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16 一章 中国における国境をめぐる歴史と現在 ~中露国境地帯の場合

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16 一章 中国における国境をめぐる歴史と現在 ~中露国境地帯の場合
一章
中国における国境をめぐる歴史と現在 ~中露国境地帯の場合~
本章では、中国とロシアの国境地帯が辿って来た歴史を概観し、両国間の国境問題がど
のような現在を迎えているのかを見る。
1、歴史
中露国境地帯では 17 世紀後半頃から両国の勢力が接触し1、数千回にわたる衝突が繰り
返されてきた。広大な領域を保有していた両国では、この頃までは国境という考え方が希
薄だったために、両国間で取り決めのない未確定地域が多かったことがその理由として挙
げられる2。
かつて、中国とソ連の国境は 7300 ㎞3あり、それはウラジオストク付近からユーラシア
ウ ス リ ー
大陸に広がり、鳥蘇里江(ロシア名:ウスリー川)から黒竜江 (ロシア名:アムール川)の流
れに沿って伸びており、世界で最も長い二国間の国境だった4(図 1)。
↑図 1
20 世紀後半のソ連
1991 年にソ連が崩壊した後、各共和国の独立を経て、旧中ソ国境線の大部分はモンゴル、
カザフスタンなど中央アジア諸国との国境に変わった5。中露国境の距離は 4250 ㎞にまで
減少した6 (図 2) 。
↑図 2
20 世紀末から 21 世紀初頭のロシア
中露国境は、どのような歴史を経て今に至るのだろうか?
16
帝政ロシアが東方に進出する時期
この時期は、帝政ロシ
アが精力的に東方進出を
行い、清朝と不平等条約
を結んで領土を増やして
いた時期である。
1689 年、清朝とロシア
帝国の間で、ネルチンス
ク条約が締結される。こ
れは、中露間で初めて結
ばれた、国境に関する国
家レベルの条約であり、
南下する帝政ロシア軍を
退けた清朝が一帯の領土権を守るため
↑図 3
清露関係地図
7
に交わした条約である 。その内容は、
第一に国境の画定である。ほぼ外興安嶺を境界とし、外興安嶺から太平洋に至るまでの東
方地域は、国境未画定の状態で残されることになった。第二に、両国国民の貿易の自由で
ある。これにより、国境貿易が正規に認められた。第三に、犯罪人の引渡しである。国境
が定まると、犯罪人が相手国に逃げ込んだ場合どうするか、という問題が当然起こってく
るため規定された8。その後、1727 年には、キャフタ条約が締結された。これは、ネルチ
ンスク条約と同じようなことを、西方の地域について定めたもので、内容は、国境の画定
と貿易の規制であった9 (図 3) 。
その後、清朝とロシア帝国は、後
に中国側から不平等条約とみなされ
る条約を三つ締結する。まず一つ目
あいぐん
が、1858 年に結ばれた愛琿条約であ
る。ロシア帝国は、ネルチンスク条
約の不備を突き、アヘン戦争の敗北
などで勢力が弱まっている清朝とこ
の条約を結ぶ。その内容は、黒竜江
以北(45 万㎢あまり)をロシアに割
譲し10、清朝内に流れ込む川にロシ
ア船が自由に航行することを許可す
るなど、ロシア側に有利なものであ
った11。二つ目は、1860 年の北京条
約である。これは、清朝との共同管
理地域を新たにロシア領とする条約
↑図 4
であり、清朝は、沿海州(30 万㎢)と
三つの条約により引かれた国境
新疆地区(85 万㎢)をロシアに割譲し
た
12
。そして、三つ目は、1881 年に締結されたイリ条約である。これは、セントペテルブ
17
ルグ条約ともいい、清朝はイリ地方6万㎢をロシアに割譲した13。これら、三つの条約は、
交渉時にロシアの軍事的圧力があったとして、中華民国、中華人民共和国共に、
「ロシアが
武力でおしつけた不平等条約」とみなしている14 (図 4) (図 5) 。
↑図 5
ロシア帝国と清朝の地図
帝政ロシアが崩壊し、中華民国との円滑な外交関係を重視する時期
この時期は、帝政ロシアが崩壊し、新ロシア政府が、領土の既得権益を守ることよりも、
中華民国との円滑な外交関係を重視し、中華民国と接近した時期である。
1912 年に中華民国が成立し、1917 年には、ロシア三月革命が起こり、ロシア帝政が崩壊
する。この時期、ロシアは方針を転換し、領土の既得権益を守ることよりも、中華民国と
の円滑な外交関係を重視するようになった15。
そして、1919 年の第一次カラハン宣言、翌 1920 年の第二次カラハン宣言で、ロシア新
政権は、帝政ロシアが帝国主義的に中国からとった利権や不平等条約を進んで破棄するこ
とを表明した16。
その後、1922 年にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立すると、1924 年に、中華民国と
ソ連は、中ソ国交回復条約、中ソ協定を締結する。この中ソ協定では、旧条約に基づく両
国の国境に関して、下記のように双方で協議し適当な再画定を行うことを取り決めている。
中国政府と旧ロシア政府が結んだすべての公約・協定・議定書および契約を行うか廃
止するかについては、平等・公平の原則、および1919年と20年の宣言の精神に
沿って、改めて条約・協定を締結する。…国境がいまだ再画定される前は、国境の現
状を維持するものとする17。
さらに、
新しい交渉のための会議を早期に開くことを約束したが、
結局開かれないまま、
新中国の時代を迎えることになる。
1949 年に中華人民共和国が成立すると、毛沢東はソ連を訪問する。この中ソ交渉により、
中ソ友好同盟相互援助条約が調印され、スターリンは、旅順、大連からの二年以内の撤退、
長春鉄道の無償返還を行い、東北でのソ連特権について譲歩したが、この際に両国で結ば
れた二つの秘密条項がある。この秘密条項は「中ソ条約補充協定」と「議定書」からなっ
ており、
「中ソ条約補充協定」
は以下のように、
将来にわたって西側諸国との通商を制限し、
18
二つの地域でのソ連の経済的特権を認めるものであった。
中華人民共和国は満州と新疆の領土において、(ソ連以外の)外国人の権利を認めず、
また第三国やその市民が直接的あるいは間接的に資本参加した生産、金融、貿易やそ
の他の企業、施設、社会や組織の活動を許可しない18
更に、
「議定書」では、有事の際にソ連軍が東北の鉄道を使い、自由に移動できることも
定めた19。毛沢東とスターリンは政治的配慮から国境問題を避け、中華人民共和国は社会
主義国家ソ連邦と同盟関係を結んで蜜月関係を維持する20。
中華人民共和国とソ連との関係が悪化し、国境問題が再浮上する時期
この時期は、中華人民共和国とソ連の関係が悪化したことから、国境問題が再浮上し、
両国の主張が対立、国境地帯で紛争が頻発した時期である。
蜜月関係にあった中ソ関係だが、新中国になってソ連との国境で中国が最初に不満を表
明したのは、1954 年9月に、毛沢東がフルシチョフに、国境線の再画定を提起し、モンゴ
ル返還要求を示唆したときだという21。
更に 1956 年に、ソ連邦の第二十回共産党大会において、スターリン批判が行われ、ソ連
が自国の社会主義が方向転換することを宣言すると、中国指導部はこれを修正主義に近づ
いたとして警戒感を抱くようになる22。
そして、1963 年『人民日報』が国境や旧条約に対する中国政府の原則的立場を初めて世
界に示した。対ソ関係に関しては、清露間で結ばれた三つの条約(愛琿条約・北京条約・セ
ントペテルブルグ条約)を「帝国主義が旧中国政府を脅迫して結ばせた不平等条約」とし、
これを承認するか、破棄するかは相手国の社会体制や状況によって決定すること、
「双方が
正式に画定していない境界問題」も含め、
「歴史上残されている未解決の問題は、条件が熟
してから、話し合いを通じて平和的に解決し、解決をみるまでは現状を維持する」と報じ
た。
これを受けて、1964 年2月 25 日から、北京ではじめて両国外務次官級の国境会談が開
かれる。この時の、ソ連代表はズイリャノフで、中国代表は曾涌泉であった。この会談は
六カ月に及び、双方は地図を持ち寄って協議を行ったが、中国側は、旧条約を基礎に国境
問題の平和的解決を切りだしたのに対し、ソ連側は、ソ中間にいかなる領土問題も存在し
ないとの立場を取った上で、
「必要な箇所での国境線の画定と精密化」に限定したため、こ
の会談は成果を得られなかった。また、10 月に会談を再開する約束をするも、実現には至
らなかった。
しかし、この時、ソ連は国境河川の境界線について、この会談で前向きに話し合う用意
をしていた。
『フルシチョフ最後の遺言23』によると、中国は、国境河川の中国側に近い
島の領有を主張し、ソ連は「国際慣行なので、川の中の島のほとんどを放棄することにな
るがそれに同意した24」
。しかし、中国が、さらに条約の不平等性と黒竜江の航行権まで
要求したため、結局、国境会談はまとまらないままになってしまった25。
1966 年、中国で起こった文化大革命は、中ソ関係をますます緊張させた26。第 11 回中
央委員会では、ソ連を「社会主義帝国」と規定、徹底的に闘争していく決意が示された。
一方で、ソ連は、中国を「反レーニン主義の大国主義」と批判した。このような、両国間
の対立は、国境をめぐる問題を再浮上させた。中国は、過去の条約を帝政ロシアが武力に
ものをいわせた不平等条約であるとして、その見直しを求め、ソ連は、歴史的経緯によっ
19
て成文化されて定めた国境を尊重すべきだと主張した27。
1968 年8月に、ソ連軍がチェコに進駐したことにより、中国の対ソ脅威感がいっそう高
ちんぽうとう
まり28、1969 年3月2日に、珍宝島 (ロシア名:ダマンスキー島)事件が発生する。珍宝
島は鳥蘇里江に浮かぶ島で、長さ 1700m、幅 500m、特別な資源はない29。この島で、両国
の国境警備隊が衝突した。実は、二カ月前から小ぜりあいがあり、ついに本格的衝突に至
ったのであった。
この事件に関して、中国側の発表は、2日、ソ連の国境警備隊は装甲車二台と指揮車二
台を中心に 70 名余りの完全武装兵を侵入させ、
先制攻撃をかけてきたというもので、一方、
ソ連側は、ソ連の国境警備隊が凍結した河上を前進してきた中国の国境警備隊の奇襲攻撃
を受け、将校以下 30 名が戦死し、14 名が重軽傷を負ったと主張した。
その後、3月 15 日に二回目の衝突が起きる。これは、ソ連が先制攻撃をしかけ、双方が
連隊以上の兵力を動員し、大砲・戦車などを装備した本格的な戦闘になった。この時、ソ
連側は、大佐以下 12 名の戦死者を出したが、中国軍を撃退したと報じた。毛里和子『現代
中国とソ連』は、当時の状況から、2日の戦闘は中国の警備隊が“国境侵犯者”を撃退す
るために小規模の奇襲攻撃をかけたものであり、15 日の戦闘は、さきに苦杯をなめたソ連
の警備隊が十分に事前に準備して中国軍を圧倒したもの、と推察している。この衝突後、
中ソ双方は相手の国境侵犯行為だとして激しい非難合戦を繰り広げた30。
は ち た
その後、7月8日に八岔島 (ロシア名:ゴルジンスキー島)事件が発生し、再び両国国境
警備隊が衝突する。この時も、中国はソ連軍の積極攻撃により敗退する。
この二つの事件は、国境河川の島の領有をめぐって起こったものであるが、このほかに
も、新疆地区で武力衝突が相次いでいた。例えば、4月には新疆カマンチ地区でソ連軍が
国境の現状を破壊(中国発表)、5月には新疆ハバハ県と塔城県にソ連軍が侵入(中国発表)、
6月には新疆裕民県にソ連兵が侵入(中国発表)、8月 13 日には、新疆裕民県テレクチ地区
で武力衝突(中国発表)などである。
ここで、国境河川の島の領有権をめぐる問題を整理してみると、ソ連側は、鳥蘇里江を
国境線と決めた 1860 年の北京条約は合法であるとし、また、1861 年に清露間で交換され
た地図では、珍宝島その他の川中島はロシア領になっていると主張している。一方、中国
側は、条約は不平等条約だとして、北京条約の付属地図はロシアが一方的に押し付けたも
のであり、鳥蘇里・黒竜両江の水上国境が画定されていない以上、国際慣行どおり主要航
路の中央線を境界とすべきだと主張した。
中ソ国境河川の川中島のうち、主要航路中央線より中国側にある島は 700 余りあり、そ
のうち 600 余りは、ソ連の示した地図ではソ連領となっていた31 (図 6~9) 。
20
↑図 6
中ソ国境紛争地点
↑図 8
↑図 7
珍宝島地区の中
↑図 9
八岔島地区の中ソ境界線
黒瞎子島地区の中ソ境界線
ソ境界線
両国の交渉が、なかなか成果を上げられなかったのはなぜだろう。それは、以下の二点
で両国の間に矛盾があったからである。一つ目は、中国は過去に締結した条約は不平等条
21
約とみなしていたのに対し、ソ連はそれを否定していたこと。二つ目は、国境係争地区の
兵力に対する両国の考えに食い違いがあったことである。中国は、中ソ国境には、数万平
方キロに及ぶ係争地区があり、平和的解決のため、両国の兵力引き離しが必要であると考
えていた。しかし、ソ連は係争が起こっている地域など存在しないとして、この要求を拒
否し、係争のない自国の領土に兵力を置くか否かは、海外からの干渉を受けないと主張し
ていた。係争を認めると、国際的な注目を浴びるようになり、領土返還問題が発生してし
まう可能性があった。これはソ連側の避けたい道であった。また、ソ連は、係争地区から
兵を引き離そうとする中国に対し、ソ連市民を無防備な状態にし、係争地区に攻め込み、
自国の領土としようという野心があると非難した。このような双方の考えの食い違いから、
中ソ国境交渉はいっこうに進展しなかった32。
ソ連邦が崩壊し、新体制による方針転換により、領土問題が解決へ向かう時期
この時期は、ソ連が崩壊し、経済的な復興のために中華人民共和国と関係改善の必要性
が出てきたロシアが方針転換し、中露国境問題が解決に向かう時期である。
このように、いっこうに進展しなかった中露国境交渉であるが、1991 年5月に江沢民が
モスクワを訪問し、東部国境協定が締結され、中露国境の東部国境は一旦画定された33。
ところが同年 12 月、ソ連邦が崩壊し、3300 キロにわたる旧中ソ国境線について、中国は、
再びロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタンの四カ国とそれぞれ国境画定交渉を
しなくてはならなくなった34。
ロシアは、共産党による独裁体制が終焉を迎え、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタ
ンなどが独立、チェチェンをはじめ独立を求める運動が盛んになるなど、独立問題の対応
に追われており、中国付近の国境配備に関する経済的余裕がなくなっていた。経済的な復
興のため、ロシアは、隣国中国との関係改善が必要になり、国境問題に関して中国に接近
するようになった。この時、中国はロシアとの戦略的パートナーシップを組む政策を決定
した35。
では、解決の兆しが見え始めた中露国境問題は、これ以降どの様に解決の道を進んだの
だろうか。
1994 年9月3日、江沢民・エリツィン中露サミットが開かれ、西部国境の画定を基本合
意し、全長 4300 キロに及ぶ中露国境の 99%が画定した。中露国境の大部分を占める東部
ヘイシャーズ
国境は、黒瞎子島(ロシア名:大ウスリー島)など二島を除き、すでに旧ソ連時代の 91 年に
画定済みではあったが、両国間の最大の紛争の火種となった領土問題は、基本的に解決し
たといえる。両国が最重要に掲げている経済建設と経済協力に有利な環境を作り出すため
に、中露共同宣言が出された36。
一、両国は長期的、安定的友好協力関係が両国および両国国民の利益にかない、アジ
アおよび全世界の平和、安定に寄与するものと考える。
一、1992年の首脳会談以降の両国関係の発展を評価し、両国間に建設的なパート
ナー関係が築かれたと考える。両国関係は同盟関係ではなく、第三国と敵対する
ものではない。
一、中露国境協定を順守するとともに、公正、合理的基礎の上に(双方が)意図する期
間内に残る国境問題を解決し、国境を画定する。
以下、省略37
22
中露は、両国関係を「建設的パートナーシップ」という新たな関係と規定した。実務レ
ベルの関係を重視し、両国関係を「質的に新たな段階」へ高めていくことを確認し、これ
を西側に対する切り札とした。
しかし、ロシア沿海地方の中露国境画定問題に関して、エリツィン大統領と地元の間で
対立が発生した。この問題の最終決着を目指しているエリツィン大統領に対して、地元で
は、
「領土の割譲には応じられない」と強硬に反対した。地元での反対活動により、画定交
渉が土壇場で決裂する可能性も示唆されていた38。
ところが、中露は国境交渉を順調に進め、1997 年 11 月に、中露首脳会談が開かれ、江
沢民国家主席とエリツィン大統領は、両国の東部国境を最終画定する共同声明に調印した。
約 4250 キロある中露国境のうち、モンゴル以東の東部国境約 4200 キロは最終画定し、西
部国境約 50 キロは、1994 年に基本合意が行われ、1998 年にも最終的な線引きが行われる
のではないかといわれた。
しかし、次に両国で国境交渉が行われたのは、2004 年であった。なぜなら、1991 年の東
ア
バ
ガ
イ
ト
部国境協定締結により国境問題のほとんどは解決していたが、
黒瞎子島と阿巴該図島(ロシ
ア名:ボリショイ島)の帰属交渉が難航しており、2001 年7月の中ロ善隣友好協力条約の
直前にも両国は解決に失敗していたからだ。中露首脳会談が開かれ、胡錦濤国家主席とプ
ーチン大統領は、中露国境協定に調印した。この会談で、両国は国境画定に向けた協議を
本格化させ、最終決着について基本合意を交わした。係争地をほぼ半分に分け合った両国
の国境問題解決の仕方は、中露国境問題の解決は困難と見ていた外交の世界に衝撃を与え
た39。
翌年 2005 年にはロシアのアブロフ外相と中国の李肇星外相の間で、中露国境画定に関す
る協定の批准文書が交換され、中露国境問題は、最初に国境会談が行われた 1964 年から
41 年にわたる交渉を経て決着した。
最後まで帰属が決まっていなかった3島に関して、黒瞎子島と阿巴該図島は、両国が島
内に国境を引く形で分け合い、銀龍島(ロシア名:タラバロフ島)は中国に譲渡された。ロ
シア極東住民は、
「ロシアが譲歩した」と批判したが、プーチン政権はこれを押し切った40。
中露国境画定方式は、日本の学者の間で、日露国境問題の参考になるといわれている。
中露外交史研究者の岩下明祐氏は、妥
協をしてでも領土問題を早く解決した
ければ、中露間国境問題が解決に至っ
た「フィフティ・フィフティ」精神は
日露の北方領土問題の解決の参考にな
ると述べている。ここでいう「フィフ
ティ・フィフティ」精神は、単に係争
地の面積を等分したことを指している
のではなく、相互に妥協をすることで
「勝利を分け合う」イメージを指すだ
↑図 10
黒瞎子島での国境標識除幕式
けでなく、結局のところ、難問の解決
は最終的には政治的な決断が必要であ
41
ることを示唆している
。
23
2008 年7月 21 日、ロシアのラブロフ外相と中国の楊潔外相は、北京において中露間の
東部国境に関する追加議定書に調印した。これにより、未解決のまま残されていた黒竜江
と鳥蘇里江の中州の国境線が画定し、約 4300 キロにわたる中露間の国境問題がすべて決着
した42。
2008 年 10 月 14 日には、中国とロシアの国境である黒瞎子島の半分が中国側に正式に返
還され、同島で国境標識の除幕式が挙行された43 (図 10) 。
2010 年には、温家宝総理とプーチン首相が、
「第 15 回中露首相定期会談共同声明」に署
名し、中露両国で黒瞎子島を総合開発することで合意した44。
2、現状
本節では、中露国境地帯の最新動向と、中露国境都市の一つである満州里市への調査旅
行について報告する。
1)最新動向
中露国境地帯はどのような現在を迎えているのだろうか?国境問題の決着がついた地域
で、その住民は新たに画定した国境をどう感じているのだろうか?国境画定後の往来に不
便はないのだろうか?
2010 年、
『毎日新聞』は、領土の一部を割譲したハバロフスク地方で、複雑な対中感情
を抱いている住民の様子を報じている。黒瞎子島に農場を持つ株式会社「ザリャ」の幹部
は、
「中国に島の西部を取られた。そのうち全部失うかもしれない」と不安を見せている。
ロシア政府は、土地の譲渡に先立ち、同社の所有地 46 ㎢を強制収用しているが、見返りの
保証金はまだ支払われていないという。
また、黒瞎子島西部のロシア正教礼拝堂はロシア領に留まったものの、陸路では中国領
を通らないと礼拝堂へ行けないため、必要な越境通行許可書を持たない多くの住民は、や
むを得ず対岸から船で礼拝堂の近くまで渡航しているという。
他方、ロシアの銀竜島は、全島を中国へ譲渡することになった。これにより、二つの島
合わせて 70 名以上の住民が土地と家を失うことになり、急に隣人となった中国人に対する
不安を隠せない様子だ。
中国では、19 世紀半ばに失った領土を回復し、銀竜島では空港開設に着手し、中国側の
黒瞎子島と中国本土を結ぶ橋の建設を開始するなど、島の開発に意欲を示している。中国
側に触発されて、
ロシアも 2011 年からロシア側から黒瞎子島とロシア本土を結ぶ橋の建設
を始める予定だという。
国境地域では、
人口格差もロシア側のとまどいを呼んでいる。
ロシア極東連邦管区では、
過去 20 年間で人口が約 150 万人減少し、
現在の人口は 650 万人程度であるのに対し、
中国・
黒竜江省の人口は約 3800 万人と、圧倒的に上回っている。増え続ける隣人に対してロシア
側は警戒心を抱いており、
「島を通じて多くの中国人がロシア本土に押し寄せるかもしれな
い」と、不安の声が出ているという45。
政府間では「決着」のついた中露国境問題だが、ロシア側は、この国境画定により、中
国に領土を譲渡したため、ロシア側住民には、
「われわれの」領土が奪われたという意識が
強く、また、中露の人口差が原因となって、
「更に我々の領土が奪われるかもしれない」と
いう不安がある。一方、中国は、中露国境地帯で積極的に開発を行っている。
「我々の領土
24
を取り戻した」という意識が強く表れているのではないか。
2)調査旅行報告
筆者は、中露国境地帯の現状を実地に見聞することを目的とし、2011 年 10 月に中露間
国際列車で中露国境を越えた。
ここでは、その調査旅行につい
て報告する。
・調査概要
調査期間:2011 年 10 月1日
~10 月7日
調査地点:北京発モスクワ行
の国際列車ボストーク号
・調査地概況
満州里市は、内モンゴル自治
区北部、フルンボイル草原の北
部に位置している。満州里市と
↑図 11
ロシア領の国境線の長さは 54 キ
中ソ東部国境地図
ロメートルあり、人口は 13,7 万人である。主要民族は、漢族、蒙古族、回族、満族、朝鮮
族、ウイグル族等 20 民族で、豊富な資源があることから、工業が発達している (図 11) 。
1988 年 1 月、中国はフルンボイル市を経済改革試験区に認定した。満洲里は、検問都市
として改革試験の最先端に認定され、対旧ソ連開放の突破口になった。その一年後には、
関税、営業税等の45万元を除き、
8万元の利潤を得るようになった。
1992 年3月、中国国務院は更なる
開放を実施し、満洲里市のオセアニ
ア大陸の橋頭保的作用に期待し、満
洲里市とロシア領をつなぐ便利な交
通を気に入った旅行者と労働者が国
内外から1万人やって来るようにな
った。満洲里市とロシア領を結ぶ交
通は、長い歴史を持つ鉄道と公道が
ある。
↑図 12 満州里市の門
満洲里市では、
短期間に、
大小様々
な満洲里とロシアの主要貿易を担う国境貿易会社が数十から 400 以上に増え、満洲里市に
とってロシアは重要な貿易パートナーといえる。また、中露国境上にある満洲里の門は、
中国領土のシンボルであり、満洲里の重要な観光地点となっている46 (図 12) 。
・調査報告
2011年10月1日
23 時、列車チケットとバウチャーを乗務員に手渡し乗車。予定通りの時間に発車した。
2011年10月2日
25
寝ている間に天津に停車。朝8時 45 分に瀋陽着。少しずつ中国人乗客が乗り込むが、
私の車両には一向に変化が見られない。午後2時 48 分にハルビン駅に到着。その一時間
後、乗務員がパスポートを回収し、出入国カードの書き方を片言の英語とロシア語で説明
してくれた。パスポートは後に返却された。
2011年10月3日
午前3時。乗務員の男性が起こしに来て目を覚ま
す。もうすぐ中露国境の町・満洲里に到着する。同
じ車両の乗客たちと、眠たい目をこすりながら、満
洲里での停車時間等を確認。そこに、流暢なロシア
語を話す中国人女性が私たちの車両に乗車してきた。
他の車両にも、中国人が大勢乗車したようだった。
摂氏3度の中露国境・満州里駅で
ほとんどが女性だったように見えた。それからしば
らくして、
「中国边检(中国国境検査)」と書かれたシ
ョルダーバックを提げた出国審査官が乗車し、各コンパートメントにやって来て、パスポ
ートを回収しながら、中国語でいくつか簡単な質問をした。その後、満洲里駅に降りてみ
る事にした。外の気温は3度。駅舎内にはいくつか売店があり、食糧だけでなく、衣服や
土産物も売っていた。待合室に背の高いアジア人の容貌をした男性が立っていた。話を聞
くと彼は両替商だった。6時 45 分。パスポートが返却された。
7時2分、発車。7時 27 分。列車はゆっくりと中国側の大きなゲートをくぐり、すぐ
先にあったロシアの国旗の色をしたロシア側のゲートをくぐる。
モスクワ時間3
時 40 分、赤毛で
大柄な入国審査官
の女性が乗車し、
パスポートチェッ
ク。彼女に続いて、
スキンヘッドの鋭
い目つきをした男
性が検査犬と共に
乗車し、乗客にコ
ンパートメントか
ら出るように指示
↑図 13
現在のユーラシア大陸
し、棒で座席を突
いたり、手荷物を
検査、車内のすみずみまでチェックした。その後も複数のロシア人審査員が乗車し、車内
を点検した。
カバンの中身を一つずつ出すように言われるなど、かなり厳しい検査だった。
午後8時ごろ、北京から自宅のあるエカテリンブルクまで行くというロシア人男性(45
歳)と話をした。香港でビジネスをしているという彼に、国境についていくつか質問をした。
お互いに拙い英語で必死に伝えようとした。彼はこのような事を言った。
「日常生活で国境
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線の事を考えたことがない。
大きい国土を持つロシア人にとって、国境線は重要ではない。
どこか一つの地域を失ったら、また別の地域をロシアにすればよい。ロシア人にとって最
も大事なのはモスクワを維持することだ。日本は(国土が)小さい国だから、そこまで国境
を重要視するんだろ?」
。彼は、かつて中露間の国境地帯で血を流すほどの領土紛争が起こ
っていたことを知らなかった (図 13) 。
2011年10月4日
午後4時 48 分ごろ、同じ車両の中国人女性に話しかけられた。彼女は満洲里から乗車
し、イルクーツクに商売をしに行くという。彼女は流暢なロシア語を話す。しかし、仕事
のためだけに勉強したため、話せて聞きとれるが、書けないし読めないそうだ。彼女も、
国境線に対して特に何も感じておらず、このようにロシアに移動することは、中国国内の
移動となんら変わりがないらしい。また、以前、国境紛争が生じた経験のある両国である
が、
「今は友好的な関係があるから、問題はない」と言っていた。シベリア鉄道の乗客は、
お互いに名前や連絡先を聞くことはない。そこに居合わせた者同士でその時間を楽しみ、
下車の際は、何のためらいもなく別れる。列車内の中国人とロシア人が仲良く話す姿は見
られなかったが、
中国側の中露国境地帯に住む人々にとって、
国境は重要でないといえる。
以上、本章ではまず、中露国境地帯の歴史を概観し、ついで現状をみた。中露国境画定
に至る経緯を見て来ると、その動向は二国間の国力、国際情勢の影響を大きく受けている
ようだ。自国の安全保障や経済発展のために、隣国との関係を重視する場合、国境問題は
前向きに動き始める。
実際に訪れてみると、中露国境を境に、住民の顔が全く違うので、不思議な感覚を覚え
るとともに、東西の境を越えたと感じた。列車の中では、ロシア人は、北京発の国際列車
の乗務員でさえ、簡単な英語も中国語も話せなかったので、ロシア人の国民性なのか、外
界と交流する意欲が低いのではと思った。一方で、中国人は流暢なロシア語を話し、ロシ
アにビジネスに行く。このような、中国人の活発な外界への進出がロシア人の不安に繋が
るのではないだろうか。
資料出典
1 川北稔監修『最新世界史図説タペストリー』帝国書院、2009 年、P43 を基に筆者が加工
2 同上、p45
3 野口鐵郎編『資料中国史―前近代編―』白帝社、1999 年、p225
4 松原正毅編『世界民族問題事典』平凡社、2002 年、p65
5 川北、前掲書、p187
6 山極晃、毛里和子編『現代中国とソ連』日本国際問題研究所、昭和 62 年、p120
7 同上、p120
8 同上、p120
9 同上、p120
10 「チャイナネット」
http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2008-10/15/content_16615124.htm
2012/12/16 現在
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11 石井明『中ソ関係史の研究(1945-1950)』東京大学出版会、1990 年、見返し
12 2012 年 10 月3日筆者撮影
13 川北、前掲書、付属地図
1
坂野正高『近代中国政治外交史』東京大学出版会、1973 年、p122~123 を参照
ロム・インターナショナル『
「国境」から読む世界紛争史』KK ベストセラーズ、2002
年、p55 を参照
3
川北稔監修『最新世界史図説タペストリー』帝国書院、2009 年、p254 を参照
4
ロム、前掲書、p55 を参照
5
「中露 成熟した関係は築かれるか」
『毎日新聞』東京朝刊(毎日 News パック)、1994 年、
p5 を参照
6
「中露の東部国境が画定――共同声明、両首脳が調印」
『毎日新聞』東京夕刊(毎日 News
パック)、1997 年、p1 を参照
7
ロム、前掲書、p56 を参照
8
坂野、前掲書、p123 を参照
9
同上、p124 を参照
10
山極晃、毛里和子編『現代中国とソ連』日本国際問題研究所、昭和 62 年、p115 を参照
11
ロム、前掲書、p56 を参照
12
山極、毛里、前掲書、p115 を参照
13
同上、p115 を参照
14
同上、p115 を参照
15
ロム、前掲書、p57 を参照
16
山極、毛里、前掲書、p115 参照
17
同上、p115
18
NHK 取材班編『毛沢東とその時代』恒文社、1996 年、p179~p180
19
同上、p172~p181 を参照
20
ロム、前掲書、p58 を参照
21
山極、毛里、前掲書、p115 参照
22
ロム、前掲書、p58~59 を参照
23
クランクショ―編『フルシチョフ最後の遺言(上)』佐藤亮一訳、河出書房新社、1975
年、p300~p302。山極、毛里、前掲書、p117 所載
24
山極、毛里、前掲書 p117
25
同上、p116~p117 を参照
26
同上、p118 を参照
27
ロム、前掲書、p59 を参照
28
山極、毛里、前掲書、p118 を参照
29
孫崎享『日本の国境問題―尖閣・竹島・北方領土』筑摩書房、2011 年、p21 を参照
30
山極、毛里、前掲書、p118~p119 を参照
31
同上、p119 を参照
32
ロム、前掲書、p60~p61 を参照
33
岩下明祐「中ロ国境問題最終決着に関する覚書」
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no8/page73_81.pdf、2012 年 12 月
18 日現在
34
趙宏偉他『中国外交の世界戦略―日・米・アジアとの攻防30年―』明石書店、2011
年、p94 を参照
35
ロム、前掲書、p62 を参照
36
「中露 成熟した関係は築かれるか」『毎日新聞』東京朝刊(毎日 News パック)、1994
年、p5 を参照
2
28
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
「中露共同宣言<要旨>」
『毎日新聞』東京朝刊(毎日 News パック)、1994 年、p7 を参照
「エリツィン大統領に、地元が猛反発――ハサン地区の中露国境画定問題」
『毎日新聞』
東京朝刊(毎日 News パック)、1996 年、p7 から要約
岩下、前掲 HP、2012 年 12 月 18 日現在
「中露外相会談:国境問題が決着 協定の批准文書交換へ――きょう」
『毎日新聞』東
京夕刊(毎日 News パック)、2005 年、p5 から要約
岩下、前掲HPを参照
「中露東部国境画定:ロシアが“譲歩”中国との関係強化を優先」
『毎日新聞』東京朝
刊(毎日 News パック)、2008 年、p6 から要約
「NEWS25 時:中国、ロシア 大ウスリー島返還」
『毎日新聞』東京朝刊(毎日 News
パック)、2008 年、p6 から要約
「中ロ国境 両国共同開発の黒瞎子島が正式解放」
『Show China』
http://jp.showchina.org/04/01/201107/t963247.htm、2012 年 12 月 15 日現在
「ロシア:極東ハバロフスク、新国境地帯 膨張する中国に警戒強める」『朝日新聞』
東京朝刊(毎日 News パック)、2010 年、p8 を参照
白光潤他編『中国辺境都市』商務印書館、2000 年、p180~p189 を参照
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