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『評論集(三)』 V ol.1(PDF 172KB)
評論集︵三︶ 目次 若き世代への恋愛論 若い娘の倫理 キュリー夫人 女の歴史 女性の歴史の七十四年 結婚論の性格 新しい一夫一婦 これから結婚する人の心持 若き世代への恋愛論 宮本百合子 昨年の後半期から、非常に恋愛論がとりあげられ、いろいろの雑誌・ 新聞の紙面がにぎわった。一方に社会の有様を考えて見ると、二・二六 事件の後、尨大な増税案がきめられて、実際に市民生活は秋ごろからそ の影響をうけはじめている。煙草・砂糖・織物すべてが高価になり、若 いサラリーマンの日常は些細なところまで逼迫してきている。軍需イン フレーションは一部をうるおしているであろうが、その恩沢にあずから のであったろうか。 前後して、日本のインテリゲンツィアの間には青年論がとりあげられ ていた。青年が、現代の日本における社会情勢の中では、数年前マルク ス主義が自由に検討された時代のような若い時代の歴史性の自覚、確信、 それを可能ならしめる客観的事情もかけているし、さりとて、若い精神 と肉体とをある一部の特殊世界の人々の人生観でしばりつけられ、一面 茶色の叢のような存在におかれ切ることにも満足できず、その中間の苦 痛深い現代青年の問題をとりあげたのであった。 青年論に連関するものとしてのはっきりした見とおしで恋愛論がおこっ たともいえない状態であった。むしろ、偶然に社会の耳目をひいた恋愛 事件、恋愛による殺傷事件などの刺戟が、昨年から今年にかけてこの恋 愛論を生んでいるのではないだろうか。 そして、現在私たちの周囲にある恋愛論の多くは恋愛論の論というと おかしいが、そういう恋愛論は正しいとか間違っているとか、そういう 論の論議にかたよっているように思える。さらに特徴的なのは、恋愛に ついて物をいい、書きしている論客の大部分がほとんど中年の人々であ ることおよび、それらの恋愛論と読者との関係では、それぞれの論が読 まれはしていても現実に若い人々の生活における行動の規準となるもの をもっていないことなどが感じられる。 現代の 若い男女 のおかれて いる時代的 な境遇と いうものを 洞察して、 その脈管にふれて多難な人生行路の上に力づけ、豊富にされた経験と分 析 と で、 若 い 時 代 の 生 活 建 設 に 助 力 し よ う と す る 熱 意 か ら の 恋 愛 論 は、 残念ながら少なすぎる。ある主観的な点の強調からの恋愛論やその反駁、 さもなければ、筆者自身が大いに自身の趣好にしたがって恋愛的雰囲気 のうちに心愉しく漫歩して、あの小路、この細道をもと、煙草をくゆら すように連綿とみずから味っている恋愛論である。 の恋愛についての議論や講義の中に、自分たちの生涯の問題がとりあげ 結局生きようはない境遇におかれている若い男女が、はたして、これら 私は一人の読者として、心に消すことのできない一つの疑問を抱いて ぬ者の方が多いことは明らかである。この数年来、若い男女の経済生活 は、 中流層の崩壊につれて困難の度を加えてきている。 結婚難も増し、 いる。今日、本当に自分たちの生活を現実に即して考え、さまざまの困 難に向いあっていて、しかも勇気を振ってそれを突破してゆかなければ 従って、若い人々の間の恋愛の感情も複雑な影響をうけている。その困 そうしゅつ 難を打ちひらいて、若い時代にふさわしい希望と生活にうち向う気力を 鼓舞しようとする意気組から、これらのおびただしい恋愛論は簇出した 1 評論集(三) 1 34 31 27 22 18 13 8 られ語られているという切実なものを感じ得るであろうか。恋愛論とい 活の内容を観ることでは、ロマンティシズムの詩人たちが、心と姿とを つきだけを拡大した。人間の恋愛をとりあげるのに、精神と肉体とをそ 審美的に輝やかしく描いたに反して、肉体的な面、いわゆる獣的な結び 恋愛とか結婚とかの問題は、きわめて人生的な性質のものである。そ ういう素朴さで二元的なものに観、肉体の欲求を獣的と見たことも今日 う見出しを見て私の心にすぐくるのは深いこの疑問である。 れぞれの個人の性格、境遇が綜合的にほんの小さく見える偶然にまで作 て花咲き、匂う自身の肉体を否定したり、そこに獣を見たりしよう。人 の私たちの心持から推せば何か奇怪であり、滑稽でもある。愛を表現し 同じ恋愛についての新しい認識、方向が求められるにしろ、時代は過 間の感能がこのように微妙に組織されており、機能がしかく精密である 用して来るのだが、やはり時代というものが押し出している強い一つの 去においてそれぞれの性格を示した。明治初年の開化期の男女は、政治 ということには、それにふさわしく複雑で、多彩で、弾力にとんだ精神 ようとする心の望みが高まったとき、私たちはどうしてその熱情に応じ において男女同等の自由民権を主張したとおり、急進的に男女の自由な の活動の可能が示されているのである。恋愛のように人間の総和的な力 共通性というものがある。 相互の選択を主張した。自由結婚という言葉が、この時代の人々の行動 の発動を刺戟する場合、今日の私たちは自分たちの全人間が、その精神 と肉体とが互に互のけじめもつけかねる渾然一体で活躍し、互が互の語 を通して今日までつたわって来ている。 日本におけるこの時代は非常に短く、それは近代資本主義日本の特性 かたが、ある点逆もどりした。婦人の進歩性というのは、当時の社会の 結合の獣的と見られた面をだけ抉出して芸術化したのであったが、この ところで、日本の自然主義者たちは、そのように現実曝露として性的 りてとなって、愛する者に結合することを知っているのである。 指導力が進んでゆこうとしていた方向を理解し、それをたすけ、ついて ことの中にも、日本の社会において男が女を下に見る封建的なものは微 を語るのであるが、憲法発布頃から、恋愛や結婚についての一般の考え 来るだけの能力を女も持たなければ不便であるというところに限界をお 藤村や晶子が盛にロマンティックな詩で愛の美しさ、愛し合う男女の 発的な欲望において牝であるかどうかという点についての観察は深めな る男に対手となる女が、はたして男が牡であると同量にあるいはその自 妙に反映した。男女関係で、獣の牡牝にひとしい挙止を見た日本の自然 結合の美しさ、価値をうたった時代、現実の社会生活の中では決してそ かった。当時の考えかたに従って男を牡と見きわめて、自身の牝を自覚 かれた。恋愛や結婚についても、それに準じて、親の利害に反対しない のような誰にものぞましい結合がざらにあった訳ではなかった。進歩的 し、強請する女は、日本の自然主義文学の中には描かれていない。男に 主義の作家たちは、我知らずこれまでの日本の男らしい立場で、そのよ な若い文学者など︵例えば透谷・藤村・独歩・啄木その他︶が、新しい 岩野泡鳴はいたが、女にはそういう作家も出ず、自然主義の後期にそれ 範囲で、ひとに選んで貰った対手と、婚約時代には交際もするという程 生活への翹望とその実現の一端として、自分たちの恋愛を主張し、封建 が文学の上では日常茶飯の、やや瑣末主義的描写に陥った頃、リアリス うな牡である自身を人間的な悲愴さで眺め解剖しつつ、そういう牡であ 的な男女の色恋の観念を破って、人間的な立場と文化の新生面の展開の ティックな筆致で日常を描く一二の婦人作家︵故水野仙子氏など︶を出し 度のところが穏当とされたのであった。 立場で、男女の人格的結合からの恋愛と結婚とをいったのであった。 た女性尊重と精神的愛の誇張から生まれている男女の性生活の偽善を打 パ文化がその宗教的な伝統、騎士道の遺風、植民地政策の結果から生じ と男性の自我とが現実生活の中で行う猛烈な噛み合いを芸術の中に描い 漱石がこの明治四十年から大正初期にかけて、婦人の自我というもの 用しているかということの面白い、具体的な現われが見られるのである。 たにすぎない。このことにも、日本の社会の特徴が、男と女とにどう作 ち破る力があった。文芸思潮として日本へ入って来たこの自然主義は、当 たのは注目に価する。牡に対する牝としてではなく、人間女として婦人 ヨーロッパで、自然主義の持った役割は非常に大きく、過去のヨーロッ 時の日本の社会事情、伝統的習俗の上へ蒔かれて、男女の結合とその生 2 活というものが一般に女の自然的性格の発展を害するものとして見てい 両性の関係のみかたが一歩進んだのであったが、漱石は、日本の結婚生 味がある。 先輩、指導者としての責任感という面からの感情で見ていることも、興 香保の雪の山中に行ったりした事件に対し、漱石は、どちらかというと、 がこの社会生活に関っている心理的な面を漱石はとらえ、このことでは、 という、今日から見ると稚げとも思える一つの観念的な試みのために伊 る。彼の思想は、当時の知識人の立場を代表して自我の発見に集注して と、明治初年に青年期を送ったこの大作家の心持に秘められているさま る心理に辛辣な観察を向けている。その対照は細かくそれを眺めて行く うとロマンティックな、趣味的な気分と、結婚している女の良人に対す た。漱石が結婚しないうちの若い婦人に対して抱いていたどちらかとい また男に反射して摩擦を激しくする、その苦しい過程を描いたのであっ を社会経済生活に必要なものとだけ見てゆくようになる、その卑俗性が 的になり、嘘をつくようになり、本心を披瀝しないものとなって、ただ男 積極的な主張的なものとして出す力も社会的習慣をも持たない女が内攻 男の自我と女の自我との相剋に、原因をおかれた。そして、その相剋を だけ人間的に社会的に高められ、進んだものであったかということにつ し得たに止った。そしてその女性たちの選択の自主性が、はたしてどれ の恋愛や結婚にしろ、わずかに当事者たちの選択の自由、自主性、を示 かに過ぎ去っているのであったから、そういう主張をした婦人たち自身 で気焔をあげているところがあった。母権時代は、現実の上には遠く遙 人にその主張の土台となる経済力を与えていなかった。いわば親がかり ればならないという主張であったけれども、当時の社会、経済生活は婦 始の女性は太陽であった。婦人の自由は社会生活の全面に確保されなけ 存在を主張しようとする欲望の爆発として、歴史的なものであった。原 ディレッタンティズムをもっていたにしろ、この社会へ女というものの 平塚らいてう氏たちによってされた青鞜社の運動は、沢山の幼稚さや ざまの時代的なものが実に面白く眺められるのである。漱石は、日本の いては、若い世代は、彼女たちの時代的経験に敬意を払うとともに、大 いたので、日本の女がたいてい結婚してわるくなるということの重点も、 社会にある結婚生活が、女を損い、そのことによって男の幸福もそこな う。若い娘に対して、この作家はやっぱり従来の日本の家庭の雰囲気が の作品の中で示し得なかったこともまた大いに注目すべき点であると思 くいいながら、それならば、と新しい生活の方向、結婚や恋愛の道をそ おいて、結婚生活において、形式から縛られた貞潔ではなしに、自発的 殿様の切りすて御免風な女に対する関係を否定したのであった。恋愛に 旧 来 の 男 尊 女 卑 に 反 撥 し て、 男 と 女 と の 結 合 に つ よ く 人 間 性 を 求 め た。 白樺派を主とする人道主義の人々は、出生した環境、階級の関係から、 なる疑問をのこしているのである。 生んだ内気なもの、淑やかなもの、人生に対して受動的な純潔、無邪気 な 自 身 の 愛 情 に 対 す る 責 任 と し て の 貞 潔 を、 自 身 に も 婦 人 に も 求 め た。 われていること、結婚生活の外面的な平和や円滑さに対する懐疑をつよ に満ちている美を美として認めている。漱石が、自分の恋愛に対して自 確かに白樺派に属する若い人々は、まじめに、軽蔑など感ぜず女に対 人間として完成する伴侶としての男と女との結合ということがこの時代 あったことも興味ふかい。漱石は、彼が生きた時代と自身の閲歴によっ し、たとえば小間使いの女との間に生じた関係をも全心的に経験したで 主的であり、捨身である女を描くことができたのは、きわめて幻想的な て、日本の知識人の日常生活の桎梏となっている封建的なものに、最も あろう。女を一人の女として、階級のゆえんで蹂躙したりは決してしな には眼目とされたのであった。 切り込んだ懐疑を示した作家であった。けれども、一面では、自分の闘お かったであろうが、概して、これらの若い人道主義者たちの人間性とそ ヨーロッパの伝説を主とした﹁幻の盾﹂や﹁薤露行﹂やの中の女性だけで うとしているものに妥協せざるを得ない歴史の遺産が彼の心の中にあっ れに対する善意とは抽象的なものであった。これらの人々は、どんなに 自分は善意をもっており、誠実な心であっても、客観的にそれが現実の て生きていた。 当時、まだ若かった平塚らいてう氏と森田草平氏とが、ダヌンツィオ の影響で、 恋愛は死を超えるものか、 死が恋愛を負かすものであるか、 社会関係の内に行動されたときどういう作用を起すかということについ 3 評論集(三) 故にだけ、その美徳を抽象して賛歎しているような悲しき滑稽が出現す 代の農村の実状からとびはなれて、二宮尊徳をその誠意や精励、慧智の れは直接恋愛についてではないが、たとえば武者小路実篤氏が今日の時 ては比較的知っていない。その点での社会性はいたくおくれている。こ 解決し得るものではないという事実を過小評価する結果に陥った。 問題だけを切り離して当時の社会の歴史的、階級的制約の外で急進的に 性関係とその論理の確立を求めたのであったが、一部の人々は、両性の 処理を志した。健康で、自主的で社会的責任によって相互に行動する両 てつつある事実は、世界の進歩的な男女に、男と女との恋愛や結婚の幸 められた複合単位として経済的、政治的、文化的に男女一対の内容を育 て、婦人の性を妻、母として保護しつつ、社会的にますます人間性の高 に大きい影響と変化とを与えた。ソヴェト連邦は新しい社会の機構によっ としての自覚、その解放のための運動は、日本でも恋愛と結婚との実際 欧州の大戦と婦人の職業戦線の拡大、労資の問題の擡頭、民衆の階級 行われた。女は、ある場合それに対して本能的に反撥を感じながら、組 もふくめて女を一時便宜上のハウスキイパアとして使うことの合理化が して、正当な抗議をしながらも、一部の活動家の間には、性的な交渉を たとえば、女を生活の便宜な道具のように見た古い両性関係の伝統に対 脚 に か ら み つ い て 来 て い た 封 建 的 な も の と の 格 闘 に よ る も の で あった。 い前進部隊のこうむった被害の最大なものは、いりくんだ作用で彼らの の発展のために与えているのであるが、性問題の実践にあたっても、若 日本における過去の左翼運動の若さは、いろいろの深刻な教訓を我々 福の土台となっている社会事情についての理解やその歴史的発展に対す 織内の規律という言葉で表現されたそういう男の強制を、自主的に判断 るのである。 る認識に一定の方向を与えた。マルクス主義の理解は、恋愛、結婚問題 する能力を十分持たず、男に服従するのではなく、その運動に献身する け な げ についての態度を従来の女性解放論的なもの、あるいは男女平等論風な のだという憐れに健気な決心で、この歴史的な波濤に身を委せた。性関 き は ん ものとはその本質において異ったものとした。抽象的に恋愛における人 格の価値や自由をとりあげていた過去の態度に対して、 新しい常識は、 係における自主的選択が女に許されていなかった過去の羈絆は、そうい う相互のいきさつの間に形を変えて生きのこり、現れたのであった。 大衆の組織が、短時間の活動経験を持ったばかりで、私たちの日常の われわれの恋愛の根底において支配している経済力と個人との関係、そ こから生じる恋愛の階級的質の相違、恋愛の自然な開花の可能と社会事 耳目の表面から退潮を余儀なくされて後、その干潟にはさまざまの残滓 くもない経験の慎重な発展的吟味のかわりに、敗北と誤謬とを単純に同 情の進展との相互関係などについて、積極的に会得するようになったの 当時、おびただしい困難と歴史性からの制約と闘いながら、社会進歩 一視し、ある人々は自分自身が辛苦した経験であるにかかわらず、男女 や悪気流やが発生した。いかにも若い、しかしながらその価値は滅すべ のために献身した若いマルクス主義者たちの実践は、方向としては健全 の問題、家庭についての認識など、全く陣地を放棄して、旧い館へ、今 であった。 で遠大な目標を目ざしつつ、日常の錯雑した現実関係のうちで、実にさ 度は紛うかたなき奴となり下って身をよせた。 しかし、若い世代は一般的に年齢が若いだけの必然によって、そうい まざまの価値ある経験の蓄積をのこしている。どんな思想も抽象的に在 ることはないのであるから、当時の最も進歩的なものも、日本の社会生 生活態度全般にわたって帰趨に迷うとともに、恋愛、結婚の問題につい う歴史の上での逆行は本然的に不可能であると感じており、しかも一方 新しい世界観によって導かれたこれらの若き一団の前進隊は、過去か ても、決して、簡単明瞭な一本の道には立っていないのが今日の現実で 活が過去からもち来している古い重荷のために微妙な曲線を描かざるを らの家族制度に強制された形式的な夫婦関係、小市民風な、恋愛は絶対 あろうと思う。優秀な、着実な今日の若い人々は、決して、反動家のよ に は ま す ま す 逼 迫 す る 経 済 事 情、 自 由 な 空 気 の 欠 乏 な ど が 顕 著 で あ り、 であるというロマンティックな考えに抗して、唯物論者の立場から、広 うに野蛮な楽天家でもなく、卑屈な脱落者のように卑屈でもあり得ない 得なかった。とくに男女の性生活の新しい社会的認識の面では。 汎、多岐な人間生活の一部門である性問題として恋愛の科学的、社会的 4 の激しい労働に対する嫌悪と文化の欠乏を痛感している。私の知ってい るある娘はこういった。 ﹁私は東京で嫁に行きたいと思っていたんですけ のである。 私たちは、自分たちが生活している環境も無視して恋愛も結婚も語る れど。︱︱田舎は煙ったくて、煙ったくて。﹂その娘の煙ったいというの いる。哲学者三木清氏は、この原因を地方的文化の確立がないから、都 化の面で、地方は常に都会からおくれなければならない関係におかれて 現代の社会の機構が、都会と農村との生活的距離を大にしており、文 ひまもあり、最低ながら文化的なものを日常の生活の中にとり入れるこ て生計が営める。婦人雑誌をよむひまも、そこに出ている毛糸編物をやる 巡査にしろ、小学校教員にしろ、その妻は畑仕事が主な仕事ではなく る、その煙が辛い。ガスのある東京で世帯をもちたいというのである。 だ ことができない以上、農村の若い男女の実際と、都会の若い勤労者の間 は本当に煙のことで、田舎では毎朝毎夕炉で粗朶をいぶし、煮たきをす 会の文化がおくれて、しかも低い形で真似られているにがにがしさと見 とができるであろうという若い女の希望も、この事実の裏にあると思う。 そ でのこととでは、いろいろ違ってくると思う。 ていられるが、近代の農村と都会とをつないでいる経済関係を知ってい ブルジョア文化というものは、何と奇体に不具であるだろう。たとえ ば近頃の婦人雑誌を開いて見れば、女がいつまでも若く美しくている方 るものは、文化の根底をもおのずから、経済的なものと観ざるを得ない。 地方の小都会や農村の若い人々の恋愛や結婚の実際は、その人たちが進 歩的であればあるほど、 多くの困難にであわなければなるまいと思う。 法から、すっきりとした着付法、恋愛百態、輝やかしい御幸福な新家庭 と くに、 総 領 の 息 子、 あ る い は 家 督 を と る 一 人 の娘 と い う よ う な 場 合、 の 写 真 な ど、 素 朴 な 若 い 女 の 目 を み は ら せ る 写 真 と 記 事 と の と な り に、 想化された構図で、田舎の生活スナップや労働の姿などが撮られて並ん これらの誕生の不幸な偶然にめぐり合った人々は、今もって家のために、 最近とりわけて農村生活の幸福を再認識させようとして絵画化され、空 親を養い、その満足のために、結婚がとりきめられ、そこでは家の格式 でいる。農村の現実の中で明け暮れしている者の胸に、それらの農村写 真の非真実性は自然映ってくるであろう。こんな綺麗ごとではないと思 だの村々での習慣だの親類の絆だのというものが、二重三重に若い男女 の心の上に折り重ってかかってくる。 農村での生活がたち行く家庭で若い人々の負う荷はそのような形だが、 わずにいられまい。その感情で、都会の姿もここに見られるばかりでは 政府は東北局というものを新しくつくらなければならない程度に、日本 て顧みられ、都ぶりに好奇心や空想を刺戟され、カフェーの女給の生活 だけであろうと思う。田舎での女の暮しの楽しみ少なさばかりが際立っ 貧農の娘や息子の青春は、どんな目にふみにじられていることであろう。 あるまいと鋭く思いいたる若い女は、数にしたらごく少数の怜悧な人々 の農村は貧困化している。売られて都会に来る娘の数は年を追うて増加 処女会の訓練法は、はたして若い女の進歩性をのばしているであろう でさえ、何かひろい天地に向って開いている窓ででもあるかのように魅 小さい自作農の息子が分家をするだけの経済力がないために結婚難に か。進歩的な農村の青年らが希望する女としての内容を与えているであ して来ている。矯風会の廃娼運動は、娘が娼妓に売られて来る根源の社 陥っていること、またそういうところの若い娘たちが、また別の同じよ ろうか。このことには再び多くの疑問がある。封建的な家というものの 力をもって見られるのであると思う。 うな農家へいわば一個の労働力として嫁にもらわれ、生涯つらい野良仕 重さ、近代的高利貸の重さ、昔ながらの少なからぬ風習の重さ。これら 会悪を殲滅し得ない。 事をしなければならないことを厭って、なるたけ附近の町かたに嫁ぎた がる心持。ある座談会で杉山平助氏は、中農の娘が巡査、小学校の教員、 に立ち向って農村の進歩的な青年男女は、彼らの若い人生の路を推し進 農村に現金が欠乏しているからと、語っておられる。それも確に一つの りの重さに息をとめられてしまう。何とかしてその重さをはねのけよう められる路である。どうせ、といってなげ捨ててしまえば、たちまちまわ 村役場の役員その他現金で月給をとる人のところへ嫁にゆきたがるのは、 まなければならないのである。それは行手の長い、実につよい根気の求 原因ではあろうが、今日、婦人雑誌の一つもよむ若い農村の娘は、耕作 5 評論集(三) くいわれる言葉ほど昔風で、悲しく屈伏的なものはないと思う。私たち もつことであると思う。男も女も家庭をもったらもう駄目ですね、とよ とができたら、現在の農村の生活の中ではすでに大きいプラスの意味を きている。これまで、男といえば菊池氏流に、貞操というようなものは 別が生じている。男の貞操とか女の貞操とか対比的によく問題となって 常に多くの相異をもっている。青年のうちにまたなかなか複雑な型の類 一口に男といっても、今四十前後の男と青年とは気質にも慣習にも非 その心持を恋愛論にひかされるのは、今日の恋愛と結婚のありように対 は人間性を埋められる場所として家庭をあらしめることは許さない。こ ないもの、多妻的本性によって行動するものと単純に自覚されてきてい とする欲求、その生々しい力、そのようなものを互にもっていることが の社会で、家庭というものが、そういう青春や恋愛の埋めどころでない るが、現代の青年ははたしてすべてが、そういう単純な生物的な一機能 する真摯な疑問と、その解決の要求からであると思う。 ものとなるために、人間らしい、共同的な小社会としての家庭を来らし に全人間性を帰納させた生きかたを自分の生きかたとしているであろう わかりあって、その力をも合わせ集めるつもりで若い一組が結びつくこ めるために、私たちは自分の家庭生活そのものをもって闘って行かなけ か。私は、現代の青年のある部分は、性的なものを多様な人間の生活要 ある人が、こういうことを話した。日本では恋愛論とさえいえばよく いる。抽象的に未来の妻となる女に対する貞操とか、何か宗教的なある 素の一つとして、綜合的に自覚しているもののあることを現実に知って タイプ ればならないのだと思う。 売れる。婦人雑誌を売るには恋愛論なしでは駄目だ。ところが、イギリ いは生理的な潔癖性からでなしに、人間としての自分が肉体で結びつく てなくはない。 までには、やはり人間的に愛し得る婦人を必要とするたちの青年が決し スでは、恋愛論では売れず結婚論ならば売れるそうだ、と。 私は、深い印象をこの言葉からうけた。イギリスは、フランスなどと 違って、結婚は男と女との相互的な選択、友情、恋愛の過程を経て結婚に 活にたえぬ要素の上に立つ恋愛は、研究するまでもなく数も多いであろ は情痴的な破局的な恋愛、あるいは恋愛期だけで消滅して永年の結婚生 をその生涯で完成させる道として考えられている。浅く軽い恋愛、また ている一組の男女が、さらに深く結ばれ、豊かに溶け合い、いわば恋愛 の一団があった。そしてその納得できなかった青年たちはある人のとこ る人たちはその見解に納得したであろう。ところが、ある納得せぬ人々 病気にさえならなければよい、という意味のことを語ったそうである。あ が閉されているのだから売笑婦によってドシドシ処理して行ったらよい、 その学者は、青年たちに、性的な欲求は現代の社会で、その自然な解決 あ る 唯 物 論 者 と い わ れ て い る 人 が、 某 大 学 の 学 生 の 座 談 会 に よ ば れ、 う。恋愛を夫婦愛の中核として見て、その発展と成熟との間におこる種々 ろへ来て訴えた。自分たちは道学者流に考えているのでもないし、性的 到る習慣をもってきている。彼らのところで結婚というものは愛し合っ の問題こそ研究さるべきであるという常識は、日本の、現在でもなお結 経験に対して臆病であるとも思わないが、性的衝動を感じて、その解決 をねがっても売笑婦のところへはどうしても行けない。いいとかわるい 婚と恋愛とを切りはなして考える慣習と対蹠をなしている。 昔の日本人は、封建の柵にはばまれて、心に思う人と、親のきめた配 一方に、同じ年頃の青年でも、そういう面での欲求は至って何でもな とかではなく、行く気になれない。あるいは不便で不幸かもしれないが を市民的常識にうけいれられた生殖の場面、育児の巣と二元的に考える く 売 笑 婦 の と こ ろ で 放 散 さ せ、 若 い 女 と は そ う い う 要 求 か ら で も な く、 偶者とはほとんど常に一致しなかった。現在は、菊池寛氏のように恋愛 中年の重役的認識と、恋愛は楽しくロマンティックで奔放で、結婚は人 結婚しようというわけでもなく遊ぶという青年の型が生じている。そう 行けない、といっているのである。 生の事務であると打算的に片づけている資本主義末期の若い男女の一群 いう型を知識人のある人は何の疑問もなく、現代の賢い青年と呼んでい を広義の遊蕩、彼のいわゆる男の生物的多妻主義の実行場面と見、結婚 とがある。 批判 的 で 建 設 的 に こ の 二 度 と な い 人 生 を 生 き よ う と し て い る 男 女 が、 るのである。 6 さいわい、互に働いている男女が愛し合うとして共稼ぎということが 情の中には映って来ることさえあるのである。 婚は結婚。そして、結婚には、対手の経済的な力を第一の条件とする娘。 問題となって来る。医学博士の安田徳太郎氏は六七十円の共稼ぎで、女 同じような型で、賢い若い女といわれる人々がある。恋愛は恋愛、結 そういう若い女は、現代社会の富の分布の関係から、当然、自分よりずっ い。経済的にもそうしなければやってゆけない。それでも困るし、と共 が呼吸器を傷う率が高いことをいっていられた。今日の社会では女が働 地道な若い下級サラリーマンや、職業婦人の間に、今日はこんな世の 稼ぎの生活を女が躊躇すると同時に、せめて家庭をもったら女房は女房 と年長の男を良人とし、やがて良人は良人として、妻は妻としてそれぞ 中だからよい恋愛や結婚は望んでも駄目だという一種の絶望に似た気分 らしくしておかなければ、と共稼ぎをきらうために結婚しない男もある。 いてかえってきて、やっぱり一人前に炊事、洗濯をやらなければならな があるのも事実だと思う。青年たちは、自分たちの薄給を身にこたえて だが、このように錯雑した恋愛や結婚の困難性に対して、はたして打 れの形の裏切りを重ねてゆくわけである。 知り、かつ自分の上役たちにさらわれてゆく若い女の姿を見せつけられ の結合をのぞましいものと告げているのだが、日本の社会の現実で、愛 知らざるを得ない立場におかれている。私たちの新しい常識は、職場で 今日の若い勤労生活をしている人々の間でさえ、まだ恋愛や結婚はどこ 観 察 さ れ、 批 判 的 にと り あ げ ら れ な け れ ば な ら な いと 思 う。 な ぜ な ら、 私は、今日一般にいわれている困難性そのものがもう一歩つき入って 開の路はないのであろうか。 情の対象を同じ職場で見出すことはほとんど絶対に不可能に近い。大経 か現実から浮きはなれたところをもって感情の中に受けとられていると すぎている。職業婦人たちは、それぞれの形で、いわゆる男の裏面をも 営の銀行、百貨店、会社はどこでも、そこに働いている男女の間の恋愛 安逸さ、華やかさを常にともなって考えられていないと、いい切られる 思う。世の中のせち辛さはしみじみわかっている反面で、恋愛や結婚に 人が大衆の貧困化から強いられて来ているように、家計の支持者である であろうか。男の人々も自分の愛する女、妻、家庭と考えると、そうい や結婚を禁じている。もし、そういう場合には、どちらかが、多くの場 としたら、困難は実に大きい。若いサラリーマンの給料は妻を扶養する う名詞につれて従来考えられ描かれて来ている道具立てを一通り揃えて ついてはブルジョア的な幻想、そういう色彩で塗られて伝えられている のもむずかしく思われるほどだのに、ましてその家族の負担などは考え 考え、職業をもっている婦人だって妻は妻と、その場合自分の妻として 合女が職業をすてなければならない。けれども、今日多くの若い職業婦 ることもできまい。男にも経済的に助けなければならない家族がある場 のある一人の女を見ず、妻という世俗の概念で輪廓づけられているある 女のひとの側から、男を見る場合そういうことがないといえない。あ 合がむしろ多いであろう。下級勤人ほど、この家庭の経済的羈絆はその それに、一つの職場中でも、伝統的な男尊女卑はのこって作用してい のひともいいけれど、結婚する対手となるとまたちがう、という標準は 境遇の女の姿態を描く傾が、決して弱くはないと思う。 る。職業婦人の感情には、集団としてその し き た りに反撥する感情の潜 何から生じるのであろう。そこまで深く調和が感じられないという意味 肩に重からざるを得ないのである。 んでいることは自然であり、男の同僚たちも、男尊の一般的傾向にしば られ女に親切な男として仲間からある笑いをもって見られることを厭う。 のときもあろう。だが、良人としてはもっと何か、というとき、やっぱ り妻を養う経済力とか地位の将来における発展の見とおしとか、そうい 若い女が素朴に恋に身を投げ入れず、そういう点を観察することが小 馘首の心配に到る前に、これらの重複した原因から、男と女とは、一つ ている。人間の心理は微妙であるから、自然な状態におかれればおのず 市民の世わたりの上で賢いとされた時代もあった。いわゆる人物本位と う条件がつけ足されて選択の心が働くことが多いと思う。 から親密さや選択の生じる若い男女が、はじめからある禁圧を意識して いうことと将来の立身出世が同じ内容で、選択の標準となり得た時代も テーブルのあちらとこちらとでも、まともに対手を眺めようとしなく成っ 日々対していることから、牽引が変形して一種不自然な反撥となって感 7 評論集(三) 、 、 、 、 私は誠意をもって生きようとするすべての若い男女たちに心から一つ うであろうと、重役には重役の息子がなるのが今日の経済機構である。 ていることから湧いている。精励な会社員はあくまで社員で、人物がど の人物本位という目やすが自身の社会生活の生涯に当てはまらなくなっ 地上から二三尺のところを漂い流れているものがあって、それを何かの れる社会的な発展進歩への価値こそ現実のものである。ふわりふわりと る。その相手と共にこの人生に築きあげてゆく愛の形、最もよく発揮さ ぐりあった相手しか、現実に私たちの愛せるものは存在し得ないのであ 私たちが生きているこの現実の中で、愛し合う可能の下におかれ、め 的なものに転化してゆくつよい共同の意志と努力とが必要である。 のことを伝えたい。それは、好きになれる相手にであえたならば、いろ はずみで指先にかけつかまえたものが、いうところの幸福な恋愛と結婚 遠い過去にはあった。けれども今日の大多数の青年の苦しみは、明治時代 いろのつけたりなしで、 そ の ひ とを好きとおし、結婚するなら二人が実 との獲得者になるのではない。 近頃唱えられているヒューマニズムの論は、性生活においても、その 際にやってゆける形での結婚をし、勇敢に家庭というものの実質を、生 きるに価するように多様なものに変えてゆくだけの勇気と努力とを惜し 自分たちの人間性の主張をもっと強く、現実的に、自分たちのおかれて の近代社会の勃興期におけるロマンティシズムのような、現実へ働きか 自由や豊饒さを語っても、結局はロマンティシズムに堕ちる。十九世紀 むなということである。そういう意味で、今日の若い男女のひとびとは、 自由な発露と豊饒さを主張しているのであるが、現実の事情をはなれて、 いる境遇の内部から発揮させなければならない。そうして行かなければ ける情熱としてではなく、今日の分裂的な恋愛、とくに日本においては、 な漁色の姿をおおいかくしている結果になる。 逞しい生活意欲という仮装面の下に、危うく過去のあり来りの男の凡俗 一つの恋もものにならないような世の中である。 私は君を愛している、というだけでは今日の社会で恋愛や結婚の幸福 はなりたたず、金も時間もいるというブルジョア風な恋愛の見解に対し 境とその推移の本質を見とおし、恋愛においても、偸安に便利な条件を ヒューマニズムとは、勇気と沈着さとで我々がおかれている現実の環 いる。その男たちは生活の資本として労働力をもつばかりであると同時 左顧右眄して探すのではなく、愛しうる ひ とを愛し抜こうとしてゆく人 て、ある青年はこういう抗議をしている。現代には新しい男が発生して に、愛する相手の女に与えるものとしては、私は君を愛する、という言 間の意志とその実践と、その過程に生まれてゆく新しい社会的価値の発 ︹一九三七年四月︺ ﹁宮本百合子全集 第十四巻﹂新日本出版社 一九七九︵昭和五十四︶年七月二十日初版発行 ろう。そう自分の心にきいてみると、この答えはなかなか簡単なようで このごろの若い娘さんたちはどんな心持で、何を求めて暮しているだ 若い娘の倫理 マニズムの精髄であらねばならないと思うのである。 欲する人間の努力を全面的に支持し、発展させる熱意こそ、今日のヒュー 見であると思う。現代の苦しい社会的矛盾の間に生きて、ゆがむまいと さ こ う べ ん 葉しか持たない場合、この言葉が何事をも意味しないといえるであろう か、と。 若き世代は、生活の達人でなければならない。世わたり上手が洞察の できない歴史性の上で、生活の練達者とならなければならない。恋愛や 結婚が人間の人格完成のためにある、といえばそれは一面の誇大である が、真の愛の情熱は驚くばかりに具体的なものである。必要を鋭くかぎ わける。理論的には進歩的に見える男が家庭では封建的な良人であると いうようなことも、良人と妻という住み古した伝来の形態の上に腰をお として怠惰であるからこそのことで、もし愛がいきいきと目をくばって 現実の自分の相手を見ているのであったら、たとえば、若い人々の家庭 の持ちようというものにも、単にアメリカ化したエティケットの追随で 男も皿を運ぶのがよき躾という以上の共同がもたらされると思う。共同 に経験される歓び、そして現代では共同に忍耐され、さらにそれを積極 、 、 8 、 、 、 、 相当むずかしいのではなかろうか。今の娘たちの青春は、青春時代その している自分たちの心持、生きかたを、手際よくまとめて答えることは 二六時ちゅう動いていて、しかもそこに何かの帰趨を見出して行こうと り極めて動的な感じでうって来て、娘さんたち自身にしろ内と外とから 簡単でない。この頃の娘さんたちというひっくるめての表現は、いきな 私は娘なのよと云うとき、そこには若い女性としての自分の生活の領域 と 思 わ れ る。 実 際 の 条 件 が そ れ で ど う 変 化 し て い る か は 兎 も 角 と し て、 自分への反撥として、より簡素な娘という云いかたへの趣向があるのだ られる境遇の格式ばった窮屈さや、どこかでその力に従わせられている いる。お嬢さん、と云われることのなかにおのずから重苦しく感じさせ くぴちぴちした娘という響を自分たちの若さの表徴とする好みになって 職業をもつことを、大抵のひとが自分たちの若い時代の生活に結びつ ものが一つところに立ちどまっていられない愉しく苦しいものであると ていて、彼女たちの気持を複雑にしている。これは今日世界のあらゆる けて不思議としていない今日の心持も、やはりこのお嬢さんぎらいの感 が主張されている。 国々の娘たちが遭遇しているめぐり合わせであると思う。そして、そう 情と共通の根をもつものだと考えられる。それぞれの程度で学生生活が いう以外に、歴史の大きい転換の時期の影響が様々な方角から射して来 いう複雑な歴史的な時代の影響というようなものも、特に若い娘さんた 終ったら、そのつづきで職業が持たれて行っている。就職のくちが割合 面へ婦人の進出をもたらしているのだけれども、それらの職業について ちにとっては感性的な生活の気分として感じられ、その中に生きられて 日本の今日の娘の生活という見出しで、たとえばルポルタージュ写真 ゆく娘さんたちの内面的な動機にふれてみれば、婦人の技能の拡大のた どっさりあるということは今日の社会の条件からおこった需要で、各方 を撮るとなれば、これも手の込んだ仕事になるだろう。あるひと月をきめ めという建て前からより、職業でも持てば、とそこに予想される自分の いるのが強い特徴である。 て、その月に現れる婦人雑誌の口絵写真を眺め合わせただけでも、ひと 幸福を求めている気持を親にばかり託しきれず、一人の娘として世間と 娘 と し て の 生 活 の 何 か の 動 き、 何 か の 自 立 性 へ の 希 望 か ら だ と 思 え る。 になって来ているか。一方の端と他の端とではその日その日が何とも云 の接触のなかにそのきっかけをも捉えたい心持が潜んでいるのではない くにち娘さんと云われる年ごろの若い女性の現実が、どんなに多種多様 えない大きいちがいをもって殆ど別天地のような姿を見せている。一つ だろうか。 よく婦人雑誌に出るこの種の働く娘さんの、経済のやりくりを見ると、 の雑誌の写真には、美しい流行の服装をした令嬢が一匹数百円よりもっ としそうな堂々たる犬を左右において、広やかな庭前で写真にとられて りに田の植付けをしている娘さんたちの姿がうつし出されていて、両極 他の雑誌では、機械工として働いている若い娘さんたちの姿、男がわ ちの 月給でまか なっている。 大きい買物と いうのに は服、 靴、 ハンド ・ いる。小さい買物だのお茶をのんだり映画を見たりすることは、自分た たちは、自分たちの小遣帳に大きい買物、小さい買物という部をわけて 職業との結びつきの本質がまざまざと語られていると思う。こういう人 端の現実に生きている娘さんたちは、互に心の底で何てちがう生活だろ バッグ、帽子その他が入れられるのだが、これらの大きい買物はみんな いる。 うと感じながら、しかし格別責任もない消費的なような目でそれぞれの 親に出して貰う。そして、その金額についてはひとしく沈黙が守られて 従って、そういう娘さんたちが職業について、真に獲得して来る経験 れば足りないことが考えられることもされないのである。 働く婦人として受ける報酬という社会的なこととして、それが足りなけ え る と い う こ と も な い ら し く、 自 分 だ け で は 解 決 さ れ て い る の だ か ら、 いる。そういう基本的なところをまかせている生活態度について深く考 生活を眺めあっているのだと思う。 それでいながら、やっぱり何か求めて生きているということでは共通 で、時代の色もそこに濃くあつめられているのである。 お嬢さんという境遇にいる若いひとが、この頃は自分たちにつけられ るそういう呼び名を嫌って来ていることも面白い。何かそこに安住して いられないものがあって、もっと虚飾のない、むき出しの、だが愛らし 9 評論集(三) 先ず正直に云って、職業そのものからも、その職業の場面で接触して にも思いをかけるようになっているのに、他の現実は男の古風な面、女 好む好まないにかかわらず、変って来ていて、自分としての生活や成長 ングン女をひろいところへ押し出しているし、女の心持もいつしか女が 来る人々からも、大抵は一種の幻滅を感じて来ていると思う。ここに、若 のそれに準ずる面で実際条件の対決を迫っているのである。言葉をかえ は、果してどういうものだろうか。 い娘の複雑な社会での扱われようも関係していると考えられる。若い娘 て云えば、今日の若い娘たちは、菊池寛の、娘は白紙がよいというモラ 大きい買物、小さい買物という暮しぶりの娘さんがこの迷路に引きま たちは張りきって、力いっぱいの活力を生かされることを願って、頬を で発展的な系統的な部署へつけられる娘は少くて、大概は機械的な、力 わされた揚句、つまりは現状維持の気持に裾をとられてゆく過程は、誰 ルに一斉の抗議を表しながら、一方にそれをよしとする男を余りはっき のあまる、単調な場所におく。女をそういうところで働かす社会の習慣 の目にも見易いことであると思う。職業をもったということは、彼女た 輝やかしながら職場の第一日を迎えるだろう。ところが、日が経つにつ はまだまだ一般につよく遺っているのである。自分の月給で小さい買物 ちに、自分のとれる金銭のたかを教え、同じ環境の青年たちの経済力の り目撃することで動揺し、不安になり、結婚に対しても職業に対しても、 だけすれば生活の根本に不安のない、いくらか生活力に溢れた娘さんた 小ささを教え、逆効果として、大きい買物をまかせられる力の味を一層 れて殆ど総ての職業の平凡さ、種々の職場内の伝習の固陋さ、自分にあ ちは、社会のしきたりが女の実力を育ててゆく習慣の上にその位おくれ 身にしみて感じさせる。自分の生きかたを外から眺めるだけの目をもた あぶはちとらずな気持の地獄におち入るのである。 ている歴史の反映として、自身の内部にもおくれたものは持っているの ないある種の若い娘が、そういう力を背中にもっていることから自分が てがわれる仕事の詰らなさが遣り切れなくなって来る。いろいろの意味 だから、職業は職業として理解して確りそこで腰を据えて新領野をひろ 享楽出来ている様々の消費を、青春の夢の実現の一つの形と思いこむこ つ、女の幸福というものへの二度目の疑問を抱きはじめるのが、非常に と見られる。小さい買物の範囲でいくらか羽根をのばした気慰みをしつ 断で自分たちは前時代の女の感傷は失っているというようなことを、何 会で必要なのは金であり、良人はそれ故金持でなければならず、その判 とは、たやすく想像出来る。そして、娘心のその夢の実現のために今の社 もその外へ目をくばって、何となく不安そうにして絶えず何かを求める てみれば、否定する娘さんは恐らくそう沢山はあるまい。けれども、或 最も俗っぽい、青春の誇りを失った本質のものであることを、こう書い 恋愛し、結婚し、母となってゆきたい欲望とは、本来女の生活力の綜合 を求めさがしている気持には、無視しきれない視線を感じるのである。 この誤りの中からもその第一歩に在った動機として若い娘が自分の生活 10 しっか げるように独創性や機智を発揮しようという気にはならないのが普通だ 多くの例ではないだろうか。 ようにしている心理は、極めて微妙に現代の社会の矛盾を語っていると る種の人たちのように、はっきり率直にその転落を表明もせず、従って か新しい価値のように思う不幸な敗北を告白するのである。この結論が、 思わずにいられない。男は職業に責任をもってそれで生活してゆく実力 それを考え直すという希望のあるモメントさえ自覚されず、しかも、ど 若い娘さんが職業についていながらその職業の上におちつけず、いつ がある。けれども女は、その能力のないものとして、屡々対比されるけ こか心の奥でそういう結論に立っているのが、或は大きい買物、小さい しばしば れど、若い娘さんが職業に落着き、そこで発展をとげる気を持つ迄に到 らない心理の理由は、女の天賦にその能力が欠けているからであろうか。 買物組の、ある共通性だということは無いだろうか。 された二つの面として実現されてゆくべきだのに、周囲から女への要求 一寸話が変って、この頃の娘たちはよく外でお茶をのんだり、おしる 私たちは、ここに以上のような大きい判断の誤りを明白にみるのだが、 が、二つを綜合した自然な内容で出されることは実に稀有の例外でしか 粉屋へ入ったり、そのまた は し ごをするということが、ある滑稽さで云 そうとばかりは思えない。職業をもち、そこで成長してゆきたい欲望と、 ない。社会の一面の力は男の習慣がそれを好む好まないにかかわらずグ 、 、 、 われる。人によっては、それを現代の娘の浪費癖という風にも見ている。 家のためにも働き、いくらかは自分の生活へのゆとりをも持つ。そのゆ あったらいいのだろうか。どういうものだったら、承認したくない自分 えてゆく何かをつくってゆきたい。だが、その何かは、どういうもので 男の学生たちが喫茶店にゆくのと同じ心理のように云う人もある。だが、 とりから、若い娘として今あるがままでは承認出来ない自分の現実をか それだけだろうか。 若い娘たちがその仲間と一緒に喋るとき、大人の目と耳でそれがたと の現実に何か変化をもたらす力となるのだろう。 それぞれの条件は一応そのひとたちの内に収めて、語るとしても自分を 仲間の目からかくしておくと同じわけから自分の職業の種類さえ人の目 関心をひくところであると思う。或る場合には、面白くもないわが家を この場合でも、その何かが職業とは別のところで探されていることは、 とおして自分のこととして語ってつき合ってゆく。ところが、その家庭 からは蔭において、その上で若い娘として何かを探す。工場の若い男た え幼稚でも お ち ぴ いでも、本人たちはそれぞれ一城の主で縦横にやっ ゃ っ ている。勤めている娘さんたちは、仲間うちでは大体それぞれの家庭の へ御免下さいと入って行くと、その中での娘さんたちの在りようという ちがどっさり偽学生の装をしている。あの現象には深いこの社会での哀 なり ものは、決して勤め先で一人前に働いているその人のままの自立性では 娘の友達としてお母さんたちとの交渉が生じ、その交渉では仲間とはお への憧れや、女の子が学生服の方がすきだということやら、いろいろか こびと誇りは現実に存在していないのだから、彼等の好学心や学生生活 ない。断然、うちの娘として、独立した室を持っていないことが多いし、 れがこもっていると思う。工場から大学に通っている青年労働者のよろ のずから異った目での批評もうけなければならない。話題、その喋りか らああいう服装が出来て、その姿で文化の上に或る一つの問題を示して いると思う。 たさえ気がおける。 たとえ娘の室は立派に独立していたとして、余程鈍感な娘さんならと 特に昨今は女学生と工場の娘さんとの区別がなくなったということは、 或る意味ではうれしいことだと思う。何よりも、その年配の働く娘が急 もかく、さもなければ、やはり、友達のものではない周囲の支配的な雰 囲気に対して、居馴染みかねるものがある。お嬢さんをきらい娘という にふえて、全く装も学校のつづきで働いているからであるけれど、健康 かを友達に見せたくない職場の娘さんたちは、いろいろうるさい[#﹁い 数が大変多くなっていることを、府立第六高女の校長が近頃語っていら たとえば、昼間工場に働いている娘さんで、夜間女学校に来るひとの 妨げにはならないのである。 さは、云ってみれば朗らかに職業とは別に何か自分の生活を求めてゆく そういう娘さんは、心持も朗らかなのだろうと思うけれど、その朗らか の状態も向上しているわけだろうし、職能の範囲の未来性も考えられる。 呼びかたをこのむ心理はここにもお互に作用している。 そういううるささをさけて、じゃ、いっそどこそこで落合いましょう よ、ということになって、種々雑多な彼女たちが街頭に溢れて来る次第 なのだ。 はらから ろいろうるさい﹂に傍点]家のそとで友達と会っている他の社会層の娘 れる記事をよんだ。辛いが健気なそれらの娘たちは、夕飯をたべる間も みじめっぽく小さい同胞たちがごたついている小さい貧相なわが家なん さんたちと、椅子をぶっつけ合いつつ、おしる粉をのみつつ、暫くの気 なくやって来る。眠たい頭、つかれた体を精一杯にひき立てて勉強する。 気遣われるのは、彼女たちの生活を衛生的に助けてやりたい点であると け な げ 焔を愉しむことになる。 自分の現実をそれなりに承認したくない心持、何かそこから自分とし それらの健気な娘さんたちが、そういう努力をとおして求めているの 語られていた。 いている何十万という若い娘さんの心理に、やはり執拗に生きつづけて は何だろう。彼女たちが自分の現実に安んじていられない心からの動き ての生活をもって行きたい心持というものは、今日夥しい産業部門に働 いる欲望だと思う。今日の現実は、彼女たちにも職業についているその ことが幸福だと直接に感じられる場合は極めてすくないにちがいない。 である事は明かだと思う。その動きの方向が、技術学校ではなくて夜間 11 評論集(三) 、 、 、 、 、 、 がこの頃はよく云われているのだけれども、その立場にいる娘さんたち りだろうか。いろいろ書いたものの上などでは女子労働者の重要な意味 でも女学校へと向っているところに、何かが語られていると思うのは誤 つことを人生的な態度として行った女のひとの周囲には、時代的にその そんなことを思ってもみないひとの方が多かったのだけれど、職業をも 的な若い人たちとしての自信も矜恃もあった。働く娘さんの数は少くて、 或る積極的な方向を示すことであったと思う。 自 身 は、 そ の よ う に 重 要 な も の と し て の 自 分 た ち の 青 春 を 感 じ ら れ ず、 動 き を 肯 定 す る 青 年 た ち も い た わ け だった。 職業 に つ く と い う こ と は 、 人前では工場の仕事を蔭におく気分、技術ではない女学校へ通う気分だ で働いている娘さんが来る。めいめい、何かを求めている心で集ってい 文学の同好会のような集りへ、工場へ働いている娘さんその他の職場 となっている。それでいて、一旦そこに身をおいてみると、初めて女と はなくなって来ている。いわば自然にそこに身を置いてゆくようなこと い込んでいて、それが先覚的な人生の態度などというきわ立ったことで 今日では職業は若い娘さんの生活にもっとずっと日常のこととしてく るのだけれど、そういうとき、ごく一般的な文学談を、皆が同じように して様々のむずかしい問題に直面しなければならなくなって来て、その ということは、周囲の扱いだけの責任だろうか。 やれるということで、現実に安んじない娘さんたちの気分が満たされる としたら、 何か甚だ頼りないと思う。 娘として、 生活の幸福を思うと、 解決によりどころとなるものが非常に失われているというのが、今日の してではない部分でなければ幸福はつかまえられないように思い、自分 いて考えているが、どんな娘さんも亦そういうことを考える自分に十分 どんな娘さんも自分としての生活というものを考え、職業や仕事につ 若い女の社会条件の困難さだと思う。 としての生活や趣味というとき、そのような性質で何となく考えられて の自信と確信とを持てずにいるというのが、今日の現実ではないだろう 彼女たちも古いしきたりの標準を標準としてうけ入れて、何か働く娘と いる傾きがつよいのが実際だと思う。 な立場も全くちがいながら、しかも今日の日本に生きてゆく娘であると の不安な戦ぎとして、自信のない自分を感じながら、どうかして自信を 自信のなさということは、娘さんのきょうの不安な戦ぎだと思う。そ そよ か。しかも多くのひとは実際の必要からも働いて行かなければならない。 いうことで、職業を持っていることについて、それと連関しての結婚問 もちたいと、あちらこちらへそれとない目を走らせていると思う。これ 大きい買物、小さい買物組と、こういう娘さんとは境遇的にも社会的 題について、同じ性質の矛盾と苦しい摸索の気持とを経験しつつあるの でいいというものが掴まれていない。この不安は、社会の動き、世界の 動きが目まぐるしいにつれ、世相の推移が激しいにつれ、一層とどまる は意味ふかいことだと思う。 二十から二十四五という若い娘さんは日本じゅうで何百万人いること きてゆきたいという希望を抱いていない人は恐らく一人もないだろうと で自分としての生活をもって、それを職業だの結婚だのと調和させて生 て 画 期 的 な 時 代 に 入って い る の で は な い だ ろ う か。 あ ら ゆ る 若 い 娘 が 、 ればならない時機が来ているのではないだろうか。その意味でも女にとっ 日本の若い娘も、生きてゆく感情の上で一つの大きい成長を遂げなけ ところのない感じで、若い娘の感情に迫って来ているのだと思う。 思う。職業なり仕事なりに伸びるだけ自分を伸ばして、同時に女として 現実の自分の日々の外へ目を走らせてそこで何かの幸福、何かの自信を だろう。その人たち一人一人の胸の中をきいてみれば、今日何かの意味 たっぷりとした妻、母として生きたい願望は一般として痛切なものだと つかもうと心を空にいら立つのをやめて、自分のおかれている現実をよ く見て、それを理解して、その中からうまずたゆまず自分がこうと思う 思える。 この点では、大正七八年頃はじめて職業婦人として進み出した時代の 目下のところ、解決された形で示されている若い娘の幸福は一つもな い時が来ているのだと思うがどうだろう。 若い女のひとたちより、 今の娘さんの気持は複雑にちがって来ている。 方向へ根気よい爪先を向けて生きてゆく。そのことに自信を培うしかな その頃は、職業をもつこと自身が婦人の社会的なめざめの第一過程であ るという一つのモラルで見られていたし、その意味では職業婦人は先覚 12 んでいたら、今度パリがおちたらフランスは博物館国になっているとい れてゆけるという或る憧れやロマンティックなもので、フランス語を学 アテネ・フランセに通って勉強していたとする。人類の文化の精華にふ をとって、ここに働いている娘さんが、余暇に自分のゆたかさのために ろが、外へ外へと求められて行っては混乱するばかりである。一つの例 動いていて、そういう時代だからこそ益々若い娘の生きてゆくよりどこ いと云えるだろう。人生は激しいものである上に、今の世紀は全世界が にまでふれて理解しなければなるまい。周囲の世相が急流のように迅け こんなものである現実に飽かず何故人間は営々と努力しているか、そこ る。こんなものなら、どうして現実はこんなものとしてしか現れないか、 るということと、現実はこんなものだと分るということとは全く別であ というレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉は真実にふれている。現実を知 て 今 日 生 き て い る よ ろ こ び や 感 動 を 味 う こ と も 出 来 な い。 知は 愛 の 母、 それを愛し、そこに働きかけてゆく人間の歴代の努力のうけつぎ手とし を 大 切 に し た り 愛 し た り す る こ と は 出 来 な い。 現 実 を 理 解 し な け れ ば、 ひところ若い娘の美容法の一くさりに、眼の美しい表情は程よい読書 う風な云いかたをする人も出て、何だかその語学をつづけてゆく自信が それらの娘さんたちの若い想像力は、そうなったフランスにも自分た と頭脳の集中された活動によってもたらされる、ということが云われた れば迅いほど、私たちの知識や理解力は深められなければ、やって行け ちのような娘がどっさりいて、彼女たちはどんな心持で自分たちの遭遇 時代があった。今ではこれも長閑な昔がたりのようにきこえる。若い娘 ないようになったということも、昨今では決して無くはないだろうと想 しなければならない歴史のめぐり合わせを生き抜こうとしているかとい の知力は、ただあれもこれも知っているという皮相のところから、もっ なくなって来ていると思う。 うところ迄思いめぐらしているだろうか。そういう人生と歴史との波瀾 と沈潜した生活力と一つものと成って、生きる自信のよりどころとなる 像される。 そのものが人生であると知って、そこに沈着に愛と思慮とを失わずに生 ことを求められている時代だと思う。真に人間らしい情感のゆたかさや 人間性のひきつぎ手として自分の娘としての日々を暮してゆく。そうい すいことではない。生活から逃避することで、それらは得られない時代 装飾のない質素な生活のうちに溢れる気品を保って生きることは、たや の ど か きて、その困難さに於ても、建設の努力においても、より高まろうとする う一貫性が日本の娘さんにも無くてはならないし、無くては自分がやっ だと思う。雄々しく現実の複雑さいっぱいを、自分としての生活の建て ある艶が、若い女の明日の新しい美ともなるのだろう。 前で判断し、整理し、働きかける筋をつかみ、そこから湧く生活の弾力 てもゆけない時に来ているのだと思える。 今日の若い娘が、もしああもこうも考える力をもっていると云うなら からまわ 今日の若い娘は女の歴史的な成長の意味からも当面しているたくさん ば、その考える力を輾転反側の動力として空転りさせないで、考える力 をあつめて、生涯を貫く一つの何かの力として身につけなければ意味な の問題から自分だけは身を躱す目先の利口さを倫理とすべきではないと かわ いと思う。娘時代の絶えず求める心が描いているままの形で実現されな 一九七九︵昭和五十四︶年七月二十日初版発行 ﹁宮本百合子全集 第十四巻﹂新日本出版社 ︹一九四〇年八月︺ 思う。 キュリー夫人 いと知ると、今度はそれを全然思いすててしまうのが、これ迄の娘の習 慣のようになっている。そういう根の弱い敗北はもうくりかえされなく ていいことだと思う。娘は何のためにその母より二十年二十何年若い世 代としてこの世に送り出されて来ているのだろう。娘の心の摸索と苦し みとは何のために経験されているのだろう。やがてあきらめて自分にも 忘れられてしまうために、その思いに沈んだ夜の幾時かをすごしている のだろうか。 私たちは、どんなことにしろ、そのものの意味を知らなければ、それ 13 評論集(三) へやった。お母さんであるキュリー夫人は八月の三日になったならばそ が離れられなくて、まず二人の娘イレーヌとエーヴとを一足先へそちら ルターニュに夏休みのための質素な別荘が借りてあったが、彼女はパリ ヌ大学の学年末の用事とで、なかなか忙がしかった。フランスの北のブ 館ができ上ってキュリー夫人はそこの最後の仕上げの用事と、ソルボン 一九一四年の夏は、ピエール・キュリー街にラジウム研究所キュリー 蹂躙されたときいたときそれはみな新しい思い出となってキュリー夫人 の言葉ポーランド語を教えてやったりしていた時代の思い出。ドイツに ためにいくらかずつの貯金をし、休みの時は近所の百姓の子に真の母国 しい家庭教師として貴族の家庭で不愉快な周囲に苦しみながらも勉強の ゆるんだ教室でわっと泣き出した少女時代の思い出。また十七歳の若々 答えはしたが、その視学官が去ってしまうと、今まではりつめていた気の リー夫人は土用真盛りの、がらんとしたアパートの部屋でブルターニュ た欧州の空気はその硝煙の匂いと一緒に、急速に動揺しはじめた。キュ の皇太子がサラエヴォで暗殺された。世界市場の争奪のため、危機にあっ ところが思いがけないことが起った。七月二十八日に、オーストリア の間に結ばれた結婚の約束のその無邪気な若い二人の申し出はZ氏を烈 な教養高い十九歳の家庭教師となった時、そのZ家の長男カジミールと 特徴のある表情的な口もとの様子などで、いかにも人目を引く才気煥発 ア﹂が、その射すくめるようなしかも深い優しさのこもった灰色の目と、 ンドにはまだその外の思い出もつながれている。﹁マドモアゼル ・ マリ こで娘たちと落合って、多忙な一年の僅かな休みを楽しむ予定であった。 の胸に甦って来たであろう。ドイツ軍に掃蕩されようとしているポーラ の娘たちへ手紙を書いた。 ﹁愛するイレーヌ。 愛するエーヴ。 事態がますます悪化しそうです。 火のように憤らせZ夫人を失心させるほど驚かした。カジミールは、さ アは、その事で全く居心地の悪くなったZ家からも、契約の期間が終る んざん嚇かされ、すかされてマリアとの結婚を思いあきらめたが、マリ しかし戦争にならなければそちらへ行けるでしょうと約束した月曜に までは勝手に立ち去ることができなかった。それからワルソーで暮した 私たちは今か今かと動員令を待ち受けています。﹂ は、独軍が宣戦の布告もせずに武力に訴えながらベルギーを通過してフ パリの母は再び娘たちに書いた。 らはその苦しさにおいても、ときめきにおいても、恐ろしい忍耐でさえ び寄せる一通の手紙を受取った一八九〇年の早春のある日の心持。それ 月日。思いもかけず、パリにいる姉のブローニャから、彼女をパリへ呼 ﹁お互いにしばらくは、通信もできないかも知れません。パリは平静 もすべてはポーランドの土と結ばれているものである。そのポーランド ランスに侵入した。 です。出征する人たちの悲しみは見られますが、一般に好ましい印象を に惨たらしい破壊が加えられている。ドイツの彼らが通過した後には何 彼女は落着いた文章のうちに情熱をこめて、小国ながら勇敢なベルギー 不幸なポーランドが、ヨーロッパにおけるその位置からいつも両面から が残るでしょうというキュリー夫人の言葉は短い。けれども、そこには むご 与えています。﹂ は容易にドイツ軍の通過を許さないだろうとフランス人はみな希望を持 れに屈しきってはしまわないその運命についての彼女の意味深い回想が ち、苦戦は覚悟の上だけれどきっとうまくゆくだろうと信じていること、 の侵略をこうむりつづけてきていることに対する深い憤りと、決してそ そして﹁ポーランドはドイツ軍に占領されました。彼らが通過した後には クロドフスキー教授の末娘、小さい勝気なマリア・スクロドフスカとし されているポーランド。伯母というのは彼女の愛する姉たちである。ス キュリー夫人の不幸な故国ポーランド、しかし愛と誇とによって記念 て軍務に適さない機械係のルイと林檎を三つ重ねたくらいの大きさしか はそれぞれ軍務についた。研究所に残っている者といえば、心臓が悪く たラジウム研究所はたちまちからっぽ同様になってしまった。男の人々 八月二日にパリの動員がはじまると同時に、開設されたばかりであっ 何が残るでしょう。伯母さんたちの消息も全く不明です﹂と伝えている。 こめられているのであった。 て、露帝がポーランド言葉で授業を受けることを禁じている小学校で政 ない小使女きりであった。キュリー夫人は﹁万一の場合にはお母さんは ツ ァ ー 府の視学官の前に立たされ、意地悪い屈辱的な質問に一点もたじろがず 14 に止まった。彼女は学者としての研究の仕事は、平和がかえるまで延期 こちらに踏み止まらなければなりません﹂といっていたその通り、パリ へ預けた。 ラジウムは安全になった。翌朝キュリー夫人はその重い宝を銀行の金庫 偶然、一人の官吏が彼女を助けた。やっと夜をしのぐ一部屋が見つかり、 ずにすんだ。けれども今重い責任をはたしてパリに帰ろうとする時にな パリからボルドーへと向って来た旅行の間、彼女はまるで人目に立た であることを知った。彼女がパリに、最後まで踏み止まる決心を固めた のは、生れながら困難に負けることの嫌いな彼女の気質で﹁逃げるとい う行為を好まなかった﹂ばかりではなかった。 究所にある一グラムのラジウムを、人類と科学とのために侵略者の手か 自分の力で敵の手から守らなければならないと考えたからであった。研 たといパリが包囲され、爆破されても、新しくできたばかりの研究所は ろうということ、市民は危険にさらされないだろうということを話して の身を明さなかったが、それらの群衆に向って、パリは持ちこたえるだ 心を根からゆすっているのであった。マリアは固く口をつぐんで、自分 誰だろう? 何のために? パリが今にも包囲されるという噂が、人 キュリー夫人は冷静に、 パリの置かれている当時の事情を観察して、 ると、彼女の廻りには人垣ができた。この婦人がパリへ帰ってゆく! ら安全にしなければならないと決心したからであった。彼女の心には直 聞かせた。 たった一人の非戦闘員である彼女を乗せた軍用列車は、信じられない 覚的にささやくものがあった。 ﹁もし私がその場にいたらドイツ軍もあえ て研究所を荒そうとはしないだろう。けれどもし私がいなかったらみな いた。昨日研究所を出てから何一つ食べる暇のなかったマリアに、一人 ほどののろさで平野を横切りながら、進んだり止ったりしてパリに近づ 八月の終りキュリー夫人は十七になっているイレーヌにあてこう書い の兵士が雑嚢から大きなパンを出して彼女にくれた。それは愛するフラ なくなってしまうに相違ない。﹂ た。 ﹁あなたのやさしい手紙を受取りました。どんなにあなたを抱きしめ ンスの香り高いパンである。 キュリー夫人が帰り着いたパリは、脅威を受けながらも物静かで、九 たく思ったことでしょう。危く泣き出すばかりでした。どうも成り行きが 思わしくありません。私たちには大きな勇気が必要です。悪い天候の後 の攻撃は阻止された。 しいニュースが巷に飛び交っていた。マルヌの戦闘が始まってドイツ軍 には必ず晴れた日が来るという確信を固く持っていなければなりません。 月初めのうっとりするような光りをあびてきらめいている。そして喜ば 愛する娘たち、私はその希望を抱いてあなた方を固く抱きしめます。 ﹂ 刻々パリの危険が迫ってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全 いアルパカの外套を着て、古びて形のくずれた丸い柔い旅行帽をかぶっ の中で細い管が幾つもたえず光っている一つの大変に重い箱である。黒 未来のために働かなければなりません。物理学と数学とをできるだけ勉 い。あなたはもしフランスの現在のために働けないとしたらフランスの この新しい希望を語り﹁小さいシャヴァンヌに物理学の勉強をさせなさ 二人の娘たちはまだブルターニュにいた。マリアは彼女たちに向って、 たマリアは、単身その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の 強して下さい。﹂ なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、鉛の被蓋 中は敗戦の悲観論にみち溢れている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと 特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色を眺めていた。ボル はあたりの動乱に断乎として耳をかさず、憂いと堅忍との輝いている独 ものにするために役立とうと考えていた。毎日毎日たくさんの女の人た 完成させ、彼女を二人の娘の母にしたこのフランスの不幸を凌ぎやすい 亡き夫ピエール・キュリーを彼女の生涯にもたらし、その科学の発見を パリに動員が始まったその時から、キュリー夫人は彼女の第二の母国、 ドーには避難して来た人々があふれていて、キュリー夫人では重くて運 ちが篤志看護婦となって前線へ出て行く。彼女も研究所を閉鎖して早速 避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかしキュリー夫人 びきれない百万フランの価格を持っている一グラムのラジウム入の箱を 足許に置いたまま、 危く駅前の広場で夜明しをしそうな有様であった。 同じ行動に移るべきであろうか。 15 評論集(三) である。あわれに打ちくだかれた骨の正しい手当、また傷の中の小銃弾 病院にも戦線の病院にもX光線の設備をほとんど持っていないという事 組織を調べて、一つの致命的と思われる欠陥を見出した。それは後方の ての独創性が彼女の精神に燃えたった。マリアはフランスの衛生施設の 事態の悲痛さをキュリー夫人は非常に現実的に洞察した。科学者とし り出す。 る。こうして彼女はアミアンへ、恐怖の土地であったヴェルダンへと走 手とならんでそのほろつきの自動車に乗った。運転台は吹きさらしであ に旅をした例の丸帽子をかぶり、すり切れた黄色い革の鞄を持ち、運転 白カラーのついた黒い服の上に外套をはおり、ボルドーへも彼女ととも の運転手がガソリンをつめている間に、マリアはいつもながらの小さい ゆる部分品を組立てる。隣室には現像液が用意される。運転手に合図し 野戦病院へ着くや否や、放射線室として一つの部屋を選定する。あら や大砲の弾丸の破片をX光線の透写によって発見する装置が、この恐ろ しい近代戦になくてもよいのであろうか。 キュリー夫人は科学上の知識から、大規模の殺戮が何を必要としてい は活動を開始して先ず大学の幾つかの研究室にある幾つかのX光線装置 外の女では不可能な働き方をしなければならない。そこでキュリー夫人 は幾時間も続くばかりか、時によれば数日費された。負傷者の来る限り 人の前に、うめく人を乗せた担架が一つ一つと運び込まれ、彼女の活動 が運ばれた。それから暗い部屋に外科医と一緒に閉じこもるキュリー夫 るかを見た。罪なく苦しめられている人々のために、彼女は彼女として、 てダイナモが動き始める。マリアが姿を現わして後三十分でこれらの事 に、自分の分をも加えた目録を作り、続いてその製造者たちのところを マリアはその暗い部屋から出ずに働き続けた。 百二十班の治療班が組織された。彼女は交戦中フランス、ベルギーの三 二十台の﹁小キュリー﹂の外に彼女の努力で治療室が二百作られ、二 一巡して、X光線の材料で使えるだけのものをことごとく集め、パリ地 方のそれぞれの病院に配布されるように計った。教授や技師や学者たち の間から篤志操作者が募集された。 ろ げ た 。 そ こ で 彼 女 は 放 射 能 を 持 つ 物 質 の 資 源 を 調 査 し た の で あった。 四百の病院をたえず廻った外、一九一八年には北イタリヤまで活動をひ うな野戦病院へ殺到して来る負傷者たちをどうしたらいいだろう。キュ 専門の治療者も急速に養成されなければならない。ラジウム研究所でそ けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないよ リー夫人はある事を思いついた。フランス婦人協会の費用で光線治療車 院を廻り始めた。フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマル 取りつけたもので、この完全な移動X光線班は一九一四年八月から各病 普通の自動車にレントゲン装置と、モーターと結びついて動く発電機を 者養成のための講義では、若いイレーヌも母と一緒に先生として働いた。 置の操作を受持ったが、やがて救護班に加わった。ラジウム研究所の治療 射学を勉強し、ソルボンヌの講義もかかさず聞きながら、まず母親の装 この時二人の娘たちはもうパリに帰っている。十七歳のイレーヌは放 というものを作った。 これはヨーロッパでもはじめての試みであった。 の仕事が始められ、三年の間に百五十人の治療看護婦が生れた。 ヌの戦闘で、故国のために傷ついた人々は、パリへ後送されてその移動 も求めて自動車を手に入れ、それをつぎつぎに研究所で装置して送り出 れ、あらゆる手段を講じて、官僚と衝突してそれを説得し、個人の援助 と親密な綽名で呼ばれた。キュリー夫人は戦争の長びくことが分るにつ 先へと数限りなく動いて書かれていることでも語られている。古い服の ことは、小さい娘であったエーヴの書く手紙の宛名が、一通毎に母の移動 四年間のキュリー夫人の活動がどんなに激しく広汎であったかという にとって二人とない助手、相談相手、友人として成長したのであった。 班に助けられたのであった。この放射光線車は軍隊の間で﹁小キュリー﹂ イレーヌは年こそ若いけれども、この困難と活動の期間にキュリー夫人 した。そのようにして集められた車は二十台あった。マリアはその一台 研究所で着ている白いブルースを着けるだけで、キュリー夫人はどんな 袖に赤十字の腕章をピンで止めたきりの普通のなりで、その上へいつも 戦傷者で溢れた野戦病院から、放射線治療班の救援を求める通知がキュ 特別の服装もしなかった。食事のとれないなどということはざらであっ を自分の専用にした。 リー夫人宛にとどく。マリアは大急ぎで自分の車の設備を調べる。兵士 16 た。どんなところででも眠らなければならなかった。固いタコができて に置いて坐っているピエールとマリアの姿である。手紙はアメリカから てピエールに会う前後、パリの屋根裏部屋で火の気もなしに勉強してい 瀝青ウラン鉱の山と取組合って屈しなかった彼女の不撓さ、さらに溯っ 校の中庭にある崩れかけた倉庫住居の四年間、ラジウムを取出すために はおそらく困難であったろう。十余年の昔、夫ピエールと二人で物理学 ゆる国々から捧げられているキュリー夫人であるということを信じるの の世界的な賞を持ち、七つの賞牌を授けられ、四十の学術的称号をあら を見た人は、それが世界のキュリー夫人であり、ノーベル賞の外に六つ 着のみ着のままで野天のテントの中に眠っている。その蒼白い疲れた顔 の方向、それはピエールが不慮の死をとげて八年を経た今日、あれほど とを放棄した。わずか十五分の間にそうして決められた自分たちの一生 夫婦を結んでいるまじり気のない科学的精神に反するものとしてそのこ かの特許独占の方法を思わないでもなかったらしかったが、結局は彼ら 実現も考え、また夫として父親としての家庭に対する愛情から、いくら ものであった。その時ピエールは永年の夢であった整備された研究室の し、人類科学の為に開放するか、二つの中のどちらかに決定する種類の とも、あくまで科学者としての態度を守ってその精錬のやり方をも公表 た彼らが、その特許を独占して商業的に巨万の富を作ってゆくか、それ ラジウムの火傷の痕のある手を持った小柄な五十がらみの一人の婦人が、 来たものであった。瀝青ウラン鉱からラジウムを引き出すことに成功し た女学生の熱誠が、髪の白くなりかかっている四十七歳のマリアの躯と ピエールが望んでいてその完成を見なかった研究所が落成されている今 さかのぼ 心の中に燃え立っていたのであった。 キュリー夫人は特別よい待遇を与えられたとしても拒んだであろう。 日、マリアの心を他の方向に導きようのない力となって作用したのであ ブロンドの背の高い、両肩の少し曲った眼なざしに極度の優しみを湛 人々が彼女の﹁有名さ﹂を忘れるよりさきにマリアがそれを捨てていた。 ろう。 けれども軽薄な看護婦たちが、自分から名乗ろうとはしない粗末な身な えている卓抜な科学者ピエールは、その父親と違って不断は時事問題な どに対して決して乗り出さなかった。 りのマリアを時には不愉快にさせる事があった。そういう時、彼女の心 おもかげ を温める一人の兵士の俤と一人の看護婦の思い出とがあった。それはベ む こ が、ドレフュス事件でドレフュス大尉がユダヤ人であるということのた ルギーのアルベール皇帝とエリザベート皇后とであった。この活動の間 ﹁私は腹を立てるだけ強くないんです﹂ と自分からいっていたピエール にマリアは多くの危険にさらされ、一九一五年の四月のある晩は、病院 熱。ノーベル賞授与式の時の講演でピエールが行った演説も、マリアに からの帰り、 自動車が溝に落ちて顛覆して負傷したこともあった。 が、 めに無辜の苦しみに置かれていることを知って、正義のために示した情 娘たちがそのことを知ったのは再び彼女が出発した後、偶然化粧室で血 のついた下着を見つけ、同時に新聞がそのことを報道したからであった。 新しい価値で思い起されたろう。彼はその時次のようにいった。 て得をするであろうか。その秘密を利用出来るほど人間は成熟している 彼女は昔からそうであったように、自分の身について起るかも知れない ﹁人は一応疑って見ることができます。人間は自然の秘密を知ってはたし 危険とか激しい疲労とか、その躯におよぼしているラジウムのおそろし であろうか。それとも、この知識は有害なのであろうかと。が、私は人 間は新しい発見から悪よりも、むしろ、善を引き出すと考える者の一人 い影響とかについて一言も口に出さなかった。 マリア・キュリーをこの様な活動に立たせた力は何であったろう。日 しての自分の任務を、がらんとした研究所の机の前で自分に問うた時マ れは決して狭い愛国心とか敵愾心とかいうものではなかった。科学者と 時には、ますます他の一方で創造の力、生きる力としての科学の力、そ と思ったろう。科学の力が一方で最大限にその破壊の力を振るっている マリアは愛するピエールの最後のこの言葉を実現しなければならない であります。﹂ リアの心に浮かんだものは、十年ばかり前のある日曜日の朝の光景では れを動かす科学者としての情熱が必要と思われたに違いない。 夜の過労の間に彼女の精神と肉体を支えている力は何であったろう。そ なかったろうか。それはケレルマン通の家で、一通の開かれた手紙を間 17 評論集(三) る例の自分の車の﹁小キュリー﹂に乗ってパリ市中を行進した気持は察 さにじっとしていられなくなったマリアが、激しい活動で傷のついてい 一九一八年十一月の休戦の合図をマリアは研究所にいて聞いた。嬉し 云ったら、そのひとはいかにも生活から遠くのことでも云っている調子 思って、私は自分からロゼエの名などあげて、あなたは? ともう一遍 の肩で一寸揺って、さあ、と口ごもっている。きまりわるいのかしらと た。そのひとは房々と長く美しく波うたせてある髪を瀟洒な鼠色スーツ のじゃないの。勿論、映画の中でのことよ、好きと云ったってきらいと あら、だって、その映画のなかでよければ、やっぱり好きとも云える と感情のない声で答えた。 で、その映画のなかでさえよかったらそれでいいんじゃないでしょうか、 するに余りある。 フランスの勝利は、マリアにとって二重の勝利を意味した。彼女の愛 するポーランドは一世紀半の奴隷状態から解かれて独立した。マリアは 兄のスクロドフスキーに書いた。 ﹁とうとう私たち︵生れながらに奴隷であり、揺籃の中からすでに鎖で いろいろ考えられた。 ひとこと われた態度とはつよい感銘であった。その人たちの帰ったあとも、自然 ようでもあるが、それでも私には何だかこの若いひとの一語とそれの云 偶然話の合間に云われた一語に執してものを云うとなれば意地わるの ている。 そのひとはまた美しい髪をゆするようにして軽い笑を口辺に浮べて黙っ つながれていた︶は、永年夢見ていた私たちの国の復活を見たのです。﹂ 云ったって。 しかしキュリー夫人は歴史の現実の複雑さに対してもやはり一個の洞察 を持っていた。彼女はその喜びに酔わずに、さながら十九年後の今日を 見透したように、続けていっている。 ﹁私たちの国がこの幸福を得るために高い代価を支払ったこと、また 今度も支払わなければならないことは確かです。﹂ 第二次大戦によってポーランドは再びナチスの侵略をうけ、南部ロシ らったばかりでなく、世界の歴史から、暴虐なナチズムの精神を追いは て、ナチスをうち破った。単に自分たちの土地の上からナチスを追いは ランド人民は、ウクライナの農民が善戦したとおりに雄々しくたたかっ ろうか。あのひとは、これまで一遍も、誰が面白い、誰が好きと友達の どんな演技をしているか、それがみたい心持がするのが自然ではないだ 優の名前もひときわ心に刻まれて、別の作品のなかで同じひとが今度は ようなものなのだろうか。その映画のなかでよかったら、やはりその俳 私たちの生きている心持って、あんなに血の気のうすい、うすら寒い らったのである。ポーランド人民解放委員会の中に、ワンダ・ワシリェ 間で話しあったことはないのだろうか。あれが面白かったんだから、そ アのウクライナ地方とともに、最も惨酷な目にあわされた。しかしポー フスカヤという一人の優れた婦人作家が加わっていることをキュリー夫 た。あのひとが、その映画のなかでよかったらそれでいい、と好きとい それならそれとして、やっぱりあれは私たちを考えさせる一ことであっ そういう才覚もあるひととも思える。 のかも知れないとも思われる。あり来りの返事をしたってはじまらない。 感じて、その感情の程度はのりこしたものとして、ああいう答えをした あらいいわねえ、その声に抑揚をつけて口走る、そのようなものとして ないと思う。誰が好き、あれが好き、という表現を、街の娘さんたちが、 好き? というような問いかたが、大変子供ぽくうけられたのかもしれ もしかしたら、一応は高い教育をうけたわけであるその人に、誰がお れでもういいのよ。と云って暮しているのだろうか。 一九七九︵昭和五十四︶年七月二十日初版発行 ﹁宮本百合子全集 第十四巻﹂新日本出版社 人が知ることができたらどんなによろこんだであろう。 女の歴史 ︱︱そこにある判断と責任の姿︱︱ 数人 の 若 い 女 の ひ と た ち が 円 く 座って 喋って い る。 い ろ ん な 話 の 末、 映画のことになって、ひとりの人に、あなたは誰がお好き? ときい 18 きだ、あれはやりきれないと云いきれると思う。この場合、相手が女に た目安がなかに立てられていれば、全くあけすけに、あああのひとは好 の好きというのが芸術に表現されている世界でのことというはっきりし として感じられている証拠であったと思う。もし、私たちが云う意味で その映画のなかでの芸術的味いにあふれた、俳優の体にくっついたもの う表現をそらした心理をさぐってみれば、好きという内容は、どこかで の判断である。細かく表現はされないが、何となく虫が好かない、そう 映画俳優のすき、きらいにしたって、つまりは自分の生活の弾力から あやしまれ、苦しまれもしていないということ、それはこわいと思う。 私たちの生活から素直な情熱が失われているということ、しかもそれが 一人に かかわりな く一般の考え なければなら ないところ なのだと思う。 なり私たちの心に訴えて来ないようなところがあって、それはあのひと ろ こ び も、 もっと 女 の ゆ た か な 客 観 性 と し て も た れ て も い い で あ ろ う 。 いうことは名優と云われる人に対しても私たちが自分のこととしては主 こういう風に見て来て、あの答えを考え直すと、あのひとは日ごろ何 これまでの常識は主観的といえば身に近く熱っぽくあたたかいもの、客 しろ男にしろ、こちらの感情の焦点は、あくまでその人々たちの共々の と云っても曖昧な鑑賞の態度で映画も見ているのだと思う。自分にはっ 観性というものは冷たい理智的なものという範疇で簡単に片づけて来て 張出来る筈のことである。そして、虫は好かないけれど、演技は傑出し きり、 よ さを感じる自分の心持の本質がつかめていないのだと思う。だ いるけれども、人間の精神の豊饒さはそんな素朴な形式的なものではな よろこびにある。その男や女の演技の性格、味いへの共感として、率直 からいざとなると、主観の上での好きさにたよって云うのもそこらの娘っ い。女を度しがたい的可愛さにおく女の主観的生きかたも、女がそれに ているというところを自分の好悪からはなして観るような芸術鑑賞のよ このようでいやだし、それなら、一個の芸術家として見ている俳優をあ 甘えかかって永劫に幸福でもあり得まい。チェホフの﹁可愛い女﹂とい に表現されているのである。 げるところまでは鑑賞が系統だたず、でも、何故そのままの気持で、随分 う短篇があって、ああいう女を妻に欲しいという回答を婦人雑誌の質問 みずみず 法をもちつつ人間生活の非人間性を心から苦しく思っていた作家である。 ルストイと同時代の芸術家として、トルストイとはまた異った芸術の手 に対して与えていた青年があった。チェホフは知られているとおり、ト つまらないものにも涙こぼしたりするんだから、わからないわ、と瑞々 しく愛くるしい若さで云わなかっただろう。 それは混乱がそのまま語られているわけだが、みんな映画通ではある まいし、生活のいろんな心持の要求で観たのだから、それなりの真率さ が流露してきくものの心持では素直にきける。本質はそういうものなの ﹁可愛い女﹂に描かれている女主人公の生きかたは、女の動物的な悲しく の一典型が在るばかりだと思われる。話術の巧さは近代女性の魅力の一 の心から黙殺してかかるのではなくて、好ききらいははっきり掴んでい というのが原型である。客観的と云うとき、自分の好ききらいを、自分 芸 術 鑑 賞 に 即 し て 主 観 的 と 云 わ れ る 場 合 は 、 そ れ が 好 き だ か ら 好 き、 に、考えた言葉に翻訳してあんな風に云うことは、そこに個性もないし、 滑稽な男性への適応を描き出したものである。 う つ ろ つとして云われているが、活々と巧まない巧みにみちた話術ということ る上に自分のこの好きさ、このきらいさ、それは自分のどんな感情のあ 実感もないし、空虚な消費的な気分で映画をみる或る種の若い女の話術 からすれば、やっぱり、自然に、あらァ困った、私まるでだらしないの りようとこの映画の俳優の演技のどんな性質とが或は引き合い、或は撥 心の世界の中のものとしてゆく、それを云うのだと思う。ジャーナリズ いきいき よ、と自分も笑いひとも笑いながらの品評が、おのずからなる機智にも き合うのかと、その両方から味ってそこにある関係への判断をも自分の 映画俳優のすき、きらいにも、あんな心理的な答えをして生きている ムの上での批評家の批評のとおりに見ることや所謂定評に自分の鑑賞を はじ みちている。 娘さんを、私たちは気の毒だと思う。そのひとの生れつきと教育とが互 あてはめてゆく態度は、客観的とは反対の、常識追随である。 この判断ということは、いろいろ面白い。非常に生活的なもの、複雑 いわゆる に助長しあった不幸とも思われるけれども、今日の私たちの生活の空気 は、そういうことを真の悲しむべきこと、おどろくべきこととしていき 19 評論集(三) 、 、 なものということで面白い。私たちの生活の刻々が意識するしないにか どっさりの大船小舟が船底をくさらせたり推進機に藻を生やしたりして てしまっている筈の女の歴史の旧の港をふりかえるのである。そこでは もと かわらず判断の継続、累積であり、そこにこそ﹁時間は人間成長のため いるのはわかっていても、自分の小さい出来たもとの櫓や羅針盤にたよ を考えさせられるわけである。自分なりひとなりの判断を肯定してそこ だろう。私はよく自信がなくて、というかこち言をきくので、そのこと ひとたちは、自分の判断というものに対してどんな態度をもっているの しろ、決して卑劣卑小な動機から行動して失敗したりすることはあり得 するかもしれないが、この人物のすることならよしんば失敗であったに 信用のある人物とする。もう一人は、時に意表に出たり、失敗したりも ここに二人のひとがあって、一方は、所謂間違いのないという範囲で ろ の枠である﹂という意味ふかい表現の真実がこめられている。 に立ったとき、はじめて判断は現実のものとして存在するものだ。従っ ない人物と思われているとする。かけられている信頼の度は二人のうち りきれないような思いがする。 て、判断とのかかわり合いに於て云えば、たといひとの判断に従う場合 どちらがより深いだろう。こういう比較に示されれば私たちの判断は迷 今日のものを考え自分を考えて生きようとしている真面目な若い女の にさえやはりそこには従ってよいとするだけの自信が求められているの の源泉は、その人が常に自身の動きに対して責任を負っていて、その責 わない。言下にそれは後者だと云えると思う。そして、そのような信頼 判断と自信とは生きかたのうちに一体のものとしてあらわれて来るの 任の態度がこの人生に向ってまともなものであるということから来てい だと思う。 だが、一体私たちの日常で自信があるというのは、どういうことをさす る点も理解される。 自信も畢竟はそういうものではなかろうか。この複雑多岐で社会の事 のだろうか。 自信というのは、自分に向っての信用であるわけだが、それなら人間 互にくすりと眼くばせし合って、私これでなかなか信用があるのよ、と いるかと考えると、自信がなくてと不安がっている若いひとも、時には もある。しかし、旧来そう云われる標準は、常識のどこに根拠をおいて と思う。どこへおいても大丈夫なひと、そういう表現の与えられること とかく間違いないという面でだけ内容づけられて来たのが旧套であった 責任の感情を自身にたしかめてみて、そこが肯定されればその誠意を自 現代の若い世代は、自分とひととの人生にまともに面して、負うている 三寸の功利的な見とおしと行動の自信とは決して同一のものと云えない。 こに向って伸してよいか分らないようになるのが当り前と思う。目の先 一歩を歩み出そうとしたって、自身の未熟さを思えばそれは手も足もど 受け身に只管失敗のないよう、間違いないようとねがいつつ女の新しい ひたすら の 信 用 と は ど う い う と こ ろ に か かって い る も の だ ろ う。 信 用 と い う と、 情 万 端 数ヵ月 の う ち に 大 き く 推 移 し て ゆ く よ う な 時 代 に 生 き 合 わ せ て 、 笑い合う経験はもっている。この罪のない可愛い諷刺は、おのずから昔 女のひとが人生への責任を自分から自分とひととの運命へ働きかけて 信のよりどころと思いきわめて生きるほかはないと思う。 うか。自分たち若いものの活溌な真情にとって、人間評価のよりどころ ゆく力として、どんなに感じているか。このことも、極めて微妙なこと 風な信用への判断、それにつづく批判として溢れているものではなかろ とは思えないような外面的なまたは形式上のことを、小心な善良な年長 献身するために、現在の日本の婦人はどんな社会的条件におかれていた の座談会があった。文化的な仕事に才能を生きぬき、その向上のために 者たちはとやかく云う。 けれどもねえ、 そればかりじゃあないわねえ、 だと思う。いつぞや或る婦人のための雑誌で婦人と文化の問題について その心だと思う。 ところが、いざ自分のその心の面に立って自分としての判断を現実に 自分の判断に従って果して誤りはないか、大丈夫だろうか、そこが不安 た。その座談会の記事への感想として、一人の女のひとが、男の理解を をどっさり負わされているという点が誰の注目をもひいて、語られてい ながめなければならない段になると、自信がなくて、ということになる。 かということが主として話題となった。日本では女のひとの立場は困難 というわけで、一旦は否定してそこからはもう自分の生活感情が舟出し 20 かたをしていると思う点がある。そういうところも女として自省される 高めるということも大切ではあるが、日常には随分女自身無責任な生き ういう相異を必然として語っていた。 の店員は生活問題が痛切ですから仕事の上に責任も感じますから、とこ の方がぐっと上になってしまう。その店のひとの話では、どうしても男 もない機械的な仕事なのに、という思いが裏づけられているのだろうと ちっとも遊ばせて置かない、と云う女のひとの心持には、どうせ興味 べきと思うという文章があって、座談会に出ていた一人である私は関心 をひかれた。 女自身が自分に責任を問う必要があるということは、本当にそのひと なるほど、女のひとはトレーサアなどやっても、非常に末梢的に使わ 遊ぶゆとりもなくちゃやりきれないわ。きっとそんな心持があるのだ。 の云う通りであると思う。そして、それが本当であるという理由からも、 思う。どうせこれっぽっちの給料でこんな詰らない仕事をしているのに、 何故女は男よりも人生への責任感がはっきりしないのか、その原因にふ れて考えてみることが無駄でないのを思う。 例えば私たちがデパートに行って、すこし何かこみ合ったことを訊く。 れて、朝出勤するときょうはどこそこで何をやってくれ。そして、明日は 売場のどこからか男の店員をつれて来るだろう。連れて来られた男の店 サアとして成熟してゆくような機会はなく、こきつかわれる。給料は勿 いうところでだけ評価され、決してそのひとがより精密な高度なトレー すると殆ど例外なしに訊かれた女店員は、 一寸お待ち下さいと云って、 と全く別なところへ移動させられ、技術は只迅いとか仕上げが奇麗とか 員の方が大して女より年嵩だというのでもないことが多い。それにもか 論やすい。やすいからこそ女があらゆる部面でつかわれている。 それが歪んだ人間の使いかたであるからと云って、その歪みを生き身 かわらず、男の店員の方は、客の問いに対して専門家として実際的な返 答が出来たのである。そんなとき女の店員が傍から、その返事をきいて どうせ、と云ってしまったら、どこから自分たちの成長の可能がもたら ればならない私たち現代の女が、歪みのままに自分の気持を萎えさせて、 な いて、次の折にはそのような問いにまごつくまいとしている様子はない。 にうけて、云って見れば自分たちの肉体で歴史の歪みをためてゆかなけ 彼女たちは完全に客をその男の店員にゆずって、そして任せて、自分は やすん 気を放してしまっている。知らないままにのこっていることに、安じて 或る出版会社に勤めている若い男の友達がこんなことを云った。うち うせ女は、という旧来の通念を我から肯定しているにほかならない。仕 せめて遊ぶ暇ぐらい、ねえ。そう呟く心持は、逆な方向と表現で、ど されよう。 にも何人か若い女のひとが働いているんだけれども、女って、どういう 事の上で女として自分を守ったり主張したりするというのは、こういう、 いる。これは何故だろう。 のかな。男は同じところに働いていて自分だけ仕事をあてがわれずにい 身が女として仕事、人生に責任をしっかりと執って、そのことで周囲が たりしたら、それを苦痛に感じるんです。女のひとも同じ気持だろうと、 ど う せに立脚した態度とは反対のものでなければならないと思う。女自 察したつもりで間がわるく手があいたりしないように絶えず何か割り当 かたを自分に課さなければならないと思う。 たるようにすると、女のひとはどういうわけか余りよろこばないんだな。 その女のひとに対する責任を、おのずから知られるよう、そういう生き ちっとも遊ばせて置かないって云うんです。 云った。その場合意味されていることは、要求するより先に課せられた 保守的な女のひとも、先ず女が自分の責任を十分知らなければ云々、と 機微にふれている。女のひとの感情がそんな風に動く原因はどこに在る 義務を果せ、という内容づけであった。そして、彼女たちは課せられて その一寸した感想も、なかなか女の仕事や生活に対する一般の態度の のだろう。 今日、私たちが、責任を知るというとき、しろと云われたことは何で 省察を向けなかった。 数ヵ月前にある婦人雑誌で職業婦人の月給調査を試みたことがあった。 いる義務が女にとってどんな苦しいものか或は重圧か、ということには あらゆるところで女の給料はやすかった。或る百貨店で初給が男より十 七銭か女の方がやすくて、原則として対等にしていたが二三年後には男 21 評論集(三) 、 、 、 もやる、死んだ思いでするという判断のない服従からの行為を意味する のではなくて、人間として、職業婦人としての生活をしているものとし て、するべきこととしない筈のこととの判別を明瞭に自覚してゆく意味 だと思う。 せめて遊ぶ余裕ぐらい、とどこかに肱をついているような自分の心持 女性の歴史の七十四年 私たち日本の女性は、これまでの歴史の中で、はたしてどんな政治的 な経験と呼ばれるものをうけついで来ているのだろうか。 恋愛についても、結婚生活についても、このことはやはり云える。自 政治的な関心をめざまされて活動したことも、まだ記憶に新しいことだ とおりだし、大正末期から昭和六七年頃までの期間、多くの若い婦人が 自由民権時代に、岸田俊子その他の若い女性が活躍したことは周知の 分の生きかた、心持に責任を感じていなくて、どうしていい恋愛や結婚 と思う。 を自身で見なおしてゆく態度、それが責任だと思う。 が出来よう。第一、いい恋愛とかいい結婚生活とかいう、その判断の自 粗朴の状態におかれている。人間生活への思意が複雑明瞭になって来る 階に属する感情の一つである。未開人は責任の感情というものが極めて この責任という感情は、人間のいろいろの感情の発達の、最も高い段 に朝夕を送っている人々の実感からどことなし一歩はなれた存在となっ 活動をする婦人は、すぐ一種の女傑になってしまって、家庭生活を中心 の時代を通じて印象を辿ってみると、日本の婦人一般にとって政治的な らの婦人たちは歴史の波瀾のうちに生死をも賭したのであったが、総て 維新の風雲の間を奔走した女のひとたちはもとより少くなくて、それ 度につれて、さながらしずかにさしのぼる月の運行に準じてあたりの山 て来た傾きがつよいと思われる。 分としてのよりどころを、どこにおいていいかもわからないだろう。 野が美しい光に溢れて来るように、人間の美しい精神の輝きとしての責 ろ、情感にしろ、行動にしろ、それが現実のものであるならば、ことご 架空のように響くかもしれない。だけれども、ありとあらゆる思想にし 歴史にかかわる責任のもとに生きているのだと云えば、対象は大きくて こんなに未熟で、格別のとりえもないような私たちが、やはり女の全 一婦論や女子教育論、あるいは政局批判に熱弁をふるったわけであった 子は、当時の進歩的な人々のものの考えかたに従って男女平等論や一夫 子の性格の烈しさの面白さばかりに止まらない感興を後世に与える。俊 く燃え立って、形の固定していなかった日本の社会情勢を語っていて、俊 に自由党の政治運動に入って行った過程は、いかにもその時代の若々し 明治十四年に十九歳であった岸田俊子が、三年の女官生活から一直線 とく私たちの肉体を通じて生かされてのみ初めて現実として存在すると が、彼女の政治的見解というものははたしてどこまで深くその身につい 任の感情もひろく、深く、大きいものとなってゆくのである。 いう事実は何とつきない味いのあることだろう。自分の一生を生きるの 年齢が若かったというばかりでなく、たとえばそれらの演説会に出る は自分であって、ほかの誰でもない。この一事を、深く深く思ったとき、 ていただろうか。 私たちの胸に湧く自分への激励、自分への鞭撻、自分への批判こそ一人 ときの服装などについても、俊子は相当のはったりをきかしているとこ いわお ろが見える。 ﹁大阪では文金高島田、緋縮緬の着物に黒縮緬の帯という芝 一人の女を育て培いながら、女全体の歴史の海岸線を小波が巖を砂にし て来たように変えてゆく日夜の秘められた力であると思う。 というものを開いたときには、太刀ふじという七つか八つの女の子に前 三 女 性﹂ の 中 に 語 られ て い る。 明 治 十六 年 の 秋 京 都で ﹁女子 大 演 説 会﹂ 土地柄を見て演出効果を考えていたことも相馬黒光女史の﹁明治初期の ︹一九四〇年六月︺ 居の姫君のような濃艶な姿、また京都その他では黒白赤の三枚重ね﹂と ﹁宮本百合子全集 第十四巻﹂新日本出版社 一九七九︵昭和五十四︶年七月二十日初版発行 座をつとめさせたこともあった様子である。 22 があったのだが、岸田俊子にしろ当時の自由党員中島長城と結婚してか 聴禁止がしかれるまで、成田梅子、村上半子、景山英子らの活溌な動き の婦人年鑑にあって、それから明治二十三年集会結社法で婦人の政談傍 いう事実は私たちに何を教えるだろう。それぞれの人の為人の高低がそ うとせず、かえって男の福沢諭吉が女のために懇切、現実的であったと 理におかれているかというその原因にまでふれ、沈潜して理解してゆこ 自身女性である中島湘煙が、なぜ女はみな魔がさしているような非条 な向上のために周密真摯な努力と具体策を示しているのである。 らは、自分の過去の政治活動をあまりよろこばしい回想とはしていない こに語られているばかりでなく、婦人そのものの社会的自覚が、その頂 明治十三年に神田の区会に婦人傍聴者が現れたということが神崎清氏 口吻であったことが語られている。俊子の生涯の活動ぶり、情熱の中心 点でさえもなお遙かに社会的には狭小な低い視野に止っていた日本の女 景山英子は、その生涯の間には、婦人の社会的向上の問題の理解を次 ひととなり は、自分というものが身にもっている容色と才智との全部を男と平等な の歴史の悲しい不具な黎明の姿を、そこに見るのである。 で、その面には徹底的であったらしいけれども、当時のおくれた無智にお 第に深めて、明治四十年代﹁青鞜﹂が発刊された頃には婦人の社会的な どうじゃく あるいは男を瞠若たらしめる女として表現してゆこうとする意欲に熱烈 かれている同性に対しては決して暖い同情者啓蒙者であるといえなかっ の推移までを見て、平塚雷鳥が主観の枠内で女性の精神的自己解放をと 問題の土台に生産の諸関係を見、婦人の間に社会層の分裂が生じる必然 明治三十二年というと中島湘煙の死ぬ二年前のことだが、その頃青柳 なえていた到達点を凌駕した。彼女は明治三十四年に女子の工芸学校を た点も、今日から見ると、一種のおどろきに似た感情を与えられる。 有美が大磯の病床に彼女を訪問したときの湘煙の談話は、彼女の女性観 創立したりして、婦人の向上の社会的足場を技術の面から高めて行こう とする努力をも試みたのであったが、その業績は顕著ならずして、時代 をまざまざと示している。 有美はその時分女への悪口で攻撃されていたらしい。湘煙はいくらか の波濤の間に没している。 明治二十年以後の反動期に入ると、近代国家として日本の社会の一定 同情気味で﹁私は実は女が大嫌いサ。﹂といっているのである。 男ならどんな人でも大 ・・・・・・・・・・・ ・ の方向が確定したとともに、婦人に求めてゆく向上の社会的方向もほぼ ・・・・・・・・・・・・ 固定しはじめた。当時日進月歩であった新日本の足どりにおくれて手足 ど 女と来ると丸で呼吸が分らんでナ トンと困るテ。遇うとつまらん外部ば ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・ ﹁ドウも洒落な、かまわん所がないからナ 抵手には余さんが う向けて善いものやら、 ちっとも面白くないのだ。 ドウも疲れるよ。 まといとならない範囲に開化して、しかも過去の自由民権時代の女流の ・・・・・・・・・・・・ ように男女平等論などを論ぜず内助の功をあげることを終生のよろこび かりの話 をして ナ 一体女というものには少しも禅気がないからナ。女はみんな魔のさして したのであった。三十二年の高等女学校令は、四十二年後の今日に迄つ とする、そのような女を、明治の日本は理想の娘、妻、母として描き出 そして、女の仲間へゆくと自分がすっかり無言になって、非常に縮っ づいていて、その精神は、古くもないが決して新しすぎもしない若い女 るものだよ。﹂ て、顔が熱くなって来て気が遠くなったような心持がして﹁この腕もト の産出をめざしているのである。 思える。ヨーロッパだからって女ばかりが集ってする話は同じことで、外 してきくと、これらの言葉づかいそのものさえ今日の女の心には珍奇に とは、なかなか複雑な社会史的ニュアンスがこもっていると思う。 向での安定を見出したこの三十二年に﹁新女大学﹂を発表したというこ 六十六歳の福沢諭吉が、日清戦争の勝利の後の日本が、一応進歩的傾 ふる ンと揮えんてナ﹂と述懐している。僅か三十七歳ばかりの婦人の言葉と 国の夫婦喧嘩の多いことはおどろくばかりである。 えをこしらえはじめたのは彼の二十五歳の年、大阪から江戸へ出た時代 大体福沢諭吉が益軒の﹁女大学﹂を読んで、それに疑義を抱き、手控 しかし、福沢諭吉はこの明治三十二年に六十六歳で﹁女大学評論﹂ ﹁新 の事である。 ﹁学問のすすめ﹂は明治五年にあらわれて、日本の黎明に大 ﹁日本の家庭の方が遙に善いよ。殊に昔風の家庭の方がよいよ﹂と。 女大学﹂を発表し、貝原益軒流の女庭訓でしばられた日本の女の社会的 23 評論集(三) きい光明を投げたのに、 ﹁女大学評論﹂と﹁新女大学﹂とは﹁幾十年の昔 ず﹂と警告しているのである。 の我儘を恣にするもの多し︵中略︶女子たるものは決して油断すべから たとえば女子の教育について、まだすべての高等専門学校、大学が女 の日本に実現されているのであろうか。 四十余年前に現れているこの﹁新女大学﹂の内容の何分の一が、今日 になりたる﹂その腹稿をやっと三十二年になって公表の時機を見出した ということには、それ迄の日本が岸田その他の婦人政客を例外的に生み ながらも、全体としては﹁真面目に女大学論など唱えても﹂耳を傾ける 人のすくない状態におかれていたからにほかならない。 慶大が女子本科生入学許可の方針をきめたが、それは却下された。早大 婦人の独自な条件に立って体育、知育、徳育の均斉した発達の必要と、 子の入学を許すところ迄行っていない。大正十年ごろ、美術学校や早大 家庭生活における夫婦の﹁自ら屈す可からず、また他を屈伏せしむべか 日本の女子にとっては、一層必要とされている経済や法律思想は、現在 が昨年やっと正科に女生徒を入れるようになった。 あたって財産贈与などによる婦人の経済的自立性の保護などについて説 一般の婦人の常識と日常生活のうちにどこまで具現されているだろうか。 らざる﹂人性の天然に従った両性関係の確立、再婚の自由、娘の結婚に いている諭吉の﹁新女大学﹂は、今日にあっても私たちを爽快にさせる ともないひとの多いことをなげき﹁学問の教育に至りては女子も男子と 若い女性たちが数百の小説本はよみながら、一冊の生理書を読んだこ 公民権を認められ一九一八年︵大正七年︶の人民代表法で三十歳以上の 人問題研究﹂によると、イギリスでは一八六九年︵明治二年︶に女子に の獲得からはじめられていることは周知のとおりである。永井享氏の﹁婦 世界の国々ではどこでも、婦人の政治的な成長の第一歩が常に公民権 相異あることなし﹂ということを原則として示している。けれども、日 婦人に参政権を与えた。それによって約六百万人の婦人が選挙権をもつ 明治の強壮な常識に貫かれている。 本の社会の実際は、女の向上を等閑にして数百年を経て来ているのだか こ と と なった。 ノ ルウェ イの 婦 人 は、 一 番 早く 一 九 一 三 年 ︵大 正 二 年︶ 完全な参政権を得ている。ドイツが第一次大戦終結の後一九一九年︵大 ら、男と同等の程度に女の学問がおよぶためには相当の年月がいるであ ろうと見ている。 十歳以上の一般、平等、直接、無記名投票権を認めていること、および、 正八年︶ヴェルサイユ条約成立と年を同じくして、新憲法による男女二 非ともその知識を開発せんと欲する所は社会上の経済思想と法律思想と ソヴェト・ロシアが一九一七年︵大正六年︶十一月以来生産的公益的労 ﹁文明普通の常識﹂ 程度として、﹁ことに我輩が日本女子に限りて是 此の二者にあり﹂とする諭吉の言説は、とくに注目されなければならな ひるがえって日本の明治以降をみると、さきにふれたように、自由民 働によって生計を営む十八歳以上の一切のもの︵即ち男女をこめて︶に 因中の一大原因である。女には是非この知識がいる。 ﹁形容すれば文明女 権時代の末期︵明治二十三年︶に集会結社法で婦人の政談傍聴を禁止さ い重要な点だと思う。婦人に経済法律とは異様にきこえるかもしれない 子の懐剣と云うも可なり﹂そして、この新興日本にふさわしい大啓蒙学 れてから、更に明治三十三年︵一九〇〇年︶エレン・ケイが﹁児童の世 選挙権を認めていることなどはすでに知られているとおりである。 者は青年のような英気をもって、 ﹁夫れ女子は男子に等しく生れて﹂とい 紀﹂を書いた年、治安警察法第五条によって、女子の政治運動が禁止さ が、その思想が皆無であるということこそ社会生活で女が無力である原 う冒頭の一句から全篇二十三ヵ条にわたって真に心と肉体の健やかで人 れた。 大正九年、大戦後の波は日本の社会にもうちよせ平塚雷鳥の新婦人協 したという範囲のことであろう。 それは恐らく愛する良人か息子のために、この有名な老夫人が出馬応援 神 崎 氏 の 年 表 に、 三 十 六 年 鳩 山 春 子 選 挙 演 説 を 行 う と あ る け れ ど も、 間らしい娘、妻、母を生むために必須な社会向上の要点を力説している のである。 中島湘煙が、いいといった昔風な家庭の土台をなす益軒流の観念に対 して、諭吉は歯に衣をきせず﹁女子が此の教に従って萎縮すればするほ ど男子のために便利なるゆえ、男子の方が却って女大学を唱え以て自身 24 大正十二年︵一九二三年︶普選案が国民全体の関心の焦点におかれた なるよ、という風な庶民的諷刺とにとどまっていたと思えるのである。 の前後の内助的活動と、選挙が近くなるとあすこの奥さんは愛想がよく 本の一般の家庭婦人の経た政治的訓練というものは、一部の婦人の選挙 会が治安警察法第四条の改正を議会へ請願したりする迄の十数年間、日 新体制の声とともに、婦選獲得同盟は十八年の苦闘の歴史を閉じて解消 か種々の委員会への分散的吸収にまかせざるを得なくなって、 この夏、 しがたい消極的混乱におかれるに到った。 ﹁時局研究会﹂とか﹁精動﹂と が可決されてのち、婦選運動家たちの動きは、時局に際して一種の名状 来、方向転換して母子保護法の達成に協力することとなり、十二年それ 子しげりなどの婦人参政権獲得期成同盟会が成立したのは翌十三年のお えして、公民権さえもついに誕生し得ないまま未曾有の世界史的変化に 婦選の動きが日本にあってはこのように見るも痛々しい浮沈をくりか してしまったのであった。 しつまった十二月のことであり、いよいよ十四年普選案が両院を通過し 当面しているという今日の現実は、明日における主婦たちの政治的自覚 につれて、婦人参政権建議案が初めて議会に提出された。市川房枝、金 たと同時に、婦選の要望もきわめて一般的なひろがりをもちはじめた。 を期待する上に、消すことのできない大きい深刻な痕跡を刻みつけてい 金子しげり、市川房枝などの運動と並行して昭和二年︵一九二七年︶ご るものであることを、私たちは忘れてはなるまいと思う。 大正十五年二月には婦人参政建議案が衆議院で可決され、昭和二年の 全国高等女学校長会議で、婦選問題が討議されたという事実は、今日の 議事題目とくらべて何というちがいであろう。 この年の一月には婦選デーが催された。しかし、市町村制改正の政府案 る婦人層の広汎な政治的成長のために尽瘁しつづけた。明治の暁の光の れ、その流れは爾後七八年間種々転変しつつ、日本の勤労的な生活にあ 昭和四年︵一九二九年︶には、政友民政ともに婦人公民権承認に立ち、 ろ無産派婦人政治運動促進会というものができ、全国婦人同盟が組織さ から婦人公民権は削除され、当時、公民権賛成議員が多くて政府はその 中で半ば生れんとして生れなかった自由民権時代の婦人の社会的覚醒へ じんすい 対策に腐心したと記録されている。政友民政両党から出された婦人公民 衆議院では可決されるところ迄こぎつけたが、貴族院では審議未了とな ところが五年の議会ではまたこの公民権がもりかえされて、ともかく せている実際が、この面についてもいえる。今日までの婦選が一方にお ムポを極度に圧縮し、あらゆる事象の発達の前後の関係に無理を生じさ であったが、日本の社会の歴史の全く独特な襞の深さは、常に歴史のテ の希望の本質は、むしろこの流れのうちに発展され、うけつがれるべき り、全国町村長会議では、婦人公民権案に反対を決議しているというの いて中流的な婦人層の政治的な成熟の形となって完成されず哀れや蔕ぐ 権案は、ついに否決されたのであった。 は、実に町村長などという地方的有力者に代表されている一般観念の根 されて落ちた如く、他方勤労的婦人の生活の声も組織されず、昭和十三 年の婦人年表には、母子保護法実施とならんで婦人の坑内労働復活とい へた づよい偏見と保守性を語っている。 貴族院もまたその議員たちの属する社会層の伝統の重さ古さによる故 であろうか、昭和六年の婦人公民権政府案を貴族院で否決してしまった。 う二つの矛盾した事項が肩をならべて記載されることとなったのである。 今日の新しい日本の進み出しのあらゆる場面で、種々様々の困難を生じ 日本の歴史に縫いあらわされている婦人のこのような社会力の弱さは、 んでいる日本の全社会生活の大変動の発端をなしているが、婦選運動の ていると思う。女自身の低さに女が苦しんでいるばかりでなく、そのよ 満州事変が昭和六年九月に勃発したことは、以来引つづいて今日に及 流れは、ここにおいて歴史的屈折をよぎなくされている。 る時局的な動きの間で、はたしてどれだけ真に国民の感情に暖く賢くふ たとえば、 ﹁精動﹂に参加していた名流婦人たちは、彼女たちのいわゆ て来た男の推進にも今や重荷と化していることは明瞭だと思う。 従来欠かさず提出されていた婦選案、廃娼案が昭和八年の議会からは、 うな婦人の低い未訓練な社会的態度というものが、女をそのように導い 提出されなくなった。これは日本のどのような施政の方針変化を示す事 実なのだろうか。 十数年来婦選のために力をつくして来た種々の婦人団体は昭和九年以 25 評論集(三) 観的に現実的に社会現象を判断し対処してゆく能力は欠いていて、事大 ちを幸福にするものでもないことは自明だけれど、この社会にあって幸 政治上の権利をもったからといって女が幸福にならず、良人や子供た いかなる扱いをそこで受けているかということは、たとえば最近制定さ 的な追随を政治的な態度と思いあやまって、結果としてはかえって、時 福を守り、つくり出してゆく条件の可能を増してゆくためには、一定の社 れてゆくような仕事ぶりを示しただろう。自身がいわばすでに功成り名 局を漫画化する登場人物の役割をもった傾さえあった。同時に、対外的 会的評価と契約の表現として、政治上の力は女にとって必要なのである。 れた女子の賃銀問題についてみても明らかであると思う。 な場面も拡大されているのだがそういうところで日本の婦人が示す言動 一二年来、国防婦人会、愛国婦人会その他婦人を家庭の外へ外へと動 をとげた人々であるそれら大多数の婦人たちは、政治的に、すなわち客 の、政治を意識する方法の低さから生じる非政治性というものは、やは り案外に大きい意味をもっているのではないかと思う。そういう点では、 員する傾向がつよめられて一般家庭の感情には、婦人を家へ、と取りか 上直接に婦人が発言してゆく機会をもっていなかったため、いつも間接 すものと思いちがえさせ、保守に傾かせる危険をもっている。政治的な この感情は、婦人の政治的な向上をともすれば外出がちな形をもたら えしたい心持が相当湧いて来ていると思われる。 に、いつも男の代議士を動かして公の声を伝えなければならなかったと 成長ということは、必ずしも隣組選出の区議を当選させるために主婦た 婦人参政権獲得のために苦難な道を経た先進婦人たちも、日本では政治 いうことで、自身の動きかたを、おのずからふるい政治家流の観念に犯 大きく日本の世界におけるありようを知って、自分の愛する家族たち ちが活躍するというような末梢のことではあるまい。 明日の日本の主婦たち、娘たちが健全な新鮮な政治の理解に立ち、自 の動き、浮沈について利害をこえた理解同情をも抱ける婦人の感情の高 されている悲しさもあるのである。 分たちの日常の生活処理にかかわることとして政治的成長を遂げてゆく まりは、単純なヒロイズムからは期待されまいと思う。 どんな主婦も、その前は娘たちであるのだし、今日の若い娘たちがや ことは、決してたやすいことではないと思う。 隣組 が で き て、 そ し て 物 資 の 問 題 が 切 迫 す る よ う に なっ て来 て か ら、 婦人の政治的関心が高まったということも聞くけれども、 ﹁贅沢は敵だ﹂ がて主婦となるという現実から、今日の日本の学校教育が若い婦人たち 政治の本来は自ら自らを治める力と方法との自覚の謂であろうし、万 というような標語をその文字の意味で理解するようになったというのが、 にどのような政治的訓練を与えているかを見直される必要があると思う。 婦人の政治的成長というのは、あまり、安易な解釈と自己弁護であろう。 成長をうながす一つの方法として、 一部では隣組に主婦会をおいて、 民翼賛の思想にしろその本質に立つものと思うが、たとえば女子の高等 学校の寄宿舎生の間に、自分たちで組織している物資融通機関のよう 程度の学校で、女生徒たちは昨今何かの自主的な活動に訓練されている 主婦という立場を職能とみるべきであるという考えは、日本の新体制 なものや、輪読会のようなものや、級自治会のようなものはあるのだろ 主婦というものを一つの職能として上部の組織へも代表を送り出して発 からはじまったことではなく、社会施設の完備を目ざしている国々では うか。自分たちの生活の必要にたって、必要を整理解決してゆく政治の のであろうか。 ドイツでもソヴェト・ロシアでも、主婦の仕事を社会構成上の一職能と 初歩的なそういう習慣が女学校生活の何年間かに養われるということは、 言する可能をつくろうと考慮中らしい。 して評価している。しかしながらきわめて興味あることは、そのように 将来に意味あることだろうと思う。 ろうか。集団の行動を奨励している他の反面では、男や女の学生たちが 現在ではその間、またさまざま微妙な関係が生じているのではないだ して主婦に職能としての社会的評価を明らかにしているところでは、そ のような婦人に対する社会的評価そのものからみな選挙権その他市民と しての政治力を認めていることである。 現在政府の各種委員会に婦人代表として参加している婦人委員たちが、 自分たちで集って何かきめてやるということについて学校当局は神経を 26 たろうと思う。専門教育をうけて、大学の研究室で何か仕事をもってい 当時その記事を読んでさまざまの感想にうたれたのは私一人でなかっ 政治的成長というものは、いってみればそのような撞着的事象の本体 る女性といえば、日本の知識ある若い婦人として代表的な立場にいると 過敏に動かすのではないだろうか。 を洞察して、その間から何か積極的な合理的な人間生活建設の可能をと つ婦人の政治的参加に対しては、婦人自ら追随を拒む必要も生じるであ 画一的な、便宜主義の、判断のない、投票の数をかき集め式な目的をも そして、ある場合には、婦人の真の政治的な成熟のために、いたずらに 感じられた。それにそのひとは、自分の感情に結婚はまだわかっていな うにいう感覚も、何かこれまでの若い女性の神経にはなかったことだと ずける。けれども、結婚と子供とをいきなり結びつけてそれを目的のよ ものがよく分らない、というのは娘さんらしい自然さとして素直にうな らえてゆく動的な生活的叡智、 行動にほかならないのであろうと思う。 すべきであろう。そのひとが、年齢やいろいろの関係から、結婚という ろう。婦人はあくまで自分たちの日常の生活をみきわめて、そこからの 一九七九︵昭和五十四︶年七月二十日初版発行 ﹁宮本百合子全集 第十四巻﹂新日本出版社 に自覚されているのである。 としての結婚は、そのようなものでなければならないという翹望も明瞭 を感じとっているものがある。そして、少くとも人間らしい男女の結合 ないほど深まりあった理解と、それ故の独特な愛の経営として結婚生活 活を思い描かずにはいられない熱いものがある。お互の、ひとには分ら の中にたすけあい、人間としてより高まろうとして営んでゆく日々の生 私たちの心には、結婚ときけば、そこに男と女とが互に協力し、困難 とした思いであった。 や期待や欲求の愛らしく真摯なときめきがちっとも感じられないと索然 られたとき、そこに湧くのが当然だろうと思われる新しい成長への希望 その記事が私を打ったのも、若い女性の胸に結婚という響きがつたえ ていられた。 人と人との正しい結びつきを求めるのが、結婚の真の意味だろうといっ むためというより、それは自然のよろこばしい結果であって、根本には たように見える。片岡さんは、少し意外そうな語調で、結婚は子供を生 司会をしていられた片岡鉄兵氏をも何となしおどろかしたところがあっ と思う心持は毛頭ないけれど、それでも、この女性の感じかたはその時 親の見出してくれた配偶者と結婚して幸福な生活がいとなめないなど しているのであった。 ︹一九四一年一月︺ 両親の見出してくれる適当な配偶者と結婚するだろうということは明言 智慧と判断で鋭く判断して、成長して行かなければならないのだと思う。 いから、分るまで待って結婚したいと思っているのではなくて、いずれ 結婚論の性格 この頃は、結婚の問題がめだっている。この一年ばかりのうちに、私 たち女性の前には早婚奨励、子宝奨励、健全結婚への資金貸与というよ うな現象がかさなりあってあらわれてきている。そして、どこか性急な 調子をもったその現象は、傍にはっきり、最後の武器は人口であるとい う見出しを示すようにもなって来ている。 女性のうちの母性は、天然のめざめよりあるいはなお早くこの声々に 覚醒させられているようなけはいがある。若い女性たちの関心も結婚と いう課題にじかに向かっていて、婦人公論の柳田国男氏の女性生活史へ の質問も、五月号では﹁家と結婚﹂をテーマとしている。 若い女性の結婚に対する気持が、いくらかずつ変化して来ていると感 じたのは、すでにきのう今日のことではない。去年、ある婦人雑誌が、専 門学校を出て職業をもっている女性たちを集めて座談会をした。そのと きやはり結婚問題が出た。そしたら、出席していた若い女性の一人が、自 だけれども、今日二十歳をいくつか越したばかりの一部の若い女性の 分には結婚というものがまだよくわからない。お友達にきいたらば、よ い子供を生むために結婚はされるのだといったけれども、と語っていた。 感覚が、結婚といえば子供、と結びついて行くだけの単純なものになっ 27 評論集(三) 活にそんな単純原始な理解しかもたなかったら、どうだろう。どんな洞 としてのその人たちも考えられるわけなのだけれど、母の情感が人間生 てしまっているとすれば、それは不安なことだと思う。子供といえば母 現代の考えぶかい人たちは、十九世紀のロマンティストのように結婚 のたりない、人間の優しさや深味の少い淋しさを与えているのだと思う。 して行っているのだろう。そこのところが、何か今日の結婚論にうるおい わしくて、結婚を真に生活たらしめてゆく肝心の理解や愛の問題をとば もっと、私たち人間が自然に生きてゆく毎日の感情のなかにある一つの 恋 愛 の 感 情 に し ろ、 天 を 馳 け る 金 色 雲 の よ う に は 見 て い な い と 思 う。 思う。 は恋愛の墓場であるという風なものの見かたはしていないのが現実だと 察こまやかさで子らの成長の過程と人生の曲折を同感し、励ましてやる ことができるだろう。 この頃いたるところにある結婚論で、立派な恋愛を生涯の結婚生活の なかでみのらしてゆくように、というような希望には全くふれられてい ないことは特色であると思う。 まじめなつつましい心のすべての若い人々は、架空の恋愛を求める気は ものとして、互の理解に根ざした生活的なものとして感じていると思う。 われている。より強壮な肉体の配偶を互に選び合えということに重点を なくても、互にわかりあえるあいてというものを見出して結婚したいと 今日の結婚論は、先ず優生学の見地から、子供をもつ可能の点からい おいて語られている。 あるし、日本の女性たちはこれまであまりその方面の知識や関心が無さ 求めあう心などこそ恋愛の精髄で、それは結婚生活の永い年月を経てい あいてとして互を見出したとき、互に感じる魅力の飽きなさと、調和と、 いう切実な願いはいだいていると思う。そして、そのようなわかりあえる すぎた。そのために永い歴史の間で女性のたえ忍んで来た不幸はどれほ よいよ豊富にされ、高められてゆくものだと知っているだろうと思う。 これらのことは、結婚の現実に幸福をましてゆく一つの大切な条件で どであったか知れなかった。今日の女性が、結婚の科学をも十分わきま 子供を産む、ということが女性にとって決して行きあたりばったりの 今日、産めよ、殖えよということにつれて優生結婚がいわれていると ような悲劇もひきおこされて来た。 ことではないというところから、逆に、ホーソンの小説の﹁緋文字﹂の えて、ますます強く美しい肉体の歓びをも満喫する生活を持ってゆくと すれば、それは本当にうれしいと思う。 しょうよう だけれども、そうして優生結婚、健全結婚が慫慂されるとき、今日の 結 婚論 は、 人 間 と 人 間 と の間 に あ る 愛 と し て、 結婚 に 入 る 門 口 と し て、 ると思う。人間の男女の結婚は、共同的な生活の建設であり、生活は複 優良馬の媾配であるならば血統の記録を互に示し合って、それでわか のどこかに、やはり結婚はまじめだがと、その前提の感情は別個のもの 本の旧い習慣の影響だと思う。今日の空気のうちで物をいう人々の脳裡 に省略されているのは、目前の必要が性急であるのとともに、やはり日 き、そこに達する過程として互の愛や理解のことが知らず知らずのうち 雑をきわめるものであって、永い歳月にわたって互が互の真実な伴侶で として、低くおとしめて見る癖がのこされていて、いきなり結婚、子供 互の理解の大切さを前提しないのはどういうわけなのだろう。 あるためには、人間としての結びつきが深い土台となってくる。真の優 て、その子供たちの父と母とが終生人間としての向上心を失わず、父は ということの実際は、十人の子供を持ったという結果からだけではなく 活溌さにおいてもひいでたものでなければならないと思う。健全な結婚 のに、その中心が失われたとすれば、もうその結婚は意味のないものと その女性はどうするのだろう。産み、殖す。それを目的として結婚した て、 互 に 結 婚 し て、 偶 然 に も 子 供 の も て な い 良 人 の 体 質 で あった と き、 実際の場合として、産め、殖やせという標語をそれだけの範囲でうけ 生結婚は、 肉体の条件の優秀さとともに精神の愛のゆたかさ、 つよさ、 と素朴に出されているのだと思う。 旧来の男の習俗におちず妻に対して誠実であるということからも見られ して、解体してしまうだろうか。そういう生理の条件であれば、愛着の 心なんかは一つの感傷として踏みこえて、別の、子供をもてる男のひと て行かなければならないだろう。 それだのに、何故今日の結婚論が、早婚の必要と優生知識を説くにせ 28 いるとすれば、それは躊躇せず生活というものを理解してゆく実力の中 へ と り 入 れ て 行 く べ き だ と 思 う。 そ し て 真 の 優 良 な 結 婚 と い う も の は、 をさがしてゆくのが自然な心の流れかただというのだろうか。 もし人の心がいつもそうゆくものならば、物事はむしろ簡単だろうと 人と人との間に在り得る理解というもの、ましてやそれが種々様々の それらを条件としつつ一層互にたすけ合い高まる人間の理解と協力の美 形で提供して行きたいと願う心で、離れがたい場合も起ろう。そのとき 昨日と今日との歴史をこめて生きている男と女との間に在り得る理解と 思う。ところが、そうは行かないこともある。子供が持てないとわかっ その一組の男女の生活の健全なささえは、どこに見出されるだろう。人 いうものは、実に私たちが成長しつつ生きてゆくことを可能にするいく しい力を必要とすることを学んで行くべきなのだと思う。 間としての理解と協力のよろこびが持てなくては、その生活はなりたた つかの社会感覚の柱の中の、最も重大な一本であると思う。 て、しかも互の愛着は深まさって、美しい人生を社会のために何か別の ない。そして、そのような互の資質は、その時になって急に見出される からいわれるとすれば、その単純さでやはり観念的だと思うのだが、若 結婚の核心にあるそういうものを明確に見ようとしないで、結果の方 それにまた、このように産め、殖やすことの要求されている時代であ い女性が割合あやしまずにそういう観念化された傾きにひき入れられて ものでも、つくりあげられるものでないことは明らかである。 るからこそ、その一面には、今日までの優生夫妻が、いつ、どこで、ど この問いにつれて心に浮かんで来ることがある。四、五年前に、若い 行くようなのはどうしてだろう。 に今日の日本では、おびただしい良人と妻とが、離れ離れの平常でない 女性たちの間で結婚はしたいとは思わないけれど、子供だけは欲しいと のようにして、その肉体の条件に変化をこうむらないものでもない。現 あけくれを経験している。それらの良人、それらの妻は、どんな互のき 思うという表現がはやったことがあった。 て母から伝えられた根気よさと自立を愛する精神をもつ少女ジュヌヴィ ﹁未完の告白﹂は、知られているとおり、十六歳の学問好きな、そし ヴィエヴの模倣も大分あるというふうに判断されていた。 ついては疑問が抱かれて、当時流行のジイドの﹁未完の告白﹂のジュヌ 若い女性たちのあいだに見られたそういういいあらわしかたの本心に ずなによって、それぞれに多難な生活の事情のうちで互の誠実を処理し て行っているであろう。ここにも直接産みふやしてゆくだけが、人間の 結婚生活の全部でないという真実が示されていると思う。 昔の﹁女大学﹂は、子無きは去る、という条項を承認して女にのぞん でいた。再びその不条理な不安が、子のない妻たちをさいなもうとする のであろうか。 情がそれに馴れ難いことを新しく感じたりしていることが無いといえる はふっと、よそに生れる自分の良人の子供というものを思い、自分の感 をつかっていた多くの妻たちは、この頃のような声々の中で、あるとき いが未熟で現実的でない思惟と情熱とで、自分に子供を与えてくれるよ いとろうと試みる。ジュヌヴィエヴはいかにも十六歳の少女らしく、鋭 由とを主張しようとして、女性だけに可能な出産という行為でそれを奪 俗っぽく偽善的な父親が強いている﹁良俗﹂に反抗し、自分の独立と自 エヴが、第一次のヨーロッパ大戦前のフランスの中流生活の常套の中で、 だろうか。原因が何であるにしろ、今の空気は、子供をもたない一組の うにと、科学の教師である医師マルシャルに求める。マルシャルはそれ そうでなくても、子供のもてない不安で、これまで夫婦の生活に神経 男女に、自分たちの生活の意味を考え直させるようなところがある。子 を拒絶する、ジュヌヴィエヴには自分のいっていることの真の意味がま 題が語っているとおりに、この小説は未完であって、ジュヌヴィエヴ 供をもたない宮城タマヨ夫人が、婦人雑誌に子のない妻への言葉を書い 若い世代は、あらゆるものを積極にうけいれて、自分たちの幸福のた がついにどんな発展をたどって、求めている女性のより広く自然な生き だわかっていないのだ、と。 めに活かして行くべきだと思う。これまで常識の中に欠けていた結婚の かたをえて行ったかというところまでテーマは展開されていない。作者 ているのも、その微妙な反映なのであろう。 生理に関する知識や優生の知識が、この頃いろいろなところで語られて 29 評論集(三) 彼女の親友ジゼルの批判として、子供だけもって結婚はしないというよ 抗議が真の抗議の意味をもたないということを語らせているし、同時に は十九歳になったときのジュヌヴィエヴの回想として、そういう形での な辛苦の間で二人がどんなに互の評価と慰めと励しとで生活をおしすす い空想のうちにさぐらるべきではなくて、おびただしいそれぞれの困難 めぐり合わないで生涯をすごしたなどという、ほとんど実際にあり得な な結婚生活というものの真の姿は、その夫婦がどんな不幸にも困難にも ひところの日本にあった、結婚はしたくはないが、子供は欲しいとい うな﹁女にとってあとあとの負担の非常に多いそんなやりかたを承知す 大変いわゆるお育ちのいい十六のジュヌヴィエヴが女性としての目ざ う表現は、ジュヌヴィエヴが、俗人でていさいやの父親というものに代 めて行ったかという、その動きの真実の中にこそある。 めとともに、自分たちをとりかこむ綺麗ごとと表面の純潔でぬりあげた 表されているフランス社会の保守の習俗にぶっつけて、その面皮をはぐ るような男を、どうして尊敬できるでしょう?﹂ともいわせている。 環境への反逆として、そういう観念の上での破壊を考えたことは分ると 女性として男性に結ばれてゆく自然さを自分に肯定しようとする積極 のずから質の異ったものであったと思える。 して、日本の、それも現実の波に洗われながら働いている若い女性たち、 ことで人間の真実の生活の顔を見ようと欲した激烈な感情とは、またお 日本の社会が、良人なしに子供をもった若い女をどんな眼で見て、その 子をどう扱って来ているかということを痛いほど知っている女性たちが ジイドの小説の世界から、その思考を自分たちの表現として借りたのは、 の面と、そのことが習俗的にもたらす形体が与える負担のうけがい難さ との間に生じる感情の分裂が、結婚はしたくないが子供は欲しいという いっそう矛盾した表現に托されたのであったと思う。そこには、いかに どういう動機があったのだろう。 その頃いわれていたように、男と話すときの一種漠然としていながら で男性の在来のものの考えようをこばみながら、その半面ではいっそう もくすぶられた向上心と、女のある意味での消極なすねかたがあると思 けれども、それが全部ではなかったろう。日本の若い女性が、結婚して 無防衛に男に対する自分の女としての性をひらいているわけであり、そ 肉感のともなった嬌態の一つとしてそんな風にしゃべった女性もあった もつべき家庭生活の中で女に求められているありようについて疑問を持 のことで何か女性の新しい積極さがあるようによそおいながら、本質は、 われる。何故なら、結婚はしたくないが子供は欲しいという表現は、半面 ち初めてからすでに年月がたっている。女性にとって結婚とそれにひき そういう目新しさにひかれる男性の感情をあやしているのであるから。 にちがいない。 つづいての家庭生活とは一つのものでありながらまた二つのものであっ 本当の社会生活の成長という点で、この表現は何も解決する力は持っ 結婚はしたくないが子供は欲しい、という風な一見激烈そうな女性の ていないものであった。 て、ある人と結婚してもよいという気持と、在来の家庭の形態の中で女 性が強いられて行かなければならないものをそのまま承引しかねる気持 とは、若い向上欲のある女性の感情を苦しい分裂と不決定に置きがちで その一つであって二つにわかれたもののようにある重い条件をひっく らも私たち人間の生の意味は一歩から一歩へと成長をうけつがれるべき うな昔ながらの態度とが、その実は背中合わせにくっついていて、どち 抗議の擬態と、子供を持つために結婚はするものだ、という一見堅実そ るめて、私たちは自分の生活として持って、毎日の生活の中で、外なら もので、自身の世代にどこまでそれを達成させたかということこそ、生 ある。 ぬ自分たち二人でそれを最善に向かって改善してゆくしかない。若い世 代の結婚や家庭の持ちかたに見出されるべき新しい価値があるとすれば、 涯の課題であることをまともにしっかりつかんでいない女性の低さやも 私たちの歴史は、親から子供が出て来ているというだけで正しくうけ ろさから生れているのは、何と考えさせられることだろう。 い。結婚生活における人間としての互の理解と協力の大切さは、私たち つがれるとはいえない。その親がどのように自分たちの世代を熱心に善 それはそのようにして自分たちでこそつくり出して行かなければならな の生活の現実がそういうものだからこそいわれるのであると思う。幸福 30 な社会の可能をひらいてやろうとして精励したか、我が家一つの狭い利 意をもって生きて、その子らのためにどんなより美しい、よりすこやか 解、共感、協力がどんなに大きい影響をもってくるかということを、痛 ば、母という生の道でへてゆく日々に、その伴侶である男性との間の理 結婚や、そのことから女性が母になってゆくことは個人のことではな 感しないではいられないであろうと思う。 理解と、その中で自分の存在について、つつましいながら、確信をもっ い。社会のありようそのものの表現である。それだからこそ、そこにかか 己的な封鎖的な安泰の希願からどんなに広い、社会や、世界の生活への て生きられるように次の世代を愛しはぐくみ、勇気づけ、より多くの叡 りあう男女互の理解の内容や意味の進歩が重大になってくるのだと思う。 私たちが、恋愛とか結婚とかの問題について話す場合、特別その上に 新しい一夫一婦 一九七九︵昭和五十四︶年七月二十日初版発行 ﹁宮本百合子全集 第十四巻﹂新日本出版社 智をつたえて行ったか、そのことでこそ世代の意義がはかれる。 女性のうちなる母性のこんこんとした泉に美があるなら、それは、次 から次へと子を産み出してゆく豊饒な胎だけを生物的にあがめるばかり ではなくて、母が、愛によってさとく雄々しく、建設の機転と創意にみ ちているからでなくてはならないだろう。 今日の若い女性たちが、自分たちも母になって行くという事実に対し て積極的であり、抵抗の感情を持たないというのは、よろこぶべきこと だと思う。その女性たちが、子供を生んだということだけで、人生への 責任は終ったのでない。そのことによってさらに始まるのだということ さえ知っているならば。 私たち女性、女はどうもといわれるその女がとりもなおさず母だとい うことは、何と面白いことだろう。女性は母であるという事実が一人一 人の女性にしんから実感されるならば、女性がこの社会に働きかけてゆ く活溌さは、もっともっと横溢的であっていいと思う。 新 し いという形容詞をつけて持ち出す場合、それは多かれ少かれ、従来 理解され、また経験されて来た恋愛や結婚より何かの意味で豊富な、新 鮮な、我々の生きる歓喜となり得るものを求めようとする心持が働いて いると思う。 昨今のように、一般の社会状勢が息苦しく切迫し、階級対立が最も陰 性な形で激化しているような時期に、鬱屈させられている日常生活のせ きょうの若い女性たちが、明日は立派な乳房とつよい腕と年毎に智慧 めてもの明るい窓として、溌剌として、新しい恋愛がどことなし人々の の深まるしっかり優しいまなざしを持つ母たちであろうとするならば、 心に翹望されていることは感じられる。しかも、社会の現実は進んでい な表現である恋愛や結婚の問題が、人類的な規範で、各人の幸福にまで きる可能性を与えるようにならない限り、窮極は社会関係の最も綜合的 まず根底をなす社会機構が、もっとすべての人民にとって人間的に生 いであろう。 でいるのである。この事実を痛切に自覚しない若者は、恐らく一人もな にあたって、恋愛や結婚問題解決の根蔕をその時代的な黒い爪でつかん こんたい ている深刻な失業、インテリゲンツィアの経済的、精神的苦悩は、実際 においておやである。中産階級の急速な貧困化、それにともなって起っ それらの女性が自分たちとその子のために、社会に必要なあらゆる施設 て、往年の情熱詩人、与謝野晶子が﹁みだれ髪﹂に歌ったような恋愛の を、 それが住宅と産院であるにしろ、 托児所や子供公園であるにしろ、 感情は、今日の若い人々の心には住み得ない。ましてや﹁万葉﹂の境地 食堂であり、洗濯所であるにしろ、自分たち女性のもの、つまりは息子 や娘たちのものとして、一つでも多く持てるように骨折っていいのだと 思う。 母たる義務が示している権利によって、女性と子供の生活の事情があ らゆる職能の場面で大切にされ、理にかなった扱われかたをするように して行かなければならない。 そしてこれらの現実のいとなみが、いろいろの事情からそうやすやす と実現しにくいことを決して知らなくはない今日の女性たちであるなら 31 評論集(三) 、 、 、 発展せられないこともまた大多数の人々に、はっきり理解されているこ 日は一見大差なく目前の困難に圧せられているごとくではあるが、それ 新たな歴史の建設的推進力が見にくくされているような時期には、窮乏 容易でなく、多くの堅忍が要求される。今のように表面的にはそういう 結婚の幸福をも我々に与え得るものであることは実に興味深い事実であ から、見とおしとしては結局、プロレタリアートの勝利のみが、恋愛や いるのであるが、新たな歴史の担い手である勤労階級の社会関係の必然 とであると思う。けれども、歴史がそこまで進む過程は実に単純でなく、 どころか、勤労階級の男女は一層ひどい封建性の下で家庭生活を営んで 化する小市民インテリゲンツィアが、確信をもって新たな次代の階級へ ソヴェト同盟における新しい内容での一夫一婦制の確立は、男女の日 ると思う。 ても、本質的な発展は非常にされにくい状態にある。だから、気分的には 常生活に作用する社会関係全体が、彼ら自身の犠牲多い積年の努力で健 自身を移行させることが困難であると同様に、恋愛や結婚の実際に当っ 新 た なつよい、晴やかで情趣深い恋愛が求められているとしても、男女 結果、すでに映画制作者が巧みにも把えている古いものの 新 ら し げ な 扮 かも常に朗らかでばかりあり得ない気分の上でだけ新らしさを追求する 基本的な社会関係までを自分の問題としてとりあげる迫力がなく、し 日に至っていることを私たちは見落してはならぬと思う。 し、次代の建設との関連において、恋愛・結婚観も徐々に高められて今 にも多く例を見ないほど複雑な困難を経験した。その困難な実践をとお 日本の解放運動は、広く知られているとおり、最近八九年間に世界史 の社会関係の実体は、ふるい世界の鎖にからみつかれている有様である。 康な土台の上に組み直されて始めて、現実の可能となったのであった。 飾が、恋愛の技巧の上で横行する。互にまともな結婚もなかなかできな 合い、やがて口笛を吹いてゆくような 新 ら し げな受動性。あるいは﹁女 いる小さい恋の花束を眺めて、野暮に憤る代りに、肩をすくめ、目交ぜし い下級サラリーマンとウーマンとが、自分たちのゆがめられしぼられて クワにいた。そして本家本元のソヴェト同盟では厳密に批判され、本屋 のぼったのは、かれこれ七年くらい前のことであろうか。当時私はモス 階級的な男女の結合というと、すぐコロンタイの﹁赤い恋﹂が話題に 、 、 、 、 、 、 の心﹂に扱われているような至極手のこんだデカダニズムなど。それと に苦しいような驚いた心持がしたのを今もはっきり覚えている。 に本も出ていないようなコロンタイズムが流布することを知って、非常 りまく実際のきのう、きょうを見わたして、 新 し い恋愛や結婚が、はた してブルジョア社会のどこに見出せるであろうか。 ルジョア社会の性的放縦の最後の反映、火花として現れた変則な社会現 象であった。四五年以上も経過してから、日本において、一つの急進的 といいぜ、就職が楽だぜ。そういう功利的通念は、今や、オイ、御新邸 ほど、当時は広汎に小市民層の若い男女がマルクシズムをうけ入れた時 いわゆる、マルクス・ボーイ、エンゲルス・ガールという名ができた のには、またそれだけの社会的必然があったと思われる。 を背負って華族の娘さんが嫁に来るぜ、という例外の一例とはなるかも 代であった。 婚が内容・形態ともに、その諸関係のより合理的な組みかえのための闘 ている根本原因が、階級社会の諸関係である以上、真の新しい恋愛や結 われわれ個人の恋愛や結婚の幸福を、かくも不自由きわまるものとし なからぬギャップがあったであろうことは、たやすく推察することがで い未来の社会、両性関係の見とり図と、現実の日常生活との間には、少 う。ところが彼らが研究会やなにかでイデオロギー的に獲得した輝かし 学内の活動などに吸収されて行った有様は、めざましいものであったろ それらの急進的な若い男女があふれるような活力と感受性とを傾けて、 争の過程において発展されつつあるのはむしろ当然ではなかろうか。今 といい得ないことは自明である。 しれないが、この結合を、社会的な評価で新しい内容をもつものである 豪壮な新邸に住まわれるそうである。一寸名のあるスポーツマンになる 躯肥大な某氏と結婚された写真が出ていた。 月給は七十円だけれども、 な性関係のタイプとして、イデオロギー的にコロンタイズムが流布した 子福者小笠原伯爵の何番目かの娘さんが最近スポーツマンであった体 コロンタイズムは、全く一九一七年から二三年間の混乱期にふるいブ ても条件の自由なスクリーンの上での影である。われわれを埃っぽくと 、 、 、 、 、 、 、 32 、 、 、 、 きる。歴史的にも若々しかった彼らのある者は、性急にそのギャップを ﹁泥まみれになるのが厭か﹂彼は笑った。 自分たちの身をもって埋めようとした。性的な欲望を満たすことは喉の ﹁泥まみれも事によると思うわ﹂ 干いた時一杯の水をのむにひとしいという言葉の最も素朴な理解が、恋 ﹁そうか。泥まみれの選り食いも好かろう。だがな、そんな問題が起るた やがて若い階級的な妻である女は、自分が良人のところへかけ込んだ びに部署をすてたんじゃ、限りない退却があるばかりだ。俺はそんな敗 互に遊離したものとして承認され、階級的な活動の邪魔にさえならなけ ことを自己批判し、終局に﹁物事が乱れるような結果になるかもしれな 愛、結婚に対する過去の神秘主義的封建的宿命論の反撥として、勇敢に れば、個人的な生活の面では何をしようとそれはその人の勝手であると い。けれどもそれが何だろう﹂あらゆるものを投げ出したものに貞操な 北主義には賛成しないな﹂ いう考えかたがあったらしい。このことを、当時性関係の面で論議をかも んか何だ? そして石川という共働者との場合には逃げ出した彼女は、 実行にうつされた。個人生活と階級人としての連帯的活動とが二元的な されつつも強い勢力をもって一部に実行されていたコロンタイズム類似 の行動と照らしあわせて今日の目で見ると、その頃の運動の歴史がもっ ﹁もっともっと自由な女性を自分の中に自覚していた、たとえ肉体は腐っ てもよかった。革命を裏切らず、卑怯者にならずに自分を押しすすめて するものは何もないのだ。貞操ばかりをこわれ物のように気にかけてい ていた小市民的な制約性の性質がまざまざとわかり、深い教訓を我々に 三・一五、四・一六などの後、運動の困難と再建の事業が集注的関心 たら、それでどうなるというのだ﹂と、可憐にも当時の不十分に心の深 ゆく途中で、どうせすてた体だ。もはや彼女にとって革命以外に大切に となった時代には、コロンタイズムは一応揚棄され、運動のためにはあ められていなかった鉄則に屈することが、描かれているのである。 語るものであると思う。 らゆる 個 人 の 感 情、 個 人 生 活の利害を犠牲にしなければならぬものであ 片岡氏は、当時のブルジョア道徳が逆宣伝的に、階級闘争に従う前衛 で別々の活動に従わなければならないことになり、妻である婦人闘士は に興味のある作品であると思う。闘争に参加している夫婦が部署の関係 ちがこの小説を読むと、何か一口にいい表わせぬ深い感慨に打たれざる 同じ小説の中の文句でもはっきり宣言せられているのであるが、今私た 雑 を 嘲 笑 し た の に 対 し、 抗 議 と し て こ の 小 説 を 書 かれ た。 そ の こ と は、 のはなはだしく困難な生活の中に、不可避的に起ったさまざまの恋愛錯 ある男の同志と共同生活をはじめる。男の同志はその女に性的な要求を を得ないのである。 女はそのことに同意できない感情で苦しむ。同志というより一人の好き 情や利害と一応きりはなされ、ある種の活動家にとっては別個なものの に傍点]や個人生活の利害[#﹁個人生活の利害﹂に傍点]が、階級の感 この小説の書かれた時代でさえも、まだ個人の感情[#﹁個人の感情﹂ でない男という心持がその共働者に対して爆発し、ある夜、良人である 現実の問題として、階級対立の社会にあっては支配階級のイデオロギー ように考えられ得る時代であったこと、また、プロレタリアの世界観は、 ﹂と了 ・・・・・・・・・・・・ の侵害を多く受けているものであり、特に日本のように封建性の重いき ずなが男女を圧しているところでは、女の性的受動性、男に対する自主 い社会の建設者たちの努力は、運動内部においても絶えずさまざまの形 的な選択権が隷属的に考えられる習俗をもっているのであるから、新し ﹁だって︱︱だって︱︱﹂彼女も亢奮して一生懸命だった。 で作用する、そういう過去の残滓との闘いの面にも払われなければなら すてて、それでこれからどうするというんだ?﹂ ﹁ここへ来て、そんな問題がどう片づくというんだ。そんなことで部署を 解しかねていうと良人は昂奮し、 かに、眼を伏せながらいった。 ﹁お帰り。﹂女は﹁だって 同志の家へ逃げ出して来る。すると、良人はその一部始終をきいて、静 になってしまわなければ不便でもあるし、不自然でもある﹂といい出す。 感じ、 ﹁同棲しているのなら近所に変に思われない為にでも、本当の夫婦 片岡鉄兵氏が一九三〇年に書かれた﹁愛情の問題﹂は、その点で非常 るという、いわゆる鉄の規律が一般の理解におかれた。 、 、 、 、 ﹁あんまりきたなすぎるわ、まるで泥まみれじゃない﹂ 33 評論集(三) 、 、 、 、 、 きこむのである。 ない一般の情勢であったこと、それらが私たちの心をまじめな感想にひ ないものである。そのことを﹁愛情の問題﹂において作者が念頭に置か て持ちこしてゆけない。それほど、風雨はきついのである。あるときは る男女の結合を教えている。いわば連帯性の薄弱な愛情は永年にわたっ れ、ひろめられる階級的連帯性の上に立って、屈伸きわまりなく発動す それぞれの活動に応じ千変万化の必要な形をとりつつ階級の歴史ととも ちりぢりとなって、あるときは獄の内外に、あるときは一つ屋根の下に、 められて来た運動の段階にあって、私たちは大きい成果の上に生きてい にその幸福の可能性をも増大させつつ進んでゆく一貫性は、もはや単に 種々のゆがみをもちつつ、献身的な努力でともかく今日まで押しすす ると思う。 文学に対して、 ﹁新しいつもりか知らぬが、義理のしがらみに身をせめら 人的感情を階級の義務の前に殉ぜしめることを主題としたプロレタリア 体的な条件において高められて来ている。かつて長谷川如是閑氏は、個 人の感情利害と階級の感情利害とは、一致せざるを得ないところまで具 範囲で運動内における女の活動家をも増大させ、実際の感情として、個 よく闘うことは、今日のような階級対立の鋭い大衆の不幸な社会にあっ の形でその桎梏との決戦をよぎなくさせる。真によく愛すことと、真に 矛盾をそれらの人々の前にさらし、希望するとしないにかかわらず、何か と欲する熱情に燃え、真に幸福を追求すれば、現実は、おのずから社会の の夢を夢と知りつつ描いている実に多くの若い男女も、一度、真に愛さん 目さきの気分にまぎらわされ、スクリーンの上で、新しい恋愛や結婚 希望されているところの理想に止ってはいないのである。 れる義太夫のさわりと大差ない﹂という意味の評をしたことがある。私 て、全く同義語のような歴史的意義をもっていると私は思うのである。 時間的に四五年といえば短かいがその間急速に激化した闘争は、広い はその言葉を心に印されて今なお記憶しているのであるけれども、その ︹一九三五年五月︺ ることが、私たちの日常に感じられていると思う。日本だけのことでな ような表現で云うよりもっと深いものであり、渦の底は大きいものであ 世の中が急に動いてゆく。その動きかたはただ世相の移り変りという これから結婚する人の心持 一九七九︵昭和五十四︶年七月二十日初版発行 ﹁宮本百合子全集 第十四巻﹂新日本出版社 ような批評を可能ならしめた、階級感情の小市民的分裂は、この二三年 間の画期的鍛錬によって、一般的に統一の方向にむかい、もとの低さに 止ってはいないのである。 先月号の﹃行動﹄に婦人詩人中河幹子さんが、婦人作家評を執筆され た。中で、私のことにもふれられ﹁獄中の人と結婚せられた心理はわか るようで不可能である。ああいうことはオクソクの他であるが、私は無 意味であると思っている﹂と結論しておられる。 私はその文章をよんで、女同士の共感というものも歴史性の相異によっ ては、全く裂かれているものだという事実を面白く思った。そして自分 に即さず一つの社会的な事実としてこの事を観察すると、私は、日本の 手の男を前線へ送らなければならないような事情がどっさりおこった。 或いはもう婚約がある人々、そういう人たちが、急な境遇の変化で、対 婚しようとしている人、もうじき結婚をするような運びになっていた人、 い問題がおこって来た。そのなかに、結婚のことがあった。これから結 日支事変がはじまって暫くすると、若い人々の生活にはいろいろ新し 現在の階級対立のけわしさや、そのきびしい抑圧の中からも何かの可能 く、これは世界のことになっている。それもやっぱり私たちの日々の感 性をひき出し、 たとえ半歩たりとも具体的に前進しようとする階級の、 情のなかにはっきりと映っていると思われる。 いよいよ強靭にされる連帯性、積極性の大小さまざまの情熱的な現実の 内容は、遙に歌人中河幹子氏の感情と芸術とを超えたものであることを 痛感したのであった。 日本の現実は、階級的に共通な立場において結ばれた男女を日々夜々 実にきびしく鍛錬しつつある。活動と抑圧との実際は、ますます深めら 34 既に結婚していれば、それがたとえ僅か半月ほど前のことであっても、 実際に、どうしたらよかろうという問いがそういう立場にある女のひと から出ていたのだから。 一応そういう躊躇のもたれるのも無理ないところがある。日本の習慣 夫婦としての二人の間はもう動かせないものとなっていて、良人を送り 出して後の新妻の生活は、良人を心持の中心において何とか方法が立て の中で、結婚は決して若い男と女との愛情だけで解決するのではなくて、 いか 必ず家と家とのいきさつになり、双方の両親が多くの発言をもち、娘の られた。待つ、ということのなかに、日本の女の忍耐づよい特徴が活さ れもし、期待されもしているのである。 というように互の心持が動いている過程にあった人々は、もっと複雑な 女の両親が娘の連れ合として認めていないとか云うことになれば、細々 わって 来 る。 ま し て や 男 の 側 の 両 親 が そ の 結 婚 に 賛 成 し て い な い と か 、 良人としての男とは比較にならない程、若い妻には嫁としての負担が加 陰翳を蒙った。いつ訣れなければならなくなるか分らないから、では一 とした日常で女のうける苦痛は絶間ないであろう。そういう心配はない これから結婚しようとしていた若い人たち、ある人と結婚してもいい 日も早く二人の生活を一緒にしよう。そういう風に行く場合も多かった として、結婚のその夜召集が来たというような実例は、目前に自分たち あわただ ろうと思う。その遽しさ、幸福を二人の手の間からとり落すまいと、互 いない。逡巡にもそれとしての理由があるし、又男のひとが、解消の方 に扶け合って時を惜しむ営みの姿のなかには、 涙ぐまれる眺めがある。 のこととして思うとき男にも女にも考えさせるものを持っているには違 けれどもそこには、甲斐甲斐しさもあるし、運命をさけてまわらないで れ ば 分 る と こ ろ が あ る。 け れ ど も、 人 間 の 本 心 に 立って の 生 き か た は、 けようとする或る意味の勇気のようなものも、現実の諸関係を見くらべ そのなかから最上のものをとり、最上と思われる生きかたの道をつけて、 へと方向をかえてしまい、それで自分の心も思いのこすところなく落付 生き越して行こうとする若い人々の努力が汲みとられる。 最も一般的に感じられたのは、訣れを前に見て、その最悪の場合とい ろうけれども、何かそこに失われているという感じはないだろうか。 今日の現実の中でこういう道しかないものだろうか。片はついた気持だ 人針というようなものが目新しい街頭風景であった頃は、確かにその気 ところで、現在結婚とは一般にどう考えられているのだろう。 うものを考えて、結婚をのばし、躊躇する気分ではなかったろうか。千 分が親たちの分別から流れ出して、若い男の思慮へ入り、そして、若い 昔 の 慈 愛 ふ か い 両 親 た ち は、 その 娘 が 他 家 へ 縁 づ け ら れ て ゆ く と き、 をもってその人の幸福をねがっている男が、自分に起った出征というこ くの若い婦人を読者とする雑誌の小説などは、敏感にそれに触れた。愛 は、女はどうせ他家の者とならなければならないという運命のうけ入れ を励したり力づけたりした。その時分苦労と考えられていたことの内容 愈々浮世の波にもまれる始まり、苦労への出発というように見て、それ いよいよ 女のひとたちの眼のなかにも読みとられる反映となっていたと思う。多 とから予想される様々の場合を深く考えて、対手の女には遂に心を語ら であり、女はつまるところ三界に家なし、と云われた境遇の踏み出しと 今日猶、娘を縁づけます、という言葉で表現する親たちでも、親の選 ずに出発して行くこととか、婚約を一先ず解いて、女の運命を混乱から として描かれていたのを覚えている。その場合、女のひとの感情は、何 んだ対手を娘が好きに思う、好きと思わなくても厭と思わないという程 してであったと思う。 となし型にはまって、昔ながらの受け身な風で、涙を抑えながら出発を 度には、娘の感情を立てて来ていると思う。娘の恋愛やそれを通しての 守っておいてやる、というような行動が、勇敢な男のヒロイックな感情 見送って旗を振る、というようなおさめかたであったように思う。 を 万 全 に 活 動 さ せ て、 娘 と 親 と が 共々 に工 合 い い よ う に と 気 を く ば る 。 結婚の申出には極端に警戒している親は、自分が選ぶとなると、世間智 れていたというのも、云って見れば、暗黙のうちに女のひとの心の中に そして、その工合いいという判断はいつもとかく事大主義であるのが通 男の側から気持をそういう方向にもってゆく場合が目立ってとらえら 生じていた結婚に対する遅疑や逡巡が照りかえしたものとしての現れで あると云えるところもあろう。 時局に際しての女の身の上相談として、 例である。今日ならば、今日華やかに見える事業、地位、或は華やかに 35 評論集(三) の人々なりの善意からではあっても、やはり娘一人を家から好条件に片 なりそうと思われる方角へ、その選択をもってゆく。そういう親は、そ 女の困難さをあからさまに見た上で、大変だろうがという反面に、でも ではないから、とこの現実の裡で家庭と仕事を両立させて行こうとする た。女で、職業や仕事をもっている人のとき、私たちは、どうせ楽なの 結 婚 の 幸 福 と いう も の が 五 彩 の 雲に つ つ ま れ て 描 かれ て い る ロ マ ン づけ、更にその良人との生活でもちゃんと片づいて置かれたところに落 自分たちの生涯の問題として、結婚をそういう風には考えていない若 ティック時代は、時代として過ぎていると思う。反対に、或る種の若い女 ね、と認めるものがあったのである。 い女のひとたちも亦決して少くない。自分たちを結婚にまで導いてゆく のひとは結婚の現実性を実利性ととりちがえ、その実利性をも一番低級 着くことを目的としているわけである。 だけの共感、愛情、人生への態度の共通性を眼目として、そういう対手 な物質の面に根拠をおき、結婚は事務と云い、商取引というように云う ビジネス を待ち求めているひとも多い。 している心持は、相当複雑であると思う。或る人は何か一人で風雨にさ 結婚生活の一番地味なつつましい共通性であった落着きの感じが、結 引が、果して、今日の現実で安固な土台に立っていると云えるだろうか。 が、今流行の比喩で云えば、平和産業であるにちがいないそういう商取 らされているような明暮れに疲れを感じ、同じような境遇の対手を見つ 婚しているものにも、これから結婚しようとしている人々の心持にも失 更に、職業をもって自活して暮している若い女のひとたちの結婚に対 けて互に寄り添ったところのある生活に入りたいという希望をもってい われ、動揺されて来ている。これは、今日の感情として、世界的なもの せられるところは求心的であるが、心へ及す形は遠心的で何だか落着け る人もあるだろう。ただ寄り添うばかりでなく、二人よったことで二つの もっている人が、今日のような浮動した社会事情の時はその夢を実現す ない。子供をたくさんと云っても、女として耳に響いて来る可愛い声々 であると思われる。早婚が奨励されていること、子供もたくさん生むよ る可能が意外のところにあるのかもしれない。そういう人生の態度を認 は、そのたくさんの子供たちの丈夫なことを願っていて、いろいろの物 人間としての善意をもっと強いものにし、世俗的な意味ばかりでなしに めている人たちは、周囲からの軽蔑を自分の心には嫉妬だと云いきかせ 資 の こ と も す ぐ 念 頭 に 浮 ぶ。 そ の 間 に は や は り 落 着 け な い も の が あ る。 うにとすすめられていること、結婚して暮すべき新天地というものが満 ることも平気であろうし、現実としてはその身のまわりに金銭や地位に たくさんの幼い子供をもった自分たちと、その父親としての良人との境 生活の向上をさせて行きたいと思う人々も多いに相異ない。結婚によっ 対して卑屈になり得る人たちを賑やかに集めることも出来るのである。 遇が変化した場合を考えても、そこに落着きの見出せる人は少いであろ 州や支那へまでひろがって考えにのぼって来ること。そういう声々の発 こうして、実に様々な結婚への態度の一端を眺めわたすと、あらゆる う。自分の心でどう思っていても、それにかかわらず、そういう変動の て自分の職業もやめ、一躍有閑夫人めいた生活に入りたいという希望を 場合を通して一つの気分が貫いていることを感じる。それは、結婚とい 或るものには生じて来るのであって、しかもそれを凌いでゆくのは、結 真面目に現実的に結婚について考えている人は、今日ではその落付か う言葉が、それぞれの実質の高さ低さにかかわらず、何か人生的な落着 のは、それであのひとも落着くという一種の感じではなかろうか。結婚 なさの上に立って、その中で生活を建設して行こうという決心をしてい 局自分たちの心の働きによるしかない、そこに真面目に生活を考えてい ということを便宜的に考えていない人たちの場合、それは一層感じられ るのが実際である。危くなりそうな安定を求めて、結婚の前に逡巡する きという感じを誘い出す点である。誰々さんが結婚するそうよ。まあ、そ るように思う。それはよかったわね。そういう慶びの言葉が、その感じ のではなくて、それを一応はこわれたものと覚悟して、だがそのなかで る人々の現代の沈潜的な態度があると思う。 で裏づけられてもいるのである。仕事をもっている男の人たちは、それ 新生活を創ってゆく、その心持であると思う。この二三年の歴史の動き うお、 ﹁誰と?﹂という好奇心の起る前に、ききての胸にぼんやりと映る で落着けばあの男の仕事も一層よくなるだろう。という祝福の形をとっ 36 は若い人々に或る抵抗力と積極性とを与えたと云えよう。 ﹁小さいながらも愉しい我が家﹂という片隅の幸福が獲れなくなって つの動きに、その夫婦の生涯の転機がひそめられているようなことがあ いたと云える。人生には平凡事のなかにもそういうような時がある。一 の人間としての歴史的な価値は、その十五分ほどの間の判断にかかって 既に久しいことであるが、今日から明日への若い人々は自分たちの愛を る。盲目的に押しながされてそういうモメントを越したことから夫妻が と 道傍の仮小舎でも出来るだけ活したいという気になっていると思う。そ 陥る禍福の渦は、これまで幾千度通俗小説のなかで語られただろう。 の ろ し して、そのことのためには、愛が益々その智慧を深めることが求められ る。けれども、この刻々に変ってゆく一般の情勢のなかで、その変化に 愛にはよく永遠とか、永劫変らぬとかいう形容が飾りとしてつけられ 心に飢餓の時代も経た嬰児たちは、今や二十五歳の青年であり、娘であ た若い娘、若い妻、そしてその若い母のおののく胸に抱きしめられて無 月三日で、その間に二十五年の歳月があった。あの時分、二十五歳であっ この前の欧州大戦は一九一四年八月一日に始まった。今度の狼火は九 ひきずられずに変らぬ愛が満たされているためには、全く現実的な周囲 る。彼等の或るものは、昔その母が彼女を胸に抱きしめたように幼い子 て来ている。 の出来事への判断とその理由への明察と、人間生活の真の成長への評価 し ゃ し 供を抱擁して、前線へ出発して行く良人の傍を並んで歩いて行っている ぜいたく を見失わない堅忍や行動が、求められていると思う。今日の世の中の一 望ませているであろうか。ヨーロッパの天地は再び震撼しはじめている 方には贅沢と奢侈と栄達とがある。もう一方の現実のありようとしては、 であろう。それを眺める父と母たちの思い、彼等に何を想起させ、何を より多くの人々が益々困難の原因や不便についての深くひろい社会的な それは一つの国としての事情からもっと広い国々での生活のありようと 年昔よりは高められている技能とともに単純なヒロイズムにのぼせてい られており、男に代って社会活動の各部署についた婦人たちも、二十五 真の動機を理解してそれに人間らしく処してゆく必要におかれており、 が、この前のように盲目の狂暴に陥るまいとする努力は到るところに見 なっている。 ロンドンで九月三日以後日々結婚登録をする者が夥しい数にのぼって ないものを持っている。 る今日の生活感情は、破壊と建設と葛藤との世界的な規模のなかで、沈 いると報ぜられている。そのことも自分たちの高揚した気分からだけさ 私たちの耳目が満州・支那に向けられ、又ポーランドに向けられてい 着にその落着かなさに当面し、自分たちの結婚をもただ数の上での一単 れているのでないことは、十分察せられる。生活ということがそこでも 刻々の推移の中で、人間らしい生活を見失うまいとする若い男女の結 位としてばかり見ず、明日に向ってよりましな社会を育ててゆくべき人 を、痛感しはじめていると思う。こういう時代での生きかたとしては、或 合が、今日の新しい結婚の相貌であるということは、日本について云え 考えられている。 る場合、騒がしい立身出世の波をも静に自分たちの横を行きすぎさせて るばかりでなく、いくつもの国々の、心ある若い世代の生きつつある姿 間として、質の上からの一単位として自覚し、生活してゆくことの意義 おけるだけの真の落ちついた態度が、妻としての若い婦人に必要なこと であると思う。 一九七九︵昭和五十四︶年七月二十日初版発行 ﹁宮本百合子全集 第十四巻﹂新日本出版社 ︹一九三九年十一月︺ もあろう。キュリー夫人の伝記は、殆どあらゆる若い人々によまれたので あるが、キュリー夫妻が、アメリカからの手紙でラジウムの特許をとる かとらないかという問題について言葉少なに相談しあった一九〇四年の 春の或る日曜日の十五分間のねうちこそ、評価されなければならないと 思う。彼等はラジウム精錬の特許を独占して驚くべき富豪になる代りに、 人類へその科学上の発見を公開して、キュリー夫人は五十歳を越しても ソルボンヌ大学教授としての収入だけで生活して行った。キュリー夫妻 37 評論集(三) 38 評論集(三) 39