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国民学校時代の音感教育

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国民学校時代の音感教育
滋賀大学大学院教育学研究科論文集
111
第 15 号,pp. 111-120,2012
原著論文
国民学校時代の音感教育
――滋賀県・島国民学校における古武善松の実践から――
松
井
子†
尚
Auditory training in KOKUMIN-GAKKO (National Schools)
during the Pacific War
―Educational practices of Yoshimatsu FURUTAKE in
SHIMA KOKUMIN-GAKKO in Shiga prefecture―
Naoko MATSUI
キーワード:国民学校,音感教育,古武善松,島国民学校
楽」,とりわけそのなかの「音感教育」に大き
は
じ
め
に
な関心を抱き,その指導に力を注いだ人物であ
る。
1872 (明治 5) 年 8 月 2 日の学制公布ととも
本研究は,古武の著書をもとに彼の音楽教育
に,わが国の学校教育における音楽科教育は始
理念や実践を紐解き,その取り組みが滋賀県の
まった。
音楽科教育の歴史においてどのような位置づけ
従来の日本人には「音楽」というとらえ方,
であったのかを考察していく。彼の教え子たち
あるいは「音楽」が学問であるというとらえ方
への聞き取り調査も行い,古武の取り組みを教
そのものがなく,ましてや「音楽」が「学校で
え子たちがどのようにとらえ,また,教え子た
する勉強」だという考え方は全く存在しなかっ
ちにどのような影響を与えたのかについても検
たであろう。「音楽は公教育には必要ない」と
証していく。
あっさり切り捨てられていてもおかしくないは
ずの時代に,音楽はなぜ学校教育の一科目とな
り得たのか。そしてどのようにその取り組みは
1.学制以後の滋賀県における
音楽科教育のあゆみ
進められてきたのか。
そのような調査を進めるうち,昭和初期,全
(1) 明治時代の音楽科教育
国的に有名であった滋賀県近江八幡市の島尋常
1872 年の学制において,音楽科は下等小学
小学校 (のち島国民学校) において独自の音楽
で「唱歌」,下等中学では「奏楽」として制定
科教育の取り組みを熱心に進めた訓導,古武善
され,それまで一般民衆にとってはただの「遊
松の存在を知る。国民学校時代の「芸能科音
び」であった音楽が学校で一教科として教えら
れることとなった。しかし,これらは「当分之
†音楽教育専修 教科教育専攻
指導教員:杉江淑子
ヲ欠ク」とされ,各学校においてその取り組み
が速やかになされたわけではなかった。
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松
井
唱歌を実施するにあたっての問題点として,
尚
子
たりしている。このことから,明治時代の滋賀
まずは教師や設備の問題があったであろうと考
県では,教育界全体において音楽科教育に関心
えられるが,これに加え,『近代日本音楽教育
がもたれていたといってよいだろう。
史Ⅰ』(田甫桂三編著 1980) には次の 4 点が挙
げられている。第一に,音楽というものは女子
(2) 大正時代の音楽科教育
子どもの手慰みあるいは芸人たちの生活手段で
大正時代の教育思想の特徴として「自由教育
あるとして,社会の片隅に追いやる傾向があっ
運動」と「童謡運動」が挙げられる。
「童謡運
たということ。第二に,子どもを学校に通わせ
動」は,北原白秋や鈴木三重吉等によって展開
ることが大きな負担であった親たちにとって,
された「これまでの難解な唱歌や俗悪な歌謡曲
それまで遊びであった音楽が学校で教えられる
ではない,真に子どものための歌をつくろう」
ことは納得しがたいことであったということ。
という運動であり,当代一級の詩人や作曲家も
第三に,異文化である洋楽に対する国民の違和
連帯して参加し,新しい童謡が次々と創作され
感や反感。第四に,財政的に豊かではなかった
た。
ところに,あえて多額な財源を必要とする音楽
この当時の学校では『尋常小学唱歌』を使用
科教育を実施する論理を為政者たちに納得させ
した唱歌教育が行われていたが,これに不満を
ることは容易ではなかった,の四つである。
感じていた教師たちによって,童謡は学校現場
これらの問題点により,唱歌科はこの後も,
においても歌われるようになる。
「土 地 ノ 状 況 ニ 随 ヒ テ」「加 ヘ」(1979 (明 治
滋賀県においてはこの時代,教育会雑誌に
12) 年「教育令」),「但唱歌ハ教授法等,整フ
12 もの論考が掲載されている。大正時代が 15
ヲ待テ之ヲ設クヘシ」(1881 (明治 14) 年「小
年間だったことを思えば,この数は多いとみて
学校教則綱領」),「土地ノ状況ニ因テハ」「加フ
よ い だ ろ う。論 考 は,1914 (大 正 3) 年 か ら
ルコトヲ得」(尋常小学校)「唱歌ハ之ヲ欠クモ
1916 (大正 5) 年までの間と,1921 (大正 10)
妨ゲナシ」(高等小学校) (1886 (明治 19) 年
年から 1924 (大正 13) 年までの間に集中して
「小学校ノ学科及ビ其程度」),「土地ノ状況ニ因
おり,内容も,この時期それぞれに特徴がある。
テハ」「加フルコトヲ得」(1900 (明治 33) 年
前半期は,音楽科教育は「人格形成」に大き
「改正小学校令」) という位置づけが続く。唱歌
く関わっていると考えられていたということ,
が法的に必修科目となるのは 1907 (明治 40)
そして,唱歌の研究に全く進歩がないと当時の
年の「改正小学校令」においてであった。実際
音楽科教育推進者たちがとらえ,基礎練習の必
に,明治 20 年代初期に「唱歌」の授業を行っ
要性を説くなど,唱歌の教授法に対する提言が
ていた学校はごくわずかであり,明治の後半に
なされていることが特徴である。後半期は,前
なってようやく定着し始めるのである。
半期よりも細かな授業上の問題点が挙げられ,
この時代の滋賀県の様子がどうであったかを,
より専門的な提案がなされていること,流行歌
確認することができた 20 校分の百年史 (百年
についての問題が取り上げられたり楽器の必要
誌) と滋賀県教育会から発行された教育会雑誌
性が説かれたりしていることが特徴となってい
をもとに調べた。
る。
百年史においては,高宮小学校 (彦根)・草
津小学校・八幡小学校で全国的にも比較的早い
明治 20 年頃には唱歌の授業が行われていたと
(3) 昭和初期 (国民学校令以前) の音楽科教
育
いう記録が残っている。また,7 校の百年史に
この時代の大きな特徴は,郷土教育運動が起
おいて,明治時代にすでに楽隊が存在したこと
こったことである。この運動は,教育活動を展
が確認できた。
開するにあたり,自分たちの生まれ育った郷土
教育会雑誌においては,唱歌を指導するにあ
たっての注意点が記された論考が掲載されたり,
伊香小学校で行われた音楽研究会の報告がされ
の教材を発掘し,郷土への関心を呼び起こさせ
ようとしたものである。
この時期の滋賀県の音楽科教育の様子を,教
国民学校時代の音感教育
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育会雑誌に掲載された論考からみてみると,そ
『ウタノホン 上』『うたのほん 下』という国定
の内容からは,音楽科教育が郷土教育運動の影
教科書が使われることとなる。その内容は,歌
響を受けたようには感じられない。授業ではか
唱の指導範囲が拡張されたり器楽の指導が加え
なり高度な合唱に取り組み,半ば技術主義に
られたり,指導領域が大きく広がったものと
偏っていた面がうかがえるが,地域差・学校差
なっている。
が大きかったようである。また,この時代の音
楽科教育の目的は,「人格形成」であることが
根底には共通におかれていながらも,
「美的教
(2) 国民学校時代の「芸能科音楽」の取り組
みの実際
育」の面をより強調する主張と,音楽を通して
「芸能科音楽」の大きな特徴のひとつに「音
人格形成を行うことそのものを重視した主張と
感教育」がある。
「音感教育」は国民学校令施
が存在していた。
行規則第十四条の「鋭敏ナル聴覚ノ育成」のた
実際の授業の様子がどのようなものであった
めに行われたものである。国民学校となって突
かを探るため,当時小学生だった以下の方々に
然「鋭敏ナル聴覚ノ育成」が登場したのには,
インタビューを行った1)。
当時の社会状況が大きく関わっている。戦争に
おいて敵飛行機や爆撃の音を聞き分けるために
喜美尾さん (大正 10 年生まれ・東草野尋常小
学校)
徹子さん (大正 12 年生まれ・八日市小学校)
俊子さん (大正 12 年生まれ・鳥居本小学校)
絶対音感が役に立つ,と考えた当時の軍部の強
い働きかけにより,教育に取り入れられること
となったのである。
絶対音感を提唱したのは園田清秀であり,園
英雄さん (大正 14 年生まれ・八幡小学校)
田自身はそのようなつもりで提唱したわけでは
寛爾さん (大正 14 年生まれ・武佐小学校)
なく,純粋に音楽教育の基盤としての「絶対音
感」であった。しかし,研究者や教育者によっ
このインタビューにより明らかになったこと
てもこの絶対音感のとらえ方が様々で,最終的
は,論考上では唱歌の目的や教授法などについ
に学校現場においては「鋭敏ナル聴覚ノ育成」
て述べられてはいるものの,5 名が口をそろえ
のためには「絶対音感が必要らしい」,だから
て「先生の口うつしで歌を教えてもらった」と
「音感教育」をしなければ,という形となった
言うように,学校現場では「とにかくオルガン
「音 感 教 育」と 言 っ た り
の だ と 推 測 さ れ る。
に合わせて歌う」ことが常で,英雄さんが言う
「絶 対 音 感 教 育」と 言 っ た り,
「和 音 感 教 育」
ような「音楽は勉強ではない」という意識も以
「聴音訓練」と様々な言い方をされているのも,
前と変わらずあったということである。
現場の混乱ぶりを表しているのであろう。
「音感教育」は,授業においては先生がオル
2.国民学校時代の音楽科教育
ガンで弾いた和音を聴き取って答える「和音の
聴音練習」という形で行われることが多かった
(1) 国民学校令にみる「芸能科音楽」の目的
と内容
ようである。
音感教育が実際には全国的にどのように行わ
1941 (昭和 16) 年の国民学校令により,学
れていたのかを調べるため,各県の教育会雑誌
校教育はそれまで行われていたものから大きく
に目を通した。確認することができたのは 18
変化し,各教科において「皇国民の錬成」の精
府県で,うち,各地教育会の中央機関である帝
神を貫くことが求められた。それまで唱歌とし
国教育会の機関誌『帝国教育』をはじめ 10 の
て行われてきた音楽科教育も「芸能科音楽」へ
雑誌で音感教育に関する論考が見つかり,資料
とその名称を変え,音楽の修練を通して国民的
を確認することができた。論考をもとに,県ご
情操を醇化し,次代の皇国民をつくることが最
との「音感教育」に対するとらえ方の傾向を以
高の目標とされた。国民学校時代に教科書はす
下にまとめる。
べて国定となり,
「芸能科音楽」においても,
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『帝 国 教 育』:「芸 能 科 音 楽」の 目 的 が,国 防
あった。このような当時の教育者たちの葛藤や
上・産業上のうえにおかれていることを強調
揺らぎが論考からは読み取れる。このことが,
している。
音感教育のとらえ方のずれとなっているのでは
『秋田教育』:帝国教育会の意向に添っている。
ないだろうか。
『宮城教育』:鋭敏な聴覚の必要性を述べた論考
と,聴覚訓練はあくまでも「音楽の為」であ
(3) 滋賀県の音楽科教育の様子
るとする,相反する論考が掲載されている。
滋賀県教育会雑誌には,この当時の視学官,
『千葉教育』
:「音感教育」を国防上・産業上の
廣瀬利一の論考が掲載されている。彼は論考中,
目的として強く意識している。
『信濃教育』:国民学校が始まる以前から「音感
絶対音感の必要性を説き,絶対音感の指導を推
進している。視学官と言えば,当時の滋賀県の
教育」について教育界では話題になっており,
音楽科教育界でトップに立つ人物である。その
少なくとも音楽に関わりのある者たちは「国
彼が絶対音感教育を推進した流れのなか,学校
防上・産業上の目的」を強く意識して取り組
現場ではどのような音楽の授業が行われていた
んでいこうとしていた。
のかを探るため,当時教師だった以下の方々に
『愛知教育』:「音感教育」についての論考が 6
インタビューを行った2)。
回シリーズで掲載され,その必要性が説かれ
ている。
『兵庫教育』
:昭和 13 年にすでに「最近音楽教
さわ先生・徹子先生 (八幡国民学校)
喜美尾先生 (東草野国民学校)
育界に問題となれる絶対音感について」とい
俊子先生 (多賀国民学校)
う題目で「音感教育」について取り上げられ,
久子先生 (五峰国民学校)
論考中においては「本来の音楽教育に必要な
文子先生 (葉山国民学校)
要素」ととらえられていたが,その後『兵庫
良子先生 (膳所国民学校)
教育』には音感教育に関する論考は掲載され
百合子先生 (豊郷国民学校)
ず,国民学校時代の実態については確認する
ことができない。
8 名 (7 校) の方へのインタビューでは,音
『愛媛教育』
:「戦闘機や爆撃の音を聞き分ける」
感教育に取り組んでいた学校が 4 校 (葉山国民
ことを目的として「音感教育」を行っていた
学校・膳所国民学校・東草野国民学校・豊郷国
様子は見受けられない。
民学校),全く取り組まなかった学校が 3 校
『在満教育研究』
:和音訓練を行う目的のひとつ
に「国防上・産業上」の理由を挙げている。
『台湾教育』
:「ウタノホン 教師用」に添った解
説がなされている。
(八幡国民学校・多賀国民学校・五峰国民学校)
であった。
インタビューに対する 8 名の回答から考察で
きるのは次のようなことである。
これら各県の論考から見えてきたことは,中
① 「芸能科音楽」となり学習領域は広がったも
央機関である帝国教育会と,各地方で実際に教
のの,それまでの唱歌科の授業の取り組み
育活動にあたっていた現場の教師たち,また,
と大きくは変わらず,歌をうたうことが多
それぞれの教師の間の,「音感教育」に対する
かった。
とらえ方のずれである。
② 恵まれた学校には木琴やハーモニカ等の楽
帝国教育会は,軍事的目的のもとに「音感教
器がいくつか備品として揃っていたが,そ
育」を学習領域のひとつとした。しかし,現場
れを使って器楽の授業を行うようなことは
の教師たちの中には,国の方針に忠実に音感教
なく,たいていの学校においては楽器じた
育に取り組んだ者もあったであろうが,
「音楽
の専門家」であるが故に,爆撃や敵機の音を聞
き分けるための音感教育に戸惑っている者も
いがほとんどなかった。
③ レコード等を使った鑑賞の授業はほとんど
行われていなかった。
国民学校時代の音感教育
④ 「芸能科音楽」の大きな特徴である「音感教
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と島村で育つよさについても述べられている。
育」については,「和音の聴き取り」という
このような状況であった島小に古武は昭和
形で行われていた学校もあるし,全く行わ
14 年 に 赴 任 す る。当 時 を 回 想 し て,古 武 は
れていない学校もあった。和音の聴き取り
「農村に於ける音楽環境が斯くの如く貧弱であ
を行っていた学校においても,なぜそれを
つて,農村文化が著しく低級なるに鑑み,私は
行うのかよく分からないままに取り組んで
先づ以て農村に於ける音楽指導者は自分である
いたり,目的をはっきりと知って取り組ん
と自認した」と述べている。このように「音楽
でいたりと,学校・地域,あるいは教師自
指導者は自分である」と言う古武自身の音楽歴
身が音楽に関心があるかどうかによって状
はどのようなものであったのだろうか。
況は様々であった。
彼の自叙伝『星霜』によると,古武が音楽と
出合ったのは滋賀師範学校時代であり,この時
このように,滋賀県においては「芸能科音
に勉強したピアノがきっかけで,
「一生涯の努
楽」の中で大々的に打ち出された「音感教育」
力科目」と言うほどに音楽に入れこみ,音楽教
が全地域・全学校に浸透していたとは決して言
育に目覚めたようである。卒業後,鳥居本尋常
えず,学校あるいは地域によって取り組みの差
小学校,東黒田尋常小学校において勤務するが,
がはっきりしている。国民学校における「音感
この頃にはまだ音楽の授業に関する具体的な取
教育」は,音楽に関心があり得意であった教師
り組みは記されていない。このことから,古武
の有無,あるいは管理職の意向,あるいは土地
が本格的に音楽教育に取り組み始めたのは島小
柄によってその取り組みが大きく左右されたと
へ赴任してからだと考えられる。
言えるのではないだろうか。
彼は島村において,地域の人々にも音楽を普
及しようとしたり,学校の音楽科教育の改革を
3.古武善松の音楽教育
しようとしたりと,意欲的に活動する。彼の著
書『村の音楽教育』(1943) に「恵まれない環
(1) 島尋常小学校/島国民学校における古武
の音楽教育思想
境に打克つもの,それは教育者の熱である」と
いう言葉が二度にわたり登場するが,その考え
先に述べたように,国民学校時代に新しく始
のもと,古武は自ら積極的に行動し,子どもた
まった「芸能科音楽」における「音感教育」は,
ちの音楽環境を一新することで,島村における
そのとらえ方や取り組みに地域差・学校差,あ
音楽教育に取り組もうとしたのである。
るいは個人差が見られた。
このような時代に滋賀県において熱心に音感
教育に取り組んだのが古武善松である。
古武は,島国民学校において音楽科教育,特
に音感教育の実践に熱心に取り組んだ。
島国民学校は昭和の初め頃から「郷土教育」
(2) 取り組みの実際Ⅰ
音感教育
古武が音楽科教育の中で最も力を注ぎ熱心に
行っていたもの,古武と言えばこれ,というも
のが音感教育である。島小へやって来る全国の
参観者に音楽の授業を何度も公開したというこ
の実践校として全国的に有名で,毎日のように
ともあり,古武は自身の音感教育について「全
全国各地から何十人,何百人もの参観者が訪れ
国の教師のリードをした」と自負している。そ
た学校である。昭和初期の島小における音楽科
れがいったいどのようなものであったかを,彼
教育の様子を,昭和 11 年度に島小学校が発行
の著書や教え子たちへのインタビューをもとに
した『革新農村小学校の経営』からみてみよう。
考察していこう。
そこでは「村の人々は音楽に関心が無く,受容
古武の音感教育は,当時一般的に行われてい
する機会も乏しい」「都会の子どもたちに比べ,
たように,単音や和音を聴き取らせ記憶させる,
感受性が鈍く,音楽的吸収力が乏しい」と問題
というものであった。この和音の聴き取りに他
点を挙げる一方で,「大自然に抱かれ,童唄・
とは違う独自色を打ち出そうとした古武は,音
郷土歌のような音楽とともに育ってきている」
と色とを関連づけて記憶させようと試みたので
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ある。そこで「古武式音色」として単音や和音
「音感階段」は,音楽室前の 8 段の階段を音
を色で表し,これを子どもたちに覚えさせるた
階に見立てたもので,壁には五線譜と,色をつ
めの遊戯を数多く考え出している。一例を挙げ
けた音符が示されていたようだ。音階を唱えな
ると,輪投げ,旗とり,郵便屋さんなどがある
がらこの階段を上下することで,古武は音感を
が,どの遊戯にも共通することは,オルガンで
身につけさせようとしたのである。
鳴らされた単音や和音を聴き取るということ,
「和音かるた」は表に和音名を,裏にその和
古武式音色が使われているということである。
音を五線に表したカードで,古武がオルガンや
これら遊戯の中で教え子たちの記憶に残って
ピアノで鳴らす和音を聴いて,鳴った和音と同
いたものが,
「音感階段」(図 1) と「和音かる
じものをかるた取りの要領で競争して取る遊び
た」(図 2) と呼ばれていた 2 つであった。
にしたものである。
それぞれの教え子たちの記憶をもとに,古武
のこの音感教育の取り組みについて考察してい
きたい。
○昭和 14〜15 年度 (高等科 1,2 年生担任)
【対象者】昭二さん,千代野さん,康男さん3)
音感階段については 3 名とも覚えているが,
各段や壁に音名や音符が貼られていたかどうか
は 3 名の記憶になかったので定かではない。ま
た,単に「ハ」「ホ」など単音が指示されて言
われるがまま動いていたのか,オルガンの音を
聴いて動いていたのか,あるいは授業で習った
唱歌を歌いながら上下していたのかについても
図1
音感階段
明らかではない。また,和音かるたについては
康男さんのみが記憶していた。
このことから,「音感階段」や「和音かるた」
は古武が島小へ赴任した昭和 14 年度にはすで
に登場していたことが分かる。しかし,3 名に
とってこれらが音楽の授業の特に印象に残る出
来事ではなかったことから,国民学校となる前
に担任したこの学年においては,古武は音感教
育の取り組みを前面には押し出さず,少しずつ
試し始めていた時期であったのではないだろう
か。
○昭和 16〜18 年度 (4〜6 年生担任)
【対象者】勝さん,いと江さん,長一郎さん,
敦子さん,吉三さん4)
古武の著書や論考はこの 3 年間に集中してお
り,彼が最も熱心に音感教育に取り組んでいた
学年であったと言える。それだけに,この学年
は「音感階段」や「和音かるた」についてよく
覚えていた。
図2
和音かるた
勝さんが「ペアを組んで,ふしに合わせて上
国民学校時代の音感教育
117
がったり下がったりしていた」という「音感階
と振り返るように,古武はこの学年において音
段」を使った遊びが主に授業中に行われていた
感教育に最も力を注ぎ,徹底して和音の聞き取
のか,音楽室に向かう途中,休み時間に行われ
りを行い,それを校内の発表会や公開授業にお
ていたのかは,教え子たちそれぞれに覚えてい
いて披露している。そうすることによって,島
る場面が違うためはっきりしない。しかし,こ
国民学校における自身の音楽科教育に独自色を
のような階段があったこと,そこで上がったり
発揮し,全国的にアピールしようとしていたの
下がったりしたことは鮮明に記憶に残っている
ではないだろうか。
ようであり,授業中,休み時間を問わず,よく
利用されていたようだ。
「和音かるた」は,敦子さんが「音楽の時間
○昭和 19〜22 年度 (3〜6 年生担任)
【対象者】広五郎さん,幸久さん,三起生さん,
はいつもしていて,競争でかるたを取っていた。
耕三さん,和太郎さん,ちよさん,
大勢の参観者の前でもやった」と記憶している
劭子さん,利彦さん,茂さん,恵
ように,古武学級を最も特徴づける活動となっ
實子さん,幸江さん5)
ていたようである。
吉三さんを除く 4 名の記憶から,古武は音楽
の授業では必ず和音の聴き取りをさせていたこ
とが明らかとなり,この活動は教え子たちの印
象として強く残っていることが分かる。ただし,
この学年においては,「戦争のためとにかく
作業ばかりで,ほとんど授業らしい授業はして
いない」というのが全員一致の記憶であり,
「音感階段」の存在については皆覚えているも
のの,何かをした覚えはないようであった。
色と和音を関係づけ,かるた取りという遊びの
「和音かるた」についても劭子さんと恵實子さ
形で楽しく和音を記憶させようとしたこの実践
んがかすかに知っているようであったが,本人
は,それが得意であった子どもにとっては楽し
たちが実際に和音の聴き取りをしたのか,ある
いものであったかもしれないが,この 4 名のよ
いは話を聞いて知っているのかは,はっきりし
うに「難しい」「苦手」と感じていた子どもた
ない。
ちにとっては,あまりいい思い出として残って
古武はこの学年においては,前年度までのよ
はいない。また,かるたに色がついていたこと
うに熱心に和音の聴き取りをしたり,音感階段
は全員記憶しているものの,どの和音が何色で
を使ったりするような活動はいっさい行ってい
あったかということは全員全く覚えておらず,
なかったと言える。音感教育に対する取り組み
和音の響きのイメージと色を結びつけて覚えさ
がこのように変化した理由についてまず考えら
せることは,当時教えを受けていた子どもたち
れるのは,戦争がいよいよ激化した状況下では,
にとってはあまり意味のないことであったと考
教え子たちが言うとおり「授業どころではな
えられる。
かった」のであろうということ,そしてもうひ
このように,この和音の聴き取りの取り組み
とつ考えられることは,古武自身の気持ちの変
は,当時の教え子たちにとってはあまり楽しい
化である。前年度までの学年において,古武は
ものではなく,のちのち何かにつながるような
音感教育をやりきった感があったのではないだ
意味のあることではなかった。しかしながら,
ろうか。これ以上やることはないと思ったのと
古武の頭はいつも「どのように工夫し,いかに
同時に,音感教育に対する関心も薄れたのであ
音に関心をもたせるか」ということでいっぱい
ろうことは想像に難くない。
であり,和音の聴き取りの活動をなんとか面白
くしよう,楽しく取り組めるようにしようと
様々な遊戯を考案したその熱意は,教え子たち
にも伝わっていたと思われる。
また,いと江さんが自分たちの学年について
「当時はそれぞれの先生が得意なことに力を入
れていたので,古武学級は音楽に秀でていた」
(3) 取り組みの実際Ⅱ
上記の音感教育の他に,古武が自身の著書に
おいて「取り組んだ」としているのは,以下の
7 項目である。
118
松
井
尚
子
① 戸外に於ける歌唱指導
いた「島尋常小学校/島国民学校」という特定
② 学校蓄音機による鑑賞会
の場所であったからこそ,それほど厳しい制約
③ 麦笛や口笛の系統的指導
を受けず自由に独自の研究を進めることができ
④ 工作による楽器の製作
たのであり,そういった意味において,教育の
⑤ そろばん利用の聴音訓練
営みはいつでも大きな歴史の流れの中に組み込
⑥ 児童の変声期の調査・声域の調査
まれ,その時その時の社会の影響を大きく受け
⑦ 耳の衛生指導
ている,と考えるからである。すなわち,全く
何もないところから新しく生まれた独自のもの
これらはインタビューにおいて誰の記憶にも
ではなく,戦時下における音感教育の必要性や
なく,実際に行われていたかどうかが不明なも
社会的要請に対応しつつ創り出される各個人の
のばかりである。そうなると,結局古武は音楽
色合いであり,彼の取り組みは,その時代その
の授業において和音の聴き取りばかり行ってい
場所であったからこその独自性であると言えよ
たのではないかということになってしまうが,
う。
そうではない。教え子たちは,自分たちが受け
このことは,現在の学校教育においても同じ
た音楽の授業について様々なエピソードをそれ
ことが言える。自分では他には見られないよう
ぞれに記憶している。
な独創性あふれる教育活動を行っているつもり
そのなかに,昭和 14〜15 年度の教え子であ
でも,自身では気づかないうちに,その教育活
る千代野さんの「音楽の時間は先生がすごく張
動は社会のあり方や時代背景,また政府の意向
り切っていて楽しそうだった」というコメント
などの影響を大きく受けながら成り立っている
があるが,今回のインタビューを通して,どの
のである。
学年の教え子たちも皆そのように感じているこ
ここにおいて教育に携わる者は,自分が今ど
とが分かった。千代野さんと同じ学年の康男さ
のような時代の流れの中にいてどのような社会
んは「音楽が大嫌いで全く興味がなかった」と
の中で教育を行っているのか,自身や教育が置
言っていたが,
「でも,音楽の時間は,とにか
かれている立場を,常に客観的に自覚的に見つ
く先生はきばって教えてはったわ。それは覚え
める必要があろう。そして,自分が行っている
ている」とも言っており,音楽が嫌いで仕方な
教育の営みを常に振り返り見直しながら,その
かった子どもにすら古武の一生懸命さ,熱心さ
教育のあり方について考えるべきであろう。
は伝わっているのである。
お
わ
り
に
以上,本研究から見えてきたことは次のよう
なことである。
古武は,自身の取り組み ―とりわけ音感教
育― について,他の追随を許さず独創性あふ
れる実践を行ったと考えており,それはある意
味では確かにそうであったと言える。しかしこ
れは,明治でも大正でも戦後でもない「国民学
校」という時代であったということ,そして
ちょうどその時期と重なるかのように古武が島
小学校へ赴任したことと切り離しては成り立た
ないのである。というのは,
「国民学校」とい
う特定の時代であったからこそ「音感教育」と
いうものが現れ,当時の学校教育をリードして
注
1 ) インタビュー日時
喜美尾さん:2010. 6. 13 (日) 電話にて約 30 分。
徹子さん・俊子さん:2010. 6. 4 (金) 俊子さん
宅にて約 3 時間。
英雄さん:2010. 6. 2 (水) 英雄さん宅にて 1 時
間。
寛爾さん:2010. 6. 2 (水) 英雄さん宅でインタ
ビュー中,電話をしてくださり 15 分ほど話す。
2 ) インタビュー日時
さわ先生:2010. 7. 23 (金) 電話にて 20 分ほど。
徹子先生:筆者の祖母であり,随時聞き取り
を行った。
俊子先生:2010. 6. 4 (金) 俊子先生宅にて 3 時
間。2010. 7. 11 (日) 電話にて 20 分ほど。
久 子 先 生・文 子 先 生・百 合 子 先 生:2010. 8. 8
(土) 順番に電話をかけ,それぞれ 20 分ずつ。
喜美尾先生:2010. 6. 11 (金) 電話にて 20 分ほ
国民学校時代の音感教育
ど。
3 ) インタビュー日時
昭二さん・康男さん:2010. 7. 14 (水) それぞ
れの自宅にて 1 時間ほどずつ。
千代野さん:2010. 10. 30 (日) 電話にて 20 分
ほど。
4 ) インタビュー日時
勝さん:2010. 7. 11 (日) 勝さん宅にて 30 分ほ
ど。
いと江さん,長一郎さん:2010. 7. 19 (月) い
と江さん宅にて 2 時間半。
敦子さん:いと江さん宅にてインタビュー中,
電話をしてくださり 15 分ほど話す。その後,
当時のことを振り返り手紙を書いて送ってく
ださった。後日,電話にて 20 分ほど話す。
吉三さん:2010. 8. 8 (日) 電話にて 20 分ほど。
5 ) インタビュー日時
2010. 9. 9 同窓会を開いて集まってくださりそ
こに参加した。
なお,11 名のうち次の 3 名には同窓会前にも
個人的にインタビューを行った
広五郎さん:2010. 8. 24 (火) 広五郎さん宅に
て 1 時間ほど。
三起生さん・幸久さん:2010. 8. 22 (日) 電話
にて 15 分ほどずつ。
参 考 文 献
◎使用史料
《古武善松の著書》
『村の音楽教育』1942
『遊戯化せる聴音錬成の実際』1943
『自然の発声法』1943
『国民学校音楽必携』1944
『自叙伝 星霜』1997
《各県教育会雑誌》
『愛知教育』
651/652/653/654/655/656/660/664/668 号
『秋田教育』274/275/285 号
『愛媛教育』648/665 号
『在満教育』2 号
『滋賀 (近江) 教育』
228/229/234/235/242/244/305/308/309/313/
319/342/344/349/432/437/444/454/460/462/
485/490/495/505/515/516/530/535/536/538/
541/548/549/551/561/562/563 号
『信濃教育』629/653/654 号
『台湾教育』470 号
『千葉教育』585 号
『帝国教育』764/769/775 号
『兵庫教育』585 号
『宮城教育』500/517/536 号
119
《島小学校出版書籍及び学校日誌》
『革新農村小学校の経営』1936
『国民学校の実践的経営』1940
『国民学校 学校行事課外施設の実践』1940
『農村国民学校教科経営実践体系』1940
『農村国民学校の学級経営』1940
島小学校日誌 1938〜1948
《論考》
井上武士
「国民学校芸能科音楽の本旨・実際・音感教
育」
『幼児教育』1941 pp. 6-11
上田友亀談,および中野義見
「東京市における音感教育の経緯」
『音楽教育
研究』4 月号 1968 pp. 156-158
小松耕輔
「国民学校芸能科音楽について」『幼児の教育』
1941 pp. 74-80
佐藤吉五郎
「戦中の音感教育」
『日本の音楽教育』教育音
楽別冊 1975 pp. 74-79
城多又兵衛
「絶対音感教育の時代」『音楽教育研究』4 月号
1968 pp. 158-159
古武善松
「村の音楽教育―村の音楽家となる記」
『音楽
教育』第 4 巻 7 号 1942 pp. 113-119
《著書・その他》
北村久雄『新音楽教育の研究』1934
佐藤吉五郎『和音感教育』1940
滋賀県女子師範附属小学校編『教育実習指針』1924
鈴木三重吉『
「赤い鳥」童謡第 1 集』1919
文部省『ウタノホン 上』
『うたのほん 下』
◎引用・参考文献
《学校百年誌 (百年史)》
浅井西小学校・老上小学校・小谷小学校・笠
縫小学校・金田小学校・北里小学校・草津小
学校・塩津小学校・志津小学校・島小学校・
高月小学校・高宮小学校・多羅尾小学校・富
永小学校・長浜小学校・七郷小学校・丹生小
学校・八幡小学校・びわ北小学校・山田小学
校
《研究論文》
菅道子
「昭和二十二年度学習指導要領・音楽編 (試
案) の作成主体に関する考察」
『音楽教育学第
21-1 号』1990 pp. 3-14
菅道子
「諸井三郎の音楽教育思想 ― 『昭和二十二年度
学習指導要領 (試案) 』の思想基盤―」
『音楽
120
松
井
教育学第 22-4 号』1995 pp. 3-18
菅道子
「国民学校における芸能科音楽のカリキュラム
編成 ―明石女子師範学校附属小学校の「研究
授業案」を事例として―」
『和歌山大学教育学
部紀要教育科学 54』2004 pp. 103-126
佐藤敏雄
「国民学校の音楽教育」
『秋田大学教育学部研
究紀要 教育科学 (27)』1977 pp. 160-174
杉江淑子
「昭和・平成期の学校音楽教育と教科書の変
遷」『近代日本の教科書のあゆみ』滋賀大付属
図書館編 2006 pp. 155-166
鈴木慎一朗
「香川師範学校男子部における聴覚訓練の実際
―1941〜45 を中心に」『音楽表現学 Vol. 4』pp.
79-94
藤井康之
「北村久雄の音楽教育論と生活の信念」
『東京
大学大学院教育学研究紀要第 43 巻』2003 pp.
287-294
本多佐保美・藤井康之・今川恭子
「東京女子師範学校附属国民学校の音楽教育」
『音楽教育史研究』1999 pp. 37-47
本多佐保美・藤井康之・西島央
「音楽教育史研究の再検討」
『音楽教育学 29-3』
2000 pp. 12-17
本多佐保美・国府華子
「国民学校期における鑑賞教材の音楽内容に関
する一考察」『音楽教育研究』2000 pp. 43-58
本多佐保美・国府華子・中里南子・村上康子
「音楽教育史研究の再検討 (2)」
『音楽教育学
31-4』2002 pp. 49-60
本多佐保美・藤井康之・中里南子・勝谷祥子・幸山
良子
「誠之国民学校における音楽授業の諸相」
『音
楽教育学 33-2』2003 pp. 1-8
本多佐保美
「音楽教育史研究における制度・教師・学習者
の関係性の探求 ―国民学校時代の音楽教育体
験者の聞き取り調査に基づいて―」平成 13〜
15 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 (基 盤 研 究 (B)
尚
子
(1)) 研究報告書 2004
本多佐保美
「昭和 10 年代の音楽教育実践史に関する総合
研究」平成 17〜19 年度科学研究費補助 (基盤
研究 (C) (2)) 2008
本多佐保美
「昭和初期小学校音楽科教育の形成過程に関す
る研究」平成 20〜22 年度科学研究費補助金
(研究基盤 (C) (2)) 2011
松浦眞二
「明治 14 年のブラスバンド」
『千葉史学』48 号
2006 pp. 4-6
松原隆介
「半世紀後の初等音楽教育の記憶痕跡とその一
考 察」『音 楽 教 育 学 第 21-1 号』1991 pp. 1524
三村真弓
「北村久雄の音楽教育観」
『広島大学教育学部
教科教育学科音楽教育学研究 紀要 XI』1999
pp. 37-55
宮瀬重美
「国民学校」時代の音楽教育について」
「
『埼玉
大 学 紀 要 教 育 学 部 (増 刊) 第 33 号』1984
pp. 169-180
山住正己
「国 民 学 校」に お け る 音 楽 教 育 (上) (下)」
「
『国民教育(7)/(8)』1971 pp. 216-225
《著書・その他》
上田誠二
『音 楽 は い か に 現 代 社 会 を デ ザ イ ン し た か』
2010
木全清博
『滋賀の学校教育史』2004
木全清博
『地域に根ざした学校づくりの源流』2007
田甫桂三
『近代日本音楽史Ⅰ』1980
藤田圭雄
「誕生期の『赤い鳥』童謡」
『赤い鳥研究』日
本児童文学学会編 1965
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