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第 1章 公共の利益と強制実施権 - Japan Patent Office
第1章 公共の利益と強制実施権 Ⅰ.公共の利益と強制実施権に関する論点整理 <はじめに> 我が国は、1990 年代初頭に、国際的競争力が低下したとの認識から、当該問題の解決 へ向けて、戦略的な知的財産の創造、保護及び活用を図ることにより、活力ある経済社会 を実現することとし、いわゆる「知的財産立国」を目指すことを明らかにした。こうした 方向性は現在も維持されており、対外的な経済政策について見ると、我が国のグローバル 経済戦略と対外経済政策の推進にあたり、 知的財産権の保護を前提とすることが示されて いる 1。 もっとも、 現在では、 知的財産権の効力を抑制しようとする動きが国内外で認められる。 とりわけ、国際的な動きに目を向けると、途上国が、自国への技術移転を促進すること等 を目的として、知的財産権の保護を目指した世界的枠組である TRIPS 協定に基づく規制 を緩やかなものとして捉えようとする傾向にあることが窺われる。その為、我が国の上記 政策に基づいて知的財産権を適切に保護すべきとの立場から、 こうした動きへの対応が求 められている 2。 本報告では、気候変動に関する国際連合枠組条約(United Nations Framework Convention on Climate Change:UNFCCC、以下「気候変動枠組条約」とする)の交渉、及び、TRIPS 協定の解釈という 2 つの場面に焦点を当て、この問題について検討することとする。 <論点1: 次期枠組み交渉で途上国の主張を実現させない戦略策定> 知的財産権の効力を抑制しようとする途上国の動きは、現在、気候変動枠組条約の交渉 においても、主として環境関連技術に係る特許権を対象として示されている。はじめに、 同交渉における途上国の主張を整理し、 こうした動きに対していかなる対応を採るべきか について分析を進めていくこととする。 1.気候変動枠組条約における途上国の主張の背景 社会生活は自然環境に少なからぬ影響を与えるものであり、その負の影響が現代社 会において公害等の形で顕在化し、社会問題となるに至っている。特に近年では、二 酸化炭素やメタン等、温室効果ガスの大気中濃度の上昇に伴う地球温暖化や気候変動 といった地球規模の環境問題として認識されており、その解決へ向けて国際的な協力 に基づく対応が求められている。こうした国際的協力の一環として、気候変動枠組条 1 2 経済産業省通商政策局『平成 21 年版通商白書』309 頁(2009 年)参照 国内においては、知的財産権に基づく差止請求権の行使の制限に関する議論がなされている。 - 2 - 約は「気候系に対して危険な人為的干渉を及ぼすこととならない水準において大気中 の温室効果ガスの濃度を安定化させること」を目的として締結されたものである(気候 変動枠組条約 2 条)。我が国でも、これに則って、温室効果ガスの排出量削減が目指さ れている。 もっとも、温室効果ガスの排出が社会生活と密接な関係にあることに鑑みると、気 候変動枠組条約が目指すような、現在の生活水準の維持・向上を図りつつ、温室効果 ガスの排出量を削減するには(気候変動枠組条約 2 条)、それに合致した技術水準の 向上が求められることが少なくない。 例えば、我が国が排出している温室効果ガスについて見ても、その 9 割以上が化石 燃料を燃焼する際に生じる二酸化炭素であるとの報告がなされていること 3 等から窺 えるように、一般に、温室効果ガスの大気中濃度が上昇した主な要因の一つが石油や 石炭等の化石燃料の燃焼であると考えられている。ここで、現代社会に不可欠となる 各種エネルギーの大部分を化石燃料に依存していることに着目すると、エネルギー効 率向上の実現や石油代替エネルギー等のいわゆる環境関連技術の研究・開発および普 及が一つの解決策となる。また、環境に関わる問題一般について見ても、問題の発見 及びその原因の特定、問題の性質・規模・影響の程度などの解明、問題への効果的な 取組方策の分析、さらには、問題への具体的対応など、いずれの局面においても様々 な技術が求められる。 それ故に、世界各国において、温室効果ガスの排出量削減を実現するための技術、 いわゆる「環境関連技術」の研究・開発および普及へ向けた努力が払われている。 しかし、世界各国の現状を見る限り、全ての国が求められる環境技術を実現できる かは必ずしも定かではない。とりわけ、この問題は、途上国を中心として深刻に受け 止められている。その為、温室効果ガス排出削減へ向けた取組みの実効性を確保する には、先進国から途上国への技術協力もしくは技術移転等の支援が必要となる。気候 変動枠組条約においてもこの問題が少なからず意識されていることが窺われ、技術移 転やその為の資金援助等についての規定が設けられている(例えば、気候変動枠組条 約 4 条 1(c)等)。 もっとも、先進国と途上国との間では、こうした技術的支援の方法、障壁、知的財 産権の影響などに関する認識等、様々な面で隔たりがある。とりわけ、途上国は、知 的財産権の影響について否定的に捉えており、知的財産権の存在が自国における環境 技術の移転・普及の障害となっている旨を主張している。2008 年 12 月に開催された第 14 回気候変動枠組条約締約国会議(COP14)においても、途上国のこうした姿勢が示 され、途上国から、次のような概要の主張が展開されたことが報告されている 4。 技術が高価であり、ノウハウの移転が不充分。知的財産を技術移転の障壁にさせ 3 経済産業省資源エネルギー庁『平成 20 年度エネルギーに関する年次報告・エネルギー白書 2009』79 頁(2009 年)参照 4 財団法人国際投資研究所公正貿易センタ-『「TRIPS 研究会」報告書・平成 20 年度』90 頁(2009 年)参照 - 3 - ない為の柔軟性を拡大するべき 知的財産の保護と途上国への技術移転の拡大とのバランスをとるべき。公衆衛生 の分野では既に行われている。 政府支援を受けて開発された環境技術は積極的に移転するべき。先進国において 研究開発投資の 2~4 割は政府によるものである。 気候変動問題は、TRIPS 協定第 31 条では、生命・安全や国防に必要な場合などの 緊急事態には強制ライセンスできる規定がある。気候変動問題は当該緊急事態に あたる。 これ等の主張だけからは、途上国がどのような共通認識を有しているかが必ずしも 明確ではない。 しかし、気候変動枠組条約の交渉においては、一貫して、G77 と中国とからなる交渉 グループが「途上国」として形成されている。この交渉グループの中核となる G77 は、 1960 年代、 GATT に対応する為に、 途上国が国連貿易開発会議 (United Nations Conference on Trade and Development:UNCTAD)の創立の際に形成されたものである。この点に 着目すると、上記主張は 1960 年代以来続く南北問題の延長線上にある主張と見ること ができる 5。 とりわけ、1970 年代に国際経済学者により提唱された、いわゆる「従属論」を論拠 とする主張であると窺われる。「従属論」においては、先進国・多国籍企業の技術に 依存し続けることにより途上国の科学技術力が永続的に高まらず、先進国と途上国と の技術格差が両者の経済格差を固定化すると考える。その為、先進国と途上国との技 術格差を固定する要因となる TRIPS 協定に基づく知的財産権の保護水準を引き下げる ことが、途上国の発展に繋がると期待しているものと解される。 これ等の点を考慮に入れると、上記の主張を通じて途上国が最終的に求めているの は、環境関連技術だけに止まらず、広く一般の技術移転であり、気候変動枠組条約が 技術移転の必要性について一定の積極的姿勢を見せていることから、同条約の交渉を 契機として、これを実現しようとするものと言える。 もとより、中国をはじめとした一定の経済成長を遂げた国々において、上記「従属 論」が支配的理解となっているかについては少なからず疑問の余地がある。これ等の 国々は、既に、先進国と同等の国際的産業競争力を有しており、技術面に関しても、 概ね技術移転が推し進められている、もしくは、自国に研究・開発の土壌が形成され ており、技術移転を必要としていない場合も少なくないからである。しかし、これ等 の国々も、知的財産権の保護水準を引き下げることは、ライセンス料の支払いを免れ ることとなり、先進国との関係において、自国の国際的産業競争力を高めることに繋 がる。この点に、「途上国」という一つの交渉グループを形成することの意味がある と考える。 5 上野貴弘=杉山大志「温暖化防止技術の国際技術移転―中国への技術移転の事例分析を通じて―」電力中央 研究所『電力中央研究所報告 Y08023』5 頁(2009 年)参照 - 4 - そこで、以下では、こうした点に留意しつつ、環境関連技術の移転と特許制度の関 係を考察していくこととする。 2.環境関連技術に係る特許権の制限の議論の有効性 一般に、技術移転に関して、途上国は、主として障害となるのが金銭的コストの増 大である旨を主張しており、その要因の一つとして、特許権をはじめとする知的財産 権が存在することにより、技術の使用に際してロイヤリティ等の支払いが必要となる ことを挙げている。このような視点から、技術移転の促進へ向けた対策として、知的 財産権の開放等が必要であるとして、気候変動枠組条約交渉においても、同条約の目 的達成に重要となる環境関連技術の移転を進展させる為に、環境関連技術の知的財産 権を制限すべきとの議論が展開されている 6。 こうした議論の方向性は、概ね、公衆衛生の問題と環境問題とがいずれも公共の利 益に深く関わる事柄である点で共通するとの認識から、公衆衛生と医薬品等に関わる 知的財産権との関係を、環境問題と環境関連技術の知的財産権との関係になぞらえた ものと解される。環境問題が世界的影響力を有する問題であることを考慮すると、そ の問題解決を図るために環境関連技術を世界的に普及させることが重要となる。この ことは気候変動枠組条約の随所でも指摘されている事柄である。そうすると、途上国 の上記主張は一定の説得力を有するように見受けられなくもない。 しかし、公衆衛生の問題と環境問題との間には、相違点が少なくなく、途上国の主 張するように、環境関連技術を世界的に普及させる為に、環境関連技術に係る知的財 産権の効力を制限することが適切かどうかは検討を要する。 まず、公衆衛生と医薬品等に関わる知的財産権との関係についてのドーハラウンド での交渉は、一般抽象的なものではなく、具体的な問題意識に基づいてなされていた ことが窺われる。 そこでは、少なくとも、HIV/AIDS、結核、マラリアといった感染症が念頭に置かれ ており(ドーハ特別宣言 1 条)、これ等の感染症の治療薬を特定し、その製造能力を 有する国々において、当該治療薬に関する特許権という知的財産権を先進国企業が保 有していたことを前提に、上記感染症問題の解決を図る為に、特許権の効力を制限す べきか否かについて議論がなされてきたように見受けられる 7。そして、上記感染症問 題が途上国に集中し、深刻化している実情を踏まえ、特許ライセンス契約に基づいて 特許権者により許容されている治療薬の製造量と比較して、より多くの治療薬を製造 する余剰能力を有する国において、強制実施権の付与等を通じて特許権を制限し、治 療薬の製造を許容することにより、仮にそのように製造された治療薬の品質等に関す る問題があるとしても、治療薬の入手機会を増大させることで、深刻化している途上 国の感染症問題の解決へ向けて、一定程度の効果を発揮するに繋がるのではないかと 6 財団法人国際投資研究所公正貿易センタ-『「TRIPS 研究会」報告書・平成 20 年度』89 頁(2009 年)参照 7 山根裕子『知的財産権のグローバル化 ― 医薬品アクセスと TRIPS 協定』83 頁以下(2008 年)参照 - 5 - の期待感を共有できたと言える。 これに対して、気候変動枠組条約は、世界規模で生じている環境問題への対応の一 環として、「気候系に対して危険な人為的干渉を及ぼすこととならない水準において 大気中の温室効果ガスの濃度を安定化させること」を目的としており(気候変動枠組 条約 2 条)、深刻化する環境問題の解決へ向けて早急な対策が求められている点で、 上記の感染症問題と方向性を同じくする。しかし、現在のところ、温室効果ガスの排 出量削減に有効・適切な手段を見出そうとしている、いわば温室効果ガス濃度の安定 化という目標達成への初期段階にあり、いかなる技術を、どのように用いれば、実際 に上記の目標を実現できるかについては、具体的方策は特定されておらず、模索中で あると見るのが素直である。 この点に着目すると、気候変動枠組条約交渉においては、ドーハラウンドでの公衆 衛生と医薬品等に関わる知的財産権との関係についての議論と異なり、必要とされる 環境関連技術も知的財産権も何ら具体的に特定されないままに、強制実施権の設定と いった特許権をはじめとする知的財産権の効力の制限等に関する法的な抽象的議論 が展開されているに止まることを見て取ることができる。このことは、「環境関連技 術」とそうでない技術との境界線について何ら明らかにされないまま議論がなされて いることからも裏付けられる。 したがって、このように具体性を欠いた議論が、果たして、大気中の温室効果ガス 濃度の安定化という気候変動枠組条約の目的に資するところがあるかについては、少 なからず疑問が生じてくる。 もとより、将来、大気中の温室効果ガス濃度の安定化に有効な具体的技術が見出さ れ、当該技術に特許権が付与された場合に備えての議論と捉えることも不可能ではな い。 しかし、環境関連技術の性質に鑑みると、特許権の効力の制限といった対応が、大 気中の温室効果ガス濃度の安定化に有効・適切な手段となり得ないと考える。 現在、「気候系に対して危険な人為的干渉を及ぼすこととならない水準において大 気中の温室効果ガスの濃度を安定化させる」との目的達成へ向け、主に、温室効果ガ ス排出量削減が目指されている。もっとも、いかなる技術を、どのように用いれば、 実際に大気中の温室効果ガス濃度の安定化を実現できるかについての具体的方策は特 定されておらず、いわば「特効薬」と言える温室効果ガス排出量削減の決め手となる 環境関連技術は見出されていない。とりわけ、環境関連技術の利用を通じて温室効果 ガス排出量削減を達成するには、各地域の地理的条件、生活習慣、産業構造など社会 的事情に合わせた環境関連技術を選択することが求められることに鑑みると、今後も、 そうした「特効薬」が生み出されることは現在のところ期待し難い。 その為、温室効果ガスを排出する要因が人間の社会生活全般に存在していることを 考慮に入れ、個人生活の末端で用いられる小規模な技術から、発電所等の社会基盤に 関わる大規模な技術まで、あらゆる分野の技術を環境関連技術として位置付けた上 で、温室効果ガス排出量削減に寄与する技術の研究・開発を行う必要に迫られている - 6 - 状況にあり、そうした研究・開発の成果の一部が特許権等の知的財産権の対象とされ ていると言える。 こうした状況下において、仮に、強制実施権の付与等を通じて特許権の効力を制限 するならば、当該特許権に係る環境関連技術に対してなされた研究・開発投資を回収 する機会を喪失させることに繋がる。その結果、温室効果ガス排出量削減の決め手を 欠く現段階において、継続性が求められている環境関連技術の研究・開発に対する意 欲を著しく損ない、温室効果ガス排出量の削減が停滞するであろうことは想像に難く ない。 これに対して、強制実施許諾等を通じて、環境関連技術に係る特許権の効力を制限 することにより、それ等の技術を利用する際に必要となる金銭的コストを引き下げ、 それ等の技術を利用する機会を増大させることとなり、温室効果ガス排出量削減を促 すことになるとの批判も成り立ち得ないではない。 しかし、前述のように、現在、「特効薬」と言える温室効果ガス排出量削減の決め 手となる環境関連技術は見出されておらず、いかなる分野においても環境関連技術の 選択肢は少なくないと言える。例えば、典型的な環境関連技術として想起されるもの として、いわゆる「電気自動車」が挙げられる。これは、現在主流のガソリンエンジ ン等を登載した自動車よりも、二酸化炭素等の温室効果ガスの排出量が少ない自動車 として期待されるものであるところ、これ等が複数企業から固有の技術を用いた異な る電気自動車が発表されている。このように、特定分野の環境関連技術に選択肢の余 地があることは、環境関連技術を提供する企業間に市場競争が存在することを意味す ることから、環境関連技術の技術を利用する際に必要となる金銭的コストは既に適正 化が図られていると考えられる。むしろ、強制実施許諾等を通じて特許権等の知的財 産権の効力を制限することは、利用される環境関連技術が強制実施許諾の対象となっ たものに事実上限定されることとなり、かえって、上記のような市場競争を阻害し、 環境関連技術の技術を利用する際に必要となる金銭的コストを上昇させる懸念を生 じさせる。 3.環境問題の解決へ向けた知的財産制度の必要性 先進国から途上国への環境関連技術移転を促進しようとする立場から、環境関連技 術の研究・開発において、いわゆる「報奨金制度」を採用すべきとの主張が認められ る。この見解によると、研究・開発の成果として環境関連技術が創作された場合、国 家が当該技術に対して報奨金を付与することとし、これにより研究・開発に要した費 用を回収する機会を与えることとする。その一方、報奨金の対価として、当該環境関 連技術に係る知的財産権は、報奨金を提供した国家の保有となるものとする。そして、 国家が当該知的財産権を開放することにより、途上国が主張する技術移転に関する知 的財産権に係る金銭的コストの増大の問題を解決しようとする。 これは、強制実施許諾等を通じて知的財産権の効力を制限しようとする見解と異な - 7 - り、環境関連技術に関する研究・開発に要した費用を回収する機会を「報奨金」の付 与により確保しつつ、知的財産権により生じる障害を実質的に除去しようとする考え 方と言える。こうした制度を導入した場合、途上国としては、表面上、技術移転の障 害が、知的財産権という私権の問題から、「報奨金」の財源という金銭的問題として 置き換わる為、環境関連技術の移転を、私企業との間の問題としてではなく、国家間 の問題として取扱う契機とできるとの期待も含まれるものと解される。 しかし、「報奨金制度」を利用した環境関連技術の研究・開発が、温室効果ガス排 出量の削減に繋がるかには少なからず疑問を覚える。 一般に、知的財産制度の存在意義は、単に技術開発を促進するところだけに認めら れるものではない。例えば、特許制度は、特許権という利益を取得する機会を発明者 に与えることにより、発明の創作を奨励するのみならず、発明者が取得できる利益を 特許権という発明の実施に関する独占・排他権利に止めることにより、発明者が発明 の研究・開発に要した費用を回収する為に、当該発明を実施することが必要となるこ とから、発明が積極的に実施されるであろうことを見据えていると言える。 これに対して、上記のような「報奨金制度」を前提に、環境関連技術の研究・開発 する場合、研究・開発に要した費用は「報奨金」として確実に回収することが期待で きることから、研究・開発の促進を期待することができる。しかし、その結果、必ず しも環境関連技術を使用する必要がなくなることから、環境関連技術が温室効果ガス 排出量削減に何ら貢献することのなくなるという結果を招来する虞がある。また、研 究・開発の成果である環境関連技術を自ら用いる必要がないことは、研究・開発競争 の土壌を生み出さないことから、環境関連技術の研究・開発速度を低下させると共に、 温室効果ガス排出量の削減の実効性に対する配慮を欠いた研究・開発がなされ、かえ って温室効果ガス排出量削減の効率を落とすのではないかとの懸念を生じさせる。 こうした点を考慮に入れると、温室効果ガス排出削減へ向けて実効性ある環境関連 技術を、迅速かつ継続的に研究・開発し、用いられることが求められている現代社会 においては、「報奨金制度」は有効ではなく、むしろ、知的財産制度の下でこれを行 うことが必要であると考える。 4.環境技術移転における知的財産制度の活用 気候変動枠組条約の「気候系に対して危険な人為的干渉を及ぼすこととならない水 準において大気中の温室効果ガスの濃度を安定化させる」との目的を達成する為に、 現在、温室効果ガスの排出量削減へ向けた環境関連技術の研究・開発ならびに実施が 進められている。大気中の温室効果ガス濃度の上昇という問題が地球規模の事柄であ ることに鑑みると、環境関連技術は、国境を越えて、社会全体で広く利用されるべき ことは明らかである。その為、気候変動枠組条約においても念頭に置かれている環境 関連技術の移転を如何に実現するかが一つの課題となる。 もっとも、大気中の温室効果ガス濃度の上昇をはじめとする環境問題一般が社会生 - 8 - 活に深く根ざしている問題であり、温室効果ガスを排出する要因だけについて見ても、 人間の社会生活全般に渡り広く存在していることに鑑みると、環境関連技術の移転に 際しては、対象地域の地理的条件、生活習慣、産業構造等の社会的事情に充分配慮す る必要があり、それに適した環境関連技術を選択することが不可欠となる。仮に、こ うした配慮を怠るならば、かえって、地域の生活や環境に回復困難な重大な被害を及 ぼす危険性があることに留意すべきである。 こうした点に着目すると、環境関連技術の移転に際しては、 (1)対象となる地域の環境の状況把握、 (2)当該地域における温室効果ガス排出源の調査・特定、排出削減の障害となる 事柄の整理、 (3)今後の環境変化の予測、 (4)温室効果ガス排出削減に適切な環境関連技術の選択、 (5)当該技術の移転、 との一定の期間を要する作業が必要になると予想される 8。 技術的側面から見ると、移転対象となる環境関連技術はもとより、その選択へ至る までの調査等に要する技術についても、専門的かつ高度な知識・技術を必要とする(む しろ、温室効果ガス排出削減へ向けて、現行用いられている技術を、既に陳腐化した 既存技術へ置き換えるという手段も有り、移転対象となる技術が必ずしも特許権の対 象となる技術でない場合もあることを考慮すると、こうした調査等に要する技術をめ ぐる知的財産権問題が大きく影響することが懸念される)。 また、温室効果ガスを排出する要因が人間の社会生活と深い繋がりを有するもので あることに鑑みると、特定の環境関連技術を移転するのみでは、大気中の温室効果ガ スの濃度を安定化という目的を達成することは困難であり、個人生活の末端で用いら れる小規模な技術から、発電所等の社会基盤に関わる大規模な技術までも視野に入れ た総合的な技術移転が不可欠である。 これ等の事柄を踏まえると、環境関連技術の移転を実効性あるものとするには、幅 広い技術分野からなる複数の企業による事業展開が適切と考える。そうすると、環境 関連技術の移転を促進する上で、知的財産権制度を整備することが、次のような利点 を有することを指摘できる。 第一は、環境関連技術を移転する過程において不可欠となる技術に関する知的財産 権を適切に保護し、技術移転を担う企業による投資の法的安定性を確保することにな る為、企業による投資意欲を高めることになる。第二に、特許制度に基づく環境関連 技術のデータベース化を推進し、求める技術分野の専門的知見を有する人材を有する 複数企業の特定に繋がる。また、環境関連技術が対象地域の社会的事情に充分配慮す る必要があることに鑑みれば、技術移転を担う企業と地域住民との相互協力が不可欠 となることから、当該地域に根ざした市場形成が見込まれる。 8 中央環境審議会『環境研究・環境技術開発の推進方策について(第一次答申)』7 頁(平成 14 年)参照 - 9 - <論点2: 現行 TRIPS 協定の柔軟性を用いた途上国の主張を実現させない戦略策定> 1.現行 TRIPS 協定の柔軟性とは? 「TRIPS 協定の柔軟性」とは、とりわけ医薬品アクセスの文脈において、学者、NGO、 及び国連機関等によって提唱された TRIPS 協定に関する理解で、総じて発展途上国の 利益保護という観点から、TRIPS 協定における保護対象を狭め、保護水準を低くし、さ らに強制実施権の許諾等に関して、加盟国政府の裁量を最大限に確保することを目的 とした議論である 9。 「温室効果ガス排出削減技術に関する強制実施権」という文脈においては、現行の TRIPS 協定第 31 条において、加盟国には、これら技術について強制実施権を許諾する 広範な裁量が与えられているという議論を意味する。現在、 「TRIPS 協定、及び公衆衛 生に関するドーハ宣言」 (以後、 「ドーハ宣言」 )にならって、いわば「TRIPS 協定、及 び気候変動に関する宣言」を策定する必要性が一部で提唱されているが、かかる「TRIPS 協定の柔軟性」の議論によれば、こうした「立法的」な解決が実現されない場合にお いても 10、加盟国は、現行法上、温室効果ガス排出削減技術に関して柔軟に強制実施権 を許諾することができる旨主張されているのである。 以下では、強制実施権に関する TRIPS 協定第 31 条の規定構造について簡単に概観し た後、これら規定に関連して主張されうる「TRIPS 協定の柔軟性」の議論それぞれにつ いて、その内容と問題点(これら議論が、現行の TRIPS 協定上、許容されえないと考 える理由)を指摘する。 2.TRIPS 協定第 31 条の規定構造 ウルグアイ・ラウンドにおける TRIPS 協定第 31 条の起草過程において、強制実施権 の許諾を極力排除するよう試みた先進国、及び強制実施権の許諾について広範な裁量 を確保するよう試みた途上国の利害・主張が対立し、その結果として、同条文が極め て曖昧・不確定な内容に留まるものとなったことは周知の通りである。 具体的には、強制実施権を許諾することができる理由を限定列挙すべきであるとし た先進国の主張(グラウンド・アプローチ) 、及び強制実施権の許諾理由については規 定することなく、強制実施権を許諾する際の条件を列挙すべきであるとした途上国の 主張(コンディション・アプローチ)が対立した。結果的には、グラウンド・アプロ ーチを採用した場合、いかなる範囲の理由を列挙するかをめぐって困難な問題が生じ ることが懸念されたことなどから、強制実施権の許諾理由について限定列挙すること は断念されたが、強制実施権を許諾する際の手続上の義務として、例えば以下のよう 9 財団法人国際投資研究所公正貿易センタ-『「TRIPS 研究会」報告書・平成 18 年度』399 頁(2007 年)参照 10 もっとも、 「TRIPS 協定、及び公衆衛生に関するドーハ宣言」の「法的地位(Legal Status) 」については、さ まざまな見解がある(本稿注 13 を参照) 。この点で、仮に温室効果ガス排出削減技術について同様の宣言がな されたとしても、それが直ちにその当事国を拘束する「立法的」な意義を有するかは定かではない。 - 10 - な規定が TRIPS 協定第 31 条の(b)に導入された。 (b) 他の使用は、他の使用に先立ち、使用者となろうとする者が合理的な商 業上の条件の下で特許権者から許諾を得る努力を行って、合理的な期間 内にその努力が成功しなかった場合に限り、認めることができる。加盟 国は、国家緊急事態その他の極度の緊急事態の場合又は公的な非商業的 使用の場合には、そのような要件を免除することができる。 (後略) 。 すなわち、強制実施権の許諾にあたって、 「. . .使用者となろうとする者が『合理的』 な商業上の条件の下で許諾を得る努力を行っ(た). . . 」という条件を課すことで、非常 識な要求を掲げて形式的な交渉を行ったことをもって、これを濫用する行為を排除す ることが意図されている。他方、このような事前の交渉をすべての場合に課すことは 必ずしも合理的ではないという考えから、かかる要件について一定の免除が認められ たが、これら免除は、 「国家緊急事態その他の極度の緊急事態」という時間的に極めて 切迫している状況、あるいは政府が行う大規模な軍事技術開発や宇宙開発といった「公 的な非商業的使用」についてのみ認められることになったのである 11。 「合理的な商業上の条件の下で許諾を得る努力」とは、許諾を与える加盟国におけ る実行だけではなく、少なくとも比較可能な近隣諸国、そして当該技術が世界的に用 いられている場合には、世界的な実行に鑑みて交渉を行うことを意味するものと考え られる 12。したがって、途上国としては、所与の状況が「国家緊急事態その他の極度 の緊急事態」にあたるか、あるいは特許の使用が「公的な非商業的使用」にあたるこ とを主張できなければ、いずれにせよ相当の負担を負うことになる。逆に先進国とし ては、かかる主張を否定することができれば、自国企業が不合理な許諾の対象となる リスクは少ない。 そのため、温室効果ガス排出削減技術の強制実施権をめぐる問題における先進国及 び途上国の対立の焦点は、温室効果ガスの排出による気候変動が、 「国家緊急事態その 他の極度の緊急事態」に相当するか、あるいは環境技術が、 「公的な非商業的使用」に あたるかという問題にあると言える 13。もっとも、 「環境技術は公共財であり、TRIPS 協定第 31 条の公的な非商業的利用にあたる」とする途上国の議論は 14、環境技術「全 般」が事前の交渉義務から免除されることを主張する点で、TRIPS 協定第 31 条(b)項の 解釈として明らかに不当であろう。 「公的な非商業的利用」とは、あくまでも対象とさ 11 これら交渉の経緯については、例えば尾島明『逐条解説 TRIPS 協定』147-149 頁を参照。 12 Daniel Gervais, The TRIPS Agreement: Drafting History and Analysis, 3rd ed. (Sweet & Maxwell, 2008) at 391. 13 実際に近年の技術移転に関する気候変動交渉においても、途上国は、 「環境技術は公共財であり、TRIPS 協 定第 31 条の公的な非商業的利用にあたる」こと、そして「TRIPS 協定第 31 条では、生命・安全や国防に必要 な場合などの緊急事態には強制ライセンスできる規定がある。気候変動問題は当該緊急事態にあたる」ことを 主張している〔財団法人国際投資研究所公正貿易センタ-『「TRIPS 研究会」報告書・平成 20 年度』90 頁(2009 年)〕 14 Ibid. - 11 - れる技術が政府によって、非商業的な目的で使用されることを意味するもので、環境 技術が一般的に「公共財」にあたるか否かは、当該要件の充足いかんに関わらないか らである 15。他方、環境技術が政府によって、非商業的な目的で使用される場合には、 事前の交渉を要さず強制実施権の許諾が認められうるが、これはその他の技術となん ら異なるものではない。 そこで、以下においては、特に「気候変動は、 『国家緊急事態その他の極度の緊急事 態』に相当するため、これに関する強制実施権の許諾は、事前の交渉義務から免除さ れる」という議論が、TRIPS 協定の解釈として認められうるのかという問題について 検討する。 3.現行 TRIPS 協定の柔軟性を用いた途上国の主張 (1)「加盟国は、TRIPS 協定上、何が『国家緊急事態その他の極度の緊急事態』にあた るかについて判断する自由を有する」という主張 TRIPS 協定第 31 条の「柔軟性」に関するいわば最もラディカルな議論として、何 が「国家緊急事態その他の極度の緊急事態」にあたるかについて判断するのは、強制 実施権を許諾する加盟国自身であって、それゆえ加盟国は自らがそのように判断する 限りにおいて、事前の交渉を要さずこれを認めることができるという見解がある 16。 ドーハ宣言においては、 「各加盟国は何が国家緊急事態その他の極度の緊急事態を構 成するかということを決定する自由を有する」ことが明記されたが 17、これを「TRIPS 協定の規定を再確認するに過ぎない」とする主張は、まさに以上のような見解に与す るものであると言える 18。 15 もっとも、 「公的な非商業的使用」という要件についても、途上国によって、 「加盟国は、TRIPS 協定上、い かなる使用が『公的な非商業的使用』にあたるか否かについて判断する自由を有する」 、あるいは「TRIPS 協 定の『発展的解釈』 、ないし『目的論的解釈』によって、環境技術の使用全般が『公的な非商業的使用』とし て認められる」といった主張がなされる可能性もないわけではない。しかしながら、これら主張の問題点は、 以下に展開する「国家緊急事態その他の極度の緊急事態」に関する主張の問題点と同様で、また「公的な非商 業的使用」という用語の意味が、 「国家緊急事態その他の極度の緊急事態」という用語と比較してもより明白 であることに鑑みれば、環境技術の使用全般が「公的な非商業的使用」として認められる可能性は一層小さい ように思われる。 16 加盟国が、今まさに「国家緊急事態その他の極度の緊急事態」にある状況において、これを「緊急事態」で あると認識し、必要な措置を講じる「自由」を有することは言うまでもない(暴漢に襲われたまさにその場面 において、襲われた者は、その状況を自ら評価し、これに対して必要な措置をとる「自由」を有する) 。しか しながら、このことは、これら「緊急事態」に対してとられたいかなる措置も、その後、その他の加盟国がこ れを TRIPS 協定違反であるとして行う請求から免れるという「自由」を意味するものではない(過剰防衛は違 法性が阻却されない) 。ここでいう「加盟国は、TRIPS 協定上、何が『国家緊急事態その他の極度の緊急事態』 にあたるかについて判断する『自由』 」とは、後者の「自由」 、すなわち「 『国家緊急事態その他の極度の緊急 事態に相当する』と加盟国が判断するなら、権利者との事前交渉は義務的でなく、 『特許権者は、合理的に実 行可能な限り速やかに通知を受け』さえすれば当該強制実施は合法である( 〔財団法人国際投資研究所公正貿 易センタ-『「TRIPS 研究会」報告書・平成 18 年度』405 頁(2007 年)〕という理解を意味するものと仮定 する。もっとも、こうした理解が必ずしも妥当なものであるかは定かではない。この点について、本稿注 18 を参照。 17 ドーハ宣言 5 節(c)。 - 12 - しかしながら、条約法条約 31 条「解釈に関する一般的な規則」に規定される条約 解釈のための第一義的な方法で、また WTO 紛争解決手続においてもとりわけ重視さ れている「用語の通常の意味」によれば、以上のような TRIP 協定第 31 条(b)項に関 する解釈を支持することは困難であろう。何が「国家緊急事態その他の極度の緊急事 態」にあたるか否かの判断がもっぱら強制実施権を許諾する加盟国に委ねられ、これ に基づき許諾された強制実施権がすべからく合法であるとされるならば、加盟国はい かなる場合においても、事前の交渉を要さず強制実施権を許諾することが可能となっ て、これら文言が存在することの意味すら否定されることになるからである。 また条約法条約 32 条に規定される「解釈の補足的な手段」である TRIPS 協定の成 立経緯に鑑みても、以上のような「TRIPS 協定の柔軟性」の議論が支持されるとは考 えられない。TRIPS 協定第 31 条(b)項は、事前の交渉によって強制実施権の濫用を防 止する一方、 「国家緊急事態その他の極度の緊急事態」という「時間的に極めて切迫 している状況」においてのみ、例外的にかかる要件からの免除を認めたもので、その 判断がもっぱら強制実施権を許諾する加盟国に委ねられることになれば、これら規定 を導入した加盟国のそもそもの意図が著しく損なわれることになるからである 19。 (2)「加盟国は、ドーハ宣言によって、何が『国家緊急事態その他の極度の緊急事態』 にあたるかについて判断する自由を与えられた」という主張 TRIPS 協定第 31 条に関する「柔軟性」の議論として、 「各加盟国は何が国家緊急事 態その他の極度の緊急事態を構成するかということを決定する自由を有する」ことを 規定するドーハ宣言 5 節(c)の規定が、 「TRIPS 協定の規定を再確認する」ものではな いとしても、これが成立したことをもって、加盟国は、その他の技術分野についても、 何が「国家緊急事態その他の極度の緊急事態」にあたるかについて判断する自由を与 18 Carlos M. Correa, Trade Related Aspects of Intellectual Property Rights: A Commentary on the TRIPS Agreement (Oxford University Press, 2007) at 315. しかしながら、Correa 教授がドーハ宣言 5 節(c)について、以下のように言 及していることは注意を要する。 「加盟国が、特定の状況を『国家緊急事態その他の極度の緊急事態』である とするその他の加盟国の主張に対して不服を申し立てる場合、5 節(c)の文言は、申立国の側にそのような緊急 事態が存在しないことを立証する責任を課している(Carlos Correa, Implications of the Doha Declaration on the TRIPS Agreement and Public Health (WHO, 2002) at 17) 。 」すなわち、かかる言及によれば、Correa 教授は、加盟 国が「国家緊急事態その他の極度の緊急事態に相当する」と判断するなら、その強制実施権は当然に合法であ ると理解しているわけではなく、むしろドーハ 宣言 5 節(c)に規定される「自由」とは、上記注 16 における前 者の「自由」 、すなわち、 「今まさに『国家緊急事態その他の極度の緊急事態』にある状況において、これを『緊 急事態』であると認識し、必要な措置を講じる『自由』 」を意味するものと理解しているようにも思われる。 そうするとドーハ宣言 5 節(c)に関する山根教授と Correa 教授の理解はそもそも異なるようにも思われるが、 本報告3.(1)と3.(2)における議論は、山根教授の理解を前提とした場合に途上国によって主張されうる議 論の内容と問題点について検討したものである。なお、ドーハ宣言 5 節(c)が、前者の「自由」について規定し たものであるとすれば、これは Correa 教授が指摘しように「加盟国の疑う余地のない権利」について述べたに 過ぎぬものに過ぎない。そして、先進国としても、特定の状況を「国家緊急事態その他の極度の緊急事態」で あるとする途上国の主張に対して不服を申し立てることができるので、特段の問題があるようには思われない。 19 山根教授も、以下のように指摘している。 「ドーハ公衆衛生宣言が認める『柔軟性』は、TRIPS 協定の規定 を再確認 するにすぎないという説もある。しかし同宣言の結果、TRIPS 協定の交渉の意図とはかなり異なる 解釈が広く浸透するに至った( 〔財団法人国際投資研究所公正貿易センタ-『「TRIPS 研究会」報告書・平成 18 年度』404~406 頁(2007 年)〕。 」 - 13 - えられたとする見解がある 20。 もっとも、ドーハ宣言があくまでも「TRIPS 協定、及び『公衆衛生』 」に関する宣 言で、また同宣言 4 節においても、 「公衆の健康を保護し、とりわけ人々に対して医 薬品のアクセスを促進する」という特定的な目的との関連で、 「TRIPS 協定の柔軟性 を WTO 加盟国が最大限に用いる権利」 が確認されていることからも、 かかる解釈が、 公衆衛生を超えて、温室効果ガス排出削減技術といったその他の技術分野についても 適用しうるものであるとは考えがたい 21。 TRIPS 協定第 31 条(a)項において、 「他の使用は、その個々の当否に基づいて許諾を 検討する」ことが規定されていることからも、TRIPS 協定において、強制実施権の許 諾によって保護される利益や、その対象とされる技術の「相違」に対して、相当の注 意が払われていることは言うまでもない。この点で、たとえ HIV をはじめとする伝染 病への対応という問題について、 「各加盟国は何が国家緊急事態その他の極度の緊急 事態を構成するかということを決定する自由を有する」ことが決定されたとしても、 これを気候変動をはじめとするその他の問題についても、当然に類推し、適用するこ とが認められるとは考えられない。 (3)「TRIPS 協定の『発展的解釈』によって、気候変動が『国家緊急事態その他の極度 の緊急事態』として認められる」という主張 公衆衛生を除く分野について、 「各加盟国は何が国家緊急事態その他の極度の緊急 事態を構成するかということを決定する自由を有する」ことが認められないとしても、 途上国は、TRIPS 協定上、温室効果ガスの排出による気候変動が、 「国家緊急事態そ の他極度の緊急事態」に相当することを主張しうる。もっとも、TRIPS 協定第 31 条 (b)項の起草過程において、これら「緊急事態」は、事前の交渉が不可能であるほど時 間的に切迫した状況を意味するものと考えられていたのであって、HIV 等の重篤な感 染症の問題はまだしも、温室効果ガスの排出による気候変動の問題が、かかる状況に あたることが想定されていたかは疑問である。そこで、途上国は、条約の「発展的解 釈」 、すなわち条約締結時ではなくて、条約解釈時における関連する国際法規則を参 20 ただし、そもそもドーハ宣言がいかなる「法的地位(Legal Status) 」を有するのかという点について、広範 な見解の相違があることは注意を要する。例えば、Correa 教授は、 「ドーハ宣言の内容、及びこれに対する承 認の態様に鑑みれば、同宣言は有権的解釈と同様の効果を有することが主張できる」とし、また「同宣言はウ ィーン条約法条約 31 条 3 項(a)に規定される『後の合意』として理解することができる」とする一方で、ドー ハ宣言は「自動執行的(Self-Executing) 」なものではなく、先進国及び途上国ともにこれを実施するために必 要な法改正を採択するべきである」ことを主張している(Carlos Correa, Implications, at 44-45) 。これに対して、 山根教授は、 「ドーハ公衆衛生宣言の法的性格については議論が多いが、文言上、WTO 閣僚会議が『合意した』 と確定できる部分には拘束力があり、また、そうでない場合にも、政治的な影響力があり、将来の紛争処理に も、公衆衛生に関わる限り、影響を与えるものと考えられる」ことを指摘している〔財団法人国際投資研究 所公正貿易センタ-『「TRIPS 研究会」報告書・平成 18 年度』405 頁(2007 年)〕。 21 山根教授も、 「パラ五(ドーハ宣言 5 節)は、 『パラ四の目的で』としているので、ドーハ宣言にいう柔軟性 は、TRIPS 協定全体に関わるものではなく、公衆衛生に関する場合のみに関している」ことを指摘している(山 根裕子『知的財産権のグローバル化』 (岩波書店、2008 年)149 頁。 - 14 - 照するという解釈方法によって、この問題がこれら「緊急事態」に相当するものにな ったことを主張する可能性がある 22。 もっとも、いわゆる発展的解釈は、主に人権条約や国内憲法といった「憲法的」な 規範の解釈に際して適用される解釈方法で、法的安定性や予見性に与える否定的な効 果からも、これをあらゆる性格の規範について適用することに関しては異論も多い。 また条約法条約 31 条 3 項(c)においては、 「当事国の間の関係において適用される国際 法の関連規則」が考慮されることが規定されているが、 「当事国」がいかなる範囲の 国家を指すのか、また「関連規則」がいかなる時点の規則を意味するのかは必ずしも 明らかではない 23。 他方、WTO 紛争解決手続においては、米国エビ・カメ事件における上級委員会報 告において、GATT XX 条(b)項に規定される「有限天然資源」の意味について、ワシ ントン条約等を参照した発展的解釈がなされたという事例がある 24。しかしながら、 当該事件とここで対象とする事案の間には、これをとりまく問題状況に相当の違いが ある。第 1 にエビ・カメ事件においては、1947 年に発効した GATT 上の概念の現代 的な意義が問題となったのに対して、TRIPS 協定はたかだか十数年前に発効した協定 で、この間に同協定上の概念の意義に変更を迫る国際法規範が生成したかは疑問であ る。そして、第2に GATT XX 条の解釈においては、同条柱書が、環境保護を目的と する措置が、 「偽装された貿易制限」となることを回避する機能を果たしていたのに 対して、同様の規定を有さない TRIPS 協定第 31 条の解釈において、いたずらに発展 的解釈を用いることは、知的財産権保護と環境保護という相反する利益の調整という 観点からは、均衡を失する帰結を生じることになりかねない。 (4)「TRIPS 協定第 7 条、及び第 8 条等に即した『目的論的解釈』によって、柔軟な強 制実施権の許諾が認められる」という主張 また「TRIPS 協定の柔軟性」に関する議論として、TRIPS 協定第 7 条や第 8 条等に 即した目的論的な解釈によって、加盟国に対してより広範な裁量を与える解釈が可能 であるという主張がある。例えば、TRIPS 協定の前文や、第 7 条及び第 8 条において 言及される経済発展、ないし技術移転という目的にしたがって、途上国に対してより 柔軟な強制実施権の許諾を認めようとする議論である 25。もっとも、温暖化の防止と いう問題に直接的に関連する目的をこれら条項に見出すことが可能であるかは定か でないが、あるいは WTO 協定前文に規定される「環境を保護し及び保全し並びにそ 22 かかる主張は、UNCTAD-ICTSD, Resource Book on TRIPS and Development (Cambridge University Press, 2005) at 700-701 において示唆されている。この点について、財団法人国際投資研究所公正貿易センタ-『「TRIPS 研 究会」報告書・平成 18 年度』400~401 頁(2007 年)も参照。 23 これら条約法条約 31 条 3 項(c)の意味内容に関する詳細な論考として、例えば、Richard Gardiner, Treaty Interpretation (Oxford University Press, 2008) ch.7 を参照。 24 WTO Appellate Body Report: United States – Import Prohibition of Certain Shrimp and Shrimp Products (WT/DS58/AB/R). 25 UNCTAD-ICTSD, supra note 13, at 704. - 15 - のための手段を拡充することに努めつつ、持続可能な開発の目的に従って」といった 文言を援用することによって、温室効果ガスの排出制限を可能とする技術について、 より柔軟な強制実施権の許諾を求めることも不可能ではないかもしれない。 目的論的解釈は、 条約法条約 31 条においても明示的に認められている解釈方法で、 条約の解釈をめぐる問題が、おうおうにして「用語の通常の意味」が不明確である場 合においてこそ生じるものであることに鑑みれば、極めて重要な解釈方法であると言 える。しかしながら、条約の目的が明示されていない場合や、ひとつの条約において、 時に相反する複数の目的が掲げられていることも多いため、かかる解釈方法を現実に 適用することは多大な困難をともなう26。 WTO 紛争解決手続は、目的論的解釈を用いることに対して一般的に極めて消極的 であると言えるが、上記の米国エビ・カメ事件における上級委員会報告においては、 GATT XX 条(b)項に規定される「有限天然資源」の意味について検討するにあたって、 上記の WTO 協定前文の文言を援用した目的論的な解釈がなされている 27。しかしな がら、TRIPS 協定第 31 条の条文において、 「有限天然資源」のように環境保護という 目的に即して解釈できるような文言が存在するであろうか。例えば、WTO 協定にお いては、環境保護の重要性が認められているから、温室効果ガスの排出による気候変 動の問題は、 「国家緊急事態その他の極度の緊急事態」に相当するといった議論は暴 論に過ぎると言えよう。 また TRIPS 協定第 31 条の解釈にあたって、 同条文と GATT XX 条の規定構造の違いに注意すべきことは既に指摘した通りである。 4.結論:現行 TRIPS 協定の柔軟性を用いた途上国の主張を実現させないための戦略 以上の検討から、現行 TRIPS 協定の解釈論として、温室効果ガスの排出削減を目的 とした環境技術について、事前の交渉を要さない強制実施権の許諾が認められる可能 性はさほど高いようには思われない。 しかしながら、例えば、気候変動枠組条約の下で、温室効果ガスの排出による気候 変動の問題が、 「国家緊急事態その他の極度の緊急事態」に相当することを示唆するよ うな合意が形成されることなれば、かかる合意を参照した TRIPS 協定の発展的解釈に よって、関連する環境技術について、事前の交渉を要さない強制実施権の許諾が認め られる可能性もないわけではない 28。したがって、気候変動対策に関する国際交渉にあ 26 目的論的解釈の意義や問題について、例えば、Gardiner, supra note 14, ch.5.5 を参照。 27 WTO Appellate Body Report, supra note 15. 28 他方、WTO 紛争解決手続における適用法規は、あくまでも WTO 協定に限定されると解されるため(紛争解 決了解 3 条 2 項、7 条 1 項) 、仮に気候変動枠組条約の下で新たな合意がなされたとしても、WTO 紛争解決手 続において、かかる合意を直接的に適用することが可能であるとは考えられない(すなわち、これら合意はあ くまでも WTO 協定を解釈する上での「考慮要素」にとどまる) 。その点で、そもそもこれら合意と WTO 協定 の間に「他の国際機関、条約あるいは報告書を TRIPS 協定に優先させる解釈」 〔財団法人国際投資研究所公正 貿易センタ-『「TRIPS 研究会」報告書・平成 18 年度』403~404 頁(2007 年)〕を参照)と言った条約の適 用関係の問題は生じないが、仮にかかる問題が生じるとしても、これら規範の間に「後法優位」の原則といっ た条約法条約における「条約の適用」に関する規則が妥当しうるかは疑問である。これら規則はおおむね「私 - 16 - たっては、締結される合意の文言が、 「国家緊急事態その他の極度の緊急事態」といっ た TRIPS 協定上の曖昧、ないし不確定な概念との関係において、いかなる含意を有す るかという問題について十分な注意を払う必要がある。 もっとも、これら国際交渉の場において、環境関連技術に関する柔軟な強制実施権 の許諾を求める途上国の主張に対していかなる譲歩も行わないことは、政治的に不可 能であるか、あるいはそもそも望ましくない場合もあろう。そのような場合、例えば、 「気候変動の問題は人類の喫緊の課題である」といった一見したところ無害と思われ るような抽象的な文言を認めるよりは、むしろ日本企業にとって損害の少ない技術に ついて、強制実施権の許諾を認めるといった特定的で具体的な譲歩を行う方が、得策 である場合もあることに留意する必要がある。上記のような抽象的な文言を参照して、 気候変動の問題が、 「国家緊急事態その他の極度の緊急事態」に相当することが解釈さ れることになれば、これに関連する環境技術すべてについて、事前の交渉を要さない 強制実施権の許諾が認められることにもなりかねないからである。 <論点3:「公共の利益と強制実施権」という広い文脈からの戦略検討> TRIPS 協定は、知的財産権について、その効力にまで踏み込んだ規定を設ける一方、特 許権をはじめとする知的財産権の効力を制限する姿勢も示している。 これまで焦点を当て てきた強制実施権の設定を許容する規定(TRIPS 協定第 31 条)はその典型例と言える。 以下では、同規定以外に基づいて知的財産権の効力が制限される可能性について、我が国 の法制度等との比較を手がかりとして分析を行う。 1.試験・研究のための実施にもとづく特許回避 我が国の特許法は、特許権を業として特許発明を実施に関する独占・排他的権利と して定めるところ(特許法 68 条)、その効力が及ばない行為の一つとして、試験また は研究のためにする特許発明の実施には及ばない旨を規定する(特許法 69 条 1 項)。 この規定の趣旨は、試験または研究がもともと特許権の対象となるものの生産等を目 的とするものではなく、技術を次の段階に進歩させること目的とするものであり、こ のような実施にまで特許権の効力を及ぼすことは、かえって技術の進歩を阻害するな ることから、これを予防しようとすることにあるとされる 29。TRIPS 協定との関係につ いて見ると、この特許法規定は、同協定が定める特許権の例外(TRIPS 協定第 30 条) 法類推」 、すなわち「契約的」な条約間に適用されることを意図して導入された規則で、かかる規則を「知的 財産権」という「私権」について規律する TRIPS 協定に関わる問題に当然に適用しうると考えられないからで ある。なお、紛争当事国間においてその旨の合意がなされれば、TRIPS 協定とその他の条約の適用関係の問題 を一般的な事項管轄権を有する国際紛争手続(例えば、国際司法裁判所)に付託することは不可能ではかもし れない(もっとも、ここにおいても「後法優位」の原則等が当然に適用しうるとは考えられないことは同様で ある) 。 29 特許庁編『工業所有権法(産業財産権法)逐条解説〔第 17 版〕』220 頁(発明協会・平成 20 年=初版・昭 和 34 年)参照 - 17 - に該当すると理解されている。 TRIPS 協定は「与えられる権利の例外」(TRIPS 協定第 30 条)について、「加盟国 は、第三者の正当な利益を考慮し、特許により与えられる排他的権利について限定的 な例外を定めることができる」とし、「ただし、特許の通常の実施を不当に妨げず、 かつ、特許権者の正当な利益を不当に害さないことを条件とする」旨を定めている。 したがって、この規定に従う限り、特許権者の利益が損なわれる虞がないように見受 けられる。 しかし、環境関連技術は、その性質上、社会基盤となるような大規模な技術をも含 むものとならざるを得ない。そうすると、環境関連技術の有用性を「試験・研究」す るためとして、大規模プラントを建造することにより、その運用に際して環境関連技 術に係る特許権の影響を排除しようとする可能性が指摘される。こうした可能性を視 野に入れ、我が国の規定の運用と気候変動枠組条約の交渉における我が国の主張との 整合性について検討を要すると考える。 2.競争法(独占禁止法等)の介入にもとづく特許権回避への対応 知的財産制度の整備は、知的財産の創作活動を促進し、産業・文化の発展に寄与す ると共に、技術開発競争の適正化が図られる等、市場競争の形成を促進させることに 繋がると期待される。しかし、知的財産の利用に関する独占・排他的権利という知的 財産権の性質上、その行使の態様如何によっては、市場競争を不当に阻害するであろ うことは否定できない。そのため、各国でこの問題への対応が図られており、我が国 においても「知的財産の利用に関する独占禁止法上の指針」が示されている。 途上国も、1970 年代以来、技術移転に関わる国際的な問題として関心を示しており、 UNCTAD において、いわゆる「技術移転コード」に関する議論がなされてきた。これ と同様の方向性の主張が TRIPS 交渉においても提示され、その結果、TRIPS 協定の中 に、知的財産権にもとづく反競争的行為に関する規定が設けられた。そこでは、知的 財産権にもとづくライセンス契約等の中で競争制限的な行為が貿易に悪影響を効果を 有すること、もしくは、技術の移転・普及を妨げる虞があることが確認されると共に、 このような知的財産権の濫用を加盟国が規制することが許容されている(TRIPS 協定 第 40 条)。 ここで、こうした知的財産権の濫用行為に対する措置として、TRIPS 協定は、TRIPS 協定に適合する適当な措置を採ることができる旨を規定するに止まり、その具体的内 容については、加盟国の裁量に委ねている(TRIPS 協定第 40 条 2 項)。そうすると、 この措置として、強制実施権の設定や契約条項の無効化が想定される。また、我が国 のように、特許権に関しては、特許の取消という対応も考えられる(独占禁止法 100 条)。 ここで、いかなる行為が同規定の述べる「競争制限的」と評価されるかが問題とな る。 - 18 - この点につき、同規定では、 (1)排他的グランドバック条項、 (2)知的財産権の有効性に関する不争条項、 (3)強制的一括許諾契約の 3 類型を掲げている(TRIPS 協定第 40 条 2 項) しかし、 TRIPS 協定が明示するように、 これ等の行為類型は例示されているに止まり、 それ以外の行為を「競争制限的」として位置付けることが可能である。 例えば、我が国の「知的財産の利用に関する独占禁止法上の指針」では、一般的に 競争制限的である疑いが強いとされるものとして、 TRIPS 協定に例示されている行為類 型の他、市場全体の供給量を制限する効果ある数量制限、再販売価格制限、競業他者 との取引制限、知的財産権消滅後のライセンス料支払義務等が挙げられている。また、 契約条項ではないものの、それに関わる行為として、代替困難な技術等で、それが一 定の製品市場における事業活動の基盤を提供している場合に、当該技術に係る知的財 産権にもとづいて、当該技術を競業他者に利用させない行為も「競争制限的」と解さ れる場合があるとされる。 もっとも、いかなる行為であっても、「競争制限的」となるか否かは個別具体的事 情に左右されることが少なくない。それ故に、「競争制限的」となる虞がある行為を 一定程度類型化することは可能であるとしても、「競争制限的」となる行為を画一的 に定めることは困難であり、この点は各国の判断に委ねられることにならざるを得な い。 そうすると、「競争制限的」か否かに関して恣意的な判断を招き、TRIPS 協定の上記 規定を手がかりとして、結果として、知的財産権の効力が不当に制限されるのではな いかとの懸念が生じてくる。実際、アジア諸国におけるライセンス規制の中で、TRIPS 協定に違反している疑いのある事例が報告されている 30。 3.差止請求権の制限 現在、我が国において、差止請求権の適正化という視点から、同請求権を民法上の 権利濫用法理にもとづいて制限すべきとの議論がなされている。この議論は、一面に おいて、知的財産権を一般的に制限することを根拠付けるという性質を有することを 考慮すると、こうした議論と気候変動枠組条約の交渉における我が国の主張との整合 性について検討を要すると考える。 4.環境関連技術に係る知的財産権の多様性 気候変動枠組条約の交渉において、知的財産権に関する議論がなされる場合、環境 関連技術という知的財産がその対象とされ、知的財産権の効力を制限する手段として 強制実施許諾(TRIPS 協定第 31 条)に焦点が当てられている。ここから、「知的財産 30 財団法人国際貿易投資研究所公正貿易センター『「TRIPS 研究会」報告書・平成 9 年度』99 頁(1997 年)参 照 - 19 - 権」として念頭に置かれているのは特許権のみに止まると解するのが素直である。こ のことは、前提の議論と位置付けることが可能な、公衆衛生と医薬品等に関わる知的 財産権との関係についてのドーハラウンドでの交渉において、医薬品に関わる知的財 産が特許権のみであったことに由来するものと解される。 しかし、環境関連技術に係る知的財産権として、特許権のみを念頭に置くことには 問題がある。例えば、「電気自動車」などの分野においては、エネルギー効率を高め る上で、エンジン制御を行うためのコンピュータプログラム(ソフトウェア)等が重 要な知的財産となるところ、これは特許法の対象ともなると共に、著作権法の対象と も位置付けられている。後者の点については TRIPS 協定も明記する(TRIPS 協定第 10 条)。 そうすると、今後、特許権の効力を制限しようとする動きが、著作権等の他の知的 財産をも制限しようとする動きとなる可能性が指摘される。 とりわけ、気候変動枠組条約の交渉において議論の対象とされる「環境関連技術」 が何かについては必ずしも定かでない。しかし、これを、同条約の「気候系に対して 危険な人為的干渉を及ぼすこととならない水準において大気中の温室効果ガスの濃度 を安定化させる」という目的達成に有用な技術と素直に解するならば、極めて広範囲 の技術がこれに含まれることとなる点に留意する必要があると考える。 - 20 - Ⅱ.環境関連技術移転と強制実施権 ~気候変動国際交渉の現状を中心に~ 2009 年 10 月 30 日第 1 回国際知財制度研究会報告 環境関連技術と強制実施権の問題に対しては、まだ全く“解”が見えていない状況にあ るが、交渉の現状、先進国と途上国の主張がどのようにぶつかりあっているか、産業界や 国際機関はどのような意見を持っているか、 米国の状況はどのようになっているか、 また、 これまで公表されてきた研究レポートにおいてはどのような議論がなされているか、とい った点について、事実関係を中心に整理する。 1.交渉概要と交渉スケジュール 気候変動枠組条約の京都議定書においては、2012 年までの温室効果ガスの削減目標が定 められているが、現在議論されているのは、ポスト京都議定書、すなわち 2013 年以降の目 標をどのように設定するかという問題で、この問題は条約・特別作業部会(AWG)という ところで議論されている。 特別作業部会のスケジュールは、2009 年 11 月に、バンコク及びバルセロナで、交渉テ キストの議論をする会合を開催し、今年のまとめとして、2009 年 12 月にコペンハーゲン で開催する COP15(第 15 回気候変動枠組条約締約国会合)で議論をする予定である。当 初の目標としては、コペンハーゲンの COP15 において議定書をまとめる、ということが目 標とされていたが、デ・ブア事務局長は、コペンハーゲンの COP15 で議定書をまとめるの は物理的に不可能ではないかと言っているというような報道もあり、 また客観的に見ても、 現在まとまっている議長テキストの分量を見る限り、2009 年 12 月の COP15 で議定書が作 られる可能性はかなり低くなっていると思われる。但し、COP15 では、なんらかの政治宣 言が出される、ということが言われており、ここで再びドーハ閣僚宣言のような“綱引き” がなされる可能性はかなり残っていると思われる。 2.条約、交渉テキスト そもそも気候変動枠組条約の本体において、先進国は途上国に対して、資金援助をする、 もしくは技術移転の協力をする、というようなことは既に盛り込まれている。よって、先 進国から途上国に対する技術移転が必要であるという認識は、先進国と途上国の共通認識 であると言える。更に、2007 年の COP13 でのバリ・アクション・プランにおいても、技 術移転に関する行動の強化が謳われている。但し、現在議論になっているのは、技術移転 が必要であるという認識は一致するものの、その方法論としてどうするか、というところ である。 2009 年 5 月から議長テキストによる議論が開始された。2009 年 5 月時点の議長テキスト の構造は、オプション1が先進国の主張、オプション2が途上国の主張で、そして、オプ ション3が後発開発途上国(LDC)の主張となっている。オプション1において先進国は、 - 21 - 技術移転をファシリテイトするような知財制度を設けることを主張している。一方、オプ ション2で途上国は、知的財産権の保護に起因する先進国から途上国への技術移転に対す る障壁を除去する為に、強制実施権もしくはドーハ閣僚宣言的決定などの特別措置が制定 されるべきであると主張。オプション3では更に進んで、後発開発途上国に関しては環境 関連技術の特許保護を免除するべきである、と主張するようなテキストとなっている。 更に何回か議論が重ねられたが、議論の集約を見ることなく、オプションの数は増加す ることになり、最終的にはオプションが5つまで存在するテキストとなった。オプション 1からオプション5まで、ほとんど全て途上国の主張に沿ったものとなった。例えば、2009 年 10 月時点における議長テキストにおいて、オプション2として、気候変動問題に対応す る為に TRIPS 協定の柔軟性を確保すること、また、オプション3として、既に付与された 特許も無効化可能とするべきであること、オプション4では、技術移転を確実にする為の 機関を設立すべきであること、オプション5では、特定の技術に強制実施権を発動可能化 すべきであること等が記載されている。 このような議長テキストの基になったと思われるのが、2009 年 9 月に出されたボリビア からの提案である。このボリビア提案は、上記の議長テキストに示された5つのオプショ ンに非常に近い文言が記載されている。例えば、特許は技術移転の障壁になっていると主 張している点が挙げられる。さらに TRIPS 協定第 31 条には、事前の交渉を無しに強制許 諾が認められる条件が“extremely urgent”もしくは“emergency”と規定されているが、ボリビ ア提案においても“emergency”という用語を使用して、TRIPS 協定第 31 条を意識した提案 となっている。また、上記の議長テキストと同様に、既存特許の無効化や、営業秘密を含 む技術プール、実施料フリー、などが主張されている提案である。 このような交渉の経緯から言えることは、途上国も環境関連技術と知的財産権という問 題について非常によく研究して、戦略的に交渉を進めているということが指摘できる。 3.先進国と途上国の主張 こうした議長テキストに基づく双方の主張を簡単にまとめる。まず先進国側は以下のよ うな主張を展開している。 ・知財はそもそも技術移転の障壁にはなっていない ・技術移転をする為には事業環境整備などの知財以外の部分が重要である ・技術移転には民間関与が必要である これに対して途上国側は真っ向から反対して、以下のような主張を展開している。 ・知財は技術移転の障壁になっている ・技術移転の為には特許の問題が重要である、すなわち強制実施権が重要である ・民間関与は補足的であって、政府が主導となって技術移転を進めるべきである 各会議における途上国の主張を整理すると、基本的に技術移転を促進するためには、特 許権の効力は制限される方が望ましいことが主張されている。他方、先進国からは、知財 は条約履行に不可欠な技術革新を生む為に必要である、そもそも知財は障壁になっていな - 22 - い、知財があってこその技術移転である、といったこと等を主張している。さらにドーハ の公衆衛生宣言と異なる点として、例えば、エイズ薬のようなものは価格に占める知財コ ストが 95%程度であるのに対して、環境関連技術については知財コストが高くはなく、そ れゆえ特許の強制実施権は役にもたつものではない、といったことも先進国は主張してい る。 4.産業界、国際機関の意見 以上のような気候変動国際交渉に対して、産業界からはどのような見解が示されている のかという点については、基本的に先進国の産業界は、環境関連技術に関する強制実施権 には強く反対というところでトーンは揃っている。日本の産業界もこうした見解を積極的 に表明している。しかし、ひとつここで問題となるのが、そもそも「環境関連技術」とは 何かという基本的な問題について、必ずしも確たる共通認識が存在しない点である。 「環境 関連技術」が具体的に何を指すのかが分からなければ、自らの主張を裏付けるデータを提 示することもままならないからである。 他方、こうした問題に関する国際機関の見解として、 例えば、 世界知的所有権機関(WIPO) は、技術移転を促進する為には、効率的な知財保護システムが不可欠である、というよう に比較的先進国よりの見解を表明している。また、国連の条約事務局は、どれだけ知財の 問題を扱う必要があるのか、よく検討する必要があるとして、WTO と同様に中立的な見 解を示している。これに対して途上国の NGO は、当然ながら途上国と同じように知財が 技術移転の障壁となっているとの主張を展開している。 5.米国の状況 米国は気候変動枠組条約の交渉において、環境関連技術について強制実施権は認められ ないという立場を強硬に主張している。しかし、米国の国内法(大気汚染防止法)におい て、大気汚染を減少させる為の装置に係わる特許発明については、その特許発明に対する 合理的な代替方法が無く、その特許発明を実施できないことにより、競争が相当阻害され る場合に強制実施権の発動が認められるとする規定が存在しており、この点に関して途上 国から指摘を受けているとの状況もある。 6.調査研究例 環境関連技術と強制実施権の問題に関する国際的な調査研究事例として、既にいくつか 出てきているが、具体的には次のようなものがある。 (1) IPCC(気候変動に関する政府間パネル) Working Group IPCC というのは、国際的な専門家で構成される、地球温暖化についての科学的な 研究の収集、整理の為の政府間機構であるが、その報告書によれば、以下のような 中立的ではあるものの、比較的理性的な報告がなされている。 - 23 - ・知財の強化は海外資本を呼び込み、技術革新を活性化させる可能性がある ・制限的ビジネス慣行(制限的ライセンス取引等)が技術の普及を妨げる可能性がある ・気候変動問題が「国家緊急事態」 、 「極度の緊急事態」に該当するとの報告は無い (2) 国連経済社会局による「2009 年国際経済社会調査」 「2009 年国際経済社会調査」においては、以下のような報告がなされている。 ・知財が技術移転の障壁であることを現時点では証明されていないが、 途上国が低排出高成長国に成長するに従い知財が障壁になる可能性は高い ・WTO の無差別原則と気候変動に関する国際連合枠組条約の共通だが差異 ある責任原則の一貫性と両立性に留意する必要がある (3) 欧州委員会貿易総局の委託調査(コペンハーゲン・エコノミクス・レポート) 欧州委員会貿易総局の委託調査で、先進国の間でしばしば引用される報告であるが、 以下のように、特許は技術移転の障壁にはなっていない、と結論付けられている報 告である。 ・先進国が特定の環境関連技術分野の特許を独占しているわけではない (例えば、太陽光発電関連の特許では中国が 38%を占める) ・環境関連技術分野の途上国保有特許の内、少数の新興経済国が 99.4%を保有 している ・先端的な環境関連技術が高コストなのは特許が原因ではなく、技術の未成熟 が原因である ・技術知識、習得能力の欠如、不十分な市場規模、不十分な購買力などが障壁 である (4) 米国商工会議所のレポート 米国の商工会議所のレポートでは、以下のような報告がなされている。 ・特許権保護弱化条項が実現されれば、2020 年までに 100 万人の米国の仕事が 奪われる ・議長テキストには以下の2つの大きな懸念がある -環境にやさしい技術の定義が不明である -医療技術と同じ条項のイノベーションと位置付け、強制実施権の発動に 広い裁量を各国に与えている 7.交渉のまとめと今後の方針 気候変動枠組条約の条約・特別作業部会にて、環境関連技術の移転を巡る知的財産権の 扱いについて交渉中であるが、先進国と途上国の主張に大きな隔たりがあり、知的財産権 が技術移転の障壁か否かに客観的な答えを出すことは難しい状況である。当該交渉におけ る知財項目の妥協点は今もって見出せないていないのが現状である。 我が国として、強制実施権は認められないという主張を一貫して行っていく為に、少な - 24 - くとも、これまでの各国主張、調査、研究を十分に踏まえ、この問題に対する我が国の交 渉方針を更に精緻化することが必要である。 - 25 - Ⅱ.自動車業界からみた気候変動国際交渉 トヨタ自動車株式会社 CSR・環境部 理事 笹之内 雅幸 自動車業界も電機業界などと同様に、気候変動国際交渉における知的財産権の懸念があ るので、技術の開発と移転に関する議論の動向を注視している。なお本報告書は第 2 回国 際知財制度研究会報告時点 (2009 年 11 月 19 日) における報告内容をまとめたものである。 1.これまでの経緯 技術の移転の問題に関して、国際交渉でどのような議論がされてきたのかを遡ると、 1992 年にリオ・デ・ジャネイロにおいて採択されたアジェンダ 21 において、既に強制実 施権を通じた技術移転の可能性について言及がなされていた。この時から、産業界も的 確なメッセージを出していなかったことは反省すべき点である。その後、気候変動枠組 条約においても、技術移転の重要性が強調されたが、移転がなかなか進展しないことに 対する途上国の不満から、2001 年の COP7 においては、技術移転に対する障壁分析と対 策について検討し COP に報告することを任務とする、技術移転に関する専門家グループ 「EGTT」が設置され、議論がなされてきた。しかしながら、同グループは専門家グルー プと言いながらも、必ずしも技術移転の問題の専門家ではなく、例えば「知的財産が技 術移転を邪魔している」等の議論が意図的に提示されると、すぐにその議論になびく傾 向があったとも言える。気候変動枠組条約の下での長期的協力行動に関するアドホッ ク・ワーキング・グループ(AWG/LCA)において、知的財産が技術移転の障壁であり、 当該障壁の除去を強く要求する途上国と、これに反対する先進国政府、及び先進国企業 の間で多様な議論が行われたが、技術移転の本質について深い議論には至っていない。 2.日本自動車工業会の取り組み 2008 年 3 月には、 「主要経済国会合(MEM) 」のワーク・ショップが幕張において開催 され、技術移転に関して中国、及びインドの交渉官から自動車の環境に関する技術移転 の状況について質問を受けた。また 2008 年 10 月には、 「クリーン開発と気候に関するア ジア太平洋パートナーシップ(APP) 」の会議において、技術移転の問題に関するプレゼ ンテーションを鉄鋼業界や電力業界と共同で実施した。いずれの機会においても、日本 自動車工業会としては、工場を移転し、製品を現地生産することによって技術移転を実 施していること、またローカル・コンテンツでやっていること等、特許が技術移転の障 害となっていないことを示すデータを揃えながら主張を展開した。 日本自動車工業会では、2009 年からは本格的対応を開始し、それ以前の環境委員会に よる対応に加え、知的財産委員会という専門的な委員会との連携で対応している。中国 - 26 - 等でのライセンスの件数や、ライセンスの申し込みを受けてそれを断った事例の有無等、 ラインセンスに関わるファクト集を作成し、政府の国際交渉をサポートしている。交渉 においてよく特許の技術移転障壁性を問題視しているのは、中国とインド以外の途上国 であるが、現実には殆どのそのような途上国において日本企業は特許を取得しておらず、 技術は自由に使えるのであり、途上国に特許が存在するのか等の事実も整理している。 また経団連へも働きかけて、日本の産業界としてのペーパー作りなども行っている。さ らに日本自動車工業会として取り組んでいる大きなこととして、交渉文章が色々な国か ら出された両論併記となっているものに対して、日本企業としては絶対に避けてほしい といった文言・表現などを選定し、交渉文章に反映されるように提案している。 日本自動車工業会としては、2008 年の会合などで、中国とインドに対して、以下のよ うな形で技術移転が実現されてきていることを主張してきた。 ① 日本の自動車産業は、中国やインドの消費者に対して、日本と同様の環境性 能を有している製品で技術移転を行ってきている。 ② トランス・プラントにおいて技術移転がなされている。 ③ トランス・プラントにおいて、地元の部品メーカーから部品を購入すること によって、技術移転が行われてきている。 また、CO2 削減に有効な個別技術が中国において普及してきている度合などに関して も、例えば、燃料効率向上に繋がる可変バルブタイミング機構である「Variable valve timing」を日本での普及率と同じくらいまで中国では普及させてきていることなども主張 してきた。 これまでは知的財産権は自動車に関する技術移転では障害にはなっていないというデ ータを収集し提示してきたが、現在はそれに加えて、ライセンスも適切に実施しているこ とを示すデータを整理している。 3.最近の提言と今後の方針 2009 年 7 月 22 日には、経団連の環境安全委員会から、地球温暖化問題に関する技術の 重要性を認識し、知的財産権の適切な保護が、地球温暖化対策に貢献するものであるこ とを確認する声明を出した。また同年 9 月 10 日には、国際商業会議所(ICC)との共同 でペーパーを作成し、知的財産権の保護は技術移転の障害ではなく、むしろ環境技術の 開発及び普及に不可欠な活力であるとする提言を発出した。さらにこうした問題につい ては、海外の産業団体も大きな関心を示していて、例えば GE、3M、マイクロソフト、 シーメンスなどで構成するクリーン・テクノロジー・イノベーション同盟(ACTI)とい った団体も、コンセプト・ペーパーなどを発表している。日本自動車工業会としても、 今後とも、こうした提言を積極的に行っていくことを考えているが、その際には可能な 限り数値的なデータを示していくことが重要であると認識している。 - 27 - Ⅳ.気候変動対策における公共の利益と強制実施権:医薬品分野からの示唆 (山根 委員) <目次> はじめに ............................................................................................................................................28 Ⅰ.公共の利益と強制実施権: 国際法ルール.............................................................................29 1.パリ条約と強制実施権......................................................................................................29 2.TRIPS 協定と強制実施権..................................................................................................30 3.TRIPS 協定と公衆の健康に関する宣言..........................................................................33 Ⅱ.強制実施権の設定:医薬品分野の事例が示すもの............................................................35 1.TRIPS 協定 27 条、28 条と強制実施権...........................................................................35 2. 国内法上の「公共の利益」と強制実施権.......................................................................36 3.ドーハ宣言以降の強制実施権設定事例..........................................................................40 4.競争法適用による強制的ライセンスの例......................................................................43 5.司法による「公共の利益」の考慮..................................................................................44 Ⅲ.環境技術分野における技術移転と知財に関する議論........................................................48 1.その経緯..............................................................................................................................48 2.医薬品及び気候変動対策関連技術分野における知財の役割......................................50 Ⅳ.環境関連技術に関する国際協力............................................................................................52 はじめに 気候変動対策に関連して途上国への技術移転が検討されるなか、議論は、知的財産権(知 財)の制限にも及びつつある。コペンハーゲン COP15 会合までの議論において、関連技術 の知財保護に関する特別なルールを唱える途上国政府も出現した。 医薬品アクセスに関しては、強制実施権の発動を解決策とする見解が、市民グループ、 途上国政府及びインド等のジェネリック産業界より唱えられ、WTO の国際機関における 議論をリードした。この見解は、国際世論にも広く浸透しており、2001 年 11 月の「TRIPS 協定と公衆衛生に関するドーハ閣僚理事会宣言」 (以下「ドーハ宣言」 )にも反映された。 気候変動対策に関しても、いくつかの途上国は、知財保護ルールの緩和や強制実施権 の設定による技術移転を提案している。そこには、医薬品アクセスと知財に関する議論の 影響もみられる。医薬品特許や臨床試験データ保護に関する国際ルールのあり方に関して 対立が深まるなかで、気候変動対策関連技術と知財についての議論も混沌と続けられてい る。 医薬品分野において、強制実施権が唱えられてきた背景には、情報と有機合成の技術力 さえあれば医薬品の製造コストは低く、コピー薬の出現を妨げるのは知財しかないともい えるこの技術分野の特性がある。他方、気候変動対策関連技術を用いた主な工学・機械最 - 28 - 終製品の製造コストは比較的高く、営業秘密、とくに技術的ノウハウが重要である。製品 寿命が短く、新技術の開発から最終製品を市場化するまでのスピード(time to market)がイン センティブとして重要な場合もある。したがって、気候変動対策関連技術に関しては、強 制実施権の設定より権利者と協力するほうが、技術移転に有効であろうと考えられる。に もかかわらず途上国政府より強制実施権が提案され続ける理由は何か。 本稿においては、強制実施権を中心に展開された医薬品アクセスと知財に関する議論が、 途上国おいてTRIPS 協定の国内実施及び知的財産権の権利行使にいかなる影響を与えてき たかについて、いくつかの事例を紹介する。その上で、気候変動対策関連技術分野におけ る知財に関する国際的な議論の現状を報告する。 Ⅰ.公共の利益と強制実施権: 国際法ルール 1.パリ条約と強制実施権 1883年の工業所有権に関するパリ条約において、特許は,特許権者がその特許を取得 した国にいずれかの同盟国で製造されたその特許に係る物を輸入する場合も効力を失 わないことが規定された(パリ条約5条A(1) ) 。ただし同条A(2) によれば、特許権者は、 その特許製品を輸入する国の法律に従い当該特許を実施する義務がある。パリ条約は実 施が何を指すか規定しておらず、実施しなければ特許が取消されることも可能であった。 その後、ハーグ会議(1925)において、5条A(2)は、 「同盟国は、特許に基づく排他的権 利の行使から生じ得る弊害、例えば不実施を防止すべく、強制的実施権について規定す る立法措置をとることができる」と改正された。さらに、5条A(3)において、同盟国は、 濫用防止のための強制実施権では十分でない場合にのみ特許権の取消について規定す ることができ、5条A(4)には強制実施権の設定は、特許付与から3年が経過した後、権利 者が不実施の理由を正当化できない場合に限ることが規定された。その後、ロンドン会 議(l934)、リスボン(1958)会議を通し、これらの規定に以下の条件が加えられた 1。特許 権の取消しのための手続は,実施権の最初の強制的設定の日から2年の期間が満了する 前には開始できない(5条A (3)) 。不実施あるいは実施不十分が理由である強制実施権の 設定は,特許出願の日から4年又は特許が与えられた日から3年のうちいずれか遅い期日 まで請求することができず,特許権者が不実施を正当であることを明らかにした場合は 拒絶される(5条A (4)) 。強制実施権は排他的であってはならず、当該実施権に基づく実 施権の許諾の形式によっても移転することができない(同上) 2。 リスボン会議においては、強制実施権が設定された場合、ライセンシーのロイヤルテ ィ支払義務が草案されたが、反トラスト法執行の場合の例外を米国が主張したため採択 されなかった 3。 ロンドン会議においては5条Aの規定が実用新案に準用されること、リ 1 G H C Bodenhausen, Guide to the Application of the Paris Convention for the Protection of Industrial Property as revised at Stockholm in 1967, BIRPI, Geneva,1968 (reprinted in 1991, 2004, 2007) 67-79 頁。 2 この規定の理由については後藤晴男『パリ条約講話』第 12 版(発明協会、2002 年)251-255 頁。 3 S Ladas, Patents, Trademarks & Related Rights: National & International Protection, Cambridge, Harvard University Press 1975, 87 頁。 - 29 - スボン会議においては5条Bが追加され、意匠は、不実施あるいは輸入の場合には取消し されない旨規定された。不実施による制裁を限定しようとする先進国とそれを強化すべ きとする途上国との対立はこの頃から激化し、その後条約改正交渉は打ち切られた。 パリ条約は、公共の利益等の理由で設定される強制実施権には言及していない。国策 を遂行するため、同盟国は公共の利益、国家の緊急事態、公衆衛生、あるいは重要な国 益等の場合も強制実施権を設定できるよう立法措置を採るようになった。 インドやブラジル等においては、多国籍企業が輸出市場確保のためにのみ特許を取得 し、当該製品が現地生産されないことは、途上国のイノベーションを妨げ、自国産業が 発展しないとの見解が根強く存在する。これらの国が現在も「実施」の重要性を強調し、 輸入を実施と認めない可能性があることは以下に見るとおりである(II-1,2,5 参照) 。ブ ラジルはパリ条約の原加盟国であるが、インドはパリ条約に1998年12月に至るまで加入 しなかった。そのおもな理由は、多国籍企業の特許不実施に対しただちに国内措置がと れない場合を考慮してのことであったといわれる 4。 2.TRIPS協定と強制実施権 TRIPS 協定の交渉過程において、米国は、強制実施権の設定事由(grounds)を国家の緊 急事態と反トラスト法下で反競争的とされた行為に限定するよう提案したが、途上国が 反対した。途上国は、設定事由は各国の裁量に委ねられるべきと主張し、交渉の結果、 TRIPS 協定 31 条は、設定事由を限定的に列挙せず、設定の際に守られるべき以下の条件 (conditions)を規定した 5。(a) 個々の当否に基づくライセンスであること、 (b)合理的な 商業上の条件の下で特許権者から許諾を得る努力がなされるべきこと 6、 (c)ライセンス の範囲及び期間は,許諾された目的に対応して限定されること 7、(d) 非排他的ライセン スであること、(e) 実施権は譲渡されないこと、(f) 主として当該実施を許諾した加盟国 の国内市場への供給のためであること、(g) 強制実施権の設定が必要とされた状況が消 滅した際、ライセンスは取消されること、(h) 許諾の経済的価値を考慮し,特許権者は, 個々の場合における状況に応じ適当な報酬を受けること、(i) 裁定の法的な有効性は, 加盟国において司法上の審査又は他の独立の審査に服すること、(j) 報酬に関する決定は, 加盟国において司法上の審査又は他の独立した審査に服すること。 TRIPS 協定 31 条は、 「特許権者の許諾を得ていない他の使用」と題され、国が特許権 者以外の第三者に当該特許を実施する権利を強制的に付与する制度、政府自身が特許権 4 1959 年の特許法改正に関するインド政府報告(R. Ayyangar, Report on the Revision of the Patent Law, New Delhi, 1959)は、リスボン会議の改正に言及し、license of right 制度や不実施を理由にした特許の強制実施に制限 を与えることがインドにとって不利益であるとしていた。この報告書には、当時インドのパリ条約加入を推薦 していた特許法委員会への反対意見が述べられていた。この報告書は、その後 1970 年に採択されたインド特 許法の精神を導き、その基本的な考え方は現在も引き継がれているといわれる。 5 高倉成男『知的財産法制と国際政策』(2001 年、有斐閣)、165-166 頁。 6 31 条(b)項によれば、国家緊急事態その他の極度の緊急事態の場合又は公的な非商業的使用の場合,権利者 との事前の交渉義務がなく、当該特許権者は,合理的に実行可能である限り速やかに通知を受けるに止まる。 政府が他者の特許との抵触を調査せず使用する場合も特許権者に速やかに通知する義務のみが課される。 7 半導体技術に係る特許の強制的な実施は、公的な非商業的目的のため又は司法上若しくは行政上の手続の結 果反競争的と決定された行為を是正する目的のために限られる。 - 30 - 者の許諾なく特許を使用する制度(政府使用)及び競争法適用の制度を対象にしている。 したがって、WTO 加盟国が、それぞれの制度を用いることが可能である 8。例えば、米 国特許法に強制実施権を認める一般的な規定はないが 9、連邦政府による実施あるいは 介入権に関する規定(政府使用 10及び介入権 11)及び個別法12にもとづく政府使用あるい は第三者の実施権に関する規定があり、政府に広範な権限を与えている。米国がもっと も頻繁に強制実施権を設定してきたとの見解 13 もあるが、事例として挙げられているそ の殆どが、合併の事前届出手続(クレイトン法 7 条にもとづく 1976 年 Hart-Scott-Rodino 法)における知財ライセンスの例である。これらのライセンスは事業者の提案にもとづ き競争当局が命令するものであり、必ずしも強制的とは言えない。加盟国の司法上又は 行政上の手続の結果反競争的と決定された行為を是正するためのライセンスの場合、加 盟国は以上(b)及び(f)の義務を負わず、報酬額決定の際,反競争的な行為を是正する必要 性を考慮することができる(31 条(k)) 。 TRIPS 協定は、強制実施権により実施するライセンシーが特許権者に報酬を支払うこ とを義務付けた。TRIPS 協定 31 条(b)は、強制実施権が「合理的な商業上の条件の下 で特許権者から許諾を得る努力がなされた」後、設定されるべきこと、31 条(h)は、 特許権者は「個々の場合における状況に応じ、実施の経済的価値を考慮して,適当な報 酬を受けること」と規定しているが、 「市場の状況」には言及していない 14。政府使用の 場合、 (b)項の上記事前交渉義務はなく、競争法下の司法的あるいは行政的な決定にお いて(h)の義務は生じない。差止命令に関する TRIPS 協定 44 条 2 項 15 は政府使用に対す 8 31 条(l)の以下の規定は、日本と米国との見解の対立の妥協であったといわれる。「第 1 特許を侵害するこ となしには実施することができない第 2 特許の実施を可能にするための強制的実施が許諾される場合は,以下 の追加的条件が遵守される (i) 第 2 特許に係る発明には,第 1 特許に係る発明との関係において相当の経済 的重要性を有する重要な技術の進歩を含むこと、(ii) 第 1 特許権者は,合理的な条件で第 2 特許に係る発明 を使用する相互実施許諾を得る権利を有すること、(iii) 第 1 特許についてのライセンスは,第 2 特許と共に 譲渡する場合を除くほか,譲渡することができないこと)」。尾島明『逐条解説 TRIPS 協定』145 頁。 9 産業構造審議会知的財産政策部会特許制度小委員会特許戦略計画関連問題ワーキンググループ「特許発明の 円滑な使用に係る諸問題について」資料4、2004 年 9 月 29 日。49-51 頁。 10 28 U.S.C. §1498.この場合、特許権者には、連邦政府の実施に対する合理的、かつ、十分な補償を請求す るための訴訟を連邦請求裁判所(U.S. Court of Federal Claims)において提起する権利が認められているが、 差止請求権は認められていない。 11 March in rights (35 U.S.C. §203) 連邦政府資金を用いて得られた特許権に関し、特許権者が相当期 間、当該特許発明実用化のために効果的な措置を取らなかった場合、公衆衛生又は公共の安全上の理由から必 要な場合、連邦政府は、特許権者に対して第三者又は連邦政府自身にライセンス許諾を求めることができる。 12 原子力エネルギー法(42 U.S.C. §2183)、大気汚染防止法(42 U.S.C. §7608)、植物新品種保護法(7 U.S.C. §2404)、半導体集積回路保護法(17 U.S.C. §907)、テネシー峡谷開発公社法(16 U.S.C. §831r)等。 13 J H Reichman, B S Womble and C Hasenzahl , ‘Non-voluntary Licensing of Patented Inventions Historical Perspective, Legal Framework under TRIPS, and an Overview of the Practice in Canada and the USA’, UNCTAD-ICTSD Project on IPRs and Sustainable Development, Issue Paper No. 5, June 2003; .M. Scherer, The Economic Effects of Compulsory Patent Licensing (1977), reprinted in F.M. Scherer, Competition Policy, Domestic and International 327-42 (2000); James Love, Knowledge Ecology International http://www.cptech.org/ip/health/cl/us-at.html; Revised Drug Strategy WHA52. 19, 1999. 5. 24, http://www.who.int/gb/EB_WHA/PDF/WHA52/e19.pdf 14 Georgia Pacific 判決は、侵害がなければ特許権者が得たであろう利益(逸失利益)についての証拠にもとづき 特許技術のライセンス料率につき、技術の市場価値等にもとづく 15 の評価基準を示しており、 「合理的なライ センス条件」のひとつの参考となっている。 15 TRIPS 協定 44 条 2 項は「政府又は政府の許諾を受けた第三者が権利者の許諾を得ないで行う使用について は,当該使用を明示的に定める第 2 部の規定に従うことを条件として,加盟国は,この部の他の規定にかかわ らず,当該使用に対する救済措置を,第 31 条(h)の規定による報酬の支払に限定することができる。当該使用 であってそのような救済措置の限定の対象とならないものについては,この部に定める救済措置が適用され, 又は,当該救済措置が国内法令に抵触する場合には,宣言的判決及び適当な補償が行われるものとする」と規 定する。尾島(1999)によれば、「救済措置が国内法令に抵触する場合」とは、国に対する差止請求を認めて いない国があることに配慮したものである。尾島上記注 8、215 頁。 - 31 - る救済措置を、31 条(h)の規定による報酬の支払に限定することができるとしている。 「経 済的価値」は規定されておらず、医薬品特許の強制実施権設定の際の使用料に関して議 論が続いている。近年、途上国の医薬品アクセス問題の解決は、強制実施権が設定され る際の特許使用料に依存するとして 16、途上国の財政状態に見合った料率を、国家が設 定すべきことが主張され始めた。WHO 及び UNDP は、2005 年、途上国の所得/疾病負担 レベルと、先進国における当該医薬価格にもとづいた強制利用許諾の公定料率制度の提 案ペーパー 17 を公表した。公定料率の例として、カナダの「途上国及び後発開発途上国 (LDC)の公衆衛生問題を解決するための特許製品の人道的な使用」に係る 2005 年法 (国連の社会経済指標を用い、輸出相手国の開発度にもとづく下限 0.02%、上限 4%の 料率制度)や、日本の 1998「特許権等契約ガイドライン」18、2001 年の UNDP の報告書 19 ほか、マレーシア、フィリピンの料率ガイドラインなどが比較されている 20。権利者に 研究開発を継続させるだけの多少の報酬を提供すれば、強制実施権の発動により途上国 のアクセス問題がただちに解決されるとの見解がある 21。料率が高価で、その設定手続 が複雑なら、強制実施権を設定することへの抑止となりかねないため、事前の公定料率 が必要であろうとの説明も添えられた 22。WHO/UNDP ガイドラインによれば、Georgia Pacific 23 の評価基準は、私的な権利を過大評価し、(i) 治療効果のような社会的インパク 16 ‘The emphasis on triggering mechanisms rather than the more important issue of remuneration has confused the debate’, Daniel R. Cahoy, `Confronting Myths and Myopia on the Road from Doha, 42 Georgia Law Review (2007-08), p. 6. 17 WHO/UNDP Remuneration Guidelines for Non-Voluntary Use of a Patent on Medical Technologies (WHO/TCM/2005.1),James Love, Consumer Projects on Technology (CP Tech), Washington D.C. (以下 「WHO/UNDP Remuneration Guidelines」)。中高所得途上国が多少なりとも R&D コストに貢献すべく、高所 得国における特許製品の価格をもとにした基本料率 4%に,国別の疾病による負担を加味した一人あたり所得 に反比例させて調整する「Tiered Royalty Method」が提案されている。 18 平成 10 年 6 月 29 日,特総第 1173 号,特許庁長官通達。 19 The 2001 UNDP Human Development Report (HDR) は,ジェネリック医薬価格をベースにした基本料率 4%上 下に当該医薬品が実現したイノベーションの度合や公的資金の R&D への貢献度などにより 2%の幅を持たせ た料率を提案している。 20 WHO/UNDP Remuneration Guidelines, 上記注 17,p.85. 21 Robert C.Bird & Daniel R Cahoy, ‘The Impact of Compulsory Licensing on Foreign Direct Investment: A Collective Bargaining Approach‘, American Business Law Journal (2008), pp.3-20. 22 WHO/UNDP. Remuneration Guidelines, 上記注 17, p.51. Georgia Pacific Corp. v U.S. Plywood Corp., 318 F. Supp. 1116, 1120 (S.D.N.Y. 1970), modified on other grounds, 446 F.2d 295 (2d Cir. 1971). この判決においては,仮想交渉において,合理的な許諾条件の決定過程 で,通常,考慮される次の 15 の要素が挙げられている。 - 訴訟中の特許の使用受諾による確立したロイヤルティを立証する(あるいは立証しようとする)特許権 者が受け取るロイヤルティ - 訴訟中の特許に相当する他の特許の使用に対し,ライセンシーが支払う料率 - 製品の販売対象者に関する当該ライセンスの性格及び範囲(独占的/非独占的,制限的/非制限的等) - 当該技術の独占を維持するよう意図された使用許諾におけるライセンサーの確立した方針及び販売計画 - ライセンサーとライセンシー間の商業的関係(同一業種,同一地域で競合者か否か,発明者なのか,販 売促進者なのか等) - ライセンサーにとって,他の製品の販売促進のために当該特許製品を売る効果,非特許製品の販売促進 要素としての発明品の既存の価値及びこうした非特許製品の販売限度 - 特許存続及びライセンス期間 - 特許製品の確立した収益性,その商業的成功及び現時点での評判 - 類似の結果を得るための先行の製造様式または装置と比較した場合の当該特許技術の実用性及び利点 - 当該発明の性格,ライセンサーが所有・製造する発明の商業的実施例の性格及びその発明の使用者にとっ ての恩恵 - 侵害者が当該発明を利用した範囲及びその使用を立証する何らかの証拠 - 特定あるいは類似業種において,その発明または類似の発明の使用を許容する慣習を踏まえた利益また は販売価格の一部 - 製造工程,ビジネスリスク,侵害者により追加される特徴や改良などの非特許要素とは区別され,当該 23 - 32 - ト、緊急状態、経済発展の観点を無視しており、(ii) 必須医薬品 24 のアクセスを妨げ、 (iii) 排他権が過大な需要をつくることにより研究に費やされた公的資金を吸い上げる反 公共的な結果を生む 25。 パリ条約 5 条が、不実施を知財による排他的権利の濫用の一例として挙げ、強制実施 権の発動要件を規定していることはさきに見たとおりである。TRIPS 交渉は、 「輸入は実 施か」に改めて決着をつけようとしたが、決着つかず、結局、「強制実施権の設定につ いては、輸入品と国産品を区別しないで扱う」ということに落ち着いた 26。この決着は、 (a)内外差別禁止は GATT になじみよく、途上国も反対しにくい原則であること、(b) 先 進国・製薬企業としても強制実施権の問題が解決できれば十分であることから実現した 27 。27 条1項は、 「…差別することなく特許が与えられ,及び特許権が享受される」とし ている。先進国は、強制実施権は、 「特許権の享受」の制限であり、 「輸入品と国産品」 を差別して制限してはならないということは、「輸入品であることを理由として、国内 実施ではないとして強制実施権の発動はできない」ことを意味すると解した 28。ただし 国内法において、発明の実施を「物の製造、販売、使用、および方法の使用」等に限り、 輸入は実施ではないとの立場をとっていても、権利取得・行使において国産品・輸入品 の差別をしていなければ TRIPS 協定 27 条 1 項の上記規定の違反とはいえない。 3.TRIPS 協定と公衆の健康に関する宣言 ドーハ宣言は、 「…TRIPS 協定は、加盟国が公衆の健康を保護するための措置を取る ことを妨げないし、妨げるべきではない」ことに合意し、 「公衆の健康を保護し、とり わけすべての人々に対して医薬品へのアクセスを促進するという WTO 加盟国の権利を 支持するような方法で、協定が解釈され実施され得るし、されるべき」であることを確 認した。ドーハ宣言は、 「…TRIPS 協定に対する我々のコミットメントを繰り返し強調す る」と明記しており、後発開発途上国(LDC)の経過期間に関するパラ7の一部 29 を除 き、TRIPS 協定の変更はない 30。ただしパラ 6 31 に対応した解決方法が、2003 年 8 月 30 発明自体の貢献であると識別できる利益の一部 - 適格な専門家の証言 - 慎重なライセンサー(ライセンスの供与を厭わなかった特許権者等)及び慎重なライセンシー(事業計 画として,特許された発明を実施する特定の製品を製造・販売するためにライセンス獲得を目指す者)が 合理的かつ自発的に合意に達しようとしていたなら,双方が(侵害が始まった時に)合意したであろう 金額であって,双方が合理的な利益を挙げることができたであろう金額。 24 WHO は約 300 種の必須医薬品を約2年に一回選定するが、現在その中で先進国において特許保護下にある 医薬品はエイズ薬及びひとつのマラリア薬に限られている。タイにおいては約 900 の必須医薬品が選定されて いる。 25 WHO/UNDP Remuneration Guidelines, 上記注 17, pp.55-56. 26 高倉成男委員による説明(2010 年 2 月 9 日)。 27 同上。 28 同上。 29 パラ7は、LDC が 2016 年 1 月まで、TRIPS 協定第 2 部第 5 節及び第 7 節の実施若しくは適用、または、こ れらの節に規定される権利を行使する義務を、医薬製品に関しては、負わないことに合意した。 30 ドーハ宣言の法的性格は明らかでなく WTO 設立協定 10 条の協定修正手続きが採られていないことは無論の こと、11 条 2 項 にいう「閣僚会議による排他的な協定解釈」として、加盟国の 4 分の 3 以上の多数による採 択手続を通し、「解釈」として意図的に採択されたものでもなく、閣僚会議の「決定」でもない。J. ジャク ソン「ドーハ閣僚会議の印象」 『経済産業ジャーナル』 Vol. 35, No. 2, (2002), 12 頁。 31 「製薬分野の生産能力が非存在あるいは不十分な WTO 加盟国が、TRIPS 協定の下で強制実施権を効果的に使 - 33 - 日、WTO 一般理事会で採択され(決定 L540)32、拘束力のある制度が成立した。この 制度は、医薬品に関して TRIPS 協定 31 条(f)の義務を免除し、輸出国において当該 医薬品に特許があっても、一定の条件を満たす場合は、強制実施権の下で、医薬品の生 産能力が無い(あるいは不十分な)国へのコピー医薬品の輸出を可能にした(以下「パ ラ六制度」)。 他方、ドーハ宣言は、医薬品に関する TRIPS 協定第 5 節(特許)及び第 7 節(開示さ れていない情報の保護)規定の解釈上影響を有し、WTO 加盟国の国内法及び国内裁判 所の判断にインパクトを与えている。WTO の紛争処理においては、 「紛争解決に係る規 則及び手続に関する了解」 (DSU)にもとづき「解釈に関する国際法上の慣習的規則」 に従う考慮がなされることになろう。 ドーハ宣言のパラ 4 によれば、TRIPS 協定は「すべての人々に対して」医薬品へのア クセスを促進 33 することを支持するよう解釈され実施されるべきであり、この目的のた めに、WTO 加盟国は、TRIPS 協定の柔軟性 34 を最大限に用いる権利を有する。パラ 5 は、そのための TRIPS 協定解釈方法 35、強制実施権の付与理由や「何が国家緊急事態そ の他の極度の緊急事態」であるか決定する「自由」を「TRIPS 柔軟性」の例としている。 加えて、同宣言は、 「我々は TRIPS 協定が、これらの問題に取り組むためのより広範な 国内的及び国際的行動の一部である必要性を強調する」(パラ 2)としている。これにより、 WTO が管轄する TRIPS 協定の解釈は、医薬品に関する限り、WHO、UNCTAD、国連人 権委員会やその他の国連機関の政治的影響下に置かれ易くなった。 用するに際し困難に直面しうること」を認め、TRIPS 理事会に対し、本問題に対する迅速な解決を見出し、2002 年末までに一般理事会に報告を行うことを指示した。 32 Implementation of paragraph 6 of the Doha Declaration on the TRIPS Agreement and public health, WT/L/540 (and Corr.1), 1 September 2003. この決定により、以下の条件の下で、輸出のための強制実施権の設定が可能である。 (i)医薬品輸出国は、合意されたルールに基づき、実施権を許諾すること及びその条件(製品の名称、数量、 実施権許諾の期間等)を TRIPS 理事会に通報する。 (ii) 実施権者は、 -特許権者に相応の報酬を支払う。その際、輸入国側での特許の使用価値が考慮される。輸出国におい て対価が支払われた製品について、輸入国の TRIPS 協定 31 条(h)の義務は免除される。 -船積み前、ウェブサイトに、目的地と積荷の量、製品を識別する特徴等を記載する。 (iii)医薬品輸入国は、 -当該医薬品の特許が存在する場合、強制実施権付与とそれに伴う条件に関する情報を、TRIPS 理事会 に通報する。 -医薬品が公衆衛生上の目的に限って輸入されることを確保するため、能力に応じ、再輸出を防ぐため の合理的な手段を講じる。困難に際して、先進国は、技術面及び経済面で協力する。この他、輸入国 に医薬品の生産能力が不十分か無い事の確認についても規定された。この決定の採択時、この制度が 商業的な目的で使われないこと等を含む議長声明が読み上げられた。 33 ちなみに、カナダのオンタリオ州遺伝子診断新技術に関する委員会は、2002 年 1 月、ドーハ宣言この一節に 言及し、個々人が、いつ、どの医薬品を必要とするかについて診断する最新の特許技術も、公衆衛生であると した。この委員会の検討対象であった BRCA 特許(乳癌にかかり易くする遺伝子の診断技術)は、この観点か ら問題視された。ミリアド社の乳がん遺伝子特許(BRCA1, BRCA2)の診断的使用(変異遺伝子を受け継いだ 人の乳癌発症の確率を診断する)が非常に困難なこと,ロイヤルティが高額なことが問題にされた。 WHO/UNDP Remuneration Guidelines, 上記注 17, pp.34-36. 34 TRIPS 協定の「柔軟性」については拙稿’From Constructive Ambiguities to Flexibilities: TRIPS Interpretation, Commonly-Held Views and Industrial Policies’, Japanese Yearbook of International Law, vol. 2, 2009, pp. 335-387. 35 5 節(a) 解釈に関する国際法上の慣習的規則を運用する際に,TRIPS 協定の各規定は,特に右協定の目的と原 則に表現されたような協定の目的に照らして解される. - 34 - Ⅱ.強制実施権の設定:医薬品分野の事例が示すもの 1.TRIPS 協定 27 条、28 条と強制実施権 特許不実施の場合の強制実施権の設定に関し、輸入品と国産品の差別を禁じる 27 条 1 項との関連において、解釈の対立が存在することはすでに検討したとおりである。この対 立が再燃する可能性のあることは、インド特許法に関する最近の議論からも明らかである 36。 TRIPS協定28条と31条との関係は必ずしも明確でなく、31条が、特許が付与する排他的 権利の例外か否かも疑問である 37。また、 「取引拒絶」や「高価格」のように、いくつかの 国内法において強制実施権の設定事由として明記されている事項は、手続上の問題でもあ るし、競争法上の問題でもある。欧米の競争法上、取引拒絶や高価格そのものは違反では ないとされ、知財ライセンスに関しては、権利者の正当な権利を考慮して判断される。 TRIPS協定28条を考慮すれば、取引を拒絶する権利も、高価格で販売する権利も、当該行 為が競争法違反ではない限り、権利者に与えられていると考えられる。 強制実施権に関する TRIPS 紛争はこれまで 2 件あった。ひとつはアルゼンチンの薬事法 等38に基づく強制実施権及びその他の同国特許法規定等に関する案件(DS196, 171)39、も うひとつは不実施の場合の強制実施権に関するブラジル工業所有権法 68 条(DS199)40の 案件であり、いずれも和解合意に至っている。 1999 年、米国は、アルゼンチンの特許法、競争法及び薬事法における一連の規定と TRIPS 協定との整合性について紛争解決手続きに付託し、スイスも参加した。TRIPS 協定 39 条 3 項が義務付ける農薬・医薬の販売承認申請のため規制当局に提出するデータ保護は、アル ゼンチンの薬事法に規定されている。にもかかわらず、薬事法にもとづきバイアグラ等新 薬のジェネリック販売承認 41 がなされ、また特許法あるいは競争法にもとづく強制的な医 薬品特許実施権が設定されていた。強制実施権の下で医薬品の販売価格は、特許製品より 36 ‘Foreign drug companies may lose exclusivity for some drugs in India’, Mint, New Delhi, 5 February 2010. インドに おいては、現在も、発明の「インド領域内での実施」が重要であり、インド特許法 146 条にもとづき、定期 的陳述書の提出義務 がある。不実施の場合、特許権者は、その理由を陳述する。不実施は、強制実施裁定の 重要な根拠であるが、その意味は定義されておらず、輸入は実施ではないとの見解が表明されている。 日本 特許法 83 条も不実施の場合の 「裁定実施権の運営要領」(経済産業省 工業所有権審議会、昭和 50 年 12 月 1 日決定、平成 9 年 4 月 24 日改正)は、「特許法第 83 条第 1 項において「実施が適当にされていない」と は、需要に対し極めて小規模で名目的な実施に過ぎないと認められる場合、単に輸入をしているだけで国内で は生産をしていない場合等が原則としてこれに該当すると解される。同法第 90 条第 1 項における「適当にそ の特許発明の実施をしないとき」についても、同様に解される」としている(2(1)①)が、その3において、 「裁定にあたっては、知的所有権の貿易関連の側面に関する協定その他の国際約束にしたがつて行う」とされ ている。 37 欧州委員会の台湾フィリップス CD-R 特許の強制実施権に関する TBR 報告書は、30 条は「与えられる権利 の例外」と題され、28 条の例外であることを明記しており、「特許権者の許諾を得ていない他の使用」と題す る 31 条の、「他の」は、30 条に規定される以外の例外であることを意味するとし、31 条は、28 条の例外規定 であるとしている。拙稿「強制実施権に関する台湾特許法規定の TRIPS 整合性について:フィリップス CD-R 特許保護に関する欧州共同体(EC)TBR 報告が示唆するもの」『知財ぷりずむ』 2008 年5月号 7頁。 38 Article 5 of Argentine Law No. 24.766(データ保護). 39 Argentina – Patent Protection for Pharmaceuticals and Test Data Protection for Agricultural Chemicals (WT/DS171); Argentina – Certain Measures on the Protection of Patents and Test Data (WT/DS196). 40 米国によるパネル設置要求, WT/DS199/3, 9 January 2001. 41 Richard A Castellano, Note, Patent Law for New Medical Uses of Known Compounds and Pfizer's Viagra Patent 46 I DEA 283, 289 (2006);Robert C.Bird & Daniel R Cahoy(2008)上記注21 ;Margalit Edelman, The Argentine Trade Tango: Out of Step on Intellectual Property Protection, AdTI Issue Brief(1999), 172, pp. 1-7, http://www.adti.net/new_zuberi_uploaded/IP/Argentine_Trade_Tango.html - 35 - やや低く固定される仕組になっていた(shadow pricing 方式)。1999 年 6 月から 2002 年 4 月にわたり、米国はアルゼンチンと 9 回協議し、和解に至った 42。 2000 年末、米国は、強制実施権に関するブラジル工業所有権法 68 条が、TRIPS 協定 27 条及び 28 条に不整合であるとして、ブラジルを WTO の紛争処理手続に提訴した(上記 DS199)43。ブラジル工業所有権法 68 条は、特許付与後 3 年が経過しても、 「特許製品を製 造せず若しくは不十分に製造すること,又は特許方法を完全には使用しないことにより, 特許対象がブラジル国内において実施されない場合(実施が経済的に実行不可能な場合を 対象外とし,その場合は,輸入を認める) (1 項(I) )または「商業化が,ブラジル市場の 需要を満たす程度には行われていない場合」 (1 項(II) ) 、強制ライセンス付与の事由とな るとしている。68 条 4 項によれば、特許を実施するための輸入及び前項に規定した輸入の 場合は,第三者に対しても,方法特許又は製品特許により製造された製品を輸入すること が認められる 。米国は、これらの規定は、ブラジルにおいて自社の特許製品を輸入する米 国特許権者を差別し、その排他権を制限し、TRIPS 協定に反すると主張した。これに対し ブラジルは、米国特許法第 18 章における内外差別が TRIPS 協定 27 条及び 28 条に違反す るとして応じた(DS244)44。協議の結果、DS199 に関しては、強制実施権を設定する場合 米国と事前協議をすることで和解した。 他方、メディアも動員され、米国がこの紛争を提起したことは、ブラジルのエイズ・ プログラムを阻害するとして米国政府に対する非難も募った 45。2002 年ドーハ宣言の採択 後は、強制実施の設定は、医薬品アクセスを実現するための重要な解決策であり、国家の 裁量によるとの見解が、WHOや世界銀行等、多くの国際機関において、また国際世論と して広く浸透した。以来、医薬品関連の知財保護に関して WTO 紛争処理に提訴すること は、政治的に困難になり、強制実施権の設定条件が、TRIPS 協定 28 条(特許が付与する排 他権)や 27 条 1 項との関係において議論されることは少なくなった。 2. 国内法上の「公共の利益」と強制実施権 TRIPS 協定8条は「原則」と題し、その1項は、 「加盟国は,国内法令の制定又は改正 に当たり,公衆の健康及び栄養を保護し並びに社会経済的及び技術的発展に極めて重要な 分野における公共の利益を促進するために必要な措置を,これらの措置がこの協定に適合 する限りにおいて,とることができる」としている。 TRIPS 協定上、 「公共の利益」は定 義されていない。 強制実施権の設定に関する TRIPS 協定 31 条は、設定事由を限定しておらず、加盟国は、 国内法にもとづき「公共の利益」を促進するための強制実施権を同協定に適合する限りに 42 Notification of Mutually Agreed Solution WT/DS171/3, WT/DS196/4, 20 June 2002. 米国によるパネル設置要求, WT/DS199/3, 9 January 2001. United States – US Patents Code, Request for Consultations by BrazilWT/DS224/1, 7 February 2001. ブラジルは、米 国特許法第 18 章(連邦政府資金による発明の場合の特許権)が TRIPS 協定 27 条及び 28 条に違反すると主張 した。 45 Carlos Passarelli, & Terto Veriano Jr., ‘Good Medicine: Brazil’s Multifront War on AIDS,’ NACLA Report on the Americas, 35(5), pp. 35-52. 43 44 - 36 - おいて設定することができる。日本の「裁定制度の運用要領」46 は、特許法第 93 条第 1 項 における「公共の利益のため特に必要であるとき」の主要な事例として、産業全般の健全 な発展を含め、以下のように言及している。 (i)国民の生命、財産の保全、公共施設の建設等国民生活に直接関係する分野で特に必要 である場合。 (ii)当該特許発明の通常実施権の許諾をしないことにより当該産業全般の健全な発展を 阻害し、その結果国民生活に実質的弊害が認められる場合。 多くの WTO 加盟国の特許法は、公共の利益にもとづく強制実施権の設定を可能とする、 一般的な国内法規定を設けており、とくに公衆の健康及び生命がその項目として挙げられ ている場合もある。タイやエジプトのように環境保護を公共の利益の一環として明記して いる特許法もあり、また高価格や市場の需要が充たされない場合も公共の利益に関わる問 題として強制実施権の設定事由としている場合も少なくない。以下の表は、いくつかの新 興国において特許法に明記されている強制実施権に関する規定の概要である。 国家緊 急事態 国内不実 施の場合 価格・市 場の需 要 中国 ○ ○(1) (2) タイ ○ ○(3) ○(4) インド ○ ○(3) (6) ○(3) 台湾 ○ ○ ブラジル ○ ○(3) エジプト ○(9) ○(1) (6) ○ ○ ○(2) ○ 韓国 パラ六 制度 ○ ○ ○ ○ 利用抵 触関係 発明の 場合 公益上 必要な 場合 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○(5) ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○(7) (8) ○ ○ ○ ○ 独占行為 政府使用 (不公正取 引)の是 正 (1) 特許出願の日から 4 年の期間又は特許付与日から 3 年の期間のうちいずれか遅い方の後。 (2) 第三次特許法改正により、発明創作が半導体技術である場合、その強制的な実施は次の場 合に限ることが記された(53 条) 。 (i)公共の非商業性の使用の場合。 (ii)特許権を実施する特許権者の行為が司法手続または行政手続により競争を排除、 制限する行為と認定され、申請者に強制許諾を与える必要がある場合。 (3) 特許付与日から 3 年後以降。 (4) 1999 年タイ特許法 46 条(2) 「正当な理由なく,特許に基づいて製造された製品が国内市場 で販売されていないとき,又はかかる製品が不当に高い価格で販売されているかもしくは 公衆の需要を満たしていないとき。 」 (5) 同上 51 条 「公共消費のためのサービス,国防にとって極めて重要なサービス,又は天然 46 上記注 36. - 37 - 資源若しくは環境の保護若しくは実現のためのサービスを遂行するため,食料,医薬品又 はその他の消耗品の著しい不足を防止又は緩和するため,又は,その他の公共サービスの ため,政府の省庁,部局又は部門は,第 46 条,第 47 条及び第 47 条の 2 の規定に拘らず, 特許権者又は第 48 条第 2 段落に基づくその排他的実施権者にロイヤルティを支払って,自 ら又は他を通じて第 36 条に基づく特許権を行使できるものとし,またその旨を特許権者に 書面で遅滞なく通知するものとする。 」 (6) 強制ライセンス許諾の命令の日から 2 年の期間満了後は特許取消の対象。 (7) 半導体技術に係る特許については公共の利益の促進目的の非営利的使用に限る。 (8) エジプト知財法 23 条(1)(a)公共のための非商業的利用(安全保障、健康、環境保護を含む) (b) 非常な緊急事態 (c) 国民の社会経済技術的発展(第三者の正当な利益を考慮);23 条(2) 医薬品の品質に問題がある場合、高価格の場合、あるいは公衆衛生上の緊急事態において 厚生大臣は強制実施権を設定することができる。23 条(3)取引拒絶の場合も。23 条(5)技術 移転を妨げるような権利行使の場合。 (9) 国民の社会経済技術の発展。 中国の場合、 『新専利法詳解』 『中華人民共和国専利法釈義』等によれば、特許法におい て国家の緊急状態とは、外敵の侵入、動乱等、国家の安全が危機に瀕している場合、非常 事態とは、自然災害、疫病の流行等、国家の安全や人民の生命・財産が重大な影響を受け ている状況を指す 47。また、公共の利益とは、人民の生命・健康の向上や環境汚染の改善 に重要な意義を有する状況を意味するものと解されている 48。 インド特許法においては、 「国の利益」49 、 「公衆の利益」あるいは「インド産業の利益」 が、普遍的な「公共の利益」とほぼ同義であり、ときにはそれに優先するように見受けら れる 50。同法 84 条は、特許付与後 3 年が経過すれば、特許付与日から 3 年の期間の満了 後は,如何なる利害関係人も,次の理由により,強制ライセンスの許諾を長官に申請する ことができる。 (a) 特許発明に関する公衆の適切な需要(the reasonable requirements of the public)が充足 されていないこと,または (b) 特許発明が適正に手頃な価格で(at a reasonably affordable price)公衆に利用可能 でないこと(not available to the public),または (c) 特許発明がインド領域内で実施されていない(not worked in the territory of India)こと。 特許法には「手頃な価格」も「実施」の意味も定義されていないが、84 条 (7)によれば、 16章の適用上,「公衆の適切な需要」は,次の場合に充足されなかったとみなされる。 (a) 適切な条件でライセンス許諾することを特許権者が拒絶したことにより, 47 中島敏『逐条解説中国特許全法令-日中対訳』(2006 年、経済産業調査会),588 頁。 同上。 49 後述の Roche v Cipla ケースにおいて、新薬会社の特許延命戦略を、シプラ社は、国の利益に反するとした。 ‘Evergreening is contrary to public policy against the statutory language employed in Section 3(d) of the Act and in the context of the pharmaceutical industry against national interests.’ June 2008, High Court of Delhi, Para. 11. 50 同法において、強制実施権については特許法第 16 章 82 条-94 条50において、政府使用については第 8 章 47 条及び第 17 章 99-103 条が規定している。 Chemtra Corp. v Union of Inida and Others, CS(OS) No.930 of 2009, Delhi High Court, 3 August 2009. 48 - 38 - -インドにおいて製造された特許物品の輸出市場が, 現に供給を受けておらず又は 開発されていない場合,又は - インドにおける商業活動の確立又は発展が阻害される場合,又は (b) 当該特許に基づくライセンス許諾に対し又は特許物品もしくは特許方法の購入, 賃借,もしくは使用に対して特許権者が課した条件を理由として,インドにおいて 特許によって保護されてない物の製造,使用,もしくは販売,又は何らかの商業も しくは工業の確立もしくは発展が阻害される場合・・・・ (c) 特許権者が排他的グラントバック,特許の有効性に対する異議申立の抑止又は強 制的包括ライセンス許諾を規定するため特許に基づくライセンス許諾に対して条 件を課した場合,又は (d) 特許発明がインド領域において商業規模で十分な程度まで現に実施されていない か,又は適切に実行可能な極限まで現に実施されてない場合,又は (e) インド領域における商業規模での特許発明の実施が,次に掲げる者による外国か らの特許物品の輸入によって現に抑止又は阻害されている場合。すなわち, (i) 特許権者又はその者に基づいて権利主張する者,又は (ii) 特許権者から直接的若しくは間接的に購入している者,又は (iii) その他の者で,特許権者から侵害訴訟を現に提起されておらず又は提起さ れたことがない者。 以上の規定からインド特許法上、 「実施」とは「国内生産」を意味しており、外国企業 にインドにおける生産を促していると考えられる。また強制実施権が設定される事由とな り得る「公共の利益」とは、インドにおいて、多くの場合経済的な理由を指している。他 方、インド憲法にもとづく公益訴訟において、公共の利益の概念は広く捉えられており、 環境保護は生命の権利の一環としても解されてきている 51。 インドにおいて、これまで特許法にもとづき行政により強制的にライセンスされた特許 は、1970 年以来 4 件にとどまっており、TRIPS 協定発効後は例がない。特許法以外の他の さまざまな規制を含め、外国企業に対して、慎重な態度が促されているからであろう。物 質特許の保護が 2005 年に導入され、 医薬品などについて徐々に特許が成立していくなかで、 特許性範囲の制限や、特許付与前の異議申立て制度等、他のセーフガードが機能している からでもある 52。 83 条には特許発明の実施に適用される一般原則が規定されており、それによれば、特 許は(a)発明を奨励し、当該発明がインドにおいて商業規模で,不当な遅延なしに実施され ることを保証するために付与され、(b) 特許製品の輸入を独占するためにのみ付与される わけではなく、(c) 技術革新の推進,技術の移転及び普及, 社会的及び経済的福祉に資す る等、権利義務の均衡に貢献する、(d) 公衆の衛生及び栄養物摂取の保護を阻害せぬ範囲 で,特にインドの社会・経済的及び技術的発展に極めて重要な分野における公共の利益を 51 伊藤 美穂子「インドにおける公益訴訟 : 開発と発展における裁判所の新たな役割」横浜国立大学大学院国 際社会科学研究科博士論文, 2008 年 http://hdl.handle.net/10131/4246 52 拙稿「インドの産業力と特許法」 http://www.iprsupport-jpo.jp/soudan/joho/joho.html - 39 - 増進する手段であり、(e)中央政府が公衆衛生を保護する措置を講ずることを一切禁止せず、 (f) 特許権の濫用を許容せず, 不当に取引を制限し又は技術の国際的移転に不利な影響を及 ぼさず、(g)発明の恩典を適正に手頃な価格で公衆に利用可能にするため付与される。上記 (a)(b)は 1970 年インド特許法に規定されていたが、(c)以下は 2002 年の特許法改正によ って追加された。 3.ドーハ宣言以降の強制実施権設定事例 ドーハ宣言後の行政決定による医薬品特許の強制実施権の設定例のうち、タミフルやエ イズ薬に関してはメディアの注目するところとなった。実態については不明な側面が多い が、以下のような例がある。 台湾においては 2005 年 11 月 25 日、タミフルの備蓄のための強制実施権が 2007 年 12 月 31 日までの期間設定された 53 が、製造にはいたらず、その後、ロッシュ社との協力関 係が打ち立てられたようである。 マレーシア通産・消費者保護省は 2003 年 10 月 29 日、三種のエイズ薬 DDI, AZT, DDI+AZT を国立病院で使用するよう強制実施を命じ、インドのシプラ社からの輸入に委 ねた。しかしその後、権利者との合意が成立し、インドからの輸入には至らなかったとい われる。同国においては他のエイズ薬、3TC, NVP にも(2004 年 10 月 5 日) 、またエフ ァビレンツに対しても(2007 年 3 月)強制実施権が設定され、いずれも料率 0.5%といわ れるが、詳細は不明である。 ドーハ宣言以来、アフリカ諸国数ヵ国が、エイズ薬、とくに三種合剤の強制実施権を設 定してきた 54(ジンバブエ司法省は、2002 年 5 月 55、モザンビーク政府は 2004 年 5 月、 ザンビア通産省は 2004 年 9 月 56) 。ジンバブエにおいては、2003 年 4 月にライセンスが設 定され 、2008 年 12 月 31 日までの期間、バリチェム社にすべての ARV 薬を製造するこ とが許された。 モザンビークも、ザンビア通産省も、エイズ感染の緊急事態に対処するた めの平均的な合剤(3TC+d4T+NVP) 製造をエジプトのジェネリック企業、ファルコ 社の現地子会社(販売子会社と考えられる)に対し許可した 57。 ザンビア通産省によれば、 特許権者 3 社が合剤を製造することを拒否したため、当該国ではこの合剤が販売されてお らず、強制実施権を設定するに至った(特許権者に対するライセンス料は 2.5%といわれる)。 このようにして製造された合剤の国外への再輸出は禁止されている。しかしファルコ社は 当該医薬品を製造するに至ってはおらず、これらの国は、依然としてインドからの輸入に 頼っているといわれる。 53 このとき、台湾政府は、ドーハ公衆衛生宣言が、 「国の緊急事態の認定については、各加盟国が自国の客観的 情勢に基づいて決定を行うものである」ことを強調した。 54 これら各国の事例は CPTech のサイトに記載されている http://www.cptech.org/ip/health/cl/ 55 Notice 240 of 2002 based on Section 35 Patents Act. http://www.cptech.org/ip/health/c/zimbabwe/zim05242002.html 56 http://www.cptech.org/ip/health/cl/recent-examples.html (last visited 1 November 2009). 57 Compulsory License, No. CL01/2004 http://lists.essential.org/pipermail/ip-health/2004-September/006959.html - 40 - タイにおいては、エイズ薬のみならず、心臓薬、抗がん剤等を含む以下7種の医薬品特 許について政府使用のための強制実施権が設定された。いずれも特許使用料は 0.5%といわ れる。 2006 年 11 月 2 日 エイズ薬 エファビレンツ特許(メルク社) 2007 年 1 月 25 日 エイズ薬 カレトラ (アボット社) 抗血小板剤 プラビックス 58(サノフィ・アベンティス社) 2008 年 3 月 10 日 抗がん剤 タキソテール(サノフィ・アベンティス社) 、タルセバ(ロ ッシュ社) 、フェマーラ(ノバルティス社)、グリべック(ノバルテ ィス社)59。 強制実施権設定後 1 年半ほどして 60 、最初の三つの製品(エファビレンツ(Emcure Pharmaceuticals)、カレトラ(Matrix Laboratory)、プラビックス(Cadila Healthcare))が インドから輸入され、現在に至っている 61(括弧内はインドの供給者)。その他抗がん剤 4品目について、インドからの輸入はない。タキソテール及びタルセバに関しては専門医 等が安全性等について検討中といわれる。 これら強制実施権の設定当時、タイ政府は、世界の最低ジェネリック価格に比して5% 高未満の価格であればオリジナル製品を使用し、それ以外は権利者と価格交渉し、適宜、 実施権を設定するとの方針 62 を打ち出した 63。 価格規制のための一般的な強制実施権の 設定については欧州委員会の通商政策委員からの批判があり 64、タイ国内でも TRIPS 協定 との整合性が議論されたが、政府政策には患者団体や市民グループ等、世論の強い支持が あった。 新政府は前政府の政策を維持することを表明したが、 その後の事情は不明である。 ブラジルにおいては、すべてのエイズ薬について特許権者と政府の間に価格交渉が続い ていたが、 2007 年 5 月 4 日、 タイにおけるエファビレンツの強制実施価格に照らし合わせ、 裁定に踏み切ったといわれる。特許使用料は 1.5%で、製品はインドからの輸入と報道され たが詳細は不明である。 前述パラ六制度下の強制実施権設定例は1件ある。2007年7月19日、ルワンダは、この制 58 アスピリンも血栓の予防作用により抗血小板剤として使用できる。ただし血栓の予防には少量のアスピリン ですむので、胃潰瘍患者以外副作用の心配はそれほどないが胃腸障害が発生する場合がある。腸溶錠、坐剤で あればその副作用低減される。抗血小板薬としてはこのほか、アスピリン、アスピリンダイアルミネート、塩 酸チクピロンがあり、また上位の疾患カテゴリーである狭心症の治療薬としては、カルシウム拮抗薬 (15)、 αβ(アルファベータ受容体)遮断薬(4)、β(ベータ)受容体遮断薬 (23)、その他、冠血管拡張薬(6)、 抗凝血薬(2)等もある。( ) 内の数字は、JAPIC 医療用医薬品集 2010 (日本医薬情報センター)に挙げら れている医薬品から推測された概数である。プラビックスの NNT は比較的高い (number needed to treat: 1/(pB-pA)(pA は A の治療時のエンドポイント発生確率(pB);pB は B の治療時のエンドポイント発生確率 が比較される))。 59 グリベックは、強制実施権の設定以前から、ノバルティス社自身により公的病院に無償供給されてきた。 60 Aids drugs now available, The Bangkok Post, Thailand, 5 August 2008. 61 タイ保健省 2009 年 6 月 12 日。 62 タイ政府は、料率は小売価格が高い場合 0.5%、それが低い場合は 2%とし、特許権者と交渉するとした。‘Facts and Evidences on the 10 Burning Issues Related to the Government Use of Patents on Three Patented Essential Drugs in Thailand, Document to Support Strengthening of Social Wisdom on the Issue of Drug Patent’, The Ministry of Public Health, and The National Health Security Office, Thailand, February 2007, p. 11. 63 2008 年 3 月 11 日。 64 Mandelson 欧州委員会通商委員(当時)からタイ商業大臣への書簡。‘Health : EU Opposes Cheap Medicines for AIDS in Thailand IPS,’ Brussels, 29 August 2007. - 41 - 度を用い、カナダのジェネリック社、アポテックス社から26万パッケージの3TC+AZT+ NVPの三種合剤を調達する旨WTOに通報した。カナダ政府の裁定のもと、アポテックス 社へのGSK及びベーリンガー社によるロイヤリティー・フリー許諾が成立し、WTOに通報 された 65。 アフリカのLDCにおいては、英語圏アフリカ地域工業所有権機構(ARIPO)66 や仏語圏 アフリカ地域工業所有権機構(OAPI) 67 のような広域特許制度により、エイズ薬特許が存 在することがあるが、権利行使されていない。また、2000年以降、新薬企業はこれらの国 でエイズ薬の販売価格を下げており、ジェネリック薬より安価な場合もある 68。途上国に おいて医薬品特許に関して紛争が発生しやすいのは、製造能力と輸出市場のある医薬品産 業の存在する場合である 69。この場合、新薬会社にとって、権利行使の制度が機能するか 否かだけでなく、規制当局への販売許可申請の際提出される臨床データ保護(TRIPS協定39 条3項)等による、新薬の排他権保護も重要になる。前述のアルゼンチンのWTOケースにお いては、この保護にもかかわらず、ジェネリック製品の販売許可が与えられたことが問題 にされた。エジプトにおいても2002年8月、薬事法にもとづきバイアグラの強制実施権が保 健省により設定され、12の国内生産者が製造を開始した。政府の声明においては、低所得 層の人々のためということであったが、政府と国内特定産業の結びつきが問題にされた 70。 現在、医薬品分野において、強制実施権の焦点は癌、心臓病等の治療薬に及びつつある。 インドでは、NATCO 社により 2007 年 9 月 11 日肺がん薬タルセバ(erlotinib、後述)特許 65 Notification under Paragraph 2(C) of the Decision of 30 August 2003 on the Implementation of Paragraph 6 of the Doha Declaration on the TRIPS Agreement and Public Health: Canada, IP/N/10/CAN/1, 8 October 2007. 66 ボツワナ,ガンビア,ガーナ,ケニア,レソト,マラウイ,モザンビーク,シエラレオネ,ソマリア,スー ダン,スワジランド,タンザニア,ウガンダ,ザンビア,ジンバブエ。 67 ベナン,ブルキナファソ,カメルーン,コートジボアール,コンゴ民主共和国(旧ザイール),中央アフリカ, ガボン,マリ,ギニア,ギニア・ビサウ,モーリタニア,ニジェール,セネガル,チャド,トーゴ。 68 グローバル基金のエイズ薬取引価格の分析によれば、価格は患者数、所得水準、世銀開発指標などの市場状 況に対応して変化する。所得の高い途上国でオリジナル製品は比較的高く、所得の低い途上国ではジェネリッ クより価格が低い;自国に供給する場合には価格が高い(タイ、ロシア等の場合)Kubo-Yamane(2006) http://www.ide.go.jp/English/Publish/Download/Jrp/pdf/jrp_142_05.pdf さらに、入札制度でのオリジナル製品とジェネリックの行動を比較すると、患者数、所得水準、世銀開発指標 などの市場状況に対し、オリジネーターは価格を変えるのに対し、ジェネリックは画一価格政策をとっている。 ロシア、中国、タイ以外では競争入札が行われ、約11のオリジネーター及びジェネリックが常に競争してい る。オリジナル企業は、患者が多く、所得水準が低く、開発指標の低い国で低価格を設定する。 K Kubo and H Yamane ‘Determinants of HIV/AIDS Drug Prices for Developing Countries: Analysis of Global Fund Procurement Data’ in Hiroko Uchimura (ed.) Making Health Services More Accessible in Developing Countries: Finance and Health Resources for Functioning Health System', Palgrave MacMillan (2009), pp.137-172. 69 現在、韓国においては、エイズ薬 Fuzeon(ロッシュ社)に関し、 2008 年 12 月 23 日、市民団体等が国内 不実施を根拠に裁定の請求を申し立てている。過去、韓国特許法 107 条にもとづく以下のような裁定請求があ った。「韓国における強制実施権制度の概要」特許庁資料-3. http://www.jpo.go.jp/shiryou/toushin/shingikai/pdf/strategy_wg09/file4_3.pdf 1) 製鉄化学事件 1978 年 11 月 24 日通常実施権設定の裁定を請求し、1980 年 12 月 6 日通常実施権許諾 が決定され実施料は 3%とされた。 2)Mifepristone がルーセル・ウクラフ堕胎薬アレックサス事件の裁定請求は却下された。 3) Gleevec 特許に関する裁定請求は 2003 年 3 月 5 日、以下の理由で却下された。「グリベックを低価で 輸入することで患者側の経済的負担を大きく緩和することができるが、一方で、切迫な経済的・社会的危 機が少ないにもかかわらず発明品が高価であることを理由に強制実施を許容することは、発明者に独占的 利益を認め一般公衆の発明へのインセンティブを高め、技術開発と産業発展を促進するために設けられた 特許制度の基本趣旨を大きく毀損することになる。強制実施権の認否にあたっては、このような二つの相 反する利益を衡量して慎重に決めなければならない」。 70 A Allam, ‘Investment, Egypt Tries Patent Laws’, New York Times, 4 October 2002. http://www.nytimes.com/2002/10/04/business/worldbusiness/04EGYP.html Castellano, 2006, Bird & Cahoy, 2008, 上 記注 21。 - 42 - に関する裁定がインド特許法 92 A 条にもとづき請求された。 インド特許法 92 A 条は、 WTO のパラ六制度に対応すべく、医薬品製造能力のない国に向け輸出を可能にするため 2005 年改正により加えられた。 この際、 ネパール 71 は WT/L540 上の通報を WTO にしておらず、 パラ六制度(決定 L540 の 1(b),2(a))上の義務不履行とされ、却下された。同様の請求は、 スーテント(sunitinib malate)についてもなされた。タルセバは、手術・化学療法後の非小 細胞肺がん薬で、患者数は多くないが、スーテントは分子標的治療剤(チロシンキナーゼ) でグリベック使用後進行した、もしくはグリベックに忍容性のない消化管がん及び腎臓が んの患者という、さらに狭い範囲の疾患を対象にしている。ラベル等、パラ六制度の違反 としてファイザー社は異議を特許庁に申し立て、 この申請も却下された。 ファイザー社は、 ネパールに当該医薬品を寄贈したといわれる。インド政府はこの際、インド特許庁は原則 的に、強制実施権を国家緊急事態に限るべきと考えていることを表明した 72。 以上の例からも明らかなように、行政裁定による強制実施には、裁定後の難題(訴訟、 持続的な輸入や製造の可能性、経済性、品質、安全性や流通等)が存在し、患者が救われ る解決策には必ずしもなっていない。医薬品アクセス目的の裁定には、権利者との協力や 国際協力による調達等、他の方法との比較の上でそれが合理的な解決方法か否か判断され る必要がある。現在、途上国エイズ薬市場の 3 分の2以上が、グローバル基金等、国際協 力にもとづく調達制度により供給されている。 4.競争法適用による強制的ライセンスの例 南アフリカ共和国においては、競争法を根拠にエイズ薬特許の強制ライセンスが命令さ れた。申立は 2002 年末、南アフリカ共和国及び米国の市民グループにより、GSK 及びベ ーリンガー社に関して提起された。両社によるエイズ薬 73 特許のライセンス拒絶及びエイ ズ薬の高価格は支配的な地位の濫用である。申立のなかには、同社がエイズ薬市場におい て、競争者(ジェネリック)を排除し、競争者に対しエッセンシャル・ファシリティーへの アクセスを拒否し、過度の高価格を消費者に課したことを競争法違反とするものもあった 74 。この場合、 「高価格」の判断は、WHOの品質審査に合格したジェネリック薬及び最低 国際提供価格との比較に依拠していた。 2003 年 10 月 16 日、同国の競争委員会は、支配的な地位を濫用し南ア共和国競争法 75に 71 ネパールに 150mg 3000 錠を輸出するための裁定請求がなされた。Andhra Pardesh 州当局には 150mg 9000 錠の輸出販売許可申請がなされており、ネパールにおいては当局から輸入販売許可があった。ネパールに当該 特許はなかった。 72 The Economic Times, ‘Govt may use compulsory licensing for drug companies only in emergency’, 3 April 2008, http://economictimes.indiatimes.com/news/news-by-industry/healthcare/biotech/healthcare/Govt-may-use-compulsory-li censing-for-drug-companies-only-in-emergency/articleshow/2921237.cms 73 GSK 社の AZT、3TC、アバカビル、アンプレナビル、コンビビル、トリジビル、ベーリンガー社のネビラ ピン。 74 当局は、各々の製品がエイズ薬市場で 100%の占拠率を占めると通告した。当該エイズ薬は、すべて逆転写 酵素阻害剤なので、基本的にはHIVの増殖過程で同じ部位を阻害する。当局は、カクテルの組合せや、効能 の特殊な側面を考慮し、市場を狭く画定したようである。原告は、副作用や、複合服用の困難などの原因から、 これらの医薬品は代替不可能としていた。CPテックはエッセンシャル・ファシリティー論に基づいて主張を 展開させ、その他いくつかの NGO は、「過度の高価格」について苦情を申し立てた。 75 1998 年の南アフリカ競争法は、EUのそれに類似しているが、エッセンシャル・ファシリティーについて明 記されている点(八条(b))、過度の高価格(excessive pricing)が支配的な地位の濫用の一形態であることを規定し - 43 - 違反したとの理由で、GSK 及びベーリンガー社を競争裁判所において訴追する旨通達した 76 。このケースを形成する 11 件のうち 1 件をのぞき、事件は和解に終わった 77。和解条件 は、両社が、ジェネリック 2 社に対し、料率 5%以下の無差別ライセンスを与え、サブ・ サハラの国に向けた同医薬品の輸出を阻止しないことであった。その後、南アフリカにお いて医薬品特許に関する 2 件の競争法適用例がある。 5.司法による「公共の利益」の考慮 特許侵害訴訟において、公衆衛生上、あるいは国民の安全や環境上の利益を損なうと判 断された場合や、特許権者による差止め請求を棄却あるいは退けるとの、強制実施に準ず る司法判例もあった。中国においては、下水道処理技術に関する特許につき、侵害と認定 されたにもかかわらず、それを差し止めれば国民の健康と生命にかかわるとの理由で、差 止め請求が棄却された例もある。2008 年 5 月 12 日,福建省高級人民法院は、排ガス脱硫 方法特許侵害事件において,権利侵害であっても差止を認めないことを判決 78 し, 「特許 の保護と社会公共の利益の均衡を図ること」に言及した。この判決の直後,2008 年6月5 日,中国政府は「国家知的財産権戦略綱要」を公布したが,その第 20 項には, 「特許の保 護と公共利益との関係を的確に扱う」ことが述べられている。 ている点で、EUの競争法規とは異なっている。生産設備や流通ネットワークなどの施設を利用できなければ 事業活動が成立せず、かつ、その施設を市場内に重複させることが経済的または技術的に不可能な場合、その ような施設(あるいは情報)は「不可欠施設」(エッセンシャル・ファシリティー)と呼ばれることがある。当該市 場において支配的な企業が、不可欠施設へのアクセスを、正当な理由なく拒否した場合は、公正かつ合理的な アクセスが与えられるよう規制すべきという考え方がその根底にある。欧米日の競争当局がこの概念を直接的 に用いて違法性を判断したことはない。競争法上、このような規制については、欧米でも、日本でも、議論さ れてきた。欧州委員会競争総局のエッセンシャル・ファシリティーに関する内部ガイドライン案(2003. 3. 18) は、その対象を主としてフェリーや送電施設などに限り、知的財産権については、知的財産権と競争法適用の 文脈で考えるとしている。EC裁判所は、取引拒絶は、通常、競争法違反ではないが、それが支配的な地位の 濫用に該当するのは以下の要件が満たされる極めて例外的な場合であるとしている(Magill(1995), Oscar Bronner(1998), IMS Health(2004))。(1)サービス提供の拒絶が、当該市場での競争を完全に排除するものであっ て、(2)当該取引拒絶が客観的に正当化できず、(3)当該サービスに代わる代替物が現実にも潜在的にも存在 しないため、当該市場のすべての事業者が不可欠とするようなものであること。ただしアクセス要求者にとっ て主観的に「不可欠」なのではなく、客観的な根拠を必要とする。米国においては、Aspen ケース等の判決に おいて不可欠施設に類似する状況が競争法上の問題として議論された。Aspen ケースにおいては、アスペンの 4つのスキー場のうち3つを所有する被告が、16 年続けていた共通入場券を一方的に廃止し、入場券の販売を 拒否、銀行保証付クーポンも拒否した。米国連邦最高裁は、残りの一スキー場による訴えに対し、-顧客への 影響、-競争者への影響、-ビジネス上の正当化理由を検討した上で、被告が突然アクセスを拒否し、従来の 取引を急減させたことは、排除行為に該当するとした(Aspen Skiing Co. v Aspen Highlands Skiing Corp., 472 U. S.(1985))。それまで与えられていたアクセスを「継続する義務」が確認されたが、取引拒絶自体が違法となっ たわけではない。Trinko 事件(Verizon Communications Inc. v Law Offices of Curtis V. Trinko, Llp., U. S. S. Ct., 2004. 1.13)において、最高裁は、電気通信の規制分野でのアクセスは、さきの Aspen の場合とは異なり、法律上、競 争者の接続を扱うものであり、政府が施設へのアクセスを命ずる権限を有する場合には、反トラスト法の不可 欠施設の法理は認められないとした。同判決で最高裁は、次のことを述べている。単なる独占の存在とそれに 伴う独占価格の設定は違法ではなく、意図的な独占力の獲得あるいは維持がなければシャーマン法2条は適用 されない。反競争的行為のない、優れた製品や才覚、あるいは歴史的偶然に由来する自然成長を競争法は罰す るべきでない。 76 South African Competition Commission press release, No. 29(2003. 10. 16) ; No. 32(2003. 12. 7). 提訴者は Action Treatment Campaign, Hazel TauCPテックなどなど南アフリカ共和国及び米国の市民グループであり、FM シ ェラー等、米国の経済学者が貢献した。 77 Settlement Agreement entered between 12 complainants and GSK South Africa, Glaxo Group ltd. and the Wellcom Foundation. 2003 年 12 月 10 日に当事者が合意した。この紛争において和解を受け入れず,苦情を申し立てた ひとつの NGO は競争裁判所において GSK 社と争い,2006 年 12 月 6 日,勝訴した。GSK は上訴を試みたが却 下された。 78 日中企業法制研究会『中国知的財産権判例評釈―判決前文の翻訳付き―』日本機械輸出組合,2009 年,25-64 頁。 - 44 - 以下、インドの Roche v Cipla 79高裁判決は、特許保護下にある医薬品のジェネリック製 品に対する侵害訴訟において、司法が公共の利益を根拠に仮差止の処分を拒否した判決の 一例である。デリー高裁の単独裁判官も、大法廷も、インド特許法 3 条(d)80を参照し、 被告による当該特許無効の主張には十分根拠があるとした。双方とも、当該特許の一応の 有効性、便宜の比較考量、回復不可能な損害について検討した。加えて当該製品は延命薬 であり、被告のジェネリック薬はオリジナル製品の 3 分の1であり、仮差止が認められれ ば公共の利益が損なわれる可能性があるとした。インド特許法上、特許発明の実施に適用 される一般原則に関する 83 条(e) (中央政府が公衆衛生を保護する措置を講ずることを 一切禁止しないこと)及び 83 条(g) (発明の恩典を適正に手頃な価格で公衆に利用可能 にするため付与されること)を、本件において考慮されるべき「公共の利益」であるとし た(本稿上記 39 頁) 。デリー高裁大法廷は、インド特許法 84 条(b)が、 「特許発明が適正 に手頃な価格で公衆に利用可能でないこと」を強制実施権を設定する事由としていること は、「公共の利益」が同法に内包されていると述べた。この事件の概要は以下のとおりで ある。 スイスの製薬会社F.Hoffmann-La Roche (ロッシュ)社は、2008年3月、インドの製薬会社シ プラ社の製品Erlocipによるタルセバ (erlotinib)インド特許 81 の侵害をデリー高裁に申し立 てた。タルセバは、上皮成長因子(Epidermal Growth Factor, EGF)が結合する細胞側の受 容体(EGFR)の働きを阻害する抗がん剤で、手術及び標準化学療法後の非肺癌患者の延 命薬として使われる(前述) 。米国FDAはこの抗がん剤を2004年11月19日に承認し、日本で の承認は2007年10月19日であった。シプラ社のErlocipは、タルセバの特許付与後に生産さ れ、後者の約3分の1の価格で販売されている 82。 シプラ社はタルセバの特許有効性について応訴した。シプラ社によれば、タルセバはア ストラゼネカ社のイレッサ (gefitinib) 83化合物のメチル基をエチニル基にしたにすぎない。 このエチニル基は、公知であるメチル基の誘導体でしかなく、またこの二つの化合物は等 価体 84 である。同社は、この物質はキナゾリン(イレッサ化合物の母核)の単なる修正に すぎず、進歩性がない上に、インド特許法3条(d)によれば発明でもなく、ロッシュ社の特 許は無効であると主張した。インドにおいてイレッサは、先使用の理由で、特許を付与さ 79 2008 (37) PTC 71(Del).現在、デリー高裁で本案審理中。 インド特許法 3 条(d) は、「既知の物質について何らかの新規な形態の単なる発見であって当該物質の既知 の効能の増大にならないもの,又は既知の物質の新規特性若しくは新規用途の単なる発見,既知の方法,機械, 若しくは装置の単なる用途の単なる発見。ただし,かかる既知の方法が新規な製品を作り出すことになるか, 又は少なくとも 1 の新規な反応物を使用する場合は,この限りでない」とし、[説明]として、「本号の適用上, 既知物質の塩,エステル,エーテル,多形体,代謝物質,純形態,粒径,異性体,異性体混合物,錯体,配合 物,及び他の誘導体は,それらが効能に関する特性上実質的に異ならない限り,同一物質とみなす。」として いる。 81 インド特許 No. 196774 。インド初めての抗がん剤物質特許で、1996 年 3 月 13 日に出願され、2007 年 7 月 13 日に登録された。タルセバは Genentech により開発され、権利者は Pfizer 及び OSI。 ロッシュ社にライセ ンスされた。 82 日本では 150mg 1 錠 10,347 円で販売されている。インドの NATCO 社は、エルロナット、150mg 30 錠を 98,000 円でネット販売している。 83 アストラゼネカ社が開発したはじめての EGFR(上皮成長因子受容体)チロシンキナーゼ阻害剤で、日本で 2002 年 7 月 5 日、 手術不能又は再発非小細胞肺癌を適応症の治療薬として、 2003 年 6 月 5 日米国で承認された。 84 特定の分子について、その分子を構成するある原子団を他の原子団に置き換えても、分子の活性が同等であ るとき、それらの原子団は互いに等価体(isostere)の関係にあるといわれる。 80 - 45 - れていない。シプラ社によれば、インド特許法13条4項 85 にもとづき、インドにおいて特 許審査・調査からは,特許権の有効性は推定されない。 ロッシュ社は、以下のように主張した。タルセバは、新規の化合物である。イレッサに 関する情報にもとづいてタルセバを見出すことは当業者にとって容易でないこと、化学構 造上の微小な変化も著しい効能を有する可能性があり、タルセバは6.7ヶ月の潜在的生存率 を示していること(プラセボでは4.7ヶ月)は、その進歩性を示している。特許庁による審 査及びNATCO社による特許付与前異議申立86の結果でもそれが明らかである。 デリー高裁(単独裁判官)は、仮差止(interlocutory injunction)請求を認めるか否かの判断 基準につき、英国最高裁による American Cyanamid 判決 87 を参照した。同判決は、以下 (i)-(iii)を考慮要素としている。(i) 重大な問題が審理に付されているか否か(当事者はどれ だけ証拠資料を提出しているか)、(ii) 便宜の比較考量(balance of convenience)による判断、 (iii) 損害賠償による救済は可能か、回復不可能な損害が生じるか否か。 従来、英国判例法においては、「侵害について一応の証明がなされているか否か」が 仮差止の第一の考慮要素とされていたが、American Cyanamidケースにおいて、それは上 記(i)に緩和され、仮差止の判断においては、審理を尽くすことなく現状を維持(to preserve the status quo)し、本案審理を迅速にすべきとの原則が確認されたが、このケースにおい ては、仮差止を認めない控訴裁判決が覆された。 Tarceva に関する Roche v Cipla 仮差止裁判において、デリー高裁の単独裁判官は、以下 三点をまず指摘した。2005 年インド特許法は、進歩性に加え、3 条(d)にもとづく「正 確で特定的」な特許性基準を設けている(それは Gleevec に関する Novartis AG v Union of India 88 の審査にも明らかである)89。インド特許法 13 条 4 項は、インドにおいて付与され た特許の有効性は推定されないことを示しており、侵害訴訟において被告が当該特許の無 効を主張している際はなおさらである 90。進歩性の判断につき、当裁判所は、米国の KSR 判決が示す基準 91を適用すべきである。デリー高裁は、これらの基準にもとづき、タルセ 85 インド特許法 13 条(4)項は、先の公開又は先のクレームによる先発明についてのインド特許庁による調査 については、特許権の有効性を保証するものとは一切みなさないものとするとしている。 86 タルセバの特許出願過程においては、NATCO 社が異議を申立てたが、拒否されたという経緯がある。 87 American Cyanamid Co v Ethicon Ltd, 1975 (1) All. ER 504, 5 February 1975. 88 2007(4) MLLJ 1153. 現在、最高裁判所において審理中。 89 Para 57. 90 Bilcare v Amartara Pvt. Ltd., 2007 (34) PTC 419 (Del). 91 KSR International Co. v Teleflex Inc., U. S. No. 04-1350. CAFC は、従来通り、非自明性の判断のためには、先行技術中の教示事項をクレーム方法で組み合わせること の「教示(teaching)、示唆(suggestion)、または動機付け(motivation)」の存在を具体的に認定することにより(TSM テスト)、組合せが自明であるか否かを判断した。KSR 社の上告に対し、連邦最高裁は、CAFC の判断方法を 正し、先行技術中に、複数の先行技術を組み合わせるための教示、示唆及び動機付けが存在しない場合(つま り obvious to try ではない場合)でも、「通常の創作力(ordinary creativity)のある当業者」の一般常識等を考慮し、 「当業者の課題を解決する上で、設計のニーズや市場の需要なども検討」し、組合せが予測できたものか(自明 か否か)の判断をすべきであるとした。最高裁は、TSM テスト自体は受け入れたが、その硬直的な適用の結果、 予測可能な先行技術の組合せが特許保護されてしまうことを批判したことになる。最高裁によれば、CAFC の 誤りは、当業者にとってではなく、特許権者にとって組合せが自明であるか否かを判断したこと、課題を解決 しようとする当業者を、通常の創作力を有し、設計のニーズや市場の圧力を把握する当業者ではなく、先行技 術のみによって導かれる機械的な存在と想定したことにある。 - 46 - バのエチニル基は、EP 0635507 (1995)により公知であり 92、 その進歩性について原告は十 分な証明をしておらず、 被告による特許無効の主張に根拠がないわけではないと判断した。 「便宜の比較考量」にあたりデリー高裁は、以下のように述べた。インドにおいて、特許 が仮差止を認めるに値するようになるのは通常、付与後 6 年以降とされているが Roche 社 は、インド特許取得後 3 年が経過してもインド市場にタルセバ製品を輸出しているのみで あり、製品も高価である 93。 米国最高裁の eBay v MercExchange 判決 94 によれば、差止 を認めるにあたり、一応の侵害の存在、便宜の比較考量、回復できない損害及び公共の利 益について考慮が必要である。インドには 16 万 9000 人の肺がん患者が存在する。タルセ バは命を救う薬であり、 Cipla 社の Erlocip はタルセバの 3 分の1の価格で販売されている。 差止を認めれば、この医薬品へのアクセスを奪われた患者に与える損害は回復できず、公 共の利益及びインド生命の基本権に関する憲法 21 条 95 に反することになり、認めるべき ではない 96。 以上の理由で、差止請求は 2008 年 3 月 19 日単独裁判官により却下された。 2009 年 4 月 24 日、この判決の控訴審において、デリー高裁大法廷(Division Bench)もデ リー高裁(単独裁判官)の判決を認めた。Cipla 社は、タルセバ特許の無効を主張するのみ ならず、インドに輸入されているタルセバは、Erlocip 同様、β 結晶体 97 であり、この特許 はインドにおいて Roche 社より出願中 98 であり、存在しないことを述べた。したがって、 Erlocip は、タルセバ特許権の範囲外にある。同大法廷は、仮差止請求に関しデリー高裁単 独裁判官の判断を支持し、認めなかった。2009. 2009 年 8 月 28 日、インド最高裁判所は、 本案審査がデリー高裁において進行中であるとして上告請求を退けた。 肺がんの薬はタルセバ以外に 22 ほど存在し、うち 13 は非小細胞がんの薬で、イレッサ やビンクリスチンを含め、インドにおいて特許保護のないものも多い 99。また、タルセバ は、 非小細胞肺がん患者で手術や化学療法の効果がなかったごく少数の患者用といわれる。 この判決において、代替医薬品の存否は吟味されておらず、回復不可能な損害も正確には 92 93 94 Para. 78. Paras. 62-63. 547 US 338(2006). この事件で、米国連邦最高裁判所は、CAFC の判断を覆し、差止を認めなかった。従来、 CAFC は、当該特許の侵害と有効性が確認されれば、公益を保護するなどの例外的な場合や、稀な事例におい てのみ、差止命令が拒否されるべきであるとしていた。eBay 判決において最高裁は、(1)特許侵害に対する 永久差止命令(permanent injunction)を当然のこととして指示する一般的なルールは存在しないこと、(2)特 許事件における永久差止命令を承認するか否かを決定するための伝統的な四要素基準(1.永久差止なしでは、 原告が回復不能な損害であること、2.金銭的賠償等法律で規定されている救済法では、損害を補償するのに 不十分であること、3.原告・被告双方が直面する困窮度のバランスを考慮すると、衡平上の救済が正当化さ れること、4.永久差止命令を行っても、公共の利益が損なわれないこと)を用いて判断すべきことを指摘し、 差止を命じない可能性を拡大する方向性を示した。被上告人 MercExchange は、オークションサイトで個人間 の商品の販売を促進するための、複数のビジネス方法特許を所有し、その特許技術を用いた製造活動はせず、 ライセンス料を得ることによってのみ存在する新種の特許権者、いわゆるパテント・トロールであったことも こうした判決を導いたといわれている。 95 インド憲法 21 条の生命の権利には、判例上、環境も含まれる。伊藤 美穂子「インドにおける公益訴訟 : 開 発と発展における裁判所の新たな役割」上記注 51。 96 Roche v Cipla, para. 86. 97 B polymorph of the hydrocholoride salt of N-(3-ethynylphenyl)-6, 7 bis(2-methoxyethoxy) -4- quinazolinamine. 98 No.196774. 99 非小細胞がん薬: シスプラチン、カルボプラチン、ネダプラチン、マイトマイシン C、ビノレルビン、イリノテカン、 パクリタキセル、ドセタキセル、ゲムシタビン、ティーエスワン、ゲフィチニブ。 小細胞がん薬: シスプラチン、カルボプラチン、エトポシド、シクロホスファミド、ドキソルビシン、ビンクリスチン、 イリノテカン、イフォマイド、アムルビシン。 - 47 - 検討されていない。タルセバで延命できる患者数がたとえ一人であっても、生命尊重の観 点から、公共の利益とみなすことも可能であろうが、公共性の判断基準は、この判決にお いて定義されていない。 Ⅲ.環境技術分野における技術移転と知財に関する議論 1.その経緯 気候変動枠組条約(United Nations Framework Convention on Climate Change, UNFCCC)100 は、1992 年、環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)において採択された。 UNFCCC には、技術協力や技術移転に関する規定がある 101が、知的財産権には言及してい ない。1997 年 12 月の第三回締約国会議(COP3)において採択された京都議定書も同様で ある。 その後、2007 年 12 月バリにおける COP13 会合で「バリ行動計画」102が採択された。こ の計画は、京都議定書の第一約束期間(2008 年-2012 年)終了後、2013 年からの温室効果 ガス(GHG)削減枠組について交渉するための行程を示している。同時に、 「長期的な共 同行動に関するアドホック・ワーキング・グループ」 (AWG-LCA)が決定され、6 つの分 野(共有のビジョン、緩和、適応、資金、技術、人材育成)について気候変動対策関連技 術が途上国に移転されるよう、議論が始められた 103。 バリ行動計画は知財に直接触れてはいないが、「気候変動の緩和及び適応に関する行動 をサポートするための技術開発及び移転の強化」を唱え、「安価(affordable)な環境保全 技術へのアクセスを促進するため、資金供給等のインセンティブや開発途上締約国への技 術移転及び技術開発の規模拡大に対する障壁を除去するための効果的メカニズムの強化」 を唱えている。 COP13 会合でブラジルのアモーリム外相は、技術移転の必要性を説きながら、知的財 産権に言及し、WTO のドーハ宣言に匹敵する宣言の採択を提案した 104。同外相は、ドー ハ宣言の採択に貢献した閣僚の一人である105。この会合において同外相は、米国提案の関 100 United Nations Framework Convention on Climate Change (UNFCCC) 1992 年 6 月 リオ・デ・ジャネイロで開か れた環境と開発に関する国際連合会議(UNCED、地球サミット)で採択され、155 か国が署名した(日本は 1993 年 5 月 14 日批准)。 101 「約束」と題する 4 条。 102 2007 年 12 月 3~14 日、国連気候変動枠組条約第 13 回締約国会議 (COP13)及び京都議定書第 3 回締約国 会合(COP/MOP3)において、「バリ行動計画」が採択された。 http://www.gispri.or.jp/kankyo/unfccc/pdf/20080104_cp13.pdf 103 この計画は、パラ1(d)において、以下を考慮し、気候変動の緩和及び適応に関する行動をサポートする ための技術開発及び移転の強化を唱える(i) 安価(affordable)な環境保全技術へのアクセスを促進するため、 資金供給等のインセンティブや開発途上締約国への技術移転及び技術開発の規模拡大に対する障壁を除去す るための効果的メカニズムの強化; (ii) そうした技術の展開、普及、移転を加速する方法; (iii) 現水準技術、 新規技術、及び、革新的技術の研究開発における協力; (iv) 特定分野における技術協力のためのメカニズム や手段の有効性 104 ‘Climate Change, Technology Transfer and Intellectual Property Rights‘, August 2008, International Centre for Trade and Sustainable Development (ICTSD), p. 7. 105 ドーハ宣言に関するアモーリム外相とのインタビュー。拙著『知的財産権のグローバル化』(2008 年、岩 波書店)144 頁。 - 48 - 税障壁を撤廃すべき環境対策関連技術リストにエタノール等、バイオ燃料が含まれていな いことを批判した 106。タンザニア、インドネシア、中国も、知財が技術移転の妨げになら ぬよう対策が検討されるべきことを主張していたが、米国やオーストラリアは、知財は技 術移転を促進する要素であると反論した 107。 1990 年代後半から、WTOの貿易と環境委員会(CTE)において、インド 108 やキュー バ 109 が、環境対策関連技術の特許保護期間を短縮すべきとの見解を表明していた。これら の提案は、知財の保護は、途上国への技術ライセンスを高価なものにし、環境保護や経済 発展を妨げるという見解にもとづいている。 欧州議会は、2007 年 11 月、UNFCCC における気候変動対策に関する議論に、WTO の CTE における環境対策関連製品に関する議論と WTO 新ラウンドにおける関税引下げ交渉 を関連づけ、さらに、TRIPS 協定の修正を盛り込んだ決議を採択した 110。 2008 年 11 月、技術開発及び技術移転に関する北京ハイレベル会合においては 111、知財 が途上国への技術移転の障壁であるとの見解も浮上した。この文脈で、気候変動対策関連 技術の知財保護(とくに特許及びノウハウ)について新たなルールを設け、不可欠な技術 は、開発中の新技術を含め、ときには強制的にも実施されるべきことを唱える途上国が出 現した。これらの見解は、COP15 に向け、2009 年 5 月の議長交渉テキスト、同年 10 月の 議長ノンペーパーや、枠組条約下の長期的協力について話し合う上記特別作業部会 (AWG-LCA)における、ノン・ペーパー等 112 に盛り込まれ、交渉者に提示された。2008 年 12 月、COP14 においては、気候変動対応技術が高価すぎること、ノウハウの移転も不 十分であることが問題視され、知財が技術移転の障壁にさせないために、TRIPS 協定の柔 軟性を拡大すべきことが議論された。知財についての案はバルセロナ AWG-LCA 会合初日 (2009 年 11 月 2 日)には、ノン・ペーパーNo.36 が、最終日(同年 11 月 6 日)にはノン・ ペーパーNo.47 113 が提案され、途上国から以下のような提案がなされた。 -技術移転を制限するような国際条約の解釈の禁止 -強制実施検討の TRIPS 柔軟性の最大限の活用 -気候変動対応関連技術の特許対象からの除外 -特許技術の共有を推進する研究開発スキーム -ロイヤリティー・フリーのグローバルなグリーン技術プール -公的資金を受けた特許技術の開放 106 `Trade ministers propose more intensive trade-climate engagement’, Third World Network, Bali News Update, 11 December 2007. 107 ICTSD, ‘Climate Change, Technology Transfer and Intellectual Property Rights‘, p.4. 108 WT/CTE/W/66, 29 September 1997, Committee on Trade and Environment CLUSTER ON 109 Communication from Cuba, TN/TE/W/73, 9 July 2008, para.18. 加えてインドは、強制実施権の設定も唱えた。 Contribution from India, WT/CTE/W/66, 29 September 1997, paras. 13-19. 110 European Parliament resolution of 29 November 2007 on trade and climate change (2007/2003(INI)), para.9. 111 http://www.ccchina.gov.cn/bjctc/en/ http://www.ccchina.gov.cn/bjctc/en/NewsInfo.asp?NewsId=154 112 http://unfccc.int/documentation/items/2643.php ノンペーパーは、公的文書になっていないテキストのこと。 113 Ad Hoc Working Group On Long-Term Cooperative Action Under The Convention Resumed seventh session Barcelona, 6 November 2009, Contact Group on Enhanced Action on Development and Transfer of Technology. Draft text proposed by the co-chairs. - 49 - -公共財である環境技術への TRIPS 協定 31 条にいう公的な非商業的利用による対応 114。 これらは医薬品アクセスと知財についての議論過程で途上国により提案されてきたい わば総論といえるものである。 2009 年 12 月 7 日から 19 日まで、コペンハーゲンにおいて、国連気候変動枠組条約第 15 回締約国会合及び第 5 回京都議定書締約国会合(COP15/MOP5)が開催されたが、実質 的な議論は先送りされた。メキシコの COP16 において議論は継続されることになってい る。 2.医薬品及び気候変動対策関連技術分野における知財の役割 医薬品特許は、1件当りの価値が高く、数件の特許で製品が保護されていることが特徴 的である。1件の特許侵害で販売中止や高額の実施料の支払いが命じられることになる。 研究開発型製薬会社は、発明の独占的実施を目指すが、実際の製品市場においては、2 番 手、3 番手等、同カテゴリーの類似医薬品が競争する結果となる。医薬品製品市場におい ては、同じ効能を有する医薬品が市場に多数出回っている場合がほとんどで、特許の与え る排他権が市場支配力115をもつことが実際多いわけではない。これまで、米国や、欧州諸 国では、ある種の抗生物質や特殊な鎮痛剤など、ごく限られた製品が、市場支配力を有す ると判断されたことがあるにとどまっている 116。競争法適用の際、医薬品について消費者 は選択せず、医者の処方が決定するので、関連市場画定に SSNIP テストは使えない。した がって、 「治療上の代替性」を示す Anatomical Therapeutic Chemical classification system(ATC 解剖学、治療 学、化学の面から医薬品を分類したシステム)を市場の状況にあわせて調整 し、医療保険による支払、宣伝効果や処方箋を吟味して関連市場が画定される。 医薬品技術分野において、知財の取得と管理に多大な努力が払われ、特許を基軸とした ビジネスが展開されている理由は、情報さえあれば製造コストが安いというこの分野の特 質に関わっている。新薬開発の R&D が高く、製造コストは低いという医薬品分野におい てこそ模倣の収益率が高く知財保護が重要であることはマンスフィールドの実証研究にお いても明らかであった117。また、他の分野に存在する例えば市場化までのスピード(time to market , TTM)のようなインセンティブは、医薬品分野においては望めない。 新製品がいかに容易く模倣されるかは、製品の規格、製造及び販売に関わる営業秘密 118 114 ボリビア提案 http://unfccc.int/files/kyoto_protocol/application/pdf/bolivia141209.pdf 市場支配力(market power)は,米国では合併規制に用いられ,「有意な期間,利益を確保しながら,競争水準 を超えて価格を維持する一ないし複数の企業の力」と説明されており(1992 年米国合併ガイドライン,0. 1), 「独占化」より低い市場シェアに基づき判定される.EU では,企業が関連市場で他の参加者に関係なく独立に 行動できる能力を「支配的地位」とし,その濫用の規制や合併審査の分析方法として使われる.日本では「競 争の実質的な制限」の解釈として同様な意味が示されている. 116 Napp v OFT, Competition Commission Appeal Tribunal,[2002]Comp. AR, 13 モルヒネ錠剤(市場占拠率 85%と認 定); Genzyme Ltd. v OFT, Competition Appeal Tribunal, 1016/1/1/03 ゴーシェ病治療の Cerezyme (市場占拠率 100%, 抱合せ); Conseil de concurrence, Decision (2007. 3. 14) Zinnat(抗生物質,GSK)の略奪的価格.医薬品・バイオ特 許と競争法適用については、拙著『知的財産権のグローバル化』、上記注 105、299-339 頁。 117 E Mansfield, M Schwartza and S Wagner, ‘Imitation Costs and Patents: An Empirical Study’, The Economic Journal, 9I (December 1981) at 907-918. ‘imitation cost’ is defined as ‘all costs of developing and introducing the imitative product, including applied research, product specification, pilot plant or prototype construction, investment in plant and equipment, and manufacturing and marketing startup’ 115 - 50 - あるいはその一部である技術ノウハウ(技術的知識、資料、経験)がどれほど必要で、露 見されやすいかにも関わっている。 低分子化合物医薬の場合、 発明は基本的に物質であり、 技術ノウハウの一部である。主なそれは、実験データ、物性情報、耐用年数情報、経験に 基づく技術等で、発明の外郭をなしている 119。種々の化合物に共通して適用可能なノウハ ウは、 いずれ他者が気づくものであるし、 特定の化合物にのみ適用可能なノウハウ技術も、 特許侵害の可能性があり得るので、第三者による実施は少ない 120。これらの理由から、研 究開発型製薬会社はノウハウの保護にさほど頼らず、特許と臨床データ保護による排他権 に依拠している。 これに対し、工学・機械を中心とする気候変動関連技術分野のビジネスにおいては、ひ とつの製品の製造に複数の技術と複数の企業が関わっており、またノウハウや営業秘密の 役割がより重要と思われる。 医薬品アクセスと知財の問題が提起された初期、特許及び品質規制さえなければ、安価 な新薬をただちに製造・販売し、拡大された市場に輸出することに吝かでない産業がすで に存在していた。医薬品アクセスは、命にかかわる身近で深刻な問題である。知財が人道 あるいは人権の問題であるとして、医薬品特許を問題視する声が上がり、学者、市民グル ープとジェネリック産業のグローバルな団結が速やかに形成された背後にはこのような事 情があった。 ところが気候変動対策関連技術の場合、このような結束は存在しない。とくに産業から 一丸となった動きは顕著でない。また最終製品の製造のために、特許よりむしろノウハウ が重要な技術分野において、特許権者との協力は、いやでも必要であり、またノウハウ移 転には特許ライセンスが助けになる。 過去 10 年間、医薬品アクセスに関する知財保護緩和を求めてグローバルな運動を繰り 広げてきた理論家は、気候変動対策関連技術分野においては、一般論によって対応してい るに過ぎない。気候変動対応関連技術の分野は医薬品とは異なり、再生可能エネルギー分 野において、再生可能エネルギー分野(太陽光、風力、バイオ燃料)の解決には、特許切 れの技術で対応できるとの見解も表明されている 121。気候変動対策技術の移転について、 これら理論家の議論は、次第に、オープンソース研究開発や特許プールの形成など、情報 及び権利の共有の論理を用いたものとなり始めた 122。ただ、そこに医薬品分野におけるよ うな勢いは必ずしも存在せず、既存のアイディアが繰り返し提案されているにすぎない。 118 「開示されていない情報の保護」に関する TRIPS 協定 39 条 は、その 2 項において、自然人又は法人は,合 法的に自己の管理する情報が(a) 秘密であり、(b) 秘密であることにより商業的価値があり、(c) 当該情報を 合法的に管理する者により,当該情報を秘密として保持するための,状況に応じた合理的な措置がとられてい る場合は,公正な商慣習に反する方法により自己の承諾を得ないで他の者が当該情報を開示し,取得し又は使 用することを防止することができるものとすると規定する。 日本の不正競業防止法 2 条6項は、「この法律 において「営業秘密」とは、秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上 又は営業上の情報であって、公然と知られていないものをいう」としている。 119 技術情報協会『最新 医薬品「特許実務/知財戦略」ノウハウ集』(2008 年)287 頁。 120 同上。 121 John Barton, ‘Intellectual Property and Access to Clean Energy Technologies in Developing Countries: An Analysis of Solar Photovoltaic, Biofuel and Wind Technologies’ p.17. www.iisd.org/pdf/2008/cph_trade_climate_tech_transfer_ipr.pdf ICTSD Issue Paper No. 2. 122 http://ictsd.org/downloads/2009/12/climate_change_technology_an_-the-_cgiar.pdf - 51 - たとえば医薬品分野の知財ルール緩和を唱え、市民グループや国際機関を指導してきたカ ルロス・コレアは以前、WHO の「知的財産権、イノベーション及び公衆衛生」委員会に おいて医薬品開発のあるべきモデルとして提唱した国際農業研究協議グループ(CGAIR)モ デルを、特許を用いない気候変動対策技術の研究開発に適したモデルとして提案している 123 。複数の企業により、複数の技術が合流されて製造にいたる CO2 削減技術のような気候 変動対応技術の分野に、種苗産業の古いモデルを持ち込むことに説得力があるとはいえな い124。 気候変動対策技術分野において、参入が容易いことは、今日、共通認識になりつつある 125 。その上で、取引コストを下げるよう、先進国の技術移転へのコミットメントが促され ている 126。 Ⅳ.環境関連技術に関する国際協力 気候変動対策関連技術と知的財産権に関しては、これまで国際機関や、国際機関の委託 による報告が提出されてきた。市民グループも、様々な国際会合で声明を出してきた 127。 そこでは、知財が技術移転を阻害しているとの命題は繰り返されているものの、特許が研 究開発を妨げている具体例も挙げられておらず、その判断基準も説明されていない。 にもかかわらず、いくつかの途上国政府は、TRIPS 協定の「柔軟性」をフルに活用し、 国家の裁量を最大限に拡大することで、途上国各国が政策スペースを設けるべきとして知 財ルールの緩和を唱えており、それは継続して主張されることと思われる。 過去 10 年間、国際交渉において、TRIPS 協定は先進国にしか利益をもたらさず、途上国 には負担でしかないとの見解は、南北交渉において定着してきた。現在、TRIPS 協定解釈 上の「柔軟性」を強調することにより、国家の裁量を広げることで、途上国の利益が確保 できるとの見解は、途上国の総論的な交渉カードとなっている。気候変動対策の枠組を交 渉するにあたり、多くの新興途上国は、自国の経済成長に不利益がもたらされるような義 務を回避することを第一義的な目標としている。エタノール交渉同様、関税引き下げ交渉 等において、対米ポジションの強化にもなる。公共の利益にもとづく強制実施権に言及す 123 Carlos M.Correa ‘Fostering the Development and Diffusion of Technologies for Climate Change: Lessons from the CGIAR Model’, Policy Brief Number 6., December 2009, ICTSD Programme on IPRs and Sustainable Development. 土 壌改良、水質改善のように酵素等の物質が重要な環境改善技術分野も存在する。とくにプレーヤーが多く、契 約等の取引コストが高いような場合は、斬新的な研究開発モデルも可能であろう。この分野においては、ブラ ジル発の提案等も出始めている。 124 D. Sandalow, Ethanol: Lessons from Brazil (May 2006) (published in A High Growth Strategy for Ethanol (Aspen Institute 2006), http://www.ethanolproducer.com/article.jsp?article_id=4159&q=&page=all 125 John H. Barton, New Trends in Technology Transfer Implications for National and International Policy, Issue Paper No. 18, International Centre for Trade and Sustainable Development (ICTSD), 2007;ibid., Intellectual Property and Access to Clean Energy Technologies in Developing Countries: An Analysis of Solar Photovoltaic, Biofuel and Wind Technologies. Geneva: ICTSD; Intergovernmental Panel on Climate Change (IPCC), 1996. Technologies, Policies, and Measures for Mitigating Climate Change. IPCC Technical Paper I. 126 RELaw Assist, Renewable Energy Law in China – Issues Paper (Baker & McKenzie, Renewable Energy Generators of Australia, Chinese Renewable Energy Industry Association, Centre for Renewable Energy Development June 2007, Strengthen enforcement of intellectual property rights at the provincial/local government level. 127 例えば IP Watch による South Center の事務局長 Martin Khor とのインタヴュー(9 November 2009)において も「知財ルールが途上国への技術移転に障害をきたしている」との指摘にとどまっている。 - 52 - ることは、価格交渉の手段でもある。 さらに、 「公共の利益」概念は、侵害訴訟において、途上国企業が先進国の技術と競争 する際のセーフハーバーともなり得る。バイオ燃料(ブラジル) 、風力発電技術(中国、イ ンド) 、太陽光電池(中国)のように新興途上国企業の市場シェアが急速に伸びている分野 において、これが明らかになりつつある。現在、インドのデリー高裁において、風力発電 技術に関し、Dr Alois Wobben v ENERCON and TATA 侵害訴訟が審理されている。 Dr.Wobben(ドイツ)は、自己のインド子会社である ENERCON に対し侵害訴訟を提起してい る。現在のところ、被告は公共の利益に言及していないが、今後、グリーン・技術にかか わるこのような侵害訴訟において、 「公共の利益」の議論が増加していくことであろう。 知財と医薬品アクセスに関する議論は、特許が必須医薬品へのアクセスを妨害する実例 は、特定の疾病を除き、議論されるほど多くないこと、強制実施権は、状況が総合的に評 価された後、長期的にも合理的な手段として選択されるべきことを示している。 そもそも TRIPS 協定は強制実施権の設定を認めており、ドーハ宣言は、それまでタブー であった強制実施権の発動を、実際上、可能にした。現在、それは常識となっており、目 的や方法が正当なものであり、手続きが合法的であれば、強制実施権が深刻な問題の解決 方法として妥当なものであることは国際的に受け入れられている。それは、気候変動関連 技術分野においても同様であり、新たな宣言を採択するまでもない。 TRIPS 協定は、南北交渉の単なる交渉カードではなく、医薬品や気候変動関連技術がイ ノベーションを創出するためのインセンティブとして、途上国においても、これらの分野 における問題を解決するための重要な手段であることを先進国は事実でもって説得し、援 助 128 すべきであろう。 128 Gill Wilkins, Technology Transfer for Renewable Energy: Overcoming Barriers in Developing Countries, The Royal Institute of International Affairs, London, 2002. - 53 -