝術理念を共有する
てきている。また、品物を﹁正しく﹂作り、それを普段の生活のな
意図のもとに刊行されたのであつて、造本の技が益々衰へてきた今
ところは、印刷、用紙、装幀など一つの工藝品としての、範を示す
一文を書き、そのなかで次のように回顧している
覧のための地域民藝館の建設、新作活動など様々な事業が進められ
ことを中心に各地から人びとが運動に参入していっているからであ
日、明確な存在理由を有つであらう︵﹃工藝﹄第一一五号二〇頁︶
﹂。
美﹄のような単行本、叢書や小冊子の限定出版である。意匠、印刷、
に関係するその記述は次節で紹介している。
せざるを得ない事情について述べているが、﹃陶磁器の美﹄の出版
﹁趣旨とする
る。そのような活発なムーヴメントを最も著しく物語っているのは
実は、二二年の時点でも柳は、本屋が引き受けてくれず自費で出版
︱
運動のミニコミ機関誌であった﹃工藝﹄と、冒頭に挙げた﹃和紙の
装幀や製本など出版事業の各分野において地方産の手漉き紙や布な
ど様々な用材と関連手工芸とが活用され、各地からの制作者の協力
一方、柳が記したこの一文に目を付けた水尾比呂志は、柳民芸論
や彼の朝鮮美観が学術的に批判され始めた頃、早くも八〇年に、民
藝美の認識を啓蒙する﹂としてのその出版事業がいかに民藝運動の
がなければ、現の形になることはなかった。
今 村 秀 太 郎 編﹃ 古 通 豆 本・ 二 〇
宗悦本と向日庵本﹄︵日本古書
通信社一九七四年︶所収の﹁柳さんの私版本﹂︵五四年初冬執筆︶
本質的実体を占めたかに読者の注意を向けさせている。
﹃柳 宗 悦 全
藝運動において出版事業が果たした成果に着目している。そして
﹁工
﹁限定版や私版本
︱
集著作篇第九巻﹄所収の解説﹁民藝運動の展開﹂に水尾は雑誌﹃工
に寿岳文章︵一九〇〇︱九二︶がいっている
について人の書いてゐるのを見ると、柳さんのこの方面の仕事への
藝﹄の長期にわたる出版の特質を次のように概観している。
﹁ ⋮ 民 藝 に つ い て の 啓 蒙 と 研 究 の 出 版 は、 初 期 は 新 聞 雑 誌 へ
の寄稿や著作によって行われたが、昭和六年に雑誌﹃工藝﹄が
理解がどうも不十分のやうに思はれる。明治以来わが国に書物工芸
に最も深い理解と立派な実践とを示した人をあげよ言はれた場合、
私ならば第一柳さんを選ぶだらう︵一三︱四頁︶﹂。そして同じ豆本
のなかに柳自身の書いた﹁この世を美しく﹂が掲載されている︵今
30
柳宗悦著・紙装私版本『朝鮮の美術』(1922 年5月)の出版と時代的位置の究明をめぐって(ムジュムダール)
考えに基いて、装幀・用紙・活字・印刷に心を配り、ことに挿
︿⋮﹀雑誌そのものが美しい工藝品でなければならないという
﹃工藝﹄は、民藝の主張と研究、啓蒙と認識普及を目的として
創刊されると、これを機関誌としていっそう活潑となった。︿⋮﹀
樺時代より一方前進した発展として解釈されている。
かった工藝の各分野における各地からの職人たちの参加は先行の白
民 藝 運 動 を 見 据 え て い る 柳 に と っ て、 民 藝 運 動 に な く て は な ら な
いて書いている︵同書二〇︱一頁︶
。つまり白樺時代の延長線上で、
を有つことが如何に吾々の運動を助けたことであつたか﹂と柳は続
柳が想起していることが窺える。
ており、なおかつ大正期の白樺より一歩前進した功績であると、と
前の大正時代における白樺運動や同時代における共同経験と繋がっ
致が具体的な工芸制作に結びついたということは、深層部において
四〇年代の終戦前後の時点で柳が書いた記述を参考にしてみる
と、民藝運動を成り立たせ、地方からの多くの参加者による協同一
絵は品物の選択・撮影・製版などに細心の配慮を払った。その
装幀には、芹澤銈介・鈴木繁男・棟方志功・柳悦孝・三代澤本
壽等の技や各地の紙と布を活用、装幀史上に新たな分野を開拓
している。﹂︵同書一九八〇年五八六頁︶
先に挙げた﹁民藝運動は何を寄興したか﹂という一文に戻るが、
民藝運動においてそのような仕事を果たすことができた最大の理由
さうして是等の種々な面を通貫する一つの特色は、同人の志
を協せた仕事だと云ふ一事である。凡ては友誼の恩沢なのであ
の人びとが特別な位置を占めているということも垣間見ることがで
わにしている意識のその流れには、信州︵長野県︶の地域およびそ
として有志たちの存在を取り上げて柳は次のように言及している。
遠回りだったかもしれないが、ここで冒頭に取り上げた回顧文﹁和
紙十年﹂に立ち返って見てみると、そこで書き記されたものの根底
る。吾々のひそかに誇りとするところは、互に尊敬し合ふ多く
きる。
に流れる柳の意識の流れがより明瞭に見えてくる。そして、柳が顕
の親しい友達を有ち、その結合の強固なことであつて、この点
けたもうひとつの運動、即ち﹁ひとり往時の﹃白樺﹄を想起せしむ
わけ右に述べた工芸的出版活動の文脈において柳は民藝運動に先駆
右に引用した文章の直ぐ後に、柳は、ここで論じる課題の手がか
りとなる有力な示唆を与えている。民藝運動が寄与したもの、とり
年に出版された件の私版本はたまたま地方産紙を使ってできたもの
柳によるその回顧文や右に取り上げたその他の記述をみると、二二
るまで、まだ歳月を要しなければならなかった時期である。しかし
一〇年先立った白樺時代の歩みであり、民藝運動が組織的に発足す
他の文化体にその例を見ないかと思へる。︵同書二〇頁︶
﹃思ひ出﹄及び﹃陶磁器の美﹄
信州の紙を使って﹃朝鮮の美術﹄
が出来上がった二二年の時点というのは、﹁和紙十年﹂が振り返る
るのみである﹂と記している。﹁而も同人には各方面の、即ち哲学、
とは思えない。実際、その試みは、著者柳自身が紙装の単行本を私
雑 誌﹃工 藝﹄ の そ れ ま で の 一 〇 年 間 に わ た る 歩 み よ り も、 さ ら に
宗教、科学、経済学に志す人々をも含むのみならず、多くの技術者
31
人文社会科学研究 第 21 号
拠点をおきながら運動に内部から関わった人間︶と使用者︵運動の
自体︵実物の書物と外装の中身︶その両方を通じて制作者︵各地に
でも工藝作品として作り上げ、文字︵書物の内容︶と工藝作品それ
と、大正期白樺時代の一側面として試みられた出版事業は、本一冊
なってくる。なぜならば、右に引用した柳の追想を参考にしてみる
に そ う 考 え る よ う に な っ た 経 緯 や、 出 版 に 到 る ま で の 過 程 が 気 に
費出版することに挑んだ生涯初の試みだった。しかし柳が白樺時代
歌二首以外、略歴に
姉千枝子の遺影と和
なっており、巻頭に
文﹁姉の死﹂とより
載った柳による追悼
﹃白樺﹄第一一号に
に連載され翌一一月
一〇月﹃朝鮮新聞﹄
︵4︶
限って配ったとされている。二四・二×一六・八センチ、袋綴、本文
加 え て 性 格 に つ い て の 文 が 付 記 さ れ て い る。 非 売 品 で 柳 は 親 友 に
外部から関わった一般社会の人びと︶とを結びつけるという後年の
マトリックス
民藝運動にみる共同制作の開かれた在りようを予示しその母胎と
なっているという強い印象を受けるからである。
三四頁︵
﹁著書目録﹂
﹃柳宗悦全集著作編第二二巻下﹄所収筑摩書房
一九九二年四一七頁も参照︶。この冊子の内容は本論と直接関わり
がないため論じないが、次に見るように本文用紙は外の二冊に用い
られたそれと同類で生産者も同一であるがゆえに三冊とも一つの
セットとして考えてよい。
ついて参照される︵四一六頁︶。それに付け加えて記すと次の通り
32
筆者はこのようなパースペクティヴを手がかりに﹃朝鮮の美術﹄
と﹃陶磁器の美﹄の出版とそれに到るまでの出来事の連鎖について
詳しく調べて見たが、それについて後に詳述する。
先に二二年に﹁信州の紙﹂を用いた単行本三冊の詳細を手短に紹
介しておこう。
﹃朝鮮の美術﹄
二二年五月刊﹃朝鮮の美術﹄に次いで、柳は、同年九月に京城住
まいだった最愛の妹今村千枝子︵朝鮮総督府内務局長今村武志の夫
である。五箇所で綴じた和綴じ私版本で判型は二八・六×一八セン
Ⅱ
﹃朝鮮の美術﹄、﹃思ひ出﹄、﹃陶磁器の美﹄の書誌的詳細
人・三〇歳︶と甥︵四歳︶の一周忌にあたって﹃思ひ出﹄
︵図③︶を、
チ。部数は二〇〇部限定。表紙は信州産松崎紙渋引、中央に朝鮮苔
さて、先駆の﹃朝鮮の美術﹄だが、不思議なことに奥付はついて
いない。同じ﹃柳宗悦全集﹄所収の﹁著書目録﹂にその形態などに
そしてさらに一二月に﹃陶磁器の美﹄を出している。この三冊の中、
紙に﹁朝鮮の美術﹂と活字体で刷った題簽を貼付︵図④︶
。本文用紙、
二 九 頁 で、 文 末 に﹁ 千 九 百 二 十 二 年 正 月 号﹃ 新 潮 ﹄ 所 載。 同 三 月
本論では﹃陶磁器の美﹄に触れながら、とりわけ最初の﹃朝鮮の美
﹃思ひ出﹄についてだが、内容は今村武志が寄せた序と、二一年
信州産宮本紙。本文ないし表紙の用紙は天地耳付︵図⑤︶。本文は
術﹄に焦点を絞って考察を進める。
図③ 日本民藝館蔵『思ひ出』
柳宗悦著・紙装私版本『朝鮮の美術』(1922 年5月)の出版と時代的位置の究明をめぐって(ムジュムダール)
三十一日訂正加筆﹂と書いてある。
挿絵は、古墳壁画青龍図の口絵一
葉ともに計一〇葉。
そしてテクスト﹁朝鮮の美術﹂
のバージョンだが、初出・補訂・
再録や翻訳を合わせるとその数は
一〇本を上回っている。高崎宗司
に よ る と、﹃ 新 潮 ﹄︵ 新 潮 社 ︶ の
二二年正月号に初めて掲載され訂
正加筆の上、私版本に収録された
後、そのテクストは次のような変
化 や 再 生 を 見 せ て い る︵﹁柳 宗 悦
六﹄一〇︱一二
YMZ
の本と論文の朝鮮語訳について﹂
﹁月報三﹂﹃
頁︶。
一 九二二年九月、さらに若干補訂
して朝鮮関係の主要論文集﹃朝
鮮とその芸術﹄叢文閣収録
一九二五年一二月、僅かな訂正で﹃信と美﹄初版警醒社収録
一九五四年六月、用字法を改めて﹃柳宗悦選集第四巻・朝鮮とその
芸術﹄春秋社所収
一九六九年三月、詩人朴在森訳﹃韓國과 그 藝術﹄
︵﹃朝鮮とその藝術﹄
の朝鮮語訳︶国民文庫社所収
一九七四年六月、画家李大源訳﹃韓國과 그 藝術﹄知識産業社
一九七五年六月、鶴見俊輔編﹃近代日本思想大系第二四巻・柳宗悦
集﹄筑摩書房所収
一九七六年三月、
﹃東亞日報﹄元編集長宋建鎬訳﹃韓民族과 그 藝術﹄
探求新書
一九七七年九月、日本文学研究者・朴在姫訳﹃朝鮮の藝術﹄東西文
庫
一九八〇年七月、金鍾浩訳﹃光化門の心﹄︵
﹃朝鮮とその藝術﹄の朝
鮮語訳︶ノグム出版社ソウル所収
一九八一年一月、﹃柳宗悦全集著作編第六巻﹄筑摩書房所収︵二二
年九月刊﹃朝鮮とその芸術﹄が底本︶
﹃陶磁器の美﹄
体裁は﹃朝鮮の美術﹄と同様。一五〇部限定。本文は三三頁で、
挿絵一八枚の印画紙貼り込み。献辞に﹁此書を余の友として又陶工
として敬愛する富本憲吉、バーナード・リーチ両兄に贈る。言葉な
き兄等の器から、是等の言葉の多くを学び得たことを、こゝに紀念
したい。﹂とある。文末に﹁一九二〇年十二月六日稿、一九二二年
十月訂正加筆﹂と書いてある。本書は奥付があり、次のことが書い
ている。
非買。印刷
大正一一年十二月十日。発行
大正一一年十二
月十五日。著者並二発行者
柳宗悦
東京市赤坂区高樹町十二
番地。印刷所
三秀舎
東京市神田区美土代町二ノ一。印刷者
島連太郎
東京市神田区美土代町二ノ一。
33
図④ 筆者所蔵
『朝鮮の美術』
・
朝鮮産苔紙の題箋
図⑤ 日本民藝館蔵『陶磁器の
美』
・宮本産本文用紙の耳
人文社会科学研究 第 21 号
二 二 下 ﹄ 所 収 の﹁ 著 書 目 録 ﹂ に 指 摘 さ れ て い る よ
で は、﹃ YMZ
う に、 こ こ で﹃ 陶 磁 器 の 美 ﹄ の 広 告 が 載 っ た 同 二 二 年﹃ 白 樺 ﹄ 第
一九二一年一月、昨年一二月稿の原稿が﹃新潮﹄第三四巻第一月号
新潮社初出
一九三一年秋、釜山で謄写版刷りが出された︵式場隆三郎編﹃民藝
収︵口絵一点のみ︶
一九二五年一二月、さらに若干筆を加えて﹃信と美﹄初版警醒社所
三秀舎東京に上梓
一九二二年一二月、同年一〇月に訂正加筆して私版本﹃陶磁器の美﹄
一三巻一〇月号所収の﹁﹃陶磁器の美﹄の出版に就て、其他﹂
︵
﹃ YMZ 一九二二年二月、大幅加筆した原稿が有島武郎・志賀直哉共編﹃現
一二﹄所収一九八二年二七︱三一頁︶を参考にして見よう。そのな
代三十三人集﹄新潮社に収録
かで柳が書いたものを長めに引用する。
此号に広告しておいた通り、今度﹁陶磁器の美﹂を単行本と
して出版する。此春頃出版した﹁朝鮮の美術﹂と同型にする。
凡そ四六倍版で︵巾はうまるが︶凡て和紙を用ゐる。今度も信
一九四一年七月、再度加筆して﹃茶と美﹄初版乾元社収録
に關する著作﹄による︶
い希望をもつてゐたが、本屋が引受けそうもないので、
少しづゝ
一九五二年六月、
﹃茶と美﹄増補改訂版乾元社再録
州で出来る素紙にする。自分は前からこう云ふ形で本を出した
自費出版を試みる。挿絵はブロマイドの写真をそのまゝ入れる
一九五五年三月、用字法を改めて﹃柳宗悦選集第六巻・茶と美﹄春
項のなかで柳は小著﹃朝鮮の美術﹄が売り切れになったことを読者
磁器の美﹄を出版したいとの計画を明らかにしている。その連絡事
志と芝田﹂の貢献は欠かせなかったと述べ、引き続き同じ体裁で﹃陶
ところで、同二二年の﹃白樺﹄七月号に掲載された﹁私事一束﹂
に柳は﹃朝鮮の美術﹄が出来上がったことに関して﹁信州にゐる一
﹃白樺﹄に登場する諸記録
Ⅲ
非買私版本﹃朝鮮の美術﹄の制作過程を求めて
全集著作編第一二巻﹄筑摩書房所収
一九八二年、四一年刊﹃茶と美﹄初版に収められた文章が﹃柳宗悦
秋社収録
ことに決めた。印刷は部数が沢山でないと出来ないので断念し
た。前と同じ様にコロタイプ版にしようと思つたが、版をもつ
とよくしたい為に写真版を入れる事にした。それで前の本より
少し高くなる。書留送料ともで三円十五銭にきめた。之は実費
の価格なので之より安くならない︿⋮﹀部数は三百より刷れな
い︿⋮﹀此本は町では売らない︵後略︶。︵同書二一二頁︶
︵5︶
そして引き続き、写真撮影は野島熙正︵康三︶によったことを明
記し同氏に対して謝辞を寄せている。
二二下﹄による︶。
YMZ
テクスト﹁陶磁器の美﹂の初出、補訂、および再録についてだが、
私版の紙装単行本をも含めて次のようにまとめる︵原文の他に、主
に﹃
一二﹄および﹃
YMZ
34
柳宗悦著・紙装私版本『朝鮮の美術』(1922 年5月)の出版と時代的位置の究明をめぐって(ムジュムダール)
して今度の計画を告げて次のようにいっている。
蔭だ、いつも乍ら御好意に厚く感謝する﹂と謝辞を付している。そ
以上に良い品ができたことは﹁全く信州にゐる一志、芝田両兄のお
ちよく出来﹂ているということを述べている。そして、自分の予想
に知らせ、この本は誤植が多いけれども、
﹁自 分 の 予 期 以 上 に 気 持
版するという試みは白樺史上初のことだった。ところが、
﹃白 樺﹄
場合に見るような朝鮮をも含んだ地方産紙を使って和綴じとして出
これは非常に重要な記述である。つまりそれまでに柳やその他の
白樺同人はいろいろな出版物を刊行しているが、﹃朝鮮の美術﹄の
勧められたからだと、はっきりと告げている︵同書一四六頁︶
。
十枚程入れたいと思つてゐる。出版の運びになつたら又広告す
宋窯、高麗、デルフト、ペルシャ、明、李朝、日本のもの等を
も好きなものゝ一つだ。挿絵をこん度は色摺りばかりにして、
同じ装幀や同じ紙で自分が嘗て書いた﹁陶磁器の美﹂を出版
したいと思つてゐる。あれは専門以外の論文だが、自分では最
によるものではなく、﹁信州にいる友達﹂から勧められたものであり、
柳も明記しているように、この試みは何も彼個人の独創的思いつき
させることを導き出そうとした兆しが見て取れる。しかも、なお、
の時流に逆行するものというよりも、むしろ交渉を経て時代を更新
地方産紙を用いた﹃朝鮮の美術﹄の出版でみる試みには、全く当時
といえば、明治末期・大正期に大量印刷メディアを駆使し、西洋美
る。
︿⋮﹀部数は三百位よりすれない。
︵
﹃白 樺﹄ 一 九 二 二 年 七
柳もその発想を練り直しながらいっしょに動いている様をその記述
術作品の複製画の普及で知られる﹃白樺﹄である。これに対して、
月号七八頁︶
から垣間見られる。
て﹁一五〇部限定﹂と記されている︵同書四一八頁︶
。とりあえず、
ているにもかかわらず、不思議なことになぜか﹃ YMZ
二 二 下﹄ 所
収 の﹁ 著 書 目 録 ﹂
︵前 節 で も 記 し て い る が︶ に は 部 数 は 半 分 に 減 っ
其 他﹂
︵同 書 一 〇 月 号 所 載︶ で は 三 〇 〇 部 限 定 の 刊 行 予 定 が 記 さ れ
人以外にも出版に関わった人物の詳細はわかるか。装幀、印刷、製
たか否か。関わったとしたら、その関わりの内容は何だったか。二
のか。柳が名を挙げる﹁一志﹂や﹁芝田﹂という人物はそれに関わっ
や宮本産の紙に合わせて朝鮮産の紙を使い、和綴じの形態で出版す
﹃陶磁器の美﹄の刊行部数についてだが、同年の﹃白樺﹄一〇月 では、この論篇を単行本にして出版することを柳に勧めた人物や
号および一一月号掲載の広告や前掲の﹁﹃陶磁器の美﹄
の出版に就て、
人びとは誰だったか。さらに、単行本といっても、その用紙に松崎
ここで一まず﹃朝鮮の美術﹄の出版とそれに関わった人びとのこと
本、
製紙など各分野の職人や正確な産地の詳細も重要な意味をもつ。
同二二年五月に﹃朝鮮の美術﹄が注文者に送本されたその一月前
の﹃白樺﹄四月号に﹁六号記﹂の冒頭に柳は、論文﹁朝鮮の美術﹂
の柳宗悦と朝鮮との関係や、民藝運動と柳宗悦民藝論とを取り上げ
従来の柳宗悦批判研究において単行本の内容となったテクストそ
れぞれが度々議論の対象となってきたが、しかし、大正期白樺時代
ることに到ったのはどういった対人的やりとりのなかで決められた
を追ってみたい。
を単行本として出版することになったのは﹁信州にゐる友達から﹂
35
人文社会科学研究 第 21 号
近年の動向においてもこの私版本が作られた過程やそれがおかれた
本研究によって得られた成果の意義を論じるが、やはりそういった
細かい変容の無視に注意を向けた近年の一部の動向を紹介しながら
地に限って考えることにしても、地域や国家を越えた人とのつなが
て縮んでしまった時間の経過であり、装幀に使われた用紙とその産
つまり、そこで注目すべきなのはテクストの編纂収録や再生によっ
それは、即ち、地方産紙を使って和綴じの形状で単行本を限定出
版するという地域社会に及んでできた共同制作の連携そのものだ。
たテクストとはさらに異なる次元での新しい展開が生じているから
社会関係も問題とされていない。おそらく、柳宗悦という一個人の
りによってできたその和綴じ単行本の特殊性や個体性が解消されて
る先行研究において、これら二二年刊の紙装単行本の制作や出版に
功績を解する場合に伊藤徹︵同前掲書︶によって指摘されたと同様、
しまっているとのことである。この時点では関連の詳細は定かでは
である。
この省略も冒頭に取り上げた固定観念、即ち広い意味での﹁制作﹂
ないが、時間と空間の縮小によって、個々の揺動、運動、および関
まつわる話が対象とされてこなかった。本稿の末尾に、従来の批判
を一個人による唯主観的営みとして考えることに根強く由来してい
わった人びととの間のやり取り、それらの在処が途中から見えなく
研究に見る理論偏重の傾向、または個々の具体的事物やテクストの
るのでは。
それぞれテクストに筆が加えられている。変化は訂正加筆の程度に
りも前の二二年一二月に﹃陶磁器の美﹄が上梓されるまでの三年間、
月の関東大震災を境に雑誌﹃白樺﹄の刊行が事実上打ち切られるよ
二〇年当初を初めとしてそれぞれの論篇が初出して以来、二三年九
ス ト の バ ー ジ ョ ン の み で あ る。 と は い え、 焦 点 を 絞 っ て み る と、
スト解析の原典となったのは﹃柳宗悦全集﹄に収録されているテク
さらにいうと、テクストとなる﹁陶磁器の美﹂や﹁朝鮮の美術﹂
それぞれが度々批評の対象とされてきたけれども、その場合、テク
ど多くはなかった。けれども、ものを中心にできた社会空間は、何
個々のものであった。当時の情勢からすれば、参加者の数はそれほ
とに注目されよう。それぞれの場合、対象となったのは具体的な、
応がそれである。これらの実践活動は一定の共通性をもっているこ
光化門︵クヮンファムン︶の取り壊しに抵抗する言論活動の連鎖反
の展覧会と関連催し物の開催、あるいは、また、旧李朝王宮の城門・
族美術館設立に向けた企画および資金調達の運動、朝鮮の焼物など
と同時に次のような公的催し物や共同活動が行われている。朝鮮民
0
︵7︶
36
なってしまっている。
止まってはいるが、いくら微妙でも時間をかけてテクストが少しず
も﹃白樺﹄同人や直接の関係者だけに限らず、植民地支配者日本と
白樺時代末期の再見へ
つ変わっていくという過程とその都度の契機一つひとつを考慮に入
被支配者朝鮮に加えて、さらにインド、中国やイギリスなどからの
なお、この﹃朝鮮の美術﹄やそれに続く﹃陶磁器の美﹄の出版を
一つの出来事として見れば、その出来事に先立って、あるいはそれ
れて検討することそれ自体は歴史考察上、有意義な作業だとは否め
参加および応援によってできている。その社会空間が様々な差別や
0
︵6︶
ない。というも、同じ時間のスパンにおいて、以前見ることがなかっ
0
0
柳宗悦著・紙装私版本『朝鮮の美術』(1922 年5月)の出版と時代的位置の究明をめぐって(ムジュムダール)
違いを超えてできているというもうひとつの史実に、私たちが、現
下の植民地主義や帝国主義の問題がどれほど広くそして深く根を下
ろしていたかを窺えるとともに、時代の趨勢に対して人びとが表わ
した感受性と互いに対する共感をも同時に窺うことができる。
紹介しよう。
Ⅳ
﹃朝鮮の美術﹄の出版と信州白樺の教師たち
柳がいう松崎および宮本は、大正期と昭和戦前期のころ、長野県
やしろ
北安曇郡の社村に属した村の名称で、戦後五四年の町村合併以来、
一志茂樹と今井信雄の指摘
共同でできた和綴じ私版本の出版は、右に挙げた活動の一環として
現・大町市に編入されるようになった。次節で詳しく触れる機会は
日本︵長野県︶と朝鮮の地方産紙を使って、そしてそれらの地域
に加えて東京を拠点にした手工業者及び協力者と著者自身との間に
同時的に展開したことはとても魅力的でより詳細な検討を必要とし
あるが、この社地区は古くから紙の産地として知られ、明治・大正
えない成果が産み出されたことに対して肯定的評価もなされたが、
したとされる﹁信州白樺﹂に求められた。両者の場合、当時類の見
灯を担いだとする﹁白樺﹂、及びその周囲にあって衛星として機能
は大正時代におけるいわゆる﹁大正デモクラシー﹂や、そのかがり
弱さに対する反省の文脈のなかで行われたものである。問題の典型
て本論に関わるある驚きの逸話を発見できた。そこには、先に紹介
誌﹃創作﹄にまつわる当時の動きを検討している。その文脈におい
かで今井信雄︵一九一七︱︶は、信州から出た二二年四月発刊の雑
︵上下共に﹃国文学ノート﹄第七・八号一九七〇年三月初出︶のな
出版部長野一九七五年︹新訂版一九八六年︺
︶所収﹁
﹃創作﹄物語﹂
六七年以降に発表した一連の小論を一冊の単行本にまとめた主著
﹃
﹃白樺﹄の周辺
信州教育との交流について
﹄
︵信濃教育会
に焦点を絞って捜し求めた。
ある。そこで、筆者はこの地域に一番縁の深い﹁信州白樺﹂の同人
期以降、様々な変遷に対応しながら盛衰の歴史を刻んできた地域で
ている。
ところで、二二年当時の出版に触れる記述は、大正時代の信州白
樺運動が再見された戦後の文脈のなかで見つけられる。
この再見は、
占領下日本における戦後民主主義と同様、﹁外﹂に対する植民地支
それにもかかわらず、その一方、とりわけ信州白樺の場合、現下の
した﹃朝鮮の美術﹄の出版に関連する柳の記述と全く一致した見聞
配や侵略戦争に行き着いた近代日本が内部に抱えていた︵いる︶脆
教育界だけに限らず権力体制の不当さに対抗する前衛の砦が確立す
が窺える。加えて、この私版本の出版に尽力した人物として、現大
︱
るよりも前に分裂、幻滅、離反などが生じ、同人たちが低迷解散し
町 市 内 の 社 生 ま れ で あ る 教 育 者・ 郷 土 史 研 究 家 一 志 茂 樹 以 外 に、
田五一郎の名を挙げている︵
﹃﹃白樺﹄の周辺﹄一九七五年二五八頁︶
。
︱
てしまったと、厳しい批判が下された。
戦後民主主義再見の一環として﹁白樺﹂派と﹁信州白樺﹂派との
交流が問題化されたこの文脈についてここで検討する余裕はない
寡聞にしながら残念だが、現在、芝田五一郎について調査は進行中
一四年、一志とともに長野県師範学校を卒業した教諭・郷土史家芝
が、差し当たり肝要の記述は何だったか、その出現について詳しく
37
人文社会科学研究 第 21 号
州白樺﹄終刊号赤羽王郎特集号所載﹁王郎号拾穂記﹂のなかで﹁一
む中心的存在だった。大正時代当時における同県の教育現場といえ
七四年に大町市の名誉市民の称号を贈られた一志は県の小学校教
諭をする傍ら、大正末期まで熱狂的に信州白樺の文芸運動に取り組
と当時同学会常任理事原嘉藤他との間の対談﹁信州白樺運動のころ
月号三八三頁︶
。七〇年七月に行われた一志︵当時信濃史学会会長︶
対談等の論述は五編ある﹂と今井は記している︵同誌一九九〇年五
である。とりあえず、先に一志茂樹から始めて系譜を追ってみよう。
ば、弾圧と迫害という身に迫る危険と隣り合わせだったことが知ら
志氏が一九五四年四月から、七三年三月までの、座談会・講演会・
れているが、一志個人も周囲からの非難や虐め、時には憲兵からの
の一志先生﹂
︵
﹃信濃
第三次﹄同年一〇月号載録︶および七三年二
月に行われた同学会春季例会の特別講演﹁多分に誤伝評価されつつ
ある大正期信州白樺教育の実態﹂
︵
﹃信濃
第三次﹄第二六巻第五号・
第六号一九七四年五月号・六月号︶はそのなかの主要の論述である。
尾行や監視、または県当局からの圧迫と無関係だったことはない。
動振りとどこかで決別せざるを得なかったと思われている。一志の
そのなかで一志の今井の研究への批判に対して﹁一行の論拠も示さ
大正末期以降、身辺における変化と心配のためか、以前の積極的運
米寿︵八〇歳を迎えられたこと︶を祝して刊行を企画された﹃随想
ている。その直後、今井は一志の論述を参考に入れて、なお訂正加
ずに、ただ間違っていると決めつけられるのに納得しかね﹂た今井
究の成果である﹃長野県北安曇郡郷土誌稿﹄八冊を編集刊行してい
筆の上、翌七五年九月に論集﹃﹁白樺﹂の周辺﹄を発表している。
に み る 信 州 白 樺 運 動 の こ ろ﹄
︵信濃史学会一九八一年︶によると、
る ﹂︵ 同 書﹁ 序 ﹂︶。 真 珠 湾 攻 撃 と 太 平 洋 戦 争 が 開 始 さ れ た 直 後 の
いくつか執筆された書評本のなか、多秋五︵一九〇八︱二〇〇一︶
本人は︵同前誌一九九〇年五月三八三頁︶、今度、同七四年一一月
四二年一月に一志は﹁信濃史学会﹂をおこし、終生その会長を務め
による
﹁今井信雄著
﹃﹁白樺﹂の周辺
昭和期に入って二七年以降一志は一〇年にわたって﹁信濃教育会北
た。その間、終戦直後の四五年一二月に教職を退職している。退職
︵
﹃文学﹄第四五巻六月号岩波書店一九七七年︶を主要に参考する。
の﹃信州白樺﹄第一五号に﹁一志茂樹氏の論難に答える﹂を寄稿し
後、信濃史料刊行会編集主任、初代松本市立博物館長、大町市文化
しかし事実上、一志は今井のその主著に答えることはなかった。現
安曇部会による郷土調査の主任として﹂、日本初の﹁民俗学集団研
財審議会や長野県史編纂委員会などの各委員長を歴任する。
六一年、
状として、先述の﹃随想にみる信州白樺運動のころ﹄のなかに収録
信州教育との交流について﹄﹂
﹁古代東山道の研究﹂により文学博士号をとる。六六年、
﹁紫緩褒章﹂
されている対談﹁信州白樺運動のころの一志先生﹂
︵同 書 七 一 三 ︱
︱
を授章された。
聞き書一志茂樹の回想
︱
﹄︵平凡社一九八四年
八七頁︶
、または信濃史学会・一志茂樹八十年回顧編集委員会編﹃地
︱
一〇月︶所収座談会﹁白樺のころ﹂︵七六年一月一日付同書四七︱
方史に生きる
再見する批判研究が注目され始める際、大正期の信州白樺教育や文
一一五頁︶は、先述の講演会などと並んで、関連分野に関わる一志
七〇年前後にかけて、
﹁後世の研究者﹂として、とりわけ今井の
巨視的研究において﹁白樺﹂や﹁信州白樺﹂の文芸運動を実証的に
芸運動に関わった一志の当事者としての体験談が求められた。
﹃信
38
柳宗悦著・紙装私版本『朝鮮の美術』(1922 年5月)の出版と時代的位置の究明をめぐって(ムジュムダール)
の重要な回想録となっている。
白樺運動 ﹂に
なお、八六年に今井主著﹃﹁白樺﹂の周辺﹄の新訂版が出され、
前記の九〇年五月刊﹃信州白樺﹄赤羽王郎特集号の終刊に当たって
寄 せ た 文 章﹁ 王 郎 拾 穂 記 ﹂ の 一 節﹁ 一 志 茂 樹 氏 の
今井は一志とのすれ違いに触れながら一、二の事実確認を提起する
ことに止まって筆を置いている。
﹃朝鮮の美術﹄の印刷および装幀をめぐる様々な謎
対談﹁信州白樺運動のころの一志先生﹂の中に一志が語った次の
ようなエピソードが登場する。重要なので次のように長めに引用す
した。
︵同書七二二︱三頁︶
これによると、柳が書いた論篇を単行本にすることを勧め、それ
に宮本や松崎の紙を使うことを勧めたのは一志ではなかったこと
が、何となく一志が述べる雰囲気から読み取れる。柳がそれまでに
この北安曇地方の手漉き製紙業について知っていたのか。また、実
際に現場を訪れたか、あるいは一志自身は柳を大町まで案内するこ
とがあったかどうかについて何も記録は見つかっていない︵件の本
で使われた用紙と直接関係はないが、現在大町市で唯一営業してい
る紙漉き工房﹁松崎和紙工業﹂の様子について図⑥∼⑧参照せよ︶。
そしてもう一つ。一志はその口述のなかに、柳や旧制長野県師範
学校の同窓であった芝田五一郎︵先述の今井記述による︶の貢献に
ついて何も触れていない。それだけでなく、朝鮮産の苔紙を用いた
題箋や印画紙の貼り付けな
ど関連の詳細についても一
ただし、当惑させる驚き
の口述はその次にやってく
39
る。﹃朝鮮の美術﹄が上梓される前の年の二一年末のことを紹介し
て一志はいっている。
その年の一二月二五・二六の両日、長野市長野商業学校で、
重ねて柳氏の講演会を催した。その際の題目は、
﹁朝鮮の美術﹂
一一年︵大正元号で一九二二年︶五月一七日、
﹃朝 鮮 の 美 術﹄
るのだ。一志は続けて述べ
志は何もいっていない。
と題し、白樺社から出版されました︵一七・五×二八・五C、和
る。
︵二五日︶﹁中世の芸術
紙の救い﹂︵二六日︶で、例によって
わたくしが速記したのです。ところがその前者については、翌
装、本文三二頁、コロタイプ写真一〇葉︶。この本の装幀につ
いては、柳氏一流の凝りようで、大変でした。用紙はわたくし
の郷里大町市宮本で漉いた﹁宮本紙﹂の両端を裁ち切らずにそ
父にたのんでわざわざ
﹁宮本紙﹂
と
﹁松崎紙﹂
は、わたくしが郷里の
崎紙﹂に渋をはいだものを用い、綴じ糸は、長野市西山部落の
漉かしてもらうといふ
のまゝ使いたいというし、表紙はやはり大町市松崎の厚手の
﹁松
素朴な麻糸としたいなど、手のかかった申し出を受けたもので
図⑥ 大町市・松崎和紙工業
”
人文社会科学研究 第 21 号
さわぎでした。なお、
それに力を得てか、
柳氏は、かねてまと
めてあった原稿を本
にしたいということ
で、又々わたくしに
話があり、そのとき
は、とくに田舎の古
い明朝の活字を使い
たいということで、
幸いわたくしの郷里
樺﹄や一志も関わった信州生まれの﹃地上﹄の印刷が同じ三秀舎・
島連太郎に依頼されていた。すると、一志による口述には少しずれ
があることを思えて仕方がない。
﹁奥村印刷所﹂についてだが、筆者が調べたところ、確か
他方、
に現在も大町市に﹁奥村印刷所﹂という名の株式会社が営業してい
る︵図⑨︶
。現在の代表奥村健仁氏によると、大正時代に印刷所の
関係者が一志と交流をもっていたことが伝えられているそうであ
る。が、この私版本の印刷や装幀について何一つ証拠となるものが
見つからず、三七年生の父奥村剛氏もその件について光を照らす記
憶はないという。
40
の鉄板乾燥器
図⑧ 腰原修一と母みよこ
したがって、とりあえず、一志の口述に依拠する他はない。しか
も、その口述を少し訂正して、二二年五月に上梓された﹃朝鮮の美
術﹄が現大町市の奥村印刷所で印刷されたと仮定しておこう。そし
て、一志も今井も述べているように、先駆のそれと同じ体裁をして
いる﹃陶磁器の美﹄は、松崎・宮本産用紙の手配や装幀製本が一志
に依頼された。外に、製本に使われた綴じ糸の麻糸だが、その手配
に関しても一志
が尽力したかど
うかについては
不明である。し
かし、一志にあ
わせて今井によ
る記述を参考に
すると、その麻
糸は﹁長野市西
図⑨ 大町市・奥村印刷所の概観
大町市の奥村印刷所
に古体の明朝の活字
があったので、そこ
印刷者は島連太郎と奥付のなかに記されている。当時、同人誌﹃白
も開いて見ると、前記したように東京の﹁三秀舎﹂より印刷され、
付が付いていなくて確認できない。一方、
﹃陶 磁 器 の 美﹄ を い く つ
市の﹁奥村印刷所﹂より印刷された。前も記したように、前者は奥
右に引用した一志の口述によると、先の﹃朝鮮の美術﹄は白樺社
より出版され、そして後の﹃陶磁器の美﹄はそれと同じ体裁で大町
ロタイプ写真一八葉︶。︵同前書七二三頁︶
器の美﹄と題して刊行されたことがありました。
︵三六頁、コ
の美術﹄と全く同じものとし、その年の一二月一五日、
﹃陶 磁
へ頼んで刷ってもらい、用紙や綴じ糸や装幀等一切は、﹃朝鮮
図⑦ 松崎和紙工房内
柳宗悦著・紙装私版本『朝鮮の美術』(1922 年5月)の出版と時代的位置の究明をめぐって(ムジュムダール)
大正時代当時、小川村・中条村・美麻・信州新町あるいは鬼無里な
作られた手漉き紙以外に、朝鮮産の苔紙︵題箋︶よりできてい
① 原料や成分の正確な確認は取れていないが、この本に使われ
ている用紙は、現長野県大町市松崎︵表紙︶と宮本︵本文︶で
山町の畳屋から入手した﹂ことが分かる︵今井前掲書二五八頁︶
。
ど犀川・裾花川の河川流域は麻の栽培と加工をめぐった農産業が盛
る。
綴じ糸に同県長野市の西山地域でできた麻糸を使っている。
さ
んに行われたことが伝えられている。中で、民家用の畳や柔道畳の
なお、件の紙装単行本は、長野県各地や朝鮮からの手工業者以
き な
製造に使われる麻糸は欠かせない素材であった。その生産を中心に
外に、主に信州白樺教師の一志茂樹および芝田五一郎の協力を
み あさ
広い地域に及んで副業が栄えたことが、現在、信州における麻の復
経て同県大町市より印刷︵奥村印刷所︶・装幀・製本された可
すそばな
活に取り組んでいる市民団体の話から伺える。麻をめぐる農産業や
能性が高い。
さい
手工芸は六〇年代まで続いたが、それ以降、麻の栽培をめぐる取り
初の試みである。しかし﹁信州の友﹂との交わりを通じてその
締まりのため姿を消している。
また、残念のことに、この二二年辺り、柳宗悦、一志茂樹や芝田
五一郎との間に交わされた話を紹介する文通など生資料は一切見つ
出版が企画・実現されたことからすると、その本は著者の柳宗
② ﹃朝鮮の美術﹄は著者柳宗悦の、紙装和綴じとして自費出版
する初めての試みである。とともに、白樺同人のなかでも史上
からないため、
﹃朝鮮の美術﹄や﹃陶磁器の美﹄の発表まで到った
また、この本は朝鮮および日本の主に信州地方に及んだ素材や
悦彼個人の独創性によって現の形になっているわけではない。
た、それまでの白樺同人の出版活動と一線を画して、信州や朝鮮で
人の交流のなかから生まれたことが確認できたので、それを単
出版をめぐる具体的な経緯その全貌を再現することはできない。ま
できた地方産の素材を用いて和綴じの本を私費出版するという企画
に﹁私版本﹂と呼ぶのは適当ではない。
1 9 2 3﹂
︵柄谷行人編﹃近代日本の批
要点を次のように紹介している。
評 明治・大正篇﹄福武書店一九九二年所収︶のために蓮見重彦が
書いた論文﹁
﹃大正的﹄言説と批評﹂︵同書再録一二三︱四九頁︶の
批評の諸問題1910
︱
冒頭に取り上げた﹃柳宗悦
手としての人間﹄のなかで著者伊藤
まさ し
こう じん
徹は、柄谷行人・浅田彰・野口武彦・三浦雅士と行った討論﹁大正
と決意に関わったとする﹁信州の友﹂、または朝鮮の協力者からの
個々の示唆や導きについて確認を取れる証拠らしきものも見つかっ
ていない。
結論にかえて
二年五月刊の和綴じ私版本﹃朝鮮の美術﹄の外装や出版に関して
以前不明となっていた何箇所を究明するために行った調査研究の結
果、左のような事柄が判明できた。
大正時代の言説の特徴は、抽象的な﹁記号﹂によって個々の
具体的作品を﹁代行﹂し、文学理論の﹁普遍性﹂へと解消して
41
人文社会科学研究 第 21 号
美術︾の発見は、そうした理想化された︽美︾[すなわち、
﹃白樺﹄
そのことを確認した上で蓮見が主張したことについて伊藤が自ら
﹁柳宗悦による︽朝鮮
の注釈を付けて次のように引用している
=﹃白樺﹄派的主体﹂から社会や自然を待ち受け﹁﹃他なる︽美︾﹄
社会性を基調とし﹁﹃哀傷の美﹄論の背後にある美学的鑑賞的主体
視野にもまた、三〇年代に現われる朝鮮観の変化も﹂
、あるいは没
だといわねばなるまい﹂といって、伊藤はこの二〇年前後に当たる
の人々が志向した普遍的美、
﹁時 間 的 = 空 間 的 な 差 異 の 意 識 が 希 薄
との出会いに開かれていく﹂という民藝思想に全面的に現われてい
しまう傾向、もっと一般的にいえば﹁差異の消滅による同一的
化﹂された美]の領域にまぎれもない差異を導入しているという意
る主体イメージへの変容も入っていない、といって反論している。
時期に見られたとする柳の対朝鮮観ないし朝鮮美観に対する従来の
味で、極めて︽批判的︾な振る舞いだといえる﹂︵同書二四九頁︶
。
0
0
0
0
0
﹁同論文や討論を見るかぎり、彼が依拠
0
0
0
0
0
0
きりと言説化していくのは︿⋮﹀三〇年代になってからのことだっ
たからである﹂︵同書二五〇頁・傍点は原典どおり︶
。なお討議﹁大
﹁柳が美的な朝鮮をもって﹃分析対象にも美的対象にもけっし
正批評の諸問題﹂の柄谷が批判することを次のように意訳している
︱
てならない個々の人間﹄を括弧に入れたまま忘却し、岡倉[天心]
同様、植民地主義を体現してしまっているところである﹂
。
﹁このこ
と自体は、柄谷も鶴見俊輔の解説[﹃柳宗悦﹄平凡社一九九四年]
を通じて触れたとしている七〇年代の批判と同様、もっともなこと
︵9︶
︵
︶
カ
確認したことを拠り所にしているけれども、その反論は二〇年前後
三〇年代にかけてのテクスト変容に現われる主体イメージの変化を
というと、柳に対する従来のオリエンタリズム批判に向けられた
伊藤の批判は、柳の朝鮮との出会いが進化するとともに二〇年代∼
て強く批判している︵伊藤徹著同前書二五〇︱二五一頁︶
。
いる﹂とが理論に偏重しているオリエンタリズム批判の欠落だとし
藤自身が論じているという﹁テキストの細かな揺動が覆い隠されて
いう三〇年代における柳の朝鮮観の変化その無視と、右のように伊
の変遷﹂
︵
﹃暮らしの創造﹄一九七七年冬号︶によって指摘されたと
していることを参照しながら、考古学者李進熙の﹁柳の朝鮮美術観
り じん ひ
頁︶。オリエンタリズム批判の援用に対して竹中均が控え目に批判
ルチュラル・スタディーズの試み﹄赤石書店一九九九年二七︱二八
避している﹂と指摘をしている︵
﹃柳宗悦・民藝・社会理論
︱
批判に賛意を表わしている。しかしその一方で、伊藤は、﹁柄谷の
しかし、蓮見は柳を手放しで賞賛しているわけではないことを認め
他方、伊藤に先立って竹中均が小熊英二や柄谷行人の柳批判がも
つひとつの特徴に対して﹁彼らが、柳の主張の抽象的エッセンスを
な言説の確立﹂にある。︵﹃柳宗悦
手としての人間﹄二四九頁︶
ながらも、伊藤は﹁柳による﹃他なる︽美︾
﹄の発見を大正の言説
もっぱら取り上げ、民藝を構成する具体的なモノ[代表のやきもの
0
10
︱
空間に走った数少ない亀裂として高く評価している﹂という蓮見の
に関していえば、高麗青磁よりも李朝白磁]についての柳の論を回
0
42
評価に即座に同意することができないといっている。その理由を次
︱
のように説明している
しているのは一九二〇年頃のいわゆる﹃哀傷の美﹄論に限られてい
0
るのだが、そこで柳は︿⋮﹀むしろ一定の審美的な図式のなかに朝
0
︵8︶
鮮美術の具体的差異を解消していこうとしていたからであり、高麗
0
と﹃李朝﹄の相違をはじめ、かの図式に当てはまらないものをはっ
0
0
柳宗悦著・紙装私版本『朝鮮の美術』(1922 年5月)の出版と時代的位置の究明をめぐって(ムジュムダール)
の美をまだ﹃民族の心﹄へ委ねていたのであり、[表現されたもの
美ではない﹂という点を十分考えることがなかった。柳は﹁陶磁器
と し て も、 そ の 美 は 制 作 者 の 精 神、
﹃民 族 の 心﹄ の 再 現 前 と し て の
にかを表現するために作られたものではない﹂し、﹁それが美しい
しかも、この二〇年前後に見る﹁哀傷の美﹂論の柳について伊藤
はこういっている。つまりその際の柳は、陶磁器など工芸品は﹁な
美術複製画の展覧会を通して具体的な作品を交えながら個々の人間
にした雑誌﹃白樺﹄や長野県各地とその他の地域とで開かれた泰西
産物を産み出した両者との間の交流や活動は、大量複製技術が可能
いえるのは、
﹃朝鮮の美術﹄によって代表されるように、個々の副
林多津衛との間の共同活動を検討する余裕はなかった。が、ここで
より前から展開した柳宗悦と信州白樺教師、とりわけ一志茂樹や小
との交わりを通じて二〇年代前後から既に開かれていったことを指
としての芸術は、本来表現されるべき︿⋮﹀内面や精神の再現前で
によってできた社会空間の内部から展開したものである。それは、
の時期に相当する従来の柳批判には向けられていない。
あり︿⋮﹀常に内面に依存したもの、実在としての精神の模倣物で
先述の蓮見の主張とちがって、何も﹁印象派の画家たちが身近なも
し示している。本稿では件の本の出版に先んじて二一年当時やそれ
しかないという]意味で﹃表現の美学﹄のなかを動いていたといわ
のと感じられ、時間的=空間的な差異の意識が希薄化する﹂ことに
ー
ねばならない﹂。一〇年代と同じく、このときの柳も、
﹁実用を超越
よったものでもなければ、また、
﹃朝 鮮 の 美 術﹄ と い う 紙 装 の 和 綴
ピ
する表現の美の次元に、朝鮮美の神髄を見出そうとしていたのであ
じは何も柳宗悦個人の独創的意匠に依拠して﹁大正的﹂言説の領域
コ
る﹂ため、二〇年代後半以降の﹁民芸論の第一原理ともいうべき﹃用
ところで、本稿において提示した研究成果によってみると、紙装
の和綴じ﹃朝鮮の美術﹄が白樺運動の一部として出版される過程に
二〇〇七年︶がある。その論文集のなかで、本研究において提示で
近年の研究として﹃朝鮮の美術﹄とともに﹃陶磁器の美﹄に着目
柳 宗 悦 と 近 代﹄
︵草 風 館 浦 安
した土田眞紀著﹃さまよえる工藝
において導入された差異ではなくて、自然としての地方産の素材と
おいて私たちは、二〇年代後半や三〇年代以降の民藝論を基調とし
きたその紙装単行本と信州白樺運動との関係を解き明かすことはし
即 美﹄
﹂とそこに見出せる﹁作ること﹂の共同的な在り方と﹁正反
た﹁用即美﹂の原理に伊藤が見出した﹁作ること﹂の共同的な在り
ていないが、著者土田は、とりわけ﹃陶磁器の美﹄に注目しながら
朝鮮や信州の手工業者や信州白樺教師その他とが触発しあう共同に
方、その兆しを確認することができた。それだけではなく、この紙
近代美術史や工藝史におけるその出現の意義を説いている。その出
対 の ベ ク ト ル を も っ て い る ﹂ こ と に 伊 藤 は 注 意 し て い る︵ 同 前 書
装本は﹃白樺﹄の文脈のなかから生まれた共同制作・出版による具
版物は外装に手触り豊かな素材を使うことによって︿もの﹀が身近
よってできたのである。
体的作品であるということは、さらに、伊藤がいう﹁
﹃白 樺﹄ 的 主
に感じられ、また図案の機能をする挿絵が﹁創作的仕事﹂によって
九九頁︶。
体の変容﹂が、朝鮮民族という﹁外﹂の他者との出会いのみならず、
できた工藝作品としての特徴をもっているが、それができた二二年
︱
実際に、信州白樺教師たちやその他の長野県民という﹁内なる他者﹂
43
人文社会科学研究 第 21 号
を境目に、土田は受身的に﹁見ること﹂から移行して﹁
︿見 る﹀ と
いう実践﹂への主体の変容を見て取っている。土田が見据えている
主体の変容それ自体は重要な指摘ではあるが、右に述べたように、
土田が説く﹁創作的仕事﹂の場合も﹁︿見る﹀という実践﹂の場合も、
︵
︶
独創的個人としての柳宗悦の創意や意匠に帰して考えていることの
危うさを筆者は感じるのである 。
最 後 に、 二 〇 〇 五 年 に 発 表 さ れ た 伴 野 敬 一 著﹃信 州 教 育 史 再 考
教育と文化をめぐる通史の試み﹄︵龍鳳書房長野市︶
のなかで
﹃朝
︱
鮮の美術﹄出版に関する先述の一志茂樹による口述に触れた箇所に
目を付けることができた。そこに著者伴野は、
﹃朝 鮮 の 美 術﹄ を 通
して一志や小林多津衛の信州白樺教員と柳との交流が民藝運動の起
点となったことを挙げ、この紙装和綴じやそれにまつわる交流の時
代的意義は信州教育史上に限られたものではないことを指摘してい
る。伴野による指摘も引き受けながら、
﹃朝 鮮 の 美 術﹄ の 内 容 お よ
び出版に結びつく二一年末に到るまでの共同活動の経緯を詳しく検
討することは別の稿に試みたい。
注
︵1 ︶ 本論には西暦のみを用いる。以後、表題や出典の場合を除いて、二〇
世 紀 の 年 代 や 年 次 を 記 す と き す べ て 一 〇 位 の 二 桁 の 数 字 で 統 一 す る。 引 用 文
の場合原典のまま引用する。
︵2 ︶﹁和紙概念が変化したその時﹂
︵民族藝術学会編﹃民族藝術
第二五号﹄
二 〇 〇 九 年 三 月 一 五 八 ︱ 六 三 頁︶ の な か で 筆 者 は 安 部 栄 四 郎 と 柳 宗 悦 と 出 会
う と き ま で の 数 箇 月 に わ た る 柳 と 寿 岳 文 章 と の 交 流 や 共 同 の 経 緯 を 追 っ て、
そ の 後 一 〇 年 を か け て 発 表 さ れ た 柳 に よ る 主 要 の 論 述 を 紹 介 し て い る。 そ れ
を通じて、大量複製時代において、しかも民族主義的ナショナリズムに解消
さ れ な い よ う な、 公 共 空 間 を サ ポ ー ト す る﹁ 支 材 ﹂ と し て の 和 紙 が 生 ま れ 変
わる展望を描くことを試みた。
︵3 ︶﹁ 民 藝 運 動 は 何 を 寄 興 し た か ﹂ の 原 稿 は 、 沖 縄 特 産 を 紹 介 し た 紙 装 私 版
︱
︱
︱
︱
︱
︱
本﹃芭 蕉 布 物 語﹄︵四 三 年 三 月︶ に 次 い で﹃和 紙 の 美﹄ が 刊 行 さ れ た そ の 翌
四 四 年 一 月 に 執 筆 さ れ た が、 恐 ら く 行 き 詰 ま っ た 戦 局 に よ る 不 安 感 を 背 後 に
書かれたかもしれない。四三年一二月刊﹃工藝﹄第一一四号を最後に刊行の
見通しがつかなくなったけれども、丁度三年後、日本が戦禍を被って戦争が
終 わ っ た そ の 翌 四 六 年 一 二 月 よ り 復 刊 し た。 一 〇 〇 〇 部 限 定 の﹃工 藝﹄ 第
み
一 一 五 号 は、 長 野 県 松 本 市 に 生 ま れ 三 五 年 に 静 岡 に 転 居 し 活 躍 し た 型 染 家 三
よ さわ もと じゅ
代 澤 本 寿︵ 一 九 〇 九 ︱ 二 〇 〇 二 ︶ 制 作 染 紙 の 特 集 号 と な っ て い る 。 結 局 、 件
の稿は本号に掲載された。
﹄括弧内に巻号を付加して略称
︵4︶ 以 後、 本 全 集 の 典 拠 を 記 す 際、﹃ YMZ
する。
柳宗悦と富本憲
︵5︶ 去る九年、越前俊也執筆﹁野島康三の陶磁器写真
吉のはざまにあって﹂︵﹃美学芸術学﹄第二五号︶が発表され、また﹁結論に
か え て﹂ に 触 れ て い る 土 田 眞 紀 主 著 の な か で も 陶 磁 器 写 真 に ま つ わ る 柳 と 野
島との関係や理念の比較対照が扱われている。
柳宗悦と近代﹄
︵草風館浦安二〇〇七年︶
︵6︶ 土田眞紀﹃さまよえる工藝
でまとめられた一連の研究や最近の﹁柳宗悦と朝鮮民族美術館﹂
︵
﹃日 本 民 藝
きむよん く
館所蔵 朝鮮陶磁図録﹄日本民藝館二〇〇九年一二月所収︶とともに金容菊﹁柳
悲哀の美論から朝鮮芸術観への新たな可能性
﹂
宗悦と朝鮮と民芸論
︵大 阪 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 日 本 学 研 究 室﹃大 阪 大 学 日 本 学 報﹄ 第 二 三 号
二〇〇四年三月一︱二二頁︶を主要とする。
︵7 ︶ 従来の研究に加えて小畠邦江﹁
﹃白 樺 ﹄ に み る 柳 宗 悦 の 美 術 館 設 立 構 想
西洋から朝鮮そして日本の道筋
﹂︵神戸大学史学研究会編﹃神戸大学
年 報﹄ 第 一 五 号 二 〇 〇 〇 年 一 七 ︱ 三 七 頁︶ に よ っ て 取 り 上 げ ら れ た イ ン ド か
ら の﹁ シ ン グ ﹂ と 呼 ば れ た 陶 芸 家 の 協 力 お よ び 資 金 援 助 の 示 唆 に よ る。 シ ン
たくみ
グと浅川 巧 や柳自身との間の交流について詳しい証拠は明らかではないが、
﹃柳宗悦全集﹄に散在する同時代の柳の記述、書簡や映像資料より二〇年前
後にわたる一時的交流の様子がかろうじて窺える。
︵8 ︶ 二〇年代より三〇年代にかけての朝鮮美解釈における変化と揺動につ
い て 伊 藤 は 次 の よ う に 指 摘 し て い る。 二 〇 年 一 二 月 六 日 稿 の エ ッ セ イ﹁ 陶 磁
器の美﹂に﹁柳は、﹃哀傷の美﹄論を保持してはいるが、それを高麗期に限定
きょう こ
し、 そ の 後 の﹃李 朝﹄ に は︿⋮﹀
﹃ 鞏 固 な 単 純 な 素 朴 な 美﹄ を、 認 め て い る
のである﹂。その一年後、﹁哀傷の美﹂を語った論文﹁朝鮮の美術﹂においては、
﹁時代の区別なく﹃朝鮮芸術はすべて線の芸術だ﹄と規定されたり、﹃李朝白
磁 は 喜 ば し い 色 彩 を 欠 い た 淋 し さ の 表 現 だ﹄ と さ れ た り し て﹂ 曲 線 に 朝 鮮 を
特徴づける悲哀の美を語っている。しかし三〇年代になると、﹁哀傷の美﹂と
いう朝鮮芸術の一面的解釈が明らかに背後に退き﹂、﹁陶磁器の美﹂で言及さ
れていた﹁高麗と﹃李朝﹄の区別や対比が、より具体的に論じられるように
なる﹂と伊藤は見取っている。そこには﹁かつての﹃哀傷の美﹄の名残が、
高麗に限定されて残ってはいる﹂が、それに対して﹁李朝のもの﹂の場合、﹁線
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柳宗悦著・紙装私版本『朝鮮の美術』(1922 年5月)の出版と時代的位置の究明をめぐって(ムジュムダール)
の 本 来 的 形 体 で あ っ た は ず の 曲 線 に 代 わ っ て、 直 線 が 強 調 さ れ て く る の で あ
り﹂、直線に現われるとする﹁男性的﹂な﹁強さ﹂や﹁健康﹂が見出されてい
る、というふうに伊藤は柳の記述における変化を読み取っている。三〇年代
の テ ク ス ト に 現 わ れ る 柳 は﹁ 民 族 の 苦 難 の 歴 史、 涙 の 歴 史 の み を 見 て い た ﹂
二 〇 年 代 や そ れ よ り 前 の 柳 で は な い と い う 伊 藤 は、 二 〇 年 代 よ り 三 〇 年 代 に
かけてのテクストの変化を通じて、﹃白樺﹄的主体の変容を確認している︵伊
藤著書二〇〇三年九〇︱三頁︶
。
︵ 9 ︶﹃
︿日本人﹀の境界︱︱沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復
帰運動まで﹄新曜社一九九八年
︵ ︶﹁美学の効用︱︱﹃オリエンタリズム﹄以後﹂
﹃批 評 空 間
第 二 期﹄ 第
一四号太田出版一九九七年
︵ ︶﹃日本民藝館所蔵
朝鮮陶磁図録﹄日本民藝館二〇〇九年一二月所収﹁柳
宗悦と朝鮮民族美術館﹂︵一一一︱六頁︶のなかでも土田は﹁私=個人﹂の経
験や﹁私的﹂関心における共同性の在りようを具体的に示していない。
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