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デカルト哲学における"Cogito, ergo sum"と神の問題

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デカルト哲学における"Cogito, ergo sum"と神の問題
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
デカルト哲学における"Cogito, ergo sum"と神の問題 -Cercle cartesien
に関して-
Author(s)
井上, 義彦
Citation
長崎大学教養部紀要. 人文科学. 1969, 10, p.1-14
Issue Date
1969-12-25
URL
http://hdl.handle.net/10069/9567
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
デカルト哲学における"Cogito, ergo sum"と神の問題
-Cercle cartesien に関して-
井上義彦
"Cogito, ergo sum" and the Problem of God
in the Philosophy of Descartes
- on "cercle cartesien"-
YOSHIHIKO INOUE
序悦
デカルトは学問の岐路に立っていた.彼は従来の伝統的な諸学問に全く失望し, 「書物によ
る学問」を捨ててしまった.しかし彼は奉だ学問への関心を捨てていなかった.
では何故デカルトは従来の学問に絶望したか.彼は従来の学問が唆味で不毛なのは,それらの
学の根拠の不確実さにあると考えた.つまり, 「数学以外の学問の原理は全て哲学から借りて
来ていた」が,しかし肝心の哲学それ自身の根拠即ち原理が唆味で不確実をものであった.哲
学は諸学の原理の学として,厳密なものでなければならない.従って,その原理は無批判な前
提に依らずに,批判的に吟味された確実な根拠でなければならない.即ち,哲学は如何なる学
の前提や原理(たとえ,それらが従来どれほど信頼され,権威あるものと考えられているにせ
よ)をも,批判的な検討・吟味なしには,許容すべきではない.香, 「前提のかかる吟味こそ
哲学なのである」.しかるに,従来の哲学(スコラ哲学しかり)は枝葉末節に囚われて,根本
3日
的な原理探求に従事していなかった.それ故に,そこでは, 「深く掘り下げて,岩石と粘土と
を見出す代りに,この砂の上に楼閣を築いた」のである.かかる薄弱な土台の上に築かれた学
(2)
は当然堅固なものではなかった. 「諸学問が原理を哲学から借りている限り,かくも堅実性に
乏しい基礎の上には堅固な学問を何一つ築くことができない」とデカルトは考えた.
(3)
そこで,彼は白から新たに学問を構築しようとする.即ち, 「全て私自身のものである基礎の
上に私自身の思想を構築する」ことを計画する.その為には,哲学の確実な根拠が必要である
(4)
が,それには,先ずそれを探し出す方法が確立されねばならない.そして, 「真の方法を求め
よう」と、して,彼の手掛りになったのは, 「理論の確実性と直証性の故に」高く評価していた
数学の方法であった.数学,殊にユ-クリッド幾何学は古来より確実な学の典型とされている
が,それが確実なのは不可疑な原理(公理)からの演樺的方法に拠っているからである.その
横棒的方法は単なる論理的な推論ではなくして,むしろ純粋な直観の継起的結合であり,生産
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的であり,それ故に綜会的方法である.
従って,デカルトはこの方法を哲学の真理産出の方法として採用する.だが,その為には第原理が見出されていなければならない.この原理は一切の論証の根拠として,幾何学の類推か
らして,もはやそれ自身演樺も論証も出来ないような直証的確実性をもつものである.それは,
_ただ直接的明証性において,呈示されえ,我々に是認される.
では,哲学において,その「アルキメデス的一点」は如何にして求められるのか.そこに,そ
れを発見すべく,やはり数学的方法から,.分析的方法が取り入れられるのである.
かくして,分析的方法によって,.一度その原理が発見確立されるや,その原理を根拠として,
それから幾何学の様に,演樺的に諸真理を綜合的方法によって導出し,それにより諸学を統一
体系化し,連帯化しようとするのである.それ故に,デカルト哲学の方法は, 「その客観的原
(5)
理を方法的に見出す為に,分析の歩みを取り,次いでこの歩みから綜合の歩みに移り,そこか
ら自分の体系を方法的に産み出す」と考えることができるであろう.
(6)
本論I
デカルトは方法論的に全てを疑っていく.そして,少しでも疑わしいものは虚偽として除去
していく. 「されば,何時か私が諸々の学問において或る確固不易なものを確立しようと欲す
るならば,一生に一度は(semel in vita,断じて,全てを根底から覆えし,そして最初の土台
から新たに始めなくてはならない」と考える.
(7)
デカルトの懐疑は所謂懐疑論者の懐疑の為の懐疑ではなくして,確実な認識原理を獲得する為
の手段であって,それ自体目的ではない.デカルトの意図するところは彼自身に確証を与える
ことであり, 「岩石や粘土を見出す為に,泥や砂をさらい取ること」である.それは哲学の新
たな地平を切り開くことである.デカルトは確実な岩盤(原理)を見出す為に,全てを疑って
ゆく。そして,疑っても疑いきれないものがないかと考究する。
こうしたデカルトの懐疑の方法(分析的方法)は,全般的転覆feversio generalis)を通し
て原理を確立する方法的懐疑である.
この方法的懐疑の,即ち「全般的懐疑の効用」 (tantae dubitationis utilitas)は,先ず「あ
(8)
らゆる先人見から我々を解放する」こと,換言すれば,無批判的に受け答れてきた既得の思
想を全て排除し,我々の精神をいわば白紙に還元化しようとするのである.次にそれは, 「精
神を感覚から引き離す最も容易な道を用意する」こと,云い換えれば,精神を方法論的に純粋
思惟(悟性)の立場へと高めようとする.最後に、それは「我々が真であると理解したことに
ついて,もはや疑い得ないようにする」こと,換言すれば,認識の確実な原理あるいは真理基
準を確立しようとするのである.
方法的懐疑はかかる意図を秘めつつ,遂行される.それは,我々が明白に真である ̄と思うこと
でさえも,我々が間違うようになしうるような「欺く神」あるいは「悪霊」という「欺捕者」
(deceptor)の想定において,決定的な段階に到達する. 「神はもし欲しさえすれば,私が精
神の眼で極めて明証的に直観すると考えることにおいてすら,私が間違うようにすることは神
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にとって容易である」し,又「最も明白なものと思われることに関してさえ,欺かれるような
(9)
本性を私に神が付与したかも知れない」ということはありうるのである.かかる欺哨者の形面
(10)
上学的な想定の下では,我々はもはや何事も確信しえず,何事も真として理解しえないであろ
うか.否.欺くなら欺けばよいのである.たとえ,かかる欺捕者が我々を欺いているにせよ,
かく疑っている私,この私は疑っても疑い得ないものであり,それ故に私は存在するのである
「もしも欺晴着が私を欺くのならば,疑いもなく私はまた存するのである」.このことは疑い
ul)
えないことである.それは我々が考えるたび毎に「必然的に真である」として立てられるので
ある. 「私がそのように一切を虚偽であると考えようと欲する限り.そう考えているF私』
(moy)は必然的に何ものか(quelque chose)でなければならぬことに気が付いた・そして
r我思う故に我在りj (je pense,done je suis)というこの真理(Verity)が極めて堅固
であり,極めて確実であって,懐疑論者のどのような途方もない想定をもってしても,この真
理を覆すことが出来ないのを見て,私はこれを私の探求しつつあった『哲学の第一原理j(lォ
premier principe de laphilosophie,として,ためらうことなく受け容れることができる
と判断した」.
(12)
この上記引用文に, 「デカルトの認識論の核心」が明確に言表されているのである.ここに,
(13)
哲学の最初の確実な原理(真理)が「je pense, done je suis」即ち「cogito,ergo sumj
として確立されたのである.それは正にアルキメデスの「確固不動の点」 (puncturn,にも
喰えられるものであり,哲学の第一原理なのである.
さて、この「cogito,ergo sum」に関して,しばしば提起される問題を考察し,それを通し
て併せて「cogito,ergo sum」の根本的な在り方を考究せねばならない.
先ず, 「我在り」 sum,を導出する「我思う」 (cogito)のuniqueさについて,次の様な
異議が唱えられる,即ち「自然の光によって, r活動するものは如何なるものでも存在するJ
ことが知られるから,貴方はその同じ結論〔我在り〕を他の如何なる活動からでも導き出せた
であろう」と。これに対して,デカルトはこう反論する-「君がそう主張する時,君は真理
(14)
から遠い.何故ならば,一つ思惟(cogitatio)を除いては,私の活動の中で,私に充分に確
実なものは(形而上学的確実性をもつという意味で,ここではそれのみが問題なのだが),何
もないからである」と.例えば,デカルトは「私は散歩する,故に私は存在する」 (.年mbulo,
(15)
ergosum)とは推論することはできないと考える.それはただ「私が散歩している」ことを
覚知している時,即ちそのことを「私が考えている」 (cogito,限りでのみ,推論可能なので
である.換言すれば,我々の思惟,即ち意識活動の根底には,あるいはそれに伴って常に「我
思う」 (Cogito)があり,それ故「私は散歩する,故に私は在る」 (ambulo, ergo sum}は,
「私が散歩していることを私は考えている,故に私は在る」(Cogito me ambulare,ergo sum)
となり,従って, 「cogito ergo sum」が根源的なものであるのは明らかであろう.
そこから,デカルトは「かく思惟している私の精神の存在(l'existence de mon esprit)を非常によく推論Lj(1急」と論究しているが・こゐcogito,ergo sumにおいては,
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このように自覚的精神の存在が確立されているのである.それはかかる自覚的精神を離れては
無意味なのである.
次にcogito,ergosum (我思う,故に我在り)の「ergo」 (故に)に関して,これは三
段論法による推論を苦衷しているのではないかという問題が考察されねばならない.
もしこれが三段論法的推論であるとすると, 「我在り」 (sum)はその結論となり,その大前
提として「全て思考するものは存在する」 (quicquid cogitat, est)が予想されることになる.
ところで, cogito,ergo sumをこのように解すれば,それはもはや第一原理とは云えなくな
る。何故ならば,それは大前提「quicquid cogitat, est」から導出された二次的原理となり
大前提の方こそ,それに先立っており第一原理の名に催いするものであろうから.
デカルトは,こう答える-「この場合の最も重大な誤謬は,特殊的命題の認識が常に三段論
法に従って;普遍的命題から演挿されねばならないと論者〔ガッサンディー〕の想定している
ことである」と.
(17)
デカルトによると,真理を発見する為には,我々は常に特殊概念から始め,その後に普遍概念
に到達せねばならない.もっとも一度普遍概念を発見した後には,逆にそれから他の特殊概念
を演挿しうるけれども・それ故に, 「cogito,ergo sum」は「quicquid cogitat,est」とい
うような抽象的な一般的原理から,形式論理学的に三段論法によって推論されるものでなくし
て,それは正しく「自分自身によっての外は学ぶことが不可能であり,又自己の経験や自己の
中に見出すかの意識,或いはかの内的証明によっての外はそのことを納得することが出聖18)」
よ'ぅなものである.換言すれば, 「かかる第一原理の認識は,如何なる三段論法的推理からも
引き出されな.い原初的認識unepremiere notion,なのである」.それ故, 「我思う,故に
(19)
我在り」と言表する者は,三段論法の力によって自己の思惟から自己の存在を演鐸しているの
でなくて,精神の単純な視察(une simple inspection de l'esprit)によって,恰かもそれ
が白から知られるものであるかの如く,それを認識するのである。かかる意味で,特殊命題の
認識から一般命題を形成するのが我々の精神の本性であるからして, 「大前提quicquid
cogitat, est〕は,もし存在せねば思嘩しえないという個人の経験から,学ばれ得る」と考えら
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れるのである.
更に考究するとcogito,ergo sumはデカルトによって,三段論法によって演鐸されない原
初的認識であり,精神の単純な洞察によりいわば端的に把握されると云われているが,このこ
とは同時に, cogito,ergo sumがそれ自身において, cogito.とsumという二つの契機が必
然的に包含されている一つの連鎖であることを示唆しているように思われる.それ故, cogito
とsumは相互に切り離しえないもので,それらはcogito, ergo sumにおいて,一つに
密接に結合している.かかる意味でcogito, ergo sumは,スピノザが云うように,単一命題
(21)
(unica propositio)であり,又「ego sum cogitans」 (私は思惟しつつ存在する)と同義
と考えられるであろう.しかしcogito, ergo sumが全くego sum cogitansに解消す
ると考えるのは,行き過ぎであろう.何故なら,デカルトは, 「全て思考するものは存在する」
デカルト哲学における``Cogito, ergo sum,,と神の問題
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という大前提は「我思う,故に我在り」という個人の経験から学ばれることを教示している様
に,「我思う」と「我在り」という二つの契機は保持されねばならないからである.
いずれにしても,デカルトが, cogito, erg、o sumの認識は精神の単純な洞察による認識である
と云う時, 「デカルトは,精神が直覚するものは必然的な連鎖,或いは含意(implication),
であるということを非常に強調していb.ように見える」ということである.そうすると, 「デ
(22)
カルトは彼自身r我思う故に我在り』がそれ自身の内に一つの要素から他のそれへの推論を包
含していることを示している」と考えられることになろう.言い換れば,私の思惟が必然的に私
(23)
の存在を含意する(imply)ことは,デカルト自身云う様に,目から知られたことresper
se nota)となろう.
かく考える時, 「ergo」 (故に)という語は,cogitoとsumとの間の「含意関係」 (Impiikationsbeziehung)を表示していると推察される.尚,カントにも「 『私は考える』(Ich
24
denke)は経験的命題であって,その内に『私は存在する』 (lch existiere)という命題を
含む(enthalten)ものである」という文があることを記しておく.
25
さて,デカルトは, 「cogito ergo sum」の導出過程において,私は考えている,その考えてい
る私は「何か」 (quelque chose, aliquid)であり,無ではない,有であると考えて,それ故に
かかる私は存在するのだと論証するが,その際現われるこの「何か」という概念は,重要な役
割を演じており,もっと注目する必要があると思う.カントにおいても, 「私は考える」(lch
denke)は「何か実在的なもの」(etwasReales)として・考えられていe6戸ヾ cogitoは,
この「何か」という考える私の透明な在り方を媒介としつつsum -到達すると云えるだ
ろう.
この「何か」は,考える私の在り方として,常に思惟者の「私圏」 Ich-Kreis)の中に成立
し, 「quicquid cogitat,est」のように《enthalten≫を越え出て,その外に成立する形式論理的な
ものではない・この「何か」は「私が考える」 (cogitoする)ならば,成立するような「条件
性」であり, 「cogito」が成立することにより,この「何か」は開示されることになる.即ち
「私は考える」というCogitoが成立するということは,この「何か」を「私」として把握す
る為の「思惟」のカテゴリー化の働きと云える. 「Cogito」という条件が成立するならば、そ
れによって開示された「何か」は,考える私によって「私」というカテゴリーによって把握さ
れて、成立する.即ち,かかる「何か」としての「私は存在する」のである.それ故に, 「 ̄私
は考える」 (cogito)、故に「私は存在する」 (sum)のである。
このように, cogito,ergo sumの認識は, 「ならば」という条件性を背景にもつ推論的認
識であると考察される.無論,それは形式論理的なものではな.(して,認識論的なものである.
(27)
II
かくして, 「cogito, ergo sumfが哲学の第一原理であることが確認された.では,この第原理のように,真なる確実を認識とは一体如何なるものであろうか. 「一つの命題が真であり
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確実である為には,何が要求されるのか」.デカルトは,第-原理の確実な所以の根拠を求め
(28)
て分析し, 「この第一の認識〔cogito, ergo sum〕の内には,或る一定の明断且つ判明な知
覚(clara et distincta perceptio)以外の何物もない」ことを知る.それ故に,第-原理と
(29)
同様に,明断且っ判明な知覚(即ち認識)は真理であり,確実な認識と考えられる.従って,
この「明噺且つ判明」が,真理(確実な認識)の「基準」となる.
デカルトは言う,-「私が真理を語っていることを私に保証するところのr私は考える,故に
私は在る」という命題の内には,考える為には存在しなければならないことを,私が棲めて明
断に見るということ以外には何物もないことを認めたので, r我々が棲めて明断に且つ棲めて
判明に理解するものは全て真であるj ( les choses que nous concevons fort clairement
et fort distinctement sont toutes vraies)ということを,一般的規則regie genera1e)とすることが出来ると考えた」.
(30)
デカルトは,この様に「cogito,ergo sum」から明噺判明の一般的規則を鮮かに導出した.と
ころが、しかし「叙説」の後の箇所に,これと明らかに矛盾すると思われる文面がある.即ち
「私が先程一つの規則として立てたもの,即ちr極めて明断に極めて判明に我々が理解する・も
のは全て真である』ということも,神は在り,或いは存在し(Dieuestouexiste,神は
完全な存在者であり,我々の内なる全てのものは神から来るという理由をおいては,保証され
ないので(31)→・
この二つの上記引用文の対立或いは矛盾は,如何に考察されるべきであろうか.ここに,以後
この小論が取扱おうとする問題が根差している.
既述の如く,明断判明知の一般的規則は,哲学の第一原理としての「cogito,ergo sum」を手
掛りにして導出されたが,それは第一原理から横棒的に学の諸真理を導出しようとするデカル
トの哲学の方法論からしても首肯される帰結であった.しかるに今,その一般的規則が真理た
り得るのは,実は神の保証によってであるとされるのである.そうすると,一般的規則の真理
性は全く神に依存することとなり,それがそこに由来したcogito,即ち自覚的精神の承認のみ
では不充分であると考えられていることになる.即ち,問題は,単に一個の明噺判明知の規則
の其理性如何にとどまらず,その規則が問題とされる以上,その規則が意味する内容も,この
場合問題となってくる.云い換えれば,一般的規則は,我々が明断判明に理解するものは,
cogito, ergosumの認識におけると同様,それが明断判明であるが故に,全て真理であると判
断するということを言表しているのであるが,その規則が問題とされ,それが真たりうる為に
は、神の保証を必要とするとされている以上,ことは,一般に我々の明断判明な認識の妥当性
如何が問われているのである.つまり,明断判明な認識は我々が理解する様に,それ自身で,
いわば自立的に真とされるのではなくして,その真理性は神に依存するとされている.すると
デカルトの「自我」はもは.や明断判明な認識に確信を持ちえず,第一原理から一歩も動けない
ことになりはしないだろうか!デカルト哲学はその出発点において,早くも挫折し,破綻をき
たしたのであろうか.
デカルト哲学における"Cogito, ergo sum,,と神の問題
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我々はかかる事態を念頭におきつつ,この難問を考究せねばならない.
さて,先ず問題の発端である一般的規則を検討すると,それは「我々が明断判明に理解するも
のは全て真である」ということであり,明噺性と判明性とは真理の徴表或いは基準である.と
ころで,両者の定義は次の様である- 「明噺」 (Clara)とは「注意する精神に現前し,且
(32)
つ明らかな知覚」であり, 「判明」 (Distincta)とは「明断であって,そして同時に,その
他の一切から分推され区別されていて,もはや明断なもの以外の何物をも自からの内に含まな
い知覚」である.この定義は読んで明らかな如く,言葉の上だけの定義であり,極めて主観的
な色彩の強いものと云い得よう.そのことは,デカルト自身が「我々の判明に理解するものが
如何なるものであるかを十分に見究めるには多少の困難が伴う」と述懐しているところからも
`33)
明らかであろう.
従って,真理基準たる「明噺且つ判明」がかかる主観性を免れていない以上,我々に明断且っ
判明に理解されたものを,我々がそれを明断且つ判明に理解したということだけで,それを真
理として,即ち客観的に妥当する真理として立てうるかどうかが当然問題とされねばならない.
明断判明知の規則に関して生起した問題・は,正にここに根差しているのである.つまり,我々
が明断判明に理解したものが,全て我々がそれを理解したその通りに,果して客観的に貴であ
るかどうかが問われているのである.換言すれば,我々が明噺判明に理解したものは,我々が
それを理解した通りに主観的には真たりえても,客観的に常に間違いなく,即ち絶対的に真で
あるという保証は,それ自体として一概に主張しえないであろう.だが,しかるに一般的規則
は正にこのことを主張しているのである.何故ならば,それは,その「全て」という言葉に示
される様に全称命題として,それ自身,一般的な真理を告示しているから.
だが,一般的規則は,明断判明という真理の主観的基準(subjective criterion of truth)に
(34)
基づいている故に,それ自身もはやり主観的規則であり,従ってそのまま無条件に一般的規則
(rsgle generate>として,客観的な真理基準(objective criterion of truth)とするには
明らかに無理があろう.
このことを別の面から考察すると,デカルトは,「cogito, ergo sum」の認識が明証的に真な
る所以をその明噺判明さに求め,そこから明噺判明知の規則を立て,それを全ての対象的認識
に適用する.だが,問題はここにある. 「cogito,ergo sum」における自覚的精神の存在の認
識は、平たく云えば,いわば主客が一致しており,認識するものと認識されるものが,思惟
の働きにおいて端的に合致し,私の存在の認識が真で間違いないのは,当の私が正に自覚して
いるからであり,かかる自覚を杜れてはそれは成立しえないのである.従って,ここでは,一
般的規則に青われる様に,認識することが,我々が認識する通りに,そのまま認識されるもの
に合致するのである.
だが,このことは「cogito, ergo sum」の認識のみに限.って適合することであって,これを除
いた他の一切の対象的認識には,一義的には当てはまらないのである.何故なら,この自我以
外の他の一切の対象認識の場合には,認識者と認識の対象とは各々別個のものであり,そこに
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は何の通路もないからである.
従って,こうした対象認識においては,我々が認識したことは,我々がそれを認識した通りに
その通りにそのまま認識対象に当てはまるという保証はないのである。換言すれば,我々がい
くら明噺判明に認識したからと云って,それがそのまま客観的真理として妥当するものではな
い.それ故に, 「cogito,ergo sum」の認識の明証性からして,直ちにそれと同様に,明噺判
明な認識は全て真であるとなされるなら,そこには明らかに論理的飛躍があると云えよう.
そ.Lて,デカルトも,やはり明断判明知の一般的規則のもつかかる難点に気が付いており,そ
こや神の保証を持ち出したも'のと考えられる.要するに,デカルトの認識論は,このままでは
所謂独我論(solipsism)に転落し,その恵しき主観性から抜け出せない.そこで、かかるこ
とを防ぐ為にも,又我々の認識の客観的真理への高揚の為にも,神の保証が必要になったと考
えられる。換言すれば,神の保証とは,我々が明噺判明に理解するものが,我々がそれを理解
する通りに,主観的に真であるのみならず,客観的にも真であることを保証するということpで
yサ
ところで,この様に明噺判明な認識の真理保証として, 「神」が導入されることにより,今度
はこの「神」の保証を巡って,新たな問題が出現する.それは,即ち,明噺判明な認識の真理
健を保証する「神」の存在は,一体如何にして証明されるのかということである.
デカルトが彼の認識論の中心に神を導入する以上,神の存在は証明されねばならない.実際,
デカルトは周知の様に三通りの仕方で,それを行っている。すると,この場合,その神の存在
論証における認識は真なる認識である以上,明噺判明な認識ならざるをえないことは明らかで
ある.だが,神の存在証明における明断判明な認識の真理性は,未だ神の存在が知られざる以
上,まだ神の保証を受けていないものである.それにも拘らず,明断判明を認識は神の保証に
よって,全て真たりうるのである.
ここには明らかに「循環論」 (circulum, cercle)があると云えるであろう.
これは既にデカルト在世中に指摘された難問であった.アルノーはデカルトに言う尋ねるノ
「尚一つ私に残る疑念は,次のように云う時に,如何にして循環諭un cercle)が避けられ
るのかということです,即ち我々が明断判明に理解するものが真であると我々が確信するのは
神が存在するが故であると.しかるに,神が存在することが我々に確実でありうるのは,我々
がそのことを極めて明断判明に理解する故にである,それ故に,神が存在することが確立す
るのに先立って,我々が明断判明に理解するものは全て真であるということが我々に確実でな
ければならなし)」と.これに対して,デカルトは次の様に返答する-「私は循環論と云われ
¢5)
る誤謬に陥入っていないことを,第二答弁の3と4で既に十分明断に示しておいた。そこで,
°
°
°
°
私は現に実際en effet)我々が明断に理解するものを,我々がふ二を(autrefois)理解し
たと記憶するものから区別した.何故ならば,先ず,我々は神の存在を確信するところの理由
に,我々の注意を向けるが故に,神が存在することを確信する.しかしその後では,或る物カ{
真であると確信する為には,その或る物をかって明断に理解したことを記憶していれば,十分
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なのである.しかしながら,このことは,もしも我々が神が有り,且つ神が我々を欺かないこ
とを知らないならば十分でないであろうから. 」.
(36
デカルトはこの様に「循環論はない」と論じているが,そう考えるためには,今現に実際我々
が明断に認識している場合と,かって以前に明断に認識したと記憶している場合とを区別すれ
ばよいと云う.前者の場合,その認識は認識者にとって,その時直覚的に真であり,それに関
して確実である.それ故に,神の保証なしにそれ自体で真たりうるのである。これに比し,後
者の場合,その認識は既に過去のことであり,以前に行われたものであり,かってそれがどれ
程明噺であっても,今は記憶に依存している以上, (記憶の介入は誤謬の原因であるからして)
それが記憶の通りに,間違いなく真であるという保証はない。それ故,後者の場合,神の保証
が必要となる。デカルトは,後者の認識として,第二答弁では,推論的認識を考えているが,
何もこれに限らず,前者の直覚的認識でも,それを記憶として思い出す時には,やはり後者の
部類に入るであろう.それ故に,これも神の保証を必要とすることになる.後者の場合,デカ
ルトは一度神の存在を認識しておけば,後は安心して記憶に頼れると考えているが,ではそも
°
°
°
°
°
そもそこで前提されている神の存在は如何にして証明されたのか.云い換えれば,神の最初の
El
°
°
°
▼
存在証明は如何にしてなされたのか.なぜなら,この神の存在証明こそ後者の推論的認識と思
r..
われるからである.もししかりとすれば,神の存在証明それ自身が推論である以上,推論の各
段階において記憶に依存し,かくして神の誠実を前提としなければならない.すると,これは
再び循環論を成している.
しからば,神の存在証明は推論によらずに,前者の直覚的認識によって行われるであろうか.
それは記憶の介入を不用にする程一気に直覚的に行われるであろうか.神の存在は推論的認識
によってのみ,可能であろうから,直覚的に知ることは不可能であろう.だが,そうすると,
循環論は少しも解決しない.そもそもデカルトは,認識を区別することによって,循環論の疑惑
を解決出来ると考えた筈である.そして,神の存在は直覚的認識によって把握されうると考え
ていたことも推察される.デカルトが認識の区別をしたのは,明らかにそのことを意図してい
た.さもなければ,デカルトの答弁は前述の如く,全く循環論を解決しない.だが,如何にし
てか.神の存在証明は,前述の如く,推論的認識であり,直覚的認識によっては不可能である.
確かに,だが,それは一個の直覚的認識によってはである,そうではなく,多くの直覚的認識
の連鎖によってはどうであろうか.推論的認識は多くの直覚的認識の連鎖であり,その一つ一
つの認識は直覚的認識(即ち明断判明な認識)であるから,かかる解決の余地はある.杏,鰭
環論の疑惑を解決する道はこれのみしかないと思う.
ここに,直覚的認識即ち明断判明な認識が神の存在証明を可能にするのである.これは正に逆
説的である.明断判明な認識はその弱さ(主観性)の故に,神の保証を必要として,神の導入
を招いた.しかるに、神の存在証明はこの明断判明な認識によってのみ可能とされる.これは
逆説どころか,再び循環論ではないだろうか.苦労した挙句がもとの木阿弥であろうか.香,
断固として.我々は今や循環論を解く鍵をもち,入口に立っているのである.
10
井上義彦
我々はここで今一度,我々の立場の状況を反省せねばならない.A
そもそも,循環論とは,'我々の明断判明な認識が真であると我々が確信するのは,神が存在す
るが故であり,神が存在することが確実なのは,我々がそのことを明断判明に認識するが故で
あるということである.すると,長初に,神の存在証明を行う数多の明断判明な認識は,神の
存在の確立に先立っており,従って神の存在を知らないから,明らかに未だ神の保証を受けて
いないのである.そして,かかる明断判明な認識によって,神の長初の存在証明は行われるの
である.今や,ここで,未だ神の保証を受けていない明断判明を認識とそれを受けている明断
判明な認識とがはっきりと区別されねばならない. (前者は,無神論者の認識も含んでいる)
前者は自己の其理性を確信しているが,未だ主観性を出でぬものである.何故なら,我カが明
断判明に真だと理解するものにおいて,我々が客観的に誤またないという絶対的保証或いは確
証はまだないからである.これに比し,後者は客観的に権威づけられたものであり,絶対的に
貴たりうるのである.神の保証は誠に絶大なのである.
さて,しからば,如何なる工会に神の存在証明は行われるのか,また,それと併わせて,我々
は未だ神の保証を受けない明断判明な認識か,神の存在証明を行うということが,デカルト哲
学(認識論)において如何なる意義をもつのかを考究しなければならない.
それは「森のデカルト」に倣って「暗闇の森の道中」にも比せよう.
我々はCogitoに基づきつつ-, -歩一歩神の存在への論証の道を辿る. 「森の中を一人そろそろ
歩く」論証の道は暗く厳しい.戟.々の手にする灯火は明断判明な認識であり,方向を照し出す.
その光の及ぶ範囲は我々の身近な周囲に狭く限られている.手にする杖は直観と演樺(稼会)
である. 「真理の確実な認識に達するために人間に開かれた道は,明白な直観と必然的な演縛
との外にな岩上灯火は暗闇の中に我々の行く道筋をほのかに照し出すだけの明るさはある・
哉々は灯火をともしつつ, -歩一歩と進んでいく.明断判明な認識は認識されたその時々にお
いて,明証的に真である.我々はこの光の及ぶ範囲では真偽を明別しうるし,誤まつことはな
い.だが,光の先は我々を虚偽にさそう間の世界である.我々の明断判明に選んだ-歩一歩の
歩行が,闇に惑わされていないという保証はない.我々峠明噺判明な認識が未だ主観性を出だ
きぬ以上,客観的に真理であるという確信をもてない.我々は欺かれているのかも知れないの
である.ただ,我々は灯火の範囲内では少くとも誤まっ-ていないと確信しつつ,歩み進むJ何
故なら,我々には明断判明な認識以外に頼るべきものはないから.我々が進んで来た道は再び
以前の闇に消えてゆく.それは明断判明な認識がその時々にその明証性の光を灯しつつ,過ぎ
去る時間と共に記憶の中に,やがて闇の中に消え去るように.我々はこうして闇の森の中を一
息この道と決意した以上,その道を何処までも真の道として進まねばならない.闇が或いは物
の怪が正常な判断を欺き惑わす様に,我々の明断判明な認識も欺き惑わしているかも知られな
い.だが,我々は明断判明な認識について,少くともその自己説得の迫真性の故に,それを真
理として十分確信するし,その意味では,欺く悪霊を斥け得る力を有するのである. 「実際神
が存在することを知らない場合でさえも我々が我々の注意を真理そのものに向けている時に
デカルト哲学における``Cogito, ergo sum,,と神の問題
ll
は,我々にはそれを疑うことは出来ない.何故なら,さもなくば,それらが真であることを我
々は論証することは出来ないであろうから」.それでは,欺く神が我々が明断判明に理解するこ
㈱
とにおいて,間違う様にしているとすれば,どうであろうか・だが,この形而上学的な欺く神
の想定も一つ神の認識に向うことにより,解決される.何故なら,もし我々が神の認識に到達
するならば,神は欺いていないことになるからである・それと同様に,この森の道程において
ち,首尾よく神の存在認識に到達した時,我々の歩んだ道は一本の論理に貰ぬかれた真の道と
なり,従って,道筋の明断判明な認識は全て客観的に真であることが証明されることになる.
デカルトの認識論的な苦闘は独我諭の枠を取り壊そうとすることである.
我々は明断判明な認識の真理性を確かめる必要があった.「我々が明断判明に理解するものは
全て、我々がそれを理解する通りに,真であるということを知ることが又要求されるのである」
(39)
( Requiri etiam ut sciamus ea omnia quae clare et distincte intelligimus,eo ipso
mdo quo ilia intelligimus,esse vera).これは我々の解釈にとって,重要な典拠である・
我々の明断判明な認識が,我々がそれを理解する通りに,全て貴であるということは一体如何
にして知られるであろうか.それは個々の明噺判明な認識の検討によってでなくて,ただ神の
存在の認識によってのみ可能である.
換青すれば,我々が自己以外の何物かを認識する時に,その認識がたとえ明噺判明であっても,
我々が認識するその通りに,客観的にも真であるという保証はないし,又それを証明する方法
もありえない・何故なら,この場合,認識者たる私の認識が問題であり,又それの規準なのだ
から,それは無限後退に陥入るばかりであるから.
これに更に, 「欺く神」という形而上学的想定が加わる.我々のもつ明断判明な認識は,この
欺く神によって欺かれて,そう思っているのかも知れないのである.この想定に於いて,明断
判明な認親の客観的末理性,従って形而上学的確実性が問われている.この想定を打破せぬ限
り,形而上学的確実性はありえない.既に∞gito ergo sumの成立場面に於いても,欺捕者
の想定はあったが,そこではむしろそうした想定の下でも尚, agitoergo sumが成立しう
るということに重点が置かれており,その想定そのものが否定されたのではなかった.しかる
に今や,この想定は我々の認識そのものを脅かしているのである.
では,如何にして打破されるのか.それは神の存在の認識(証明)によってである,.
神の存在認織は我々の明噺判明を認識の推論的連鎖によって為されるが(これが神の存在証
明でもある),その際我々の認識は神の保証隼よらぬどころか,欺く神の想定下に行われるので
ある.我々の頼りは自己の明断判明な認識以外にない.しかるに, 「私が結局どんな証明の根
拠を使用するにせよ,常にただ私が明噺判明に知覚するもののみが,私を全く説得するという
(
ことに帰着する」.デカルトは明噺判明な認識の自己説得を,欺く神の想定によっても懐疑に
(40)
さらされていないと考えている.しかして,ここにこそ明噺判明な認識がそれ自身の客観的真
(41)
理性を確証する方途がある..換言すれば,神の存在を認識するところにこそ,我々の明断判明
井上義彦
12
な認識が,我々が認識する通りに全て真であるかどうかを知る機会があるのである.従って,
我々が一度神の存在認識に到達した時には,その事実によって我々の明断判明な認識は客観的
にも真であるということが証明され,又同時にそれにより神が欺かないことが実証され,従っ
て欺く神の想定が打破されることになる.
デカルトは言う-「私が神が在ると知覚した後には,-同時に又私は他の全てのものが神
に依存していること,又神は欺編者でないことをも理解し,そして,そこから私の明断判明に
知覚する全てのものは必然的に真であると論証した故に,云々」と.
(42)
我々の明断判明な認識は,今や客観的真理であり,従って客観的に妥当なもの,即ち実在的な
ものである. 「私が明断判明に理解する全てのものは,私が理解する通りのものとして,作ら
れ得ることを私は知っている」.換言すれば,「全て明断判明な知覚は疑いもなく或るものであ
(43)
り,従って無から出て来たものでありえず,かえって必然的に神を,欺臓者でない神を,作者
(author)として有している.それ故にかかる知覚は疑いもなく真である」.
(44)
この様に,デカルトにおいて,神の存在の認識は,単に神の存在証明に尽きるのではなくして,
同時に又それ自体(自己外の)対象認識の典型として,明断判明な認識の客観的真理性の原理
的確認,確証の意義を担っているのである.それは又,我々の主体的なcogitoの認識におい
て,初めてその原理性が自覚的に確証されるものであると云えよう.
それ故に,その結果として,明断判明な認識の真理性の神による保証が言われうるのであり,
それは神の存在認識と密接な表裏関係にあるのが,注意されねばならない.
かかる観点を見落して,その関係を外面的に捉える時に,循環論cercle cartesienが言
い出される-ことになるのである.
叉,明断判明な認識の真理性が「証明される」のは, 「第四省察以前」ではなくて,真偽を扱
った「第四省察において」であるとデカルトが言う意味を, ∽gitoの主体的認識の重視の意
(45)
図と解釈する・又それにより,循環論の問題は解決されうる,少くとも悪しき循環論は避けら
れると考えるのである.
要するに,神の存在認識に,先ず明断判明な認識の真理性の原理的確認と,次に我々の認識
において神は欺かないという確証と,従って同時に欺く神の形而上学的想定の否定と,最後に
形而上学的確実性の確認と,がかかっているのである.それ故にデカルトも「私は一切の知識
の確実性と真理性とが専ら真なる神の認識にかかっていることを明らかに見る.従って神を知
らなかった以前は,私は何物をも完全に知り得なかった」と明言するのであろう.
(46)
かくして,神の存在認識のかかる全般的な意義を考察する時に,臼から循環論の疑念は氷解
してゆくであろう.
牲
( 1 ), Windelband,, Einleitung.n die Philosophie, s. 8
2), Descartes, La Recherche de la Verite dans Oeuvres et
Lettres" (Pleiade) 、 P890
デカルト哲学における``Cogito, ergo sum,.と神の問題
IK
(3), Descartes. Discours de la Methode. I
(4), Descartes, ibid, II
(5),デカルトが省察第II答弁附録で,省察(即ち形而上学)を「幾何学的な仕方で配列された」形
で論征しようとしているのに注意されたい.又,普遍学の構想を想起されたい.
( 6 ), Windelband, Geschichte der neueren Philosophie, Bd. I, S. 177
( 7 ), Descartes, Meditationes de prima philosophia, I
尚,フッサールは「哲学はかかる省察からのみ根源的に誕生することができる」 (E,Husserl ! Cartesianische Meditationen und Pariser Vortrage, S, 44)と方法的懐疑に
ついて述べている.
8 ), Descartes, Meditationes, synopsis
9), Descartes,ibid, III
(10), Descartes, ibid, III
(ll), Descartes, ibid,(II)デカルトの方法的懐疑の発想とアウグステイヌスのそれとの類以はデ
カルト在世中から問題とされていたが,デカルト自身これを認め,メルセンヌ宛書簡で, 「私
甲r私は考える故に私は在る』に関する聖アウグステイヌスの文章のことを,貴方は以前に私
にお知らせ下さいまして,その後も再びお訊ねになった様に思いますがあれは, r神国論Jの
第十一巻第二十六章にあります」 (Lettres A Mersenne,Leyde decembre 1640)と
頬以箇所を指示している.比較の為に,特に両者が類以すると思われる文章を引用すると,チ
カルトの「しからば,欺塙者が私を欺くのならば,通いもなく私はまた存在するのである」 (
Haud dubie igitur egoetiamsum,sime fallit)と,アウグステイヌスの「もし私が欺か
れているのならば,私は存在する.何故なら存在せぬ者は又決して欺かれえないからである.
従ってもし私が欺かれているのならば,正にその故に私は存在するのである」 (si enimfallor, sum. Nam qui non est, utiquP nee falli potest:ac per hoc sum, sifallor)
〔Augustinus, De Civitate Dei, XI,管 26, 〕ここでは,
ごれについて,パスカルの言を待つまでもなく(Pascal, De L.e.sprit geometrique)
発想の類以から思想そのものの類似を云々するのは行き過ぎであろうとだけ述べておきたい.
(12)? Descartes, Dis∞urs. IV Adam-Tannery,vi, p 32
(13), B, Russell,History of Western Philosophy, p548
(14), ajections V,The Philosophical Works of Descartes (by Haldane and Ross)
vol,II,p,137
(15), Reponses V,Descartes Oeuvres etLettres, (Pleiade) p 478
(16), Reponses V, ibid.
(17), Letter from Descartes to Clerselier,The Philosophical Works vol, Up 127、
(18), Descartes,la Recherche de la Verite , Pleiade,p 899
(19), Reponses.II, Pleiade,p 375
井上義彦
14
(20), Reponses, II.ibid,p 376
(21),スピノザ「デカルトの哲学原理」 (畠中尚志訳)岩波文庫p 26
(22), H,Joachim, Descartes's Rules for the Direction of the Mind, p 46
(23), Joachim, ibid, p 46
(24), H,Sch。Iz, tiber das cogito, ergo sum, Kant-Studien Bd36 Heft
(1-2), 1931, s.146
(25) , Kant, Kritik der reinen Vernunft,B, 422
(26), Kant, ibid,B,423
(27),沢田允茂,現代における哲学と理論p49-58 vgl, Scholz,op.cit-s,140
(28), Descartes, Discours,W
(29), Descartes, Meditationes, 111
(30), Descartes, Discours, IVAT,p33
(31), Descartes, ibid. p38
(32), Descartes, Principes de laPhilosophie, I §45,AT, p44
(33), Descartes, Discours, IV
尚例えばアランもこれに関して,「言葉の上だけ」のことであり,非常に「解りにくい」と考
ぇている. (アラン:〝デカルト〝野田・桑原訳123)又.ロデイス-ルイスにも見受
けられる. (ロデイス-ルイス:デカルトと合理主義,クセジュ文庫, P16-17)
(34), L,J, Beck, TheMetaphysics of Descartes pl31 pl37
(35), Objections IV Pleiade,p435
(36), Reponses IV ibid, p461
(37), Descartes,Regies pour - Direction del'Esprit, XII ibid, p86
(38), Descartes, Entretien avec Burman ibid. pl401
(39) , Descartes, Meditationes, synopsis
(40) , Descartes, Meditationes, V
(41)、 K.Smith, New Studies in the Philosophy of Descartes. p276
(42)、 (43) 、 (44)、 Descartes, Meditationes, V, ibid. VI, ibid. IV.
かかる認識と存在の秩序の一致は,自我から神-の認識の順序と神から自我-の存在の
順序との対応関係から,考察されねばならぬ.だが,一方そこに,循環論の根本要因が
あるのも否めず,他方「デカルトは存在の認識を確認する瞬間に,存在を認識に環元す
る観念論を知らず識らずに要請した」というルフェーブルの批判はそれなりに一理ある
と思われる. (H.ルフェーブル, 「デカルト」服部・青木訳岩波書店P134-135.)
(45) 、 Descartes, Meditationes, synopsis.
(46) 、 Descartes, Meditationes, V.
(昭和44年9月30日受理)
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